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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

沖啓介 オーラル・ヒストリー 第3回

2023年12月18日

東京、沖啓介自宅にて

インタヴュアー:伊村靖子、足立元、鏑木あづさ

書き起こし:東京反訳

公開日:2025年4月14日

インタビュー風景の写真
第3回は、1990年代以降の活動を中心にお話を伺った。《ブレイン・ウェーブ・ライダー》(1993)以降のメディアアートとの接点やそのルーツともいえるカウンター・カルチャーとの関わり、技術環境の変遷について伺った。また、現代美術が地域的・ジャンル的に脱中心的な広がりを見せていく過程で参加した国内外の展覧会、そこから発展した様々な交流、古琴への関心、多摩美時代に遡ってステラ―クとの交流や武術、整体、2000年代に入りアーティストのイラク戦争反対デモと関わった経緯まで、多岐にわたる関心についてお聞きした。

沖啓介とステラーク カールテン大学 パース、オーストラリア 2018年2月2日

足立: 今日大きなポイントとして、1993年の3月のサイコスケープ展、O美術館、キヤノン・アートラボ共催の展覧会に《ブレイン・ウェーブ・ライダー》を出品されますが、そこにヘッドセット型の作品が突然できたはずはなくて、その前段階に何があったのか、教えてください。

沖:その前にあったのは、パソコンですよね。パーソナル・コンピューターが出てきて、その可能性をいろいろ考えていたのと、それが技術的に少しずつ、アートの表現に使えるようになった。アートの表現に使えるようなコンピューターは、ぼくにとってはAmigaで、ビデオも使えたりしましたが、当時のMacはむしろビジネスなんかでコンピューター好きな人が使うものだった。プログラミングが面白かったんですけどね。でも、コンピューターは、ある意味、それまで自分が中心にしてきた美術から違う方向に向かうきっかけで、同じようなことは海外でもあって、ポスト・ミニマルのアーティストたちは、コンピューターに惹かれていた人がいると思うし、直接言葉としてはつながってないけれども、美術の非物質化という、ルーシー・リパードのいうような流れの中で、全然違う表現のメディアというか、テクノロジーが出てきたというのは、大きかったんじゃないかなと思います。

足立:そのプロトタイプみたいなものは作っていたんですか。

沖:そうですね。Amigaを使って作ったものが、国立国会図書館に入っています。

足立:《Video god Directed by Keisuke Oki. 2 Voodoo》という作品。

沖:あれなんかは、Amigaを使って作っています。

足立:そうだったんですか。あれは映像作品じゃないですか。《ブレイン・ウェーブ・ライダー》は、インスタレーションと言ってもいいと思うんですけれど。

沖:そうですね。あれは、たまたまそういうことが可能になったっていうか、「イーバ(IBVA)」という装置がありました(註:IBVA (kuwatec.co.jp))。誰もが知っている装置じゃないですけれど、脳波を計測して、変化の様子を連続したグラフで表示するものですが、波長のピークでMIDI信号が出るようになっていたわけです。簡易な脳波計として使われていました。より高い周波数が出た時は、その周波数に合わせて違う信号が出たり、どの信号が出たらどういう周波数の脳波が出ているかが分かるので、ぼくたちDTIでは、それに合わせてCG映像が変わるというプログラムをキヤノンのエンジニアの人と一緒に作ってできたのが《ブレイン・ウェーブ・ライダー》ですよね。

伊村:キヤノン・アートラボのDMを見ると、「本展覧会は、公募によって選ばれたアーティストとアートラボ・エンジニアとのオープン・コラボレーションです」と書いてありますが、公募だったんですか。

沖:そうですね、公募です。

伊村:その時に、Amigaで作られたものを見せたのでしょうか。

沖:他のグループでは、Bulbous Plantsというユニットで、岡﨑乾二郎さんと津田佳紀さんが参加しています。実現できるかどうかというよりも、むしろ考え方のほうが中心になっていて。それをエンジニアに割り振って、エンジニアと一緒に制作するということだったわけです。それはとてもいいことで、昔、ベルシステムのエンジニアが、アーティストと協働していたじゃないですか(註:1960年代半ばのニューヨークを拠点に、ベル研究所のビリー・クルーヴァーとアーティストたちによるグループE.A.T. (Experiments in Art and Technology)が結成されたことを指す)。日本では、エンジニアの人たちがアートに触れることはあまりなくて、絵が好きなエンジニアの人はいたかもしれないけれど、現代美術みたいなものは、特になくて。そういう意味では、アートラボが始めてくれたのは、すごく良かったんじゃないかと思うんですね。海外の場合、その後のコンピューター・アートにつながるようなものを、アナログ・エレクトロニクスでやっていたわけで、アンディ・ウォーホルの銀色の風船が飛んでいる《銀の雲(Silver Clouds)》(1966年)も、E.A.T. がやったわけですよね(註:本作品はその後、マース・カニングハムの《レインフォレスト》(1968年)の舞台装置として用いられた)。その後だんだん変わってきて、エンジニアでありながら、アートが作るというタイプの人も出てきたし、学校も変わって、大学でもプログラミング教えるようになったりとか、状況も変わってきて。

足立:沖さんがエンジニアと協働したのは、1993年が初めてだったんですか。

沖:そうですね。もちろん、ビデオアートとかサウンドをやっているから、サウンドのエンジニアとか、ビデオ・スタジオのエンジニアとは付き合っているけれども、コンピューターはまた違いますよね。ビデオギャラリーSCANに関わっていた参加者で、ソニーのエンジニアの篠原康雄さんがいます。

伊村:1993年のアートラボ・オープン・コラボレーション展「サイコスケープ」に話を戻しますと、沖さんはDTIという名義で参加されています。

沖:DTIは「デジタル・セラピー・インスティチュート」。

伊村:それはどういうメンバーだったのでしょうか。

沖:ヘンリー川原。前回話したヘンリー川原と、基本的には2人でやっています。

足立:ヘッドセット型の作品として私たちは今見て、びっくりするわけですけれど、映像と音楽の延長線上として、そこにキヤノンの技術を使って、ヘッドセットとか、脳波っていったものに広がっていった?

沖:そうですね。ヘッドセットはヘンリー川原が作ったんですけれど、彼はミュージシャンなので、電子工作が得意なんですよ。自分でエフェクターを作ったり、はんだごてを使って、いろんなコンデンサーなどと組み合わせてエフェクターを作るじゃないですか。そういうふうにやっていたから、信号に合わせて、チカチカ変わったりするあのヘッドセットは、ヘンリー川原が作ったんですよ。映像のほうのコントロールは、キヤノンの人たちがやっていて。その時に、シリコン・グラフィックス社の、多分2,000万ぐらいするコンピューターをアートラボでも買って、エンジニアの人も、コンピューター・グラフィックスを制作していた。ちゃんと動くようにコンピューター・グラフィックスを作るというのは、当時のコンピューターではなかなかできなくて、コンピューター・グラフィックスに特化したコンピューターでしかできなかったんですよね。と言っても、今と比べると大したことはできないんだけれど。

足立:ステラークから受け継いだものというのも、もちろんありましたよね。

沖:そうですね。ステラークは、やっぱりそういうことへの関心を強くイメージ付けた人だし、彼の第3の手自身が、筋肉の信号で動いているわけで、それを考えてみると、ステラークはものすごいパイオニアなんですけれどね。そういうことまで考えていくとね。

鏑木:この時期にISEA(Inter-Society for the Electronic Arts)に行かれていますね。

沖:そうですね。

鏑木:ISEAは、ミネアポリス(1993年)と、フィンランド(1994年)、シカゴ(1997年)と、それから、ルクセンブルク(1995年)で開催された展覧会。このあたりは、いわゆるメディアアートのコミュニティーが世界中に散らばっていた場所のような気がします。

沖:そうですね。大体みんな手伝ったりとかしているので、今でもそうだと思うけれど、みんな友達だったりするんじゃないかな。

伊村:そういう人たちとの出会いは、この時期につながっていったのか、もう少し前からですか。

沖:直接つながるようになったのは、《ブレイン・ウェーブ・ライダー》を作った時に、作品についてわりと長い文章を英語と日本語で書いて、壁に貼っていたんですよね。そしたら、『Leonard(レオナルド)』を発行しているMIT Pressの人が来て、この文章は面白いと言って連絡取ってきて、それで、『レオナルド』に書いたんです。『レオナルド』(1968年創刊)は、エレクトロニック・アートの草分け的な雑誌ですが、壁にたまたまそれを貼っていた文章を見たのがきっかけで、それは全部偶然。ただそのまま文章を書き出して、プリントアウトして貼り付けているだけだから、普通には、そういうのは読もうと思わないじゃないですか。

鏑木:展示している時に貼られていたんですか。

沖:そうですね。多分面白いと思われたのは、それまでプログラミングしてできることというのは大体、音にするか、あるいは、グラフィックで合成するというものなんだけど、ぼくが書いた文章は、脳波のことと一緒にもっと文化的なことが書いてあるから、世界が広がっていて、それが面白かったんじゃないかな。当時は日本になかった、アメリカの『WIRED』で、そんな大きくない記事ですけれど、「こんなに素晴らしい作品がアカデミックなところに出ているのはすごい」みたいに書かれていて(笑)。でも、それを読んだ日本にいるアメリカ人がうちに来て、話をしたいと言って来たことがあるから、『WIRED』自体も出たばかりで(1993年創刊)、当時としてはセンセーショナルって言うかな、ユニークな雑誌だったので。そういう意味では、偶然につながったという感じですよね。
 そう考えてみると、《ブレイン・ウェーブ・ライダー》を制作したのと同時に、『レオナルド』に文章が出た。面白かったのはその後、《ブレイン・ウェーブ・ライダー》について、ドイツの美術雑誌『Kunstforum(クンストフォーラム)』にも文章を書いた。『クンストフォーラム』(1995年11月)では、ちょうどオウム真理教の事件の後で、オウムのヘッドギアと外見が似ているじゃないですか。それで、テクノロジーだけではなくて、文化とか、オウムのこととか、そういうようなことも書いたので、それはそれで面白かったらしくて。その後十何年ぐらいして、たまたまドイツ人の若いアーティストが、偶然なんだけど、その人もカーネギーメロン大学の先生になって、たまたま日本に来て、会って話したら、その人が高校生の時に『クンストフォーラム』を読んで、ぼくの文章を見て、エレクトロニック・アートをやろうと思ったというんですよね。だから、やっぱり文章を書くのは大事ですよね。英語にしたっていうのも大事ですよね。41歳で《ブレイン・ウェーブ・ライダー》を出して、その後、さっき伊村さんが言ったように、世界中あちこちで展示するようになりましたよね。

