小松:まずは、お生まれから辿っていこうかと思います。お家は(北九州市八幡東区)清田町ですよね。
森山:本籍地は大字槻田。清田町というのはなかったんよ、当時は(注:実際には、この時期の地図には「清田町」「荒生田町」の表記が見られる)。
小松:社宅じゃなかったんですね、このときは。
森山:一軒家。20年ぐらい前まで、行ってみたらそのままあった。青桐の木があって、僕がいたずらして彫り込んだ跡がそのまま残っとった。もう今は何もない。
小松:覚えていらっしゃるのは何歳ぐらいからですか。
森山:だから、その辺におるときは覚えとるね。1年生までおったのよ。(槻田)国民学校。で、すぐ転校したもんね。
小松:八幡空襲(1944年6月16日)は覚えていらっしゃるんですよね。
森山:うん、覚えとる。(昭和)19年かな。そのあと山口に転校したの、母方の里。
小松:(当時の山口県阿武郡)篠生村(しのぶそん)の板見堂。
森山:そうそう。結局ね、僕だけ空襲を怖がるもんやから、母方の里に預けるっち言ってね。親父は兵隊に行っておらんやった。で、僕だけ疎開したんですよ。こっち(八幡)に6年生のときに帰ってきましたけど、夏休みは7月15日ぐらいから8月31日までぎっちり、ずっと高校まで過ごしてますよ。もう子ども同様に育てられてるもんやからね。それから子どもの体験っちゅうか、思い出は強烈やもんやからさ。だからもう、一人でひと夏じゅう、その辺の谷川にしゃがんどったような気がするよ(笑)。
小松:その頃に絵は描いていたんですか。
森山:当時のことやったから雪が深いでね。田舎の人たちはみんな長靴とか藁ぐつとか、東北ほどやないけど、かんじきみたいのを持っとるわけよ、子どもでも。で、僕はないわけ。だから、身体が弱かったせいもあるんだろうけど、3学期はほとんど学校に行きよらんかったんよ。それで結局、絵を描いて過ごすようになったんだな。一人で近所の山奥にある滝を描いたりね。それから椿の花を描いたの覚えとるな。ガラスのコップに椿の枝を折って挿しといて、ガラスが描けんでね。往生したのを覚えとう(笑)。
小松:じゃあ、自然と絵に入っていったんですね。
森山:そうですね。第一、本もなければテレビもないんだからね、当時は。絵を描くぐらいしかなかった。
小松:八幡に戻ってくるのは。
森山:前田小学校っていうところ。八幡駅の近く、皿倉山の麓辺りじゃないかな。その辺は全部新日鉄(注:当時は八幡製鐵。現・新日鉄住金)の社宅やったんですよ。当時は終戦から4~5年も経っとるんやけど、全部空襲でやられとるわけです。それこそ廃墟っちゅうか、バラックが点々としとるだけでね。社宅っていったってバラックなんですよ。板を付けたような掘立小屋ですたい。それがダーッとあったんです。あとはもう、あっちこっち防空壕の跡とか、爆弾の落ちた跡とかね。ろくに木やらも生えとらんやった。
小松:次に移った白谷町も製鉄所の周辺ですね。
森山:ここは借家やった。どうして移ったのかはわからない。
小松:お父さんはずっと八幡製鉄所の構内ですか。
森山:そうそう。親父はね、機関車の運転手やったんよ。鉄を作ったら運んだり、鉱滓(こうさい)線っちゅうて、一枝(北九州市戸畑区)のところ通って。明治時代の弁慶号(7100形式蒸気機関車)みたいな、小さい機関車よ。それの運転手。そのときに大場谷小学校に移ったんですね。
小松:小学校のときは絵が得意だったとか。
森山:本人がそう思っとるだけで(笑)。
小松:野球選手のブロマイドなんかを。
森山:だからさ、あの頃はそんなんばっかり、みんな描きよったわけよ。漫画やらね、まだ大人の漫画しかなかったのよ。『のらくろ』とか戦前からあったですけど、中学んとき、ようやく手塚治虫が出てきたぐらいかな。だから、そんなに馴染んでないでね。なん描きよったかっち言ったら、やっぱり戦闘機とか、爆撃機とかの模写ですね。それから野球選手のブロマイド。ちいっと軟派は女優のブロマイド。一生懸命コンテで影つけてから描きよったけども。
小松:桜の木のスケッチ大会の話がありましたが。
森山:それはね、前田小学校におったとき。4月の花見の頃に、果樹園みたいな公園があって。今はありませんけど。桜並木がダーッとあって、どこが主催か知らんけど、桜のスケッチ大会があって。僕はさ、桜なんかに興味ないわけね。絵描いて賞品取ってくるぞ、ぐらいに思って。結局、下に桜草が咲いとったんよ。それ描いて出した記憶があって、もちろん落ちとった(笑)。
小松:でも入選して展覧会に飾ってあったと「自筆年譜」(『機關16 「集団蜘蛛」と森山安英特集』海鳥社、1999年、47頁)にはありましたよ。
森山:いや、それはたしか、もう少し大きくなってから。中学ぐらいかな、鞘ヶ谷(さやがたに)になってから。昔「到津(いとうづ)動物公園」って言った、今の到津の森公園(注:北九州市小倉北区。当時は到津遊園の中に動物園があった)。そこでスケッチ大会があって、みんなライオンとかトラとか描きよるわけ。場所がないでさ、人があまり近づかん猿山に行って、ニホンザル描いたわけよ。したら、当選したっていうから見に行った。やっぱり1位とか2位とか優秀賞になったのは、ライオンとかトラとか、すごいのたい。サルなんかでもマンドリルとか、派手派手しいやつたい。一番地味なニホンザルは佳作でね、ずーっと5段、6段掛けぐらいなんよ。一番下の右の方。今でも覚えとる。足元に飾ってあった(笑)。
小松:それはどういうところに飾られるんですか。
