飯尾:中川衣子様は、村上華岳画伯の長女として、大正9 (1920) 年に京都でお生まれになっていますが、お父様について、一番古くに残っている記憶というのは、どういう事柄でしょうか。エピソードですとか、どういう話をされていたとか、一番古い記憶というのは。
中川衣子(以下、衣子):お父さんとして、画家として…… やっぱり、怖い(笑)。一番は、「怖かった」ですね。
飯尾:やはり制作中には人を寄せ付けないとか。
衣子:滅多に。
中川直人(中川衣子の次男で、村上華岳の孫にあたる。以下、直人。):僕は(聞いた話として)覚えているんですけどね。子供たちが家に学校から帰ってくると、神戸ばあちゃん(注:村上華岳の妻)が「声を出してはいけないよ」と。
衣子:「今日は、朝から機嫌が悪い」って。
飯尾:奥様もかなり気を遣われていたという。村上華岳画伯の奥様も、「制作中はだめですよ」という感じで?
衣子:どうなんでしょうねえ。
直人:(神戸ばあちゃんは)泣かされていたでしょ。よく泣いてたでしょう。
衣子:まあね、やっぱり、絵描きの奥さんになるなんて夢にも思ってなかったみたいやからね。
直人:で、彼女の名前は高木だった?
衣子:あ、実家ですか。うん。
直人:高木佳子…… 高木、なんだったっけ。
衣子:よしの。ひらがなの(注:通称、佳子)。
直人:ぼくはね、神戸ばあちゃん、神戸ばあちゃんって言っていたから。いろんなことを僕が聞いたのは、お風呂なんかに入っているときに、彼女は涙を流して泣いて、ということまで覚えてます。お母ちゃんにそういうこと言うたのを覚えてる。
衣子:言いましたね。
直人:華岳さんは、怒ると何を言うの。怒るとなんか言うでしょ。何を言ったの。
衣子:まぁ一人息子だからね、やっぱり我が儘だったんでしょうな。そして、世慣れてないから、出てくる言葉が「ばかやろう」とか「黙ってろ」とか、そういう言葉しか出てこないから。とにかくその言葉を連発。
池上:それをお母様、よしの様にもおっしゃったり、子供さんにもおっしゃったり、ということだったのですか。
衣子:いえ、あんまり。子供には直接なかった。子供のほうは、かなり部屋も遠ざけて。私たちには離れというのがありましてね、昔ね。離れに皆おって、「まだ怒ってる」とかね。
直人:喘息のこともあったんでしょうね。
衣子:まあね、体も弱いし。何かというと、精神的にあれして、絵が描けないときでも、不愉快になったときに、みんな自分のストレスから発想してくるから、母にぶつけるより仕方がなかったんじゃないかな。その他にもなんかあったんかも分かんないんだけどね。自分は子供だからはっきり分からなかった。学校から帰ってきたら、足音をなるべくたてないようにして、「今日は体の調子はどうなのか」と。機嫌が悪いと、「朝から今日はだいぶ気難しいから、静かにしてたほうがいい」とかね。
直人:これは花隈の家でしょ。花隈の家ですね。
衣子:はあ。
直人:いろいろ聞いたのですが、非常に大きな屋敷だったというのは覚えているんです。
衣子:村上五郎兵衛さん、旧家ですから、500坪位だったね。
直人:池があって、橋があって、すごいとこだったらしい。
衣子:いつも橋を渡って、(そこに)離れがあるの。そこに子供たちは皆いた。それと勉強部屋も。
池上:では、お父様が制作されているところとは、物理的にかなり離れたところでお暮らしだったんですね。
衣子:全く。それでも、不幸せだとは思わなかった。こういうもんかな、と。みんな黙ってお母さんが言ったとおりにしてましたからね。でもやっぱり、兄なんかは、はっきり分からないけど、横浜の国大に入学したからね。そのときは「逃避じゃないかな」と思ってたけどね。
直人:建築ですね、彼は。
衣子:建築家です。
衣子:でも、私はね、やっぱり長女だったから、少しずつ理解もできるようになっていきましたけどね。私の妹たちは、4つぐらい下と、一番下が10歳ぐらい下。だからもう、まるきり子供ね。
池上:全部で4人兄弟でいらっしゃいますか。
衣子:4人、はい。
直人:男が一人、建築家の常一郎さんと、娘が3人ですね。
池上:お兄様が一番年上でいらっしゃるんですね。
直人:そうですよね。
衣子:はい。
直人:お母さん(衣子)はその時はおいくつだったの、その頃。
衣子:そんなのちょっと覚えてないけどね。
直人:華岳さんが亡くなられたのは、あなたが17歳ぐらいのときでしょ。そやね。華岳が亡くなったときの話をしてごらん。
衣子:やはり喘息、心労からくる喘息だったと思うんです。だんだん自分が16、7(歳)になってきたら、なんでも物が少しずつ理解できて分かるようになってきたから、母の気持ちも分かって、その代わりお父さんの気持ちもよく分かるようになって。だから、よく画室に出入りもするようになりましたね。
直人:許されたの?
衣子:許したということになるのかな。やっぱり最初の女の子やから、自分では可愛がってもらったと思うて、信用されてたと思うて。
直人:ちょっと話がそれますけどね。裸婦の絵(《裸婦図》、1920年)があるでしょ、有名な。あれは今どこが持ってる…… ここに載ってるかな。(注:『村上華岳』展図録、京都国立近代美術館、2005年、61頁。以下、「図録」と記す。)
池上:今、山種(美術館)が持ってます。
直人:山種が持ってるの。あの裸婦の彼女は、母とおない年なんです。
衣子:大正9年。
池上:はい、そのことも少しお聞きしようと思っていたのですが。そう、(衣子さんが)お生まれになった年に描かれた絵ですよね。
直人:何を考えていたのでしょうね。
池上:あの有名な裸婦の絵について、お父様が何かおっしゃっていたことというのはございましたか。
衣子:いやもう、あれの制作のときは私は全然知りませんね。
池上:(カタログを差して)これですね。
直人:これですね。大きい絵なんだ、これ。
飯尾:特定の方をモデルにされていたとか、何か……
衣子:あったようですね。
直人:ありました?
衣子:デッサンみたいな、モデルさんのあれも画集にでてるんかな。何枚かあると思う。綺麗なお方で。
直人:載ってましたね、そういえば。
衣子:どこかの奥さんみたいだったよ。
直人:そういえばそうだ。これだ、この人だ(図録269頁を指して)。
飯尾:この方をモデルに。
直人:なるほどね。なんていう人?