伊村:荒川修作とマドリン・ギンズが《養老天命反転地》(1995年)を構想する際にCGを取り入れていますが、この頃は、建築やアートの分野でCGやソフトウェアへの関心が高まっていった時期だったのでしょうか。

沖:ええ、そうですね。1990年代はすごく面白くて、ぼくの持っている本でも、建築の本がすごく多いんですけれど、建築も、デジタル技術を取り入れることによって、形も変わってきて、素材感から抜け出るとか書かれていた。1990年代の建築というのは、ものすごくデジタル的じゃないですか。オランダのボンネファンテン美術館でやった展覧会の時、建築的なインスタレーションを企画した人ラース・スパイブルックは、オランダのデジタル系の建築家の人で当時、すごく有名だったんですね。その人が自分のプロジェクトのコーディネーションで、ぼくを選んだ。「Smaak: Mensen, Media, Trends」っていう展覧会でした。このSmaakってすごく面白くて、ほんとに画期的。日本のアートシーンとは全然違う。Smaakって何かって言うと、英語ではTASTE、日本語で趣味とか、味とかなんかと同じような意味ですけど。写真がどっかいっちゃったんだよな。セックス・ピストルズのプロデューサーの……。

鏑木:マルコム・マクラーレン?

沖:マルコム・マクラーレンも同じ時にいて、食堂でいつも一緒になった(笑)。その展覧会がすごく、面白い展覧会でしたね。

足立:いわゆるメディアアートというと、1990年代はヨーロッパが強かった印象があるんですけれど、カールスルーエのZKMの前身となるような、それを作るような人たち
に出会っていたわけですか。

沖:そうですね。ちょうどZKMができるちょっと前に、中谷芙二子さんがビデオギャラリーSCANで開催した「JAPANテレビ・ビデオ・フェスティバル」があって、ぼくがちょうどアメリカから帰ってきて、まだ1年たつかたたないかぐらいだと思うんですけれど、司会をやったりしていて。その時に、ちょうどZKM の創設メンバーの人たちが来ていたんですよ。それで、彼らのプレゼンテーションで、これからこういうような組織というか、学校みたいなものを作るんですと話していたんです。だから、メディアアートという文脈で考えれば、ビデオアートがあって、その中から、デジタルの技術を使ってコンピューターに入っていった人たちも、わりといたわけですよね。だから、もともと映像では、初期のコンピューター・グラフィックスはビデオアートと一緒になっているし。ナム・ジュン・パイクのビデオシンセサイザーなんかも、ある意味アナログ電子じゃないですか。
でも、1970年代や1980年代は、まだ現代美術がものすごくマイナーだったのだけど、メディアアートやビデオアートなんかは、さらにマイナーなものでした(笑)。画廊で、「あそこの画廊は、今週はビデオアートだよ」、「じゃあ行かない」って、ほとんどの人はみんな行かなかった。そのぐらいに、誰もビデオアートは見なかったっていう感じです。

伊村:ビデオアートというのは、画廊で展示する作品と、上映するものがあったわけですよね。

沖:そうですね。イメージフォーラムなんかは上映していたし、ビデオギャラリーSCANだって、そういう活動だった。飯村さん、京都の中井恒夫さんは、画廊で展示していましたね。「7人の作家 韓国と日本」の展覧会で一緒にやっていた吉田秀樹さんもビデオアートをやっていて、彼も画廊でやっていました。ビデオアートの人も、映像のほうからきた人もいるし、コンセプチュアル・アートのほうからきた人もいて。飯村さんの作品は、どちらかと言うと概念芸術的じゃないですか。でも、飯村さんの作品の前身は、実験映画、個人映画という形で。いろんな人たちが、混ざってきたところなんじゃないかと思うんですけど。

伊村:沖さん自身は、どちらに属するということではなく、という立場なんですよね。

沖:そうですね。どっちもわかります、みたいな(笑)。

鏑木:本当ですね。今までの沖さんのプロセスを考えると、どちら側のこともよくご存じの上で、そこにいかれているというか。

沖:そうですね。感覚的にはどちらも入るというところですよね。でも、だんだん見る側も変わるじゃないですか。だから、現代美術の観衆というのも、昔は全然いなかったわけで、アーティスト同士で見ていただけみたいなものなんだけど。でも、今は大きな国際展でもそうだし、都現美(東京都現代美術館)なんかでやっているような映像の展覧会とか、恵比寿映像祭なんかもたくさん人が来ます、一つの映像を見ていると、次の作品を見るのには、なかなか先に進まないじゃないですか。それでも、みんな一生懸命全部見ていて、すごいなぁと思うんです。だから、映像に対する受容が変わったんだなという気がしていて。映像の中から読み取ることができるようになったのが、今の世代。ぼくたちより上ぐらいも含めて、やっぱり映像から多くを読み取ることができなかったんじゃないかなと思いますよね。

伊村:1990年代に入って、キヤノン・アートラボの展示でも、会期が1週間くらいで、しかも、シリコン・グラフィックスやイーバといった機器も、一部のアーティストだけが利用できる状況だったと思うのですが、その時に訪れてきた観客は、どういう人たちだったんでしょうか。

沖:キャノンのアートラボができた頃というのは、コンピューターで何かができるんじゃないかという可能性を感じた人が出てきて。でも、日本はコンピューターそのものが好きな人たちとアートはあんまりつながってなかったですよね。だから、海外でもそうかもしれないですけど、すごくマイナーなところにあったんじゃないかな。けど、可能性を感じた人は増えてきていたのじゃないかな。

伊村:初期のメディアアートの関心として、アートとそれ以外の文脈を接続するところにさまざまな可能性が期待されていたように思います。沖さんも、幾つかの文脈をつなげるところに役割を果たしていらっしゃるのではないか思いますが、1990年代初めくらいから意識されていたのでしょうか。

沖:1990年代は、実は大きな転換点で、現代美術のほうでも、中心がニューヨークとか何かから移っていって、アフリカとかアジアとか、いろんなところのアーティストが出るようになっていって。彼らが、例えば、ニューヨークに行って何かやります、とか、パリに行って何かやります、みたいなのじゃなくて、それぞれの国に住んでいても世界的に活躍できるような感じになってきたというのもあって。アジアやアフリカのアーティストの作品にも、美術的な価値が認められるようになって。今ではそれは普通だけど、その始まりっていうのは1990年代ですよね。美術のほうでそういうふうに変わっていったのと同じように、ある意味で、そういう許容するものも増えてきたし、いろんなものが入り込んできたんじゃないかなと思いますよね。

足立:沖さんの、アートを超えた視野というのは、例えば、その頃お仕事されていた、グリーン・マーケティング研究所の主席研究員での、環境保護とか、地球レベルの環境とか、そういったことも意識にありました?

沖:そうですね。もともと環境問題はずっと重要なテーマというか、1990年代に、ニューヨークから帰ってきた時に、テクノロジーと環境と中国というふうに、3つのことに絞ろうと思って、それぞれいろんなことを調べたり、勉強するようになったっていうのはありますね。これからその3つが大きな役割を持つのではないかと思ったんですね。だから、コンピューターが一番その中では早く進んでいくんだけど、環境も、エコロジカルなものとか何かの関心というのは、それまでの普通の自然保護というか、あるいは、学問としてのエコロジーとはまた違って、わりとかなり一般化していったのと、コンピューターの技術も一般化していくっていうようなものが出始めたんじゃないかなと思うし。その後、1990年代のアーティストの海外展で、国際交流基金で巡回した展覧会があるんですけれど、インドとかフィリピンとかに行く(註:「テイストと探求:1990年代の日本美術」(1998年12月26日~1999年1月20日、ニューデリー国立近代美術館/1999年2月16日~4月3日、マニラ・メトロポリタン美術館)。その展覧会の中で、イメージとしてわりと大きかったのは、「たまごっち」(註:1996年にバンダイが発売した電子ゲーム。たまっごっちと呼ばれるキャラクターを育成する玩具として人気を博した)のイメージが出ていた。たまごっちは、言わば人工生命じゃないですか。だから、人工生命みたいなものも、普通の人がゲームとして小さなたまごっちを持っていたりすることが、わりと普通になってきていましたよね。1990年代は、人工生命の時代で、たまごっちみたいなのもあったし、アートのほうでは、ソムラーだっけ。

伊村:クリスタ・ソムラーとロラン・ミニョノー。

沖:そうですね。彼女たちの作品が、アートとしてたまごっちみたいな人工生命をテーマにしていた。

伊村:クリスタたちとお付き合いはありましたか?

