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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

岡本信治郎 オーラル・ヒストリー 第2回

2014年8月20日

鎌倉のアトリエにて

インタヴュアー:池上裕子

書き起こし:大瀬友美

公開日:2014年4月26日

更新日:2018年6月7日

インタビュー風景の写真

池上:今日はウォーカー・アート・センター(Walker Art Center)の「インターナショナル・ポップ(International Pop)展(2015年4月11日~9月6日)に作品を出させていただくということで、お話を伺います。従来、アメリカのポップが世界に影響を与えて、という単純な構図で語られてきがちだったんですが、岡本さんのように、ポップが日本に紹介される前から明るい色調のポップな作品を描いてらっしゃる方もいたわけですし、それぞれの地域にそれぞれのポップがあったという切り口の展覧会なんです。前回の坂上(しのぶ)さんと山口(啓介)さんによるインタヴュー(2011年9月5日)では、1950年代から60年代にかけて詳しくお聞きになっていたので、今日は転機だとおっしゃっていた《第三の男》(1962年)あたりから聞かせていただければと思います。

岡本:これが僕の中では転機になったのは、前のインタヴューにも出てくるけど、例えば文学で言えば野間宏とか椎名麟三とか、あの辺はみんな重い。戦後の状況の中から出てきますね。だから非常に生々しい、極限状況とかそういうものを取り入れたような捉え方をする人が多かったです。絵で言えば河原温の《浴室》シリーズとか、池田龍雄とか、そういう状況絵画みたいなものが、イマージュ派という形でいろいろ出てくる。あの当時は実存主義に影響を受けて作ってたわけですよ。ところが、少しずつ世の中が平和になってきて、戦後の生々しい状況から変わってくるでしょ。そうすると河原温なんかの仕事も行き詰ってくるわけです。そこへあのアクション・ペインティングが横からバーンッと入ってくる。日本の場合は、アンフォルメルは即、アクション・ペインティングになっちゃったのね。本当は、アンフォルメルはアクション・ペインティングだけじゃないんだけどね。だけど、日本ではそうなっちゃった。それで余計、イマージュ派っていうか、ああいう重い、重厚な雰囲気を追及してた作家たち、池田龍雄なんかも、急に文学的な物語作品みたいな作家として否定されちゃって、それで立ち消えのようになっていった。
そこで僕は、ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat)をニヒリストとして新しく捉え直してみた。本物のスーラなんかどうでもいいんだよ。「もうひとつの外光派」みたいな形でやろうと。そのきっかけになったのがこの《第三の男》なんだよね。文学で言えば、さっき言った野間宏とか椎名麟三とか武田泰淳の後に、第三の新人として安岡章太郎、小島信夫、吉行淳之介、庄野潤三とか出てきますね。あれは小市民意識を持った、極限状況派を地ならしして出てきたみたいなもので、だから繋がっているんですよね。庄野潤三の『プールサイド小景』(1954年)とか、『静物』(1960年)とかね。三島由紀夫は、ああいうものについて「日常生活の直下の地獄」なんてことを言ってね。僕はアンフォルメルに対して非常に反感があって。あんな形で外来文化が入ってきて、日本の戦後の1950年代の美学が一気に崩れたことに、がっかりしちゃったのね、正直言って。それで3年間、作品を発表しないで模索して、スーラを価値転換してみた。それで、アンフォルメルっていう余計なものが黒船的に入ってきたために挫折しちゃった状況絵画に対して、第三の新人がやったような形で、僕は復権していこうと考えたわけです。自分が小市民意識を持つことじゃなくて、小市民意識を否定形として逆用しながら日常性を回復すれば、重い極限状況的な視点に対して軽さを獲得できるだろうと。そういう形で明るくなっていったんですよ。だから僕は、後から見たらポップ・アートって言われたかもしれないけど、そういう経緯で描いたわけですよ。このとき江原順っていう評論家がいてね。シュルレアリスムの研究家だよね。

池上:そうですね、フランスに行かれましたよね。

岡本:そう。行ったまま帰って来なかったでしょ。そこで亡くなったんだけど(注:ブリュッセルの自宅)。僕は自分が沈黙する前に、ちょっと彼にいちゃもんつけたことがあるんですよ。斎藤義重をやたら褒めてたんでね。斎藤義重の《鬼》(1957年)っていう作品が僕は非常に好きだったんですけど、その後は日本的アンフォルメルみたいな、迎合してんじゃないかなって勘違いしててね。僕も狭くものを見てたんですね。今はそんなに極端なことはないんだけれど。江原さんは斎藤義重をすごく擁護したんで、まだそのとき僕はとても若いわけで、江原さんにちょっと皮肉を言ったんだよ。「江原順が斎藤義重をそんなに持ち上げるのはちょっとおかしいんじゃないの」って。そしたら彼も何か二言三言、パンパンッと返されたんだよね。別にこてんぱんにされちゃったわけじゃないんだけど、ちょうど自分の絵が転換期を迎えてて、自分自身の絵も変えなきゃいけなかったから。作家ってのは作品を持ってますからね。空っぽでしゃべるのは楽だけど、自分の作品を背後にしてしゃべるのはしゃべりにくいわけですよ。それで僕はそのとき、「ああ、もはやこれまで」って自分で思ったんですよ。ちょうど模索してたときだから。だから外部に対しては鎖国、内部に対しては自己破産って形で、沈黙しちゃったわけです。その後江原さんにまた会うと、「どうしたんだよ、発表しないじゃないか、最近」。前はどんどん個展やってたのに、急に発表しなくなったから。「いや、もう絵はやめた」って言ったの。彼はそのとき、僕が本気で発表しなくなるとは思ってなかったようです。

池上:それで、責任感じちゃった。

岡本:そうそう、責任感じちゃった(笑)。「おい、なんだよ。そんな突っ張ったこと言わないで出せばいいじゃない」なんて言って、非常に気にしてた。「俺が余計なこと言ったから岡本信治郎は絵をやめちゃった」って(笑)。

池上:若い才能を潰しちゃったみたいな。

岡本:責任感じてたらしいんだ。その後、《第三の男》を読売アンデパンダン展に3年ぶりに出品した。僕が会場行ったら、江原さんがちょうど僕の絵の前にいて、見てたんだよ。それで、「岡本君、ちょうどいいところに来た。下行ってお茶飲もう」って。「今度の君の絵は気になった。何考えてるの」なんて言うんだよね。だから、「まぁ、江原さんには今の僕の絵はわからないだろうな」なんて言ったの(笑)。そしたら「なんだよ、その態度は」ってね。「だって江原さんはれっきとしたシュルレアリスムの研究家でしょ。夜の画家の系譜をずっと追求した人じゃない。僕は今やもう一つの外光派ですよ」。そうしたら、「外光派はいけねぇや」って言うから(笑)。

池上:だからわからないんだっていう。

岡本:そう、「だからわからないんだ」って言ったんだよ。そこで僕のスーラ論を出して見せたら、頭いいんだよ、彼は。すぐわかっちゃうんだよ。「こんなこと君、3年も考えたの」って言うから、「そう」って。

池上:びっくりされたでしょうね。

岡本:うん。彼としてはね、頭の隅に何もなかったんだね、外光派なんて。

池上:いきなりスーラに行くとは、っていう(笑)。

岡本:そう。スーラも普通のスーラじゃなくて。普通はスーラっていうのは、外光派の(ポール・)シニャック(Paul Signac)なんかと論じられる。それからもう片方に内光派として(エドヴァルト・)ムンク(Edvard Munch)とか、(オディロン・)ルドン(Odilon Redon)とか、夜の画家がいる。外光派と内光派は平行線を引いて交わらないよね。僕がやろうとしたスーラ論は、もうひとつの外光派みたいな形で、その二つが交わるところにいる作家。そういうの、美術史の中にいないんだよ。

池上:そうですよね。明るいんだけどちょっと……

岡本:ちょっと引っかかるのは(クロード・)モネ(Claude Monet)の婦人像。土手みたいなとこで日傘を持った。顔がないの。

池上:ちょっとのっぺらぼうみたいな。

岡本:怖いのね。あれぐらいが明るい中に変な……

池上:ちょっと怖さがね。

岡本:ちょっとあるでしょ。あれが僕は頭にあった。だけど、スーラの《グランド・ジャット島の日曜の午後》(1884-86年)とか、人間の中身が、がらんどうじゃないですか。スーラは習作として影がちゃんと付いてるグランド・ジャット島を描いてるんだけど。人がいないんだよ、誰も。要するに、いなくても不在、いても不在っていうような感じ。だから「不在のものの絵画」ってことを僕はやろうとしてたわけです。そういうことをやろうってときに、江原さんは夜の画家ばかり追ってたから、えらいショックを受けたんですよ。それで「君こんなこと考えてたのか。君は紛れもない芸術家だよ」なーんて、言ってたよ(笑)。

池上:今更(笑)。でもスーラの顔がのっぺらぼうだったり、内面が見えなかったりっていうので、この時期に描かれてらっしゃる人の顔には、やっぱり表情がない。目鼻口をわざと描いておられないですよね。

岡本:そう。《陛下のりんかく》(1962年)だってそうだよ。描いてあるけど、顔はがらんどうでしょ。そういう感じで、僕は前のとはまた別の形で、日常性を回復したもう一つのテーマ性絵画として出品している。

池上:ちょっと明るい狂気みたいな。

岡本:そうそう。前の暗いのから今度は明るい。

池上:表情が読めないっていうか、ないっていうのはそういうところなんですね。

岡本:今見ると、大変実験的なんですよ。たまたまその後、ポップ・アートが出てきて、僕が日本のポップ・アーティストにされちゃうんだけどね。

池上:でも日常性の回復とか、多くの人々の心象風景に触れるものっていう意味では、アメリカのポップとは関係ないところで、大衆って意味でのポップっていうのはあるんじゃないかなと。

岡本:だからね、2001年の図録(「岡本信治郎《笑う雪月花(ころがるさくら)》展図録、池田20世紀美術館)で、針生さんの文章は最初の出だしが、「岡本信治郎がポップ・アートを見て、影響を受けて明るくなったのは当然だ」って書かれてて、「何が当然なんだ?」って(笑)。針生一郎にそんなこと言われたくないって感じがあった。他の人が、「岡本信治郎はポップ・アーティストだ」って言うのはしょうがないですよ。針生一郎さんは、僕は前から知ってるんですよ。

池上:ずっと現役で作品を見ている人ですしね。

岡本:見てるんだよ。その人に、月並みな、後の人が言うような言い方されちゃうと、カチンと頭にきちゃって。

池上:「何見てたんだ」っていう。

岡本:それで針生さんに手紙書いたんですよ。「僕は大体、ポピュラー・アーティストなんだろうか」と。「アメリカでは、例えばアンディ・ウォーホル(Andy Warhol)なんかが日常的だと言われている。僕はウォーホルは日常的だとは思わない。日用品を使っている反日常的な美学だ」って言ったんだよね。「アメリカのポップ・アーティストたちには、僕のように日常性を回復するにしても、小市民意識を否定形として逆用しながら日常性を回復しようなんてことをやった作家はいないじゃないか」と言ったんだよね。「それで僕は誰の影響を受けたんですか?」って針生さんに聞いたわけですよ。それで手紙で、「僕のアメリカ美術に対する興味は、ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)の知性と、ジム・ダイン(Jim Dine)の感性と、アンディ・ウォーホルのニヒリズムと、(フランク・)ステラ(Frank Stella)の暴力的でたらめ絵画。そのくらいしか関心はないんです」と。「もしアメリカとか、イギリスのポップ・アートの影響を受けたって言うんだったら、一体誰の影響を受けたんだ」と。「誰にも僕は受けてないじゃないか。日常性を否定形で逆用しながら回復している人が、もしいたら教えてください」って彼に聞いたんだよ。針生さんじゃなくて普通の人が書いたら、僕はそんなにむきにならなかったんだけど、針生さんは1950年代の先頭に立ってた人でしょ。僕なんか一番よく知ってたわけだから。

