美術家(絵画、版画、インスタレーション)
多摩美術大学で絵画を学んだ後、ウィスコンシン大学やペンシルヴェニア大学大学院で学ぶ。新しい芸術性を求めるなかで版画のプロセスに興味をもち、抽象絵画へ入り、1960~70年代にミニマル的画風で評価を得ることになる。一時帰国の後、1971年に再渡米、以降ニューヨークに在住し、ペンシルヴェニア大学で教えた。アメリカの美術大学における人的交流にくわえて、一時教鞭をとった多摩美術大学で遭遇した大学紛争の体験談、日米における現代美術における版画の位置の違い、また制作者の実感から考えた版画と絵画の違いなどを語っていただいた。
富井:そうしましたら、今日は生まれた時からお話を聞くということで。生まれは1936年、東京都の町田市ということですけれど、ご両親はどういうバックグラウンドの方だったんでしょうか。お父様、お母様。
中里:今は町田市になってるけれど、木曽村というところにね、境川というところがあるんですよ。そこは全部、姓が中里なんですけど、そこの出身で。農家の三男坊ですね。
富井:農家の三男坊。
中里:典型的な日本の産業革命の中で、次男、三男っていうのは、鉄道員になるとか、会社や工場に勤めるとか。だから鉄道員でしたね。
富井:おうちは鉄道員。
中里:うん。だから親父は農家の三男坊で。
富井:あ、お父様が農家の三男。
中里:典型的な当時の三男で。土地を分けてもらえないから、分家ってのは。だから街へ出て仕事を探す。大部分の人が工場に勤めたり、国鉄ですよね。鉄道省っていったけど。省線っていってたね。そこに勤めていて。親父はその国鉄です。今のJRに勤めてたんです。
富井:鉄道っていっても、運転する人もいますし、技師の方もいらっしゃいますし、事務とかもありますけども。ちょっとお聞きすると。
中里:なんか35年くらいは勤めてたんだけど、その中で、休んだことがないっていう。もう、皆勤。
富井:なるほど。
中里:で、賞状をもらったりなんかした。本当に純朴な人ですね。
富井:お母様は、いわゆる専業主婦。
中里:彼は結婚してすぐクリスチャンになって。戦争前ですね。そのクリスチャン家庭に僕がで生まれて。町田教会っていうところで。子供の時は聖餐式の残りのパンと、ぶどうのジュース。それをおやつに育ったような家庭でしたね。
池上:それは何系の…… キリスト教って宗派がありますよね。カトリックとか、プロテスタントとか。
中里:ああ、プロテスタント。町田バプテスト教会っていう。
富井:中里さんはじゃあ、長男。
中里:はい。お袋は、その教会の近くに町田街道っていうのがあって、「絹の街道」って言われてたんだけど。そこにあった紺屋の出身です。「こうや」、「紺」染めの「屋」ですね。
富井:紺屋さん。
中里:文章には時々書くんだけど、僕の作品の中で長いものがあるんですよ。すごく長い、細長いものが。スタジオに長いテーブルがあって、そこに広げて描くんですけど。どうしてこんな長いもの描くのかなって考えた時にね、あの紺屋の裏庭の、反物が、伸子張り(しんしばり)でもって張られて、両側を吊られてた。その列がたくさんある。で、その日差しの中に乾かされてる。あれが原風景だなと思って。ふと気が付いたんですよ。僕、前ばっかり見て絵を描いてたんで。自分の思い出とか、子供の時にあったこととか、絶対に手をつけない。それは自ずから出る、という心情でね。だから伝統をさておき、そういう態度でもって前ばっかり見てたんだけど、ふと、どうしてこんな長いもの描くのかな、なんて思いついて。で、気が付いたのが、紺屋の裏庭の原風景だったと。古いその原風景。まあ、そこまで辿り着くのに色々こう、なんていうか、記憶っていうのは重ねてあって、それひっくり返して、最後に残ったものが紺屋の裏庭だったんだけど。それを見た時にね、初めて感動した。初めてそれに気が付いて、感動して、涙が出てきて。それは最近のことなんだけど。前ばっかり見てたのに、なんか、心の奥底、記憶の奥底にあったものと2つが混ざり合ったっていう。そういう体験をしたんだけども。そういう紺屋の出身で。母親は紺屋の出身でしたね。
富井:ご兄弟は。
中里:僕の兄弟は5人いたんだけど、1人死んで、今4人ですな。僕の妹が、「ソプラノをやる」なんて言って、アメリカへ留学して。それが1960年でしたね。僕はそれよりも2年遅れて、62年に留学したんだけど。彼女はソプラノ結構歌えるけれども、別にそれでキャリアを作らなくって。子供が3人ばかりできて。それで、自分たちの仲間の中では歌うけれど、キャリアはできなかった。それから弟が日大の文芸学科に行って、「文章書きになるんだ」って言ったんだけど、心臓の病気で亡くなって。その下に妹がいて、専業主婦。だけどクリエイティヴっていうか、色んなことをやっていて、ウェブサイトで、クッキーを作ったりして商売やってます(笑)。その下の、最後の弟が威(たかし)っていうんだけど、それがパイプオルガンを作ってます。
富井:ふーん(驚く)。
中里:ドイツに10年ばかり修行に行って。その修行に行ったきっかけがね、ある時に、彼は数学の高校の先生だったんですよ。玉川学園っていう学校で教えてて、そこの大学で工学部かなんか出てて。全部町田市なんですね、それも。だから町田から外へ出てないから、「僕と一緒にヨーロッパ行こう」って言うんで、シベリア経由で行ったことがあるんです。一番安い方法で。それが1980年代の初めですね。そして、ヨーロッパを回って、サン・ピエトロ(大聖堂)に行った。サン・ピエトロ、つまりヴァチカンに行った時にね、オルガンの調律してるんですよ。それを聞いて彼は、「自分もオルガン作りたい」って言い出して。彼は工学部で音響をやってたんです。それもあったし、キリスト教的な家庭で、宗教音楽やってて、聖歌隊やなんかにも入ってた。クワイアーのメンバーだったから。それからもう一つは、その当時、彼が結婚したいと望んでた女性がね、教会のオルガニストだったの(笑)。そういうことがばばーっと重なって、「おれもオルガン作りたい」って言うんで。日本に2つか3つしか工房はないんだけど、それの1つで、「マナ・オルゲルバウ」(注:中里威氏のオルガン工房名)。オルガン建造物っていう意味。「マナ」っていうのは、「マ」がもう1人の相棒の頭文字。それから「ナ」っていうのは中里のナで。それからマナって。だけどマナってご存知でしょ。
富井:天から降ってくる。
中里:そうそう。それに掛けたわけですね。
富井:ですよね。
中里:そういうオルガン工房を今持ってね、やってます。
富井:中里さんはそうしたら、クリスチャンでいらっしゃるんですか。
中里:正式にはクリスチャンじゃないです。正式にはっていうのは、洗礼を受けてない。だけど、キリスト教の教育をずっと受けてきて。
富井:そうですね。桜美林中学・高校はキリスト教。
中里:子供の時から聖餐式のパンでもって、おやつがわりにパンだったっていうぐらいだから。だけど、絵を描き出してね、果たして自分は何かっていうことを考えた時にね、なんか外来の、まあ仏教も外来のもんだけど、そういう宗教に取り憑かれて、そこで自分の場所ってのを見つけるのができなくなって。自分の場所は自分で作らなければならないということが頭にあったと思うんだけれど。キリスト教の洗礼を受けてないんですよ。たまたま僕はイスラエルを旅行したことがあるんです。その時、養清堂(画廊)の阿部さんっていう人と一緒だったんですよ。ティコティン美術館(Tikotin Museum of Japanse Art)という、ハイファにある美術館に、「日本の現代版画」展(Contemporary Japanese Prints)っていうのがありまして、それのオープニングに行ったんです。その後エルサレムに入って。あのエルサレムの空気。なんか緊張してて、乾燥してて、からっとしてて、湿りっ気がない。あれになんか精神性を感じちゃった。で、「ああ、ここで絵を描きたい」と思って。その夜ね、エルサレム・シンフォニー・オーケストラの演奏を聴きに行った。そしたら、「アーメン交響曲」っていうのがあったんですよ。作曲家の名前はちょっと調べないとわからないんだけど。それは合唱団が後ろに大勢、100人ぐらい合唱団がいて、大きな交響曲だった。それで「アーメン」を続けるんです。その時僕の隣に座ってたホストは、そのティコティン美術館の館長だったかな、館長ご夫妻。彼らはもちろんヘブライ語がしゃべれるから、「アーメンっていうのはどういうことだ」って言ったんですよ。そしたら、なんか説明してるんですよ。それから僕ふと思って、ふっとそれを頭ん中に入れて、もう一度言い返したわけ、僕なりにね。それはじゃあ「let it be」という、ビートルズの歌の文句、「あれとおんなじじゃないか」って言ったら、「そうだ」って言うんですよ。「Let it be in the name of God」。「神の御名によって、あるべきことはあるべきである」っていうね。そういうことを聞いたんですね。そしたらね、なんか感動が沸いて、自分を制することができなくなって。ということを考えるとね、僕は精神的にはクリスチャンかなと思うんだけれど。だから教会のバプティスムは受けてないけれど、精神的にはそうかなと思うんだけれど。あれはなんか故郷に帰ったって感じがしましたね。それを後でその人に、ミュージアム・ディレクターに言ったらね、それは、コモン・オカレンス(common occurrence)であると。
富井:よく起こること。
中里:よく起こることであると。で、エルサレムには「そういう人たちのための施設がある」と言うんですよ。それは「エルサレム・シンドローム」っていう名前がついていて(笑)。
富井:症候群ですね(笑)。
中里:それは、そういう人たち、たとえば北欧の救世軍の末裔たちが、末裔っていうか、子孫たちがエルサレムに来ると、そういう状態になるんだそうです。その人たちを収容する場所があるんだ、って。「それに僕は入ればよかったんだ」って思ったんだけど(笑)。だからね、この質問はいつも答えるのが非常に難しいんだけれど。だけど、僕は作品作っていて、《ライン・アウトサイド》シリーズ(2001年~)っていうの作ったんですよ。《ライン・アウトサイド》だから、「線の外」。だから、「せんがい」って、聖福寺の仙崖和尚の義梵仙崖。その人の名前をもじって、「線の外」って、《ライン・アウトサイド》シリーズって作ったんですよ。それは、彼は少なくともヨーロッパの前衛、1910年、11年あたりの、シュプレマティズム(Suprematism)よりも少なくとも100年前に、あるところへ行ってしまった。「線の外」に行ってしまった。その線の外に連れてってくれという願望を込めて、オマージュのつもりで《ライン・アウトサイド》シリーズって描いたんです。丸、三角、四角を描いて。そしたら彼はね、「悟りに師をいらず」って言ってる。悟りってのは、己を見る。己の心を。自分の心を見つけることが悟りなんで、それに師を作るということはよくないっていうことを言ってるんだそうです。だからそれに気がついて、「あ、もうこれはこれでおしまいだ」と(笑)。「この次をやろう」っていうので、他の題名にしましたが、それを随分長いことやったんで。だから、仏教的な考えもすごく頭の中にあるんですけどね。キリスト教だけが全てとは思わないけれど。それで、母親のことを聞いたんだけども、母親はね、主婦の友(社)の羽仁もと子の著作集を持っていて(注:正確には婦人之友社)、それが愛読書でした。自由学園を創立した羽仁もと子の思想に非常に影響されてて。そんなつもりで僕をクリスチャン・スクールに行かしたんだと思いますけどね。
富井:もう少し卑俗なところに戻りたいと思いますけれども。最初にアート意識されたというか、美術を意識したというか、そういう何かきっかけのような、記憶のようなものありますでしょうか。
中里:うーん。
富井:たとえば子供の時は、美術が得意だったとか。アーティストになられる方はそういう方が多いですけども。
中里:その羽仁もと子の主婦の友(社の本)やなんかに、多分出てたんだと思うけれど、子供に絵を描かすということを、母親がすごく重視してた。父親が省線、国鉄に勤めてたもんだから、紙をいっぱい持ってきてくれて。僕の画材っていうのは、そこにいつもあったんですね。クレヨンがあって。戦争が始まる前にクレヨンの買い溜めをしましたね。だから戦争があって、物がなかった時代も、僕は充分にクレヨンを持ってました。で、盛んに描いたんだけれど。今もその絵はね、ある程度残ってるんです。
富井:そうですか。
中里:はい。時々見ます。見ると、日記のようにして、その時々を思い出すんですね。「ああ、この時に泣いた」とかね。「こういうのが描けなくて苦労した」とかね(笑)。この時におやつに呼ばれたとか、それを無視して絵を描いてた、なんてね。そういうことを思い出しますね。人間が成長するには、外からの知識を得るということ、それからその知識を自分でオーガナイズして、それを何かの形で表現する、その2つのプロセスが必要だと思うんだけれど、児童画ってのは最もそれに適した、内から外へという過程に適したジャンルだと思う。その中に文学もあるし、音楽もあるし、科学もある、と。ていうのは、それには理由付けがあるわけですね。子供にとって。物語も、もちろんある。だから全てのものがその中に入っているんで、たまたま、それを褒めて絵描きにしちゃったのが僕じゃないかなと。他に可能性がたくさんあったと思うんだけど、みんなに褒められたんで、絵を描き出した。周りの人というか、小学校の先生たちが、あんまり児童画の思想的な内容を知らなかったからだと思うんだけれど。もう、褒められてなっちゃったんですね。
