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金澤毅オーラル・ヒストリー 2012年12月26日

国際善隣協会談話室にて
インタビュアー:光山清子、加治屋健司
書き起こし:鏑木あづさ
公開日:2015年3月1日
 
金澤毅(かなざわ・たけし 1935年~)
美術館学芸員、美術評論家
満洲国長春市生まれ。上智大学外国語学部西語科卒業後、在ウルグアイ日本大使館文化担当官を経て、1968年より国際芸術見本市協会事務局長としてジャパン・アート・フェスティバルを開催する。1977年より原美術館の設立に関わり、開館を経て93年まで、「ハラ アニュアル」をはじめとする数々の展覧会を企画し、1994年から2001年まで成安造形大学教授を務める。成安造形大学名誉教授。満州からの引き上げ、上智大学での学生時代、南米への渡航、ジャパン・アート・フェスティバルの運営、原美術館の活動、成安造形大学での教育活動などについてお話しいただいた。

光山:金澤さん、今日はお時間を取っていただきありがとうございました。まず始めは金澤さんの生い立ちから、美術の仕事にお入りになるまでの事をお伺いしたいと思います。
私が大変興味深く伺っていましたのは、金澤さんが満州国でお生まれになって、小さい時はそこで何年か過ごされたということなんですが、その辺からお話しをしていただけますか。またこのことは金澤さんが先ごろ、『ありなれ』と言う安東会から出ている会報に2万字でしょうか、お書きになって(注:金澤毅「記憶の中の満洲」『ありなれ:安東会機関誌』第56号、2012年11月、pp. 82-95)。私も読ませていただいて知らないこと、ショックなことが多くて、 簡単に感想を言えるような内容ではなくて。正直に言って、ショックでした。聞いていないお話がいろいろとございました。

金澤:確かに、これまでの人生を振り返って、いちど総括してみようと思い立ったのが、今年の5月頃でしたか、ある雑誌社から、終戦当時の状況について手短に書いてくれと言われたのがきっかけだったんです。私の人生の前半部分に関わっているのですが、これは手短にとても語れるもんじゃないと、書き始めてからどんどん筆が進んでいったわけですね。こうなったらもうとことん書いてみようかと、終戦のその日から日本にたどり着くまでの1年半の短い人生経験をと思って書き出したのが『ありなれ』の回想記だったんです。
人は終戦を境にして、それぞれドラマチックなエピソードを持っているんですね。それを語り出すと大変なことになるんですけれども。私はそれを今まで誰にも言わなかったし、自分でも思い出したくない部分があって、書かなかったんですね。しかし、もう人生も終りに近づいてくるとですね、やっぱり重要な出来事はどこかに書き残しておきたい。書くことによって心の整理もつくだろうし、家族もそれを見て理解するだろうというのがこれだったんですね。
安東という所は満州と朝鮮の間にある国境の町として知られたところなんです。日露戦争が終わったときに、日本人が入ってきて作った街が安東なんです。ですから安東の住民は中心部が全部日本人でした。日本人が作った街ですから、碁盤の目のようなきれいな街で日本の名前がついてですね。一番通、二番通というような作りでしたし、大和橋通りというのもあったし、市場通りというのも。日本語で作った街だったんですね。そこが国境の街ですが、向かい側の朝鮮は日本ですから国境はあったかもしれませんけど、我々にはあってなきが如しの所でした。満州最初の駅、満鉄の最初の駅がこの安東だった。日本から満州の首都である新京に行くには、東京から下関まで行きまして、そこから船に乗って朝鮮の釜山に渡って、そこから列車に乗って一路、今の韓国と北朝鮮を縦断して、満州の国境に行くんですが、その最初の街が安東だったんですね。安東を越えるともうあと一路、新京までは大したことはなくて、奉天、そして新京といった順序が最短コースだったわけです。
語ると長くなりますので、手短に申しますけれども。終戦が8月15日でしたが、その3日前の8月12日に国境を越えてきた当時のソ連軍が刻々と首都新京に近づいているという情報を聞いて、新京にいた数十万の日本人が、一斉に南へ向かって避難したんです。彼らのことをその時は疎開者と呼んでいました。南へ向かう列車というのは、客車、貨物列車、家畜運搬車、あらゆるものが総動員されて、南へ南へと移動したわけです。それが8月9日のソ連の侵入直後ですから、わずか1週間位の間に数十万の日本人が南へ向けて逃げたわけです。そして朝鮮内に逃げ込めば、そこは日本だというので目指したのが先ず安東だったんです。満州の夏は雨期で、乗った列車が無蓋貨車だったもんですから、雨がザーザー降る中をひたすらに走るんですが、通常だったら4、5時間で行くところが、まる2日かかったりしました。 そのあいだ中、トイレや食事や睡眠やで非常に苦労しながら国境の街、安東に着くんです。そして、かなりの人がそこで降りるんですね。しかし私たちは、ここで降りても満州だから駄目だと言って、北朝鮮に入っていくわけです。そのようにして一旦、北朝鮮に入ったんですが、そこからがまた大変だったんです。
そして着いた翌日に終戦になったんです。8月15日。その日から私たちは、敗戦国民になっちゃったんですね。そうすると状況が一変して、我々はもうどっちかというと邪魔者だし、追われる者、逃げる者になっちゃったんですね。当時私の父は新京に残っていたんです。新京に残っていた男たちは多かったんです。家族だけを避難させてね。それがやはり終戦と同時に、どっと新京を放棄して南へ降りてきました。伝聞で父が国境の街、安東にいることが分かって、私たちはまた、満州へ逆戻りをするんです。その時に走っていた列車が、終戦直後だったにもかかわらずきちんとダイヤ通り走っていたというところが、今考えると不思議な気がするんです。そして電気も止まらないし、水道水もちゃんと汲めるし、満州銀行発行のお金も通用していました。それはその後もずっと、何年も通用していました。そういうところで満州っていうのは不思議な所だと思います。それまでは、その地域を支配する中国共産党、当時は八路軍と言っていましたが、八路軍が来たというと、翌日から軍票を使うんですね。八路軍が発行したおもちゃのようなちっちゃな紙幣でしたけれども。そして今度は、国府軍が来るというと、突然前の満州銀行券が復活して流行るんです。だから商人は時の支配者の顔色を見て、日常取り扱う紙幣を変えていくという馬鹿げた時代があったんです。生活必需品であった電気水道、それから交通機関などあらゆるものは、警察官を除いては、きちんと機能していたという体験を子供の頃にしたわけです。
そういったことがベースになって、私は10歳の少年でしたけれども、そこから先の1年間で地獄を見た思いがしたわけです。その強烈な印象を安東会会報の『ありなれ』に書き残したんです。しかし『ありなれ』にはそういった人たちが、自分たちの手記をたくさん書いているんですね。そして読み比べていくと、なんと私よりもっとひどい経験をした人が、山ほどいるわけです。それこそ家族2、3人を失って、身ひとつで帰って来た人もいるんですね。私たちは一応全員が無事に戻ってきたと言う意味では、むしろ幸せだったんだなという気さえいたします。
そのとき日本に戻ってきた人のメインルートは、満鉄の路線をずっと南に下って、金州に入りそこから支線に入って葫蘆島という港に行って、そこから帰ってくるのが、ほとんどだったんです。葫蘆島には今でも、引揚者の石碑が立っていて、「ここから105万人の日本人が帰国した」と書いてあるんです。あの小さな港町からだけで、105万人です。しかしその他、私のように船で帰ったり、朝鮮を経由したり、または大連を通って帰国した何十万何百万という人もいますから、私は満州だけで200万人くらいの人が、日本に戻ったんだろうと思っています。当時海外にいた日本人は、600万人だと言いますから。兵隊さんも含めてですね。それが全世界から日本に戻ってきたのが、昭和21年だったんですね。だから近年一番農作物の不作だった昭和21年が、いかに惨めだったかということなんです。突然帰ってきた600万の人、敗戦直後の焼け跡、不況の年など、いろんなことが重なってどん底にあった日本に、みんな絶望感を持ったのは当たり前だったのですね。
私が日本に帰って来た時は、11歳だったんですけれども、記憶というのはその辺から具体的になってくるんですね。私の妹と弟もまだ健在ですが、2歳下の妹は終戦時8歳で、引き上げ時は9歳だったんですが、もう記憶はうろ覚えですね。その下の妹になると、もう記憶はほとんどない。彼女は昭和15年生まれで、私とは5歳の差があるので、何を聞いても覚えていない。そうすると、あのどさくさに生きるの、死ぬのという状況を乗り越えてきたにもかかわらず、記憶と言うのは8歳くらいから定着してくるんだなと。人によっては、忌まわしい記憶は忘れようとしますよね。しかし私の印象では、忌まわしい記憶ほど残るんですね。思い出したくないものが、逆に夢の中に出てくるんです。楽しい記憶も残りますけれども、中間が抜けるわけです。つまり日常が抜けるわけ。最悪と最善が記憶に残ると。これが私の体験です。これが満州引き上げの、一番のポイントだったんじゃないかと思いますね。

光山:金澤さんは、長春でお生まれですよね。お父様の仕事の関係で、皆様あちらにいらしたんですか。

金澤:そうです。父は中央大学の法学部を出て、弁護士資格を取って、最初は毎日新聞に入るんですね。当時は、東京日日新聞って言いました。満州建国が昭和7年ですから、彼は昭和5年頃の卒業じゃないかと思うんですね。そして昭和6年に満州事変が起こって、昭和7年の3月に満州建国が完成したんです。 それですぐ、新国家が地方自治のための若手官僚を募集し、そのための養成機関として、大同学院と言う大学院施設を作ったわけです。その第1期生の募集を東京で行ったときに、父が応募してそこに入った。100名近い人たちが、昭和7年の5月に船に乗って大連に向かうわけです。その時、厳しい選考だったといいます。何しろ中央官庁の若手官僚ですから、主に当時の帝国大学出身者や早稲田、慶應というトップクラスの大学の卒業生たちが選ばれています。その後も大同学院は全部で18期まで出るんですけれども、3期までが日本のトップクラスで、どこに出しても恥ずかしくない人材を集めたと言われています。後年になってだんだん枠が広がり、専門学校とか現役の官僚とかも入るようになりました。ある時期からは、高等文官試験という官吏登用門を通った人だけを入れる、という制度に変わりました。ですから、一種のエリート校だったんですね。そこで父たちは、横浜から乗船して神戸に寄港するんですね。その日か5月15日だったのです。いわゆる五・一五事件が勃発した日。それで船内は大騒ぎになって、時の総理大臣が殺されたわけですから、満州になんか行ってられないんじゃないかと、我々は下船して日本の再建に力を尽くすべきだという論議が出て、船中でひと揉めあったらしいんです。しかし最終的には、我々は満州建国のために乗船したんだから、やっぱり初志を貫徹しようやということになり、大連に向かったそうです。
まもなくして大同学院に入るんですが、これがまた妙な学校で、在学期間というのが1年足らずなんですね。短い期間なので、学生は常に一学年だけなのです。だから上級生、下級生というのは、在学中には発生しないんですね。ところが、そうであるにもかかわらず彼らの結束は実に固いんです。今日に至るまでも固いんですよ。年取って80歳代になったじいさんでも、直立不動で挨拶するくらい、非常に上下の関係がきっちりしています。皆、世話好きで、お互いを助け合うというその精神は、今の時代には見当たらないなと思うくらいです。やっぱり満州では仲間と生死を共にしようという発想があったんですね。実際、当時亡くなった人もたくさんいるんです。大同学院を出て、すぐ赴任した土地でね。当時は馬賊とか匪賊、または土匪という名前で呼んでいた人たちの抵抗にあって殺された若手官僚もたくさんいたんですね。そういうところをくぐり抜けてきた人たちですから、互助精神というのが非常に高かったんだろうと思います。大同学院の卒業生たちは18期までいたんですが、1期が大体100人ぐらいで、その中には五族がいたわけです。日本人、満州人、支那人と呼ばれていた漢民族、蒙古人、それから朝鮮人ですね。六族目がいるとしたらロシア人なんです。ロシア人というのは、ロシア革命から逃げてきて、ハルピンを中心として住んでいた白系ロシア人。その人たちも自分たちの街を作っていましたから、ソ連と言われているあの赤化したソ連邦とは違うんですね。彼らが作ったハルピンという大都会は、シベリア鉄道でヨーロッパからの客が直行してきた、魅力溢れる街だったんです。ですから大同学院にも五族プラスワンが入ってきて、全寮制ですから、みんなが寮に入って共同生活するわけです。大学の校歌はないんですけど、寮歌はあるんですね。それは今でも彼らが集まると必ず歌っているんです。それから仲間が亡くなると皆でその家に行ってお葬式で手を合わせ、出棺の時にその寮歌を歌って見送るんですね。それが一種の伝統になっているわけです。
そんなことを私は父を通して体験したものですから、この人たちは一種の軍隊の精鋭達の集まりみたいだなという印象を持ちました。お互いの家によくやって来ては、その家の奥さんを困らせるようなことをしばしばするわけで(笑)。でも、おかげで家族ぐるみの付き合いはしっかり残りました。大同学院同窓会というのは、つい2、3年前まで毎年行っていたんですが、そこには家族も集まるんですね。つまり同窓生及び奥さん、そしてその子供たちなどの家族が集まって同窓会をやるという奇妙な同窓会なんです。
ですから満州建国の実質的な土台になったのも、彼らだったんですね。各地域に散らばっていて、そこの県単位だったんですが、日本の県よりももっと小さいんです。そこの県長は満州人ですが、副県長は日本人だったんです。その下に2、3人参事官がいたんですが、その参事官が大同学院の卒業生で、若くして20代で参事官になった人もいます。参事官というのは発言に影響がありますし、やがては副県長までいくわけです。30歳前後で副県長になるんです。そうすると県長がいても、実質的には副県長がその地域を支配するんですね。そういう意味で満州を総括すると、あそこはやっぱり日本の植民地だったんだなと言う気がします。それが証拠に日本が敗戦になった瞬間に、あそこも自動的に敗戦ですよね。自動的に追われる立場になっちゃったんです。それは裏から日本を支援して、関東軍が全部南方戦線行ったということもありますから。

光山:お話しからすると、当時の東アジアの非常に国際色豊かな、またヨーロッパのお客様もいらしていたとおうかがいしたんですけれども。多分そういうお小さいときのご体験が、非常に海外にご縁のある人生になられたのではないかと思いますが。

金澤:そうですね、その指摘は正しいと思います。私はその実例を、あちこちで見ました。海外に行った人と話をしていて、ふとしたことからその人が満州生まれであることを発見したことが、何度もあるんですね。そうすると、その後の発展が農業移民でアメリカに行くとか、ブラジルに移民するとか、留学生試験に通ってフルブライトでアメリカに行くとか、方向はいろいろありますけれども。終戦後の貧しかった日本を何とか抜け出したい、という気持ちが強くなった時、海外の生活経験のない人は、日本の中で必死にもがいて努力しようとしますけれども、満州経験を経た人は、他にも活動の場はあるさと、日本だけが全てじゃないという発想をしちゃうわけですね。私もそのひとりだったと思うんですけれども(笑)。そんなわけで、子供の頃から慣れ親しんだ外地生活というのは、DNAの中に強い印象を残したんだと思いますね。

光山:お帰りになった日本の状況というのは、11歳ぐらいでいらしたと思いますけど。どういう風に映られたんですか。

金澤:私たちにとっては日本は帰る所じゃなくて、行く所だったんですね。

光山・加治屋:ああ、なるほど。

金澤:それは他の人たちも、同じことを言っているし、書いてもいます。私たちは日本にやって来たと。やって来た日本が、父母が言っていた素晴らしい国にしては、貧しさが目立つんですね。特に私がいた新京というのは、日本が近代都市を作ろうとして、最先端の技術やお金を注ぎ込んだ場所なんですね。ですから短期間のうちに大都会ができて、全てが管理されていたんですね。そういう所からやって来た日本っていうのは、道路は狭くて舗装されていない。水洗便所はないし、電話はない。特に、戦後の貧しい時代にぶつかっているでしょう。食べるものも粗末だし、あらゆる意味で日本はあの中国よりももっと悲惨じゃないかという印象を持ったんですね。だんだん良くはなってきましたが、もう5年10年という時間はかかるし、その間に我々は育っていくわけです。自分の未来をどうしようかと考える時に、日本の成長と自分とが一致すれば良いんですけれども、我々の方が少し先走っていくと、遅れてくる日本の状況の中に自分を合せることができなくなって、海外を考えるということになるんですね。

光山:先生は昭和36年、上智大学の外国語学部スペイン語学科を卒業していらっしゃいますけれども、スペイン語学科をお選びなったというのは、やはり国際世界への。

金澤:そうです。それはね、外国に出ようという意識が強かったですから(笑)。それに私は学業の中でも、英語が得意だったんです。自慢話をするわけじゃないけど、クラスで一番だった時代がありましたし、そのために中学高校は英語学校にも通っていました。フランス語じゃなくて、英語を習いにアテネ・フランセにも行っていたんですよ。だから、英語を勉強する必要はないと思っていたんです。次に何語かを武器にして、将来海外で頑張ろうと。当時はドイツ語、フランス語というのが英語の次に重要だと言われていたんですが、実際に見渡してみると、スペイン語の影響力の方が大きいんですね。実際、世界で30%くらいスペイン語を公用語にしている国があるわけですから。ですから、それだったらスペイン語だと。それでスペイン語を勉強するなら、東京外語大学と上智大学が突出している、ということで目標を定めたわけです。両方受けたんですが、最終的に試験日が重なっちゃったんですね。それで安全を取って上智の方に入ったと。上智の方が、スペイン人の先生が多かったんです。それも1つの理由なんですね。

加治屋:満州の方から引き上げられて、東京にお住まいになったんですか。

金澤:母の実家のある山形市に戻ってきましたが、父はその後単身東京に出て就職しました。戦後できた、経済企画庁の前身の経済安定本部という官庁の下部機関に経済調査庁という部門があって、それが全国の各県庁所在地にあったんです。そこに採用が決まって、福井市の経済調査庁長のポストに赴任したんです。それで我々も、東京から福井に移ったわけです。父はその後、和歌山の庁長にもなりまして、転任したんですが、私は福井にいた時に親戚を頼って上京し、東京の中学に転校したんです。というのは、上級教育を受けるためには、中学から始めたほうがいいだろうと。そんなわけで文京区だったんですが、文京第十中学校という近くの中学に入ったんです。それは東京第4学区という学区だったんですが、その中の高校が10校くらいありまして、そのトップが小石川高校でした。そこを私は受験しました。小石川は当時、全国の学校の中でも東大進学率がベスト3に入っていたんですね。日比谷高校、西高、小石川の3つが争っていた時代がありました。私は学校の雰囲気に飲まれまして、これはもう東大へ行くコースなのかな、と。その割にはスポーツが好きだったものですから、柔道部とラグビー部に入りました。スポーツ関係にふたつ入るなんて、お前は馬鹿かと言われましたけれどもね(笑)。月水金はラグビーやって、火木土は柔道をやるという、そんな感じ。そんなことをやっていたもんですから、勉強する時間がなくて。いよいよ進学となったときに、ちょっと迷ってですね。それで先程の外語大と上智を受けたわけですが。

加治屋:高校の時の同級生でその後、美術関係で再会される方はいらっしゃいましたか。

金澤:それが、あまりいないですね。小石川がどっちかっていうと反体制的な風潮が強くて、ジャーナリストが多かったですね。しかし美術関係は、私の他にあと3人いますね。10年くらい上が三木多聞さんです。そして私。10年ぐらい下が建畠晢さんと渡辺誠一さんです。

加治屋:ああ、そうですか。へぇ。

光山:上智のスペイン語の時は、神吉敬三先生とご一緒ですか。

金澤:2期上でしたね(注:正しくは5期上。神吉氏は1956年に経済学部商学科を卒業後、スペイン留学を経て、59年に外国語学部西語科助手となった)。

光山:でも同じスペイン語学科で。

金澤:そうですね。

光山:それから当時ジョセフ・ラブ(Joseph Love)さんが、上智にもう神父になっていましたか。

金澤:いや、当時同級生でした。後から思うと、彼は非常に近くにいるんだけど一緒になることなかったですね。

光山:上智の頃も、確かラグビー部でご活躍になりましたよね(笑)。

金澤:上智はラグビー部に入りました。柔道部からも来ないかと言われたんですが、もうやっぱり大学で両方やるわけにいかないと言って。柔道は、講道館には時々行ったんですよ。そうしたら、上智のラグビーって弱くて、まだできて間もない頃だったから、1年生にもかかわらずいきなりレギュラーに駆り出されて。1年生で走っていたのは私1人だけだったですね(笑)。

光山:金澤さんはその頃、美術は何かご興味がおありでしたか。文化という大きな意味でも。

金澤:はい。高校時代ずっと、美術を選択して。自分でもずっと描いていましたね。

光山:油ですか。

金澤:水彩と油ですね。一番、思い出に残るのは、課題で西洋の名画を一点模写しろというのがありまして。私が選んだのは、フェルメールの《ミルクをつぐ女》、あの名画なんです。ところが当時、誰もフェルメールを知らないんですね。ましてや《ミルクをつぐ女》という作品も知らないし。だから必死になって描いて点をもらいましたけれども、級友たちからは、誰だフェルメールは、っていうことになりまして。

光山:そうすると、金澤さんはどうやってフェルメールお知りになったんですか。

金澤:嘉門安雄監修の『西洋の名画』(筑摩書房、1950年)という画集をずっと見ているうちに、パッとフェルメールが目に入って。台所に立つひとりの女性が、ミルクを注いでる絵なんですがね。他の絵もさることながら、それがとてもすっと入っていける世界のように思えたんですね。これならやれる、手が届くなと。ところが描いてみると結構難しく、かなり手こずって、3ヶ月かかりました。描いては消し、描いては消し、へとへとになって作り上げた模写だったんです。模写というのは描いていくうちに、フェルメールとの300年の時間を越えて、その時代にたどり着けるような気がしたんですね。彼はなんでこんな構図にしたんだろう、とか、どうしてここにこんな色を入れたのか、とかいうようなことを考えながら取り組んだ作品だったんです。

