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* 本インタヴューはクリヨウジアーカイブと合同で行い、久里洋二の著作権を管理する久里実験漫画工房が映像・音声・書き起こし等の記録を管理しています。日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴは久里実験漫画工房から、「引用を含む2次使用、3次使用を禁止する」という注記を冒頭に掲示する条件でインタヴューの書き起こしを当ウェブサイトで公開します。
 

クリヨウジ(久里洋二)オーラル・ヒストリー
2023年2月8日

東京都千代田区、クリヨウジアトリエにて
インタヴュアー:足立元(オンライン参加:阪本裕文、鏑木あづさ)
インビュー・アシスト:栗原由行(子息)・吉野ナオコ(久里実験漫画工房アシスタント)
書き起こし:吉野ナオコ
公開日:2023年4月3日
 

クリヨウジ(久里洋二)(1928年〜)
アニメーション作家、漫画家

福井県鯖江町に生まれる。1950年上京。1958年『久里洋二漫画集』で文藝春秋漫画賞を受賞、久里実験漫画工房を設立、「若い日本の会」に参加。1960年柳原良平、真鍋博と共に「アニメーション三人の会」を主宰。1964年(あるいは1965年)から82年までテレビ番組「11PM」に出演しながらエンディングのアニメーションを担当。2016年『クレージーマンガ』の刊行を機に、漢字の久里洋二からカタカナのクリヨウジに表記を改める。

足立:今日は2023年の2月8日の13時10分になります。これからクリヨウジ先生のオーラル・ヒストリー・インタビューをさせていただきたいと思います。
今日は特に1956年から1970年頃にかけてのお話をお伺いしたいと思います。

クリ:いつ頃?

栗原:昭和30年くらいです。

クリ:昭和30年っていったら、アニメーションを始めたばっかりだよ。

足立:その1956年に久里先生は雑誌の『音楽の友』に寄稿されてますよね。
その経緯を教えていただけないでしょうか(注:とみおか鉄瓶・文、久里洋二・え「演奏会場めぐり 神奈川県立音楽堂の巻」『音楽の友』1956年7月)。

クリ:編集者が頼みに来たんだよ、原稿を。そうそう。あの頃はみんな注文に来たんだよ。音楽の友社は原稿料が安いんだよ。それでも一応描いてた。何やったかは覚えてないよ。あのね、『音楽の友』の編集長が俺の友達だったの。それでやったんだ。原稿料もすごく安かったね。タダみたいな値段。

足立:わかりました。もう一つ、とても興味深いことがあって。雑誌『労働運動』にも寄稿されてますよね。漫画を描いてらっしゃいますよね。

クリ:『労働運動』って入ってたな。みんな忘れちゃった。

足立:では、次の質問をさせてください。1958年の「若い日本の会」との関わりについて教えてください(注:安保条約改正に反対した文化人の集まり。江藤淳、石原慎太郎、浅利慶太、大江健三郎、谷川俊太郎、ペギー葉山、久里洋二などが参加)。

栗原:「若い日本の会」って御存じですよね。

クリ:あれは……

足立:(写真を出して)これは谷川俊太郎さんです。

クリ:あ、こいつの詩で(後にアニメーション映画を)作ったんだよ。

足立:(写真を出して)武満徹です。

クリ:これ入ってたな。

足立:(写真を出して)羽仁進さんです。

クリ:俺、羽仁進とは仲良かった。

足立:どのようなお付き合いだったんですか。

栗原:羽仁進さんとどんな感じのお付き合いから始まったんですか。

クリ:なんとなく、なんとなくよ。なんか作りたいって言ってた。アニメーションやりたいって。

栗原:あ、アニメーションやりたいって言ってたんですね。

足立:ああ。

クリ:この人は映像関係がやりたかった、アニメーション。それで一緒にやった。

栗原:そうなんですね。

クリ:まだ生きてる。

吉野:クリさんと同い年ですよ。

栗原:あ、1928年。同じ年だって。

クリ:あ?

栗原:同じ年だって。同じ年齢ですって。

クリ:そうそう。

栗原:仲良かったんだね。

クリ:仲良い。これは映像が好きだったの。アニメが好きだったの。

足立:クリさんも羽仁進さんの映像は関心があったんですか?

クリ:彼も映像に凝ってたから。映像っていったってあの、16mmのカメラで撮影してた。あんまり深い関係じゃなかった。いい加減な感じだ。

栗原:でも友達だったんだよね。

クリ:そう。

栗原:それは武満先生もそうだよね? 武満先生は音楽とか。

クリ:この人はうるさかったな、音楽に凝ってたから。この人は草月で音楽やってた。
作曲したやつをアニメーションにしたいからって、音楽をもらったの。

栗原:現代音楽なんですよね。

クリ:それなのに深い関係じゃなかった。俺、音楽関係とあまり深い繋がり持ってなかった。

栗原:でも、結構お世話になったんですよね。

クリ:あれは変人だったから。武満さんの友達で誰だったっけ、もうひとりいたの。

足立:(写真を出して)秋山邦晴さんでしょうか?

クリ:この人は世話焼きだった。

栗原:ああ、世話焼きだったそうです。

クリ:この人が紹介してくれた。うん。死んだ? この人。

足立:そうですね。

クリ:僕はこの連中との繋がりはあんまり持ってなかった。

足立:初めてその音楽関係の方とお会いしたのは?