衣子:名前は……
飯尾:こちらは、《女の人の顔》(《女の人 婦人像(1-4)》、1919年、図録269頁)と書いているだけで、どなたかは。
衣子:どなたかの紹介で……
直人:これ(《裸婦図(下図)》、1920年、図録268頁)はどうしたの。
飯尾:これは下絵でして、京都市立芸術大学(芸術資料館)にございます。(華岳が)ご出身になられた学校で。
直人:燃えなかったんだ、戦争で。
飯尾:時々展覧会に出ています。
直人:見たこと無いね、実際に。何点か燃えましたよね、空襲で。
衣子:(これは)燃えてない。
直人:これは燃えなかったんだ。燃えたかと思った。
衣子:燃えたのはね、《聖者の死》(1918年、図録284頁に参考図版掲載)。
直人:なるほど。そういえばそういうのあったね。
衣子:関東震災で。あれは空襲じゃない。関東大震災で。定期画会で、東京へ行って、東京のどっかで焼けたみたい。
池上:では、お父様の生い立ちについてお聞きしていきたいんですけれども。
飯尾:お父様の村上華岳画伯は、明治21 (1888) 年に大阪にお生まれになったんですが、お父様の小さい時のお話をご家族でされたりですとか、お父様自身が幼少時代の思い出をご家族になさったりということはございましたか。どういうお家で育ったですとか。
衣子:あんまり小さかったから、記憶無いねぇ。
飯尾:大阪での暮らしがどうだったかとか。
衣子:大阪は知りません。
池上:村上家にご養子に行かれた経緯というのは、皆さんご存知でいらっしゃるのでしょうか。
衣子:華岳の父の…
直人:武田誠三ですね。武田誠三さんが亡くなったでしょ。それは華岳さんがいくつの時? 8つぐらいのときと違う?
衣子:8歳? もっと小さかったと思う。
直人:もう少し大きな声で。聞こえないから。(注:ホテルのロビーでインタヴューを行ったため、時々周囲が騒がしくなった)
衣子:自分にも聞こえてないけどね。
直人:あなたにも聞こえてない? みんなでもうちょっと大きな声で。
衣子:だんだんね、やっぱり90になってきたら耳が衰えてきて。
池上:はい、はっきり大きな声で話します。
直人:もう一度聞いてください。
池上:はい、村上家にお父様ご養子に行かれた経緯というのを少しお聞きしたかったんですが。
衣子:そのときには、私はまだおりませんで。
池上:そうですよね。
直人:だけど、歴史的には知っているでしょ。武田誠三さんが亡くなられて、僕の記録では、彼(華岳) が7つか8つくらいのときだったと思います。もし間違ったことを言ったら訂正してください。誠三さんの奥様のたつさんが、非常にお美しい人で、近くの町の若旦那、非常にお金持ちの人だったそうですけれども、たつさんに「結婚したい」と。
衣子:たつさんもやっぱり一人で寂しかったのでしょう。
池上:武田誠三さんが亡くなられてからという話ですよね。
直人:そうです。
衣子:たぶん、そうだと思います。村上五郎兵衛というのは、わりに旧家なんですけどね。そこの家に、千鶴(注:千鶴子)という、五郎兵衛さんの奥さんの千鶴さんいうのがありましてね。その人の縁続きが華岳さん。甥に当たるんです。だから華岳のおばさんが五郎兵衛さんのところに嫁いでた。
池上:おば様が華岳先生をお引取りになった、というような感じなんでしょうか。
直人:そうですね。
衣子:なんかもう一人、どこかおじいさんで、お目付け役みたいな怖いおじいさんが一人いたね。後から聞いたのには、そのおじいさんが、たつさんがその東(あずま)さんのところに結婚というか、嫁ぎたいと言うたときに、子供をどうするのかとか、そんなことで。随分と村上家でもめたというかね。だけど結果的には、おばさんのところが、たまたま千鶴さんと五郎兵衛さんとの間に子供が無かったもんだから、引き取ってもらうということで、たつさんがお嫁入りできた訳でね。
直人:華岳さんの本当の名前は震一でしょ。その頃は、華岳じゃなかったでしょ。震一でしょ。
衣子:うん、震一。武田震一。
直人:自分の子供を捨ててでも、その若旦那のとこに行きたかったわけか。
衣子:うん…… だから、武田誠三いう人がどんな人だったか…… 職業的には図面を引いていた人で、そういうことをちょっと聞いた。
直人:誠三さんが? 武田誠三さんが図面を引いてた。へぇ。
池上:大工さんですとか、建築ですとか。
衣子:どんな図面か知らんけどね。
衣子:それで結核みたいので……
直人:で、亡くなったわけ。
衣子:だからたつさんも苦労したかもしれない。
直人:たつさんが二度目に結婚した相手の人、東さんはどんなお仕事していたの。
衣子:私も1回か2回だけあったことがあるのですけど。
直人:どんな人。
衣子:ふっくらとして、ちょっとこう、お父さんみたいな感じの包容力のある人。私は誠三さんを知らないから…… お父さん、ていうような包容力のあるような、ゆったりした人だったと思う。震一(華岳)を何とかしなあかんで、ちょうど村上五郎兵衛と千鶴さんの夫婦に子供がなかったもんだから、その子供を引き受けて。それまでにすったもんだあったと思うんですけれども、最終的には結婚を許されて、たつさんが東さんのところにお嫁入りして、それで震一は神戸の村上五郎兵衛と千鶴子の養子として入ったのが、7つか8つのとき。
直人:たつさんはその時に親族会議で、「震一を自分の息子と言ってはいけない」と言われた、ということを僕は聞いたことがあるんですけれども。
衣子:だから以後、交際はもうできない。
池上:養子に行かれた後はご縁がないものとして。
衣子:だから華岳もお母さんが恋しかったけれども、自分と母親の間は一応もうゼロになってないといかんから、会うことも許されてないし。でも村上五郎兵衛さんと千鶴さんの夫婦のもとでね、しっかり神戸小学校を出ているんですよね。誠三さんの腕が似てんのかなんか、図面を引いたり、写生しても上手に描けるからね、五郎兵衛さんはこの子は他の事で生計を立てないで、腕でできるようにしたいんと思うんやといって、美術学校に入れたんですね。
直人:だけどこれは華岳さんが画家になってね、観音さんを描いたり(したことと関係がある)。ものすごい心理的な打撃でしょうね。お母さんに、まあ言えば捨てられたんですよ。
池上:一番そういうことをショックに受ける時期でもありますよね。
直人:そうですよね、大変な……
衣子:ああいう質(たち)の人だから、随分とその中にはいろんな葛藤があった、ちょっとひねくれていたと思うよ。
池上:それを口に出してはいけないというような状況でもありますね。
衣子:それで義理の父親と母のとこでね、あれしたから、一応わがままは通ったけれども、なんかお友達と喧嘩しても、言葉が出ないんでね、世慣れてないから。だけど「お前はばかやろう」とかね、「ばかだばかだ」とかね。だから私が子供のときでも、なにかといったら「ばかやろう」、うちのお母さんも「また始まった、お父さんは『ばか』しか言えない」。ちょっと変わった性格でね、偏執ではなかったけどね、なんかそういう意味でひねくれてるんちがうかなと思うような、難しい人やったけどね。
直人:おまけに非常に病弱だったでしょ、体がね。結局それが喘息になるんでしょうけども。母に捨てられたこと、養子に入ったこと、病弱であったということ。五郎兵衛さんが華岳さんを、京都の絵画専門学校に連れて行ったときに、どう言ったか、学校の先生に。「私の息子が、絵で生計をたてなくてもいいように」とか、そういうこと言ったんでしょ。
衣子:そうそう。
直人:いいお父さんやね、僕にもそんなお父さんいたら嬉しかったけどね。「直人いいよって、絵を描きなさい。絵で生計を立てなくってもよろしい」て言ってくれたら。
衣子:この人(直人)はアメリカへ絵を描きに行く言うたときに、うちの主人は、「お前は一生乞食だ」。「一生乞食だ」と一言。
直人:言われましたね(笑)。僕は「いいですよ」って。
衣子:(直人は)反抗して、「行く」って。
池上:でも最終的には味方になってくださったんですよね。
衣子:そこがやっぱり、本当のお父さんだと思うんですよ。
直人:ものすごい味方になったんですね。その辺が面白いね (笑) 。
衣子:でも、東さんとこはその後、やっぱりボンボンやったんでしょうね、ちょっと騙されたりしてね。家が逼塞して。
直人:その辺のこと、もうちょっとお話して。
衣子:詳しくは知らないけどね。
直人:だけど一緒に行ったでしょ、華岳さんと一緒に。
衣子:でも震一は母親も恋しいし。そのお父さん(東さん)は多分、今で言うたら仕事で騙されたかなんかでね、不運のうちに亡くなってしまったんですよ。で、娘が二人できてて、女の子が二人。
池上:その後、たつさんはご苦労されたんでしょうか、やっぱり。
衣子:たつさんもだから、第二の苦労がいっぱいあったんと違いますかね。それはね、誰が知らしてきたのか分からないけど、知ってました。
直人:誰が?