沖:あんまりないんですけれど、会場で会ったりとか。その後、彼女が……。

伊村:ATR(株式会社国際電気通信基礎技術研究所)にいらした時ですか。

沖:そうですね、ATRの研究員になった時、会ったことがありました。

伊村:人工生命の文脈では、幾つか作品があって、クリスタたちは、リンツが拠点ですよね。

沖:そうですね。

伊村:MITのほうでも、カール・シムズが人工生命のシミュレーション・モデルをCGアニメーションで制作していて。作品としてだけでなく、研究としての側面もあったと思うんですけれど、研究のほうにも興味を持たれていたのでしょうか。

沖:そうですね。《ブレイン・ウェーブ・ライダー》の後で、《News_agent(X)》(1997)というタイトルの作品を、シカゴで、ISEAでやってるんですけど、その時に、人工生命的なものが、実は入っているんですよ。作品としては。

伊村:News_agentというのは、人工生命的なものを指していたんですね。

沖:そうですね。その頃、実際にエージェント・プログラムをネット上にばらまくという先端的な研究がありました。でも、コンピューターに大してパワーがなかったから、すごい成果は無かったのですけど。ぼくの作品にもエレメントとしては、人工生命的なものを実は入れていて。これがそうなんですけど、2種類の生物が生まれるんですけど、これは脳波の強さによって出てきて、強い人工生命が弱い人工生命を食べちゃう、それは脳波の状態によってしていて。人工生命的なものがここに入っている。

伊村:人工生命といえば、《A-Volve》(1994)という作品が、クリスタとロランの作品にありますが。

沖:ああ、そうですね。

伊村:《A-Volve》でも、遺伝的なもののモデルと仮想生物が捕食する関係がテーマになっています。鑑賞者が入力したドローイングの形から立体が起こされて、仮想生物の筋肉が動くようにシミュレーションが組み合わさって、強者と弱者の差であったり、鑑賞者の関わりによって変化していく作品ですけれど、そういった関心というのは?

沖:そうですね、ありますね。

伊村:共通するところは?

沖:生命の生存に関するところでしょう。生命的なものっていうのは、人工生命に限らず、あらゆるものの中に生命的な活動を見つけることができて、例えば、経済活動なんかもすごく生命的なわけなんですよ。例えば、《News_agent(X)》は、4つの異なるイメージが出てくるんですけど、届いているのは同じ脳波のデータなんです。1つは経済の上がり下がりを示していて、これも人間の生命活動の1つだというような意味であったり。これはさっきの、もろに人工生命的なものなんですけどね。

伊村:動いているところを見られるのは、おもしろいですね。

沖:これ、YouTubeに上がっているんですよ(笑)。1ドル札があって、ここは、折れ線グラフになっている。

伊村:グラフが生成されていく様子っていうのは、何かと対応しているんですか。

沖:インスタレーションを体験した人の脳波に関連しているんです。それで、脳波に現れる脳の活動によって、人の経済の流れもあるし、元気がいい時は、楽しいという状態が出るとか、そういうふうになっています。だから、あらゆる生命的な、社会的な活動も、人間の生命とつながっているっていうふうな解釈。

伊村:アルゴリズムを作るところが作品だったのでしょうか。

沖:というより、むしろ、アルゴリズムを使って社会現象を解釈するっていう作品ですよね。アルゴリズム自身は単純なものというか、動く生命を作っているとしたら、どう動かすとか、そういうふうに。

足立:コンピューターと言えば、1993年ぐらいにもう既にインターネットに触れていたということですか。

沖:そうですね。アメリカだと、大きな大学ではインターネットを使っていて、日本ではパソコン通信ぐらいしかなかったじゃないですか。インターネットの回線を使ってメールのやりとりができるようになったのはIBMが最初に一般の人にも使えるようなものをだしてくれたり、NTTが無料で一般の人向けに配っていたやつがあって、インターネットに家からモデムでつなげてみた。1980年代の初めぐらいには、海外の大学とか大きな会社ではUNIXが入っていた。アメリカ人の女の子の友達で、その人の亭主は大きな証券会社に勤めていた。彼女が日本に来て、「Eメールっていうのは、すごく便利ね」とかって話していたんだけど、1982~83年ぐらいだからこちらはUNIXのネットワークのEメールがなんだかよくわからなかった。だから、彼らはEメールでアメリカと事務所とやりとりしていたわけなんですよ。日本でも、UNIXのネットワークに入っているような情報処理系の会社とか大学では使っていましたけどね。でも、普通の人は、そういうものに触れることはほぼなかったと思います。

足立:《ブレイン・ウェーブ・ライダー》の頃と、インターネットを使い始めて、世界の、欧米のアーティストもメディアとつながるようになった時期というのは、重なっているわけですか。

沖:《ブレイン・ウェーブ・ライダー》を作った時は、インターネットはないんです。その後の《News_agent(X)》は、インターネットにつながっていて、脳波を扱っていた作品なんです。最近、「My First Digital Data はじめてのデジタル」(3331 Arts Chiyoda、2022年10月29日、30日)という展覧会を藤幡正樹さんが主宰していたんだけど、その時、最初に撮ったデジタル写真は、どこかにいっていて見つからなくなって。最初にカシオのこんなちっちゃいやつ。それで大学に持って行って学生を撮った写真があって、それがほんとはマイ・ファースト・デジタル(写真)なんだけど、それはもうどこかで捨てちゃったから、なくて。たまたまオランダの展覧会のデジタル写真を出していて。何の写真なのって藤幡くんが聞くから、「これは《News_agent(X)》っていって、エージェントがネットワークにつながって」って言ったら、「え、すごい早いじゃん」とか言ってた(笑)。

足立:舞台が、この時点から、もう既に美術業界じゃなくて、世界へ、みたいな感じがするんですけど。

沖:そうですね。美術業界じゃないけど、エレクトロニック・アート。

足立:そうそう。世界のエレクトロニック・アートのネットワークの中に、沖さんはつながっていて。

沖:そうですね。ぼくの場合、全部完全にエレクトロニック・アートに入っているっていうよりは、もうちょっと美術のほうにも入っていて、どっちにも関わっているような感じなんですよね。いつでも大体そうだったですね。

足立:そこは、他のアーティストと大きく違うなと感じています。

沖:そうかも。意識していたわけじゃないけれど、要するに、もともと特にあんまり絞らない。でも、そういうふうにしたのは、1970年代に現代美術のインスタレーション作品を作っていて、それで一番アーティストとしては最初に世に出たんだけど、でも、その作品は自分で嫌いになって。なんか要するに、インスタレーションでも、きれいな感性的なものを作っていく、みたいな感じじゃないですか。だから、違ったロジックみたいのを入れていったほうがいいんじゃないかって。それで道をそれるっていうか。インスタレーションの作品を発展させていったほうが、いわゆる美術家的には良かったんじゃないかなと思うし、その辺は分かれ目ですけれどね。

鏑木:でも沖さんとしては、やはりここは少し違う、ご自分の感じに向かっていかれたということですか。

沖:そうですね。1つだけ、美術だけで考えるというのがあんまり得意ではなくて、好きなものも全然違ったりするし、いろんな分野のいろんな人に会っているし。

伊村:1997年に《News_agent(X)》を発表する前に、1996年にロンドンで「エクス・マキナ」という展覧会をされていて、これはまた違う作品なのでしょうか。

沖:これも、技術としては、《ブレイン・ウェーブ・ライダー》でやったのと同じ、脳波を読み込む作品で。ただ、その時は、もっと作品の内容が宗教的なんですよね。これは、脳のイメージがあって、脳からこの信号のシンボルに変わっていくんだけど、信号のシンボルって、ユングが中国の絵から選んだものなんだけど、要するに、禅のメディテーションの最高の段階を示していて、これ、メディテーションしている人の頭がみんなネットワークでつながっているんですよ。こうやって(図1)。それを見た時に、インターネットもこういうふうになるんじゃないかって考えていたので、わりと宗教的なインスピレーションでした。ヘンリー川原とその時一緒に、これを作るためにネパールに行って、チベット仏教の寺院を回ってきて。だから、そういう宗教的なイメージが出てきて。脳波に合わせて、こんなふうにシヴァやヒンドゥの神々の顔が出てくるとか、なんかそういうような、ちょっとエンターテインメントっぽいんですけれど、こんな作品を作っていました。

図1 Four stages of meditation. Stage 4: the centre in the midst of conditions.
Source: From the Hui Ming Ching ; reproduced in Jung’s Collected Works, Vol. 13.
John J. Clarke, ed. C. G. Jung Jung on the East, Routledge, 1995, p. 101

伊村:巡回展は、キヤノンのエンジニアの方も付いていたのですか。

沖:いえ、すでにこの時は全部自分で開発していたんですよ。キヤノンの、《ブレイン・ウェーブ・ライダー》の時だけで。《ブレイン・ウェーブ・ライダー》を作っている時に、エンジニアの人と一緒にやってました。昔は、プログラミング言語は、自分でプログラミング言語を書かないとアプリが作れなかったから、誰もがプログラミングをやっていました。昔のパソコンにはBASICという言語がついているので、それ使ってプログラミングやったりとか、絵を単純に動かしたりとかやっていたんだけど、《ブレイン・ウェーブ・ライダー》を作った時に、キヤノンのエンジニアの人たちがC言語で開発していたので、それでぼくもコンピュータースクールに行って、C言語を勉強して(笑)。だから、その後の作品は、全部自分でプログラミング書いて作っているんですよ。その後、美大でもプログラミングを教えたりしていたのは、そういうことですよね。だから、技術も、学校で教える内容も変わったし、美大は、1990年代はインターネットを通して、それまで学校にコンピューターが1台あるかないかぐらいだったのに、何百台って入れなきゃならなくなったじゃないですか。それで、大学で、足立さんと知り合った時っていうのは、藝大の中でも小さなコンピュータの部屋があるだけだったけれど、今はどこの大学でも、一番面積を持っているのはコンピューター室じゃないですか。それまでは、イーゼルとキャンバスと、広い部屋があれば良くて、デザイン科はただ製図板があればいいだけだったじゃないですか。それが大転換したのが1990年代だから、そういう意味では、1990年代は普通にしていても変わらないほうがおかしいっていう、ぼくはそういうふうに思っていて。あらゆるものはつながっているなと思うのは、藝大でグラフィック・デザイン科の学生にHTMLを教えてほしいって頼まれたんだけど、頼んだ先生は、もう亡くなっちゃったんだけど、内山昭太郎先生で。その時のコンピューター室の管理人が。

足立:三浦均さん?