光山:細かいことなんですけれども、『西洋の名画』はどこでご覧になったんですか。

金澤:学校です。

光山:小石川に。図書室にあったんですね。

金澤:美術の図書資料室にあったのを先生が貸してくれたんですね。

光山:美術にも興味がおありになりましたけど、それをまだお仕事になさろうとまでは思っていない。

金澤:当時としては、大学を出ても就職先がないという時代でした。美大に行ったら、卒業した途端に失業者になるというのがミエミエでした。親は反対するし、周りからもなんだお前、美大かということで、相手にされない時代。絵を描いて、それを職業にするということはとても考えにくい時代だったということがありましたね。それから、進学校という雰囲気があるでしょう。進学の目標は国立一期校といった、東大を頂点とする難関の大学が目標になっていた雰囲気がありました。ですからそれに乗っかって、高校3年くらいになると、皆の話題がそっちに行くわけです。どうしても上昇志向の強い時期は難関校を目指すわけで、さすがに柔道とラグビーばっかりやっているわけにいかなくなって、大塚の武蔵予備校と神田の研数学館にしばらく通っていたことがありました。

光山:後はあの、お父様がその関係の仕事でいらしたり、ご親戚の方や政治に関わっていらっしゃる方だったり。

金澤:そうですね。父の姉が、当時の衆議員議員の麻生久という代議士の夫人でした。この人は大分県から出た人ですけれども、福岡の麻生とよく間違えられるんですが、同じ名前なんです。福岡の麻生は石炭王ですけれども、こっちの麻生は酒造りの家なんですね。その麻生久の家に、私の父が若い頃厄介になっていました。その息子が麻生良方といって、やはり政治を志して早稲田を出てから、東京1区から立候補して、当時の民社党員として当選していました。その彼が、絵が好きで、仕事の合間に詩を書いたり絵を描いたり、いろいろと多才ぶりを発揮していました。太平洋美術会という画壇があるんですが、そこに彼は出していましたね。私が先程話しましたように、福井にいた頃、東京に出て来たというのは麻生良方の家に来たんです。

光山:ああそうですか。

金澤:彼が絵を描いているのをそこで見て、なんとなく心惹かれて、そういう方向に一時行ったんですね。

光山:そういう風に美術もご興味がありつつ、スペイン語を勉強なさって。その後、海外に出られていますね。

金澤:その頃は日本から海外へ出られない時期だったんですよ。一般にはパスポートを発行していなかったんです。でも例外があって、国の役人が仕事で海外に行く場合と、留学生として行く場合。もうひとつは国策の移住者として海外に入れる場合です。それで手っ取り早いのが、その移住者です。しかも移住先は限定されますが、渡航費は国が出してくれるんですね。ですからこれだ!ということでです。ただ、ほとんどが農業移民なんです。こちら農業はやったことがないし、そんな証明ももらえないので、いろいろ調べてみるとその中に、工業移民という枠があるのを見つけたんですね。非常に少数でしたけれども。その条件は、何か技術を持っていることです。旋盤工などの証明書が必要でした。それで必死になって、アルバイトした所に頼み込んで作ってもらったんです。旋盤なんて、触ったこともないんですけれどもね(笑)。僕は「ブラジルに行きたいんで、何とかお願いできませんか」と頼んで証明書らしいものを作ってもらって、工業移民という名目で日本を出たんですね。そういう人は何人もいましたね。向こうに行ったら、着いた翌日から自分の仕事を探したりしていました。当時、ブラジルは日本よりも好景気で給料も高いし、向こうの方が日本よりずっと先進的でしたね。

光山:そういうことでも海外にお出になりたいというのは、やはり戦後の日本から抜け出したいというお気持ちが強かったんでしょうか。

金澤:というのはね、上智大学の在学中に、ラグビー部ですから、指導に先輩達がやってくるんですけど、彼らはいつまでたっても無職なんですね。

光山:ああ。

金澤:「まだ求職中ですか」って尋ねると、「仕事先がないんだよ。なんのために4年勉強したか分からない」などと、こぼしている先輩が多かったんですよ。「金澤、お前の父親に言って俺の就職先を探してくれよ」なんて言ってくるのもいるくらいで(笑)。これはひどい状況だな、っていう気持ちがありました。実際、そうだったんですよ。昭和30年代の前半っていうのは、たいへんな不況でした。それから良くなっていくんですけどね。それで私はスペイン語をやっていましたが、行先のブラジルだけはポルトガル語なんですよね。しかし、ポルトガル語とスペイン語っていのは非常に近いし、スペイン語の方言みたいなものなんですよ。文章を書きますと、ほとんど似ているんですね。発音はだいぶ違いますけど、なんとかなるだろうというので友人とふたりで行ったんです。

光山:ウルグアイ日本大使館の文化担当官(1961年-1966年まで)というのは。

金澤:ブラジルに行ってしばらくしてから、ウルグアイの日本大使館から人を募集しているって話を聞いて面接に行ったんですよ。そしたら向こうからひとり参事官が来ていました。大使館の構成っていうのは大使、公使、参事官、それから一等書記官、二等書記官ってなっています。そこで面接を受けて、じゃあ来ていただきましょうということになって、現地採用としてサンパウロからウルグアイに飛んだわけです。

光山:ブラジルに渡航なさって、すぐにそのお仕事が見つかったんですか。

金澤:いや、しばらくありましたよ。私がそのときにやってて良かったなと思ったのは柔道でしたね。向こうは日本人が多かったですから、サンパウロ市内でも道場がいくつかあって、その中に日本人の七段の先生がいましたね。一刻も早くポルトガル語を覚えようと思ったんですね。スペイン語と似てはいても、違うんですよ。そのときにやっぱり、彼らの中に入っていかなければダメだと思ったのです。そうでないと、いつまでたっても日本人同士が集まって日本のことを話したり、日本レストラン行ったりして、日本にいたときとちっとも変わらないのです。それで柔道を通してブラジル社会に入ろうと考えて、一種の道場破りみたいな行動に出たのです。

光山・加治屋:(笑)

金澤:私がある時、地元の人に「一番有名で強い道場はどこだ」って尋ねて、小野道場だっていうのを聞いて、その道場に行ったんです。小野道場の先生に、「日本から来た者ですけれども、ちょっと稽古をさせてもらえませんか」って聞いたら「よろしい。ではこの男とやってごらんなさい」って、ひとりの背の高い半黒の、茶帯の男を呼びました。茶帯っていうのは、段の前の段階で、一級なんですよ。しかしその男は、その前の年の茶帯のチャンピオンだったんですね。茶帯といっても、馬鹿にできない強さを持っているんですね。そのときに私は二段だったんですけど、こっちは黒帯ですからこいつには負けられないと思ってやりました。しかし、やっているうちに見事に彼の内股という技にひっかかって、高々と持ち上げられて、頭からドーンと畳に落とされたのです(笑)。そして脳震盪を起こして、意識不明になってしまいました。しばらくして、ふと気づいたときには、そこはビルの高い所にあるんですけれどね、そこに小野先生が立っていて「金澤さん、大丈夫ですか。頭を打ったようですね」って覗き込んでいるのです。「あれ、ここはどこですか。私はここで何をしているんですか」って。柔道着を着ているわけですよ。あれ、ここは道場らしいな、でも日本か、いや、日本な訳はないよな、などと自問自答していると、「やっぱり頭を打っていますね、しっかり休んでください」と言われました。そのときに窓から見た、キラキラした大都会の夜景が印象に残っていますね。それをきっかけに、「これからも来てください。いつでも来て、練習をつけてやってください」、と小野七段に迎えられたのです。だから私は、そこで短い間にポルトガル語を覚えたんですよ。周りは全部ブラジル人でしたから。そんなことがあって。ブラジルにいた期間は、それほど長くなかったんです。

光山:そして、ウルグアイの方に。

金澤:そうです。

光山:文化担当官というお仕事に就かれて、外から当時の日本はどういう風に見えましたか。

金澤:ウルグアイに行って、すぐに文化担当官についたわけじゃなくて。最初は文書担当になったんですね。文書をずっとやって、それから領事事務をやりました。その後、文化担当に入ったんですが。やっぱりやりがいがあったのは、文化担当官でしたね。これは日本の国情紹介が主な仕事ですから、いろいろな所へ行って映画会や講演会をやったりしました。日本から当時、バスケットボールのチームが来たことがありましたね。日本で優勝した日本興業というチームでしたが、彼らを連れて、ウルグアイ国内の主要都市を訪ねて、その土地のバスケットボールチームと親善試合をやったりもしました。それから、講演で日本の歴史について語ったり、芸術と文化についても語ったんですが、その日々の中で私がこれはマズイなと思ったのは、文化について語っている時に、単なる出来事を語るだけじゃなく、それは一体いつの時代、何世紀だったのかと聞かれたことがありました。コロンブスの時代は日本ではこうだったとか、豊臣秀吉は西洋で言うとここに該当するんだというような時代対比が求められ、これはちょっと勉強しないといかんなと気づいたわけです。それから彼らの関心は、日本の近現代よりも、むしろ近世なんですね。建築とか、伝統芸術について関心が高いわけです。だから、いくら日本の近現代芸術についてしゃべっても、彼らはそんなことよりも、茶の湯はどうなの、禅はどうなの、五重塔はどんな構造なのというように、文化面での伝統性に関心があるわけです。それで、これは勉強し直さなきゃいかんという気持ちがだんだん強くなってきたわけです。
あるとき、日本で高層建築がどっかでひとつできたんです。それが地震国日本にしては、高いんですね。一体なんで日本はそんなに危なっかしいものを建てたんだ、地震対策はどうなっているんだということに関して、外務省の広報室は、そこは抜かりなくやっていますよ、興福寺の五重塔の構造を内部に取り入れていると報じたのです。それでは五重塔はどんな構造かというと、中心に心柱というのがあって、上半分の構造はそこにぶら下がっている形になっているんです。だからいくら揺れても建物は倒れない。日本の近代建築ではその構造を取り入れたんだっていう説明があって、ああ、昔と言っても現在と見事にマッチした工法だったんだなということが分かったわけです。日本の文化はやっぱりすごい、日本人として再出発しようという気持ちが強くなってきたんです。その時に、さっき言った伯父の麻生良方が国会から派遣されて、ニューヨークに来た帰りに南米に降りてきて、金澤毅がいる所はどこだと言ってやって来たんですよ(笑)。大使館では「代議士先生が来ることになったから、これは大変だ」って言うので、「いやいや、あれは私の伯父だからご安心を」と返事しました。「なんでまたウルグアイになんか来るんだ」とまた尋ねるので、「私がいるからですよ」と答えたことを覚えています(笑)。

光山・加治屋:(笑)

金澤:ウルグアイという国は、あの辺の国の中では、ブラジルとチリとアルゼンチンに囲まれた、政治経済とも安定した中立地帯なんですね。南米のスイスと言われているような国なんですよ。通貨は安定しているし、送金は自由だし、賭博場はあるといった具合に、一種の緩衝地帯になっているんですね。だから亡命者がたくさんいます。みんなウルグアイに逃げ込むんですよ。戦争中も中立を守ったし、結構楽しめる場所でもあるんですね。だから大使館としても、お偉いさんが来るとアテンドの仕方がちゃんと決まっていましてね。国会議員クラスは大使、官庁の局長部長クラスは公使とかで対応します。大したことないのは、その他の館員で面倒見るわけで、私は、そこに入っちゃっているんですけど。そういうことで、6年間の生活をウルグアイで過ごしたわけです。1965年、芸術議員連盟というのが国会の中でできて、中曽根康弘氏がそのトップになったとき、国会内だけではなくて、具体的な活動を展開するために社団法人を作って活動をすることになって、第1回のジャパン・アート・フェスティバルが開催されたのです。麻生良方は2回南米に来たんですが、2回目が1966年の夏でした。その時、たまたまジャパン・アート・フェスティバル・アソシエーションという団体の事務局長をやっていたのが、金沢良明さんという男なんですね。私は同じ名前のその人とは、会ったことがない。その男が辞めることになったんで、その後任として来て少し手伝わないか、それに俺の秘書も男がいないので、ひとり必要だからやってくれないかと言われたのです。そこで、昔、子どもの頃一緒に住んでいた伯父さんですし、しかもジャパン・アートというのは海外との交流団体ですから、自分のやってきたことが生きそうだな、ということで辞表を出して、ウルグアイから帰って来たんです。

光山:今、一連のお話をうかがってて、もともと非常に国際色豊かな満州でお過ごしになって、日本に行かれて。そうしてスペイン語を学ばれて海外に飛び出されたわけなんですけれども。お話をうかがっていまして、先ほど文化担当官としてのお仕事の中で、海外で日本の文化を紹介する時に、現代のものだけでは駄目だと。日本の伝統的なものにも目を向けて、日本人として再出発しようと思われたということなんですが。そうしますと、金澤さんは自然に日本の現代風なものにご興味があったんですか。

金澤:いや、その時は現代に特定していません。日本文化、ということですね。そうなると、外国人の眼から見た日本文化っていうのは、むしろ伝統との関連性に力点を置いているなと感じたのです。

光山:ではご自分では、あんまり伝統とか現代ものとかそういう区別はしないで、広く日本のものを見ていらして。

金澤:そうです。というのはね、ジャパン・アート・フェスティバルの説明を受けた時に、これは現代美術もあるけども、伝統芸術も含まれていると。伝統工芸、生け花、茶の湯、書もあって、どっちかというと、そっちの方がメインになっている団体だと。しかし、それだけでは全体の紹介にならないので、近代から現代の美術もそこに入れているのだと。そのときは、公募じゃないですからね。大体文化庁が中心でした。国のバックアップがあったので、いろんなところから作品を借りてきて構成していたんですね。

光山:ちょっと戻りますけど、南米にいらしたのは通算何年間になりますか。

金澤:7年くらいですかね。

光山:ですよね。61年に担当官になられて、68年からジャパン・アート・フェスティバル。

金澤:そうです。

光山:その7年間っていうものは、その後の人生においてどのような位置づけになりますでしょうか。

金澤:それはやっぱり、大学で語学を専攻した訳ですから、語学だけはきちんとマスターしたい、という気持ちがありましたね。しかし、通常大学の4年間外国語を勉強したからといって、一人前の能力はとても持てないんですね。出発点というか、方向性を見定めて歩き出したという程度のもんなんですよ。そこからスタートしたスペイン語だったんですが、その後の生活で日常的に使っていることによって、スペイン語について自信を持ったわけです。それで会話や講演はこなせるようになってきたわけですから。そして、ポルトガル語もほとんど自由に使えるようになりました。そうした中で、現地の人々との交流をさらに増やすために、モンテビデオでは日本語を教えてくれという要望が、現地の人から高まったのです。ここには日本文化協会というのがあって、そこが受け持つことになったんです。ところが、この協会には先生がいないんです。仕事をやっている日本人は、大体、花栽培が多いんですね。そして日本語をしゃべれるからすぐに教えられるかというとそうではないんですね。言語というのはやっぱり体系的に理解していないと授業にならないわけです。ですから、大使館の方から誰か出してくれないかと要望が来たのです。大使館も忙しいところでそこまで手が回らないと回答しましたが、最後には私は文化担当官ですから、引き受けたわけです。それで夜、月水金くらい行って教えたんですよ。生徒は15名くらいいました。みんなウルグアイ人たちで、日系二世がひとりいました。ウルグアイでは、柔道もある程度やっていました。市内に5か所くらい道場があって。そのうちのひとつから熱心に来てくれないかと誘われまして、そこにも週に2~3回行っていましたね。そういうものを通じて、地元の人と非常に親しくなったんです。柔道を教えている中のひとりが、外務省の次官だったんです。外務省の高官なんて知らないでブン投げて教えていました(笑)。

光山・加治屋:(笑)

金澤:あるとき彼が「あんた、モンテビデオで何をやっているんだ」と聞いてきました。日本大使館員だよと答えると、「そうか。じゃあ俺を知らんか」と言うので、知りませんねと言うと、「外務省の次官」だとムッとして返事が返ってきました。「それは失礼しました」と詫びて以来、私に対して一目置くようになったんです。
日本語教室では、日本語を教えることの難しさを体験しました。教えていくんですけど、質問が出ると半分くらい答えられないときがあるんです。「は」と「が」の違いは? という、これはよくあることですけれども。よく考えて例を出せば、一応「は」と「が」の違いは分かりますね。しかし「に」と「で」の違い。これはどういう意味かというと、「に」と「で」は英語に直すと「in」 になるんですね。じゃあ、「に」と「で」をどう使い分けるのか、と聞かれたんですね。あなたはどこに住んでいますか、と言うけれども、「どこで住んでいますか」とは言わない。「あなたはどこで生まれましたか」とは聞くけど「どこに生まれましたか」とは聞かない。そうすると「に」と「で」は意味は同じだけれども使い方が違う。それで私は2、3日それを考えました。必死になって。考えて自分なりの答えを出したんです。今でも当たっているかどうか、分からないんですけれども。とにかく先生である以上は、分からないでは済まされないわけです。そういう実質的な体験を繰り返して、文化というものの重要性、文化を通しての他国の理解、文化における言葉の重要性などをそこで体験したわけです。これは残りの人生に大きく影響したと思いますね。

光山:ありがとうございます。先ほど、ジャパン・アート・フェスティバルのお仕事につかれる経緯は伯父様の麻生良方さんを通して、とお聞きしました。当時、ジャパン・アート・フェスティバルというのは非常に珍しい、他に似たものがないような団体ではなかったかという気がしますけれども。

金澤:それはいい質問ですね。ここに入って、ライバルがひとつあることが分かったんです。それはKBS、国際文化振興会という所ですね。これは民間団体ですけれども、外務省の文化一課の人脈が流れてきている公的な団体、外務省の下部機関だったんですね。ですから、外務省がどっかの国と交流事業で展覧会を送り出すときは、KBSを通して出していたわけです。そのためジャパン・アート・フェスティバル、日本名で国際芸術見本市協会は、外務省付にはなれなかったわけです。それで通産省の管轄に入ったわけですね。なぜ通産省で文化をやるのかというと、芸術作品も商品の一部であると。だからこれの海外振興を図ることで、ジェトロ(日本貿易振興会)の中の活動が増幅されるので、補助金を出しましょう、ということになって、ジェトロの予算の中に入ったわけなんです。そもそもこの発想には無理があるんです。商品という振り分け方をされてしまったのが最初の運命なんですね。そこがちょっと鵺的な、中間的な性格を残す原因になったわけです。KBSはそれが全くないですから、あちらは文化交流だけに絞っているわけです。そのことを理解してもらわないと、ジャパン・アートの最初の3、4年の動きが分からないと思うんですね。

光山:その時、例えば麻生良方氏らがお集まりになって、ジャパン・アート・フェスティバルを立ち上げようっていう方たちの中に、外務省のKBSの中でやろうっていう発想はもう駄目と言われてしまっているのですか。

金澤:最初からあったんですよ。

光山:駄目だと言われた、KBSから。

金澤:ええ。外務省が同じ様な団体をふたつ作るわけにはいかない、と。

光山:するとKBSの管轄内の、という発想には。

金澤:彼らは自分でやりますからね、人を派遣して。ですから、同じ所に屋上屋を重ねるようなことはしたくなかったんでしょう。実際、その後KBSとバッティングしたことがありました、海外で。シアトルに行ったときに、シアトル展(第11回JAF展、ワシントン大学附属ヘンリー・アート・ギャラリー、1976年11月13日-12月12日)をやったんですがね。そのときに向こう(KBS)は、やはりシアトルで展覧会をやっていました。神道展ですね。神道美術展をやっていました。なるほど、KBSはそういうこともやるのか、特に美術だけじゃないんだなとその時に気がつきました。向こうも出張中の人がいるんですよね。こっちは私が行っていましたから、いろいろおしゃべりしたことがあります。

光山:国際芸術見本市協会は、かなり政治家の方たちがリードされて、中曽根さんなどが積極的な発言をされたんですか。

金澤:ええ、それは出だしが芸術議員連盟という国会内の組織でしたからですね。国会内には議員連盟がたくさんあるんです。北方領土議員連盟とか、拉致された人の議員連盟とか、たくさんありますけど、そのひとつに芸術議員連盟がありました。これを提唱したのは麻生良方を始めとする数人の議員さんたちでしたが、中曽根氏も美術が好きな人ですから、そういった議員を集めて、トップは中曽根氏にしたわけです。やはり彼は、当時から実力者でしたからね。議員連盟の仕事のひとつに、「政経文化画人展」というのがありましたね。政界と財界のトップクラスの人の描いた絵を展示会にするというもので、それはデパートでやっていました。

光山:ちゃんとそういうふうに展観していたということですね。

金澤:それは三越だったか、高島屋だったか、そういう所で。これは客が呼べる企画ですからね。それは結構長くやっていましたね。20年くらいやっていたんじゃないですか。

光山:ああ、そんなに。

金澤:そのほかに当時問題になっていたのが、芸術院会員問題というのがあるんです。これは今でも解決していませんが、あの当時は話題になっていたんですね。芸術院会員というのは一体なんだ、と。あれは一芸に秀でた芸術家を顕彰するとは言ってはいるけれども、結局は権威づけがなされるだけではないかと。つまり、芸術院会員というのは一種の肩書、お上から下された保証書みたいなもんで、それによって収入が段違いに増えるという。その資格を勝ち取るために、芸術家は高齢になると贈り物を持って会員たちを歩き回って、ぜひ自分を推薦してくれというお願いに歩き回るわけです。中には、菓子折りの中に札束を入れて持っていくような人まで現れると聞くが、これは決していいことではないと。つまり、贈収賄が成立するようなことをやっているんじゃないかと。狭き門に入るための苦労というのを、もっと健全にするべきだということで、話題になったんですね。それで国会に芸術院会員を何人か呼んで、議員連盟の会員と対談する場がありました。私もそこに出席しましたけどね。その時によく知られた芸術家の先生たちがやって来て、これはこれで必要なことですと一生懸命弁明していましたけどね。

光山:今おっしゃった「政経文化画人展」、それから芸術院会員問題を扱っていたのが、その芸術議員連盟ですか。

金澤:そうです。芸術議員連盟は国際交流もやろうということになりました。まずアメリカで。戦後日本に入ってくる美術は入る方が多くて、出ていくのはない。もっと輸出というか、対外向けの紹介も必要だと思われるので、それを推進しましょうと。まずはニューヨークで展覧会を、日本全般の芸術の紹介をやりましょうということになって第1回ジャパン・アート・フェスティバルが企画されたんですね。それを推進するために、団体を作らなきゃいけないということで社団法人を作りました。たぶん発想としては、第1回が一回限りのものだったんでしょう。ところが団体を作って、第1回が大成功のうちに終わったら、もうここまで来たらもっとやるしかないねということで、2回目、3回目が次々と生まれてきたんです。ところがひとつ問題なのは、財界からは数千万円のお金が最初に集まったんです。ところが、出した方としては大っぴらに一回だけはやりましょうということでお金を出したんです。そこに、2回目、3回目の募金に現れるとですね、あれはあの時だけだと思って出したんですと言うところが多かったんですね。私は2回目から関わったので、最初の大規模な資金調達活動は知らないんです。