富井:じゃあ小学校のころからもうアーティストになろうと。まあ絵描きっていうんですか、その頃だと。絵描きになろうって考えておられたんですか。
中里:興味ありましたね。形としては「アーティストになろう」ということではなかったけれど。まあ紺屋っていうのは絵を描く商売だから。染物もあるし。
富井:絵付け、染物ですね。
中里:だからそれを見てたりして。そんな雰囲気っていうか、それから児童画の雰囲気の中で絵が好きになっちゃったっていうね。その頃の絵は取ってあるんですよ。それをこの前見たんだけど。10年ぐらい前かな。実は、一つ不安なことがあったんです。褒められなかった1、2年があるんです。ずっと絵は褒めてもらったんだけれど、1、2年、褒められなかった。で、「その時はどうして褒められなかったのかなあ」と。「実際僕は、才能がなかったのかなあ」と。それが不安だったんですね。最近になって、もう10年ぐらい前。10年って僕には最近なんですが(笑)。若い人たちはそうではないと思うけれど。見たんですよ。それで見てびっくりしたのは、絵が下手だ。人に褒められるために描いてると思った。
富井:なるほど。
中里:「ああ、こんな絵を描いていて、絵描きになっちゃった。これは失敗した」ということですね。それでやっと悪い点数をもらった時の絵になったんですよ。そしてね、僕はね、「あっ、救われた」と思った。それがよかった。すごくよかった。こんな絵を描いてたんだって。
池上:褒められなかった時の絵の方が、今ご覧になるとずっと良いということで。
中里:素晴らしかった。表現力があって。人に褒められるということを意識しないで描いてた。そういう経験がありますね。だから、そんな風にして、なんか醸造されていった。それで、高校の時、「進路を決めなきゃならない」って、先生に言われますね。
富井:そうですね。
中里:その時になんか自ずからこう、「おれは絵を描くんだ」って(笑)。まあその時に、一所懸命考えてね。文章にしたことがあるんだけど。2つ理由を付けたんですよ、その時に。文章の中に。1つは、まあ「画学生」っていうと聞こえがいい、と(笑)。それからもう1つは、裸の女性を見て、絵を勉強するっていう(笑)。16歳か17歳ですね。なんかそれくらいのことがあって。あ、これは進路を決めなきゃなんないならそっちにしよう、って。なっちゃったんじゃないかなって思うんですね。
富井:多摩美(多摩美術大学)っていうのは最初から多摩美を目指してたんですか。
中里:いやー、みんなとおんなじで、藝大(東京藝術大学)受けて、授業料ないし、そっちの方がいいし。僕も結構デッサン上手かったけれど。あまり学科が良くなかったんじゃないかなと思うんだけど。学科には自信がなかったね。
富井:じゃあ多摩美の方に受かったのでそちらに、ということで。
中里:うん。まあ母親の影響があると思うんだけど、好きなことをやらされたから、非常に偏った育ち方をしてたのかもしれないですね。今はね、文章を書くの好きになったけれど、それ以前、中学校、高校の時は、文章を書いたっての覚えてないですね。どうして字を覚えたのかっていう。覚えてない(笑)。だからその不勉強さっていうのが影響したと思うんですが。非常に偏った教育っていうか。
富井:その頃、多摩美だったらどういう先生が。絵画科ですよね。
中里:そうですね。油絵、絵画ぐらいですね。
富井:油絵科ですよね。どういう先生に教わられたんですか。
中里:岡田謙三さんが多摩美の教授やってたんですよ。だけど彼はほとんど来なかったけれど。それから川端実さんの名前が入ってたんですね。「あ、これはすごいな」と思ったんだけれど。彼もね、僕の一期上まで教えてて、それからアメリカへ行っちゃった。1950年代の末ですね。58年か。
富井:1958年ですね。
中里:58年ですね。で、行かれて。彼はいつも3年か4年か受け持ってたんだけれど、僕が3年になる時にアメリカに行かれたんで、会えなかった。でね、今思うんだけれど、こういうこと言っていいのかな……(しばらく考えて)日本全体が、日本の美術学校全体がそうだったと思うけれど。
富井:その時、50年代半ばぐらいっていうことですね。
中里:ええ。藝大に行こうと、武蔵美(武蔵野美術大学)行こうと、多摩美行こうと、全部同じ。デッサンをやって。石膏デッサンをやって。その次に裸婦をやって。それをデッサンでやって。その次に油絵に移って。で、裸婦をやって。で、卒業制作をして。で、卒業と。これ以外のカリキュラムなし。これがそう、全部です。
富井:じゃあ中里さんもそういう絵を描いておられたわけですか。
中里:そうですね。デッサンを一生懸命やって、結構自分でも上手いと思いましたが。それ以外ないですね。ちょっと本持って来ていい?
富井:はい、どうぞ。
中里:ありました。(元の場所に戻りながら)これが教科書なんです。大学の教育の。
富井:その時お使いになったものですか。
中里:はい。教科書です。『西洋美術史概論』。坂崎坦(あきら)。
富井:あ、坂崎さん。
中里:はい。で、僕はどういう教育を受けたのかと、この最後のページを見たんですよ。この人はね、朝日新聞に勤めてた人ですね。それを発見したのは、夏目漱石の奥さんの鏡子さんが、夏目漱石について書いた本です。その中に夏目漱石が、朝日新聞に連載小説を書いていて、それを一週間に一度かなんか、届けなければならないと。その時たまたま忙しくて、届ける方法がない。どうやって届けたらいいか、と。で、この人の名前が出てくるんですよ。「うちの近くに住んでおられる坂崎さんに頼もう」と。新聞社に勤めてる美術記者だったから。で、彼の名前が出てくるんですね。その人が書いた本なんで。これを教科書に使って、美術史の教育を受けたんです。(ページをめくって)ここの最後の章なんだけれど、エコール・ド・パリが最後の章なんですよ。
富井:エコール・ド・パリですか。
中里:はい。それが最後の章。「これは、無政府時代の絵画だ」って言ってるんです。
池上:アナーキズム。
中里:アナーキズム。「アナーキズムの時代だ」と。だから「時代が経たないとここから何が良いものとして残るか分からない」と。「そういう時代に突入した」っていうんですね。20世紀になって、それが最後なんです。それがね、出版が1957年か8年ですよ。
富井:7年ですね。
池上:出版社はどこになってますか。
富井:出版社は風間書房っていうところですね。すごいですね。最初はやっぱりギリシャ、ローマからですかね。
中里:そうですね。それを見て僕はね、「こんな教育をされてたのかっていう」(笑)。だって1950年代の終わりでしょ?
富井:そうですね。
中里:その当時ね、ニューヨークでは爆発的なことが起こっていた。もうそれの、終わりごろで。ヨーロッパにも新しい芸術が起こってきた。日本はその当時外国に行くのが大変だった時代で。だからお金(の問題)もあったし、法律があって、日本人が外国に旅行できない時代があって。僕は留学する前に、アメリカのカルチュラル・センターやなんかへ日参して、雑誌やなんか見せてもらったり、少しは知ってるんだけれど。それから数年後に、東野芳明が『現代美術――ポロック以後』っていう本を出したんですよ。それとの開きってのはもう、ものすごい。
富井:60年ですね。東野さんの作品。いやあ、面白い。これ、なんか勉強された跡がありますよね。鉛筆でマークした。
中里:そうそう(笑)。
富井:これはじゃあ当時の鉛筆のマークですね。
中里:そうですね。
富井:だって(本の)最後にね、ドランとかルオーとかあるからね。
中里:だからね、「多摩美はどうでしたか」とか、「誰に教わったか」とか、もうねえ、なんていうかな、そんなこと考えるに値しないっていうか(笑)。藝大でもそうだったと思うけど。後にね、高松次郎と仲良くなったんですよ。彼は藝大で。浪人してる時に彼と知り合って。その次に会ったのが、1968年。
富井:多摩美ですか。
中里:68年に僕、ヴェニス・ビエンナーレ行って。サン・ピエトロ広場で会って。そこで会って、それで帰って来て、多摩美に僕が勤めてる時に、彼と一緒になって。
富井:あ、それから多摩美に行かれて。
中里:ええ。で、非常に仲良くなったんだけど。彼なんて結構そういう美術学校の教育を受けながら、しかも独自で、ある領域を開拓したんです。すごいなと思った。
富井:じゃあ50年代の終わり、画学生をなさってる時は、やっぱり美術館に展覧会とか見に行かれたわけですよね。
中里:もちろん。みんな見ましたよ。
富井:読売アンパンとかも。
中里:アンデパンダン展も見ましたし、二科会が大きかったから、二科会ですね。
富井:そういうのもご覧になって。
中里:それから画廊回りもしましたね。斎藤義重の作品を、並木通りの方の画廊で、1959年か60年だったと思うけれど、見ましたね。赤鬼(《鬼》、1957年)だったか、青鬼だったか。そういう作品を見ましたね。それがなんかね、頭にあって。留学して最初に作った絵がね、彼の絵を元にして(笑)。斎藤義重を元にして作った絵なんですが。それは今どこにあるかわかんないけど。
富井:ちょっと戻ると、60年に卒業なさって、最初『北海タイムス』に美術記者になったっていう風に略歴に書いてあるんですけども。それはどうしてですか。
中里:当時、なんていうかな、卒業したら就職して、まだ生活が大変難しい時代なんで。自分の将来をどうして確保するか、それが一つの大きな課題でしたからね。みんな就職活動してたんですね。僕は1人友人がいて、後に喧嘩した奴がいるんですが。多摩美で親友だったんだけど、彼はNHKに勤めたんですよ。その時の給料が3万だったかな。月3万ちょっとぐらいだったんですね。彼は四国出身で、県人会かなんかを伝って、就職活動してた。僕は何もしなかったんで。就職科から電話があって、「あなただけ何もしてないけれど、どうしますか」って言う。「だって何もないでしょ」と。「何かあるんですか」って言ったんですよ。そしたら、「一つだけありますけど、やってみますか」って言うから、「いいですよ、何でもいいです」って。そしたらそれが『北海タイムス』っだったんですね。
富井:じゃあ北海道に行かれたんですか。
中里:いや、東京で入社試験がありまして…… いや、北海道に行きました、就職試験。入社試験ってのは大変だったんですよ。英語の試験があって。それ僕上手くいったと思うんですけど。英語は桜美林の時からずっとやってて。それから、多摩美でもESSっての作ったんですよ、僕が。
富井:中里さんがお作りになったんですか。
中里:ええ。作ったんです。イングリッシュ・スピーキング・ソサイエティっていうのを作って、合宿なんかやって。アメリカ人呼んできて一緒に生活したりして。それから千葉の海岸に行って。英語を一所懸命やろうと。それからまあ留学の準備でやったんです。
富井:じゃあ留学したいっていうことはもう考えておられたわけですね。
中里:そうですね。
富井:じゃあその場合はやっぱアメリカっていうのは最初から考えておられたんですか。
中里:まずアメリカ。
富井:まずアメリカ。
中里:うん。というのは、金がないからアメリカに行けばなんとかバイトして、と。で、それからヨーロッパ行けばいいと。
富井:じゃあ、アートがどうとかこうとかではなくって、まず生活。
中里:ええ。まずアメリカ行って、生活ができるようになってからヨーロッパにも行く、と。
富井:ヨーロッパにも行く。なるほど。
中里:その英語の試験が良かったんだと思うんだけれど。その他に論文を書かされて。その論文を何書いたか覚えてない。それから、コント。原稿用紙一枚のコントを書けっていうんですよ。コントっていうのは……
富井:寸劇ですか。
中里:寸劇っていうか、短い話題性のある軽い話。コントっていったんですね。その時、そんなようなもの僕、少し書いてたもんだから。これはいいなあと思って。その時のは、大兼実っていう人で、僕の絵の先生なんだけど。桜美林にいて教えてもらった先生で、二紀会の会員で。これは、1930年代中頃からヨーロッパ行って、パリ、ヴェニス、ローマに行って絵を描いてた。文化学院卒業で、石井柏亭かなんかの弟子だったと思うんだけど。それで彼が、パリにナチ、ドイツ軍が攻めてきた時に、保護されて。三国同盟があったから、ベルリンに連れて行かれた、と。で、ベルリンで、政府買い上げの作品を作ったり。宣伝省ですね。ナチにとっての宣伝省。
富井:プロパガンダですね。
中里:プロパガンダ。それの絵を描いたり。それから、そこに連合軍の空爆があって。それをコニャックを飲みながら耐えた、と。そこにソ連軍が入って来て、保護されたって。ソ連軍に確保されて。その時に日ソ不可侵条約があって、逮捕はできないと。これは理由にならない。で、保護されて、モスクワとシベリア、それから満州経由で日本に帰って来たのが終戦の一週間前っていう人なんですよ。
富井:すごいですね。
中里:それを書いたんですね。これが受けたんですよ(笑)。
池上:とてもいいトピックですね(笑)。
中里:それが受けた。その時はね、みんな他の人が東大とか早稲田とか、ジャーナリズム出身の人でしたね、受験者は。僕だけがど素人っていう(笑)。文章書くには。
富井:でも美術は専門ですよね。中里さんだと。
中里:そうだね。で、美術記者になったんですね。月給は一万円でした。
池上:じゃあNHKの3分の1ですね。
中里:ええ。それで旭川。
富井:旭川にいらっしゃったんですか。
中里:ええ。なんか今は美術館もあるそうですけど、その当時は、全く田舎町で。
富井:じゃあ何を書いてたんですか、美術記者で。
中里:だから他のことやらされました。
富井:あ、そうなんですか(笑)。
中里:うん。普通の。
富井:地元の記事。
