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ヨシダ・ヨシエ オーラル・ヒストリー 2010年1月27日

埼玉県坂戸市にて
インタヴュアー:足立元、光田由里、中嶋泉
書き起こし:加藤順子
公開日:2011年8月14日
更新日:2018年6月7日
 

中嶋:前回は先生のメインのお仕事としてよく知られている「瀧口修造」、「靉光」、「松沢宥」のご研究などのお話を伺うことができたので、今日は他にどのような美術シーンをご覧になってきたかを伺いたいと思います。ヨシダ先生はいろいろなところで展評を書いていらっしゃいますよね。その全貌を知るのはすごく難しいのですけれども…… 

ヨシダ:それは夥しいとおもう。僕が一番多かったんだろうと思う。なぜなら、月評を『美術手帖』で何年もやっていたから。あるとき画家が「ヨシダさんは一月にどのくらい絵を見ますか」というんですね。「数百ですか、数千ですか」というから、「とんでもない、数千なんて数ではない、何万だ!」と。3日間いたって3,000とか7,000ですから。

光田:先生は団体展もご覧になってます。

ヨシダ:そこの前を走ってるんです(笑)。

中嶋:そういったことをお伺いしたいと思います。アンデパンダンを始め、何を実際目撃していらしたのか。

ヨシダ:そういう風に走っている僕の眼の前の風景があまりに自信を持って、それ自身で完結したがっている、というのかな。そういうのがいやでぶっ壊したかったの。読売アンデパンダンにはそういうモノをぶっ壊そうという連中が集まってきた。

中嶋:読売アンデパンダンが始まった頃のことは覚えていらっしゃいますか。

ヨシダ:最初から行っていたんだと思うけれど。あれは、この前も話しましたが、西落合の太田三吉の家の庭の一角に、読売新聞の文化部長の海藤日出男さんがいてね、そこに瀧口修造もいたんですが。海藤さんがそこで読売アンデパンダン展を発足したのね。やりたい放題。それで僕は気に入っちゃって、海藤さんのファンになったんです。

中嶋:海藤さんとはお親しかったんですか。

ヨシダ:ええ。海藤日出男だけですね、若者の立場に立ってあの時代の空気を読み取ったのは。ただ、最終的には何となく荒れてきて、暴力的になったものだから、海藤さんが慌てて止め役をやるようになった、ということは有るでしょうけれども。

足立:日本美術会のほうのアンデパンダン、こちらの方もご覧になっていましたか。

ヨシダ:日本美術会のほうは左翼系です。共産党の連中が中心となってリードしていましたから、たとえば社会主義系のデモをやっている、それで機動隊をヘルメット部隊がやっつけている、とか農民が立ち上がって機動隊と対峙している、とか。そういうプロレタリア・リアリズムのアジテーションですね。

中嶋:そちらの方にはそれほど共感はなさらなかったんですか。

ヨシダ:いや、僕は「原爆の図」もやっていましたからね。当然そっちにも関心がありました。機動隊ともドンパチやろうと思っていましたし、事実やったんですけれども(笑)

光田:先生は日本美術会の会報などには書いておられなかったですね。

ヨシダ:はい、書いたことは無いと思います。日美系とはほとんど付き合いが無かった。

光田:そうですね、それがちょっと意外で。先生はきっとご覧になっているだろうに、と。

ヨシダ:針生さんは書いているでしょ。

光田:はい、いっぱい書いています。

足立:やはり、共産党とは距離を取りたかったのでしょうか。

ヨシダ:うん。僕は共産党というのが何となく目映いというか、何となく抵抗を感じてね。それで組織の人間というのは僕には馴染めないですね。

中嶋:ここでも、これは『三彩』に掲載された先生のテキストなんですけれども。「組織の問題を個にかえせ」というようなご意見を表明されています。数々の団体展をご覧になりながらも、芸術の制度化のようなものにはいつも抗するような態度でみていらしたように思うのですが。アンデパンダン展にはそれなりの価値というか…… 

ヨシダ:だから「ヨシダというのは美術界の無頼派だ」という言い方がされる。左翼運動は無頼でも何でもないんだけれど、ある意味では僕は「超過激」でしょうね。最近考えても共産主義が悪いところは一つもないわけですよね。共産主義が一番正しいですよ。だって、階級を無くして平等化しようという事ですから。ただ、そういう風に自分たちがふれこんで、ソビエトにしても中国にしても、社会主義の国になると自分たちを守ろうとするから、その辺から個人崇拝が出てくるんです。一人のスターリンや毛沢東みたいな人が出てくる。これが、共産主義がやった一番悪い立場ですね。そういう風にちょっと漠然とだけれど僕は考えています。だから、一番正しいのは、超過激だけれど無政府と共産主義なんだ。幸徳秋水なんかと同じ考え方ですね。アナーキーなコミュニズム。だから政府がなくなって、人間が戦争をしないためには国境がなければいい。国境があるから戦争が起こるわけですから、単純な言い方すると。それで国の中が平等でも、周りの資本主義の世界がそれを許さないから、いろいろとちょっかいを出してきますね。それだから独裁者が現れる。それで自分の内側にある敵味方をはっきりさせようと思って、敵と思われる人をシベリアへ送ったり刑罰を与えたりするという自己矛盾が起きてくる。単純すぎますけれど、それで共産主義が悪くなくて政府が無くなることが本当に良いなら、それを結びつければ無政府共産主義になる。そうすると幸徳秋水と同じ考え方になる、というのが僕の中に現在は在りますね。だから僕は無政府共産主義者なんです(笑)。「超過激」です。

光田:日美のアンパンは、共産党がやっているからあまり近寄りたくはない、と、そういうことは…… 

ヨシダ:代々木のやり方は、かつてのソビエトや中国に対する憧れですから、全部モスクワからの指令でもって動いていましたから、自分たちの考え方じゃ無いんですね。反米主義にしろ、アメリカに対応していたソビエト、当時はソビエト同盟(ソ同盟)と言っていましたが、中国にしても中国共産党ですよね、今の政府を造ったのは。毛沢東も共産主義者でしたよね。だからあんな文化革命のような自己矛盾をおこしてしまう。あれは無駄な事でした。たくさんの大事な同志を殺して、結局スターリンと同じ。共産党というと、特に代々木ですね。あの当時の学生達はヘルメットに「反スタ・反代々木」って書いてありました。反スタは、反スターリンです。僕もそういう過激派の仲間である以上は「反代々木」であったわけです。言い方は単純ですけれどね。

