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鈴木昭男オーラル・ヒストリー 2009年 3月22日

カフェkanabun(京丹後市網野町)にて
インタヴュアー : 牧口千夏、奥村一郎
書き起こし : はが美智子
公開日:2014年12月31日
 
鈴木昭男(すずき あきお 1941年~)
サウンド・アーティスト
平壌生まれ。1970年代に創作楽器「ANALAPOS」を発表し、フェスティバル・ドートンヌ・パリなど国際的に活動を開始。「サウンド・アート」の先駆的存在として現在も世界各地で音を用いたパフォーマンスや展示を行う。主な展覧会にザッキン美術館(パリ)での個展(2004年)、「ガーデンズ」(豊田市美術館、2006年)、「ノイズレス:鈴木昭男+ロルフ・ユリウス」展(京都国立近代美術館、2007年)など。今回の聴き取りでは、幼少期の家族との思い出、青年時代を過ごした東京での音楽や美術、映画などジャンルを越えた交流についてお話しいただいた。インタヴュアーは2005年に和歌山県立近代美術館で開催された個展「点音in 和歌山」を担当した奥村一郎が担当した。

牧口 : 2009年 3月22日、午後2時、鈴木昭男インタビュー。では、よろしくお願いします。

奥村 : 生い立ちから現在の活動までを、色々細かく聞いていこうかなと思います。そして、それを残していこうということです。

鈴木 : 残すんですか。

奥村 : はい、記録として。

鈴木 : あることないこと(笑)。

奥村 : あることをね。

鈴木 : あることあること。

奥村 : はい (笑)。鈴木さんの頭の中の記憶でしかないこともあると思いますので、そういったことを記録として残していこうという事をやっています。最初、まず本当に生い立ちからお聞きするんですけれども。1941年生まれ・・・

鈴木 : 確かに。

奥村 : 旧の平壌〔ピョンヤンと発音〕でお生まれになったという事なんですけれど、それから終戦後にこちらの方に引き揚げた。で、愛知県の小牧で幼少の頃を過ごされたそうですが、その時のご家族とどのような生活だったとか、その辺りのことをまず・・・。

鈴木 : 生まれは今の北朝鮮。平安南道県の平壌〔ヘイジョウと発音〕で、聞くところによると金正日(キム・ジョンイル)が住んでるという丘の上で、旧陸軍官舎のあった一等地。父が職業軍人だったので、そこで生まれました。今は行くことが出来ない所で残念なんですけれど。僕の生まれ故郷なんですがねぇ・・・。両親共に愛知県の尾張人ですが、母が姑(父方の祖母)と折り合いが良くなくて滋賀県の近江八幡の近くの武佐(むさ)にあった別荘と行き来をしてたから、終戦になる前は何度となく関釜連絡船に乗っては旅をさせられた。だから「昭坊は、額(ひてゃぁ)が広いで・・・」って、叔父にからかわれていたね(笑)。

奥村 : お父さんは、お仕事の都合で平壌で働いていたんですね。

鈴木 : そうですね。父が軍人だったのは、子供心になぜか恥ずかしく思っていました。陸軍の航空部隊だったようです。戦後は職業につけない身分だったらしいし、武人としての人生が終ったとも洩らしていましたね。海外でも「あなたの父親は " KAMIKAZE "?」なんて聞かれ「お父さんの写真を下さい!」って言われたこともある。こんなのは余談ですけれど。

奥村 : 生まれて直ぐに日本に帰られた?

鈴木 : いや、終戦後ですね。親に連れられての旅が多かったお陰か、物心がついたのが早くって終戦になるまでのこともよく覚えてる。北朝鮮の北東の端、ロシアとの国境近くの「会寧」(カイネイ)で終戦を迎えたらしくって、一家は散り散りになり僕独りで本国に帰還したんですよ。上陸後、どんなにして武佐村に帰れたのかが解らないのです。今は丹後に住んでいるため、東舞鶴にある引揚記念館だったか(註:舞鶴引揚記念館、1988年設立)を訪ねたことがあったんですが、名簿には僕は載ってなかったんですよ。どこかに上陸したのでしょうね。そして、どこをどう通ったんだか、戦災地の広島あたりを通過して被爆してたりして ・・・。

奥村 : うーん。

鈴木 : 「とくじゅ丸」という船の名前だったかな・・・。パニックの時代のことで調べようが無いの。とにかく帰国出来たんですね。僕は小さい頃から住所が言えたんですよ、今も言えるけど。「滋賀県武佐村長光寺」とか。周りの人が助けてくれてね。小学校の時、飼っていたセキセイインコに「こまきしにしまちなかみやまえいちはちになな」なんて鳴かせてたら、ある日、脱走した「ピーコ」が裏長屋のおばちゃんに保護されて帰って来たことがあった。何だか面白いでしょう(笑)。そして、村の小野おばちゃん(註:染織家・志村ふくみの母)や、南部おばちゃんに助けられて暮らすうちに、母と妹が帰って来て、もう当然、どっかでどうかなっちゃってると思ってたのだろうから僕を見て卒倒した、お袋が。相当のことだったと思うんですよ。

牧口 : 終戦後のこと ?

鈴木 : ええ。

牧口 : 1945年ですか、それとも・・・。

鈴木 : その頃のこと・・・。

牧口 : おいくつだったかは覚えて・・・。

鈴木 : 4歳半ばだったんかな。父が復員して、武佐の家を引き払うことになって、愛知県小牧の母方の実家に引っ越したのです。石炭トラックに乗って、途中岐阜県の大垣で、民家の軒に吊られていた干し柿をお土産にわけてもらっていたのも覚えてる。そんな頃、突然父がバイオリンを僕に持たせてレッスンを始めたのね。初っぱなから音階を逆に弾かせたりして厳しい教え方だった。で、その晩かな、家出をしたの。近所に建築中の家の床の間の地袋に隠れて。「昭坊やーぃ!」と辺りが「ドンドンジャンジャン」と騒がしかった。朝になって、お腹が空いて裏木戸から覗いたところを幼い妹に見つかって、父母に引き入れられて叱られると思いきや、ハレものに触るように神妙で気持ち悪かった。以来妹が習い事の犠牲になってたな。

奥村 : お父さんは音楽好きで、バイオリンもなされて・・・

鈴木 : 陸軍の工科学校らしかった。学生の頃に発破の装置を発明してたらしくて、天皇陛下からもご褒美をいただいてずっと大事にしてた。もう額に入ってたような感じ。ジョン・ケージ(1912-1992)の父親も発明家だったと聞いて気を良くしてるんですけれどね(笑)。経緯は聞きそびれたけれど富山音楽学校の恩師の時計も見せてくれたことがあって、音楽家にもなりたかったらしいんだけど。母の琴と尺八でよく合奏もしてたし、町に生田流の宮城道雄さん(作曲家・箏曲家1894-1956)を、「お琴の会」に呼ぶ役をしたり、皆の琴の調律をしたり譜面を洋楽に編曲してギターを弾いたりと、僕には出来ないことをしてたなぁ。それから、生まれたての僕を跨いで音感をよくするといって様々な楽器を奏でてくれたらしい。でも親の思うようには行かないものですよね(笑)。この辺のことは、愛知の三岸節子記念美術館の展覧会(注:鈴木昭男展「点気 (ki-date)」/会期:2008年7月12日-8月17日)の折りに書いたかな(『こと問いの道』私家版)。

奥村 : そうでしたね。

鈴木 : 小学2年の時、僕を残して家族が名古屋に出かけた日、家にあった楽器を全部並べて「ドンチャン」一人で遊び始めたんですよ。突然予定が変わって帰って来た時は小っ酷く叱られた。褒めてくれてたら音楽好きになってたかも知れないけど(笑)。

奥村 : たくさん楽器があったんですか?

鈴木 : そう、いろいろとあった。

奥村 : 昭男さんは、お父さんに音楽をしつけられそうになって反発を・・。

鈴木: いや、それとね。5年生の時にすごく傷ついたことがあって。音楽が専門の女性の担任だった時、それまで成績の良かった音楽が通知表を見ると2になってた。それはもうショックでさ。その後、わかったんだけれど、僕の母が父兄会長をしてたことでとても媚びる先生でね。人違いで、鈴木進くんと採点を間違えちゃったの。それ以来、彼の学力はぐんぐん上昇。

奥村 : 進くんは、5だった。

鈴木 : どういう間違いをしているのか解らない先生だった。何かを見たような、嫌な思い出。

奥村 : 大人の世界。

鈴木 : そう。ずっと後になってその先生「あなただったのね !」だって。変な傷つき方で音楽も嫌いになっちゃって。

奥村 : なるほど(笑)。

鈴木 : 先生だった人の名前も忘れたけれど(笑)。

奥村 : 他の科目は何が好きだったんですか。

鈴木 : 絵を描くのが好きだった。小学3年の時、焼き芋をしてて火鉢を抱えた母が居眠りしてるのを克明に鉛筆デッサンをしたんだけれど、友達はでくの坊しか描けない時期に、ものすごいデッサン力ですよ。大きな黒い文箱にお免状類と共にずっと大切にしてたけれど、何年か前に家ごと廃棄されてしまって、今思うと残念なんです。小学校の頃に「何になりたい?」って聞かれたりするじゃない。僕は図面書いたりするのが好きでね、6年生の夏休み工作で、今で言うアーバン・デザインをリヤカーで運んだんですよ。一学期に映画「原爆の子」(1952)(新藤兼人監督 1912- )を観てショックで、街を守るシェルターのようなものを作りたいと思って。その頃子どもが考えられるだけの、学校や病院の施設だとかを含む街の模型を作って、竹ひごで球体構造を組み立てて、当時出現したばかりの透明ビニールシートを張って。都市空間を害から守る発想だった。何の影響でもなく。随分後になってバックミンスター・フラー(Buckminster Fuller, 1895-1983)のフラー・ドームなるものを知ったんだけれど。母が「工学博士にでもなるだわ。」と言ったのが耳に残ってね、訳も解らず「建築家」になるなんて言ってた。