池上:そりゃないよ、という。

岡本:そう。そりゃないよって思ったのね。しかし同時代だから、アメリカのポップ・アーティストと僕と共通項はありますよ。だが当時、僕が知ってるアメリカってのは、ベン・シャーン(Ben Shahn)、(マーク・)トビー(Mark Tobey)、(モリス=コール・)グレイヴス(Morris Cole Graves)とかね、それくらいしか知らなかったわけですよ。その後のアメリカの作家って知らなかったわけですね。大体、敗戦国の若者と戦勝国の若者がイコールするなんてことは考えられなかった。それは僕の錯覚なんだけど、僕は世界を知らないわけだから。でも、戦勝国のジャスパー・ジョーンズを見たときには違和感を感じなかったんですよ。あれ、これは面白いなって思った。ジョーンズは才能あるなぁって。

池上:ジョーンズも日常的なものを扱いつつ、ちょっと不気味な感じがありますよね。

岡本:そうそう。それで非常に知的でしょ、あの人。

池上:そうですね。

岡本:まぁ、針生さんは悪意ないんだけど。それから前にも話したけど、取材に来たある出版社の人が「ポップ・アーティストとしての岡本さん」ってあんまり言うんで、「ちょっと待ってくれ」って。「あなたの頭の中ではきっと、アメリカの現代美術があって、そのうえで日本の現代美術があるって思ってるのかもしれない。金髪娘と岡本信治郎ができてると考えるのはあなたの勝手だよ。だけど僕には1950年代という黒髪の初恋の人がいるんだよ」って。そしたら彼は真っ青になっちゃった(笑)。

池上:そのエピソードは前回のインタヴューですごく印象的に読みました。

岡本:覚えてるでしょ。あのとき、「ポップ・アーティストとしての岡本さんは……」なんて元気よくしゃべってたんだよ。それが一言僕が言ったら、笑いながら言ったんだけどね、途端に真っ青になっちゃった。

池上:でも分かってくれてよかったですよね(笑)。真っ青になったということは、失礼なことを言ったっていうのを分かったっていうことですよね。

岡本:そうそう。針生さんに僕が手紙書いたときも、「マネは印象派か?」って書いたんだよ。基本的には、マネは印象派じゃないと僕は思っている。それがいつの間にか印象派と同じようにされちゃうじゃない。評論家にとっては、作家は分類しちゃえば一番便利かもしれない。だけど確かマネは、途中で印象派展には出品を拒否したと思うんですよ。

池上:結局、一度も出してないはずです。誘われてるんですけど。

岡本:出してないんだ、そうですか。それで、「マネは印象派か」ってことを僕はちょっと書いたんだ、あの手紙の中で。評論家ってのは何かに分類しちゃうのが一番楽だけど、されるほうは……

池上:ですね。しかも針生さんみたいな方に書かれると、みなさんそれを信じちゃいますからね。それがちょっと怖いですよね。

岡本:そうそう。まだ他の若い人たちが言うのはしょうがないと思うのね。だってポップ・アートも、僕の絵も、ひとつの時代の共通項があるわけですから。確かに明るい虚無みたいなものがあるわけだし。だけど、針生さんには言われたくないなぁって気がしてたのね。一番分かってる人だと思うじゃない。

池上:分かってなきゃいけないですよね。

岡本:そう。そういう人がそういう言葉を使っちゃいけないなぁって。そういうとこを、後で彼はね、やっぱり反省したんじゃないかなぁ。相当僕に書かれて怒ったんだけど、結局後でファックスが美術館に届いて、「岡本信治郎は今回ものすごく腹が立ったけど、今思うとおもしろい体験だった」って書いてあった(笑)。あの人はいいとこあるんだよね。

池上:作品のほうでも少し具体的にお聞きしたかったんですけど、《陛下のりんかく》がおもしろいと思って。昭和天皇ですよね。顔が省略されているとは言っても、ずばりモチーフにする作品は少ないと思うんですよ、この時代。これをやってみようと思われたのはどういうところだったんでしょう。

岡本:日本の一番の象徴ですし。

池上:ですよね。それこそ大衆のアイコンだったわけですよね。これ以上ポップなものはないっていう。

岡本:そうそう、それでこれをやった。

池上:勇気はいりましたか。

岡本:勇気はいらない。だって僕はこれを否定形として描いているわけじゃないから。天皇制がどうのこうの言ってるわけじゃないよね。見る人が見ると、「あの野郎、ひでぇことを」って言うかもしれない。

池上:いろんなふうに取れますよね。

岡本:それはしょうがない。僕はその後、《花咲天皇 花咲皇后》(1989年)とか、いろいろ描いてる。だけど天皇制の問題はまた別問題で。要するに男の横顔の中身をがらんどうにしちゃって。望遠鏡で点景人物にしちゃうと、シルエットしか残らない。心理描写がないんだよ。行動しかない。それを今度は逆算の意味で、もう一回拡大していく。ナチュラルに考えればまた心理が復活するけど、僕のは心理が復活しないでそのまま拡大された、粒子の荒れた点景人物。その感覚で天皇の横顔を見ちゃう。「不在のものの絵画」って読みましたか。あれを読むと、最後に中原佑介さんがこのことを聞くんです。

池上:『美術手帖』の中原佑介さんの記事ですよね(『美術手帖』、No.220(1963年5月)、pp.29–38)。最後に、「顔だけの肖像画」のことが出てくるんですよね。

岡本:すると僕が、「あれは天皇です」って言うんだよ。

池上:終わり方がうまい。

岡本:あの中原さんの文章うまいんだよ。非常に的確に掴んでるんだ。最後にね、僕が一言「天皇です」って言ったとこでパーンと終わるんです。

池上:そうですね。それが何を意味して、とかいうところは敢えて。

岡本:言わない。

池上:《第三の男》のほうは髪型がリーゼントっぽいですが。

岡本:そう、リーゼント。あんちゃんみたいなね。

池上:そのとき、はやっていたような?

岡本:いや、昔の日本でもあんちゃん的なリーゼントみたいなのありましたよ。

池上:1950年代の?

岡本:1950年代じゃなくてもっと前だよ。子供のときからリーゼントスタイルってのはあったんですよ。そんなあんちゃん的な横顔を描いたわけです。僕はスーラ論をやってたときは、誰も考えていないことを、自分ひとりで考えてたわけです。いつかアンフォルメルに対して、必ずイマージュ派の復権を果たすんだ、必ずリターン・マッチをするんだ。これからのもうひとつの楽天感みたいなのがあるんじゃないかって模索していたわけですよ。でも、自分で確信が持てない。そういう中で、中原佑介さんに僕があの文章見せたわけだ。「これが岡本信治郎のやりたいことだ」ってパッと見せた。そうしたら彼があの文章を出した。僕としては、援護射撃されたような感じがした。自分でひとりで模索してるところへ、足元へパッと光を当ててもらった感じがして、急に自信が持てるようになった。思えば、あの頃、僕は自分ひとりで「第三主義」なんて言っていたが(笑)、最近、(渋谷区立)松濤美術館光田由里さんが僕の年表を作ってくれて、その中に「第三主義」って書いてあった。

池上:中原さんには、理解されたっていう感じがしたんですね。

岡本:そうそう。まず最初は江原順ですね。それから1週間も経たないうちに中原佑介さんが、「『美術手帖』を通して岡本信治郎論をやりたい」って、うちに来たわけです。

池上:アンデパンダン展を中原さんも見て、もっと見たいっていうふうに思ったんですか。

岡本:たぶんそれで来たんだと思います。

池上:じゃあすごく注目されたんですね。

岡本:あの辺は頭いいからすぐ分かるんだよ。中原祐介もピーンとすぐ分かるんだ。絵描きに話しても分かんない(笑)。中原さんは家に来たとき、ポーカーフェイスみたいな顔して、じーっと人の顔を見てた。その前にも1回会ったことがある、初個展やったとき。そのときは普通の人だったんだよ。岡本信治郎論をやるってことで、美術出版社の編集長と2人で来た。あのときは、なんだか知らないけど、ニコリともしないで、人の顔をガラス玉のような目でじーっと見るんだ。全然感情が出ない。そうすると喋りにくいじゃない。人間ってのは相手の顔を、無意識のうちに判断してしゃべるからね。それで僕は、変だなぁ、こんなんじゃ会話もできないなって。これが評論家の処世法なのか、なんて思ってね。それで変なこと聞くんだ。「なぜ水彩画を描くんですか」って。くだらないこと聞きやがるなぁ、と思って、そのときはすぐ答えなかった。あとで答えたけどね。それで「スーラ論」をパッと出した(笑)。ダーッと読んだ。そしてあれが出たんですよ。それで一躍、僕の「スーラ論」が有名になっちゃうんだ。美術出版も「スーラ論」を『美術手帖』に載せたいって言う。あれは、本当はもっと長かった。第三の新人とかも関わってたの。ところが原稿は枚数が制限されてる。

池上:そうですね、そんなに長くないですよね。

岡本:それで要約して、別に書き直して、全部取っちゃったの。本当は、アラン・レネの『去年マリエンバートで』の庭とかが出てくるんだよ。それを取っちゃって、絵について書いたところだけにしたものを出した。全体を書いてあるやつは失くしちゃった。

池上:それが読みたいですよね。残念。

岡本:そうそう、それがないとね。だから前回のオーラル・ヒストリーでも語ってる。それから、松涛美術館で講演してくれって言われた。あのときに結構語った。

池上:じゃあ記録には残ったってことで。

岡本:別の形でね。研究者が、将来的に見たりするじゃない。

池上:貴重だと思います。

岡本:そういうものは、調べていくとだんだん出てくると思う。最初は非常に実験的なんですよ。この《朝のひととき》(1962年)ってうんこしてんだよ(笑)。《見知らぬ犬の肖像》(1972年)とか。日常的なものを描いてるんだよ。それから、ひとつのテーマを持って描いた《聖風景》。

池上:この《聖風景》って、この《ヴェロニカ》の入ってるシリーズ(1963年)ですけれど、いきなりキリスト教の主題っていうのは意外にも思えるんですけど。

岡本:これは《10人のインディアン》(1962-64年)にも繋がる。僕の言ってる「群的人間の虚無感」とか、人間疎外とか、そういう根底にあるものを意識させようとしたのがこの《聖風景》であり、《10人のインディアン》です。それから、集団の論理。《最後の晩餐》(1963年)には十何人いますね。中世の暗黒時代には、民衆と教会の尖塔、屋根のところに十字架があって、天と地が対話していたわけです。精神の共同体を持ってたわけだね。みんな貧しくて、苦しくて、非常に悲惨な時代なんだけど、彼らは神様という絶対者を持つことによって繋がってたんです。ところが、「神は死んだ」と言って、神は縮小されてくるわけでしょ。完全に死なないで教会はちゃんと残ってるけど。近代ってのはそういうふうに変わってる。

池上:そういうふうに相対化されてるわけですよね。

岡本:そこに人間疎外とか、そういうものの出発点があるわけだ。出発点としての集団の論理の原型として、僕は《聖風景》ってのを持ってきた。その後、《10人のインディアン》。この10人っていうのは最初の集団なんですよ。インディアンってのは「ホホホホ」って言いながら、連帯の叫びを上げる。その連帯の叫びを失っちゃった東京アパッチみたいなものを描こうと思って。≪10人のインディアン≫は一見、生の賛歌に見えるんだよ。非常にカラフルで。だけど本質的にはみんなロボットみたい。人間の内面を全部抜いて、がらんどうにしちゃったみたいな。そういう意味合いで、まず絵画のミュージカルをやろうとした。マザーグース的なね。「テン・リトル・インディアンズ(Ten Little Indians)」 の歌があるでしょう。「ワン・リトル、トゥー・リトル…… 」っていう。アンディ・ウォーホルは引き算の名手だが、公式通りの引き算をやっている。その点、僕はサービス精神が旺盛で、足し算をいっぱいして、答えはアンディ・ウォーホルと同じような引き算にする。足して、足して、足しまくって、結果は全て引き算にする。そういうサービス精神みたいなレトリック。僕は、絵画の中で自分の思想を語るときには芸が必要だと思って、この《10人のインディアン》を描いてる。この文章(「朗らかならざる陽気」、無記名、読売新聞、1965年1月)、誰が書いたか知らないけど、うまいんだよ。これ中原佑介さんが書いたんじゃないかと思ってるんだ。読売新聞かなんかに載ったんです。

