青木:松澤(宥)さんが留学されたのは、1950年代前半(昭和30年)ですよね。結婚されたのは昭和23年ですね。
美寿津(松澤宥夫人):はい。
坂上:1948年。
美寿津:そうですね。
青木:僕が生まれた翌年ですね。
坂上:ご結婚された頃、どうやって知り合ったんですか。
美寿津:私はね、日本で生まれたのではなくて、大連というところで生まれたの。
青木:中国ですね。海の近くの。
美寿津:そうですね。ですからね、日本では学生の頃暮らしましたけどね。急に主人がね、留学の話が出て。(主人は)高校に勤めてましたからね、地元の高校の教師してましてね。その時に、「留学の試験があるから受けてみないか?って言われたからどうしようか?」って言われたんです。私は「いいんじゃないですか?」って言ったら、「こんな小さな子供(久美子・洋子姉妹)を置いていって大丈夫?」って言うから「大丈夫ですよ」って言って。「いいじゃないですか、行けば」って言って。っていうことで決心して、論文を書くんですね。毎日毎日主人は(論文を)書いてましたけど。私も英語なんて何も分からないですけど、主人が書いたものに、主人が勤めに行っているときに、辞書を引いて直したりして。主人が帰ってきて「ありがとう」なんて言って。それを見直したりって。そういう論文を書いて試験通って(アメリカに)行ったんですけどね。初めての時は横浜か何かで試験があったんです。あんまり車がうるさくて何も聞こえないんですって。で、とうとう先生のヒアリングが全然聞こえなくて、「試験駄目だー、失敗した、あんなの受けるんじゃなかった」なんて言って。翌年は、横浜じゃなくて、どこか、とても静かなところでしてね、「試験会場が良かったから、いろいろ分かって良かった」なんて言って。そんなことで、この人(久美子)が生まれた翌年に留学しましてね。
久美子(松澤宥長女):幼稚園の時。私が。
美寿津:そうだった?
青木:昭和30(1955)年。
桂子(松澤宥孫):下の洋子さんが生まれた翌年。
美寿津:あ、洋子さん(松澤宥次女)、ですね。
青木:そうだね。
美寿津:主人は日本から出た事がなくて。(以前は)横浜に住んでましたからね。私が「行ってらっしゃいよ、行ってらっしゃいよ」って言って。「試験受けたらいいじゃないですか」って言ったら、「どうしようかねー」なんて言ってましたけどね。それで行く事になって。その頃はまだ留学するということが珍しくて。
青木:結婚される前から、松澤先生は詩を中心にして活動をやってみえましたよね。詩の方の。
美寿津:らしいですね。
青木:時々は美術作品もちょっちょっとやって……。
美寿津:詩が主だったようですね。
青木:そんな感じは、初めて会われた時にありました?こう、詩人みたいな……。
美寿津:そうですね、何か、馬鹿に落ち着いてましたね(笑)。
青木:そうですか。
美寿津:それで。(知り合うきっかけは)主人の一番上の姉の子供なんです、主人のね、一番上の姉が、主人が一番最後(末っ子)でして、主人の一番上の姉の……娘って事ね……
久美子:上の姉と22~23才離れているんです。
青木:わー、すごい。あ、そうだ、お父さん50歳で、お母さんが46か47歳の時に松澤さんが生まれたんですね。
久美子:そうなんです。
美寿津:女ばっかしのところに男の子が生まれて。大騒ぎしたようですけどね、嬉しくって。
青木:期待の男の子が生まれたって。
美寿津:そうですね。だったそうです。
坂上:結婚されるまでは、もちろん松澤さんのことはあまりよく……
美寿津:知らなかったです。全然。
坂上:第一印象とか(笑)。
美寿津:まさかお見合いするなんか思ってませんし。
桂子:お見合いだったの?なんかお裁縫の、靴下を継いでいたら、会いに来たって言っていたよね。
美寿津:そうそうそう。あのねえ、戦争の直後。終わった直後で、私たちは、何か友達に会うっていう時は、靴下なんか継ぎながらね、編んだりしたんですよ。主人の姉の娘が「私にも一つやらせて」って。「うちに遊びに来ない?」って言うから、一度も行った事がないところだったけれど、ちゃんと、靴下を継ごうと思って持って行ったら、パパ(宥)がいるんですよ。「せっかく話に来たのに、そんなの……」って。でも、話をしていても、ちっともろくに話さないの。でも傍から離れないんですよね。私と、主人の姉の娘と話しているとね、そこにじっとしていて離れないの。「早く自分の部屋に行ってくれればいいのに」って思っていたの(笑)。それが一番初めでした。
坂上:何か、「松澤宥さんって変った人だなあ……」とか、そういう感じはなかった。
美寿津:いやあ、とってもおとなしくって。ろくにしゃべらなかったですけど。とっても上品でしたね。
青木:ああ、そうですか。
美寿津:私も、初めての方とはちゃんとしゃべる方じゃないんですけど、お互いに黙っていたんですけどね(笑)。
青木:我々がこういう本(松澤宥関係の本など)を読んでいると、アメリカの深夜放送で(留学中にラジオ放送で宇宙人の話が登場して深い興味を覚える)……って。非常にこう、芸術家としてのひとつの発端がそこにあるように読めるんですけど。そもそもアメリカに行かれたのは、建築の関係、で行かれたんですよね。
美寿津:最初はそうなんですよね、きっとね。
青木:で、向こうに行ってかなりいろいろ何か感化されることもあって。帰って来られた時は何か変って。(留学は)1年位ですか?
久美子:1年の予定で行ってから、また向こうで試験を受け直してもう1年。
青木:あ、2年だったんですね。やっぱ、こう、帰られた時に「変ったな」みたいな感じはあったんですか?
美寿津:そうですね。でも、もともとおとなしくってしゃべらない……
青木:ああ、もともと表にあまり出ない感じで……
美寿津:手紙は毎日来ました(笑)。お手紙が毎日来ました。
青木:そうですか。
坂上:どんなことが書いてあったんですか?淋しいとか?(笑)
美寿津:書いてありましたね。
坂上:「娘は元気か?」とか。
美寿津:まあ、そんなことでしょうね(笑)。
坂上:不思議なラジオを聞いたとか、そんなことも書いてあったんですか。
美寿津:私は大体、(大連から)引き上げて帰って来たら、すぐ結婚するなんて全然思ってもいなかったですからね。帰って、少し内地で苦労して、それで結婚しようと思っていたんですよ。そしたら急に結婚することになって。でも母は亡くなってましたからね。主人の母がね。だから……。(主人の)父もまだ、75歳位でしたけどね。75歳になってなかったかな?だから可哀想だと思って。主人が(父親が)一人でいるの、可哀想だと思って。(宥は)いい人だった。だから主人と結婚する気持ちにもなったんですけどね。
青木:お父様がね。
美寿津:父がね。私、こんなことお話するのだったら、ちゃんとまとめて来れば良かった!(笑)
青木:こういう調子がいいんでしょ。
坂上:こういう調子で。
美寿津:全然まとめて来なくて。私がまさかお話しないといけないなんて、考えて来なかった。全然考えてなくって。もともと口下手なのに。
桂子:話しているうちにまとまってくるよ。
青木:やっぱりこういう記録を見ると、時々作品作りもありますけどね、30歳前後……
坂上:結婚して間も無く……
青木:そう。ところがこれ、アメリカから、1957年にハワイ経由で4月に帰って、58年突然読売アンデパンダンに作品出してますから。やっぱり、すごくアメリカに行って……(注:実際は1953年にも読売アンデパンダンに出品している他、美術文化にも作品を出品。ドローイングを中心に美術活動も展開している)
美寿津:あったんですよね。
青木:はっきり方向付けが出来た感じ……
坂上:美術で……
青木:美術で。
坂上:それまでは詩が中心だったのか。
青木:そうそうそう。
美寿津:だけど、あの、何ですか、デッサンなんかもありますね。
青木:デッサンなんかはその前から描かれてたんですね。
美寿津:あの……やってましたね。
坂上:(松澤家の庭にある)蔵に沢山デッサンが、何百枚、千枚を越えるようなデッサンが沢山残されてましたね。ああいうのをよく家でされていたんですか。
美寿津:いえ、私は見たことがない。アメリカに行く前にあったのはありますが、行ってからは……見てないですね。
坂上:ご結婚前。
美寿津:ですね。
桂子:作業、というか仕事をしているところを見ていないから、描いていなかったって(思い込んでいるという)事はないの?
美寿津:何の仕事?
桂子:デッサンをしていたのかどうか。
美寿津:でも残っていないから。
桂子:別の部屋でこっそりしていたとか。籠って。
青木:多分それは多分奥さんの前じゃないところで多分描いてたんだよね。想像だけど。
坂上:奥さんの前でじゃないと、何処でやっていたんだろう。プサイの部屋とか(笑)。
美寿津:結婚してからは描かなかったですね。その前のはあったのはあった。こんなにきれいな絵を描いていたんだなって思ったことはありましたね。
坂上:絵が好きな人なのかなあという……様な感じでしたか。
美寿津:いえ、そんなことない。絵のことばっか考えているような人でもないし。絵の本が別にあるわけでもないし。詩は書いてましたね、だけど。
青木:結婚してアメリカから帰ってからもう作品作りが突然……
美寿津:そうですねえ。
久美子:詩はね、(アメリカの)帰りの氷川丸の中、氷川丸の中にすべて捨ててきたんですって。
青木:あ、向こうで書いた詩を。
久美子:いろいろ。
美寿津:あ、それはね、気持ちを(捨ててきたの)。そういう気持ちを。
久美子:何か、何処かに。
美寿津:氷川丸に(乗ってアメリカに)行く時はね、船の中で、甲板で個展したらしいですよ。で、乗っている方が楽しんで下さったみたいですけどね。だから、ああ、絵も描いたんだなって思ってましたけどね。人様に出すような絵を描いているとは思いませんでしたけど。
坂上:普段の生活は、月曜日から土曜日まで高校の先生として朝出勤して……
美寿津:あ、定時制でした。
坂上:あ、定時制か。朝からどうでしたか?普通に朝ご飯食べて、昼ご飯食べて。
美寿津:あー、(あの頃はもう)畑もなかったね。これといって記憶にもないくらい。本は読んでましたね、ずっと。絵を描くっていうことはなかったですね。高校は夜間でしたからね。読売アンデパンダンなんか出しましたけど、出品間際になってから描くもんですから、もうぎりぎりに。(毎回)締め切りのぎりぎりでしてね。もう、前の晩なんか、夜中にやらなければ荷造り出来ないくらいでしたよ。次の日に出したんです。だから、私、「こんな事しないで、ちゃんと分かるんだから、もっと早くに描いて出すようにすればいいのに、夜中に毎日、いつもいつも夜中じゃないですか」って言ったこと覚えてますね。二人であれするんですけど、あれ2月頃でしたっけ、寒い盛りでしてね、長野県はすごく寒くて。暖房もなかったものですから、寒かったですよ、部屋の中。そこで廊下で荷物を出して広げて、荷造りをして、で、朝早く(作品を荷造りして)出すんですよね。毎年それをしましたね。
坂上:何処で作品を作っていたりしたんですか?
