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高階秀爾オーラル・ヒストリー 2010年7月23日

国立西洋美術館にて
インタヴュアー:林道郎、池上裕子
書き起こし:畑井恵
公開日:2013年6月16日
更新日:2018年6月7日
 

池上:今日は(国立西洋美術館の)展覧会カタログのデザインについて、お聞きしたいんですけれども。

高階:はい。

池上:このフランス美術展(「ルーヴルを中心とするフランス美術展」、1961~62年)も、粟津(潔)さんのデザインで。

高階:粟津さんと一緒にやりました、はい。

林:粟津さんはその頃は、まだおそらくデビュー間もない頃。

高階:間もないですよね。最初からやってたんだから。でもあんまり名前を出すあれ(慣習)はなかったのかなぁ。

林:前回のゲルニカ展もそうでしたね。

高階:ゲルニカはそうです。

池上:粟津さんにデザインを頼まれたっていうのは、何か特別なきっかけがあったんでしょうか。

高階:彼とはどこで知り合ったんだろうな。1960年代初め。覚えてないけど、最初から他の人には頼んでないはずだな。新聞社関係で知ったのかなぁ。

林:もう既に粟津さんはデザイナーとして。

高階:もうデザイナーとして活躍してましたよね、1960年代初めだと。

池上:以前からご存知で、先生がお願いされたということですか。

高階:どうだったか、その辺は記憶がはっきりしないんだな。

林:時代的にはこれが一番最初ですかね。でゲルニカ展(1962年)があって、モロー展(1964年)。

池上:これが一番最初のカタログ(「松方コレクション名作選抜展」、1960年)。

林:これは粟津さんがやってるんですか。

高階:これはしかし、レイアウトがそうじゃないね。

林:なんとなくそうじゃない雰囲気ですよね。

高階:そうじゃない。これはつまり1959年にオープンして次の年、1960年にやった初めての展覧会です。朝日新聞社が入って。でもまあやっただけで、学芸員も何も書いてないけど、これは我々がやったんだということで、単純に(出品)リストを。

林:これ(「ルーヴルを中心とするフランス美術」展)は完全に、粟津さんのデザインで。

高階:それは非常に熱くやりました。これは粟津君だったと思う。全体の1961年のやつね。最初のうちは他の人は全然知らなかった。ゲルニカはもうちょっと後ですけど、その頃までずっと粟津さんですね。決まった人で。ただ最初のを覚えてないなぁ。新聞社なり印刷所なりとの関係があってしたのか。

池上:(モロー展のカタログを見ながら)ページの端にハーピーが飛んでるところとか、すごいですよね。こういうところ。

高階:そうそう、ちょこちょこっと。そういうことは粟津君好きなんだよね。

池上:非常にしゃれている。

林:序文の頁で絵画の額のような模様を頁の端にいれてみたり。

池上:凝ってますよね。

林:うん。やっぱりあれですか。先生としては、日本の美術館の展覧会のカタログについて当時、何か新しいことをやらないといけないというか、不満を持っていらっしゃった。

高階:ええ。つまり、単なるリストでは困る。インフォメーションがまず必要だと。フランスの作者や作品についてのインフォメーション、それから来歴とか、できれば文献まで含めたのが入るべきであるということは考えてました。ただデータがないから、それは可能な限りということになったんですけど、それを入れようということで。そしてデザインに関しては、写真をなるべく入れたりとか、インフォメーションとして載せる。デザインに凝るのは、他に我々があんまりすることがなかったのかもしれないけども(笑)。要するに中身は全部向こうから来た文章の翻訳がメインですからね。自分たちで何か書くっていうのは、最初の挨拶以外はない。このモロー展で初めていろいろ書こうということをやって。これは新聞社も何もなかったからやったわけです。そこで、研究成果っていうよりも、一応自分たちの美術館の方から誰かが書くっていうことをやるべきだっていうことは考えてました。たぶんそれまでの日本の展覧会では、出品リストと、あとは記念の画集みたいなのしかなかった。名作だけを並べて立派な本を出したりっていうのはそれぞれあったと思いますけど。それ以上の、研究なり資料的な意味での図録っていうのはあんまりなかったと思いますね。

池上:前回ゲルニカ展の時に少しお話が出た、海外から作品を持ってくるときに間に入る団体、アート・フレンド・アソシエーションですとか、そういう団体のことも、普段活字であまり論じられないので、少しお話をお聞きしたいんですが。

高階:ええ。アート・フレンド・アソシエーションのことは、瀬木(慎一)さんが親しかったな。あの神(彰、じんあきら)さんと。ていうのは、アート・フレンド・アソシエーションの神さんっていうのは、僕は瀬木さんに紹介されて会ったんだな。神さんっていうのは、一番最初がドン・コサックで、合唱団を戦後非常に早く日本に呼んで、それを全くの徒手空拳でやったらしいですね。それが当たったもんだから、ドン・コサックをその後も呼んだし、いろいろイベントをやって、展覧会にまで。それで瀬木さんとの関係が強かったんだと思いますね。美術のことは瀬木さんがアレンジしたんだと思う。ゲルニカ展は朝日も入ってましたよね。そうするとお金のことは美術館は直接交渉は何もしてないわけですから、要するに朝日が間に立つ。その朝日にしても、美術関係は実際には瀬木さんがよくいろいろやってたと思います。僕がパリにいる時から何回か来てられたわけだから。向こうの美術の人知ってるというんで。それで一度、神さんと、瀬木さんに連れられて会ったことはあります。その後何回か神さんとは会ってるけど。

池上:彼のロシアとのつながりっていうのは。

高階:彼自身がどうかは。彼のところに、ロシアにずっと抑留されて帰ってきた人がいた。あの時期だからわりに早く帰ってきてますよね。ロシア語の非常によくできる人たちが彼のグループに何人かいて。

池上:神さん自身が抑留されてたわけではなくて。

高階:ではなくて。ロシア語の非常によくできる人が彼の仲間に二、三人いて。そして交渉しようと。国際的な文化交流って全くなかった、国もやってない時期ですから。ドン・コサックにも、ロシア語できる人がいきなり手紙を書いたとか。向こうも初めてだけれど、じゃあ行こうかっていうので、やみくもにやって当たったみたいですね。日本にはそういうのがなかったので、非常に人気があったっていうのがそもそも出発点らしいです。

池上:当時ソ連なわけですけれども、どうして東側の国に行けたのか。

高階:だから東側の、向こうのことを知ってる人がいたんだな。それも美術関係じゃないと思います。向こうにいたのはね。

林:でも今と全然違って、60年代ぐらいまではロシアとかソ連の文化って、わりと広く入ってきてましたね。

高階:そうですね。ロシア料理店なんかがあったし。

林:「カチューシャ」とか。

高階:ええ、歌は流行ってましたよね。ロシア民謡みんな歌ったりなんかしてました。

林: 歌声喫茶とか。それがほんとに全くなくなるのは、逆に1970年代以降かもしれない。

高階:ロシアに対する憧れみたいなのは、社会主義への憧れももちろんあったし、それでなんかインターナショナル運動みたいなのも。デモするとき歌ったりっていうのはみんなやってましたよね。

池上:戦前の頃からそういう流れが。

高階:流れがあるんでしょうね。

林:(今も)ボリショイ・バレエが来るけどね(笑)。

池上:あれはもう本当に興業で、出稼ぎという感じですが(笑)。

高階:美術館が来るようになったのはエルミタージュかな。これもうちょっと後ですね。日経がやるようになった。

池上:そういう団体を「呼び屋さん」と前おっしゃってましたけども、この団体と瀬木さんが親しくて、美術に関しては彼が交渉をしたと。

高階:それで、瀬木さんの要するに知識が必要になってやったんでしょうね。新聞社なんかも頼ってたと思いますね。

池上:エージェントみたいな感じですか。

高階:そうです、ええ。

林:そういう呼び屋さんっていうのは、アート・フレンド・アソシエーション以外にもなにか。

高階:その頃はあんまりなかったと思いますね。その後、1970年代以降いろいろ出てきましたね。例えば新聞社でやった人が退職した後とかにね。つまり新聞社でいろいろやった経験があるから。

池上:コネクションがあるから。

高階:ということでやったり。それで一時期は呼び屋さんが——なんかわけの分からない、というと怒られるけど——いろいろあって、どこまで信頼できるかっていう意識はありましたよね、美術館では。だから我々(学芸員)は外国には行かないけども、展覧会やる時はとにかく美術館の館長は行くようになって。美術館なり、専門の学芸員同士の話し合いはどうしても必要だと。既製のものを持ってこられても困る、という感じですね。

林:その呼び屋とはまたちょっと違う話なんですけど、展覧会がらみっていうことで、今は展覧会屋さんっていますよね。乃村工藝とか、いわゆるディスプレイ屋さんっていうのがいて展示をやったりするわけですけれど、そういうシステムっていうのはいつ頃から出てきたんですか。

高階:乃村工藝さんは、実際の設営はだいたい頼んでましたね。

林:ああ、もう既にそうですか。

高階:ええ、設営、工務、鉄工。だから壁作ったり、単純に布張ったりというので。

池上:もう1960年代過ぎから。

高階:乃村工藝もそれでノウハウを蓄積していったのかな。大きい展示業者は今でも、乃村工藝と丹青社っていうのがありますけどね。西洋美術館ではだいたい乃村工藝を使ってたなぁ。僕の頃は。

池上:いつ頃からある会社だったんでしょうか。

高階:1960年代にはあったと思います。

池上:そのニーズができる前から何か他の仕事を既にしてた会社ってことですよね。

高階:だから美術展に限らず、それこそ郷土博物館とか資料館とか地方のものを並べる。それを並べる時にも、中身よりも展示ケースを作ったり台を作ったりということをするんでしょうかね。まあ乃村「工藝」というんだからやっぱりそういうディスプレイ関係、あるいはデパートもやってたのかな。そういうお店のディスプレイ屋さんでしょうね。

林:それはちょっと面白いですね。

高階:あと、運送はヤマトか日通をうちは使ってました。ヤマトを最初の頃よく使ってた。これもともとは、運送会社ですよね。でそのうちに、運送会社の中で美術梱包(部)っていうのを作り始めたので、ヤマトも特別に作り始めたんだな。最初の頃は普通に梱包でいろんな人が来たけども、やっぱり美術梱包は特別だし、専門家が要ると。もちろん、我々もいつも立ち会ってましたから。今と違っていちいち入札しなかったから、ヤマトにしようと。そしてなるべく専門の人、というんで顔なじみみたいな決まった人が来て。そうすると、もうある程度任せられるっていうことがありましたね。最初の頃は我々が一緒になってやってた。そうすると、美術梱包部をヤマトも作ったし日通も作ったし。乃村工藝もそういったあれでしょうね。一般的なディスプレイ専門業者で、なんでもやっていたのが美術関係にだんだん特化していったっていう。

林:でわりと1960年代あたりが、そういうシステムが固定化していく頃だという。

高階:そうでしょうね。つまり展覧会ができ始めたんだから。それ以前は特になかったよね、展覧会っていうのは。美術展っていうのが特別にはなかったんです。

林:西美には今、修復の専門家がいますけども、それは1960年代からあったんでしょうか。

高階:いや、それはなかったですね。修復の人が来たのはフランスから。フランスの近代美術館が頼んでた人を日本に寄こしたっていうことはありました。それはこの頃だったかな。

林:それは非常勤で来てもらって。

高階:うん、うちの作品を少し調べてみようっていうことで。これは1961年…… いや、ちょっと早いな。もうちょっと後だな。

林:じゃあ常駐にするっていうのは、ちょっと後の話なんですね。

高階:ああ、それはずっと後です。最初に松方(コレクション)が来た頃、つまり1959年のオープン前には、汚れたのを洗うっていう時には、絵描きさんに頼んでましたね。伊原宇三郎さんとか。

林、池上:ええーっ。

高階:油絵を洗ってました。それは富永さんや嘉門さんが頼んだんでしょうけれど、少し汚れてるのを、洗うとかなんとかっていう。その頃は美術全集でもその伊原さんなんかが書いてたし、高田博厚さんとか、そういう人たちがあるし。伊原さんがよくここに来ておられたのを僕は覚えてますけどね。

林:先生はモロー展の時にテキストを書かれたとおっしゃってましたけども、学芸員がカタログにちゃんとテキストを書くようになるっていうのは、このモロー展の後、わりと定期的にそういうかたちになったんですか。

高階:西洋美術館ではわりにそうしてました。それが初めてだと思うけれども。多かれ少なかれやってましたよね。

林:でも記名にはならないわけですね。なかなか。

高階:なかなかならない。それも結局、どこか最後の方に括弧して名前を入れるとかいう形で。「入れましょう」ってその度にお役所の人と議論した。「いや、それはお上の仕事だから」って言われてね。「庶務やってる人だって同じなんだから、いちいち名前を出さない」っていう式のことを言われてましたね。

池上:不思議な理屈ですけど。

高階:ええ。その、学芸だけ名前出すことはないっていう。

池上:逆に個人名の記名が普通になっていったのは、いつ頃なんでしょうか。

林:僕の印象だと1980年代だと思う。

池上:そうですか。

林:うん、正確には分かりません。1970年代でサンプルがあるかなぁ。

高階:まず外の人に頼むようになりました。

林:それはそうですね。

池上:そうすると名前を当然出すわけですよね。

高階:それは当然出るわけです。専門家の人にね。館の人が出すっていうことはあんまりなかったと思うなぁ。

林:むしろ僕が若い頃っていうのは、カタログを見るともう偉い先生がテキストを書いてるっていうパターンがほとんどで、その時はもちろん名前があるんだけど、学芸員はテキストすら書いてないんじゃないかな。1980年代くらいが大きな変わり目だった気が、なんとなく直観的にしますけどね。

池上:面白そうですね、そのあたりも。

高階:(頁をめくりながら)そうか、(西美のカタログでも)テキストの執筆者は出てないんだな。作品のデータをずっと出してるだけですね。

林:ああ、そうか。執筆者の名前というのは出てない。

高階:出てないね。

林:学芸員という呼び方自体が。

高階:ああ、ないんです。僕は事業課。

林:そうですよね。

高階:ええ。僕がいる間はずっと事業課ですよね。

池上:で、文部技官という(笑)。

高階:文部技官で、事業課に配属っていうことになった。

池上:じゃあ研究員とか学芸員ていうふうになっていったのも。

高階:これは非常に最近だと思います。学芸員ていう言葉を使うようになったのは。

林:そうですね。

池上:こちらでは研究員ですか。

高階:今でも学芸員とは言ってないです、正式には。研究官といって。

池上:研究官。

高階:お役所だから(笑)。

池上:官がつくんですね。

高階: で、地方では学芸員というようになってきてるね。それもごく最近、それこそ21世紀になってからだと思いますよね。正式には、学芸課っていうのを作り始めてからだよね。学芸課ってのは、ここは未だに学芸課とは言わないですよね。