光山:2回目からですね、金澤さんは。

金澤:ええ。私は第2回のときに、議員秘書をやりながらでした。入ったと言っても、同時に両方面倒を見ましょうと二股かけていた時代が1、2年あるんですね。初代の事務局長の金沢さんが辞めた後でも二代目は金澤だから、電話をしても誤解されるんですね(笑)。ある時なんかは、銀座のクラブから女性の声で「金沢さん最近全然来ないじゃないの、どうしたんですか」って言われて(笑)。「僕はあなたのところなんて行ったことないですよ」って言っても「またそんな冗談言って」って言われたりして、説明するのに一苦労。

光山:当時の選考委員の方たちのお名前も、当時の日本の美術界を代表する方たちでしたね。

金澤:そうです。それは第1回目の推薦委員ですね。それこそ、美術評論家のトップクラスでしたね。私がひとつの賢明な策だなと思ったのは選考委員の中にアーティストを入れなかったことです。

光山:その辺りは、ヴェニス・ビエンナーレの選考委員の顔ぶれとちょっと違いますね。ヴェニス・ビエンナーレも途中からですけど、かなり美術家の方の顔ぶれがございますね。

金澤:そうですね。当時の国立美術館の館長クラスの人たちですね。今泉篤男さん、富永惣一さん、山田智三郎とか、嘉門安雄とか、本間正義とか。沢山いましたね。

光山:河北倫明先生、久保貞次郎先生。

金澤:それから若手の三人組として、東野芳明さん、針生一郎さん、中原佑介さん。

光山:中原さんはちょっと後からですね(注:第3回より)。

金澤:そう、この3人は公募部門が発足した時からでした。そんな訳で、日本の美術館・評論家のトップクラスをここに集めたという感じですね。

光山:その方たちは、ジャパン・アート・フェスティバルの方向性などもかなり。

金澤:最初は日本美術界の紹介のために、大変名誉な仕事だというので初回は協力したんです。第2回もまたやるよというので、そのまま残っていたんですが、だんだん事業の方向性が変わってきたのです。これは率直に言って、私が入ったからだと思います。

光山:方向性が変わるとおっしゃるのは、いわゆる政治家主導から美術界の方たちの主導になるということですか。

金澤:それもあるし、もうひとつは展示作品から工芸をはずしたということ。伝統芸術部門の生け花、茶の湯、書道というのはデモンストレーションがメインですからね。これはこれでパフォーマンスとして存在価値があるわけです。しかし工芸が入ると、展覧会のイメージがちょっと違ってくるわけです。私も海外展での経験から、工芸展の反応は悪くないんですけど、彼らは作品を売ってくれと言ってくるんですね。なんで売れないのかとよく質問されます。これは日本の文化庁の所蔵品だから駄目ですと断ってばかりいるんです。しかし、工芸品だったらまた作ればいいじゃないかと、作家は生きているんでしょうということになって、非常に困った状況も生じたのです。それからもうひとつは、日本では工芸を美術と呼ぶのかということです。ここで私ははたと気がつくわけです。これはむしろない方がいいと。入れることによってトラブル続きで性格を曖昧にしてしまうからということになって、だんだんそっちの方に持っていったわけです。

光山:そのときに工芸家の方たちから、なにかこう。

金澤:いや、それはありません。こっちが声を掛けなければいいだけのことです。確かに作家から直接預かる物もありましたよ。七宝とか漆とか。しかし、大部分は文化庁のコレクションでした。文化庁というのは、国立博物館ということですから、質はいいですよ。それはもう国宝級のものですから。こんな危なっかしいものを扱うと、取り扱い専門家の同行や借用認可など面倒なことが多いのです。

光山:保険とかそういうものも、やっぱり。

金澤:ええ、ちゃんと掛けます。

光山:保険額にも関わってきますよね。

金澤:私もまだあの頃、若造で手探り状態だったので、美術品と工芸品との扱いの違いというのがよく分からなかったんですね。それはもう、完全に違うんですね。現代美術は学芸員であれば、または手慣れた人なら誰が扱ってもいいんですけど、工芸はそうじゃないんですね。作品は一点しかなく、作者はもう亡くなっているかもしれない。そうなると、専用の車で専門委員が行って、見ている前で手さばき良く安心感を与えるような包み方をしなくてはなりません。そして預かり状を出して、申告額通り保険に掛けるというひとつの形式がありまして、その流れを省略すると、相手に不安を与えちゃうんですね。実際に出品を断られたこともあるんです。「一体何だ、約束通りに取りに来ないじゃないか」とか。渋滞で20分遅れましたと説明しても、「渋滞があるなんて、最初から考えられるだろう」と。それは千葉に行ったときですけれどね。道が混んで、遅れて着いたんです。そこで改めてまた行ったのですが、今度もまた少し遅れたんです。そうしたら、「もうあんたの所は信用できんから、貸すのをやめた」と言って断られたんです。

光山:そうですか。今、工芸、茶の湯、生け花という話も出てきたんですけれども。もともとのジャパン・アート・フェスティバルの目的があったわけですよね。

金澤:第1回はね。

光山:金澤さんは第2回からでいらっしゃいますけれども。最初の目的から、だんだん回を重ねて11回で終わるまでの大きな流れ、目的。最初の目的から、それが若干ギアチェンジをして、そしてまたそれに関連して活動内容も変わっていくという。その辺りの流れを金澤さんの眼でご覧になったときの、いわゆる大きな見取り図というものは、金澤さんご自身としてはどう捉えられていますか。初期の目的、活動内容から、回を隔てて第11回で終わるまでの、大きな流れは。金澤さんからの視点で結構なんですが。

金澤:議員たちや財界人、財界人の中で特に熱心だったのは藤井丙午さんという、八幡製鐵の副社長をやっていた財界人がいるんです。この方は立派な人でした。その後、生地の岐阜県から参議院議員に出ましたが、彼がこの協会の会長をやっていたんです。彼が財界から金集めを積極的にやったのです。彼が名刺一枚になにか書くと、財界は100万単位で金を出したんですよ。ああこの人はすごい力を持っているなと思いました。彼は人物的にも尊敬できる人だったんです。しかしその他の人々は名前は連ねていても、名前だけでした。政治家というのは、呼べば票欲しさに来るんですよ、会議には。でも、それだけのことで、特になにも動かないわけなんです。それから日本いけばな芸術協会という生け花団体の連合会があって、その理事長が勅使河原蒼風さんだったんです。それから茶の湯では、裏千家が国際交流に熱心に取り組んでいました。書道は毎日書道会といって毎日新聞がやっている毎日書道展の主催団体。こういうようにして各種の連合体から協賛金をもらっていたんですね。それは彼らに出番があるから金を出したわけです。だから出番がなくなったら、お金は止まるわけですね。私がこの三つのデモンストレーションを残した理由のひとつは、それがあったんです。これはやっぱり運営のための確実な収入源でした。
しかし財界の方はですね、第1回目の時の日本航空は5~600万出したんですが、第2回目になるとしぶしぶ100万ですよね。もうガラっと態度が変わるんです。しかし日本の主だった企業はだいたい協力的だったんです。というのは、政治家が動いているから彼らも動くんですよ。ところが、何度も募金を繰り返していくとだんだんやる気がなくなってきて、収入が減る一方になってきたのです。じゃあその分政府から補助金が出るかというと、国際交流関係助成はKBSの方に回すもんだって。こっちは貿易振興の予算から振り分けるわけですが、ジェトロは美術品が売れる売れないなんてあんまり考えたくないんですね。美術品が売れたところで、どうってことない。あれは産業とは言えないと。でも一応政治家が作った団体ですから、補助金はいただきましたが、それは事業費の半額補助だったんですよ。運営費はなしです。だから1,000万使っても、500万しかくれない。500万もらうためには、1,000万使った領収書を見せなきゃいけない。そこが辛いところで、そのへんはもうちょっと秘密ですよね(笑)。

光山・加治屋:(笑)

金澤:そこから先はいろいろと、工夫してがんばって持ちこたえてきたんです。私は事務局長だったんですけど、私の責任でずっとやってきたんです。本来は理事長の責任なんですよね。ですから、本当にここでの10年間というのは楽しい思いもありましたが、それに倍するような苦しい思いもあったのです。

光山:予算的に非常に苦しくなってきた、というのは第何回くらいでしょうか。

金澤:そうですね……。ちょっと、具体的にははっきり思い出せませんが、第5回(1970-71年)の……マルセイユ、ミュンヘン、ニューヨーク、フィラデルフィア……この辺はなんとかやっていましたね。第6回(1971-72年)ミラノ、リオ、ブリュッセル……メキシコ、ブエノスアイレス、この辺から苦しくなってきましたね。第7回(1972年)あたりはもう、いろいろとやりくりして、本当に苦労してなんとかかんとかこなしてきたんです。事業はしなきゃいけないんですね。お金は使わなければいけないし、ジャパン・アート・フェスティバルって公募から、あ、公募について説明しないといけませんね。
第1回目はもちろん全部招待展でやったんです。第2回が終わったとき、展示作品の一部を公募にしようじゃないかということになったんですね。第2回は第1回同様の招待展で一応無事にこなして、第3回に入って公募の第1回展というのをやったわけです。これがメキシコ向けとなりました。

光山:公募展は、第3回からですね。

金澤:そうです。第3回から。このときに賞金100万円を用意したんです。当時、100万の賞金を出す公募展はなかったですね。みんなびっくりしました。100万も出すんですかって。アーティストっていうのは自尊心が高いですから、自分が取ってやろうという気持ちで出すんですね。エサは大きい方がいいよと言われて100万を用意したのです。それを持って行く先はメキシコでした。そこのところで私は自分の、金澤色というのを出し始めるんですよ。

光山:ああ、この辺りから。

金澤:ええ、やっぱり外国に持っていったときの反応や、そこの評論家がこの展覧会にどういう印象を持っているかというのがよく分かるわけです。そういう批評を読みながら、私は学習したわけですね。日本での学習はあまりなかったけど、外国で学習を繰り返してきたんです。

光山:それは海外の反応を見ながら、ということですね。

金澤:そうです。それで日本がどこかで遅れを取っていると。国際交流においてほとんど日本は外国文化輸入ばかりしていて、輸出をしていないということです。そして、美術の内容についてはやっぱり日本画の伝統が強くて模倣とか模写というところから始めていくから、作品が似ている似ていないということは問題ならないわけです。

光山:そうですね。模倣は単なる模倣ではないですからね。

金澤:美術は模倣から始まると言われているくらいですよね。ですから、喜んで模倣していくわけです。そうしてどこかに出品するときは、先生に手直しをしてもらって出すということが日常化されていますね。それが、世界の美術界では間違いだということが分かったんです。それから、工芸というものは、あれはパリには工芸博物館(Musée des Arts et Métiers)というのがあるくらい、別のジャンルなのです。工芸のことを、アプライド・アート(Applied Arts)と言うでしょう。日本は工芸美術という言葉があって、工芸は美術扱いになっているんですよね。そこのところも違うわけですよ。工芸には用途性というのがあって、これは何のための入れ物かとか、何のために作ったかという目的があって、それがいくらレベルの高い物であっても、形から見えたものは皿であったり壺であったりするわけです。外国ではアートは用途を度外視したとことから生まれるんだという発想ですから、こうしたことを、私は展覧会を通じて学習していったんです。
JAF(ジャパン・アート・フェスティバル)の1回目、2回目はアメリカが多かったんです。美術館も使いましたけど、一般のビルやデパートも使ったんです。コーディネーターとして間に入ったデイヴィッド・クン(David Kung)という中国系のアートディーラーがいまして、その人が仲介するアメリカの会場は、みなデパートなんですね。やっぱり、売ろうという意図が強いんですよ。近現代美術は売ったって構わないんですね。作家が生きていますから。ところが工芸は売れないわけです。預かってきているわけですから、文化庁から。そんなこともあって、いろいろな意味でやりにくい展覧会だったんですが、それを少しずつ整理したいと思って始まったのが第3回なんです。公募というのに切り替えたことによって、公募だったら社会的な意味も生まれるし、作品も売れるということです。

光山:ああ。

金澤:作家たちはむしろ喜んでくれるわけです。私たちも売れた分だけ、帰りの船運賃が安くなるので助かるわけです。

加治屋:そうですね(笑)。

金澤:一番理想的なのは、全部売り払って帰ってくることですから(笑)。そういうことがあって、公募入選作品だったら売れる。招待作品だって売ったって構わない、ということが動機のひとつにありました。この団体の目的は、美術作品を売ることというのが出発点にあるわけですから、展示もする、売りもする。最初は公募で表彰をして国内展もやるという、盛りだくさんのプロセスの中で発展していくわけですよ。一旦外国に出したら、持っていってすぐ持ち帰ってくるというようなことはやめて、各地に巡回して、フルに使って持って帰りましょうということを私は考えたわけです。やり方は任されていますので、自分の一番得意なラテンアメリカに焦点を当てたのです。それでまずメキシコを選んだわけです。メキシコは何度も行ってよく知っている国でした。メキシコ国立近代美術館(Museo de Arte Moderno)の館長も気心が知れていましたから。一度日本の美術展をやらないかと話したところ、すぐ「やりましょう、私たちも関心を持っていますよ」と返事が返ってきたのです。「ただし金がないので、ここまで持ってきてくださいね」と。もちろんですよ。カタログも作るし、持っていくし、滞在もこちらでやりますから。だから、パーティだけはお願いしますね、という条件でやりやすくして持っていったのが、このメキシコ展(第3回、1968年)です。この時に最初のグランプリ受賞者の田中信太郎の作品もここで展示されたわけです。

光山:外に持って行った反応なども、興味深くおうかがいしたんですけれども。公募展に切り替えたことによって、日本国内の美術状況を活性化させるという意図もおありだったんですか。

金澤:ええ、そうです。それは国内展をやることと、海外展を用意することで登竜門的な場にしようと。国立美術館の館長クラスの爺さんが審査員にいたのでは、応募者側がやっぱり、それに近い傾向のものを出すので、若手審査員も入れましょうと針生さんに相談したのです。そして、彼を通して中原さんと東野さんが入ってきたんです。この3人の名前が並ぶと、応募者の数がぐんと増えるわけです。わけの分からないのもたくさん来ました。

光山:(笑)

金澤:このときがまた、もの派が生まれた時なんです。だから、1968年のこのときの搬入は見ものだったですね。

光山:確かグッゲンハイムのときに、菅(木志雄)さんが大賞を取っていますね。

金澤:それはもう少し先ですよね。

光山:ええ、第5回(1970年)。もの派が登場してきたというのが、やはり第3回くらいですか。

金澤:そう。3、4、5回ですね。

加治屋:それでうかがいたいんですが、実はこの日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴで、李禹煥さんにもお話をうかがったんですね。李さんは、ジャパン・アート・フェスティバルに確か出したんだけれども、国籍条項があって。

金澤:その点については、他の人からも問い合わせがあったんですよ。

加治屋:ああ、そうですか。

金澤:ええと、誰だったかな。誰かにそれを聞かれたんですけれどもね。

加治屋:本阿弥(清)さんですかね。違うかな。

金澤:誰だったか、去年(2011年)ですけどね。李さんの話と私の話には、食い違いがあると。彼の書いている略歴と、自分の調べたのでは食い違いがあるが、どれが本当かと聞かれたんですが。まず、李さんは出していない。公募には出していない。

光山:出していないとおっしゃるのは、李さんが公募に応募していないということですか。

金澤:そうです。というのはね。李さんが電話してきたんですよね。「私は韓国籍なんですけれども、応募できるでしょうか」と。たまたまその電話を受けたのが私だったんですよ。電話の相手は名乗っていませんでした。ですから「これは日本政府が作った団体で、国会の作った協会が運営している。国の予算から出ている事業で日本国民のためなので、外国人は考えていません」と。本来は理事会にかけて、皆でそのくらいのことは相談しなきゃいけないんですが、理事会って年に一回しかやらない。理事が40名くらいいる団体ですから、とてもそこまでは待てないので私ひとりで答えた記憶があるんですよ。それで「申し訳ありませんけれども、これはちょっと外国籍の人には該当しませんね」と。そうしたら「ああ、分かりました」と答えて電話を切ったんですよ。後からあれは李さんだったと気付きました。ですから、彼は出品していません。

加治屋:それは、68年の第3回でしょうか。

金澤:68年か69年か、どっちか分からないけど、とにかく李さんが公募に応募したということはありません。

加治屋:李さんがおっしゃるには会場まで持っていって、でも受け取ってもらえなかったと。それでしょうがなく、その場に。

金澤:置いていったと言うんですか。

加治屋:置いていったとおっしゃって。

金澤:そういうことを僕も一度聞いたことがあります。もしそれだったら、私は当時毎日受付にいましたから、受付作品は全部他の人とともに分かるわけです。もしそういうトラブルみたいなことがあれば、そして受付拒否のような重要な問題発生の場合には、必ず私がいなきゃいけないわけですが、そういう記憶もありません。受付時に国籍問題で揉めたということは一度もなかったですね。外国人が当時日本で作品制作していたという例は非常に少なかったですね。確かに郭仁植さんとか李さんなどは。彼の略歴を見るとこの頃作品を作っているんですよね。私は作った作品も見ているんですが、それはここには出ていませんね。

光山:李さんは会場に置いて、というのは置きっぱなしになさったんですか。

加治屋:置きっぱなしにして。

金澤:それは別の団体じゃないですか。このとき、毎日現代展(「現代日本美術展」、主催=毎日新聞社)もやっていましたから。その頃はシェル(「シェル美術賞」展、主催=シェル石油)と毎日とジャパン・アートの3つが公募をやっていたんですよね。ですから、ジャパン・アートに関する限りは私が電話を取っているし、受付にいたので、李さんはいないということは言えると思いますね。それにね、黙って置いていくなんてことはできないでしょ。目の前で受付ているのに。そんなことはとてもできないことで。これはひとつの謎ですね。李さんはなんでそんな風に固く信じ込んでいるのか分かりませんけどね。私は李さんとはその後いろいろ関わってきました。でもジャパン・アートには彼は最後まで出していないんじゃないかな。招待でも出していないと思いますね。出してたら、ここに必ず招待で出るはずですよね。この第10回記念展は全部招待出品者なんです。

光山:ちょっと今、記憶にないんですけど。

加治屋:国籍条項自体はずっとあったわけですよね。

金澤:そんなこともないんですよ。

光山:ああ。はっきり規程には書かれていなかった、ということですか。

金澤:ないです。

光山:ただ口頭で、一応。

金澤:僕が電話を取って断った、たったひとつの例ですよ。これは日本の作家のための企画であると。

光山:それはなかなか、微妙な。難しいところですね。

金澤:だから韓国籍だから駄目です、という言い方じゃなくてね。これはオフィシャルな団体で、税金でやっているもんですから。日本国民の芸術家を対象にしています、ということですよね。そうでなければ、外国からどんどん送ってきて応募することも可能になっちゃうでしょう。それはできないわけで。彼自身も自分から「私は日本人じゃないんですけど、大丈夫でしょうか」と日本語で言ったわけです。日本人じゃないということをちゃんと日本語で流暢に言うので「どちらの国ですか」と聞いたら「韓国です」と言っていましたね。

光山:当時、毎日とかシェルとか、あの辺りは国籍は。

金澤:それは分かりません。

光山:はい。

金澤:本当は最初から国籍条項などなしにしておけばよかったな、と私は後になって思いましたけれどもね。国籍を問わず、というように。

光山:日本に在住ならば、というような。

金澤:はい。でも、当時なにしろ初めての試みで、現代美術で公募展に踏み切ったなんて、ほかにはあまりないですからね。毎日現代展というのがひとつあったけれども。あれが唯一ライバルでしたかね。

光山:シェルはどうでしたか。

金澤:シェル賞展はあんまり、話題にならなかったですね。

光山:国内展の評判はいかがでしたか。

金澤:これはやっぱり、100万円という賞金が話題を呼んだんですね。当時の政界の大物がオープニング・パーティにはゾロゾロ来て、お祝いするわけです。受賞者には大臣賞を発行するわけです。外務大臣賞、文部大臣賞、通産大臣賞、芸術議員連盟会長賞など計6つありました。

加治屋:金澤さんが入られる前の第1回(1966年)の展示で、ちょっと細かいことなんですが。ニューヨーク(会場=Union Carbide Building)の会場構成を丹下健三さんがやった、と聞いています。ただ丹下さん自身はこの頃もう、万博の仕事を始めていらっしゃってニューヨークに行かれていないと思うんですが、どのような形でやったか覚えていらっしゃいますか。

金澤:その具体的なことは、うーん。ちょっと分かんないですね。

光山:第1回ですね。

加治屋:第1回。

光山:私もちょっと記憶にないんですけど会報(『国際芸術見本市協会会報』)を読んでいくと、そこのオープニングにいたか、というのが分かるかもしれません。

加治屋:ああ、そうですか。

金澤:(資料を見ながら)しかし、ここに丹下さんが立っていますね。

加治屋:そうですか。ああ、そうですね。これはニューヨークですね。現場ですね。じゃあいらしたんですね。

金澤:大きなポスターを作ったんですよね(デザイン=粟津潔)。建物を背景にしたやつで。だから、彼はいたと思いますね。これが藤井丙午さんですね。ここで贈り物、たぶんこれはニューヨーク市長じゃないかと思うんですがね。

光山:この方は麻生さんですか。

金澤:こっちが麻生さん。これが嘉門安雄さんですね。私は高校時代に嘉門さんの本を読んでいましたが、働き出したらなんとその上司が嘉門さんなんですよ。嘉門さんとは10年くらい一緒に仕事をしました。彼は国立西洋美術館の学芸課長だったんですが、偽物の騒ぎがあって責任を取って辞めたんですよね。その後ブリヂストン美術館の館長になったんです。

光山:国内の状況をうかがって、まだまだ日本の現代美術というのが、あまり社会的に取り沙汰されていない と言う時代でしたね。

金澤:そうです。第一、日本に現代美術があるの? という聞かれ方をされたこともありますよ。じゃあ見てくださいとこの展覧会を出した時、私は酷評にはもう慣れたつもりでしたが、ボロクソに言われたことがありましたね、ニューヨーク展で。

