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ショージ・サダオオーラル・ヒストリー 2016年4月24日

ショージ・サダオ自邸(東京)にて
インタビュアー:辻泰岳、小見山陽介
公開日:2018年9月18日
 
ショージ・サダオ(貞尾昭二 1927年~2019年)
建築家
第1回目の聞き取りでは幼少期を過ごしたロサンゼルス、第二次世界大戦のために過ごしたアメリカの各地のキャンプや徴兵され進駐したドイツでの生活、フルブライト・プログラムの奨学金を利用した京都での逗留、そしてアスペンや東京の晴海で開催された国際的な会議や見本市などにについてお聞かせいただいた。またニューヨーク近代美術館や読売新聞社の正力松太郎らの依頼で進めたプロジェクト、1967年のモントリオール万国博覧会のアメリカ館などにおけるバックミンスター・フラーとの共同においては、それにともなう作品の記名の問題についてもお話をいただいた。続く第2回ではフラーとコンラッド・ワックスマン、ポール・ワイドリンガー、ノーマン・フォスター、レイナー・バンハム、そしてイサム・ノグチらとの接点について伺った。彫刻と広場、あるいは設計(デザイン)と科学技術(テクノロジー)などショージ・サダオが築きあげた造形とそれをとりまく社会との関係は、冷戦の渦中にあった日本を洋の東西を問わず広くとらえる。

辻:早速ですが、お生まれになったのは1927年でよろしいですか。

サダオ:ほんとのバースデイは12月の20日、昭和元年。1926年。

小見山:そうなんですか。

サダオ:でも僕は、日本だったら20日に生まれて、1月になったらもう2歳になるでしょ。(私の父が)そうなると困ると思って、27年の1月の2日になってるはずです。

小見山:そうなんですか。

サダオ:書類にはそうなってますけども、本当は12月の20日。

辻:Los Angelesにお生まれになって。

サダオ:はい、そうです。Los Angelesです。

辻:そのとき、お父さんとかお母さんはどういうことをされていましたか、お仕事など。

サダオ:そのころは何をやってたかね。あんまりそういうような話はしなかったからね、そのころはどういう仕事かって、ちょっと。

辻:お父様は農場をやっておられた……

サダオ:そう。farmer(農家)だった。

辻:farmerだった。お母様はどういったことをなさっておられましたか。

サダオ:housewife(主婦)。

辻:ショージさんは、正しい言い方かわからないですけど、日系の二世に当たるんですか。

小見山:second-generation。

サダオ:両親は日本人で、そしてアメリカに移民して僕が生まれたんだから、二世でしょうね。

辻:そのころはどういうおうちに住んでいましたか。

サダオ:子どものときは、5歳かね、僕が何歳だったかね、田舎に移ったんです。そして、そこでアスパラガスとかトマトとか、そういうもののfarmに住んでました。あれは5歳ぐらいからでしたね。

辻:小さいときはどういう遊びが好きでしたか。

サダオ:遊びはやっぱり、そのときにfarming、何ていうのかね、両親は仕事をやってるから、あんまり僕と遊ぶ時間がなかったから、まあ、いろいろ、その時代のLos Angelesの郊外はまだほんとに田舎だったんで、だから畑がたくさんあってね。その畑を走り回ったりね。ま、動物はね、馬も犬も猫もね、いろんなそういうものがあったし、それから、やっぱり本をよく読んでましたね。

辻:どういう本ですか。おぼえていますか。

サダオ:まあ、そのころ、子どもの時代はfairy taleね、おとぎ話ね。それからだんだんと、もっと、何ていうかね、そのころまだ建築はなかったけど、何だったかね、いろんなadventure storyなんかね、のような本を読んでました。

小見山:ショージさんって、ごきょうだいはいらっしゃるんですか。

サダオ:ええ、僕の弟と妹がいまLos Angelesに住んでます。僕のfatherのfirst wifeは亡くなったんだね。でも娘がいて、僕のhalf sisterね。もう亡くなりましたけど、僕より10歳か15歳ぐらい上だったね。10歳ぐらいかね、僕の上だったんですね。だから、そういうようなhistoryもありまして。

小見山:ではその農場にいらっしゃったときは、弟さん、妹さんもいて、3人で遊んだりとか。

サダオ:そうね。Los Angelesの郊外でHarbor City、TorranceとかGardena、あのへんの近くの小さなところで百姓をしてたんだ。僕の弟が僕より8歳下なのね。そして、妹は10歳下。brotherとは、8歳だったらそうとう違いうまれます、遊び方がね。あんまり遊び相手になりません。

小見山:(笑)。

辻:まわりにいるお友達とかは。

サダオ:村でなくて独立した、ぽつんとした家があの中にあって、近所は誰もいなかったです。

辻:どうですか、ちょっと寂しかった。

サダオ:まあ、そうですね、そういうような。

辻:小学校とか。

サダオ:小学校は行きました。アメリカの小学校ね。小学校、中学校、高校1年生に入って第二戦争(第二次世界大戦)が始まりました。41年にね。

辻:高校1年生のときに戦争が、ずいぶん生活が変わりましたか。

サダオ:いや、そのころは、戦争がはじまる前に(親が)百姓をやめて、Los Angelesに移ったんです。

辻:ああ、そうなんですか。

サダオ:僕のhalf sisterね。half sisterのところで、みんな住みました。でもその前に、第二戦争の前に、僕の母のアスパラガスのあれで、目にちょっと何かが刺して、悪くなって、日本に帰りました、僕の妹と一緒に。だから第二戦争の間は、僕のmotherとsisterは広島に、広島の山の奥の御調(みつぎ)の近くに住んでました。だからずっと、戦争中は離れて。

小見山:あ、そうなんですね。

辻:高校1年生のころは、お父様と弟さんとショージさんだけですか。

サダオ:half sisterと。

辻:あ、そうですね、はい。

サダオ:half sisterは結婚して、そのhalf sisterのhusbandと、そのfamilyと。

辻:ちょっとお聞きしづらいことなんですけれど、戦争が激しくなってくると、西海岸では。

サダオ:evacuation(収容所)ね。あって、僕もそう。

辻:はい。それは高校の1年生のころ。

サダオ:高校1年生でした。

辻:何歳にあたるんですかね。

サダオ:15歳ぐらい。

辻:そちらでの生活の思い出はありますか。

サダオ:そのころは、友達はほとんど、日系でもあんまりmixしなかったから。そのころはね。他に別に変わったことはなかったですね。やっぱり普通のもう、子どものその時代の遊び方で。

小見山:先ほどのお話だと、農場にいらっしゃるときはまわりに人もあまりいなくて、ましてや日本の方ってあまりいなかったと思うんですけど、このときに、はじめて同年代の日本の人と会ったのですか。

サダオ:そうね。その近くに住んでる、もうLos Angelesの町でしたよね。

辻:どのぐらいの広さだったんですか、そのevacuationのエリアは。

サダオ:どのくらいあったかね。1エーカーが1,200坪ですね(注:サンタアニタパークの競馬場が420エーカーの一時的な収容所(Santa Anita Assembly Center)として利用された)。

小見山:一方でショージさんは、戦争中に軍で地図を描く仕事をされていた。

サダオ:そうそう。何ていうかね、camp(駐屯地)ね。Arizonaのcampに入ったときに、僕の4年生のときに、卒業するあれ(頃)ですけどもね、僕の先生が「大学へ行きなさい」ってね、僕の成績がわりあいよかったから、scholarship(奨学金)か何かもらってね、大学に行きなさいって勧められて、それでscholarshipをもらって、その先生が手伝ってくれてBoston Universityにacceptされて(受け入れられて)、Bostonに行ったの。先生はほんとに親切な先生で、Midwestのspinster(独身の女性)ね。single(独身)のmissionary(宣教師)ね。そして戦争がなかったらインドに行って、インドの貧乏(な社会階層の人々)のところで英語を教えてたのね。でも、戦争中だから行かれなくてね、こういうcampに入って教えてくれたのね。そして、軍隊に入って、ちょうど僕がbasic trainingやってる最中に、45年で、日本に原爆(原子爆弾)を落として、終わったんですね。そしてそれがちょうど僕のbasic trainingのときで、今度はアメリカ軍が進駐軍を送るでしょう、日本に。だから僕、日系人だからね、日本に行く進駐軍のpreparation(準備)のためのJapanese language school(日本語学校)、僕の日本語はだめだったから、そのころは。Fort SnellingというMinnesota(の基地)に行って、日本に行くつもりだったのが。そのとき僕の興味はEuropeだったのね、日本でなくて。だから日本にべつに行きたくなかったから、3年間、軍隊にvolunteerしたら、どこに行くか決めることができたの。だから3年間、僕はsign up(登録)して、Europeに行きたいって言って、ドイツに送られたね。ドイツはどこに入ったかっていったら、このTopographic Battalionってね、いろんな地図とかaerial photo(航空写真)をこうやってanalyze(分析)する、そういうグループに入った。その前に、普通の学校でも、僕はengineering drawingとか、そういうものをわりあい好きでね。だから、地図のいろんなこういうことを描くのもわりあいに好きだったから、それを3年間やった。

辻:ドイツのどの町に? 行ったんですか。

サダオ:あれはHeidelbergの近く。小さな小さな町でね、Zwingenbergの。

小見山:それは戦争が終わった後ですか。

サダオ:そう、第二戦争が終わってからドイツにoccupation(進駐軍)として行って。

辻:1945年には20歳ぐらいですよね。

サダオ:ああ、そう、27年に生まれたからね。18歳だね。というのは、campから出てBoston Universityに入って、1年生で2、3カ月、そのころは何ていうの、draft(徴兵)、registerね、軍隊に入るdraftのregistrationするのね。そしたら、やっぱり僕の番号が出たから、Bostonで2、3カ月でもう軍隊にdraftされた。

小見山:徴兵か。

サダオ:だから、Bostonにそのころ住んだの、Boston Universityはあんまり知らなかった。

辻:ああ、そうなんですか。やっぱり残念でしたか、そのときは。

サダオ:まあ、残念とか、そういうこともべつに考えてなかったね。

小見山:ボストン大学は、建築(学部)ですか、それとも。

サダオ:Bostonに入ったそのころはまだ建築にも、建築家にもあんまり興味がなかったし。いや、そのころありました。そのころは、campに入ってるときに建築家に会ってね、建築家でも…… Boston Universityは建築のあれがなかったのね。だから、しょうがないから、ただliberal arts(教養)のcourse(授業)を取ったんです。

辻:キャンプの名前は、何というところでしたか。

サダオ:Gila River(ヒラ・リバー)。

辻:Gila River。ここはけっこう大きい、日系人の。

サダオ:そう、18,000人ぐらい。Gila River Indian Reservation、Indian(原住民族)のところをそういうキャンプに使ったんですね。砂漠の真ん中。

小見山:先ほど、キャンプで建築家の人に会ったっておっしゃっていましたけど、日本の建築家の方ですか。

サダオ:いや、それはQuaker(クエーカー)のconscientious objector(良心的兵役拒否者)。何ていうんだかね、そういう人がそういうcampに入ってたんですね。そして、彼がcampのadministration(管理)の建物とか、planningとか。そしてcampの4年生になったら、どっか出て、仕事するあれ(機会)があったのね。だから僕はそこに入って、偶然に彼が僕の先生のようになって、いろんな建築のものを描いたらどうかって言って、描き出すと、ああ、こういうものかって思って。彼がinspirationだったの。

辻:それはキャンプの中のいろいろな施設のplanningですか。

サダオ:そう、そうですね、planningとかいろんな。あんまり、でもね(建築物の平面の類型などが)決まってましたから、あんまりたいしたものじゃなかったけれども。とにかく彼は建築家で、僕もそういうものに興味がありそうだから、いろんな、薦めてね、教えて。教えたって、こう、描いたらね、いろんなものを。

辻:どういう材料やstructure(建築構造)だったんですか、そういう建築物って。

サダオ:あれはどういうものだったかね。そのころは、今はもう、はっきりおぼえてないけども。住宅だったでしょうかね。ただ住宅の図面を引いたり、その住宅を、別にデザインしたというものでなく、何かをまねをしたかね、copyしたかね、何かそういうような仕事でした。