池上:これは読売新聞みたいですね。中原さん、読売にも書いてらしたから。読売の記者さんかな、どうでしょう。

岡本:これはどうもね、記者には書けない。

池上:いい文章ですよね。この、野外に絵を持ち出してパレードするアイデアがすごくおもしろいと思ったんですけど、これはどういうアイデアですか。

岡本:この頃は、「パフォーマンス」って言葉がなかったのよね。「ハプニング」って言葉はあった。その最初の頃にやったんです。これは要するに、東京アパッチを銀座の街へ繰り出して行こうと。まずカメラマンと相談して、国立競技場の橋の上に整列した。

池上:撮影は中島興さんですよね。この橋はどこにある橋か覚えてらっしゃいますか。

岡本:この国立競技場のすぐ横。高いとこにあるんですよ。その向かい側にある橋から望遠で撮った。これをやってたらパトカーが2台、ダァーッて来たの。下へ来て止まって。車から降りて、腕を組んで、じーっと見てんだよ。

池上:「何、変なことやってんだ」っていう(笑)。

岡本:その頃、「ハプニング」って言葉が出だしたばかりで、そういうのあんまりなかったから。じーっとしばらく、30分くらい見てたよ。だけどそのうち車乗ってダァーッと行っちゃった。

池上:悪いことしてるわけじゃなさそうだっていう。

岡本:僕らは相手と目を合わせないようにして、「勝手にやろう」って言ってやってたの。悪いことしてるわけじゃないから。

池上:そうですよね。この絵を持ってる人たちはどなたですか。

岡本:それはみんな、あのときの友達やなんか。

池上:この中に岡本さんも入ってらっしゃるんですか。

岡本:僕は指示してる。こうしろとか、ああしろとか。

池上:じゃあ絵は持ってなくて、どこかでディレクションをされてる。

岡本:この中に田島征三なんかが入ってるんだよ(笑)。若い頃の。

池上:銀座から代々木までってちょっと距離がありますけど。

岡本:カメラマンと相談して、あちこちで撮ろうってことにしたの。それで日本橋で撮ったり。

池上:じゃあ一日で済まなかった? 一日で全部回れたんですか。

岡本:ええ。サトウ画廊で個展やるから、その前にまず国立競技場で撮ろうって。それから日本橋で撮って。それから銀座4丁目だね。あそこの真ん中、十字路の真ん中に人間が隠れて、この絵だけで真ん中へ組んでやろうって。でも交番が目の前にあるんだよ(笑)。

池上:ちょっとまずいですね(笑)。

岡本:瞬間的にバリケードみたいなのパァッと築いて、それでパッと撮ってサッと終わりにしようと思ってたんだけど。でもすぐ目の前が交番だからできなかった。そこで歩くだけにした(笑)。

池上:サトウ画廊は銀座にあったんですか。

岡本:銀座のちょっと汚い裏通りにあったんです。本当にちっちゃな画廊ですよね。だけどあれは戦後の日本の代表的な前衛画廊ですよね、1950年代の。絵をそこまで担いで行った。

池上:オープニングが1965年の1月7日で、全部同じ日にやった。

岡本:そう。銀座をみんなで担いで歩いた。正月なので、みんな晴れ着を着たりなんかしてるんだ。銀座4丁目歩いてる写真があるんだよ。

池上:その写真は、今どちらにあるんですか。

岡本:それ今ね、どっか行っちゃったけどあるんですよ。

池上:もし見つかったら拝見したいです。わたしが見ているのはこの2点(陸橋の上で撮影されたものと、国立競技場の前で撮影されたもの)と、松濤美術館で展覧会をされたときのカタログにも違う写真が1点出ていました(「空襲25時」展、松濤美術館、2011年7月9日~9月19日)。

岡本:ちょっと今ね、どっか行っちゃった。

池上:また次回にでも。ここに1964年って書いてあるんですけど(岡本信治郎《笑うパノラマ館》展図録、神奈川県立近代美術館、1998年、27頁)、1965年に入ってからですよね。個展は1965年の1月7日なので……

岡本:確か撮影して、そのままギャラリー行ったと思うんだ。だから1965年だね。

池上:じゃあ作品を制作されたのは1964年で、発表が1965年。

岡本:いや、本当はもっと前に制作している。1962年から。だって描いてる期間があるわけじゃない。

池上:ずいぶん長い間。10点もありますしね。

岡本:そう。一遍にできるわけじゃないんだから。賞を取ったのは1964年ですか。

池上:1964年の12月ですね。

岡本:1964年の12月、そんな遅かったかな。

池上:11月に審査をして……

岡本:あ、そうだ。行ったとき雪が降ってたんだ。それで翌年の1月7日からサトウ画廊で展覧会だから。だからやっぱりあなたの言った通り、絵は1964年にできてるんだけど、これを路上に並べたのは1965年だ。このまま1回で済まして、そのままギャラリーに行ったと思う。

池上:そうですよね。じゃあオープニング・イベントみたいな形ですよね。

岡本:そうそう。だから1965年1月だ。

池上:絵を街に持ち出しちゃうっていうのは、その前の年にタイガー立石さんと中村宏さんが、東京駅の駅前で自分たちの絵を持ってるっていうのがあったんですが。

岡本:それは知らないなぁ。結構いろんなことやってる人がいるんだよ。みんな街頭に出て、変な恰好して、転がって。同じ格好して、動かないでいて。グッと動いたりさ。いろんなグループができたんです。銀座でいろんなハプニングやってたんだよ。

池上:この大きい絵が10枚一気に出てくっていうのはすごく迫力があるし、おもしろいと思って。

岡本:これは要するに、インディアンが勢ぞろいするじゃない。戦いの前に、バーッと出てきて。そこからイメージを。

池上:やっぱり国立競技場は東京のひとつの新しいシンボルみたいに感じておられた?

岡本:これはカメラマンの中島興君の意見があったかもしれない。僕ちょっと覚えてないんだけど。僕が言ったのか、彼があそこへ行こうって言ったのか。

池上:写真にすると印象的な場所を、上手に選ばれてるなって思ったんですけど。

岡本:中島が、「あそこへ行こう」って、言ったのかもしれないね。そのへんはもう覚えてない。それで絵を並べて、僕が演出して。この橋のところへ僕が歩いて行ったりする写真もあるんだよ。橋のこっち側に僕がいるんだ。

池上:それで、この間隔を揃えてとか、そういう指示を。

岡本:そう。離れていて言葉は通じないから、僕は手で「これはこっち」とかやってるんだよ。それと、僕がこの前を歩いてる写真もある。

池上:陸橋に絵を掲げて立つとちょうど人の下半身も写るので、おもしろいですよね。1964年に作品自体はできていて、長岡現代美術館賞の大賞を取られるんですけど、3点を応募してるんですよね?

岡本:あのとき3点だけ出してるんです。

池上:それはたくさん送れないってことですか。3点までとか決まってるんですか。

岡本:制限があったんだよ、確か。それで3点までにしたんだと思います。

池上:それでこれを選んで。それはこの3点が特に自信作だから?

岡本:自分でそう思ったんでしょうね。きっとこれ全部できてたと思うんだ。特にこれがメインで、気に入ってたんだよ(注:黄色い背景に横から見たインディアンの姿を描いたもの)。あと、これとこれと(注:青い背景に腕組みをしたインディアンと、薄黄色の背景に描かれたもの)。迫力あるなぁと思ってこれ出したんだ。

池上:今回ウォーカー(・アート・センター)の展覧会でお出しするのは、メインとおっしゃった黄色い背景のものと、青い背景のものです。

岡本:そうですか。本当は10枚並べたいね。

池上:全部並んだところ見たいなぁと思ってるんですけど。

岡本:その写真もどこかにあるんだけどね。実は、何年か前に、「長岡現代美術館賞回顧展 1964–1968」ていうのがあったんです(注:新潟県立近代美術館、2002年)。そのとき僕のインディアンが並んだのね。それで、全部並べると格好いいんだよ。一般の人が入場して、そこで一番自分の気に入った作品に札かなんか……

池上:投票するっていう。

岡本:投票。それで感想の言葉を書くの。するとインディアンがすごく人気があって。僕のとこだけこんな山になってるの(笑)。それで、「インディアンに見えるから不思議」とか、いろんなことが書いてあるんだよ。あれは今から10年くらい前ですから、受賞からだいぶ経ってからやったんだけども。

池上:すごく迫力があったでしょうね。これはひとつひとつ、すごく複雑な図像だと思うんですけど、図像を先に決めて、後でそれに従って描いてくっていうやり方ですよね。

岡本:僕はだいたいそういう描き方する。みんな下図があって、それをもとに作った。格子状の線を引いて、復元してやっていく。その点は一貫しています。

池上:じゃあ最初のデッサンというか、スケッチで決まってるというか。あまり描いてる途中で変更はしない。

岡本:それやったときは大抵失敗する(笑)。頭と実際と違っちゃったりする。あるんですよ、ときどき。それで「あぁ、困った、困った」って言い出して、「あぁ、駄目だ」って。なるべくなら、僕の場合は、画面で歩きながら「おいらのとこ、どこだんべ」みたいに探し回って描くんじゃなくって、ある程度バチッと決める必要があるんです。

池上:だから油絵じゃないほうがむしろいいっていうことなんですよね。

岡本:そうそう。やっぱり性格的に…… 僕はもうひとつの日曜画家みたいなもんですからね。凸版印刷社でディレクターやってたでしょ。すると時間がない。あの当時は土曜日は半ドンですから、日曜日しかないわけです。そうすると、必然的にあまり油絵でこねくり回して描くようなことはできない。そういう理由で水彩画でやっていこうって。最初はリキテックスないから水彩で描いてた。

池上:そこもお聞きしたくて。水彩絵の具を使われているときと、アクリル絵の具を水で溶いているときとあるんですよね。

岡本:最初はアクリルがなかったんです。それで水彩用のカンバスに描いてたんです。

池上:この1964年の《10人のインディアン》は水彩ですよね。

岡本:あれは水彩画。ぺんてるですよ。

池上:きれいに色が残ってますよね。

岡本:あのぺんてるはすごいと思ってる。僕の初期の《虹》(1957年)。あれね、小学校のぺんてる使って、ケント紙に描いてるんですよ。ところが絵具が全然変色していない。もう50年以上経っているんですよ。全然変色しない。あれすごいね。

池上:すごくきれい。すごいですよね。最初はぺんてるの水彩で、リキテックスなんかのアクリルが出てきてからは、それを水で溶いて。アクリルのほうが扱いやすかったんでしょうか。

岡本:結局同じですよ。ただ便利になったけどね。確かあのとき、水彩画用のカンバスがあったんだよ。油性のカンバスじゃないやつを使ってるはずなんだ。

池上:そうですよね、油性用のだとちょっと乗りにくかったり。

岡本:弾いちゃうから。地塗りのジェッソなんてまだなかったからね。だからきっと水彩画用のカンバスが出てたんだと思う。だからあの絵は素材としては悪いかもしれない。

池上:でも全部きれいに残ってますよね。水彩の方が薄く塗れて、早く乾くので、どんどん重ねていくっていう。

岡本:これもリキテックスと同じで、水彩と同じ。わりとスッスッと乾いていきますから。

池上:工程を積み重ねていくっていう感じなんですよね。「版画に似てますね」って山口(啓介)さんも前におっしゃってたんですけど。

岡本:そうそう。例えばこういう絵(注:近作で直線を多用した絵の図版を指して)があるでしょ。すごくスピード感があるじゃない。線がピッピッって。本当はスピードないんだよ。下書きのときにピッピッって描いてあるわけね。それをその通り再現する。拡大して。だからゆっくりゆっくり描く(笑)。

