池上:前回は主に留学時代のお話をお聞きしたので、今日は帰国されてからのお話をお聞きしたいと思います。1959年に帰国されたということでよろしいでしょうか。
高階:そうです。ちょうど西洋美術館がオープンしたとき。正式のオープンの日が6月何日かだったと思うんです。僕が6月に行って、辞令は7月からだったと思うな。つまり西洋美術館に配属されて、公務員になったわけですよね。僕は6月に来て、準備中にちょっと顔出して。まだ準備中で大騒ぎしている時だったですけどね。
池上:それはどなたかから、こういう美術館がオープンするので来ませんかというお誘いがあったんでしょうか。
高階:はい。僕は留学中は、最初の2年間だけは給費ですから(奨学金を)フランス政府からもらった。あとは自分でアルバイトです。フランス政府の給費のやつは、帰りの旅費は出してくれるんですよ。それも使って。皆それ、残る人はやったんだけど。いつまでに帰るってことは、全然決めてなかったんだけど、松方コレクションが返還になって美術館ができるってことが決まった時に、何人かの方から、そういうことがあるけれどもっていう話を。一番は坂倉準三さんが建物をずっとやってて、僕は坂倉さんのお手伝いもしていたから、こちらの美術館でもフランスのことが分かるような人を探してたのかな。それから富永先生からもちょっとお話があって。それから前田陽一先生っていうのが、これは東大の教養学部でお習いしたフランス語の先生ですけれども、先生方は今もそうなのかな、やっぱり学生の就職を気にするらしくて。僕はフランスに行って、大学院を途中でもう満期退学になっちゃって、他の人たちはだいたい収まってるけど、僕はまだ収まってない、っていうので。ずっとフランスに行きっぱなしになっちゃった、フランスの航空会社に勤めた人もいるんですけどね。やっぱり日本で職をっていうことがちょっとあって、富永さんが館長っていうことになってたんで、前田先生も富永先生のとこ行って、こういう人がいるよっていう話があったらしいんです。それで東京の方から、「帰ってきて勤めないか」という話があって。こっちはもういい加減で、いつまでっていうことは決めてなかったんです。つまり、その頃は一度行ったら二度と行けないというつもりですから(笑)、なるべく長くと。だけど、ちょうど5年ぐらい経ってた。機会だから、それじゃあお受けしますということで。もうその時には、館長が富永惣一で、事業課と庶務課という二つの課だけだった。つまり事業課が学芸員にあたるのかな。事業課の課長が嘉門安雄。それから庶務課で文部省の方からお手紙いただいて、どうですかって言うので、じゃあ帰りますっていうことになって帰ってきたわけです。
林:富永先生とはそれ以前には何か。
高階:ええ、富永先生は大学に非常勤で来ておられました。僕は教養学部にいたんですけど、本郷に講義は聴きに行ってた。美術史の講義。矢崎先生が主任でしたけれど、フランス美術史の講義をしてた。それはお聴きして。ご挨拶程度です。そんな詳しくは知らなかった。ただ坂倉さんのところにはしょっちゅう行ってて。(富永さんは)坂倉さんとは非常に仲がいいんですよね。(留学が)同じときだからというので。後で坂倉さんからも富永先生にずいぶん言ってくださったっていうことを聞きました。
林:コルビュジエの翻訳をされたっていう話を前回うかがいましたけど。
高階:ええ、そうです。
林:それはそのときにはもう。
高階:ええ、僕がフランスにいる間に出ました。送っていただいて、丸善から二冊出ました。そういうことがあって、僕はのんびりしてたんだけど、どなたからどうのっていうのは後からうかがいました。嘉門先生も個人的には全く知りませんでした。名前だけで。で、文部省の方からの手紙で、来なさいって。じゃあまあフランスにいたし、フランスのことを手伝えっていうことなら帰りますってことで、帰って来て。だから嘉門さんには、帰って来てご挨拶に行ったときに「はじめまして」っていうことでした。
池上:それで「文部技官」という職名だったとうかがってますが。
高階:そうです、文部技官です。
池上:これは今でいう学芸員ということなんですか。
高階:あのときはですね、研究職。今でも技官制度はあるはずです。人文よりもむしろ自然科学系にある。実験の手伝いをするとか。庶務関係は文部省でいうと職種はどうなってるんだろうな。お役人の方達と、専門の場合には研究職と、技官職というのがある。研究職は学校の先生で、大学やなんかで教育研究に従事する。技官はそれの手伝いをするということで、給与体系は若干違うんだと思います。研究職よりは少し、どうなんだろうなぁ。僕はそのへんもよく分かりませんけれども。後になってから、技官の待遇がどうのこうのっていうことがあったので、たぶん研究職よりは昇進が遅いとかね。要するに等級が違う。
池上:行政上の区分ということなんですね。
高階:単純に行政上の区分です。ああそうだ、行政職っていうのが普通のお役人だ。それで研究職っていうのがあって、あと技術関係のお手伝いをする技官というのがある。自然科学だとわりにたくさんいるんですけどね。美術館だと、文部技官ということで。
池上:実質の仕事内容としては、いわゆる学芸員がすることを、されるわけですか。
高階:そうです、はい。
林:国立の美術館というと、その時はもう竹橋(注:東京国立近代美術館のこと)はオープンしてましたよね。
高階:竹橋はオープンしてましたね。近代美術館がオープンしていて、ここが二番目になるのかな。
林:じゃあ当然、竹橋の職員の人たち、学芸員の人たちも文部技官で。
高階:そうだったと思います。
林:なるほど、そうか。ちょっと話が飛んじゃうかもしれませんけど、東野(芳明)さんとポップ・アートに関する論争をされたときに、意地の悪い東野さんが「文部技官」って(笑)。
高階:「拝啓、文部技官殿」(笑)。
林:「拝啓、文部技官殿」っていう文章を書いて(笑)。
高階:よく見てるね。『芸術生活』で。面白かったよね。
池上:なんと意地が悪い。
林:意地が悪い。これはないだろうと思って。でもそういうことだったんですね。文部技官っていうのはやっぱり珍しい職種だったんですか。
高階:僕も知らなかった。一般の人には知られてないでしょうね。文部省のお役人だっていうことは、国立だから分かるけれども、その中でそんな区分があるっていうのは分かんない。来て分かったことだけどね。
池上:着任されて初めて手掛けられた展覧会っていうのは、どのようなものですか。
高階:松方コレクションのオープンだから、もう返還が決まったものを並べて、それからカタログ作りっていうことです。もう単純にそれです。展覧会をやり始めたのは二年ぐらいしてからですからね。最初はもう、返還されたってことは所蔵品ですから、それを並べるだけ。所蔵品の整理も、どっとまとめて来たんで、倉庫に入れて。それからデッサンや版画、若干書物という程度です。それをずっとやってました。
池上:じゃあ59年にオープンして、今おっしゃられた松方コレクションのオープニング展っていうのが61年ぐらい。
高階:いや、59年なんです。松方コレクション展というよりも西洋美術館のオープン展。正式には「国立西洋美術館」、というのが返還の時の条件だったと思います。「国立西洋美術館、19世紀フランス美術松方コレクション」っていうのが付くんですよ。フランス政府は、フランス美術っていうのが言いたいらしくて。でも普通には、松方コレクションで、西洋美術館、ということでした。
池上:それで2年ぐらいは、ずっとその関係のお仕事を。
高階:もう並べっぱなし。まあ若干ものを入れ替えたりしますけれども。僕が来た時はだいたい基本的なことは決まってました。例えば19世紀ホールていう、真ん中の場所とか、建物は決まってたわけだ。建物の最後の仕上げの段階だった。ペンキがまだ乾かないから一部塗るとかってことがあった。で、ロダンが非常に多かったから、19世紀ホールは彫刻にして、ロダンを並べる。二階はコルビュジエのアイデアをそのまま取って、渦巻き方式っていうのかな。四角いんだけど、スロープを上がってきたとこから、ぐるっとこう渦巻きにして、部屋が区切られてないっていうのが特徴で。当時はわりに、コルビュジエの西洋美術館っていうのは建築の方では話題になりました。ずっと部屋が自然につながっていて、こうぐるっと回るっていう。建て増しするときはそこからさらにぐるっと外側に回っていくっていう方式を彼は考えてたらしいです。必要ならばどんどん。でも実際にはとてもそんな予算も場所もないんですけど。で、その流れに応じてだいたい時代的に並べる、っていうことがあって。ただ非常に大きな問題だったのは、彫刻は彫刻で並べるって。これは台座を作るところから始まるわけです。それで台座を作り、ネームプレートを作り、って全部やってるところに僕が帰ってきたわけです。そのお手伝いをするわけです。絵の方に関してもだいたい年代順に、っていうけれども、場所と大きさといろいろ関係があるし。最初の2年ぐらいでずいぶん手直ししましたけど。絵の釘も、今はなくなっちゃいました。壁に釘をこうして、差し込み式の。
池上:ああ、あの穴が開いた壁ですか。
高階:穴が開いて、引き出す釘があるんです。それがコルビュジエの方式で、モジュールで並んでるんですよね。で、何もないと穴がずらーっとこう列になって綺麗だけども、うまくそこに絵を置けるとは限らない。絵の大きさが違うわけで。それは埋め込みになってるから動かせない。それをどうしようとかね。結局、途中からワイヤーを上からつけて、動かせるようにして。だけど最初の時はそれがないから、絵を入れ替えるですとかね。それから額縁にヒートン(注:ねじ付きの吊り金具)をつけて、あとワイヤーでぶら下げて、その長さを調節したり、展示替えをオープンしてからもずいぶんやりましたけど。
林:コルビュジエは設計したときに、この美術館はだいたいどういうコレクションを持ってるっていうのは。
高階:一応は知ってたらしいです。でも、これは後から聞いたんだけど、要するにたいしたものじゃないと思ってたらしい(笑)。そして、彼の考えの面白いのは、住宅と似たように考えてたのかな。ああいう一列ずっと、間を開けてっていう展示方式は、ヨーロッパでも戦後ですよね。
林:ルーヴル。
高階:ルーヴルも30年代ぐらいまでは、要するに壁にいっぱいだーっと並べるサロン方式。空いてるとこにぼんぼん並べるっていう。ルーヴルの一般展示でそれが変わったのは30年代ぐらいかな。ずいぶん内部の反対があったっていうことを、後でルネ・ユイグ(René Huygue)さんから聞きました。新しい展示方式で、見やすく、なるべく一列、まあ場合によっては二段だけど、間をなるべく空ける。コルビュジエの場合は釘が何段かになってるんですよね、モジュールの方式で。一段目と二段目、その間がちょっと空いてる。それぞれ、上がったり下がったりしてもいいじゃないかと。壁の釘のところに絵をかけて、この絵はこっちへ、隣の部屋はこっちでというふうに、なんでもかまわないよ、というぐらいなアイデアだったらしいです。しかし、やっぱり一列に並べましょうということをこっちは考えてたんで、それをあの釘に合わせるのがかなり問題だった。
林:坂倉さんはこちらで(コルビュジエの)ヘルプをされてたんですか。
高階:建築の仕上げはもちろん、しょっちゅう来ておられました。だから僕もお会いしてて。展示に関しては(こちらに)任せてましたけど。もう一つコルビュジエで面白いのは、去年がちょうど50周年なんですね。
林:そうでしたね。『藝術新潮』とかでも、特集やってましたね。
高階:そうです。それでコルビュジエ展の展覧会をやったんです。
林:森美術館でやったのは見たんですけど。
高階:ああ、森はコルビュジエの作品を集めてたんですね。コルビュジエ自身はだいたい敷地が決まった時に来ただけで、あとは図面で。実質的に作る時には来てないんですよね。坂倉さん、前川(國男)さん、吉阪(隆正)さんの三人がやってて。坂倉さんが中心で、実際にパリに行って相談したりして。最初のプランには、オーディトリオムを作るとか、図書室を作るとかっていうのがあったけど、そこまでとても予算がなくって、展示室だけ。(図録を見つけて)これこれ、「ル・コルビュジエと西洋美術館」っていう展覧会で。(図録を見ながら)彼の基本的な考えっていうのは要するにうずまき状で、それを四角くしてるんですけど、真ん中から順々にいくらでも広がるんだと。でも西洋美術館はこの最初の二つぐらいで、四角いままで終わっちゃったんですけどね。いずれ大きくなればそうなるよと。その天井高も、釘が並んでるところも、このモジュールのどれかになるわけですね。ここが真ん中で、そこから入ってきてスロープがあって、そこからこうぐるーっと回ってくるという方式なんです。いずれ壁を開ければいくらでも広がるよっていう方式を考えた。
真ん中だけ特に高くて三角屋根が出るんですけど、ここから明かりが中央ホールには入ってくる。それからこのギャラリーは四つに、これも彼の特別方式ですが、光取りギャラリーっていうのをつけて、屋根から光が入ってくる。光ギャラリーっていうのは特別なものです。上から屋根のここは全部ガラス張りなんです。そこにガラスが入って、ギャラリーはこう浮いてて、その中に照明器具を入れて。ミックスしたものを壁にあてる、という方式だった。そしてここに外壁があって、ぐるっと回る。これだけなんですよね。部屋の区別がない。それが場合によっては不便だから、広いところに壁を作って、可動式のパネルができていて、それを立てて壁が作れると。それで展覧会によっては自由になりますっていうんだけど、またその壁が重いんですよね(笑)。人を雇って動かさなきゃいけないっていうことがあって、いくつか使いましたけれども、実際にはなかなか使いにくい。
それを、絵の作品の数も含めて並べながらやる。そしてその場合、これが外壁のところにだいたい並ぶわけですが、壁が外で柱が間にあるんですよね。だから柱の間に絵がかかるということになって、邪魔になるわけです。その壁には埋め込み釘があるという形で、だからどこにどう並べるかっていうことと、それとこの内側の部分、点線になってるところは、照明ギャラリーとして上に飛び出してるわけです。だから壁の高さがモジュールで一番高いところで大きいんですが、この部分は照明ギャラリーが上から下がってきてるわけです。だから外壁は高いけれど、この下は狭いわけです。天上高が違うんです。それはまた、建築空間としては面白いんですけどね、展示空間としては甚だ不便になる。それをどうしようっていう。そして、ここの館には、上にも一部屋あるんですよね。小さい部屋があって、それはそれでまた使えるよっていう。それでコルビュジエさんが面白いのは、階段の手すりが一本しかないんですよね。これは子どもが危ないとかね(笑)。それから、ここにテラスがあるんですが、外に自由に出られて、そこだけ窓がちょっと開いてる。全部外壁だけれども、ここから外に壁が出る。そのテラスの壁も今はもう閉ざしちゃったかな。隙間があるんです。独立壁っていう方式。これがまた危ないんじゃないかって(笑)。だからお客さんは入れられないとかですね。