クリ:みんな草月会館の関係で。全部草月会館で知り合った。

足立:その前に「若い日本の会」で(現代音楽関係の方々と)お知り合いになる方が、草月で会うより少し先ですよね?

クリ:「若い日本の会」。あれはあんまり良くなかった。

足立:そうなんですか。

栗原:というと?

クリ:やっぱ草月があったから。深い繋がりない。

足立:ああ。そもそも……

クリ:「若い日本の会」はあまり力がなかった。

足立:確かにそうかもしれません。どうして若い日本の会にクリ先生はお入りになったんですか?

クリ:みんな入ってたから。20代はみんな入ってた。

栗原:まあ誘われたんでしょうね。

クリ:なんかね、集まって何かやろうって連中が入ってた。深い関係はない。

足立:例えば、(写真を出して)石原慎太郎とか浅利慶太といった方が中心になっていました。

クリ:これ誰?

栗原:石原慎太郎。浅利慶太さん。浅利慶太さんです。もうその会の中に中心になっていた。

クリ:この連中とは会ってなかった。

足立:この方は? (写真を出して)江藤淳さん。文芸評論家の。

クリ:これ誰?

栗原:江藤淳さん。文芸評論家の。

クリ:この連中は会ってなかった。派が違ってた。

足立:あと、(写真を出して)こちらは林光さんです。音楽家の。

クリ:「みんなのうた」を一緒にやったことがある。

足立:その頃は確かにそうですね。あの、この方も「若い日本の会」に関わっていたのではなかったですか。

クリ:NHKの仕事してたの。

足立:そうですね。あとこの方、(写真を出して)大江健三郎さんも「若い日本の会」に関わっていました。

クリ:これ誰? あまり付き合いしてなかった。

栗原:その頃は「若い日本の会」にみんないた人です。

クリ:でも肌…… あまり話があってなかった。

足立:女優の宮城まり子さんはどうでした?

クリ:この人は「みんなのうた」で仕事一緒だった。

栗原:「みんなのうた」で一緒だった。

クリ:うん、いた。

栗原:でも、「若い日本の会」に入ってたんだ。

クリ:いた。覚えてない。もう疲れた。やめてよ。人の顔なんていちいち憶えてないよ。

足立:そうですよね。

クリ:そんな深い付き合いしてない。

阪本:「若い日本の会」って集まりとしては、みんなが集まる、ゆるい感じの集まりだったんですかね?

足立:「若い日本の会」って一堂に集まることってあったんですか?

クリ:あんまりなかった。今でいう10チャンネル(朝日テレビ、現在のテレビ朝日)が一生懸命だった。10チャンネルで一緒に仕事しようっていう、テレビ番組作ってた。10チャンネル。
他のテレビ局はあんまり関心なかったみたい。

足立:「半常識の眼」という番組がありましたよね(注:1959年、久里洋二らにアニメーションを制作させた)。

クリ:ああ、あったな。なんかやった俺。

足立:(写真を出して)名取洋之助さんがディレクターというのか、企画をされていたそうなんですが。

クリ:覚えてない。

足立:「半常識の眼」の集まりで、最初のアニメーションを作ることになったと思うんですけれど。

クリ:そうよ。アニメーション作った。あれはコマ撮りじゃないんだ。流しカメラで、ボタン持って、アニメーションじゃない。

栗原:動画撮影?

クリ:一回に3コマずつか4コマずつ撮った。

足立:ほうほう。

クリ:だからアニメーションじゃない。アニメーション的な力がなかった。

栗原:一応コマ撮りで撮ったのね? コマ撮りね? 3コマ、3コマ。

クリ:コマ撮り出来なかった。

栗原:あ、コマ撮り出来なかった。

クリ:そういう機械がなかった。まだアニメーショの機械がないのよ。ない、だからアニメーションの(動画は出来たんだけど、コマ撮りは出来なかった)。

足立:はい。(写真を出して)その時に写真家の杵島隆さんという方と一緒に制作したそうですが……

クリ:あ、これと一緒に撮った。動画じゃなしに流しカメラ。ボタン押すとワーっと流れる。一コマ撮りが出来なかった。この人と一緒にアニメーション、アニメーションじゃない撮影してたの。それ覚えてる。

足立:どうしてこの杵島隆さんとは知り合ったんでしょうか。1958年に杵島隆さんがヌード写真で話題になってました(「ヌード撮影者杵島隆の決定的瞬間は見られていた」『週刊新潮』1958年9月22日)。いきなりこの方の、そのアトリエというのかな、この杵島さんのお家で機材を借りたというような記事を読みましたが……

クリ:この人生きてるの?