沖:そう、今は武蔵美で教えている。「フライデーっていうオンライングループをやっているから、入らないか?」って言って。それで、足立さんにもつながっていくわけなんですけれど。内山先生は、もともと藝大の前は多摩美にいて、ぼくは、多摩美の時は知らないんですけれど。彼は、自分の学生を連れて、ビデオギャラリーSCANに来ていたんですよ。ぼくが『ビデオサロン』という雑誌に、中谷さんと隔月でビデオアートについての文章をずっと書いていたのですが、内山先生は、「あなたの書いた文章は、みんな持ってるよ」って言っていて。ビデオアートのほうからつながっていってコンピューターについても知っているビデオアートの人っていうのもいなかったから、ぼくに話が回ってきたわけですね。

伊村:メーリングリストっていうのは、何年ごろに始まったものだったんですか。1990年代ですか。

沖:96年ぐらいですよね。

足立:6年か、7年か。

沖:4年ぐらいしか。でも、4年ぐらいって考えると、長いですね。4年ぐらい。もっと続いたかもしんない。5年ぐらいかもしんない。途中で、だんだん人が増えてきて、随分いろんな人がいっぱいで。現在は東大の渡邉英徳さんもフライデーだし、多摩美の久保田晃弘さんもフライデーだし。みんな、あっと驚くすごい人になって。足立さんも。

足立:いえ(笑)。

沖:こないだ、四方幸子さんが、足立さんは、彼が森美でアルバイトしてる時に会って、足立さんがこんなになって素晴らしいと言ってました(笑)。

足立:でも、1990年代、そういう意味では、沖さんにとっては楽しかった感じですかね、1980年代に比べて。

沖:そうですね。まあ、いつでも楽しいですね。楽しいけど、何かまたすごい変化があって、でも、その前のニューヨーク生活もやっぱりすごいカルチャーショックだったじゃないですか。カルチャーショックというのがむしろ、コンピューターとかネットワークの中でどんどん見つけられるようになったっていうのもあるし。あと、ニューヨークにいる間は、本屋に毎日行って本を買っていて、日本に帰ってきても、Amazonで買えるようになった。日本ではまだAmazonがなくて、ぼくはアメリカのAmazonで口座を作って、向こうから郵送してもらっても、日本で洋書を買うより安かったから、Amazonができたころから日本から買っていたんだけど、それもインターネットのおかげですよね。インターネットによって、随分と知的な世界の情報の流通も変わったと思いますよね。

伊村:読まれていた本の中に、バーバラ・マリア・スタフォードの本が含まれていましたが、この時代特有の、ポスト・モダン的な感性を摂取するきっかけになったような雑誌などはあったのでしょうか。

沖:雑誌で考えると、いろいろあるんですけれど、メジャーなのだと、初期の『WIRED』なんかもそうですし、『Mondo 2000(モンド・トゥー・サウザンド)』という雑誌があって、すごくマイナーな本なんですけど。知らないですよね?でも、これの影響はかなり大きかった。ネット文化もサンフランシスコあたりが中心だったじゃないですか。ぼくにとって《ブレイン・ウェーブ・ライダー》も、純粋なアートっていうよりは、むしろカウンター・カルチャー的なものですね。

伊村:カウンター・カルチャーと、SF的な感性は……。

沖:そうですね。日本でもそうかもしれないけれど、エンジニアのギークっていうのは、みんなこの辺の感じがすごくありますね。サンフランシスコ的なヒッピーの文化から、ある意味、シリコンバレーも生まれたし、スティーブ・ジョブズも、ナードかヒッピーかどっちかって聞かれた時、自分はヒッピーだって言ったんだけど。ナード的な感じでのエンジニアの人も多いけれど、ヒッピー的な人たちもすごく多かったですよね。あとは、ハッカーの雑誌で『2600』ですね。これは、ニューヨークにいる時に読んでいた本で。B5サイズぐらいの薄っぺらい本なんですけど、ニューヨークのハッカーの子たちを中心に全国で読まれていた。最初は、レッドボックスとかブルーボックスといって、無料で電話をかける技術を身に付けるとかそういう話から始まる。要するに、スティーブ・ウォズニアックとか、Appleを作った彼らも、実はレッドボックスとかブルーボックスを売っていたわけですよね。それでお金を作ったりしていたわけで。これはコインの大きさに合わせて、それぞれ違う電子音の周波数で種類を選別していたもので、それでいくらのコインが入ったかを機械が読んでいたわけです。それで、その若い悪ガキの子たちは、その音を出す装置を作ってプーってやると、コインが入ったと認識されるから、それで無料で電話をかけられるっていう装置作って売っていたんです。それが最初のハッカーなんですけど。ちょうど、ニューヨークにいて、まだぼくもIBMのコンピューターしか持ってなくて、Macなんかはあったけど、別に普通に使うのはIBMのコンピューターのほうが一般的だった。その後、ニューヨークにいる間に、Amigaを買ったりしたんだけれど、これを見ても、ハッカーはどちらかと言うとIBMコンピューターを使っているんですよ。視覚的なものより、むしろこういう、ハッキングすることが中心だったから。2600はニューヨークをベースにした出版物です。マンハッタンでは毎月何曜日かにミーティングがあるんですよ。シティバンクの地下にカフェテリアがあって、そこで集まってました。すごい銀行の地下のカフェテリアでみんな集まって、話をしていたっていうのも面白かったし。それから、有名なハッカーの男の子がいて、日本のテレビ番組で、アメリカのハッカーをインタビューするという企画があって、その番組のプロデューサーをしていたのが高城剛さんでした。ぼくはその時初めて彼と会ったんだけど、彼は日大の芸術学部の時に、ぼくの『ビデオサロン』の文章を読んでいたから、ぼくのこと知っていて。それで会って、名前忘れちゃったけど、わりと有名なハッカーの若い子がいて、撮影して。ハッキングしているところをビデオに撮ろうってなりました。公衆電話でモデムを付けてハッキングしていたんだけど、後ろからおまわりさんが来て、「何やってんだ」ってなって「別に通信してるだけです」と言ったら、「あ、そっか」で済んで終わったんだけど。どこかの会社の、別に害はないんだけど、ネットワークに入って、データ見るとかしていました。そういう意味では、『2600』は、超オタクというか。

鏑木:この『2600』というのは、インディペンデント・マガジンですか。

沖:そうですね。ぼく、ニューヨークのイースト・ヴィレッジによく行っていて、他のところの本屋さんにはなかったかもしれないけど、そこの本屋さんにはありましたね。

鏑木:わりと普通に見られる感じだったんですか。

沖:その頃、イースト・ヴィレッジあたりにいる詩人の人たちも、自分の詩をコンピューターでプリントアウトして、ロールにして、それで詩の本を作ったりしていたから、カウンター・カルチャー的なものとコンピューターが結び付いていて。ぼくはどちらかと言うと、気持ちとしてはこっちのほうを楽しんでいたかもしれないな。

鏑木:沖さんのいろいろな考えに、とてもマッチしますよね。日本のエンジニアとか、そういう人たちの界隈とはまた別の。

沖:そうですね。でも、日本のエンジニアも、こういう感じを持っている人もいたんじゃないかな。でも、海外の場合は、かなりいて。もともとアートへの受け入れ方が違うんでしょうね。

伊村:先ほど、メーリングリストの話をしましたけど、海外のメーリングリストに入ったりということはありましたか。

沖:海外のメーリングリストは、インターネットのフォーラムみたいな形で入ったりとかしてましたね。あと、MITでつながりだしたりして、『レオナルド』を買ったりしたから、連絡がきたりとかはしていた。ISEAなんかもきましたね。

伊村:それが有効に機能したという感じはありました?

沖:そうですね。どんどんそういうのが広がっていって、情報的にはかなり一般化していったかなっていう感じしますよね。

(休憩)

足立:琴(きん)の演奏を練習から始めたのは、いつからですか。

沖:あれは、北京のテクノロジーアートのシンポジウムに行って発表した時に、故宮の横の道を歩いていて。1軒だけお茶屋さんがあって、たまたま入ったんです。そしたら、そこがものすごい文人趣味のところでした。ぼくも二胡とかそういう中国楽器は知っていたけど、見たことのない楽器があって、「これはなんという楽器か?」って聞いたら、「古琴(グーチン)」というので。見た目も弦楽器だから、自分でもできそうな感じもして。それで、面白いなと思って。ぼくはどっちかって言うと、それを使って、エレクトロニクスみたいな楽器と組み合わせられないかなと思っていたんだけれど、日本に帰って、古琴を教えている人はほとんどいなくて。坂田進一先生のところへ行って習い始めて。坂田先生は、演奏家であり、中国音楽、日本音楽の研究者でもあるので、かなり徹底的に習って中国古代文化にも興味を持って、はまってしまったんです。でも、坂田先生は、おととし亡くなりました。

足立:中国に行かれたのは、いつですか。

沖:いつだかわかんないけど、1990年代に入って。

鏑木:天安門の後ですか。

沖:ええ、1992年ごろです。

足立:つまり、インターネットへの、新しいものへの関心と、古い中国伝統文化への関心が、平行していたというのは面白いなと思って。

沖:そうですね。その時思ったのが、過去のものと未来のものっていうのが、かなり同じスピードで動いていて、自分を中心にすると、過去っていうのは振り向くとゴーってすごい勢いで遠ざかっていって、未来っていうのもまたすごい勢いで進んでいるという感覚がありました。坂田先生は、古典音楽のウォーキング・ディクショナリーみたいな博覧強記な方で。古琴以外にも、明清学にも詳しく、中国と文人文化に非常に深く通じていた方でした。坂田古典音楽研究所を主宰していました。先生が書かれた文献は貴重なものがたくさんあります。

足立:大学で教えるようになったのは、名古屋造形大が最初ですか。

沖:そうですね。最初に名古屋造形大学に呼んでくれたのは、飯村隆彦さんが名古屋造形大学で教えていて、飯村さんから教えないかって言われて、それで教えたのが最初ですね。