林:あ、そうですか。

池上:何課と呼ばれているんですか。

高階:今は学芸課になってるか。なったんだろうな、事業課じゃなくて。学芸課で主任研究官がいるとか。僕がいる間はずっととにかくなかったわけですから。キーパーとかコンセルバトゥールの翻訳にいつも苦労してたんだな、何て訳すか。

林:ああ、なるほど。

高階:今でも困りますよね。学芸員っていうので果たしていけるかどうかっていう問題があるんで。

池上:学芸員とか研究官って呼ぶようになったのはやはり、欧米に合わせたところがあるんでしょうか。

高階:学芸員ていうのは欧米に合わせて、コンセルバトゥールの訳でしょうね。研究官というのは技官の中で、正式にある役職ですので。行政職に行政官があって、それから研究職があって、研究職の中に技官や教員がいるということになるんでしょうから。だから、文部技官の中でも偉い人は研究官、主任研究官っていう名前を持ってましたがね。システムとしては持ってるには持ってたけど。

林:でも学芸員が長いテキストを書くっていうのは、逆に言うと高階先生のような、西美の場合はむしろ特殊で。

高階:非常に特殊だったと思います。

林:他の美術館ではあんまりなかったことじゃないでしょうか。

高階:今でもあんまりしないんじゃないかな。

池上:長文のはそうですよね。

高階:長文のテキストをね。かなりのところはきちんとやるようになりましたけどね。やってないところは地方美術館では多い。

林:多いですよね。

池上:やはり短めの、イントロダクション的なテキストが多いですよね。

高階:イントロダクションみたいな、ええ。

池上:美術館の話を聞いてると、ほんとに尽きないんですけれども。

高階:まあだから、地方美術館でずっと長くいる人、例えば、鎌倉なんかかなり早くから酒井(忠康)さんとかいるから。あそこは土方(定一)さんがいて、学芸員の人もいたし、今のようなシステムも含めて。あそこは事業と言ってたと思うけれども、一生懸命あそこを調べてた人がいるから、その辺の、いつ頃からどうなったかっていうことは、聞いたら面白いかもしれないね。前からいるって分かってる人だから。

林:さきほどの、粟津さんの話に戻るんですけども。粟津さんをカタログに採用されたってことはちょっと面白いなって思って聞いてたんですけども、60年代ってやっぱり、デザインっていうのは一つのキーワードですよね。

高階:ええ、わりにデザイナーっていうことを言い始めたかも。

林:その時代ですよね。例の鹿島の『スペース・デザイン(SD)』もそうですよね。なんとなく、そういうやっぱり時代の意識みたいなもの。

高階:逆に言えばデザインっていうのに対して、その仕事はお役所的にはなくて、粟津君にしてもデザイナーとしては払えないんですよね。だから例えば単純にレターヘッドを考えてもらうってこともやったんだけれど、それもデザインとしてはできなくて。だから印刷会社にまとめて頼むと。そこに(デザインも)含ませるというような感じですね。

林:職業としてデザイナーっていうことがまだない、具体的に認知されてないっていう。

高階:ええ。だから『スペース・デザイン』で、デザインが大事だって言い始めた頃だけれど、それは僕が東大に移った時でもそうでしたね。東大に僕が移ったのが1971年で、東大のレターヘッドを別のデザイナーに頼んだ時に、やっぱりデザイン料は出せないと。だからその人が会社を通して、印刷会社にそのレターヘッドを頼むと。その代金に(デザイン料を)含ませて。要するに物を納入しないと金が出せない。1970年代ははっきりそうでしたね。1970年代、80年代。僕が東大にいた時はずっとそうだから。だからデザインには金を出さないでしょうね。

林:そうですか。

高階:新聞社がやる場合にはひっくるめてやってたかもしれない。でも美術館として金を出すことはできないと。

林:でも先生はわりと早くから興味を持たれてたわけですよね。その粟津さんといっしょに仕事をされたりっていうのは。

高階:そうです、ええ。『季刊藝術』の時の最初に粟津君に表紙からレイアウトから頼んだんですからね。

林:それはやっぱり、トータルな雑誌のデザインみたいなことを(考えておられた)。中味だけじゃなくて。

高階:そうですよね。とりあえず顔だから大事だってことで。デザインの方からいうと、本の装丁とか新しくし始めたのはその頃かな。デザイナーはあんまりいなかったんじゃないかなぁ。絵描きさんに頼んだりはしてましたよね、いわゆる普通の単行本は。出版社も、デザイナーに頼むんじゃなくて絵描きさんに頼むってことはあったかもしれない。あとは、社内で適当にやってたとか。創元社の小林秀雄は自分でやったとかなんとか。印刷所の職人さんが適当にやったとか。絵を入れた場合にはだいたい絵描きさんですよね。

林:なんか、デザイナーになる人はけっこう最初は出版社にいた人が多いですよね。

高階:ああ、そうですよね。

林:内部で仕事して、それで独立。

池上:必要に迫られてやって、ということですかね。

林:だから1960年代半ばってのは、僕の感じだと「デザイン」がすごく重要なコンセプトで、日本の社会にぼーんと出てくるっていう感じがあるんですけど。『SD』だけじゃなくて『デザイン批評』っていう雑誌も、確か1965、6年だったと思います(注:1966年11月創刊)。

高階:ああ、その頃からですかね、あれは。

林:ええ。それと東京オリンピックがあるとか。

高階:ええ、東京オリンピックのポスターね。(デザイナーは)ポスター作家として出てきたかもしれないな、あるいは。原(弘)さんとか、亀倉(雄策)さんとかですね。

林:東京オリンピックは、西美とは関係なかったんですか(笑)。

高階:関係ない、1964年でしょう。ミロのヴィーナスが来たとか(笑)。

林:そうか、そういう年なんですね。

池上:いろんなことが起きた年ですね。

高階:そうです。高速道路ができた。だから今考えてみるとずいぶん大きく変わった年ですよね、60年代っていうのは。

林:『スペース・デザイン』ってあの雑誌のタイトルは、あれは鹿島側が。

高階:鹿島側がもうしてたんです。そして、最初の編集委員に入ってたほとんどが建築家ですよね。鹿島のあれですから。まあ、建築はデザインではあるわけだけれども。

林:川添登さんとか入ってたんですよね。

高階:ああ、建築批評家の川添さんも入ってた。で、建築雑誌の編集者をしてる人たち、平良(敬一)さんなんかが中心だったですね。

林:その頃から先生は建築の世界もけっこう。

高階:建築はわりに興味あった。それはコルビュジエ以来の、坂倉さんとのつきあいがあったからですから。面白いなとは思ってました。

林:日本の建築家で、坂倉さん以降、先生が興味を持たれた建築家は。

高階:それはそれぞれにある。白井晟一さんってのは面白いと思いました。

林:面白いですねぇ。

高階:非常に面白いと思った。使いにくいなと思ったけれども、良い作品。

林:今なんか造形大で、彼の展覧会やってますよね。

高階:そうですね。それから、磯崎(新)さんとはわりに親しくしてたから。

林:磯崎さんとはいつ頃からですか。

高階:あれは最初は何だったんだろうなぁ。むしろ僕は、宮脇(愛子)さんの方が先かもしれないなぁ。で、軽井沢に行って、一緒に会ったりってことが始まりですよね。この間愛子さんが出てきてたなぁ。マン・レイの展覧会に。もう80歳だけど車椅子出してですね。元気で出ておられた。一時期大変だと思ったら一応元気で、「こんなんなっちゃいました」とか言いながらずっと見ておられた。

林:そうですね、マン・レイと彼女は。

高階:そう、マン・レイの写真にも出てたしね。だから、ぜひ見たいとかって言って来ておられましたね。で軽井沢で、その宮脇さんを通して磯崎さんと会ったのが始まりだと思うな。『スペース・デザイン』のときもいたかな。初めの頃はまだ出てなかった。

林:あれはすごく、今バックナンバーを見ると非常に横断的な雑誌で。

高階:そうですね、ええ。

林:今はちょっとありえないぐらいの内容になってる。

高階:美術とか演劇とかやろうっていう。付属号に書いてもらったりねぇ。

林:それはやっぱり編集委員の人たちが定期的にやっぱり編集会議を開いて。

高階:編集会議、最初はやってました、毎号、ええ。

林:ほんとに内容が濃くて、驚きまして。

高階:そうですね、初めの頃はあれ、かなりおもしろいことをやってました。

池上:ちょっと1960年代の、先生ご自身のお仕事に話を戻しますと。

高階:何もしてないんじゃないかな。

池上:すごい勢いで出版もされているんですが(笑)。

高階:ああ、そうだっけ(笑)。いいよもう、自分のことは。

池上:いえ、63年に『世紀末芸術』(紀伊國屋書店、1963年)という本を出されて、64年に『現代絵画 ピカソ:剽窃の論理』(筑摩書房、1964年)っていうふうに、どんどん出されていくんですけれども。これは内容としては、留学中にご研究されていたことを。

高階:その続き。ピカソはそうですね。ピカソは、『みづゑ』に最初出したのが、もうパリにいるときからですから。東野君にアレンジしてもらって。もちろん、帰ってから続きを書いて、というので、材料は全部パリで。やりたいと思って集めてましたから。写真なんかもほとんど。『世紀末芸術』というのは、僕が帰ってきたのが59年で、その年に、今とちょっと似てるんだけど、新書ブームがあったんです。岩波新書っていうのは昔からあって、新しく紀伊國屋新書っていうのを紀伊國屋が出版部を作ってやると。その紀伊國屋新書の編集の人がいきなり来たんだな。直接僕は知らない。オリエントや歴史のことをやってる矢島文夫さんという人がそこに勤めてたんです。その矢島さんが来て、「新書を作るんで、なんでもいいからやらないか」って話があって。それで、パリにいたときから面白いと思ってた世紀末の芸術思想を。つまり、印象派が出てきたり、サンボリスムが出てきたし、総合主義が出てきたり、新印象主義、いろんな新しいドクトリンが出てきたから、世紀末の芸術思想っていうのでやりましょうかっていうことから話が始まって、少し背景を追います。それはアール・ヌーヴォーが中心。アール・ヌーヴォーは評判が悪かったんですよ。

林:ああ、そうですか。

高階:ええ、1960年代も評判悪いですし、1950年代にパリに行って、(アンドレ・)シャステル(André Chastel)さんが「アール・ヌーヴォーはちょっと面白いから一緒に見て回ろう」ということがあって。(エクトール・)ギマール(Hector Guimard)のメトロや、それから建物が一つ残ってるとかっていうのを見て。シャステルさんは建築もまとまった本も出してるぐらいですから、聞いてて面白い。特に世紀末の場合には芸術横断的で、文学やなんかとも関係がある。マラルメとか。それをやりましょうかっていうのが話の始まり。でも「世紀末の芸術思想」っていうのはあまりにも堅苦しいんで、一般新書の、もっと一般向きの題ってことで、もう簡単に「世紀末芸術」でいきましょうかっていうことになったのがそれですね。本としてはそっちの方が早いのかもしれない、ピカソよりも。

池上:そのようですね。

高階:ええ。「ピカソの剽窃」は何回かに分けてますから。最初は『みづゑ』にずっと出した。後は最後にちょっと書き加えたんですけど。『みづゑ』の最初の方は早いけれども、本になったのは後ですよね。

池上:本になったのは『世紀末芸術』が1963年で、ピカソの方は翌年というふうになってるようです。

高階:そうでしょうね。

林:先生その時、もう非常勤で教えられてました?

高階:非常勤で(東大の)駒場に行ってました。

林:そうですね。僕なんか『世紀末芸術』のあとがきで、先生がゼミの学生さんたちに謝辞を書かれてたのを覚えてるんですけど。

高階:そうです、よく覚えててくれた。それはね、本郷ではなくて駒場の方ですけれども、教養学科の授業だったから。1959年に帰ってきて、次の年から。

池上:1960年からはもう教えられてるんですよね。

高階:1960年4月から、非常勤で一つ教えてくれっていうので。

池上:それは美術史のコマになるんでしょうか。

高階:ええ、美術史。で、わりに勝手にやっていいっていうので、今から考えればかなり強引にやったのが、向こうのリクワイアメント・リーディング(requirement reading)でね。僕が持ってきた本を貸して、読んで発表をさせたりしながら、だいたい世紀末の問題はやったんですね。あとルネッサンスの問題もやったのかな。

林:僕はあの『世紀末芸術』っていう本は、高校生の時に読んだのかなぁ。

高階:早いなぁ。

林:いや、それは高校生のもうずいぶん後に。

高階:ええ、でも。

林:で、すごく頭をカーンとやられた気がしたのは、あの本が作品解説とか作家解説じゃない点です。先生がおっしゃってたことの一つは、世紀末がなぜそういうふうに全ヨーロッパ的に運動が広がるかっていう話で。交通とか伝達の発展に言及されてたところ。

高階:社会史的な面。

林:社会史的な面、そのインフラの話をされてるわけです。「そうか、美術史ってこういうことができるんだ」と思って、すごく目を開かれた本なんですよ。先生は、方法論的にそういうことを最初から意識されてたわけですか。

高階:向こうで出てたアール・ヌーヴォー関係の本は、それをもちろん言ってました。あと、美術史の基本的な文献としては。ペリカン・ヒストリーが非常に良いっていうので、それをシャステルさんから読まされたんです。