だから動線をどうしようっていうことは、途中でもずいぶん考えました。最初のうちは、絵を並べて、もうコレクションだけです。あとはネームプレートもう少し完全にするとか。それで照明は、真ん中は上に特別に三角屋根があるから明かりがあるんですけど、それだけでは足りないんで、ここに後から蛍光灯をつけました。両方ミックスしてやると。なおかつ、彫刻にスポットがいるから、こう壁からスポットを出すとかですね。それから照明ギャラリーも、やっぱりお天気の具合やなんかで、夕方だったら外からの光だけでは当然間に合わないわけで。この中にずらっと蛍光灯が入って。最初に入れたやつではやっぱりまだ小さいから後から追加するとかね。そういう手直しをずいぶんしました。その度に蛍光灯およびスポットを入れますから、スポットはじゃあどこに当てる、絵によってまた変わるっていう。最初のうちはしょっちゅう、マイナーな手直しをいろいろやってましたね。それから絵によっては額縁が危ないから、新しく作って入れ替えするとか。そういうことで、今のように展覧会っていうのはなかなか考えなかったですね。
林:松方コレクションそのものは、返ってくるときには一括で全部ぼんと。
高階:全部一括で来ました。そしてそれを入れるためだけの(建物)。場所も特別展なんてことは考えてなかった。コルビュジエは他にも同じ敷地内に考えてたけど、予算もないから返ってきたものを並べるだけだったですね。
林:整理というか情報については、返ってきたときに既に作品ごとにきちっとしたデータがあったんですか。
高階:いやぁ、あんまりなかったですよね。作者名と題名程度は、それから年代も一部は分かってました。それで後になってから分かったんだけど、没収したうちの一部分は、フランス政府がどっか展覧会に出したりもしてたんですよね。いつの間にか(笑)。だけど、返ってくる時に、向こうに残ったやつがありまして。14点かな。返さないって。今はオルセーに並んでます。向こうも一応調べて、主要なものは残す。これだけお返ししますっていうリストはありました。そのリストの翻訳からまずこっちはやるわけです。それで後になってからこれちょっと場所が違うとか、モネの作品なんか題名が違うんじゃないのっていうようなことは、調べて分かったやつは直したりしました。年代が分かんなかったのが分かるとかですね。ただ、それは後からですね。最初のときは資料も全くお粗末で、英語とフランス語の辞書がある程度かな(笑)。それと百科辞書があったかな、ていう程度です。専門的なものは何にもなくって。
林:じゃあ先生が赴任されてから、チームでいろいろと本を購入したり。
高階:たいしたものはなかったですけれども、モネとかそういう新しい個人の本を買おうっていうようなことで。あの頃は、フランスでもまだオルセーがなくて、印象派美術館はジュ・ド・ポーム(Jeu de Paume)ていうところにあって、これは僕がちょうどいるときに開いた。その時に印象派美術館のカタログっていうのが、要するに常設展のカタログですね。それは、単純に写真も何もなくて作家の略歴と、作品の題名と、それから大きさがどうだとか油だとか、カンヴァスだとかいうデータ。その他に、フランスでもその頃からはっきりしてきた、来歴ですよね。コレクションがどこから来たか。それから展覧会歴。何年にどこに出した。それから文献。どの文献に出てるかという。これは1958年の、印象派としてのまとまった最初のカタログだと思います。僕が行った頃に、ちょうど学校でもこういうカタログができた、これはぜひみんな買えとかいってね。買わされて。今は展覧会の度にいろいろ細かいデータが付くっていうのは、要するにルーヴルやなんかはドキュメンテーションで全部あったわけ。それを公開して印刷物にした。あとはそれに基づいて、展覧会ごとに付け足していけばいいわけです。それから文献も、分かったものは付け足していくっていうので、最近では展覧会の度に、そういうデータが増える。最新データは我々には必須ですよね。これは大変だなぁと思うけど、蓄積があるから、前のやつに付け加える。フランスでも、それを常設展でやったのはちょうどその頃からでしょうね。それを見て、これは必要だと。こっちはまず文献調べるったって調べられない。文献がないわけですからね。でも分かるだけ入れよう。作者の履歴くらいは文献で。モネのこういう本があるっていうのを並べる程度です。個々の作品についてはなかなかいかなかったです。でも事業課で、きちんとしたものを作ろうって。最初のときはほんとに簡単なパンフレットみたいなものです。でもむしろ展覧会よりもそれが大きな事業で、一番最初にやったのがこれ(『国立西洋美術館総目録 1961』)なんだ。これが61年ですから、59年6月のオープンからまあ1年半ぐらいかかって。そこでちょっと見てください。所蔵品の全写真を入れてる。
林:(総目録を見ながら)全部写真入ってます。
高階:これ(全写真の掲載)はパリの印象派美術館でもなかったですねぇ。絵葉書とか、名作選みたいのはあったけど。そこで、一つ一つの来歴と入れて。ただ、文献なんかは非常に少ないと思うんです。
池上:でも出てますね。
高階:分かる範囲で。まあだいたい松方からってことは分かるんです。松方でどこからっていう。それを全部台紙を作って、カードを作って分かったやつを入れるっていう。
池上:保存状態まで書いてますね。
高階:ええ、全部記録しました。ちょっと傷んでるとかいう情報を。今も残ってます。
池上:この作業に当たられたのは、先生以外には何名ぐらい、いらしたんですか。
高階:そのとき事業課と称したのは、四人。課長の嘉門さんは別ですけど。嘉門さんが課長で、事業課の係長というのが二人いて。これは普及係と展示係っていったかな。中山公男、穴沢一夫といます。その下に係員っていうのがいて、それは僕と黒江(光彦)くん。だからそれぞれ二名ずつで、後から佐々木英也が入ったかな。課長を別にして五人になりますか。それが中心でした。
池上:その黒江さんと佐々木さんという方々は、やはりそれぞれに近代美術をご専攻になったんですか。
高階:そうです。黒江君は東大で、卒論は中世をやったんですけど、実際に絵も描くっていう人で、油絵の保存なんかのことをよく知ってて。後に修復家になりました。油絵は、日本でも専門の修復家がいなくて。少し後になって、かなり傷んでる作品を、ヨーロッパから修復の人に見に来てもらったときに黒江君が手伝って。いろいろ教えてもらって、あとで自分でもやるっていうようなことになった。佐々木君は藝大卒業ですけど、イタリア語をずっとやってた、摩寿意(善郎)さんのお弟子さんだから。イタリア美術の先生。
林:それはルネサンスですか。
高階:ルネサンスですね。だから一応事業課の課員は、西洋美術を日本で可能な限りだけどやってた人たち。それで分かる範囲でデータを作って。今でもそれが基礎であとは新しく入ったやつを次々追加して。最初の二年ぐらいはそんなことばっかりやってたんですね。
林:国立で「西洋」美術館を作るっていうのは、世界でも例がないと思うんですね。おそらく。
高階:ないですねぇ。
林:西洋以外のところで、国立で西洋美術館を作るっていう。コンセプトそのものがユニークっていうか、ちょっと不思議なコンセプトだと思うんですけど。そのアイデアは。
高階:これは返してもらう時の条件で。
林:条件ですか。
高階:国が政府に返すと。
林:なるほど。
高階:建前としては、フランスは、松方さんが買ったんだから個人のものですけど、戦争で敵国になったから没収しちゃった。フランスのものになったと。返せ返せって松方さんも言ってたんだけど、フランスのものを個人には返さないと。日本政府、日本の国民に返すと。その条件として、だから公開の美術館を作りなさい、という条件があった。講和が成立したあと、返してもらうためにいろいろ交渉したんでしょうね。それでその条件をじゃあ受けますということで、美術館を作る。だから、予算も非常に厳しい時だったんです、その時は。ぎりぎりの予算しかなくて、かなり日本の政府は無理してお金を出した。そうでないと返してもらえないから。その時に、「フランス美術館」にしろって言ったの。でもいくらなんでもフランスだけではね(笑)。
池上:「国立フランス美術館」ってことですもんね(笑)。
高階:そのへんも交渉して「西洋美術館」に。副題に松方コレクション。フランス側にはそういうふうに言ったはずです。ここでは国立西洋美術館総目録にしたな。だから入り口のとこにも、国立西洋美術館、その下に松方なんとかって書いたはずですけどね。
池上:交渉の産物なんですね。
高階:そうですよね。はい。
林:例えば英語で他の人に説明するのに、「ナショナル・ウェスタン・アート・ミュージアム」って言うと、英語の言葉自体がすごく奇妙に響くっていうか。
池上:そうですよね。国立国際美術館なんかもそうです。
林:そうそう(笑)。
池上:あれはもう「インターナショナル」って英語では言わないですからね(注:国立国際美術館の英語表記はThe National Museum of Art, Osaka)。
林:言わない。ええ。
高階:ナショナル・インターナショナル(笑)。
池上:おかしいですから(笑)。
高階:あれも不思議ですね。だからもう一つは、単なる国立美術館にできないのは、お役所として国立近代美術館っていうのがあって、それとの仕分けが必要である。やっぱり、何か特徴を出す必要がある。大阪に作るときにも、近代美術館も西洋美術館もあるのになんでだっていうんで、現代美術館にするとか、いや国際的な表現だっていうんで、一応建前が。京都の場合は東京の分館っていうことにして、京都国立にして、今その4つですよね。それぞれ一応仕分けがあって。でも若干問題は残っていて、東京の国立近代美術館と西洋美術館というので分けたけど、近代の西洋はどっちに入るかっていう(笑)。
林:そうですねぇ(笑)。
高階:あそこは近代をやる、こっちは西洋をやる。西洋の古いとこはいいんですよ、ルネサンスでもバロックでもこっちだと。20世紀になると、ピカソはどっちだとか、後々まであの仕分けには沿ってますね。未だにそうだな。買うときにも、予算で買いますからね。
池上:その松方コレクション関係の仕事がひと段落して、新しい作品を買うとか、展覧会をやるとかっていうことが始まったのはいつぐらいになるんでしょうか。
高階:最初はまず、購入予算もなかったわけです。展覧会が始まったのは、一番早いのは60年だったと思いますね。これは、美術館の展覧会総覧(『国立西洋美術館50年史1959—2009/国立西洋美術館展覧会総覧1960–2009』)を見れば分かる。これはこの間作ったんです。去年が50周年ですから。
林:(総覧を見ながら)1960年の10月から12月にかけて「20世紀フランス美術展」っていうのをやられてますね。1960年の5月から7月に「松方コレクション名作選抜展」っていうのがあって。
高階:それだ。それがたぶん最初のあれかな。
林:1960年10月から12月に「20世紀フランス美術展」で、その後1961年の1月が「ル・コルビュジエ展」になってます。これしかし、かなり詳しくまとめられてますね。
高階:これはかなり詳しいです。うんうん。
林:フランス美術展も、タピストリーとかステンドグラスとかそういうものも含めて約300点。マティスとかレジェとか、いろいろ来てる。カンディンスキーとブラックも。
高階:1960年の5月からだから、開館一周年記念でやったときに、松方コレクションで国内にあるやつも少し調べたかな。分かってるものをある程度集めました。そこにたぶん、中身のリストもあったと思いますけれども。
林:国内に散逸しているコレクションを、全国から集められた。
高階:調べられるものは若干動いてやったけども、だいたいもう当時分かっていた。つまり、昔日本に来て、散逸しちゃったやつですよね。松方コレクションはフランスに残ったやつと、それ以前の1924年、ということは大正13年に関税法が新しくなって、贅沢品は100パーセント(税金がかかるようになった)。日本政府の方針として、それはかなり大きな変化だった。奢侈品(しゃしひん)と言ったかな。奢侈品100パーセント。それが宝石やなんかだけでなくて、美術品も奢侈品であるというので100パーセント関税になったんです。松方さんは買って公開するために持ってきてたんだけど、1924年以降はそれに100パーセントかかる、そんなバカなと(笑)。彼も最初から美術館作るつもりで買ってましたからね。個人でするんじゃなくて、皆のために美術館を作る。松方さんのアイデアは良かったと思うんです。場所まで決まってました。麻布に共楽美術館を作ると。この間、(フランク・)ブラングィン(Frank Brangwyn)の展覧会の時に出てましたよね。一応プランまで作って、土地も手当てして。それまであちこちばらばらに買って、時々持ってきてたのが、1924年以降は持ってこないで、そのままほっぽらかしちゃった。それ以前に持ってきたやつは、展覧会を上野やなんかで一部見せてましたけれども。それは1924年以前で、1927年から日本は危なくなった。1929年が世界恐慌ですからね。松方さんのところは川崎造船がだめになって。そして日本に前から入ってきたやつは全部銀行管理になって、それから散らばっちゃったわけです。それで外国に出たやつもあるし、動いてるのを知ってる人がいろいろいて、ブリジストンに入ったやつもあるし、個人で持ってるのもある。そういうのを集めたのが元の松方コレクション。それと返ってきたやつのまあ代表的なの集めて、というのが最初の展覧会ですね。
林:なるほど、そうか。
高階:だからその時は、展覧会はもちろんカタログやなんかを作るのは、事業課がやった。それで特別展の会場がないから、その度に入れ替えをするわけですね。