奥村 : その後、建築の道に向かうことになるんだと思うんですけど。

鈴木 : そうねえ。高校の時に多摩美(術大学)出身の先生とよく話し込んだりしているうちに、あの難関の東京藝大の建築学科を目指すことになったもんだから・・・。

奥村 : その時は美術とか音楽ではなくて、建築を目指されてたんですか。

鈴木 : ううん・・・絵画も彫刻も好きでもやもやしてたな。小牧高校2年の時に友人に誘われて駅前にあった「甘い屋」という店で懸賞金2500円というのに挑戦させられた。僕の甘いもの好きを知ってのことでね。大皿に「おだまき」という名の太巻き状のどら焼きが6本俵積みしたやつね。ギブアップしたら彼らがその分を支払うからという約束だった。ところがペロリとたいらげてしまったのね。そこで僕は寝返って皆のお小遣いになるところの賞金を独り獲得して、学割を使って東京に行ったことがあるんです。東海道線で2500円で往復出来た時代だった。当時『美術手帖』の付録ページに載っていた銀座辺りの画廊巡りや、東京藝大を見学に行って。美術部の先生の友人が日本画科にいて、吉祥寺の下宿に泊めてもらって。描き溜めたデッサンなどを学生食堂で開くと「こんなの描けないなぁ」と褒めてくれる人がいて・・・「どうだ」なんて思ったりしてさ、気負ってた(笑)。

奥村 : 藝大の日本画の先生のところに行って、その後・・・。

鈴木 : 建築学科を受験したんだけれど惨憺たるものでね。実は、僕にはトラウマなるものがあって。幼児期に年の離れた兄の英才教育にあって。「こんなことが解らないのか!」って、鉛筆が手から吹っ飛ぶ日々を送ったことから、試験となると指先がワナワナになってコントロールが効かなくなってね。結果は失敗だった。後にそこの学生と友達になった時、腹いせに建築学科の新築中の校舎の屋上からジャーってやった。かれらを巻き添えにしてね。時間差で、下から着音がしたのを覚えてる。仕返ししたんだ。あれで、随分・・・。

牧口 : 気持ちが楽になって(笑)。

奥村 : で、藝大受験は諦められて・・・。

鈴木 : そうした浪人中に、父が小牧市助役をしていた時で、縁あって名古屋の篠田川口建築事務所に身を置くことが出来た。社長の篠田進さんは数寄屋の権威でもあった。今の御園座(註:1963年9月に再建)もそこの設計なんですね。たった一年間のことだったけれど面白い体験をいっぱいしました。でもそれは飛ばしても・・・?

奥村 : いやいや、そこは一年間で ?

鈴木 : 社内旅行で、暮れには恒例の「祇園遊び」もしたんですよ。

奥村 : そうなんですか。

鈴木 : 暮れになると、京都に繰り出して「茶屋遊び」をする会社。風流でしょう。僕にも芸妓さんがついて、一晩楽しまなくてはならない。たまたま絵師の芸妓さんだったので、意気投合して楽しく話すうちに夜が明けてしまった(笑)。・・・とかね。会社には、趣味の倶楽部まであって週に一度、六車という師匠から能の謡(うたい)も習うことが出来たり。でも、またも浪人生活に入った時、建築家の牛山勉さん(1935-2002)との出会いがあった。名古屋の中心にオリエンタル中村百貨店というのがあり、その横の「プランタン」という喫茶店の上階に、よく足を運んだ「桜画廊」があって、共存した形で名古屋工業大学を出て独立されてた牛山勉さん(1935-2002)の「牛山設計研究室」があったのね。

奥村 : 画廊の中に・・・。

鈴木 : オーナーの藤田八栄子さん(1910-1993)に紹介され、一目見て惚れ込んじゃったんですよ。尊敬しちゃったんです、顔付きから、態度から、やってる事みたいなのも。よくそこへ出入りしているうちに一番弟子にしていただいたんですね。同時に桜のオバチャン(と呼んでいた)のお手伝いもよくしてた。作家の個展の飾り付けや、時にコレクターのところへお供したり、展覧会の看板を描き替えたり。難波田龍起さん(1905-1997)の展覧会の手伝いをした時は、お礼に石版画を頂いてしまった。画集を見ると最初のもののようだった。今、その宝物は妹にあげちゃったんだけどね。画廊ではニューヨークに渡る前の荒川修作さん(1936-2010)や、ゼロ次元の展覧会など時代を感じることが出来た。

奥村 : 沢山見られているんですね。桜画廊で。

鈴木 : そこで、いろんな作家を知ったり文化に触れたり・・・。

牧口 : 何年頃でしょう。

鈴木 : 昭和30何年だったか。高校を卒業した後に伊勢湾台風があったからぁ・・。

牧口 : 1960年代の始め頃・・。

鈴木 : うん。

牧口 : 牛山設計研究室には・・。

鈴木 : そこも、一年とちょっとで。上京したのが昭和40年だったことは、しっかり覚えています。興信所のようですね(笑)。

奥村 : その頃、通われてたんですか? 小牧から名古屋までを。

鈴木 : 電車とバス通勤。

奥村 : 篠田川口建築事務所を辞められて、次に牛山勉さんのところに1年くらいおられて、上京されるのが昭和40年。

鈴木 : (奥村の質問リストを覗き込んで) こんな話忘れてた。荻原守衛(1879-1910)。これすごいよね。

奥村 : ちょっと戻りましたね。これは小学生の頃のことですか ?

鈴木 : いや、中学生の頃。小牧山の中腹に徳川家から寄贈された茶室のようなのがあったんですよ。その待ち合いの壁にいたずらをしたことね。小牧山は僕の遊び場だったんで山頂付近には、古代のストーンサークルがあったことまで探ってた。そんなの誰も知らなかっただろうな。後に架空の城が造られて、どうかなってしまったのかも・・。その頃、図書室で画集を見て感動した荻原守衛の有名な作品《女》(1910)があって、ロダンの影響で制作したといわれる後ろ手の女が、こう立ち膝してるブロンズ像ね。何故かそれに惹かれてね、その印象をその壁いっぱいにコンテで描いちゃったの。

奥村 : 落書きを。

鈴木 : 重要文化財の建物に、何の罪の意識も無く。そして間があって行ってみると、その壁が塗り直されてた。社会的には「誰だ」という感じだけど、僕は憤慨してたわけですよ。今は時効でしょうね。最近、その彫刻と出会えたんだった。長野県の豊科でワークショップをした折りに以倉新さんのお陰で・・・。

牧口 : 学芸員の。

鈴木 : 今は、静岡(静岡市美術館)なのかな。当時そこの学芸員でイベント担当をなさってた。

牧口 : 豊科の近代美術館(安曇野市豊科近代美術館)。

鈴木 : 彼が近くの碌山美術館に案内してくれたのね。で、憧れの彫刻に出会えたわけ。荻原守衛が、好きだった友人の奥さんをモデルにしたという、その情熱が中学生だった僕に感動を起こさせてたのが判明したんです。

奥村 : あと、木曽川の上流の・・・。

鈴木 : これは大したことないけどね。ボートに乗って岸辺の岩つたいに水位すれすれに白ペンキを塗ったことかな。シーズンが変わるとどのような見え方になるのか確かめたい一心で。いたずら小僧でしたね。

奥村 : 1965年、昭和40年に上京されることになるんですけれど、その前の名古屋時代には・・・。

鈴木 : ジョン・ケージの載ってる『藝術新潮』(1962年 11月号)を見たのね。それは、古本屋で買ったもので今も書棚に持ってる。

牧口 : 昭和37年ですね。

鈴木 : うん。あれが相当のショックだったんですよね、なぜか。ジョン・ケージっていう人がどういう人か知らなかったわけだけど、なんか僕をくすぐったところがあって。もう東京に出なきゃいけないって思ったの。以来、上京の機会を温めてもいたのね。それで牛山さんのところを出てからは、一切名古屋には立ち寄ったりはしなかった。

奥村 : 相当にインパクトがあったんですか、その記事。(註:対談 ジョン・ケージ/鈴木大拙(1870-1966)「前衛音楽の発想と展開」/訳と編集は一柳慧)

鈴木 : 影響されたっていうよりも、ジョン・ケージという人の存在みたいなものに、なんか惹かれるものがあって、建築なんかやってられないなっていうように感じた(笑)。たまたまそれと同時に、「階段に物を投げる」っていう行為をやっちゃった時だったから。

牧口 : その「階段に物を投げる」っていうイベントというか行為を思いついたきっかけは?