衣子:華岳が。
直人:お母さんは娘のときに華岳さんに連れられて、どっかの長屋に行ったわけでしょ。華岳さんはたつさんの生活しているところを見つけたわけですよね。その話をちょっとしてください。
衣子:あれは、もちろん村上の母には内緒だったんですけどね。口止めされて。
直人:どういう風に。
衣子:いっぱい電車を何回も乗り換えて、今でしたら、吹田というところ、ありますか。そこだったと思う。
直人:お母さん(衣子)いくつぐらいのとき?
衣子:そうねえ。小学校5年生くらい。路地みたいなところをね。
池上:自分の娘を連れて、幼い頃に生き別れたお母さんに会いに行ったということですか。
衣子:娘を連れて行かないと、自分の健康が、なんどき喘息の発作が起こるか分からない。とにかく私を誘うときは、自分の発作の起きるときに助けてもらうために連れてった。
池上:自分の娘さんを見せてあげたい、ということではなかったんでしょうか。
衣子:違う。(華岳が)山なんか行きたいでしょ、山好きだから。山の中でね、ごーっと風の吹いているとき、下駄をお尻の下に引いてね、ちょっと落ち葉をあれしたら、葉っぱが燃えるでしょ。で、ごーっていう音を聞きながら、ちょっちょっと写生したり。そんなときでも、私が便利だから連れて行く。
直人:薬箱を持っていったんでしょ。
衣子:そうそう、こんなバスケット。
直人:首から下げて?
衣子:はい。私が持って。
直人:それは嫌だったでしょうね。
衣子:それも、電車の中でも発作起きる。
直人:どうするの、自分で治すわけ?
衣子:今はあんな器具はないと思うけど、ずーっとこうゴムがあってね、こっち側でくっと、こう空気を入れてね、そしたらこっちの先に薬の液が入ってて、その液の入った薬を喉のとこに当てると、そこから霧のように薬がばぁっと喉にかかってくるわけ。そこらへんを麻痺するのかな。それで(華岳が)「もっときつく、もっときつく」って言うから、一生懸命この……
池上:ポンプみたいになっているところを押すのが……
衣子:こんな小さな風船みたいな、これをポッポッとやるわけ。
池上:それがお役目だったんですね、じゃあ。
衣子:うん。電車の中でもなんどき起こるか分からない。あの人はいつでも、生涯を通じて、学校に行ってない間は、和服。ずっと和服でしたから。寒いときは和服の上に着る、こんなマントしかないわけ。マントって分かる? 袖がぱっとこう付いたような。それの中でいつも手をつないで、私がバスケットをこう抱えて。
直人:ということはお母さんが11歳か12歳の頃やね、それは。
衣子:たぶん小学校の高学年くらい。
直人:けどお母さん、そういうときは、その頃は自分の友達と遊びたかったん違うの。
衣子:うん…… でもどこかの本に書いてあったけれども、「うちの娘はね、従順な子供だからいつでもどこでもついてってくれる」って書いてたの。使いやすかったの。夜なんかでも、例えば10時頃から「お月さん見ようかなー」とかなんとかって、私たちは離れで妹たちとみんなで寝てると、トントン(注:ノックの音)ってくるわけね。「さんぽー」って。
直人:そう、そんな遅くに。
衣子:そしたらお母さんが飛んできて、「やめて下さい、今子供は、学校の試験やからね、やめてください」言うても、言うこと聞かないから。で、私はお父さんの味方。「行くよー」って。で、二人で。マントの下でね、お手々つないでね、ずーっとあちこち散歩する。
直人:何、山に行くの?
衣子:そういう時はほとんど元町。
直人:閉まってるでしょ。
衣子:でも開いてるところもあるの。ずーっと端から端まで。神戸の端から端までって、一番端っこが三越で、こっちの端っこが大丸。で、「うちの娘は従順や」って言ってる。
直人:誉めてはんの(笑)。さっきのたつさんのとこに行くとき、ぐるぐる電車乗って路地を歩いて……
衣子:多分あれは吹田というところやと思うんです。
直人:そこで家まで行ったの? たつさんの。
衣子:行きました。
直人:たつさんに会いました?
衣子:うん。そのときは、駄菓子屋さん、お菓子屋さん……
池上:お菓子屋さんみたいなものを営んでいらした。
衣子:旦那さんが不運の中に亡くなったからね。路地の突き当たりみたいな並びで、ちょっとお菓子をよばれたり。そのときは向こうの女の子が二人で、お母さんと三人。でも華岳を見たら、三人が寄ってね、いつも泣いてた。その娘さんも、「お兄さんだ、お兄さんだ」って……
直人:華岳さんはお金なんかあげたのかな。たつさんに。
衣子:必ず白い包みでね、あげてた。
直人:あなたにも、華岳さんなんかくれたん。
衣子:そんなんもらわないよ。
直人:口止めなんかしないん。
衣子:大人しいから言うこと聞くんよ。
池上:信頼されていらしたということですよね。
衣子:でももう、とにかくお母さんと娘さんと、三人で。お母さんも「震一ー」言うて、「許してな、許してな」って。いつも自分自身もちょっともらい泣きしていたね。そこの娘さんは「お兄さん、お兄さん」って。
直人:これが僕は、華岳さんの観音やと思うの。失った母の愛だとか。
衣子:バネになってるんやと思う。
直人:絶対そうですね。僕はいつでもそう思うねん。女性の、母のイメージというのかな。それがひとつの、彼の原動力にもなっているんでしょうね、画家としての。
衣子:だから私、なんか気の毒な事情があるんだろうなぁと思って。それで帰るときにお菓子なんか、ケーキなんかも食べさしてもらってね。家に帰ってきて、「お母さんに言ったらだめよ」って言われたら、ちゃぁんと一生懸命きゅっとこうして(口をつぐんで)。
直人:それが口止めだよ、ケーキだよ (笑) 。
衣子:言わんかった。
直人:言ったら叱られる?