池上:常設を一回しまって、特別展の時は、借りてきたものをまた見せるという。
高階:そうです、はい。そのフランス美術展だと読売がやったのかな。
林:読売ですね。
高階:ですよね。版画やなんかが多かった。たぶん総覧に中身が出てたと思います。そういうときには、全館ではないけど常設の一部分を仕舞って、借りてきたものを並べる。その時に、さっきの展示パネルが活躍するんです(笑)。重たいやつで大変な。あのパネルで、壁を増やしながらやったわけです。
林:日本の新聞社が展覧会のスポンサーシップをやるっていうのは、もうこの頃から。
高階:この頃からですね。1960年代ぐらいが一番派手だったんじゃないでしょうかね。ミロのヴィーナスが来たのが1964年ぐらいかな。非常に派手にやった。それも総覧に入ってるはずなんだ、「ミロのヴィーナス展」っていうので。
林:なんか写真でだけ見たことありますけど、すごい人が上野に並んだって。
池上:1964年の春ですね。
高階:松方コレクションの常設がオープンしたときもすごかったんですよ。行列して。
林:ああ、そうですか。
高階:で、切符切りにまで駆り出されてました。面白かったけれど。切符売り場があって、今みたく解説とかじゃなくて、もぎりを。「もぎりにお前出ろ」とか言うんで、交代で(笑)。
池上:ええっ、先生ご自身でもぎりをされたんですか。
高階:ええ、やりました。技官は下っ端だから、もうなんでもしてました。
池上:(総覧を見ながら)「ミロのヴィーナス展」、「展示品、彫刻一点」(笑)。
林:彫刻一点(笑)。
池上:すごいですね。
高階:でね、ミロのヴィーナス、特別なんとかっていって……
池上:「特別公開」というタイトルになっているようですね。
高階:それもね、非常に事業課が抵抗して。「ミロのヴィーナス展」って言えば、他の関連作品も並べなきゃ、展覧会じゃないと。でも一点しか来ない。だからこれはもう「特別公開」。新聞社は「ミロのヴィーナス展」って言ってましたけどね。だからそれでずらっと並んだけど、それ以前も、1959年にオープンしてからは連日ずーっと並んでるわけですよ。行列。だから、今とは違って。
林:全然違いますねぇ。
高階:ええ。要するに初めてフランスから来てっていうことなもんですから。お客さんの整理はずいぶん大変だった。
池上:聴衆の関心も、オープン前から非常に高かったんですね。
高階:ええ、非常に高かったですね。新聞でもいろいろ騒いでたし。だからもう、館員は手分けしていろいろそういうことをやった。
林:松方コレクション以外に新しい作品を購入するというのは、いつ頃からやられてたんですか。
高階:新収作品が入ってきたのは、1960年からですね。つまり(オープンの)翌年です。これは買ってはいなくて、貰ってるんだな。寄贈作品。というのは、元松方の作品を持ってた人が、「美術館ができたからあげます」っていうので、新収作品に。(シャイム・)スーティン(Chaïm Soutine)の《狂女》(1920年)っていうのが確か来たときには、これは個人で、林(泰)さんが持ってた。それからどこかの会社が持ってた作品とか、我々の知らないようなものまであるんだな。よく知らない作家だけど、持ってた人が持ちきれないからということで。それから、梅原龍三郎さんは小さい石膏像をくれた。いうようなことで、1959年には無かった作品が入って。年度ごとの名作選や展覧会の中身は総覧に入れてると思います。ここに新収作品ってのがずらっとあるけど、これはみんな寄贈で。
池上:予算が付き始めたのは。
高階:予算で買い始めたのはいつだろうな。毎年若干の新収作品があって、1961年に(アルベール・)マルケ(Albert Marquet)夫人(Marcelle Martinet Marquet)からもらった小さいデッサンがありますね。1962年。でも、これはもらったもの。いやぁ、ずーっと予算がなかったんだ(笑)。で、1963年にマイヨール展をやった。マイヨールの奥さんのディナ・ヴィエルニー(Dina Vierny)が来てやった。その時にマイヨールの作品を購入してますね。これ、展覧会のあれでやったのかなぁ。
林:1963年の8月ね。
池上:じゃあそのあたりが、最初の。
高階:これは購入費用として入ったのか、展覧会費用から出したのか。その時が初めてですね、新収で寄贈作品ではないものは。マイヨールのヴィエルニーさんから買ったのか。それ以後は、版画やなんかが多いけども、新収作品がある。1964年くらいからそれなりに予算が入ってきたんだろうなぁ。作品の購入に関しては、これも今とは違う。事業課はまったく関係してなかったです。
林:ああ、そうなんですか。
高階:購入委員会というのがあって、館長の富永さんと嘉門さんが入っておられる。あとは、専門家の方だけだったですね。だから、こんなの買ったって後で分かるんで。
池上:じゃあ先生はあんまりタッチなさらずに。
高階:今度はこんなのが入ったよっていうのは、決まった後で。それじゃあカタログに加えようということを、事業課が担当してました。
林:なるほど。
池上:特別展の時に、フランスからいろいろお借りになると思うんですけど、出品交渉でフランスに行かれたりとかいうことは、あったんでしょうか。
高階:まったく無かったです。新聞社主催とか、外務省やいわゆる文部省、国がやるってことで。まあだいたい、新聞社中心ですよね。「ミロのヴィーナス展」でも。あの時は大騒ぎしたから、向こうの大使館の人なんかも加わったけど。外国出張は、我々は10年ぐらいは行ってないです。館長は行った。富永さんが最終的なまとめに行かれたっていうのが、1961年、62年か。
池上:やはり一度帰国されたら、相当長い間行かれない。
高階:だからもう予算もないし、行かないのが当たり前みたいに思ってましたしね。僕は個人的に言えば、1967年にロックフェラーに呼ばれてアメリカに行った。予算ではなくて。ですから外国に行ったのは1959年から8年ぐらい経って、というのが初めてです。勤めてからは。事業課の他のみなさんも、だいたいそんなもんです。富永先生は展覧会の時に挨拶とかっていうんで行ってられましたが。
林:雑誌記事などをいろいろ見てると、富永さんは当時けっこう長くパリに行かれてますね。アンフォルメル関係とかで。
高階:ええ、そうですね。たぶん展覧会の時には、新聞社の予算で。美術館としての予算は無かったんだと思います。あったとしても非常に僅かだったでしょうね。
林:今の学芸員という観念とは、文部技官の位置づけが違うっていうことですよね。
高階:まったく違いますね。手伝い、下働きっていう感じが強い。技官はたぶん、病院で言えば、看護婦さんとかに近い。
池上:テクニカルなことで。
高階:お医者さんを看護婦さんが手伝って、注射とかをやるのに近いでしょうね。
池上:そのお医者さんの仕事を、新聞社がやってたという性格が強いんですか。
高階:ええ、そういうことです。交渉に関しては全くそうですよね。
池上:新聞社の方がフランスに行かれたり、フランスに駐在してる方がするとか。
高階:ええ。フランス駐在の人が中心になったり。
林:今でもその慣習は続いてますね、ある程度。
高階:だいたいそうでしょう。当時新聞社は景気も良かったし、文化事業というプライドもあったし、お客さんが入れば大いに宣伝になるっていうので、「ミロのヴィーナス展」をやった。その前に、「フランス美術の100年展」っていうのが1961年。これは面白いんですが、ルーヴルを中心とするフランス美術展で、(東京国立)博物館でやったんですよね。
池上:ああ、(会場が)東博になってますね。
高階:つまりここには特別展の場所がなくて。これはかなり大がかりな展覧会で、近代美術の100年です。
林:点数がすごいですね。
池上:絵画260点。
高階:ドラクロワから始まってキュビスム、シュルレアリスムまで入ってたかな。パリ近代美術館のもので、これは朝日新聞がやった。新聞社が全部組織して、作品選択やなんかはフランスのドリヴァルがやって。彼はパリ近代美術館の次長をやってましたから、彼が全部選んで、それからあちこちから集めるのも全部彼がやってくれて。それでルーヴルを中心とするフランス美術展。近代美術100年と我々は言ってたんだけど。ドラクロワから、シュルレアリスムまでですからね。だいたい1830年代から1930年まで。だけど「ルーヴル」っていうのは、題名に使いたかったんだな。新聞社の時には、題名はいつも問題になるんですが。
池上:そうですね。フランス語のタイトルには、書いてないですね。
高階:フランス語ではなんて。
池上:「Art Français, 1840–1940」っていうふうに。
高階:そうなんです。それを「ルーヴルを中心とするフランス美術展」なんて言われてもピンと来ないんだよな(笑)。ただそれも、作品は全部向こうが決めて、こんなのが来るよっていうのを朝日新聞から聞いて。まずリストが来て、わりに有名な作品もあって、「ああ、これか」って。それぞれみんな文献調べて。それから全然知らない作品もあって、あとになって写真やデータが来て、それの翻訳をして。最初の頃は専ら、事業課で我々がやったのは翻訳ですよね。こっちが何かを作るってことはない。全部向こうが決めてきたやつを翻訳する。それで展示は博物館でやったけれども、我々が行って手伝って。ドリヴァルさんが来てたから、僕が通訳も兼ねて。しかしこの時の展覧会カタログっていうのはかなり、今でも重要だと思う。作品が二百何十点、とにかくできるだけ作品の写真を入れようっていうので、基本的に全部入れたんです。小さくても。
林:そうですか。なるほど。
高階:ええ。従来はパリでも、展覧会をやるときは主要作品だけを白黒で、まあカラーが二、三点入ればいいほうで。でもこの展覧会はともかく貴重だからっていうので、小さいものでもまとめて入れようって。
林:それは撮り下ろしですか。それとも。
高階:写真は、基本的には最初向こうから全部来たのを。しかし、作品が来てから撮りました、やっぱり。だからわりに面白い展覧会になった。
林:そうか。図版があるとないとでは全然違いますよね。
高階:そうなんですよね。だから図版を全部入れようってのいうのは、ヨーロッパでもその頃なかったから、わりにそれは早かった。だから我々が出来ることはそれぐらいで、中身はもう全部、向こうの言う通りやってました。
林:ということは、例えば文部技官がカタログのテキストを書くなんてことは、当時ありえなかったことですか。
高階:なかったですね。西洋美術館で我々がどうしても書きたいって言って書いたのは、(ギュスターヴ・)モロー(Gustave Moreau)の展覧会が初めてぐらいかな。モロー美術館の人にも書いてもらって。
池上:モロー展は1964年の11月ですね。
高階:あ、そうですか。これはモロー美術館とお話をして。1964年ならミロのヴィーナスが4月にあって、モローは11月にやってるんだな。
池上:けっこう目白押しですね、このあたり。
高階:この時期はそうだったですね。これは、新聞社がないんですよ。
池上:あ、そうですね。
高階:ヴィーナスは朝日だけれども、これは富永さんがフランスに行って、モロー美術館と直接交渉をされて。我々は行ってないんですけど。モロー美術館もその頃はフランスでは全然人気がない。今はけっこう人を呼んでるけど、当時は暇で困ってるっていう(笑)。
林:なんか小さな、不思議な美術館ですよね。
池上:個人邸宅みたいな感じの。
高階:そうなんです、面白いところですよ。
高階:僕も昔見に行ったことあるけど、がらーんとした美術館で、物はいっぱいある。館長の(ジャン・)パラディール(Jean Paladilhe)さんが「なんでも貸すよ」っていうようなことがあったらしいんです(笑)。それでこの時は非常にいい展覧会だった。今ではちょっと出ないような良いものがずいぶん出て。今はあそこも従業員と学芸員がちゃんといるけど、当時はパラディールさんって館長がひとりぐらいしかいなかったんです。で、彼の挨拶とデータは来たけれども、解説もこっちが書くし、モローについての伝記だとか評論を初めて我々が書きました。中山さんと僕が書いたのかな。しかしその時に「名前を出すな」っていうんで、だいぶ議論になった。名前は出してないと思うな。
林:ああ、そうですか。
高階:今でも地方美術館の学芸員さんとか、そうじゃないですか。個人名は出さない。これは美術館の仕事であると。お役所の文章は、個人名は出ないわけですよね。
池上:作品解説じゃなくて、ちゃんとエッセイをお書きになっても。
高階:ええ、エッセイはそのとき初めて出した。
池上:でも名前を出さずに。
高階:ええ。今でも地方美術館は最後に括弧して名前が入るっていうのですよね。
池上:なんかイニシャルになってたりしますよね。
高階:それは今でも日本の美術館の問題で、自分の研究業績にならない。地方美術館はそれで今も苦労してますね。国立はもう今では出すっていうことにしましたけど、最初の頃はそうではなかった。もちろん館長の名前で挨拶なり全体のことは出すけれど、それだけです。
林:そうすると、先生は留学して美術史を専門にパリで勉強されたけれども、こっちに帰ってきたときに、それを学術論文としてどこかに発表するというようなことはなかったということでしょうか。
高階:美術館としては全くないです。僕は美術史学会に入りましたから、美術史学会の『美術史』には出しました。
林:ああ、そうですか。
高階:それは西洋美術館とは全く関係なしに。やるとすればそれしかないですね。学会論文としては美術史学会だけだったかな。あとは雑誌論文ですね。松方コレクションの紹介を『藝術新潮』にちょっと書いたり。つまり評論としてはいろいろ、美術館の仕事とは別にやってました。
林:ちなみにその学術論文を出されたのっていうのは、ドラクロワですか。
高階:最初はドラクロワですね。
林:それはやっぱりパリにいる時に、すでにドラクロワを考えてたっていうことで。
高階:はい。あとは松方コレクションの紹介で、美術雑誌だと『藝術新潮』とか『三彩』とか『みづゑ』とか。単なる評論でないなら、ルノワール論を書いてくれとかね。人気作家についてちょっと書いたり、っていうことはやりました。
林:その、館外の活動が文部技官としては問題になったりしなかったんですか。それはわりと自由に。