光山:それは海外での評判がボロクソだったんですか。

金澤:そうです。おもしろいというのもあったんですが、どっちかと言うと、歯に衣着せない評論をするのが向こうの批評家ですから。キャナディっていう人がいますね。

加治屋:ジョン・キャナディ(John Canaday)。

金澤:ジョン・キャナディ。そうです。

光山:彼はいわゆるMoMA展(注:The New Japanese Painteing and Sculpture、「新しい日本の絵画と彫刻」展。サンフランシスコ近代美術館を始め米国全7館を巡回。ニューヨーク近代美術館は1966年10月17日-12月26日。)ですか。あれも酷評していますね。

金澤:そうでしょう。彼はなかなか辛辣な批評をすることで知られた人なんです。日本人がヌードを描くとき、なんで西洋人のヌードを描くんだ、というのがありましたね。それから聖書を扱っているときに、なんで仏経典じゃないのかと。日本人はどういう発想でキリスト教のものを扱うんだと言われたこともありますね。そこで私は、アイデンティティという言葉の意味を理解したんですよ。アイデンティティが問われるのが美術なんだと。特に国際交流の場合は、ニューヨークみたいな世界から人が集まった場では、アイデンティティのない作品というのは問題にされないんだと。ひとつの国家としてのアイデンティティというものをそこで理解しましたね。

光山:展覧会のジャパン・アート・フェスティバルにも、アイデンティティが求められていたわけですね。日本の作品もそうですけど、展覧会全体としても。

金澤:ええ、そうですね。日本のアイデンティティはどこにあるのかと。これは現代美術だから、伝統性がなくてもしょうがないよと、こっちも必死に言うんですけれどもね。それでもどっかにあるはずだ、作品とは時代とかけ離れたものじゃないんだ、ということです。とにかく教わりましたね、いろいろなことを。でもそれは1970年前後の話ですよ。今から40年以上も前の話。今日では常識になっていることが当時の日本では、そんなことを言う人は誰もいなかった。まずそこを理解してもらわないとね(笑)。ですから私が海外での仕事の中でそれを聞いたときには目から鱗だったんですよね。ああ、そうかと。現代美術というのはそういう精神性がひとつなければ、成り立たないアートなんだなということを感じましたね。

光山:作家の方たちは、どういう感じでそういう問題にアプローチしていましたか。

金澤:作家は分かんないですよ。現場に行かないから。

光山:行かない。

金澤:何人かは行きました。5人くらいは。

光山:評判を聞いたり。

金澤:後から新聞記事を訳したものを送ったり、会報を作ったりして、こういう状況があったと現場の雰囲気をみんなに伝えましたけどね。どっちかというと、口当たりのいいことが書いてあるものを優先しましたね。あんまりがっかりさせたら、次の公募に響くから(笑)。

光山:ああ、それは協会側がですね。送るときに。

金澤:ふたつあったら、口当たりのいい方を載せてシビアな方をやめると。多少の操作はしていますね。でもこの展覧会が向こうの新聞などに取り上げられること自体が、そんなに多くなかったですから、それを集めるのに一苦労しましたよ。案内記事は出ますよ、こんなものをやっているという。しかしそれに対して論評はまた別ですからね。

光山:まだまだ当時、日本の現代美術界で海外に出した時にどういう反応かとか、なにが求められているのかとか、そうした話というのはあまりなかったんでしょうか。

金澤:そのいい例が、1951年に始まったサンパウロ・ビエンナーレですよ。サンパウロ・ビエンナーレの1回から3回までの出品者の顔ぶれを見て僕は唖然としましたね。それは、日本の美術界のトップクラスの日本画を集めて、20人分くらい送ったんです。

光山:それはヴェニスも同じですね。

金澤:最初は。

光山:1回目は日本画の先生で。

金澤:国際展の真っただ中に。サンパウロは現代美術展ですからね。そんな日本の伝統性豊かな作品がずらーっと、しかも45点も並ぶと、「なんだこれは」になっちゃうわけね。なにか勘違いしていたのです。それが日本では分からなくて、5回も繰り返すんですよね。

光山:棟方(志功)さんは、評判が良かったんですね。

金澤:そう、棟方さんから。あれは版画部門で彼は最高賞を取ったでしょう。

光山:あれは第1回ですか。

金澤:いや、第3回(1955年)でした。それから第4回で浜口陽三が受賞したんですよね。続けて。そういうことから日本側は、これはちょっと違っているかもしれん、という反省が生まれて、5回目くらいから数を絞って、作風を近代から現代に向けて変えてきたのがよく分かりますね。この年はサンパウロ400年祭とぶつかるんですね。それを記念にしようと、大物招待作品を持ってきたんですよ。それがニューヨークの近代美術館にあったピカソの《ゲルニカ》です。

光山・加治屋:ああ。

金澤:たった1回、《ゲルニカ》がニューヨーク近美を出たのはそのときだけだったのです。

光山:ああ、そうですか。

金澤:サンパウロ・ビエンナーレの会場で《ゲルニカ》が展示された後、ニューヨークにまた戻って、その後はフランコが1975年亡くなったのを見て、マドリッドに戻しましたね。

加治屋:ちょっと話が戻りますけれども、ニューヨーク近代美術館で66年に「新しい日本絵画と彫刻」という展覧会がありました。あれはちょうどこの第1回の。

金澤:直前ですね。

加治屋:こちらがあの展覧会の前ですね。

金澤:あれは夏頃だったんですかね。こっちは3月4月だから。

加治屋:この数か月後にMoMAであったと聞いているんですが。

光山:MoMA展は、MoMAは66年なんですけど、(立ち上がり館の)サンフランシスコ(近代美術館)は65年なんじゃないですかね。

加治屋:ああ、そうか。

光山:サンフランシスコから回って、66年がMoMAで。

金澤:MoMAは、そうそう。あの時のMoMAの館長がいましたよね。

光山:キュレーターはリーバーマン(William S. Lieberman)。

金澤:キュレーターでしたか、彼は。

光山:あの展覧会のキュレーターです。はい。

金澤:そう。あれもいろいろと言われた展覧会でしたよね(笑)。これとちょうど時期が同じ年だったから、比較されたんですが。こちらはユニオン・カーバイド・ビルという普通の商業ビルで、その2階を使っています。そういう意味では、向こうは美術館そのものが批判されたでしょうけど、これは主催者のジャパン・アート・フェスティバルという団体の日本紹介ですから、性格は違うんですよね。それこそ工芸も入っているし。生け花、茶の湯も入っている総合的な文化紹介というわけですから。ちょっとこちらの方が、コマーシャリズムがあるかもしれませんね。

光山:私も細かいことは忘れていたんですけど。MoMA展のサンフランシスコが1965年の4月始まり。そしてジャパン・アート・フェスティバルの第1回が1966年の3月ですから、1年遅れで。

加治屋:1年遅れですね。それは例えばMoMAの展示を見て、内容を考えたりとか。

金澤:いえ、それとは別ですね。

光山:MoMAの内容とはかなり違ったと思いますね。

金澤:うん、違うでしょ。ここにその当時の役員の名前が出ていますけど。この人たちをどこかで生かそうと思っていますからね。だからどうしても、対象がばらけてくるんですよね。

光山:それとこちらは工芸が入っていますよね。

金澤:そう、そこが一番大きいですよね。

光山:MoMAの方は逆に、60年代以降くらいの作品がかなり中心ですね。

金澤:向こうの眼で選んでいるでしょう、日本を。

光山:ええ、抽象(絵画)にフォーカスしているし。

金澤:こっちは、日本の政治家まで入った人たちが選んでますから、違ってくるのです。

光山:そうですね。だいぶいろいろおうかいがいしてきましたけど、そのジャパン・アート・フェスティバルが終焉に向かう過程っていうのは。第5回のグッゲンハイム辺りはかなりピークだったと思いますが、その後だんだんこう、変わっていったと思うんですね。

金澤:そう、日本の美術界でジャパン・アートが話題になり始めてですね。あれはやっぱり現代美術中心の美術展であり、国内公募で受賞もあるんだと。そして入選作品が海外で展示され、しかも海外で販売される可能性もある。そういう意味では、その他のコンペとはだいぶ性格が違うと話題になってきたんですね。審査員も評論家だけで構成されていて、一時期は12名が名を連ねていました。つまりもう、四方八方から作品を見てジャッジするわけですから、一芸術家の好みが反映するような選考ではないと。そういう意味では信頼度が高かったのです。そして入選率も非常に低くて、そのとき競合していた毎日現代展に比べると、倍の比率だったんですね。一度なんか、20点に1点の入選というときがありましたね。20点というと出品者数にすると8人くらいですよね。ひとり平均2.5点くらい出しますから。

光山:ああ、なるほど。

金澤:そうすると、20点に1点の入選率というと、毎日現代展の方は3分の1くらいが入選するわけですから、ジャパン・アートの方が魅力的だったんでしょう。だから彼らは経歴の中にこれをすぐに入れてきましたね。
それから協会の事業のもうひとつの特徴は、ジャパン・アートがメインでしたけど、サブとして時折、特別企画というのをやったんですね。それは版画展が多かったですね。

光山:「日本版画展」(Estampes au Japon 1971)で、ブリュッセル(Auditorium Innovation, Bruxelles)が71年。

金澤:ブリュッセルは天皇がヨーロッパ巡幸することをきっかけにして開催しました。

光山:あと、米国巡回(Japanese Prints of Today)がございました。73年。

金澤:73年でしたか。

光山:ええ、ボストン(Boston City Hall Gallery)から始まってニューヨーク(New York Cultural Center)。

金澤:ああ、そうですね。カルチュラル・センターは73年でしたね。確か、これは50人の作家を選んだんですよ。ですからこれは、ひとり3点くらいでしたからその3倍、156点って書いてありますけど、大変内容の高い、いい展覧会でしたね。これは久保貞次郎さんが選考しました。彼は版画専門の評論家ですから。

光山:それからメキシコも。現代日本の版画展(Los Grabodos Japaneses de Hoy)ということで、1974年に。

金澤:やっていますね。メキシコも。そうそう、これは私が行ったんですよ。この期間、長期滞在しましたね。これは国立芸術院というのがあるんですが、そこと共同主催にしまして、国営のギャラリーでやったんです。これも非常に反響が大きかったですね。

光山:そういうのが、どちらかというと後半に入ってきたんですね。サブ企画っていう。

金澤:そうそう。やっぱり版画だけは、日本は負けないという自信を持ったんですね。これを見せている限り日本は必ずいい評価を得られると。だったら版画は扱いやすいし、日本は版画家がたくさんいるから、後は選ぶだけだ。それでやりましょうと。それから工芸展というのもやったことがありますね。

光山:「石川の工芸展」(Artesania Japonesa de Hoy: Creada en la Prov. Ishikawa)。バルセロナ(Palacio de la Virreina)、ゲント(Floraliapalais)。

金澤:そうです。ゲントも行ったのかな。

光山:(第31回)ゲント国際見本市に。

金澤:ああ、そうか。

光山:バルセロナが75年、76年にゲントに回っていますね。

金澤:そう、「石川の工芸展」。これも石川の工芸作家の団体とタイアップしてやったんですね。彼らからも賛助金はもらうわけですね。団体として参加する時には。それで実費は自分たちで出してくださいね、と。この時も私は一緒に行きました。

光山:ゲントで(1976年に)やはり、「現代日本版画展」(Todays Prints of Japan 76, Floraliapalais)をやってらっしゃるんですね。

金澤:はい。ゲントでもやりましたね。

光山:今、版画、工芸っていうお話が出て。後はずっと生け花と茶道、書道のデモンストレーション、または展示は、ずっと最後までですね。

金澤:ええ、それはやはりジャパン・アート・フェスティバルのもうひとつの見せ場になるわけです。人間が行うパフォーマンスですね。つまり、パフォーマンスも好き勝手なパフォーマンスじゃなくて、伝統芸術におけるパフォーマンスです。彼らにしてみれば、そんなこと見る機会はないわけですね。一生に一度も。書道の連中などは、1回に50人も行ったことがありますよ。それで毎日プログラムを作って、観客の前で。巨大なパフォーマンスをやるわけです。これは大変好評を博して、どこの新聞にも取り上げられましたね。

光山:なるほど。そうしたことに対して、現代美術家から批判もあったと聞いていますが。

金澤:それはあるかもしれませんね。でも我々はそれはそれ、これはこれですよと。日本の総合的な文化紹介の中では、伝統的な芸術も落とすわけにはいかないから。現代美術展はしっかりやるけども、アトラクションみたいな形で、最初の数日間はこっちの方もやらしてもらいますと会場を分けてやっていましたね。
1回だけ、パリで一緒になったことがあるんです。これはちょっと予想外の出来事だったんですけど、パリ展が1970年、チェルヌスキー美術館(Musée Cernuschi)でありました。この時はここに写真がありますが、護衛兵が来ています。文化大臣が出席する時は必ずこれをやるんですね。この時はフランスの文化省がタイアップしたんです。それが直前になって、文化大臣が更迭されちゃったんですよね。アンドレ・マルロー(André Malraux)氏でした。

光山:ああ!

金澤:彼が更迭されて、それまでの契約が大幅に見直しされ、予定していた美術館がなくなりました。それではどうするのか問い合わせましたら、古美術を扱っている私立美術館があるから、そっちの方でやりましょう、ということで回されたのがチェルヌスキー美術館だったんです。確かに、ここの館長は日本美術の専門家なんですよね。でも、やっているのが古い日本の美術ばかり。しかし我々が持って行くのは現代美術ですよと。そうしたら、まぁそれでもいいでしょう。その代わり、ここしか使えないので、ディスプレーは我々がやるから任せてくれ、作品だけ送ってくれというので、送りました。そうしたら学芸員と一緒に、その館長が展示作業を全部やったわけです。その結果、書も絵もみんな混ぜこぜで展示してしまって、我々もびっくりしたんですよ。

光山:それは見方を変えると非常におもしろいですね。あちらから見たときの。

金澤:彼らはね、書を美術として見るんですよね。ですから、そういう意味では直観的なストロークの芸術であって、彼らはライン・アートだと理解していました(笑)。チェルヌスキーの展示を我々は、これはどうしようもないわ、と思って諦めて見ていました。

光山:作家の方はどういう反応ですか(笑)。

金澤:びっくりしていましたよ、それは(笑)。画家も書家もびっくり。「こんな見せ方してくれて」って。だから「これはフランスに任せたからです。これはしょうがない。ここは美術館だから、我々が勝手にやるわけにはいかないから」って言って、勘弁してもらいましたがね。そうしたら、ミラノにいた吾妻兼治郎っていう彫刻家が自分の彫刻作品の置き場所が悪いって、クレームつけたんですね。それで「私に言われてもしょうがない。これは美術館の方がやったんだから、文句があるならあの館長に言ってくれ」と言ったんですよ。そうしたら「いや、この話を持ってきたのはあんたたちなんだから、あんたに文句を言う」とごねて大変だったんですよ。「じゃあオープニングのときはここに置くけども、明日からちゃんと真ん中に置きますから」と言ったら、しぶしぶ了承したんですよ。ところが2日目になっても、館の方では移動しないわけです。そうしたら4、5日たってまた、彼が見に来たんです。そして「約束したのに、移していないじゃないか」と会場で大声上げて散々文句言ってね。吾妻さんというのは、審査員の中の今泉篤男さんが山形県出身ですが、二人は同郷の間柄で、前から顔馴染みだったんですね。だからそういう関係で入っていたようです。

光山:吾妻さんは招待作家だったんですか。

金澤:そうです。彼とは少しゴタゴタしたことがありました。

光山:いろいろな事がありましたね。ジャパン・アート・フェスティバルが、いよいよ終わりになるところを話していただけますか。

金澤:終わりというと、JAFが第11回まできた時、もうこの辺で続けるかどうかという瀬戸際まで来ていたんです。第10回の時には、第11回の海外展の場所を確保していますから、やりますよ。しかし、ここで第12回になると言われたんですね。「金澤くん、君は事務局長でご苦労さんだったけれども、これから我々は手を引くから、やりたいなら君は自分でやれよ」と。それで、私にそんな自信はないわけですね。あの時、日本もアートに対してそれほど理解がなかったんですよ。財界は1回つき合えばいいでしょっていうのがほとんどですよ。それを3回も4回もつき合った会社があるわけですから。それ以上になると、例えば日本航空なんかは「賛助金をいただきに参りました」と言うとですね、「お宅に出した賛助金は広告掲載費として出していたんだから、今後は広告を見せてもらいましょう」と。そこで「展覧会のポスターの下の方に飛行機の写真と、“Fly JAL”というのを入れましょう」と申し出ました。そうしたら、じゃあこれを入れてくださいと、ロゴと写真をもらって、それをそこに入れたわけです。ところが美術館でやる展覧会の案内にJALのロゴがついたのを、海外に送るわけにはいかないわけですよ。ですから国内で100枚くらいはロゴ入りで作るんですよ。それを事務所内とかJALに持っていって、この通り作りましたと報告しました。「何枚作ったんですか」と聞かれて「500枚作って海外に送っています」と。しかし、送る時はロゴをカットして送ったんですよ(笑)。そうしないと、みっともないわけですよね、海外では。当時としてはやっぱり、美術展というスタイルを確立させたかったんですね。そんなわけで、あちこちでそういうギクシャクした金集めの問題が生じて、理事長はもうこの辺でやめようということになったのです。10というのは止めるにはキリのいい数字だと。じゃあ取ってきた海外の美術館との約束はどうなるのかとたずねると、それは君が考え給えということになって、必死になってやったのが第11回のシアトル展でした。それはここに書いていませんけどね。なぜ書いていないかというと、これは第10回の記念展なんですよね。だから11回があったらおかしいわけです。

光山:これは国内展のカタログですね(注:『ジャパン・アート・フェスティバル:10周年記念展』国際芸術見本市協会、1977年)。

金澤:そうそう、これは高島屋でやった記念展の。

光山:それに併せて発行されたわけですね。

金澤:これも、受賞者と招待作家の作品をずーっと並べたんですね。

光山:第10回で記念展までおやりになったんですね。

金澤:これは、実は金集めのためだったんですよ。第11回目の年に入ってたんですよ。1977年でしたね、77年の8月。最初は東京の日本橋高島屋で。その後は京都市美術館で巡回展をやったんです。その時に特別招待として、何人かの有名人の作品も入れたんですね。これは作品提供をお願いに行った時に、売らせていただくかもしれませんのでよろしくという了解を求めて出してもらったんです。それはこのカタログに出ていないかもしれない。この展覧会は公募部門が中心ですからね。でも、著名作家の作品も扱ったんですよ。あの人の作品も。芸大教授で、シルクロードの絵を描いた。

加治屋:平山郁夫さん。

金澤:そうです、平山さん。彼の家も行ったし、加山又造さんの家にも出品依頼に行きましたね。ああいう有名作家の作品を展示して、とにかく売ってその利益をこの協会に入れて、赤字を補填しようと、売れそうな作家の所に随分お願いに歩いたもんですよ。もう亡くなった方や日本画の重鎮もいましたね。ところがそんな人には今まで私は縁がなかったもんですから、全員初対面です。

光山:日本画の方たちですね。

金澤:ええ。だけど、こっちは、美術評論家、国立美術館の館長クラスがずらっと並んでいるでしょう。だから向こうもそれなりの対応をしてくれて、大体皆さん承諾してくれました。

光山:なるほど。

金澤:これで大変助かりました。高島屋も喜びましたが、私たちも喜んで無事終了しました。しかし、第11回展を無視するわけにはいかず、これはちゃんとやりましょうということで、やりましたけれども、その時はもう、ここから先の協会の維持はできないなぁということが分かっていました。つまり補助金などは、通産省がジェトロを通して出す分が事業費の半額でしょう。それからもうひとつ出ていたのは、日本自転車振興会という所の補助金です。これももらっていたんですが、やはり事業費に対しての補助は半額なんですよね。だから、同じ事業を両方からもらうわけにはいかなくて。この事業はジェトロ、こっちは自転車という風に分けて計算していたんですよ。

光山:そうすると全体の事業費の半分をジェトロ、半分を日本自転車振興会。

金澤:競輪の所ですよね。

光山:そこがあと半分出してくれる、という風にはいかなかったんですか。

金澤:それは駄目。同一事業について、同時にふたつから補助金が出るっていうのはやらないですよ。だからこっちも申請するときは決算書を別々に作ってやっていたんですね。それが辛かったですね。

加治屋:この70年代半ばの時期は、芸術議員連盟というのは続いていて。

金澤:ありました。ありましたけれども、彼らは議会の中だけの活動でね。別に事務局をやるわけでもないんですよ。ただ毎月毎月、会員議員から会費は取っていますよ。だから着々と積み重なって、結構な資金を持っていましたね、議員連盟の方では。じゃ議員連盟がその金をこっちに流してくれるかっていうと、それはないんですよね。ただ、そこの先生たちがここの理事になっているので、その名前を使って活動するという、無形の援助はしたんです。実際に動いたのは本当に、藤井丙午さんだけでした。

光山:藤井さんは最後の11回まで、いろいろと動かれたんですか。

金澤:いや、途中で彼は参議院議員に立候補するため、会社を辞めて岐阜に行ったのです。その後を継いだのが、野呂恭一さんで、三重県出身の国会議員です。今はこの野呂さんの息子が三重の知事をやっていますね。

光山:ああ、そうですか。

金澤:野呂さん自身も絵を描く人で、人物も穏やかでいい人だったんですが、その後亡くなりましたね。それほど彼は動いたわけではありませんでしたが、協力的ではありました。結局こうして見ますと、資金集めに積極的に動いた人は、終わりの頃はもう誰もいなかったんですよね。だから事務局が動き回って、必死になって賛助金を集めたり。またいろいろ版画展だの陶芸展だのを企画して、その度にお金いただいて、活動を続けたのです。やっぱり、財政難から最終的に解散せざるを得なくなったというのが現状でしょうね。