森山:そういう展示したりするホールがあった。小さいけど。そこに衝立を立てて。中学3年のときには、(枝光中学校から)天籟(てんらい)中学に移ってから、校内の全校生徒のスケッチ大会でね、風景描いてこいって街に出て行ってからさ、また地味な庭か木か塀かなんか描いとった。そしたらさ、どこがいいのかわからんような絵やったけど、図画の先生が「私より上手なのがおる」っちゅうてからさ、褒めたんよ。それで本人もいよいよ本気になってからさ(笑)。
小松:みんなの前で褒められたんですね。
森山:そうそう。だから友だちの反応を覚えとるよ。「なんでこんな絵がいいとか?」って(笑)。級長さんやら、ものすごい枝ぶりのいい松の木やら描いとってね。僕が見てもそっちの方が格好いいわけよ。
小松:じゃあ、その辺からだんだん絵に。地元の作家さんの絵を見る機会なんかは。
森山:いや、僕は全然。第一、高校でも美術部には入らんで。先生とは親しかったけど、部室に出入りしよっただけの話でさ(笑)。福田(安敏)先生っていわれて、人のいい好々爺のおじいちゃんだったんですけど、藝大(東京美術学校)の彫刻科を出てたんですね。タバコは吸っていいし、酒飲んでるしっちゅうんで(笑)、しょっちゅう行ってましたけどね。美術部では一枚も絵を描いてないし、大学に行って帰ってきてからも、いわゆる地元の絵描きさんとの交流は全然ありません。いきなり〈九州派〉だから。
小松:それでも、自分で油絵を描いているんですね。
森山:だからね、もちろん金もないし、油絵を描きたいけどっちゅうんで、キャンバスやら何やら、板切ってから枠作って、おふくろにボロ布もらって張りよったもんね。一応、膠を溶いて、塗って、キャンバスを自家製で作りよった。
小松:描いているのは写実的な。
森山:そうですよ。中学校ぐらいでスケッチやらされたけど、油絵っていうのは絵具も見たことないし、印刷物しか見たことない。とにかくゴッホやら盛り上がっとるのにびっくりしてからさ。俺も盛り上げようと思ってね。一生懸命水彩画の絵具を盛り上げるけどさ、油絵のようにはならんたいな。
小松:じゃあ、絵を見るというのは本からの知識ですか。
森山:僕の家は画集とかほとんどなかったし、図書館やらあったんだろうけど、だいたい学校にあんまり寄りつくことがなかったわけだからさ(笑)。どこでそんなもの知ったんか知らんけど、やっぱりゴッホとかセザンヌくらいしか知らないですよね。
小松:その状態で佐賀大学を受けるというのもすごいですけどね。
森山:どこでもよかったのよ。子どもが5人もおるもんやから、大学やら行かせられんって言ってて、早く家から出たかっただけの話でさ。学校の先生になれるならいいっちゅうて、親父が言いだして、はじめは高知を受けたわけ。高知大学文学部。なんで文学部か知らんけどさ。昔は1期、2期とかあって、2回受けられて、で、2期をどこにしようかっちゅうんでね。全然勉強せんのやからさ、まず英語、数学はダメなわけよ。で、英語がなかったんよ、佐賀には。これこれっていうんで(笑)。親も(福岡)学芸大学(注:現・福岡教育大学)と違ってから高校の免許が取れるっていうんで。特設美術科っちゅうて(注:佐賀大学教育学部特別教科(美術・工芸)教員養成課程。通称「特設美術科」「特美」)、全国に何箇所か(注:最終的に全国7大学に設置)、結局、東京教育大学(現在の筑波大学の母体)の地方版みたいなもんでしょ。宮﨑凖之助さんやらも、たしか京都のどこか(注:京都学芸大学特別教科(図画・工作)教員養成課程、現・京都教育大学卒業)行ってましたもんね。
小松:どうしても大学で美術をやりたいというわけでは。
森山:ほかに考えつかんしね。大学行きたい、遊びたかった、っちゅうのもあっただろうけどさ。当時は大学やら行く人少なかったしね。中学から高校に行かん子の方が多かったんやから。菊畑(茂久馬)さんがいっつも言うんよ。「お前は国立大でから、国の税金喰いやがって」とか(笑)。だから受験もね、信じられんような話やけど、石膏デッサンしたことないのよ。中学のときの担任の先生にそう言ったら、ちょっとは絵を描く勉強せんとまずいだろって言いだしてね。僕の絵を褒めてくれた美術の先生に頼んどったい。安田先生っていわれたけども。で、日曜日に出てこいっちゅうけん、行ったら面白いもくそもないわけよ(笑)。僕がやってたのは、要するにブロマイドやからね、顔の輪郭じゃなく目から描き始めるわけ(笑)。それに影つけていくんだから。ダメやと思って、一回で「いいです」ってからね。だから受験のときは、漫画っちゃ漫画。イーゼルがいっぱい立っとって、台の上に石膏像が置いてある。僕は後ろの方で、あとから(遅れて)行ったから。よく見えんっちゅうのもあったけど、第一どうやって描いたらいいかわからんからね。斜め前の人の絵を写したわけよ(笑)。そりゃダメだろって帰って、発表見たら通っとるたい(笑)。入学してから審査した主任教授に聞いたったい。石本秀雄っちゅう先生で、東光会、日展系の下部団体のボスやったんよ。「実はこうこうで、ダメやろっち思うとった」って言うたらさ、「いや、それでいいとよ」っち言うたけ、「おお、こいつ大物ばい」と思うて(笑)。牧歌的な時代やったんよ。
小松:入ってからが大変そうですけど。
森山:いや、入ってからは授業面白くないし、ダメやと思うてね。もちろん授業態度悪いし、2年半おりましたけど、授業はほとんど受けてない。だから「お前は美術教育に毒されとる」とか菊畑さんがボロクソ言うけどさ、誰の影響も受けとらんのよ(笑)、そういった意味ではね。
小松:同級生で覚えていらっしゃる方はいますか。