衣子:いや、もめると思う。
直人:華岳さんは秘密で会いに行ってるんだ。
池上:かなり何度も行かれていたんでしょうか。
衣子:いや、そんなに何度も行けませんでしたね、体も弱いからね。(衣子さんは華岳に)「また行ってくれる?って言うたら行くよ」って言うてましたね。
直人:華岳さんはあなたが17歳ぐらいのときに亡くなったんですけども、今聞いていた話では、あなたが11歳か12歳ぐらいのときから、たつさんのとこに行ったわけでしょ。一番最後に行かれたのはいくつぐらいのときですか。本当に娘になった頃?
衣子:なりかけくらい。向こうも同じくらいの娘さんでね。意外とそこの娘さんはね、綺麗。たつさんもね、日本人離れした顔。目が奥目で、外国の人ね、っていう感じの。
直人:美人だったの。
衣子:痩せて細い人やったけども。むちゃくちゃひどい顔じゃなかった。だから娘さんも、女の子もみんな綺麗だった。お父さんはっきり知らないけど、その東さんの家系は、綺麗な人が多かったんと違うかな。それでも、最後に華岳は、あるとき本当に15分か20分くらいで急に亡くなったんですよ、夜中に。それでぱっと新聞に出たから、たつさんはその娘さん二人連れていらっしゃいました。
池上:お葬式にいらしたんですね。
衣子:だけど、村上家の新宅は、付き合いはもうこれ(禁止)になってたからね。一番困ったんは母で、でも別室に入れてあげて、お別れに来た人が切れたときに、親子三人入れてね、最後の別れをやったことを覚えています。それで、それが済んで、もちろんお葬式にも呼べないし、帰られるときに裏の勝手口を開けてね、そこからお帰り願った、そんな記憶があります。
直人:華岳さんの葬式ってすごく綺麗だったそうですね。
衣子:もうシンプルにね。
直人:たくさんの人が来たんでしょ、花を持って。
衣子:親子三人で来はって、それからもう、全然お付き合いないし。村上の方も、息子の代になって、(私の)兄やね。兄も東さんのことなんか知らないからね。やっぱりタブーになってるからね。多分もう交際もしないし、それっきりになってるから。時々「どうされてるかな」なんて思うけど、まあお母さんはもういらっしゃらないと思うね。
直人:そしたら、たつさんがいつ亡くなられたとか、そんなことも全然知らない? 彼女のお墓がどこにあるっていうのも分からない?
衣子:分からない。
直人:ああ、そう。やっぱりちょっと悲劇やね、そういうのは。
池上:双方共に、お気の毒なところがありますね。
衣子:でも、すでに生い立ちのときから、いろんな目に遭ってるでしょ。だから考えたら、今の子でね、神経質でぴりっとした子がいるじゃない、あんな子供じゃなかったのかな。
直人:割とませてたということは?
衣子:自分でよく言ってた。おませ。ませてたって。
直人:土田麦僊(1887-1936年)かなんかがそんなことちょっと言ってたですね。
衣子:一番おませやったって。
直人:そういう人生を通ってきて、小さいときから、そういうおませっていうのかな、人生観ができたんだろうな。
衣子:養子にきたら養父母がおりますね。村上は一応旧家で通ってたからね。でも五郎兵衛さんは震一を可愛がって。ちゃんと家督も残して亡くなったからね。それで幸せだったんだと思うんだけれども。
直人:乞食にならなくて。そうでしょ、画家として、ちゃんと絵が描けたんでしょ。他の入江波光(1887-1948年)さんとか、他の人たちは大変な生活だったんと違う。
衣子:(華岳は)何も働いてへんもん (笑) 。
直人:あ、そう。
衣子:だから時々ね、今の若い子達でね、気分の難しい子供ありますね。一つ間違ってたらどんな人生を送っていたかわかんないと思うね。
飯尾:お父様にとっては、絵を描くことが自分を表現する唯一の、自由に自分の心を解放できることだったんでしょうか。
衣子:そうでしょうねえ。
直人:絵が上手だったんでしょ、最初から。
衣子:誠三さんが図面引きだったいうのは、どんな図面を引いていたのか知らないんですけどね。
直人:どういうことなのかな、図面引きっていうのは。
衣子:昔の図面引きがどんなことをしたのか。
直人:やっぱり建築家的なことしたんじゃないかな。
衣子:兄が横浜の国大を受けるときに、建築家を狙って行きましたからね。で、県庁へ就職して、建築の方やってたからね。やっぱりそんな血が引いていたんかなと思うけど。
直人:僕はそれ、よく覚えてるの。おじさんの六甲の家に行くと、ブルーの建築の紙がたくさんあって、もう図面引いてあるわけよ。それをよく覚えている。ものすごくいい人やったね、そのおじさんっていうのは。華岳さんと似ていてね、同じように死んだんだな、やっぱり喘息で。
衣子:病気だけはね、間違いなく直系のとこへみな行っちゃって。私らについては、喘息は上のほうを飛んでったけどね、兄だけはしっかり喘息だけもらってるから。
飯尾:ちょっとお写真がありましたので、見ていただきたいんですが。カタログにあったものを複写してきたんですが(図録293頁、右)、こちらが、大正14(1925)年に聖拙社という華岳のお弟子さんたちがグループを作って展覧会をするというところで、その会場なんですが。
衣子:これ私だ。
飯尾:はい、写ってらっしゃると思って。ちょっと不鮮明なんですが。
衣子:それでね、家でお寺を借りてましたでしょ。形見代わりに、家で若い人を育てて。この人ら皆、お台所で、お買いものして自炊して、寝泊りして、ずっと一緒に住んでた。
飯尾:お寺で合宿生活のような。
衣子:はいはい、だからこれは私ですけれども。
飯尾:こちらがお兄様でいらっしゃいますね。
直人:常一郎さんやね。
衣子:いろんな人にお守してもらった。
飯尾:(華岳は)非常にお弟子さんたちの面倒とかご指導というのはよくされてたんですか。
衣子:子守もやってくれてたみたい。
飯尾:お弟子さんたちが? そうですか。
衣子:はい。私もよくね、この中の人は、何人かはみんな子守。
直人:名前知ってます?
衣子:知ってます。この人だけ分からへんけど。これは坪井(泰治)さん、これは藤村良一、それから一つ飛んでこれが毛利三郎。そしてこれが……
直人:これ女の人やね。
衣子:男です、これ。石川(利治、1901-1980年)さん。
直人:それが石川さんか。だけど女の人みたいやね。
衣子:この人は毛を伸ばしてて、黒いワイシャツ着てて。
直人:この後ろにかかってる絵は、これ何ですか?
衣子:そうねえ、何だろう。こんなグループを作ってたって?