光山:もし財政難というとことがクリアできれば、国内的にも国外的にもまだ活動が望まれていた。

金澤:ええ。10年以上の実績がありますし、蓄積されたノウハウを持っていますからね。それから、海外に人脈を作っていますよね。ですから、そういう意味では海外展の開発は、手持ちの材料でいくらでも作れたわけです。しかし中にはぶっつけ本番で開発した場所もあるんですよ。第8回のマンハイムです(Städtische Kunsthalle Mannheim)。これは本来はマンハイムじゃなくて、ルーマニアのブカレストだったのです。ブカレストに提案して、やりましょうということになって、最終的な打ち合わせに、私がブカレストに飛んだんですね。そして美術館と話していましたら、カタログを見て「あれ、これはちょっと反戦的なところがあるんじゃない?こちらはちょっと政治的な作品じゃない?」と、美術的よりむしろ政治的な発想でものを見たんですね。ソ連の影響下にあって、共産主義国家ですからね。例えば、死刑台が出てきたんですよね。誰だったかな、あの作品は。「こんなのはとても展示できませんね」と。「いや、私どもとしては、全部展示してもらわないと困ります」って。「こんな死刑台の作品なんていうのはお断りです」って。そうなると、もう駄目ですよね。直前になって断られ、どうしようかと思ったのですが、ドイツの方が理解されやすいだろうと思って、すぐドイツに飛んだんです。そして、マンハイム美術館に飛び込んで「お宅は日本の現代美術展に関心はありませんか」と切り出したのです。「ああ、いいですね。内容にもよるけども、それはいつの話?」って言うので、「今年の、4、5か月先の話なんですが」って答えると、「いや、また急だな」と言いながらもカタログを見て「いいでしょう、やりましょう」と言ってくれたのがマンハイムですよ。ここには、中原さんが行ったんですよね。

加治屋:中原佑介さんが。

金澤:ええ。誰かひとりは行くんですよね、協会から。審査員クラスの人が。事務局も行きますけどもね。

加治屋:それぞれの展示構成というのは、誰がやっているんですか。

金澤:美術館でやる時は、その美術館のキュレーターがやるんです。商業施設などの時は、こっちから行ってやるんですけどね。

加治屋:ああ、事務局から。

光山:すると、金澤さんということですね。

金澤:ええ。しかし美術館がやるにしても、横からいろいろアドヴァイスしたり、これはこっちの方はいいんじゃないのと助言したりすることはやりました。

光山:第11回が1976年10月のロサンゼルス、ブロードウェイ百貨店ということで。

金澤:第1回、第2回の時に(会場が)デパートの時があるでしょう。ここで苦い経験をしたんですよね。ブロードウェイもそうですけども。ニューオリンズのメゾン・ブランシュ百貨店もそうでした。

光山:2回か3回。

金澤:2回。これは私が行ったんですがね。全期間にいるわけにはいかないので、最初の1週間くらいで帰って来たんですよ。「終わったらこの箱の中に入れて送り返してくださいね」って言ったら「分かりました。ちゃんとやりますから、心配しないでください」って言われて、任せたんです。作品は後日返ってきたんですが、開けてみて驚きました。工芸展が多かったんですが、着物なんかは、パッとつかんでそのまま離すわけから(笑)、クシャクシャになって入っている。

光山:畳まなかったってことですか(笑)。

金澤:畳めないんですよ、彼らは。器なんかは、ちゃんと梱包材がありますから、それを使ってごちゃごちゃに入っていますけど。とにかく扱いがひどかったんですが、壊れていなかったのが救いでした。

光山:すごいお話ですね(笑)。

金澤:それでね、これはもう、工芸は気も遣うし、金も時間も使うし、とても面倒見きれないというのが正直なところなんですよ。それから伝統工芸については、中国に巡回したことがあるんですね。1973年の第8回JAFとしての伝統工芸展(「現代日本の伝統工芸展」民族文化宮[北京]ほか中国全4か所を巡回)。これは1972年の日中国交回復後、文化交流第一弾として持っていったんですよ。日本から何かいい物を出せないか、というのでスポーツは卓球とかダンスとかありましたけど、美術の方で何かないかというので行ったのがこれなんですよ。現代美術なんか持って行ったって理解されないので、やっぱり工芸品だろうというので全部文化庁のコレクションから借りて巡回したんです、4か所に。スタートが6月30日の北京で、終わるのが9月19日の上海なんです。4か所巡回するので、これはチームを作ったんですね。すぐ前の年には田中角栄と周恩来の劇的な握手があった年。それに続いて出したわけですから、一種のお祭りなんですね。だからここは盛大にいこうというのでミッションを作って、役員が全員行ったんですよ。10人以上顔を揃えましたね。展覧会をハンドリングをするのにもチームを作りました。文化庁の技官、主催者の協会、これは私ですけどね。取り扱い業者のヤマト運輸、展示責任者のデザイン会社の計4人が行って、メインのミッションとは別に行動したんですよ。このグループは残ったわけです、現場に。一番長い人は4か月残ったんですね。いや、3か月か。私は1か月半で帰ってきましたけどもね。最初の前半だけで。この4か所を回って国交直後の中国の生々しい現状を見て、大きなインパクトを受けましたね。彼らは戦後の日本人を見るのは初めてですよね。

光山・加治屋:ああ。

金澤:だから日本人だ、というので寄ってきて。こっちから見る彼らは皆同じ服装で、同じ顔付で、同じヘアスタイルで、同じ靴はいて。だけど向こうから見ると、こっちはバラバラで、上質の服を着ているし、何から何までレベルが違うわけ。1mくらいの側まで来て、上から下までこうやって見るんです。それでヒソヒソお互いに話ながら。我々は男ばっかりだったからいいけども、メインミッションの中に女性がひとりかふたりいたんですね。彼女たちはもっとひどかったですね。もう、触るようにしてやって来て見るんですね。

光山:動物園のようになってしまっているんですね(笑)。

金澤:そうです。もう珍獣を見るように(笑)。そんな時代があったんですよ。街の中は自転車だらけで、自動車はほとんど走っていなくて。走る自動車は我々の自動車だけで、車が走ると時々ある交通信号がみな青になるんですよ。次々に。たまたまその頃、厚生省から派遣された遺骨収集団が中国に来て、あちこちから遺骨を集めて、日本に持って帰るっていうときでした。代議士がひとりついて、厚生省の役人が10人くらいいましたかね。それが皆、胸に遺骨を抱いて列を作って飛行機に乗り込んでいくんですね。ところが遺骨がたくさんあって、持つ人の人数が足らないわけです。それで、我々が駆り出されて(笑)。一緒になってお骨を運んだんですね。そんな時代だったんです、1973年は。このとき、いろんなことがありましたよ。会場に残留孤児が訪れて「私は日本人なんです。私のお父さんとお母さんは日本に帰ったけど、探してもらえませんか」などということを現場で聞いたことがありました。この時は国交回復が本格的に始まった最初の段階ですから、貴重な体験をしたんです。
その時に、陶芸の専門家で出光美術館の顧問をしていた杉村勇造さんという有名人がいるんですがね。彼は元は国立奉天博物館の館員だったんですよ。それが瀋陽だったんですね。我々が瀋陽に行く時、彼もこの中に入っていたんですよ。「この瞬間を私は何十年待ちわびていたか」と彼は言っていました。そのとき泊まったのが満鉄が作ったヤマトホテルでした。そこの一番いい部屋に我々は通されて滞在したんですが、彼はすぐそこのバルコニーへ出て持ってきたお線香とロウソクを立てて、拝むんですよね。前の広場に向かって。前の広場に何があるかっていうと、毛沢東の巨大な銅像なんですよね(笑)。しかしそこのロータリーは戦時中、関東軍司令部とか大学病院とか銀行があった、日本人社会の中心的な場所でした。

光山:金澤さんにとっても、思い出深い満州の。

金澤:ええ、ただ私が生まれ育ったのは新京です。瀋陽はその手前なんですよ。滞在中に「新京に行きたいんだけど」と言ったんですがね。「あそこはまだ外国人に開放されていません」と。「あなた方はここに仕事で来ているだけで、自由にできるのはこのホテルの中だけです」って。ホテルから外に出てもいけません。出たい時には申請書を出してくださいと命じられました。あまり退屈な日々が続くので、一度「魚釣りに行きたい」と言ったら、「4、5日待ってください」と言われて4、5日待ちました。すると魚釣りのために、向こうが3台車を連ねて迎えに来て、連れていった所は、我々のために作ったお堀ですよ(笑)。

光山・加治屋:へぇ!

金澤:それに水をためて、大量の魚を放り込んで、ここでやってくださいって(笑)。こっちは川の畔に行って、のんびりやりたいだけなのに。こんな釣堀みたいな所で釣りしたっておもしろくないやと思ったんですが。しょうがない、与えられた釣竿でやったんですが、釣れないんですね(笑)。目の前で魚が飛びはねているのに。そうしたら、2時間ほどそれを見てたガイド役の中国人が「先生たち、ちょっと待ってくださいね」と言って、サブサブ水の中に入っていって(笑)。手でこんな大きな魚をつかんで帰ってきて、用意したバケツの中に入れました。「本日の収穫、おめでとうございます」なんて(笑)。「じゃあもう帰ろうか」ということでまた3台の車列で帰ってきました。それが唯一の外出だったんです。

光山:ちょっと、信じられないようなお話ですね(笑)。

金澤:昔の皇帝はこういうもんだったのかな、と(笑)。その時に入っていった道を見ましたら、つい2、3日前に作った感じの新しい道なんですね。

光山:大急ぎで作ったんですね。

金澤:あれはとんでもないことを頼んで申し訳ないことをしたなと思って、それ以後はもう何も言わないことにしたんです。
でもその時が日本の工芸品を扱った最後でしたね。これでもう、終わりにしようと。これはお国のためにやったんだと。私たちには収益も支出もありませんでした。事業費は国が特別に出しましたから。

光山:いろいろ思い出深いお話をありがとうございます。

金澤:それでジャパン・アートは1977年の7月から8月の高島屋と京都市美術館での展示をもって集結しました。5月が高島屋で、京都は確か8月だったと思いますね。

光山:日本橋高島屋が77年5月、京都市美術館が8月ですね。

金澤:そうでしょう。

光山:5日間ですね。8月2日から7日で。

金澤:まぁ1週間以内ですよね。それでもって終わりにしたんです。最後、事務所を畳んだ時、結構な物が残ったんですね。アルバムとか書類とかカタログとか。それの行き場所がなくて、今思っても残念に思うんですがね。書籍は重要なものは私が箱に入れて、10箱ぐらいになりました。その倍くらいのものがまだあったんですよ、10箱ぐらいの重要な美術関係の図書が。でも最終的に私は、その後私が移った原美術館に持って行って置いておきました。古い倉庫があったでしょ、本館に。あの中に入れていたの。ずっと開けないでいたんですがね。10年くらい経ってから開けたら、当時のものがぞろぞろと出てきましたが、そのうちのひとつがこういうものだったんですね。残りの半分くらいは、その時、今思っても残念に思うし腹が立つんですがね。当時、専務理事に就任していた桜井義晃いう印刷会社の社長がいるんですよ。廣済堂って銀座にある会社で、ゴルフをやったり図書出版やったりしているところです。この人が、兵隊上がりの教養のない人で、すぐ怒鳴りつけるタイプの人物ですが、中小企業からたたき上げた印刷会社を結構大きなところまで持っていったんですね。この人を呼びこんで専務理事にしたんですよ。それがいいようで悪かったんですね、結果は。確かに企業のトップで、経営に詳しいということで財務担当の責任者として入れたんですが、結果としてはなんにもしなかった。お金の一時立替もしないし、私が「すいませんが、これだけいるんですが」と言っても「それは君、自分で解決しろよ」なんて言われたり。最終的に私が貰うべき給料やボーナスなども協会運営のために立て替えて払っていたんですよね。退職金も全部。後日それを相談に行ったことがあるんですよ、そうしたら「そんな金は出せない」と。「もう、潰れたものは潰してしまえばいいんだ。勝手に立て替えたりしたこと自身が問題なんだから、君の問題だ」って言って。要するに彼は何もしなかった。だけど文句を言ったり、指示することだけは一人前で。だからもう、この人とは二度と会いたくないなということで、その後縁を切ったんですがね。

光山:立て替えられたお金は、その後どうされたんですか。

金澤:返ってこないですよ。

光山:金澤さんが個人負担なさったんですか。

金澤;そう、もう個人負担。最後は、給料も取らなかったし、ボーナスも返還したし、退職金も返還したしで、当時の金として5、600万くらいありましたね。それは最終的に10年楽しんだからと思って、諦めましたけどね。でも、在任中の終わりの頃に原美術館ができるということになったのです。これも偶然がきっかけになったのですが、ばったりと出会った代議士がいたんですよ。帝国ホテルで。僕も誰かに会うために行ったのですが、そうしたらそこにたまたまいたのがこの理事のひとりの代議士で、「おう、金澤くんじゃないか」と呼び止められたのです。「いや、いよいよジャパン・アートも終わりだね。ご苦労さんだったね」ということで挨拶したんですが、「そういえば今度、ある金持ちが自分の不動産を使って、法人を作って芸術関係に乗り出したいと言っている人がいるんだけど、ノウハウが分かんなくて困っているんだよ。協力してやってくれないか」というのです。それで「いいですよ、協力しましょう」と言って会ったのが、原美術館の原さんでした。会った場所が当時の大蔵省の真ん前でね。そこで名刺交換して話を聞いたら、彼は親父が亡くなって財産相続をするんだけど、7割以上税金で持って行かれるので、そんなバカげたことはしたくない。ついては政治家の先生に相談してみると、法人格を作ってそこに寄付をしてしまえば、そのトップとしてそれを管理することができて、税金が免除されると。だから何かしたいと思っているという話を聞いて。そして、国際間の人物交流で、パフォーミングアートかなにかやりたいと彼は言うんですね。派手な世界を望んでいるわけ。ダンサーとか歌手とか音楽会とか、そういう国際交流の団体を(笑)。私は「いや、私が呼ばれてここに来たのは、美術館建設の話だと思っていましたから、これから決めるんなら美術館にしたらどうですか」と切り出しました。「現在日本に一番足らないのは美術館だし、それも現代美術館だから、私はそちらをお勧めしたい」と。「美術館って大変だろう。あんな世界は金ばかり食って、評価されないし」と言うもんですから「じゃあ現物を見て、ご自分の眼で確かめてみたらどうですか。私がご案内しましょう」と言って連れて行ったのが、赤坂見附のサントリー美術館です。彼は「ああ、なるほど、ビルの中の1室を使って美術館ってできるもんだね。これは参考になった」と言っていました。そこで彼の頭の中にインプットされたのが、ビルの中のワンフロアというものなんですね。それから何か月か経って協会解散の時期が来たわけです。私はこの1977年の7月で国際芸術見本市協会がなくなるので、そこから先はもう自由になると言ったら、今度は原さんが「僕の所もまもなく本格的に動き出すから、相談相手になってくれないか」ということで、すっとスイッチしたんですね。私は「協力するのはいいけども、ここからは時間と労力を使ってやるので、給料をいただきたいんですが」と言ったら「それは考えておきます。今までの協会の給料と同額を払えるように手配しますから」と。じゃあ彼が同額払ったかというと、払ったのは紹介した代議士の事務所だったんですね。その辺がしっかりしているところです、彼は。その代議士事務所は「なんでうちが金澤さんの給料を払わなきゃいけないの」と言っていましたけどね(笑)。そこで、私のかけていた社会保険がぶっつり切れたんですよね。そこまで考えてくれないわけ。だから今になってそれが問題になりましたが、時すでに遅しです。

光山:その時なんですね。

金澤:ええ。だからもう、これはしょうがない。とにかくジャパン・アートっていうのは私にとって功罪相半ばするようなところがたくさんあるんですよ。

光山:個人負担が600万というのはすごいお話ですよね。これは初めて。

金澤:私はこれは女房には言っていない。とても言えたものじゃない。「あなた、なにやっているの」って言われそうで。絶対、バカにされますよね(笑)。

光山:ありがとうございます。最後にちょっと私、ここ(質問票)に入れてなかったんですが。私自身、原美術館の仕事をしていて、ジャパン・アート・フェスティバルというのは金澤さんからはたまにおうかがいしていたんですけれども、美術界からは忘れられていたような印象を持っているんですね。その印象が正しいかどうか、ということもございますけれども、もしそれが私の独りよがりでないとすれば、どうしてそういう風になったのか。これだけの活動を国内的にも国外的にもしていて、なぜそれが。

金澤:確かに。今になってみれば、ジャパン・アートなんていうことは誰も知りませんよ。若い人たちは。しかし60代から上の美術関係者は皆、知っています。

光山:でも私みたいに50代の人間も聞いたことがない、という人が多かったんですよね。

金澤:うん、これは一種のイベントなんですよね、公募展というのは。だから公募に応募して、それが終わるとさぁーっと皆忘れて。でも継続している限り、来年もまた出そうということになってくるわけでね。当時の空気としては、さっき言った3大コンペの中に入っていたんです。その中のシェルっていうのは、あんまりアテにならないんですよね。今シェルは復活したけれど、難易度は低いですよね。何度見に行っても、あんまり感心しないんですがね。しかし毎日現代展とこれは、審査員もだぶる人が多かったし、時代の最先端を行くという意味では、どっちも国際性を持っていたんですね。ですから毎日新聞社とはとても親しくつき合っていましたよ、そういうこともあって。ただ、アーティスト側から見れば、1回終わったものはもう忘れて次へと行くものです。ジャパン・アートが終わった77年からは、残ったのは毎日現代だけですから、そっちの方へシフトしていったんですね。でも今でも60~70代の日本の美術関係者にジャパン・アートの話を聞くと、たいていの人は覚えていますね。そして出したけど落ちたという人も結構いるんですよ(笑)。落ちた人はもう、話題にしたくないわけですよね。

光山:国内で知られている公募展として、どうしてもその場限りというイメージがあったかもしれませんけど、国外でこれだけまとめて日本の現代美術を紹介してきた、ということも見落とされてきましたね。

金澤:国外はね、同じ所に毎年行ったなら別ですけどね。毎回移るでしょ。だぶって行った所はメキシコですね。メキシコは3、4回行っていますね。ですから、メキシコの人はとってもジャパン・アートを知っていたし、日本に帰ってきてからも手紙とか人物の交流がありましたね。

光山:私が申し上げたのは国外での活動も、国内では。あの当時、日本の現代美術展を継続的に紹介していたのはジャパン・アート・フェスティバルだけなんですか。

金澤:KBSがときどきあったけど、途中でジャパンファウンデーション(国際交流基金)に変わったでしょう。

光山:でもKBSはもちろんそうですし、ジャパンファウンデーションも日本の現代ものはそんなにやっていなかったんです。

金澤:あんまりやっていなかったですね。

光山:非常に小規模にちょっとやるものがあったかもしれませんが。そういう意味ではこれは非常に、それこそ海外の一流の美術館でも展開しているときがありますし。

金澤:本当はこれが継続されてれば、本格的な美術交流の核になったと思います。

光山:そうですね。そこが日本の戦後美術の中で、ちょっとこう影になってしまっているっていう印象を私は受けていました。

金澤:それは最初の3年間、曖昧だった姿勢を針生さんが批判したことがあるんですよね。『美術手帖』かなにかに。ジャパン・アートは一体何を目指しているのかよく分からん、やっている展示物がいろいろあって、なんていうことを書いていました。私もそれがひっかかって、純粋な美術展に持って行こうとして、最終的にはそうなりましたけど。しかし、傍らでは版画展や工芸展を独立させて送ったり、そういうメインストリームではないところも、ひとつ生かしていたのは確かですよ。それをおもしろくなく思っていた人たちもいましたよね。

光山:ただそれは、ふたつ考えられますが。ひとつは金澤さんがお若い時から文化に包括的に関わっていらして、そうしたものを入れていくということに抵抗感もなく、むしろ積極的に捉えられていたという一面もあるんではないかと思うんですね。それと同時に、やっぱりお金の問題があって、それをせざるを得なかったという。書道とか。その両方と考えてよろしいですか。

金澤:そうですね。伝統部門を生かし続けたのは、伝統部門というのは必ず、人間の交流が生まれるというところが魅力だったんですね。つまり人物交流が現地でできるんですよ。というのは、派遣された人間だけでは仕事ができないわけですよ。生け花もそう、茶の湯もそうですし、書道もそうです。現地で材料を調達したり、人を使ったり、買い物に行ったりするわけでしょ。そうすると美術館員を通してやるわけですから、そこで交流が生まれて、日本人の芸術を目の前で知るし、使う道具を手にすることができるし。生け花なんか、美術館の庭に生えている草花を取ってきて「これは今、そこで取ってきたものです」なんていいながら挿していく。そういう交流がそこで生まれていくんですよね。それが向こうのジャーナリストの取材の中でも出ていましたね、よく。だから生け花のデモンストレーションは、花市場に花も買いに行きますけれども、山とか公園とか庭をハサミを持って歩いて、枝をどんどん切ってきて、それを生けていくんですが。生けるときに彼らは、通常は花器を置いて前からやりますけれど、お客さんは向こうから見ていますので、向こうに向けて裏から生けていくんですね。

加治屋:へぇ。

金澤:そんなことは、家元クラスしかできないんですね。日本じゃそんなことは誰もやりませんから。ですから、それを見ていて「ああ、すごい技術を持っているな」と。そうすると、そんなことに着目して質問が生まれてくるんですね。書道のデモンストレーションもそうでした。書作品はもう展示してあるわけですけども、書はどうやって生まれるかというのを目の前でやってみせるわけです。しかも使うのは、箒のようなでっかい筆でやるときもあるわけで。そうすると見せるだけじゃなくて「誰かやりたい人いる?」って言うと、さぁっと手を挙げて出てくる人が必ずいるんですね。しかし、残念なことに書くのは常に漢字でしょう。彼らは漢字を知らないわけですから。そこで書家は「あなたの好きなものを書いてごらん」。と言っても、絵を描くわけにもいかないので、自分のサインを書いた人もいますね。サインは誰でもできますから。それから丸、三角、四角を書いた人もいるし。そんなわけでそこに交流が生まれるわけです。この交流が私は展覧会の副産物として重要だなと思います。

光山:人物交流と、その場での交流ですね。

金澤:現代美術ではそれができませんのでね。作品だけの展示ですから。作家にそこで作れと言ったって作れませんしね、こうして、独特の団体の11年の歴史が終わるんです。私はこれは本当に生かしたかったなと思うんですよね。民間部門として。公的部門はジャパンファウンデーションというのがひとつありますが、こっちは民間で活躍する質の高い展覧会になっていったんです。本当に惜しいことをしたなと思うんですよ。

光山:11年間、金澤さんがジャパン・アート・フェスティバルで培われた経験、知識、人脈っていうのは原美術館で活かされているんですね。

金澤:ええ、それは活きましたね。今でも活きていますよ(笑)。やっぱり美術は一過性のものじゃなくて、人間が作ったものを人間が鑑賞してこれを評価するっていうところで成り立つ世界でしょう。ですから両方の人間がつながったときは、やっぱりこの世界は大事にしようという気持ちになるのですよね。だから、かつてやりとりした年賀状が今だに続いているんですよ。もう30年も顔を見ない人とも。僕は毎年500枚出しますよ。