美寿津:うちです。廊下です。
坂上:廊下って縁側のところで。
美寿津:そうですね。縁側広いですね、あそこ。今の1.5倍くらいあったかしら。8畳以上でしたから。幅もあったし。
青木:先生は、アメリカから帰られた後から(本格的な作品作りが)始まったんですか?
美寿津:そうですね、向こうにいる時に盛んに、向こうで、アメリカの放送に魅せられて、毎晩聞いていたようですね。そして、絵を描いたってことはなかったですね。
青木:それで日本に帰って、57年に帰られて、それで翌年から読売アンデパンダンに出品されるんですけど(※実際は渡米前にも出品している)、定時制の高校の先生はアメリカから帰られて……。
美寿津:行く時からしていて、休職して行ったんです。1年間。
青木:あ、その前から定時制は行っておられたんですか。
美寿津:そうですね。
青木:あ、そうですか。
美寿津:結婚した時はまだしていませんけどね。
青木:なるほど。
美寿津:東京で、何とか(梓建築事務所)って、ところに勤めてましてね。で、(東京で)結婚するんじゃなくて、(長野に)帰って来てから結婚したんですね。一人っ子。おじいさま(父親)と二人っきりなもんですからね。みんな結婚して(家には)いなかったものですから、それは散々おじいさん一人にしていたから可哀想で、結婚しなければ可哀想だからって自分で思っていたようですからね。
坂上:この間から、蔵の掃除をやった時に、蔵の整理をした時に、久美子さんの小学校の頃の工作がいっぱい出てきたりとかそういうのがありますけど、(松澤さんは)すごい子煩悩なお父さんだったみたいな。
美寿津:そうですねえ、あの時(蔵に残されていた工作のうちの一つである海の模型)は(娘の)夏休みの宿題でしてね(笑)。そして作品を作るって事で。そしたら「何がいいでしょう」って言って、主人と私とで考えて(笑)。
坂上:二人で考えたんですか!(笑)
久美子:あれれ……
美寿津:二人で作ってね。
久美子:二人が作っているのを私、見てた(笑)。
全員:(爆笑)
桂子:自分も参加したんじゃないの?
美寿津:したことはしたねえ。だけど、あなたが全部作ったわけじゃないでしょ。で、持っていく時に、パパ(宥)の自転車に乗せて行ったわね。
久美子:小学校が遠かったものですから。
坂上:自転車の荷台に乗せてとか?
美寿津:後ろの荷台に乗せてね。このくらい(30cm×40㎝×30㎝程度)のですからね。
久美子:あの夏にね、海に連れて行ってもらって、その思い出を。
青木:ああ、なるほど。あれがさっきの水槽の中の風景なんですね。
坂上:通信簿なんかも全部(蔵に)残ってましたね。可愛がられた。
久美子:そうですね。
青木:松澤さんと僕と共通するのは、娘二人っていうところなんですよ。多分、娘二人いて奥さんっていうと、女性ばかりの中だから、何となく分かるところありますね。男の子がいると多分松澤さんも違った意識だったと思うけど。
美寿津:自分の兄弟も皆女ばかりでしたから。主人。
青木:そう。それはもっとすごいね。
美寿津:上にお姉さんが5人いましてね。4人か。男の子が生まれたって言って大騒ぎしたんですね。
坂上:末っ子で。
青木:ねえ。
美寿津:大騒ぎしてねえ。
青木:後、あの、有名な松澤さんの事でも、最も有名な事のひとつなんだけれども、1964年の6月4日に「オブジェを消せ」という啓示を聞いたということがあるんですけども、その時はここの、自分が生まれたのと同じ場所で、ってね、松澤さんおっしゃっているんだけど。その啓示を聞いた時はともかく、その後っていうのは何か、そういうような話を奥さんにされました?松澤さん。
美寿津:ことさら話したことはないんですけど。
青木:なるほど。
美寿津:それは何らかの形でありましたね。
青木:ああそうですか。
美寿津:それが問題になるとは思っていなかったですけどね。
青木:その直後に「いやあ、夕べこんなことがあった」とかそういう事では、そういう言い方はされなかった。
美寿津:そういうこと。こともなげにしゃべったような気がしますけどね。
青木:なるほど。
坂上:夢を見た……
美寿津:そうですね、夢を見たというような話をしました。
青木:なるほどね、それがだんだん重い事になっていったような感じなんでしょうね、自分の中で。
美寿津:そうです。周りの方が騒がしく。
青木:一つの大きなポイントですね。松澤さんの。
美寿津:昔は詩を書いて、詩人だって言っていたようですね。横浜の方に主人に会いに行って。その時に人見(勇)さんって方が生きてらして、その方が遊びにいらしたり、私も結婚してからね、この子が生まれる前に遊びにいらしたり、して。物静かな方がいらして、二人で何をしゃべっているのかな、って気がしましたけどね。お泊りになって。そして詩集見たらかなり二人とも一生懸命書いてましたね。
坂上:オブジェを消せっていう、松澤宥を語る時にはいつもこの1964年の6月4日に啓示があってオブジェを消したんだっていう伝説みたいなものになっていますけれども。それはそこで(聞いた後で)ごろっと(行動や考えが)変ったわけでなくて、何となく(徐々に)。
美寿津:そうですね。
青木:そうですね。
坂上:人間がそこでがらっと変ったわけでなく、普通に。
美寿津:そうですね。ああいう事があったから変ったとかそういうこと感じませんでしたね。自分でもあんまり感じてなかったかもしれないですね。その事についてしゃべったことはなかったですね。ただ、いろいろな方が、騒いだみたいに、いろいろおっしゃってくださったけど。
坂上:久美子さんは何か覚えてますか?そういう……
久美子:覚えてませんねえ。
青木:64年だと、(久美子さんは)15歳とか14歳とか、中学生くらいかな。
久美子:普通の生活をしていましたので。家族で。特別その、父が何かね、いつも美術をしているとか描いているとか、そういうのが全然なかったんですね。あの、普通に出勤して帰って来て。
青木:うちのお父さんはどちらかというと数学の先生みたいなそんな感じの。
久美子:そうですね。
青木:美術の方の先生じゃなくて、数学の先生ですっていう印象の方が強かったかもしれないですね。
美寿津:だけどその読売アンデパンダンの前は、一生懸命描いてましたよ。何であんなに寒い晩にしなきゃいけないんだって、毎日毎日って。もっと前から描いていればいいのにって思うくらい、もう寒くて震えながら。こたつにあたりながら出来ませんし。ねえ。
坂上:この間初めて蔵に行った時に、久美子さんが小さな頃に入ったっきり一度も入った事がないみたいなことをおっしゃってた……
青木:蔵に?
久美子:いえ、お蔵はそうでもないんですよ。プサイの部屋にはね、私はあまり入りませんでしたね。母なんかはほとんど入っていないですね。
坂上:あの部屋はもっと昔からあったんですか?
美寿津:私が行った時はもうありましたね。
久美子:プサイの部屋?
美寿津:あ、プサイの部屋?蔵のことかと思って。
久美子:お蔵はねえ、それこそ物を入れ替えしたりする時にはついて行ったりしましたので入りましたけどね。
青木:まあ、普通の蔵っていう感覚だったんでしょうね。
美寿津:何代か前からあって古いですから。おじいさまやおばあさまの着物ですねえ、それとかお布団とか、おばあさまが結婚の時に持ってきたお布団とか、新しくって、押入れに仕舞ってあったりして。昔はこういうものを持って結婚したんだなって思うような。いっぱいありましたね。だんだん時代が変ってきて、私達のものも入れるようになりましたけどね。
青木:そうすると、松澤さんとプサイの部屋っていうのは……プサイという言葉は結婚される前の詩の時代からプサイという言葉使ってますね。松澤さんの詩のタイトルか何かに。その後、プサイの部屋、今我々が知っているプサイの部屋というような形は最初は無かったと思うけど、それは結婚された当時からあそこの部屋には出入りされてたんですか?
美寿津:いいえ。
青木:やっぱり64年のオブジェを消せ以降……くらいですかね。
美寿津:そうですね。
青木:あそこに物をこう置き始めて。
美寿津:何でもお蔵に持っていって。
桂子:プサイの部屋。
美寿津:子供たちの通信簿、あんなのも全部とってありましたし、棚に全部並べてましたし、何せ子煩悩でしたから。
青木:ということはプサイの部屋というのは、特別な部屋じゃなくて、押入れっていうか、物置のような感じになっていたのがだんだん松澤さんの何か重要なそういう……場になって行ったっていう。そういう意識がぐっと入っていったんでしょうね。普通はものを置くための屋根裏部屋だったのが、松澤さんにとって一人思考したりとか、何か詩を書いたりとかだんだん変容してきたという。
美寿津:そうですね。そこで何か詩を書いたりとかしていたってこと、見た覚えがないですけど。書いたものを持って行って棚に並べていたのは見たことがある。
青木:そうですか。なるほど。
美寿津:何しろお姉さまたちはみんな結婚して、男の子で一番最後に生まれたものですから、兄弟で遊ぶなんてこともありませんしね。だから、それこそ勇ましい遊びなんてしていなかったし、おとなしかったですね。
青木:だから普通に考えるとお姉さんが4人ですか。で、最後の男の子が一人っていうと、性格が形成されていく上でかなり。
美寿津:そうですね
青木:自分の立場とかかなりありますよね。自分が口に出してわっというよりも、自分の中でぐっと考え込むとか何となく分かったような気がしますよね。遊びにしても。
美寿津:責任感みたいなものはなかったですね、きっと。男の子で初めて生まれて、周りは喜んでいるけど、だから大変なんだ、しっかりしないといけないっていう、そういう責任感みたいなものは無かった。
青木:無かったですかね。
美寿津:甘やかされて。
青木:ああ。お姉ちゃん可愛がってくれて。ああなるほど。
美寿津:親も可愛がって。本当に、甘えてはいませんでしたけど、しっかりはしていましたけど、頑丈な強い男の子って感じじゃなかったです。
久美子:下に4人女の子がいましたらね、もっと責任感もあって変ったでしょうけど、上の4人兄弟で女の子ですので。
青木:逆ですよね。一番上の男の子だとちょっと妹の事考えてって思うけど、そうじゃない。うーん。
美寿津:だから女の子みたいにおとなしかったですね。
坂上:ちょっとだけ事実を確認したいんですけども、瀧口修造さんの文章の中で、プサイの座敷について書いてある(注:瀧口修造「松澤宥に招かれて」『プサイによる松澤宥個展』青木画廊、1963年)んですけれども、1963年に(この文章が)書かれた時点で、「数年来にわたってプサイの座敷を訪ねている」とあるので、1964年頃からということではなさそう。
青木:ああそう。その前からもう、何かその場は形成されていたわけだな。
坂上:それでまあ瀧口修造さんが訪ねたり、誰かが訪ねてきた折に、その、秘密の部屋じゃないけれども、ようこそって感じで、招き入れていたような感じでは。
美寿津:ああ、瀧口先生はとても尊敬するというか崇拝するというか。何度かいらして下さいましたが、二人とも静かに話をしてました。それで、「お泊りください」って主人が言ってましたけど、初めのうちはお泊りにならなかったですけど、そのうちに泊まって下さるようになって。
青木:ああそうですか。
坂上:今日、私達がいつも坐るあのソファのところの裏のキャビネットの中に瀧口修造さんからの贈り物が。
桂子:リバティーパスポート。
坂上:交流があったのだと。
美寿津:本当に、二人でいますとね、おとなしくって。「嬉しいのかしら」って思いましたけどね、静かにしてましたね。
坂上:瀧口修造さんもよく訪ねて来られたって書いてありますけど、例えば、この間も話に出たギルバート・アンド・ジョージさんとか(1975年松澤宅訪問)。何か思い出に残っているお客さんとかありますか?特に昔とか今とか関係なくて、普通に家族と一緒に団欒している場にお客さんとして招き入れてきた人で面白かった人とか。
美寿津:やっぱり一番印象にあるのは瀧口修造先生ですね。静かに話して。あの方も静かに話してらして。後は、美学校の先生がいらしたね。
久美子:美学校の先生と生徒さん達かしらね。
美寿津:生徒さんたちも来ましたね。
坂上:今泉(省彦)さんとか。
美寿津:今泉さんいらしたわねえ。
坂上:水上(旬)さんなんかもねえ、毎週毎週。
美寿津:水上さんもいらして、静かにしていらして。
坂上:お客さんの多い家だったんですね。
美寿津:昼間(家に)いましたからね。大概は。男の方って夜なんでしょうけど、うちは昼間いましたからね。昼間訪ねて下さる方があって。
久美子:お泊まりになった方も何百人って。
美寿津:うちから外に行って泊まることはなかったですね。
久美子:父がね。
美寿津:うちにお客様いらして泊まる方はたくさんいらしたけど。
久美子:長野県は都会から離れてますのでね。日帰りではなく、いらっしゃるとそのままお泊りいただくって、もし都会に住んでいたらまた違ったのかもわからないですよね。だから、訪ねてくださる方は必ず。
美寿津:何か星を見る会がありましてね。その時、珍しい星が出る時でして。そしたら美学校の生徒たちを呼ぶって主人が言って。美学校の帰りに何人か連れて来たんですよ。それで朝方、星が出るんだって言うんです。そしたら、あ、夜だったかな。そしたら何人かそれを見てきて。何人かぞろぞろと(星を見に行って、帰ってくる時は)十何人かうちにぞろぞろ連れてらして。帰ってくる時に、全然関係の無い方が、何でついて歩くんだろうって、後ついてきて。うちまでついてきて。帰りに。そしたらね、その子供が聞いたんですって、美学校の生徒に聞いたら「美学校の先生で遊びに来い」って聞いたから「行かないか?」ってどうも言ったらしいんです。そしたら来たくて、何人か全然知らない人が入ってきて。寝るところがなくなっちゃいましてね。それで。ミシンの、ピアノだったかな?何かの下に寝たりしましてね。朝になったら知らない人が何人かいて(笑)。
坂上:猫も沢山飼われていた……
美寿津:猫19匹。
青木:19匹!