飯尾:はい、聖拙社という。聖人の聖に拙いという字に社、というので、お弟子さんたちのそういうグループだったそうです。
衣子:もうほとんど亡くなりました。
飯尾:こういう展覧会などに衣子様などお連れすることは。
衣子:お守のつもりで連れてきたのかな。
直人:この中では有名になった作家はいますか。
衣子:学校の先生になった人が一番多いね、絵の先生ね。この人がなんか養子に行って、この人が兵庫の県立の女学校の絵の先生になって。この人も絵描きさんに。で、この水上哲というのが……
直人:この人? タバコ吸ってるの、これ。
衣子:これがね、ちょっとはぐれもんだったから。
直人:そういう感じやね。ちょっとぐれた感じやね。
衣子:時ともなく現れて、ご飯食べて帰ったり、そういう人です。で、坪井さんとかは養子に行って。神戸ホテルかどっかの。
直人:こういう人たちの絵は残ってますか。
飯尾:藤村良一さんから、作品と言いますか、スケッチのようなものを資料としてうちの美術館(兵庫県立美術館)で預かっています。
衣子:この人が一番活躍したかな。藤村良一。
直人:僕は会いました、この人。風景画描いてたね。オイルしてたん違う。油絵を憶えてんねんけど。
衣子:この石川さんも仏画を描いてた。
飯尾:お弟子さんのご指導をされながら、ご自分も絵を描いていたという。
衣子:そうそう。
飯尾:お忙しい毎日ですね。
衣子:昔はそんなんでね。あちこちのご家庭から(弟子を)お家に預かってね。母が言うてましたけど、みんなめいめい夕方に買い物に行って、お台所をあてがってるから、自分の好きなものを、作って食べてた。
直人:奥さんなんかもいたんですか?
衣子:このときはみんなまだ独身。結婚した人はみな外へ出てくけど、みな若いから。
直人:どういう風にして華岳さんは彼らを見つけたのかな。どういう出会いでお弟子さんになったんかな。
衣子:そういうのは、どなたかの紹介かな。
池上:みなさんで共同生活をされてたんですね。それは花隈のお家の近くでされてたんですか。
衣子:いや、これは京都に借りてました。
直人:花隈は最後の10年くらいでしょ、移ってきたのは。
衣子:だから、この坪井さんっていうのがね、私の面倒よく見てくれて。母が「ぐずってるから」と言うと、「ほな僕が散歩つれていきます」って散歩に連れて行ってくれて。ちょうど圓徳院(注:高台寺の塔頭のひとつ)というお寺のところに、昔の天皇陛下の御陵があって。閑静なとこで、非常に環境のいいところやったから、よく面倒見てもらった。で、この人が「今度来るとき、お兄ちゃんがあなたの好きな本、買うてきてあげるから」って。それで初めてナイチンゲールの本を。
直人:それがナイチンゲールか。なるほど。
飯尾:京都時代はこういうお弟子さんたちとにぎやかに過ごされていて、それから芦屋に転居されて、生活はかなり変わりましたか。お子さんたちにとっても。
衣子:そうですね。みんな初めは絵を志してたけどね、みなそれぞれ違う道に。この人なんかは、京都の染めものやさんに。
直人:これは何年の写真ですか。
飯尾:大正14(1925)年となってますね。ちょうど衣子様が5歳か6歳位のときぐらいのときでしょうか。
衣子:珍しい写真ですね。
直人:そう、大正14年か。
衣子:みんな京都の美術学校出てる。
直人:華岳さんが37歳のときだ。(図録を見ながら)これを描かれたんだね。既に菩薩を描いておられる。
衣子:みんな絵を志してて、あんた(直人)みたいなもんだ。でも全部、絵描きだけになった人は、この石川さんと、藤村さん。
飯尾:少し仏画についてもお尋ねしたいんですが。こういった仏様の絵につきまして。独特な表情の仏画を描いてらっしゃるんですけれども、インスピレーションを得た特定の仏像とか、そういうものはあったんでしょうか。この仏様が好きだとおっしゃっていたりとか、そういうことはありましたか。こういうお顔はあまり例を見ないような……
直人:それはね、この画論(注:村上華岳『画論』、弘文堂、1941年初版)のどこかにこういうこと書いています。「私の観音とか菩薩というのは、どこの特定なものからもインスピレーションを受けていない」と。なにか自分の中の、内面的なイメージですよね。彼はインドの文化にすごく惹かれていたでしょ。これは母に聞いたんですけど、当時神戸にはね、インド人の人たちが相当来ていたんですよ。
衣子:神戸の山手の方に。今もありますでしょ。(北野に)ずっと残ってますね。あすこに、お友達ができたんです。ハッサン・アーリさん。
池上:インド人のお友達ができたんですね。
衣子:大丸百貨店に行ったときに、ちょうどお盆前で、大丸さんの仏具の部でね、提灯がいっぱいぶら下げてあったの。アーリさんは提灯が珍しいねん。提灯は紙で作って、こうなるでしょ。一所懸命奥さんと見てて。私も一緒にいたんですけど、気になってしょうがなくって。お父さんが話しかけて。
池上:提灯の説明をして差し上げたんですね。
衣子:なんかこう(ご縁が)できて。うちの父は、インド人の顔が一番好きなの。それは分かってました。京都におったからね、舞妓さんの顔が好きなんかなと思ってたら、インド人の顔が大好き。だから一番「えっ」て思ったのは、阪急電車乗ってね、マント着てね、ここに手をいれているわけ。ここにメモが入っているんです、鉛筆と。前にインド人の綺麗な女の人がいて。綺麗でしょ、東洋的で。目の前では写生できないから、こうしてね、鉛筆で目のアイラインかなんかをね、一生懸命ポケットで……
池上:マントの中で、写生をしてらしたんですね。
衣子:中で、鉛筆で。それで着いてから、「あっだめだ」って言って。「全然だめだ、あんたに似てるわ」って言うて(笑)。
池上:すごく気遣いが細やかな。
衣子:そのアリさんと会えたことで嬉しくてね。インド人は神戸の北野町の辺りに住んで、家族と一緒に貿易してたんね。それで話をしてたら「いらっしゃい」と言ってくれて、家族みんなで押し寄せてご飯呼ばれて。それで神戸の山手6丁目いうところに、青年会館があったんですよ、煉瓦建ての。戦争で(今は)ないけど。そこで若者のためということで、(ラビンドラナート・)タゴール(Rabindranath Tagore、1861-1941年)さんという方を、日本の青年会がお呼びして講演なさるような話を誰かちらっとして。それで青年会館の講演会を見に行きました。
池上:インドから来られたタゴールさんの?