鈴木 : これは何度も聞かれることで・・。

牧口 : そうですけど (笑)。

鈴木 : 牛山さんのところでは、住宅コンペティションで佳作をとったり、京都の国際会議場のための模型作りをしたり。それは、僕の作業の遅れで出品出来なかった。名古屋の傘の会社の社長宅の設計に携わったり、傘のプリントのデザインまでしてた。暇な作業のなかで、「これやっときな」って渡されたトレースの仕事があって、図面の「階段の部分なら昭男くんでも出来るだろう」とかいって。T定規と三角定規での作業中に、その平面図が音楽楽譜の小節線に感じたのね。「シュッシュッ」っとやって数字書いたりしているうちに、「トントン」という感じがきて。「あっ、そうだ」と思ってさ。日本は狭い国だし、階段利用も面白い――小学校の時にも自分の家を設計したことがあったのね。それで階段を屋根にもしてしまうとか思ったのね。安藤忠雄さん(1941- )がどこかで実現してそうだけれど。そういえば暑い盛りに息も絶え絶えに登る階段だとか、苦労もなく上がってしまえた階段は、踏み面と蹴り面の程よいバランスがあるんじゃないかなと思って。疲れない階段というのを研究しようかなと思って。何かを転がしてみたいような衝動がやってきちゃって。頭の中ではそれが現代音楽のようにすごい曲になってるわけですよ。「カランコロンピピンポーン」っていうようなリズムで。すごい音楽になっててね。普通だったらそんなの想像だけでいいのにね、確かめなきゃおれなくなっちゃって、自分で追い詰めていくわけですよ。そうして観念が肥大して。ついに物を集め始めてね。たまたま大きなバケツがあったんですよ、家になぜか。それにいっぱい考えられる限りの音のしそうなガラクタ(空き缶やぴんぽん玉など)を満載して、まずは実験をと、名古屋の街をさまよったんですね(笑)。名古屋ってまだ、空襲に遭って建物の妻壁があちこち廃墟のように建ってるような復興の時代で、本当にがらんとして歩道橋もないでしょ、だから階段探すの大変だったね。ちょっと試すにもね。そこで見付けたのが名古屋駅の中央線のプラットホームに至る大きな階段だった。で、入場券で改札を抜けてそこに上がってみたところ、それまでの過程では思いもよらなかった現実に目覚めたんですね。そこは人の上り下りする公共の場だった。その当時は「読売アンデパンダン展」だとか色々激動期だったんで、そういう気分っていうのかな、社会的な芸術…そういうのも頭にあったから、実際に階段の上に立った時はちょっと気負いもあった、実はね。そういう時代だったんで「これは僕もハプニングの仲間入りするところかな」という感じがあって、してしまったんだけど。そうじゃなかったら、「これやっちゃ恥ずかしい」っていう気持ちもあったんですよ。階段に上がったところで我に返ったわけでね、「止めちゃおうかな」って葛藤があった……。だけどそういう機運があったために行動に移っちゃった。時代に仲間入り。でも無届でやるから何の話題にもならなかったわけね。「ワー」と思い切り出来なくてね。で、遠慮勝ちにやったらさ、まだ(階段の下まで転がらずに)中に残ってるのもあって、「ガランポシャーン」って、頭に描いてた素晴らしいリズムとの落差がひどかって。「しまった!」ってね。同時に「なにやっとりゃーす!」って居合わせた人たちがバケツに物を戻してくれちゃった。そこで、こんどは思いっ切り階段下まで転がるようにとバケツを構えた時、鉄道公安員に後ろから忠臣蔵の浅野内匠頭みたいに羽交い締めにされて、窓の無い部屋で取り調べになって・・。当時、何かと反発していた父の名前や職業まで記入させられる始末。いくら建築の研究云々と言っても耳をかしてもらえなくて、母が呼び出されて無罪放免。後になって取り合ってもらえなかったのは、公安員の親心だったことが解ったけれど、かっかと来ていて駅長宛に長々と手紙まで書いた。それからあらゆることが平気になった(笑)。

奥村 : その時が最初だった。

鈴木 : 最初?

奥村 : その、パフォーマンスというか、行為することが初めて?

鈴木 : ええ、駅のプラットホームが初舞台になった。ゼロ次元というグループが桜画廊でしてたのも垣間みていますね。リトグラフの刷り物を貼り巡らせた中で、裸で木魚を叩いてお茶会らしき儀式をしてた。彼らは東京に進出していったのかな。よっさんから石版刷りのロールを分けてもらったことがあった。

奥村 : よっさんとは、加藤好弘さん(1936- )?

鈴木 : ああいうグループ活動あんまり好きじゃないんですよ。だから僕見て見ぬ振りして関わらなかった。

奥村 : 名古屋駅の時も完全にお独りだけの・・。

鈴木 : 「自修イベント」のとっかかりになった。

奥村 : 何年の何月頃でしょう。

鈴木 : 1963年前後。その後10年間は経ったのでしょうか、美術出版社の雑誌『デザイン』が閉版を迎える号に依頼があった時、「シネマトグラフ・ド ・ポッシュ(パラパラ漫画)」として原稿を整える際、「階段に物を投げる」を思い出して、港区の役所の階段を勝手に使って再演し撮影したり。七さん(鈴木七恵 画家1947- )と結婚してた時代が73年から3年半くらいだったんだけど、その間にね。七さんにパラパラ漫画を作れるくらい沢山写真を撮ってもらってね。荻窪にあった新星堂(注:EXハウス(新星堂荻窪本店地階)での「鈴木昭男個展」、日時:1977年9月26、27、28日)での発表のために、アングラ系映像作家の第五精神外科さんにも代々木の競技場の階段で撮ってもらって、その新星堂での音楽会で二つ繋げた大きなスクリーンでそのフィルムを写して、僕が演奏したりした。その時のことを湯浅譲二さん(作曲家 1929- )が、『音楽芸術』(音楽の友社)に書いて下さったことが、とても励みになってる。その音楽会のシリーズでは坂本龍一さん(作曲家1952- )も登場してた。随分後になってから初期の活動(自然の中でのイベント)の記憶が蘇ったんですね。僕の中では問題にしてなかったのに、実はやってたっていうのを思い出した。「自修イベント」という名前も、当時から付けてたわけでもなかって、「小川を訪ねる」とか「エコーポイントを探る」「なげかけ と たどり」などは非公開イベントの積み重ねの中から生まれて行った、だから60年代すでに始めてたんです。

奥村 : 「階段に物を投げる」から、いわゆる「自修イベント」を始められて・・。

鈴木 : そうです。

奥村 : それら(の行為)を、後から(再演して)写真にして・・・。

鈴木 : そうそう。これも『トランソニック』という、音楽の友社の季刊誌があったけど。編集責任者だった高橋悠治さん(1938- )が、高輪の泉岳寺にあった僕のスタジオにやって来て、執筆の依頼を受けたものだから。過去にやった「自修イベント」の「エコーポイントを探る」をよりどころにして原稿にしたんです。埼玉県の「吉見の百穴」という古墳群洞窟に無断で侵入して音遊びして、撮影も自分でしたんですよ。(『トランソニック』10 夏号「レポート・1976・3・18」鈴木昭男 1976)

奥村 : セルフシャッターで。

鈴木 : ええ、偶然だけれど上手く撮れた。この時は風切りの道具を作って行って、洞窟内での反響を聴くものだった。

奥村 : ふむふむ。

鈴木 : この資料(「鈴木昭男・音の展覧会」カタログ/場所:サプリメント・ギャラリー、会期:1981年12月1日-19日)は、現在音信不通にしてるけれど、原宿にあった岡崎球子さんの「サプリメント・ギャラリー」での個展の時のものですね。'80年代の始めころニューヨークから帰った時、僕の個展を開催して下さった恩人なんですが。その後、間があってから電話があって「岡崎和郎(1930- )と離婚したの!」って。僕お応えに「僕も結婚しました!」って。それからまた連絡が絶えてしまった。色気のある方だった。(註:鈴木は舞踊家の和田淳子(1955-)と再婚)

牧口 : (記録が)残りますから(笑)。

鈴木 : わあ、そうなんですか(笑)。でも、それとなくここで話すことが出来て・・。球子さんは恩人です。「日向ぼっこの空間」を目論んでいた頃には、新幹線で常滑焼きの工房まで一緒してくれて方法を探ってくれたり。

奥村 : 岡崎さんが?

鈴木 :ええ。でも、そのプロジェクトの終了後も「やり遂げました」って言えない人になっちゃって、不義理が続いてて。今となっては死ぬまでに「ありがとうございました」って手紙出さなきゃと思ってる。これだけ生きて来ると、そうした人たちが間々あって。

奥村 : 他にもいろいろな・・・(笑)。

鈴木 : 恩人はいっぱいいます。人生、至らないこと多し(笑)。

奥村 : そしたら戻って、「階段に物を投げる」のイベントなんですけど、年だけもう一度・・・。このサプリメント・ギャラリーのカタログでは1960年となってる。

鈴木 : 時々いい加減なところありで。

奥村 : こちら(註:カタログ Akio Suzuki “A”: Sound Works, throwing and following. Stadtgalerie Saarbrucken, 1998)では 1963年です。

鈴木 : 実は僕もうろ覚えのところがあって、それ(Akio Suzuki “A”)の方が頭を使って検証したのかもしれない。さっき話した階段図面のトレースのことは、篠田川口建築事務所の頃だったりしたら 1962年だったのかも。こんな早くじゃなかった。'60年代のつもりとして印刷したのかも、これ(サプリメント・ギャラリーのカタログ)は。

奥村 : なるほど、わかりました。

鈴木 : だろうと思います。当時これを岡崎さんが写植で作ってくれたんだった。20万円もしたそうです。かなり情熱をかけてね。

奥村 : これ、すごく良く出来ていますね、本当に。

牧口 : 本当に、一つ一つの展覧会の記録がとても充実している。熱心に取り組んで下さった。

奥村 : 愛情こもってますよ(笑)。

奥村 : 名古屋時代、上京される前に自修イベントを既にやってられたんですね。

鈴木 : はい。

奥村 : その内容や、上京する辺りのことをもう少しお聞きしたいです。

鈴木 : この自修イベントで、勝手に浪人時代遊べてたからね。愛知県にいた時はあちこち、日本ライン方面、瀬戸の陶土採掘場や、岡崎の石切り場へも足をのばしてね、いろいろしてた。日差しを浴びながら、あるアイデアが浮かぶとワクワク感が募ってね。それまでは一途に建築のとこに通ったりするくらいだったから、石切り場の跡だとか陶土の採掘場跡なんかは、自然の中だけでなく人工的空間としての面白さを感じたし。木曽川の上流では、繋いであったボートに勝手に乗り込んで。さっき話した「水位にラインを引く」行為も、今の水位がどう面白くうつるかなっていう。一度家に帰って白いペンキを買い求めてまた戻って来て。岩や河原、砂地があって、水面と接してる所の1㎝くらい上の所を平筆で、ダーッと線を書いてた。まあ、誰も来ないところだからね(笑)。警官が来たら「何、この白いの」とかいうくらいに、延々300メートル以上。