足立:この方はもう多分亡くなっています。

栗原:杵島さんから機材とか借りたことありますかって。

クリ:まだ8mmの、コマ撮りの機械がない。

足立:うん。そうですね。

クリ:僕はボレックスを持ってたから。カメラ。だからカメラは今でも持ってる。コマ撮り出来ない。チャーって。

栗原:あの、ゼンマイ式のカメラだよね。

クリ:そう。

栗原:そう、ゼンマイ式の。

クリ:それを持ってた。あれは30万で買った。

栗原:で、昔杵島さんのスタジオで、全部撮影したことを覚えてますか。

クリ:スタジオがあったのかな。どっか、神奈川の家に行ったことは覚えてるね。よく覚えてないわ。そんな昔のこと…… 覚えてないよもう。みんな忘れちゃってるよ。

栗原:まあしょうがないか。

クリ:今だって明日の事を忘れちゃうのに。30年前、50年前のこと覚えてるはずあるか。字引きみたいに書いてあるわけじゃないんだから。

足立:はい。アニメーション制作をする直前の話なんですけれど。

クリ:うちにアニメーションの機械もなかった。

栗原:当時はね。

足立:そうですよね。

栗原:58年っていうと、うちの姉がちょうど生まれた時なんですよね。

クリ:コマ撮りの機械がない。撮影できなかった。

足立:ちょうど文藝春秋漫画賞を受賞されましたよね。

栗原:そうです。あの、昭和33年の時に……

クリ:あれ、なんでもらったのかわからない。

足立:ちょうどその時か、ちょっと前だったか、展覧会もありましたし……

栗原:その前にも銀座で展覧会もやったよね?

クリ:覚えてないって。みんな忘れちゃったよもう。頭、難しいよもう。

足立:すみません。えっと、じゃあ質問を変えますが……

クリ:そんな昔のこと聞いたって無理だよもう。

栗原:あ、じゃあちょっとお休みにします。

クリ:(ジョン・ケージと一柳慧の写真を見て)これ誰? これ。

足立:これはジョン・ケージですね。

クリ:これ日本に来たの? これ草月で会った。

足立:そうですよね。一柳さんとの関わり、最初の関わりというのは。

クリ:何か作ったな。何作った?

吉野:『やぶにらみのコンサート』(久里洋二・画、一柳慧・音楽『やぶにらみのコンサート』(ソノシート付き)私家版、1966年)。

栗原:これを作ったの覚えてます?

足立:これの出版に至るまでの経緯を教えていただけませんか。一柳さんの音楽が先だったのか、それともクリ先生の絵が先だったのか。

クリ:俺から作ったの。

足立:絵を描いた時に一柳さんの音楽を意識されてたんですか?

クリ:一柳さんってのは、何回聞いてもわけわからない音楽だった。

足立:わからない音楽。

クリ:一柳さんとか、あの連中とは草月があったからやれたの。あの連中、武満徹もみんな草月。草月(アート・センター)が企画して、奈良(義巳)さんは死んじゃったけど、で作った。だから、草月があの頃の一番重要な集まりの場所だった。

足立:なるほど。

クリ:全部ね、草月が全部やってくれた。あの頃の音楽。だから、団体には入ってなかった。

足立:昔、63年に書いたお言葉で、「私がなぜ一枚の漫画から、アニメーション映画の方に気転したかといえば、それは、音の魅力です」(久里洋二「音楽とアニメーション」『レコード芸術』1963年8月)と仰っています。

栗原:アニメーションを作る時に、音楽からそういうアイディアが生まれてきたのですか?

クリ:あの頃、音楽が先だな。

足立:音楽が先。

吉野:さっき久里さんが一柳さんの音楽がわけわからないと言ってたんですけど、それが好きだったのか聞きたいです。

クリ:あれは変わってるからね。

栗原:現代音楽だけど、すごいアニメーションの世界に合ってると思うんですよ。

吉野:アニメになると思っていたのか。

クリ:俺ね、変な音楽が好きだったの。アニメーションにしたかった。あれは音楽じゃないからね。変な音ばっかりやってたから。

足立:どうして、その……

クリ:あれ(一柳)も変人だよ。俺はああいうのが好きだったから。武満さんより一柳さんの方が面白かったね。

足立:武満さんの方が。なるほど。

クリ:武満さんは気取ってた。

栗原:多分。人柄の話だと思います。

阪本:秋山邦晴さんはどうですか?

クリ:ああ。秋山さんはね、面白い人だった。あの、俺の言う通り音楽を作ってくれた。

栗原:凄い優しい方だね。音楽作ってくれたんだ。

クリ:あの人とは気が合ってね、いっぱい作ってくれたよ音を。だから音楽家としては秋山さんが一番明るかった。

栗原:じゃあ楽しかったんだね。

クリ:楽しい。あの人は良い人よ。

足立:例えば、ギャラとか音楽家への報酬みたいなものはあったんですか?

クリ:秋山さんはね、草月で録音してた。徹夜して。で朝起きて、近所の一膳飯屋で飯食って終わり。お金なんて払ったことない。あの人は本当に金のことは言ったことないよ。ただ、朝、草月の終わりに、一膳飯屋でご飯食って「ありがとう」「ご苦労さま」だった。そういう人よあの人は。

栗原:すごいサービスの良い方ですね。

クリ:みんな音楽家は金ないからね。でも秋山さんは、もっと金なかったんじゃない。

足立:みんなタダで音楽を作ってくれたんですね。

クリ:みんなタダよ。

足立:ほお。

栗原:うん。ボランティアみたいな感じね。

クリ:お礼なんてしたことない。

阪本:当時アニメーション三人の会は、草月がプロデュースして制作費とか出してたのですか?