辻:ああ、なるほど。ドイツにいらしたのが1946年から。そのころHeidelbergやoccupation(進駐軍)で行った町は、どういう印象でしたか。

サダオ:そのころ、僕がBoston Universityに行ったときにはいろいろcourseがあって、ひとつはドイツ語。偶然にドイツ語のclassを取ってたんですよ。だからドイツに行ったときにはやっぱりドイツ語の勉強を、そこのドイツ人と話しながら勉強して。車も手に入ったから、車であっちこっち、ドイツでも、フランスのほうも、スイスのほうも。特にスイス。というのは、ちょうど終戦の直後だから、スイスに行ったら、ほんとに平和な国で、普通のあれ(生活)があったから、何でもおいしいものはあるし、何でもきれいにあったから、何回もそこに行きました。そこはやっぱり建築も残ってましたからね、それも見ながら。

辻:一方でドイツは、戦争で燃えたり。

サダオ:もうほんとに、これはひどかったです。

辻:新しい計画をしていくわけですよね、建築物や都市の。

サダオ:そのころはどうだったでしょうかね。あんまり、新しいものは何にも聞かなかったね、そのころは。もう、すぐ戦争が終わってですから。

辻:どういうお仕事が中心になるんですか。

サダオ:僕の仕事は軍隊のそれで、地図を。

小見山:いまある状態を地図におこすっていうことですか。

サダオ:いや、aerial photos(航空写真)。

辻:飛行機(による空撮)。

サダオ:戦争が終わったんですけれども、やっぱりEuropeのいろんなところの地図を描いてたのね。その地図を描くのに、飛行機で撮った写真を見ながら、その地図を。どこに教会があって、道がどういうふうにいってね。そしてそのscale(縮尺)が1:25,000。1:25,000のscaleのseriesの地図をひとつずつ、ひとつずつ描いてたのね。

辻:それを3年間、お仕事されたんですか。

サダオ:だいたい3年間やってた。3年間で僕はstaff sargent(二等軍曹)になった。staff sargentになりました(笑)。

小見山:(笑)。へえ。

辻:そのお仕事が終わると、またアメリカに戻られるんですか。

サダオ:そう、discharge(除隊)したときには1949年ですかね。だからdischargeする前に建築を教えている(学ぶことができる)大学を調べてね、その軍隊のofficerにrecommendation(推薦書)を書いてもらって、Cornell、Carnegie Mellon......Pittsburghにある。そうそう、そう。USC(University of Southern California、南カリフォルニア大学)とUCLA(University of California, Los Angeles、カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に(応募書類を)出したんですね。そしたらUSCからもUCLAからも、それからCooper Unionからも(入学許可書が)きたけれども、まあIvy Leagueに入りたかったのね。Cornellがオーケーって言ったから、ああ、じゃあ、もうCornellに決めた。

辻:ああ、そうですか。scholarshipってことですか?

サダオ:そのときはGI Bill(復員軍人援護法)。アメリカはGI Billがあってね。GI Billっていったら、軍隊に入ってるとね、なぜ3年間入ったっていったら、僕も軍隊に4年間入ってたのね。4年間だったら、1年軍隊に入っているために1年学校に行かれる(行くことができる)という、そのcollegeにね。それが400ドルだったのね、もらう、tuitionにね、毎年。そのころは、Ivy Leagueでもtuitionが、1年で800ドル。だから800ドルだったらね、軍隊の方から400ドルもらって、夏は仕事をして、アルバイトして400ドルは、そのくらいは(工面)できたんですね。今はもう無理ですけど。そんなものは全然できないです、そういうことは。そのころはできたんです。それと毎月75ドルね、政府からきたんです。だから、それでCornellを5年間ですね。5年間は全部そういうふうで、サポートがあって(学業を修めることが)できたんです。それがなかったら、できなかったですよ。

辻:では入学されたのは1949年。

サダオ:そう。だから5年間でClass of 1954。僕のclassはCornellの54年。そのころ、僕は54年。55年、次の(年の)classはリチャード・マイヤー(Richard Meier)とピーター・アイゼンマン(Peter Eisenman)なの。そのころは全然知らなかった。(今は)有名なのに。

辻:すごくおもしろいですね、そのお話。当時、コーネル大学はどういう先生が教えていましたか。

サダオ:普通の、Cornellの先生で、別に有名な先生は誰もいなかった。みんな、もう普通の先生で。一人、一番、まあ、デザインの方のことも上手な先生がいたけど、全然、有名な先生は一人もいなかった。かえってその方がよかったかもしれない。

辻:どういう授業がありましたか。

サダオ:それは先生が、あのころだいたいプロジェクトが、エスキースね、(課題が)2週間か3週間(で提出する)。3週間が一番長かったかね。先生がプログラムを書いて、そこに、こういうようなプロジェクトで、こういうようなことで、これだけの面積で、これだけいろんな説明を書いて、紙を出してみんなの前でこういうプロジェクトって言って。それからみんな、机が別々にあるからね、こうやって描きながら。そして僕の入ったclass(同じ学年の学生)は36人でした。36人の中で2、3人が女性でした。今は半分ぐらいですね。そして卒業するときには、15人か20人いたかね。わりあいすごいんです、ここをドック(卒業)するのはね。

小見山:そうなんですね。ショージさん、その中でも成績はよかったですか。

サダオ:まあ、よかったほうですね。よかったほうで、何とか、こう。そしてそのCornellのあれは、最後の5年生のときはthesis。1年間かけて何かプロジェクトをやるのね。その前の年がvisiting clitic(制作物の評価を行う客員教員)。そのときにBucky(バックミンスター・フラー)(Buckminster Fuller)がvisiting criticだったの。そして1年のtowards the end of the course(終りのころ)にBuckyが4週間来たの。Mini Sphereというプロジェクトをやって、それが終わってから、彼はちょうどそのときにFord Rotunda、あのdomeの設計をジョージ・ネルソン(George Nelson)の事務所でやってたの。だから僕と僕の友達が、夏休みはNew Yorkに行って仕事するから、そこに行って、この地図ね、Dymaxion Mapを、そのプロジェクトをNew YorkでやりながらBuckyと会ってたの、New Yorkで。でも僕はそのFord Rotundaのdomeには関係しなかった。

小見山:あ、そうなんですね。でも(フォード・ロトンダ・ドームの図面を描いていたのと)同じジョージ・ネルソンの事務所に机があって(ショージさんは地図を)描いてたんですか。

サダオ:いや、僕が描いてたのは自分で、自分のアパートで。いろんな書類を、いろんな大きい地図をBuckyが買ってくれて、それを見ながら描いたんですね。

小見山:それをやっていたのはまだ大学を卒業する前なんですね。大学にいるときの夏休み。

サダオ:いやDymaxion Mapっていうのは、Buckyが1943年に『Life』にね、Dymaxion Mapっていうのを出版したんです(注:”R. Buckminster Fuller’s Dymaxion World,” Life, March 1, 1943, pp. 41-55)。でもそれはCuboctahedron(立方14面体)といって、14面体のを2個やったんですね。そして、もっと球に近いIcosahedron、20面体の方がいいと彼もわかってね。だからそれをまた、彼のMapを20面体のIcosahedronにプロジェクトしたかったんですね。僕がCornellで、地図のこういうことがわりあい上手だったから「一緒にやりませんか」って僕に聞いたの。そして、よろこんで僕「やります」って言って、それ(注:1943年の『Life』を初出とするダイマキシオン・ワールド・マップを改訂した20面体の投影版である《ダイマキシオン空・海世界地図》)がBuckyと最初に一緒にやったプロジェクト。それをするのには、卒業したのは54年だったから。彼はちょうどそのころ、Raleigh, North Carolinaに自分の事務所、Geodesicsっていう会社があって、いろんなプロジェクトやってたんですね。だから僕もRaleighに行って、そこで地図を描いたの。そして地図を描きながら、Buckyのそこにオフィスがあったから、そこのオフィスにも入らないかって言われてね、Buckyのオフィスに入ったの、そのNorth CarolinaのRaleighの。そして、ちょうどそのころBuckyはRaleighと、またCambridge、Massachusettsにもオフィス、MIT(マサチューセッツ工科大学)の学生と一緒に。(注:フラーは1954年に民間の企業からの依頼を扱うSynergetics社と、政府および軍からの依頼を扱うGeodesics社を設立し、後者は1956年にGeometrics社となった。Maria Gough, “Backyard Landing: Three Structures by Buckminster Fuller,” New Views on R. Buckminster Fuller, Stanford University Press, 2009, p. 139)。そのプロジェクトはMITの方の学生たちのやったプロジェクトがRadome、プラスティックのRadome(注:レイドーム。レーダーのためのアンテナを保護する建築構造を指す)。Raleigh North Carolinaで僕が一緒にやってたのは、lightweight structure。アルミとあれでね。Buckyに近かったから、僕はNorth Carolinaも、そしてCambridgeもね、両方行ったり来たりしてたの。だから両方の事務所に入ってやってたの。そして56年か7年にFulbrightにapplicationを出して。

小見山:ちょっと話が戻っちゃうんですけど、大学の卒業、最後のthesis(卒業論文)。fifth year(5年次)のときのthesisはどういった内容だったんですか。

サダオ:もうつまらないthesisです(注:卒業論文ではなく卒業制作を提出した)。

小見山:いや、そんな(笑)。

辻:あんまりがんばらなかった?

サダオ:恥ずかしいぐらいで。なんだか、何をしたらいいかなと思って、僕はね、ちょっと困ってたんですね。thesisはColombiaのMagdalena riverっていうriverがあるんですね。そこの奥の方に新しい村、settlement(開拓地)をつくるのね。その村を設計したんだね。村のいろんな建物をね。つまらないものをやったんで(笑)。

辻:なんでそこを敷地にした(研究の対象として選んだ)んですか。

サダオ:(友達の話を聞いて)何かおもしろい、新しいadventureで、そこに新しい村に行って、あの辺のこう、farmingをするのが、何かちょっとおもしろいなと思って、やり出したの。でもほんとに、あんまり興味がなかったか何だか知らない、ちょっと、しょうがないと思ってやったのね。でも、あんまりよくなかった。ほんとに、もう、いろんな点数つけますけれどもね。barely passing(かろうじて合格)ね。

辻・小見山:(笑)。

サダオ:mentionっていう。あれは、フランスのボザール(École des Beaux-Arts)のあれ(教育)かね。なんかあるんだね、やり方が。それのmention(優良可のうち良に相当)。mentionの低い方です。点数にすると70点ぐらいだったかね。だから、just barely passing。

辻:それはBuckyにも見せたんですか、当時。

サダオ:関係ない。そう、1年間ほんとに全然、そうね、何にも関係なかったね。でも、Buckyとプロジェクトをやって、52年だったかね、Buckyと一緒にNew YorkからAspen、Aspen Colorado。

辻:ほんとですか!

サダオ:ええ。彼の友達がその年のAspen Design Conference(第3回アスペン国際デザイン会議、1953年6月22日~27日)のorganizerだったんだね。

辻:ほんとうですか、誰だろうな。

サダオ:そして、僕がそのときにBuckyと一緒にNew Yorkから、その年は僕、僕の大学の先生の事務所に入って図面を引いてたのね。この彼が設計したビルでね。そしたら、僕は彼に「Buckyが『一緒に行きませんか』っていうあれ(提案)があったけども、どうしましょうか」って言ったら、「こういうchanceはすばらしいから、どうぞ、行きなさい」って言われてね、行ったの。そしたら車でDetroitまで行って、そこのFord Rotundaのオープニングね、あれに一緒に行って、それからAspen Design Conferenceで、Buckyがそこで自分のgeodesicのものを教えるのを一緒にやって(手伝って)。そこで剣持(勇)さんに会いました。

辻:やっぱり。

サダオ:そこではじめて、日本のああいうインダストリアル・デザインか建築か、なにかそういうことに関係した人に会ったのは。

辻:ほんとですか。はあ、それはすごいお話ですね。

サダオ:そのときは、あんまり僕も日本語できなかったしね、剣持さんとは会っただけで、あんまり話はできなかったです。

辻:そのconferenceに出たことを日本語で、報告とかを書いているんです(注:第3回のアスペンの国際会議にはバックミンスター・フラーやニコラウス・ぺヴスナー、チャールズ・アンド・レイ・イームズ、コンラッド・ワックスマン、ジョルジュ・ケペシュらが参加。剣持勇「国際デザイン会議に出席して」『美術批評』21号、1953年9月、13-17頁など)。

サダオ:ええ、そうですね。後から、仲良くなって、彼の長男が亡くなったんですね。

辻:はい、剣持昤さん。

サダオ:でも(剣持)晋介さんと、晋介さんのfamilyはNew Yorkで一緒でね。よく会ってました。

辻:ああ、そうですか。他に日本人はいなかったですか、そのconferenceに。

サダオ:New Yorkで仲よくなったの、イサム(・ノグチ)さんと、それと猪熊(弦一郎)さん。猪熊さんとはもう、すごく仲よくて。

辻:いつぐらいから、1950年代の後半?