中嶋:そうすると複雑な状況は複雑なまま経験されていた。

ヨシダ:複雑だけれども、僕はその中に生きているわけだから。自己選択をどんどんしてゆかなくてはいけないということがあって。そう。それで僕が一番近づいたのは、これはちょっと男女関係があるんですね。ある女性に惚れまして、その人と仲が良かったんだけれど、その人が中核派だったから(笑)。僕は戸村一作論を書いていますが、戸村一作の展覧会を地球堂でやりまして、パンフレットも出ました。その一方で僕は三里塚でドンパチやるんですが、僕はその人を守りに行っているわけ、機動隊には渡せないから(笑)。これはもう、共産主義理論じゃないです。まったく個人的です。考えれば全部個人的なことだな。

光田:かたや読売アンパンは、私企業というか体制側のアンパンだという批判も当時ありましたよね。

ヨシダ:だって、読売だもんやっているのが。商業主義の新聞だと左翼は言ってましたね。共産主義者が嫌う商業主義新聞ですから。左翼は「商業紙」と言っていたから。朝日と毎日も全部、商業新聞ですから、資本主義の尖兵です。

中嶋:資本権力との関わりが絶てないという。それで、既成の機構が結局温存されているということを60年代の最初にヨシダ先生はお話になっています。それと高度経済成長の状況が合致して…… 

ヨシダ:読売アンデパンダンの初期は、ネオダダ系の連中なんかがいて、篠原有司男の《もうこうなったらやけくそだ》(1959年)っていう有名な作品がありますね。ゴミ屑を積み上げて、それで「こうなったらやけくそだ!」って書いた。そうしたら瀧口修造がそれを見て「これは類例無くたちの悪い作品である」と。「だけど、いずれ芸術はこういうところを通らなくてはならない」という意味のことを書いた。

中嶋:その様な中で、先生が仰っていて私が興味深いと思ったのが、ある種楽天的な雰囲気と、「やけくそ」でもいいですが、激しい表現がある一方でラディカルな表現は無かったと。

ヨシダ:ラディカルという言葉(が相応しくないの)は、根源的なことを壊していないということね。ラディカルというのは「根源的」という意味で、「過激」ということはラディカルの言葉の語源には無いわけだから。ラディカルのエティモロジーは「根源的」という意味です。ものを根源的に考えようという言葉から来ている。

中嶋:それはその団体展のような枠組みの中ではできないということですね。

ヨシダ:当然ダメだと思ってきました。だから読売アンパンがなくなったとき、篠原は「これはなくちゃいけないから、東京湾でやろう」といったけれど、僕はそれに反対したわけ。どこでやったって、管理は同じだから。だから東京湾でやろうと武道館でやろうと、武道館はその当時はなかったけれども、同じです。それは器を移し替えただけで、日本の資本主義の様相は同じですから。だって資本主義社会は箱庭みたいなものです。だからスペースを与えられて「坊や達、ここでやりたいだけ暴れなさい」と。

中嶋:しかしそれが許されたのが、ある意味表現の自由だと戦後は考えられたんですよね。

ヨシダ:僕はそれには限界を感じていました。一つは代々木が仕切っている日本アンデパンダンがあったから。日本のアンデパンダンもまた共産主義者として赤旗振って、健康な労働者を中心として機動隊を殲滅している絵がいいわけ。だから農民が鎌を振り上げてます、そうすると向こうで機動隊がへなへなっとしてる絵がたくさんあるわけです。みんなが一斉に赤旗を振っているとか。

光田:その中で先生が良いと思う作品は無かったですか。

ヨシダ:なかったとおもいます。僕の場合には、赤松俊子・丸木位里がここにいたでしょ。そこに浜田善秀という男がいたけれど、その人が書く絵はいつでもそれでした。共産党員で。彼の描く赤旗の絵は信用しなかった。あれはフォービズムだと。フォービズムっていうのは日本人に一番あうんですよ。日本はフォービズムの国、日本は未だに篠原有司男だって、ダダって言ったって何にも壊していないでしょ。壊しているようなそぶりをしているだけで。篠原有司男は「闘い」って言ったって作品としては何も壊していない。だからダダイストではない。ダダイストっていうのはヨーロッパの場合には全く何もかもを否定したんですから。だから日本にはダダは無かった。糸井貫二くらいだった。
 やれるんだったらここで革命を起こして、この社会そのものをどんでん返しして、そしてそこをつくる、なんていうかな、過程に現れた表現でなければならない。ソビエトが出来る時がそうだった。ソビエトの革命はシベリア鉄道を全部、若い労働者や革命軍が占拠して夥しい数のポスターを書く。サンクトペテルスブルグでは、レーニンがパリに亡命していたのが大演説をやった。これは歴史的事実ですね。それを書いたのが、ジョン・リード(John Reed)の『世界を戦慄させた10日間』、(注:John Reed, Ten Days that Shook of the World, 1919)、それとクラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz)が書いた『戦争論』(注:Carl von Clausewitz,Vom Kriege,1832)。こうした革命が基本になっていないんだ、日本の場合には。だから赤旗を振ってみんなで喜んでいた。言葉は汚いけれど、日本人のやった革命というのは全部オナニーですよ。自分自身がよがっているだけです。だから客観的には何も変わっていない。

光田:でも先生、作品を造るときに革命からやるわけにいかない場合、もちろんいったら理想でしょうけれども、そうじゃない場合先生の言い方だと誰一人良い作品の人はいなくなりますよね。でも本当は、先生(も認めた)良い作家がいっぱいいたじゃないですか。