クリ:草月の奈良さんってのが好きでね、タダでやってた。

栗原:あ、タダなの。

クリ:草月もね……

足立:草月もお金がなかった?

クリ:そう、金がない。

阪本:へえ。

クリ:良い人。みんな良い人。

栗原:じゃあ当時はお金なしで、タダでみんなやったんですね。

クリ:みんな金がない。

足立:なるほど。

クリ:金なんか払ったことない。

足立:ああ。逆にもらったこともないわけですか?

クリ:もらったこともない。

足立:そうなんですか。

クリ:朝ね、一膳飯屋でご飯食うの。それだけ。

足立:はあ。

クリ:「ご苦労さん」てね、朝飯食って終わり。

栗原:すごい良い時代だったかもしれないですね。

クリ:良い時代。カネ、カネっていう人いないよ。朝飯食って終わり。

足立:その草月会館の近くに行きつけの飯屋があったんですか?

クリ:あった。

吉野:何屋さん?

栗原:何を、その時何を食べたか覚えてます?

クリ:そんなの覚えてるはずないじゃない。

吉野:喫茶店ですかね。コーヒー1杯でって前言ってたんで。

クリ:みんな貧乏よ。草月が金あったのかな。良い人たちだ。勅使河原蒼風。お花で儲けてたから。

クリ:あと良い団体なかった。秋山さんも良い人だった。あの人、学校の先生してたのかな。あんまり仕事ない。みんな金ないからいい時代よ。今はダメよ。

阪本:「アニメーション三人の会」が終わっていくのって何でなのですか?

クリ:あれは、何となく集まった。その前にね「若い日本の会」っていうのがあった。その中に入ってた、三人。

栗原:で、それで三人の会は、それでなくなっちゃいますよね? 理由としては、バラバラ?

クリ:あれは真鍋、アニメーションやろうって、真鍋博と柳原良平と。真鍋博はあんまりやる気なかった。柳原良平はサントリーの仕事してたから金があった。三人の会ってのはそこで作った。真鍋はあまり仕事したくなかった。真鍋は女学校の絵の先生してたから。あの頃、あまり言うと大変だけど、天皇陛下の悪口なんて描いてた。だから、今そんなこと言えないから。まあフラフラしてたね、三人の会は。

栗原:三人の会が、みんなバラバラになっちゃうじゃない。

クリ:時代が変わったの。

阪本:あの、三人の会が終わった後に、アニメーションフェスティバルが開かれるようになるんですよ。それって何か時代が変わったって今おっしゃったように、それと関係あるのかな?

クリ:あれからあの、アニメーションはもうしなくなってね、ドキュメンタリーを入れるようになって、それで変わっちゃった。

栗原:あ、ドキュメンタリーが入って変わった。

クリ:三人の会ってそんなに続かなかった。奈良さんがドキュメンタリーを入れて、で変わっちゃった。それでね大学の作家も入れるようになって。それでめちゃくちゃになっちゃった。 あれは奈良さんが悪いんだよ。

足立:なるほど。

吉野:ちょっと漫画の方に話を戻したいです。

クリ:(中原佑介の写真を見て)これちょっと……

足立:中原佑介さんです。

吉野:美術評論家。

クリ:あ、この人はね……

足立:はい。何度もクリさんのことを書いていらっしゃいます。好意的に。

クリ:学校の先生やってたのか覚えてないけど、面白い人で、彼の企画で何かやりたいって話あったけど、それは実現しなかった。この人死んだ?

足立:もう亡くなりました。1958年にクリさんたち漫画家4人の展覧会を行ったときに、中原佑介さんがちょっと批判的な文章を書いてるんです(中原佑介「期待はずれ 四人の漫画家展」『読売新聞』1958年8月21日夕刊)。

クリ:(中原に)頼んだんでしょ俺が。漫画家もいい加減だったから。

吉野:あれは久里さんが企画した展覧会だったんですよね?

クリ:昔の人は威張ってたね。(昔のことは)忘れた。これ(新聞に掲載された漫画を)描いたのは覚えてる。

(クリさんが疲れたため中断)

栗原:日劇ミュージック・ホールでアニメーションを作ったよね(注:長尾長顕演出「鍵はカギ穴に」1959年9月、日劇ミュージック・ホール。「漫画家四人が参加 日劇ミュージック・ホール」『読売新聞』1959年8月18日夕刊、「漫画ダネで退屈させぬ 鍵はカギ穴に−−日劇M・H」『読売新聞』1959年9月23日)。

クリ:やったことあるわ。

栗原:すごい人気があったんだよね。

クリ:ヌード(の女性の体)に絵を描いて。

足立:(写真を見せて)深沢七郎さんです。

クリ:これ深沢七郎。

足立:日劇で撮られてるんです。

栗原:一緒にやったよね、深沢さんと。覚えてるよね、これ。よくうちの父が銀座で展覧会やった時に深沢さんとか丸尾長顕さんとか、展覧会に、父の展覧会にね、見に来てもらったことがあって、その当時の写真もありますよ。

足立:日劇でその4人で漫画家の演出の方法をやったというのは、これはどうしてなんでしょうか。

クリ:そんなのいちいち覚えてるかって。やめてよもう。字引きじゃないんだから。みんな忘れた方が良いんだよ。

足立:なるほど。じゃあ、ご家族のことを。乃木神社で結婚式をされましたよね。何度も、女房のおかげというような風なことを書いていらっしゃいます。

クリ:乃木神社は500円で結婚できた。

足立:その時にいらっしゃった方のことを覚えてますか。

クリ:丸尾長顕、深沢七郎、八島一夫、あとは覚えてない。

足立:フランス文学者の河盛好蔵は?。

クリ:知らない。丸尾長顕は会ってる。

吉野:横山泰三先生は?