加治屋:すごいですね(笑)。

光山:では、後半は原美術館のことから。どうもありがとうございました。

加治屋:ありがとうございました。

(昼食の後、再開)

光山:金澤さんは、原美術館の設立に深く関わられたわけなんですけれども、金澤さんとしてはどういうことを目的に。もちろん美術館としての目的は当然ございましたけど、金澤さんご自身としてはどういうことを強く考えていらしたんでしょうか。

金澤:原さんという方はたいへんな資産家で、広大な土地も持っています。そして国際交流や文化について何かやりたいという前提条件がひとつありましたので、私としてはこういう人材を美術の世界に引き込んで新しいものを開拓していきたいという気持ちが最初にありましたね。そのために美術館を勧め、最終的には現代美術館を目指そうということを、彼に提案したわけです。

光山:はい(笑)。

金澤:彼が白紙の状態だったのが良かったと思うんですがね。彼がいよいよ本腰を入れると言って、京橋の一番銀座寄りの所に設立事務所としてひとつ部屋を借りたんですね。ここを事務所として1、2年使いましょうと。私は今度はそっちの方に毎日通って準備を重ねたわけです。重ねると言ってもですね、まだどこで何をしようという具体的なことまでは決まっていなかったんですが。
その時に原さんが、さっき話したようなサントリー美術館の例を出して、ビルのワンフロアを借りてそこを美術館にしましょうと言い出したのです。私は「それもいいですが、話によると品川の方に大きな不動産をお持ちだと聞いています。そこは何もないんですか」と聞いたら「いや、古い洋館がひとつあって、今は誰もいない」と言うので、「それはひとつ、考えてみる価値があるんじゃないですか」と。そうしたら彼は「いや、あんなものを美術館にできるだろうか。私はもっと地の利のいい所で、近代ビルの中のワンフロアを作りたいと思っているんだけども」と言うので、「では、ちょっとそこを案内して見せてください」と。そして行ったのが78年の夏過ぎ、秋頃だったでしょうか。彼は今の原美術館へ私を連れて行って、「これは爺さんが作った物だけども、もう今やこんな前世紀の遺物みたいな物は邪魔だから取り壊そうと思って、この間一部機械を入れて壁を壊したんだ。ところがなかなか頑丈な作りで、壁の厚さがこんなにあるんだ」と言って、40㎝くらいの幅を示したんですね。「これを壊すだけでも金がかかって、どうしようもないんだ」と。そこで私が「ちょっと中を見せてください」と言って中に入って見せてもらいましたら、蜘蛛の巣の張ったひどい状態だったんです。「確かに荒れたお屋敷には違いないけど、ここを改装すれば立派な美術館になりますよ」と。「本当かね。こんなものが本当に美術館になるのかね」って言うので「なりますよ。建物だけでもなかなか風格があるじゃないですか。このスタイルはなんでしょうね」と訊ねました。そこで出てきたのが、アール・デコという言葉だったんですね。アール・デコ様式の洋館で、1937年の建設。これを設計したのが渡辺仁という建築家で、日本の建築史上非常に有名な人です。例えば上野の博物館(注:東京帝室博物館。現東京国立博物館本館。渡辺の原案をもとに宮内省内匠寮が実施にあたった)のコンペにも入賞したし、ほかに銀座4丁目の服部時計店、横浜のグランドホテル、日比谷の第一生命ビルなどです。つまり日本の代表的なビルはみな、渡辺仁の作品だということが後で分かったんですよ。そこで、ちょっと待てよ、それではこの建物を再検討しようかということになったんです。彼の頭がそこで少し切り替わったんで、今日の原美術館があるんですよ。あれは危ないところでした(笑)。私がひとまわり見た後、今の美術館の中庭に行ったときに、そこにドラム缶がひとつあって、中でゴミを燃やしていました。あそこはその当時草むらだったんですね。膝小僧くらいの枯草がずーっとあって、ドラム缶がひとつ。そのドラム缶の脇を見ると野ウサギが一匹いたんですね(笑)。茶色の野ウサギが、ビクっとしてこっちを見ているんですよ。東京都内に野ウサギがいるなんていうのはあり得ないことで、私はびっくりしたんですね(笑)。そろそろと近づいていったんですが、5メートルくらいまで近づいた時にパパッと逃げて行きました。脱兎の如く逃げて行ったんです(笑)。
それからしばらくして、二度目に行った時、今度は、下の方の池に白鳥が浮いていたんですよ。白鳥がいるっていうのも、現実離れしているなと思って、ここはとんでもない場所だなと思ったんです(笑)。今、大きな高層ビルが建っている所が全部森でしてね。その真ん中に一軒古い和風の家が建っていて、そこに彼のお母さんがひとりで住んでいたんですね。環境としては当時山手線の中のそこだけが別世界で、鬱蒼とした森の中の一軒家、そしてその脇に荒れた洋館といった状況でした。

光山:お母様のお宅は一軒家だったんですか。ユーゴスラビア大使館とか、あの並びは。

金澤:もっと森ビル(注:御殿山トラストシティ)の中心に近い所で、外から見えない場所でした。とにかく、この洋館を改装すれば美術館はできると。そして土地の代金を等価交換で美術作品に替えるということで財団法人を作りましょうと手続きが始まったわけですね。設立2年後にはすべての基本財産を揃えることが条件でしたから、タイムリミットは79年の12月だったんです。

光山:1979年12月の開館ですね。

金澤:それまでに美術館と作品を揃えることというので、その2年間我々がいろいろ動いたんですよ。まず建物を改装するということ。とにかく、格好を美術館らしくしなきゃいけない。

金澤:あれは2階建ての円弧形のビルなんですが、1階を内装して展示場にして、入ってすぐ左側の所に事務室をひとつ作って、それだけの美術館にしたんですよ。そして土日は休みで、ウィークデイだけの開館。開館準備中に、やっぱり現代美術に絞りましょうと、作品をぽつぽつと買い始めたんですね。その中の最初の作品が早川重章さんですよ。早川さんの作品は、「なんだこれは」っていう感じのハードエッジな作品でした。彼はその頃、住んでいたロスから帰って来たばっかりでした。

金澤:李さんのアトリエに買いに行った時は、原さんとふたりで行ったんですが、李さんも当時まだ売れなくて、やっと東京画廊でその前の年に個展を1回やったというだけでした。そのとき話題になっていたのが〈線より〉、それから〈点より〉というシリーズでした。彼の借りている木賃アパートに行って、ぎっしり詰まっている作品の中から、一枚一枚引っ張り出して、あの2点を選んだんです。150号くらいあるんじゃないかな。そうしたら原さんが「1点でいいんじゃないの、これは」って言うから「これはやっぱり2点でしょう。点と線というのが組み合わさって、おもしろさが増幅するんですからね」と。彼は「しょうがないなぁ」と言って購入を決めたのです。あれがもう、今では億単位ですってね。いやいや、びっくりしたんだけど。そして今ではあちこちで李さんの個展が行われるとき、あの作品を原美術館に借りに来るようになったんですね。
ある時、ニューヨークのサザビーズとかクリスティーズの、オークションにも行ったんですね。その時は79年に入っていましたね。そこで見たのがリキテンシュタイン(Roy Lichtenstein)とか、デュビュッフェ(Jean Dubuffet)。それからジャクソン・ポロック(Jackson Pollock)とかマーク・ロスコ(Mark Rothko)もその時に買ったんですよ。リキテンシュタインはレオ・キャステリ・ギャラリー(Leo Castelli Gallery)に行って買ったんですね。そうそうあの時は、いろいろな駆け引きをやってね。これ買うからそれもつけろとか。逆にこれを買ってくれたらあれもつけるとかね(笑)。それからオークションに行った時は、デュビュッフェの作品を落としたんですが、これは非常に緊迫する瞬間があったんですよ。あれはエスティメイトがいくらだったかもう忘れちゃったけども、それをはるかに超えたんですよ。そのビッドが始まる少し前から我々が中心部に座って、手を挙げていったわけですね。だんだん値段が上がっていくと少しずつ減ってきて、最終的に3、4人が残ったんですね。3人が会場で、ひとりが外部との電話ですよ。どんどん価格が上がっていって、「どうしますか原さん、これは予算オーバーになりますよ」と言ったら「ここまで来たら行くしかない。あれは良品だから仕留めていこうよ」って。彼はやっぱり、使う時は使うタイプの男なんですね。だから、「そこまで腹くくるんだったら、いきましょう」って。そうしたらライバルがだんだん少なくなっていって、とうとうふたりだけになったんですよ。電話の人とこっちだけ。だから会場がみな緊張してね。少し上げる度に、皆振り返ってこっちを見るわけです。あの日本人、何者だという顔をして(笑)。そして電話の方も、電話線の向こうからどんなレスポンスが来るかをみな固唾を飲んで見ているわけです。結局ふたりだけで上げていったんですね。最終的にまた向こうが上げてきた時に、原さんがすかさず上げ、それがとどめになって向こうが降りたんです。そうしたら会場からバーッと拍手が沸いて、控えていたマスコミが一斉に走ってきたのです。「あなた方はどこから来ましたか。コレクターですか、美術館ですか」って。私は返事しようと思ったんですが、原さんが「ここは無言でいきましょう」と。全く返事しないで、黙って出てきたんです。だけど、連中は気にしたですね。「あの日本人は一体何だ。初めてやって来てこんな高いエスティメイトをはるかに超すものを落としていった」と。

光山:当時日本の美術館で、現代美術をコレクションしている所はまだまだ少なかったと思うんですけど。どうでしょう、日本の当時の国公立の美術館が作品を買う時は、やはりオークションとか出るんですか。

金澤:直には行かない。ディーラーを通して。

光山:ああ、やはり。すると、非常に稀な例だったんですね。

金澤:そうです。美術館が落とすということは、ほとんどなかったですね。公立美術館は一応、目を通してこれにしようと決めるんですがね。その交渉は画商に頼む。画商が行ってアローアンスをひとつ決めて、その中で競争するわけです。普通、美術館っていうのは購入価格の適正値を厳しくチェックするんですけどもね。オークションに限っては、ある幅の中で落とそうということでやっていたようです。
飛行機は行きも帰りもエコノミーで行ったんですが、高級ホテルとして知られるウォルドルフ=アストリアホテルに泊まったんですよ。私はスイートルームに案内されたんですね。原さんは予約したとおりシングルなんだけど、なぜか私はスイートだった(笑)。それはたまたまシングルが空いてなかったからなんですよ。なんでこんなでかい部屋にと思ったんですが。そうしたらその前に泊まっていた人が、そこのスイートを使ってパーティをやったらしく、残ったドリンクを、全部置きっぱなしにして出て行っちゃったんですよ。僕は何も知らないで入って、ふとキャビネを開けたらボトルが20本くらいそこにあって。もう高級ブランデーからワインから。僕は滞在中はどんどん飲みましたが(笑)。たかが知れていますよね、いくら飲んでも。そんなこともありました。

光山:その時の収集方針というのは、はっきりございましたか。

金澤:いや、もう出たとこ勝負ですね。というのは、どんな売り物が出るか分かんないわけ。画廊から画廊を歩くんです。その時は、ちょうどできたばっかりのソーホー地区の有名ギャラリーをずーっと見て歩きました。

光山:美術館全体の収蔵計画っていうものは、ございましたか。

金澤:特に作らなかったですね。黙っていても、ディーラーなどからいろいろな話が入ってきましたが、それがどの程度のランクなのか、価値があるのかというのは適格に分からないのです。だから、全体の3分の2は内容を理解しながら買って、残りの3分の1は、例えばコワルスキー(Piotr Kowalski)とか、ドイツ人作家のクラーゼン(Peter Klasen)などの現代作家は不明でした。そんな風にして、どんどん広げていったんですね。レイノー(Jean-Pierre Raynaud)なんかは、原さんがパリに行った時に誰かに紹介されてね。

光山:81年が彼の展覧会でしたっけ(注:ジャン=ピエール・レイノー展、1981年7月1日-8月2日)。あれが原美術館で最初の国際展ですね。

金澤:そうね。そんなわけで原美術館っていうのが東京にできて、それが作品も集めるし企画展もやるという噂が業界に広まったわけね。日本の方は大した反響はないんだけども、むしろ外国の方が大きかったですね。

光山:それはおもしろいですね。

金澤:日本にも、とうとうこういう美術館ができた。ミスター・ハラというコレクターが美術館活動を始めたという。彼はコレクターとして名前が知られたんですよね。それはともかくとして、相続分の土地代金は全部美術作品に替えなきゃいけないという制約があるから、時間が決められているわけね。

光山:日本の現代美術館ができるということで、海外で話題になったとお聞きしましたけど。逆に言うと、どうして国内で話題にならなかったんでしょうか。

金澤:どうしてでしょうね……それを聞かれても。そのとき東京都内で現代美術志向の美術館として、西武美術館がその前の年にできたでしょう。だから同時期に出発したけど、彼らはコレクションを持っていないわけね。だからいい展覧会をやるんだけど、終わったらそれで終わり。だから、日本に来る外国人が日本の現代美術館を訪ねたいと言って来れるのは、原美術館だけになっちゃったわけね。そんなわけで我々としては、東京に生まれた最初の現代美術館ですよと言って頑張るんだけど、いかんせん規模が小さいからそれほどの反響は生まれてこないわけね。
私はいろいろなものをあの美術館に持ち込んだんだけど、そのひとつが夜に開館するというやつですよ。水曜の夜に開館していますね。それはスタートしたときからそうだったの。ニュージーランドでそれを学んだんですよね。彼らは水曜日の夜だけ開けているんですよ。これはビジネスマンのために開けるんだって、そこの館長は言っていましたね。昼間来れない人のために夜8時まで開けている。それを原美術館でやったわけです。

光山:当時、日本の美術館で夜間開館はございませんでしたか。

金澤:やっていなかった。

光山:じゃあ、初めての試みですね。

金澤:ええ。だいぶ後になってからBunkamuraとか、近美(東京国立近代美術館)とかが金曜日の夜、世田谷(美術館)もそうね。金曜日か土曜日の夜、延長して開けるようになったけども。

光山:今、世田谷はもしかしたらやっていないかもしれませんね。ちょっと、分かりませんけど。当時はやったようになったんでしょう。

金澤:それからワシントンのハーシュホーン美術館(Hirshhorn Museum)に行ったとき、そこの壁に「当館では次のことをしてください」と書いてあった。「次のことをしないでください」というのが普通なのにね。当館でしていいことって書いてあるの。おしゃべりすることとかなんとかっていっぱい書いて。そしてしちゃいけないことにバツがふたつくらいあったんですよね。写真も撮って構わないんだな。食べながら歩くとか、動物を連れてくるとか、いうのはやめてください、と。これはいいなと思って、原美術館に帰ってきてそれをやったんですよ。「当館では次のことをしてください」って。その中にいろいろと書いて、居眠りまで入れたら本当に居眠りした人がいて(笑)。これはマズいと思ったんだけど、止めるわけにいかないよね、もう。

光山:気持ちのいい空間ですからね。当時の選考委員の先生たちは、どういう方たちでしたか。

金澤:原美術館がコレクションの展示と、時たま入る企画展じゃなくて、継続した美術館の姿勢を見せるための展覧会を企画しようと編み出したのが「ハラ アニュアル」なんですよ。「ハラ アニュアル」は原美術館のポリシーやスタンスを見せるという意味であるんだけれど、作家選定においては館以外の人たちも参加してもらいましょうと呼んだのが、三木多聞さんや峯村(敏明)さんとかね。

光山:峯村先生はちょっと後だったような気がするんですけれども(注:1985年の第5回より)。

金澤:うん、ちょっと後だね。

光山:「ハラ アニュアル」の選考委員ということでしたら、第1回が80年の12月ですね。この当時、「ハラ アニュアル」のためにそういう評論家の先生にお願いしたんですか。

金澤:そうですよ、選考委員として。

光山:その時にいらした先生方っていうのはどなたでしょう。

金澤:5人くらいいたんですよね。あの時、評論家を中心にしたんだけれども。磯崎新さんや山口勝弘さんがいたかな。僕もその辺、うろ覚えになっちゃったね。評論家は東野さんや峯村さんや針生さんなど。やはり僕はあの辺が、ジャパン・アートの印象があったから、この人たちを据え付けておけば問題がないなと思って。

光山:久保貞次郎さんは。

金澤:いや、久保さんはあの頃は亡くなっていたかな、病気で。他に誰がいたかな。でも、4、5人だったんですよね。彼らに3人くらいずつ名前を出してもらって、必ずひとりは生かしたんですよ。またはふたりは。招待出品者は全部で大体10人か11人なんです。そのうちの3人くらいは、美術館側が選定して入れたんです。合計10名くらいにして鑑別したんですね。
それが10年続きましたね。「ハラ アニュアル」はやって良かったと思いますね。あれこそが原美術館の今の姿勢と将来を見せる、いい企画展になったと思いますよ。

光山:第1回は榎倉(康二)さんが出していますね。2回目は川俣(正)さん。

金澤:川俣は1回でしょ。

光山:1回でしたか。

金澤:1回は、いろんな人が入ったんですよね。この間、東近美のシンポジウムに出た彫刻家。

光山:戸谷(成雄)さん。

金澤:うん、戸谷くんもいた。

光山:戸谷さんは第2回。海老塚(耕一)さんもいらっしゃいますよね。

金澤:うん、いた。いたけども彼は3回か2回か忘れたな(注:第2回)。

光山:というのは私が、第3回から職員になっていたんです。その前はアルバイトとかボランティアで、ちょっとうろ覚えなんですけど。2回ぐらいははっきり覚えていて。では川俣さんは、あれは1回だったんですね。

金澤:1回でしょう。部屋の中をどんどん改造していくので、なにをするかと思ってヒヤヒヤして見た覚えがありますよ(笑)。

光山:第3回辺りは、東野先生が推してらした若い女性の作家たち。吉澤美香さんとか、かなりまた広がりを持った選考になったかと思うんですが。

金澤:その人たちが、その10年間に延べ人数にすると、100名くらいになるんですね。それが、今日の日本の現代美術界で活躍しています。そのうちの半分くらいは、最前線で動いていますね。美大などの先生もやっているし、おや、名前を聞いたことがあるなと思うと、大体「ハラ アニュアル」の出品者だったので、やっぱり順調に育っているなと思ったことがあります。

光山:その当時の日本の現代美術界の眼は。

金澤:僕はジャパン・アートの経験がそこで活きたんだけど、最初の3回くらいまでは世間から無視されていましたね。4回5回になってきてやっと世の中が注目し始めて、「今度、出したいんだけどどうしたらよろしいですか」とか、「募集の締め切りはいつですか」などという質問が来るようになってね。「これは公募じゃありません。こっちからの招待で出してもらうんです」って断ることが出てきましたね。

光山:他にも1981年に原美術館最初の国際展「ジャン=ピエール・レイノー展」などございますけど。それなんかはあまり注目というか、関心は持たれなかったということですか。

金澤:そう。それはそうですよ。あの頃の展覧会で、世の中の関心を呼んだなんていう展覧会はひとつもないんじゃないかな。というのはね、ヨーロッパやアメリカで知られていても、日本でそういう情報が伝わってきていないから。ただ原美術館は海外の作家を取り上げるユニークな美術館で、あそこに行けば世界の状況が分かるという程度の認識はありましたね。だから当時あそこでやった作家は、結構外国人が多かったですよね。光る玉を見せた、パリから来たポーランド人の。

光山:コワルスキー。

金澤:コワルスキー。コンピュータを使って不思議な作品を見せたし、レイノーもいたし。もうひとつ、日本人を取り上げるときには、あまり知られていない、手垢のついていないアーティストにしようということが原さんと僕との共通概念で、それに基づいて選んだ作家っていうのがいるんですよ。それが今井俊満や李禹煥などです。

光山:今井さんは、アンフォルメルでだいぶ名前が出ていたと思うんですけどね。

金澤:出ていたんだけど、美術館ではどこも個展をやっていなかったですよね。画廊が取り上げていることはあっても。だから今井さんはいいんじゃないかと。特にフランスのアラン・ジュフロワ(Alain Jouffroy)という詩人が文化担当官として日本にいましたね。彼が非常に今井さんを後押ししていました。我々もフランスといい関係を持ちたいというので、工藤哲巳などいろいろな人を取り上げました。

光山:国内である程度そのように評価されてきたということですけれども。国外は先程のお話ですと、ミスター・ハラがコレクターとして名前が出てきたっていうことで。海外評価も順調に。

金澤:ユネスコの団体で国際博物館会議(ICOM)という組織があるんですよね。頭文字を取って、ICOMというのですけど。その国際会議に日本からも出ないかと言って英語のうまい原さんに声がかかって。彼は喜んで参加したんですよね。以後、年次大会がある度に顔を出しているうちに、そこの美術部門を博物館から独立させるからそっちの方の役員になってくれと言われて、彼は国際美術界の中で日本人としては最も良く知られたアートプロフェッショナルになったわけですよ。

光山:原館長はある時点からMoMAのインターナショナル・カウンシルのメンバーにもなりましたね。

光山:原美術館は国際交流に力を入れていましたけれども、その頃ジャパン・アート・フェスティバルから10年くらい経っていると思うんですが。金澤さんは、80年代に入って日本の現代美術にどういうことが求められていたとお感じになりましたか。80年代の話で結構です。

金澤:80年代というのは美術館ブームと言われた時代で、あちこちで美術館が生まれたんですね。県に1館といって、公立美術館が生まれていった時代です。プロの学芸員があまり多くなかったんですよね。だから皆、手探り状態でスタートしたんです。だから展覧会自体が、あまりおもしろくなかったですね。国立国際美術館は大阪万博の年にできましたが、あれが国際美術館の性格を持っていましたから、わざわざ見に行きましたね。あそこはやはり優秀な学芸員を揃えていましたんで、共同でオーストラリアの現代美術展(「今日のオーストラリア美術」展)を1988年にやったことがあるんですよ。

光山:88年だったと思います。

金澤:北海道(立近代美術館)と原(ハラミュージアムアーク)と名古屋(市美術館)と国立国際。この4つの館から、ひとりずつ学芸員が選び出されて、一緒になってオーストラリア、シドニーやメルボルンを歩き回って作家を選定したことがあるんです。そうやって、大型館と言われた北海道立(近代)美術館、名古屋市美術館、国立国際美術館、そして東京地区では原美術館が公立館と肩を並べながら、大きな展覧会をまとめることができたんです。あの時代は、そういう意味では美術館はあっても内容が伴っていなかったというのが現実でしょうね。