森山:去年か一昨年か(2013年6月)亡くなったけど、同級生で作家活動をずっと続けてるのが、僕の知る限り一人しかいなくてね。あとはみんな教員になってるわけです。もちろん食えないから勤めたりしてましたが、田副正武(たぞえまさたけ)っていうのがおってね。KBC(九州朝日放送)に勤めてました。これが一番、僕が親しかったっちゅうか、迷惑かけたっちゅうか、いじめたっちゅうか(笑)。向こうは逃げてまわりよって、死ぬまで僕を嫌がっとったらしいけど。まあ、僕とはガキ友だちやから、金貸せ、酒飲ませろなんていう迷惑は山ほどしてきとるけども、それ以外での付き合いはありませんでしたね。とくに〈(集団)蜘蛛〉が始まってからは全部敵に回すようになりましたんでね。
そんなんで大学の授業は面白くないし、授業出らんから卒業の見込みもなくなりましたのでね。僕は体育の単位しか取らんわけですよ。美術の授業は、岸田勉さん(注:1954~63年、佐賀大学助教授。1964~72年、同教授。のち九州芸術工科大学、現・九州大学芸術工学部教授、石橋美術館長)っていう美術史の教授がおりまして、久留米の人ですけど。この人が東洋美術の講義をしてまして、それは聴いてました。
小松:それは授業が面白かったから。
森山:面白かったっちゅうか、ちゃんと知っておかないかんなってから。あとはね、工芸の方は久留米の豊田勝秋。授業は出らんけど、家にはよく遊びに行ってました。だいたいその人が中心になって特設美術科を作ったらしくてね。
小松:入ってまもなく「ならず者展」というグループ展をやったんでしょうか。
森山:1年のときやったか2年のときやったか知らんけど、早い時期やろうと思います。商工会館ビルっちゅうのがあって、そこが展覧会の貸会場を持ってまして、久保田(済美[せいび])さんたちやらとやったことがあります。その後「げおのんぬーみゐ」っていうのを久留米で。
小松:1年生のときだと春元(茂人)さんはまだいらっしゃらない。
森山:うん。まだいなかったから、1年のときかな。「げ展」のときはおったから。久保田さんっていう僕より2級上の人が中心で、田中忠興(ただおき)さんっていう方と、僕が入ったときから授業をボイコットしたりしてました。絵を見たらすごいんですよ。見たことないような絵でね。石膏デッサンやらしてらして、安井曾太郎のパリ時代よりすごいっていうか。それはもう、はっきり作品になってました。普通はあんなの勉強のために描くんでしょ。だけど、ほかの人の絵とは違うものになってましたね。表現ですね、あれは。結局、その人(久保田)に僕は付いて回るようになって。それこそ白紙状態で行っとるわけですから、全部吸収してやろうと思ってですね。もう24時間張り付いとるわけですよ。寮は部屋が別やったんですけど、そっちの部屋に入り浸りで、その人たちがグループ展やったりするのに僕も入れてもらって。それが発展して「げおのんぬーみゐ」っていうのを。これは何の意味もないんですよ。展覧会の直前になって、グループ展の名前もないのは具合が悪いだろうって言っても、誰も何もせんもんやから、一人ずつ字を選べと。ジャンケンで並べようと(笑)。僕は何を選んだか覚えてないですよ。
小松:8文字ですから、8人いたということですね。
森山:そうです。この展覧会はくだらん、ただの普通のグループ展ですけども、久保田さんの絵は圧巻でした。まず色がすごいのね。日本の近代美術で、あれほどフレキシブルな色を使った絵を見たことがないっていうか、今でも思います。欲しなるごとある。売れないから、のちに具象に変わったんですけど、ものすごいんですよ。とにかくね、描写力がスーパーリアリズム。スーパーリアリズムっちゃあ、味も素っ気もないですけども、そうじゃなくてね、色といい、気品があるっていうか。何て言ったらいいんだろ。やっぱ名画ですね(笑)。名画としか言いようがない。第一、具象の作品で駄作が1点もない。
あの……〈九州派〉が最後頃になってから、「(第1回)全九州アンデパンダン」っていうのが八幡美術館(注:正しくは「八幡市美術工芸館」、1963年に「北九州市立八幡美術館」に改称。)であったんですよ(1960年6月5日~12日)。あの頃、僕は働(正)さんと知り合って、お前も出せっちゅうんでね、出品してます。久保田さんも私が勧めて出してます。その頃から僕との関係がおかしくなってね。そのときは針生一郎やら呼んでます。八幡の労働会館(注:実際は、展覧会は八幡市美術工芸館で行われた。シンポジウムは八幡製鉄労働会館か)やったと思うけど、〈九州派〉は総出演ですね。そのときに、みんないろいろ発言するわけ。結局、三池炭坑の問題が大きかったんですよ。針生さんもだいたいが労働運動にやかましい方やから、まず、なぜ三池を描くんかということからの問題であるし、それから、この題名は何かと。題名と絵がどう関係あるかとか。久保田さんは政治とか社会とか、全然興味ない人なんですよ。芸術至上主義っていうか、育ちがいいわけですから。で、久保田さんが業を煮やして、「そういうのは写真を出して、その下にキャプションで「何とか坑口」とか書いておけばいいんじゃないですか」なんてことを言って、顰蹙買って。それで、「あんた来ん方がええばい」っちゅうて、切れたっていう感じがありましたね。
小松:久保田さんに付いていた時期は、美術の話とか。
森山:そりゃ、してましたよ。絵の話ばっかりしてましたね。いや、あのね、久保田さんに2年以上付いて回ってましたけど、真似できるような絵じゃないんですよ(笑)。同じように描いて真似するわけにいかんじゃないですか。それを超えようとするのが大事(おおごと)でね。結局、飲んだくれるしかないっていうか(笑)。ただ、何か違うっていう、僕のなかに当時からあるのはあったですね。俺にはこういう絵は描けんっていう自覚やったかもしれんし、こういう絵じゃいかんのじゃないかっていうのもありました。
小松:そういえば佐賀大では深野治さんも一緒だったんでしたっけ。