サダオ:僕がNew Yorkに、猪熊さんが誰か、剣持さんが紹介してくれたのかね。とにかくずっとそのころから、50何年からね。

辻:イサムさんと剣持さんと、あと猪熊さんは関係が、すごく深いですね。

サダオ:そうね。だから猪熊さんも、イサムさんの結婚式、(山口)淑子さんと一緒のときにも会ってたし。だから、イサムさんのそういうconnectionで通して、丹下さんにも会ったしね。槇さん(槇文彦)はどういう関係だったかね。槇さんにも会って。

辻:もうちょっとそれは後ですよね、たぶん。

サダオ:そうだね。谷口(吉生)さんも後ね。

辻:フラーがFord Rotundaの設計をしていたときに、ショージさんはジョージ・ネルソンには会ってはいないんですか。

サダオ:ない。でもジョージ・ネルソンの事務所で何人か集めて、BuckyがFord Rotundaのデザインをやったんです。

辻:当時、ジョージ・ネルソンは雑誌をつくったり(編集したり)しているんですけども、先生はご存じですか。『Interiors』という雑誌です。

サダオ:そうそう。そのころはあんまり知らない。名前は知ってたけれども、会ってはなかった、ジョージ・ネルソンにはね。

辻:そうですか。他は大丈夫ですか。

小見山:では、さっきFulbrightのことまで聞きましたけど、ちょっとそのひとつ前の年、1955年にフラーと一緒にアフガニスタンで展示場をつくられたという。

サダオ:ああ、あれはそうね、フラーのオフィスでね。AfghanistanのKabulでtrade fairがあるっていうことで、アメリカの政府が、そこでソ連ね、ロシアも出すという、そのときはまたcold war(冷戦)だったからね。

辻:USSR(Union of Soviet Socialist Republics、ソビエト社会主義共和国連邦)。

サダオ:ソ連が出るんだったらわれわれも出なければならないっていう。急にね、僕の友達が、ジャック・メイシー(Jack Masey)という人が入ってたんだけどね、USIA(注:United States Information Agency、アメリカ合衆国文化情報局、1953年に設立)にね。はやくtrade fairかなにかするために、何て言ったらいいかね。

小見山:展示会(見本市)。

サダオ:have to do something(なにかしなければならない)っていうね、そのジャック・メイシーが。ジャック・メイシーはイエール大学でBuckyのことを知ってたのね。そしてBuckyは、はやくlightweightのstructure(建築構造)ができるっていうので、これはBuckyしかできない。1カ月ぐらいしかなかったからね、設計して(海の)向こうに送るのがね。だから、Buckyに、大きなstructureを「これ、できますか」って聞いて、Buckyが「ああ、できる」って言ってね。だから数日の間に設計して、工事もして。そしたらそれは40メーターぐらい、直径がね、のdomeを1つの飛行機に、DC8に載せて、(現地で)2、3日で組み立てるという、そういうような条件でね、できて、僕はそれは(行か)なかったんだけど、友達が行って監督して、アフガンの人と一緒にやって、つくって、中でアメリカのexhibitionをやって、成功したのね。そして、そのときの殿様というかね、それ見て大好きで、欲しいって言ったんだけど、それはできなかったんだけどね。非常に、あのへんの、yurt(遊牧民のためのテント)っていうかね、向こうのそういうような木と皮と何かでつくるものがあって。だから、そういうものより、これが、それの何十倍も大きいもので、だから非常にempathyがあって、感心してもらって、成功だったのでね。

小見山:その構造体は、どこか別の場所にまた運ばれて使われたりしたんですか。

サダオ:もうtrade fairね。そのころはいろんな国の、地球の中のあっちこっちにtrade fairがあったから。

辻:そうですね。

サダオ:あっちこっちのtrade fairに飛行機に載せてね、(世界中を)ぐるーっと回ったのね。だから、Buckyが言うには「It's the first building that circle navigated the earth」(地球を一周したはじめての建築物だ)ってね。はじめて建築物がcircle navigateしたっていう。

辻:巡回した、circulateしたんですね。

サダオ:うん。

小見山:日本にも来たんですか。

サダオ:そう。東京と大阪。

辻:東京はどこですか。

サダオ:東京のときに僕はここに来て、(現場で工事の)監督してました。

辻:え、どこに設計したんですか?

サダオ:晴海埠頭。

辻:やっぱり。

小見山:やっぱり。いや、さっきその話してたんです。

辻:磯崎新さんがフラーのその話をしていて。

サダオ:あ、そうですか。

辻:はい。それは何年ごろの話ですか。

サダオ:あれ、57年。そう、ちょうど僕がFulbrightで来てる間ね(注:「アメリカ工業館」『建築界』(6巻6号、1957年6月、頁数なし)および「現代の建築」『世界』(139号、1957年7月、144頁)に《国際見本市アメリカ館》の写真が掲載される)。

辻:ほんとですか。

小見山:そのとき、じゃあ、ショージさんもいらしていたんですか。

サダオ:そう。そのとき僕はFulbrightで。

小見山:あ、そうか。もういたんですね、日本に。

サダオ:東京だったかね。そのころは京都に住んでたかもしれないね。京都のほうが長かったから。

辻:ああ、そうですか。

サダオ:ええ。僕は、早稲田の今井先生。

辻:今井兼次(1895-1985)さん。

サダオ:そうです。(今井)先生と相談したら、日本建築とかなにか勉強するんだったら「東京はつまらないから京都に行きなさい」と言われた。京都に行ったら、ちょうどイサムさんがね、大徳寺の大仙院の和尚さんを知ってるから紹介しますって言って。大仙院に泊まったの。

辻:ああ、そうですか。それは、京都でも大学の研究室に……

サダオ:関係ない。

辻:関係なく、ただstay(滞在)してただけ。

サダオ:そう。Fulbrightは、ほんとに自由に何でも勝手に。もうね、no report(報告書を提出する必要がない)ね。お金だけくれる。だから、日本に来たFulbrightとか学生はね。そのころはね、日本の食事がわりあいまずいから。外人が日本に来たら、国際のホテルの食堂で食べるくらいのお金を上げないと困ると言ってね。

辻:ほんとですか。

サダオ:ええ。もう相当、Fulbrightなんて、そのころはscholarshipだったの。僕はもちろん日本食を食べてたからね。10カ月のgrant(助成金)で1年半いました。例えば大仙院でもね。毎月7,500円。それで、朝食と夕ご飯つき。

辻:大徳寺は、どのぐらいの期間いたんですか。

サダオ:大仙院に泊まってたのは半年ぐらいかね、8カ月かね。

辻:当時、ちょっと時期がずれちゃうんですけれども、ノーマン・カーヴァー・ジュニア(Norman Carver Jr.)っていう写真家が京都に。

サダオ:そう、それの(彼が訪れる)前ですね。ちょうどそのころかね、彼がその本を出したのがね。

辻:はい、そうですね(注:ノーマン F. カーヴァー, Jr 『日本建築の形と空間 FORM and SPACE of Japanese Architecture』浜口隆一訳、彰国社、1956年1月)。

サダオ:ああ、すばらしい本が出た。僕も写真撮ってましたけどね、それが出たらね、もう、こういうすばらしい本が出るんだったら、われわれは、僕の撮ってる写真もそんなによくないからと思って。でも、撮ってましたけれどもね。特に禅の、庭ね。京都のまわり。

辻:ノーマン・カーヴァー・ジュニアとは会ってはいないですか。

サダオ:会ってはいません。

辻:すごい、おもしろい。今井兼次さんとはどういう関係だったんですか。

サダオ:あんまり今井先生とは関係がなかったね。僕の日本語がね。今でもよくないけれども。そのころはもう全然、コミュニケーションができなかったから、日本語であんまり。

辻:ちょうどこの時期、これよりも1年前ですけれどもI-House、国際文化会館ができたころですよね。

サダオ:そのころ、そう、Fulbrightの学生は自動的にI-Houseのメンバーなの。僕もそのI-Houseは57年からずっとメンバーです。

辻:設計した日本の建築家とはたぶん、接点がないですよね。前川國男、吉村順三、坂倉準三。

サダオ:吉村さんには会ったことが、坂倉さんの事務所の何人か、僕は会ってました。

辻:あ、当時ですか、1955年ぐらい。

サダオ:当時ね。坂倉さんの事務所があそこの、渋谷のどこかにplanetariumを(注:《東急会館》1954年)。

辻:ああ、はい、はい。

サダオ:あれがgeodesic domeだったのね。そのことでちょっと僕に話がありました。

辻:ああ、そうですか。これはすごい話だな(笑)。

小見山:(笑)。ああ、じゃ、やっぱり、そういう(ドームの設計に精通した)ショージさんが来たって日本の人たちは思ってたんですね。

辻:ショージさんが来るすこし前にヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)も日本に来ていますよね。

サダオ:ああ、そう、もちろんそうね。

辻:そのときグロピウスと接点はなかったですよね、日本では会ってないですよね。

サダオ:僕はグロピウスには1回も会ってない。

辻:当時、他に日本の建築家だったり、あるいはindustrial designer、さっき剣持さんのお話は出ましたけど、そういった方とはお会いしましたか、日本で。

サダオ:だから、そのときは、柳宗理(Souri Yanagi)ね。I am sorryね。

辻:(笑)。

サダオ:それとか、剣持さんね。丹下(健三)さんも、そして……

辻:丹下さんのご自宅には行きましたか。

サダオ:ええ、行きました。最初の奥さんね。

辻:はい。成城のお宅。

サダオ:加藤(敏子)さん。加藤さんにも時々、いま、会ってます。

辻:そうですか。当時、日本国内ではdepartment storeとかでGood Design exhibitionをやっていたはずなんです。

サダオ:ありますね。

辻:そういったところには、ショージさんは行きましたか。

サダオ:ええ。行って、物を買ってましたけれども。

辻:ああ、そうですか。当時、あとはどういう人に…… でもそもそもなぜ日本に行きたいと思ったんですか、Fulbrightで。

サダオ:やっぱりそれはもうCornellでも、建築なんかで日本のすばらしいものが、Cornellの図書館にいろんな本があってね、日本の禅のお寺とか、特に日本のいい写真があってね。まあ自分も日本人だっていうことが、何だかやっぱり、後からみんな、roots。rootsっていうけどね、そういうような気持ちでね。

辻:そのときに意識したのは…… どういう本でしたか。やっぱりお庭が中心、庭の写真ですか。

サダオ:そのころ、庭はひとつだったね。はじめて写真で龍安寺(の石庭)を見て、びっくりしたね。あ、こんなものがあるってね。それとか、こっちに来て、京都の天龍寺ね。天龍寺は僕、好きですね。それとか、まあ、そのころはね…… あ、僕、大学院だったのね、早稲田で。大学院でね、竹山実。それとか世田谷美術館の設計した……

辻:内井昭蔵。

サダオ:内井昭蔵もclassだった。それとか、山下(設計)、いや、建築の。そこの柴田(寛二)さん、前の社長だったけどね、も同級だった。

辻:今井先生以外で、早稲田の先生でおぼえている人っていますか。

サダオ:ああ、そう、何とかいう先生、歴史の先生。穂積(信夫)さん? 穂積さんじゃなくて。穂積さんは他の関係で、穂積さんの前の、その時代の歴史の、建築のそういう、ホチュウさん?