高階:それはわりに、今よりは自由だったと思います。もちろん文部技官としてではなく、肩書きは単に名前で、高階で出すんですけどね。それから展覧会批評を頼まれたり。それは富永さんも嘉門さんもやってましたけど。だからむしろ、美術館で出すものに名前が出せないから(笑)。
池上:不思議な状況ですね。そして現代美術についてもよく評論を書かれていたと思うんですけど、1959年に帰国されて、日本の現代美術の状況っていうのは、わりとすぐにご覧になっていったんでしょうか。
高階:ええ、そうじゃないかな。書き出したのは1960年くらいかな。富永先生とも親しかった瀧口修造さんのお宅に伺ったりしてたことがあって。ちょうどアンフォルメルの時ですから、僕は堂本君とも親しかったし、僕の留守の間にタピエが来たりしたこともあって、アンフォルメルについての状況を雑誌に書いてくれっていうようなことはあったですよね。新聞で書くようになったのは、読売新聞が最初。東野くんなんかと新しい美術をやった、海藤さんっていう方が。
林:日出男さん。
高階:海藤日出男さんという編集者がいて、彼が読売の美術欄や現代美術を瀧口さんと一緒にやっておられて、大岡さん、東野さんが展覧会評をやってた。僕も展覧会評を一時頼まれたこともあるし、読売では写真展の批評をやった。あの頃、今の批評とずいぶん違うのは、新聞も『みづゑ』や『美術手帖』も、展覧会批評は展覧会に応じて編集部から頼んでくるんですよ。「今度は誰それの展覧会の批評を書いてください」と。団体展の場合もそうですね。僕はやったことないけど、「二科の展覧会どうですか」とか。それはそれで面白かったんだけれども、こっちで選んでやるわけじゃないんですよね。僕は美術批評家連盟にも入ってたけど、フランスで美術批評家連盟に入ると、アフィリエーション(所属)ごとに書く。『ル・モンド』の美術記者とか、雑誌であれば『シメーズ』とか。どのジャーナリズムに書くって、決まってるわけですよ。本当はそういうふうでないと、継続性がなくなるから、言われたことだけやってるのはおかしい。しかし一人で全部それを背負うわけにはいかないから、担当者を一年なら一年で決めるとか、美術記者がきちんと専門の中でやったらいい。そういうことはあの頃いろいろ話してました。だから最近は美術記者がだいたい選んでやりますよね。選ぶこと自体が一つの批評だけど、我々が書く時はもう選ばれてから頼まれるっていうことだけでした。
林:ということは、依頼されたけれども、これは書けないよと断られたものもけっこうあるということですか。
高階:ええ、そうです。わりに自分で選べたのが写真展かな。あの頃は写真展、あんまり無かったですからね。
林:そうでしょうねぇ。1950年代の写真って、どういうもんでしょう。
高階:だから大して場所がない。新しいニコンサロンとかで。面白いのは、川田喜久治君のやつとか。
林:ああ、「地図」。
高階:地図。展覧会見て面白いと海藤さんに相談して、「じゃあやっていいですよ」ていう形で選べた。展覧会評は僕もちょこちょこやったけど、だいたい全部依頼ですよね。
林:海藤さんについてちょっとお聞きしたいんですけど、どういう方だったんですか。
高階:そうだなぁ、今の新聞社ではそういうことが可能かどうか分かんないけど、まず夕方にならないと出てこないっていう。編集部のボスでしょうね。ご自分ではあんまりやらないけれども、美術館のこと非常によく知っておられて。瀧口さんとはすぐお隣同士で。
林:そうですよねぇ。大家さんが海藤さんだった。
高階:大家さんだった。だから、どういうお家なんだろうなぁ。そういうことは、全然お聞きしてないんですけど。ただ夕方から夜はずっと新聞社に。それから展覧会があると、若い人たちに「今度君これ書けよ」って彼がだいたい、手配をするわけですよね。編集部の文化・美術関係は一手に。あれは新聞社の中での実力なんでしょうねぇ。担当を決める。
林:ご自身もかなり見識のある方だって聞きましたけど。
高階:そうですね。わりにはっきりとこういうものを、って出される。
林:じゃあ、先生は海藤さんとも、日本に帰国されてから。
高階:もちろんそうですよ。瀧口さんとも、海藤さんとも、帰国してからですね。
林:瀧口先生ともじゃあ、1960年前後くらい。
高階:ぐらいからですね。帰ってきてから。お宅へ伺うようになった。
林:先生はその頃、どこに住まれてたんですか。もうすでに、中落合とか。
高階:最初は中落合で下宿です。一人の時は(笑)。あの近くなんですが、結婚して大森の方に行って、これももちろん借りてですけど。今のとこに移ったのが、子どもが生まれた時だから、1964年か。オリンピックの年ですよね。
林:はい、そうですね。
高階:オリンピックの年で、阪神が優勝した年で(笑)。
林:よく覚えてますね(笑)。
高階:だから1964年に今のところに移った。結婚する前は一人で下宿。うちの父母は田舎の方にいたので、学生の時は田舎に。田舎っていっても多摩の保谷町ってとこ。東京の郊外ですね。不便だから、帰ってきてから下宿したのはその中落合の近くだったんです。
林:瀧口さんとこの近くですよね。
高階:ええ、そうなんです。西武線沿線近くが多摩の家に帰るのも近いし、安い部屋に下宿して。だから瀧口さんとも、後では、富永さんとも近い。結婚した時には、下宿では小さいので、部屋を借りました。木造モルタルで二部屋ぐらいのところで(笑)。最初は渋谷にいて。結婚したのは1961年かな、2年かな(笑)。さっきのフランス美術展が1961年~62年だ。
林:61 年ですね。
高階:1961年から62年にかけて。つまり冬から、年末から年始にかけて。その年明けの1962年ですね、結婚したのは。だから下宿じゃないけど部屋を借りて、うちの家内がNHKに勤めてたから、渋谷の近くが便利だって、最初は渋谷にいて。木造モルタル二階建ての簡単なとこを借りて、そこからもう少し広いとこって大森に行って、そこで子どもが産まれるからもう少しちゃんとしたところ、というので今の所に移ってきた。それが1964年ですね。だから1964年だということは、娘が産まれたからよく分かってるんだけど、それ以来、ずっとそこですね。今のところへ移ったのはやっぱり西武沿線だということが一つあったかもしれないな。父母がまだ西武線沿線にいたから、ちょくちょくうちに帰るにも近いし。なんとなく土地勘があったっていうこともあったし、たまたまそこで新しくできたマンションに移ったんですけど。そうすると、瀧口さんや富永さんのとこに行くのには非常に近い。富永先生は美術館のことでも行ったし、瀧口さんのとこに展覧会や美術、それこそアンフォルメルとか、新しい抽象美術とかの展覧会とかあると伺ったりして、瀧口さんからも話を聞いたりしてましたね。
林:前回もちらっと話題になりましたが、ご結婚された時に瀧口さんに仲人を。
高階:そうそう。富永さんに頼んで、もちろんやるって言ってたのが、初めて彼が外国行けるようになったんだな。これも新聞社関係の展覧会で。ちょうど結婚式が5月かなんかってときに、向こうに行って挨拶することに。だから出られないって、無理に瀧口さんに。富永さんも美術館の館長として行かれたのは、たぶんその時が最初だったでしょう。じゃあ瀧口さんにお願いするって無理矢理にお願いしたんだ。申し訳ないことだったけれど。
林:瀧口さんは当時読売にけっこう展覧会評書かれたと思いますけども。
高階:ええ、書いてられましたね。
林:そういうことについてはお話されたり。
高階:新しい作家でこんな人がいるよとか、加納光於が面白いとかね。僕も知らない当時のタケミヤ画廊でいろいろ展覧会をやってて。福島秀子っていうのが面白いとか。
林:ああ、福島秀子ね。
高階:こんな作家がいるよって、カタログ見せてもらったり。それからご自分の興味で、詩のことをやっておられたり。僕も昔のシュルレアリスムの時代のことをおうかがいしたりしてね。瀧口さんていうのはお話が非常に好きで、書くものは比較的に少なかったと思いますけど、お話するのは非常に面白い。いろいろ、思い出話なんかもしてくださって。その周囲に東野さんとか大岡さんがしょっちゅう出入りしてたから、そこでも会うし、そうでなくてもよく行って。特に仲人お願いしてからは二人で行って、お会いしたり。美術の話もしてましたよね。
林:東野さんとは、じゃあその頃から。
高階:東野さんとは、僕がフランスにいるときに会った。僕が1959年の5月に帰ってきたから、その直前に。
池上:1958年に行ってますよね、東野さん。
高階:ええ。ヴェニス・ビエンナーレに行ってる。その時に来ました。それは誰の紹介だったんだろうなぁ。パリに行くから、画廊を案内するとか。東野君に会ったのはその時が初めてです。
林:ああ、そうですか。瀧口さんもその時、一緒に行かれてるはずですけれどね。
池上:瀧口さんがコミッショナーで、東野さんがサブ・コミッショナーっていう形じゃなかったでしょうか。
林:瀧口さんはパリでブルトンにその時に初めて会われたんですよ。
高階:ああ、そうですか。だからその時僕は瀧口さんにもお会いしたんです。でも東野君はずっと長くいた。
林:そうか、じゃあ瀧口さん帰ってからも、東野さんはずっと。
高階:東野さんはしばらくいたんです。
池上:アメリカにも行ったりしてる。
高階:アメリカに行って帰ってからかな、じゃあ。
林:ああ、なるほど。
高階:そうです。出光(明代)さんと結婚されていて、出光さんの関係でわりにいい部屋を借りて、パリにしばらくいて。そうだ、その時に東野さんがアンドレ・シャステルに会いたいって。彼が聖アントワーヌの誘惑かなんかについて書かれた時に、『Gazette des beaux-arts』に出たシャステルのアントワーヌの論文を読んでて、「シャステルに会いたい」って。僕はシャステルについてたから、それじゃ一度会いましょうっていうんで、一緒にお茶を飲んだりした。『グロッタの画家』(美術出版社、1957年)っていう本を彼が出した時です。
池上:最初の本になるんですよね。
高階:そう、最初の本を持って来られて、その中に聖アントワーヌの誘惑の話があって、ボッシュの話が。それはいくつかの評論を集めたものですけどね。その時にシャステルさんの論文を見て非常に刺激を受けたっていうので、「こんな本ができました」って東野さんがシャステルさんに渡してたことがあります。僕はまだ何もまだ書いてない学生ですから、彼の方が先輩で、こういうちゃんと本を出した人がいるっていうので、もちろん日本語の本ですけど、こういうものだっていう説明をして。それで東野さんが何カ月かいた間にちょこちょこ一緒に画廊に行ったり。その時に東野さんが「何か書かないか」って言うんで、最初に僕が『みづゑ』に書いたピカソ論は、東野さんが紹介してくれたんですよ。日本に帰ってから、雑誌に書くものは何かないかって。僕はだから東野君とずいぶん親しくして。あの論争の後でもしょっちゅう一緒にいたんですよね。その時に僕はちょうど「ピカソの剽窃」っていうのをやりたかったんで、ピカソの昔の剽窃のこと。それを東野さんが「ピカソの剽窃って面白いから、それでやれ」と言って、日本の『みづゑ』から連絡があって。僕が最初に書いた「ピカソの剽窃」は、連載だけど最初のやつはパリにいる時ですね。で、帰ってから続きを書くっていうような。
池上:ああ、そういうことなんですね。
高階:ええ。だから東野さんには世話になったんだな。『みづゑ』は美術出版。それで美術出版の人にパリにはこんな人がいるよっていうことが分かって、松方コレクションが返還される時に、じゃあ松方の紹介を書いてくれとか、ルノワールについて書いてくれということで、ジャーナリズムに出るようになったんです。あとはこの間言った、『藝術新潮』でポロックやなんかのこと、要するにパリにいて見てる人っていうので、書くようになった。だから論文的なものを書くようになったのは東野さんのおかげですね。
池上:さきほどおっしゃっていたポップ・アートの論争というのは、何が論点になっていたんですか。
林:えーっとね、何が論点だったか(笑)。
高階:何だったっけ(笑)。
林:何だったかな。東野さんが「物体と幻想」っていう長い文章を、どっかの編集に書かれて、先生はそれに対してイメージとオブジェについて。(注:「物体と幻想」は東野が1963年に小学館『現代の絵画』シリーズの第4巻に書いた文章。高階の「オブジェとイマージュ」は1965年に筑摩書房から刊行された『現代美術』の第一章。また、高階は小学館のシリーズ第7巻『集合の魔術』の編集にあたり、「集合の美学」という文章を書いている。)
高階:そうです、現代美術論ですね。
林:ええ。
高階:あのね、要するに東野さんがポップ・アートを非常に推し出した。それで、あんなのつまんないんじゃないのって僕が言ったんじゃないかな(笑)。ものによってですけどね。
林:僕はその詳しい内容がちょっと今ぱっと浮かんでこない。
高階:何回か応酬をしました。(注:東野の「物体と幻想」に対し、『芸術生活』1964年4月号に高階が「物体の幻想:『ポップ・アート』についての不満」と題した文章を発表した。これに対し、東野が同誌5月号で「文部技官・高階秀爾殿」と題した反論を掲載、6月号に高階が「再説『ポップ・アート』論への不満」を発表している。)
林:そうでしたね。
高階:ええ。基本的に彼は完全な伝統否定で。僕は伝統は大事だっていうことを言ったっていうのがあったと思う。だから「文部技官」だって(笑)。僕は非常に新しいものも興味はあったんですけどね。なんで論争したんだろうなぁ。半分、八百長みたいな話ではあった(笑)。江原(順)君の時とは違って。東野君とは半分、面白半分にやったんですけどね。
林:江原さんとの論争はどういうものですか。僕はちょっとよく分からない。
高階:それは江原順さんが、『美術手帖』にフロイトのあれを書いたんですよ。あのレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な話。聖母子とアンナの絵は実はハゲタカ幻想である、ハゲタカを描いた絵だとかなんとかっていう。それを枕にして、彼は宗教学もやってたのかな、現代美術とからめて一説書いたんですよ。それで僕は『美術手帖』に投書して、フロイトのあれは間違いであると。あれはハゲタカじゃなくてトンビなんですよ。というのは、シャピロやなんかが書いてたわけですけど、要するにイタリア語の翻訳の間違いで、レオナルドはトンビって書いてるんだけども、ドイツ語でハゲタカになって。ハゲタカは、処女懐胎とかエジプトの伝統とか、空中を飛んでいて子どもを孕むっていうようなことをフロイトは言ってるわけで。だからトンビは全然違うわけですよね。それは単なる間違いであると。フロイトのレオナルド分析はちょっと面白いんですけどね。お父さんが死んだ時の日記だとかなんか。でもハゲタカ幻想はまるで違う。少なくともハゲタカとあれを結び付けるのは違うっていうことを、僕は投書したんですよね。『美術手帖』に。