衣子:タゴールさんの、一日だけの講演。それで父が「写生させてくれ」って。直筆の写生が今、村上の家にあるみたい。 (《タゴール像》、大正13(1924)年、2005年図録、292番、270頁)。
直人:いい素描画だよ。ものすごくいいね。だけど、タゴールさんをもっと理想化した顔だね。タゴールの写真と比べると華岳さんの素描はね、ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452-1519年)的な感じやね。
衣子:いろんなミックスとか先入観がね。それでアーリさんに「また一遍会えないか」って言うて、「またいらっしゃい、いらっしゃい」言うてくれて。自分のところにはいっこも呼んだことないんですよ、向こうばっかり(笑)。また行くとね、インドのご馳走が美味しいのよ。ちょっと辛いのを、ちゅちゅっと袋に包んでね、カレー粉みたいのが入った、ちょっとお蕎麦に似たのんと食べたら美味しい。その時の話でね、私は知らなかったんですけれども、華岳もインド人のこと非常に研究していたから、東京にチャンドラ・ボース(スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose、1897-1945)さんいう人が、迫害を受けて、東京のお菓子屋さん(注:中村屋)にかくまってもらいはったことがあるんね。
直人:そのころ、何かあったんですよ。
衣子:何かあったと思う。
直人:知識人とかね、そういう人たちがインドの国内で、英語で言うとpersecution。
池上:迫害をされた人たち。
直人:そう、何かあったんですよ。インドのそういう人たち、一般的には裕福な人たちが神戸に逃れてきたんですよ。
衣子:東京のね、かき餅みたいなん作ってるとこのご夫婦が、自分とこの離れを開放して、ボースさんが逃げてきたんでかくまってたいう話を、アーリさんと一生懸命話してね。うちのお父さんもインド大好き人間だったからね、アーリさんとこ行くときは、嬉しくって仕方がない。なんとかしてサリーの服を一枚欲しいって。「どうするんだい」って言ったら、「自分の娘に着せる」って。それで一遍着せられたことがあるの(笑)。全然似合わない。顔が日本の顔だから。
直人:ここ(額)にこう赤いの付けて?
衣子:ちょっとつけたかもわかんないね。神秘的なんだって、あれが。
池上:この裸婦の身に付けているものなんかも、少しサリーみたいな雰囲気が。
直人:そうですね。
池上:『画論』なんかをお読みしていると、すごく深い精神性のある文章を書かれていますが、華岳先生は、ご自分は宗教家であるという意識はお持ちだったんでしょうか。
衣子:いや、あんなこと言うてるけどね、母なんかが言ってたのは、家にはちゃんとお仏壇もあるし、(家族は)盆暮れにはお墓参りもするけど、(華岳は)一回も行ったことない。
池上:行ったことないっていうのは。
衣子:こんなん(お参りのジェスチャーをして)しない。
池上:仏壇の前でお経をあげたりですとか。
衣子:しない。口で唱えるばかり。
直人:僕が理解するのは、華岳さんは形式ばった、そういうものに対しては(懐疑的だった)。というのは、彼は密教をすごく研究していて、仏教に加入しようと思っていたらしいんですよ。だけどその前の日にキャンセルしたんです。『画論』の中で話しているのは、自分は仏教には非常に惹かれるんだけども、仏教が余りにも人間の身を軽蔑したような、そういう見解に私は反対するっていう。余りにも精神界のことを主張しすぎていると。だから彼の絵を見ていると、僕も絵かきですけれど、すごくセクシーなんですよ。
衣子:うん、ある。
直人:そうでしょ、なまめかしいでしょ。そうすると仏教で言っていることと、自分の考えていることと、ちょっと違うと思うの。彼は非常に、仏教なんかは懐疑的に見ていたと思います。
衣子:だから、こんなかなり豊満な肉体でね。
直人:ものすごいセクシー。
衣子:だからそういうことは意識してないというのが、絵に現れている。お盆であろうが、お父さんの命日であろうが、自分のお世話になった五郎兵衛さんのお墓参りもしないし、絶対、なにもしない。
直人:だから彼は形式的な考えに対しては、反抗児だね。国画会(注:国画創作協会)っていうのを作ったのも、そういうestablishment(制度)に対する反抗でしょ。
飯尾:「絵を描くことは祈りと同じだ」というもことも述べてらっしゃいますけれども、そういう言葉は日常、口にされることはありましたか。
衣子:心の中じゃないかな。
直人:制作前に自分で瞑想して。
衣子:瞑想はずっとやってましたね。それも形式にとらわれないで。
池上:瞑想をされてから制作をする、というような順番だったんでしょうか。
衣子:一日のうち、半分以上はベットの上。その半分の残りの、半分の半分ぐらいが絵を描いているとか、後の半分は苦しんでるとか。
直人:ものすごく苦しんだよね。顔見たら分かるわね。
池上:『画論』で書かれているようなことも、そういう苦しみの中から綴られたというようなところもあるんでしょうか。
衣子:そうやねえ。
直人:良いこと書いてるでしょ。僕のアメリカの友だちなんかに、ちょちょっと訳すんですよ、みんなおんなしこと言うんですよ。「直人、これを翻訳してください」って。だから富田玲子さんにやってもらおうかな、と思って。
池上:結構、普遍的な、胸を突くようなメッセージがありますよね。
直人:そう。なんか、カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866-1944年)のスピリットのやつあるでしょ(注:カンディンスキー『抽象芸術論―芸術における精神的なもの』、初版は1911年)。あれよりもこっちのほうがずっとええと思うねん。
池上:ご一緒に暮らされていて、こういうことをご家族に話すということは、やはりなかったんでしょうか。
衣子:でも結構ね、私たちが親を批判するとおかしいけど、「随分勝手よねー」なんて姉妹でぶつぶつ言ったりね。「お母さんも良く泣かされてるんだから」って。お風呂入ったら涙のつもりで顔をばーっとこう洗って、「あれみんな涙よ」って言ってたね。それで父は、言葉が何も言えないんじゃないの、ぱっと適切な言葉が出ない。出なかったらもう「ばかやろう、お前は何も分かってない、ばか」って、そればっかり。だんだんこう(癇癪が)出てきたら地団太踏むくらいやね、子どもみたいやね。母もだんだんそれが分かってきて、大きな赤ちゃんをかかえているからね、って。
飯尾:先程、紙の話をされていたかと思うんですが。お好きだった紙とかは。
直人:ペーパーですか。
飯尾:特定のお好みの画材とか、お好みの表具とか、出入りの業者さんですとお気に入りの表具屋さんとか画材屋さんとかいうのは。
衣子:いい物を使ってるとか? それはね、(土田)麦僊さんのとこと仲良しでしょ。麦僊さんは、ずっと家が近くで、道具屋さんとかね、画材屋さんが、ええものを持って来てね。土田さんは上等なもんが好き。震一は安もんでもええって。
直人:筆も?