坂上:じゃあ、猫と人間が入り混じって。
美寿津:猫がねえ。猫ジステンパーってありましてね。それで一匹かかるとうつるんで、で、隔離するんです。それで私、お部屋が沢山あって、人数少なかったものですからね、重症の猫が5匹いるとか、軽症2匹とか紙に書いて、どれがどれか忘れちゃうから、これが1匹とかこれが2匹とか書いて貼って、って貼り紙して。ご飯やる時はそれを見てやるんですね。
青木:それで松澤さんは猫の世話は一生懸命やるんですか?
久美子:はい。
美寿津:それまで私知らなかった、犬や猫を好きな事。それで寝ないで。犬でも猫でも、夜中に苦しくなると飛び出るんですよね。そうすると何処に行っちゃうか分からないし、猫なんか……
久美子:身を隠すって言うから。
青木:死ぬ前は身を隠すって言いますねえ。
美寿津:だからね、いなくなったら可哀想だって言って。自分の手と猫の足と縛って。
久美子:自分も寝てしまうから分からないでしょ。動くと……
青木:紐が引っぱられて目が覚めると。しかしそれは普通を越えてますよね。まあ、19匹飼うというところも。
美寿津:いつも19匹いたわけじゃないんです。
青木:一番最高にいる時に、19匹。それでもそれだけ猫を飼うって何やろ。
美寿津:もうねえ、猫にご飯をやる時って、廊下に大きな段ボールみたいな箱、段ボールよりも浅いのを自分で貼って、周りを貼って、縁を作ってそこの中に全部入れて食べさせて。
青木:松澤さんは犬より猫っていう感じでした?
美寿津:初めは犬でした。
青木:初めは犬だった。
美寿津:その次からだんだん猫に移って。
青木:猫に移って。
美寿津:猫の子供が生まれて。(死が近づいてくると逃げないように)腕で縛って。で、夜中に起きると引っ張ると自分も起きて。
久美子:やっぱりとうとう死んでしまいますよね。そうすると必ず泣いて。可哀想って。一晩泣いてから。
美寿津:畑に沢山木がありますね。その木の根元に埋めるんですよ。そしてもちろん戒名なんか無いけれど、名前を付けて、何とかって書いて埋めて。そして主人のいとこが松澤聖人っていうお坊さんがいたんです。その人に拝みに来てもらったんですよ。初め、たまたま猫が死んでお墓を作った時に松澤聖人がいらして。で、猫でも拝んでもらえるかしらって頼んで。それから頼まれると来てくれて拝んでくれて。でもやっぱし私見ていると、どんどん死んでいく、弱いですからね、猫は、犬よりも小さくて。だから可哀想でね。その死ぬのが可哀想。
久美子:この間ね、お蔵の前のうたかたを整理してましたら、すごいミイラになってしまった猫ちゃんがいました。
坂上:プサイの部屋の中には「我が最愛の友」って書いた……
久美子:骸骨がありましたね。首だけありましたね。
美寿津:いやーん。
久美子:ミイラがあった。もうすっかり形(残)してましたね。
美寿津:(お蔵の)中にあった?
久美子:外に。
坂上:箱か何かに入って?
久美子:ううん。多分死ぬ間際に身を隠したんでしょう。自分でね。動かなくなってしまって、ミイラになってしまって。すっかり猫の形で。
青木:最近ですか?
久美子:去年の7月頃ですね。8月に(蔵の片付けに青木、水上旬、坂上で)いらしていただいたから、7月頃。
桂子:捨ててしまったの?
久美子:ううん、ちゃんと写真を撮って。
美寿津:もう猫が絶えたのは10年くらい前で。
久美子:もっと前じゃないかしら。
青木:猫でそれだけだと、犬だととてもしんどくて飼えないんじゃないかなって気が僕なんかしますね。
美寿津:犬のほうが活発ですね。
青木:それにこう、猫ってあんまり情が通う感じないでしょ、犬に比べると。
久美子:ああ、そうですね。
青木:犬はもっと情が通う感じじゃないですか。
美寿津:動きが活発ですね。
青木:だからそれを飼っていたら松澤さんもっとぐんぐん、犬だったらもっと来ちゃうんじゃないかねえ。
美寿津:そうですねえ。猫だったから。
青木:犬は悲しい顔をしますからねえ。嬉しい顔もするし。
坂上:猫はいつ頃まで。
久美子:18年飼ったのが最後に、何年前かしら。
桂子:私が中学生くらいだったから。
美寿津:お姉さまのところに行っていて。で、「今日は大変だったんだよ」って言って。亡くなってたのよね。
久美子:本当に、お夕飯の時なんかもね、おさしみなんか買ってきますでしょ、そうすると自分は食べないで、全部19匹の猫にひとつずつ分けてあげて。お相伴。お酒飲む。お酒が美味しいんですって。自分でいただくより猫が喜んでくれた方が(笑)。
美寿津:それでね、夏なんかねえ、ボーナス頂いても、みんな猫の病院に。
久美子:猫ジステンパーの時に。
青木:猫の病院代に要っちゃうわけですか。
美寿津:うちからね、猫の病院に連れていく時は、もちろんうちであれするんですけど、岡谷の辺にね、往診する方がいらして、行く時はうちに寄っていらっしゃるんですよ。やっぱし往診だ。だから往診代が。
久美子:獣医さんが上諏訪にもいらして。
美寿津:でも、途中に寄って往診だって言って立ち寄ってねえ。
久美子:タクシーで連れて行ったりもしましたね。
美寿津:でもそのおかげでこの子たちも動物好きになりましたねえ。
久美子:夏休みとか、桂子達が遊びに来ますねえ。夏休みになると。そうすると玄関開けるとまず、うちに入らないで、まず、お墓、畑に行って、それぞれの猫のお墓があるわけですけど、そこに行ってお参り、お祈りしてからうちにって感じでしたね。
美寿津:そうなんです。そういう猫に対する優しさも主人から行っていると思いますね。私が子供の頃はずっと犬を飼ってましてね。もう、私の傍に、学校に行くまで犬がいて、帰ってくると待っていて玄関にいて。だからずっと動物から離れたことが無かったんですけど。主人もまたそれ以上ですね。何倍か。だから私があんまり犬を大事にしたから、だから主人もそうなったのかなと思って。思ったこともあったんですけど。
青木:猫好きだったら、ま、1匹で充分の人もいるし。せいぜいでも3匹くらいかなって思うのだけれど、10何匹飼うっていうのは普通の猫好きじゃ納まらない何かがある……
美寿津:あのねえ、増えるんです。
青木:あ、増えるのか。
久美子:広告を出すんですね。そうするといろいろな方がもらいに来てくださるんですけど、それでも……
青木:もらわれないうちに増えていくわけですね。
美寿津:もう何回出したことかね。猫好きの方にって。すると必ず翌日くらいに。
坂上:じゃあ、変な話ですけど、去勢して……
久美子:そういうことはしませんでした。
青木:それでまあ飼える猫はお墓があってちゃんとお参りしてって、ってやるわけですね。ひとつひとつ。だから、そこもまた松澤さんらしいっていうか、猫が可愛いっていうか、やっぱり命のことがだいぶ重いんじゃないかな。
美寿津:そうですね。
久美子:そうですね。
青木:生きていたものが死んでいくっていうことをやっぱりしっかり受け止めていたんじゃないかなっていう気がしますね。
美寿津:猫が死んだ時にね、ものすごく悲しそうな顔をして泣いていたことを思い出しますね。それで、私と二人でね、泣いたことがありましたね。廊下の板の上で二人で泣いてねえ。私はもらい泣きですけど(笑)。
全員:(爆笑)
美寿津:主人が泣くものですから(笑)。そしたら松本の方から猫ちゃんの餌っていうか、ご飯、キャットフードをとってました。そうしたらある時、「おたく、猫屋さんですか?」って言われたんです(笑)。「いえいえ、ただ好きで……」って。
久美子:48缶入ってるんですね。それを3ケース位いつも注文するんです。下諏訪にはそれが無くって、いつも松本から持って来ていただいて。あまりにも量が多いでしょ、普通のうちで買うにしては。だもんですからね、猫屋さんっていうか、ブリーダーさんっていうか。お仕事かと思われてましたね。
美寿津:だけど、芯から可愛がってましたね。優しい人だなあって思いました。具合が悪い猫がいたら首を撫でてやったりして。してましたねえ。
坂上:久美子さんなんかに対しても声を荒げることなくいつも……
美寿津:叱るなんてことなかったねえ。本当に。猫も子供も。
青木:夫婦喧嘩もなかったですか。
久美子:見たことなかったですね。
青木:そうですか。
美寿津:「夫婦喧嘩って何でなるのかしら」って思うくらいでしたねえ(笑)。
青木:僕、もう帰らせてもらいます(笑)。
坂上:幼心にお父さん怖いとかって。
久美子:全然。無いです。静かなおとなしい父でした。
美寿津:この子が結婚しましたでしょ、お婿さんと。いっつも私が言うんですよ。「お婿さんに優しくしてねえ」って。「もちろん!」って言ってるんですけど、本当かねえ?(笑)。
坂上:桂子さんも、松澤宥さんが怒ったりとか声を荒げたりとかって見たこと無いですか。
桂子:無いですねえ。優しい。穏やかだったですね。ずっと。怒ったところは無いねえ。
久美子:私はたった一回ね。そう言えば!思い出すのは。近所の子と障子をこうやって破いたんですね。そしたら怒って、お蔵に入れられたんです。
美寿津:あ、わざと破いたのよね。
久美子:そうそう。男の子と一緒に破いて、(障子を破いたのを)男の子のせいにしたんですって。
青木:そのことに怒られたんだなあ。ああ。
久美子:その位ですね。
美寿津:けんちゃんって人。
青木:それが松澤さんが美術の方で、松澤さんをイメージした時に、ちょっと何かこう、違う、優しくないって意味じゃないけど、もうちょっとハードでカリスマ的な何か感じがあるでしょ。松澤さんの周辺の人達見てると。惹き付けてくるような。惹き付けるって言うのは優しさもあるけどやっぱり結構強いものもあるんだと思うんだけど。それは家庭ではそう(おだやか)だけどアートの方ではそう、もっと別の強いものが出ていたんだろうかねえ。
坂上:私は水上さんと話した時に、水上さんが週1回(下諏訪の松澤宅に)通ってる(いた)って事にまずびっくりして。普通の家に週1回知らない人がしょっちゅう……例えば自分の家に知らない人がしょっちゅう来るっていうだけでも、別に邪魔っていうわけじゃないけど、そういう人が、美学校の学生も来れば、駿河ジョニーさんも来ればって。沢山沢山お客さんが来るわけじゃないですか。そういう人を皆こう、嫌がらず招き入れる、っていうか美術に対する姿勢っていうこととは別に、まあ、何人も拒まずっていう……そういうのをすごく感じますね。
美寿津:そうですね。私の方がねえ、こう、昔は洗濯機とか無いですから、手で洗うでしょ。だから寝巻きを洗わないといけないでしょ。お天気が悪くても良くても前の晩泊まったら洗わないといけない、また次の方が見えるかも分からない。洗濯するのが大変でしてね。そしたら、うちのすぐそばに主人の姉が住んでいて、「美寿津さん、大変ですね」って言われたけどねえ、本当にお洗濯が大変でした(笑)。食べるものはねえ、そういうあんまり豊かな時代じゃないから、ご馳走とか作れなかったですけど、夜具とか洗うのが大変でしたねえ。