池上:だけど仕上がりはスピーディーに見えるという。

岡本:だから光田由里さんがね、「よくこんなスピード感持って絵描けますね」って言うから、「あなたね、書道家だってパパッと1枚書くんじゃないんだよ。何十枚と書いて、その中から選ぶんだよ。カンバスでこんな大きいのヘイヘイッと描いて、選んでいられますか」と。「これは最初に綿密に計算されて描いてあるものを、その通りにゆっくりゆっくり、さもスピード感があるように描くんです。そうしなきゃどこ行っちゃうか分かんないじゃないですか」ってね。「カンバスで一発で決めるような、超名人的なことはできない。むしろそうじゃないのが僕の絵なんだ」。そういうような話をして笑ったことがある。

池上:ちょっと戻りますと、当時の《10人のインディアン》の展覧会は長岡現代美術館大賞を受賞されて、結構大きなニュースだったと思うんですが。

岡本:賞金100万円ってことになっちゃったからね(笑)。

池上:そうですよね。本当にすごい大金で。みなさんからどういう反応がありましたか。

岡本:絵描きはもう羨ましがってさ。みんな金が払えないやつばっかりだから(笑)。

池上:みなさん苦労されてますから。

岡本:サトウ画廊系の絵描きたちがみんなぞろぞろやってきて、岡本信治郎におごらせるんだ。新宿のカニ屋へ行って、みんなでカニばっかし、嫌ってほど食ったね。全部僕の支払いでね。無理やりみんなに連れて行かれて。

池上:批評家の方からの評価というか、そういうものは。

岡本:なにしろ誰も長岡で僕が取るとは思わなかったんですよ。宮城(輝男)さんとか、年配者がいますね。藤松博とか。僕はあのへんが取ると思ったんです。競馬じゃないけれど、岡本信治郎が取ったってのは大穴なんだよね。誰も想定してなかった。

池上:まだすごく若手でいらしたわけだし。

岡本:そうそう。僕自身も結構クールに考えていた。そしたら電報が来たんですよ。それで衝撃が大きかったんだ。一般も、新聞社なんかでも。

池上:記念すべき第1回ですし。

岡本:公開審査だし。「評論家が岡本信治郎を選び出したってことに敬意を表する。岡本信治郎を選んだことにこの賞の意味がある」なーんて、新聞に書いてあった。なんとなく、やっぱり古い人たちが取るような雰囲気があったと思いますよ。それが岡本信治郎が取ったって。「だから逆にこの賞の価値が非常に上がった」と書いてあった。

池上:ちゃんと公正に審査してますよと。応募するのは、どなたかの推薦でするんですか。

岡本:芥川賞と同じで推薦です。何人かが推薦したらしいけど、誰が推薦したのか僕は知らない。

池上:「出しませんか」って話が出て、じゃあって言ってあの3点を選んで。

岡本:そうそう。あの企画を長岡の大光相互銀行の……

池上:駒形十吉さんですよね。

岡本:駒形さんは性格の激しい人だから、みんなに賞を与えるのが嫌なんだ。一人だけドンッと与えて。そういうことだったらしい。何しろ100万円って大きいじゃない。今の1000万くらいだろうね。僕が家を作るときに費用の足しになった。鎌倉の極楽寺の山の中に27坪のちゃんとした家を作ったんですよ。あのときにこのお金が役に立った。

池上:そこでお勤めを辞めて、絵描き一本でいこうというふうにはならなかったんですか。

岡本:それはだめだよ。だって絵で食えるってことはないんだから。

池上:他の方たちは、それでもお勤めしない方もいらっしゃいますよね。

岡本:山口(啓介)みたいに、貧乏して大変だけど、全然働かないでやってる人もいるんだよ。働かないことに意味があるみたいに彼は思ってるらしいんだけどね(笑)。僕らはやっぱり、戦争中、非常に辛い思いしたわけでしょ。これは日本国民全部がしたわけだ。戦後の混乱期の中で大就職難時代があって、職を選ぶなんてことはできないわけだ。とにかく入んなきゃいけない。そういう形で入ってやってきたわけでしょ。だから絵を描くってことは、自分の中ではもうひとつのアマチュアみたいなところがあるわけです。二本立てだね。

池上:お勤めはそんな簡単に捨てられるもんじゃないと。

岡本:やっぱりこれはこれ、それはそれと。それでやんなきゃいけない。凸版印刷は、勤続25年目で永年勤続者として表彰されるんですよ。その前の年に池田20世紀美術館で、僕は「25年の歩み」っていう回顧展やってる(「岡本信治郎の世界・25年の歩み」展、1979年3月1日~5月31日)。僕らは戦後派になっちゃうんだね。本当は戦後派とは言えないんだけど、戦後派第一号みたいになるのかな。それが回顧展やったっていうんで、珍しがって朝日ジャーナルなんかが取り上げた。僕は現実の原則として、ちゃんと凸版印刷でサラリーマンとして25年やって、一方は絵の世界、フィクションの世界でもう25年やった。2つの世界を生きた男として、ここはひとつのけじめだろうと考えました。それで今度は家内が商売やるって言うんです。周りが、「岡本信治郎をいつまで働かせてるんだよ」っていうようなことを言うんだよ。「あいつかわいそうじゃないか」とか言うわけ。いつまで経ってもサラリーマンやってて。家内もちょっとそういうの気にしてたんじゃないかな。それで、うまくいくかどうか分からないが、鎌倉で骨董屋やろうってことになった。僕は会社を辞めて、選手交代でって。それで会社に辞表を書いたんですよ。そしたら重役が、「なんで辞めちゃうんだ。不満があるのか」って。「いやぁ、不満じゃなくて。両方の世界で25年やったから、これをひとつの節だと思って辞めることにしました」って。「お前そんな格好いいこと言って、本当に後の生活できるのか。大丈夫なのか」、「それはちょっと分からない」。そうしたら、「2つの世界で生きたなんて格好いいこと言ってないで。あと1年はいろ」と。「それでもどうしても辞めたいって言うんだったら、もうそのときは止めないから。ともかく、商売がうまくいくかどうか分からんじゃないか」。

池上:現実的ですね、まさに(笑)。

岡本:専務にこんこんと言われて、「どうもありがとうございます。僕は凸版で大人になったみたいなもんだから、そこまで言ってもらえるんだったらもう1年頑張って、その上で結論を出します」って。それで26年目で退職しました。我々の世代にとっては、戦後の混乱期の中、職を得るってことは大変なことだったんだよ。もともと絵は売れないんだから。そんなことは考えなかった。

池上:凸版印刷には1956年にデザイナーとして入られたっていうふうに読んだんですけど。

岡本:その前に4年、中小企業にいたんです。僕は大学行かなかった。本当なら、昔の受験校に行ってたから大学に行くんですよ。僕は長男でしょ、妹が2人いて。親父が材木屋だったんだが、戦争でだめになって。それまでは結構小金持ってたみたいなんだけど、全部使い果たして商売もできなくなった。あの頃、親父が変な小さな会社へ通って、戦後の混乱期の中でひとりで苦労しているわけです。僕は子供としても、のほほんと大学なんて行ってられないと思って。それでやめちゃったんだ。うちはもともと商人で、大学がどうのこうのって大騒ぎする家じゃない。でも、親父が「そんなこと言っていいのか。これからの世の中は大学くらい行っとかないとまずいんじゃないか。俺が意気地がないんで、お前にも苦労をかけて、すまねぇ」なんて言ってるんだよ。だけど、顔を見ると、ちっともすまなそうじゃない。もう嬉しそうな顔してるんだ(笑)。

池上;就職してくれる方がありがたいと(笑)。

岡本:しめしめと思ってるのが顔に書いてあるんです。それで社会に出ちゃった。中くらいの印刷会社に4年いて、その後、凸版印刷に専門職として入りました。

池上:デザイナーとしてのお仕事ってのはどういうものだったんですか、具体的には。

岡本:カレンダーだとか、カタログとか、一般の印刷物が主体です。

池上:その後アートディレクターになられる?

岡本:だいたいディレクションが多くて、それで外のデザイナーを使って自分がディレクターとしてやるってことがだんだん多くなった。

池上:じゃあデザイナーさんに指示をする側になられた。

岡本:スポンサーの要望を聞いて、こういうふうにやろうとか考える。仕事を何本も抱えて。多いときはもう大変ですよ。十何本。1000ページくらいの本とか、写真集もあれば、いろんなものがある。だから皿回しみたいに、同時にいっぱいやるんです(笑)。

池上:そういうデザインとかディレクションの仕事と絵画制作は、関連は全然ない?

岡本:全然ない。そこは割り切らないと。現実の原則として、現実に密着した仕事があるわけでしょ。それに対してフィクションの世界。片方は生産性向上とか、要するに足し算の世界しかないんだ。政治と同じだよ。ところがもう片方の頭の中には、死のマイナスのイメージとかがある。僕は二重性なんだよ。僕は絵の方では結構名前が出てたけど、外から見ると、「あいつ何考えてるんだろう」って分かんないところがあるわけです。「岡本さんって勝海舟みたいだね。組織を逆手に取ってるんだね」なんてよく言われました。二重性っていうか、体を売っても心を売らないみたいなところがあるわけ。普通の人は現実一本でいくんだよ。それで円軌道を描いてるんだよ。でも僕は両方の世界を押さえて、楕円軌道を描いてるんです。会社行くと真面目な社員なんだけど。やっぱりそういうものは臭うんでしょうね(笑)。

池上:「なんかわけ分かんないこともやってる」っていう。

岡本:なんとなくそういう要素は感じるんじゃないですか。上役の人から言われたよ。「凸版で分かんない人間が3人いる。岡本さんはその中の一人だ」って(笑)。「僕は上杉謙信みたいにを策を弄さないで、ちゃんとやってます」って。「いやぁ、そんなことはない」って。「馬鹿なんだか利口なんだか、君はよく分からない」(笑)。僕はずーっと二股でやっていた。会社でもちゃんとやってるわけです。周りの人間はそのつもりで見てるけど、大会社だから、部署が離れてる人は直接交渉持たないでしょ。あいつ絵を描いてるやつだってことは知ってる。それで、多少崩れた人間に見えるんでしょうね。

池上:それこそ長岡で賞取られたときは、会社の方たちもびっくりというか。

岡本:結構大きなニュースになったけど、絵の内容については全然分かんないわけだから。それからアメリカへ僕がフェローシップで招待された。突然呼ばれたんだけど、個人的なものだから、僕は休職願いを出したんです。そうしたら重役会にかけられて。向こうから呼ばれて行くんだから、凸版としてもただの休職ってわけにもいかんだろうと。それで給料の6割をくれたんです。

池上:理解がありますね。すばらしい。

岡本:凸版ってそういうとこあったんです。わりとおっとりしてるとこがあった。だんだん、僕が辞める前に厳しくなったけど。

池上:会社としても名誉なことですからね。社員の人がそんなすごい奨学金をもらって。

岡本:そう言ってくれた。社長のとこにお礼の挨拶行ったときに、ちょうど重役会やってて、そこでみんなに「どうも、今回は大変お世話になります。半年間行ってきます」って。「名誉なことなんだから、頑張りたまえ」と言われて行ったんです。僕は凸版に22歳で入った。その前の4年間が中小企業だったから、ちょうど大学行ってるのと同じ。