辻:はい。渡辺保忠さんですね。

サダオ:かもしれないですね。そういう人に会って、旅行しましたね。

辻:一緒に。

サダオ:京都、奈良までね。奈良の有名な、日吉館に泊まりました。

辻:ああ、そうですか。日本語と英語でlectureをした。

サダオ:あんまりlecture、そのころはできなかったですね。だから、何にもそういう、ただつき合って食事とか、一緒に食べながら、飲みながら話をした。そのくらいです。

辻:すごい。グロピウスが日本に来ていた時期には前後して、その後のMoMA(ニューヨーク近代美術館)のプロジェクトで(ショージ・サダオも)一緒に仕事をしたアーサー・ドレクスラー(Arthur Drexler)というcuratorも(来日していた)。

サダオ:そうそう、アーサー・ドレクスラー、行ってますね。

辻:彼も日本でツアーをしていますよね。

サダオ:そうそう。そのころ僕のwifeが、そのころ、あのう、ウィリアム・リーバーマン(William Lieberman)、ポーター・マックレイ(Porter McCray)…… もう、誰か、頭が…… そうね、そのときは、誰だったか、いろんな人にアーサー・ドレクスラー、とにかく、そう、イサムさんも非常にアーサー・ドレクスラーが好きでね。だから会ってました。

辻:でも、日本では会ってはいないですよね。

サダオ:日本では会っていなかったね。

辻:(ドレクスラーが)New Yorkに戻った後で。

サダオ:そう、New Yorkでイサムさんを通して。MoMAに行ってね。

辻:はい。ああ、でも、石元泰博さんってわかりますか。

サダオ:え?

辻:石元泰博、Yasuhiro Ishimotoって、photographerです。

サダオ:名前は聞いてますけれども。

辻:Chicagoにいてその後、日本に来たphotographerなんですけど。

サダオ:あ、そうですか。

辻:はい。あ、そうか。でも、接点はないですね。

サダオ:うん。

辻:その晴海のdomeの時は前後して、近くに前川國男が設計したapartment(晴海高層アパート(晴海団地15号棟))があったと思うんですけど、おぼえてますか。

サダオ:前川さんの名前は聞いてましたけれども、前川さんには会ってなかったね。

辻:あと、さっき言っていたドームについては、この頃にはけっこうtrade fairがたくさんあって、Yoshikatsu Tsuboi、坪井善勝さんっていう(注:村田政真が設計し坪井善勝が建築構造を担当した《東京国際貿易センター2号館》(1959年)を指す)。

サダオ:engineer?

辻:はい。engineerたちがdomeをつくったりするんですけど、そういうこととショージさんのdomeって関係があるんですか。どういうプロセスで東京の……

サダオ: Buckyのdomeのプロジェクトだけをやってましたね。日本で、正力(松太郎)さんね。正力さんが、やっぱり屋根つき球場の話が、あれは新宿だったかね、あのへんの。その話で、正力さんのそういう野球の人、鈴木(惣太郎)さんっていう人だったかね。New Yorkまで行って、Dodgers(ロサンゼルス・ドジャース)のowner、ヴァルター・オマリー(Walter O'Malley)に相談して、こういう野球、屋根つき球場の話があるけれども、誰に会ったらいいでしょうかって言ったら、ヴァルター・オマリーが「You have to see Bucky」って言ったの。というのはBuckyもちょうどそのころプリンストン大学で、大きいdomeのprojectをやってたらしいのね。だから鈴木さんがそこに行って、Buckyに会って、それから日本に帰って正力さんに話して、正力さんからBuckyを招待ね。「Please come to Japan for consultation」ってね。そして僕はそのころ、照明器具の会社に入ってたの、Edison Priceって会社に。そしてBuckyが僕に電話をして「こういうprojectがあるけれども一緒に行きませんか」ってね。そしたらEdisonに聞いて「ちょっと、2、3週間のvacation取って行ってもいいでしょうか」と言ったらOKと言って、正力さんからBuckyとBuckyの奥さん、アン(Anne Hewlett)と、僕とね、3人の1等席の切符がきてね。日本に着いたらもう、あっちこっちリムジンでね(連れて行かれた)。そのときには、正力さんの右腕って言われる柴田(秀利)さんっていう人とかとね。あっちこっち、いろんな話が来て。そのころはどんなプロジェクトかといったら、geodesic domeじゃなくて、BuckyもそのときにはAspension Dome(注:Aspensionはascending suspensionを略したフラーの造語。またアスペンション・ドームはとなりあうリングの張力で支えられた同心円状の構造体からなるドームを指す)っていうシステムを紹介して、でもそれはちょうど日本に来る前の何週間か、何か月前にBuckyが考えたideaで、なにもbackupの(裏付ける)データがなかったのね。で、模型をつくったけども、ほんとにあんまりいいmodelでなかったので、そのころは建設会社の何社か来てたんで、みんなそれを見てやっぱり、できるかどうか心配でね。とにかくdomeはできなかったけれどね、2、3週間一緒に、日本のあっちこっち行きました(注:読売巨人軍のスタジアムには採用されなかったが、フラーはアメリカでアスペンション・ドームの特許を申請し1964年に認められた)。

(一時中断、ショージ・サダオが所蔵するバックミンスター・フラーの資料がスタンフォード大学に寄贈されることを聞く)

サダオ:日本の建築家はね、菊竹(清訓)さんの奥さん(菊竹睦子)にも会ってますけどもね。archivesがないのね、(資料を)置く(保管する)ところが。いろんな模型とか図面とか、そういうもの持ってるから、それをどうしたらいいかね。アメリカだったらいろんな、ルイス・カーン(Louis Kahn)はUniversity of Pennsylvania(ペンシルバニア大学)とかね。Columbia(コロンビア大学)でもAvery Libraryだとか。

辻:私はそこに1年いたんです。

サダオ:Avery Library?

辻:はい。

サダオ:ああ、そうですか。日本だと、菊竹さんなんかのいろんなものが、模型とか、そういうものはどうしたらいいかって困ってるの。日本にも何か、そういうarchiveが、nationalの(国立の施設)があるけれども「そこに入ったら、もうだめですよ」って言われてね。あんまりきちんとね、ちゃんとしてくれないっていうことね。

小見山:展示はしてましたよね、national archiveで(注:「建築のこころ アーカイブに見る菊竹清訓」展、国立近現代建築資料館、2014年10月29日~2015年2月1日)。

サダオ:丹下さんはHarvard(ハーバード大学)ね。だから、これから磯崎(新)さんも谷口(吉生)さんも、いろんなそういう、どうするのかね。

辻:課題ですよね。Stanford(スタンフォード大学)の話はよかったですね。安心しました。

サダオ:Buckyのarchiveがそこにあるから一緒にね。僕の(持っている)BuckyのarchiveはStanford、イサムさんの(資料)はイサムさんの財団に残します。分けて。

辻:イサムさんの財団では、先生もcommitteeをやっておられますよね、イサムさんのfoundation(財団)。

サダオ:うん、そう。イサムさんの方はIsamu Noguchi Foundation、New Yorkにありますね。牟礼にもありますね。僕、牟礼の方の財団の理事で、New Yorkの方はいま、名誉理事。もうretire(退任)してるの(注:貞尾昭二、勝矢桂子訳「イサム・ノグチとの出会い、そしてイサム・ノグチ財団」『現代の眼』449号、1992年4月、5頁)。

辻:ジョージ・コーチさんにもこのオーラル・ヒストリーに協力していただいています。

サダオ:あ、そうなんですか。そう、ジョージはもう、Los Angelesにすばらしいね…… 娘さんが大学を卒業してprojectをやっている。

辻:今日はあと1時間ぐらいうかがって、もしよければ、今日でたぶん全部をお聞きできないので、また6月までの間に伺わせていただいて、お話を。

小見山:さっき正力松太郎さんのお話までお聞きしたんですけど、ちょっとまた戻りまして、Fulbrightで日本にいらっしゃっていてアメリカに戻られて、まずエディソン・プライス(Edison Price)の事務所で働くことになったと思うんですけれども、そのころ一方でフラーはUnion Tank Car Companyのためのdomeをつくっていたり、ショージさんはMoMAで(「Three Structures by Buckminster Fuller」展の)tensegrity mastの展示に参加されてますけど。

サダオ:そう、そのexhibitionやりましたね(注:ニューヨーク近代美術館で開催された「Three Structures by Buckminster Fuller」展(アビー・オールドリッチ・ロックフェラー彫刻庭園、1959年9月22日~1960年3月1日)および「Buckminster Fuller」展(1959年10月27日~11月22日))。

小見山:そのあたりの経緯、戻られてからどういった経緯でまたFullerと一緒に仕事をすることになったのか。

サダオ:そう、(アメリカに)戻ったときには建築事務所をね、30(社)か40(社)ぐらい仕事を探しに行ったらね。ちょうどそのころは景気がよくなくてね。もう建築事務所は誰も入る(入社する)人いなかったから、そういう話をイサムさんにしたらね、イサムさんが「僕の知ってる人が照明器具の会社をもってるけれども、彼がmaybe、そういう仕事があるかもしれないから」と言って、紹介してくれたの。そしたら彼と僕とEdisonと会ってね、建築じゃないけれども、ものづくりのような、making thingsね、これもおもしろいと思って、そこに入ってエディソンとやって。エディソンのところでやってる(働いている)間に、正力さんからの話もあったのね。

小見山:ああ、そうですね。ではそのころは、フラーとは仕事はしてなかったんですね。

サダオ:そのころはフラーとはね、ときどきやっぱり電話かかってきて、いろんな話をしてました。そのときにはだから、何を…… いろんなものについて電話がかかってきたね、エディソンのところで。まあおぼえてないけれども、ずっとcontact(連絡をとっていた)。そのころやっぱり夏休みなんか、Buckyは僕をほんとに、彼、はじめて僕をね、日系人として白人の社会に入ったっていう気持ちがね。Buckyは、僕はね、ほんとに自分のfamilyの中のように。いろんな友達とか、あれに紹介してね、Buckyのfamilyに入ったような感じで。ほんとに親切に。だから、contactがあって、夏はBuckyの島、Maine州のPenobscot Bayっていうところに、Buckyのfamilyがそこに来たら、毎夏Buckyはそこに行って、やっぱりrenew himselfね。だからそこにはよく、夏はBuckyと一緒に行って、Buckyのfamilyともそこで会ってね。ほんとに親しくなってきたの、Buckyとはね。professionalだけじゃなくてpersonalな(公私ともに)ね。

辻:他のアジアの人たちもいたんですか、ショージさんだけ?