林:そうですか。それは知らなかった。
高階:そしたら、江原君が反論してきて、なんか一生懸命「レオナルドの手記を調べて」とかっていうけど、違うわけですよね(笑)。だから最初は投書欄です。
池上:じゃあ偽名で。
高階:偽名でかな。でもすぐ本名で論争しました。江原君のこれはおかしいんじゃないかって書いた。何回かやった。
林:そうですか。
高階:ええ。『美術手帖』の、あれはいつ頃だろうなぁ。
池上:江原さんっていう方は、ずっとフランスにその後もおられたんでしたっけ。(注:2002年にブリュッセルで死去。)
高階:その後、フランスに行って。あの人はちょっと変わった人だなあ。宗教学と美術をやって、でもシュルレアリスムで。東野さんや大岡さんやなんかともちょっと離れたところにいましたね。だから結局日本よりフランスに行くようになっちゃったのかな。よく分からないです。個人的な付き合いはあんまりなかったんですけどね。展覧会やなんかで顔を合わせはしたんですけど。
林:東野さんとの論争で、伝統のことが話題になったっておっしゃってましたけど、美術史を勉強して、美術批評をやるっていうような人ってほとんどいなかったんじゃないかと思うんですよね。
高階:そうですね。今は林さんがいてくれて(笑)。
林:高階先生が帰られて日本の美術批評っていうものに関わられた時に、どういう感想を持たれましたか。美術史をやってるってことはご自分にとってどういう。
高階:まあ両方やるのは当たり前みたいな感じだったですよね。批評もいろいろ頼まれたり、西洋美術館のことはしょっちゅう、新聞とかいろんなところから頼まれるようになったし。展覧会をやればその紹介もやったんで、むしろ当たり前で。それでルノワールはどうだってことになると、少しルノワールのことをやるとかですね。そういう形で書いてましたから、僕は自然につながるような感じがしてたんですが、一般的にはそうじゃなかったみたいね。美術批評と美術史は違う。東大美術史でも、林さんがいた頃もそうかな。江戸以前、みんな。卒論は現代をやらない。クレメント・グリーンバーグなんてもってのほかだって(笑)。
林:そうなんですよ。僕は東大に戻った時に、グリーンバーグ論を出したんですよ。
池上:修論ですか。
林:じゃなくて、東大の大学院を受けるときに、昔の卒論で判断されると困るので(笑)、グリーンバーグ論を新たに書き下ろして、それをお送りしたんです。そしたら東大の大学院試験の面接で、忘れもしない、グリーンバーグっていう名前をご存じだったのは高階先生おひとりだけ(笑)。それで拾っていただいたようなものだったんです。
高階:(グリーンバーグは)面白い人だと思ったけど。でもその頃は、美術史は江戸まで。だから僕は近代をやっても、これは批評と思われてたんですよね。美術史の領域には入らない。
林:自然に思われてたっていうのは、逆に言うと先生はパリでドリヴァルにしても、シャステルにしても、いろんなメディアで活躍されてたのをご覧になってたからだと思います。
高階:そうです。シャステルさんなんかも今から思えばやや異端ですよね。
林:異端ですね。
高階:つまりソルボンヌ系じゃない、全く。ソルボンヌの先生方っていうのは、実証的で、歴史でドキュメントきちんと調べて、だからイコノロジー的だとかテーマ論はやらない。今でもたぶんソルボンヌ系がドクター論文書くっていうと、じゃあ資料を調べろっていうことでやるんですよね。それに対してシャステルさんっていうのは、ソルボンヌに行かれたのは実力があったからだけれども、その意味では異常ですし。シャステルさんの代表的なルネサンスの本が出た時でも、書評をする人がいない。美術史の先生方が反発したりね。美術館関係者はドリヴァルさんがよく書いてた。でも美術館関係とアカデミズムとは切れてるんですよ。両方ってことはあんまりない。美術館の人が大学に来るってことはほとんどないですよね。大学は大学だけ。日本はまた違って、美術館ではいつまでも技官でね(笑)、大学行って、ということになるわけですけれども。大学に行けば、研究職で教職っていうことになる。身分的にも違ってくる。僕が東大に行ったのは1971年、ちょうど紛争の後です。移ったら、ピエール・ローザンベール(Pierre Rosenberg)なんか、「なんでそんな身を落とすんだ」っていう(笑)。要するに、彼らはコンセルヴァトゥール(conservateur、学芸員)って言われる。だから、ソルボンヌの大学の先生が新聞批評するっていうのは、シャステルさんぐらいでしょう。それから、ニュー・アート・ヒストリーとかイコノロジーとか、そういうこともソルボンヌ系ではなかったですよね。シャステルさんは批判的ではあったけども、パノフスキーを紹介したり、新しいことやってたし。フランスでは、だいたい美術史もフランスが中心だと思ってるから。そういえばドイツ語のヴェルフリンの『美術史の基礎概念』は日本では非常に早く翻訳しました。あれは彼がミュンヘンにいた1915年に出てて、第一次世界大戦中ですけど、戦争が終わった時に守屋(謙二)さんの訳が出てるんです。でも僕が行った時にフランスにないんですよ。ヴェルフリンなんて知らないわけ。シャステルさんはドイツ美術史をやんなきゃいけないって、非常に翻訳を次々といろんな人にやらせた。ヴェルフリンもリーグルも、出たのはその後ですね。それからパノフスキーなんかも紹介するとか。シャステルさんそういう点では非常に広くて、僕はずいぶん勉強になりました。
林:面白いですね。ドイツの美術史は戦時中にみんなアメリカに移っちゃって、英米圏とドイツ圏は割と近いですね。フランスをバイパスして行った感じなんですね。
高階:ドイツとは戦争してたから。だから、アメリカの美術史は要するに全部元はドイツです。原爆だってそうだ。アメリカがやったけど、あれは元はドイツ。美術ではデュシャンなんかも行ってるし、学問的にも亡命学者ってのは一緒。ヴァールブルクもそうだし、ゴンブリッチもそうだし。
池上:英語圏に移るわけですよね。
高階:英語圏に行って、非常に活躍して。ゴンブリッチさんもずいぶん無視されてたけど、シャステルさんから紹介されたし。でもそれは、いわゆるフランスの正統派にはならない。
林:ちょっと話飛んじゃうかもしれないですが、ロンドンで先生が話されたのはいつでしたか。もっと後の話ですね。ゴンブリッチが先生の話を聞きに来たっていう。
高階:最初にブリティッシュ・アカデミーに呼ばれたのは1974年。
林:1974年ですか。
高階:ええ。
林:もっと後なんですね。
高階:そうです。だって、1967年まで(外国には)行ってないんだから。1967年に初めてアメリカ行って、その時はロックフェラーで呼ばれて行ったんですけども、シャピロさんに会って。
林:パノフスキーにもお会いになって。
高階:パノフスキーにも。僕がいる間にパノフスキーは亡くなったんですよ。
池上:1968年に亡くなったんですよね。
高階:ジャンソンさんっていう、ドナテッロをやってる人がいて。
林:H.W.ジャンソン(H. W. Janson)。
高階:H.W.ジャンソンです。あの頃はニューヨーク大学のインスティチュート・オブ・ファイン・アーツ。パノフスキーもそこに移ってて。インスティチュート・オブ・ファイン・アーツっていうのは非常に美術史の名門で、シャステルさんなんかもそこと仲良かったんだけど。ジャンソンがいて、パノフスキーがいて、だから僕はそこにパノフスキーに会いに行ったんですけどね。シャステルさんの紹介があって。パノフスキーも、「シャステルはいい人だ」とか言ってくれて。ジャンソンさんにも紹介してもらって。ジャンソンさんのお宅に伺ってる時だな。だから冬ですよね。食事の時に電話がかかってきて、ジャンソンが「ちょっと失礼」って、帰ってきて、「パンが死んだ」っていう。
池上:「パン」という愛称があったんですね。
高階:ええ、「パン」て言ってたんですよね。もうびっくりして。そういうことがありました。アメリカ系の学者だと、(ロバート・)ゴールドウォーター(Robert Goldwater)とかね。ルイーズ・ブルジョワ(Louise Bourgeois)の旦那さんですけども。だから僕はブルジョワさんに会ったのもその時なんですが、彫刻家ではなくて、ゴールドウォーター夫人として会ったから。僕が知らなかった。
池上:作品は作っておられたと思いますが、たぶん今みたいな華々しい活躍はまだなかったですね。
高階:ええ。わりに慎ましいお家で、ゴールドウォーターさんの食事に呼ばれて、フランスだっていうんでもちろん、フランスのことはお話してたけど。お料理を作ってくれて、っていう記憶しかないんですけどね(笑)。それから、フィラデルフィア美術館にいた、アン・ダノンコート(Anne d’Harnoncourt)、彼女はお父さんがあれで(注:ルネ・ダノンコート、元ニューヨーク近代美術館館長)。僕は非常に親しくして、日本にも来てもらったりしたけど。そういう関係者ができたのが1967年、68年。1967年から68年までアメリカにいましたから。で、帰りにパリに寄ったんだけど、それがちょうど1968年の5月革命にぶつかっちゃってね。面白かったんだけど。シャステルさんに車出してもらったり。シャステルさんもあの頃はやっぱり苦労されたわけです、学生の反乱で。ソルボンヌの先生だったから。その後シャステルさんはコレージュ(Collège de France)に移られて、コレージュの方ではもっと自由なことをやっておられた。その時、フランス美術史の人たち、(ピエール・)ローザンベール(Pierre Rosenberg)なんかは僕は前から知ってたから、美術館に行ったりして。シャステルさんはそのローザンベールやなんかとも親しくて。あの人はプロフェッサーであり、ジャーナリストであり、だからけっこう両方と付き合ってたんですよね。画商さんとも付き合ったり、非常に幅の広い交遊があって。
池上:じゃあ先生もそういう姿勢を、自然なものとして。
高階:だからなんとなく僕も当たり前だと思ってた。今になってみるとそれはわりに……
池上:新しいスタンスだった。
高階:ええ、わりに特異で。それは(マルク・)フマローリ(Marc Fumaroli)なんかもそうですよね。彼は文学をやってるけども、ソルボンヌ文学科ではなくて。ソルボンヌの文学の人は、もうかちかちの、マラルメの原稿をとにかく草稿をきちんと見ろとかね。それはそれで大事なことで、一生懸命草稿を見て論文を書くって。でもフマローリさんは違う。この間日本に来たときに話して、面白かった。僕は前から知ってたんです。アカデミー・フランセーズに入ってたから。アカデミーやコレージュってのはだいたい、フランソワ1世が作った時から、ソルボンヌに対抗して作ったわけですから。ソルボンヌの神学系とかは非常にがちがちで、もっと自由にっていうのでコレージュを作ったという伝統は今でもあるんだとか言ってましたけど。
池上:今少し画商さんの話が出たので、お聞きしたいことがあったんですが、当時東京では東京画廊や南画廊がありましたね。
高階:東京画廊と南画廊、その二つが大きい。
池上:その二つがありましたが、山本孝さんや志水楠男さんとはご交流はありましたか。
高階:ええ、よくお会いしました。本当に新しい美術をやってたのはその二つぐらいじゃないんでしょうかね。
池上:だいたいそうですよね。
高階:あとは画廊といっても貸し画廊ぐらいですから。志水さんや山本さんも、お付き合いするようになったのはやっぱり帰ってきてからなのかな。東京画廊でやる展覧会のカタログに何か書いてくれとか。新しい人たち、宮脇愛子さんなんかの書いた覚えがあるな。それは東京画廊だと思いますね。
林:養清堂とか。
高階:彼女が最初にやった展覧会が養清堂です。その最初の展覧会の評を僕が書いた。その後で東京画廊でやる時にカタログに書いて。それは画廊が主体です。養清堂のはもう、普通の。宮脇さんが非常に早い頃にやって。主張が面白いなと思って書いたことがあって。
林:まだ磯崎(新)さんとの(結婚の)前ですよね。
高階:前です。
林:全然前ですよね。
高階:だって宮脇さんっていうのは、宮脇俊三さんの奥さんですよ。あの鉄道の。(注:宮脇俊三は編集者で紀行作家。『中央公論』の編集長を務めた。)
林:鉄道の。
高階:ええ、『中央公論』で。
林:えっ、そうだったんですか。
高階:だから宮脇なんですよ。
林:それは僕知らなかったです。
高階:僕もそれは知らなかったです。宮脇俊三さんはまた、編集者としては大変面白くて、中央公論が出した美術全集の担当だったんですよ。それで僕は知ったんです。中央公論が『日本の名画』、『世界の名画』っていうのを、わりにきちんとした形で24巻ずつ出したんです。井上靖さんとも親しくて、井上さんも美術が好きだから、『日本の名画』の時には、河北倫明先生と井上さん、それと僕が若手で。この三人が編集で作家別にやりましょうっていう全集。これはかなり画期的だった。だから高橋由一を一冊にしましょうとか。それまでは高橋由一なんていうのは初期だけだったけど、それも入れる。もちろん梅原(龍三郎)、安井(曽太郎)なんかの偉い先生や、前田青邨とか(小林)古径、(横山)大観をやるときに、その三人で。僕はもう一番若手だったんですけど。井上さんと一緒に(富岡)鉄斎見に行ったりしました。それは全部宮脇さんなんですよ。
林:そうですか。
高階:ええ。その前に西洋美術の巨匠がやっぱり24巻。これも有名作家ばっかり。ラファエロから始まって、カラヴァッジョなんかは入ってないんだけど、ルーベンスとかレンブラント、モネとかルノワールって作家別に24巻。24巻というのは、毎月配本で、2年間。日本の美術全集っていうのは面白くて、型が先に決まっちゃうんですよね。
林:はい、そうですね。