池上:新卒で入ったような感じですね。

岡本:そうそう、新卒で入ったのと同じ。当時の給料は新卒で1万円だった。せいぜい、部長クラスでも3万円くらいしか取れない時代だった。僕はデザインの専門職で入って9,000円だった。ちょっと安かった。内定したのはなぜかって言うと、僕の絵が時々、雑誌なんかに載るんだよね。凸版で印刷したものの中に出てくる。そういうのが面接の資料になる。そういうことで凸版に入ることができた。最終の面接官が重役なんだけど、営業の本部長。内定して、もう一回その人と確認のための面接があった。そのときに僕は、「ひとつお願いがあります」って言った。「私はまだ22歳で若いから、そんなに経験はありません。しかし絵についてはそれなりの自信はある。ところがデザインは、正直言うと全くゼロです。だからこれから勉強しなければなりません。即実践力として、僕はお役に立てるかどうか分かりません」って。それが逆に良かったんだね。好意的に受け取ったんだ、きっと。ニコッと笑って、「岡本君、そんな心配は一切無用だ。凸版印刷は今、あなたを安い給料で雇ったんだ。だからすぐに役に立つことがあるなんて、これっぽっちも思っていません」って。「将来的に凸版のためになってくれればいいんだ。だからこれから2年間、何もしなくていい!」(笑)。

池上:「役に立たなくていい」(笑)。

岡本:「何もしなくていい! 遊んでてくれ!」(笑)。

池上:うわぁー、いい会社ですね。

岡本:太っ腹な人だった。「何もしなくていい。遊んでてくれ。私たち文句言いませんから。将来の凸版の役に立つ人間になってくれれば結構。だからそんな心配なんて全然しなくていい」なんて言われたの。「ありがとうございます」って言ってね。

池上:いい時代だなぁ(笑)。

岡本:最初は坊ちゃん社員みたいで、のんびりしてた。僕は中小企業でものすごく働いていたんです。印刷の進行係みたいな仕事やっていたわけ。請求書書いて、配って、集金にも行ってるしね。見積もりをしたり、校正ゲラ持ってったりね。現場と事務を中心に、朝から晩まで働いていた。大企業入って、急に楽になっちゃった(笑)。

池上:でもいい会社ですね。

岡本:だんだん厳しくなりましたよ、途中からは。

池上:やっぱり経験に応じて責任もあるし。

岡本:銀座4丁目に凸版のアイデアセンターってのがあった。まだ人数はそんなに多くなかった。30名くらいでした。だんだん300名くらいになっちゃうんだけど。最初は銀座4丁目のビル一つ借りて、そこにいたんですよ。近くに映画館があるんです。それでディレクターなのに仕事サボって映画を観に行ったら、休憩時間、重役に会っちゃった(笑)。向こうもギョッとしてるの。

池上:重役もサボってたんですね(笑)。

岡本:マリリン・モンローの映画を観ました。重役もサボってたんだな。僕もギョッとしたよ。そうしたら彼が、「ちょっと、打ち合わせの会議が空いちゃったもんだからね」って。

池上:言い訳を(笑)。

岡本:「君がいつも一生懸命くるくる働いてるのは、僕は外から見てよく知っている。人間働くだけが能じゃない。今日は仕事のことは忘れて、二人で映画を観よう」って、それで並んで映画を観ました(笑)。そんなことがあった。

池上:今、マリリン・モンローのお話がちょっとだけ出たので、この《女優の死》っていう1963年の絵がありますが……

岡本:これもがらんどうのイメージの延長ですね。

池上:横になっていて、3つ繋がってるのがすごく珍しいと思ったんですけど、これはモンローの死に対する応答というか。

岡本:そうそう。

池上:やっぱり当時モンローはお好きでしたか。

岡本:いや、好き嫌いの問題じゃなくて、あれはひとつの……

池上:やっぱりアイコンというか。

岡本:シンボルというか、ひとつの形じゃない。それを僕の《陛下のりんかく》じゃないけど、やっぱり中身が漏れちゃったように描いた。

池上:他の方はモンローの魅力とか、魅惑的なところを描きますけど、これは本当に空っぽになったマリリンですよね。

岡本:そうそう、空っぽな。

池上:あとアメリカに行かれる前に、「New Japanese Painting and Sculpture」(1965–67年にアメリカを巡回)っていうニューヨークのMoMAがやった、アメリカを巡回した展覧会に作品を出品されてるんですけど。

岡本:アメリカで日本の現代美術の巡回展があった。

池上:そうです。それにこの《A Western Dog(西方の犬)》(1964年)と、あと……

岡本:《インディアン》です。

池上:《インディアン》のうち一点(《Ninth Little Indian》、1964年)と、《The Big Laugh(爆笑風景)》(1963年)を出されてるみたいなんですけど。

岡本:これはね、向こうの美術館の人に、縮めて描いてくれって言われたの。それで縮めて≪インディアン≫を描いた。「君の絵は大きくても小さくても同じだから」って言うの。

池上:そのコメントはどうなんでしょうか(笑)。リーバーマン(William Lieberman)という、日本に調査に来た学芸員ですよね。

岡本:そう、リーバーマンさんに言われたの。あの人は、「必ずしも大きくなきゃいけないっていう必然性はないわけだ。縮めてください」って言うわけ。だけど僕は言ったのね。「確かにそうかもしれない。だけど縮める必然性もないじゃないか」と。そしたら向こうはちょっと頭を抱えてね、「本音で言えば予算の都合で」……

池上:あんまり大きいと持って行きづらいと。

岡本:だから縮めたいんだって。それで縮めて描いた。あれは向こうで売れちゃいました。

池上:展覧会のために、別バージョンとして描かれたんですね。

岡本:そう、だから同じ絵柄で描いてる。もうひとつの《インディアン》なんか、これはロックフェラーの奥さんか誰かが買ったって言ってましたよ。

池上:じゃあ何点か描いて出されたんですか。

岡本:ええ。5点くらい出したんじゃないかな、確か。もう覚えてないけど、そのくらい出してるんですよ。

池上:「New Japanese Painting and Sculpture」展の図録を見ると、《A Western Dog》はジョージ・モンゴメリー(George Montgomery)のコレクションですし、この《Ninth Little Indian》も《The Big Laugh》も、アメリカのコレクションに入ってるんですよね。

岡本:よく調べたね。

池上:はい(笑)。《A Western Dog》と《The Big Laugh》もやっぱり描きなおした別バージョンで?

岡本:《The Big Laugh》はそのまま行ったと思うんだ。これは100号の大きさで行ったと思う。

池上:オリジナルのものですか。

岡本:そう。この絵は自分で好きだったんで、縮めて同じようなのを描いて、それをアトリエの玄関に飾ってあります。これは原寸で行ったと思います。《インディアン》は縮めた記憶があるの。この絵は自分で気に入ってたの。この笑ってる、爆笑してるのね。

池上:《The Big Laugh(爆笑風景)》という。これは今、アメリカのどこにあるんでしょうね。

岡本:分かんないんだ、僕は。

池上:このカタログでは、テキサスの個人コレクションに入ったと書いてあるんですけど。今、どうなってるか知りたいですよね。

岡本:こういうのは僕らにはちょっと追跡できない。僕が死んだ後ね、仮に僕がなんかの形で残れば、自然に浮かび上がってくるかもしれない。

池上:個人コレクションに入って、その後別のところに行っちゃうともう、なかなか分かりにくいですよね。

岡本:全然分かんない。でもこれは、だいぶ後になってから、縮小して描いたのがあって、それはアトリエの入り口にあります。自分のものとして、気に入ってるから、残したかったから描いたんですよ。

池上:そうか、新しく描かれたっていうのは初めて知りました。図柄が先に決まっているので、ある意味同じものを作るのは、できるわけですよね。

岡本:そうそう。そういうのはずいぶんありますよ。そういうのはあんまりよくないって人もいるんだけど、僕の中ではあんまり。版画と同じでね。肉筆で描いてるだけで、あんまりそういう厳密な意識はなかったのね。

池上:MoMAの展示のとき、出品したものが売れましたよっていう知らせは?

岡本:連絡が来て、当然お金もらいました。もう昔の話だけどね。アメリカへ行ったのはもう全部売れちゃったね。僕が持って行ったのは。

池上:日本で発表した他の作品は全く売れなかったですか。それともちょこちょこは売れましたか。

岡本:ほとんど売れないね。10年に1点くらいは売れてたかもしれないけど。あとは版画みたいなの売ってたかもしれない。だけどほとんど売れない。だからいっぱい自分で持ってます。

池上:1950年代の重要な作品も、そこにありましたもんね。

岡本:今は倉庫も借りてるんだけど、入らなくて困ってる。だからみんなに脅かされてるんだよ。「死んだらどうするの。税務署が来て、困っちゃうよ?」って。

池上:そうですね、時価の評価額っていうのがあって、売れてないものにもその額が適用されるんで、かなり大変だとか。

岡本:例えば1枚売れて、その値段で全部換算したら何十億になっちゃう。そんなことできないよね。谷川晃一君に聞いたら、自分の会社の在庫にしてあるんだって。「だから俺、死んでも平気だよ」って。

池上:賢いんですね(笑)。

岡本:彼の絵描きの奥さんは亡くなったけれど、全然問題なかったよって言ってた。やっぱりそのへん考えないと。ちゃんと弁護士と相談して決めていかないと駄目かもね。世田谷美術館の館長の酒井忠康さんにも、前に会ったら、「岡本さん、絵どうするの」なんて言われた。「岡本さんはいっぱい持ってるんだ。これは絵描きとしては強みだ!」って。褒められてるんだかなんだか分からなかった(笑)。

池上:まとまって残っているのは、いいことではあります。

岡本:それは鎌倉で回顧展やってるときに言われたの。「だけど、これであなた死んだらどうするの」って。「どうするのって言われたって売れないんだから」。「売れなくたって、税務署は来るんだよ」って。

池上:うーん、あれは厄介ですねぇ。

岡本:そろそろ対策を考えないといけないんだよ。下手にサザビーズかなんかに出品して、売れたりすると、その値段で計算されて、大変なことになるらしい。だけど事実上、売れてないじゃない。

池上:難しいとこですね。たくさん作品を展示されたってことでいうと、1966年に東京画廊で「虫世界」っていうのをやってらっしゃるんですけど。あれでまた図像っていうか、絵柄が一気に変わったというふうにお見受けしたんですが。

岡本:いやいや、変わんない。あれはあの延長上です。≪インディアン≫の10人が、今度は虫の大群になっただけ。

池上:そういうことですか。

岡本:そういうことです。「虫世界」はその後、再制作して。つまり小さくして。120号で書いたのを、みんな50号くらいにして描きました。

池上:その1966年に作られたものは……

岡本:なんだかんだ言ってみんな売れちゃった。東京画廊でアメリカなんかに売った。

池上:やっぱり国外に売れるんですね。

岡本:アメリカへ出すと売れるね。あんまり出す機会がないけど。

池上:じゃあそこもやっぱり個人に売ったっていうことで、今どこにあるかは分からない?

岡本:分からない。結局ほとんどなくなっちゃってるんだよね。これは、鎌倉でやったときにはないから、みんな再制作してやったんです。

池上:じゃあこの当時の写真は貴重ですね、すごく。大型のカンバスがいっぱい。なんか虫かごみたいなものもあって。(注:「岡本信治郎の世界 東京少年」展図録、新潟市美術館、1988年、128頁。)

岡本:それね、かごじゃなくて平面なの。裏表へ描いてあって、ぶらさがってるの。

池上:あ、そうなんですか。うまい。騙されちゃいました、今。

岡本:箱みたいに見えるでしょ。平面なんです。変形の、シェイプド・カンヴァスになって。

池上:ちょっとトリッキーな。

岡本:風の具合でスーッと回るんです。こんなでかいのがぶら下がってる。

池上:《インディアン》のときも「テン・リトル・インディアンズ」の童謡を会場に流したそうですが。

岡本:あのときは、西部劇の「皆殺しの歌」とか、いろんなものを朝から晩までガンガン(笑)。3週間くらいか、毎日毎日ね。

池上:それこそ狂気みたいな感じですね(笑)。

岡本:すごく合うんだよ。

池上:音も流すっていうのは結構新しいアイデアだと思うんですけど。

岡本:あのときは海外のミュージカルっていう考えなので。

池上:あぁ、そうですか。もともと西部劇のインディアン映画みたいものも頭にあって、ミュージカルっていうもうひとつのジャンルが。

岡本:それで「テン・リトル・インディアンズ」の曲を主体に流しました。

池上:結構、総合的な演出ですね。

岡本:「虫世界」のときは、武満徹さんが音を作ったんです。

池上:そうなんだ。それを流したんですか?