奥村 : 結構やってる(笑)。

鈴木 : 渦巻く淵があったりで、泳げないので必死だったんですよ。一ヶ月後くらいに訪ねてみたら、冬には氷に覆われていたり、夏には水面下でかすれた白線がピロピロ~~って揺れて見えたり、それはそれは風流な遊びだった。

牧口 : それは誰かに見せたりということは・・していない。

鈴木 : いや、一人。当時カメラ持ってないからね、僕。

奥村 : 全然撮ってないんですね、じゃあ。

鈴木 : そう。ペンタックス・カメラを建築現場を記録するために持ってたけれど。全部手描きで、スケッチは溜まってた。でも二度目の結婚生活で、それらをビニールに包んでベランタに放置してたために全てが重い塊になってしまい、泣き泣き捨てたんです。「エコーポイントを探る」のメモなどは、絵にも未練があったりした頃だから、抽象的な絵を書いてたんだけど、僕の理由ではダイレクトなものは描きたくなくって、ちょっとプロセスを追ったものを。空間に石を打ったりした反響音の焦点を紙の上に記して出来る図形とか、あるプロセスを通して描くといういろんな試みをしてた。生々しい描線よりも、例えば、紙の上に投影した影のエッジをなぞって出来たものを味わうことの方がね、何か面白かったんですよ。そうした図形遊びのようなのをやってた。

奥村:当時から石?

鈴木 : たまたま落ちてたのを拾って使ったのが石っころだった。今も石を叩くけれど、得意科目になってる。50年も叩いてるから。

牧口 : 以前、美術館(京都国立近代美術館)に来られた時に、コンコンって石で響きを確認されてたのも・・・。( 注:“ノイズレス” 鈴木昭男+ロルフ・ユリウス展 (2007) の下見の時 )

鈴木 : パフォーマーとしてのスタイルになってたり(笑)。自修イベントでは、自分のこととして聴くことをしてるから真剣に空間把握をしてますね。観客がいるわけじゃないから、自分で納得がいくまで返ってくる音を聴く場所を探ったりしてるから、かなり違うんですけれど。

牧口 : 音の響きを聴き分けられるようになるっていうのは・・。

鈴木 : 自然に訓練をしてきたんかな。自修イベントの「小川を訪ねる」っていうのも一つの例で。音楽の父「バッハ」が小川さんという苗字なので「音の原風景を訪ねる」というような意味になるっていうこと。護岸工事で里山っていうのが無くなるのを今みんな話題にしてるけど、もう憂うる気持ちもあったしね。小さい頃よく道草で遊んだだけに、その原風景が僕には大切になってた。1995年に京都の三条白川に施した「メイク・アップ」というサウンド・プロジェクトなんかは、若い頃、棒切れを小川の流れに差し入れて、(音の変化を)聴いていたことを、「公共の場」に呈示したものでね。一本の棒切れを、一本の鉄筋による2メートル直径の螺旋に置き換えるっていう発想でね。幾つもの橋をくぐって500メートル間、それを流れに敷き延べたんだけど。あれも「自修イベント」のおかげ。

奥村 : 当時、美術とか芸術のことをお話できる友人なんかはいらっしゃったんですか ?

鈴木 : 孤独でしたね。あ!この前の一宮市の美術館(鈴木昭男展「点気 (ki-date)」の時)に、高校時代の美術部にいた同窓生がアンケートに名前を書いて行ってくれたのはいいけれど、「感想欄」に「普通」って書き残してた(笑)。アカデミックな絵描いてた奴だったから、今も反発してるんだなとがっかり。美術部では僕一人が残ったいきさつがあって、部長兼部員だったんですよ。

奥村 : そうだったんですか。

鈴木 : 下級生は慕ってくれてたので、名古屋でのコンクールに一緒したりして賞をもらってたな。

奥村 : 同輩には厳しかったんですね(笑)。

牧口 : 長年の、因縁があるんですね(笑)。

鈴木 : こんな顔してて、かなり過激だった。美術室に皆イーゼルをそのままにして帰るじゃない。居残ってさ、だめなのを描きかえちゃったり、今だったら問題になるよね、許してもらえないようなことしてた。

奥村 : ひどいことやってますね(笑)。自修イベントの「エコー・ポイントを探る」は? 洞窟などは行ってないんですか名古屋時代は ?

鈴木 : 近くでは、瀬戸や多治見の陶土採掘場。隧道があちこちにあった。

奥村 : いろんな所に出かけていかれて。

鈴木 : 究極のイタズラもしてるけど、今は時効かな。

奥村 : 多分もう大丈夫ですよ(笑)。もう時効です。

鈴木 : 受験浪人中に建築事務所に身を置いた話をしたけれど、その頃のこと。ある日、勝新太郎(俳優 1931-1997)のような風貌の人が「昔は、お世話になりました!」って、父を尋ねて来てた。その人は戦前、父の当番(世話係)だったようで。その頃、土建業で成功されてたのね。数日後に、とある現場の屋上の配筋の写真を撮らなきゃいけなくて。高所恐怖症の僕は、震えながら足場から一枚の渡し板に乗ろうとした時、工事人夫たちにからかわれていたところ、「鈴木のお坊っちゃま!!」と先日の聞き慣れた声がして、駆け寄ってくれたのが何とその人で、そんな不思議なこともあって「いじめ」から解放されたのね・・・。ん、それで何話そうとしてたんだっけ。

奥村 : (笑) イタズラの、時効になったっていう。

鈴木 : ああ、その加藤さんだ。彼がダイナマイトを扱えたんだった。その頃「エコーポイントを探る」っていうのがエスカレートしたっていうかな。父が「花紋石」に凝っててね、毎日磨いては床の間に飾ったりしてた。で、僕は九頭竜川の石の出る所のニュースをキャッチしたんで、親父に焚きつけてね「取りに行こうよ」とかいって。実は、僕は谷で発破音のエコーを聴きたかっただけでね。

奥村 : ダイナマイト(笑)。それ大丈夫かなあ。

鈴木 : でも、やっちゃったもんね(笑)。東京に出た時にその辺りの白地図まで手に入れていてね、山系の等高線を読んで、その反射音(山彦)の連鎖エコーの予測図を仕立てていたんです。この辺でやったら面白い反射音が返ってくるっていうのを、大方予想済み。父は何故か操縦が出来たのですよ。

奥村 : 飛行機? ヘリコプター?

鈴木 : その時はね。なんでもできるんですよ(笑)。ヘリコプターでまあ当時飛んでたんですよ。チャーターして。操縦士がいて、加藤さんっていうそのダイナマイト扱える人とで僕は内緒の目論見。親父は石を採りたくて、行くわけです。僕が目星をつけた河原に無断で降りて。早速、苔むした岩盤に穴開けてもらって、僕は所定のポイントに立って、親父は爆破を待つ感じで。僕は時間計って、図面も。それでやったら爆破音が山に反射して、音が複雑に上がっていくんですよ。轟音は山肌を伝って上空に広がって。ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix 1942-1970)の唸りの音のようなエコーを体感出来たんですね。そして、辺りに散らばる古代生物の花紋石が父を喜ばせていた。かなり大きな灰色の岩の断面が、無数の白い花模様に見て取れ美しいものだった、僕も記念にその半透明な破片の一つを持っていたのを、東京で出会った初めての彼女に、それを磨いて勾玉にして贈ったんだけれど、恋は実らなかった。

牧口 : 今から想像できないくらいの過激な時代を・・。

鈴木 : その頃の僕に未発表の作品(?)があるんですよ。それは富士山の火口外輪にぐるり大筒花火を仕掛けてズドーン!!とやりたかった不謹慎な夢。人々が、富士の爆発に驚くという。例の中国人の作家がしそうなアイデア・・・。

牧口 : 蔡國強 (1957- )。

鈴木 : そうね。何ごともエスカレートしていくってのは怖いものがあるね。東京時代、もう一つ富士をテーマにした「富士に触る」ってのがあって。これは、ただ山腹に手を置いて撮影した作品(?)で。「イーハトーブ」という架空出版局の名で、僕の個展で出品の私家版のために、友人作家たちとのページによって構成した合同本の中に登場させたもので。その本は、個展をさせてくれた画廊オーナーにあげてしまった。(「鈴木昭男の側面展」白樺画廊、1980)。

奥村 : (笑) だいぶエスカレートしましたね。

鈴木 : 始めは声、そして石っころ。風を切る竹だったりしたのが。

奥村 : 今伺った以外にも、たぶん色々なことをされてるんですね。この頃は彼女はいなかったんですか 。

鈴木 : 26、7歳までは、酒も飲まなかったし・・。堅物だったから。

奥村 : そうですか (笑)。上京されるにはきっかけがあったんですか ?