クリ:横山泰三さんは仲人だった。泰三さんは金持ちだったからね。あの当時、新婚旅行にお金、泰三さんをくれたの。いくらだと思う?

足立:わからないです。

クリ:5万円。(当時の)5万円っていったら大金よ。

足立:そうですよね。新婚旅行はどちらへ行かれたんですか?

クリ:なぜか富士山へ行った。

栗原:え? 熱海じゃなかった? 熱海に行ったじゃないの、新婚旅行。

クリ:熱海じゃなしに清水。

クリ:清水の港。

栗原:清水の港? 熱海も行かなかった? 熱海に行ったって言ってなかった?

クリ:熱海はね、人が多くてダメ。

栗原:御馳走がいっぱい出たとか言ってた。いっぱい食べ物が出て食べきれなかったって言ってたよね?

クリ:ああ、すごいご馳走よ。清水は良かった。富士山を見て。

足立:奥様のことで、クリ先生は昔の記事で、自分は恐妻家で、奥さんを恐れて、恐れてというか、奥さんを敬っていらっしゃると書いていらっしゃいます(久里洋二「妻を語る 女房にぞっこん参っているのである」『婦人倶楽部』1973年2月)。「人間動物園」という作品も、奥様のことが、奥様に畏れる男性の気持ちを描いてたのでしょうか?

クリ:もういいよ。そんなのどうだっていいじゃない。そんなこと気にするなよ。

栗原:まあ、でもうちの母がね、一応いつもね、いろんなことをやってくれる人だから。まあ「人間動物園」とは正反対なんで。

足立:実際は「人間動物園」の世界とは違うということですね。

栗原:そうです。

クリ:あれ…… えー…… 忘れた。

吉野:「人間動物園」がクリさんと奥様の関係が反映されているのか。

栗原:いや、そうではないと思います。あんなひどいのではないです。何て言うんだろう、みんなそういう風に思われる方多いんですけど、そうではないです。

足立:多分あえて誇張しているんですよね。

クリ:ちょっと水ちょうだい。

吉野:はい。どうぞお話続けてください。

足立:あの、そういえば昔のインタビューを読んだ時に、由行さんのことも書いていらっしゃいます。

栗原:あ、僕のことですか。

足立:つまり、どうやって子供に絵を教えるかとかそういったことを考えながら、自分の漫画をこう考え直しているというような、そんなことを読みました(久里洋二「漫画以上の作品」『保育』1962年6月)。

栗原:あ、だから、色々ありますね。あの、多分ね、僕から言わしてもらうと、結構子供から色んなものをね、学んでいると思います、当時。

吉野:クリさんって、由行さんに絵を教えたんですか。

栗原:いや、教えてもらってないです、僕は。絵を教えてもらったことあったっけ?

クリ:教えたことないよ。

足立:むしろクリさんが……

クリ:こいつは天才だ。

栗原:いやいや。

足立:クリさんが由行さんから、子供から学んでたんですか?

栗原:そうだと思います。

足立:クリ先生はこう、子供から絵を学んでたんですか?

クリ:覚えてない。

栗原:僕はね、多分そういうのがあると思います。

足立:うん。

クリ:こいつは頭良かった。

(クリさんがトイレのため中断)

栗原:それで何て言うんだろう、子供の、そういうのをよく見て、「じゃあ僕もアクリルも描きたい」って言うので、油絵からアクリルに変更したって感じもあるんですね。

足立:そうだったんですか。

栗原:それまでアクリルっていうのは新しい絵具で、まだ100年経ってないから先がわからないっていう時代だったんで。リキテックスっていうのはね、僕が描いてて、小2の時に。それで……

鏑木:それは何年ぐらいのお話ですか?

栗原:それは、僕が小学校の2、3年ぐらいだと思いますね。僕、昭和38年生まれなんで……

吉野:この間72年と言われてました。

栗原:ええそう、72年くらいかな。あ、そうかな。

吉野:その頃にアクリル、リキテックスが日本に来て(注:1968年にリキテックスが日本で販売される)。

栗原:オイルショック前だから、そう72年ですね。

吉野:それでクリさんが油絵からリキテックスに変えたっていう。その由行さんの使ってた絵具の影響でね。

栗原:そうです。だからそういうのも、うちの父に影響があったり。あと、工作で電気のモーターとか作ってたら、自分もなんかモーターのやつ作りたいって言って、モーターが付いた作品とか。そういうのはやっぱり子供から学んでると思うんですよね。

吉野:由行さん、それでいうと、クリさんがシンセサイザーに途中からすごく興味持つじゃないですか。あれって何だったのか知りたい。

栗原:あれは僕がすごいシンセサイザー好きだったんですよ。

吉野:クリさん、あ、由行さんが?

足立:なるほど。

栗原:そう。

吉野:では草月とかでとかではなく、家庭での影響が最初はあったんですか?