中里:新聞の。あの頃は、テレックスはあったけれど、まだ紙面全体を送るっていうのはなくて。みなその整理をやってました。整理部ってのがあるんですよ。そこにいました。時々展覧会があると出かけて行って、取材に行ったりしました。
富井:じゃあ東京とかにも行かれて。
中里:いやいや、東京じゃない。市内に(笑)。
富井:市内ですか(笑)。失礼しました。
中里:学芸大学。
富井:ああ、学芸大学。
中里:とかね。
富井:学芸大学、先生の学校ですよね。
中里:そうですね。あそこの美術。
富井:なるほど。で、そこへ2年いらっしゃって、それからウィスコンシン大学に。
中里:いや、2年じゃなくて1年…… いや、半年っきりきゃいなかった。
富井:あ、半年だけなんですか、そこにいらっしゃったのは。略歴見ると次のエントリーが62年なのでね。その時までいらっしゃったのかと勘違いしておりましたが。
中里:そうなんです。
富井:じゃあもう半年でやめちゃったわけですか。
中里:やめちゃって。今度はもう英語の勉強を一生懸命やろうと思って。
富井:じゃあ東京へ帰られたわけですか。
中里:町田へ帰って来て。欧米人の専任講師にして。外国人の先生が大勢出入りしてるところがあって。そこで英語をやろうと思って、帰ってきて。
富井:じゃあ大学の方で英語を習われたわけですか。
中里:いやいや、その当時大学がなくて。短期大学だったけど。その時に大勢、色んな外国人が、アメリカ人が来て、教えたりしてるから。
富井:じゃあどういう形でウィスコンシン大学を探されたんですか。
中里:それはあのね、妹が2年前に留学してて。
富井:そうでしたね。はい。
中里:彼女がやっぱり、ウィスコンシン大学だったんです。そこでもった美術学部の人を紹介されて。
富井:マディソンですか、じゃあ。
中里:ミルウォーキーとマディソン、両方行きました。
富井:そうですか。
中里:ええ。マディソンはいいですね。ミルウォーキーってのはやっぱり地方都市だから。
富井:そうなんですか。
中里:で、ミルウォーキーに先に行って、それからマディソンに行きました。
富井:じゃあ絵画専攻っていうことで。
中里:そうですね。それからもう一つは版画も始めて。
富井:版画もそこで始められたんですか。
中里:ええ。日本だと、学部入ったらそれしかできないんだけれど、アメリカでは、専攻と副専攻っていうんですよ。メジャー・アンド・マイナー。
富井:マイナーですね。
中里:マイナーがないと卒業できないっていう。だから仕方なしにっていう。
富井:じゃあ一式、リトグラフからエッチングから。
中里:ええ。全部やりましたね。
富井:全部。その時に技術を勉強されたっていうことで。
中里:そうですね。その当時ね、バイトで通訳をやったんですよ。
富井:ウィスコンシンで。
中里:はい。というのは、日本の技術設計や機械室の技術者たちが、アメリカのノウハウを知りたいと、大挙してアメリカに勉強に来てたんです。今は反対ですけどね。日本が先になって、トヨタ方式とかなんとかいって。その当時は「アーツ・アンド・リファイン」っていう、トヨタ方式の祖先みたいなのが、アメリカにあって、日本から技術者が勉強に来て。それの通訳やったんです。それがね、アーティストのなんかintuitive(直感的)な、衝動的に物をやるところに、組織的に物を考える基礎を作ってくれたんじゃないかなと思うんだけれど。ブルー・プリントを見て、生産方式を全部理解して、それを説明しなければならない。そういう仕事をしたわけ。そういう頭でもって、自分のスタジオへ入ってくると、耐えられなくって(笑)。
池上:無軌道に見えるっていうことですか(笑)。
中里:そうそう。無軌道にね。それが大きな収穫でしたね。で、大学で、版画をやった時に、その作るという過程。素材があって、方式があって、最後にフィニッシュト・プロダクト(finished product)として作品があるっていう。それがもうなんていうかな、自分の持って生まれたような感じで、頭の中に入って来たんです。で、2年やって、俺は天才だ、と思った。
富井:修士課程ですよね。
中里:ええ。俺は天才だと思って。もう、紙とプロセスと、それを印刷する材料。それが一体になって、自転車とか、車に乗って、遠くに行かれるって。それが版画でしたね。
富井:どういうスタイルというか、絵、というか版画というものを、その時は作っておられたんですか。
中里:1人、あのね、パリから来たアーティストのアシスタントをしたんです。それカイコ・モティ(Kaiko Moti)っていって、ボンベイ出身で。彼は、ボンベイからロンドンに行って。というのは、植民地だったから。ロンドンに行くことが容易くて。で、ロンドンからパリに。アトリエ・セブンティーン(Atelier 17)っていって、ウィリアム・スタンレー・ヘイター(William Stanley Hayter)のスタジオに入って。その時にインド人がその中に2人。50年代に2人いて。クリシュナ・レディ(Krishna Reddy)っていうのと、カイコ・モティなんですが。その2人がね、一版多色刷りっていうのを発明したんです。それは、数種類の色を、一版の上に乗せて、それで一回刷るだけでもって、多色刷りができる、と。それが発明されたのが、1957年。僕がそれを学んだのが1964年。まあ、ちょっと時間が経ってるんだけども。それについて何もまだ書かれていない。その技法やなんか。
富井:じゃあもう実技で。
中里:スタイルって今おっしゃったけれど、一応日本でも、デッサンやなんかいっぱいやってたから。裸婦もやったし、「それはもういい」と。他のことしたい。アメリカへ来たのは自分の新しい芸術の方向性を探るためだったんで。それに版画がうまく合ったわけです。版画のプロセスっていうのが合って。そこでなんか、魚が水を得たような気がしましたね。その一版多色刷りについて誰かが言ってることを聞いて、カイコ・モティはその発明に関係がある人だと、っていうことを聞いたんで、彼に頼んだんです。後で知ったんですが、そのインド人2人は、スタンレー・ヘイターのスタジオでそれを発明したんで、その権利はスタンレー・ヘイターに属するということで2人はもめて、スタンレー・ヘイターから外へ出されちゃったんですね。それで、カイコ・モティに「それはどうやってやるのか」って聞いたんですよ。そしたら彼はね、色々苦労したんでね、「お前にそれを教える必要はない」って言うんですよ。「自分でやれ」って言うんです。色々、ネガティヴなバックグランドがあるから、そういう風に言ったんだと思う。僕はそれを知らなかったんですね。で、しがみついてね、「ヒントだけでもいいから教えてくれ」って言って。「ヒント」って。そしたらね、「ヴィスコシティ(viscosity)」。「インク・ヴィスコシティ」。粘度。
富井:粘着力ですね。
中里:「(粘度)を変えろ」って言ったんですよ。それだけで、一語。それで一晩がんばりまして。徹夜で。その翌日、彼がスタジオに現れた時は、スタジオの壁を全部それで、埋め尽くして。で、それを獲得しまして。その一版多色刷りを。
池上:そのヒントから一晩でもうマスターされたんですか。
中里:ええ。だから、人体を描くようなところから離れて、版画が媒体となって。その版画でも、一版多色刷りが、それに上乗りして。で、抽象的な世界に入ったんです。
富井:そういう形で抽象へ入られたんですか。
中里:ええ。
富井:なるほど。その次に、じゃあ結局、奨学金とかもらわずに、そのアルバイトで。
中里:いや、奨学金もらいました。
富井:もらってらっしゃったんですか。
中里:はい。その次にペン大、ペンシルヴァニア大学に行ったんですが、その時にはね、もう「プロフェッショナル・ステューデント」って。プロ。野球のプロとか、バスケットのプロではないけど。学生のプロだった。
富井:もう2回目だから。修士で。
中里:いや、もう学生だけど食っていかれる。奨学金全部もらえるから。奨学金、月謝全部払って。給料ももらえる。
富井:スタイペンド(stipend)ですね。
中里:それから、その他に「助手をやれ」って言われて。それも給料もらった。
富井:あ、じゃあペン大の時はもうそうやって教えてたんですか。
中里:そうですね。その一般多色刷りの版画のポートフォリオを持って行って見せたら、その次の日からティーチング・アシスタントシップをもらえて。
池上:それはまだできる人がペン大にはいなかったんですか。
中里:まだその辺にはいなかったですね。アメリカでそれを知ってる人はたぶん僕1人ぐらいじゃなかったかな。
富井:おそらく発想そのものが新しかったということがありますよね。技術以前の問題として。
中里:そうですね。その版画のポートフォリオってのは、自分でボール紙でもって畳んだものを持って。で、「フィラデルフィア美術館に行け」って言われて。僕のその時の先生が、アポイントメント取ってくれたんですよ。マクニール…、ちょっと覚えてないけど、その時の学芸員の名前。フィラデルフィア・ミュージアムの。それは、日本の錦絵の専門家だった。彼に見せたんですね。そしたらすごく喜んでくれて、その場で5、6点買ってもらいました。
富井:そうですか。
中里:で、彼がね、「ニューヨークの近代美術館にも持っていけ」って言うんですよ、そのポートフォリオを。で、(ウィリアム・)リーバーマン(William Lieberman)に電話してくれたんです。
富井:その場で。
中里:ええ。その時、リーバーマンは近美の学芸員だったんですね。版画の学芸員だった。彼に見せたらね、また喜んでくれて。そこでもまた買ってくれました。その場で。
富井:そうですか。じゃあそれがペン大に行かれてからですから。
中里:学生時代です。65年ぐらいですね。
富井:ペン大はどうやって選ばれたんですか。あるいはどういう経緯で。
中里:普通、留学して、大学院って2年だけれど、(僕の場合は)ニューヨークから馬鹿に離れたウィスコンシンでしょ。
富井:そうですね。
中里:学生生活は楽しんだし、英語も上達した。で、本当の留学はこれからだと思って。ニューヨークのなるべく近くにアプライしたんですよ。そしてその中の1校が一番お金を多くくれた。
富井:それがペン大。
中里:ええ。で、そこを選んだ。
富井:なるほど。
中里:そしたら、そこにはピエロ・ドラツィオ(Piero Dorazio)っていうイタリア人の作家がいて、それが思想的な指導者で。
富井:ちょっと調べたら、インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アート(Institute of Contemporary Art)の創立もその方が関わった、というようなことを読んだんですけれども。
中里:そうですね。インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アートは1963年にオープンして。クリフォード・スティル(Clyfford Still)が第1回展。僕はそのカタログもどっかに持ってますけど。僕が入ったのはその翌年で、64年でした。現代美術学校、コンテンポラリー・アート・スクールを作ろうとして、ニューヨークの作家を呼んだ。というのは、専任の先生っていうのはすごく少ないんです。大学院大学なもんだから。大学院だけの。
富井:大学院だけのコースですか。
中里:だから専任がものすごく少なくて。ヴィジティング・アーティストが、ほとんど。
富井:じゃあ随分ニューヨークから来ていたわけですね。
中里:そうですね。ペン大のそれができたのが1960…、あ、失礼、58年なんです。その学部ができたのが。だから僕が入る6年前。ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)が亡くなったのが56年。
池上:ぐらいですね。
中里:あの時の雰囲気っていうのかな。仲間の中で、我々の経験したことを次の世代に渡そうという雰囲気ができてたんですね。そこにちょうど繋がって、彼らが大勢学校へ来てくれたんですよ。
富井:そうすると教えたり、クリティークしたりしてくれるわけですか。
中里:そうそう。さっき言ったクリフォード・スティル、デイヴィッド・スミス(David Smith)、ロバート・マザウェル(Robert Motherwell)、アド・ラインハート(Ad Reinhardt)、ヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler)。それから、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg)。
富井:ああ、グリーンバーグも。
中里:そういう仲間。あと、バーゴイン・ディラー(Burgoyne Diller)ってご存知ですか。
富井:いわゆる新造形主義の人ですね。
中里:そうですね。彼も来てくれましたね。
富井:そういう人たちが来ると、大体何を教えてくれるんですか。アドバイスとか、個人的に何か受けられた思い出なんかあるんでしょうか。
中里:いい質問ですね(笑)。僕は、英語がそれほどその時、まだ上手くなくて。
富井:そうなんですか。
中里:全部はわからなかったと思う。だけど、彼らは学生を集めてゼミをまず開く。で、自分がやってるアプローチのことを、自分の考えをしゃべってくれるんですよ。その、しゃべり方に癖があって。非常にモノローグ的っていうか、独り言みたいに、ぺちゃぺちゃぺちゃ。彼らは先生ではないから、筋道を立てて話してくれないんだけれど。その当時ね、バーネット・ニューマン(Bernett Newman)が来ていて。彼の作品にね、《I’m Afraid of Color ?》っていう作品があるんですよ。
池上:《Who’s Afraid of》?