高階:毎月一冊配布しますということで、それをやられたのが宮脇さんなんですよ。僕はそこで井上靖さんと知り合いになった。井上さんはゴヤを好きで書きたいと。ゴヤのカルロス四世(『カルロス四世の家族』1974年、中央公論新社)っていうのを書かれた時で、編集は僕がお手伝いで、どういう作家で誰に頼むっていうようなことをやって。それがわりにうまくいって、日本のこともやりましょうっていうので、やって。結局、24巻じゃなくて25か6になったのかな。最後に、やっぱり奥村土牛さんも入れなければってことで、入って。その人選ではずいぶん、要するに枠が決まっちゃってるからね、もっと入れたいって言ってもあれだから。そこで前に言ったっけ、土田麦僊が入らないって文句言われた。お嬢さんから電話があって。
林:そうですか。
高階:竹内栖凰も入ってる、村上華岳も入ってる、麦僊がなんで入んないんだって。編集部は「先生方がお決めになった」と。麦僊さんのお嬢さんは、辻さんっていうところにお嫁に行かれて、なかなかいい方だけども、非常にお父さんのことを熱心にいろいろ(調べておられた)。もう今は亡くなられてますが、実際に資料を知っておられた。若い人で麦僊を調べてる人は今もいますけど。僕もいい画家だと思いますけど、まあだけど京都では竹内栖凰がいるし、村上華岳もいるしというようなことでね、入らなくて。編集部は先生方に任せてるっていうから、井上さんに電話したんですよ。井上靖さんは非常に丁寧な方で、「いや私は素人で分かりません、ただ好きなだけです」って。「河北さん、高階さんに任せてる」って。それで河北さんに電話したら、河北さんてのはとぼけた人で、「ああ入ってないですか、どうしてだろう」とか言って(笑)。それで辻さんも「へ?」ってそれっきりになっちゃって、僕のところへ電話がかかってきたの。「なぜ」ってそれはだいぶ電話で言われて、偉い画家だってことは分かってるけど、もう枠が決まってるだけでしょうがなかったっていうことで。納得はしてはいただけなかったと思うけど、そういう話がありました。それで宮脇さんのことだ。宮脇さんの奥さんってことは知らなかった、僕は。
林:僕も初めて知りました。
池上:面白いつながりですね。
林:全集は何年の話ですか。ちょっと後の話ですか。(注:『世界の名画』シリーズが1974年、『日本の名画』シリーズが1975年)
高階:ええ、今ではカンヴァス版というのになりました。昔は箱入りのハードカバーだったのを、評判がいいっていうんでカンヴァス版で出してる。その最初のやつ。最初の巻に井上さんがエッセイを書かれるっていうから、最初はゴヤから始まって。日本の方は鉄斎から始まったっていうことは覚えてるな。あと、僕はいろんな専門の方にお願いするのと、美術史を書いてくれっていうので、近代美術史をそこで代わる代わる書いた。後で一冊の本になるんですよね。
林:日本の近代のことについては、先生は帰られてから興味を持たれた。
高階:ええ、帰ってからです。その前に、パリにいる間に日本の古美術展を見たのが出発点ですが、書くようになったのは『季刊藝術』っていう雑誌。
池上:書かれてますよね。
高階:江藤淳さんと、遠山一行さんと、最初は三人で、途中から古山高麗雄さんが編集として加わってくださった。彼は小説家としてもなかなか面白い。古山さんは『芸術生活』の編集をやってたんですよ。編集長で、東野くんとの論争の時にも古山さんがいろいろしてたんですけど、非常にいい方で。『季刊藝術』の時に、編集実務を一番良く分かるっていうんで、江藤さんと遠山さんと私と古山さんが、一応同人ということになって『季刊藝術』始めて。その時に、連載で誰が何を書くかっていうので、僕はじゃあ日本をやりますと。高橋由一のことから始まったんですよね。それで近代をやり始めた、普通の連載で近代美術史をやった。
池上:それまでは研究は江戸までっていうことに、なんとなくアカデミアではなっていて。
高階:もちろんそうです。だから高橋由一だってもちろん違って、鎌倉近美(注:神奈川県立近代美術館)の酒井(忠康)君が言ってたけども、要するに美術館は明治以降をちゃんと持ってるわけです。東京近美でもそうです。だけど、それは美術史とは別だと。要するにそれは評論で、東大ではそこはやらない。これもまた面白いですね。文学は現代文学やってますよね。現代作家も。今は国文でも、大江健三郎だとか、三島はやるでしょう。
林:それこそ、村上春樹まで。
高階:村上春樹までやるけど(笑)。だけど、今でも東大美術史はあんまりやらないでしょうね、現代。
林:やらないでしょう。
高階:ええ。やっぱり江戸までっていう不思議なあれがあってね。美術史と評論は違うと。日本の美術史の成立っていうのがまた面白くて、物をずっと辿るフランスのドキュメンテーション、コレクションの来歴とか、日本の美術はそれが分かんないのがいっぱいあるんですよね。表に出ない。唯一はっきりしてるのが茶道具。
林:箱書きが。
高階:茶道具は誰から誰にってのが。
池上:それが価値の一つですもんね。
高階:非常に大きな価値なんです。だからそれだけは分かる。しかし茶道具は明治期には美術史の対象にはなってないですよね。お道具類だから。美術史としては、大正期に藤懸(静也)さんが東大に来て浮世絵をやったっていうのが非常に大きな、新しいことで。浮世絵なんてものをって。まあ江戸期には違いないけども、違うんだよ。
池上:大衆的なものとされていたものですよね。
高階:それこそ雪舟だ、光琳だってことをやるのが美術史だったと思うんで。今でもたぶん、近代ものはやりにくいと思いますね。僕が行くときはだから、現代もやってもかまわないよって。伊藤俊治なんかも、他の先生にずいぶん怒られたんです、写真をやりたくて。写真なんてものを卒論にって、ずいぶん怒られた。彼はニューヨークに行ったんだけど。
林:僕は詳しいことは聞いてませんけど、なんか卒論もすごくもめたっていう。
高階:そうそう、怒られた。でもまあなかなか面白いものを書いて、通った。だけど今はあんまりないでしょうね。
池上:あんまり聞かないですね。
高階:新しいっていっても、明治なんか100年以上経っちゃってるんだけど、まあなんとなくそういう感じがあったから。逆に言えば、だから僕は近代をやる。黒田清輝もちょっと面白いよとか。『季刊藝術』がその場所になったわけですよね。
池上:それについては、反響っていうのはありましたか。
高階:わりにあったです、評論界からは。つまり、酒井(忠康)さんとかですね、美術史じゃなくって。美術史からはあんまりなかったんじゃないかな(笑)。
林:酒井さん、文庫版のあとがきかなんかに書いてましたよね。高階先生のあの連載見て衝撃的だったって話を。
高階:高橋由一は、その頃はまだデータよく分からなかった。その後ずいぶん、鎌倉(神奈川県立近代美術館)もよくやったし、新しい材料が出てきてるんで、いろいろ直さなきゃいけないところもあるんだけど。ただ、あそこで出たっていうことはわりに刺激にはなったようですよね。
池上:美術史っていう立場から明治をやるという。
高階:そこに明治も入ってきうるんだということですよね。
池上:非常に大きなお仕事ですよね。明治期の美術研究は今すごく盛んになってますから。
高階:それは非常にいいことですよね。それはだいたい、美術館関係者でしょ。大学でもわりに出てきたか。
池上:大学でもやっぱり、藝大ですとか。
林:丹尾(安典)さんとか。
高階:丹尾さんもよくやってるね。つまり東大だけだな、よくやってないの(笑)。
池上:すいません、ちょっと1970年代に飛んでしまったので、少し戻ろうかと思うんですが。
林:ちょっとさかのぼって。
高階:だから1960年代の展覧会関係では、西洋美術館でちょこちょこやった。「ミロのヴィーナス」も非常に大きいですし、ルーヴルの「フランス美術史100年」も大きい展示で。そのルーヴル展は朝日ですよね。朝日がそれをやって、ミロのヴィーナスをやって、大変に景気も良かったし、ほんとによくやってくれたと思う。ドリヴァルさんが来て、全部彼が仕切ったわけですが、展示が大変に斬新でした。これは見てないよね。
林:知らないです。もちろん見てない(笑)。
高階:100年をセクションで10いくつかに分けてるんですが、セクションごとに部屋の展示を全部変える。ずいぶん贅沢なことをやった。最初のドラクロワのときはビロード張りで赤いやつで古典的な、キュビスムのときは白木造りであれするとか。部屋ごとにかなりお金もかかったと思うんですが、ドリヴァルさんがそれぞれの中身に応じた新しい展示を。これは費用だけの問題で、実際には委員会なんか作ってたけど、中身は西洋美術館の我々が、翻訳や展示に関してもタッチしてたわけです。額縁だけじゃなくて、展示っていうのは今でもやっぱり現地のフランスの方は上手いんですね。展覧会ごとに作品の背景を変えて。日本ではなかなかそれができなくって。お金もかかるし、日本のものだったら全部展示陳列ケースですから、ケースの中を全部変えるのは大変だし。ということで、展覧会の展示もずいぶん新しい刺激にはなったと思います。我々にとってはこんなものが来たっていう中身が非常に大きい。ミロのヴィーナスの時はそれに続けて、これは一点で特別展示にしようってことで。それで新聞社ともめたのは第一に、「ヴィーナス」っていうのは、新聞社は「ヒ」に濁点でやるんですよね。
池上:あ、はい。さっきちょっと気になったんですけど。
高階:僕はそんなのおかしいって。ルーヴルも「フ」に濁点にしてある。
池上:ですよね。「ヒ」に点々になっているので、「ウ」に濁点と小さい「ィ」をつけるんじゃないんだと思って、さっき気になったんですけど。でもギュスターヴ・モローは「ウ」に濁点になってるんですね。
高階:これはうちがやったから問題ない。
池上:そうなんですね。こだわりが。
高階:これは文部省が良くないんですけどね。文部省がV音は全部ハヒフ読みにするってことで。あの頃に出てる平凡社の百科辞書も、全部それになってる。「ビーナス」だしね、「バン・ゴッホ」ですよ。「バン・ゴッホ」なんて、(辞書を)引けますか。
池上:それはちょっと(笑)。
高階:だから、こんなめちゃくちゃなことはないっていって我々は文句言った。もちろん、「バイオリン」も今は「ヴァイオリン」でしょうね。
池上:だと思いますけれども。
林:それは戦後、文部省が統一しようとしてそういうことをやったってことですか。
高階:それに新聞社が乗っかったわけです。新聞社、漢字制限もそうです。
林:そう言われると戦前は確かに、既にアヴァンギャルドは「ヴ」に「ァ」だし、意外とあったわけですね。それを逆に。
高階:そうですよ。これはもう文部省のミスで、更改で非常に良くないのが漢字制限。最初は廃止論まで言ってたんだから。漢字表記と、カタカナ表記の単純化。これは上田萬年以来ですよ。さらに遡れば、英語にしろって、公用語英語にまでいく。つまり日本は遅れてる、西洋式に行けって。ローマ字論は非常に強かったんですよね。大正期に。
林:そうですね。石川啄木はそういうことを意識していた(注:「ローマ字日記」のこと)。
高階:そう。ローマ字論の次はカタカナ論、これの方が便利であると。漢字は難しくて、覚えるのに時間がかかって無駄だっていう漢字廃止論は、文部省に根強くあって。これは非常に浅薄な単純論、便宜主義だと思いますけどね。それが戦後の国語審議会はもっぱらカナ文字論者とローマ字論者が強くて、抵抗するのに漢字を入れるか入れないかが非常に大きな問題。それは未だに続いて漢字制限、通常漢字を増やすなんてことやらなくてもいいと思うんですけど。その頃の国語審議会の先生方と直接お話ししたんですが、一番困るのは、やっぱり漢字全廃論が背景にあると。だから第何期かに、日本語は漢字仮名交じり文を基本とするっていうのを入れるのが大騒ぎだったっていうんです。次は漢字仮名交じり文ていうのが入って、ところが漢字はいかん。そこで制限になったんですが。あれも最初は制限漢字。今は常用漢字で、目安ってことになりました。最初は制限で、つまり規定だったんですよ。公文書はそれでなきゃいけない。今のハヒフヘホも全部、公文書はそれじゃなきゃいけない。例えばタイピストが楽だとかね、それはまあそうなんだけども(笑)。だけど実際には全く読みにくいし、書くのも難しい。ヴィーナスの時はそれがもう大騒ぎだった。事業課は反対して、「ルーヴル」だし、「ヴィーナス」じゃないと困る。それを新聞社がどうしてもっていうんで、正式にはだから「ヒ」に濁点にしたのかな。
池上:はい、そうなってますね。
高階:しょうがないから、それにしたけれども。ヴィをなんとかして使おうって。日本語は難しいんですよ。「コーヒー」も「ヒ」になってるし。
林:テレビもね。
高階:テレビも「ビ」になってる。そりゃ、それでいいのもあるけれど、ヴィーナスはもう「ヴィーナス」で通っちゃってる。
池上:こういう固有名詞に関しては、ということですよね。
高階:そうなんですよね。それこそ「ゲーテ」の書き方がいくつもある。明治期にいっぱいあった。
池上:「ギョエテ」とか。
高階:ギョエテだとか。まあ「ゴッホ」だって違うっていう人がいて、植田寿蔵さんの本は「ホッホ」になってますけどね。
池上:オランダ語読みに忠実にいくとそうですよね。
高階:だけど、「ホ」でもないですよ。(喉にかけた音を出して)「ッホ」だから。
池上:そうですね。破裂音になってますもんね。
高階:だから日本語にすると、「ホ」が近いか、「ゴ」が近いか、分かんないですよ。それはヨーロッパでも問題で、チャイコフスキーはCで始まるか、Tで始まるかとか。日本の場合には、「ヴィーナス」は困る。それから「モヂリアーニ」は今「ジ」になっちゃったのかな。「ラジオ」もかつて僕の頃は「チ」に点々。今は「シ」に濁点。つまり「チに濁点」を否定してるんです、文部省は。全部「ジ」にしろと。でも地震はシに濁点って、そんな馬鹿な話はない。地震だからね、チに濁点。だからそれも漢字制限とおなじなんです。全部シ。だから「モヂリアーニ」が「モジリアーニ」になって、これも抵抗して、今は「モディ」が残ってきたのかな。でも人によって「シに濁点」は残ってると思います。今は「ディ」。ケネディが出てきてよかった。「ケネディ」は「ケネジ」かっていう(笑)。さすがに「ケネジ」にはならない。
林:「ケネジ」にはならない(笑)。
高階:「ケネディ」になったんで。要するに、細かい「ィ」やなんかを全部外すっていうのがおかしいことなんですけどね。
池上:でも一国の大統領に、「ケネジ」はないですね。
林:ちょうどでもその頃ですね。
池上:1963年に暗殺されたんですけど。