ヨシダ:こいつは凄いっていうのがいるんだもん(笑)。それは男惚れ。僕は女性だけに、惚れていたわけではないんです。

光田:それは誰ですか。そういう方のお話もしてくださいよ。

ヨシダ:例えば、一例を挙げれば千円札事件に巻き込まれた赤瀬川原平とか。千円札くらい立派な資本主義のマークは無いですよ。偽札づくりが昔から一番怖い犯罪です。江戸時代でもただちに打ち首です。だから、千円札事件に巻き込まれたということは帝国に巻き込まれてしまったと解釈できるね。どこの国でも札は一番大事で、日本の札には菊の御紋が入っているし、どこの国でも歴代一番の英雄が入っています。日本では描いて一葉なんて書いていますけどね、変な国ですよ(笑)。あの人は借金ばかりつくってね、貧乏の代表みたいな人なのにそれが札に描いてある(笑)。明治天皇とか神武天皇とかが出てるんだったらまだ納得いきますけれど。どこの国だって一番偉い人が(お札になる)。中国では毛沢東ですよね。アメリカでも、一番歴史の中で建国をした偉人が中心になって、権力の最大のものがマークになってる。それがどの国のお札にしても。だって赤瀬川は千円札の偽札を造ろうと思ったんじゃないんだもん。展覧会の案内状を造ろうと思ったら。ただね、やり方が下手だった。現金書留で送っちゃったから。僕の家にも現金書留できましたよ。見たら赤瀬川原平って書いてあるでしょ。赤瀬川がね、俺がこんなに苦しんでるから同情して500円くらいはいってるのかと思って見たら、展覧会の案内状だったんです。そうしたら千円札を一色刷にしてね、誰が見たって偽札ですよ。その裏側に新宿第一画廊でやる展覧会の案内状を刷り込んだ。だから展覧会の案内状なんです。それを荻窪辺りの馬鹿者の青年が、タクシーで使っちゃった。それで捕まっちゃったの。これは偽札だ、ということになって、色めきだした。

光田:さっきのパフォーマンスの話にもなるんですけれど、赤瀬川さんが入っていた、ハイレッド・センターのパフォーマンスにはたまに刀根さんなんかも入っていたらしいですね。先生はごらんになっていましたか。

ヨシダ:何度も見ています。中西夏之やらなんかと。電車の、山手線の時とか。それから内科画廊で、展覧会中っていって画廊の中にある物をみんな屋上から下へ放り出しちゃった。(注:「ドロッピング・イベント」と称する「ものを落とす」イベントが、1964年お茶の水池坊の会館屋上で行われた。ヨシダ氏の発言がこのイベントを指している可能性はある。)

光田:それらはみんな、先生は立ち会って見ていらっしゃったんですか。

ヨシダ:日本のアヴァンギャルドの歴史を書いた本(注:大宮知信『スキャンダル戦後美術史』、2006年) 平凡社新書が最近出ているんですが、それを見るとヨシダ・ヨシエはいろんなアンデパンダンとかに行ってそこで酒を飲みながら胡座をかいて「もっと壊せ、もっと壊せ!」と怒鳴っている、と。そんなことはないんですけれど、そんな風に「如何にも」というかんじで書かれているんです。それをみると僕があっちこっちに出てきます。鶴ヶ島でこの町の絵描きのボス達と戦って、ドラゴン・フェスティヴァルというものをやったことまで書いてあります。ドラゴン・フェスティヴァルというのは(注:公式名称「龍のまち鶴ヶ島アートフェスティバル」。1993年からヨシダ氏が企画を担当する地域イベント。2008年終了)審査員などは一切なし、この町に巣くっている有名人は全部無視し、入ってきた順に(作品を)並べるというもので、賞はなしという徹底した展覧会です。話すと長いんですけれど、この町(坂戸市)には雷電池(かんだちがいけ)というのが僕の家のそばにあります。それは「かんだち」というのは、「神が立つ」ということで雷、いかずちの意です。4年に1 回オリンピックの年にここへきてごらんなさい、すごいんですから。(このいわれの経緯は)昔この町に龍が住んでいた。ところが開拓によって農地を造るために沼がなくなった。それでこの辺りの龍は水が飲めなくなって、水を飲みに群馬県までいった。それからこの町は旱になった。雨が降らなくなったので農家が全部ぶっつぶれそうになったっていうんで、農民たちがたちあがって、あの龍に水を飲ませてやればいい、ということになって、うちのそばにある雷電池に龍を泳がせるという祭りをやっているんです。大きな龍ですよ。長さ17mというもの凄い大きな龍を抱えて、そこの沼の中でびちょびちょになって跳ね回るという、激しい踊りがあるんです。それでぼくは「龍の思想だ」ということをでっちあげたわけ。人間は水さえ大事にしない。だからそこから原点から考えようというので、この「ドラゴン・フェスティヴァル」というアンデパンダンをやったの。龍のフェスティバルで有名ですよ。

中嶋:それは先生がこの地域で企画されていることなんですか。地域の文化委員会でいらっしゃいますよね。

ヨシダ:最初来た頃は、ここの土地の市長が品川(義雄)さんという方でしたが、その人がすごく僕のことを大事にして、僕を文化財の委員長にしてくれたり、図書館を造るときには相談役をやったりして、だから、この町でそういうものの中心みたいな立場にいたもんですから、ただ品川さんが辞めて今の市長になったら、彼は私のことが嫌いなもんだから僕から離れちゃって、全然僕の方に見向きもしなくなったけれど。一人の市長がかわると、こんなにやりにくくなるものかというくらい。僕はここからはもう追い出されかけています。先のアヴァンギャルドの本にもこの龍のフェスティバルは日本で考えられる限り公平な展覧会であると評価してあります。

光田:先生はハイレッド・センターはシンパですね。

ヨシダ:うっとりかぶりつき。「おお、中西、もっとやって」と(笑)。

光田:中西先生もアナーキストですかね。

ヨシダ:そうだね。

光田:他にはどういう方々が。

ヨシダ:あとの連中は、政治的な関心がなかったんじゃないですか。篠原にしても何にしても。篠原なんていうのは資本主義にびったり浸かってます。ニューヨークでなんとか売り出そうと思ってたんだね。そんな反資本主義ないですよ。

光田:とうことは、他には中村宏さんなんかはどうでしょう。

ヨシダ:中村宏が一応筋金入りのマルクス主義者でしょうね。中村宏との対談というようなもので「ヨシダさん、マルクスはそんなこと言っていない」と、よく僕は注意されたんです。彼はちょっと変わってるんじゃないですか。理論的にも中村流の理論を駆使しているね。

足立:桂川寛さんとか、山下菊二さんとか。

ヨシダ:山下なんかは(中村宏に)近い。ただ山下は体験的なマルクス主義だね。要するに戦争中に酷い目ににあったから、それに対する反天皇です。山下菊二は反天皇制ですよね、マルクス主義というより。

足立:直接的なご交流はおありだったんですか。

ヨシダ:非常に親しかったです。両方とも。あの頃の連中は身近な人たちばっかりで、毎晩のように呑んだりしていました。練馬の中村宏の家に何度も行きました。

光田:そうすると、先生は桂川さんの活動も結構近くでご覧になっていたんですか。

ヨシダ:はいはい、桂川くんも身近です。桂川くんは、針生一郎を徹底的に批判していると思います。

光田:『機関』という雑誌がありますね。最初『形象』という名でそのあと『機関』になったんでしたか。あそこには最初の頃は桂川さんがよく書かれていましたが、先生も書かれてますか。