中里:あ、《Who’s Afraid of Color》か。
池上:《Who’s Afraid of Red, Yellow, and Blue?》(1966年)という作品ですね。
中里:そういう作品があるんです。1965年か6年の作品。その時、僕が教えてもらってた時なんですよ。彼が色についてしゃべったこととか、その作品、なんか美術史の中で何か起こる時には、20世紀以後は、「色が主体だ」というような話をしていたんですね。その時彼は、黒い絵を描きながら(笑)。それで作品ができたんだと思うんだけど。それから、マザウェルなんかは、後にある人から聞いたんだけど、パトロン・セイント。あのデパートメントの守護神。
富井:パトロン・セイントですね。
中里:パトロン・セイント、守護神。彼は推薦状を書いてくれるんです。彼らのメイン(注:認められた、の意)となった作家っていうのは推薦状を書いてもらえる。で、お友達になれるっていう。
富井:それはすごいことですね(笑)。はっきり言って。
中里:ニューヨークに連れて行ってもらえて。彼らのスタジオに行けるっていう。だから教えてもらえるのと、それから肌で触れるっていうかね。僕はその時、あまり知られてない作家で、ルドウィグ・サンダー(Ludwig Sander)っていう人と、すごく親しくなったんですね。クーツ・ギャラリー(Kootz Gallery)で発表した人だけど。学生時代もそうだったけど、お休みの時になんかは、彼の家に行って泊まったり。まあ仕事をさせられるんだけど。
富井:アシスタントですね。
中里:そう、カンヴァス貼れ、とかね。僕がニューヨークに移って来てからも、カンヴァス貼ったり色んなことやる。彼のイースト・ハンプトンの家に行って、泊り込みで、そこに住んで。行くと、ジャクソン・ポロックの墓参りを一緒にしたりね。それからふと、色んな人が訪ねてきて。その人たちと一緒に会話したり。その中には(ジェームズ・)ローゼンクイスト(James Rosenquist)がいたり、ダン・フレイヴィン(Dan Flavin)がいたり、コンラード・マルカレリー(Conrad Marca-Relli、1913-2000、ボストン生まれの抽象表現主義の画家・彫刻家)がいたり。彼はスペインの作家で、近代美術館にも作品があるけど。コラージュで貼って。何か黒いものを後ろに塗って貼るから、こう、黒い形が、糊みたいにして出る作品。
富井:なるほど。
中里:それからアドルフ・ゴットリープ(Adolph Gottlieb)。そういう人たちと知り合って。「今日は、お前が夕飯作れ」とかって言われて(笑)。作って、みんなそういう人たちを呼んだりして。
富井:それはニューヨークへ移って来てから。
中里:そうですね。
富井:ペン大にいらっしゃったのが、64年からから66年ですよね。それから、ロックフェラーⅢ世の奨学金を取って、ニューヨークへ移られて。
中里:もらって2年、ニューヨークに。
富井:ニューヨークにいらっしゃって。その時もじゃあ、どなたかから推薦状書いていただいて、みたいなことは。
中里:そうですね。さっき言った、フィラデルフィア美術館の版画のキュレーターね。(ニーランド・)マクナルティ(Kneeland McNulty、1965-80年にフィラデルフィア美術館で版画のキュレーター)って人でしたね。錦絵の専門家で。で、ピエロ・ドラツィオが多分推薦状書いてくれたんだと思う。その時のロックフェラー・ファウンデーションのディレクターは、マックレイって。
富井:ポーター・マックレイ(Porter McCray)ですか。
中里:そう、ポーター・マックレイ。よくご存知ですね。
富井:一応そのあたりはみなさん、日本のアーティストの方たちがお世話になってますので。
中里:そうですね。ポーター・マクレイですね。
富井:そうすると、ドラツィオさんも、随分抽象的な、新構成主義的な側面をお持ちの作家だったと思いますけれども。
中里:そうですね。
富井:そうすると、ウィスコンシンで始められた抽象的なものを、ずっとそのまま続けていかれたということになるわけですか。ペン大でも。
中里:そうですね。だけど、なんていうかな、「なぜこういうことをしているのか」っていう理由付けを得たんですね。ペン大で。
富井:なるほど。
中里:抽象表現主義っていうのはどういう理由で出てきて、社会的にはどんな意味があるのか、と。そういうことを知りました。
池上:それとの関連でご自分の作品も理解するという。
中里:もちろんです。まあ、自分の立ってるところを、足元を、見ることができた。はっきりした。だから自分の仕事っていうか、次の一歩っていうか、どっちに行ってやればいいかが考えられるようになった。
池上:当時もうネオ・ダダもポップも、ミニマルも出てきているわけですが、そういう人たちは招かれなかったんですか。ペン大には。
中里:ポップ・アートと、ネオ・ダダと、もう一つ何だっけ。
池上:ミニマル。
中里:ミニマル。うーん。
富井:出てきたっていっても、それほど、確立度が違うんじゃない、抽象表現主義とは。
中里:ちょっと待って。今、説明します。あのね、そのインスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アートにあった展覧会で、1965年か66年ごろの作品で、「The Other Tradition」っていう展覧会があるんですよ。そこに含まれてるのが、デュシャン以後のダダイストの作品。それから、ネオ・ダダ的なポップ・アートのはじめの方の、(クレス・)オルデンバーグ(Claes Oldenburg)…、じゃない、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)とか、ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)のはじめの方の作品とか、が紹介されてて。後期の作品はなくって。だからその時に、彼らも我々のスタジオに来てましたね。
池上:来たことは来たんですか。
中里:はい。オットー・ピーネ(Otto Piene)っていう人がいるんですよ
富井:ドイツですね。ゼロの作家で。
中里:そう。彼が僕の主任でしたね。
富井:そうなんですか。
中里:ええ。卒業後も時々会ってたんだけど、最近は会わなくって。彼は1966年か67年かに、学校を代えたんですよ。それで一旦はMIT。
富井:MITですね。じゃあその前はペン大にいらっしゃったんですか。
中里:ペン大にいた。だからそういう雰囲気もあった。それから1964年か65年のころに、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)のレトロスペクティヴっていうのがあったんですよ。
富井:インスティテュートで。
中里:ええ。サミュエル・グリーン(Samuel Green)っていう人がディレクターだったんだけど、まず驚いたのは、アンディ・ウォーホルっていうのは、作品を発表し始めたのが58年くらいで、7年ちょっとあったかどうか。だから、10年経ってないんですね。それでしかも、レトロスペクティヴをやったんです。その時にサミュエル・グリーンが、出品作品を全部外しちゃったんです。オープニングにみな、大勢来ると。大群衆が来るということを予測して、作品を全部撤去した。ていうのは、押し合いもみ合いになるので、作品があると傷つくっていうので取っちゃった。そして事実、すごい大群衆が押し寄せて。で、作品がないオープニングっていうのを経験しました。
富井:すごいですね(笑)。
中里:だから、そう偏ったことはなかったと思うんだけれど、たまたまなんか抽象表現主義を主流に考えて、あの当時ね。それから彫刻でも、デイヴィッド・スミスからアンソニー・カロ(Anthony Caro)みたいな。あの筋を本流と考えて、その他は、「The Other Tradition」という見方があったと思うんですね。
池上:それはやっぱりドラツィオ先生がそういうお考えだったんですね。
中里:そうだと思いますね。
富井:その後、ヨーロッパ回って、ヴェニス・ビエンナーレをご覧になって、68年ですか。で、日本へ帰られたわけですね。それはもうそのままニューヨークにいたいとか、アメリカにいたいっていうようなお考えはなかったんですか。
中里:はじめから留学のつもりだったんで。
富井:じゃあ帰ることは前提だったわけですか。
中里:そうですね。6年やって、ニューヨークも2年いて。まあ作品もちょっと売れたし。
富井:ニューヨークで。
中里:うん、ニューヨークで。今考えると馬鹿みたいな値段だったけど。安かったから。
富井:どこか画廊で個展なさってましたっけ。
中里:あのね、フィラデルフィアにチェルトナム・アート・センター(Cheltenham Art Center、っていうところがあって。それ郊外なんですよ。僕はそこの成人学校で教えてた。それは頼まれて週に1回行ってたんですが。そこで、なんていうかな、ファンクラブみたいなのができちゃって(笑)。
富井:すごいですね(笑).