林:先生の授業で読めって言われたの覚えてます。

高階:あれ、英語も非常によくできてる、それぞれに。それから、ドイツ語だとプロピレン・クンストゲシヒテ(Propyläen Kunstgeschichte)っていう、これも新しいやつは非常によくできた。昔は戦前のがあって、戦後はノイエプロピレン(Neue Propyläen)って。それからフランスでは、(アンドレ・)マルロー(André Malraux)がやった、ユニベール・デ・フォルム(L’Univers des formes)っていう要するに非常に大きなシリーズが、美術史の基本的な図版もあるし。その中で一番分かりやすいのがペリカン・ヒストリー。それの(ヘンリー・ラッセル・)ヒッチコック(Henry Russel Hitchcock)が書いた19世紀20世紀の建築(Architecture: Nineteenth and Twentieth Centuries, Pelican History of Art, Penguin Books, 1958)。これは今でも非常にいい本だと思います。非常に大きなショックだったのは、通常は中世からルネッサンスになって、それからずっと来て、19世紀末から20世紀で芸術革命になると言われている。ヒッチコックは、建築の場合は少し違うんだと。建築の革命は素材と技術。それは要するにコンクリートおよび鉄の出現。それからガラスですね。それは19世紀の初めになるわけですよ。そこで大きく変わるという、技術の問題が非常に大きくクローズアップされてくるわけです。それが世紀末に大きな影響を与えたっていうことですよね。だからクリスタル・パレスなんか19世紀半ばからはっきり出てくる。で、美術の前衛っていうのは、20世紀のフォーヴからかと思ったら、もう19世紀中ごろには出てくる。ヴィオレ=ル=デュク(注:Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc、ゴシック・リヴァイヴァルで知られる19世紀フランスの建築家)なんかも、当時は評価が低かったんだけれども、鉄、ガラスっていうことになると逆にあれが大事だって。もう19世紀の頭から。ポン・デ・ザール(Pont des arts)は19世紀初めですから。しかし、それまではずーっと変わらないんですよ、技術的には。要するに、石を積み重ねてるだけだから(笑)。だから、遠近法やなんかでルネッサンスでがらっと変わったっていうのじゃなくて、あくまでもボザールの建築っていうのは、もう石を積んでるだけで技術的には変わりないっていうんで、その19世紀の技術革命が、建築の歴史を大きく変えたんだと。アール・ヌーヴォーでもギマールなんかはそうですよね。鋳鉄のやつとか。それからガラスを使った、(アンリ・)ラブルースト(Henri Labrouste)のビブリオテーク・ナショナル。床は全部透かしになってて光が入ってくるとかですね。というようなのは、新しい技術じゃないと出てこない、ていうことがあったんで、『世紀末芸術』の中でも、建築とデコレーションっていうのは、非常に大きな意味がある。実際に建築雑誌がいっぱい出た時期ですから、それはやっぱり大きな意味があって。思いきった新しい技術を使って、いろんなことやったのがアール・ヌーヴォーで、装飾をやたらにやってたりね。(アウグスト・)エンデル(August Endell)なんか、鋳鉄を使って軽い廃物みたいなのをつけるとか、ギマールのああいう模様ができるとかって。それに対して、いや、その技術をもっと純粋に使おうっていったのが、コルビュジエとかバウハウス。バウハウスが一番純粋に、キュビスム的にいこうって。技術および材質、そして材質の扱い方が進歩したからできることです。ガラスだって、板ガラスができたのは19世紀ですから。それまでは素通しのガラスがないわけですから。だからステンドグラスは全部、小さいガラスを鉛でこう、組み合わせなきゃいけないんです。ステンドグラスは綺麗だっていうけど、技術的には大きくできないから、組み合わせてるわけです。でも19世紀に板ガラスができて、それから細い鉄ができるようになった。全部それに変わったっていうのは、やはり世紀末の大きな転換だってことでしょうね。だから嫌でもそういう社会的な要素が出てくる。で、それを見せたのは万博です。万博は美術というよりも技術ですからね。こんなものができるよって。エッフェル塔が建ったのも、決して綺麗だから建てたんじゃなくて、要するにこんなのができますよっていうんで建ててたわけですよね。それが新しい美意識を生み出したっていうことはあるんですが。それが世紀末の問題になってくるっていうことだと思います。

林:それまでの世紀末関係のものっていうのは、だいたい作家紹介とか、非常に基本的なものしかなくて。

高階:そうですね、作家中心ですね。

林:全然違う、こういうふうにアプローチできるんだって思ったのはやっぱりすごく新鮮なことで、覚えてますけど。だからあとがきまで覚えてる。

高階:恐縮です(笑)。

池上:多大なる影響を与えているんですね。すごいです。翌年のこの『現代絵画』(保育社、1964年)っていうご本は、もともとはどちらに連載されていたんでしょうか。

高階:『現代美術』(筑摩書房、1965年)だと思ったな。

池上:いや、保育社というところから、『現代絵画』という本をお出しになってる。

高階:ああ、これは保育社のカラーブックスだから。小さい文庫版の形で、簡単な解説をずらーっと書いてる。

池上:で、ピカソを出されたその次の年に、筑摩の『現代美術』を出されてるんですね。

高階:そうそう。筑摩の『現代美術』というのは、今ではちくま学芸文庫に入ってます。『20世紀美術』ね。あれは筑摩新書のために書きおろしたと思います。

池上:ああ、じゃあ連載されていたわけではなくって。

高階:保育社のはほんとに小さい版で、一頁に一つずつカラーを入れて簡単な解説つけるという、ごく一般的な本ですよね。

林:筑摩の方は、確かオブジェという概念で。

高階:そうそう、「オブジェとイマージュ」。あの頃はわりに、オブジェとイメージの問題は大きかったですよね。

池上:もう一つ1967年には『美の思索家たち』(新潮社、1967年)を出されて。これは他の本とはやっぱり少し性質が違うと思うんですが。

高階:全然違う。

池上:これは本当に、あらためて素晴らしいと思います。

高階:これは向こうの美術史研究者の紹介ですけど、簡単に言うと『藝術新潮』への連載が始まりです。あと若干書き足してるかもしれない。ということは『藝術新潮』も今よりはもう少し真面目だったのかなぁ(笑)。編集者で、東大の美術史出た、僕の後輩の人、貝島くんっていう人がいて、貝島明夫って。

林:あれ、ブリヂストンにいらっしゃった人じゃないですか。

高階:いや、それは貝塚(健)。もっと上です。後輩だけど僕とそう違わないんで、もう亡くなられたぐらいの方です。で、美術史の彼もいたし、ルーヴルをやってた人が「西洋美術に関する名著を紹介してくれ」という話で。それで確か『藝新』では「名著ダイジェスト」って出てた。

池上:それで「ダイジェスト」という言葉に抵抗を感じられたっていうようなことをお書きになってますけども。

高階:だから僕は「名著ダイジェストは嫌だ」って言ったんだけど(笑)、まあ結局、少し紹介しながら。

池上:そういうものに触れたいという読者側の需要みたいなものはあったんでしょうか。

高階:新しい方法論みたいなものが漠然と出てきたのかな。要するに日本美術史にしても、様式論で、これは誰がいつ作ったっていうことだけをやってて、それが大問題。もちろん大問題なんだけど。で、それをどうやって決めるかってことだけをやってたけど、それだけではなくて、思想的な背景とか社会的背景とかいろんな考え方があるっていうことで。じゃあ代表的な作品で見てみようってことですよね。だからしんどかったなぁ、それは。

池上:大変な労作だと感じました。

林:だって、これほとんど翻訳当時はないですよね。

池上:翻訳がないものを選ばれたんですよね。

高階:ええ、翻訳のないものを選んだんです。だから(ハインリヒ・)ヴェルフリン(Heinrich Wölfflin)なんかは翻訳があったからやらなかった。

林:このラインナップはどういうふうに決められたんですか。

高階:それは完全に僕に任されました。それで、翻訳がないものの中から、最初のうちはある程度時代を追ったのかな。エリー・フォール(Élie Faure)から始まって。

池上:そうですよね。(アンリ・)フォション(Henri Focillon)にいって。

高階:フォションにいって、っていうような。でも僕が任されてたので、選んだのはたまたま当時読んでたとか、アプローチの近さですよね。フランスもわりにアーケオロジック(archeologique、考古学的)っていうか、資料を見て、誰がいつ、どこでっていうことは、今でもずっとあるし。それは一番基礎として大事なんですが。しかしアメリカは、日本もそれに近いけど、要するにものがないから、その考え方(注:様式論以外の方法論)でいくっていうのがあって。それはワシントンでやったメロン・レクチャーがだいぶ入っていたと思います(注:A. W. Mellon Lectures in Fine Arts。ワシントンのナショナル・ギャラリーが毎年行う講義シリーズ。)。偉い人を呼んで何回かやって、それを一冊の本にした。ゴンブリッチさんのもそうだし、いくつか入れたと思います。

林:そうするとフランスで先生が勉強されてたときっていうのは、美術史の世界で、メソドロジー(methodology)みたいな授業っていうのはまったく無かった。

高階:なかったですね、ええ。あれは、やっぱりアメリカはよくやるんでしょうね。

林:いや、それはどうなんでしょう。

池上:比較的最近だと思いますけどね。

高階:そうですか。(当時のフランスでは)つまり、書架に行ってこう資料を見ろとかいう式のことだけですよね。雑誌はこういうのを見ろとかっていうことは、ゼミで教えられるわけですけども。アプローチっていうのはだから、シャステルさんが非常に広いから。この間も言ったと思うけど、ヴェルフリンは僕が行ったときは翻訳がなかったから。ヴェルフリンもリーグルもない。パノフスキーも一般には知られてない。翻訳はその後です。でもゼミではシャステルさんがこういうのがいろいろあるよと。その時に、英語で言えばアプローチだって言ってた。要するにフランス語で無いんですよ。アプローシュって言っても分かんない。美術作品に対する様々なアプローチっていう方法があると。わざわざ英語で。基礎的な背景をやったり、もちろん作品直接もあるけれど、文学との関係やったり。シャステルさんも『ル・モンド』に書いた中で、これは新しいアプローチだって書くときに、クオテーションで“approach”って英語で言ってたぐらいだから、フランス語では無かったんでしょうね。しかし美術作品を見るアプローチの方法はいろんなものがある。それは非常に広い、当然縦割りではない、領域横断的なところはあるんですけれど。人間の活動が非常によく分かってくるっていうようなものをやりましょうっていうことなんだろうね。

林:今、日本の状況がアメリカとわりと似てるっておっしゃいましたけど、日本はどうなんでしょう。わりと早くから方法論的に対する意識っていうのは、美術史の中にあったんでしょうか。

高階:様式論的な見方はかなりあったんじゃないでしょうかね。時代判定とか、作者判定の時に。わりにヴェルフリンなんかの影響は強かったと思いますよね。あれは非常に早く翻訳が出てるから。大正年間だから。それから、もちろん伝統的に、いろいろ日本の言い伝えやなんかはあるでしょうから、それに基づいて、流派分けということは日本でやってました。これは土佐派だとか、狩野派だとかっていう。その流派分けをするのが、文献的な背景と、あとは様式でしょうね。これは狩野派の様式が入ってるとかなんとかっていう見方はしてたですね。

林:僕が不思議だなと思うのは、例えば(アロイス・)リーグル(Alois Riegl)を日本語に訳されるのは、例えば長広(敏雄)先生(注:東洋美術史の専門家)だったりしますよね。

高階:長広さんがやってました、ええ。

林:ああいうのって、ちょっとアメリカでは考えられない。普通は西洋美術の専門の人が翻訳をすると思うんですけど、そうじゃなくて、長広先生がリーグルを訳したり、美学系の人がしたり。

高階:美学がそうなんですよね。フランスでは美学があんまり強くないのかもしれないな。アメリカではどうですか。

林:いや、美学ってのはないですね。芸術学。

高階:哲学の一部。

林:一部ですね。

高階:日本は美学・美術史で美学が強いです。

池上:強いですよね。やっぱりドイツから持ってきたというのが強いというか。

高階:ドイツの伝統があって。明治以来ですからね。中江兆民のウージェーヌ・ヴェロン(Eugène Véron)の美学(『維氏美学』文部省編輯局、1883–1884年)。それから、森鴎外の(エドゥアルト・フォン)ハルトマン(Eduard von Hartmann)の美学(『審美学綱領』)という、美学の方が強いですよね。美学をやる人はドイツ系の人が多いかなぁ。

林:先生が東大に移られたときは、まだ美学美術史。

高階:美学美術史です。竹内先生が中心だから、周りも現象学、美学ですよね、非常に。もともとは哲学の先生です。それから美術史をやられた矢崎先生っていうのも、もともとは哲学出身。

林:ああ、そうですか。

高階:ええ。ヘーゲルかなんかやっておられた人だから。その伝統は非常に強い、日本の場合。

池上:じゃあこういうご本を書かれていた時は、美術史的なアプローチっていうことをことさらに意識されていたんでしょうか。

高階:ええ、美術史のっていうことだと思います。作品を見るための。

池上:美学的なということではなくて、美術史の立場からアプローチするためのっていうことですよね。

高階:ということはだから、作品分析とか作品の位置づけとか意味とかっていうことを、どうしてもクローズアップさせてくっていうことですよね。

林:先生ご自身は、自分の中の美学的な側面と、そういう作品に即する側面と、どういうふうにバランス取ってらっしゃるんですか。

高階:難しいよね。その辺は適当にやってんじゃないかな(笑)。まとめる時はやっぱり美学的なものが必要ですが、作品が美術史の出発点でしょうね。一応美学はもちろん授業があるわけだから、基本的なことは大学でもやってるでしょう。学部の先生もいたんですよね、美学会があるくらいだし。美学の考え方っていうのは当然出てくる。それが美術史とはなんとなく離れてたんだな、東大は。美学美術史と言いながらね。研究室は全然別だったですからね。

林:なんか日常的に交流があるというわけではなくて、やっぱりこう、かなり離れて。

高階:だから君たちの頃もそうだ、美術史の学生は美学の授業は一時間だけは聞けと(笑)。なんか要請があったと思いますけれども。

林:ああ、そうでしたね。

高階:あんまり聞かなかったみたい。

林:確かに、学生も両方に出入りするってことはあんまりなかった。

高階:でしょうね。研究室はほんとんど別々だったでしょうね。

池上:美学と美術史が両方ある大学って、どこもそういう感じみたいですね。世間的にはどっちも大して変わらないと思われてるんですが、本人たちにとっては大問題みたいなところがありますよね。

高階:だから美学と美術史があるだけいい。つまり東大は美学美術史だったわけですよ。ただ入ったらどっちの研究室に行くかっていうんで、僕は美術史に行ったけども。もちろん美学に行ったっていいわけだけれども、入った時点で、どっちかの研究室に属すってことになっちゃいますよね。それは今では別れちゃったみたいだけど。美学の方が美術史よりも幅が広いというか、映画があったり音楽があったりということはありますよね。映画監督になりたいとか、音楽美学やるって人がそっちに進むことになるから。美術史はやっぱり作品中心ってことになるけど。でもフランスでも美学っていうのは、もちろん先生はいたけど、美術史が中心だったですね。美術研究所に行って、哲学の中に美学の講義があった。エティエンヌ・スーリオ(Etienne Souriau)さんっていうのが、面白い人で。