高階:だからケネディは「ケネディ」って言ったけど、ヴィーナスはもう、新聞で全部「ビーナス」に。フランスでからかわれてましたけどね。日本では「ビーナス」って言うって。ビーってB音で書いてあるんですよ。ヴェニスのVじゃなくて、「Benus」と言われてると。あと展示に関しては、中庭に特別展示を作って。
林:人がほんとにうずまいて並んでる写真、航空写真みたいなのが。
高階:ああ、そうです。つまり大勢人が来るから、よく見られるように周りから見ると。それを螺旋形でぐるっと回れるようにする。一か所にとどまらないようにっていうのを作ったんですね。その時に我々は、そこまで来る通路に、せめて写真をずらっと。ギリシャ、ローマのヴィーナス、カピトリーノのヴィーナスとか、クニドスのヴィーナスなんかも、写真説明をつけて、ヴィーナスの系譜ということをやったんですね。それ以外はもう我々は24時間体制で、宿直もやりながら。もうお客さんの整理だけでも大騒ぎだったですね。ただ非常に、フランスでもかなり反対があったんですよ。
林:でしょうね。
高階:ルーヴルでは反対だったのが、(アンドレ・)マルロー(André Malraux)がかなり強引にやった。
林:マルローさんね、ああ。
池上:借りてきた。
高階:マルローと、日本では朝日新聞が非常に強くて。外務省と一緒になって政府から頼んで、マルローが行けっていうことになった。フランスでもマルローは非常に強かったんですよね。文化大臣だった。ただそんな大事なものを、東京や京都の外国に出していいのかっていうので、国会喚問にまでなった。その時にマルローは、あの人は演説が上手い。「200万人の日本人がフランス文化に敬礼した」って。フランス文化じゃないんだけど(笑)。
池上:そうですよね(笑)。
林:フランスのコレクションではあるけどね(笑)。
高階:その時に、ギリシャ担当の(ジャン・)シャルボノー(Jean Charbonnaux)さんが来るはずが、来ない。ルーヴルの責任者は拒否したんですよね。プロテストしたんでしょうね。職人さんはもちろん来たし、下っ端の学芸員の人は来たけど。大理石の職人さんはついてました。毎日様子を見たりするので、我々はそれに立ちあったりして。
林:ミロのヴィーナスが国外展示されたのって、それ以降あるんですかね。
高階:ないと思いますね。唯一だと思う。だから政治的にいろいろあったにしても、よく出したと思います。逆に言えば、直接触って見られたのは、我々にはだいぶ良かったですよね。置いてある間に、ミロのヴィーナスの計測っていうのをやったんです。これはフランスにもない、ミロのヴィーナスの正確な法量計算。ていうのは、高さは分かってるんですけど、目の距離がどうだとか、眉の長さがどうだとか、細かいところを全部計測したんですよ。ものがあるから、ちょうどいいから。そういうのをカタログに出そうって。カタログも何か新しいもの出さないとね、単に写真だけじゃあ困る。だから歴史みたいなことも入れたし、ヴィーナスを測るっていうんで、非常に細かい点まで、腕がどこまで何センチだとか。それはフランスにもなかったと言われて、一つの記録になりましたけどね。だからもう、こんな大変な展覧会は二度とやるもんじゃないという感じではあった(笑)。
林:それ以外で記憶に残ってる展覧会ってありますか。これは面白かったとか、苦労したとか。
高階:あのね、ピカソのゲルニカ展ていうので。
池上:ちょっと前になりますね。「1962年、朝日」となってます。
高階:これはつまり朝日でいろいろ、ミロのヴィーナスも狙ったし、モナリザも狙ったし、ピカソのゲルニカも狙った。さすがにゲルニカは来ないけれども、下絵やスケッチがいっぱいありますよね。それを(ニューヨーク)近代美術館が出してくれるっていうんで。ゲルニカそのものは大きな布の複製。あとは油絵も若干含めて、その下絵や関係作品もやるというので、わりに面白い展覧会だったですね。その時、ドリヴァルさんの影響もあったのかな、なるべく展示に凝ろうというので、かなり朝日がお金をかけてやってくれました。部屋全体を暗くして、特別に壁を立てて。コルビュジエの建物だから部屋割りがない。コルビュジエの作った間仕切りではなくて、斜めにこうずーっと仮設壁を作って、そこにスポットで照らし出すようにしてっていう、ドラマチックな展示をしたんですよね。照明ギャラリーから特別にスポットを入れるとか、わりに面白い展示になったと思います。なんとなくゲルニカの下絵がずらっと並んでるだけじゃつまんないから、ドラマチックにしようっていうのがあって。それは僕が担当でやって、ニューヨークから来た人に非常に喜んでもらった。そういうかなり新しい試みができたのは新聞社主催でお金がついたからで、通常の予算ではとてもできないことでしょうね。新聞社主催だからもちろん入場者を狙ってたけれども、スケッチが来たっていうのも面白かったですよね。あとはモローのときにもかなり凝った。これは西洋美術館だけでやったけれども、油絵があったし、水彩スケッチが多いので、カタログは油絵の複製と水彩の時は別の紙でやるとか、ちょっと変なカタログを作った。
林:カタログはその頃は、ビブリオ(書誌)とかそういう情報も載せてたんでしょうか。
高階:それはできる限り入れる。我々はフランスの作品があったんで。一番早い松方コレクション、日本に古くからあったコレクションに関して、ビブリオは十分できないけど、それぞれの作家に対するヨーロッパの基本文献だけは必ず入れようって。見てないものもずいぶんあったけれども。見れば分かるように。
林:それはやっぱり西美あたりが、日本の展覧会文化の中では早い。
高階:非常に早かったと思いますね、カタログをずっと調べてみると、だいたい最初の。大原美術館はできたけれども、最初は単なる作者名と題名だけ。戦後日本に来たのはマティス展とピカソ展。これは51年で、我々が見た初めてヨーロッパ。翌年ルオーが来て、これも新聞社主催ですけど。その頃のカタログはまだ、作者名、題名、大きさ、どこの美術館、それだけなんですよ。あと全体としてマティスはどういう人ってことで、個々の作品に関する情報がまったくない。ちょうどその頃我々が帰ってきて、個々の作品の来歴とか文献を入れましょうと。美術館では非常に限られてたんだけども、やった。それから1964年にルーヴルのフランス美術展をやったときには、立派なカタログを作りました。フランスからプッサンとかなんとか来た時に、個々の作品情報が来た。それを全部日本語に訳したんだけど、総覧にないな。もう少し後かな、1968年ぐらいか。
林:「18世紀フランス美術展」(1969年)ではないですよね。それはもっと後で。
高階:じゃない、17世紀フランス。これは東博でやったから、西美の総覧には入ってないのかもしれないな。
林:「ルオー遺作展」(1965年)ていうのもある。
高階:「ルオー遺作展」っていうのは、これは、イザベルと一緒にやったんですよね。
池上:イザベルさんというのは、ルオーの娘さん。
高階:はい、イザベル・ルオー(Isabelle Rouault)。そうか17世紀展は、美術館としては噛んでないのか。「17世紀ヨーロッパの巨匠」展というやつだったと思うな。50点足らずですが、非常に良いのが来た。プッサンの《アルカディア(の牧人たち)》(1639頃)まで来たんですから。
池上:えっ、それはすごい。
高階:信じられないでしょう。プッサンが六点来ました。《アルカディア》とか《ソロモンの審判》(1649年)とか、《エコーとナルシス》とかね。
池上:すごいですね。
高階:今だったら考えられない。
林:考えられない。
高階:これも新聞社がもちろん噛んでたけれども、名誉総裁はポンピドゥーと佐藤栄作で。シモン・ブーエからシャンパーニュから、(ジョルジュ・ド・)ラ・トゥールも来ました。ラ・トゥールは《大工のヨセフ》が来た。プッサンは六点、クロード・ロランは二点。フランスが中心ですけれども17世紀ヨーロッパ巨匠というので、ルーベンス、ベラスケス、レンブラント、だいたいルーヴルのものですね。これのカタログは、非常に贅沢なカタログです。すべてカラーで大判刷りになって、中身はもちろんルーヴルを中心に向こうが全部決めてました。名誉総裁はポンピドゥーと佐藤栄作ですけれども、あと名誉委員会とか実行委員会というのは文部省のお偉方とか、向こうはマルローとか、日本では富永さんなんかは入ってたと思う。場所は博物館でやった。ただ、カタログの翻訳はこっちが全部書かされたわけです。西洋美術館の中山さんとか僕とかがやったわけですよね。
池上:他にできる方がいないから。
高階:そうです。展示にも関わった。その時に、そう長くはないけれどもプッサンの略歴があって、作品個々についての解説がもちろんある。そして文献と、来歴は全部書いてるんです。これは立派なデータです。我々は何も書くことはできないから、それを翻訳して。あとはエレーヌ・アデマール(Hélène Adhemar)と、ピエール・ローザンベール(Pierre Rosenberg)がやった。ローザンベールとその時、僕はずいぶんいろいろ話したんですけどね。ルーヴルでもやっぱりさすがにこんなに出せない(という意見はあったらしい)。ただ、国家的な要請で。その頃は、今に比べればルーヴルもまだ鷹揚だったんでしょうね。油絵だからこれだけ出すんだって話を聞きました。それでアデマールさんが全体のテキストを書いて、日本からは挨拶が出るだけ。あとはそのカタログを我々は翻訳して、非常に丁寧にプッサン文献を全部日本語に訳してね。プッサン・コロック(Poussin colloque)って、「プッサン会議」とか日本語にしてもしょうがないんだけど(笑)。何ページというのも全部入れて。作品の来歴と誰それ所蔵、というのも全部日本語にした。カタログっていうのはこういうもんだなっていう、かなり大きな経験だったと思います。
林:それと関連する話だと思うんですけど、僕が若いとき、先生の本読んですごく助かったのは、先生の本の一番最後に、必ず書誌情報があることで。
池上:あ、そうですよね。
高階:(笑)。
林:だからやっぱり、あれはかなり意識されて。
高階:それはそうですよね。書誌っていうのは非常に大事だという。
林:それは編集者と本を作る時に、やっぱり入れたいっていうことで。
高階:だから横文字だけじゃなくて入れるってことでね。特に、日本でも手に入らないような本がいっぱいあるわけですよ。そんなの入れてもしょうがないんじゃないのっていうのはあるけれども、一つにはそれを参考にしたということは知らせる必要があるし、あと、今後のために皆に知らせる必要がある。「17世紀ヨーロッパの巨匠」展は国家的な事業で、文部省の偉い人がいろいろ関わった。その文部省の偉い人はヨーロッパ17世紀の巨匠っていっても、プッサンとか全然知らないわけです。それで(その文部省の偉い人が)「日本にとってヨーロッパの巨匠でどうしても欠かせない人がいる、是非(持ってきたい)」っていうんで、さんざんもめて、来たのはミレーですよ。バルビゾンの。僕は後で聞いたんだけど。だからヨーロッパの巨匠50点ぐらいで、特別展示でミレーの《落ち穂拾い》が初めて日本に来た。要するにその文部省の偉い人が、西洋絵画の巨匠っていうのはミレーだと思ってるんです。これがずいぶん議論になったみたいで。どうしようっていうんで。17世紀ヨーロッパ巨匠展には入らないんで、カタログにもあわてて特別展示って。なんで特別展示だかよく分かんないけど(笑)。
池上:その方のこだわりで。
高階:情報だけは入れて。アルデマールの序文にも全然触れられてなかったけど。ただ、書誌情報やなんかはもちろん入ってました。だから文化交流としても面白い、記念すべき展覧会ですね。それ以来、西洋美術館で海外から借りるときには、向こうのドキュメントを出すように。ルーヴルの場合にも、印刷するようになったのは戦後ですけど、ドキュメンテーションはずっと残ってるわけです。それを使って向こうもやってるんで、日本でやる時も必ずそれを教えてほしいと。
池上:そういうものを、一種のモデルにして。
高階:ええ。他の美術館から借りてきても、それをなるべく入れましょうと。それは、美術研究者にとっては非常に必要ですよね。
池上:貴重な情報ですよね。
高階:展覧会の度に新しい情報が増えるわけだから。我々が見ても今ではこんな大きなカタログで、ずいぶんたくさん入ってるなって思うけど、要するに蓄積があるからできるわけですよね。それプラス新しい情報が入ってる。その役割は西洋美術館かなり果たしたと思いますね。
池上:それ以降、他の美術館もそのモデルを採用するようになった。
高階:基本的に、ええ。そして日本の近代美術史もそれをするようになった。これは非常に助かります。近代作家に関しての書誌情報、つまり当時の美術雑誌とか新聞に印刷が出てる。あれは非常に便利だと思いますよね。それはだいたい美術館の学芸員の人とか、大学院生がやる時に、それを調べるようになった。これは美術史にとって大事なことだと思います。ただ、これはオーラル・ヒストリーにも関係するけど、アーカイヴ自体がそろってないんですよね。だから『中央美術』第何号と出ていても、『中央美術』は国会図書館に行かないと無いとかね。図書館にあるならまだいいけど。
池上:国立新美術館で、カタログだけ全部あるっていうのは便利ですけど。
高階:そうね。でも当時の小さい雑誌なんかは、なかなか無いんですよね。国立新美術館で一生懸命カタログを集めてますけど。
池上:でもそれだけじゃなくて、雑誌も含めてすべてのものがあるアーカイヴが、やっぱり必要ですよね。
高階:これはヨーロッパ、フランスではもう非常に良くて、僕はずいぶん使ったんで。国立新美術館のあれは、もともとはアートカタログ・ライブラリーっていうのを僕が(国際)交流基金に頼んで作ってもらったんですよ。そうでないと、カタログ自体が手に入らないです、普通は。展覧会のカタログは特にそうで、展覧会が終わればなくなっちゃう。
池上:そうですよね、一般書籍ではないので。
高階:一般書籍ではない。書籍登録してないから国会図書館にも入らない。入っても書籍扱いじゃない。国会図書館は書籍と定期刊行物だから、どっちにも入らない。あとはパンフレット扱いになっちゃうんですよね。そうすると納める義務がないから入らない。そして流通に乗らないから本屋さんに頼めない。展覧会が終われば売らない。売っちゃいけないんですよね、あれもおかしいんだけれども。つまり展覧会のために作ったんだから、古いカタログを売ってはいけない。だから残ったら破棄する。新聞社やなんかも終わったらいらないっていう。今は西洋美術館でも少し頼んで、いろいろ置いてますけど。でもカタログは非常に大事だからっていうので、ヨーロッパ式にそれを保管するカタログ・ライブラリーができてよかったですけどね。