足立:それは何年からですか。

沖:1994年か95年かな。フィンランドでの展覧会で会った時に教えろと言ったのか、その前に教えろと言ったのか、ちょっと忘れちゃったけど。

鏑木:東京造形大より名古屋造形大のほうが……。

沖:そうです、名古屋造形大学のほうが先です。名古屋造形大学、だから、最初の頃の学生は、もう50歳ぐらいになっています。東京造形大学ではデザイン系の専攻で教えていたのだけど、名古屋造形大では美術系の専攻で教えています。自分の関心事からするとそれで矛盾しないのですけどね。例えば、これはぼくのPinterestのページで(スマートフォンを見せながら https://www.pinterest.jp/keisukeoki/)、大体ぼくの関心領域がみんな入っていて。遠近法とか、バーチャル・リアリティー、パンクとか、アンソロポロジーとか。これが古琴。こういう楽器なのです。で、これは、こういうような画題っていうか、様式は文人画として日本画の中にも入っていて。高祖父の沖冠岳の絵の中でも見受けられます。哲人がいて、後ろに子どもがいて、それが琴(きん)を抱えているっていう、山水画に出てくる絵のパターンがあります。それから、これはグラフィック・ノーテーションっていう現代音楽で用いられた楽譜です。こういうようなアナログのアーリー・エレクトロニック・ミュージックなど。大体、自分の関心事はこの辺にあります。あとは、日本の、これだと河鍋暁斎とか、そういうのが入ってたりとか。あと、テック的な、CGを使った山水画とか。こんなもんですね。でも、これ見ると、大体ぼくの関心事。全部モノクロ写真の美人。フューチャー・カンフーという項目は、カンフーが中心になっています。

足立:学生時代、武道をやっていたのですか?

沖:そうですね。少林寺拳法をやっていました。

足立:その武道っていうのは、カンフーなんですか。

沖:日本の少林寺拳法。その後、太極拳をやって、今も、フィリピン武術をやったりしているんですよ。こっちのカテゴリーは武侠の話なんだけど、全部女の人の武術のイメージになっていて面白いから集めてます。これ、わりとフォロワーの人多くて。特に女の人に興味あるんじゃなくて、女の人が武術やるっていうのが面白いなと思って。ぼくは、どっちかっていうと徒手格闘技なんだけど、このように女性が、みんな刀を持ってるじゃないですか。刀を修行すると、女の人も男にほとんど勝てるんですよね。そういう意味ですごく面白いなと思ってます。これは、ウーシャ(武侠)といって武侠小説なのに、いつの間にか女の子だらけになったのですが、中国の武侠小説には、わりと女の達人が出てきます。

足立:そういう身体的なもの、修練的なものは、学生時代が終わってからも、ずっと続けていたんですか。

沖:そうですね。別に、武術家ではないですけど、武術は面白いと思ってます。でも、身体への関心はいつでもあって、そこでもまた別の見方をしているわけですよね。

足立:それが、作品にドクロを用いることにもつながるわけですか。

沖:そうですね。このドクロは、自分のドクロ。自分の脳をスキャンしてブロンズにした。なんでブロンズにしたかと言うと、ブロンズは、ギリシャ、ローマとか、青銅時代でも、人間の歴史の中ではずっと残るものだから、ぼくが死んでも、ドクロと脳をブロンズにしておけば、ずっと残るという作品になっている。

足立:インターネットのように、いわゆるハイテクと呼ばれるようなものに関心を持ちつつ、古いものに関心持ちつつ、でも、身体的な修練もずっと続けていかれていた。

沖:そうですね。基本的には、ホモサピエンスの脳が10万年ぐらいだけど、現生人類の10万年ぐらい昔の心情と、今の人類のそれとを比べると、心の中ってほとんど変わってないわけですか。他の技術とか暮らしとか、そういうものは変わったけど、でも、心情はほとんど変わってなくて、大体同じような感覚を持っているわけです。もっと進化しているんじゃないかと思ってたんだけど、ウクライナ戦争とパレスチナの戦争が始まってしまって、ああ、やっぱり人間って全然進化しないんだなって。あんなに第二次大戦で大変なことがあって、特にユダヤ人だって、あんなに迫害されたのに、今、迫害するほうに回っていて。人間は全然進化しないなって思います。

足立:という点では、沖さんの活動、初期のころから一貫しているようにも……。

沖:そうですね。自分を中心にしたら一貫しているんですよね。外から見ると、説明をたくさんしないと分かんないじゃないですか。だからグラフィック・デザインをやっていた頃の友達に会って、その人が他の人に「デザイナーの沖さんです」と言って紹介する。でも、こちらにとってはそういう紹介は別に、特には関係がない。村山知義もそうですが考えてみると、アバンギャルドというのはロシア・アバンギャルドあたりから、ずっとアートもデザインも含めていろんなことやっているんじゃないかなと。

足立:身体的なものに関心を持ち始めたのは、いつからなんですか。

沖:身体的なものに興味を持ち始めたのは、システムではないけど、わりと武術の影響があって、急所を狙ったりとかするじゃないですか。少林寺拳法だったから、一緒に整体も習うんですよ、道場で。少林寺拳法には、剛法、柔法、整法があって、剛法は殴る蹴るで、柔法は技をかける、整法も経絡を学んだり、その3つが中心だったのです。整体も一応、基本的なことはできるんですけれど。その時が一番、特にイメージとして身体に触れた感じはしますよね。あと、ちゃんとは習ってないけど、クンダリーニヨガもやりました。ヨガも、東洋、非西洋医療っていう感じで、そういうのに興味を持ったのと、もちろん先端医療技術とか、もちろんDNAとか、遺伝子技術への興味につながる。

足立:多摩美の頃に戻ってしまいますけれど、多摩美にいらした頃に、武術、整体を学んでいたのでしょうか。

沖:そうですね。その時、ステラークも、経絡的なものとかも関心を持っていたようです。彼のサスペンション・イベントって、普通の人が見ると、ものすごく痛々しいわけですね。でも、彼は……。

足立:痛くないんですか。

沖:どこを刺すと痛くないかっていうのを知っているわけなんですよ。それは、自分で研究して。

伊村:皮膚に針を刺しているので、痛いんじゃないかと想像してしまいますが。

沖:これ、全部あまり痛くない位置を見つけているんですよね。

足立:ほんとうですか。沖さん自身も、これを試したりとかされて?

沖:ぼくは試していないけど、写真を探すと、ぼくが手伝っているのが出てくる。

伊村:ステラークも、写真入りでいつも同じフォーマットで作られているDMが国立新美術館に残っています。

沖:そうですね。身体とテクノロジーは、実はすごくつながっている。最初にそういうイメージをもたらしてくれたのは、特にステラークかもしれない。これは(写真を見ながら)芝の増上寺で。多分、これ、彼の体を回しているの、ぼくだと思うけど(笑)。この《第3の手》と、今の《第3の耳》とは、別物みたいだけど同じコンセプト。この頃はちょうど《第3の手》を付けて、サスペンションをやっている。多くの人たちは、彼はボディ・アートをやっているとしか思わないんだけど、例えば、「吊り下がって、引っ張られて痛いか?」と聞くと、その痛みは「人間が地球の引力から外に出ていく時の痛みなんだ」っていうふうに説明してくれる。そうすると、表現の構造がわかったりします。だから、むしろ、技術とかも含めて、彼のシステムがあって、そのシステムの中でサスペンションをやっているということがあるわけです。美術の中でも、技法そのものも、システムだけど、それをシステムとしてあんまり考えていないじゃないですか。技法は習得するものとして考えられているけど、習得するものの中にシステムというのがあって、それはあまり意識されていないですよね。でも、ぼくが遠近法に関心を持つのは、見えている世界をシステムとして分析しているからだし、それから、例えば音楽でも、楽譜を見れば、どこで音を出すか出さないかも含めて再現できるじゃないですか。西洋の楽譜はそれで成り立っているわけだけど、例えばグラフィック・スコアとか、ジョン・ケージがやっているようなものは、そこから外れて、また発展させていくというものです。その記譜法は、音楽を西洋音楽の文脈でしているわけです。その後、坂田進一先生に会って、北京で出会った楽器に惹かれて古琴(別名で七弦琴あるいは「琴(きん)」)を習い始めたのだけれど、中国には古代より楽譜があって、古琴の曲は、3000年ぐらい前の曲を弾けるわけなんですよ。それはなぜかと言うと、独特な楽譜のシステムが作られていたからで。それはすごいことで、今演奏されるギリシアの音楽は、近代の産物なんですよ。イオニアとかドリアとか、そういう旋律は分かっているけれども、どういうふうに演奏したかというのは楽譜がないから特定できなくて、こんなふうだったんじゃない? っていうふうにやっているだけの話です。でも、近代の音楽、西洋の音楽なんて、みんなほとんど分からないわけなんですよ。実は中国の場合は、独特な記譜法があるわけです。それで、坂田先生のところでそれが分かって、すごいなと思った。(『春艸堂栞譜』を見せて)こういう楽譜なんですよ。

鏑木:これは楽譜なんですか。

沖:そうです。弦をどの指でどんなふうにして弾くかっていうのを書いてあるわけです。

鏑木:それは明文化されているということですか。

沖:そうです。これは「減字譜」っていうんですよ。それで、減字譜の前は、文字譜といって文章に書かれていて、一番古い古琴の楽譜は、実は日本にある。「碣石調幽蘭」という曲があって、その時の楽譜が日本に残っているから弾ける(現在東京国立博物館蔵)。ぼくが好きで得意な曲は、竹林の七賢の人が作った曲で、3世紀くらいの曲。それは、西洋のシステムよりも、もっと前に中国人が作ったシステムがあって、現代につながっている。システムを見つけるっていうのは、これはやっぱり面白いことです。システムといえば、2019年に『美術手帖』の「第16回芸術評論募集」で選ばれた芸術評論の中でも扱っているけれど、ポップアートがどのくらいの時に出てきたかっていうのは、本のデータをデジタル化することによって、ポップアートっていう言葉が何年に出てきたかっていうのが分かるわけです。そういうデータを使って最初に発表したのが名古屋造形の紀要に発表した論文で、近代美術をデータで読むというもので。もっと受けるんじゃないかなと思ったけど、全然受けなくて、芸術評論も椹木野衣さんが見つけてくれなかったら、もうちょっとで落選するところだったらしいのだけど(笑)。ぼくはトップで当選するんじゃないかと思っていたのですが。