岡本:これはよかった。それがね、東京画廊が失くしちゃったんだよ。

池上:それ聞きたいですよね。もったいない。

岡本:それで探してもらったんだけど、見つからない。昔のオープン・リールでね、虫が飛んでるみたいなワーンって音を擬音で作ってるわけですよ。その中でメロディが低音で流れてる。ときどき音がビュンッて飛ぶんです。

池上:虫が飛んでるみたいな。

岡本:この絵葉書を全部、部屋中に貼ったんです。きれいだよ、壁面が白いから。3年くらい前、東京画廊が僕に個展をやってくれと言う。「それなら、武満さんの虫の音を探してください」。見つかれば武満さんの新発見ということになる。そこで僕は、「虫世界」の絵画的編曲として新しく下絵を作ってみた。東京画廊の田畑(幸人)さんが、「これは面白い!やりましょう、やりましょう」と言うのだが、肝心要の音源が見つからない。結局見つからないまま、この話は立ち消えになりました。

池上:それは残念。

岡本:失くしちゃったんだよ。僕も迂闊だった。昔のは、こんな大きいんだよね。だから東京画廊にあるつもりだったんだけど、失くなっちゃった。どっか探せばあると思うんだ。武満さんの虫の曲、良かったですよ、とても。

池上:聴いてみたいです。その後、先ほどおっしゃっていたジャパン・ソサエティのニューヨークに招聘で。これもどなたかの推薦ですよね?

岡本:これはね、誰が推薦してるのか知らないんだ。

池上:自分で応募するシステムじゃなかったと思うんで、やっぱりどなたかが何か言ってるはずですね。

岡本:リーバーマン氏が日本に来て、日本の作家を探してた。それでちょうど≪インディアン≫を発表するときだったから。それで名前が、向こうが選んだ候補者の中に残ったんだと思うんですよ。それで途中で一回面接があったんです。

池上:どちらまで面接行かれたんですか。

岡本:ホテル・オークラかなんかでね。向こうから何人か来てたんですよ、選んだ人たち。それでアメリカに興味があるかとか、いろんなこと質問されて。それっきりまた何も言ってこなかった。

池上:面接はいつだったんですか。

岡本:行く1年くらい前かな。ちょっと覚えてないんだけどね。とにかく長い間、何も言ってこなかった。そのとき僕は、別にアメリカに行きたいと思ってなかった。だけど向こうがお金出して、それで全部やってくれるわけでしょ。200万くらいでしょうね、一人あたり。それくらいの費用で半年間ね。

池上:岡本さんが行かれたのは1968年?

岡本:1968年。ちょうど僕が行ったときは、キング牧師とロバート・ケネディが殺されて、アンディ・ウォーホルが撃たれて、もう大変な時代だった。暴動はあったし。

池上:大変な時代ですよね。だいたい何月から何月くらいまでですか。

岡本:季節的に言うと、1月かそこらに行ったんじゃないかな。

池上:じゃあ冬に行って、暑くなってきた頃に帰った。

岡本:そう、夏に帰ってきた。7月に帰った。アメリカに5か月いて、帰りに1か月、ヨーロッパを周って帰ってきた。

池上:そのとき日本の方で、同じ時期にニューヨークにいた方っていらっしゃいましたか。

岡本:あのときいたのは、川島猛君。未だにずっといるでしょ。それから磯部行久君もいたな。あと近藤竜男君とか、いろいろいましたよ。何人か会いました。

池上:特に仲良くされている作家のお知り合いとかお友達って、アメリカ、日本に限らずいらっしゃいますか。

岡本:当時は、絵描きはね…… いろんなやついたけど。

池上:特にグループに属されている感じではないですよね、岡本さん。

岡本:若いときに「制作会議」ってグループ作って(1956年)やってたけどね。そういう連中とずっと付き合ってたけど。あとはわりとクールに普通に付き合ってたよ。絵描き同士で付き合ってたけど、親友っていうのはあんまりいないんだね。むしろそうじゃない、他のジャンルの親友が何人かいたんだけど、みんな死んじゃった。

池上:じゃあ渡米時は、川島さんや磯辺さんにお会いになったりして。

岡本:あのときはいろんな人に会ったなぁ。イサム・ノグチ氏や猪熊弦一郎さん。それから川端実とか。いろいろ会ってますよ。

池上:アメリカ人の作家っていうのはお会いになった経験は?

岡本:アメリカ人はスタインバーグ。

池上:サウル・スタインバーグ(Saul Steinberg)。

岡本:ジャパン・ソサエティの人が、「アメリカの作家で興味ある人いますか?」。だから「僕はスタインバーグが好きです」って。「あぁ、スタインバーグは、僕はよく知ってます。じゃあ案内しましょう」と言って、彼のアパートへ行って、1回会った。

池上:どんな方でしたか。

岡本:結構気難しい人なんだ。でもおもしろいこと言うんだよね。自分の絵持ってきてね。真ん中へ四角いごちゃごちゃしたものが描いてある。きれいなんだけど、何が描いてあるかわかんないようなごちゃごちゃが描いてある。それで説明してくれたんだよ。「僕の人生ってのは、いつもここからこっちへ向かって走っている一本の線だ。ところがここまで来たら、この先にトラブルがあるってことが分かった。このごちゃごちゃしてるのはトラブルなんだ」(笑)。ごちゃごちゃ描いてある、線画でね。だけど、きれいなんだよ。そしてここが、そのトラブルがあったところ。「僕は嫌だから、ここから天に向かって昇って逃げていく。ここの上から、こう右に曲がって、こう来て、ここをこう降りて来たんだ」と。「それで僕はそのトラブルを避けることができたんだ」なんて言うわけ(笑)。

池上:おもしろいですね(笑)。

岡本:おもしろいんだよね。それからクマの人形があった。素朴な、手作りみたいな人形なんだ。ゼンマイを巻いて、置くと、結構複雑な動きするんです。彼がこうやってて、「エーイッ!」とかなんとか言うと、ちょうどそのときにピタッと止まるんだよ。それから、「オカモト」が「アカモト」みたいになっちゃう。

池上:発音がしにくいんですね。

岡本:そう。しにくいのかな。それで、「オッケーマンと記憶しよう」なんて言ってたよ。

池上: OとKで(笑)。

岡本:それで僕はこの《制服のスフィンクス スタインベルグの肖像》(1974年)ってのを描くんです。

池上:あれについて聞きたいと思って。

岡本:これは初め、向こうで1968年にF60号くらいに描いて、アメリカで売っちゃったんだけど。その後150号でまた描いて、今は東京都の竹橋の近代美術館(東京国立近代美術館)に入ってる。

池上:今、展示されていますよ。このあいだ行ったら立派に飾られていて。

岡本:彼が言ったんですよ、「日本に行って中学生の服買った」とかね。彼は画面に文字をびっしり描くでしょう。「これはどういう意味ですか」って聞いたら、「これは全部でたらめだ」って(笑)。要するにこれは探訪記だな。「日本に行って中学生の服買った」って言うんで、それで《制服のスフィンクス》って題にしたんです。彼はニューヨークとパリと、それからどこか知らないが自分の田舎、うちが3つあるのね。1年間にあっち行ったりこっち行ったりしてるわけ。ちょうど夏場、7月頃かな。僕が帰る間際になって、スタインバーグのとこに電話かけたんですよ。

池上:もう帰るから。

岡本:そう、「帰る前にあなたの肖像描きました。見に来てください」って言った。そしたら、「じゃあ行こうか」って言ってたの。だけど彼がヨーロッパに行っちゃったのかな、結局会えなかった。後で僕は『ベティ・ブープの国』(1974年)って版画集のこんな大きいの作ったの。そのときに1箱、彼に送ったんですよ。

池上:喜ばれたでしょうね。

岡本:「君はおもしろい絵を描く」とか言ってたよ。東京画廊の番頭さんがヨーロッパでスタインバーグに会ったら、「岡本は元気か」って言ってたって。その後亡くなっちゃったけど。結構気難しそうな人だよ。ここにその当時の写真が1枚だけあるんです。

(しばらく写真を探す)

池上:また見つかったときに拝見しに来ます。次に、さっきもお話に出たベティ・ブープのシリーズをたくさん描かれるんですけど、これはやっぱりアメリカでの体験が……

岡本:アメリカの旅行記ですね。最初、行く前に《ポパイの手》(1968年)ってのを描くわけです。それで、馬場彬君が変な題をつけて、吉仲太造なんかと「環境ゲーム審議会」(松村画廊、1968年)っていう展覧会やった。マクルーハン理論とかあんな頃でね。僕は《ポパイの手》っていう、ポパイの手にエロティシズムを感じさせるような絵を描いたんです。

池上:ここにちょっと出てますね。

岡本:それを出品して、アメリカへ行っちゃった。呼ばれて行ったんだけど、別に僕は本当は行きたくなかったでしょ(笑)。しょうがないから行ったわけだよね。せっかくお金出してくれるんだ。やめちゃうのはもったいない。極端なこと言うと、なにしろ言葉は片言で、インディアンみたいなものでしょ。「ワタシ、コレ、ホシイ」とか、「アナタ、ソレ、コノムカ?」とか、そんなような言葉しかできないんだから。あの頃は羽田から飛ぶんだよね。それでパンナム(パンアメリカン航空)の飛行機で行くんです。パンナムの飛行機ってのは…… (飛行機のおもちゃを見せて)これね。

池上:おお(笑)! すごいおもちゃが出てきました。

岡本:これへ乗ってた。これ、開くの。

池上:あぁ、本当だ(笑)。ドアが開いて。

岡本:ドアが開いて、窓が開くでしょ。

池上:客室乗務員の方がいて。

岡本:これ、みんなが見えるでしょ。

池上:いやぁ、いいですね、これ。

岡本:「アメリカで呼ばれて行くからパンナムを使ってくれ」って言われて。これ羽田から飛ぶんですよ。それでこのへんの真ん中へ乗ってたんです。あの当時は成田と違って、羽田は2階みたいな送り場があるのね。そこで家族やなんかが手を振って。

池上:お見送りのデッキみたいな。

岡本:そうそう。デッキの上で、パッとみんな手を振るわけよ。僕泣きそうになって(笑)。

池上:奥様とご一緒ではなくて、お一人で行ったんですか。

岡本:一人です、最初は。後で呼ぶんですけどね。で、一緒にヨーロッパ回って。それでそのとき、みんな手を振ってるわけですよ。親族やなんか来てて。飛行機に乗っちゃうと外国なんだよ。全部向こうの人間が乗ってるわけでしょ、日本人乗ってない。それで、隣の席の人が、アジア系なのか知らないけど、席に着いたらすぐニコニコして、パーッと英語でしゃべりかけてきたの。英和(辞書)を彼に渡して、僕は和英を持って。「どうぞ」って(笑)。2人で片言でずーっとやってた。飛行機に乗ったときに、もう羽田が外国なんだよね。ところが僕の場合、飛行機はアメリカに飛んで行くんだけど、薄紙を剥がすみたいに、一方はアメリカと正反対の僕の幼少期の浅草に向かって行っちゃうわけ。つまり自分の幼年期のミッキーマウスとか、ベティ・ブープとか、ポパイとか、チャップリンとか、そういう世界へ行っちゃう。つまりアメリカへ行くってことは、言葉がちゃんとできれば大人として行けるんだけど、言葉ができなければ、途端に子供みたいになっちゃうわけだ。そうでしょ。だから、確実にアメリカへ飛行機は行ってるんだけど、一方は過去の自分の幼年期のアメリカとか、そういうものに行っちゃうわけよ。

池上:幼い頃に吸収したアメリカ文化みたいなものに。

岡本:そうそう。それが自然にあるわけです。チャップリンの映画とかああいうのを、僕は昔に見てるんです。そういうの覚えてて。だから確実に体は行くんだけど、意識の上ではニューヨーク・浅草間の、不在旅行記みたいな。