鈴木 : 上京して、実は実験工房を主宰されていた瀧口修造さん(1903-1979)にお会いしたかったのと、彼女をつくって後楽園遊園地のジェットコースターの先頭の箱に乗りたかったというのが・・(笑)。でも、どっちも実現しなかったけれど。それと先の花紋石のこととは矛盾するけれど、父とは中廊下ですれ違うにも、どっちが刀抜いて斬りつけるかっていう感じの戦慄が走るほどの緊張感がつのって来てて、ついに家を離れることになった。だから仲の良い親子関係を見ると、すごいなと思って(笑)。といっても独立心が強かったわけではなくてね。お小言を避けたかったのかな。でも東京に出てから父の面白さがよくわかってね。ある時、帰郷すると、父の文机の脇に新聞広告がうず高く積んであった。「見てみるか」と言うから数枚を手にして裏返すと、すべてがヌードデッサンだったのには驚いた。父は畳大の印画紙を作るなどしてヌード写真を趣味にしてた時があったから、裸婦を雇ってこんなに描いたのかと思ったほど。上手なんだよね。父が「わからないか」と言うから「何のことだか・・」とか言ってたら、種明かししてくれたんだけど。さまざまな雑誌類に印刷された女性の衣類を剥いで描くというコンセプチャルな遊びをしていたのね。脱がしちゃって、想像でヌードを描いてるわけ(笑)。その他にも、大振りな数枚の紙に、どれも少しずつ変化のある抽象図形が描かれていて「何だか当ててみろ」と言うのね。ギブアップすると何のことはない、裏の畑の作物の成長記録だった。よく見るとスイカの成長具合などが読み取れて・・。それから、拡大した町の地図を継いで六畳の間ほどにしたロール紙には、家を中心にして日々散歩をした道筋を色線で書き込んであったり。それが自然に面白い絵になってたりね。いろんなことをやってる。遊び心のある父だったね。一度「寮歌祭」とやらで上京し立ち寄ってくれた時、アトリエにピアノがあってさ、音の道を歩んでいるのを知ってホロッとしたところを見たような気がするんですよ。

奥村 : お父さん、面白いですね。

鈴木 : ああ、今になってよく理解出来るようになった。

奥村 : 東京に出て来た時、知り合いとかおられたんですか ? もういきなり出て来て。

鈴木 : いきなりね。みかん箱一つで。下宿が都立松沢病院(精神病院)の前だったから親も安心だったかも。何かあったら収容されるだろうからと。そしてそこは旧男爵邸だった。その洋館は、オーストラリアの要人が住んでたこともあったり映画の撮影にも使われたところで。そこにドラ息子よろしくドラムセットを置いていたことや、その頃、下着をイヴ・クライン(Yves Klein, 1928-1962) の青に染めて、それに千個ほどの金色の鈴を着けたのを着用して都心を闊歩してたこともあり、「シャンシャンマン」が誰かに書かれたことがあったようで・・。

奥村 : 何かに多分書かれてたと思います。

鈴木 : 批評家の高島直之さん(1951- )が、誰かが見たという噂をね。その頃(60年代)、へんてこな格好で帰郷するものだから、妹の婚姻のためにも母が「暗うなってから帰宅してちょうだい」とか「帰って来んでもええ」とまで言ってね。「今その髭を剃ってくれたら、この10万円をあげるから」との膝詰談判にも勝って、東京に舞い戻ると、フジテレビから電報が来ててね。出向いて控え室に通されたところが、全国から集められたという髭男ばかり。急に扉が開かれて眩いステージに押し出され、指定のひな壇に座らされ何かの番組が始まってしまったの。前方にも同じくひな壇があって、当時のポルノ女優たちが陣取ってた。お笑い事が進んで、最後は我々側が彼女たちから品定めされることになり、かっこよかったキリストのような男性と一票差で僕が選ばれて。司会の宮城千賀子さん(1922-1996)に賞状と賞金 10万円をいただいたことありで、やっぱり我が髭の値打ちは 10万円だったと言う話(笑)。そして、友人たちにこのことがばれたために、当時流行ってたボーリングなるものに誘われ、貸し切りで遊んで賞品共で、一夜にしてそれを使ってしまったんだけどね (笑)。

奥村 : (笑)色々なことがあったんですね。

鈴木 : うん、そのまま行くと芸能人になっちゃったかも知れない。

奥村 : でも、上京されてそんなにすぐに友達とか出来ないじゃないですか。どうされてたんですか、作家活動みたいなこともされてたんですか?

鈴木 : 家が東京オリンピックでアベベ・ビキラ(Abebe Bikila 1932-1973)の走った甲州街道沿いだったから、孤独にランニングしてたのと、そこを拠点にあちこち「自修イベント」プランを立てて行ってた。それから生活のためには、近所のデザイン室に身を置いていましたね。そこで初めての彼女が出来て。彼女の女子美術大学当時の先生が片岡球子さん(1905-2008)で、訪ねた時、「私の愛弟子を鈴木さんなんかにあげられません !」なんて怖かったのです。ところがその後、片岡さんとは、愛知県立芸術大学の校舎の妻壁の陶板画の割り振り図面を、お家に泊まり込みで手伝ったりしてましたね。だから僕の方が片岡さんと仲良くなっちゃってね。彼女と別れた時には、逆転して彼女が破門になってしまった。才能が有る人だったから、今も描いているんかなって思う。当時は、彼女と結婚するためにしっかりしなくちゃって、名古屋の時に傘のデザインしたりした経験があったから、フィンランド行きの目標をたてて。アルヴァ・アアルト(Alvar Aalto 1898-1976)の国に、行ってみたいなって研究もしてたの。それでフィンランド語を学ぶために今岡十一郎さん(1888-1972)に師事してたり、そのおかげで民俗楽器の「カンテレ」を知ったり。銀座松屋のグッド・デザイン展にテキスタイル部門で選ばれるなど、音の他にも頑張ってたでしょう。今で言うフリーター時代に東京の商工会館のような所での催事(繊維やインテリア会社)に関わって、僕の作ったバックグラウンド・ミュージックを流したこともあった。

奥村 : それはテープ音楽?初期のころの?

鈴木 : ああ、その頃、まだ無名だったANALAPOS (創作エコー・インスツルメント 1970)の音響を登場させてたんです。

奥村 : フィンランド語とか、デザインの仕事とかをしながら音の仕事も・・・。

鈴木 : 山びこ遊びに興じていた頃だったから、アトリエに散らかったガラクタいじりの中で「物と物」の出会いで生じた音を見逃さなかったのね。で、偶然の発見から一夜にして発想して出来たのがアナラポスなんです。

奥村 : 男爵邸で・・。

鈴木 : ええ。

牧口 : その家は、今どなたが・・。

鈴木 : もうその辺りはね。マンションが建ったりで様変わりしてしまった。

奥村 : 松沢病院は、まだありますよね。

鈴木 : 東京都立松沢病院。かの草間彌生さん(1929- )もその辺りに住んでいるという。京王線の上北沢と八幡山の中間地点にある。新年に、折り紙式の紋付袴を着て闊歩してたりした僕も、その辺りでは目立ってたんだけれど。

奥村 : 当時どんな友達と付き合ってたんですか。

鈴木 : 僕の受けたアルバイト仕事の助手として、東京藝術大学や東京理科大学の学生たちが集まっていたから、よく新宿で飲み歩いてた。奇妙なエピソードがいっぱいあって「ゴキブリ事件」というのも思い出した。

牧口 : (笑)盛り沢山ですね。

鈴木 : その頃僕は、異常にでかいゴキブリが気に入って机の片方の引き出しで飼ってたのね。机の端から長い触角がのぞいて這い出そうとする時「ダメだよ、忙しいから!」なんていうと、そそとひっこめる可愛げな子で「ゴン太」と呼んでてね。ある日、締め切りのある仕事のためローリング・ストーンズ好きの水野くんっていう学生にきてもらって。オランダの絵の具ターレンスの41番っていうピンク色のカラーでの塗り作業を手伝ってもらってた。ほとんど徹夜仕事になって、くたびれて横になってたら朝方に「バタン!! 」という音と同時に「昭男さん!」って起こされた。予感がして「あ、しまった」と思ったら、本当にね、スリッパでそのゴキブリ叩かれてたの。床はピンクの絵の具が飛び散っててね、ゴン太によって皿の絵の具がきれいに食べられていたのね。その絵の具って、嘗めてみたらちょっと甘かった。

奥村 : その頃、名古屋でされてたような「自修イベント」は、続けられてたんですか?

鈴木 : 暇さえあれば群馬県や神奈川県、静岡県方面によく行ってました。鎌倉では「切り通し」の双方の地形によって気圧の差が生じるのか、一定の風が吹いてたりしてね。そこに、バリの「スナリ」という竹の横腹に穴を開けた道具のようなのをこしらえていって「もがりの音」を聴いたり、房総半島の内陸に大きな砂丘を見付けてアナラポスの「エオリアンハープ現象」を試したりね。

奥村 : この頃、ANALAPOSが生まれて。(注:ANALAPOS -a は声や指のタッチなどで演奏する原器で、糸電話の形状に、二つの鉄製片底缶どうしを長いコイル・スプリングで繋いだもの。他にスタンド型の -b と、筒型 -c のバリエーションがある)

鈴木 : 当時、何故かアルバイト先のデザイン事務所でチーフになってしまった時、大きなポートフォリオを抱えて就職活動に来た女性に一目惚れして、採用した人と結婚することになったんです。彼女も変わってて一度食事に誘われた日に「明日は、新婚旅行よ!」って宣言され、藤の旅行かばんの中には色々と詰め込まれていてね。そして、既に予約のとってあった逗子の「渚ホテル」に連れられていって、電撃結婚でした。どちらの家族にも、事後報告。彼女は今も鈴木姓を名乗っててベルリンに住んでるから、よく翻訳したり助けてくれるんです。七恵という画家なんですけどね。

奥村 : 七さんに出会われたのは、アナラポスを創った後になるんですか?