久美子:それでもね、(1971年に)瞑想台作りましたでしょ。その時に美学校の生徒さんとかお弟子さんとかニルヴァーナの皆さんとか皆お手伝いして下さったんですね。10日間位でしたかしら、毎日泊まられて。そして瞑想台に行かれるんですね。そしたら母が……、一日として同じ献立が並ばなかったんですって。毎日毎日工夫して。それも沢山の人数ですよね。そのことを後々に語り草のように伺って。「皆で伺って、だけれども、一日として同じメニューはなかった。感謝する」とかね。そういう風に表現して下さって。
坂上:多い時は一度に何人位だったんですか?
美寿津:泊まらなければ何人でも来れるわよね。
久美子:泊まられたのは18人か19人位か。一番多い。瞑想台作る時は。
美寿津:テーブルの下に寝たりしていたんじゃないかしら(笑)。
久美子:でもそれはすごく楽しかったです。
美寿津:でもねえ、美学校の生徒さんたちも、皆いい人でした。苦学生もいましたし。心持ちの優しい方が多かったですね。世間は私知りませんけどね。みんな優しいなって思いましたねえ。
青木:その時も松澤さんは、夜間の高校の先生やって見えられたでしょ。そうすると例えば今回は松澤さんのところとか、今年は松澤さんのところで、来年は誰のところとかいうんじゃなくて、だいたい松澤さんのところに集中していたでしょう。
美寿津:そうです。
青木:だから一番大きな・・・…人が松澤さんのところに寄って来るっていうのは、何かこう、近くで見られた時に、何故だろうって思われなかったですか?
美寿津:あまり思わなかったかもしれないですけど。でも、優しく受け入れてましたけど。
青木:ああ、やっぱり優しく受け入れる力。
美寿津:だから、忙しい時も、忙しい時も「出来ません」なんてもちろん言いませんしね。
青木:そうでしょう。だから普通ねえ、疲れちゃうよね。それも普通の人じゃなくて、ちょっと濃い人が多いでしょう。そういう人がねえ、10日間、10何人泊まり続ける、また集まって来るとか、ひょこっと来るとか、普通は相当これハードな事ですからね。普通は。それは、松澤さんが惹き付ける何かを持っている事が、つまり優しく受け入れるって事だけど、普通はなかなか優しく受け入れられないねえ。疲れちゃって。
美寿津:皆べらべらしゃべっているわけでもないしねえ。
久美子:いつも皆夜中までお酒を。
美寿津:お酒は皆好きだったね。
坂上:松澤宥さんもお酒はよく飲んだ?
美寿津:好きですねえ。酔って管を巻いたりはしませんけど、お酒は好きだったね(笑)。好きでしたね、お酒。
青木:あ、(時間が)2222だ。
坂上:あ、4321。
全員:あ、ほんとだ。4月3日(気温)21度。22時22分。
坂上:ぱっと見たら、さっき22時22分22秒だった。私目がいいから。
久美子:ええ??
坂上:今36秒だけど。私目がいいから。秒数まで見えて。
青木:うそ、ほんと?
美寿津:よく主人言ってましたよ。2が続くとか、言ってたわよね。
桂子:私も昨日時計見て2222って。
坂上:ここのマンションのオートロックの時も(押そうとすると自然に)「2222」が出るって言ってましたよね。
美寿津:私はね、それ未体験でね。どうしても。2~3回2が続いたって貴方(久美子)言ったことがあったけど、それまでどうしても2が続くって分からなかったですけどね。
坂上:皆さん2が気になる?
久美子:気になるわよね。
桂子:この間2月2日の切符を買ったもんね(笑)平成22年2月2日の切符。
坂上:でもそういうのって、松澤宥さんは、ずっと新聞でも何でもずっと「ゾロ目」切ってやってたりとか。そういう影響をご家族の方も何となく感じるんですか?私もゾロ目が好きとか。
久美子:それは思いませんでしたけど。
桂子:私ゾロ目が好きだから、ゾロ目の日に諏訪大社で結婚式をして、一緒に暮らし始めたのも8月8日で。
巧(桂子夫):本当は10月10日からだったよね(笑)。10月10日はゾロ目じゃないけどね(笑)。
坂上:桂子さんは生まれた時から、まあ、おじいさんは名の知れたアーティストでっていうのは分かって。何となく。
桂子:そんなに。
青木:なかなか、名が売れてそんなに……っていうより「変った人」とか「変ったおじさんたちがよく来るな」とかそんな感じかなあ。
桂子:それはあったかもしれないですね。後は、東京に、私は神奈川に、物心付いてすぐ住んでましたけど、東京に出てくる時は神奈川(の家)に来て、都内の画廊に連れて行ってもらったりとかそういうのがあって。大人が回りにいて、にやにやしながら話をしているなあ、みたいな風な。なんだか楽しそうにしている大人がいるなあっていうの位。変な人だなあって思ったのは、小学校の朝、私が学校に行くのに、登校班まで見送ってくるのが好きだったり。あと学校が終わると、自転車で校門の近くまで迎えに来ていて。ねえ。私を乗せて、自転車に私を乗せて、わざわざ真っ直ぐ帰らないんですね。道をわざわざ道幅いっぱいにくねくねくねくねって(蛇行しながら帰る)(爆笑)。それで、「もうやだやだ」って言いながら、それを楽しんでいたのは覚えてる。子煩悩っていうより孫煩悩。思いますね。その時母が三輪車に乗ってまして、前は一輪で後ろが二輪で、そこに私と妹を乗せて、それに祖父も同じように私と妹を乗せていたよね。
久美子:そうですねえ。
桂子:くねくねくねくね。
久美子:そうしました。小学校の入学式卒業式、中学入学卒業、全部。大学まで。全部。
青木:大学の卒業も。
桂子:はい。2004年の3月。
久美子:私は来てもらったことなかったんです(笑)。入学式は。父も(勤めている)高校の入学式で。一緒でしたでしょ。4月1日。父も高校の現役の教師だったから。重なってできませんでしたから。
坂上:そういう気持ちを桂子さんの方にかけたのかなあ。
桂子:そうかもしれない。他の従兄弟の入学式にも行ってました。結構、行ける時には行っていたと思います。それに合わせて上京して、画廊で何か用事を済ませて帰るとかしてました。
久美子:本当に、それは子煩悩っていうかこまめ。
坂上:すっごい、その愛情の深さというのか、すごいですね。猫に対しても孫に対しても。別に猫と比べるわけじゃないけど。普通そこまで……
久美子:しませんよねえ。
坂上:愛着というか愛情みたいなものがねえ。
青木:それで、松澤さん以降の、若い、っていうか、例えば小清水(漸)とか関根(伸夫)さんとかの、世代の人の何倍も(松澤さんは)外国を行き来してるね。松澤さん。そこもすごいねえ。この諏訪で先生やって、活動して、そういう人たちも来て、なおかつ外国もねえ。いろんなところ行ってる。静かだけど秘めてるパワーというか行動力っていうか、それはもう並外れたものありますね。
美寿津:何か大きな声であれすることも無かったですねえ。あの、怒鳴り散らかすことも無かった。覚えがありませんけどね。だけど、芯が強かったですね。きっと。
青木:でしょうね。大体、仲間のニルヴァーナの人とかそういう人たちといる時は、真ん中坐って、結構難しい顔してますよね(笑)。
美寿津:ああそうですか。
青木:にこにこなんて顔まず見ないよね。こういう時。何かそういう、それも松澤さん意識していたと思うんだけど、何か、だから傍から見てるとすごいカリスマ性というか。あるように見えるんですよね。どうしたって松澤さん以外が中心にいるという印象は全然持てない。
坂上:家族に対する愛情とか、人に好かれるというのもあるけど……。松澤さんのカリスマ性みたいなもの、例えば、ニルヴァーナの合宿(注:1970年8月12日から3日間会場スペースが漸減消滅するという形式の〈ニルヴァーナ~最終芸術のために〉を京都市美術館で開催。会期中出品者、参加者全員地獄谷不動尊本堂で合宿)でも、(集まった人達が)倒立、逆立ちをしたりとか(そういう写真が残っている)(注:インタヴュー当時の思い違い。実際倒立の写真が残されているのは1979年銀座絵画館個展クロージングパーティ時)松澤さんがシャッターチャンスか何か構えていて、(松澤さんの構えている前で)何人かが(一斉に)逆立ちとかしていたりする写真を見た時があって。
久美子:えー、そうですか。
坂上:それ(松澤さんの前で皆が一斉に倒立をしている写真)を前に、池水(慶一)さんに見せて「これどういう事してるんだろう」って池水さんに見せたら「多分松澤さんが、世を逆さまに見てみようよ、みたいなことを言ったら、きっとその周りにいる人が、それを真に受けて逆立ちしたんだろうって」
久美子:へえ。
坂上:言うんですよ。松澤宥さんは何を考えてそういう風に言ったかっていうのは分からないけど、回りの人がだんだんだんだんそういう松澤さんをカリスマみたいに思ってきて、何となく歯車がおかしくなってきて、発言の一つ一つが、神秘性を帯びて、世を逆さまに見てみようというだけで逆立ちをしてしまうまでに、他人を動かしちゃうっていうのがあるんだなってすごい不思議に思った。
青木:パフォーマンスも変ったパフォーマンスする人が多いもんね。
坂上:松澤さん自体は普通にやってるだけなのに、周りの人が何かわりと受け取り方が、何か、グルが何か言ったみたいな感じに受け取ったりとかしているような。すごく。
久美子:そうですか。
坂上:感じたりしました。
青木:多分松澤さんもそういう人たちの中では、存在感の質が、そういう要素を持っていたんだろうって、感じ。
坂上:でも実際は、自分の家に招き入れて、奥さんの手料理で接待して、洗濯もして、普通の生活をしていて、特に何もやっていないのに、周りがそういう風になって来るっていうのは、何か松澤宥さんにそういう人が惹かれる何かがあるのかもしれないですね、すごく情が厚い人とか、その人の気持ちになって考える人とかいると……何か、例えば人に相談したりする時、冷酷に「そんなの駄目だよ」って言われたら「ああそうですか」って引っ込むけど、そこで熱心にいろいろ親身に返してくれると、向こうは自分を理解してくれたと思ってどんどんどんどん引き込まれて、反対におかしくなっていくっていうようなパターンもあるから、そういう感じも松澤さんの中にあるのかなって。
久美子:ああ、そうかもしれませんね。
坂上:愛情が深いから。周りの人が皆、特にちょっと変った人とか、淋しい人とか、自分のことあんまり理解してもらえない人なんか、松澤さんの愛情みたいなものに接すると、こう、ころっといくような。そういう力がある。情が深い。そういうのがあるような気がします。
久美子:そうかもしれません。そういう、一度言われたことがあるんですけどね、父が亡くなってから、しのぶ会っていうのをしてくださったんです。そして、席を設けてくださった時に、私の両脇にいた方が、美学校の生徒さんと、もう一人、どなたかしらね、瀧口修造先生の研究されているって方だったんですけどね。他の作家さんたちのところに、行くと、何かあまり話を聞いてもらえなかったり、自分のことばっかりしゃべる人が多かったんですって。ですけどうちの父はすごく聞き上手で、すごく真剣に聞いてくれたし、とても何て言うのかしら、他の方と違ったところがあって、遊びに行かせてもらい易かったし、何て言うのかしら、周りにいたいな、っていう気持ちにさせてくれたって。周りの方がおっしゃってましたね。だから、ああ、そういう力があったんだなって思ったんですけど。うん。
青木:なかなか出来そうで出来ることじゃないんですよね。ちょっと。
坂上:しんどいもん。