足立:古琴には抵抗の思想が込められている、ということを聞いたことがあるんですけれど。

沖:それは、竹林の七賢を考えれば、そうですよね。竹林の七賢の嵆康(けいこう)が皇帝に逆らって、学生が何千人と集まって命乞いしたけども、止められなくて、最後に死刑になられたんですけど、その刑場で処刑前に弾いた曲があって、「広陵散」という曲があります。『源氏物語』で光源氏が須磨の浜辺で弾くのが、「広陵」という曲だけれど、それは多分、「広陵散」なんだと思う。日本で、古琴の歴史がはっきり残っているのは、江戸時代以降で、明末の中国から東皐心越(とうこうしんえつ)という高僧が、3代目の家光の時代に来ました。でも、奈良時代にはもう日本には来ていて、日本の『源氏物語』よりも先に出ている、和文による文体の『宇津保物語』に残っている。『宇津保物語』は、神秘的なすごく威力のある楽器の物語なんだけど、それは古琴の話です。

鏑木:(楽譜の)写真を撮らせていただいてもいいですか。

沖:どうぞ。それで、江戸時代ぐらいまでは、紫式部が弾いたと言われる古琴が残っていたっていう話なんだけど、それは本当かうそかわからない。江戸時代になると画家の浦上玉堂が、自分のことを琴士と称していました。彼の芸術表現は琴(きん)が中心なんですよ。彼の持っていた琴である明代の顧元昭の七弦琴「玉堂清韻」というものがあって彼の画号「玉堂」になりました。その楽器は行方不明になりました。誰かが持っていて、おそらく裏の世界では何億の値段になっているんじゃないかと思います。浦上玉堂は、自分を琴士と呼んでいたわけで、彼の子どもは、秋琴、春琴じゃないですか。秋琴(しゅうきん)、春琴(しゅんきん)といって、名前もその古琴に由来しています。そういうような話もすごくインスピレーションがあって、すごくはまってしまう世界ですよね。

足立:2000年代になって、中国の古琴と出合って、自分自身のやっていたことが浦上玉堂につながるというふうにお考えになったのでしょうか。

沖:まあ、つながってはいないですけどね。

足立:重なっていくっていう感じですね。

沖:琴を通してわかったのは、楽譜なんかもそうだし、短い間だけど雅楽の龍笛を習いに行ったことあって。日本のそういう楽器も習って、東洋の楽理みたいなものもちょっと勉強したっていうのはあります。

鏑木:全く知らない世界だったので、興味深く伺いました。

沖:面白いですね。だから、ほんとはかなり奥深い世界だし、いろんな意味で現代芸術としてつながる。でも、それはもうほんとに微妙につながっているものだと思います。足立さんの『アナキズム美術史:日本の前衛芸術と社会思想』を読んでても、やっぱり戦前のアバンギャルドが、そんなには全然ちゃんと理解されてつながってないし、村山知義のことでさえ、やっぱり表面的な感じでつながっていて、わりと人気あるけれども、でも、全部一貫しては、話としてはつながってないですよね。村山知義なんかはほんとに、ものすごくて、かなり万能じゃないですか。だから、映画の『忍びの者』って好きだったんだけど、あれを書いたのは彼だった、村山知義だったわけだから、それがわかった時はほんとうにすごいなって思いました(笑)。やっぱり劇の脚本も書いたりとか、いろんなことやって。それから、小説も書いて、絵も描いて、デザインもやって、建築もやって。もっともっと知られたほうが良いですよね。でも、「美術評論+」に足立さんのあの本について書いた時、ぼくは、冒頭で東欧の国のジョージアの前衛の話から始めてるじゃないですか。たまたま国際的なアートジャーナルのe-fluxを見ていて興味を持ったのだけど、日本のアバンギャルドとおなじ時期で、ロシアの実験的なアートの影響をもろに受けていますね。日本は同じ時期に、村山知義が、自分がヨーロッパで習得してきたアバンギャルド芸術を始めた。でも、もっと実験的なことは、ジョージアのアバンギャルドのほうがやってたのだなっていう感じがしました。日本のアバンギャルドには、ちょうどたりないようなものもあったんじゃないかなという気がしました。でも、それがわかったのも、日本でのアナーキズムとアバンギャルド芸術について書かれたあの本のおかげです(笑)。

足立:初期にインスタレーションをされていた頃からの展開だと思いますが、建築、インスタレーションから、デジタル・アートのインスタレーションも含めて、建築への関心について聞かせてください。

沖:建築に興味を持ったのは、むしろデジタル以降ですけれど、構造には、――システムと同じだけど、関心を持ちました。建築は、それまで建築家のデザインのものだと思っていたんだけど、1990年代にデジタル技術が建築に大きな影響を与え始めた。数学的なものから形が出てきて、それが生物のように時間によって変化するというような概念が、デジタルなものの中に出てきたのを中心に、自分が関わってきたデザインやアートの範囲と共通するものがありました。最初に面白いなと思ったのは、グレッグ・リンという建築家で、グレッグ・リンのインスピレーションはコンピューター・グラフィクスの中の骨組みから来ている。CGアニメーションでいう「ボーン」ですよね。それで形状が変化するということから、彼はインスピレーションを受けたわけです。建築自身は固定されたものだけれども、それを動くものとして捉えたり、材料の中でそういう要素を入れていくような建築家が出てきたんだなと思って。ファッションの人たちで建築に関心を持った人も随分いて、服の延長の中に建築を考えたりしたりしていて。で、そういうような感覚は、わりと共有されたものであって、デジタルな表現以前では、クリストなんかがあって、彼の作品は構造的なものを拡張していく傾向があったじゃないですか。建築とファッションみたいなものも、わりと混ざってますね。そういう意味では、建築も身体につながってるんですけど、でも、建築に興味を持ったのは、グレッグ・リン以降の、1990年代のデジタルの建築。そう思ったら、オランダのボンネファンテン美術館の展示に呼ばれたのは面白いなと思ったんですけれどね。

鏑木:1999年にオランダの展示があって、その後、2000年にカーネギーメロン大学にいらっしゃる。

沖:そうですね。

鏑木:カーネギーメロン大学に呼ばれるきっかけというのは、どういうことだったのでしょうか。

沖:呼ばれるきっかけは、飯村隆彦さんのおかげなんですよ。飯村隆彦さんは、アメリカでも評価が高いので、飯村さんがカーネギーメロンとコネクションを持っていて。飯村さんと名古屋造形大学で一緒に授業をしていて、カーネギーメロンの人たちが来たから、教員がプレゼンテーションをやるっていうことになって、ぼくは自分で英語でやって。その時のカーネギーメロンの主任教授が、「あ、こいつはうちに呼ぼう」と言っていたらしいんですよ。ぼくも、ルクセンブルグの展覧会の時に、たまたま、カーネギーメロン大学の人に会っていたし、わりと近いやつだと思われたんじゃないかな。

鏑木:SFCI研究員というのは、どういうポジションなんですか。

沖: Studio for Creative Inquiry所属の研究員。今でも続いていますよね。今でも、かなり面白いことやっているみたいです。今でもメーリングリストが来て。寄付してくれって(笑)。

伊村:他の教員とのコラボレーションみたいなことはありましたか。

沖:特に向こうの教員とやることはなくて、自分の研究をやればよくて。向こうでやっていたことは、その後の京都国立近代美術館と東京都現代美術館でやった展覧会の設計図とか描いて、映像の作品をコンピューターで作ったりしていて。カーネギーメロンに行っている間は、自分の作品に集中してやれたので、良かったですね。でも、学校の中で、学生たちに授業をしたり、先生同士で、研究室の中での発表会があったら発表しなきゃいけないというのもあったり。わりと大変でした。

鏑木:PS1でも発表されたのですか。

沖:PS1では、幾つかサウンドの作品を発表したりしています。メインの作品じゃなくて、サウンドの作品で発表してます。エリオット・シャープというニューヨークの有名なノイズのミュージシャンがいて、彼と友達で。彼が何回かPS1でも発表していて、そこにサウンド作品を出しました。PS1は、うちの奥さんのほうがグラントをもらって、1年ぐらいいました。

鏑木:少し話が前後してしまうかもしれないんですが、京都の展示が1999年にあったと思います。

沖:そうですね。そのくらいですね。

鏑木:その時に展示されたのが……。

沖:そうですね、《bodyfuture》。同じ作品を東京都現代美術館でも出品していて、その作品のタイトルが《身体未来―地球的身体にさようなら》。

鏑木:カーネギーメロンには、何年くらいいらっしゃったんですか。

沖:向こうに実際にいたのは1年です。それで、今はリサーチ・アソシエートになっているんだけど、リサーチ・フェローというのが研究員で、基本的には向こうの定義としては、2年間いるわけですが、ぼくの滞在は1年ですけれどね。リサーチ・フェローというのは、日本に帰ってきても、リサーチ・フェローとして活動するとことになっていて。

鏑木:帰国されてからも、研究したり、なんらかの形で成果を求められていたんですね。

沖:そうですね。論文を発表しています。

鏑木:帰国後もリサーチ・フェローとしての活動を継続されていたのでしょうか。

沖:そうですね。英語の論文じゃないといけないということがあって。2001年の横浜トリエンナーレの時は、もう日本に帰っていたんだけれど、その時はまだリサーチ・フェローだったので、横浜トリエンナーレでセッティングが終わって、9月の初めの頃に、カーネギーメロンに行ったんですよ。9月10日に発って一泊して、9月11日に朝起きて学校に行ったら、みんなが芝生の上で集まったりしていて。それでホールに行ったら、食べるものがいっぱい置いてあって、大きなスクリーンがあって、ワールド・トレード・センターに飛行機が突っ込んでいるっていうニュースが流れていました。スタジオ行ったら、「あんた、何を持ってきたんだ?」みたいなことを言われて(笑)。ちょうどあいさつをしに、8時15分ぐらいにたまたま学校へ行ったら、みんな学生が、ウワーっていう感じだったんですよね。それでまた、学校からはわりと離れているんだけど、ピッツバーグにも1機落ちたんで。すごい日でしたね。ほんと、いっぺんにいろんなことが起きて。