中里:その連中が先に買ってくれたんですよ。そこで個展もやらしてもらって。そのお金でヨーロッパ回れたんですよ。
富井:なるほど。じゃあ奨学金っていうよりはそういうご収入で。
中里:はい、自分のお金で。(ヨーロッパには)3ヶ月いました。
富井:じゃあヴェニスだけではなくって。
中里:はい、ヨーロッパ全体を回って。エジプトもやっぱり見たいと思って。カイロにだけは行ったけど。
富井:そうですか。それで先ほどヴェニスで高松次郎さんにお会いになったということで。
中里:そうですね。針生(一郎)さんにもあったし、東野(芳明)さん、中原(佑介)さん、みんな会いましたね。
富井:みんなじゃあ多摩美系の方たちですね。その頃は。
中里:まあ、僕はその時はまだ多摩美に勤めてなかったんだけど。
富井:それで68年に帰られて、多摩美に就職なさったわけですか。
中里:そしたら、彼らが教授会に皆いたんですね。
富井:なるほど。じゃあそういう関係で。専任講師っていう形でしたっけ。
中里:そうですね。ええ。
富井:じゃあそれは版画を教えられたわけですか。
中里:えーと。僕ね、多摩美卒業したときに、「大学院に残れ」って言われたんですよ。大学院っていう名前じゃなくて、研究科っていったんだけど。「これは小使いにされるな」と思って僕はやめたんだけど。
富井:助手みたいなもんですね(笑)。
池上:全部無償ですよね。
中里:そう。「僕は自分のやりたいことやりたいんだ」って言って。あそこで研究科にいれば、小使いに使われて、助手になってという階段になると思うんだけれど。それが雇ってくれた方の頭にあったと思うんだけれど。実はヨーロッパでもって、サン・マルコで手紙を書いて(笑)。で、日本に送ったんです。
富井:多摩美に送ったんですか。
中里:多摩美にね。理事長に。
富井:理事長に送ったんですか(笑)。
中里:実はこういう経過で今サン・マルコにいると(笑)。で、日本に向かってる、と。なにか週に2日ぐらい教えるとこがあったらさせてくれ、と。
富井:なるほど。
中里:別に多摩美をお願いするとは言わなかったんだけれども。
池上:じゃあ割とご自分からアプローチされたんですね。
中里:そう。向こうは僕に「研究科に残れ」って言ったことを覚えていたと思うんですけれど。それが頭にあったから、「じゃあうちへ来て、デッサンを見てくれ」っていうことでした。
富井:なるほど。じゃあ「デッサンを見てくれ」っていうことはいわゆる入門のところから、みたいな形ですか。大学教育でいう。
中里:まあ一番若くて、日本で作品発表してないから、名前がないので。一番下の専任講師っていうことだと思うんだけれど。
富井:なるほど。じゃあそれが68年の秋ぐらいになりますか。
中里:そうですね。後期から始めて、10月から。で、大学紛争が始まったのが12月だから。
池上:すぐですね。
中里:ええ。すぐ1ヶ月半ぐらい教えて。デッサンを見て。版画も駒井哲郎っていう人が教えていて。「そこに行って手伝え」って言われて。でも僕、駒井哲郎さんの名前を知らなかったんで。
富井:それはやっぱりアメリカで版画を最初に習われたから。
中里:そうですね。アメリカが初めだったんで。日本のこと何もわかんなくって。機材の名前も全部英語だったんで。
富井:じゃあもう一回日本語で習い直したんですか。
中里:ええ。習い直させられたですね。これ(注:中林忠良の著作)を読むと、非常に駒井哲郎さんに師事したのが、大変なことだっていう風に書いてありますね。
富井:中林忠良さんの。
中里:それで、僕はたまたま駒井さんの下で教えたけれど、それがそんな大変なことだとは思わなかった。
池上:日本の版画界ではもう、すごい方でいらしたわけですよね。
中里:そうですね。それで、そんなことしているうちに12月になって、学校封鎖されて。彼らのアジ演説っていうのは、僕は日本語を6年間聞いてないので、全く耳に残らない、頭に残らないんです。こっち側から入ってこっち側から出るっていう。また、彼らの話、演説の仕方がそういう、なんか言葉の羅列で、意味が通ってるかどうかわからない。
富井:煽動調ってやつですね。
中里:なんにも残らなかったけど。で、講堂に連れて行かれて。あの当時学生数は2000人だったと思う。
富井:多摩美の学生数ですか。
中里:講堂に2000人全部入ってたどうかわからないけど。大きな講堂の中に連れて行かれて。ヘルメットを被ってマスクをして、軍手をはめた学生たちに、「中里先生、何かしゃべってくれ」って、壇上に連れて行かれて。
富井:じゃあ別に、「自己批判しろ」とか、そういうことじゃなくて、「なんか話してくれ」っていうことですか。
中里:ええ。だけど結局は「自己批判をしろ」という。
富井:あ、結局は。
中里:そういうことなんですね。今考えるとそうなんですよ。僕、それすらもピンと来なくて、自分の好きなこと言ってたんですが(笑)。
富井:よく突き上げられませんでしたね(笑)。
中里:いや、僕それ以後ね、血糖になってしまった。糖が血液に入ってしまって。
富井:あ、なるほど
中里:緊張感が募って、肝臓が肥大して。
池上:やっぱりストレスで。
中里:ストレスが。それ以後、治らない。今でもそうです。
富井:そうなんですか。
中里:ええ。非常に緊張した2年間、3年間でした。
富井:3年間で。
中里:僕はロックフェラーのお金をもらって、ニューヨークにいたんで、彼らが聞きたいのは、いかに僕が資本主義に貢献したか、と(笑)。
池上:そんな財閥からお金をもらって、という。
中里:そう。そういうことを聞きたかったんですね。
池上:それで反省の弁を述べる、っていうことが期待されてたんですね。
中里:そう、「自己批判しろ」と。その時にね、僕は作品を作るっていうこと自体についてこう考えた。世の中、(お金を)持っている者と持っていない者と2つに分かれていて、僕は持っていない者の方に属している。作品を作るっていうことは持っている方の側に媚びることだ、と。その人たちに媚びて作品を買ってもらって、それを生活の糧にするという。そういう風に思えた時期がありましたね。
富井:それはご自分でそういうことを考えたということですか。
中里:ええ。初めての授業にね、出てきた時に、ある学生が来て。彼の名前も最近まで覚えてたんだけど、倉田君っていうんです。僕一応デッサン見て回って。見終わって。僕、上手いんですよ、デッサン(笑)。で、まあ同じところに座ってね、こうやって見て、「この線が違う」とかなんとか、的確に指導できるんだけれど。で、「何か質問はありますか」と、スタジオの後ろに立って聞いたら、「はい、あります」って言うのがいるんですよ。「何でしょうか」って言ったらね。「私は資本主義社会に同感しないんですが、今後、作家として生きていくにはどうしたらいいですか」という質問なんですよ。それが学生からの最初の質問だったんです。だからそういう雰囲気だったんですね。
富井:雰囲気ですね。
中里:それが、ずっと続いたわけですね。で、作品を作るっていうこと、タブロー、カンヴァスを扱うっていうのが、もう罪悪みたいな気がして。で、2000人の学生の前でね、告白をして。「僕はもう、生涯、カンヴァスの上に絵は描かない。タブローは作らない」。宣言したんですよ(笑)。
池上:ここにありますけどね、たくさん(笑)。
中里:作品や、表現というのは、コレクト(collect、蒐集)できないもの。値段がつかないもの。値段が高くならない。紙の上では全部試案、試みだ、と。それ以外作らないっていうような宣言したんですよ。本当に僕、心の底からそう思ってて。そうしたらね、その次の日に、デザイナーで多摩美で教えていた、伊東寿太郎さんから電話が来たんです。僕よりも10歳くらい年配の人で。10歳か15歳くらい上だと思う。で、実は大阪万博に、長さ25メートル、幅4メートルの壁面があって。
富井:古河パビリオンの方ですか。
中里:はい。「それをどうにかしてもらうアイデアないか」って言うんですよ。で、「伊東さん、実はこういう声明を昨日したばかりなんで、どうにも都合悪いんだけれど」って(笑)。
富井:そうですね。まずいですね(笑)。
中里:って言ったら、「見るだけでも見てくれ」って言うんですよ。で、「サジェスチョンがあったらしてくれ」と。じゃあ、見るだけだったら害はないと思って(笑)。それで見に行きました、大阪まで。見たらもうねえ、手が汚れちゃうんです。こうしよう、ああしようってアイデアがね。で、自分はやっぱり絵描きなんだなあ、と。絵を描くという、イメージを作る。それが自分の生涯だなあと、その時すごく胸に迫って感じました。それで結局やることになっちゃった(笑)。
富井:また突き上げられたんじゃないですか、学生さんから(笑)。
中里:いや、何も言って来なかったですね、それ以後。あのね、その頃までに「造型同」っていうのができてね。学生の間で。
富井:はい、「造型作家同盟」ですね。
中里:そうです。それで、彦坂(尚嘉)と、堀浩哉と、それからもう1人ね、田窪(恭治)。
富井:田窪さんも造形同ですか。
中里:ええ、入ってたんですよ。それからもう数人いたかな。彼らはやっぱり作家としてどうすべきかということを考えてたから。だから、そういう意味では無理矢理に、「資本家に加勢したから」と言って突き上げるということはしなかったですね。
富井:なるほど。そうなんですか。
中里:だと思います。で、3年後に、僕は病気になった。
富井:1972年ですか、じゃあ。
中里:そうですね。いや、71年だ。それで医者がもう、「転地しろ」、「どっかへ行け」と言う。命令なの。
池上:それはさっきおっしゃった血糖のご病気ですか。
中里:はい、そうなんです。「どっかに行け」と言われたんで。まあ「一番安い方法でヨーロッパへ行こう」ということで、さっき言った弟を連れて。
富井:ああ。その時はまだお1人だったんですか。
中里:僕は結婚してました。それはペン大、ロックフェラーの金を終わって、1968年に日本へ帰る時に、フィラデルフィア出身の女性と一緒に旅行したんです。ヨーロッパを。その女性が、この(同じ建物の)隣に今も住んでるんですが(笑)。
富井:アメリカ人の方ですよね。
中里:そうですね。子供が1人、もう38歳になった。娘が。その人と一緒にいて。で、日本へ行って結婚したんです。
富井:じゃあその方も日本にいらっしゃったんですか。
中里:ええ。日本で結婚して。その71年のヨーロッパ旅行も、弟を入れて3人で旅行した。僕たちは絵を見て回ったり、寺院を見たり。彼は、弟はオルガンを見て回った。その後、ニューヨークに帰って来て。彼女の実家に寄ろうと思って、帰って来て。その後の計画は全くなし。それで僕の母校のペン大に電話したんです。
富井:なんか多摩美の時とちょっと似てますね(笑)。
中里:そうです。その時、学部長を知ってたんで。電話して。「実はこういうわけで」(笑)。「今、フィラデルフィアまで来てるんだけど」って言ったら、「じゃあ、来い」と言うわけ。「会いに来い」と。「話をしよう」と言う。で、行ったんですよ。学長に会いに。二―ル・ウェリバー(Neil Welliver)っていう人なんですよ。ニール・ウェリバー。ご存知ですか。
富井:ニール・ウェリバーさんですね。風景画家の方ですね。
中里:そうそう(ウェリバーの画集を取りに行く)。
富井:あ、大きな画集ですね。
中里:そうですね。こういう絵描いてました。
富井:なんか、真面目な風景画みたいな感じしますね(笑)。
池上:不真面目なのってどんなのですか(笑)。
中里:ウォルト・ディズニー思い出さない?
富井:あ、ちゃんとサインもしてありますよね。
中里:でね、そしたら彼が、「会いに来い」って言うんで、行ったんだけれど。
富井:じゃあこの方は、その前からお知り合いだったんですか。
中里:僕のドローイングの先生だったの。
富井:ドローイング上手そうですね、この方(笑)。
中里:彼は、ジョセフ・アルバース(Josef Albers)の愛弟子です。
池上:そうなんですか。
中里:ジョセフ・アルバースの愛弟子で、友達にアレックス・カッツ(Alex Katz)がいる。
富井:あ、なるほど。
中里:それから他には、さっき言った、コンラード・マルカレリーとか、バーゴイン・ディラーとかね。全て彼は近代主義、モダニストの下で勉強してるんですね。
富井:じゃあまあ、割と(ウェリバーの作品は)アンチ・モダニズムみたいな感じがありますけれども。
中里:そう。その後、彼に「来い」と言われて行ったのが教授会だったんです。教授会に踏み込んで。で、「版画をやってるか」っていう質問なんです。その時、版画っていうのは、もう僕としてはオールド・ファッションで。
富井:えっ。
中里:こうアンティクィティ(antiquity)、骨董的なものだと思っていたから。でも「ノー」と言えなくって。その頃、コピー・マシーンが流行った。
富井:ゼロックスですね。
中里:ゼロックス。それで作品作ってて。
富井:そうなんですか。それもまあ版画みたいなものですけど。
中里:そうですね。コピー作って。それから建築家が作る、青写真。
富井:ブルー・プリント。青焼き。
中里:ブルー・プリント。あれ100メートルなんですよ。黒のが。
富井:紙のロールの長さですね。
中里:ロールがね、日本では。あれの上に何か乗せると、その乗せたものがプリントされるんですよ。だから色んなもの乗せると、どんどんイメージが100メートル続く。
富井:フォトグラムみたいなもんですね。
中里:そうですね。そういうことやってたんで。その展覧会もやったりして。
富井:それは日本でなさったんですか。
中里:はい。日本でそれをやってるのを、版画をやってるっていうことにして。「Yes, of course, I am making prints」って言ったんですよ。
富井:嘘ではないですね。
中里:嘘ではない。そしたらね、「ここの学校に来て教えないか」と言う。
富井:版画を。
中里:で、「いくらだ」って言った(笑)。
富井:結構度胸ですね(笑)。
中里:「How much do I get?」って言ったらね、7,500ドル。
富井:それは当時のお金でいうと、どういうものなんですか。年給ですよね、もちろん。