青木:普通の人たちじゃないですよね。まあそういう美術っていうか。そういう人たちを認めてっていうか。大変だよね。
坂上:どこか、中途半端に聞くけど、それ以上来ると「いい加減にしてくれ」っていう風にしてしまうのが、ほとんどだから。
久美子:ですから「松澤さん決してそうじゃなくて、最後まで快く聞いてくれて、相談に乗ってくれて、ですから、皆が寄ったと思いますよ」って。「皆が近寄っていったと思いますよ」って。そうおっしゃいましたので、びっくりしましたけど。
坂上:興味があってさっきもお話。安部ビートさんとか、ずっと精神病院に入っていて。まあ他の人に好かれていたとは言えなくて、厄介者で、随分こう、人を騙したりとか、そういう、ちょっとあまりいい人じゃないと言うか、悪な部分があった人だけれども、松澤さんにだけは全然違うんですよね。本当に。
青木:素直に話を。
坂上:懺悔みたいなことをいつもする。松澤さんにだけ。いつもこんなことしてすみません、みたいな。
美寿津:安部さんって。
久美子:安部健司さん。
美寿津:安部さんって今どこにいるの?
久美子:亡くなられた。
青木:確か自死されたんですよね。僕が、送った時に「(郵便を)安部さんに送りたいんですけど」って言ったら、「プサイの部屋にいます」って。「彼、あそこにいるから」って松澤さんが。
久美子:入院している病院にまでお電話してましたもの。父が。後、何か、何て言うんでしょう、病院も、精神科医もでしたけど、悪い事して、警察の施設に入って、刑務所に入ったりとか。そういう時にも面会には行ってなかったかしら。でも手紙よく上げてましたし、いただきましたし。すごく安部さんは、なんて言うんでしょうね。
青木:もうちょっと広げて言うと、やっぱり松澤さん、いい事も悪い事も、人間を見るっていうか、何かそういうどっかですごく客観的というか、それこそ人間とは何かみたいな、そういうものが一番底のところにあってそうやって接していけたんじゃないかな。単なる興味だけじゃなくて、何かそういう気がしますね。だから受け止められたし。話も聞けたのかなって。なかなか出来ることじゃないからね。普通参っちゃうからね。
坂上:カウンセラーみたいにね。職業だったらねえ。
青木:職業だったらね。「30分経ちました。また次回お出でください」ってねえ。
久美子:ああ、ごめんなさい。さっき私ね、22時22分ね、私すごく足が痛くて痛くて、父が来てるかしら、ここに(笑)。
坂上:足にきてる!普通、肩とか(笑)。
久美子:ここが。左足がさっきから痛くて痛くて。22時22分から。
坂上:もう2237(笑)。
桂子:それと同時に犬もおとなしくなった(笑)。犬が(宥に)似てる似てると思って仕方がなくって。
青木:なーる。ああそうだねえ、確かに。
久美子:父に似てるって。ね。
桂子:髪も長い感じがするんです。この(笑)。
美寿津:どっち向いてる?
桂子:こっち。
美寿津:こっちね。
桂子:人を受け入れるっていう事が、先生をしているっていうのがもしかしたら背景にあったのか、元からそういうことが好きだったから先生になったのか。多分戦後で、ここで諏訪で生きていくために教師というものを選んだっていうのが元にあるのか。私は知らないけどね。何か、そういう職業をしながら美術に関わったって言うのも少し関係あるのかなって何となく思ったりはします。
坂上:推理するんじゃないけど、本当に適当に言うと。例えばそういう定時制の学校に行く学生さんって恵まれていない人が多いとか。
久美子:そうなんです。
坂上:やっぱりそういう人に接するっていうのは、普通の教師じゃない態度を見せていかないと、辞めてっちゃうとかねえ。
久美子:そうです。
坂上:後は、蔵に初めて行った時に、
犬:クーン。
坂上:松澤さんの小学校の時の写真とか、中学校の写真とか見た時に、まあ、ほとんど皆(写真に写っている人たちは戦争で)亡くなったっていうのがここ(注:『機関13松澤宥特集』1982年、海鳥社)に書いてあったのが、すごくそれを思った時に、そういうのといろいろ今言った愛情の話と重なるようなのをすごく。
久美子:そうですね。
青木:それと、今日もちょっとそういう話をしていたけど、ああいうこう、同級生というか、近くにああいう青木(靖恭)さんみたいなああいう人たちとの交流があったっていう事も、何か大きい感じがしますね。松澤さん、ここに住んで、ここでやるんだっていう、そういう気持ちをもってずっとこう、普通はないですよね。大体東京に出ちゃうんですね。でしょ。
久美子:そういうチャンスは何回かあったみたいですね。その……大学なんかでね、「来てください」って言われても。
青木:ああそうですか。
久美子:ええ。
青木:「私は諏訪にいます」って。
久美子:はい。そういう風に。
青木:それは、もう一つは、我々はそういう風にあまり考えていないかもしれないけど、
犬:クーン。
青木:松澤さんにはもっと冷静なっていうか、もっと冷徹な視点っていうのがあって。そういう仲間とかそういうこともあるんだけど、自分は何か方向を持ち始めた頃に、この諏訪のシチュエーションっていうか、諏訪大社があって、ここに湖があってっていうのが、彼の美術活動の一つの外に向かっていく時の、シチュエーションとしては絶好だったっていう……
久美子:ええ。
青木:そういうものもあったのかもしれないですね。
久美子:ありましたでしょうね。うん。
青木:東京の松澤さんっていうと全然違うもんねえ。下諏訪のっていうとうーん。っていう。だからその辺もねえ、計算っていう言い方したらいけないのかもしれないけど、松澤さんの中には、しっかり僕はあった一つのビジョンの中に、一つの要素として彼は位置付けていたというような気もしていたと。
久美子:そうですね。演出していた。
青木:だからね、その、演出していたし、一つのそうやって一つの自分の像を作っていたっていうこと自体が、外から見た松澤のイメージをどう作るかっていうのが、非常に重要な問題だったと。それはフリをするとかそういう何かじゃなくて、もっと真剣な、もんだった気がしますね。だから今の状況を見ると、日本の中での松澤さんよりも、どちらかというと欧米の松澤さんの方が、評価っていうか、動いている、動いているというか、具体的にここまでコレクションされたり、展示するというか、日本よりはっきりしているような気もするよね。
坂上:71年に久美子さんが(宥と一緒に)海外に行ったじゃないですか。そもそも海外に行くっていうのは、フルブライトで留学して以来、2回目。
久美子:そうです。
坂上:そういう風に行ったきっかけって何だったんですか。
久美子:きっかけって何でしたっけ。展覧会をオランダと、3箇所(注:「ユートピア&ヴィジョン」展(ストックホルム近代美術館)、個展(アート&プロジェクト、アムステルダム)、ソンスビーク’71(アルンヘム野外彫刻公園、オランダ))でしていただいたんですね。それ、夏休みに合わせて。自分の夏休みに合わせてして下さるようにお願いしたのかしら。何か、ですから、一緒に、「行きましょう」って誘われたというか。
坂上:発表はずっと日本でやっていたけれども、どうして外国の人と接点を持ったのか。そういう事は。
久美子:ああ、それはねえ、多分英語が出来たからかも分かりません。やっぱり出来ないと誰かに通訳してもらったり、翻訳とか、してもらったりとか大変ですけどね。英語が出来ればね。お手紙も。今日も(整理していて)たくさん外国からありましたけどね。私は英語が読めないわけですから、英語が出来たってことは、やっぱり、世界は英語だけではないですけどね、随分、自分の中でも、気持ち的に、世界の人と話が出来るっていう風に考えていたのかも分かりませんよね。
桂子:家にいて、外国からよく手紙が届いていたとか。そういう事は。
久美子:しょっちゅう届いてましたよ。
坂上:60年代の。松澤さんが出かけなくても沢山来たとか。
久美子:ええ。
坂上:メールアートでとか。そういうので来るんですか?それに対して返事をして……
久美子:そうですね。
青木:来れば返すっていうのがきちっと出来ないとそういうことはないですからね。
久美子:ええ。
青木:松澤さん、もともと英語が達者だったんですか?アメリカ行かれて?ですかね。
久美子:ええ。
青木:2年間おられて。
久美子:ええ。
青木:やっぱりそれが大きいね。
坂上:それで夏休みの間にそういう展覧会をまとめて。
久美子:ええ。まとめて。40日行ってきました。結構、40日は長かったと思いますけども。すごい思い出ですよね。この間パリに行った時も、いろいろ思い出しましたもの。ルーブルに行ったら、あああの時はこうだったとか、ああ、あったなあとか、エッフェル塔初めて見た時の感激とか。後、凱旋門にも一緒に登ったんですけど、その時の事とかいろいろ。思い出しましたね。
坂上:それは松澤さんにそういう展覧会のオファーがあった時に、久美子さんに「一緒に行こう」って。
久美子:それはたまたま妹はまだ高校生でしたし、みんなでは行けない状態ですからね。母は諏訪に一緒に。でもその後は家族で、2~3回ヨーロッパに。母はずっと展覧会について行きましたし。何度も。トルコにも行きましたし。母はずっと一緒でした、展覧会。本当にあちこちでしていただきましたものねえ。
坂上:いつもご家族と一緒に必ず。
久美子:ええ。
青木:珍しいですよ。
坂上:普通は一人で。
久美子:そうですねえ。私、結婚してましたし、妹も東京にいましたから。母一人で置いておくのは可哀想だったんじゃないですかねえ。長野県にね。それでいつも。だったと思います。
美寿津:猫を親類に預けましてねえ。
久美子:そう(笑)。預けたよね。見守りに来てもらってねえ、泊まりに。
美寿津:そしてねえ、一匹預けたんです。そしたらそのうちのご主人がねえ、奥さんに「(自分ばかり猫の世話をするのは)ずるい」って言って、自分もお布団持ってうちまで来たんですって。ご夫婦で来たんですって(笑)。黙ってうちのあれに寝ないでね。うちは奥さんのお布団出して、「すみません。ここでご飯やってここで寝てください」って言ってたんですけど。ご主人もやっぱり留守の間に一人で黙って入ってはって思ったらしくて、お布団持ってきて二人で寝たんですって。だからねえ。主人も優しかったけど、あのうちも凄かったね、猫ちゃんが好きで。
坂上:普通は猫がいるから、奥さんが家に残ってっていう家の方が割と多い中で、一緒に(海外に)行こうって。
美寿津:やっぱしねえ、心根は優しかったですね。芯から。
久美子:外国ですと2~3日じゃないですからねえ。2週間や10日や、2週間は留守にしますから。ちょっと一人では可哀想だと思ったんじゃないかしらね。
美寿津:そして、上が全部女の子でしたし。主人。5番目の男の子ですから、特別に可愛がられたんじゃないですかね。だから。心根は優しかったね。
坂上:愛情に恵まれて育った人なんだねって人って感じが。
美寿津:しました。ですから、主人も人に対してそういう接し方をしてましたしね。
坂上:家の中も家族写真だらけですしね。壁が埋まるくらい。(笑)いろんなところに行った。1971年の初めての旅行は、ここに全部、自分で、旅行日程を組まれたんですか?