林:ええ、エティエンヌ・スーリオ。

高階:あの『コレスポンダンス・デ・ザール』(La correspondence des arts, Flammarion, 1947)っていうのは、あの頃わりに読まれて。(スーリオは)日本でも翻訳が後で出たと思います。その本(『美の思索家たち』)では扱ってないですが、それは純美学の、文学と音楽と美術とお互いに呼応してるとか、影響があるとかっていうようなことを、美学的に解釈した本ですね。美学の人では、今も基本的な文献になってると思います。まあ美学は基本的にドイツ美学ですけどね。フランスのものはあんまりやってる人は少ないけど。

林:この中でちょっと特殊だなと思うのはやっぱり、(アンリ・)ベルクソン(Henri-Louis Bergson)が入ってること。(エルンスト・)カッシーラー(Ernst Cassirer)もそうですけど。ベルクソンは先生、以前から関心を持たれてたんですか。

高階:ベルクソンは教養学科の時に卒論でやりましたから。だからなんかまとめたかったということはあったんだな。それは美術史とは全然違いますよね。

林:だけどまあ、ある種の説得性はある。

高階:カッシーラーの場合は、(エルヴィン・)パノフスキー(Erwin Panofsky)関係が非常に強いから。(メイヤー・)シャピロ(Meyer Schapiro)なんかもそうだけども、要するにヴァールブルク派をやると嫌でもカッシーラーに行きますから。

林:ていうことは、先生はフランスに留学されたわけですけど、もう既にパリにいらっしゃる頃から、ドイツで起こってること、それからアメリカのシャピロとかそういう人たちの研究をやっぱりかなり視野に入れて。

高階:ええ、高校では一年間だけどもドイツのものばっかりやってましたからね。それほど知らないけれど。そして美学関係の人はドイツの人が多いから。竹内先生もドイツ美学だし、一応名前ぐらいは聞いてて、必要なことはやんないといけないってことはありましたよね。

林:フランスで、例えばシャピロを読めなんてことは言われるんですか。言われないですよね。

高階:ないと思いますよね。シャステルさんもシャピロは言わなかったなぁ。パノフスキーを読めとは言われました。パノフスキーはシャステルさんからも聞いた。でもシャステルさんも知ってただろうな。ゴンブリッチのことも言ってましたね、彼は。シャピロはね、日本に来たことがあったんだ。あれはなんで来たんだっけ。

池上:あ、そうなんですか。

林:そうなんだ、全然それ知らない。

高階:あ、知らない? 展覧会で来たんです。あの展覧会はどこへ行ったんだろうな。アメリカかどっかから来たのかな。シャピロさんが講演をしたことがあるんですよ。

池上:それは中世美術ですか。それともモダン・アートの。

高階:モダン・アートのことだったと思うな。ただ、芸術と思想の話をして、僕もよく覚えてないけれども、わりに小さい部屋で、その時に僕はカッシーラーのことを質問した覚えがあるんで(笑)。カッシーラーっていうのは、あれなんじゃないですかっていう話をしたことがある。あれがいつのことだったかなぁ。奥さんと二人で来てたんだ。たぶんアメリカが呼んだんだろうなぁ。

林:当時っていつのことですか。

高階:1960年代だな。

林:シャピロなんて名前は日本ではほとんど知られてなかったですよね。

高階:知られてなかったですよね。

池上:ないですね。研究者との交流っていうことでいうと、1967年、このご本を出された年にちょうどアメリカに行かれて。

高階:そうです、はい。

池上:そこでパノフスキーとも交流があり、クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg)にもお会いになったっていうことでしたけども。

高階:パノフスキーにも会ったし、シャピロさんの講義も聴きました。ニューヨークのコロンビア大学でやってて、ものすごい人気で、ものすごく混んでた記憶があるけど、面白かった。それは抽象美術の回をやってたのかな。全くこれは単に聴いただけですけどね、ご挨拶して。

池上:やっぱりアメリカの美術界ですとか、アカデミア、大学の感じというのは、フランスとはだいぶ違いましたか。

高階:美術館とのつながりが非常に強いのかな。フランスはわりに美術館と大学が離れてる感じがあったんですけれども。美術館の人は美術館の人だし、大学は大学。まあアメリカでも、パノフスキーはそういう一生懸命展覧会見る方じゃなかったなぁ。近代美術をやる人は、嫌でも美術館とは縁が深くなるでしょうから。(ジョン・)リウォルド(John Rewald)なんて人は両方やる。当然作品を調べるってことがあるわけですからね。だから1967年から68年にかけて行ったときは、美術館にいたけれども、こっちはまだ半分学生みたいな感じで。いろいろご挨拶して、お話をうかがってるという感じでだったですけどね。

池上:どこかに所属はされたんですか。

高階:特に所属はしてないですね。

池上:もうフリーな立場で。

高階:フリーで、だから美術館をなるべく見て回りなさいっていうんでアメリカ中あちこち回って。それは、今から考えればいいよねぇ。

林:いいですね(笑)。

高階:だから美術館行ってご挨拶して、絵を見せてもらったりっていうようなことで、出歩いたのが主です。研究者としていろいろやり始めたのは、むしろ1970年代に入ってから。それこそ国際美術史学会の方でしょうね。そこでアメリカは(H. W.)ジャンソン(H. W. Janson)さんなんか中心だったから、ジャンソンさんとも、そこで再会して。再会っていうか、向こうは覚えてるかどうか分からないぐらいですけど、しゅっちゅうお会いするようになって。

池上:ロックフェラー三世財団に招聘研究員という形で呼ばれたのは、あちらからアプローチがあったんでしょうか。それとも、何か応募するような形ですか。

高階:これはですね、とにかくアメリカに行きたいということはいろんなところで言ってたんですけど、応募ではないです。試験ではなくて。で、アメリカ文化会館や大使館なんかに言ってて、ロックフェラーなりフルブライトの場合、来ないかって話が来るわけですね。向こうがリサーチしてるんだと思いますけども。その時に、山田智三郎先生が推薦を書いてくださったってことは後から聞きました。こういう学芸員がいるよっていうようなことで。それで、僕のところには直接アプローチが来て、それはもう喜んで行きました。

池上:じゃあ「推薦されているけど、いかがですか」っていうことで。

林:それこそ『SD』だったかなぁ。出国寸前の高階秀爾氏っていう記事がありました。

高階:ええー。

林:確か写真入りでね、すごい颯爽としてて(笑)。

高階:それは、戻ってからほとんど10年近くです。7、8年か。1959年からずっと出られなかったわけだから。

林:ああそうか、それは帰国以来初めての。

高階:帰国以来初めての外国です。しかもアメリカはもちろん初めてですからね。

池上:三世の財団側の担当者というか、お世話役というのは。

高階:ポーター・マックレイ(Porter McCray)です。

池上:やっぱり彼ですか。

高階:ええ。ポーター・マックレイはほんとによくやって、他の人もいっぱい呼んでる。芸術家も呼んだりして。だから武満(徹)君なんかもそうだと思います。その世話係が彼だったですね。彼は近代美術館にいたから、それで美術界にやたらに顔なんですよね。だから美術館も「どこそこに行け、それで誰に会え」っていう紹介状書いてくれて、それを持っていくわけですけどね。バーンズだけは書かないで、「お前、自分で手紙書け」って。「美術史っていうことは言うな」とかっていうことがあったけど(笑)。

池上:バーンズさんが、難しい方だから。

高階:難しい方だから、「美術史の人には会わない」とかなんとか言ったり(笑)。他は、ほんとによく世話してくれました。どこどこ行けとかっていうのね。マックレイさん、あの実際に、毎月いろんな方に会ってるのも、マックレイさんの世話ですよね。

林:僕はもう晩年ですけど、少し付き合いがあって。

高階:ああ、そうですか。

林:ええ、ニューヨークにいる頃によくお会いしました。

高階:日本人はずいぶん世話になってると思います。

林:素晴らしい方です。要するにACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)のヘッドになるわけですよね。

池上:そうですよね。アジア専門みたいな形になりますよね。

林:アメリカで、パノフスキーにも会われたんですよね。

高階:そうなんですよ。だから、会えて良かったと思う。ちょこっとですけどね。

林:それは、プリンストンでですか。

高階:いやいや、ニューヨーク。彼はもうニューヨークにいました。

池上:IFA(Institute of Fine Arts, New York University)の。

高階:ええ、ニューヨーク大学です。講義の後で。

池上:どういうお話をされたかっていうのは。

高階:僕はちょうどモローの《サロメ》のことを、『美術史』に短いものだけど書いたんで。

林:切られた首の話。

高階:そうそう。だからモローのこういうことをやりましたってことは送っといたんだけども、そしたら、ちょうど彼がティツィアーノの《サロメ》を書いてた時なんですよね。もう本になるところで、モローをやるんなら、前の方のこともやれっていうようなことは、ありましたけどね。短い間だったけど、いろいろと教えてくれて。これは美術館じゃないから、マックレイじゃなくてシャステルさんの紹介で僕が直接手紙を書いて。今度ニューヨークに来たからお会いしたいって言ったら聞いてくれて、「シャステルってのはほんとにすごい人だな」っていうような話から始まって(笑)。そのティツィアーノの《サロメ》の写真をくれましたけどね。「こういうのがあるよ」って。面白かったです。だからそれ以後、と思ってたら、それが最後の一回だけですね、パノフスキーは。

池上:その後、亡くなってしまったんですよね。

高階:亡くなっちゃったんですよね。僕がジャンソンさんのとこにいる時に。ジャンソンさんには何回かお会いしてたんだけども。親切だったですね、それはみんな。こっちもまだ若かったし。

林:英語で会話されたんですか、ドイツ語で会話されたんですか。

高階:ああ、英語ですよ、そりゃもちろん。

林:英語ですか(笑)。

高階:もう全部英語。ドイツ語とか考えなかったよね。パノフスキーももちろん英語ですよね。ジャンソンさんもそう。英語で話してましたね。

池上:その頃のアメリカ、というかニューヨークには、日本からの留学生っていうのはいたんでしょうか。

高階:美術史関係はあんまりいなかったんじゃないかなぁ。

池上:特にお知り合いになった方とかはいらっしゃらなかったですか。

高階:芸術家としては武満さんがいましたよね。武満君とはよく会った。

池上:堂本(尚郎)さんも同じ頃いらしたんでしょうか、ニューヨークに。

高階:もうちょっと前ですね。

池上:66年あたりですかね、堂本さんは。

高階:ええ、そうです。パリから行って、マーサ・ジャクソン(Martha Jackson Gallery)やなんかに行ってた。あといたのは誰だろうな。

林:篠原(有司男)さんとか、荒川(修作)とか、河原(温)さんはいたな。

高階:いたはずですね。でもあんまりそういう人たちには会ってないな。篠原さんとはもちろん、日本で知ってたんだけどね。

池上:彼らも必死で生活している時期だったのではないでしょうか(笑)。

高階:そうですよね。日本人とはあんまり付き合わなかった。

池上:篠原さんは1969年ぐらいですね、確か。ちょっと遅れて行かれたんですよね、彼は。あと、グリーンバーグについても交流をお聞きしたかったんですけども。

高階:グリーンバーグは、『季刊藝術』を始めたばかりだったから、『季刊藝術』に何か書いてもらったらどうだ、なんて枠から行って、そして会ってくれて、いろいろ話はしたんですけどね。『季刊藝術』に書いてくれって言ったら「それいくら出すんだ」とか言われて(笑)。

林:グリーンバーグはいつもそうらしいです。

池上:そうなんですか。

高階:それで、こっちは困っちゃってさ(笑)。翻訳もしなきゃいけないし、それはとても無理だなという話になって(笑)。

林:僕が知り合いだったのが、「ペインターズ・ペインティング(Painters Painting)」(注:書籍版の邦訳は『現代美術は語る』(青土社、1997年))っていうドキュメンタリーを撮ったエミール・ディ・アントニオ(Emile De Antonio)。いろんな人にインタヴューしてつなげた映画で、グリーンバーグも出てるんだけど、もう何十人っていう作家もディーラーも批評家も出てて、唯一お金を請求されたのがグリーンバーグだって。

池上:そうなんですか。

高階:ほんとう(笑)。

林:そう(笑)。それで仕方ないから払ったって彼は言ってたけど。

高階:払ったわけだ。

池上:すごいですね。

高階:僕たちはそこまで考えてなかったからね(笑)。

林:でもグリーンバーグをよくご存じで。そうか、瀬木さんが訳されてたから。

高階:そうです。瀬木君の翻訳に対して文句つけたのはその前ですよね。

林:そうそう、その前ですよね。

高階:でもグリーンバーグが面白い批評家だなっていうことは、思ってました。

池上:では、翻訳でお読みになってたんですか。

高階:元のも読みました。

池上:それで間違いがあるんじゃないかという。

高階:ええ、酷い。

林:酷い翻訳で。かなり手厳しく先生は批判されて(笑)。

高階:誰が聞いてもおかしいから、もういっぺん調べてみたら、もう無茶苦茶だってことでね。グリーンバーグはあれで損してますよね。

林:まあそうですよね。あれは確かにわけの分からない日本語で。

池上:彼の評論のどのようなあたりが面白いと思われましたか。

高階:文化論的なことをやってましたよね。文化史のね。それはなかなか面白い見方だとは思ったんですけどね。

池上:文化論的っていうのは、グリーンバーグの初期の頃ですよね。1939、40年あたり。

高階:ええ、そうです。

池上:先生が1967年に行かれた頃っていうのは、グリーンバーグはもう権威というか、大家みたいになってたんでしょうか。

高階:そうでしょうね。それほどの付き合いはなかったけど、彼はモダニスムの理論の、抽象では最初ですよね。あれでモダニスムの流れが決まっちゃったようなところがある。

池上:そうですよね。

林:(ハロルド・)ローゼンバーグ(Harold Rosenberg)には、会おうとは思われなかった。あの、アクション・ペインティングの。

高階:ああ、ハロルド・ローゼンバーグ。いや、会ってないですね。ちょっと面白いと思ってたけど、直接には会ってないですね。むしろ批評家では、ローゼンバーグじゃなくて(ロバート・)ローゼンブルム(Robert Rosenblum)にはしょっちゅう会ってましたね。

林:ああ、そうですか。

高階:あれは美術史の中ではなかなか面白い。亡くなっちゃったんですけど。

林:そうですか。もうその頃にローゼンブルムが。

高階:ローゼンブルムがちょうど出てきた頃かな。18世紀末の美術史で、面白い本だなぁと思って(Transformations in Late Eighteenth Century Art, Princeton University Press, 1967)。