鏑木:あちらで体験されたということですよね。

沖:そうですね。その前日の9月10日の夜は、ちょうど飛行機の乗り換えがニューアークだったので、遠くにマンハッタンの夜景を見ていて、それから飛行機に乗ってピッツバーグに行って、次の日にあの事件が起きた。非常にショックだったけど、印象深かった。帰れなくなってね。最初の東京造形大学の授業は、帰れなくって飛ばしたんですけど(笑)。アメリカの学校は、日本の大学とは全然違っていて、もうめちゃくちゃすごいなと思ったのは、その時、マニュアルができているわけですよ。緊急事態が起きたら、ホールには食べるものがザーッと並んで、ビデオがあって、いつでもいろんなものに対応できるようなものが、事件が起きて1時間ぐらいの間に全部そろってできているから、すごいなと思って。学生が大体6,000人ぐらいで、職員の数が2,000人ぐらいいるんです。徹底してそういうシステムみたいな緊急対応のマニュアルなんかもできているんだなと思いましたね。ほんと、ちょっと日本だったら、おたおたして走り回っているだけみたいな感じの時に。カーネギーメロンはほんとにすごかった、非常に勉強になったっていうか、アメリカの大学と日本の大学では比較できないぐらいだなと思っていました。でも最近、東大とかに行くと、留学生も増えて、なんとなくアメリカの大学っぽくなったなっていう感じはしますけどね。

足立:帰国されてからですよね、いわゆる「殺すな」デモ(註:2003年3月、アメリカのイラク攻撃開戦直後に行われた美術家たちによる反戦デモ。発起人は、小田マサノリ+工藤キキ+椹木野衣+山本ゆうこ(http://www.tententen.net/korosuna/)。堀浩哉+沖啓介「反戦アート・ネットワーク」から椹木に送られた反戦集会の呼びかけに対する応答として椹木と小田の間で往復メールが交わされ、3月13日に発起人の連名による声明文および3月21日のデモ参加への呼びかけが送付された。「殺すな」デモの趣旨はウェブサイトに掲載されている他、デモの様子は以下レポートが参考になる(https://www.indierom.com/dengei//society/korosuna/korosuna2.htm))をされたのは。

沖:そうですね。「殺すな」デモは、イラク戦争ですね。

足立:そこに参加するようになったきっかけっていうか、最初の日にお伺いした、高校生時代からの意識が、イラク戦争のころに、もう一遍、こう(盛り上がった?)。

沖:そうですね。まあ、別に。

足立:っていうわけでもない?

沖:ぼくは別で、堀さんと一緒にやっていたわけなんだけど。椹木さんたちが「殺すな」をやっていて。

足立:合流したわけですか。

沖:合流したっていうか、同じ美術だから、一緒にやろうか、というような。椹木さんたちのほうが人数が多くて、ぼくは堀さんたちと……。

足立:堀さんたちと沖さんが一緒にやったっていうのは、よく分からないんですけれども。

沖:堀さんは、多摩美の先輩だし、展覧会も一緒だったりとかで、前からよく知っていて。で、堀さんも、ぼくはあんまり普通には政治的じゃないので。なんとなく知っている感じで、それでたまたま最初のイラク反戦デモに行った時に、ぼくもどこにも所属しないで1人で行って、それでたまたま歩いていたら、堀さんもとぼとぼと歩いていて。

足立:偶然出会ったんですか、それで。

沖:堀さんが、彼は演劇をやっていたから、演劇系の反戦デモに入っていましたが、どこに所属したらいいかわからなくて。そしたら、沖啓介が、環境系のところに1人でぽつんと入っていたから、「じゃあ2人でやろう」、なんて話に堀さんがして(笑)。それで、「反戦アート・ネットワーク」をつくろうと言って、それで彼はマニフェストみたいなものを作って発表した。ちゃんとそういうふうにやるところが美共闘っぽい(笑)。ぼくはなんか、あんまり別にそういうのはどうでもいいやと思っている方ですが。

足立:じゃあ、そこで出会わなかったら…。

沖:まあ、別に1人でやってるだけですよね。でも、面白かったのは、メーリングリストみたいなものを作って、それで、いろんな話をして、彼らは彼らで、美術に位置づけようっていうふうに思ってるから、「殺すな」っていうあの文字も、ベ平連のシンボルで、岡本太郎が書いた「殺すな」っていう文字を使ってやっていました。それで、椹木さんはその後本を書くから、それにつながってるわけです。別にそれは勝手にやるからいいんだけど、ぼくは、高校生の時に、生まれて最初に行ったのはベ平連のデモだったので、だから、昔のベ平連の話をそのメーリングリストで書いたりしている。実はぼくは、高校生の時、1回だけ新宿区にあったベ平連の事務所に行ったことがありました。それに、岡本太郎は、彼のリベラルな感覚としては、ベ平連にも協力したけれど、ベトナム戦争に殊更に反対したっていう感じは特にないし、堀さんなんかも、別に岡本太郎なんかあの時は全然影響なかったねって言ってたけど、椹木さんなんかは岡本太郎だけを持ち上げて、「殺すな」というあの文字を使ったから、目立ったのでした。あの時期で美術のほうから、とか、芸術のほうから政治的な活動を強くやっていたのは、むしろゼロ次元、告陰とかの人たちで。ぼくは、あの辺は全然付き合いなくて、その後は知り合ったりしたことがあるんですけど、でも、全然。当時はぼくのほうがもうちょっと政治少年だったから、会場で裸でヘルメットかぶって、パフォーマンスすることに違和感がありました。でも、印象には残っていて。あとは、日大の芸闘委って、芸術学部闘争委員会がすごく目立っていましたね。かっこいいっていうか、黒いヘルメットで、芸術の芸って書いているだけで、すごくかっこ良く(笑)。芸術で突っ走るぜ、みたいな感じでした。

伊村:その話に関連して、2日目のインタビューの時に、日大や藝大の方とはお付き合いがあったというお話がありましたが。

沖:そうですね。でも、もう学生運動が終わって6~7年ぐらいたっているから、ぼくが学生の時には、もう全然全共闘世代の人はいなかったから。

伊村:余波みたいなものも、大学ではそれほどなかった?

沖:なかったですね。多摩美もなんか中途半端な左翼みたいな人がいました。でも、あんまり全然、なんの影響もなんもなかった(笑)。多摩美の紛争の時のポスターとかチラシをコレクションしている人もいるんですよ。その時のチラシとか、全部コレクションしているらしいので、偉いなと思ってました。韓国では民衆運動っていうのがあって、民衆運動の時のチラシ、ポスターとかバナーとかが美術品として認められ、それに価値が付いているっていう話です。考えてみれば、日本の学生運動だってかなりユニークなことをやったけれど、美術の中では位置づけられてないから、それはちょっと寂しいと思います。ぼくも別に多摩美の学生運動は知らなかったけど、高校が多摩美の近くだったから、何人かの人たちは知っていたけれど、多摩美の学生の間で何が起こっていたかよく知らなかった。後から彦坂尚嘉さんの本とか見ていると、いろいろな動きがあって、すごく面白い。今から考えても、当時の全共闘運動はメインの「XX打倒」とかいう大きな命題以外にも、例えばフェミニズムとか、さまざまな差別に反対するとか、反公害とか、犯罪者の人権とか、個別な課題を取り上げるというのは大切だし、文化革命だったんだなっていう感じは、ぼくの中では強いですよね。今後日本ではなかなか起きないかもしれないですが。最近の海外でのパレスチナ連帯の活動も、参加者の数が全然違うじゃないですか。ロンドンとかとか、何十万人という人がデモをやっていて、危機感もあるけども、文化や文明としても危機を把握しているから、あれだけの人が集まっています。日本では、シンパシーを持って受け取れる人は、デモに行くかもしれないけど、情報のバランスで考える人は政治や社会の力学で考えちゃうじゃないですか。そうすると、どっちが多数か、どっちが効果があるか、みたいにメリットで考えやすいでしょう。それ以外に、分断された社会システムへの取り込みが巧みに機能していて、日本では盛り上がらないです。多分ヨーロッパのほうが、危機感があるんじゃないかと思います。自分たちが関わってきたヨーロッパの歴史の中で、ユダヤ人の位置というものを含めて、第二次大戦以降のいろんな価値観が、崩壊している感じがあるんじゃないかな。あと、インドネシアでも何十万人と集まるのは、彼らがイスラムを共有しているというのもあるけれどそれだけではないかもしれない。先日、ぼく、コンピューターをたまたま整理していて、ちょうどドクメンタ15(2022年)の記録のページが出てきて、このドクメンタの方向性について、政府やイスラエル支持者からひどい批判をされていたんですが、ドクメンタの調査委員会は、「反ユダヤ主義の毒も、その現在の手段化も拒絶するという抗議声明を出しているのを再読した。反イスラエルとか、シオニズムへの批判をふまえて、ルアンルパが選んだ世界のアーティスト・コレクティブのネットワークの中には、パレスチナのコレクティブが最初から入っていたわけだから、ルアンルパの立脚点がそもそもオーソドックスなアートの傾向と違っていて、彼らの20年ぐらいの積み重ねっていうのは、かなり意識的にやってきたのだなと思う。そのくらい根強い活動を作ってきたのは、大したもんだなと思う。世界のアバンギャルドな流れとしてもかなりすごい。それは時代的には、インターネットが背景にあるのかもしれないけどね。