森山:たぶん1級下なんよね。あとから知ったんよ。佐賀は「佐教組事件」、佐賀県の県教組事件っちゅうのがあって(注:1957年2月14日~16日に佐賀県教職員組合が起こした労働争議)、勤務評定を教師全員に課したんですよ。それに反発して、各学校やらで運動が起って、石川達三なんか小説(『人間の壁』)に書いとると思いますけどね(注:1957年8月23日~59年4月12日、朝日新聞に連載)。そんなんがあって大学もガタガタしてから、学生運動が始まってたんですよ。おそらく深野さんは、その委員やらなって、重要なメンバーやったと思いますよ。ただ、あとから聞いた話ですけど、僕がその学生大会に殴り込んだと(笑)。よく記憶にないんですけど、学生か自治が全学やってるときに、僕が舞台の袖から異様な扮装して舞台に駆け上がった(笑)。
小松:それは後々までつながるような感じがしますけど(笑)。
森山:だからそういうふうに言う人がおるわけたい。当時の同級生やらに言わせると、メキシコのソンブレロってあるでしょ。それ被って白い装束を着てね。《革命児サパタ》って映画があったんですよ(注:1952年公開)。エリア・カザン監督の。マーロン・ブランド主演。例のメキシコの独裁者(ポルフィリオ・ディアス)を倒した(エミリアーノ・)サパタって英雄がおって。虐殺されるんですけど。その映画がね、僕らが佐賀におる頃に入ってきて。僕がその扮装をして舞台に駆け上がってね、妨害したっていうわけだな。
小松:それは本当に森山さんなのかどうかもわからない。
森山:わからない(笑)。だけど話が〈蜘蛛〉のあとでは面白すぎて、みんな「そうやろ、そうやろ」って言うもんやから、始末が悪いんだけどさ(笑)。いまだにみんなが面白おかしく〈蜘蛛〉の反政治路線をそれにつなげて。僕はかなり粉飾された話だと思うけど(笑)。
小松:ちょっと脱線してしまいましたけど、大学を出てから足立山(注:現在の北九州市小倉北区にある山)に行く間に、1回お勤めをしていますよね。
森山:うん。勤めっちゅうかね……久保田さんが大学を中退したんですよ。4年まで行って、卒業する望みがなかったらしゅうて。辞めて久留米に帰って。僕も久保田さんがおらん佐賀におる理由もないから、3年生の年末に帰って、それきり行かなかったんですよ。結局ほったらかして、除籍処分になりました。
それで、しばらく(実家に)おったけど、居心地悪いよね(笑)。約束が全然違うわけやから。先生もならんわ、働かんわで、飲んだくれてばかりおるから。そんなんで家におられんでから、いくつか製鉄関係のアルバイトして、日雇いですけどね。そのうちに木下商店っていう、商店っち書いとるけど株式会社が、新日鉄の下請工場の、三勤交代の募集をしてましてね。職業安定所で聞いて行きまして、試験、面接ですけども、そのときに履歴書を書くでしょ。「大学行っとるのに、なんでこんなところに来るんか」って言われたのを覚えてますね。
小松:八幡製鉄所というのは大きい存在なんですか、子どものときから。
森山:うーん、その辺の会社と違いますんでね。それから、社宅におりますんで。社宅はやっぱり、炭坑と同じで、みな親戚みたいな感じがあるわけですよ。だから会社意識っていうか、労働者っちゅうのはつぶさに見てきましたね。僕はもちろんアルバイトで食うために行ったんですけど、そんな大きい現場じゃなくて、4、5人ずつ三交代で15人ぐらい、6時から2時まで、2時から10時まで、10時から朝6時まで順に回転していくんです。若いのはそうでもなかったんですけど、家庭持ちやら何人かおって、夜勤を嫌がるわけですよね。で、僕はだいたい家を出たけど行くとこないからですね。第一、家財道具も何も持っとるわけじゃありませんので、夏はええけど、冬になったら布団もないわけで。三勤交代の夜勤っちゅうのは、ちょっとした寝場所があるわけですよ。そやから代わってやりよったわけです。それから製鉄所っていうのはね、入るときに門鑑っていうのを見せて、顔写真を見て確かめて、出入りがやかましいんで、だんだん横着なってから、ずっと中に。売店やらありますんで、飯盒さえ持っときゃ、米やら何でも買えるわけでね。鉄作りよるところやから、その辺に(飯盒を)置きゃあ、飯ができるわけですよ(笑)。火を炊く必要もないんで、あと缶詰やら食っときゃいいっちゅうんでね。僕やら何人かそんなふうにしてから、住み着いてしまったようなかたちになって。そのうちに、その現場がなくなりましてね。2年くらい行ったんかな、娑婆に出て行かないかんようになって(笑)。家に戻るわけいかんし、清田町の手前の荒生田(あろうだ)ってところに部屋借りておりましたけど。失業保険が半年ぐらいはありましたね。せやけど、いよいよ家賃払えんごとなって、紫川の貴船橋とか、TOTOの上の。その下でだいぶ寝ましたね。それから、その上の篠崎橋かな。何しろ屋根が付いてますんで(笑)。
そのうちに寒くなってきて、どっか安いとこ探せってんで不動産屋に行ったら、「どこでもいいね?」っちゅうから、「とにかく安いところがいい」って言って、あれ(仲介)してくれたのが、今の(小倉南区)湯川のあたりかな。水町って言ってました。その辺りに松林がありましてね。「あんた家建てんね」って言われて、「え?」って(笑)。その不動産屋さんの爺さんが、家を解体して廃材をいっぱい積んどると。足立山の麓。で、行ってみたら松林の中に、ガラス戸やら何やらがいっぱい積み上げてあるわけ。「これ組み合わせりゃ、雨露ぐらい凌げるよ」って。「あ、そうやなあ」って思ってね(笑)。それで、たまたま僕の3番目の弟が新日鉄に入っとって、それが友だち連れて来てから、「おい、建てるぞ、手伝え」って、3人でね。1日がかりでから、金槌と釘やらノコやら、そいつらに持って来さしてね。要するに、ガラス戸を建てるだけで、柱がないんだよ(笑)。屋根はトタンを載せるしかないんだけどさ。載せるったって、針金をずっと上に張り巡らせて、それに括り付けるんよ。一応ね、サボテンみたいなんできた(笑)。松林の落ち葉の中やからね、環境はいいんですよ。松茸はできんけど。こりゃいいやって。「せやけど、いいんですか」って言ったら、「誰も来やせん」みたいな。