池上:現代美術の評論も、わりと書かれた方ですよね。

高階:そうですよね。18世紀のドイツ論のあと20世紀っていうのやったし。20世紀美術をずっと書いてた。

池上:レオ・スタインバーグ(Leo Steinberg)なんかはいかがですか。

高階:スタインバーグは講演を聞いたことはあるな。直接には会わなかった。あの人も気難しそうな人だと思ったけど(笑)、面白い。話は非常に面白いですよね。

池上:面白いですよね。ちょうど芸術と前衛の論争がこの本の中にも出てきたので(笑)。

高階:そうそう(笑)。直接には会ってないですけどね。

林:ニューヨーク以外にも、けっこういろんなところを回られたんですか。

高階:ベースはニューヨークですけど、旅行はしました。美術館回りで中部に。西は行かなかったんだな。オハイオ州とかクリーヴランドとかオーバリーとか、それからもちろんワシントンDC。それからボルティモアはずっと行ってましたね。あとハミルトンっていう、ペリカン・ヒストリーの20世紀を書いた人(Painting and Sculpture in Europe, 1880–1940, Pelican History of Art, Penguin Books, 1967)。

林:ジョージ・ハミルトン(George Hamilton)かな。

高階:そう、ジョージ・ハミルトンはマサチューセッツの北の方にいて、お宅に伺って。面白かったな、家族で行って。やっぱり美術史関係の人になるべく会いたかったのかな。美術館はもちろん作品を見るのが目的ですからね。だから20世紀美術に関してはハミルトンさんのあの本はずいぶんよく書けてたと思います。ヨーロッパの、わりに視野が広いですから。19世紀の(フリッツ・)ノヴォトニー(Fritz Novotony)のはフランスでは評判が悪くて(注:Painting and Sculpture in Europe, 1780–1880, Pelican History of Art, Penguin Books, 1960)。ルノワールの位置が小さいとか、作品の点数がルノワールはもっとあってしかるべきだとかね(笑)。それはなんかの批評ですけどね、要するに視点がやっぱりフランス中心で。でもハミルトンのあれはずいぶんいい本だなと思った。

林:そうですね、あのシリーズは、僕らが美術史始めた頃でも、ほんとにああいう本って他になかったと思いますね。

高階:なかったですよね。ええ。非常に良いシリーズだと思う。

林:先生の最初の授業で、「これを読みなさい」って言われて。夏休みの宿題かなんかで一冊読みなさいって。

高階:そうそう、一冊読めって。でもあれ一冊読むの大変だよね、考えてみりゃ(笑)。

池上:林さん、ちゃんと読まれたんですか。

林: 読まないですよ、そんなの。読むわけない(笑)。僕は悪い学生だったから。学校も行ってなかったし。でもそれは覚えてます。これをちゃんと読んできなさいっていう。

高階:だから誰も読めなかったと思うけれど、しかしこういうのがあるって知るだけでもいいんですよ。読んだようなことができる、っていうのが。みんないいですね。

林:シャピロの授業に出られたっておっしゃってましたけど、やっぱりあれですか、スライドを二枚見せてやるタイプの。

高階:ええ、非常に上手い話でした。それはみんなそうですね。パノフスキーもジャンソンさんも、ほぼそうですね。

池上:当時はスライドですか。それともあのガラスのちょっと大きめの。

高階:もとまで見ないけど、スライドじゃないかなぁ。

林:スライドでもこうやってやるやつですね、たぶんね。

池上:ああ。カルーセルがあるんじゃなくて。

林:じゃなくて、こうやってガチャンって抜いて、入れ替えて、またガチャンって入れてっていう、そういうタイプ。

高階:ええ。助手がみんなやってましたよね。

池上:実際には見たことないかもしれないです。

林:見たことないか(笑)。

高階:東大だってみんな助手がやってましたからね、講義の時は。あとはガラスをずいぶん使ってたけどね。

林:先生が学生だった頃、もうそういうふうにしてたんですか、東大は。スライドで見せてました?

高階:二枚はやんなかったです。二枚は僕はフランス行って初めて。一枚ずつですけどね。スクリーンに、幻灯機で写すのはやってました。授業では。

林:で、フランスはもう二枚見せるっていうのを。

池上:定式になってましたか。

高階:定式になりかかってたんだな。ていうのはね、美術研究所でスクリーンを二枚つけたのはシャステルさんなんですよ。最初に行ったときは大きいスクリーンがあって、僕が行った最初の年はまだシャステルさん来てないから。ラヴダン(Pierre Lavedan)がやった。ラヴダンの講義面白かったです。それからピカールさんがギリシャやったけど、それは大きいスライド。多分ガラスでしょうね。助手が操作して、一枚だけです。で、シャステルさんが来て「これ二枚つけて」っていうので、二枚つけるようにした。それ以降ですよね、フランスでは少なくとも。

池上:ドイツあたりではどうだったんでしょうね。

林:一説によると、ヴェルフリンが始めたっていう。

高階:ああ、そうですか。

池上:まあいかにも、もっともらしいですけど(笑)。

林:いかにももっともらしいんだけど。

池上:ルネサンスとバロックを見せそうですけどね。

林:そういう話ですけどね。僕はそれが制度的に定着してたかどうか分かんない。じゃあアメリカではもう、シャピロなんかも。

高階:僕が行ったのはそれからだいぶ後だから、それはもう普通でした。シャピロもパノフスキーもジャンソンも。むしろディテールを非常によく撮ってるっていうのもびっくりしたけど、綺麗な写真で。ドナテッロなんかの、作品の細かいところもよく。ジャンソンさんはドナテッロやってたんだな。だから二台。日本ではおよそ考えられなかっただろうな。日本に帰ってきてから、講演会で二台って言うと「ええっ」とか言われて(笑)。今でもなかなか二台っていうのはやらないですね。大学ではやってますか。

池上:やってた時もあるんですけど、最近はパワーポイントが普及して、また一つに。

高階:パワーポになっちゃったからね。一つにまとめるように。

池上:一つの画面の中で比べるっていうふうになってますよね。

高階:学会発表もだいたい、1970年代では二台使うのが普通だったですよね。美術史学会なんかでも。その方がずっと分かりやすいから。

林:で1968年、一年間行ってらっしゃったんですか。

高階:そうです。1967年の夏に行きましたから。9月から、次の年の…… いや、一年まで行ってないですね、8ヶ月ぐらいですね。

林:ご家族も一緒に。

高階:家族も一緒です。娘が六つになるやならずでした。初めての外国旅行だな、家族にとってはね。

林:どこか印象に残った美術館はありますか。

高階:フィラデルフィアは面白かったですよね。大きい美術館だなと思って、ばかでかい美術館で。それから、アン(・ダノンコート)さんはずいぶん親切にしてくれたしね。それともちろんその時を利用してバーンズ(・コレクション)に行ったり。

池上:バーンズさんご本人には。

高階:いや、会ってないです。まだいたのかな。

池上:あ、どうでしょう。亡くなったのは何年でしたっけね(注:バーンズの生没年は1872~1951年)。

高階:1968年ならいないんじゃないかな、もう。なんか偉そうな人がいましたけども(笑)。

林:パノフスキーは変装して行ったっていう話ですもんね。

高階:あ、そうですか(笑)。

林:うん(笑)。変装して行ったって。

高階:美術史の人と会わないっていうのも、面白いですね。

林:フィラデルフィアはもう、デュシャンのコレクション入ってたのかな。

高階:デュシャンのありました。アレンズバーグのコレクション。面白かったです。

池上:じゃあ、あの《遺作》も、既にありましたか。

林:《遺作》は、まだかな。あれ。

池上:あれは亡くなってから入るんですよね。

林:そうです、亡くなってからって言われたんだ。

池上:じゃあ1968年以降ですね。

林:フィラデフィアは確かにいい美術館ですよね。僕もけっこう好きです、あれは。

高階:いいですよね。

林:サイズ的にもちょうどいいし(笑)。そんなばかでかくもないから。まあ大きいけど。

高階:うん、天井がやたらに高い、入ったときは。まあ駅がそうだったからね。今度大きくしたみたいですね。

林:学生たちにフィラデルフィアっていうともうあれですよ、ロッキーのあれ(笑)。

池上:そうですよね。いつ行ってもロッキーの真似する人がいます。でも先生の行かれた時はロッキーの前ですから、いない(笑)。

高階:ない(笑)。カンザス・シティも面白かったですね。

林:ああ、そうですか。

高階:ええ、クリーヴランド行って、カンザス・シティ行って。あそこはけっこう日本のものもあるんですよね。日本美術の専門家がいて。僕はヨーロッパのもの、ノルデやなんか見せてもらいに行って、「日本人で、日本のもの見ないのは初めてだ」とか言われたんだけど(笑)。

林:カンザスは大学も日本美術をやってる人けっこう多いですよね。

高階:多いんですよ、ええ。これは後でいろいろ知ったんだけどね。

林:東大にもずいぶん留学生来てましたよね。カンザスから。

高階:そうでしょう。日本美術の一つの中心ですよね。それとボストン。ボストンはもちろん行きましたけど。イザベラ・スチュワート(・ガードナー美術館、Isabella Stewart Gardner Museum)と、ファイン・アーツ(Museum of Fine Arts、ボストン美術館)が面白いです。

池上:で、帰っていらして。またちょっと著作の方をお聞きすると、『名画を見る眼』(岩波新書、1969年)という、今もロングセラーシリーズで出ている新書が、1969年に出されてますけれども。

高階:これは岩波から頼まれたんですよね。一般の人向きに。新書形式でいわゆる啓蒙的な文章っていうのは、それまであんまりなかったんじゃないかな。

林:ないと思いますよ。僕らの世代は皆が読んだ本ですね。いろんな人が読んでる。

高階:つまり美術史っていうのは「読む」感じがなかったんでしょうね。美術全集とか、画集として出てて、絵が綺麗だっていうことがもう売り物だしね。それがあったんで、読むっていうのはあんまりなかったような気がしますね。

林:前半のイントロダクションのところで、けっこう先生は苦労してそのことを書かれてて。

高階:そうでしたっけ。

林:なんかね、要するに絵っていうのはまあ好き勝手に見ればいいものだけど、だけど、絵について知識を知ってるっていうことは……

池上:よりよく見られる。

林:そうそう。

高階:見られる。実際にそうだと思うな。つまり、好き勝手に見ろっていっても、見てないんですよね。自分でもそうだけど。実は気がつかないことっていっぱいあるわけですよ。だから、言われれば見るっていうことはあるでしょうからね。こんなに長く続くとは思わなかったけど。他にないのかな。

林:そうですね、1969年に出て。

池上:続編が1971年に出て、ドラクロワくらいから始まる。

高階:最初は一冊のつもりだったけれど、一人ずつ選んでいって、後がずっと残ってるから、最初のを書く時に、ここで切るけど一応次をっていうつもりで。それは編集者の人と話をして決めました。だから出来上がるのに二、三年かかったのかな。

池上:こういう一般の方たちに対する啓蒙というか、啓蒙家としてのご自身の役割みたいなことは、意識されてらっしゃいましたか。

高階:それはあんまりないけれども、美術館にいたから、美術館に人が来てほしいっていうことはもちろんあったでしょうね。だから知らせるっていうことはあったけど、むしろ自分で面白いと思ったからっていうことでしょうね。

池上:美術館では記名の論文やテキストなんかをお書きになれる環境ではなくて、逆に、出版社の方からそうやってどんどん請われて、名前が出る形で非常にたくさん書かれていて。お仕事としてはけっこうコントラストがあるなぁというふうに思ったんですが(笑)。

高階:もう美術館ていうのはほんとに、言われたことをやる、お役所仕事の延長みたいな感じですよね。手紙一本出すのでも、全部判子もらわないと出せないっていうことがあってですね。外国に出す時は、横文字に日本語の訳をつけなきゃいけないとかね。今でもそうじゃないかなぁ、たぶん。それで、上の人の判子をもらわないと出せない。そうすると、日本語に手が入ってきたりしてね(笑)。入っても仕方ないんだけど(笑)。

池上:それは送りませんからね(笑)。美術館のそういう環境にちょっと不満を持たれていたりとかそういうことは。

高階:いやまあ、それなりの仕事だからしょうがないと思ってやってました。不満でもない。めんどくさかったですけどね。外国から来た手紙は逆に翻訳をつけて、皆に回すわけですよね。こういうのが来ましたって判子をもらう。それはそれなりの仕事と割り切っていたので。不満があるっていえばやっぱり、本がないとか、お金が、つまり予算がない。雑誌を買いたいって言っても、そんな金はないとかってことですよね。それは今でも問題あるかもしれないけど、当時はもっと切実だった。

林:先生、最初のテレビ出演っていつですか(笑)。変な質問ですけど。

高階:これじゃないかなぁ、それこそ(総覧の「ルーヴルを中心とするフランス美術展」、1961年を指して)。

林:その時ですか。奥様にお会いになった。

池上:だいぶ早い。1961年の「ルーヴルを中心とするフランス美術展」。

高階:ええ。これは富永先生、今泉さん、僕だったのかな。あ、嘉門さんが入ったかな。とにかく年代で三人ぐらいで分けたんですよ。つまり三回に分けたんです、長いから。で、僕は20世紀の方。20世紀から現代までを僕が。

池上:1961年ですから、テレビがそんなに広く普及してる時代ではない。

高階:ええ、もちろん白黒だと思いますね。

池上:白黒ですよね。ずいぶん早いときから。

高階:だから、まあ宣伝もあったんでしょうね。朝日かなんかが一生懸命宣伝してたから。それから、今みたいにいっぱい展覧会ないからまあ珍しい。話題にはなった展覧会です。

林:その後もわりとテレビは、定期的に出られてたんでしょうか。

高階:定期的にはあんまりない。(NHKの)「日曜美術館」ていう番組ができて——この時はまだできてなかったと思いますが——それに何回か、関係あるときには引っ張り出されて行った。

池上:「日曜美術館」は何年に放映が始まったんでしょうね(注:1976年スタート)。

高階:これは調べれば分かると思いますが、この間何周年記念とかでやってたなぁ。NHKに聞いたらすぐ分かると思いますが。

池上:けっこう長いことやってますよね。

林:今は「新」になったり。

高階:「新日曜美術館」ってのは僕はおかしいって言ったんだけどね(笑)。一般の人には関係ないから。

池上:確かに。

高階:NHKの中の、自分のことばっかり考えてるんで(笑)。

林:先生、そういう突発的なものだけじゃなくて、なんか連続で近代美術だったか。

高階:ああ、これは教育テレビの方で。

林:教育テレビの方でやられましたよね。

高階:はい。よく知ってるね。これはあんまり人が見ないけど、近代美術についての番組ですね。

林:それはもうちょっと後の話なんですか。

高階:そうですね、今で言う放送学校みたいなもので、もうちょっと後ですそれは。テキスト作って、という。

林:なんとなく僕はああいうもの見ながら、BBCでケネス・クラーク(Kenneth Clark)がやったりする、そういうイメージがちょっとあったんですけど。やっぱりイメージとして、ご自分でもそういうことがあったんですか。