中里:年給。まあニューヨークまで5ドルの時代でしたから。
池上:電車で。
中里:電車が。
富井:フィラデルフィアとニューヨークの間が。
中里:ええ。5ドル50セントかな。コーヒーが10セントだったりして。
富井:その程度ですね。
中里:僕の友人、日本にいる間に友達になった人がね、トマス・ハーパー(Thomas Harper)っていう人がいるんですよ。彼が僕よりも1年前にイェール大学の、専任講師になってるんです。それがやっぱり7500ドルで。だからそれが頭にあって、まあ彼がね、それくらいもらったんなら、それでいいのかなと思って。それで、「まあ1日くれ」と。「ワイフに相談するから」って。そして家に帰って、ワイフに聞いたんです。こういうオファーをされたけど、どうしたらいいかって。すると「You have no choice」。
富井:それは、まあそうですね(笑)。
中里:「I’m pregnant」って言うんですよ。
富井:あー。なるほど。
池上:それもあって。
中里:それで翌日、OKして。それから36年(ペン大に)いました。
富井:そしたら、フィラデルフィアに住んでおられたんですか。
中里:いや、ニューヨークに住んでて。
富井:ニューヨークに住んでおられて。じゃあ、授業のある日に行っておられて。
中里:行って。(週に)2日教えてたんだけれど。3日の時もあった。で、必ず友達を呼び出して、そこで泊まるんです。
富井:なるほど。
中里:毎日、10何年やりました。
富井:すごいですね。なかなか。
中里:友達の家を泊まり歩きして。しばらくしてから、家を一件買いましたけれど。
富井:フィラデルフィアに。今もお持ちなんですか。
中里:今もう売りました。もう学校辞めて、出ちゃってるから。
富井:そうですね。じゃあ(家を購入する前は)ニューヨークに、マンハッタンにお住まいだったわけですか。
中里:そうです。車で往復しました。荷物があるんですね。版画だから。
富井:じゃあ道具とか、機材とか持って行かれるわけですか。
中里:なんか作品も持って行ったり。学生に見せるために。それから材料、手に入れて持って行ったり。
富井:なるほど。じゃあ日本でも教えて、もちろん紛争があって、後、Bゼミなんかでも教えられてたと思うんですけども。そういう割とイレギュラーな環境で教えておられたのが、こちらへ戻ってられて、ペン大、非常に普通の環境に戻って来られたわけですか。
中里:普通っていうのか、どっちが普通というのかわからないけれど。この人の下で教えるんですよ。
富井:ウェリバーさんですよね。
中里:はい。それでね、たとえば、1968年頃、ミニマル・アートの非常に最高潮の時代に、女性のグループが、写実的な作品を発表し始めるんです。その連中は、ロバート・マンゴールド(Robert Mangold)の奥さんで、シルビア・マンゴールド(Sylvia Mangold)。
富井:ああ、はい。
中里:スーザン・シャター(Susan Shatter)っていう人なんかもいて。それから、ジャネット・フィッシュ(Janet Fish)。そういう人たちのグループがいるんですよ。スーザン・シャターの言うには、ミニマル・アートは、アグネス・マーティン(Agnes Martin)以外は、全部男性だ、と言うんです。
富井:そうですね。
中里:男性の領域だって言うんですよ。じゃあ女性は何の領域があるのかって。(男女)みんな同じ程度の教育を受けているのに、大学院の時に結婚したりしてるから、家に縛られると。で、自分たちの生活の周りを描いたと。そこに本当の、現実の社会、現実の生活と、絵画との結びつきがある、と言うんです。
富井:なるほど。
中里:そっから出た絵画だ、と。で、写実的な絵をフィシュバック・ギャラリー(Fischbach Gallery)とかで発表するんです。今はフィッシュバック・ギャラリーっていうとそんな勢いはないんですが、あの時は、非常に勢いがあって。ロバート・マンゴールドもフィッシュバックで発表してて。そこの画廊が主催したシリーズのこういう女性のグループがあるんですね。そういう雰囲気の中で、ニール・ウェリバーっていうのは…、えっと、こん中にあると思う。(本をめくって図版を見せながら)こういうような、ね。あ、彼の先生はウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)です。
富井:あ、なるほど。これで68年ぐらいの作品ですね。今見せていただいてるのが。
中里:これで名前が出るんですね。これはね、いわゆるヒッピー。ヒッピーっていうか、あの頃の若いアメリカ人の。
富井:コミューン思想みたいな。
中里:精神的な状況を映し出した、描き出した、アメリカン・イコン。アイコンだと思うんですよ。僕は。
富井:なんかアメリカン・シーンみたいですね、そういわれると。
中里:そう。ていうのは、あの当時、大きな街からの、都市からのエクソダスがあって。若い人たちの。田舎に行って生活する。そして、コミューンに住んで、自分たちのパンを焼く。野菜を作る。ベトナム戦争があって、ヒッピー運動があって、その重なりで。この人たちは多分ね、ユダヤ系かもしれないけれど、僕が思うには、「WASP」。ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント。で、みな、カレッジ・グラジュエイト。大学を卒業してる。そして、自然に帰って、それを肌で触れる。アメリカの若い人たちの精神的な状況を正に映し出した絵だと思う。
富井:なんとなくウッドストックにいそうなね。
中里:そうそう。そうですね。だからそういう雰囲気の中で。それには僕は同調したんだけれど。
富井:なるほど。
中里:そういう動きにものすごく大勢の人が同調して、入学志望者が(ペン大に)大勢殺到したんです。
池上:それはあんまり知られてないことですね、多分。
富井:そうですね。
中里:で、ペン大に入学するのが大変なことになったんですね。で、彼は、入学志望者数が上昇するのと一緒に、「自分はなんでもできる」という誤解をするんです。
富井:権力者みたいな発想ですね。
中里:そうですね。ワンマンになってしまう。で、「風景画の学校を作る」って言いだすんです。その下で僕、耐えた(笑)。
富井:なるほど。だってその10年前はドラツィオ先生ですよね。
中里:そうですね。だからクーデターがあったんです。
池上:ウェリバーによる。
中里:そう。ウェリバーによるクーデターがあって、前の人を出してしまって。自分が学部長になった。僕は日本にいたんで、そのクーデターを知らなかった。それで、電話して。
富井:電話したらたまたま。
中里:裏側から入っちゃった。
富井:でもそうすると、先ほどおっしゃってたみたいに、かなりコンセプチュアルなお仕事をなさってたわけですよね、中里さんご自身は。
中里:そうですね。反体制的な。
富井:反芸術的っていうか、非芸術的なね。
中里:そう、反芸術的な。そうですね。
富井:じゃあこういう、いわゆる具象っていってしまうとちょっと問題があるかもしれないんですけれども、そういうアメリカン・シーン的な中で。
中里:たとえば、僕がペン大に帰って、1年目と2年目に、アレックス・カッツが客員教授で来たんです。彼は1年、サバティカル・イヤーで離れていて。で、アレックス・カッツが僕のところへ来て、「版画がやりたい」って。「エッチングやりたい」って言うから。で、彼のエッチングで、15種類かな。1枚が50。
富井:エディション。
中里:エディション50の作品を作ったんです。結構面白いのができて。アレックス・カッツが、ブルックリン・ミュージアム(Brooklyn Museum)で版画のレトロスペクティヴやってるんだけど、その時にキュレーターが「ベスト・ワーク」って言ったのが、僕が作った絵だって、プロフィールの。横顔の絵だって(カッツの)奥さん言ってたけど。
富井:そういう場合、エッチングの版を彫るのを中里さんがなさったということですか。
中里:僕がやった。はい。
富井:じゃあ原画をカッツが作って。
中里:そう、だから共作。彼が描いて、僕が版を作って、刷ってあげて。僕はその時、金がなかったから、そういう仕事を引き受けたんだけども。ブルック・アレクサンダー・ギャラリー(Brooke Alexander Gallery)っていうところで発表した、ですね。だからそういう雰囲気の中で、ニール・ウェリバーが、「Hitoshi, when are you gonna change?」って言うんですよ。
富井:「なかなかお前、変わらないな」っていうことですね、裏返せば。
中里:そう。もう「いつ風景画を始めるんだ」とかって(笑)
富井:じゃあ随分プレッシャーきつかったですね(笑)。
中里:そういうところでしたね。だからその間、僕はそこで教えてるっていうことに別に何の誇りもなかったし。非常に有名な学校だったけれど。
富井:そうですね。
中里:ええ。別にそこが誇りと思わなかった。
富井:じゃあ結局ずっと、抽象をするっていうことはずっと変わらなかったわけですか。
中里:ずっとずっと。そうですね、ええ。僕は自分の仕事に熱中してて、これは生活の糧を得ることだ、と。作品を売って生活するっていうことに、ちょっと批判的になることがあったもんだから、以前言ったように。だから都合がよかったんですね。
富井:なるほど。じゃあフィラデルフィアで、そういう保守的ともいえるような、アンチ・モダンな学部長の下で教えてて、「いつ風景画するんだ」ってプレッシャーは受けてたけども、ニューヨークにいらっしゃる時には自分の仕事を続けて、ということですか。
中里:これは自分のスタジオを支えるためにやる仕事、と割り切った生活でしたね。
富井:なるほど。
中里:ただ、この作品においてね、さっきアメリカの当時のイコンだって言ったけど、それは大勢の人が感じたことで、入学志望者が増えた。これが一つのアメリカの最も前衛だった、そういう時代があったんですね。この人亡くなっちゃったんですが。5年ぐらい前に。
富井:それは振り子みたいなもので、ミニマルとかコンセプチュアルの方へ振ってると、こうアメリカン・シーン的なものへの一つの評価っていうのも生まれてくる背景にもなると思いますけども。
中里:そうですね。ある時、彼の版画を作れって言われて。
富井:彼の原画で、っていうことですか。
中里:ええ。で、僕はある人を紹介したんですよ。それが日本人で、彫りと刷りをやる。日本の浮世絵の彫りですよ。
富井:木版ですね、じゃあ。
中里:木版の。それを紹介して。彼はメインっていうとこに住んでたから、メインと、浮世絵のマリッジ。
富井:ただ、拝見していると、画風的にいうと、木版ぴったりみたいな感じしますけども。
中里:そうです。(作品図版を探しながら)こん中にもあったんじゃないかなと思うけど。木版の。その、塚口(重光)君っていうんだけど、それが随分たくさん版画を作ってるんです。ほとんどマルボロ画廊(Marlborough Gallery)の出版。
富井:ああ、なるほど。それから、80年代の後、彦坂さんとかを皮切りに、文部省のアーティストの研修制度を使った留学の形で、ペン大に随分色んな人がくるわけですけれども。
中里:そうですね。
富井:それは、どういう形で始まったんですか。
中里:彦坂らが、まず僕に連絡してきて。学生時代、造型同の時の知り合いで。
富井:そうですね。
中里:直接彼に、何をしろって教えたことはないんだけれど。紛争時代、彼は学生で、僕は教授会の一員だったんだけど、彼と個人的に知り合って。その彼から連絡が来て。文部省の文化庁在外研修員に応募したいんだけれど、ペン大に入れてくれないかって、連絡もらったんです。彼は、多摩美を紛争後、卒業しなかった。
富井:そうですね。まあドロップ・アウトみたいな形で。
中里:そうですね。だけど僕はすごく、彼が連絡してくれたことを喜んで、彼を大学院に入れちゃったんです。彼は月謝は納めてた。
富井:あ、そうなんですか。
中里:はい、大学院に。
富井:それはじゃあ文部省の奨学金の中から。
中里:はい。ていうのは、僕まだその時、学校の中でそれほど力がなかったんで。もちろん月謝を納めてくれれば大丈夫だろうって。で、入ったんですね。彼はここ来てね、「中里さんは作品を売らない、っていうことを言うけれど、それは大きな間違いだ」と(笑)。「売ってこそ作家の生活があって、その作家の野心というものが、ヴィジョンというものが生まれてくるんだ」と彼はとくと語ってくれたんだけど。それからずっと、僕は質問があると彼に電話して、彼の意見を聞くんですね。彼はナンバー1とか、ナンバー2、1級、2級でもって決めるんですよ。これは9級とか、10級とか、11級とか。
富井:そう。41までありますから(笑)。
中里:それで、色々批評してくれるんだけれど。その次はね、木村秀樹って。
富井:京都の人ですね。
中里:京都芸大(京都市立芸術大学)の人。彼は、乾(由明)さんか東京画廊から僕のところへ来て。で、木村君を紹介してくれて。彼はその時、どこで教えてたか知らないけど、それ以後ですね、京都芸大教授になったのは。彼が来てくれて。これも非常に面白かったですね。20何人来てるんですよ。
富井:それで、このあいだ養清堂で展覧会なさったわけですね(注:「中里斉と文化庁在外研修芸術家」展、2009年8月~9月、養清堂)。
中里:はい。20何人やったんで。1年ごとにみんなと付き合って。まあ、特訓みたいな。たとえば、お昼を一緒に食べながら話をしたりする。それで、僕が最も大きな利益を得たと思う。ていうのは、その積み重ねは僕のところへ来ちゃった。こないだの展覧会はそれを一堂に会したわけで、非常に感動的なものだったけど。彦坂は入ってないんですよ。
富井:あ、そうなんですか(笑)。彼らしいけど。それはじゃあ一応基本的には版画を学ぶというのが、みなさん名目でいらっしゃったわけですか。
中里:うーん。
富井:必ずしもそうではなくて。
中里:みな僕が版画を教えてるから、僕のところへ来れば、なんかやれるんじゃないかっていうことはいったけれど、版画を教えるっていうことではなかったんですね。彫刻の人も結構いて。袴田京太朗っていうのが来たり。それからね、最近では伊東敏光っていう、広島市立大学の人。他にも彫刻の人が結構来てた。で、油絵の人も結構いた。絵画ね。