小松:ちゃんと借りている場所じゃなかったんですね。
森山:じゃあ、なかった。それでも、その爺さんに1000円か2000円か払うたよ。で、何日か寝たかな。弟やら、弟のガキ友だちが、御座やら座布団やら持って来てくれてね。そしてから、久留米の久保田さんたい。出てこんかっちゅうてからさ。久保田さんところに行ってから、僕はいつも持っとる金、「これで何とかして下さい」っちゅうて、大した金やないけど渡して、1ヶ月とかおるわけよ(笑)。2週間くらい経ってから心配なってきてね、帰ってきたら潰れとった(笑)。ひどい風のときがあったって。中に寝とったら大けがしてた。
小松:製鉄所にいた期間は、作品はつくっていたんですか。
森山:工場の中でつくってた。それこそ鉄クズ拾ったり、ボルトとかナットとか、どこにでも落ちとるしさ。せやけど持ち出せんのよ。持ち出したら窃盗罪になるわけよ。
小松:なるほど(笑)。じゃあ、発表しないわけですね。
森山:発表できない(笑)。
小松:このときはオブジェですよね、廃材を使った。
森山:そうそう。それを放ったらかしてきたけどね。
小松:足立山にいたときに、働さんや宮﨑凖之助さんと知り合うんですね。
森山:アベベっていう伝説的なジャズ喫茶がありましてね(注:1961年11月~83年11月)。今の小倉駅の南側のいかがわしいとこやけど。ものすごく広いジャズ喫茶でね。本格的なコンポ置いてから、当時はミュージシャンたちやらいろいろ来てね。絵描きさんたちの溜まり場にもなっとった。そこが11時までで、あと(午前)2時ぐらいまで、名前はなんて言いよったか。そう、フリスコっていうのがありますでしょ、アート・ブレイキー呼んだりしよった。そこ、働さんと川上省三さんの溜まり場で、僕は付いて行きよったんやけど。
働さんは〈九州派〉も終わり頃に入ってるんでね。中学校しか行ってませんし、独学ですけども、何しろ〈九州派〉の理論家っちゅうことになっとうから。とにかくやかましいで、うるさいでから(笑)。当時は酒も飲まんしね。もうゴリゴリの左翼やったしさ(笑)。僕やらノンポリの遊び人っちゅうてから、バカにされよった(笑)。
小松:砂津にお住まいだったんですよね。
森山:うん。彼は熊本の松橋(まつばせ)っていうところに生まれて、北九州にどうやって出て来たんかわからんのやけど、黒崎の本屋さんに勤めとった奥さんと知り合って結婚して、砂津で自活を始めたっていうんで。絵は僕と一緒でさ、目から描き出すような絵しか描かんけど、デザイナーとして食ってた。映画館の看板描きですよ。その描き方もね、西洋美術教育の造形理論じゃないわけで。横尾忠則ですよね。つげ義春やら、みんな一緒ですけど。そんなんで映画館の幕間の広告のデザインやらやってて、レタリングやらもせないかんし、っちゅうんで、一日中ヒイヒイ言ってからさ、「お前はブラブラして焼酎ばっかり飲みやがってから」ってボロクソ言われて。「トロッキー読め」とかね、やかましかった(笑)。
小松:情報はそこから入ってきたんですね。
森山:そうですね。当時、〈ハイレッド・センター〉の話やら、〈ネオ・ダダ〉の話やら、読売アンパン(「読売アンデパンダン展」)の話やら、もちろん〈九州派〉のことやらも、働さん経由ですよ。
小松:それはお話を聞くだけなのか、何か雑誌とかで写真を見ながら?
森山:いろいろなもの見せてくれましたけど、絶対貸さなかったですね。「お前みたいなやつに貸したら、戻ってこんっちわかっとう」とか言ってから(笑)。
小松:どんなものを読んでいたんですか、働さんは。
森山:難しいのばっかり読みよった。僕もさすがにトロッキー全集だけは買う気にならんでね(笑)。高いし。まあ、勉強家でしたね。だから、僕はやっぱり、桜井(孝身)さんやら菊畑さんやら、ほかの人たちの影響より、体質的なレベルっちゅうか、生理的なレベルでの影響っちゅうのは働さんですね。どこがいいとか悪いとか、この話に感心したとか、そういうことじゃないんですよ。とにかくうるさい、やかましい前衛でした(笑)。菊畑さんとは全然違うじゃないですか。菊畑さんやら、あんなん難しいこと書くけどさ、日頃喋っとるのは、あげな話は全然ないわけで(笑)。
小松:足立山が1959年ぐらいから……。
森山:4年おったと思いますね。
小松:その間に「全九州アンデパンダン展」も働さん経由で参加したんですか。
森山:そうです。
小松:それが60年なので、わりとすぐにお知り合いになったんですね。
森山:そうですね。
小松:「英雄たちの大集会」が62年(11月15日~16日、百道屋、百道海水浴場/福岡市)。
森山:「英雄たちの大集会」はね、働さんから聞いとったんですけど、あれ名前がすごいでしょうが。「あの命名は自分だ」って働さんが言ってたんやけど、実際にはわからないですね。
小松:『九州派大全』(福岡市文化芸術振興財団、2015年、74頁)には田副さんに連れて行かれたと書いてありますけど。
森山:うん。たまたま福岡に行く機会があってから、田副と会う用事があったんかな。日にちが近かったもんやけ、合わせて。あれは行きたなさそうにしとったけど、付き合えって言って連れてって。途中で逃げて帰ってしもうた。
小松:じゃあ、森山さんが連れて行ったみたいな感じですか。