サダオ:東洋人はあんまいなかったね。西海岸だったら、ほんとに日系人も東洋人も多いからね。自分は二世、日系人だっていうことの感じがね、やっぱりいつでも頭に入ってた、自然にね。でもはじめて、このeast coast(東海岸)に行って、Boston Universityに行ったらね。そしたら、もう、自分は日系人でなくて、ただの1人の学生だっていう気持ちで。自由にね。はじめて、そういうfreeのような感じになりましたね。

辻:はい、気にしなくてすむようなった。

サダオ:だから、僕は、戦争は大変なことだけれども、戦争がきた(あった)ことで、僕のlife(人生)も変わりましたね。戦争がなかったら、僕はもうCaliforniaのどっかのお店に入って、なにかやってるかもしれないね。そのopportunity(機会)が、第二戦争と軍隊に入って、大学に行ってね、いろんなlifeが広がってきてね。

辻:ちょっとまたお話がぐっと戻ってしまうかもしれない。(広島の)御調に行っていたお母さんと妹さんは、その後どうなったんですか。

サダオ:その後は、まあ、第二戦争が終わって…… あ、それから、僕のfatherも日本に帰ったんです、第二戦争が終わってから。そして、僕もちょうど軍隊からdischargeされて、彼が日本に行くということがわかって、San Franciscoまで行って、会ったの、船で。そして、でもね、あんまり僕とfatherと仲よく、あんまりcommunicationなかったの。日本語、僕、できなかったし、彼はもうぜんぜん英語しゃべれないし。だから、会って、黙って、さようならだった。それっきり、もう。だから、fatherもmotherもそれっきり会わなかったのね。でも、妹のマサコは第二戦争、それが終わって、お金を送って、アメリカにまた帰ってきたの。そして、二世と結婚していまCaliforniaに住んでます。そして、彼女の娘ですね、建築をUSCで勉強して、それからPennsylvaniaに行って、landscapeにやっぱり(注:ペンシルバニア大学はランドスケープに関する研究と実践で広く知れわたっているため)。いま、ケン・スミス(Ken Smith)ってご存じですか。ケン・スミスのLandscape officeで仕事してるの、彼女は。そしてもう1人の、僕の弟の娘のエイミ・サダオ(Amy Sadao)っていうのはCooper Unionに行ってね、fine artを研究して。いまはペンシルバニア大学のInstitute of Contemporary Artのdirectorになってる。

辻:あ、そうですか。このインタヴュー(日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ)もfine artの人たちが多いので。

サダオ:なんでか知らないけど、もしかしたら僕の(やっていることが)影響したのかね。

辻:そんなに遠くないですからね。これまで聞いたお話はだいたい20代、20歳から30歳ぐらいまでのお話しだったんですけど、当時は、ショージさんはパートナーはいらしたんですか。

サダオ:いや、僕は遅く結婚したの。

辻:だから、この時期はおひとりで。

サダオ:そう、結婚したのは72年。

辻:まあ、friendはいたかもしれないですけど。

サダオ:そう。まあgirl friendはいましたけどもね。girl friend(の弟)は、イギリスの(有名な)建築家で、(ロンドンとニューヨークに事務所があり)いまわりあい有名になってるけど…… ほんとに、もうmemory(記憶)が…… まあ、後から出てきますかね。

辻:また戻っちゃいますがMoMAの展覧会は1959年、彫刻の庭園で展示されるんですけれど。

サダオ:そう。それでやりました。

辻:1955年に、ドレクスラーが日本建築の。

サダオ:お茶屋?

辻:ええとtemple(寺院)ですね。「Japanese Exhibition House」っていうプロジェクトがあったんですけど、ショージさんは知っていますか。

サダオ:それは知ってます。そうそうあれは、京都の近くの。あそこの、なんていう。

辻:三井寺ですね(注:「Japanese Exhibition House」展で展示された《松風荘》は、関野克が考証した三井寺を写して吉村順三が設計し、伊藤平左ェ門11世や伊藤要太郎らが施工した)。

サダオ:そうね。そっから、それがPennsylvaniaのPhiladelphiaに移ったのね(注:《松風荘》はMoMAで展示された後に、フィラデルフィアのフェアマウント・パークに移築された)。

辻:そうですね、ありますね。その展覧会はご存じでしたか、当時。

サダオ:あんまり覚えがない。でも、それがあったっていうことは。(フィラデルフィアには)行きましたけれどもね、あんまり。

辻:彫刻の庭園を使う(庭園で展示する)プロジェクトがあの時期、MoMAで続いてたんですけど、当時はフラーと、どういう人が関わったか。あと、これ(この展示)はtensegrity mastですよね。

サダオ:うんtensegrity、そうね。そう、そのころはエディソン・プライス(Edison Price)の仕事をしてましたね。そのころは、Buckyとはtensegrity mastとその話が入る前には、あんまり。会ってましたけれども、仕事はあんまりなかったね。BuckyはBuckyで、あっちこっち回りながら、大学でいろんなprojectをやりながらね。

辻:この(ショージ・サダオの著書である)『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』(2011年)の中に、近くの建築物でtensegrity mastを組み立てて、窓からそのまま、それを出している写真がありますね。

サダオ:あれはエディソン(Edison)の工場。それがエディソン(Edison)の工場で、そこでつくったの。

小見山:(『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』の166頁の図版を見せながら)これでしょう。

辻:はい。先に組み立てて。

サダオ:そうそう。窓から出して。そうです。こうやってMoMAまで運んだの。(同『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』166頁の図版29を指しながら)これがラケットクラブね。Park Avenue。(同166頁の図版31を指しながら)こっちがイサムとアーサー・ドレクスラーね。

辻:はい、イサムとドレクスラー。これ、手で運んでいった……

サダオ:そう、運んでいったの。

辻:(笑)。事務所が近かったんですか、MoMAに。

サダオ:44丁目。だから10 blocksだね、(MoMAが所在する)54(丁目)まで。

辻:ああ、ではこれ、なんでしょう、performanceみたいなことですか。

サダオ:そうですね。

辻:すごくおもしろい。まわりの人たちも、わっと注目してたんじゃないですか。

サダオ:いましたね、「なんですか」って。

辻:これはそんなに手で運べる、軽いもの?

サダオ:うん軽い、軽いです。

小見山:じゃ、このときフラーと一緒にやったのも、このプロジェクト限定で、これだけやるために一緒に。

サダオ:そうね。

小見山:でも、ふだんはエディソン・プライスのところで仕事をされているっていうかんじだったんですね。なるほど。

辻:その後、同じドレクスラーの企画で、次の年の1960年に「Visionary Architecture」っていう展覧会があったんですけど。

サダオ:あ、visionary、はい。

辻:そこに、Buckyも同じDymaxionのプロジェクトを展示しているんです(注:バックミンスター・フラー《Partial Enclosure of Manhattan Island》1960年)。その展覧会はおぼえていますか。

サダオ:あんまりおぼえてない。あれ、あんまり関係してなかったと思うね。

辻:あ、そうですか。そのプロジェクトは(フラーと)一緒じゃなかった。

サダオ:うん。

辻:パネルが展示されたんですよね、Manhattanにdomeをかける。この展覧会でメタボリズムの、それこそ菊竹さんと……

サダオ:ああ、メタボリズムね。

辻:うん。黒川(紀章)さんもこの展覧会で作品を展示してるんですが、おぼえてないですよね。1960年5月に世界デザイン会議が東京で開催されて、アメリカからもいろいろな建築家やグラフィック・デザイナーらが行っている(来日する)んですけど、その時はショージさんはNew Yorkにいらっしゃるからそのニュースは…… そのときにメタボリズムが(発足する)……

サダオ:メタボリズム、それはおぼえてますけど、僕、それ以上、なにか、あんまり関係はなかったね、でもそのころは、1960はEdison Priceだったね、そのころは。

辻:はい。当時、雑誌とか、そういうものって読んでましたか。

サダオ:そう『a+u』、中村(敏男)さん。

辻:ああ、まだちょっと、この時期は無い((『a+u』はまだ刊行されていない)かもしれないですね。『JA』とかですか。

サダオ:『JA』、『新建築』ね(注:当時の『JA』は『新建築』の英語版を指す)。『新建築』を図書館で見てましたね。そこの誰だったかね。やっぱり何人かcontactはありましたね。でもいまもうおぼえてません。

辻:図書館に置いてあったんですか、『新建築』は。

サダオ:それはやっぱりarchitecture libraryね。どこだったかね。

辻:大学の?

サダオ:libraryにやっぱり、行って。

辻:さっき正力さんの話もあったんでが、その後なんですけども、1964年によみうりランドで。

サダオ:あ、よみうりランド、ありましたね。あれは僕がやらないかって頼まれたんだけれども、僕はエディソン(Edison)がね。もう、それは何か月間とる(かかる)からね、それは「だめだ」って言われてね。だから正力さんの(右腕であった)柴田さんにね、僕はそのプロジェクト(は)「できない」って言って。BostonのBuckyの同じMIT(マサチューセッツ工科大学)のグループ、そのグループがGeometrics(といって)、その会社が設計したの。だから僕はよみうりランドのドームには関係しませんでした(注:1961年にバックミンスター・フラーは読売ジャイアンツのための屋根付きスタジアムを設計するためショージと共に日本を訪れた。このスタジアムは実現しなかったものの、ケンブリッジの(1956年にGeodesics社から改称された)Geometrics社が《東京よみうりカントリークラブのクラブハウス》(1964年)を設計した)。

辻:そのころBuckyに会いにBostonにもよく行っていたんですか、1960年前後というのは。

サダオ:まあ、よくそのころは。

辻:MITに行ったり。

サダオ:なにかやっぱりBuckyが、あっちこっちで、ときどき電話かかってきて、会ってましたからね。

辻:当時、丹下健三さんがBostonに来ていたんですけれど、そのとき丹下さんとは会った?

サダオ:会ってない。そのころ丹下さん、もちろん名前は知ってましたけど、会ってないですね。

辻:ではEdisonさんのところでお仕事をしてたのは、何年までになるんですかね。

サダオ:あれは、5年間ぐらいやってた。5年か7年か、はっきりおぼえてないけれども、5年か7年間ぐらいいました。そうね。エディソン(Edison)に入ったの57年か8年だったね。そして、Buckyと一緒に会社をつくったのが63年か4年だったね。

小見山:64年ですかね。その直前まではエディソン(Edison)のところで働いて。

サダオ:そう、ずっとエディソン(Edison)とやった(仕事した)。おもしろかったのは美術館ね。特に美術館(について)はほとんどエディソン(Edison)に聞きましたね。ああやって建築家もみんなね、やっぱり、なにか普通より変わった、難しい照明の問題ね、エディソン(Edison)のところに(相談に)来たね。彼が一番でした。

辻:それは(照射する)光ですか、美術館の中。

サダオ:壁ね。スムーズにね。これ(波長)がないようにね。それとか、大きいスペースの、Breuer(Marcel Breuer)のWhitney(注:マルセル・ブロイヤーが設計したホイットニー美術館の建築物を指す。2016年からMet Breuerとして利用されている)ね、あそこの照明は全部、Edisonだったね。それとかMetropolitan Operaね。あそこのhouse lightね。house lightはエディソンのところでやりました。そのときにlighting consultantね、リチャード・ケリー(Richard Kelly)という人が有名だったので、彼はいつでもエディソンを使ったのね。エディソンは、ただ照明器具をつくるんじゃなくて、lighting in generalのconsultantも、彼があんまりconsultantをやったら仕事が入ってこないから、maker(製造業者)だけにしてね。でもconsultingはもう、ある人はやっぱり来て、エディソンの意見を聞いてね。だからおもしろかった。だからフィリップ・ジョンソン(Philip Johnson)は(建築物や展覧会の会場等を設計する際に)いつも使ってましたね、エディソンをね。もちろんスキッドモア(Skidmore, Owings & Merrill)の人(注:ゴードン・バンシャフト(Gordon Bunshaft)ら)も知ってたしね。いろんなそういうトップの建築家が美術館を設計すると、lightingはエディソンできてね(エディソンに依頼してね)。ほとんどその時代の美術館のlighting、照明器具はEdison Price。だからおもしろい仕事でした。

辻:ショージさんがエディソンさんのところにいたときに、印象に残っているプロジェクトはたとえばどういうものですか。

サダオ:どのprojectかね。最初に入って、仕事をしたのは(フィリップ・ジョンソンが設計した)Seagram BuildingのFour SeasonsのRestaurant。それを受けたね。opening night(開店する日の夜)はね、まだ照明器具をなおしてたんだね。だからみんなが食事しながら、梯子段で、こちらで。lightをやったの。エディソンは変わってね。エディソンは、イサムさんが言ったけども「He is an original hippie」。Edisonは変わった人。ある日ね、彼のオフィスに、片づけましょうというのでね、あっちこっちいろんな照明器具とか、いろいろなものがあったんだね。そこにちょっと缶があって、粉が入ってたのね。「これ、何ですか」って言って「Oh that is nothing」って言って、「捨てましょうか」って捨てたのね。あれは彼のmarihuanaだったの。それとかね、彼はもう、あんまりsuitsとかtieをしなくて、どこに行ってもね。そしてほんとに変わった人だった。でもおもしろい。ほんとのvillageに生まれたしね、その時代のほんとのhippie。genuine hippie(笑)。