鈴木 : 既に、幾つも天井からぶら下がっていました。その後、奥沢の彼女の姉の留守宅だったマンションに引っ越して。そこにはピアノがあってね。先日、一宮の三岸節子記念美術館で発表した絵画風の楽譜も、そこで描いたものでね。その頃、彼女は村上友晴さん(1938- )のことをよく話題にしてたので、対抗意識から独自に開発したモノタイプ版画を随分やっててね。黒一色で。そしたらある日、彼が遊びに来ちゃってね。そんな僕の心理をよそに、えらくそれらを褒めてくれちゃってさ、「何か困ったことがあったら、僕に言いなさい」なんて言い置いて行かれた・・「村上スッポン」という老舗の御曹司なんだ。こんな返答しか出来なくて、よかったんかなぁ(笑)。話がそれるばかりで・・まだ、序の口ね・・。

牧口 : とりあえず2時から始めて、2時間が経ったので休憩しましょうか。

   ( 休憩 )

奥村 : 1976年に、南画廊で初めての個展「鈴木昭男・音のオブジェと音具」展をされ、この個展にアナラポスなど多くの音具などが展示されています。この辺りのことをお聞きしたいのですが。

鈴木 : 楽器制作に勤しむとか、発表しようとかは考えたことがなかったのね。趣味で遊んでいたくらいで。でも彼女(七恵さん)が「どこかに訴えてみたら !」と勧めるものだから、アナラポスの特許申請をしたり、明治製菓などにも足を運んで、仕事にならないものかとね・・。

奥村 : 明治製菓?

鈴木 : ええ。それなどは実らなかったけれどね。その後、(西武の)堤清二さん(1927-2013)が手を差しのべて下さって、商品開発課の紀国憲一さんの助けで、社内演奏をしたり、沖縄の海洋博(1975)のパビリオンで「深海のこだま・ANALAPOS-c」(筒の中にスプリングを張ったもの)が役立つことになって、永井一正さん(1929- )がデザインして下さった。紙筒だった。

奥村 : それは西武のパビリオンで?

鈴木 : そうでした。それとは別に、ニューヨークから帰られた頃の一柳慧さん(1933- )との交流もあり、象設計集団(1971年に発足)他の協力で、その海洋博の野外オブジェとして、大きなコンクリートシェルターの中に、風に寄って作動する四機の巨大アナラポス-c を備えたものや、ヨットをもじったパイプ製のエオリアン・ハープを設置した。当時の新聞の切り抜き(「音のオブジェ 風変わりな楽器で妙音つくり出す 創作にかける東京の鈴木昭男さん」『朝日新聞』1975年10月26日、15面(家庭欄))がここにあるから思い出したけど。坂根厳夫さん(1930- )が学長の、岐阜県に何か面白い大学があるんでしょ?

奥村 : IAMAS (情報科学芸術大学院大学)。

鈴木 : その坂根さんが朝日新聞社の科学記者をされてた頃、世界各地を飛んで廻り物理・化学的応用の作家を取材して「遊びの博物誌」を書いておられて人気があったんだけれど。これは、高輪の泉岳寺の僕のアトリエを訪ねて記事にして下さった時のものですね。新聞のこの写真は、僕のアトリエなんですよ。こっちの写真が、西武のパビリオンに置いたアナラポス。坂根さんが、この「深海のこだま(ANALAPOS-c)」をハーバード大学の広中平祐さん(1931- )へのお土産にして持って行かれて、嬉しかった。

奥村 : これ(ANALAPOS-c)は、どういう具合に音が出るものですか?

鈴木 : これは、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968)風に、別名「独身者のための楽器」と言ってて、これをタテに持って一振りし、減衰していく水中のソナーのような音響を独りで聴き入るものです。筒の中に、コイル・スプリングが両端の蓋をつないで張ってあるのね。

奥村 : この時にはもう、世田谷の住まい(七さんの姉宅)から高輪に引っ越されていて・・。

鈴木 : そうです。通称「N響」のある近くで泉岳寺という所ね。その頃のことなんだけれど、 僕らはシンプル・ライフというか、レコード盤は家に常に一枚あるっていう生活しててね。。七さんがアンテナはっててね、新譜などが入荷するとショップから興味のあるのを買ってくるんだけれど、前のを売ってね。僕を教育(笑) してくれていたんです。ドビュッシー、バルトーク,メシアンと続いた時には、次は「スズキ」などと気負って「ドバメス」なる即興ピアノを弾いたり。音楽界から唖然とされそうですが。(笑)。クラシック、現代それから民俗音楽、シャンソン、ジャズとさまざまに聴かせてくれたんです。彼女の好きなブリジット・フォンテーヌ(Brigitte Fontaine 1940- )の「ラジオのように」も暫く聴いてたなぁ・・(笑)。ジャズのシカゴとか・・。

奥村 : アート・アンサンブル・シカゴ (Art Ensemble of Chicago)?

鈴木 : それも。教育妻のところがあって随分聴かせてくれたし、「あそこ行け」「ここ行け」ってさ、人に会わされたのよ。「盲目ヘビに怖じず」で方々に顔出してて、草月会館だったかで久里洋二さん(アニメーション1928- )とも出会って、渋谷西武百貨店内での彼の展覧会で、世界最小劇場をつくって動画と共にアナラポスの演奏をした時、堤清二さんがかぶりつきで観て下さった。関根伸夫さん(1942- )と三人で「天才・秀才・鈍才」談義を個展会場で交わしたこともある。実現しなかったけれど久里さんの依頼で、アニメーション『人口爆発』(1975)のために東京郊外の養鶏場に入り込んで白色レグホンの群れの中で長時間録音したことがあって、当時その小屋近くに今も親交を保っている「コジマ録音」の小島幸雄さんのスタジオがあったのかな・・。そんな時代。久里さんのお宅で食べたグリンピース・ライスがあまりに美味しかったから、奥さん宛てに手紙書いてさ「あんなおいしいのをまた食べたい」とか書いてたら、七さんにベリーッて破られちゃった(笑)。また脱線しましたね(笑)。

奥村 : 関根さんとは、一緒に仕事はしてないんですか?

鈴木 : してないですね。たまたま、出会ったぐらいで。

奥村 : 久里さんのアニメーションに鈴木さんの音を・・ ?

鈴木 : 実現はしなかったな。久里さんも「俺も作曲家なんだぜ」と言ってたしね。そうそう、僕は一度密出国をしたことがあるんです。中学に上がるまえの春休みに、友達三人で名古屋港に停泊中のアメリカの軍艦を「ワアワア」見学したのね。僕はいつもスケッチブックを持ってる人間だって、彼らと別れて船内に残って砲筒なんかを描いてた。そうしている内に、幼児期に聞かされた母の話で「お母さんは女学生の頃、コック先生に見込まれてアメリカに渡るところを、昭坊のお爺ちゃんの反対で止められたの」「アメリカに行ってたら、おみゃぁは生まれなかったかも知れんのよ」などと言っていたことから、何だかムズムズするところがあって、このまま過ごしてたらアメリカにゆけるかな・・って艦内にかくれていたところ、いつしか船が揺れるようになり、後で解ったことに野間沖で僕のためにUターンしたのね。遂に水兵さんに見つかったの。食堂のテーブルに太いチョコバーがお皿に出たんですよ。。その美味しいことといったら(笑)。未だに海外に行った折に、よく探すんですがあれには出会えないのね。今思うとあれは隊員食として作られた特別のものだったのかも。で、僕のスケッチブックに目を止めた水兵さんたちが似顔絵を描いてくれないかと列が出来ちゃて、港に帰艦する頃には用紙がなくなってしまったのね。今もそれを持っててくれる人がいるのかなぁ。埠頭には、どこかの記者が待ち受けていて、「少年画伯」なんてね、どこかの新聞に載ったんですよ。それを伊勢湾台風の時になくしてしまって残念だったのが、久里さんが福井出身だからか「俺、その切り抜き持ってたなぁ」って、そんなところから親しくなったんだった。

奥村 : あぁ、そうだったのか(笑)。

牧口 : そういう繋がりが・・(笑)。

鈴木 : その渋谷西武百貨店での彼の展覧会で一緒した時の、電車の中吊りポスターも探せば出て来ると思う。彼の紹介でスポーツ・ニッポンから取材班がやって来た時などは、七さんが荒れたんです。「そんなことに、面白おかしく出ないで !」って、ずっと抗議してたのね。台所の流しでお皿をバーンと割ったりしてさ、彼らを仰天させて退散させちゃった。

牧口 : ・・そういうこと。

鈴木 : 猪突猛進型。

牧口 : 七さんが・・。

鈴木 : ものすごい勢いで僕を守ってた。

奥村 : あ、いろいろな誘いがあったりしたんだ。

鈴木 : もう、あらゆることから・・。

牧口 : 七さんが聴かせてくれたいろんな音楽の中で、鈴木さんが特にお好きだったのがありますか ?

鈴木 : やっぱりオリヴィエ・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper- Charles Messiaen, 1908-1992)はすごく心に残っています。鳥の鳴き声などを音譜に置き換えたり、鳥が谷間をすーっと下って行くような風景や色合いが伝わって来る。それと合わせて解説を読みながらすごいなぁって思った。ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862-1918)にしても豊かなイメージがあって、観念の世界をこう、定着させるでしょう。バルトーク(Bartók Béla Viktor János, 1881-1945)も、民族音楽を収集したところから、その小気味良い旋律には魅了されましたね。ただの構築じゃなくて自然観が根底にある。僕がサウンドプロジェクト「日向ぼっこの空間」(1987-1988、丹後の子午線下の山中に日干しブロックによる一対の壁空間を制作し、1988年の秋分にそこで<一日の自然に耳を澄ます>行為を遂行した)に向う姿勢もそこからくるんだけれど、都会志向のパフォーマンス展開を追っていた当時だったから、もう一度原点としての「自然に耳を傾ける」ことに、気付かされることになるのね。シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen, 1928-2007)の「7つの日より」なんかは、即興演奏の最高峰と思うし。その他にテリー・ライリー(Terry Riley, 1935- )の思想にも共感したりした。70年代の中頃のことなんだけれどね、いろいろ聴かせてくれたなぁ。彼女に出会わなかったら、おちゃらけ人生をやってたかも知れない。テレビジョンの中に居たりして・・。年を取ると何でも言えるようになってきちゃった(笑)。

奥村 : ご自身でテープ音楽を作られてたんですか ?