林:そうですね。
高階:それを作る時に、やっぱりフランスがモデルで。アメリカでもだいぶんやってますけど。僕はドゥッセ(Bibliothèque Doucet)でずいぶん世話になったし、ルーヴルのドキュメンテーションもずいぶん使った。だから美術館の役割として、そういうこともやったらいいでしょうって。つまり展覧会やイベントだけではなくて、裏の方の役割も非常に大事だっていうことはありましたよね。西洋美術館はお金もあんまりなかったけど、それなりにモデルケースで。わりに雑誌やなんかもきちんとしてる。大学でも弱いんですよね。
林:弱いですよね。もう全然だめです。予算がほんとに。
高階:予算がないから。雑誌なんかもきちんとそろえることができないですよね。
林:できないですね。ほんと困りますね。学生をどこに送っていいのやら分かんない。調べるものによって、あなたこっち行きなさい、あなたこっち行きなさいっていう(笑)。
高階:情報を知るのが大変なんですよね。
池上:外国のものならまだしも、日本のものでも無いですからね。
高階:日本のものでも無いんですよ、ええ。うっかりすると日本のものも外国の方が、ってなっちゃいますよね。ゲッティは日本のものはそろってましたね。鹿島の『SD』とか『美術手帖』とか。ずらーっと揃ってるんですよ。
池上:まとまってるから、そっちに行った方が早いってことになってしまう。
林:それこそ東京画廊の資料がゲッティに入るんだって話です。風の便りですが。
池上:そうなんですか。それは知らなかったです。今度行くので、ちょっと見てきます。
高階:それから雑誌だけじゃなくて、アーカイヴね。日記だとか、手紙だとか、記録類。丹下健三さんのアーカイヴをハーヴァード大学が買うっていうんで、日本に残そうって今大騒ぎしてます。
池上:放っとくと、どんどん流出しますよね。
高階:建築の場合には、図面の設計の裏とか、非常に貴重なんですね。それをアメリカがどんどん買ってく。ただ、日本は場所がないんですよね。だからそれぞれの、特に近代の作家の場合には、貴重な資料がどんどん無くなる。ご遺族が亡くなるんで、スケッチブックとか手紙類なんか、どうしようもなくて結局捨てちゃうっていうことになるんで。
林:いまちらっと『SD』の話が出ましたけど、『SD』は先生が確か最初から編集委員に関わっていて。
高階:はい、そうです。よくご存知ですね。
林:鹿島との関わりも含めて、あの経緯はどういうことなんですか。
高階:あれは何年から始まったのかな。
林:1965年かなんか。
高階:1964、5年だと思いますね。
林:ええ、確か。
高階:鹿島っていうのは、今でも美術財団やってますね。鹿島卯女(うめ)さんという、(鹿島)守之助さんの奥さんがいて。まあ守之助さんは養子に来てるんだけど。鹿島っていうのは、鹿島建設会社として非常に大きなところですけれども、卯女さんっていうのが美術が大好きなんですよ。イタリアにずっと行っておられて、イタリア美術のことをご自分でもいろいろ研究をされて。そして卯女さんと守之助さんの長男が鹿島昭一さんって、建築家なんですよ。もちろん鹿島建設会社の社長にもなったし、まあ会長も控えてるけど。建築をずっとやられて。それが東京の高師附中(注:高等師範附属中学校の略)で、一年上です。小学校の時から家が近かったから知ってたんですよ。一年上だけど付き合ってた。で、美術をやるようになってから、卯女さんのお手伝いっていうか。卯女さんがローマの立派な本を鹿島出版会から出された(『ローマの噴水』鹿島出版会、1975年)。それから受胎告知の画集を出されたりっていう時にお手伝いして(『受胎告知』鹿島出版会、1977年)。翻訳もお手伝いしたりしたことがある。その卯女さんが、社会活動として美術史研究の助成をしたいと。建設のことは社に任せて、美術財団っていうのを作られたんですよね。もう30年くらいになるのかな。そして昭一さんが中心になって、建築だけじゃなくて、芸術雑誌を作りたいというので、「スペース・デザイン」で『SD』。
池上:そういう略なんですね。
高階:「スペース・デザイン」ていうので。だから建築が中心なんですが、建築だけじゃなくて、美術もあれば演劇もあればという。
林:面白い雑誌ですよね。
高階:最初の頃は非常に面白かったですよ。林昌二さんとか、山本(学治)、芸大の山本さんとか。それから鹿島さんと、私も若い方だったですが、編集委員ということで美術関係の記事も入れる。それからデザインもやるという。最初の頃は勝手に演劇論を入れたり、美術の展覧会批評を入れたりっていうことをやってました。だから1960年代で、『季刊藝術』もちょうど始まった頃だから、新しい。『季刊藝術』もずいぶん領域横断で、縦割りじゃなくやりましょうということだったですね。
林:時代の気分として、そういうことがあったっていうことでしょうか。
高階:そうでしょうね。建築も、実際の現場としてはデザインやなんかは非常に大事だということはもちろんあったと思います。それから美術館の中に美術をどう取り入れるかっていう問題が、やっぱり工夫されてきた時でしょうね。
林:その頃先生は、やっぱり現代美術関係の展覧会もかなり頻繁に。
高階:それはずいぶん見てました。団体展というのはあんまり見なかったな。東京画廊なんかの展覧会はわりによく見ましたね。
池上:特に印象に残った個展ですとか、作家っていうのは、いらっしゃいますか。
高階:宮脇さんは面白いなと思ったことがあるんですが、読売アンデパンダンっていうのは面白かった。あ、それが東野君との一つ論争かもしれない。あんまり酷いものがあってね。悪臭を放つものが入ったり。不快感を与えるものを並べていいのかっていうような話が出てきた時。東野君が、「いや、私は日展を見ると不快感を覚える」とか言って(笑)。
一同:(笑)。
高階:どこまで許されるかっていうようなことは、確か議論があったんですね。あとはあの頃の作家としては、誰なんだろうなぁ。
林:ネオダダとか、ハイレッド・センターとか。
高階:ハイレッド・センターは面白かったですね。高松(次郎)とか中西(夏之)君、彼らの活躍が非常に面白かったですね。それから、荒川修作さんの初期のやつ。僕は後の方のはあまりピンとこないところがあるけど。それから宇佐美(圭司)さん。
林:宇佐美さん?
高階:彼なんかも面白いと思ったですね。
池上:その中で、個人的にもお付き合いされてた作家さんはいらっしゃいましたか。
高階:堂本さんはもちろん、パリにいた時から。それから今井さんもパリから知ってて。今井さんは東京画廊でやってたのかな。
池上:されてましたかね。
高階:ええ。宇佐美さんやなんかは展覧会で知り合いました。だからそれからお付き合いしてる。それから中西君もそうですね、展覧会以来。この間松濤でやったのも面白かった。
林:松濤で講演をされましたよね。
高階:中西君に講演を頼まれたんですが、面白かった。ポンピドゥーで「ジャポン・デ・アヴァンギャルド(Japon des avant-gardes)」っていう展覧会が1985、6年にあって。
池上:85年、6年ですね、はい。
高階:僕はポンピドゥーは1970年代になってからわりに行くようになって。1976、77年にポンピドゥーに、シャルジェ・ドゥ・ミッション(chargé de mission)っていうので行って。僕はその時東大にいたから、客員教授にしてくれって、ポンピドゥー・センターの国立近代美術館客員教授っていうことで、8カ月ぐらい行ったんですよ。ちょうどポンピドゥーが開いたばっかり。ポンピドゥーは、これも当時の傾向でしょうね、それまでフランスばっかりだったのが、国際的にっていうんで、最初は「パリ−ニューヨーク」展、デュシャン展をやって。
池上:そうですね。
高階:「パリ−ニューヨーク」をやって、「パリ−ベルリン」をやって、「パリ−モスクワ」をやって。
池上:(ポントゥス・)フルテン(Pontus Hultén)が館長で。
高階:フルテンがやって。あの時フランスでは非常に反対があって。だいたい建物がおかしい、石油工場だとかね。しかも(リチャード・)ロジャース(Richard Rogers)と、(レンゾ・)ピアノ(Renzo Piano)ですから。イギリス人とイタリア人のチームが作った。館長はフルテンでスウェーデン人。あの時日本は工事に参画しようとしたんですよ。あの建物は鉄とガラスで、日本は鉄鋼が非常に良いから。ドイツのグループか、日本の八幡かって。最終的に日本の鉄鋼は良いんだけど、運ぶのが大変だって、ドイツになったんです。
林:そうですか。
高階:だから、材料はドイツだと思う。
林:構造計算やなんかは、岡部(憲明)さんでしたっけ、日本の。
高階:ああ、あのご主人。
林:岡部あおみさんのご主人。
高階:彼はピアノのところにいたから。
池上:そうなんですか。
林:そうです。
高階:それでやったんです。そして、実際の労働者は北アフリカから来てるんです(笑)。アルジェリアとか。フランスはどこにもない(笑)。
林:マルチ・カルチュラリズム(笑)。
高階:そういうことを、ずっと新聞で言ってました。それで、いずれ「パリ−東京」をやろうっていう話があったわけです。最初はフルテンの下にいたジェルマン・ヴィアット(Germain Viatte)さんがいて。
林:はい、ジェルマン・ヴィアットさん。
高階:ヴィアットさんは今でも日本が大好きで。温泉に入るんだってしょっちゅう来てますけど。それで「パリ−東京」をやりたいって言うけど、さすがに費用とかその他の問題で(難しかった)。それで代わりというか続きで、「日本の前衛」っていうのをやろうと。
池上:あのシリーズの延長にあるような企画だったんですね。
高階:延長にある。だから日本の前衛と特にパリとの関係ということをもちろん重視しながらやったのが「前衛の日本」展なんですよ。その時に、じゃあ日本の前衛はどこからだと。これはポンピドゥーとの視点もあるんですが、オルセー美術館が第一次大戦後までで、それ以降がポンピドゥーということになったわけです。要するに20世紀があると。そこで日本の前衛っていうのをいろいろ皆と相談して、萬鉄五郎の《裸体美人》がちょうど1910年なんです。『白樺』が創刊された年。
林:ああ、『スバル』とかもその頃ですね(注:『スバル』は1909年創刊、1913年廃刊)。
高階:『スバル』に高村光太郎が「緑色の太陽」を書いたのが1910年。これは要するに前衛美術のことで。1910年はポンピドゥーの守備範囲でもある。そして1970年までということで。これは後でいろいろ問題になって、1970年だともの派が抜けるとかね。つまり1980年代だから、ぎりぎりまでやろうという話もあったけど、一応1910年から1970年まで。準備もあるので。後で結局もの派も少し入れました。小清水(漸)君とか、菅木(志雄)さんとかね。
林:菅木志雄さんは入ってましたよね。
高階:若干、不十分だっていう意見もあった。つまり、どこまで入れるかが大変なんですけど。もちろん戦前の前衛は萬とかだけども、戦後ではハイレッド・センターが非常に重要なグループだったですよね。評判もよかった。荒川修作のあれも。
林:ええ、棺桶。
高階:棺桶のシリーズ、非常に評判良かった。だからこの間の松濤でやった講演会でも、その話を。ハイレッド・センターっていうのは、非常に向こうで評判がよかった。あの展覧会はデザインも入れたのが面白い。
林:そうでしたね。
高階:自動車も。
林:自動車も出てましたね、ええ。
高階:デザインとか工芸とか、写真まで入れたんですけど。美術ではハイレッド・センター。向こうのジャーナリストで日本のこと何にも知らない人がきて、「ハイレッド・センターって、やっぱりポンピドゥー・センターみたいなもんですか」ってね(笑)。
一同:(笑)。
高階:非常にいい選択(笑)。非常に名前が良いんですよ。ハイ、レッド、センターっていう、要するに単なる名前ですよね。中西、赤瀬川、高松の。「立派なセンターだよ」って。「それでどのくらいスタッフがいるんですか」っていうから、三人だって話をして(笑)。面白かったです。でもその三人の作品はなかなか良かったですよね。
林:僕はほんとに忘れられないです、あの展覧会。たまたまパリにあの時いて、いたっていうか確か行ったんです、ニューヨークから。ほんとにあの時に初めて日本の戦後美術を通覧できた。
高階:そうです。日本でも無かったですね。
林:無かったですね。ほんとにあれが初めてでしたね。
高階:美術館も普段なかなか展示してないものもあるから。僕もずいぶん勉強になったですね。面白かったです。
林:再制作もけっこうあったんですよね。
高階:そうです。斎藤義重さんなんかも、無くなったやつもあるし。
池上:田中敦子の《電気服》なんかもそうですよね。
高階:《電気服》もそうですよね。具体もあれでずいぶんクローズアップされて。
池上:そうですね。
高階:ええ。田中敦子の《電気服》は今、ヨーロッパでも大人気。
林:すごいですよね。
池上:よく海外に出てますね。
林:なんかあれ、二つ再制作があるとか。
高階:再制作が、それがもう呼び物になってる。
林:ポンピドゥーのはあの時再制作して、ポンピドゥーは買わなかったらしいですね。
高階:ああ、そうですか。
林:それで引き取り手がなくて、高松(市美術館)が買ったのが日本にある。そこにあるのは1985年の再制作だって。
高階:あ、そうですか(笑)。
林:その後またどっかにあるのは、1990何年かの再制作。
池上:高松はいい買い物をしたことになりますね。
林:そうなんですよ。でもあの展覧会は大変だったでしょうね。あれだけの規模で。
高階:現地でも大変で、スケールも大きいし。まあよくやったと思います、全体の感じは。具体も元永さんの水の作品が良かった。
林:水のやつね。
高階:ビニールの。ポンピドゥー夫人がまだ生きておられて、非常に日本的だと(気に入られた)。そばにいたポンピドゥーの人が、「中の水は、フランスの水です」とか言ってた(笑)。そりゃそうだ。
林:そりゃそうだ(笑)。
池上:おかしいですよね。今日も時間を超過してしまいましたが、一回ここで切らせていただいて。ありがとうございました。