池上:おもしろいですね。

岡本:そういう形で帰ってきて、こんな巨大な画集作ったわけですよ(《ベティ・ブープの国》、土曜美術社、1974年)。まず、ある出版社が「岡本さんの本を作りたい。お金はいくらかかってもいい」と言うので、「本当にいいの?」って。それで半年がかりで、1500万もかけて、この巨大旅行記を作りました。ところが、出来る間際に親会社が倒産しちゃった。

池上:大変だ(笑)。

岡本:だけど出来たんだよ。それがこの《ベティ・ブープの国》版画集です。今すぐは出せないくらい大きい。20キロくらいあるんです。

池上:すごいですね。

岡本:ベティ・ブープってのは、アメリカのベティさんから来てるんだよね。あれへ引っかけてるんだけど。あの頃、日本でもはやったけど、アメリカでも睫毛をクックッって描くのがはやったんだよ。

池上:ぱっちりでね、睫毛が。

岡本:そう。本当、睫毛ですって描いて。僕はそういうの見てたのね。それで、ベティ・ブープがアメリカの女ってことで、《ベティ・ブープの国》を描いた。

池上:ちょっとセクシーな感じで。この個展に寄せられた文章ですが、「内なるアメリカ」ということを書いてらっしゃるんですけど(注:1974年、フジテレビギャラリーでの個展「ベティ・ブープの国」に岡本が寄せた文章。1998年の神奈川県立近代美術館での個展図録、42頁に再録)。それは幼年期の自分にとってのアメリカ体験みたいな。

岡本:結局、僕が向こうに行くと子供になっちゃうわけだから。看板見たって読めないんだ、分かんないんだから。片言でやってるわけだから。だから自分の中で、現実のアメリカと、僕の中のアメリカがごっちゃになっちゃうわけ。

池上:それは本当はちょっと別物なんだけど、っていうことですよね。

岡本:それで、実は、黒人の女性がね……

池上:クィニー(Queenie)という……

岡本:クィニー。よく知ってるね。

池上:ちょっと勉強してきてます(笑)。黒人のホテルのメイドさんでしたっけ。

岡本:そうそう。すごいな、よく知ってるなぁ。(写真を見つけて)あ、これだ。これがクィニーですよね。

池上:あぁ、朗らかな感じの、かわいらしい方ですね。

岡本:アメリカにいる富井玲子さん、知ってますか。

池上:親しくさせていただいてます。

岡本:そうですか。あの人、会ったことはないんだよ。でも彼女から手紙が前に来て、「ジャパン・ソサエティでアメリカに関係した作家たちの画集を作るんだ」って。

池上:『メイキング・ア・ホーム』( “Making a home: Japanese Contemporary Artist in New York,” Japan Society, 2007)っていう展覧会のカタログですね。うちにもあります。

岡本:そのときに僕に質問状が来たのよ。そのときに、「《子持ちのクィニー(Queenie the Mother)》」(1974年)、この絵が非常に好きなんだ」と言われて。このことについて10項目くらい質問が来たので、それに答えたのね。それで返答をずっと書いて。それが《子持ちのクィニー》ね。彼女が、保育園か幼稚園かで、子供の誕生パーティに使う、こういう招待状みたいなカードをくれたんだ。それを使って聖母子像として描いた。これはこのプリンス・ジョージ・ホテルってところの制服でね。左に招待状と、右にはポケットに彼女がタバコのケントなんかを持ってるような。

池上:こういう絵は、あちらに行かないと描けなかったアメリカの絵ですよね。

岡本:そうそう。向こうにいるとね…… 何て言うんだろうな、黒人特有の哀愁があるんだよね。それですぐ絵になっちゃう。そういう要素があるんだ。それでこの版画集を作ったんだ。こんなでかいの。

池上:うわぁ、大きいですねぇ!もうタブローのサイズですね。

岡本:20キロくらいあるんです。立体のアンディ・ウォーホル(《眠れる玩具》、1974年)も入っている。

池上:なんでアンディ・ウォーホルが眠れる坊やになってるんでしょうか。

岡本:眠れるアンディ・ウォーホル坊や。《8時間眠る男》(アンディ・ウォーホル、《眠り》、1963年)って作品があるんですよ。僕は「アンディ・ウォーホル坊や」ということで、眠れる子供にしちゃったんだけどね。《眠れる玩具》の他に、《眠れるアンディ・ウォーホル坊や》、《8時間眠る男》(ともに1974年)があって、3点でひとつになるんだ。

池上:かわいらしいです。

岡本:それでこのときに書いた《ポパイの手》とか、ベーブ・ルース(《ママから聞いたベーブの話》、1974年)。それから《階段のチャップリン》、《ドン・キホーテのニューヨーク入城》(ともに1974年)とかね。全部、自分の過去と実際に体験したアメリカと、いろんなものが引っかかってるんです。

池上:じゃあこれはさっきおっしゃってた、内なるアメリカと現実のアメリカと合わさったような版画集なんですね。この《消えたマリリン》(1974年)っていう作品は、ちょっとそれまでと作風が違うというか、甘いタッチな感じですよね。

岡本:これ、いい作品でしょ。自分でも気に入ってた。

池上:1963年のときに描かれた空っぽのマリリンとはちょっと違いますよね。

岡本:そうそう。これはリトグラフで作った。

池上:先ほどの文章の中でも、アメリカというとなぜか巨大な女性の体を連想するっていうことを書かれてるんですけど、その関連ってどういうところなんでしょうか。

岡本:行く前に僕は《ポパイの手》っていうのを描いてる。この文章(注:前述の「ベティ・ブープの国」展に寄せた文章)にも書いたけど、「人がアメリカへ行くときには、女の体を想像して、ニューヨークはその局部だ」っていうような連想をしてた。「自分が行くときには、ポパイの手の肉感的な表現にして、ちょっと虫が良すぎるんじゃないか」ってね、ここへ書いてるんです。つまり非常に肉体的なものをアメリカに感じていた。ちょうどあの頃、マクルーハンかなんかで盛んにやってた時代で、触覚ブームだったから、それにちょっと引っかけて。なんとなく僕の中でアメリカって言うと肉体的なイメージが。そりゃ、果たして本当にそうだったかってことは別問題だけど、行く前の僕はそういうものを感じてた。

池上:マッチョな男性の身体だったり、すごくグラマラスな女性の身体だったり。肉体の文化みたいなものがありますよね。

岡本:そういうものを僕はアメリカの象徴と思ってたわけ。それで出発前に《ポパイの手》っていうの描いて。友達が「オカシンの旅行記の序章としては興味あるプロパガンダ」なんてね。「君の《ポパイの手》に中年女の肉体を連想したよ」なんて、親友が手紙をくれたよ。つまり、僕の中にも非常に肉体的なものがあって、それをポパイの腕に象徴したわけだ。自分が行くときはポパイの腕を連想して、人が行くときには女体で、それでその局部へ集中するやつはみんなエッチだって(笑)。そんなふうに人のこと言って、自分はかっこよくポパイにしちゃった。

池上:ちょっとずるいんじゃないかと(笑)。

岡本:とってもずるいんだ(笑)。

池上:実際にアメリカに行ってみて、結局アメリカって岡本さんにとってどういうものになりましたか。

岡本:おもしろかったよ。旅の始まりから、もう珍道中だった。まずサンフランシスコに行って、ロサンゼルスにいる友達のとこへ寄って。みんなお金がなくてさ。僕は10万円くらい別に持って行ったの。そのお金みんな使っちゃった。ディズニーランドへみんなで車で行って、お金ないやつばっかりだから、最後にお金がなくなっちゃった。ロサンゼルスからニューヨークに飛ぶ飛行機の切符は持ってるんだよ。ところがニューヨーク行く前の日に、誰かが僕の2万円を50ドルかなんかで換えてもらってね。350円だったんだな、1ドルがね。確かそのくらいだと思うんだけど。それまでに持って行ったお金みんな使っちゃったの。

池上:大変ですね(笑)。

岡本:おもしろかったけど、珍道中だったね。なにしろ周囲はヒッピーだらけだった。ホイットマン(Walter Whitman)の詩で「ブロードウェイの景観」っていうのがあるんですよ。これは、初めて東洋人の使節がアメリカへ来たときのことを書いている。勝海舟の一行だと思うんですよ、咸臨丸で行きますね。ブロードウェイで、銀輪馬車へ乗って。大歓迎されるわけですよ。馬車に乗ってる色浅黒き両刀を差した侍たちは、みんな緊張して、こちこちになっている。そんな感じなんだ。まさに僕がアメリカへ行くとき、あのときの侍と同じ状態なんだよね。

池上:気負ってるというか。

岡本:そうそう。それで言葉は流暢じゃないし、外国なんか知らないわけだし。初めて飛行機で飛んでくわけでしょ、一人で。とにかく珍道中でさ。興奮したもんだから、サンフランシスコでホテルに着くと、鼻血が出てしょうがない。鼻血なんか普通出ないですよ。

池上:大人はあんまりね。

岡本:ねぇ。だからやっぱり相当、緊張してたんだよ。それでもおもしろかったんだよ。街の中うろついて。ヒッピーがいっぱいいたね。

池上:ちょうどそういう時期ですね。

岡本:そんな調子でニューヨークへ着くんだけど、そこから本格的に珍道中が始まるわけです。ジャパン・ソサエティがジョージ・プリンス・ホテルを取ってくれてて。もう今はないんですけど、部屋は1000個くらいあるホテルでした。そこの5階の部屋へ入った。ドアをガッチャーンって開き、ガッチャーンって閉めるともう、半年間、懲役だね(笑)。

池上:修行みたいな(笑)。

岡本:ベッドはダブルベッドみたいなでかいのがあって、電気スタンドはテーブルの上へ一つあったかな。あとは何にもないんだ。それからこう開きがあったが、そこに衣紋掛けもない。開けると桟だけ。お風呂場は結構広かったけどね。タオルもない。それで、俺はこんなとこ来たくなかったなぁ、俺はこれから懲役6か月だな、なんて思ってた(笑)。そしたらこのクィニーと知り合ったんです。にこりともしない変なメイドもいるんだけど、クィニーは結構愛嬌が良くてね。

池上:すごくかわいらしい方ですよね。

岡本:そうそう。それでなんとなく馬が合うんですよ。そして片言でね、やってた。

池上:この笑顔が本当に素敵で。

岡本:ところが、僕の帰国後に彼女は発狂しちゃうんです。原因はよくわかんないけどね。僕が日本に帰った後なんだけど、国がクィニーから子供を取り上げようとしたらしいんだ。

池上:ひどいなぁ。

岡本:日本に帰った後、それをテレビでやってたの。どうも、生活が貧しいと強制的に取り上げて、子供を誰かにあげちゃうとか、そういうことがあったらしいんです。

池上:福祉政策の方針でしょうか。それが必要な時もあるかもしれませんけど……

岡本:その制度があんまり発達し過ぎてると、親の感情を無視してね。

池上:ちょっとひどいですね。

岡本:そういうことじゃないかと思う。それで発狂しちゃったんだよ。結局、子供は取られないで済んだんだけど。後で手紙なんか来ると、もう何書いてあるか、支離滅裂で分かんない。

池上:でも文通はされてたんですね。

岡本:文通っていうか、勝手に来るんです、手紙が。

池上:本当に好きだったんですね、岡本さんのことが。

岡本:そうかもしれない。「シンジロウが一人でかわいそうだ」とか言って、日本の商社マンがいっぱい泊まっていたから、そういうの連れてくるんですよ。みんなでわいわい楽しかったなぁ。そんなようなことがあってね。それなりにおもしろかったんですよ。僕の中では、自分の中の幼年期のアメリカと現実のアメリカがあってね。曲りなりにも画集も作って、不在旅行記みたいなの描いたわけだけど。だからそれなりに成果はあったんだけどね。僕の青春だなぁ。35歳だったけど。いずれにしてもあっちでは暇なんですよ。

池上:お勤めがないですもんね。

岡本:ないから。それでいろんなもの見ればいいわけだ。それで、日本語でいいからって、便箋に細かくレポートを書く。そこで合気道始めた。

池上:もともとされてたわけじゃないんですか。

岡本:合気道は、僕は知らなかった。

池上:あっちで始めた?