森山:いや、そうでもないね(笑)。あれも行くつもりではあったんだろう。
小松:印象に残っているものは何かありますか。
森山:(砂浜に穴を掘った)凖之助さんですよ、やっぱり。はじめから終わりまではおりませんでしたけどね。
小松:この前から宮﨑さんともお知り合いになっていたんでしょうか。
森山:いや、知りませんでした。そのときの人が凖之助さんだっていうのは、あとからわかった。名前は知ってましたけど、会ったり話したりしたことはありませんでしたね。
小松:直接お会いするのはいつ頃なんですか。
森山:たぶん〈九州派〉の集会に、働さんに連れて行かれたときやないかな。
小松:じゃあ、62年から63年でしょうか。『機關』(13頁)には「これなら金がないでもできるな」と、希望をもったみたいに書いていますが。
森山:〈九州派〉のやってることやら作品やら見たら、何も金かかっとることしとらんから、っちゅうことでしょうね。実際に作品も見てなかったけど、同じ時期にすでにアスファルトやら使ってますからね、僕も。あれ、なんだろなって思いますけど、どこに行っても道路工事現場がありましたんでね。
小松:手に入りやすい素材だったと。
森山:うん、手に入りやすかった。タダで。
小松:会合には出ても、そのときは〈九州派〉に入るというわけではない。
森山:「お前入れ」ってオチやら働さんやらが言うからですね、じゃあ「入ろう」って言いましたけど、その後、何もなくなって。
小松:だんだん〈九州派〉自体がちょっと……
森山:そうそう。やっぱタイムラグがあって、向こうはもう〈九州派〉路線ちゅうのが決まっとって、桜井さんやらが中心になってますし。こっちは後発だし、話を聞くのにいっぱいだったって感じですね。だから、まだその時期は違和感とかはなくて、面白いなって思ってるわけですけどね。〈九州派〉はハプニングだけやないで、尾花(成春)さんやら「
部屋」(注:正しくは「旅行者のための室内展」、尾花宅/福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)、1962年6月3日)っていう展示をしてますんでね。そりゃあ、早かったですよ。部屋自体を作品化するみたいなね。
小松:今で言うインスタレーションみたいな。
森山:そうですね。だから僕は、はっきり言えばね、もうすることないなっていう感じがあったんです。何やったって後発だし、真似になるなあ、みたいなね。もうちょっと若かったら、そんな気も起らんで、一緒にやってたかもしれませんけど、頭の方が先行するもんやからさ。それから、あれは目立ちたがり屋集団でね。あと、俺が俺が集団でね。相手の足を引っ張るわ、こき下ろして先に出ようとするわ、子どもみたいなところがあって(笑)。悪い感じはしないんだけど。だから、その辺の違和感ってのは〈蜘蛛〉につながってると思うんですけど。やっぱり反東京って言いながら、っちゅうことがあるし。まあ、桜井さんなんかは清濁併せ呑むみたいな、政治家みたいなところがあるからさ。「わやわや固いこと言うな」みたいにすぐ言うし(笑)。
小松:一方で森山さんは、幼稚園で絵画教室を始めるんですね。これも山にいるときからですか。
森山:うん、もう終わりがけ。これは偶然の偶然やけど、門鉄の人が、JRを昔「門鉄」(旧国鉄門司鉄道管理局)って言って、果樹園か何かやってたんよね、その辺で。そこに農機小屋があったんよ。松林の家が潰れとったもんやから、ウロウロしよったらそこ見つけて、また例によって住み着いたわけ。橋の下よりはマシやから、見つかるまでと思って。そしたら、もちろん見つかったけど(笑)、「どうしたんね」って言うから、いろいろ話しよったら、気に入ってもろうたわけやなかろうけど、悪いことはせんなって思ったんやろ。「番人でもしときない」みたいな感じで。4畳半ぐらいの広さがあった。そいで水道も何もないわけやからさ、電気は引いちゃろうってね、勝手に電線から引いてきたみたいでから(笑)。
小松:持主の方がですか。
森山:うん(笑)。ようわからんけどさ、僕が口出すことやないと思ってから、してくれてありがたいもん。そしたら近所にね、浄土真宗の小さいお寺(注:黄檗宗の円通寺)があってから、通るときにいつも覗いて見よった。僕は友達からもらったレコードを持っとってね、黛敏郎の「涅槃交響曲」(1958年)って、長大な、鐘の音ばっかりで構成した。そこを通りがかって和尚さんと立ち話してるときに、「この本堂で聴いたら面白いでしょうなあ」とか言って。したら「ほお、持って来ない」っちゅうてね。で、本堂でかけたったい。そしたらすごいわけよ(笑)。そんなんで知り合いになってさ、ときどき遊びに行ったり、お茶をご馳走になったりなんかして。ほったら、僕が絵を描くっち知ってから、うちの檀家の子どもに教えてくれんかなっち言い出してさ。「月謝とっちゃるから」ってね、300円たい。10人ぐらいおったよ。こりゃあいいやと思うてね(笑)。当時やから3000円でもね、金が全然ないわけやから。そうしよるうちに、そのお寺さんが浄土真宗同士の幼稚園を、ちょっと面倒見てくれっち言い出してね、東筑紫(学園高等学校)の近所の聖ヶ丘幼稚園(運営母体は浄土宗の円応寺)ちゅうところを紹介してくれて。30人か40人しかおらん小さい幼稚園やった。その頃、僕一人じゃ手が回らんぞっちゅうて、春元やら呼び寄せたわけ。騙くらかしてからさ(笑)。それから若松の幼稚園も紹介してくれて、そこで女房と知り合ったわけよ。
小松:奥さんはその幼稚園で働いてらっしゃった保育士さんですか。