鈴木 : その頃、ソニーの簡易録音機を手にしたからで、テープを加工して構成するというものじゃなかったのですよ。

奥村 : どこでも録音出来る。

鈴木 : 久里さんがベテラン技術者に会わせてくれたんですね。スタジオで録音済みのテープを左右にスライドさせて的確な箇所を斜め切りして継ぐというのを垣間見たりして、ミュージック・コンクレートなる手法だとかを知ったのね。たまたま僕のスタジオが、だだっ広かったので音遊びが存分に出来て、作品(音源)が溜まってた頃。日本橋にあった「南画廊」のオーナーの志水楠男(1926-1979)さんを訪ねた時に、手持ちの録音機で再生した音を聴いてくれたんですよ。カセットのこんなみすぼらしい、小さい音しかしないやつを「う、うーん」と聴いてくれてね。二本くらい聴いてくれて。アメリカのダラスで行う作家展(1974)のBGM作品を依頼して下さった。経済難だったから、小牧の実家に電話して資金を送ってもらって、やっとこさAKAIのオープンデッキを買って。

奥村 : その志水さんに聴いていただいたテープというのは?

鈴木 : カセットだったんですよ。

奥村 : アナラポスの演奏も入っていたんですか?

鈴木 : 部分的には入っていたかもしれないけれど。大方は日用品とか使うんだけれど、床でいろいろ転がしたりしてさ、人が余り耳にしない音響を引き出してるかも。ダラスに行ったテープの他に、飯田善國さん(1923-2006)の個展(「クロマトフィロロギア展」南画廊、1974年)などの折りに、会場に流されたのもあった。当時は、作家同士コンバインするのが実験的空間を盛り上げるなんて風があったのね。そういう時代だったから、実験的に流したいという志水さんの意見でね。その頃、彼女(七さん)が「行って来なさい!」って、上野にある東京文化会館小ホールでの催しチケットを買ってくれたのね。何時も僕の分だけ。文化会館の快いオーディトリウムが気に入って、会が開けないかって聞きに行くと、企画書を出して下さいということで。ピアノにテープデッキを加えて展開する作品をまとめて持って行くと、係の人は、ろくに目も通さずにね「このように全てが埋まっていまして」と断られて、その直後に電話が鳴って「あ!誰々さんのお弟子さんの・・ちょっとお待ち下さい」と先の予定表を見ながら「その日は、大丈夫です」と。そして僕に向っては「駄目ですなぁ」って。この時社会が見えた気がして、ふさぎこんで南画廊を訪ねたら、「何、鈴木さんそんな青ざめてるの」って志水さんが聞いてくれて、落ち込んだ僕から話を聞くや「ここで、やりなさいっ!!」って。錚々たる作家を扱う国際的な画廊なんですよ。信じられないままに日が過ぎて年も押し迫った頃、一柳慧さんから「準備できてる?」って電話が掛かって来て、本当だったんだってびっくり。七さんが金沢の実家に送金願いをしてくれてね。着ていく物が無いからって、半分は彼女のものになったけど(笑)。アナラポス群のインスタレーションで急遽整えた会場では、さまざまな出会いがあったなぁ。美術出版社の芸術雑誌『みづゑ』などにも載ったし、詩人で評論家の大岡信さん(1931- )が、「ん、んー」って真ん前で腕組みをして聴いて下さって、後にお手紙をいただいたり・・。僕の宝物でね。

牧口 : (1976年の資料を見て)これは、その南画廊の。

鈴木 : その時、壁に掲げたコンセプト画のコピーね。原画はニュージーランドの作曲家 (氏名を忘れた)が買ってくれた。僕は、うれしくてね倉庫棚にあったANALAPOS-aを内緒でプレゼントしてしまった。けれど後に、そのことで僕を知ったニュージーランドのオークランドに住むフィル・ダドソン(Phil Dadson, 1968- )と友人関係になったりして、あちらに呼んでくれるようになったのね。それから、パリ・モダンアート・ミュージアムの館長夫妻も買っていったとかね。

牧口 : それはどっちの・・。

鈴木 : ANALAPOS-cか、どっちだったか覚えがない。感激した僕は「差し上げても・・」と言ったら、「それはいかん!」と志水さんに一喝されて、画廊とはそういうところだったんだって勉強した。その前にニュージーランドの人にプレゼントしたのがばれたらどうしようと思ったりして。それからイタリア文化会館の館長さんがコンクレート・ポエトリーのミレッラ・ベンチボーリオさんと一緒に来てくれたりね。ロックフェラー夫人も来たしね。それで、ちょっと運命が……あることがあるんだけどね。

奥村:その後もね。

鈴木:これは言ったら怒られちゃうけど(笑)。

奥村:え?

鈴木:僕は何にもうとい人間だから、ヘマばっかりやってるんですよ。今でも覚えているけれど白いブーツに白づくめのロックフェラー夫人が「ジョン・ケージに伝えるから、あなたの音源があったら下さい。近くの「◯◯堂」にとどけておいてね、必ず彼からメッセージが行くでしょう」って、言い置かれたので、明くる日、取って置きの 60分オープンリールを包んで画廊の通りの奥にあった「平安堂」に届けたら、店員が平然として受けとってくれたのね。でもいつまで待っても音沙汰なしだった。それから7、8年も経った頃「雅陶堂ギャラリー」の間違いだったことが判って、コーネル(Joseph Cornell, 1903-1972)の展覧会やってた時に「あ、ここだったんだ。だからコメントが来なかったんだ」と判明したことがあって。世間知らずは、運命のいたずらにも遭うんですね。あれは、マース・カニングハム・ダンスカンパニーとのコラボレーションに、招待されるところだったかも知れなかったんです。

奥村 : 南画廊の展覧会は、それまで昭男さんが作られていたもののまとめみたいな、気合いの入ったものだったんでしょうね。

鈴木 : いや、にわか仕立てだったんですよね。「スズキタイプ・グラス・ハーモニカ」(1975)なんかも坂根厳夫さんに「もっとないの ?」って励まされてからの制作だったし、この展覧会ではアナラポスに加えて後に様々なパフォーマンス展開をするきっかけになった「ハウリング・オブジェ」の原型が新作ってとこでした。

牧口 : それらは、来られたお客さんも・・。

鈴木 : いじることが出来たんですよ。その頃ね、「聴衆参加」なんて言葉があったようで、僕はその意味を取り違えて、インスタレーションを誰でも触ってくれてもいいようにと解釈して、もの言わぬそれらへの触り方を図解し額装して展示してたわけです。でも鑑賞者は周りを巡るだけだったから志水さんがね、「毎日4時に演奏してみたら」って提案下さって。それで画廊で演奏したのが、西洋式のステージ音楽に対して、そうではないフラットな場でパフォーマンスを展開して行く原点にしたって言ってるんですけどね。

奥村 : 南画廊でされる以前に、そうした演奏なども・・。

鈴木 : 多少ね。渋谷の西武劇場でピアノも弾いてる。75年だったかな。

奥村 : それは、ここ(先述したサプリメント・ギャラリーのカタログ)に、「日本の詩祭」において「視覚に基づく循環ピアノ曲」とあるものですね。

鈴木 : うん、この頃はピアノに凝っててね。鍵谷幸信さん(1930-1989)という慶応大学の名物教授が、コンクレート・ポエトリーの新国誠一さん(1925-1977)を伴って遊びに来られた時に、近々西武劇場で詩の「H氏賞」授賞式があるので、そのアトラクションで君を紹介したいと言い出してね、「大変だっ!」て劇場の下見に行ったら、丁度その日は武満徹さん(1930-1996)主宰の「今日の音楽」の最終日で、スタインウェイをフランソワーズ・ビュッケという人が弾いてた。で、明日はあれで演奏するんだってワクワクして帰ったのね。当日のリハーサルに行くと、なんとヤマハが鎮座してた。「馬鹿にして・・」って若かったから(笑)。心の中で逆上してさ、「スタインウェイを出しといて !」と言い置いて出てしまったけど、舞台の裾の奥にそれがキルティングカバーをされているのを目にして、強引だったなあと思ったけれど「振り上げた手」というのか下ろせなかった。劇場に帰ると、ちゃんとスタインウェイが具えてあってね、そして式が進行して舞台横に立つと、もう司会の鍵谷さんの「新人です」なんて紹介の声がしてて「出番 !」って誰かに背中を押されて照明の中にドドド・・・って出てったらさ、初めてのことでピアニストって最初どんなにしたのかなぁ、とおずおずお辞儀をしてピアノに向うと、ピアノがお腹に触るほどの位置に椅子がツンツンにセットされていたしね。いつもは僕の描いた図形楽譜のインスピレーションで弾いていたのだけど、この日は七さんにも場を作ってあげようと思って、彼女が当時描いてた100号キャンバスを2 点展示してね。それを見ながら、脱兎のごとく弾き始めるとこだった。けれど指がつるんと滑って、ひ弱な音が・・・。ピアノが前日の現代曲のためにキンキンに調律されててタッチが重かった。いつもガタピシのを弾いてたから「しまった!!」って、一瞬にしてあがってしまったんですね(笑)。両足が貧乏揺すりになって、見てる人もドドドッてなるぐらいの(笑)。しばらくして、やっと「もうこういうのを利用してやるんだ」って落ち着いてきて、「でも気が済むまでやらなきゃいけないし」って思ってやりあげた後、パーティーから逃れて家に飛び帰り、押し入れの中に入っちゃった。「人生もう無い」と思ったね(笑)。

奥村 : それ以降は?