伊村:改めてになりますけれど、今日は1990年代を中心に伺ってきて、1989年の冷戦構造の崩壊というのは、一般的に言われるように、特にヨーロッパでのメディアアートの草創期と重なっていると思いますが、今から振り返ってみて、そういったことを意識されていたという感覚があるのか、あるいは、先ほど雑誌の時に、カウンター・カルチャーというお話もありましたけれど、その軸足がどこにあったのかをお伺いしたいです。

沖:それはすごく面白くて、普通に純粋なエレクトロニック・アートの人たちっていうのは、純粋にコンピューターから生まれた美学っていうふうに捉えていて、それはあんまり、ぼくはもともと入ってなくて、後から知って面白いなと思ったんだけど。で、カウンター・カルチャーのほうは、自分にわりと近くて、あと、入りやすいというのもあって。実際には、文化的に考えてみると、そういうようなミクスチャーっていうか、混ざったところなんですよ。だから、世界で一番最初にインターネットのコミュニティーができたのはサンフランシスコで、The WELLっていうネット・コミュニティーですよね。それが最初で、サンフランシスコの住民たちが中心になって、ネットの上のコミュニティーを作り始めたっていうのがあって。それはでも、バックグラウンドにあるのはやっぱりカウンター・カルチャー的なものがあって。初期は特に、さっきの『Mondo 2000(モンド・トゥー・サウザンド)』なんかは、その辺をすごく反映しているわけ。でも、そういう状況からだんだん分岐していってビジネスのほうも形成されていったわけだし。だから、スティーブ・ジョブズもインタビューの時に、あなたはナードかヒッピーかどちらかって言ったら、ヒッピーだって言ったみたいに、ヒッピー的なものっていうのも色濃くあった。でも、だんだん情報産業はそうじゃなくなっていったわけですが。

鏑木:今の伊村さんからの質問に関連するのですけれども、前回のお話で少し気になっていたことで、やはり1980年代の後半から、かなりドラスティックにいろんな国の情勢が変わっていく。

沖:そうですね。1990年代に入ってですね。

鏑木:その間に、沖さんが日本ではなくてアメリカで主に活動されていらしたことは、何か影響があったんでしょうか。

沖:アメリカに行ったのは、わりと、1960年代に日本のアーティストがニューヨークに行ったのとあんまり変わらないと思うんですよ。やっぱりニューヨークは世界の中心だっていうふうに考えていたから。

鏑木:行かれた頃は、多分そういう感じ。

沖:まあ、全然そういう感じですよね。時代的にはニューペインティングで、キース・ヘリングなんか出てきて。ぼくは、ちょくちょくニューヨークに行くようになっていると、クラブでキース・ヘリングのポスターがあって。実際にイースト・ヴィレッジとか歩いていると、キースが歩いているのを見かけたし。だから、そういう意味では、モチベーション的にはちょっと古いというか、1960年代の人と変わらない。1990年代は、ニューヨークとか、パリのようなアートの中心地とは違うところからでもアーティストは世界に出られるような時代に変わったんじゃないかなと思います。あと、ニューヨークにいる間で印象的なことの1つというのは、世界の情報に関連するんだけど、天安門事件が起きて。ぼくは、天安門事件を『ニューヨーク・タイムス』とアメリカのテレビで知っていて。アメリカでは、朝日新聞の国際版が出ていて読んだんだけど、天安門事件の日本の報道がなんかすごくめちゃくちゃでした。なぜかと言うと、中国軍の中でも、なんとか部隊は反乱を起こす、みたいなことが書いてあったりとかするんだけど、ぼくは紀伊國屋書店に行って、朝日新聞などの日本の新聞の国際版を見ると、ああ、こんなふうになっているのかと思って。報道のされ方にかなりギャップを感じて。それをいつか書こうと思っているんだけど。国会図書館に行って、その日の天安門事件のニュースの記事を見てみると、わかりますよ。それがすごくショックで。弟は、実は新聞記者だったんだけど、弟に話したら、それはないんじゃないのって、そういう情報ソースがあったからそうなったんだと言っていたけど(笑)。

鏑木:先ほど、9.11をアメリカで体験されたというお話もありましたが、やはり天安門事件も、日本でその報道を見ているか、あちらで見ているかで、受容の仕方が違うのかなと思いました。

沖:そうですね。

鏑木:それ以外にも国が1つになったり、なくなったり、いろいろなことが同じ時期にありましたよね。

沖:すごく面白かったのは、ベルリンの壁崩壊についても事前に感じていたことです。ベルリンの壁が崩壊するといううわさがあるというのを、ベルリンの壁が実際に壊れる半年ぐらい前に聞いたんです。

鏑木:日本にいて見知りすることとは違う、やはり肌で感じるような、感覚的に、少しずつ時代が変わってきているんだなということを、沖さんのお立場から、お考えになっていたのですね。

沖:そうですね。少しあったかもしれないですよね。でも、そういう天安門事件の話もそうだし、ベルリンの壁が崩壊するっていうのを、事前にうわさみたいな話を聞いてたな。それを話していたのは、実は太郎千恵藏さんとなのだけど。太郎くんはもともとニューヨーク大学に行っていて、日本に帰ってきて。ぼくのほうが先に行って、また後から彼が来たんだけど。それで実際に起きたから、びっくりして(笑)。

鏑木:そうだったんですね。

沖:その時はインターネットの時代じゃないから、もうほんと口伝いとかなんかとか。でも、肌の感覚で分かるものっていうのがあって、イースト・ヴィレッジでよく行っていたレストランっていうのが、今から考えると、ウクラニアン・レストランだった(笑)。

鏑木:ヴェセルカですか。

沖:そうですね。よく知ってるじゃないですか。

鏑木:今、ウクライナ支援で知られているレストラン。

沖:ニューヨークには、そういうコミュニティがある。だから、レーザーディスクで残っている《Video God Directed by Keisuke Oki. 2 Voodoo》は、ブルックリンのハイチ人のコミュニティーに行って、ブードゥー教の撮影をしたんだけど。あそこはもう完全にフランス語。ハイチ人だからフランス語の世界。ぼくとアメリカ人の白人の人とクルーで組んで撮影した。みんな周囲はフランス語で、あいつは誰だとか話して。そのぐらいは分かる(笑)。でも、すごく面白かったですね。普通に行くと、ちょっと危なそうな感じの地域。すごく危なそうな地域は行かなかったけど、普通にはよく、危なそうな地域には行っていたな(笑)。

伊村:1つお聞きしたいのが、建築の話が出ていたんですけど、その当時のニューヨークというと、荒川修作さんもいらしたはずで。

沖:そうですね。

伊村:荒川さんも、建築に関わられる時期だと思いますが、接点などはあったのでしょうか。

沖:接点は全然ないですけど、展覧会を見に行きましたね。ちょうど空間の中で、布か何か垂らしてあって、そこを通り抜けていく。その後、天命反転地とかああいうのにつながっていく最初の初期の作品。河原温さんとも、会ってないんだけど、日本から行ったアーティストは、みんな河原さんに会いに行くみたい。ぼくは、敬意を持ってても、つながりたいっていう考えが全くなかった。でも、わりと他の友達なんかは、アメリカに行ったら、やっぱり河原温にあいさつして、お話を聞きたいとか思うみたい。ぼくは、そういうことをやらないのが駄目なような気もするけどやらない。

足立:最後に、いろいろな人に聞いている質問ですけれど、今からアーティストを目指す、あるいはアートに関わろうとする人に向けてのメッセージをお願いします。

沖:そうですね、まあ、別に……(笑)。

足立:(笑)。今までで一番面白い。

鏑木:すごく沖さんらしいなと思って(笑)。

沖:そうですね。いや、特には。方法って、みんな違うじゃないですか。ぼくは同じことを続けられないたちだから。自分の中では脈絡あるけど、他の人から見たら脈絡なくやっているようにしか見えないじゃないですか。だから、これと言って特にはないけれども、いかに自由に発想するかっていうのかな、あまり関係なく、自分で思ったことをやるのがいいんじゃないかな、とぼくは思っているけど、それはアドバイスじゃないからね。ぼくのやり方なだけで。それでうまくいっているとはあんまり思わないから。

鏑木:今回のインタヴューはいろいろな人に、美術プロパーだけでやっていくのとは少し違う方向性があるということを読んでいただきたいと思いました。

沖:そうですね。まあ、話としては面白いかもしれないですよね。よくわかんないけど。

足立:自由っていうのは、とらわれなさだと思ったんですけれど。

沖:そうですね。

足立:とらわれないことの強みというのもあるなと思いました。

沖:そうか。よくわかんないけど。でも、そうですね。でも、基本的には、多様なものをどのくらい受け入れるかっていうのがあって、やっぱり人間、多様じゃなくなっちゃうじゃないですか。だから、どちらかに区別したい人ってすごく多い。そっちのほうが普通のメンタルな気がする。外国人は違うとか、日本の中だけど、どこどこのやつは嫌いとか何か、そういう人たち、多いじゃないですか(笑)。でも、多分、うちの家の場合、明治の早い時期にカトリックになったり、神戸でインド人の書生がいたりとか、そういう多様な文化のある家なのもあったのかもしれないですね。でも、なんか、まとまったアドバイスはないですよね。

足立:アドバイスをしてはいけない?

沖:そうですね。しないほうが。大体、学校でも、今はよく言われるんだけど、先生に相談しても鵜呑みにするなっていうふうに言う。先生って、自分が成功したことを中心に話すじゃないですか。それ、学生には全然役に立たないんですよ。自分はこんなことやったから、こういうふうになったんだっていうふうに話す先生ってすごく多いんだけど、それは方法論じゃないですよね。たまたま上手くいっただけだから。基本的には、自分でひらくしかないじゃないですか。だから、あんまりこういうふうにしたらいいっていうようなことは、ないですよね。多分ね。

足立:ありがとうございます。

沖:そのほうがいいんじゃないかなと思います(笑)。

足立:本日も3日間のインタヴュー、ありがとうございました。

沖:いえ、どうも(笑)。あんまり21世紀の話になんなかったけど(笑)。どうも。

鏑木:ありがとうございました。