光山:私の思い出が、金澤さんのものと一致するので申し上げたいんですが。私が文化庁の主催の研修に出していただいたのが、87年なんですね。87年、88年って2年間、夏に一週間ずつだったんですが。あの時に東京都から原美術館からは私、東京都美術館からは河合(晴生)さん、それから松濤(美術館)からおひとり。そのときに金澤さんがおっしゃったのが「原美術館が選ばれたか」と。国公立と同じに。そういう風におっしゃったことが、実は私はとても印象に残っていまして。今、おっしゃった展覧会レベルで国公立と一緒にやるようになったのが、1988年。そういう意味では大体87年、88年くらいが、原美術館が国内的に認知されたという風に受け取れます。

金澤:そうだね。全国都市で美術館会議っていうのがあるでしょ。全国美術館会議。それから読売新聞が主導している美連協(美術館連絡協議会)というのがもうひとつあって。美連協は公立美術館の集まりなんですね。今は150館ぐらい集まっているんですけど。当時はその半分もいなかったですからね。全国美術館会議は国公私立全部が入れる会議で、この中に原美術館は最初から入って、あちこちの会議に出ていたんだけど。でもこれは内容は親睦会みたいなもので、名刺交換してパーティに移ってと、内容はあまりなかったですね。もうひとつの方(美連協)がしっかりとした企画の話までしていく、本格的な美術館活動でしたね。
でも原さんは最近は全国美術館会議の方にも役員として入って、副会長かなんかやっていましたからね(注:2012年は理事)。対外的にも認められる存在までいったんだな、ということがよく分かりました。
原さんがもうひとつ考えたのが、品川の美術館だけではいろいろなオファーが来ても受け入れるだけの場所がないとして建てた1988年のハラミュージアムアーク建設ですね。これがこのときのカタログなんですがね。アークは外国からの企画展やなんかもやりましたけども、夏の間は子ども向けの企画展もやりましょうと言って、「アートは楽しい」展というのをやったんです。これは10回続きました。私が辞めた後もしばらく続いていたようです。これは素人が見ても分かるアートの楽しい部分を強調した展覧会なんですよ。やっぱり夏に来るお客さんは、なんか見たな、楽しかったなという印象を持って帰ってもらった方がいいということでやった覚えがあるんです。当時ここに出品した人たちが今、あちこちで活躍しているんですよ。

光山:こちらでもおやりになりましたよね。藤浩志さん。

金澤:ああ、そうね。藤浩志くん。先週展覧会を観に行ったの。出店(久夫)くんや能島(芳史)くん。広田緑さんもやっていたんですよ。利渉(重雄)くんも東京都美術館で今、やっていますね。

光山:金澤さんにとって「ハラ アニュアル」と「アートは楽しい」はどういう位置づけになっていたんですか。

金澤:「ハラ アニュアル」はやっぱり、ちょっと構えて。美術館のステイタスを高めるために格好つけていたところがありました(笑)。時代を切り開くパイオニア的精神で。こっち(「アートは楽しい」)はそうじゃない。こっちはアートの楽しい面。こういう面もありますよ、と家族向けのエンジョイアブルなプログラムで迫っていったというね。だから、ここに出していたババッチという人がいたでしょう。

光山:私は実は「アートは楽しい」には一度も関わらせていただいたことがないので(笑)。

金澤:ああ、そうだった? (笑)

光山:はい。「ハラ アニュアル」と。残念でした。

金澤:そうだったね。こっちは青野(和子。原美術館学芸員)さんだったね。ババッチって北海道のデザイナーで馬場さんっていう人なんだけど。この人がここに出したのをきっかけにして、彼は「アートは楽しい」というタイトルを使って、未だにやっているんですよ。20回目をこないだやったばっかり。しかも日本全国をまわって。去年は沖縄にまで行ってきたんだね。この時に仲間だった浅井(清貴)さんとか秋山(文生)さんを呼んで、一緒になってやっているの。その時、僕にエッセイを書いてくれというので書きました。「アートは楽しい」から生まれた、もうひとつのユーモア・アートの動きだなと思って。僕はアートは無視できない波及力を持っているなと思っているんですよ。(資料を指して)この人も2ケ月前に発表していました。

加治屋:尾崎(玄一郎)さんですね。

金澤:綿引(明浩)も。彼もあちこちでやっていますね、今。

光山:アークっていうおもしろい施設ができて、原美術館も活動の幅が広がって。開館記念展はMoMAから回ったジャスパー・ジョーンズ展(「ジャスパー・ジョーンズ:版画1960-1986」展、1988年5月29日-7月17日)で。ああいう海外の一流の美術館ともコラボレーションがしやすくなったと。スペースができてということもあったと思いますし、今おっしゃったような新しい普及的な内容のものも積極的に取り込むっていう、両面があったという風に考えてよろしいですね。活動の方向としては。

金澤:そうですね。あそこのネックは距離的に都心から遠いというところ。これはどうしようもない。

光山:磯崎(新)先生の建築でもありますから、建築を見に行くという人もいますね。いろいろと、金澤さんの思い出が詰まっている時代だと思います。今から振り返られて、金澤さんは一言で言えば原美術館で、どういうことで日本の現代美術館に貢献したかというような質問には、どういう風にお答えいただけますか。

金澤:全部については答えられませんけども、後になって気がつくことがいくつかあるんですね。そのひとつは、僕は日本の美術館を訪ねて学芸員たちと話したりしているときに、彼らの若い時、20年くらい前のまだ若造だった頃に、いろいろな勉強をするためにいろいろな美術館に顔を出して作品を見たりレクチャーを聞きに行ったりしているわけですよね。その時に、私と出会っている人が多いんですね。関西にも東京にも、いろいろな所で。こっちはそんなことは知らないわけです。名刺を出すと、「存じていますよ。かつて原美術館へ行ったときお会いしています」っていう挨拶を聞いてね。あの時代、原美術館の持っていた役割のひとつは、そういう若いプロフェッショナルたちの教育にあったかもしれないということなんですよ。彼らも情報を知りたいし、作品を見たいわけね。でも日本にはあまりそういう場はないので、現物を見に来るのは常設展示をやっている原美術館なんですよね。それでいろいろなものを知って大変勉強になりましたということを後から聞いて。原美にはそういう存在理由があったのかなと思ったことがありました。
それから、美術館が後からどんどん増えてくると、原美術館の存在感が薄れてくるんですね。そしてまたスケールの点においても小規模の美術館だということで存在感が薄れますが、もうひとつは企画の内容において少し存在感が薄れてきましたね。私は各地の美術関係者とは今でも密接な関係があるんですが、僕が原美術館出身だということをみんな知っているわけです。そうすると彼らは「最近、原美術館に行かないけど、あそこは何しているのかしら」という質問をするんですよね。そこで気がつくことは、今の企画はあまりおもしろくない。では金にゆとりのあった昔はおもしろかったのかというと、「ハラ アニュアル」というのはあんまり金をかけないでもできた展覧会なんですよ。あれはひとつの企画に約500万円ですよ、全部入れて。県立美術館がやっていたのはその10倍の予算でした。だから金がなければないなりに、いろいろできるんです。

光山:同時に「ハラ アニュアル」も90年で終わったんでしょうか。

金澤:うん。10回で終わりましたからね。

光山:あれを境に、あの頃ちょうど、他であったアニュアル展も終わってきますね。どちらが先かとかは別にしまして。あの頃、随分アニュアル展が。

金澤:「アート・ナウ」というのが神戸(兵庫県立近代美術館)でありましたね。あれがずっと続いて。

光山:「シガ・アニュアル」(滋賀県立近代美術館)とか、いろいろな所でアニュアル展が、いわば流行りだったと思うんですが。

金澤:アニュアルという言葉もね、彼らは「ハラ アニュアル」から取ったんだよね(笑)。アニュアル名を最初東野さんが提案した時、こんな名前でいいかなと思ったんだけど、案の定、アニマルって言われたりね。「ハラ・アニマル」って、何だそれはって(笑)。俺たちはアニマルじゃないだろって。「じゃあマニュアルですか」って言うから「マニュアルでもない」って。そうしたらしばらくしてから、アニュアルって言葉があちこちで使われ始めたのです。

光山:かなりいろいろな所でアニュアルがあって、ところがちょうど90年代初頭くらいに、そういうアニュアル展が消滅していったんじゃないかと思っているんですけど。

金澤:そう、もう今は聞かないね。

光山:なにか90年代に入って、美術界がまたひとつの別の時代に入った、という風に私は受け取ったのですけど。

金澤:つまり、アニュアルとかバイアニュアルって、ああいうものは定期的に繰り返していく性格のものでしょう。そうすると、やらなきゃならないっていうことが最初に出てくるから、内容はともかくとして、オープニングまでは皆やるわけですよね。すると内容が低下してくると皆は失望して、だんだん行かなくなってきます。美術館側も、客足が衰えたんだったら、やっている意味がないということになってきます。繰り返しのテーマ展というのは、危険性も同時に持っているということなんですね。つまりマンネリ化するということです。マンネリ化した企画はもう存在理由がないわけです。だから僕がジャパン・アートで得た貴重な教訓のひとつは、10回目で一応ピリオドを打つことだったのです。ああいう展覧会は、幕引きの時期を明快にしてスタートさせないといけないということですね。これは大きな教訓でした。だからその後もあちこちで同じような企画に呼ばれた時に、真っ先に言うのはそれなんですよ。「これ、いつまで続ける気ですか」と。「ずるずる続けて、止めどきを失って、みじめな終わり方した展覧会がひとつありますよ。それが毎日現代展だ」と。毎日展の関係者は5年以上も言っていたんです。いつやめようか、誰が引き受けてくれるか、どこに持って行こうかって。そしてそのまま繰り返して、ずるずるいって、結局、消滅したんです。だから僕は、5回か10回が限度だろうと言っているんです。

加治屋:「ハラ アニュアル」を止めようと判断なさったのは、金澤さんですか。

金澤:そうですね。「ハラ アニュアル」も10回やって。確か10回は確かあなた(光山)がエッセイ書いたんじゃない? しっかりしたエッセイを。

光山:9回です。10回は堀口(勝信)さん(注:キュレーターは金澤氏と堀口氏だが、エッセイは金澤氏のみ)。それで最後になりました。

金澤:あの動機はなんだったかな。10回っていう、キリのいい所で、いつまでもこれをやっていくわけにはいかないから、別のものに切り替えていこうっていうので発展的に止めたんですよね。「アートは楽しい」は会場が違いますけどね、これも10回だ。

加治屋:話が戻ってもよろしいでしょうか。先程、建物の話が出ましたが、個人の邸宅を改装して美術館にするというのは、非常に珍しい試みだったと思うんですね。日本では、ほとんどなかったんじゃないかと思うんですが。それは何かお考えになったこととか、参考にしたとかっていうのはあったんですか。

金澤:ええ、外国で著名な美術館だと言われて行ってみると、そこは昔の邸宅だったという例が結構ある。例えばミュンヘンのレンバッハハウス・ミュージアム(Städtische Galerie im Lenbachhaus)ってありますね。あれなんか素晴らしい美術館ですが、これもお屋敷跡なんですよね。そういうのがあちこちにあったもんですから、頭の中に美術館っていうのは建物じゃなくて内容なんだ、と。建物自身も建築美っていうのがあっていいんだけど、それは何も近代的なモダンなものじゃなくても美術館になり得るという気持ちはありましたね。ですから、原さんに勧めたのはそれだったんですよ。私がそういう経験がなければ、たぶん都心のビルのワンフロアを借りて、そこを原美術館にしちゃったでしょうね。美術館とは何かという発想そのものを、日本人はまだ持っていなかったということが言えると思うんですね。でも、最近あちこちでプライベート・ミュージアムっていうのができてきたでしょう。九州の熊本では農家を使って坂本善三美術館を開館したし、長野県の無言館っていう所もそうじゃない。あそこも美術館として作った建物じゃないでしょう。

光山:この間行ってきましたがコンクリートで、美術館として建ったと私は受け取ったんですが。

金澤:もうひとつなかった?

光山:デッサン館ですか。信濃デッサン館。

金澤:そうそう、信濃デッサン館。美術館は建物じゃないんだと。特徴的な別の建物でも、中で質の高い美術展は開催できるという気持ちが強くあって、最初見たときは非常にびっくりしたんですが、以後はそれもありなんだと理解したわけです。特に芸術文化の進んだ国でやっているわけですから、この方式は間違いないなと思ったんです。

加治屋:もう1点いいですか。国際交流の話が何度か出たと思うんですか。海外からキュレーターを呼ぶプログラムっていうのが確か、ありましたよね。あれはどういった経緯で作られたんでしょうか。

光山:原館長がインターナショナル・プログラムのようにして、海外から美術関係者を呼んで。

金澤:呼んだけども、短期間でしょう。

光山:ただ継続的に、ある程度。

金澤:例えば東京の美術状況を見てもらうために、原美術館が招待して、都内の美術界をいろいろ案内しましたね。バーバラ・ロンドン(Barbara London)とかそういう人たち。

光山:フォックス(Howard N. Fox )さんもそうですね。ハワード・フォックスもそういう人で。

金澤:うん。だから短時間でしたが、確かに連れ歩いて見せたってことはありしたが、トレーニングするために数カ月間、館中に入れたっていうものじゃないですよね。

光山:ただ私はトレーニングに出してもらったんですね。ウォーカー(Walker Art Center)に。ですから、今、どうでしょうね、金澤さん。私は91年の12月までなので、その後のインターナショナルのプログラムは分からないんですが。

金澤:その後ないね。あなたが行ったのはもう例外的な。だって合川通子さんは自費で1年間イタリアに行ったでしょう。でも彼女はまた原美術館に戻りたいと言って帰ってきましたね。

光山:内田洋子(原美術館学芸員)さんはニューヨークに行っていませんか。

金澤:ちょっと行っていましたね。

加治屋:じゃあ原からも行ったし、海外の方も。海外から受け入れたのは、バーバラ・ロンドンとハワード・フォックスと。

光山:ちょっと調べないと分かりません。

金澤:そんなに多くないんですよね。確かに何人かは呼んで、美術館が面倒を見たということはありましたね。

光山:当時やっぱり、日本の現代美術に興味が高まっていたということが背景にあると思います。

金澤:つまりその人たちが、原美術館にとって必ず役に立つだろうという先行投資なんですよね。だから、まったく無縁の人を呼ぶということじゃなくて、関係者を呼んだわけです。

加治屋:それで実際に「プライマル・スピリット」展(1990年)みたいに共催という形で、展覧会が行われたこともあったということですね。

光山:そうですね。私が原館長から聞いているのは、やはり日本への理解を深めるためにそういうプログラムを積極的にやっていきたいと聞いておりました。

金澤:それは、大いにやってもらいたかったんですがね。つまり、人間との関係が美術界では一番大事なんですね。国際交流の場では、物も大事ですけども、最初に人間が動かなかったら何にも動かないわけで。特に海外ではキュレーターの力は日本よりも強いですからね。キュレーターが金集めまでするわけですから。人、金、物、企画まで全部やるでしょう。外国ではキュレーターを味方につけるっていうのが、どれほど大きなベネフィットになるか分かんないってところがありますね。ですから、もっとやってもらいたかったね、本当言うと。美術館の中に一室用意して、そこを彼らの事務室にして。

光山:そういう意味では、実際にはお金と人手がなかなか難しかったと思いますね。金澤さんが1993年に原美術館を退かれて、次に教育の方にもキャリアを広げていらっしゃるんですが、美術館にいらして、日本の美術館制度の問題点というものは、どういう風にお考えになっていますか。

金澤:たくさんあるんですけどね。最も気になったのは、キュレーターの意識が低いというとことですね。現代美術の特徴のひとつとして、国際性というのがあるんです。つまり、ローカル性だけを追求するんじゃなくて。ローカルのアートは国際社会でどう生きるかっていうのも重要なんです。国際社会ってものに入っていって、こんな世界もあるのかというところで見聞を広めて、自分の美術館に戻っての交流を拡大していくことです。そういう意味では国際的な見識とか、視野が狭いということ、そしてその延長で語学力が弱いということ。これが一番痛感したことのひとつですね。

光山:それは現代でもそういう風にお考えですか。

金澤:今でもそうです。それからもうひとつは、日本のキュレーターのポジションが低いということです。よく言われる雑芸員って言葉があるようにね。何から何まで自分でやるっていうことは何かっていうと、本当の雑用なんですよね。これは人集め、金集め、それから宣伝などすべてに関わっていくという雑用じゃないんですよね。そして美術館内での決定権がなく、いつも会議の中で物事が決まって、その担当者となるだけのことなんですよね。
日本は会議社会と言われていて、会議会議の連続ですけども、私は実は好きじゃないんですね。あれは責任を分散するんですよね。誰が責任者であるかをあいまいにさせるひとつの仕掛けであって、そこで決まっちゃうと皆が決めたということになって。安心しちゃうわけです。だからそれが失敗に終わっても誰も責任を取らない。うやむやのうちになくなって、責任者の存在を消していってしまうんですね。ところが外国は誰が担当者かが判明したらその人が全部責任を取るんですよ。その人に文句を言えばいいし、その人にクレームをつけてもいいし。とにかく、ターゲットがひとつ決まっているわけですよ。ところが日本はそれがなくてですね、展覧会のカタログを見ても、この展覧会はどの学芸員が担当したかというのさえ書いていないですよ。奥付を見ると、そこに本当にさりげなく、ちらっと書いてある場合もあるし、書いていない場合もあるんですね。ですから、そういう風に曖昧にしていって、それは組織の問題だということにしてしまうんですね。美術館という組織の問題。だから美術館が責任を持ちますよ、というんだったらそれでもいいんです。しかし、美術館長が前面に出てきて何かきちっと始末をつけるかというと、そういうことは絶対にしませんね。ですから、そういう意味ではキュレーターという日本の制度改革につながる話ですけど、本当の意味の美術館の機能というのがまだ定着していないなという気がしますね。

光山:今度、教壇に立たれて主に現代美術とアート・マネジメントについて教えていらしたんですね。その時にも、そういうことをお話なさって。

金澤:ええ。一番のテーマは現代美術論でしたね。その他に、文化施設論という、主に美術館のことや、アート・マネジメント。それから民俗芸術論というのもやったな。博物館学、これは学芸員の資格を取るためのもので固い話ばっかりだったんですけども。しかし、これらの中で力を入れたのは民俗芸術論と現代美術論ですね。このふたつについては一生懸命話したんですが。
現代美術論は1年を通じて、共通のテーマを作ったんですよ。「アートって何だろう」、これがテーマでした。「アートって何だろう」って質問されて、「アートってこういうもんです」って一言で言えたら、授業はそこで終わり(笑)。だけどアートってそれを言えないから、アートが難しいんですよね。だから、「これもアートじゃない?」という反語みたいな例をいっぱい出したんです。アートじゃない例は、例えばさっきから出てくる民芸ですね。あと、デザインがありますね。工芸とデザインはまず外しましょうと。これはアートじゃありませんよ、ということから。他に似たようなものがたくさん出てくるんですけども、これは似ているけれどもアートじゃない。じゃあ、なんと言ったらいいかと言うと、それはサブカルチャーと呼ぶんじゃないか、と。これはアートの感覚やセンスやクリエイティビティというものも要求されるけども、アートとはまるで違った世界ですよ、というところを話していくんですね。そうするとだんだん、アートとは何かという本質に少しずつ近づいていくんじゃないかと思ったのです。ちょっと回りくどいやり方ですけど、そうやって話していく中で積極的に話したのはサブカルチャーでした。日本はサブカルチャー大国ですし、これはやっぱり重要で、美大を卒業したらそっちの方に入って行く人も多いのも確かですから。作品の価値とかマーケットなども、アートとは違ったところに存在するんだという話をずっとしたわけなんです。

光山:今の若い方たち、20代の方たちは、金澤さんから見て、どういう風に映られますか。昔と違いますか。昔、美術を志した人たちと大きく違うところはございますか。

金澤:彼らが一昔前と大きく違っているのは、目的意識が薄いってことですね。自分は何が好きなのか、何をやろうとしているのか、何を目標としているのか、というモチベーションがないっていうか、それが非常に薄い連中がなんとなく入ってきた社会。それは漫画の延長かもしれないし、劇画かもしれないけども、とにかく本当の意味でのアートの追求という意識が非常に薄いということですね。だからそれに対する自発的な研究行為というのがほとんどないですよ。僕は非常勤講師で共立女子大に行っていたんですがね、これはご存知のように神田の一ツ橋にあるんですよね。そのすぐ裏が東近美ですよ。だから授業で聞いたんですよ。60人か70人いる大きな教室だったんですがね。そこの窓から見える「近代美術館に行ったことある人、この中で何人いる?」って聞いたら、手を挙げたのが3人です。70人の中のたった3人。

光山:それはどういう授業だったんですか。

金澤:現代美術論です。僕はもうびっくりして、これでは駄目だと。「それじゃあ僕が話そうとしていることが君たちには全然分かってもらえないから、まずは見てもらおうじゃないか」と。見たら、見たということを出席票の裏に書けと。いつ近美に行って、何を見たかって。それだけでいいから。それによって学年末の評価のところで点数を1点あげましょうと。「10回行けば、10点追加されるから大きいよ」と言って。そうしたらそれから皆、行き出したんですね(笑)。ブリヂストンに行きました、近美に行きました、上野の美術館に行きましたとか。中には郷土資料館に行きました、なんて(笑)。これはちょっと違うよと。公立美術館に行ってらっしゃいと、自発的に歩かせたんです。そうしたらかなり動いて、レポートに書かせると、それなりのことをちゃんと書いてくるわけ。実物を見ることによって、まずショックを受け、発見があって、驚きにつながって、それが文章になって表れてくるっていうわけです。やっぱり心の中でひとつ波紋が生じないと出てこないわけだよね。物事の価値はすべて言葉によって成立するんだから、言葉を使いましょうと。言語で発言するのも良し、文章で書くのも良し、無言が一番いけないんだということを彼女たちに教えたのです。そしたらやっと女の子たちが外へ行くようになったんですよ。つまりやっぱり先生というのは、どこかで後押しをしないと。手取り足取りで1から10まで教えても、これには限界があるのでね。背中を押してやれば、彼女たちは動くんだなぁと思いましたね。