久美子:そうですねえ。組みましたね。展覧会の場所を中心に。
美寿津:ドイツに。
久美子:オランダと。
美寿津:ブゼムさん(Marinus Boezem)と。
久美子:あ、ブゼムさんと。ブゼムさんはまた家族と一緒に行った時で。この時はアート•アンド・プロジェクトさんのところにも1週間10日いましたし、ギルバート・アンド・ジョージさんのところにもねえ、1週間くらい。
坂上:タージマハル旅行団のねえ。
久美子:小杉(武久)さんと。
坂上:じゃあやっぱりここに誰がいる、ここに誰がいるって言って、ここで展覧会があるっていうのを事前にチェックして。旅程を組んで。
久美子:その点、父は夏休みとか、春休みとかねえ、お休みが長いですから、旅行出来ましたね。普通のサラリーマンの方でしたらそういう長い旅行って取れませんものね。ですからそういう点で恵まれていたんじゃないかしら。
犬:クーン。
坂上:旅行に行ったりして(松澤さんの旅行の記録を)いろいろ見ていると、何時何分何々、何処何処出発何時何分到着とかすごい……
美寿津:そうです。
坂上:すごい全部調べてるじゃないですか。
久美子:私もお友達とね、女の子3人で旅行する時も、全部計画立ててくれて(笑)。
坂上:時刻表も。
久美子:そうなんです。前も渥美半島の方に行ったんですね。そうしたら、塩尻で何時の電車に乗って、名古屋で乗り換えて、何時にって。とにかく計画を作ってくれて。それに沿って行きましたもんね。そういう風にやっぱり時刻表を見て自分で考えるのが好きだったみたいですね。それをもうずっと亡くなるまでそうでしたね。
坂上:じゃあ、もう張り切って、旅行日程組んで。
久美子:やっぱりね、定時制ですとね、昼間時間がありますから、いろんな事、作品も作れるんでしょうけど。いろんな事、作品以外のことも出来る時間がたっぷりあったと思います。ですので、私達のことをここまで考えてくれて。
坂上:この時は、飛行機でっていうんじゃなくて、新潟から出発して。
久美子:ええ。そうだったんです。それも、いい経験だったと思います。今なんか、船でナホトカまで行ってなんて。長い旅行が出来なければ、出来ませんよね、船旅は。短い期間ですとやっぱり飛行機でしょうけど、時間があったものですから、船も経験して、シベリア鉄道も経験して。楽しかったです。
うーん。そんな沢山はしゃべるわけじゃなかったんですけれども。それでも、お船の中でね、ソ連のお船でしたけれども、パーティなんかあって。そして、ダンスパーティなんかあったんですね。そしたら、(父と私と)一緒に踊ったりとか(笑)。それで、ウィーンに行った時もやっぱり街角で、いつもいつも皆ワルツしてるんですね。そしたら一緒に踊ったりとかね、親子で(笑)。いろんな経験しましたよね。でも、帰りの船が、もうすごく荒れて、横浜に着く時なんか、船長さんが「もうこんな怖い経験嫌だからもうこの船を最後に降りる、もう船長さん辞める」って言う位、引退しますって言う位、私もう、生きた心地がしませんでした。何時間も揺れましたし。
坂上:大しけみたいな感じで。揺れて。
美寿津:あの時ねえ。横浜に、
久美子:迎えに来てくれたんですけどね。
美寿津:行ったのよねえ。
久美子:何時間か遅れて。心配していたみたいですね。
美寿津:あの時どなたが迎えに行ったのかしら。
久美子:田中孝道さんと、岩崎(洋二)さんと。ニルヴァーナの方。
美寿津:田中孝道さんってご存知ですか?
久美子:ちょっと離れてしまわれましたけどね。昔は本当によく父の傍でいろいろとして下さって。ほとんど、瞑想台作る時も。良くして下さって。お葬式にもいらして下さったんです。
青木:ああそうですか。
久美子:何十年ぶりかでお会いしましたけれども。
坂上:行きは水上旬さんと。
久美子:送って下さいましたね。
坂上:(水上さんは)お一人で。
久美子:はい。
美寿津:そしたら水上さんが、この子たちを送り出してからね、私に葉書を下さって、あ、葉書じゃなかった、便箋に書いてあった。「お父様はこんな風で、久美子さんはこんな風で、お二人とは歌を歌いながら泣きながら別れた」とかって。横浜まで送って下さってね、あ、新潟。送って下さって。
久美子:泣きながら?そう?
美寿津:久美子さんが、牛乳嫌いなのに、向こうに行っても飲まないと困るからって、無理して牛乳を飲んで行ったって。そんなこと書いてありましたね。向こうに行って、ミルクが飲めないっていうのはね、食べるものに困るから飲むんだって、久美子さん我慢して飲んだって。そんなこと書いてあったわよ。水上さんが書いて下さったの。
坂上:日本食しか食べられなかったんですよね。
久美子:そうなんです。もうねえ。ずっと食べれなくって。デンマークでしたかしら。初めて中華料理をいただいて、後のところはパリとかロンドンとか日本食屋さんが、38年前ですけども1~2軒は当時もあったものですから、現地に着くと日本食屋さん探して行って。
坂上:他のところではどうしていたんですか?
久美子:もう、何もいただきませんでした。日本に帰ってきたら7~8キロ痩せてました。
青木:(笑)。ああそう。
坂上:今ではもう大好きなんですか。
久美子:今ではもう、飛行機食、機内食いただきますけど、その時は。父は心配性だったんです。父はとても。それですのでね、40日間で、一度だけ喧嘩した時があるんですね。ローマ、夏でしたからローマ40度もあったんです。それで、テルミニ駅で、街角でスイカを切って売っていたんです。私はとてもスイカが食べたくなっちゃって、「買って」って言ったんです。そしたら父がね、「当たったりしたらいけないし、衛生的じゃないから絶対買わない」って言ったんです。私は「絶対食べたいから買って」って言って。喧嘩になって。父が私のパスポートを預かっていたんです。そしたら「久美子にこのパスポートを返すからここで別れよう」って(笑)。
坂上:スイカの事で。
久美子:スイカの事で。
坂上:温和な父が。
青木:ああそう。
久美子:そう言われたら、私もう動けませんので、スイカは我慢しました(笑)。それ程ね、何て言うんでしょうかね、心配性でしたね。ですので、やっぱりああいうところで売っているものは衛生的じゃないですからね。旅の途中で具合悪くなっても困るからなのか。
坂上:せっかくなので、アルバムをちょっと。
久美子:これがそうです。
桂子:新潟港。海が見える。
久美子:いつもやはりね、どこの旅行に行く時でも、お宮さんにはね、お参りしてから行くんですね。これが恒例の。最初、お参りしてから行ってますでしょ。
坂上:どこのお宮さん。
久美子:諏訪大社の。いつも、何て言うんでしょう、お守りを頂いて。そして。
美寿津:そうそう。そうねえ、いつもね。
久美子:旅行の説明はいつもその場面から始まるんです。
青木:そう。
美寿津:うふふ。
久美子:はい。うふふ。
美寿津:あの、夜学に行ってましたでしょ。だから、科目は全部教えてました。
青木:あ、数学だけじゃなくて。
美寿津:国語から全部教えてましたね。体操なんかは教えてませんでしたけど。だからみんな教え子が仲良しでしたね。
桂子:今日もタクシーに乗ったら、運転手さんが教え子の方で、それでこの間私東京からここに来て、夜か朝か一人で東京に帰ったんですね。そしたら「松澤先生のお孫さんですか?」って。いつも乗るたびに、何度かタクシー使っていて、その人は感じのいい方だなって思っていたら、なんか「似てますよね」って言われて。もちろん何度も乗っているから、私達の話を聞いていたり、恐らく恐らくもしかしたら青木さんたちと乗っていた時にその方が運転していたりしていたかもしれないんですけど。どなたかと乗っていて話をしているから分かったっていうのもあると思うんですけど。それにタクシーもいつも予約する時、松澤でお願いするからね。覚えて声をかけて下さると、嬉しい気がします。
久美子:あちこちに教え子の方がいますよね。
青木:そうですねえ。
桂子:喧嘩したローマの写真もあるんじゃないの?(笑)
久美子:これずっとオランダの公園の中で展覧会あった時の写真ですね。いろんな方の作品で。(「ソンスビーク’71」展 アルンヘム野外彫刻公園)
青木:これはあの……
坂上:ソル・ルウィットじゃなくて?