辻・小見山:(笑)。

サダオ:それが照明器具の会社の社長。lighting consultant。

辻:そのopeningのときは、ミース(Mies van der Rohe)とかもいたのかもしれないですよね。

サダオ:ああ、それはジョンソンが(いた)。Four Seasonsはフィリップ・ジョンソン(が設計したし)ね。ま、いろんな有名な人がいたね。でもそのころはもう、照明なんかやってたから。

辻:(笑)。その人たちに光を当てているから。

サダオ:もちろん。いろんな美術館のopeningもね。それといろんな画廊ね。New Yorkの画廊の照明もよくやりました。

辻:そうですか。たとえばどういうところですか。

サダオ:Pace Galleryね。Paceとか、もうひとつ、どういうところもやったかね。あ、そう、僕はウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)ね。ウィル・デ・クーニングもイサムさんを通してね。それとイサムさんの親しい女性も、ウィル・デ・クーニングをよく知ってたから、BillのLong IslandのEasthamptonのね、studioの中の照明、ちょっと僕もやったの。

辻:それもすごい話だな。

サダオ:そのころのBillはね、だからいろんなそういうおもしろい人に。それはもう、いまはEasthamptonなんか行ったら、もうtoo many people(過密)だけども、これ(この頃)は57年、日本から、Fulbrightから帰ってから行ったんだから、そのころはまだ少なかったね、人が。でもartistはみんなそこに行ってたね。

辻:そういうとき、みんなイサム・ノグチさんが紹介してくれるんですか。

サダオ:そう、いろんな、みんなその仲間で、食事しながらとか。

辻:BuckyもBlack Mountain Collegeで教えていましたよね。彼もartistと交流はあったんですかね、当時。

サダオ:そう、彼は、そのときにやっぱりウィル・デ・クーニングもそこにいたね。それとか、アーサー・ペン(Arthur Penn)ね、director(映画監督)のね。それとか、いまでも問題になってるケン・スネルソン(Ken Snelson)ね。tensegrityを誰が発明したかっていうね。僕もケンに、New Yorkに帰ったら会いますけれども、僕はケンと仲がいいけれどもね、そういうところがBuckyにあったね。ほんとに、あんまりcredit(著作権者や原作者の名前)をshareしないからね。very protective、自分の作品っていうかね。だからいまでも、Design by Buckminster Fullerというのがあるけどもね。実際に彼のpatent(特許)を使って、彼の名前がついてるけどもね、実際に設計したり、そういう人はBuckyじゃないの。

小見山:まわりの人。

サダオ:それがいま、僕が出てから、BuckyのGeodesicsという会社、Synergeticsという会社のティー・シー・ハワード(Thomas C. Howard)という人がね、非常にいいdesignerだったのね。いまTCはあんまり元気じゃないけれども、彼の娘がね、なぜもっと一生懸命、自分の名前を、こういう作品につけないかって言ってね。あんまり僕もTCも、われわれは名前は出さない。でも彼女は「それはだめだ」って言って、一生懸命ね、あっちこっち。たとえばVitraね。ドイツのVitraにdomeがありますね。

小見山:あ、ありますね。

サダオ:いままでは(作家の名前を)バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)って書いていたけどもね、彼女が「それは間違ってる、あれは私のお父さんが設計した」というのでね、Vitraは(クレジットを)変えました、ティー・シー・ハワード(TC Howard)って、design by。patentとideaはそう(バックミンスター・フラーによるもの)だけれども、このdesignをやったのはTC。だからあっちこっちね、それをやって、いまちょっと困ってるんです。そのBuckminster Fuller Instituteとかね、Buckyの、この親戚が。ま、そういうこともback(背景)にあるのね。

小見山:そういう意味ではFuller and Sadaoって、当時からcreditされていたプロジェクトってあると思うんですけど、たとえばManhattanを覆うあのdomeとかって、当時からショージさんの名前も載っていたと思いますけれども……

サダオ:あのair brushね。air brushをやったのはティー・シー・ハワードね。でもそのいろんな(建築構造の)計算とかなにやらやってるのは、なんていうかね、封筒の後ろ(裏)に計算したりね。ほんとに、実際にはseriousでなくて、ただ話をしながらやったのはBuckyと一緒にやったのね。だからMoMAでも、あれがあってFuller and Sadaoって言ってるけども、ほんとに僕は描いて(なくて)、あのair brushのdrawingはティー・シー・ハワード(が描いた)って言わないとだめだから。

小見山:へえ。1962年にLondonでBuckyがlectureしたときに、Londonでもあれがお披露目されて。『New Scientist』っていうmagazineに掲載されたみたいなんですけど(注:”A new approach to the world’s housing problem,” New Scientist, no. 273, 1962, pp. 312-315)。そのlectureにショージさんは同行はしてないわけですよね。1962年なんですけど、当時はたぶんエディソンの事務所にいらっしゃったので。

サダオ:まだエディソン・プライス(Edison Price)です。

辻:そうか。ではBuckyと一緒に会社をつくったきっかけはNew Yorkの博覧会(注:ニューヨーク世界博覧会、1964年4月22日~1965年10月17日。ただし世界博覧会としてBIE(博覧会国際事務局)の公認を得られずWorld’s Fairと表記された)。

サダオ:そう。その話が急に入ってきたので。Edisonの仕事をもう辞めて、Buckyと一緒にCarbondale, Illinoisね、なにも仕事もなかったんでね。でも、おもしろいから、またBuckyと一緒にやりましょうと言って、Carbondaleの、田舎のところに行って、Buckyにいろいろ手紙が来て、いろんなprojectの話があったんだけども、彼は事務所を持ってないしね。だから僕が入って、はじめていろんなものをorganizeし始めたのね。そうしたら急にジャック・メイシー(Jack Masey)から、こんどMontreal、67年にMajorなあれ(博覧会)があるから「Why don't you ?」(やりませんか?)いやWhy don't youでなくて、彼がもう決めたのかね。competition(設計競技)になったけども、彼はもうBuckyにするって(決めていて)ね(注:ジャック・メイシーは当時、USIAのデザイン・ディレクターを務めていた)。でもそのころは事務所ないんですよ。ただBuckyひとり。だから、そうしたら「こういう仕事が入ってくるから、どうしようか」って言ったら「じゃ、会社をつくりましょう」と言ってFuller and Sadao Inc.(フラー・アンド・サダオ社)をつくったんですね。2人だけですよね。そうしたら今度これどうするかっていったら、じゃあCambridgeでね、MassachusettsでMITの前の仲間がいるから、それらとCambridgeに、田舎のあそこ(カーボンデール)でなくてCambridgeに事務所を移して、Geometricsと一緒に設計しましょうっていうので、Geometricsと一緒にやったの。

辻:なるほど。ではMontreal Expo(モントリオール万博)がきっかけですか、それともNew YorkのExpoがきっかけ?

サダオ:Montreal Expoが。

辻:1967年。

サダオ:(仕事の依頼が)きたので事務所、Fuller and Sadao Incorporatedっていうのを(つくって)64年か5年に設立したんです。

辻:New YorkのExpoも関わってますね。

サダオ:New YorkのExpoはずっと前ね、それは。

辻:でも、64年じゃないですか。

サダオ:それは、そこにあるGeodesicのものはティー・シー・ハワードと、北カリフォルニアのSynergeticsっていう会社がつくったんです。設計プラス、つくった(施工した)んですよ。

辻:じゃ、それには、もうショージさんは、かかわって……

サダオ:それは何にも関係ない。

辻:ああ、なるほど。

サダオ:それと、またもう一つの、Floridaのあれはどこだったかね。大きい球があるでしょう。

辻:(1964年のニューヨーク世界博覧会の際に会場のフラッシング・メドウズ・コロナ・パークにつくられたユニ・スフィアとは)違う。

サダオ:Disney Worldだ。あそこにあるでしょう。

小見山:あります、あります。(注:Spaceship Earthと名づけられた球体状のアトラクションを指す。ディズニー・グループのデザイン部門であるWEDエンタープライズ(ウォルト・ディズニー・イマジニアリング)が企画し、設計をWallace Floyd Associates、構造設計をSimpson, Gumpertz & Hagerが担当し1982年に竣工した)。

サダオ:Epcotの大きなあれね。あれはわれわれが一緒に仕事してたGeometrics(社)の方の人が、ピーター・フロイド(Peter Floyd)っていう人が。そしてengineerがシンプソン・カンパニーのヘーゲルっていうの。そしてあのdomeの、domeでなくて、あれはsphereね。あのsphereの話はフランク・ヘーゲル(Frank Heger)のところに入ったのかね。そして彼がピーター・フロイドに話をして、われわれには、Buckyと僕にはぜんぜん話がないの。だから黙って(仕事を)取って、Buckyとはまったく関係ない。僕とも関係ない。でもやっぱりあれはBuckyの(クレジット)になってますね。

小見山:はい、そうですよね。

サダオ:ぜんぜん関係ない。それだけBuckyの名前で有名になってるから。どうしてもconnection(関連性)が出てくるね。

小見山:じゃあGeometricsとSynergeticsは、フラーとは必ずしもいつも一緒にやったわけではなくて、もう独立した会社になって。

サダオ:そうですね、それがGeometrics North Carolina、Geometrics Cambridgeと2つのGoedesicsがあった。会長はBucky。そしてSynergeticsはNorth Carolinaだけ。North CarolinaのGoedesicsはいろんな軍隊と仕事をやっててね。Synergeticsは軍隊でない普通の(企業がクライアント)。だからSynergeticsは残ったのね。それをティー・シー・ハワードが(バックミンスター・フラーの)そばで一生懸命やって、いろんなプロジェクトやってたの。

辻:そのころその2つの会社は、民間の組織からのお仕事と軍からのお仕事って、そんなにはっきり分かれるものなんですか、はっきり違うんですか。

サダオ:分かれた。Geometrics、Geodesics North CarolinaはMarine Corps(アメリカ海兵隊)。Marine Corps Domes。そのMarine Corps Domeをやりながら、ボール紙のdomeをつくって、それは僕が設計したの。それで1954年だったかね、MilanのTriennale行ってgrand prixをもらったの。10th Triennale、(イタリア語で)Decima Triennale。

辻:日本はこのTriennaleには参加できなかったんですよ、まだ。57年かな、ミラノ・トリエンナーレにようやく参加できるようになって。

サダオ:できたんだ。

辻:はい。清家清らが(会場設計に)関わっています。

小見山:フラーとショージさんのお名前が両方credit(記載)されているものって、Manhattanの、まあ実際にはティー・シー・ハワードさんが描いたってありましたけど、それ以外にも空中に浮かぶ都市(《Project for Floating Cloud Structures(Cloud Nine)》1960年頃)とか、四角錐のかたちの都市(《Tetrahedron City》1967年)とか、ああいったものはどういう。

サダオ:あれも、だから floating city。floating cityはTriton Foundation(トリトン財団)ね。このときは友達というか、ちょうどジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)が大統領で、いろんなところのheadをアメリカの政府の中に、Department of Housing and Urban Development(住宅・都市開発省)、Harvardの弁護士のlaw schoolから来たチャーリー・ハー(Charles M. Haar)。(チャーリー・ハーが)Housing and Urban Developmentのいろんなideaをback up(支援)したのね。Buckyが「floating cityっていうideaがどうか」と言ってHousing and Urban Developmentからお金もらったの。そのときは、政府がお金を出すんだから、privateでなくて財団法人でないとできなかったのね。だからまた別のTriton Foundationというfoundationをつくった。それがまたBuckyが会長で。僕とピーター・フロイドが入ってね、そしてこのprojectをやった。模型はリンドン・ジョンソン(Lyndon B Johnson)のLyndon Baines Johnson Libraryが、Texasにあるの(注:アメリカ合衆国の住宅・都市開発省はリンドン・ジョンソンが設立した)。そしてWhitney(ホイットニー美術館)でBuckyのshow(展覧会)があったでしょう、5、6年前ね(注:「Buckminster Fuller: Starting with the Universe」ホイットニー美術館、2008年6月26日~9月21日)。そのときにその模型を出しました。