ヨシダ:赤瀬川原平論をあそこに書いています。

光田:それは最近のテキストですね。50年代から始まっていますよね。今泉さんのお仕事とか。

ヨシダ:今泉省彦か。これは筋金入りのアナーキストですね。

光田:お親しかったんですか。

ヨシダ:親しかったよ。

光田:今泉さんというのは、いったいどういう方なんですか。

ヨシダ:美学校というのを創って、松沢宥を先生にしたんだから。変わってるよね。松沢宥なんて、学校の先生になんてならないし、教えないものあの人は。教壇に立ったって、何も教えない。「皆さん瞑想しましょう」って(笑)。今泉は徹したアナーキストでしたね。瞑想しようと言ったからアナーキストというのではなくて、本質的な意味でのアナーキストです。

足立:(今泉さんがアーティストたちに)いろいろハッパをかけていたというのを聞いたんですけれど。直接の理論家ではないけれど刺激していたと。

ヨシダ:美学校というのは僕も講演を2、3回しているんですけど、何もしなくても、1時間黙ってても酒呑んでてもいいんです。変わった学校だった。それで謝礼として講演料をくれましたからね。

光田:美学校で先生もそういう講義をされていたんですか。

ヨシダ:何度かね。楽ではないですよ。むしろ喋らないことのほうが、どれほど重いか。1時間黙っているのは辛いですよ。

光田:黙っていたことがあるんですか。

ヨシダ:にらめっこですから。学生と僕が(笑)。

光田:今泉さんとは他にはどういう交流があったでしょう。

ヨシダ:今泉とはしょっちゅうありましたよ。神田の神保町に学校があったから、よく神田辺りには飲み屋やらが沢山あるので、呑みまわった日に酔った勢いもあって、美学校へ夜に行ってみると、夜中なのに学生がいたんですよ。変な学校(笑)。

中嶋:そういうふうにお話を伺っていくと、先生の持っている関心のネットワークというか、コネクションとは言わないまでも、単純なものでないように見えます。

ヨシダ:あなたがいったのは感性のネットワークね。感性というのは相当曖昧なモノだけれど、それで良いんです。僕が中国にいたら、死刑になってますよ。ソ連にいたら死刑かシベリアに送られてる(笑)。スターリン主義の頃に、アナーキストは徹底的にいじめられたから。だって共産主義社会主義政府があるのに、アナーキストとは何だということになりますよね。無政府主義だから。

光田:今泉さんの雑誌にも刀根さんはよく書いておられたようですね。

ヨシダ:さっきからあなた方が言われるように、みんなあの当時の輪の重なり合う一つの輪ですね。尖塔か円錐形かわからないけれど、その一つの輪に僕たちはいたんですよね。それが今泉であり、刀根であり。篠原っていうとちょっと違って来ちゃいますけれどね。

中嶋:篠原さんはどうしても外れるんですね。

ヨシダ:あれは、僕と近いところにいたの。番町小学校のぼんぼんですから。子どもの時にも会ってたんじゃないかと思います。市ヶ谷の駅があるでしょう。そうすると一口坂、靖国神社がありますね。こっちに坂を下りていくと神田でしょう。この坂を上がっていくと細い道があるんです、二七通りという。2の日と7の日に縁日がある。そこをずっと行くと、東郷公園があって東郷平八郎の私邸があるんですよ。そこの中で僕ら、子どもの頃よく遊びましたよ。その辺りに駄菓子屋があるから、そこへ入れば駄菓子が食い放題でしょ。だから僕は篠原と一緒の育ちです。篠原も二七通りで育ったの。あれは番町小学校で、番町小学校と麹町小学校と日比谷小学校とがあるわけです。江戸城があってその周辺の、内堀と外堀がありますね。外堀から外が庶民です。内堀から外堀の間に武士がいたんです。だから武家の血筋ですね。昔はもの凄い差別があって、「堀の向こう」という感じで。堀の向こうは神楽坂でしょ。向こう側にいくと違う人種がいた。だからそっから下町に続くわけですから。下町は武士の人達ではなくて庶民感覚がある。浅草も全部「かわむこう」ですからね。昔の東京人の感覚というのは、今の半蔵門からずうっと真っ直ぐ、有楽町から銀座までが大通りだった。つづいているんだね、その感覚があるから、遊ぶところは銀座です。だから新宿で遊ぶなんて事は戦後の流行で、中央沿線文士なんていうのはみんな田舎者ですから、太宰治でもなんでも津軽の人でしょ。その辺りの差別はかなりあったんじゃないでしょうか、江戸の歴史では。田舎者というコンプレックスをねじ回しにして反抗していたのが太宰だから。太宰は東北きってのぼんぼんだなんていっているけれど、 本当はそこがコンプレックスなんだね。

中嶋:先生もいわゆる良家のご出身ですね。

ヨシダ:そうだね、もちろん武士だったから。だから食べ方とか、躾が子どもの頃から厳しかった。食事は一日おきに三越へ行って食事を習い。ビフテキを頼んで、ナイフとフォークの使い方をね。一切れずつビーフを食べないと祖母がびしっと叩きますから。最初に切っておくというアメリカ式の食べ方は非常に軽蔑されていたんです。「おしっこに行きたい」と言うのを「おじゃーにいきたい」と言うんです。トイレのことを「お手水」と呼ぶんですね。

中嶋:そういう風に育てられながら、無政府主義者におなりになるという…… 今日おうかがいしたいことのもう一つですが、その様に東京中心でお育ちになられた先生が、九州派を含めた地方の作家にかなり目を配られていた、ということなんです。

ヨシダ:一つは「原爆の図」があって、地方をあれで歩いただけでもだいたい300箇所です。日本全国で300箇所っていうのは大変なことですから。隅々まで。

中嶋:戦後直後に東京と地方の違いというのを、どのように感じましたか。

ヨシダ:反東京になります、地方の人は。遠ければ遠いほど。美術でも東京をやっつけるんです。九州派が典型的です。東京っていう小綺麗な祭壇を作ってそれをぶっ壊すというのが、彼らの基本ですね。