森山:そうそう。九工大(九州工業大学)の、名前がちょっと出てこんけど、児童心理学を専攻する先生が児童画の研究をされててね。女房がその手伝いしよったわけ。そんな関係で知り合ったんだけど、結婚っちゅうたって、結婚式もするわけやないし、親戚に言うわけやないし。でも、さすがに水もないようなところに女房を呼ぶわけにいかんから。三萩野(みはぎの)に出てきて、和菓子屋の倉庫の2階かなんか住んどった。
小松:それは普通に借りて住んでいたんですか。
森山:そうです。もうほら、女房が働きようから。せやけど、子どもが生まれたから、結局、幼稚園辞めて、仕事を一緒にするようになって。女房中心ですけどね。何しろ幼稚園の先生やけ、子どもを扱うのが上手いわけよ(笑)。そのとき春元に、お前もこっち来んかっちゅうてね。
小松:三萩野に近い香春口(かわらぐち)の薬局から標本を借りてきたというのは……。
森山:糞便の標本でね。赤痢のウンコとかあったよ、おどろおどろしいのが。綿の中に入ってね。ポップ・アートじゃないけど、蝋細工みたいなもんだな。僕はその当時、ポップ・アートがやりたくてさ。食堂のショーケースにあるやないですか、うどんやらカレーライスやら。あれ、弟子入りしようと思うてね、行ったけど断られた(笑)。「絵描きさんの道楽でやられたら、たまったもんやない」とかって怒られてからさ。ポップ・アートはね、僕には向かんやったのかなあ。僕んなかにもポップな感覚ってあるんだけども。結局、上手くいってない気がしてきて、みな捨ててしまってるけどさ。
小松:いろいろ試してつくってはいたということですか。
森山:まあ、そうですよね。
小松:それを発表する機会は。
森山:いやー、だからさ、「読売アンパン」しか受皿ないやん、あんなもん(笑)。ひとつはデカかった。写真も残っとらんけど。ベニヤ板が2枚あったから180×180(センチメートル)の大きさだよね。それは三萩野でつくりよって、結局、部屋から持ち出せんやったのかな。だから戸畑に引っ越すときに壊して捨ててきたと思うけど。今考えたら、完成せんうちに止めてしまったような気がするね。
小松:この辺りから〈蜘蛛〉につながるような、検便マッチ箱を配ったり、チラシを配ったり、佐世保のシードラゴンのデモ(注:1964年11月12日、長崎県・佐世保港への米原子力潜水艦シードラゴンの入港を巡って起った抗議運動)に参加したり。
森山:それは三萩野におった頃やな。
小松:これはオブジェ制作とは違う系統じゃないですか。
森山:やっぱ行為が入ってきてますんでね。それはまあ、働さんとの関わりで出てきたんだけど。結局、中西(夏之)さんやら「直接行動」ってな言い方だけど、働さんと僕が考えたのは、人を傷つけるかたちでの表現行為っちゅうか。傷つけるって、こう(——ナイフで切るような仕草——)いうだけじゃなくてね。で、それの裏返しとして働さんは何もしない、みたいなね。だから働さんの作品としては、もう全然残っとらんのやけど(笑)。福岡市美に名刺が1枚だけ残っとってね、平和通とか何とか(注:実際の記載は「平穏町通り」だが、「平和通り」のもじりという説もある)、いろいろ書いてあるわけよ。要するに、平和ボケした俺たちのアリバイだ、みたいな名刺を作っとったんよね。それと対になっとると思うんだけど、人を傷つけるって行為はさ。それが、その後の《天国と地獄》(1963年)っていう黒澤(明)の映画やら、それから、何とか二郎の。
小松:草加次郎ですか。
森山:ああ、草加次郎の犯罪行為(注:1962年11月から翌年9月にかけて「草加次郎」と名乗る男が引き起こした連続爆発物事件。78年に時効成立)につながってるんだと思うね。これが美空ひばりやら、水前寺清子やらを脅かしたんじゃないかな(注:実際には島倉千代子や吉永小百合)。こりゃあ、面白いぞっちゅうんでね。こいつを僕らのなかでどういうふうに培養するか、みたいな。働さんなんかと話し合って。だから、その辺からはもう〈九州派〉と相当離れてますよね。働さんも、最後は〈九州派〉におられんようになってしまっとるもんね。居場所がなくなったっちゅうか。
小松:では2人の話のなかからやることが出てきて。
森山:そうですね。だから働さんが大牟田に行ったのが64年かな(注:実際には65年)。谷口利夫さんが大牟田の児童美術研究所(西部美術学園)を譲ってね。福岡に移るから働さんに来ないかっちゅう話を、菊畑さんが持ってきたらしいんよね。で、「お前どう思うか」っちゅうけん、反対したんよ。「あいつらがやってることは、あんたがいつも鬼みたいに言っとる、ブルジョワのやることじゃないか」っちゅうてさ(笑)。結局行ってしまったけど、あんときはちょっとがっかりしたなあ。
小松:マッチ箱以外にオブジェやチラシも配ったようですけど。
森山:マッチ箱の中、ウンコだけじゃなかったのよ。いろんなマッチ箱作りよったの。例の「隠れ蜘蛛」(注:〈蜘蛛〉の正式メンバーではない協力者)の松島(捷[しょう])が、その話ばっかりワーワー言いよるもんやから、ウンコばっかり撒きよったと思われる原因になったんだろうけどさ(笑)。
小松:それも「人を傷つける」というか、開けてみたら「わっ」ていう。