小見山:このあたりのプロジェクトは、同じくらいの時期ですか。

サダオ:そうそう、それもね。

小見山:このへんはMontreal Expoの後ですか。その前の……

サダオ:後ですね。いや、おんなじときだったかね、後だったと思うね。これはあとね、これを正力さんに。1,000,000、いや1,000,000でない。one million inhabitantsだから大きいね。そういうようなideaが、彼がね。

小見山:(マーティン・ポーリー『バックミンスター・フラー』(渡辺武信、相田武文訳、鹿島出版会、1994年)194頁の《Tetrahedron City》1965年)と、日本における提案(『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』189頁の《Tetrahedron City》1967年)は同じ考え方で。

サダオ:同じ、そうそう同じです。

小見山:じゃ、これは正力さんがこれ(マーティン・ポーリー『バックミンスター・フラー』(渡辺武信、相田武文訳、鹿島出版会、1994年)194頁の《Tetrahedron City》1965年)を既に拝見されていて、それを日本でやりたいっていうお話だったんですか。

サダオ:いや、それをやりたいっていうことではなかった(注:ショージ・サダオは、正力松太郎から依頼され1966年頃から検討をはじめた《Tetrahedron City》を『Saturday Review』で1967年4月に、『Playboy』で1968年1月に発表したが、正力とは合意に至らず、その後にアメリカ合衆国の住宅・都市開発局から《Triton City》の計画を依頼されたと整理している。なおバックミンスター・フラーは日本で後援する者が1966年に亡くなったと書いているが、正力の没年は1969年であるためこれは誤りである。バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』梶川泰司訳、白揚社、2007年、499頁)。propose(提案)したけれども、あそこ、よみうりランドね。よみうりランドの横に。でもこれはtoo visionary、あんまり。

辻・小見山:(笑)。

サダオ:できない。でも正力さんはそういう大きいideaは好きだったんだね。

辻:そう、あるいはenvisioningかもしれない(注:視覚化する、あるいはそれによって実現しようとする)。

サダオ:ええ。それとか富士山より高いタワーね。で、そういう話をBuckyが「うん、できるよ」って言うんだね(注:《The Tower of World Man》(読売タワー計画)(1966年)を指す。正力松太郎の依頼で高さ4,000メートルのテレビ塔兼展望台を計画した。当初、正力はWorld Peace Prayer Tower(世界平和祈念塔)として依頼したが、フラーがそれを改名した)。

辻・小見山:(笑)。

サダオ:だから、そうすると、こっちは困るんだね。visionaryでどうするがね、後片づけというの。でも、そういういろんなおもしろいprojectが入ってくるからね。儲からなかったね。でも、おもしろかった。

辻:(笑)。1964年ぐらいにはHarlemの。

サダオ:ええHarlem、そう。あれもまたBuckyの。

小見山:(『バックミンスター・フラー』(1994年)の188頁の《ハーレム地区の大規模な都市再開発計画》(1964年)の図版を見せながら)これですね。

サダオ:そう。Buckyのこれね、Harlem redesign(都市の再開発)で。そのときにね、黒人の女性の何とかっていう名前の人が、わりあい有名な人がね、いま、イギリスの大学の博士が来てね、インタヴューしてね、どういう関係だったかっていうこともある。Buckyがその黒人の女性と話をしながら、このHarlem Redesignのideaが出てきたのね。

辻:こういう集合(住宅)というか、たくさんの人が一緒に住むというか、(人口の)密度が高いものは、当時のHarlemの人たちにはどのように受け入れられましたか。

サダオ:だから、そこんところは、social housing(公営住宅)とかそういうところはあんまり研究してないのね。だからそういう問題が出てきますね、ほんとに。あれだけの人を、ああいうspace(空間)に入れるならどうなるかってね。だからEast Saint LouisのOld Man River(《オールド・マン・リバー計画》1971年)もそうですよ。あのprojectがあるでしょう。あれも同じような、あれだけの人数。だから、われわれもそのころはやっぱり、友達のsociologist(社会学者)にもね、相談しながらやってましたけれどね、難しいですよ。

辻:ああ、そうか。本当のことを言うと、あんまり興味はなかったっていうかんじですかね。

サダオ:そうね。

辻:当時だとJacobsが出てくる。ジェーン・ジェイコブス(Jane Jacobs)とか。モーゼス(Robert Moses)とジェイコブス(の対立的な関係)ってありますよね。

サダオ:ジェーン・ジェイコブスはそうそう、反対するから。

辻:そう、ではこの、会社をつくった時期からもう、Montrealのdome(アメリカ館)のプロジェクトがはじまっていくわけなんですけど、Montrealの万博のときは、West Germany(西ドイツ)のパビリオンはフライ・オットー(Frei Otto)(の設計)ですよね。

サダオ:そう、フライ・オットーね。

辻:はい。そのフライ・オットーのパビリオンと、関係がありましたか。

サダオ:別に。別々でした、それはね。

辻:こういう(天井を)吊る建築構造だと思うんですけど、どう思われましたか。

サダオ:おもしろい、こうtension(張力)を使ってね。Buckyもtensionを使って、この正力さんのアスペンション・ドームっていうのは、ascending suspensionっていって、suspensionを使ってdomeを設計したのね。そういうところはやっぱり。でもFrei Ottoは、bubble、泡(膜)をこうね。彼(フラー)はもうちょっとsphereね、sphereをベースにして研究をしてね、やったんで。

小見山:OttoとFullerって、交流とか、なにか情報のやり取りみたいな……

サダオ:なかったね。全然なかった。それとそのころ、やっぱり、あんまり他のそういうようなengineerとは(交流は)なかったね。Italyの鉄筋コンクリートの有名なengineerがオフィスに来ましたけども。まあなんていうのか、鉄筋コンクリートでItalyで、その時代に。

小見山・辻:ネルヴィ(Pier Luigi Nervi) 。

サダオ:ネルヴィもオフィスに来てね、僕のやってる模型を見て、ああ、これおもしろいって言われたね。そのころネルヴィとか他に何が。

小見山:コンラッド・ワックスマン(Konrad Wachsmann)とか。

サダオ:コンラッド・ワックスマンもそう。Triennaleにコンラッド・ワックスマンが何か関係してました(注:1954年のミラノ・トリエンナーレにあわせて開催されたインダストリアル・デザインに関する3日間の会議で、コンラッド・ワックスマンは2日目に議長を務めた)。というのは、同じホテルに泊まってたからね。

辻:え、Milanですか。

サダオ:Milan。

辻:Milanのトリエンナーレ…… 54年。

サダオ:そのコンラッド・ワックスマン(Konrad Wachsmann)に、ときどきbreakfastでね、朝食に会ってました。

辻:ああ、そうですか。ワックスマンは1955年に日本に来ているんです。

サダオ:あ、そうですか。

辻:はい。あ、ご存じないですか。

サダオ:うん。(ワックスマンは)グロピウス(Gropius)と一緒にいろんな、housing systemね、やりましたね。

辻:はい。Montrealのプロジェクトでは(ショージさんも)実際に現地、Montrealに何回も、つくる前からvisit(滞在)しますよね。

サダオ:まあ、何回か行きましたね。やっぱりsite visit(現地の視察)とか、いろんな、そう。

辻:大規模なプロジェクトですけど、実際のplanning(構法を計画する)の段階と、construction(工法)の段階と、ちょっと考えていたことと違ったなっていうことも出てきたと思うんですけど。

サダオ:まあ一番、失敗というかね、というのはsunshade、日陰になるようにね、shadeが自動的に開く、それがあった。motorの研究が足りなかったので、Montrealが、冬はほんとに寒くて。あれが動かなかったのね。それで夏になってやってもね、(シェードが)あいてるのも閉まってるのもあって、でたらめになってるのがね。本当はこう、日が回るときに(太陽の動きにあわせて)、自然に下が陰になるようにあいたりね、閉めたりするのが、それができなかったのが失敗。ほんとにそういうdynamicなbuildingにね、なるはずだったんだけど、dynamicじゃなかった。

辻:展示の担当者、displayの担当者はBuckyとは別にいたんですよね。

サダオ:Cambridge Seven。うん。Cambridge Sevenは、ピーター・シャマイエフ(Peter Chermayeff)ね。よく、やっぱり、こう。ちょっと、あんまり仲よくなかったね。こっち(フラー)の方はenvironment(exterior)、こっち(シャマイエフら)はinteriorでね。そして同じCambridgeに事務所があって、やっぱりCambridgeで、ちょっと競争してますからね。

辻:そうなんですか。

小見山:(笑)。

辻:Buckyにとっては、やっぱりdomeがメインですよね。

サダオ:そう。だからenvironmentがわれわれの責任だったの。中のexhibition design(会場設計)はCambridge Seven。室内はCambridge Seven。Environment controlはFuller and Sadao。だからそれが、またね。R. Buckminster Fuller. Fuller and Sadao Inc. Geometrics Inc.っていうね、それがofficial titleなのね、creditがね。そこで相当もめたのね。

辻:ああ、なるほど。

サダオ:ピーター・シャマイエフのお父さん、サージ・シャマイエフ(Serge Chermayeff)ね。「That's just like Bucky getting his name twice」って。

辻・小見山:(笑)。

辻:何回も、何回も(バックミンスター・フラーの名前が出てくる)。

サダオ:そう。

辻:fine artの作品も展示されていたと思うんですけど。

サダオ:そう。その中のひとつはね、あれはこのDymaxion Air Ocean Mapを大きく引き伸ばして、あれは…… また名前が出てこない。有名な…… ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)だったね。いまその大きい絵がドイツのCologneのLudwig Museumにあります。

辻:ああ、そうですか。この展覧会のときにはfine artに関する動向の中でも、environmentっていう言葉はすごく大事なkeywordになっていて、例えばチェコスロバキアのパビリオンではmulti projectionの映像の展示があったんですけど。

サダオ:チェコのは有名だった。マリオネットを使った。

辻:そういうものにご関心はありましたか。environment art(環境芸術)。

サダオ:行かなかった、それに。

辻:そうですか。日本館は?

サダオ:日本館、おぼえてない。

辻:(笑)。

サダオ:どういうものでしたか。

辻:芦原義信さんと豊口克平さん。

サダオ:ああ、芦原さん、はい。

辻:芦原さんが校倉。校倉っていうのは木で、何本も何本も積み重ねて。

サダオ:正倉院。

辻:そうです、そうです。正倉院をモデルにした建築物で、riverside(川辺)にあったんです。

サダオ:ええ。ああ、そうですか。おぼえてません。

辻:ぜんぜん、興味がなかった(笑)。やっぱりこのMontreal(モントリオール万博)ではアメリカのパビリオンと、あと西ドイツのパビリオンが有名。あとはサフディ(Moshe Safdie)の。

サダオ:そう、サフディのね。Habitat(Habitat 67)ね。それは行きました。

辻:それはすごく有名になって。これって、会場の計画と、この(アメリカ館の)domeの計画とはどういう関係があった? 移動する、あれはモノレールかな、domeの中に入り(貫入し)ますよね。

サダオ:そういうのはExpoの人が(計画した)。できればモノレールがdomeの中に入るように、各パビリオンをみんな通るように(ということ)がお願いだったの。で、われわれだけが(パビリオンであるドームの中を)通るようになったの。他のパビリオンは、外で横ね(パビリオンの脇に停留所がある)。これ(アメリカ館)は真ん中、つーっと通ったんですね。

辻:はい。(モノレールが)中に入っていく写真はおもしろいですよね。そういう会場を計画する方々と、やりとりはあったんですか。

サダオ:それはまたinteriorだから、Cambridge Seven。

辻:そうか、そうか。domeとしては穴をあけるだけ。そこに穴があいているだけ。

サダオ:そう、あけて、どういうふうに行くかね、level(地上からの高さ)を決めて。今度(は)それに合わせるようにCambridge Sevenがexhibitionね。エスカレーターと、あんなのをやったのね。

辻:おもしろいですね。私、去年行ったんです。

サダオ:あ、それ行きました?