中嶋:それでまた、壊せていないわけですよね。その権力構造に巻き込まれるので。

ヨシダ:そのへんのことは針生さんが指摘しています。「反東京、反東京というのは、東京に対するコンプレックスだ、と。英語の上手い貴女に失礼だけど、“complex”という言葉は、“inferiority complex”ではないんです。“com”というのは“together”で、“plex”は縫うという意味で、縫い合わせるということです。だからコンプレックスです。“inferiority complex”もあるんでしょうけれど。東京というのはきらきらしていたから。昔「原爆の図」で僕が九州にいくでしょ、九州の人は驚くわけ。東京から、東京から人が来たんだ、というので。

光田:そうですよね、遠いですものね。

ヨシダ:そうね。しょっちゅう僕は旅をしているから、人は300箇所って言うけれど、日本国中で300箇所っていうのは地名を上げただけで大変な数ですから、表日本も裏日本もしらみつぶしですよね。300箇所っていったら大変なことですよ。小倉、直方、福岡、佐賀、佐世保、久留米、大分、別府、長崎、高田、長岡…… とずうっと続いてきたの。裏日本、新潟の方では、六日町、十日町、柏崎、加茂、三条、高田、長岡というふうになる。 高田、長岡はさっきも出たけれど、そういう風に一緒に出てきちゃうの。

中嶋:その経験で地方に対する関心というのが、割と最初に根付いたということでしょうか。

ヨシダ:うん、関心というよりも、地方の人は猛烈に反東京です。反東京というのを出します。九州派が一番強かったね。だから百道海岸で「英雄達の大集会」、それにはいろんなものを積み重ねた都市が造ってあって、絵の具を塗った体でそれをぶち壊すというハプニングをやりましたよね。それに典型的に現れている。彼らには、東京はお城なんですね。そのお城を俺たちが壊してやるというものです。それが強かったのは九州と名古屋です。名古屋の人も反東京ですね。

中嶋:その九州派の「英雄達の大集会」のような試みに対して半ば批判的なんですよね、地方主義になってしまうと結束力があまりにも強くなりすぎて概念化してしまう、という。

ヨシダ:『三彩』という雑誌にその構造を書いてあります。反東京というのは大げさだ、東京なんて僕ら東京人に言わせれば、「有って無きが如くもの」であってね。

光田:先程の刀根さんたちの理論化が重要だったというお話に戻りますが、それは文章化されたものとしてでしょうか。

ヨシダ:理論化というか、しょっちゅう彼らが話していることは、それを理念としてどういう風に評価するかというか、そういう討論をしていたのを記憶に残しています。二人はかなり過激なやり取りをしていましたよ。「刀根、それは違うよ」という感じでした。二人とも典型的な東京人で。

中嶋:でも当時は理念と概念というものと勢いというものがあまり一致しないと考えられていたのではないですか。だから割と身体的で「爆発」というようなメタファーが出てくるのではないかと思うのですが。

光田:中西先生や、高松次郎さんは自分がやっている仕事を理論化しようという文章と両方をやっておられましたよね。ハプニングというのはなにかこう理論がないと続けられないような所があるんじゃないかなと思うんですけれど、どうなんでしょうか。

ヨシダ:ハプニングについては、僕は「ハプニングの変貌」という論文を書いています。これは『展望』という雑誌に書いたの。僕の本の目録に出ています。

足立:僕はアナーキズムと美術史についてずっと考えていて、戦前の幸徳秋水辺りから調べているんですけれど、戦後に活躍しだした人たちというのは、だいたい最初は、すでにアナーキズムなんていうのは20年代以来無いんだから、みんな共産主義からスタートする訳じゃないですか。

ヨシダ:アナーキズムというのはある言い方をすれば一番純粋なんですよ。で、純粋だから過激になる。だから銀行襲撃とかその当時やってましたよね。銀行襲撃なんかやるわけだから、アナーキストは一番悪い人だ、というふうに思われたんですね。だからアナーキストが捕まるとみんな死刑です、当時は。アメリカでも有名な事件(註:サッコとバンゼッティ事件)がありましたね。アナーキストの2人がガス室で殺されるっていうので、世界中で反対運動が起きたんです。

足立:ヨシダ先生は、アナーキズムを最初に知ったのはいつ頃だったのでしょうか。

ヨシダ:もちろん戦後ですよ。60年代以後で70年代くらいになってからですね。僕は、何をやっているんだろう、と思ったんですね。

足立:でもアナーキズムを知る以前から、何となく共感する素地はあったと思うんですけれど。

ヨシダ:反スターリン主義者ですから、共産主義も眉唾だと思っていたんです。日本の共産党員というのは、モスクワの指令でばかり動いているから、あんまり信用できませんでしたね。モスクワがこう言えばそうなる、という感じでした。その命令だけで動いている連中ですから、代々木の共産党員はあんまり信じなかった。でも「原爆の図」は、1日何千円かで貸し出して展覧会をやるんですね。

足立:では、大杉栄などを知ったのは60年代ということですか。

ヨシダ:ええ、伊藤野枝とかね。幸徳秋水とか。

光田:川仁宏さんもアナーキストなんでしょう。千円札裁判のときも「アナアキ」っていうペンネームだった。

足立:だいたい学生運動は、左翼という一括りの中でマルクス主義が強くて、その中でアナーキズムがすごくちっちゃな…… 

ヨシダ:だって、中核と革マルですから。中核は革共同ですから。革マルは革命的マルクス主義者同盟です。両方とも同じ地盤で内ゲバをやり出しちゃったんですからね。

足立:僕がいまいちまだよく分からないのは、ヨシダ・ヨシエ先生とか美術に関わりつつ学生運動とかデモに行ったりするじゃないですか、そのように両方に行くという感覚が、勿論当然だったのだと思いますが、 どっちが優先とかそういう問題じゃなくて、どっちも大事だったのでしょうか。

ヨシダ:どっちもっていうか、どっちがよく分からないんだけれど。僕は自然だったと思う。僕がやっていたのは。

足立:自然、必然ですか。

ヨシダ:反共と自分で言ったことはないですよ。共産主義者に対するシンパシーはものすごく持っていたけれども、「共産党」というと首をひねるのね。だから当時僕がいった有名なことばでは「細胞会議になんて出ない、俺は多細胞動物だから」というのがあります。多細胞ですもの。そういう感じのことをやっていたので、よく共産党の集まりには出ましたよ。警察が来ないような隠れ家を指示して、そこに集まって。まああれは細胞会議でしょうね。だから細胞会議にも出てたんですね。オブラートの紙に文章が書いてあるの。ガサ入れだっていうと、ぐっと呑んじゃうんですよ。そうすれば、オブラートですから消えちゃいますからね。そういうことがあるからちょっと緊張して、緊張が僕は嬉しいんだよね(笑)。スリルがあるのが面白い。スリルのない人生なんて面白くないね。