青木:ルウィットじゃなくて。あの、ほら、もう一人、こういう……
坂上:何か、この写真見たことある。
久美子:そうですか?
坂上:これはオランダのそういうグループ展っていうか。
久美子:そうです。
坂上:そういう中で、これは日本から(松澤さんは「人類よ消滅せよ」の)幟を用意して。
久美子:はい、そうです。
坂上:ふーん。
久美子:オランダでアート•アンド・プロジェクトさんのところでさせていただいた展覧会と、それとは別にこの皆で。何人かの人たちとさせていただいたのと。2箇所。オランダはしましたですね。
坂上:ああ、「ソンスビーク’71」展参加の為って書いてある。「消滅」の幟を翻すって書いてある。あ、アーネムまで行って。
久美子:そうです。これはアート•アンド・プロジェクトの。準備しているところ。準備じゃないかな。もう皆さんいらして下さってる。この作品(色とりどりの折り紙が貼ってある作品)が現在……
坂上:MoMAに入ってる。(MoMA の作品DB上ではArt & Project からの寄贈作品のうち折り紙はUntitled でn. d.)これはどなたとどなたとどなたが手伝ったんですか(笑)。
久美子:この作品は私と妹と父と3人の共同作品です。この貼り付けたのは、私と妹で。細かい折り紙を。
坂上:それは日本で。
久美子:日本で作って。
坂上:それがMoMAに。オランダに行ってそのままになっていたのが今MoMAに入ってってことになって。
久美子:そうなんです。
坂上:この色をここに貼ってとか、指示があるんですか?それとも好きに貼らしてもらえるんですか?
久美子:好きでしたね。笑。ふふふ。あ、これ、飾り付けしてましたね。これ(写真に載っている作品)全部MoMAにありましたね。
坂上:アート•アンド・プロジェクトから(MoMAが寄贈を受けた)。
久美子:これ瞑想台の父(の写真)。71年ですね。
坂上:これはアート•アンド・プロジェクトの前。
久美子:そうですね。
坂上:あ、それでこれが「バルティン」(注:arts & projects発行の 『Bulletin』)かな。
久美子:そうですね。22号と44号と。
坂上:結構いろんな人が見に来てくれて。
久美子:そうですよね。この方、素敵だと思いましたら、有名なオランダの男優さんでした。この方。素敵だなあって思って。ちょっとやっぱり違うんですよね。そしたら。
坂上:一番最初に行ったのがオランダですか?
久美子:いえ。最初に言ったのは、小杉武久さんたちがしていらした……(『ユートピア&ビジョン展』ストックホルム近代美術館)
坂上:ということは、一番最初にナホトカで乗って。
久美子:降りたところが、ストックホルムです。写真で見ると、こういう感じで写真があって。
坂上:これは何かの会場。
久美子:会場でしたね。大きなドームみたいなところに。ずーっと演奏していらして。小杉さんたちが。
坂上:ライブ・イン・ストックホルム。
久美子:ええ。そこにやはり父が旗をはためかせてましたね。
桂子:行ったところに印が付いてます。(地図の上に)
坂上:ナホトカ、ハバロフスク、モスコー、ストックホルム近代美術館、ユートピア・アンド・ビジョン展、タージマハル旅行団と競演って書いてある。
久美子:そうですね。ストックホルム、コペンハーゲン。
坂上:ブレーメン、アムステルダム、ロンドン、パリ、モンブラン山、ミラノ、ベネツィア、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ウィーン。
久美子:それからまた日本の方に向けて。モスクワからナホトカ。そして。横浜港でしたね。
青木:向こうは汽車でずーっと。
久美子:ずっと汽車でしたね。全部汽車でしたね。ユーレイルパスっていうの。
青木:ああ。ありましたね、昔ね。
久美子:ありましたですね。
青木:どこでも。それがあればって。
坂上:71年7月28日AM3:35。
久美子:ああ!
坂上:下諏訪駅出発。
久美子:そうですね。私が書いたんですね。
坂上:それは深夜急行みたいな。
久美子:そうですね。朝。新潟に泊まった旅館ですか。これは。
坂上:吉田旅館。これ水上さんが送って下さったんですか?
久美子:はい。そうです。これ水上さんと一緒に泊まった旅館ですね。
坂上:新潟駅の。
久美子:近くかしら。あ、ナホトカ、ハバロフスク、モスクワ、コペンハーゲン、ハンブルグ。全部、細かく時間が!
青木:じゃあ、シベリア鉄道でずーっとヨーロッパまで。
久美子:新潟からナホトカまでお船で。そしてそこからハバロフスクまでシベリア鉄道で。モスクワまで鉄道ですと1週間かかるんですって。そこは1時間くらいで飛行機で。あとヨーロッパの中はずっとユーレイルパスで。
坂上:じゃあ、ほとんど1都市、2日か3日くらいで、アムステルダムとかは。
久美子:アムステルダムも。
坂上:仕事(展覧会)があった時は。
久美子:それでも4日くらいしかいなかったんじゃないかしら。
桂子:4泊。
久美子:ロンドンはギルバート・アンド・ジョージさんが、お住まいになっているアパートを開けて下さって。泊めていただいたんです。
坂上:ギルバート・アンド・ジョージさんは違うところに泊まって。
久美子:お友達のところに泊まられて。私達を泊めて下さって。
坂上:その前にお会いしたりとかはしてないんですか?文通で知り合ったんですか?
久美子:そうですね。そうだと思います。その後に日本にいらした時は、うちにお泊りくださいましたけど、この時は、文通で、初めてだったんじゃないかしらね。と思います。ちょっと私覚えていないですけど。
坂上:随分細かく。
久美子:ねえ。これ全部父が。
坂上:全部こうやって資料が残って。
久美子:ふふふ。そうですね。
坂上:で、これは出発する時の。あ、水上さん。
久美子:何か、でもこれ、何してます?手になにか縛り付けて……
坂上:何か縛り付けてますね。紐みたいなのね。
青木:え?これが水上さん?
久美子:そうです。
青木:若っかーい。
久美子:ふふふ。父と手を縛り合って。儀式かしら。
坂上:儀式ですねえ。きっとね。何か木にも縛り付けて何かやってます。
久美子:ですね。
青木:若いねえ、水上さん。
久美子:ねえ。ふふふ。
青木:30代。
久美子:そうですね。30代。
坂上:34歳。
青木:ああ。
久美子:私の友達も誘ったもんだから。
坂上:昔は船で行く時はテープで(お別れの儀式を)やったもんだから。
久美子:ねえ。そうでしたねえ。テープですよね。
坂上:新潟で。
久美子:新潟ですねえ。懐かしい。
坂上:船でいろんな人と知り合ったりとか。
久美子:一回だけ日本人の方と一緒でした。乗務員の方でしたね。(写真に載っている)この方。
青木:ロシアの?
久美子:ロシアの乗務員さんの方と一緒に写真に撮ってもらったり。日本からいらした。でもこのうちね、一人だけがね、父のことを知っている方がいらして。説明会があったんです、前日に。「松澤宥さん」って名前呼ばれたときに「え!」ってびっくりされたんですって。美術されてる方で。それですぐその後寄ってらして、お話しまして。偶然ですね。そうですね。うちの父は知らなかったと思いますけど、その、お相手の方が父のことを知ってらして。それからちょっと文通がね。始まりましたけども。モスクワなんか観光したいって言ったものですから、クレムリンの方とか。
坂上:全部フィルムは日本から持って行って。
久美子:はい。そして、ほとんどが白黒で。こちらがカラーになりますけど。
坂上:こっちは白黒ですけどこっちはカラーで。ストックホルムですけど。
久美子:そうですね。この方が長谷部さんって方で、父を知ってらした方で。
坂上:じゃあ、ストックホルムでも、モスクワで使った「人類を」っていう幟を小杉さんたちと一緒に。
久美子:一緒でしたねえ。これ、全部。
坂上:そういうドームみたいな中にいろんな人が集まって小杉さんたちの音楽を聞きながら寝転がってって。イベントだったんですか。多かったんですか。お客さんは。
久美子:そうですね。多かったですね。うん。
坂上:見てると20人くらいの(笑)。
久美子:ねえ。
坂上:私これのCD持ってる。
久美子:ああ。えーっと、これは。巧さん(桂子夫)の友達も小杉さんのことよくご存知でした。フクシタさん。
巧:ああ。
久美子:タージマハル旅行団のことよくご存知で。ああ、ここも。歩いてますね。会場を。
坂上:ここはオランダで。結構皆注目してきたりとか。
久美子:あ、これはオランダじゃないですね。小杉さん写ってらっしゃいますので。ああ、じゃあ、あ、そうですね。スウェーデンの会場の外。外まで(幟を)持ち出したんですね。湖のそばの。
坂上:これを撮ったのは久美子さん。
久美子:そうですね。父が写ってますから私ですね。これみんな小杉さんですもんね。
桂子:この頃から(久美子さんの)写真好きは徹底してる。
久美子:(笑)。
坂上:ああそうなんだ。
久美子:これを撮ったので残っているんですよね。
青木:そうだね。
久美子:そうですね。そうですね。
坂上:すごい。これだけ撮るっていうことはいったい何本フィルムを持っていったんだって感じですね。
久美子:そうですね。沢山持って行きましたよね。
坂上:こういうのはどっか、通りがかりの人に撮ってもらったりとかして。
久美子:そうですね。一緒に写ってますので。あの、日本人の方。この方たちが撮って下さったかしら。たまにお見かけして。この父の事を知ってらした長谷部さんって方が、ずっとそうやってご自分もどこに旅行にいらしてもいい、自由タイプの旅行だったもんですから、父のところずっと付いてました。
坂上:へえ。折角の二人の旅行が(笑)。
久美子:(笑)。それは別にいいんですけど。あの、付いてらしてですね。
坂上:で、イギリスに行って。
久美子:ギルバートさんとお会いして。あ、これその前ですね。従兄弟がハンブルグにいましたので、ブレーメン連れて行ってもらったりして。そしてオランダに入りましたですね。これ、オランダですね。その展覧会。
坂上:これがそのアート•アンド・プロジェクトの方の建物ですか。
久美子:建物でしたかねえ。どうでしたっけ。このね、この方がこの写真に写ってる方が、木靴を履いてらして下さってね。民族衣装っぽく木靴を。すごく驚いて、いまだに木靴を履いてらしている方がいるんだって。
青木:普通に履いてるんですね。
久美子:普通に履いてらしました。木靴を履いてらして。あちこちでこの幟のパフォーマンスを。
坂上:翻ってますね。これはさっきの何とか公園の会場ですね。
久美子:そうですね。この時日本に電話してますね。うちに。
坂上:ソンスビーク。
久美子:(これがオランダの)俳優さんで。
坂上:違う感じですね。
久美子:でしょ。
美寿津:この写真知らないよ。
久美子:そう?これ、ロンドンで、私の中学校の同級生、スウキ君が、諏訪湖で、ヨットで。死んだんでしたよね。電話した時にその事を聞いて、ウエストミンスター寺院でお祈りをして。すごく印象に残ってましたね。
美寿津:びっくりしちゃった。
久美子:脳溢血で。
青木:諏訪湖で?