岡本:だいたい僕は、合気道というもの自体、あるってことを知らなかった。ところが向こうで川島君の知り合いの女性と話してたら合気道の話になって。それで「合気道ってなんですか」って聞いたら、「今、私やってるんだけど、一度見学に来ませんか」って。それで日にち決めて、行ったんです。向こうは武道が盛んなのね。

池上:肉体の文化の一環ですかね。

岡本:肉体の文化っていうのかなぁ。なにしろ剣道とか、空手とか、みんな盛んなのね。日本人が親玉でやってるわけですよ。それで連れて行ってくれたのが女の人だったから、向こうの若い女の子、20か21くらいの子が、「合気道やりませんか」っていうから、「やりたい」って言ったのね(笑)。わざわざ、すぐ稽古着持って来て。柔道着と同じなんですよ。着せられてね。それで受け身を彼女たちからまず習った。

池上:行ったその場から(笑)。

岡本:着いたらすぐやらされた。「やるか」って言われて、「やります」って言ったらすぐ着せられて。それで受け身から習った。僕は小学校の4年生のとき、学童疎開する前ね。剣道を1年間、学校の体操の時間の中に組み込まれていて、やらなくちゃいけなかったんですよ。これがおもしろくてねぇ。剣道ってのはいいなと思った。もし戦争がなければ、僕はそのままきっと町道場かなんか通って、今頃はもう……

池上:剣のマスターに。

岡本:なってるかもしれないって思うんだよ。それくらい武道に対しては憧れがあったんです。それがたまたまニューヨークで合気道に出合った。

池上:おもしろいですね。アメリカに行ってそういう日本の武道に開眼されて。

岡本:そうそう。それでね、帰ってきて、鎌倉の道場があったからそこへ入門した。それでとうとう33年間やって、68歳で僕は引退したんです。結局、5段で引退しました。

池上:ふーん。

岡本:「ふーん」なんて言うけど、5段ってのは大変なんですよ。女の人は、「あっそう、それがどうしたの」なんてね(笑)。

池上:すいません、あまり分かってないかもしれないです(笑)。失礼しました。

岡本:5段って結構大変なの。なにしろ33年やって、4段から5段になるのに16年かかった。

池上:33年されるっていうことが、もうすごいと思います。だいぶ時間を過ぎてしまったので、そろそろ最後の質問をさせていただきたいと思います。今回、この「インターナショナル・ポップ」の展覧会のためにいろんな方にお話を聞いているんですけれど、原体験として、戦争をしていたときのアメリカっていうのを強く持ってらっしゃる方が多いと感じてるんですが。

岡本:そりゃ僕だって持ってますよ。

池上:はい、岡本さんもまさにその世代だと思うんですけども。今日お話を聞いた実際のアメリカっていうのは楽しく体験されたと思うんですけど、それ以前の、戦争の相手としてのアメリカとのギャップというか、そのあたりを最後にお聞きしていいですか。

岡本:そらもう、当然僕らはねぇ……

池上:ど真ん中ですよね。

岡本:軍国少年として、学童疎開した世代だし、戦争体験としては、飢餓体験やら、いろいろある。とにかく価値観が年中変わってた。僕らが幼年期は、大正デモクラシーの残像みたいなのが少し残ってるような感じ。ところが世の中は既に不景気風が吹いてた。子供だから分からないですよ。親はそう言ってましたけどね。だけどそういう中で、今度はいよいよ全体主義国家の気運が高まって、僕らはものすごい軍国教育を受けるわけです。学童疎開では、僕らは猿山の軍隊みたいな集団生活の中でいろんな体験をしました。うちはあんまりインテリ家庭じゃなかったから、戦争について何も論じないんだよ。うちの親はね、母はすごい美人だったんですよ。大正15年(昭和元年)の頃の写真があります。水着姿の写真で、すごいモガのはしりでした。ただね、そういう自由な空気があった後、一挙に戦争に突入していった。うちの中ではあんまり戦争について語らないんですよね。親父なんか、僕が学校で教わってきて、「天皇は神なんだよ」なんて言うと、「何言ってんだ。ただの人間じゃねぇか。どこの馬の骨だかわかりゃしねぇよ」なんて言うわけ(笑)。「うわー、非国民だ。そんなこと言ったら大変だよ!」なんて。「お前、外に行って余計なこと言うんじゃねぇぞ。そんなこと言ったら俺、憲兵隊に連れて行かれちゃうからな」。それで、「じゃあ聞くけど、世界中で一番強い軍隊はどこだい」。僕はあのとき、日本が一番強いと思ってた。日本がものすごく強かった。アメリカなんてこてんぱんだった。もう最初はぐんぐん、どんどん。こっちは聖なる戦いを戦ってると思ってたの。大東亜共栄圏なんてね。要するに、欧米列強の植民地支配に対して、日本はアジアの先頭になって。

池上:植民地の解放っていうことですよね。

岡本:それを真に受けてたんだよ。本当はそうじゃなかったんだけどね。建前と本音は。それだからこっちは軍国少年として関わっていくわけです。

池上:お父様は意外と冷静だった?

岡本:冷静じゃあない。関心がないんです。「じゃあどこの軍隊が一番強いんだ」、「そりゃ決まってるじゃないか、ドイツだ」なんて言うんだ。「なんだよ、おもしろくねぇなぁ。なんでドイツなんだ」、「そりゃあお前、ドイツってのは機械化部隊が違うんだよ。ドイツの機械力ってのはすげぇぞ。なんたってドイツが一番強いんだ」なんて言うわけだ。「うちはしょうがねぇなぁ」なんて思った(笑)。その頃、学校ではものすごいスパルタ教育を受けていました。

池上:疎開はどこにされたんでしたっけ。

岡本:埼玉県。

池上:そんなに遠くないですね。じゃあ空襲は、直接は経験されてない。

岡本:してます。

池上:埼玉にも来た?

岡本:いやいや、そうじゃなくて。学童疎開してたんだけど、親は子供に会いたいものだから、「歯を矯正したいと思うんで、長期間、東京へ戻す。東京の学校へ通わせる」と。それで昭和19年の10月頃、神田へ戻ってたの。そうしたら11月、アメリカの偵察機が来て。それで11月29日にB29の大編隊がやって来て、神田のほとんどがやられちゃったんです。神田駅から、神田小川町のうちの前までずーっと焼けちゃった。それで、子供は危ないからって、また埼玉のお寺に戻されちゃった。

池上:その空襲は防空壕に入って?

岡本:防空壕に入って、バンバンやられて、すごかったです。もうすぐそばに、いっぱい落ちて。シューシュー音がして。そういう体験をしてるんです。

池上:じゃあ亡くなった方とかも見られましたか。

岡本:僕らは逃げたから、直接亡くなった人は見ていません。うちの親父やなんかはどんどん荷物を運び出すんです。あんまり戦争自体については語らないけど、自分の財産を守んなきゃいけないですから、そういうことにはすごいんだよ。火事場の馬鹿力じゃないけど。おばあさん一族と我々の一家が一緒に住んでたんだけど、2軒分、あっという間に数時間で引っ越して、近くの空き家へずうずうしく入っちゃった。

池上:すごいですね(笑)。

岡本:うちの親父と、そのとき叔父がまだ中学生で、2人いたんだけど。3人で、まぁ数時間で2軒分の引っ越ししちゃった。僕は、その反対側のとこで荷物の番させられたんだけど、警防団の人に「こんなとこいちゃだめだ」とか言われて、でっかいビルの地下へ入れられちゃったの。空襲解除でうちへ帰って来たら、うちは焼けずに残ってたんだよ。だけど空っぽなんだよ。畳までないんだ。その頃、ちょっと小綺麗なアパートやってたのね。今考えると不思議なんだけど、レモンイエローのうちで。

池上:ハイカラな。

岡本:四角い、綺麗なレモンイエロー。そこに泊まってる人が、「お父さんたちがいるところ知ってるから行こう」って言うんで、行ったの。そうしたら、天井に届くくらい荷物があって、隅っこの狭いとこに一族が固まっているんです。「お前、元気だったか」なーんてね。それですぐ疎開先に戻されて。うちも田舎に親戚がないが、家族ぐるみで疎開しなきゃだめだっていうことになってきた。結局、学童疎開した隣村にうちを買って、今度はそこへ僕らが住むことになったわけです。そして翌、昭和20年2月25日、神田の家がやられて、燃えてしまった。その後3月10日、東京大空襲。そのとき僕は疎開先の40キロくらいのとこから見ていたんです。

池上:もう空が赤くて……

岡本:うん。火は近く見えるから、目の前でパノラマ的にがんがん燃えてすごかった。それで帰りがけに余った焼夷弾を捨てたのかもしれないが、隣の村が爆撃されて、農家が数軒燃えました。そのときの体験を今度の《ころがるさくら・東京大空襲》(2006年)で作品化しました。あれは現実の世界をもっと観念的な世界に置き換えてやったわけだ。僕らはあの頃、「鬼畜米英」と言い、小学校の4年生のときに、僕は「米英を倒して作る大東亜」なんて標語を作っている。それが負けちゃったでしょ。あのときの日本人の変わり身の早さ。とにかく8月14日までは、僕らは小学校で切り込み隊の練習させられていたんです、竹槍とか木刀で。本土決戦に備えて。「一億総玉砕」なんて言ってやっていた。そしたら15日に負けたでしょ。夕方まで分からなかった。ラジオの玉音放送が何言ってるんだか分からなかった。隣の農家のおじさんたちも一緒にラジオ聞いたんだけど、誰も分からない。

池上:説明してくれる人がいない。

岡本:いないんだよ。みんな聞いて、親も分からない。夕方になって近所の子供が、「なんか負けたらしいぞ」なんて言ってきたのね。「負けちゃったの?」。そのときまで僕は、きっと天皇陛下が「もっと頑張れ」って言うんだと思ってたの。それくらいの感じだった。それが16日に、夏休みなんだけど、学校から臨時の呼び出しがあって行ったんです。そうしたら校長が、「国体を護持し、これから君たちは新日本建設のためにまい進しなきゃいけない」って言うんです。「国体護持」なんて言葉があったのか。一億層玉砕でやってたのに、そんな言葉があったのか。じゃあ、死んだ人たちはどうするの。そのとき6年生だから分かったんだけど、あぁ、言葉をひとつ変えれば世界は変わるんだって思ったんです。その前の日まで、逆のことやってた。だから不信の世代っていうか、僕らは信用しなくなっちゃった。それから進駐軍がやって来て、私たちは東京ブギウギの世界に入ってく。まさに戦争っ子なんですよ。それがフェローシップとしてアメリカに行くわけですから、気持ちの上ではやっぱり、ちょっと不思議な感じがするんだよ。

池上:そうですよね。倒してやろうと思ってた国から招待されて。

岡本:いずれにしても、僕らはあまりにもいろんな時代見過ぎてるから、それだけに融通も利くし、のめり込まないから。だからアメリカ行くときもそんなに改まって……

池上:順応力というか、そういうものがある世代なんでしょうね。

岡本:今、ニューヨークは治安いいんでしょ。

池上:まあまあ、いいです。

岡本:僕らが行ったとき、すごく悪かった。そういう時期だったんでしょうね。戦後、日本人は、アメリカ人はみんな金持ちだと思っていた(笑)。それが実際に行ってみて、ははーん、アメリカはこういう国なのかって……

池上:それももうひとつの現実のアメリカっていう。

岡本:そうそう。でも結果的に、体験としてはおもしろかった。「岡本信治郎、浅草―ニューヨーク間、不在旅行記」みたいなものも作ったし、それなりにおもしろかった。

池上:ありがとうございました。すごく時間を取らせてしまってすみません。

岡本:いやいや。勝手なことを言って。

池上:とんでもないです。とてもおもしろかったです。ありがとうございました。