森山:そうったい。まあ、その辺は、ダダの頃やらシュルレアリスムの頃やら、いっぱいあったようなのと、あんまり変わらないと思うけどね。ただ、ウンコはやっぱ別やろな(笑)。もちろん北九州には、火野葦平の若松のドテラ婆さんの話(注:『花と龍』、1952年4月から53年5月まで読売新聞に連載)とか、下筌(しもうけ)ダム(注:1958年から71年に建設反対運動「蜂の巣城紛争」が起こった)やらいろいろあるけどさ、実はこれ(糞便の散布)は全国的にあったよね。このあいだ映画やっとる知人がいろいろ調べてきたんだけど、あの幸徳秋水が大逆事件(1910年)であれ(検挙)されたときに、いろんな人が連座しとるわけね。そんなかに爆弾作りよった連中がおったんよね。しかし、あれは爆弾ばっかり注目されたけどさ、実はウンコの話の方が多かったんよね。天皇にウンコ投げつけるっていうのは、(爆弾を投げつけるのと)セットだったらしいんだよね(注:大逆事件と甘粕事件[1923年]に関する記憶が混在しているが、大杉栄殺害の報復として関東戒厳司令官・福田雅太郎に糞尿を投げつけた事件のこと)。それから、原(一男)監督のドキュメンタリー映画(《ゆきゆきて、神軍》、1987年)やらあるけど、あんなのも根っこはさ、そんなもんなんよね。勝ち目ないわけよ、どっち道ね。政治闘争としては勝ち目はまったくないし、それは例えば、学生運動のときに過激派が石を投げるとかね、手榴弾にしたって知れとるし。中世には「印地打ち」っていうのがあって、子どもの遊びにもあったんだけど、要するに模擬戦っちゅうか、石を投げ合うわけね、儀式として。戦いのシンボリックな儀式なんですよね。ウンコも同じようなことだろうと思いますよ(笑)。だって何にもなりゃせんのやもん。はじめからわかっとるんで。
小松:でも、芸術家としてやっているってことですね。
森山:そうですね。
小松:シードラゴンは政治が絡んでくるようなことですが。
森山:うーん、菊畑さんやらも『機關』(の対談)でいろいろ質問して食い下がりよったけども。もちろん、はじめから承知のうえなんよ。勝てないっちゅうのはわかってるし。芸術とか表現とかいうかたちで世の中を変えることはできないっていうのは、制度の問題なんで。それでも何するかっちゅう話なんだけど。平たく言ってしまえば、そこまで言ったらしょうがないっていう気もあるけども、表現ってのは、やっぱ遊びなんだよな、根っこのところは。ところが、その遊びが成立する刺激っちゅうか、起爆剤っちゅうか、スプリングボードになるようなのは、性であったり、政治であったりするわけだよな。それを僕は「間借りしたロマンチシズム」だって言ってるわけで。本気になって革命やったってどうにもならんっていう絶望感の方が先にあるわけですよ。無力感っちゅうか。そのうえで成立しとんだっていう、たぶん僕のニヒリズムでしょうけど。〈九州派〉は「それじゃあ、つまらんじゃないか」って言うわけだ。桜井さんが言ってるのは、はっきり「制度の改革」だからね。いろいろ美術展を粉砕したり、コンクールを粉砕したりしよったけども、桜井さんは本気で変えさせようとしよったわけだ。僕はそれはなかったね。
やっぱね、人が違うっちゃあそれまでやけど、時代は外せんと思うのは、桜井さんは西日本新聞に入って労働運動やってるわけですよ。僕は新日鉄でさ、労働者も脱落してるわけ(笑)。その差は決定的。もう少し言えばね、僕んなかにやはり筑豊に対するコンプレックスがあってね。新日鉄は搾取する側なんだよ。そこで飯を食ってる僕ら親子っちゅうことがあって、炭坑夫と全然立場が違うわけだ、足場がね。僕も行きたかったよ、筑豊に。せやけど行ったって居(お)り場ないもん、っていうのがあったんだよな。その辺は〈九州派〉の人たちと違って、働さんとも違ってたな。働さんは「お前のは、結局プチブルでしかない」みたいな言い方してたよ。そりゃ、ブルーカラーであろうと新日鉄の労働者の方が炭坑夫よりも、そう言われりゃねっていうのがあってさ。高校生の頃からそういう問題は解決できないわけよ。そうするとね、結局、表現っていうかたちをとるときに、ニヒリズムとして停留していくわけだよな。そのうえで何をするかっていうふうに組み立てるしかなかったんだよ。桜井さんたちみたいに建設的にね、だから桜井さんは最後「パラダイス」でしょ。ヒッピーでしょ。働さん、俺について敗北主義だって言ってたけどさ、ヒッピーだって敗北主義で。
小松:その新日鉄側というか、立場の違いはわりと早くから意識して。
森山:やっぱり高校生の頃からさ、辛かったな。まあ、感じん人は何も考えんやろうけど。やっぱ、あの頃やから、いろんな本読んでね。当然、出自の問題やら、自分は何だみたいなね、やっぱ悩まされるわな。
小松:住んでいるのは社宅だから、周りは同じ立場なのでは。
森山:いやー、いろいろあったよ。当時は社会党が左派の第一組合たい。でも二つに分かれて、第二組合ができたわけね。で、第二組合がのちの民社党、今の民進党になっていくわけ。社会党左派ってのが、九大の向坂逸郎(さきさかいつろう)先生っちゅうのが指導しとったんだけど、要するにマルクス原理主義ですね。けども第二組合はね、会社が潰れたら何もならんじゃないかと(笑)。すると、御用組合になるしかないやろう。妥協してとか、話し合ってとか、お互いウィンウィンでいこうとか。そんなのを中学生の頃から見てて(笑)。だから、さっきのウンコの話やないけどさ、うちの前の家が第一組合の組合長やったんよ。そこに第二組合から夜中に、暴力団がそれこそ糞尿をね。当時はバキュームカーやらなかったから、汲み取りばっかりで。それごと持ってきて、家にぶちまけよったもんね(笑)。俺の先輩の田中忠興さんは、親父さんが第一組合で、兄さんが第二組合。家、グチャグチャに引き裂かれよったもんね。周りがみんな仲間っちゅうわけにはいかんわけよ。
まあしかし、労働者はさ、やっぱり革命を夢見て当然だと思うし。政治は勝ち負けでしかないってなるでしょうけど、芸術家っていうのは何が勝ちか負けか、結局わからんわけよ。だから〈蜘蛛〉にいつも付いて回るのはね、何て言うかなあ、その辺が〈九州派〉みたいな歯切れのよさがなくてね。韜晦(とうかい)というか、屈折というかね。それがある沸点までいくとさ、暴発するっていうかたちなんだよな。