光山:教えられていたベースは京都ですか、京都の成安造形大学ですか。

金澤:そうです。

光山:関西と関東で違いますか。教育の風土とか。

金澤:いや、同じですね。これは笑い話だけども、一度私は授業で京都市美術館に学生を連れて行ったことがあるんですよね。「さあ君たち、ここから先は自分で見て、またここに午後3時に集まってください」と言って1時間半くらい会場に放り投げるわけです。そして集合場所に私が先に行って待っていると、学生たちがパラパラ戻って来たんだけど、するとその中のひとりがトイレか何かに行きたかったんでしょう、僕に向かって「店長!」って呼びかけたんです(笑)。「俺はいつから店長だ」って思わず言ってしまいました。つまり、そういう子たちはバイトに行っているでしょう。居酒屋などに。そうすると目上の男の人にものを言う時にそのような言葉で呼びかけるので、ついそう風になったんですよね。あれは笑っちゃった。「君、それはバイトのやり過ぎだろう」って。
でもそういう風にね、こっちが動機づけをして、馬を水辺に連れて行くようなもんですよね。そこまでは連れて行くことができるわけ。でも水を飲むのは馬ですからね。口を開けて、入れるわけにはいかない。ここから先は君たちがやってくれよと言って。そこまではやらなきゃいけないなと。昔の学生は自発的にやったと思うんですよ。当時は言われなくたってやったはずですが、今は無理もないと思うんです。現在ではその気さえあれば、全員大学に入れる時代になったでしょ。僕の年代には3割くらいだったですね。それもふるいにかけられて入るわけですから。相当その気にならなければ、自分の望む方向へ行けなかった時代ですよね。

光山:また時間があれば、ちょっと戻って聞きたいところもあるように感じているんですが。もうひとつ金澤さんの大事なご活動として、評論家としてのご活動がございますね。国内では主に、どういうことをなさっていらしたんでしょうか。

金澤:国内では、基本的には僕はキュレーターでずっときていた経験から、ものを見る目っていうのを養いましたね。それはジャパン・アートの10年間が大きかったと思います。僕は審査の会場にいつもいて、先生たちが選ぶ作品はどんなものかということに注目していたんですね。最初のうちはよく分からなかったんですが、5年目くらいから、これいいなと思うものは大体入選、これはすばらしいと思うものは入賞と当たるようになってきたのです。それで自信を持って、美術作品の見方やものの優劣のつけ方というものを現場で学んだんですよね。
これは今でもつながっているんだけど。審査員として時々呼ばれて行きますけど、A、B、Cの三つの作品が並んだ時に、Aが良くてB、Cがそれに劣るという判断をする時は、これいいんじゃない、というのでは駄目なんだよね。他の人たちを説得できない。これがなぜ良いか、というのを言葉にしなければいけない。こっちがなぜ劣るかっていうのも、やはり言葉で言わなければならない。そうすると、価値判断とか評価っていうのは、常に言葉とセットになってつながっているというのを学習したわけですから、それを今でもモットーにしているんですよ。物事を明快に表現する場合には、他人に分かるような言葉で、どうしてこれが良く、どうしてこっちが駄目かっていうことを表現する。言葉が価値を生むということでね。そういうことで、評論活動を続けるようにしているんです。時々、失敗することもありますけどもね。言った言葉は取り消せないですから、それで自分を追い詰める結果にもなるんだけども。
なぜそれを意識するようになったかというと、ひとりの人物を反面教師として学んだことなんですよ。その人物というのは、もう今は言ってもいいと思うけど、嘉門安雄さんですよ。嘉門さんは決して、これが良くてあれが駄目ということは言わない人だったんです。「これはいいですね、でもこっちも悪くないし。でも良く見ると、やっぱりこっちの方が良いかな」とそういうことばっかり。要するに何を言っているか分かんないわけ。あれも良いけど、これも良い。これでは敵も作らないけど、味方も作らないわけね。だからそういう曖昧な表現というのは、私は避けようと思ったの。アートっていうのは、曖昧に言ったらいくらでも言えるの。だけど、それをやったら差別化ができない。特に選考するときに。時にはほとんど優劣つけがたい作品が2点残って、どっちにしようかと迷うことがあるんですよね。迷う時に、言葉にしてみるんです。こっちはなぜ良いか、あっちはなぜ良いか。良い所をずっと並べていったときに、初めてそこで見えてくるものがあるんですよね。自分なりの言葉を通して見えてくるものがある。するとやはりこっちだ、という結論がその後に出てくるんですよね。ですから私は、言葉というものをとても意識するようになった、というのが評論活動の背景にありますね。
日本の評論家は、引用が多すぎるんですよね。引用だけで自分の論理を成り立たせようとする人がいるんだけども、引用が多いと自分のスタンディング・ポイントが見えてこなくなるんですね。曖昧になってくるわけ。「あんた、どこに立って物を言っているの」って聞きたくなるわけ。常に他人の意見を流用するから。私はこれはやっぱり控えようと思ったのです。引用するなら、ひとつかふたつですよね。そうじゃないと、自分の意見がそこに見えてこないから。

光山:美術評論家とキュレーターの違いは、日本だと曖昧な例が多いと思うんですけど、どういう風にお考えですか。

金澤:それもいい質問ですね。キュレーターっていうのは、先頭に立って走る人のことなんですよ。アーティストが一番先なんですよね。アーティストが最初に火をつけて燃やして、その煙を見て駆けつけるのが評論家とかジャーナリストなんですがね。しかしキュレーターは、作家の先を行くことができるんですよね。作家をリードすることができるんです。「こういう企画をやるから君、どうだ」とか。世の中はこういう方向に行っているんだけど、君はどうかね、といって流れに誘い込んできたり。方向を示したり、時代を指し示したり、サジェストしたりするというのがキュレーターだと思うんですよね。しかし評論家は出来上がったものを追っかけてきて、四方八方から批評していく人間ですよね。だから、何もないところに評論家は存在しないわけ。そこの違いがあると思う。だから評論っていうのは後追いですよ。キュレーターは伴走者か先導者かそっちの方ね。抽象的な言い方だけども。

光山:金澤さんが教壇に立たれる時っていうのは、キュレーターとクリティックとしての経験を総合して、教育者としてお立ちになるっていうことですか。

金澤:そうね、どっちかというと私はキュレーターの立場で考えてきたつもりです。というのは、キュレーターというのは時代を作っていくことができるから。先頭を走るからね。でも、後から追っかけて行く評論というのも重要です。それが良かったかどうかっていうことをコメントして、記録に残していくという作業は評論家の活動ですから。それも大事ですよね。真ん中に作家を置いて、前と後ろを伴走する。先導者と後追いの記録者は両方とも重要だと思いますね。

光山:海外でもいろいろと活動してらっしゃいますね。第20回サンパウロ・ビエンナーレの国際審査員(1989年)、第24回リュブリアーナ国際版画ビエンナーレのコミッショナー(1999年)、第4回台北国際版画ビエンナーレの国際審査員(1991年)、第1回アジア・太平洋トリエンナーレのコミッショナー(1993年)というふうに。すいません、まだ書けばいろいろとあるんですけれども。それは日本を出て海外に行っての活動になりますけど、そういう時にどういうことを念頭に置いていらっしゃいますか。

金澤:それも、今しゃべったこととほとんど同じなんですよ。つまり言葉が重要だってことです。サンパウロ・ビエンナーレの審査員をやった時に、国際審査員が5、6名集まって真っ先に話したのはここから我々は何語を使うかっていう言葉を選んだんですよね。それぞれの人が3か国語くらいしゃべるんですよ。どの言葉が共通するかっていうことをそこで決めるわけ。その時にいた5人くらいの審査員の中で、4人くらいの共通語がスペイン語だったんですね。ところがアメリカから来た人がスペイン語ができなかったので、しょうがない、じゃあ皆で英語しゃべろうかって英語を通したんですよ。
先月行った第1回マカオ国際版画トリエンナーレ(国際審査員、2012年)では、やはり審査員が5人いたんですが、4人が中国系なんですよ。国籍は別として。私だけが日本人で、彼らは全員が中国語をしゃべるんですよ。最初に何語でしゃべるかを決めれば良かったのに、決めないままにスタートしちゃったわけ。だから連中は中国語でやり取りして、私だけ蚊帳の外ですよ。時々「ちょっと、今何を話しているの」って英訳を頼んで、それで追いついて行くんですがね。でも彼らは中国語でしゃべっていても結論が出ないわけ。ああでもない、こうでもないって中国人特有の話術で話すんだけど。僕が「今しゃべっているテーマは何?」って聞いたら、全体をまず何人に絞ろうかという数字だっていう(笑)。出品者が100人くらいいて、入賞者は4人なんですよ。そうしたら、ひとりが「全体をまず10人くらいに絞ろう」って。そこで私は「それは駄目だ」と。「そんな絞り方は間違いが生じやすい。まず30人に絞ろう。そこから次に移ろう」と。彼ら同士がしばらく話しているうちに、じゃあそうしようってことになったの(笑)。そして30人を選んだら、今度は次に何人選ぼうかって。そうしたら「もう、いきなり4人でいいだろう、我々はプロフェッショナルだから」って言い出したんですよね。僕はそれを英訳してもらって、「それも早すぎる。もう1回、それを半分に減らそう」と言って15人にしたんです。そうしたら他の連中も「じゃあそうしよう」と同意してくれ、それでだんだん減らしていったのです。最終的に煮詰まった形で受賞者4名を選んで、そのうちのひとりをグランプリにしたの。ここでやるべきことは、基本的にはそういうことなんですよね。ポイントさえ押さえておけばできることなんですが、中国人たちはおしゃべり好きで、言葉がつながるもんだからエンドレスの討論が始まったわけなのです。

光山:国際審査の場合は、やはりお国柄というか、そういうものが非常に大きく出て。そういう意味では、金澤さんのこれまでの国際経験というのが非常に役に立っていらっしゃいますね。

金澤:そうですね。国際審査員になるってことは、最低でも外国語をふたつ使えなきゃ駄目だってことですよね。そうじゃないと、彼らと同列に並んでディスカッションができなくなる。

光山:そのふたつっていうのは、英語とあとは。

金澤:なんでもいいですよ。

光山:それは母国語でもいい。母国語以外に2か国語ということですか。

金澤:そうね。母国語が英語の人は問題ないものね(笑)。英語はまず、共通語としては不可欠ですよね。その他にドイツ語、フランス語、スペイン語、その辺ですよね、通常は。スペイン語は重要ですよ。スペイン語を話せる人は、結構多いですよ。それからポルトガル語も多いよね。これはブラジルの影響だろうと思うんだけども。ブラジルのサンパウロ・ビエンナーレが果たした役割っていうのは、とっても大きかったですね。

光山:そういう国際審査の場で、国際的な美術社会の力関係というのを、実際にはアメリカ、英国、ヨーロッパ諸国の美術界での強さっていうものは、切実にお感じになりますか。

金澤:うん、そうですね。リードしている国というのは確かにありますね。僕はそれを突き詰めればドイツとアメリカじゃないかと思うんですよね。彼らの力は国際美術界において非常に強いものがありますね。

光山:ドイツはちょっと意外でした。

加治屋:そうですね。

金澤:ドイツ人のコンサルタントやキュレーターは、非常に活躍していますよね。スイスも含めてね。あの辺はもう。

光山:中欧ということですか。

金澤:そうね、あの辺のドイツ語圏ですよね。

光山:英国は。

金澤:そりゃ英国もいるけども、アメリカ、ドイツよりは僕は影が薄いと思うね。

光山:フランスはどうでしょう、今。

金澤:フランスもやりますけど、それほどでもない。だから国際審査員を選ぶ時には、どこの国でもアメリカは必ず入れますよね。それからヨーロッパっていうとドイツ、フランス。イギリスも含めて、どっかヨーロッパからひとりってことになるわけで。そうすると僕はドイツの可能性が非常に高いな、と思うんですね。ドイツ語っていうのは、ドイツから上の国は皆しゃべれるんですね。オランダからデンマークからね。スウェーデンから。あの辺は皆、ドイツ語圏。北ヨーロッパにおけるドイツ語の影響力というのは、すごいものがありますね。いきなりドイツ語でしゃべっても、皆すらすらっと返してきますよ。ドイツ語の影響力は大きいと思います。

光山:近年、世界で力をつけている中国とか、その辺りの存在感はいかがですか。

金澤:今、中国が台頭してきて、侮れない力を持つようになりましたね。ただ中国については、ふたつの意見があって。あの経済力をもって現代美術作品の売り買いをしたり、作家を育てていく力っていうのはすごいんですけど、表現世界がまだ限られていますね。それは駄目、これはよしという風に。国内では発表できないものもあります。だから彼らは海外に行くんですね。そこがやっぱり、文化に対して重石になっているなと思うんですよ。しかし、中国人の能力というのは鋭いものがあって、まず人口13億の数字というのは、侮れないものがあります。日本の10倍ですからね。国土は25、6倍あるでしょう。だからある意味で国力の差、財力の差、それをサポートする市民側層というのも今や国際レベルに追いついてきましたから。私はマカオでそれを見てびっくりしましたよ。中国人が急速に獲得した自信ですね。中華民族であるということの自信。これには相当なものがありますね。日本人は割と穏やかで謙虚な国民で、力があってもあまりそれを見せないんですが、彼らはたとえ力がなくてもそれを見せようとするところがありますね。そういう意味で、国際社会における押し出しの仕方が日本人とは格段に違うと思いました。

光山:著作活動については、ご自分の中ではどういう風に位置づけられていらっしゃるんですか。

金澤:いろいろやろうとは思ってはいるんですけど、時間のゆとりがなかったもんだから、まとまったものは書いていないんですね。しかし、その時その時でアーティストが自分のカタログのために文章を書いてくれとか、雑誌社からなんとかのテーマで書いてくれとか、いろいろな注文が入るので、そっちの方に時間を取られて、自分の文章が書けなかったの。辛うじて、とりあえず書き出したのが、さっきの『ありなれ』に書いた2万字なんですね。これからもっと、やっていこうと思っています。

光山:あるいは、今までのものを何かにまとめられるっていうご計画は。

金澤:それもあります。全部、綴じてありますから。その中からピックアップして、合冊してひとつ出そうかなとも考えております。

光山:そうですか、楽しみにしています。では一応、最後の私からの質問として。長年のキャリアを通された上で、これからの日本の現代美術、あるいは現代美術界には何が求められているとお考えでしょうか。あるいは、ご自身の今後のお仕事への抱負でも結構なんですが。

金澤:そもそも美術というものは、人間が作り上げたクリエイティブな作業の中で、最もレベルの高いもののひとつだろうと思うんですね。あらゆるものの中で、最も人の魂につながっていける表現活動じゃないかと思っているんです。それに対する束縛があってはいけないと思うので、自由な競争をどんどん進めるために、芸術家を育成していくことが行政側には必要じゃないかと思いますね。具体的に言うと、教育施設を充実させるとか、美術館を充実させる。それから芸術家の国際交流を促進するといったものがありますが、それは今もやっているし、今後も続けていくことでしょう。
ただ美術に大事なのは、クオリティという概念がありまして、誰でも何か作ってそれでいいというものではないので。そこのところは、評論活動で押さえていく必要があると思います。しかし今の日本の評論界というのは痩せ衰えて、本当の意味の評論活動は低下してしまいましたね。私はこれをもっと促進しなくてはいけないなと思っています、あらゆる意味で。

光山:金澤さんが今、おっしゃったような本当の意味での評論活動というのは、具体的にはどういうことでしょう。あるいは、どういう点が今の日本の美術界で駄目になってきているんでしょうか。

金澤:ひとつの例なんですけど、かつてアートが市民社会に浸透していないっていう評価があったんですね。もっと多くの人が芸術に触れるチャンスを作って、市民社会に浸透させるようにしなきゃいけないというのが数年前の目標だったと思いますね。いま見るとそれがかなり進んできて、いろいろな所で美術祭とか美術展とか、野外芸術祭っていうのが行われているんですが、それは皆、芸術家主導型なんですね。アーティストが思い立って、空いている空間、または公園とか森の中で野外展示をする。お金は地方自治体も協力して少し出してくれるっていので、民間ベースの市民芸術運動っていうのが非常に盛んになってきた。そこで気がつくことが、それらはアーティストが主導的に動いていますから、集めてくるアーティストは友だちなんですね。だから、そのクオリティに入っていかないわけです。そこで見られるものは、非常にレベルが低いものが多いのですね。プロかセミプロか素人か、分からないようなものが混在している。これは由々しき問題だなと思っています。これが社会的な発展と呼べるのかなと。これは芸術的な視点から見ると、堕落ではないかとすら思えるんですね。今年もあちこちの美術展に行ってきたんですよ。5、6か所行ったかな。はるばる川越に行ったり、青梅に行ったり、千葉に行ったり、茨城に行ったり。いろいろな所にせっせと行って、地域社会での芸術家の活動を見てきたんです。こうしたイベントを提唱して動いているアーティストは一応ちゃんとしたアーティストなんですが、その他大勢の仲間たちというのは、もうこれはとんでもないレベルです。ある所ではとうとう「来年からはキュレーターを入れようと思っているんです」と言ってきたんです。「え、それじゃ、ここにはキュレーターがいないの」と聞いたら、「いません」って(笑)。それは自主的にやっていることなんですが、そういうのを美術展と呼んでいいのか。そういうことがありますね。
社会に浸透していくアートとは、日本の場合、野外の誰でも見れる所でやっていくんですね。お金を出して作品を自分のものにして家に掛けるっていう、そういう展開じゃないんですよね。外国の場合はコレクターがだんだん増えて、アートが浸透していったっていう内側からの勢いがあるんですけど、日本はそうじゃない。金のかからない、誰でもが使える空間で、とりあえずものを展示して何とかフェスティバルと銘打って、地域の活性化という名目で自治体からお金をもらうという、それだけの話ですよ。展覧会の会場で「キュレーターを入れようと思っているんです」と言われ、私にやってくれと言ってきたんですよ。とんでもないってお断りしてきたんですがね。これはやっぱり問題がありますね。ちょっと方向性を間違えたような気がします。基本的にはコレクター不在の美術展開ですが、これは、やっぱり考えなきゃいけないことですね。自分で金を出してものを買うという所からスタートしてもらいたいなとつくづく思ったんです。

光山:もうひとつ、しめくくりの質問です。金澤さんのアイデンティティと、美術に関わることの接点、ないしはご自分のアイデンティティと美術っていうのは、どういう風に関わっているんでしょうか。

金澤:まずアイデンティティという言葉は日本では使われないんですよね。日本語になりにくい言葉ですよね。ですから、そのまま使っていますね。アイデンティティの意味を知らない日本人は、たくさんいるわけです。なぜなら、日本ではアイデンティティが要求されないからなんですよね。ここで「あんたは美術に関わっているんだったら、自分のアイデンティティをどこに置くのか」と言われると、私はもう、ありのままの自分でいくしかないなと。私のものの判断や、生き方はこうなんです、というのは生き方を見てもらうしかないわけです。これですと言って見せるものは何にもないわけですよね(笑)。というのは、ここはアイデンティティを要求されないから、独自の文化を表明する必要がないわけ。文化面ではみな同じですよね。文化というのもふたつあって、広い意味での同時代の共通意識を文化とも呼ぶし、もうひとつはクリエイティブな文学や美術のことも文化と呼びますけど。日本に住む私の場合は、広い意味での文化、共通の意識世界は、解説不要の社会じゃないかと思うんですよ。ニューヨークにいるのと違うわけで、単一民族と同時代の意識っていうのは、90%は同じだと思うんですよね。例えば、葬式の時にお香典を持って行くのを、誰もが不思議には思わないでしょう。しかし、ニューヨークでそれをやったら、なんだこいつは、ということになりますよね(笑)。こういう共通の生活意識が問われることはないわけですから、アイデンティティについて言葉で説明することは日本では非常に難しいですよね。僕は海外に行ったら、着いた翌日から自分のアイデンティティをそこで見せますけれどもね。

光山:その時はどういうものを。

金澤:私はまず、自分は日本人ですよと。日本人だけど、外国語を三つ四つはしゃべりますよと。だから日本についてなんでも聞いてくださいと。あなた方に、日本人らしい所を見せましょうという(笑)。まず日本というところの根っこを私は示しますね。
向こうも、根っこが見えている方がいいんですね。例えば外国に行って「宗教は何ですか」と聞かれて「無宗教です」と応えたら、その瞬間からその人は霊的な意味で宙ぶらりんの存在だという風に見られてしまいますね。つまり、精神の着地点のない人間だと。物事の判断の基準というか。それが例えばイスラム教だろうが何だろうが構わないんですよ。宗教的感性を持ち合わせない人間というのは尊敬されないですよね。かつて誰かに言われたことがあるんですよね。外国に行って宗教を信じていないなんてことは、間違っても言わん方がいいと。「I’m Buddhist」、それでいいんだよ。ブッダの教えは何だ、禅とどう違うんだと聞かれたら解釈はいかようにもあるわけだから、そこから先は別の問題だということで。そんなわけで、現象にとらわれずに、その人の内面世界というものをきっちりとどこかに根をおろしているということを証言していけば、それがアイデンティティにつながるなと思いますね。

光山:最後に、金澤さんから何か。

金澤:僕はもう、しゃべるだけしゃべったからいいんだけど(笑)。ここの質問に書いてある「日本の現代美術界に求められるもの」、これは問題が大きすぎて、言ったところであんまり意味がないと思うけど。さっきもう言っちゃったような気がするけど、ただひとつあるとすれば、日本に文化省を作ってもらいたいということですね。

加治屋:庁ではなくて。

金澤:ええ、文化省。そしてまず文化大臣というものを置く。つまり制度上、文化をサポートするっていう形を作ってもらいたいと思う。そうすると文化省の中で、局がたくさん出てくるはずですよ。そうすると、省庁になるわけですからね。それなりの入れ物とか予算とか、担当者がついてくるでしょう。日本は組織社会ですから、組織を作るとそこから動きが活発になってくるんですよ。

光山:そういう意味では今、逆の方向に行っていると考えているわけですね。

金澤:今は文化庁は辛うじて残っていますけど、一度文化庁を文化局に縮小するって話があったんですよ。それはいくらなんでもね。どんな小さい国でも文化省はあるのに。ブラジルでも文化省はあるんですよ。それが日本が文化局ではみっともないって、振り出しに戻ったんですけどね。
これだけ芸術文化が盛んになった日本ですから、文化省というものを真面目に考える必要があります。省庁の縮小化を10年くらい前の内閣が実施した時代がありましたが、その時にこの話が出たんですよ。今はもう減らすだけ減らしたんですから、文化というものをもっと目に見える形で組織化して、文化大臣というものをひとり、外からでも構わないから連れてきて、外国と対等に話せるようなものにしてもらいたいなと思います。これがしめくくりの言葉ですね。

光山・加治屋:どうもありがとうございました。