栗原:あ、なんか良いなというのはあって。冨田(勲)さんもそうなんですけど。その前になんかシンセサイザーの音が流行った時代があって。その興味、僕も聞いてたら、父もその音楽に興味を持った感じで。

吉野:持ってたんですか? 由行さん。

栗原:いや持ってないです。

吉野:でも興味があって、クリさんとお話したりとかは。

栗原:いや、いつも音を聞いていた。それで音の流れでやはり影響されたのかなと思いますね。

足立:クリさんの文章を読んでいると、由行さんに対して英才教育じゃないけれど、何か創造的な教育をしていたように見えたんですが。

栗原:いや、僕は何にも。ちょっと普通だったら、何て言うんだろう、塾とか行かせるじゃないですか。一切塾に行かせなかったんですよ。だから何もしない。普通にもうナチュラルで。

吉野:勉強させない?

栗原:勉強はしたかったんですけど、塾とか行ったことないんで。

足立:でもこう、別荘で自然を触れさせるとか、ありましたよね。

栗原:うん。そんな感じで。だからね、ちょっとね普通のあれとは違うんです。普通だったらみんなね、そういうとこに行くじゃないですか。

クリ:もう年だな。

栗原:年だよ。でもね元気だからね。

阪本:由行さんから見て、お父さんはあんまり家に帰ってこないで外で仕事ばっかりしているような?

栗原:そうですね。いつも仕事ばかりしてたね、はい。11PMの時はいつも夜遅かったんで。

クリ:何?

栗原:11PMの時は夜遅くまで仕事してたよね?

クリ:11PMはね。

栗原:夜遅かったよね、帰りが。疲れちゃったね、あれね。

クリ:いや疲れはしないよ。

栗原:でも遅くまでやってた。

クリ:あの時は12時だからね。11時50分。起きてるわ、日本テレビ行って。それで家帰るの。

栗原:そう。だからあんまり遅いから。夜中に帰るから、遅い時間に帰るから毎週。

クリ:毎週一回。月曜日。

足立:放映に立ち会ってたんですか?

栗原:番組自体が(遅かったし)、立ち会ってました。

足立:(毎回)出演もされてたんですか。

栗原:テレビに出演もしてたよね。

クリ:毎週1回。16年間(注:17年間か)。

栗原:うん、16年間。

クリ:しんどかった。

栗原:ただあの時は、エンディングの時にうちの父のアニメーションが流れるんですよ。

足立:うん、そうですね。

栗原:で、ショートなんで、その番組の時間がギリギリになるまでに……

クリ:16年。

栗原:あの、何て言うんですか、最後まで映さないんですね、11PMのフィルムが。それで時間切れになったら途中で切れちゃうんです。

足立:へえー。

クリ:毎回アニメーションを一回作った。アニメーション。

栗原:毎週、月曜日に夜やってたんですね。

クリ:アニメーションは大変だった。一人で作ってたから。

栗原:最初本人が出て、その後アニメーションが動く感じで、最後エンディングで終わり。

クリ:スタッフはいなかった。

栗原:スタッフはいなかったの?

クリ:スタッフいない。俺一人で。

足立:一人でアニメーションを作っていたんですね、その時は。

栗原:そうです、そうです。

クリ:しんどかった。

足立:あの、由行さんに手伝わせてたっていうのを読んだんですけど。

栗原:11PMによく僕がフィルム現像所に持っていったよね?

クリ:うん。

栗原:うん。東洋現像所(現・IMAGICA Lab.)、当時。TBSとか、あと日本テレビとかにも持っていったよね。近所。

クリ:TBSから日本テレビ。

栗原:東洋現像所。

クリ:東洋現像所から日本テレビ。フィルムを持ってく。

栗原:当時はあの、TBSって誰でも入れるんですよ。でテレビの中継をやってるところに僕は横から通って、フィルム現像所……

クリ:毎週アニメーション作った。

栗原:そうそう。

クリ:毎週作ってた一本。あれしんどかったな。ほとんど…… 大変だった。俺は一人だから。

足立:でもあの、テレビタレントのような扱いも、その頃受けてたと思いますけど。

栗原:ちょっとテレビタレントみたいな感じだったよね。当時は、人気だったから。

クリ:あれ大橋巨泉のとき。

栗原:大橋巨泉のとき。

足立:うん、そうですね。大橋巨泉さんにむじなとかあだ名を付けられたとか。

栗原:麹町のむじなですね。確か。

クリ:ただ、あの頃、大橋巨泉がまだ新人の時に、小島功とおおば比呂司と俺とか、11PM出てた。

栗原:まだ大橋巨泉の前の時の司会者の時かな、確かね。

クリ:だから、おおば比呂司がやめて、小島功がやめて、で俺がやめた。だから大橋巨泉ってのは、まだただの雑役だった。それが、司会になっちゃってね、威張りやがって。あの巨泉。あんなに威張った男いなかった。

栗原:最初は平等だったんだけどね、だんだん人気になってくると、何かそういうスタイルになっちゃったって言ってましたよ。

クリ:あんなに威張った男はいなかったな。おおば比呂司ってのはオランダに行って帰ってこない。

栗原:いや、オランダ、一緒に行きましたよ僕も。

クリ:小島功さんは割りにいい加減だったから。でも病気で死んだの。

栗原:おおば比呂司さんがオランダに行ってる時に、家に遊びに行ったこともあります。

クリ:おおば比呂司…… 11PMのプロデューサーはみんな威張ってたからね。あんなに威張ってるプロデューサーもいなかった。名前なんていうのか忘れちゃったけど。

栗原:毎週月曜日にやってたからね。月曜日にいつもやってたよね。

クリ:月曜日に行くのは辛かったよ。夜11時だもん。

栗原:自分の出る時間がもう最後なんですよ。

クリ:17年間やってたの。

足立:なんで(番組の)最後にアニメがなったとか、理由があるんですか?