足立:反権力とアナーキズムとエロスというのは、ヨシダ先生の中で一貫しているんでしょうかね。

ヨシダ:必要なのは革命ですからね。革命をやるにはそれしかないんじゃないですか。共産党の指令で、モスクワの指令で動いているチンピラコミュニストなんかでなくて、過激に行動して純粋に自分の理念を守るのは、アナーキーな立場しかないように当時は思えたと思うんです。

中嶋:でも、アナーキーであるということも、ただ何も基準がないというか、規範というとまた何かよくないですが。アナーキストである為の、アナーキーな状態をつくるための、革命の手段ということは仰っていませんでしたが。

ヨシダ:そういう風には考えなかったのね。そこがアナーキストのダメなところです。共産主義は一歩一歩細胞会議を開いて、戦術を決めて、秘密文書を作って、そういうふうに理詰めでやっていきます。アナーキストはチャンスがあればそれに一緒に乗っかって騒いでいるだけです。

中嶋:そんなこと無いと思います。先生の批評的な戦略を見ていますと、色々と興味深い作家さんを扱っているので一見では見えてこないんですが、やはりユーモアということとエロスということが割と評価の基準に、批評眼というか視点としてあるのではないかと思うんですね。それで、ユーモアとエロスというものは恐らく繋がっていると思いますし。エロスということはあまり戦後の美術では話題にされなかった気がするんです。ユーモアもそうですが、割ともう少し真面目な感じの批評的立場が多かった、と。

ヨシダ:『エロスと創造のあいだ』っていう本が書かれていますね(注:ヨシダ・ヨシエ『エロスと創造のあいだ』、展転社、1986年)。派手な表紙です。どこかへ無くなったと思っていたら昨日一昨日ひょっこり突然出てきまして、今手元にありますけれど。

中嶋:エロス、あるいはユーモアというものに出会われたのはどういうきっかけなのでしょうか。

ヨシダ:きっかけも何も、少年の頃からお医者さんごっこが好きで(笑)。エロスについては、敏感だったのね。

光田: 体験的ですね。

中嶋:先生がエロスについて語るのに惹かれるのは、日本のシュールレアリズムはあまりセクシャリティに関する言及が、とくに批評的な立場ではなかったと思うんですね。

ヨシダ:だから瀧口修造という人は大変にエッチな人です。

中嶋:先生もお書きになってますよね。

光田:そうですよね。でも全然出さないじゃないですか。

ヨシダ:ある座談会で僕がそういったんです。「瀧口修造っていう人は助平なひとですよ」っていったら、奥さんがお怒りになったと。だけどね、もし助平でなかったらシュールレアリズムに近づくはずがないでしょう。エロティックですよ、彼の作品を観ても。

中嶋:ある種の官能性はあるように思います。

光田:批評は、違うということでしょうか。

ヨシダ:瀧口さんに憧れている女性がたくさんいました。あの静かな語り口とか雰囲気にやられて西落合通いをする女性をたくさん見ています。野中ユリとか美女ですよ、みんな。瀧口さんも自分で書いています。「僕のまわりには一時期たくさんの天使が飛んでいた」という意味のことを。

中嶋:瀧口先生にかかると、「天使」や「妖精」ですものね。ただ、瀧口先生的なものかどうかは分からないですけれど、ヨシダ先生もエロスというものに一貫して関心も持たれて、色々な方にインタビューをされていますね。

ヨシダ:『エロスと創造のあいだ』の原稿は全部インタビューですからね。

中嶋:戦前のシュールレアリズムを経験されている方もいらっしゃいますし、そうではなくて、先生は戦後の風景というものにある種のシュールレアリズム的なエロスを見ていらっしゃるわけですよね。

ヨシダ:そうだね、その辺は「うん」と答えちゃっていいのかどうか。エロスというものは、さっきもいったように「根源的なもの」という意味でラディカルなものだし。

中嶋:それでエロスについての研究もいろいろとなさっていますよね。

ヨシダ:エロス論はここにも入っているでしょう。これは歴史的に書いたものだね。

中嶋:そうですね、ギリシャのエロスもそうですし。また一方では現代の精神分析的な理論にも通じていらっしゃいますし、バタイユにもシュールレアリズムにも通じていらっしゃいますね。カソリシズムのタブーとしてのエロスとか。

ヨシダ:日本にはそういう意味のエロスというのは、近代化されたものはフロイトが入ってきてからでしょうね。

光田:(『解体劇の幕下りて』を取り出して)これは赤瀬川さんとのコラボレーションみたいなかんじですか。(註:同書の表紙絵とイラストを赤瀬川原平が担当している)

ヨシダ:赤瀬川が派手な表紙を描いてるんです。桜が上から散っていくのに、この表紙は下から花吹雪が上へ吹き上がっていくという表紙です。これは、「原爆」を逆さに描いてあるでしょう。下からじゃなくて、上から下へ。逆さまなんですよ。

中嶋:それで、池田龍雄さんとか古沢岩美さん、あと四谷シモンさんともお話されています。それぞれのお話の中で、先生はいつも日本の戦後におけるエロスのようなものを描き出そうとされているように思われます。日本の戦後にあったエロスというのは、先生にとってはどういったものでしたか。

ヨシダ:やっぱり、「チャタレイ(裁判)」とかそういったことでしょうね。「なんで、これが犯罪なのか」という素朴な疑問が最初ですね。あれは刺激的でしたね。

中嶋:それはやはり、禁忌と検閲と自由というものの近代的なあり方という事なのでしょうか。

ヨシダ:もうぬけぬけと、あの時はこの時代が来た、という雰囲気があったんじゃないですか。男達が話すのはみんな、「チャタレイ夫人を写していた事務の女の子が事務所でオナニーしてた」とかそういうことで、そんな会話が飛び交っていましたから。

中嶋:その一方で女性の作家にもその過程で色々とお話しされていますよね。草間さんとか合田さんとか。当時はそんなに…… 

ヨシダ:エロティックなことなんてやってないですよ、草間も合田佐和子も。エロティックといえばエロティックだけど。その対談でも、性の話をすると否定します。ただ、この人(草間彌生)はちょっと違ってた。「窓を開けると、ペニスが襲ってくる」って(笑)。山ほどこっちへ来るから、それを描くって言っていました。「私のエロスは恐怖症だ」って書いてあったね。エロス恐怖症、そういう言い方をしてたね、彼女は。