辻:はい。実際に見に行ったんです。

サダオ:どうなってますか。僕は最近行ってないから、どうなって。

辻:中の展示はもう違いますけども、Montrealの市内でもまだ目立つ建築物ですね。

サダオ:これはやっぱり、一時、潰すという話があったけどもね。でもフィリス・ランバート(Phyllis Lambert)が、やっぱりこれ、protectする(保存する)っていうの。あそこは、Building Institute、彼女がやってるのは、まだちゃんと。

辻:あります。Montrealですね。Canadian Center for Architecture。CCAですね。そこで去年、リサーチしたのでここも行ったんです。

サダオ:彼女はまだ元気でやってるんですか。

辻:お元気そうですけど。この時期には大阪の万博も(開催が)もう決定してて、日本の人たちもいっぱい、Montrealをモデルにしようと思って見に行ってたんですけど、そのときにはもうショージさんはそういう日本の人と…… この時期に日本の人との接点ってあったんですか。

サダオ:このMontreal Expo…… 誰にも会ってない。誰にも会ってなかった。

辻:そのころに、もう、あんまりジャパンネス(「日本的なもの」)には関心はなかったですか。

サダオ:なかったね。そうね、まだね。

辻:でも、イサムさんとかとはまだ交流があるわけですよね。

サダオ:そう、イサムさんとはそのとき、67、そうだね、まだNew Yorkに。New Yorkに引っ越したのは75年だったのね。だからイサムさんとは、でも、ねえ、イサムさんとは、最初にイサムさんと仕事をしたのはEdisonの、New Yorkのときに、Billy Rose Sculpture Gardenね、イスラエルの。あの模型と、ちょっと図面を描いてました。そのときには竹山実もNew Yorkでね、2人ともイサムさんのそういう手伝ってました(注:ショージ・サダオと竹山実がイサム・ノグチを手伝ったのは、竹山がフルブライト・プログラムの奨学金を利用して留学し、その期間の延長をしていた1961年から1962年にかけての可能性がある。竹山実「イサム・ノグチの石」『そうだ!建築をやろう』彰国社、2003年、160-168頁)。

辻:へえ。その竹山さんの話、はじめて聞きます。

サダオ:彼は車を持ってね、parking ticket、どんどん、どんどん払わなくて、集めてね。彼が心配してたのは、アメリカに今度行くときには、パスポートのときにとめられるかもしれないって。もうほんとにね、たくさん、一つも払ってなかったの、parking ticketを。

小見山:(笑)。

サダオ:彼は事務所を、いま元気でやってますか。最近会ってないので。

辻:1970年代にIAUSっていうピーター・アイゼンマン(Peter Eisenman)らが設立した研究所がありますね。そこで開催された展覧会で日本人の建築家に関する、巡回する展覧会があって、そのときにたしか(竹山が)関わっていたんですけど、これはちょっと時期が違いますね(注:磯崎新、相田武文、竹山実、藤井博巳「アメリカに打ち返す日本建築の新しい波」『a+u』102号、1979年3月、125-140頁)。小見山さんなにか(他にこの時期のことで)質問ありますか?

小見山:Montrealのことで言うと、このdomeの案になる前はまったく違う(『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』178頁のテンセグリティ・トラスによる屋根の図面を示しながら)こういう案を考えていたという……。

サダオ:そう、最初のideaはそういう大きいoctet trussをつくったらどうかっていうような、そしてその下にDymaxion Air Ocean Mapがあって、それがmainframeの大きいcomputerにつながって、いろんな、World Gameという、どういうふうに世界中のものがうまくdistributeしたりplanningができるかっていう。そういうようなgameのようなものをね、したらどうかっていうのがやっぱり、そのときにはもう、ideaとして、まだcomputerとかそういうものが、そこまで発達してなかったんでね。それはやっぱり、大きいtrussもね。Buckyのideaはtensegrity trussといってね。でもtensegrity trussって、まだぜんぜん誰もできてなかったしね。tensegrity trussは、ほんとにできるのかどうかという問題があった。だからUSIAにね、それはだめだって言われた。そしたら、こっちの方にしましょうっていってね。

小見山:このideaは、でもどこかまた別の場面でよみがえってきて、やったりとかっていうのはその後あったんですか。他の場面でまたこれをやってみようと思ったりとか。

サダオ:No、それだけでしたね。あ、ちょっと待って。いや、そう、そこだけでした、それは。だから、今度は丹下さんが万博で。

辻:そっくりですよね。

サダオ:そう、ちょっと似てるから、どうかなと思って。

辻:コンピュータに関心を持ったり、コンピュータをプロジェクトの中に取り込もうと思ったのはいつごろのお話ですか。

サダオ:ああ、やっぱりそれはこのMontreal(のプロジェクト)が最初だったね。でも、そのずっと前からBuckyは、コンピュータとみんなの世界の中の、本に書いてるね。『Education Automation』かね(注:Buckminster Fuller, Education Automation: Freeing the Scholar to Return to His Studies, Southern Illinois University Press, 1962)。コンピューターのことを彼はanticipateしてね、自分の考え方にも入れてました。

辻:コンピュータだけではないですけども、同じくメディアに関する発言だとか、文章を書いている人に、Torontoにいたマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)がいますね。

サダオ:そう、マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)とBuckyが仲がよかったです。

辻:はい。Buckyがマクルーハンにはじめて会ったのは1962年のDelos Symposium(デロス・シンポジウム)のようなんですけれど、ショージさん自身はマクルーハンにお会いしたことはありますか。

サダオ:ない、ない。

辻:Buckyがマクルーハンのことをいろいろ話したりということは。

サダオ:そう、名前はよく使って。そうね、Buckyだけじゃなくてもね、いろんなものに出てましたから、マーシャル・マクルーハン。有名なあれがあるね(注:The medium is the message)。

辻: 1965年にVision 65っていうシンポジウムもあって、そのときもBuckyとマクルーハンは一緒だったみたいなんですけど、ショージさんは関係ない。

ショーン:関係ない。関係があったのはCooper Hewittのexhibition。最初に、openingのときに磯崎さんが、それとオーストリアの、なんっていったっけ。

辻:ハンス・ホライン(Hans Hollein)。

サダオ:そう、そうね。あそこでやりましたね。あのときは磯崎さんは「間」っていう題だったかね。

辻:あれ、でもCooper Hewittですよね。

サダオ:そう、Cooper Hewittで「間」っていうもので。

辻:ああ、そうでしたか。「間」展の巡回かもしれないですね(注:ショージ・サダオがここで言及している「間」は、1978年にパリ装飾美術館で開催され、後にクーパー・ヒューイット国立デザイン博物館にも巡回した「日本の時空間 間」展を指す。磯崎新は「マン・トランスフォームズ」展で《エンジェル・ケージ》(1976-77年)を出品)。いつごろのお話ですか、それは。

サダオ:(『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』を指して)ここに(書きました)。それがBuckyと一緒にやった最後のプロジェクトだったね。そう、そのexhibitionね。exhibitionをorganizeしたのは僕のオフィス。

辻:あ、そうなんですか。

サダオ:イサムさんが使ってなかった部屋を中心にして、Buckyがそこでいろんなところから模型とかいろんなものをつくって、そこでわれわれがorganizeして、Cooper Hewittに出したの。1つの部屋ね。1つの部屋にいろんなものを、Buckyのものを入れて。(『Buckminster Fuller and Isamu Noguchi』の212頁に掲載された図版を示しながら)出てますね。Man Transformsっていう題(注:「Man Transforms: Aspects of Design」展、クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館、1976年10月7日~1977年2月7日)。

辻:ちょっと確認します。あとは、このMontrealのプロジェクトはAIA、アメリカ建築家協会からゴールド・メダルをもらったんですよね。どういうセレモニーだったんですか。

サダオ:僕は行かなかったけどBuckyが行きましたね。ゴールド・メダルを、どこだったかね、それは。Buckyが行って、Buckyがもらったの。

小見山:でもショージさんも一緒に受賞されていますよね、そのとき。違いましたっけ。

サダオ:ううん、もらってない。

辻:それはBuckyがもらった。

サダオ:Buckyが。だからそれはR. Buckminster Fuller. Fuller and Sadao Inc. Geometric Inc.っていうthree organization。だけどもBuckyがもらった。

辻:(笑)。なるほど。(今日は)どこまで聞きますかね。

小見山:そうですね。まあきりのいいところだと、Montrealの前後で1回、区切るかんじですかね。正力松太郎さんまで聞いちゃいますか。あと2つか3つぐらいの質問で、長くなっちゃったので。

サダオ:はい。いいですよ。

小見山:さっき(話に出たのは)よみうりランドのdomeとか、読売ジャイアンツのための(屋根付きのスタジアムの計画)。よみうりランドのプロジェクト(東京よみうりカントリークラブのクラブハウス)はやらなかった(関わらなかった)と。

サダオ:やらなかったね。

小見山:でもスタジアム、ベースボール(野球)のスタジアムは、設計はしたけど実現しなかったというお話があって、あとさっき話題に出たタワーの計画。

サダオ:ああ、よみうりランドの(《The Tower of World Man》)。あれもほんとにvisionaryでね。

辻:fantasyかもしれない。

小見山:そういったものを当時、正力さんからどんどん頼まれていたんですか。

サダオ:頼まれてBuckyはそれにやっぱりどんどん、どんどんincludeするからね。どんどんどんどん、そういう話が。

小見山:では頻繁にBuckyも日本に、正力さんと打ち合わせをするときは日本にいらっしゃってたんですか。

サダオ:そう、日本で柴田さんに会いました。

小見山:じゃ、お2人でアメリカから日本に来て、うちあわせっていう……。

サダオ:そう、僕もまた、一緒に来たことがありましたね。

辻:柴田さんって下のお名前、ファーストネームは?

サダオ:ヒデタロウ(注:ヒデトシの誤り)。

辻:この人は読売の(読売新聞社や日本テレビ放送網と関連する)方ですかね。

サダオ:読売の、そう。なにかeditorialの書いてたらしいね。彼はゴルフを日本に紹介したというかね。アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower)ともあの時代にやってたって、ゴルフを。

辻:ああ、それは、外交ですよね。

サダオ:そう、外交(注:柴田秀利「原子力外交の展開」『戦後マスコミ回遊記』(中央公論社、1985年、380頁)にバックミンスター・フラーに関する記載がある)。

小見山:そうやってうちあわせで日本にいらっしゃったときに、正力さんから紹介されてまた別の人に会ったりとか、そういうことってあったんですか。(それとも)そのうちあわせのためだけに日本にいらっしゃってたんですか。正力さんとうちあわせで日本に来たときに、正力さんから紹介されて、また別の日本人のクライアントと会ったりっていうのは。

サダオ:No、それは柴田さんだけね。柴田さんが責任を持って、正力さんのかわりに彼がいろいろ、こう。それ以外には日本でのプロジェクトっていうのは当時、別にあったわけではない。よみうりランドになりましたけどもね。他に何か柴田さんが、あのときにね、事務所を開いてもっと仕事しませんかって。そのときに僕はそういうambition(野心)がなかったので。そのときはね。そのときに「やります」って言ってたら、いろんなところから仕事が読売の関係で入ってきたかもしれないけれども、あのときには(自分の)事務所がないしね。まだ経験がなかったし、そういうように急に仕事を頼まれても自信がなかったっていうかね。だから「ありがとう、でも」と電話で。

辻:日本で仕事をしたいとも、そのときは思ってなかった。

サダオ:別にね。

辻:(仕事をする)いろいろな場所のひとつとして。

サダオ:日本の文化のことも、あんまりよく知らなかったしね。

辻:当時、そういうプロジェクトと前後して、大阪のExpoがあったと思うんですけども、大阪のExpoには行きましたか、ショージさんは。

サダオ:大阪のExpoはそのときはイサムさんの関係で。Buckyのものはなかったから。イサムさんは噴水。だからそのイサムさんの噴水のことで、いろんなポンプの実験ね。そういうことを一緒に見に行ったりね。荏原ね、ポンプは。

辻:そうか。ではだいたい1970年ぐらいまでお聞きできたので、次はまた、1970年以降のお話を伺わせていただこうと思います。長いお時間をありがとうございました。

サダオ:はい、いや、でも、おもしろかった。