高階:ケネス・クラークのはわりに見てました。ケネス・クラークの「Civilization」(『芸術と文明』河野徹訳、法政大学出版局、1975年)を日本語にする時に監修かなんかやらされたのかな。翻訳を見てくれとかって。クラークさんには、僕が1973年にイギリス行った時にお会いした。これはブリティッシュ・アカデミーに呼ばれたんです。三か月ぐらいですけどね。それでお宅に伺って。その前にクラークさんは日本に来られたことがあって、矢代(幸雄)さんと仲が良かったから。矢代先生が生きておられて。あれはなんで来たんだろうなぁ。日本訪問のことも書いておられますけどね、クラークさん。それで日本で講演会をやった時に、僕は通訳をやらされてたんだな。矢代先生が、いろいろクラークさんのお話を紹介して。僕は『(ザ・)ヌード』と、それから『風景画論』っていうのは前からいい本だなぁと思ってたから。1973年に呼ばれた時には、クラークさんに会いたいと思って、何回かお会いしました。一度はお宅に伺った。これはもう、たいへんな人だと思ったな。普通の人が入れない通りがあるんですよね。ピカデリーのすぐそばです。オーヴァニー(Albany)っていうとこですけども、その通りは、もうたいへんなお金持ちばかり住んでて。通りの入り口に制服を着たどっしりした門衛がいて、普通の人は通れない。「お前どこ行くんだ」って聞かれて、「クラークさんに呼ばれて」って言うとちゃんと記録があって、「じゃあ通れ」っていうような。

池上:すごいですね。

高階:完全に貴族社会ですよね。ピカデリーのすぐわきですよ。それでお宅に入ると壁にミケランジェロがあったりね(笑)。

池上:複製ではなく。

高階:いやいや、デッサンですけどね。小さいデッサンだけど「これはミケランジェロだ」とかね。

池上:すごいですね。『ザ・ヌード』を訳されたのは、その後になるんでしょうか。

高階:ええと、いつ出したのかな。佐々木(英也)君と一緒にやったんだね(注:1971年、美術出版社より刊行)。

池上:ちょっと後で見てみます。著作もたくさん出される中で、翻訳書というのも非常にたくさん出されてらっしゃるんですけれども。

高階:そうです、ええ。

林:どうやってこなすんですかっていう(笑)。

池上:そうですね、それが次の質問ですよね、もう(笑)。

高階:どの程度あれしたか。最初は(ミシェル・)ラゴン(Michel Ragon)ですよね。これはパリにいる時にやった。(注:『抽象芸術の冒険』(紀伊國屋書店、1957年、吉川逸治と共訳))

池上:これはもうラゴンとお知り合いで。

高階:ええ、それこそアンフォルメルやなんか、向こうの人と一緒で、面白い新しい本が出たっていうんでもらって、全然知らない世界だからやりましたっていうこと。

池上:紀伊國屋書店から1957年ですから、非常に早い段階で出てますよね。

高階:そうです。僕がまだ向こうにいる間で、吉川先生と共訳。もう全然知らなくて、吉川(逸治)先生にご相談して。吉川先生もなかなか現代ものに興味があって、手直ししてくださったので、じゃあ連名で出そうっていうことで出していただいたのかな。

池上:次、ラゴンの『現代建築』(紀伊國屋書店、1960年)。

高階:これは大きな本です。『現代建築』は紀伊國屋だったですよね。それこそ建築の関係で。ていうのは、僕が向こうにいる間にラゴンが日本行ったんですよね。

池上:あ、そうなんですか。

高階:その『抽象芸術の冒険』が出たのが57年か。たぶんその次の年ぐらいに日本に来て、フランスの新しい美術紹介の講演かなんか。これなんで行ったんだろうな。大使館かなんかが呼んだのかもしれませんけども。

池上:(ミシェル・)タピエ(Michel Tapié)の来日なんかは非常によく記憶されていますけど、ラゴンのは…… 

高階:タピエほど派手ではなかったんだ、ラゴンは。日仏会館かなんかで講演したはずです。僕はいなかったんだけれども。その時に、日本の現代美術もちろん見て回ったし、建築も見て回ったし。日本についての本も書きたいっていうことがあって。その頃から建築は非常に興味持ってたでしょうね。その人が現代建築の本を出した。それはまとまってるから便利だなと思って。かなり大きい本ですけども。こんなの出たよっていうから、これ訳そうって。

池上:次が(ベルナール・)ドリヴァル(Bernard Dorival)の『ルオー』(美術出版社、1961年)。

高階:ルオーですね。

池上:その次がルネ・ユイグ(René Huyghe)の『見えるものとの対話』(全三巻、美術出版社、1962年)。

高階:これは中山(公男)君と一緒で。ドリヴァルはもちろん向こうで授業を受けてたし、ルオーの講義も聴いたし。そして日本でも展覧会をいずれやるとか。日本ではわりに、ルオーの名も知られてたし。いい本だから。小さい本ですけどね。翻訳して。

林:ルネ・ユイグには、習われたりしたっていうわけではない?

高階:コレージュ・ド・フランスに行ってました。彼はずっとルーヴルで、それこそコンセルヴァトゥールの偉いチーフになってたんだけど。僕が行った時はもうルーヴルは辞めて、コレージュ・ド・フランスの先生。コレージュの講義は聞きました。これはもう誰でも聞けるやつだから。そこでいきなり行って相談して、何回か話をコレージュの中で聞きましたけどね。

池上:シャステル先生のご本は、翻訳はされてないんでしょうか。

高階:『人類の美術(イタリア・ルネッサンス: 1460–1500)』(新潮社、1968年)があり。新潮社で出したやつ。これはかなり後だな。ユニヴェール・デ・フォルムっていう分厚いシリーズで、シャステルさんが二冊出してるうちの最初の方は僕がやった。あれ、結局ずいぶん時間がかかって、全部は出なかったのかな。

林:中山公男さんは、同僚でいらしたんですか。

高階:西洋美術館に来て知り合ったんです。僕の二年ぐらい上だと思う。美術史。帰ってくるまでは知りませんでした。ちょうどだから戦争中の大変な時だったんだろうなぁ。東大の美術史の方ですけどね。

池上:で、この膨大な量の翻訳と著作を、同時に手がけられてたっていうことなんですけど、その時間はどういうふうにマネージされてたんですか。

高階:それはよくわかんないなぁ(笑)。いい加減にやってたんじゃないかな。

池上:いや、そんなことは。翻訳でもご本でも、読むと非常に完成度が高いようにお見受けしますけれども。

高階:今でもそうだけれども、あんまり他のこと、飲みに行ったりとか、テレビ見たりとかって全然しないんですね。今でもあんまりテレビ見ないんで。それでその頃はですね、60年代には、ここで宿直っていうのがあったんです。これ前に言ったっけ。

池上:はい、おっしゃってました。

高階:宿直の時っていうのは暇なんですよ。夜、5時に終わった後。

池上:それは一晩中起きてるわけではないんですか。

高階:畳の部屋があって、守衛さんと二人で必ずいるんです。一人は庶務関係。守衛さんは庶務に属してるから庶務の人。もう一人は、事業課なんですよ(笑)。事業課は五人しかいないから、しょっちゅう回ってくるわけですよ。毎日だから、日曜日でもなんでも。5時に終わって、弁当取ったり、代わる代わる外に行って簡単なラーメン食べたりするぐらいで、夜は寝るだけですから。で、朝は10時に開ければいいわけだ、まあ9時までか。というと夜は非常に、時間がありましたよね。翻訳なんかずいぶんそれでできたし、原稿も書けたし。僕はラジオも聞かないし、だからそういう娯楽も知りませんでした。

池上:それがこの仕事量をこなす秘訣なんでしょうか。

高階:いや、秘訣かどうか分かんないけれども、他にすることがなかった。

林:睡眠時間はどのぐらいなんですか(笑)。

高階:それはもう、非常に不規則。今でも不規則ですから。

池上:最低何時間は、睡眠を取らないといけないというような目安はありますか。

高階:いや、特に決めてないですよね。

池上:建築の方なんかは、徹夜ができないとだめだってよく言いますよね。

高階:そうです。だから徹夜した頃、まあ今はできないけれど、今でも朝までやってると、次の日にはゆっくり眠るとかね。それはしないと無理ですよ。

池上:はい。でも朝までされることもあるんですね。

高階:ていう方がむしろ普通ですね、今でも夜だから。だから僕は午前中は連絡がつかないと思います、いつも(笑)。

林:先ほどケネス・クラークの関係で矢代先生の名前が出ましたけど、矢代先生とも交流が。

高階:もちろん帰ってきてからですけど。親睦があった頃もあるし、もう大先輩ですからね。ボッティチェリの本やなんか、お伺いしたことがあります。

池上:矢代先生が書かれたボッティチェリの本も、訳されてもいるんですよね。

高階:いえ、それはずっと後です。それは摩寿意(善朗)先生が中心で、藝大でやられてた。矢代さんっていうのはだいたい、美術史じゃないんですよね。

林:あ、そうですか。

高階:英文かなんかで、藝大で教えておられた。だから東大では教えてないんですよね。僕はお習いしたことないんです。で、摩寿意先生が美術で、ずっと翻訳をやっておられて、お弟子さんがたぶん何人かいたと思います。佐々木英也さんとか。

池上:そうですね。

高階:僕は途中から。とにかく大きな本だし、間に合わないからっていうんで、分担の一部に加わっただけですけど。その前から、矢代先生は西洋美術館の委員もやっておられました。委員会っていうのは、僕は出なかった。つまり下っ端は出ないけども、館長とか富永さんなんかはもちろん偉い先生だから。富永さんとか今泉さんとかが委員会で展覧会を何するかっていう。今で言う、学芸会議みたいなもんですね。その学芸会議ももちろん、上の人だけでやって、それに矢代先生加わっておられました。だからそれに来られていて、ご挨拶はするっていうことから始まったんだろうな。

林:矢代先生、『日本美術の特質』(岩波書店、1943年)のあの本はどういうふうに。

高階:あれはもう、名品主義としては実に見事な(笑)。あの先生はわりに特徴を引っ張り出すのが上手いですからね。感傷性だとか。それで日本美術を切るっていうんでは、やっぱり非常にいい本だと思いますね。日本美術に対する入門としては。そして、もう確かなものだけをこう取り上げてやっておられるっていうのは、いいご本だと思いますね。

林:前回もお聞きしたかもしれませんけど、先生も日本のことを、帰ってぐらいからやられて。なんかこうきっかけみたいなことあったんですか。

高階:矢代さんも似たところがあると思うんですが、僕が帰ってお会いした頃に、しきりに水墨のこととか、それからボッティチェリは非常に日本に近いとかっていうようなことを言っておられたんです。それはやっぱり油絵ではなくて、テンペラとか、ああいうデッサンがあるとか、装飾性があるとか、なんか共通性があるんじゃないかっていうお話をうかがって。晩年は、水墨の本をお出しになりましたよね。それが向こうに行って、油絵ってもうほんとにヨーロッパの油っこいやつとは違うものっていうのを、ボッティチェリやなんかに見ておられたんだと思います。それが今の日本美術を見る新しい契機にもちろんなっておられるんだと思います。僕はもちろん向こうで日本美術に出会ってからですからね。その関係はあって、お話はしてたと思いますね。

林:帰って来られて、辻惟雄先生とはどういう関係になるんですか。

高階:これは日本の美術史学会でお会いしたのが初めてですね。フランスに行く前には、同じ学年だけど知らなかったですね。

池上:そんなに交流はないものなんですか。

高階:あのね、僕は大学院からですから。大学院では、水尾比呂志が一緒だったです。大学院で、三人しかいなかったんだな、あの時は。学部の人とはほとんど接触がなくて、大学院の次の年にはヨーロッパ行っちゃいましたから。水尾さんには日本のこといろいろうかがったんですけども。帰ってきて美術史学会にいろいろ顔を出す時には辻さんも知りました。その時には東北におられたのかな。

林:僕はなんかてっきり向こうで。

高階:その前に、あそこにおられた。(東京)文化財研究所。

林:文化財研究所に、ええ。

高階:文化財研究所におられた時に、僕が西洋美術館にいて、日本のことはいろいろ聞きました。江戸美術で分かんないことがあった時には。だから、同じ上野の山だし、どうせ東大のあの仲間だしっていうんで知り合ったんですよね。だから日本美術についてなんか新聞にちょこっと書けって言われた時に、いろいろ聞いたりはしましたね。日本の近代をやる時にも、黒田清輝のものが文化財研究所にあって、行って見せてもらった時に知り合ったんだな。江戸の専門家だってことは聞いていて。なんかのPR雑誌で、智積院の長谷川等伯を特集した時に、じゃあ等伯についてちょっと聞きたいとかね(笑)。こっちはなんにも知らないから。ていうような話をしょっちゅうする程度になってましたから。上野仲間だな。

池上:日本の近代美術について研究をされた時には、もう全く手つかずの状態ですよね。

高階:ほとんどなかったでしょうね。

池上:美術館の方が、展覧会の対象としてされるっていうことはあっても。

高階:ええ、そうなんです。鎌倉あたりがやってただけで。

池上:そうですよね。研究としては全く手つかずのフィールドに手をつけるっていうのは、すごいご苦労もあったと思うんですが、どういうふうに始められたんでしょうか。

高階:苦労は、文献としては展覧会の図録ぐらいしかなくて。あとは個人的ないろんな思い出とかなんかはちょこちょこあったけれども、ほとんどなかったです。

池上:いわゆる西洋美術の研究と違って、よって立つ文献みたいなものがほぼないわけですよね。

高階:ないです。近代のことをやっておられたのは隈元謙次郎さんという、文化財研究所におられた方。例えば高橋由一の『履歴』も、今ではちゃんと本になりましたけど、あの頃は活字本がなくて、写本があって、それを隈元謙次郎さんからお借りして書きました。あれは、稿本と図書館にあるのと違うっていうような細かい違いがありますけど。隈元謙次郎さんがわりに、高橋由一の論文を書いておられたし、それから藤島武二も一冊書かれたし、黒田清輝も一冊書かれたし、これは基本的な文献だと思う。それ以外あんまりなくって、むしろ苦労といえば、そういうものを出す場所がないんで。だから『季刊藝術』はよかったわけですよね。あれは自分で好きなことができるから、じゃあそれをっていうことが、あの研究の始まりですよね。それで『季刊藝術』で連載したのが本になった。