富井:絵描き。
中里:ええ、結構来てますね。木村秀樹、それから為金義勝っていうのもいるんですよ。それから浜西勝則。それから天野純治。これは、みな版画家ですね。日本の版画協会の常連たちですね。
富井:そうですね。
中里:木村君は違うけれども。
富井:こういう聞き方をすると変かもしれませんけれど、中里さんご自身は、自分を規定するとしたら、ペインターだと思っておられるわけですか。それともプリント・メイカー、あるいはその両方、あるいはアーティスト。どっちなんでしょう。
中里:一番時間を取ってるのは、ペインティングですね。版画やるとね、2週間単位で年に、2、3回、2週間単位でやるだけで、作品がばばっとできちゃうんですね。
富井:エディションですし。
中里:エディション。エディションでもなくても、ばばーっとできちゃうんです。
富井:それはやっぱり、頭の中でこう組織的に考えてされるから。
中里:そうですね。システムで。
富井:システムで作業をするということが、非常に肌にあったというような言い方をなさってたので、先ほど。
中里:そうですね。だから作品を作るっていう過程から、色んなバリエーションが出てくるんですね。ある時ね、2000枚の版画を作ったんです。失礼、800何枚だ。全部で2000枚だった。APをやってる。で、800何枚が1セット。900枚に近い。それをエディションはトゥー。2枚。
富井:そうしたら、エディションは2ですね。
中里:そういう版画を作りました。それで、800枚全部違うイメージっていう。
富井:どれぐらいかかるもんなんですか、それで。
中里:それは、ブランディワイン・ワークショップ(Brandywine Workshop)、っていうフィラデルフィアにあるノン・プロフィット・オーガニゼーションで、版画工房なんですよ。そこのプロジェクトで。オフセット・リトグラフィー。オフセットって、普通商業用のであって。
富井:そうですね。
中里:平たいプレートに塗ってやるから非常に時間はかかるんだけど。それでもまあ1ヶ月くらいかかりましたね。
富井:そうしますと、版画と絵画の違いっていうのは何でしょう。
中里:版画は、自転車に乗ったり、オートバイに乗ったりするように早く行かれるんです。どっかへ行きたい時に。で、行ったところで、立ち止まって絵を描く、と(笑)。
富井:なるほど(笑)。関係してるわけですね。
中里:そうですね。絵は早道ができないんですね。絵っていうのはやっぱり手でやるから。時間をかけてその間何もしないと、何もしないでも高飛びはできますけれど、絵画でも。何か他のことやってれば高飛びはできるけれど。その間版画作ってると、もっと高飛びができるような気がするんです。だから、そういうメディウムは乗り物みたいなもの。ビークル(vehicle)、乗り物。ビークルって表現してるんだけれど。乗り物に乗って行くっていう。だから絵画もある意味では乗り物ですね。
富井:でもまあスローだ、と今おっしゃいましたから。
中里:スローですね。
富井:じゃあ、教えるっていうことでいうと、違いはあるんですか。
中里:うーん。(しばらく考えて)教えることに違い、ねえ。版画だと、色んなこと教える材料っていうのは欠かせないわけですよ。
富井:技術とかですか。
中里:技術とか、やり方。紙の持ち方から。紙一つにも、持ち方あるんですよ。そうしないと、繊維が折れてしまう。そういうとこから、教える材料っていうのはあって。たいがいの先生っていうのはそれを引き伸ばして1セメスターのカリキュラムを作るわけ(笑)。それで1セメスターを、1年とか2年とか引き伸ばすんですよ。で、「プリント・メイキング1」とか、「エッチング1」とか「エッチング2」、「エッチング3」とかっていって、引き伸ばしていました。まあ学生もそれの方が、頭の中に浸透するかもしれない。だから、僕はまどろっこくって。
富井:あ、そうなんですか。
中里:ええ。初めのクラスに全部教えちゃうんだけれど、みんな忘れちゃうんで(笑)。だけどそういう、教えることはたくさんありますね。絵画ではそういうことがないんですね。
富井:そうなんですか。
中里:ええ。カンヴァスの貼り方なんて教えるの馬鹿らしくて。
富井:あ、そういうこと教えないんですか。
中里:そう。それは自分でやればいいっていうの。
富井:なるほど。
中里:絵画で教えるっていっても、大学院にいたもんだから。
富井:あ、そりゃそうですよね。大学院でカンヴァスの張り方教えてたらしょうがないですね。
中里:ええ。学生のスタジオがあって、その学生のスタジオに招かれて。椅子を用意してもらって、そこに座って、ぼそぼそ話するんだけれど。一つのスタジオから、複数のスタジオってのは全く違う世界なんで。その違った世界に飛び込んで行って、それに反応して。どういうことを言ったらいいか。まず勇気付け。けなすことも勇気付けになるんで。それをうまく使い分ける。そういうことに追われて、技術的なことはほとんど言えないですね。
富井:まあ、逆にそちらが必要ということなんでしょうね。
中里:そうですね。それから全く違う、頭の使い方ですね。
富井:それから版画っていうことでいうと、ちょうど、中里さんのいらっしゃった60年代から70年代に、いわゆるプリント・ルネサンスがあると思うんですけれども。その中で、中里さんの位置っていうのは、そういう運動に関係しているわけですか。
中里:コインシデンス(coincidence)。偶然にそうなったんですね。たとえば60年代の初めごろは、どこの美術学校、美術学部の工房に行っても版画のスタジオが最も活気付いてましたね。今は反対です。版画っていうのは閑古鳥が鳴いてる。ていうのはみんなデジタルイメージに移ってしまった。で、手でもって何かやるっていうことは全く興味なくなっちゃって。
富井:アナログですからね。
中里:デジタル・カメラから、ビデオ・テープ。それからフィルム・メイキング。デジタル・フィルムメイキングに移って。えっと、質問なんでしたっけ。
富井:その中で、中里さんがなさっていた版画の仕事っていうのはどういう形で関係しているのかっていうことで。
中里:あ、ルネサンスね。それはコインシデンスで。1964年か5年の近代美術館であった展覧会で、「Contemporary Painters and Sculptors as Printmakers」という展覧会があったんですよ。版画を作るっていうことがものすごく盛んになったんですね、当時。それには2つか3つ原因があると思うんだけど。一つはタチアナ・グロスマン(Tatyana Grosman)。タチアナ・グロスマンという人がロング・アイランドに工房を開いた。ユニバーサル・アート・リミッテッド(Universal Art Limited)っていう工房を開いて。それがポップ・アーティストの作家を招いて、作品を作ってそれで商売するっていうか。彼女のプロフィールが『ニューヨーカー』に出てたんだけれど、非常に面白いプロフィールで。ロシアのどっかの田舎の出身で、お父さんが印刷業をしていて。で、ユダヤ系なもんだから、そこから逃れて、パリに移って来た。第一次大戦を過ぎて、第二次大戦の時に、ピレネー山脈を渡って、スペインからアメリカに来たっていう人なんですね。パリにいる頃、結婚して、ご主人が絵描きだった。で、ニューヨーク来てそのご主人が病気になって。肺病だと思うんだけど。で、ロングアイランドに移って。静養のために。そこで、彼が亡くなる。そこで生活を支えるために、版画工房、リト・ショップを始めるんですね。
富井:なるほど。
中里:たまたまそこの家の飛び石に、リトの石が使ってあった(笑)。それを掘り出して、眺めていたら自分の父親のことを思い出した、と。それで、版画工房を開いて、まず刷り師は、ロバート・ブラックバーン(Robert Blackburn、Robert Blackburn Print Workshop は現在39丁目のエリザベス財団の一部として存在している)。黒人の刷り師なんだけれど、それを雇った。それからアーティストは、キャメルを書く人。ラリー……
池上:ラリー・リヴァース(Larry Rivers)ですか。
中里:ラリー・リヴァース。それから、ポートフォリオを作るための、詩はフランク・オハラ(Frank O’Hara)。この3人を呼んで組んで、作品を作り出した。それが話題になった。で、それ以後、ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズに石を届けて、絵を描いてもらう。彼らは初めて版画を作ったんです。ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズも、版画を初めて作った。それが、60年代の始めですね。それですよ。それの中でルネサンスというのがあった。僕もたまたまアメリカ留学したのが60年代。で、副専攻で版画を取らなきゃなかなかった。そこで魚が水を得たように、うまく入り込んだと。ちょうど、うまく入ったんですね。
富井:なるほど。
中里:あの当時から、版画にはまり込んだラウシェンバーグってのは、フロリダに家を建てて、そこに工房を作って。砂浜を散策してそこで拾ったものを版画に使う。それから作品も版画で使う作品、材料をそのままインスタレーションに使う。そういう作品も作って。それが非常に、日本にも一時、もの派的な版画があったでしょ。あれに続いてる世界だと思ったけどね。
富井:なるほど。日本とアメリカでは、先ほどもおっしゃってたように、版画のアプローチが違うと思うんですけれども。あるいは、さっきおっしゃってたみたいに、現在とその当時では版画の美術学校における位置が違うというようなことがあるようですけれども。日本とアメリカでご自身が実際に展覧会などを、あるいは教育をなさってて、どういう風に日本とアメリカで、版画とかグラフィックなメディアに対するアプローチの違いがあるか、そういうことを考えられたことはありますか。
中里:ええ。評論家の名前を忘れたんだけど、アメリカで、スリー・ディケイズ(three decades)の版画の展覧会をプリンストンでやったことあるんで。それのキュレーターが書いてる文章の中に、「アメリカの版画っていうのは上がり下がりが非常にある」って言うんですよ。で、「今下がり坂だ」って。日本ではそういうことがなくて、版画っていうのは、なんて言うかな、お家芸っていうのかな。創作版画以降、もう興隆ですね。上り坂で。色々な美術団体の中に版画部があるし。それから版画だけの洋版画協会もあるし。それから、12月の第1週土曜日にオープンする日本大学版画学会っていうのがあるんですよ。
富井:すごいですね(笑)。
中里:それは連盟でもって、日本の大学の版画工房に関わる人は全部参加するっていう。学生の作品も。それ町田の版画の美術館でやるんですよ。それが年中行事、一つの。これは大変すごいこと。アメリカではそういうことないですね。
富井:なるほど。アメリカでは別にペインティングにしたって、スカルプチャーにしたって、そういう形で大同団結みたいにするっていうことはあんまりないですよね。
中里:そうですね。アメリカにも、日本で言う版画家ってのが、あるにはあるんですね。
富井:プリント・メーカー。
中里:プリント・メーカー。あるホイットニーのキュレーターで、名前が思い浮かばないんだけど、その人がやった、やっぱり20年か30年の「アメリカン・プリント・ヒストリー・サーベイ」展があったんですね、ホイットニー・ミュージアムで。そのカタログに書いてあるんです。「この中にプリント・メーカーは入ってない」。
富井:なるほど。みんなペインターとかスカルプターとか。
中里:その理由は、版画家はアメリカの主流に何ら影響を与えていないって。シグニフィカント・ワークをしていない。シグニフィカントなコントリビューションをしていないって言うんですよ。
池上:はっきり書いてあるんですか。
中里:うん。だから版画家は入ってない。あるのは、アーティスト。いわゆるペインターズ、スカルプターズの版画なんですね。ここも全く違うところで。
富井:それも違いますね。日本だと版画家というのは……
中里:だって大学に版画学科を受ける入試があるんだから。版画科に入ると、3年の時に、3年になる時に、「版芯を決めろ」って言われるんですって。
富井:じゃあ銅版画するかとか、木版画するかとかいう専攻ですか。
中里:はい。
富井:すごい専門家ですね(笑)。
中里:そうなんですね。彼らの経験を聞くと、卒業生から経験を聞くと、非常に厳しいカリキュラムがあって。何々を仕上げて、それから次に移る、と。エディション何枚刷ってとか。そういう厳しい規律があるらしいですね。
富井:なるほどね。
中里:そういうことはアメリカではなくて。僕が教えてた版画工房っていうのは、誰でも来て、作品を作れるようにしてあって。たとえば僕の学生時代は、隣のスタジオで、ルイス・カーン(Louis Kahn)って建築家が教えてたんですね。で、ルイス・カーンの学生が僕のところへ「版画をやりたい」って、来るんです。ルイス・カーンがニューヨークのペンシルヴァニア・ステーションで、男子トイレで倒れて死ぬんだけれど。それは(カーンが)ベンガル大使館かなんか(注:正しくはバングラデシュ国会議事堂)の建築を終えて帰って来たとき。で、ペンシルヴェニア・ステーションで亡くなるんだけど。その後(カーンの)学生がどうしていいかわかんなくって、僕のスタジオに通って、版画をみんなやりながら、色々しゃべってましたね。今後のことについて。
池上:これからどうするかっていうことを。
中里:そのように、版画っていうのはみんながみんなやるもので、専門家だけがやるもんじゃないんですね。
富井:なるほど。