衣子:みたいよ。
直人:安もんで描いたん。
衣子:そうそう。あの人の筆はね、ちょっとこう、チョンチョンと先を切る。ちょっと先を切って、こうかすれたら一番いいんですよね。
池上:特にこだわりはお持ちじゃなかったんですね。
衣子:何でも良かったみたい。
飯尾:墨などはどうですか。墨一色で描かれていたりとか、朱で線を描かれたりとかしてらっしゃいますけれども。墨とか絵具の色合いにはかなりこだわってらっしゃったんでしょうか。
衣子:道具なんかもほとんど、ええもんは使ってなかったみたいよ。
飯尾:晩年になられると墨一色で、本当に抽象画みたいな、そういう山の風景とかをお描きになって。
衣子:唐紙(とうし)が多いですね。この黄色いのね。
直人:唐は中国の。正確な名前があるんだよね。何とか唐紙っていうんだっけ。
衣子:白唐紙(はくとうし)いうのもある。これの白いのもある。でもこの黄色が好き。
直人:これは安い紙だよな。どっか神戸の三宮でこういうのを買ったんだろ。そうでしょ。
衣子:そやと思う。
直人:ちょっとこう、青っぽいね。墨にちょっと青なんか入れてるんだろうな、きっと。
衣子:それをお皿で溶くのは、やっぱりお母さん。
直人:ああそうなの。神戸ばあちゃんがこうやって。
衣子:言われる通りに。私はしたことない。
直人:それはいつごろ描くの、朝のうち、お昼、夜とか。
衣子:夜、更けてから描くの。
直人:この海の、《昧爽ノ海》っていうのだな、これ(1919年、図録54頁)。これなんか、昨日も聞いてたんですけどね、(華岳は)よっぽどこの絵を気に入ってたらしいんです。何度も時々出して、色をちょっと入れて、すっとしてぱっと終わったんじゃなくて、何度も何度も手を入れたんだな、これは。よっぽど気に入ってたんだ。
衣子:だから手に入れた方がね、半日かけてね、つっつっとこう。
直人:手に入れたって中川さんやん。中川栄次郎でしょう。
衣子:そうそう。
池上:これは中川栄次郎さんのコレクションに入っていた。
直人:そのストーリーもすごいんですよ。素晴らしいですね。栄次郎さんと華岳さんの出会いというのかな。
池上:そこのお話をお聞かせ頂いてよろしいでしょうか。
直人:じゃあね、栄次郎さんの話をして、それで一応今日は打ち切った方がいい。あんまり疲れたらいかんから。で、栄次郎さんと華岳さんはいつごろ会ったんですかね。
衣子:そんなん、知らないけどね。私が知ったときはもう交際が始まってて。
直人:僕は(華岳について)オレゴンのポートランド美術館(Portland Art Museum)で講演をしたんですよ、1年半前に招待を受けて。僕はオレゴンとかシアトルのことを、全く考えたことがなかったんですけれども、オレゴンに行くと、あそこは第二次世界大戦のときに、日系アメリカ人の強制収容所があったところなんですよね。僕は全然知らなかった。オレゴンをワイフと子どもたちとドライブするでしょ。そうすると日本人の持っている、あるいは持っていた農場があるんですよ。今でも残っているんですよ。そういうのを見ているうちに、日本人と西海岸との関係がだんだん僕には分かってきたわけよ。シアトルはもっと日本人の跡があるんですよね。僕がレクチャーで最初にお話したことはね、栄次郎さんのこと。彼は、大阪の米の商人の子どもだったんだよね。
衣子:お米の問屋さん。
直人:問屋さんですよね。兄弟が非常に多かった。
衣子:10名。
直人:10人おったんかな。栄次郎は、自分のお父さんお母さん、兄弟を見てですね、「自分はお米の商人になりたくない」と。18歳のときに、両親の家の近くに禅寺があった。禅寺の和尚さんが、その若い栄次郎を見てですね、何か感じたんでしょうね、栄次郎に「栄次郎、アメリカへ行って来い。お金をあげるから」って。片道の切符のお金をもらったんですよ。それでシアトルに行った。当時1904年くらいで、ちょうど日露戦争の頃です。その頃、日本の人、わりといってるのよね、西海岸に。
衣子:私らが小学校のときね、神戸でしょ。だから神戸港からね、ブラジル移民の船が一年に何回か出てました。
直人:ブラジルにね。だけどこれはアメリカ西海岸。それで彼はシアトルあたりに2年くらいいたんですよね。アメリカには全部で10年いたんですよ。シアトルあたりに2年いて、18歳でしょ、人種偏見がまだ非常に強い頃だったから、大変な時期だったと思うんだけど、彼は結局ニューヨークに行くんですよ。そこに8年いて、貿易というのを考えたんだろうな。いろんなお客さんを作っといて、8年いて、栄次郎さんのお父さんが非常に病気だという連絡が入って、神戸に帰って。1904年から10年で、1914年。第一次世界大戦の間近ですね。帰って、神戸商会株式会社というのを作ったんですよね。それでアメリカから日本の女性を美しくするものをいっぱい輸入したんですよ。口紅だとか、イヤリングとか。
衣子:アクセサリー。
直人:アクセサリー。カルチャーパールとか、ハンドバッグとかいっぱい。で、彼は大金持ちになるわけ。お金持ちになると、大体、大きな家を建てる。家は今度建て直しするんですけどね。家を建てて、今度は骨董を集め始めた。他の絵描きさんの絵も集めたそうです。ところがたまたま、彼は華岳さんの絵に出会うんですよね。すごい衝撃を受けたそうです。それ以後、自分の持ってる他の絵を売っちゃって、華岳一辺倒になるわけ。華岳さんの絵をもういっぱい集めるんですよ。その辺の話もうちょっとしてください。
衣子:(栄次郎は)私の主人の父です。10人兄弟で、お米の問屋(といや)さんです。昔の大阪の商業学校に通ってた、次男で。長男と違う、次男です。「ゆくゆくは自分もお米屋さんになるんかな」と思ってた。商業学校から帰ってくるなり、親は「どこそこの配達があるからお前行ってくれ」って、長男にも行かせる、次男にも行かせる。お米屋さんの問屋さんで大変で、だけど栄次郎さんは、これはええことで家のためにはなるけれども、これをやってたら、10人兄弟の次男で、自分は生涯米屋。夢がないわけ。そのお寺の方に「何かやりたい」って打ち明けて。いい人に巡り会えたんやね。もらったのか貸してもらったのか、資金をもらって、それをもってね、18歳ぐらいのときに単身、船に乗って。
直人:それ、僕とものすごく似てるね (笑) 。僕も18歳でニューヨークに行ってね。
衣子:でもね、向こうで、シアトルかどっかで、平尾さんっていう、その頃貿易してる人がおって、そこへ就職してん。「平尾さんは、終世自分の先生や」って言うてはって。
直人:栄次郎さんにとってね。習ったんだな。
衣子:それで、平尾さんはアメリカにお店持ってたけど、神戸にも会社持ってて。こっちへ帰ってきたときに、また平尾さんとこで就職した。
池上:そこでビジネスを学ばれたという感じだったんですね。
直人:片道の切符のお金をくれたのが、この人じゃないかっていうのは。
衣子:おじいさん。玄道さん。中井玄道さんいう。
直人:(写真を見ながら)この人が分からないんですよ。その禅僧はこの人じゃないかと。
衣子:中井玄道さんいう人やと思うんです。いつも酔ったときはこの人を呼んでた。
直人:栄次郎さんは華岳さんの絵を集めて。だけどそれ以上に人間的に。同じ誕生日って言ってたん違う? 同じ年に生まれたとか。
衣子:いや、ずっと彼の方が若い。だけど、馬が合うっていうの。(あと、華岳の蒐集家といえば)株屋さんですよ。石野(貞雄)さん。石野さんと会ったのは林松竹堂で……
直人:石野さんて、それは誰?
衣子:華岳会のメンバー。
直人:石野さんを通じて華岳さんに会ったわけ、栄次郎さんは。
衣子:いや、林松竹堂(はやししょうちくどう)。夜散歩に行くでしょ。元町に林松竹堂という書画屋さんがあって、そこでいつも椅子に座ってた。
直人:誰が?