栗原:特にないんですけど。まあアニメーションのエンディングに、そういうコーナーがあって、そういう内容になってたんだと思いますね。

クリ:17年間アニメーションやってた。アニメーション最後は一人でやってたから。

足立:その、テレビ向けアニメーションということで、草月で上映するアニメーションとは違う……

クリ:違う。

足立:どんなところが違ったんでしょうか。

クリ:草月は実験的なの。あれ奈良さんっていたけど、あの頃のアニメーションは、一柳さん…… えっとサントリーの誰だっけ?

栗原:柳原さんね。でも。11PMはちょっとジャンルが違うよね。

クリ:え?

栗原:あの11PMのアニメーションのスタイルが違うよね。

クリ:もう忘れちゃった。

栗原:ちょっとジャンルが違うでしょ。

クリ:もうやめちゃった。一人で作るの大変だもん。

足立:そうですよね。

栗原:ただ当時、そのアニメーションというのは最後まで流されなくて……

クリ:そこに原本あるよ。プリントがある。

栗原:途中までしか流してないで、最後まで流してない。せっかく作っても見せてないのがあるんです。

クリ:安い原稿料よ。

足立:安かったんですか?

クリ:日本テレビってのは汚い野郎だ。

足立:汚い(笑)。

栗原:まあフィルムの方はまだ確かめてないので、まだ調べるところはまだあるんですけども。

吉野:安かったんですって。

クリ:あの、ビデオプロモーションだからね。藤田(潔)さんて人は、良い人だった。俺は、何で生きてるのかわからない。

足立:その、テレビに出るということについて、クリ先生はどんな風に考えてたんですか?

クリ:お金もらえるから一生懸命やった。

足立:お金。

栗原:まあ食べてくために。

クリ:テレビに出る自体は関係ない。出演すると金をくれるから出てた。それだけ。

足立:でも、自分の作品を、草月のような規模ではなくて、日本全国に発信できるという喜びはあったんでしょうか。

クリ:アニメーション作るのは、毎回作ってたからね。

足立:はい。

クリ:辛かった。

足立:辛かった。

クリ:アニメ作るのは辛いよ。一人だもん。アニメってね、まず音楽を選ぶわけよ。音楽を選んで、それ、音楽を東洋現像所で音のテープを作るわけよ。それを、テープのネガを、音分けする、音楽を分析するわけ。それに合わせて絵を描く。大変な仕事だ。
そして月曜日の東洋現像所に持っていって、夕方に上がって日本テレビに持っていく。だからアニメーションを毎回作ってたよ。1分くらいで。日本テレビはちょうど1分くらいが良いみたい。で、しんどかったな。700本ぐらいアニメーション作った。今でも保存してあるけど。

足立:しんどくても、やっぱりテレビで続ける理由が、そのお金以外の理由はなかったんでしょうか。

クリ:それでお金もそんなにくれないの。

足立:うん。そのやっぱ、それでもやっぱりテレビにこだわりがあった、その考えを聞かせてください。

クリ:アニメーションをやりたかったの。

足立:アニメーションをやりたかった。実験アニメーションをテレビで放映したいと思ったんですね。

クリ:やった。17年間。

足立:とてもすごいことだと思います。

クリ:しんどかったよ。

足立:そのかわり、その1分は自由に作れたんですよね。何の制約もなかったんですか?

クリ:自由。ただし音楽著作権があるから、それに引っかからないようにしないといけないの。その問題だけ。音楽著作権。

足立:その11PMの音楽は決まってたんでしたっけ。

栗原:いや、特に決まってないです。

クリ:だからテレビ局が払ってくれたけど。個人的には作れない。

足立:どんな音楽だったのか、どんな音楽を使ってたんですか。

クリ:もう毎日もう、ラジオからキャッチしたり、レコードから、もうあらゆることを見つけてくる。

足立:ああ。自分で録音した音楽をアニメーションに付けてたわけですね。

クリ:そう。音楽を選んで、それでアニメーションするのに一週間で作ってたんだから。大変だよ。今考えたら考えられない。一人でやってたんだもん。

栗原:そう。

クリ:まあそれで生活出来たからね。

栗原:それでね、ビデオプロモーションの方がいて、生活出来たから良かった。

足立:この永田町、麹町に住むようになったのも11PMの仕事がきっかけだったんですか?

栗原:いや、昔から麹町1丁目7番地に昔から住んでた。

クリ:そうそうそう。

足立:その、ご結婚された時から?