中嶋:増やして無化するという理論ですよね。エロスということとユーモアということは関連しますか。先生にとっての「ユーモア」の根幹は何ですか。

ヨシダ:ジャック・ヴァシェ。『戦時の手紙』、あれが一番驚いた。それでフランス語版の本を僕は持っているんですけれど、それをフランスで言葉の達人の人にこれを訳してくれとお願いしたんだけれど、「これは訳せない」というんです。ブルトンがシュールレアリズムを始めたのは、ジャック・ヴァシェに会ったからですからね。片っぽはフランス兵の服装をして、下半分はドイツ兵の服装をして、敵も味方もないんですよ、彼には。その気違いにあって、戦争中に手紙を書いていたのね。その手紙、『戦時の手紙』という一冊の薄っぺらな本がブルトンに自分の考えを全部ひっくり返すほどの衝撃を与えて、ブルトンはシュールレアリズムを始めたんです。

中嶋:それが、先生が想像されるユーモアの批評になるんですか。日本にはユーモアが欠如していると仰ってますが。

ヨシダ:ユーモアは、フランス語ではアッシュ“h”をよまないから、フモールでしょう。“h”を抜いたユーモアがジャック・ヴァシェだ、といういい方をする人がいますね。“h”はヒューマニズムhumanismの“h”と重なります。ヒューマンなものを全部どけちゃった、“h”をとったユーモア。

中嶋:それは先生の文明否定論にも繋がっていきますね。このテキストは先生が1963年に書かれたのものなんですが、この様に書かれています「私はよくこの国のユーモアの精神の欠如について考えることがある。義理人情にツマされた落語的なオチや、徳川夢声流のゆうもあ(このユーモアはなんと、youとmoi、つまりアナタとワタシが語源である)にはこと欠かないけれども…… 」とあります(注:ヨシダ・ヨシエ「ユーモアの欠如」『三彩』1962年3月号、p.83)。

ヨシダ:徳川夢声はそういう雑誌をつくっていたんです。『ユーモア作家倶楽部』というの。

中嶋:「もっと直接的で根源的、革命的なユーモアが決定的に欠けている」。そこにジャック・ヴァシェの話が出ているんですね。その時にユーモアがある例として挙げられているのが、赤瀬川原平、集団α、小林政嗣といった方なんですけれど。このユーモアということについて、どういう風に辿り着いたのかということをもう少しおうかがいできたらと思ったのですが。

ヨシダ:爆弾ですね。全部吹っ飛ばしてしまう、今までの概念を。

中嶋:破壊的なんですね。吉仲太造さんもある意味そのユーモアを持っていた(ということですね)。

光田:先生のこのご本のタイトルは『解体劇の幕降りて』といって、これはもう「終わった」ってかんじのタイトルなんですが。

ヨシダ:最後にある後書きを見てください。「幕が終わっていない。これからだ」と書いてあります。

光田:この後の幕は、開いたのでしょうか。「幕を下ろさない態度を貫く」と書いてあるんですけれども、でも「一応幕降りたかな」というようなご感想があったので、このタイトルなのでしょうか。それはやはり、万博の時ですか。

ヨシダ:これは最初に学生運動の挫折が最後でしょ。ヘルメットが打ち砕かれている絵がある。

光田:そうでした。これは学生運動の終わり、70年安保の終わりということでしょうか。

ヨシダ:僕のヘルメットがぶっ壊れて、その写真もありますよ。機動隊にやられたの。意外に壊れるものです、ヘルメットって。機動隊の棒でバッカーってやったらパーンって穴が開いちゃって。その前で僕がにやにや笑っている写真が家にありますよ。それの一番最後に「幕は降りてない」と書いた。

光田「降ろさない態度を貫こうと思う」とあります。

ヨシダ:そう書いたつもりです。これはね、美術手帖の宮沢(壮佳)君が、「ヨシダさん、連載しないか」っていうから、僕は体験的なことしか書けないと思うっていって、60年代から70年代にいたる僕の周りで僕が関心を持ったような、破壊的なシリーズを書いたの。そうしたら宮沢に「ヨシダさんだめですよ、美術出版でヨシダさんの連載は評判が悪くて」と言われたの。上役からいわれたと、そういわれました。ところが一番売れたのがこの本です。何度もタイトルを変えて再版して、これは三版目です。みんな面白いことが好きなんです。

光田:美術出版社からでなかったんでしたか、この本は。

ヨシダ:そうなんです。美術出版では大反対でした。中身が理論的ではないし、要するに『美術手帖』に載っている宮川(淳)君とか他の人達のしっかりした文章とは違っていて、ドキュメントですから。

光田:針生先生の『現代美術盛衰史』も『美術手帖』に連載されていたけれど、東京書籍から出版されていますよね。だから美術出版社ってそういうところなんじゃないでしょうか(笑)。

ヨシダ:もともと水彩画の同好会ですからね。大下さんがやったのは、今でいう業界紙と同じで、絵描きからお金を集めて水彩画の同好会をやったのね。大正時代は水彩画が一番売れた時期で、水彩画家っていうのはもてたんです。だから帝銀事件の真犯人といわれる、そうではないとはおもうけれど、平沢貞通とか竹久夢二とかみんな出てきたのはその時期で、みんな『みずゑ』です。だから、『みずゑ』が美術出版の中心です。『美術手帖』なんていうのは戦後にできてきた派手な雑誌に過ぎないんで、これは太田三吉がつくった雑誌で。太田三吉は大下さんのところの副社長をやっていたんだけれど、戦後に雑誌が割れることになって、大下さんは洋画をやることになった。藤本さんはその商売敵をつくるのもなんだから日本画系をやるというので太田三吉を引っこ抜いて、『美術手帖』をつくった。これが『美術手帖』の歴史ですね。僕の性格だと思うけれど、そうやって『美術手帖』と『みづゑ』、『三彩』と『みづゑ』が分かれて、僕は太田三吉と呑み友達ですからどっちかというと『三彩』に多く書くようにそれからなったんです。でも日本画のことを全然知りません。

光田:『三彩』はいろんな批評家の先生達が連載をされてましたよね。

ヨシダ:日本画が保守的ということはないけれど、『三彩』の方が保守的な雑誌だと一般のイメージではあって、『みづゑ』のほうが若者も読む雑誌だということになったから、僕は靉光をかくときは、『みづゑ』で、他を書くときは『三彩』でという風にかき分けていました。