衣子:華岳が。そこの亭主と。そこへ石野さんていう人も来るわけ。それで出会いが。で、石野さんはもう、純粋の株屋さん。
直人:だけどやっぱりコレクター?
衣子:コレクター。
直人:華岳さんの絵を買ってたわけ?
衣子:そう。何でか知らんが、虫が好くっていうのかね、その石野さんとも緊密な仲に。
直人:この写真に入っていますか、その石野さん。
衣子:いない。
直人:ここには入ってないね。
衣子:これは絵描きさんばっかり。その頃、他のいろんな絵を集めてたわけやね。
直人:この写真を見たら、彼はほんとインド人そっくりやね。僕にもインド人の血が流れているんだ (笑) 。
衣子:お父さんと私が歩いていたら、人が見る。「あっ妙な親子やなぁ」って。電車に乗ってもみんながこう見て。
直人:非常に変わった顔だもんな。
衣子:目が奥目。これは吹田のお母さん似よ。吹田のお母さんも奥目。面白い顔やね。
直人:面白い顔してる。ものすごく面白い顔してる。華岳さんと中川栄次郎さんとは、一つの宿命的な友達だったね。で、華岳さんの長女と、栄次郎さんの長男が結婚したんやね。
衣子:栄次郎さんがね、私を好いてくれたの、お父さんが。息子はどうか知らんよ(笑)。
池上:華岳画伯がお亡くなりになってから、ご結婚をされたんですよね。
直人:あなたがお父ちゃんと結婚したときは、華岳さんは亡くなられていた。
衣子:死んでました。亡くなってからね、栄次郎さんという人に、私はものすごい父親の像を見るみたいに。とっても何もかも備えたような良い人だったもんで、どんどんそのお父さんに惹かれて。ああいうお父さんの形もあるんだなって。良いお父さんだなぁって。月に一回必ずお参りに来てくださってね。自分で第二のお父さんみたいにね。栄次郎さんもものすごく可愛がってくれて。なんとなしに向こうの息子、うちの主人と、なんかそういうことに。
直人:戦争中でしょ、結婚されたんは。
衣子:まだ大学行ってた、主人は。
直人:在学中に結婚されたの。そう。もう戦争始まってた?
衣子:始まってました。
直人:華岳さんは1939年に亡くなられたんだけども。
衣子:あのときは支那事変があった。支那とごそごそやってた。
直人:関東軍がやったことやね。
衣子:そうそう、満州の取りあいっこをやってたんだな。
直人:いちゃもんつけたんだよ、戦争したいから。結婚したのは華岳さん亡くなられてから何年くらいあと?
衣子:その翌年くらい。
直人:1940年か。
衣子:栄次郎さんが私を可愛がってくださって、「うちに来てくれ、来てくれ」て言われて、仕方がなしにって言ったらいけないけど。お父さんは立派な人やった。
直人:昔はあんまり恋愛で結婚するということはなかったんかな。
衣子:ない。
池上:こういう立派なお父さんの息子さんだったら、ということで。
直人:結婚したわけだな。
衣子:お父さんにしたら、うちの主人は東大まで行ってたから、自慢の息子さんだったんやろうね。「どうだ、家の息子の嫁になってくれんか」なんて言ってたけど、ちょっと繊細なところがない(笑)。
直人:豪快すぎたね、ちょっとね。
衣子:野球やってね。
直人:武道するしね。
衣子:柔道やって。
直人:黒帯やしね。すごい人間やったね。恐ろしい、ばけもんだな。
池上:華岳さんとはぜんぜん違う感じで。
衣子:違うた。
池上:対極にあるような感じですね。
直人:ほんとそう。栄次郎さんはやっぱり、顔をみていても、すごくジェントルマンっていう感じやね。相当苦労したから、そういう味が身にしみてると思うの。非常に絵の分かった人やね、この人は。
衣子:そうやねん。
直人:ちょっと彼が書いたものを読んだけどね、よく分かってるんだね。どこでそんな勉強しはったんかなと思うんですけど、実にいい事を言うてるね。華岳さんのことを書いた文章をみましたけど、実に的確なことを書いてるんですよね。
衣子:ファンやったからね。
飯尾:絵について、華岳さんと栄次郎さんが一緒にお話しになったりする機会は、やはり多かったんでしょうか。
衣子:そうですね。
直人:すごい文通があったよ。
衣子:屏風ができてるくらい。文通のお手紙を貼って。
池上:それは拝見したいですね。
直人:僕自身も文通の手紙、たくさんもらってます。これをどないしようか、と思って。
池上:貴重な資料ですよね。
直人:僕は美術館にあげたらいいと思うんだけど、美術館に入れてしまうと、特殊な時じゃないと出てこないでしょ。なんかもっといい方法ないかな、と思って。というのは、アメリカでも僕の親友だった人で、クリストファー・ウィルマース(Christopher Wilmarth、1943-1987年)という素晴らしい彫刻家がいるんですよ。
池上:カタログを見せていただきましたね。
直人:彼は自殺したんですけど、自殺した一年後に、ニューヨークの近代美術館がスケジュールを変えてでも彼の回顧展をしたんですよ。それくらい素晴らしい彫刻家なんだけど、僕は彼の手紙だとか、いろんなものを持っているんですよ。これをどないしようか思うて。今、ウィルマースさんのエステート(財団)のアーカイヴをしているのは、ハーバードのフォッグ・ミュージアム(Fogg Art Museum)なんですよ。そこにあげてもええねんけどね、いろんな人がそうアドバイスしてくれるんだけども、入ってしまうと箱に入っちゃうから。その辺がちょっとデリケートなのよね。だけど華岳さんの手紙を、いつまでも僕が持っていてもどうすることもないしね。やっぱり美術館に行くんでしょうね。僕が心配することは、あげても、それをちゃんと保管ができるかっていうことやね。ただもう箱の中に入って腐っていくっていうんだったら、考えもんやしね。それだったら、リンカーンの手紙みたいに、ひとつずつ額に入れて、オークションに出して、どうぞって。そういう考え方もあるわね。そうした方がたくさんの人がエンジョイできるってこともある。今それでちょっと悩んでる。どないしたらいいか。
池上:難しいですね。
直人:面白い、手紙でも。実にすばらしい手紙があるんですよ。字なんかね、素晴らしいですね。これをもうちょっと人がみれるように。あんな字かける人いないでしょ、今は、本当に。兵庫県立美術館は。
飯尾:ありがとうございます(笑)。そんなお話があれば、本当に夢のようですけれども。
直人:ちょっとそれを考えたいですね。持っている、ということにも、苦しみがあるんですよね。面白いですね。
池上:責任というか。
直人:そう。非常にお金持ちな人たちもね、我々からみたら羨ましいなっていうことなんだけども、お金持ちになると、それだけの分の苦しみがあるそうです。子供たちがいてどないしようか、という。で、子供たちはやっぱり喧嘩するじゃない。その辺が非常に面白いわね。持ってるとやっぱり、苦しみがあるんですよね。じゃあ今日はここで区切って。ちょっと疲れました?
衣子:いえ、大丈夫。
飯尾、池上:長い間ありがとうございました。