栗原:そうです、そうです。当時、隼町だったんです。結婚した時に隼町のアパートの近くに、色んな方が住んでたよね。有名な方が。

クリ:最初は平河町だった。

栗原:うん、そうだよね。その時に隣に有名な方がいたよね。

クリ:平河町。それから麹町一丁目。それで、ここ。

足立:当時は浅利(慶太)さんもその近くに住んでたんですね。

吉野:お隣だったんじゃないですか?

栗原:そう、お隣です。

足立:じゃあ、「若い日本の会」は、近所づきあいだった?

栗原:まあ近所に住んでたの。

足立:なるほど。

(一時中断)

栗原:そうそう。浅利慶太さんもね、当時隼町に住んでいて。

クリ:ここは故郷よ。

栗原:そうそう。色んな方が、作家さんもいたし、色んな方がいたんで。まあその中に、最初は新婚の時に……

クリ:あの頃はアニメーションって景気良かった。

栗原:やっている人がいなかったんだよね。

クリ:ここも持てたし自宅も。この辺に二軒持ってたよ。いや三軒持ってた。

栗原:でも最初は借りてたんです。

クリ:アニメやって儲かってた。

足立:色々な方が、久里実験漫画工房でアニメーションを作ったと聞きました。

クリ:アニメーションって原稿料良かった。

足立:うん。クリさん自身のアニメーションだけじゃなくて、横尾忠則さんとか……

クリ:あ?

足立:横尾忠則さんもいらっしゃったのですか。

クリ:横尾忠則は、アニメーションは作らなかった。

栗原:実験フィルムだよね?

クリ:あの人は、アニメーション作ってないね(注:クリの記憶違い。久里実験漫画工房でアニメーション制作をしている)。

栗原:彼のドキュメンタリーを作ったんじゃない(新宿紀伊國屋ホール「久里洋二のアニメーション映画とドキュメンタリー映画大全」『生活と芸術と意見 横尾忠則』1973年)。

クリ:あれは何してたかな。彼は頭の良い男だった。

吉野:あと、浅利さんが隣にいた時に、劇団四季の舞台の絵を描いてましたか?

栗原:描いてます。書き割りかなんか。そう劇団四季の。あの、浅利慶太さんと前、麹町一丁目、えっと隼町の時に、隣に浅利慶太さんも住んでたのを覚えている?

クリ:覚えてない。忘れた。

吉野:劇団四季のその作品について、時々話してくれるんですけど、どういう絵なのかわからなくて。

クリ:くだらんテレビ。

吉野:11PMね。お色気ですもんね。

栗原:11PMは大変だったね本当に。

クリ:11PMはね本当にくだらなかったの。

足立:番組はとしては好きじゃなかったんですね。

クリ:11PMね。もっと実験的なものがやりたかった。

栗原:お色気はあんまり好きじゃなかったよね。もうちょっと実験したかったんだよね。

クリ:禁止。

栗原:うん本当は。

クリ:テレビ局が禁止した。エッチはダメって。

足立:あ、ダメ? ああ。そういうやってはいけないことがあったんですね。

クリ:そう。だんだんと厳しくなる。

栗原:最初は厳しくなかった。でもあんまりね、本当はもうちょっと真面目なのをやりたかったっていうのを聞いてますけど、僕は。

足立:うん、なるほど。その頃に、例えば他の漫画家とかアニメーション作家から、何かこうテレビに毎週やっていることについて言われたりしたんでしょうか。例えば褒められたり、羨ましがられたり、あるいは批判されたりとか、そういったことは。

クリ:いや、みんな優しいよ。人の悪口さえ言わなけりゃよかった。

足立:やっぱり毎週、実験アニメーションを放映できる人って他にいなかったと思うんです。

クリ:何?

足立:毎週実験アニメーションを発表できる方は他にいなかったと思うんです。

クリ:いない。日本テレビ暇だったの。

栗原:暇だったのかな。わからないですけど。

クリ:ありがたいテレビ局だった。

足立:うん。

栗原:結果的にはそうかもしれないですね。

クリ:ビデオプロの藤田(潔)さんが良い人だった。

クリ:まあ好きなことをやって、人生終わったな。今なんで生きてるかわからない。

栗原:まあそんな感じで。

足立。そうですね。

クリ:もうおしまい。

足立:ありがとうございました。

(一応終了)

クリ:まだ生きてるよ。もうアニメ興味ない。

栗原:大変でした。

クリ:またアニメーション盛んになるのかな。

栗原:なるんじゃない。

足立:ここからだと思います。

クリ:ないね。あんなつまらないアニメ、映像で国際映画祭やってたんだからね。今はもうドキュメントもやってないから。みんなくたびれてる。ボケて。だから何してもダメなの今ね。

栗原:でもやってる方はやってますよね。

足立:そうですね。

栗原:やってる方はやってるよ。みんな頑張ってるよ。

クリ:やってる?

吉野:やってます。

栗原:やってる人はやってるって。

吉野:みんながんばってます。

クリ:今アニメーション映画祭ってのは、もうないもんね。

栗原:ああ、広島映画祭がなくなっちゃったからね。ちゃんとしたのがね。

クリ:昔はあったけど。

栗原:でも映像、カメラ好きだよね。撮るの。映像撮るの好きだよね?

クリ:何?

栗原:フィルム、映画で撮るの好きだよね?

クリ:うん。