池上:じゃあ美術史の学会誌に出されるみたいなことはもう、選択肢としてはないような時代ですよね。

高階:全くなかったと思う。今はあるのかな。

池上:あります、あります(笑)。

高階:今はある(笑)。

林:なんかあの頃わりと日本の近代が、高階先生の仕事もそうだし、あと岡田隆彦さんなんかも日本の近代の美術を振り返るような連載を、それこそ『SD』に(注:連載「近代日本美術の諸特性」、1967年)。

高階:『SD』にちょこっとやり始めてたなぁ。

林:なんか気運としてあったんですか、日本の近代をっていう。

高階:えーっと、鎌倉は強かった。土方先生が『日本の近代美術』(1966年)という、岩波新書を出されました。これは細かい点ではデータもずいぶん不十分だったんで、最近、酒井(忠康)君が非常によくやって、それをきちんと直して岩波文庫に入れましたよね。あれは歴史書っていうよりも、土方さんの仕事だっていうんで、岩波文庫についこの間、入りました。それの新書版が、まとまったものとしては唯一の文献かな。近代美術を歴史的に見たものとしては。あと、その隈元謙次郎さんが清輝については書いてた。それから『美術研究』にいくつか出しておられた近代の論文。それ以外にはあんまりなかったでしょうね。

林:僕が子どもの頃に、それこそ小学生の頃だったかな。明治百年ってことをよく言ってた気がするんですけど。

高階:そうすると明治百年ていうのが。

池上:1967年、8年あたりですね。

林:小学生ながら、明治百年っていうのはそうなんだと思ってね。

高階:『明治百年』っていう画集が出てた。明治百年記念画集(『原色明治百年美術館』朝日新聞社、1967年)。河北さんがやっておられたな。一応1967年があれか。

池上:それからしばらくしてそういう研究も出てきたってところに、なんとなく、そういう気運があったのかなという感じもしますね。

高階:あの明治百年の時にはむしろ、明治百年か、戦後二十年か、という議論があったんですよね。要するに明治が切れて、戦後で新しくなるんだっていう。特に政治運動なんかで。戦争で切れてるんだっていう。明治との繋がりっていうことをあまり言わない。その繋がりを言う方が明治百年って言い始めたんですよね。わりにはっきり。論争はそれだったな。美術っていうよりも、一般の政治状況として、戦後になって新しくっていうことはあったですね。

林:先生は作品としても由一とか、(村上)華岳とか書かれてますけど、それはつまり、純粋にすごく面白かったから。

高階:それはそうですね、ええ。

林:なかなか、今でこそ面白いって言えるけども、当時の感覚だと難しいですよね。

高階:由一は特にそうでしょうね。一、二点、芸大にあるやつだけで。あとはそんなに知られてなかったでしょうし。まあ華岳は京都ではよく知られてたかもしれないけど、東京では。藤島武二なんかはずいぶん、お弟子さんもいたから。武二もいい絵だなぁと思いましたけどね。

池上:その頃、1971年にこちら(国立西洋美術館)を辞めて東大に移られるわけなんですけども、これはどういう経緯で移られたんですか。

高階:これ東大は全部そうだけど、呼ばれたからですよね(笑)。こっちから行きたいって言っても、行けるわけがないから(笑)。

池上:では、どういう経緯で、どなたにそういうふうに言われたんでしょうか。

高階:中心になっておられたのは、前川(誠郎)先生ですよね。西洋美術史の。

池上:どういう形でお話があったんですか。

高階:前川先生はもちろん西洋美術館でもお見かけしたことがあって、いつか美術館に来たときに「東大に来る気ありますか」って、ちらっとおっしゃったのが初めてですよね(笑)。1970年の頃、山根(有三)先生は病気でおられたんだけど、前川先生は美術史研究室の中心でおられたのかな。それから秋山(光和)先生が、これは文化交流って別の研究室で。ただ彼は日本美術ですから、参画はしておられたけれども、中心は前川先生ですよね。僕はそういうことは弱いんだなぁ。僕がいる時も、前川先生の時もそうなんだけど、あの美術史研究室が非常に不規則なんです。なぜそうなったか、僕がいる間にもいろいろ調べたけどよく分かんないんですけど、研究室の講座に三人しか定員がないんですよ。ほんとならば教授、助教授、教授、助教授、二講座あるから四人いるはずなのに。で、その一つをどっかに貸したとか借りたとか。

池上:貸したりするんですか。

高階:東大ではしょっちゅうやってました。それはどういう経緯で貸したかいつ返してもらえるかなんて複雑でいろいろやってました。結局、実質定員三人なんですよ。そうすると西洋二人か東洋・日本二人か。一人ずつ、ということで代わる代わるやってたんですよね。だから前川先生がおられた時に、山根先生がおられた。で、もう一人っていう時に、秋山先生が文化交流は別なんだけども講義はしてくださってたから、西洋の教授に対して若手っていうことで、僕が入ったんだと思います。だから前川先生の後に、今度は日本が二人ってことで、辻さんに来てもらって。だからその時は西洋は僕一人だったから、一人で何年かやってた時期がある。

池上:じゃあ辻先生の方が少し遅れて。

高階:東大にはそうですね。ずっと東北におられたから。

池上:美術館を離れるっていうのは、先生にとっては……

高階:これはですね、なにかしようと思ったら、つまり研究か何かしようと思ったら、美術館はもう繰り返しばっかりなので、大学に移るしかないっていう感じはありましたね。

池上:制約が多い環境だということで。

高階:ええ。だから、他の人たちもだいたいは、移れれば移りたいっていう感じがあったんじゃないかなぁ。今でもそうだと思いますよ。美術館の中だけにいて、特に国立なり公立美術館、私立でもそうかな。美術館の中だけで順々にこう、館長までっていうことはまずあんまりないでしょ。だからいつまでも、それこそ事業課技官だったりするわけだから。まあ技官でもいいけども、時間的な制約がある。これは大きかったですよね。大学に行けば、夏休みがあるとかね。それから授業も朝から晩までやらないと。まあ実際には、1970年代以降、授業のコマ数も増えたけど。今はもっと大変みたいだけど(笑)。

林:いや、今は大変ですよ。

池上:そうですよね(笑)。

高階:それから授業以外にもなんかやたら会議が、紛争時代に増えた。昔はそうでもなかったから、週に二回ぐらい講義してればあとは暇だとかね。自分の勉強ができるっていうことは、これは大きなあれだったと思う。

林:東大って伝統的にやっぱり、例えばギリシャ・ローマ、ルネサンス、中世関係の先生が多い。今でもそうだと思うんですけど。

高階:そうですね、ええ。

林:で、近代を専門になさってる先生が行かれるというのはかなり東大でも新しいことだったんじゃないかと思うんですけど。

高階:そうですね。西洋の近代は本郷の方ではないですね。

林:それは何か東大の方にも、新しいことを美術史もやらなきゃっていうことがあったんでしょうか。

高階:いや、どういう経緯があったのかよく分かりませんが、その時に僕は『ルネッサンスの光と闇 芸術と精神風土』(三彩社、1971年)っていうのをちょうど出した。後になって分かったわけだけど、要するに業績調査っていうのがあるわけです。向こうで、何人かの先生がやる。その時に、翻訳は別として書いたものっていうんで、ちょうどあのルネッサンスの本が出た形ですね。その時までに出した本はこれです、と。そして、今でもたぶんそうだけども、つまり(教員は)一人か二人だから、ヨーロッパの場合と違って、カヴァーしきれないわけですよ。古代や中世から近代までっていうのは、とてもカヴァーしきれないけど、一人で学生の世話をしなきゃいけない。少なくともルネッサンス以降はやんなきゃいけない。中世は、僕がいる間は、だいたい非常勤をお願いする。辻佐保子さんにお願いするとか、古代ももちろん非常勤で講義をお願いする。ただ、学生が論文書きたいということは出てくるわけですから、基本的にはこっちが面倒みると。そうすると、授業も僕はルネッサンスもやったし、バロックもやったし、近代もやる。ヨーロッパの人に言わせると、とんでもない話だって(笑)。しかし逆に言うとヨーロッパで日本美術をやる人はそうなんですよ。

林:まあそうですね。

池上:そうですよね。全部教えないといけないですよね。

高階:日本の古いところも教えないといけない。同じようなことがあるんです。その点では、ヨーロッパへ行けばそれぞれ、自分はバロックだけっていうことはあるんだけど。だからそれをやらされるってことはありましたよね。

林:まあ確かに。先生はかなり現代のことをされてるのに、ルネッサンスの本を出されて。まあ我々は恩恵を被った方だから(笑)。

高階:いえいえ(笑)。『ルネッサンスの光と闇』はもともとは、アメリカに行く前の宿直で全部書きましたからね。行く直前ぐらいまででだいたい書き終えて、帰ってきてから本になったっていう。

林:やっぱりあれは、シャステルさんの影響は大きいですか。

高階:非常に大きいです。一度はシャステルさんの研究に基づいてなんかまとめたいっていう気はありましたから。

林:辻佐保子さんのお名前が出ましたけど、辻佐保子さんは、先生よりちょっと。

高階:ちょっと上。

林:そうか、上でしたか。

高階:お名前は知ってたし、パリにいたときお会いしたかな。あっちもパリに行かれてたから。でも、東大ではまだ知らなかったですよね。僕はもう、本郷はほんとに短かったわけです、大学院に入って。それ以外は矢崎先生の講義に顔を出した程度だから。辻佐保子さんはいなかったな、もう。フランスのことずっとやっておられたから。帰ってきてからはもちろん、非常に教えていただいた。

林:(辻)邦生さんとは。

高階:その後ですよね、もちろん。佐保子さんを通じてですけれども。

林:僕の偏見かもしれませんけど、なんとなく先生の世代のインテレクチュアルっていうとやっぱり軽井沢文化圏というか、軽井沢を中心にした交流って重要かなと思って。

高階:ええ、軽井沢でよくお会いしたのは確かにそうですよね。(辻)佐保子さんがいて、邦夫さんがいて、磯崎君が宮脇さんと一緒にいたわけだから。よくお宅にもうかがったし。町でもお会いしてたし。そういうことはありましたね。その頃は、夏になるとわりに僕も軽井沢に行ってて、上野には軽井沢から通ったんだけどね(笑)。夏休みは短いから。で、三善(晃)君なんかもいたのかな、あの音楽家の。で、東京よりもむしろ会いやすいわけですよ、いればね。非常に簡単に行けるから。ということで、ずいぶん親しくして。それで中世のことはもう佐保子さんがよく分かってるから、僕が(東大に)行ってからは、中世はだいたい佐保子さんにずっとお願いしてた。学生の世話もしてくださるから。

池上:先生の世代で女性の研究者っていうのはやっぱりまだ、相当数が少ない時代でしょうか。

高階:佐保子さんはかなり例外的じゃないかな。

池上:そうですよね。

林:あと若桑(みどり)さんと。

池上:少し、下になりますよね。

高階:そして、東大(出身)で今わりに活躍してるのは馬淵明子さんとか、鈴木杜幾子さんとか、高橋裕子さんとか、みんな同じ世代ですよ。僕が行って、初めて入ってきた世代。あそこからですよね。

池上:皆さんフランスのことをされて。

高階:ええ。

池上:先生が入られてから、美術史のそういうゼミにも女子学生が入ってくるようになったんでしょうか。

高階:僕の前は、僕は出てないから分からないけれども、いなかったでしょうね。

池上:今ではもう女子学生のほうが、圧倒的に多いぐらいなんですけども(笑)。それが増えだしたのはいつぐらいなのかなと今ちょっと気になって。

高階:で、三人とも大学院からですよね。学部ではない。馬淵さんは教養学科だし、高橋裕子さん上智大学だし、鈴木杜幾子さん早稲田だし。大学院で、みんな来たいっていうことで、面接なんかしたから。それは僕が近代やってたこと関係あるかもしれないですね。近代やられる先生があんまりいないっていうことがあって。

林:じゃあなんなんだろ。その後もどうですか、女性はコンスタントに多かったですか。

高階:女性はけっこういました。大原まゆみさんとか、隠岐(由紀子)さんとか、中世をやった前川久美子さんとか、それからスラヴをやってた桝屋友子さん。

林:そうですね。荒川さんとか。

高階:荒川裕子さんもそうですよね。藝大からだけども。僕がもう後の方になると、美術史を続けなくなっちゃったけども。ジャーナリズム行ったりなんかして。でも女性はずいぶん入ってきてましたよね。ただ、文学部全体の中では今でも男性が多いんじゃないかな、美術史研究室だと。

林:僕らのころは、まあ半々くらいかなぁ。

高階:それぐらい、一時期ずいぶん多かったですよね。同級生で、続けてる人はいる?