中里:そこにもっと可能性が広がっているって。まあその可能性もねえ、お金と関係あるんだと思うけれど。有名な作家の作品は、非常に高く売れるんですね。版画家の20倍、30倍の作品の値段が付くんですね。だから版画やってるのが馬鹿らしくなっちゃう(笑)。だけど版画をやってる人がいるにはいるんですけどね。大きな美術学校に行くと、版画で修士課程を取る人がいるんです。それからタマリンド・ワークショップ(Tamarind Lithography Workshop)。タマリンド・ワークショップってご存知ですか。1960年あたりに、ジューン・ウェイン(June Wayne)っていう人が、ハリウッドのサンセット通りというところのちょっと路地に、タマリンド・ストリートっていうのがあるんですが、そこのガレージを直して、版画工房を作るんですよ。そこはフォード・ファウンデーションのグラントでできたんだけれど。リトグラフの技術を一般に広げて、刷り師を養成して、作家にリトを紹介する。それからプリントのコレクションを作って、巡回展示する。それから自分たちで発明した新しいやり方を機関紙の中に載せて、全国に配ってっていう。エコロジカルなプログラムを持っていて。その版画工房が、10年くらい続いて、それがジェムナイ(GEMNI)に発展するんだけれど。そしてそれがね、ユニバーシティ・オブ・ニューメキシコに、合併されて。そこには版画の修士課程のプログラムがあるんですよ。その大きな目的は、刷り師を養成すること。そこのマスター・ディグリーを持ってる人は、ほぼ大学の版画を専攻したら、教授まで行く道ができるわけ。これは早道なんです。そこへ入るのが。ということは、スター・アーティストの奴隷養成システムなんです。
富井:いや、今まあそうかなと思ってね(笑)。要するに下働きというか、アシスタントというか、裏方ですね。
中里:全く芸術性のない。
富井:技術者養成ですね、だから。
中里:技術者養成ですね。だから、版画専門っていうのは非常に問題が、アメリカではあるんですね。日本でも多分そうだと思うんだけど。日本はその点は語られず、議論されず。版画っていうのは非常に大きな国ですね。
富井:何かお話聞いてると、たくさん色々出てくるので、なかなか終わりにくいですね(笑)。
中里:そうですね(笑)。
富井:もう一晩ずっと聞いてみたいという気持ちもあるんですけれども、現実的にはそういうわけにもいかないので。これはニューヨークでお話をお聞きしてる方、皆さんにお伺いするんですれども、ご自分の制作は日本人として制作してるのか、ニューヨーク、あるいはアメリカの作家として制作してるのか、という質問です。
中里:そうですね。大きな課題ですね。
富井:はい。
中里:ここにこういう展覧会があるんですよ。
富井:「多摩美ニューヨーク」。同窓会ですか。これ。
中里:そうなんですね。この「ハファ」展、HAFHっていう。
富井:HAFH。はい。
中里:これはね、「Home Away From Home」。
富井:ああ、なるほど、それの略なんですね。
中里:そうなんですね。「Home Away From Home」。この人たちは、やっぱり「ホーム」というのは日本の国であって。しかし、このニューヨークに住んでる、ここも「ホーム」だと。二重人格みたいなもんですね。
富井:それは中里さんもそうですか。
中里:これは僕の命名なんです。
富井:あ、中里さんの命名なんですか。
中里:はい。なんか二重人格みたいなところですね。ある時はアメリカ人的な考えを装って、ある時は日本人的な。そこから抜けきれないですね。一つ解決したことがあるんですよ。それは分骨すれば両方に一度に住める、と。
富井:お墓作れるわけですね。
中里:そうです。それを思いついて、非常に気持ちが楽になった。だから永久に二重の国籍っていうのかな、二重なんですね。
富井:なるほど。
中里:こないだ、65歳になった時に、それからもうだいぶ時間が経ってるけれど、シニア・シチズンになったんですね。65歳で。で、友達に「僕は新しいシチズンシップをもらった」って言いふらしたんですよ。そしたら、みんな「アメリカ人になったんだ」と。
富井:普通そう勘違いするでしょうね。
中里:そうですね。で、「違うんだ」と。僕は向こうにいるけど、「違うんだ」と。「僕はシニア・シチズンになったんだ」って(笑)。
富井:シニア・シチズンシップですね、じゃあ(笑)。
中里:そうですね。だからそれはいつまでも2つの祖国だと思うんですね。
富井:なるほど。日本の美術界との交流っていうか、お付き合いは続けておられますよね。
中里:今、計画してるのが、町田市立国際版画美術館で、個展を来年6月やるんです。
富井:回顧展ですか。
中里:どういう風になるかまだ決めてないんだけど(笑)。
富井:あ、そうなんですか(笑)
中里:だけど会場がすごく大きいんです。
富井:大きいですね、あそこは。
中里:ええ。それ中林(忠良)さんもやったんだけど、彼の使った倍のスペースもらったんですよ。
富井:じゃあペインティングも見せられるわけですか。
中里:そうです。今、その構想を練ってるとこなんですね。
富井:なるほど。
中里:それをするのに、美術館側から、「こういう世界経済大恐慌の時代の時に、こういう地方自治体っていうのは非常に苦しんでる」と。「作家自身にお願いするのは非常に心苦しいけれど、自分で金を集めて来ないか」と(笑)。こう言われた。
富井:そういう風になってるんですか(笑)。
中里:ええ。で、それにはある方法があると。後援会みたいなの作ればいいと。自分が実際に動かなくてもいいけれど、後援会ぐらいがやればって。
富井:ファン・クラブですね。じゃあ。
中里:ええ。それでね、後援会の実行委員みたいなの作ったんです。後援会といわないで、「中里斉展を支援する会」と。その会長と、その下に数人と。日本で力になってもらえる人を集めたんですよ。で、佐藤東洋士(とよし)っていう、桜美林の学校の理事長兼大学学長がいるんですが、その人に会長になってもらって。その下に針生一郎さんと、建畠晢さんと、それから野田哲也。
富井:なるほど。
中里:版画家。その4人です。で、作ってもらって。事務局が、松本武っていうんだけど。
富井:元東京画廊の方ですね。
中里:うん、元東京画廊。彼は東京画廊から独立して、「株式会社まつもと」っていうのを作ったんだけれど。彼が扱ってる作家は、斎藤義重、白髪一雄、それから川端実。で、僕が一番世話になって売れない作家なんですよ。それが日本との、美術界との関係ですね。だから、あの当時、多摩美で教えてた、あれがやっぱり基礎になってるんですね。
富井:じゃあ、あの3年間が。
中里:そうですね。あれ以後なんか親しんで、知り合った人たち。非常に懐かしくて、意気投合できる人たちです。
富井:池上さんの方から何か他に質問はないですか。
池上:もともと李禹煥さんが、「中里さんにお話を聞いたらいいよ」ってご提案くださったんですけど、李さんとのお付き合いについて少しお聞きしてもいいでしょうか。
中里:李さんが書いた本は何年でしたっけ。
富井:1970年の、『出会いを求めて』でしょうか。
中里:1970年ですか。それ以前に会ってるんです。68年ごろかな。
池上:じゃあ日本で。
中里:日本で、ですね。多摩美で教えた頃ですね。彼はまだ多摩美に入ってなかった。だけど東京画廊の作家だったんで、その奥に行けば会ったわけだ。彼もその後ですね、平面の作品を作り出したのは。
富井:はい。73年の展覧会ですね。
中里:ええ。その時のカンヴァスは、僕が送ったんだと思う。
富井:ニューヨークからですか。
中里:はい。
富井:何か特別に違うことがあったんですか。
中里:いや、このカンヴァス、綿キャンっていうのは、ニューヨークで始まったんですね。ニューヨークでアブストラクト・エクスプレッショニストが使い出したんです。
富井:あ、綿のカンヴァスっていうのは。
中里:はい。パリでは使ってなかったから。
池上:麻で。
富井:あ、リネンですね。
中里:ええ。ベルジアン・リネンしか売ってない。ベルギーとか、織りの麻だったんですね。で、ジャクソン・ポロックたちが、非常に合理主義的な、即物的な、その辺の町でもって買えるところから帆布を買って。その上に描いたんですね。僕もそれに倣って、あるところに行ったら、「一番初めにここに来たアーティストはバーネット・ニューマンだった」と言ってましたね。そこで買ったりして。日本では、帆布はあるんだけれど、織機がね、1ヤード……
富井:1ヤードって言ったら、114センチですか。
中里:そう36インチなんですね。だから帆布を見るとみな縫ってあるんですよ。当時は。
富井:ヤードって本当にいわゆる、洋裁のヤードですよね、幅でいいますとね。
中里:そうですね。
池上:その大型のものがなかなかできないと。
中里:そうなんですよ。幅の広いのがないですね。で、僕が発表した作品かなんかを見て、(李氏が)「カンヴァスを送ってくれ」って言うんで、1巻き送ったんです。その当時、数人に送ったけど。
富井:ああ、そうですか。
中里:ええ。それからね、堀浩哉が僕が使ってるものをもって、「これ興味あるけど何だ」って言う。これ線があるけど、これもうだいぶ古い作品だけど。あれはオイル・スティックっていうんですよ。
富井:ああ、オイル・スティック。
中里:それも日本になかったんですね。で、これを堀浩哉が見て、「送ってくれ」って言うんで、送ったことがありますね。
富井:堀さんのジェスチャーの作品、「オイル・スティック」ってなってますけど、あれは日本にはなかったものなんですか。
中里:そうです。僕が送ったものなんです。その後日本で輸入されてると思うけれど。
富井:なるほど。
池上:それで李さんがアメリカに来られた時も。
中里:彼が来て、ペン大にも来てもらって、僕が彼に学生に話してもらったんだけど。僕が通訳したりして。その時、お金が学校にあまりなくて、あまり充分払えなかったのを、悔やんでるんだけど(笑)。だけど彼はよくしてくれて。
池上:その文化庁の派遣で来られたわけじゃないんですよね。
中里:そうではないんですね。随分、時々、ニューヨークに来るってことが、先取りするっていう時代であったんで。高松次郎も来たし、その時僕が方々連れて行ったし。李さん来た時もそうだったし。李さん、じゃあ僕の学校へ来てくれって言うんで、学生に話してもらって。全然こう、うまく合わなかったけど(笑)
富井:かみ合わなかったですか。
中里:かみ合わなかった。
富井:反応はどうでしたかというのが次の質問ですけれど。
中里:彼はすごく大きな視野で言ってて、学生は非常に狭い視野で話してて、うまくかみ合わなかった。だけど非常に面白かったですね。今は、韓国の学生が大勢来てるけれど、それが来る前ですね。
富井:なるほど。
中里:韓国の学生なんかがいたら、盛り上がったんだと思うけれど。今は大学どこでも韓国からの学生多いから。それで、この前、あそこで。
富井:ペース(Pace Wildenstein Gallery)ですか。(注:李禹煥の個展。2008年9月~10月、Pace Wildenstein Gallery)
池上:去年ありましたね。
富井:ええ。あの時もいらしたんですか。
中里:オープニング行きました。そこで多分会ったと思う。あの時もご一緒しましたし。
富井:なるほど。
中里:それからね、面白いことがあったの。ピア・フィフティーなんとかっていうところでもって、アート・フェアがあったんですよ。
富井:アーモリー・ショウ(Armory Show)ですか。
中里:アーモリー・ショウ。そこでね、ロバート・ストア(Robert Storr)が講演をしたんですよ。で、ロバート・ストアはペン大の常任の美術史学博士だったから、僕はよく知っている。彼の話なら面白いだろうと思って行ったんですね。そしたらそこに、講演が始まる前に、李さんが来て。それで、お互いちょっと話をして。そして彼は、すぐ出てしまって、僕は講演を聴いてから出て来た。そしたら東京画廊の人がそこにいるんですよ。
富井:田畑(幸人)さん。
中里:田畑さんがいて。「今、李さんがここから出て来たけど会った?」て言ったら、「何、ニューヨーク来てるの?」って(笑)。だから彼はたまたま、そのペースの画廊のなんかがあったんだろうと思うけれど、誰にも会わずに、ただロバート・ストアに挨拶にそこに寄っただけだったらしい。時々だからそんな風に、突然に、いつも会ってます。
富井:なるほど。
中里:彼に批判されたことあるんですよ。
富井:え、どういう風に。
中里:「中里さん、作品はいいけれど、数が少ないよ」って。
富井:「数が少ない」って言われたんですか。
中里:いや、それは合ってるんだけど。一理ある。発表する場が少ないっていうことだと思うのね、作品の数が少ないって。それはあるけれど、とにかく発表の場がない。あまりない。東京画廊で発表してたでしょ。
富井:はい。
中里:それが、社長さんが亡くなって、2代目になって。僕は息子さんたちとあまり関係なかったんで。それから村松(画廊)でもやってもらったんだけど、村松は今度閉まってしまう。
富井:閉まりますね。
中里:だからそれもなくなっちゃったんで。本当になんか先細り。
富井:でも今度町田で展覧会なさると思うので、その時がまた何かのきっかけですね。
中里:ええ。何かあると良いと思いますけどね。それだけっていうのはちょっとさびしいので(笑)。
富井:もし最後に何かあれば、こういう機会ですので、これだけ言っておきたいみたいなことがあるようでしたら、ご自由にしゃべっていただいてかまわないんですけれども。
中里:(しばらく考えて)そうですね。何を言ったらいいのか。
富井:なければないで(笑)、もう色んなお考えを話していただいたので。万が一、私たちの質問で何か大切なことが抜けてるようだったらという気持ちでお伺いしてますので。
中里:僕ね、斎藤義重ってのは、あるすごさがあったって思う。年を取るごとになんか力強い作品をどんどん作ってる。で、随分長生きした。あれに見倣いたいと思ってる。
富井:斎藤先生とは直接ご面識、多摩美の時にあったわけですよね。
中里:あって。それから東京画廊に紹介してくれたのは、彼の推薦だった。
富井:そうですか。
中里:彼みたいに長生きして、制作続けられたらな、と。
富井:なるほどね。じゃあ大分道のり長いですね、この先それだと(笑)。
中里:あと20年。そうであってほしいですね。
富井:どうも長い時間ありがとうございました。
中里:どういたしまして。
池上:ありがとうございました。