鈴木 : いや、数日後にね「先日のあれを、やって下さい」って、新宿 PIT INN から電話があって、どん底だった精神状況から救われたんです。でも、それ以来お呼びはなかったけれど。あの時は、昼の部だったな。そして、ピアノがヤマハだったから「今度こそ !」と意気込んでね。やがて「もう時間です」の紙切れが持って来られる始末。でも、この時拍手をくれた人たちは恩人ですね。

奥村 : いろんなことを、その頃はされてますよね。

鈴木 : いやぁ、この当時、結構してましたね。

奥村 :テープ音楽の話に戻ります。1974年にはダラスで、《時間の穴 #2》を飯田善國個展(南画廊)で流されています。そして《ピアノによるローテーション・ミュージック》というのも作られてる。

鈴木 : どういうのだったっけかな。二台のオープンリール機を使って、ループにしたテープを架け渡してね、それで、即興演奏の中で随時に録音と再生を重ねて行く仕掛けね。誰しも、考えつくようなものだった。

奥村 : そういうことする人もいますね。少しずつずれていくんですか、音が。

鈴木 : 共振音が連なって、めくるめく音響になる。ポータブル・カセットデッキでもよくやってた。その頃は、よくアイデアが湧いてね。

奥村 : 「時間の穴」というのは、アナラポスの ?

鈴木 : コジマ録音の「時間の穴」(ALM Records, AL-3010)というレコードは、亡くなった志水楠男さん(1979年に逝去)に捧げて報告の意味で出した私家版なんですが、僕の詩の中から選んだ言葉ですね。その頃、シリーズ名にもしてたのかな。七さんと別れてから見付けたんだけれど、6箱の郵便小箱にぎっしりカセットテープが入っていて、それぞれに小さなスケッチブックが乗せてあって、作品名とタイトル番号が整理されてた。こんなの知らなかってびっくりだった。もうテープが劣化してるだろうから聴けないだろうし、大した物じゃないと思う。

奥村 : いやいや、わかんない・・(笑)。

鈴木 : 僕の誕生日になるとね、下手な落語を聞かせる話のようによく友達招いて自作の版画カードのプレゼント付きでピアノを聴いてもらってたこともあったんですよ。それがある時、思い立って勉強しなきゃってピアノの教則本を買って来て「ピロピロ・・・」やってたら、これもいきなり彼女に破られてしまった。「昭男には、こんなの不要!」って(笑)。

牧口 : さて、どこまでいったかな。フェスティバル・ドートンヌ・パリ(1978)・・。

鈴木 : 武満徹さんとの出会いに。

奥村 : その辺りを、はい。

鈴木 : 最初、南画廊で武満さんにお会いした時、人並みに「僕の聴いていただけますか」ってカセットを出そうとしたんだけれど、お顔見ると目の下に隈が出来ててね。恐ろしい、こんな忙しそうな人にこんなことしては、って引っ込めちゃった。その後僕の噂を聞いてか、泉岳寺のアトリエに遊びに来てくれたの。もう、つもりがあって、映画のための演奏願いに。大島渚さん(1930-2013)の「愛の亡霊」(1978)、篠田正浩さん(1931- )の「はなれ瞽女おりん」(1977)だとか・・。その時『骨月』(私家版 1973)という、杉浦康平さん(1931- )の特別装丁になる武満さんの小説をプレゼントされて。宝物だけど何処にあるかわからない(笑)。武満さんが担当してた1978年のフェスティバル・ドートンヌ・パリ「間」展(Festival d'Automne a Paris, “MA Espace – Temps au Japon” )に、小杉武久さん(1938- )との出場を組んで下さって。その後、六本木に誕生した「WAVE館」の開店・閉店時のサイン・ミュージック作りでご一緒したんだった。波の自然音と一部にパーカッション、電子音が入る他、全体を僕の大型グラスハーモニカの生演奏で出来た「ウエーヴレングス」の20分ずつの二曲がありますね。僕が海外に行ってる時、「今日の音楽」のダンスシーンで使われたというのを噂で知ったけれど、ロンドンのアルメイダ・フェスティバル(Almeida Music Festival)のディレクター宅でお世話になった時、この曲を聴いてもらったのが引き金にもなってか、同フェスティバル(1986)で「武満徹展」が実って、陰ながらご恩返しが出来たかなって。

奥村 : 昭男さんは、グラスハーモニカを弾かれて。

鈴木 : 「De Koolmess」というオランダの鳥の名で呼んでるスズキタイプ・グラスハーモニカのでかいので、大、中、小と三つのバリエーションのある内の一つの、琴くらい横長なのをこの時は演奏してる。フレームに吊ったガラス管を濡れ手でこすったり叩いたりするものね。

奥村 : 武満さんは何を ?

鈴木 : 電子音の変調だとか構成ね。映画音楽なんかだと、ちゃんと譜面が書かれていて、東京コンサーツの一員になって演奏しなきゃいけなくて、オーケストレーションがあって。僕楽譜読めないから、指揮者が「はい、次、昭男」とかって、持ち場になると合図されてね、汗かいたんだけど。他には、「書を捨てよ、町へ出よう」の寺山修司さん(詩人 1935-1983)の実験映画「マルドロールの歌」(1962-69)でもスタジオで出来上がった映像を見ながら即興で演奏した。

奥村 : 今、再版がDVDで出てるんですけどね、まだ観れてないんですよ。

鈴木 : 僕も観てない(笑)。東京時代に、渋谷の「ジャンジャン」へ友人連れて観に行ったなぁ。あれは、リール国際映画祭で国際批評家賞をとったの。

奥村 : この時代、いろんな分野とのコラボレーションをされてて・・。

鈴木 : そう、元気な友達がいたし、近くには「増上寺ホール」というのもあってね。

奥村 : 泉岳寺のアトリエには、いろんな人たちが来られたんですよね。

鈴木 : 海外からもね。文化会館などから連絡があったりして、受け入れが大変。どこからも援助なんてないんですよ。ビル・フォンタナ(Bill Fontana, 1947- )も夫婦でね。目黒の自然園に案内したり、録音に付き合ったり。ベルリンのロルフ・ユリウス(Rolf Julius, 1939-2011)なんかはレギュラーで来てたし、ヨーゼフ・コスース(Joseph Kosuth, 1945- )や、変わったところではラウンジ・リザーズのジョン・ルーリー(John Lurie, 1952- )なんかも・・。

奥村 : 吉村弘さん(作曲 1940-2003)との交流なんかは。

鈴木 : 彼は、広尾の公団アパートに住んでいたので、始終自転車で遊びに行ってた。詩的な性格の人だったからよく会話もはずんだし、子供の時のように作品の見せっこしたり、海外から、例えば秋のパリに居た時には落ち葉を箱に詰めて送ったりしたけど、写真に納めながら梱包を解くのが弘さんだった。

奥村 : この雑誌なんかは、その当時の・・。

鈴木 : そうそう、浜田剛爾さん(1944- )と吉村弘さんと僕の三人でにわか編集したのがこの『PERFORMANCE』(タブロイド判、1977年12月発行、創刊号のみで終刊)で、僕は表紙も担当してたから。表紙の裏にカバーガールになってもらったのが、幸(みゆき)さんといって、有楽町だったかに彼女のお母さんが喫茶「ルパン商會」(『PERFORMANCE』に掲載の住所は、中央区銀座6の5の15能楽堂ビル2F)を営んでおられて、そこが会場になった時、「皿まわし」という三台のポータブル・プレーヤーを使う作品を再演(1978年、Sound House CITYで初演)したり、アイデアぽんぽん続出の時代だった。

奥村 : 泉岳寺のアトリエでも、いろいろされてるように聞いたんですけど。

鈴木 : うん、田中泯さん(1945- )の教場に一時提供したりするほどの広さがあってね、僕のガラクタで即興演奏会をしたり、詩の朗読会あり、フラメンコ・ダンサーまで来てた。。今も交流のある編集デザイナーの中山銀士(ぎんお)さんは、ある雑誌に僕の特集をやってから友達になって。彼も目論んでくれてフリーミュージックの共演をよくやったりね。。

奥村 : そうした中に、小杉武久さん(1938- )さんもおられたんですか?

鈴木 : 小杉さんは美学校の生徒をどっと連れて来て、一緒に遊んだこともあった。中に、後に知る誰が含まれてたかは知らないんだ。七さんと離別の変な騒ぎを目撃した人がいたりするし、恥部いっぱい。

奥村 : 吉村さんのカタログ(『音のかたち、かたちの音 吉村弘の世界』2005、神奈川県立近代美術館)の年譜を見ていると、結構たくさん出ていますよ。さっきの『PERFORMANCE』のこととか、増上寺ホールにことも。それから「音の水族館」(1977)も吉村さんと一緒に。

鈴木 : すごいなぁ。あれ、ここに「安斎重男さん(1939- )が撮影」とまで書かれている。これは、『浪の記譜法』(時事通信社、1986年)という本の統括をしてた、池袋西武にあったアール・ヴィヴァンというレコード情報ショップにいた芦川聡さん(作曲家1953-1983)に誘われてやった「ホットブレス」のことね(注:「HOT BREATH 地下鉄にひそむ魚たちの熱い吐息 実験室とメディアの箱」、宇宙館(お茶ノ水)で、吉村弘とのデュオ12時間イベントに参加)。「音の水族館」では、寺山修司主宰の「天井桟敷」でも一緒に演奏していて。いろいろ思い出すなぁ・・・。

奥村 : そして、フェスティバル・ドートンヌ・パリ(1978)出演を機に、海外ベースの仕事が増えていくっていう感じですよね。

鈴木 : そうねえ、皆をほったらかしにしちゃって・・・。初心に戻らないと。

奥村: 続いてパリでのお話も聴きたいのですが、今日はここまでにしましょうか。ありがとうございました。