久美子:諏訪湖で。ヨット操っていて、それで脳溢血で。自分はね、救命胴衣を付けてい無かったもんだから。諏訪湖に落っこっちゃって。
青木:え?その人がそんなに若いのに脳溢血で。
久美子:ええ。21歳。でもね、亡くなる時にね、自分に自覚っていうか、予感があるのかしらね。親戚に行ったりね。私のところにも尋ねてきてね。「もう会えないかもわからない」とか言うんですね。で。
坂上:脳溢血で急死したにも拘らず。
久美子:ええ。拘らず。自分に何か予感があったのか。あんまり会ってない親戚なんか訪ね歩いたんですって。うちにも遊びに来てっていうか、ちょっと寄ってくれて。それで「もう会えない気がする」って言うんですよ。「何言ってるの」って言って。そしたらロンドンに着いたらそういう知らせが入って。びっくりしました。ウェストミンスター寺院でお祈りをしたんですよね。父も知ってる。
美寿津:夏休みだったね。
久美子:うん。7月30日。あ、ギルバートさん。
坂上:ジョージさんと。
久美子:お迎えにいらして下さって。ああ、残念です。写真が。(無くなってるのがある)
美寿津:ギルバートさんたち、(75年に松澤家に来た時は)靴履いたまま上に上がられて。
久美子:うちにいらした時、(それまで)ホテルにずっといらしたんでしょうけど、初めて日本家屋にいらした時に、靴のままうちの中に入っていらして。(笑)。「靴をそこで脱いで下さい」ってお願いしたわね。あ、すぐポーズして下さるんですよね。
坂上:人間彫刻。
美寿津:何てねえ。
坂上:面白いですね。
美寿津:あなたたちが泊めてもらった時に、「日本人が泊まっているから静かにして下さい」って。
久美子:ああ。貼り紙を。
美寿津:貼り紙をして下さったのよね。
久美子:アパートの玄関にね、「日本人がここに泊まってますので、静かにして下さい」って貼り紙をして下さって。
桂子:うるさいところに住んでいたのかしらね。
久美子:ふふふ。そういうことじゃなかったんでしょうけど、ちゃんとお知らせして下さって。
青木:背の高い方がジョージでしたっけ。
久美子:ジョージさんですね。
青木:で、背の低い方がイタリア人でギルバートだよね。
久美子:そうですね。
青木:大体リードはギルバートの方がしてる感じですよね。でも、何か彼らの二人いる時に伺った時に見ていると、お茶を入れたり細かいことをしてくれるのがジョージの方ですね。
美寿津:うちに最初にいらした時に土足で上がってらしたわよね。
久美子:そうですね。
美寿津:印象に残ってます。
坂上:パリのエッフェル塔。パリは観光で行かれたんですか?
久美子:父とですか?パリは観光でしたね。で、そうですね、観光でしたね。で、スイスに行ったんです。モンブラン。カラー写真きれいですね。
青木:そんなにまだ71年っていうと、頻繁にそんな外国へ行ってる時じゃないですもんね。
久美子:そうですね。
青木:スペイン階段。
久美子:ローマの休日ですね。ピサ。(アルバムめくりながら)
坂上:いつも二人でいて飽きたりしないですか?
久美子:(笑)。ふふふ。初めて見る景色でしたのでね。
坂上:二人で感激したりして。
久美子:そうですね。
青木:松澤さんの中にもやっぱりこう、「久美子にヨーロッパを見せたい」っていう気持ちが強くあったんでしょうね。
久美子:そうなんですよね。私もこの間(娘の)梓に言ったんですけどね、パリから夜行に乗ってイタリアの方に向かって行ったんですけどね、シャンゼリゼ通りで下に入って行く時に「久美子よくこの景色見ておきなさいね。パパが久美子を子供である久美子を連れて来てあげたように、今度、貴方が家族を作った時に、子供をここに旅行に連れて来てあげなさいね」って言ったんです。そうしてね、この間(娘の)梓に、パリに行った時に「(宥が)そういう風に言ったのよ」って言いました。そしたら「私は今度子供できた時に連れて来てあげられる能力があるかな」(笑)って。(笑)。ですから、あなたたちも連れて行ってあげなさい(笑)(桂子、巧に)。
桂子:はい。
青木:ちゃんと聞きました。
桂子:ここの景色にもねえ。行きましたね。ここのモーツァルトの像の前に行って、連れて行ってもらった。やっぱり同じところに行って、ここで記念撮影をするんですよ。モーツァルトの像の前で。
久美子:そうです。
桂子:同じ絵を見ましたね。
青木:ああ。
美寿津:この間もお墓参りに来て下さった方が、うちへ泊まったりして下さって、私は何にも世話をしていないから覚えていないんですけどね、ちゃんと覚えていてくださって。何をいただいたとか覚えて下さっていてね。
久美子:あの時に出して下さったお料理が美味しかったとかね。
美寿津:そしてね、お仲人をしたことがあるんですね。その方は、美学校の方でね、いろいろと覚えてますね。
久美子:東京からでしたから、小旅行みたいな感じでね、皆さんね、遊びに来て下さったんですよね。で、皆さん若いですから、やっぱり泊めて下さる方がいればって嬉しくってね、皆さんで泊まりに来て下さったんでしょうね。
美寿津:この間も奥様とお友達とでいらして下さって。
久美子:ゴッホのひまわりもね。これ見に行きましたよね。夜警。
青木:レンブラント。これはニキ・ド・サンファールかな。
久美子:これ、アムステルダム広場ってヒッピーが沢山いるところで、父もね、ヒッピーになったつもりで「写真撮って」って言うんですよね。みんないろんな国から来て、公園にたむろするって言うのかしら。父もね。そういう気分になってあげようとしたのかしら。
美寿津:美学校でどなたが校長先生していらしたのかしらねえ。
久美子:今泉さんじゃなくて、藤川(公三)さんって方がね。
ああ、これみんな作品ですね。広い公園の中に。昔日本の展覧会って会場の中でしかって印象しかなかったものですから、広い公園の中で、っていうのがすごく新鮮で。
青木:向こうの人にとっては、布をひらひら外でやるっていうのは、ちょっと新鮮やったやろうねえ。文字は読めなくても。
久美子:そうですねえ。
これはパリです。モンマルトルで。今はここ柵があるんですけど、昔は柵がなくて、ここ凱旋門の上ですけど。
青木:これがシャンゼリゼ。
久美子:そうですねえ。
美寿津:写真の色が変った?
久美子:そうですね。色がやっぱり。薄くなって。あ、ローマ、じゃなくてスイスですね。これ素敵でしたよ、モンブラン。中腹までロープウェイか何か乗ったんですけど。やっぱり色が落ちてますね。もっと鮮やかでした。
美寿津:中国の方にいらしたことはないですか?
青木:ないです。僕は。昔上海くらい、飛行機でちょっと降りたくらいで。
久美子:これ、ビーナス誕生。フィレンツェですね。
青木:ああ、フィレンツェ。ウフィッツィ美術館。すごいねえ。
久美子:そうですね。町の中全部芸術って感じですね。サンピエトロ寺院。
青木:これ、ローマですね。
久美子:そうですね。バチカン。行ったでしょ、貴方も。
桂子:行った。98年に。祖父や家族と5人で行きました。ベネツィアに行って。
久美子:パパ(宥)が案内してくれたじゃない?これポンペイですけど。
桂子:ポンペイも行った。ほぼ同じ行程で。
青木:今見ても変らないね。ベニスはね。
久美子:これ、モーツァルトのね。民族衣装買ってもらって。それ着て歩きましたね。
美寿津:今も持ってる?
久美子:うん。
坂上:コスプレみたいですね(笑)。
青木:今で言うと?
久美子:そうですね。
青木:21歳?
久美子:22歳。
桂子:ベートーベンが好きだったみたいですね。祖父は。
久美子:モーツァルトも好きですけど、ベートーベンも。懐かしいですね。
桂子:ハイリゲンシュタットに行ったの?
久美子:ハイリゲンシュタットですね。そこのベートーベンの。
巧:ハイジっぽいな(笑)
久美子:この間貴方と一緒に行った時に、ハイリゲンシュタット行きたいって言うから行こうかと思ったけど行けなかったね。
桂子:行けなかった。ハイリゲンシュタットの衣装って祖父の字で書いたものを何処かで見たことがある。
久美子:ハイリゲンシュタットに衣装が……って。ウィーンから飛行機に乗って。それで船に乗って。それから台風にあって怖い思いをするんですけど。この時はまさかそんな怖い思いをするだなんて考えてもいなくって。能天気な感じで観光してますけどね。怖かったですね。
青木:あ、ナホトカから横浜に来る時に?
久美子:ええ。ああそうですね。ナホトカから津軽海峡を通ってくる時に。台風で怖かったですね。
美寿津:心配して。田中孝道さんってご存知ですか?
久美子:もう美術からちょっと離れてしまいましたけどね。
美寿津:まあよくいらして。
久美子:これ(アルバム)もね。今度は家族で行った時のなんですけどね。またブゼムさんのところにね。
桂子:ブゼムさん送り分って書いてあるね。(写真に)
久美子:ブゼムさんのところに焼き増しして送ってね。やはりお祈りから始まってるでしょ!
青木:本当だ。
久美子:皆で。
青木:ちゃんと安全をお祈りして。
久美子:お祈りして。これは家族4人で行ったんです。妹と。
坂上:いつぐらいに行かれたんですか?
久美子:えっと、80年です。80年と81年、両方行ったんですけどね。出発の時ですね。ママ(美寿津)が若い時。
美寿津:自分のこと棚に上げて。
久美子:そうそうそう(笑)。旅行は楽しかったですね。
美寿津:何年前?
久美子:80年だから、30年前ですかね。1980年ですもの。スキポール空港かなんか。ちょっとさっとね。
青木:これ、羽田からですか?
久美子:えーっと、そうですね。この時羽田。これはもういきなりアムステルダムですね。お会いして。それがおかしいんですね。これね、昔の布(きれ)を私が縫い合わせてお土産にしたんです。そうしましたらね、この間のMOMAのカタログの中にこの(お土産の)写真も(松澤作品として)載っていて(笑)。
桂子:この方はどなた?
久美子:(アート•アンド・プロジェクトの)ラベシュタインさん(Adriaan van Ravesteijn)。
坂上:じゃあ9年ぶりにお会いして。
久美子:そうです。お会いして。
坂上:そうか。それが写真で資料で入って。
久美子:そうです。カラーで載ってましてね。私がお土産であげたものが(それがいつのまにか)父の作品になっていて。
坂上:そっか。作品としてMoMAに収められてる。
久美子:MoMAに収められてる(笑)。お土産。「これ、花瓶でも乗せて下さい」って感じでね。説明してますね。「これは昔の布を張り合わせて」なんて、きっと。これ父が。(ラベシュタインさんが)地下にね、収納してあるところに、連れて行って下さって、広げて見せて下さって。これもありますでしょ。(9年前に渡した折り紙の作品の写真を見ながら)9年ぶりですね。お会いしたの。きれいに保存して下さっていて、それを大事に大事に見せて下さってね。こういう作品が全部MoMAにそっくりそのまま。
青木:これもそうですか。
久美子:これは違いますね。これは違う作品ですね。
(次回に続く)