林:僕らの世代はけっこう豊作で、ほとんど男ですけどね、越川(倫明)君とか、大久保(純一)とか。

高階:あれもいいですよね。

林:大和文華館に行った藤田(伸也)とか。吉祥寺さんとか。

高階:吉祥寺さん。ああ、それから竹下さんと矢野さんもいましたね。

林:矢野さんはちょっと上ですけどもね。

高階:うちの娘もどっかそこらへんにいるはずだし。

林:そうですね、ええ。絵里加さんは僕らより……

高階:ちょっと下ぐらいでしょう。そして、林洋子さん。林洋子さんが最後ぐらいかな。

池上:男女ともに、錚々たるメンバーを輩出されてますね。

林:でも今はもっと女性が多いですね、たぶん。8:2ぐらい女性じゃないかな。

池上:全体で見ると、そうでしょうね。

高階:そうでしょうね。日本美術の方の人ももちろん、僕は直接的には知らないけども、女性がずいぶん出てきましたよね。仲町(啓子)さんとかですね、僕が教えた中では。彼女は非常に西洋のこともよくやっておられたし。

池上:先生は、男女問わずなんけれど、指導される際の方針みたいなものっていうのは。

高階:て言われると弱るな。何も指導しないんだよ。僕はもうほんとにそれは、忸怩たるものがあってね。

林:合宿の夜、徹夜しながらお話を聞いたのがすごい財産ですね(笑)。

高階:セミナーっていうか合宿っていうのは、これは面白かったです。

池上:これはどちらに行かれるんですか。

高階:八王子のセミナーハウスです。

池上:東大の、そういう建物が。

林:というよりはね、どこの大学でも使える。

高階:八王子にセミナーハウスっていって、誰でも使えるのがあるんですよ。ちょっと人里離れたとこだから遊びに行くとこもないし。そういうセミナー室があって、宿舎があってという、単純な。なかなか学生にはいい。

池上:それは毎年恒例で行かれてたんですか。

林:そうですね。

高階:僕がいるときはずっとやってました。あと、僕が辞めてからは止めちゃったみたいだけど。

池上:テーマを決めて、ほんとにがっつり勉強されるんですか。

林:ゼミ発表とか。

高階:発表をみんなしてもらうんです。だから学生に発表してもらって、みんなでわーわー議論をする。その後、夜中まで、適当に議論をするっていうことをやっていて。

林:僕は、自分が初めて書いた論文がピカソとマラルメについての論文だったんですけど、その八王子で僕は発表したんですよ。

高階:ああ、そうだったっけね。

林:ええ、もとはね。そしたら先生が「いや、ここはちょっとあれだけどここは使えるんじゃない」って(笑)言ってくださったのがきっかけで、それを英語にして、ロンドンで『ワード・アンド・イメージ(Word & Image)』っていう雑誌に出したのが、最初の論文でしたけど。そういうことほんとよく覚えてます。先生からマラルメのコメントいただいたの。それとあとは夜に、漱石の話を延々と話をしたのを覚えてますね。『行人』の話とか、兄嫁でしょ、とかね(笑)。そういう話をね。

高階:江藤(淳)君の漱石論だな。

池上:なんだかうらやましいです。

高階:で、日本美術の人も千野香織さんなんかがいたんだよな。

林:ああ、そうですね。

高階:あのあたりはちょっと上かな。千野さんは前から美術史におられたんだけど。彼女も広く、いろいろやっておられたから。

池上:その合宿は西洋の学生だけではなくて、東洋美術史も。

高階:僕のゼミですから、場合によっては、誰でも、ええ。テーマは西洋ですけどね。でも近代やる時なんかは日本の人も来てたかな。

池上:でも非常に自由な、学生がやりたいものを自由にやらせるというご方針ですよね。

高階:そうです、ええ。だからもう、逆に言えば何もせず、放っといてたと思う。

林:それは日本の教育でもありますかね。

高階:日本の文学部はわりにそうだったと思う。

林:僕はアメリカに行って、やっぱり違うなと思ったのは、向こうは……

高階:厳しい。

林:厳しいですよね、指導も。ペーパー書くと添削して戻ってきたり。日本ではこういうことなかったと思いました(笑)。

高階:向こうの先生は大変なんだな。

池上:日本はわりと放っておいて、育ってくる人は勝手に育つ、というような。

高階:そうそう、特に文学部はそうだったんだろうなぁ。

林:そうだ、ちょっと話が出たんでついでにお聞きしますけど、先生はけっこう文学についてもいろいろ論文を書かれてたりされてますけど、やはりそれは小説や文学にずっと昔から興味を持ってらしたんですか。それともやっぱり向こうで。

高階:そうですよね、ええ。明治の場合には当然小説があるわけですし、そうでなくても文学部に行きたかったから。今でも読むのは好きですよね、面白い。

林:さっき邦夫さんの名前が出ましたけど、やっぱり実際に文学者の方々とけっこう交流はあったんでしょうか。吉行(淳之介)さんとか。

高階:吉行さんとは対談をやったことがあるなぁ。江藤淳ともちろん『季刊藝術』で親しくて、その関係で対談はしたし。パリに行ったときは加賀乙彦さんとか、小川国夫さんとかね。向こうではよく会ってましたよね。それからサンボリスム関係では、東大で清水徹とか、菅野昭正とか、仏文関係の人とは、わりにマラルメのこととかヴァレリーのことは彼らよく知ってるから、教えてもらうっていうことはありました。あとは比較文学関係で、芳賀(徹)君とか、荒木亨とか平川祐弘とかっていうのは、付き合いがあった。

林:これもどこかで切れてる伝統だと思うんですけど、先生たちの仕事を見てると、なんとなく背景に「人文学」っていう理念があると思うんですよ。それは、われわれの世代には全くなくて、美術の人は美術のこと、文学の人は文学だけやってて。

池上:そうですね、うん。

林:で、これはちょっと全然違うぞっていうような気がするんですよ。

高階:これはね、人文学っていうのは、本来交差しなきゃいけないんですよね、元は。

池上:そうですよね。

高階:むしろ日本では理系、工学関係が強い。もともとが、そういう明治以降の伝統だろうけれど、学部的にもそういうことがあって。切れちゃってますよね、人文と工学系がまあ合ってないんだけど。

林:だからいくつか対談で、19世紀の本とか(注:『19世紀の文学・芸術 徹底討議』平島正郎・菅野昭正との対談(青土社、1975年))、中村雄二郎さんとやられたりしたもの(注:『書物の世界 共同討議』 中村雄二郎・ 山口昌男との対談(青土社、1980年))。

高階:ええ、山口昌男さんとも。その前に菅野(昭正)さんと、平島正郎さんと、三人でやった音楽の対談は面白かったですよね。

林:あれなんか読むとちょっと驚くべきコンテンツと知の広がり。

高階:それが今は必要だと思うんですけどね。最近では少しそれが出てきてることはないのかな。社会学の方からアプローチするとか、(ピエール・)ブルデュー(Pierre Bourdieu)とかが出てくると。

林:それはやっぱりキャノン(canon、正典の意)の存在と関係があるかもしれませんね。やっぱりなんとなく我々の世代はもうそれがなくなってる気がして。誰もが読んでなきゃいけない、あるいは見てなきゃいけないもののリストがもうないっていうか、もうみんなバラバラなことをやってる感じで。先生たちの世代はわりと、もう当然のようにして、これはみんな読んでる、あるいは見てるっていう。

高階:読んでなくても読んだような顔はできる(笑)。そう、それは必要だと思うなぁ。美術史のほうでも、一時期(ミシェル・)フーコー(Michel Foucault)と(ジャック・)デリダ(Jacques Derrida)あたりの影響が、これはアメリカは強いですよね。最近はブルデューが強いですよね。あとは、今スイスにいる(ダリオ・)ガンボーニ(Dario Gamboni)なんていうのが、ずいぶんその両方にまたがることをやってますよね。前に日本に来たけども。ああいう視野の広さが必要だと思う。これは、一部ではやっぱり新しい流れになってくるのかな。フランスの文学の伝統とは全く違いますよね。(ジャン・)スタロバンスキー(Jean Starobinski)とかガンボーニとかフィリップ・ジュノー(Philippe Junod)っていうのはスイスだしね。

林:ああ、スタロバンスキーはスイスですか。

高階:スタロバンスキーはスイスですよ。 彼は面白いと思いますよ。はっきりと境界横断的な視点で。それはまあヒューマニティ(人文学)なわけですよね。

林:そうですね。

高階:まさにそれはヒューマニティ。日本は縦割りで、まあヨーロッパも、論文書くためにはそうでなきゃいけないとか、ていうことはもちろんあるんでしょうけどね。難しい時代になってきたなぁ。

林:先生はやっぱり若い頃から意識されてたんですか。これだけは読んでなきゃいけないみたいなことを。

高階:ああ、そういう古典的なものについてはもう一高のときからありましたよね。一高のときに、古典は全部、シェイクスピアとかダンテとかユーゴーとかみんな知ったような顔をしなきゃいけない(笑)。読んで面白かったから。日本でも明治以降のものは、だいたいそうだろうなぁ。基本的にみんな知っている。

林:わりと、コンテンポラリーなものもずっと追っかけられてる気がするんですけども、特に美術に関しては、東大に移られてからはあんまり新しいことは書かれてない。いわゆる美術批評っていうジャンルからはちょっとこう、身を引かれたような感じがあって。

高階:まあそうかもしれないですね。

林:で最近またなんかカムバックされて(笑)。

高階:シャステルさんは『ル・モンド』にずっと、ものすごくいろいろ書いてたんだけれども。彼はだから、ソルボンヌにいたのが不思議なんだけど、『ル・モンド』に毎月、二、三回書いてましたよね、一時期。でも、ソルボンヌに移った年だけぐっと減ってるんだ、やっぱり(笑)。

林:ああ。そうなんですか。

高階:また後でずいぶん書くようになりましたけどね。見てると面白い。

林:じゃあ先生の意識の中でもそういう感じあったんですか。

高階:いや、僕は全然、そういう意識はあんまりなかったけれども。たまたま忙しかったのかもしれないし。

林:ああ、なるほど。

高階:ていうことはありますよね。学校の授業ももちろんあるだろうし。やんなきゃいけないことが。

林:あるいは現代美術に失望したとか(笑)。

高階:いや、それはあんまりなかったんじゃないかな。でも、少し遠くはなってきたかもしれないですね。美術館にいた時のほうが、あっちこっち回ってたかもしれないな。

池上:先ほど、教え子の方たちの話が少し出ましたけれども、ご息女の絵里加さんも研究室に入ってこられたということで、少しお話を聞きたかったんですが。

高階:いやあ(笑)。彼女も文学も好きでね。比較文学に行こうか、美術史に行こうかっていう。

池上:もともとは、慶應にいらしたんでしたっけ。

高階:いや、東大です、最初っから。ただ、小学校、中学校はあちこちなんですよね。アメリカに行ったのは子どもの時だけど、フランスに行った時には中学校時代で、フランスのリセ・モリエールにいたから。小学校はあの附属なんですけれども、学習院女子に入ったとたんにもうフランスに行っちゃったから、リセに行って、帰ってきてまた附属に戻ったのかな。そして東大に行きました。慶應も受けたんだけどね。東大入んなきゃ慶應だとかなんとかで、いくつか受けてたみたいだけど。東大に行って、どこにしようかっていうので、僕やっぱりと似てるんだな。比較文学面白いとかっていうことで、芳賀君とこに行こうかどうしようかとか言って。で、決めるときに芳賀君の息子がなんか美術史に来ようとかっていう(笑)。彼もそうですよね、同じぐらい。

池上:芳賀満さんですか。

高階:満さん、ええ。結局美術史に。

池上:じゃあ学部の三年生から、研究室に芳賀満さんも絵里加さんもお入りになって。

高階:そういうことです。

池上:その彼女の選択というのは、先生は。

高階:もう僕は任せてました。もうどっち行ってもいいよってことで、別に何にも言わなかったね。ただ、ゼミに来られるとちょっと迷惑だな(笑)。「パパ」とか言いだすから(笑)。お互いにそれはやめようって(笑)。

池上:それはおっしゃったんですか。でも一方でやっぱり少し嬉しく感じられるところもおありだったんでしょうか。

高階:まあいろいろ、相談相手にはなりますよね。それから文献も使えるだろうし、お互いにね。ていうことはありました。

林:それこそ、絵里加さんにとってみればこんなに嬉しいことは(笑)。

池上・林:家に最高のアドバイザーが(笑)。

高階:もう分野とかだいぶ変えたけれども、それはあるでしょうね。

池上:でも、最初から明治期の研究をされてたわけではなかったんですよね。

高階:ないです、ええ。最初はドガをやったのかな。卒論はドガ、修論がアングル。アングルで「イタリアに行きたい」っていうんで。フランスとイタリアでアングルっていう。そして一時期、ロータリーでイタリアに行ってたんですよ。ピサに行ってましたね。ピサの(サルヴァトーレ・)セッティス(Salvatore Settis)さんに世話になったんだね。それこそ広い人だから、非常にいい人で。だからイタリア、フランスの両方をやっていて、フランスにいる間に——僕と似てるんだな——要するにフランスのことは自分で学ぶばかりだけども、フランスにいた日本人のことは、向こうの人も知らないことがあるんで、自分でいろいろ見つけた。それが明治。今でもだから(異文化)交流ですけれど、山本芳翠だとか、ずいぶん新しいことがメインになってるのかな。

林:僕が大学院に戻った頃に、絵里加さんがちょうど一年下かな。

池上:あ、じゃあ同じ研究室におられた。

林:そうですね。僕は大学院に一年ぐらいしかいなかったんで、そんなに長い期間ではないですけどね。でも、さっき言った越川さんなんかは、学部の時の同級生で、僕が大学院に戻ったときは、それこそ林洋子さんと同じ学年でした。

高階:ああ、そうですね。

林:だから僕はほんとに、先生の最後の頃の。

高階:そうすると、越川君と同じ。諸川(春樹)君とか。

林:諸川さんはもっと上です。

高階:もうちょっと上になるのか。芳賀君は下になるのかな。満。

林:満君は、下ですね、だけど一緒にいましたね。芳賀君と、秋山(聰)君がおんなじ。

高階:ああ秋山君ね、そうですね。

林:秋山君とか、田中正之君とかと同じ頃で。その頃勉強会を始めて、よく今でも。

高階:田中君とはよくやってたね、二人で。あれはいい話だ。

池上:なんか非常に豪華な世代ですね。

林:どうなのかな、わかんないけど。

池上:皆さん、それぞれのフィールドで活躍されている方ばかりで。

林:でも先生の指導がなかったからね(笑)。

高階:なかったなかった(笑)。そのぐらいがよかったのかも(笑)。

池上:逆によかったわけですね(笑)。

高階:よくやってくれた、うん。

林:そうか、ていうことは、先生は1971年に東大行かれて、東大に結局。

高階:1992年ですからね。

林:20年。

高階:20年ぐらい、そうです。

林:前回話題に出てたポンピドゥーの「日本の前衛」っていうのは、その真っ只中ですね。1980年代。

高階:そうです、1986年かな。だから真っ只中です。ちょうど、オルセーが開いた。

池上:ああ、そうですね。

高階:ポンピドゥーが1976年に開いて、オルセーが1986年に開いたんですよね。フランスも美術館組織が大きく変わった時ですよね。

林:「日本の前衛」の時の、ご苦労は。

高階:それはまあなかなか大変だったけど、面白かったですよ、今から思えばね。

池上:どうしましょう。東大を退官されてからの話は、次回に。

高階:そう、東大在学中から国際美術史学会との先生方のつきあいが。これは今度。国際美術史学会には、君はまだ?

林:僕、入ってないです。一回ちょっと、手伝ってくれって頼まれたことはあるんですけど、ちょうど他の仕事で忙しくて。

高階:今度入ったらいい。あれもなんかいろいろめんどくさいことがあって、日本の美術史学会ともあれなんですけども。今となってはずいぶん組織も変わりましたが、あれは大事な研究者仲間の組織ですよね。それで僕はいろんな人と知り合って、なおかつ情報ももらえるとかあったんで、それはかなり大きかったと思いますね。

林:その話はまた次回。

池上:はい。次回ぜひ、詳しくお聞かせいただきたいと思います。ほんとに今日も長い間ありがとうございました。

高階:いやいや、ご苦労様でした。