光田:先生はアンデパンダンを毎回ご覧になっていたんですよね。

ヨシダ:第一回目から。特に読売アンパンは最初っから。篠原有司男が「もうこうなったらやけくそだ」ってやったころから。

光田:でも最初の頃は池田龍雄先生とか、小山田二郎さんとかそういう感じですよね。その頃からご覧になっていて、変わったなという感じはありますか。

ヨシダ:小山田二郎を発見したのは、自由美術ですけれどね。自由美術の第15回展です。

光田:自由美術は針生先生もよくご覧になっていたんですよね。

ヨシダ:麻生三郎が影響が強かったんじゃないでしょうかね、当時の自由美術は一番自由だったんですよ。飲んべえの寺田政明がいたし。これも飲んべえの藤沢典明がいたし。ということで毎晩呑みまわっていましたからね、その人達に連れられて。それで小山田がまたがぶ呑みですから。

光田:読売アンパンで、何か面白い作品があったりすると、その作家に会う機会があるわけですか。

ヨシダ:一つには、新宿の大久保、今は無くなっちゃいましたけれどコマ劇場があって、その辺りは住宅地だったんですよ。そこに吉村益信がいて、彼は大分の出身ですが、大分の吉村薬品のぼんぼんですからお金があったんです。大きい建物をつくったの。それをホワイトハウスといいました。そのホワイトハウスへ僕は毎晩のように乗り込んで、そのへんで暴れ回っていましたから、それで吉村たちが頭を全部剃って、篠原はモヒカン刈りにしたりして、そういうファッションも含めておもしろかったんです。

足立:読売アンデパンダンの赤瀬川さんの書いた回想だと、過激な作品はごく一部で、ほとんどはアマチュアのつまらない絵だったというのですが、実際ヨシダ先生はどう思われていましたか。

ヨシダ:アンデパンダンですから、誰でも出せるわけ。来年はどういう展覧会にしようというときに、赤瀬川なんかが来年の展覧会の企画委員だったのね。そうすると読売新聞からみんなにビフテキが出るんだって。だから赤瀬川がなんかは、ビフテキ委員会と呼んでいたらしいですよ。「よし、来年もビフテキが食える!」っていっていたらしいです。毎年ビフテキ食べながら、破壊的な仕事を指示してるんだから、日本のブルジョア感覚(笑)。

光田:でも先生は万博の頃、「進歩と調和」じゃなくて、「土俗と卑猥」だったかな。そっちの方をアピールするべきだ、というような文章を書いておられて。あの反博の頃のちょっと前くらいに、アンダーグラウンドとか土俗系のパワーみたいなことを先生が書いておられたと思うのですが。

ヨシダ:万博に反対した理由はただ一つ。「これからは情報化社会だ」というのがあの時の売りものだったの。「情報化社会」を僕は「情報ばけ社会」と訳したの。情報が管理されて、化けて人を管理することになる。だから、それに反対するというのが僕の論理といえば論理だね。「情報ばけ社会」と読むのが僕の(考え)。情報が化けて、だって今の時代が来れば、僕が言っていたのが完全に正しかったことが分かります。今の時代は情報が全部化かされて下に降りてくる。それに対する反対です。

中嶋:岡本太郎さんの「太陽の塔」などはどのように思われていたんですか。

ヨシダ:僕はこれにも載ってるけれど、岡本太郎の家に乗り込んでるの。「岡本さん、なんであんなもんをだしたんですか」って僕は文句を言ってるんです。この本に載っています。「岡本太郎の塔」っていう文章です。

光田:万博の頃は色々な方の論理があって、針生先生も一応言っておられたけれど、情報化というようなことを言っていらっしゃる方は少なかったですね。

ヨシダ:僕が言っているのは情報「化」。

中嶋:情報化社会に反対。

ヨシダ:うん。完全な管理社会ですから。それは、残念だけれど当たったね。今、あの時よりもよっぽど管理社会ですよ。

光田:前衛美術家が、国のイベントに参加するのはけしからんというようなことを言う人が多かったですよね。

ヨシダ:そう、僕は論理が違っていたから。

光田:先生はそういうことは仰らなかったんですね。それこそ吉村(益信)さんなんかは会社を作ってやっておられたとか。

ヨシダ:金を出すから作家は参加しろというのが国のやり方で。国から金が貰えるんだからみんな動きますよ。

光田:先生は誘われなかったんですか。

ヨシダ:全然誘われなかった。万博に参加するなっていうビラを、あの頃あった安保のデモだったかな、大量に作ってそれを会場にばら撒いたの。そうしたら宇佐美(圭司)君が出てきて「ヨシダさん、気持ちは分かるけどそれは無理だよ。君のいうことは。参加するなったって、もう僕はしちゃってる」って言ってました。

足立:『芸術新潮』に、(ヨシダ先生の文章と)辻まことさんの絵が掲載されていましたね。(内容は)権力体勢に巻き込まれていくのは絶対に反対だ、というようなものなんですけど。(注:ヨシダ ヨシエ「美術評論家・ジャーナリストの権力生態学」、『芸術新潮』(特集:素人のための美術界入門)第39巻第2号、1988年2月)

ヨシダ:美術評論家っていうのは岡倉天心以後、今でも変わらないですよ。そういう意味では針生一郎も同じ。

足立:ヨシダさんは建築関係のことも何度か書いていらっしゃるじゃないですか。建築にも関心があったんですか。

ヨシダ:お金になることだったら、何でも。ジャズ評論もダンス評論も。それから探偵小説評論。これはずっと何十冊と、探偵小説の雑誌に(書いています)。松本清張論も書いていますよ。松本清張をコテンパンにやったの。そうしたら松本清張に睨まれたらしい。これはろくでもない奴だ、って言ったとか言わないとか。

足立:では、ジャズ評論とか探偵小説評論のほうが、絶対に美術評論よりもお金になるじゃないですか、原稿料として。

ヨシダ:だから、探偵小説、ファッション雑誌、それから凄いのは『夫婦交換雑誌』っていう、夫婦乱交パーティーを薦めている雑誌があるんですよ。凄い雑誌だったね。そういう夫婦交換雑誌というのがあるんですよ。そういうのにも書いたことがあります。

足立:『週刊プレイボーイ』に書いていらっしゃったと、他のインタビューで仰っておられましたが、どんなことを書いていらっしゃったんですか。

ヨシダ:何を書いたかな。エロティックなとこも色々と書きましたよ。よっぽどポルノ小説を書こうと思ったこともあります。だけれど、ポルノ小説というのは、体験じゃなくて想像すればいいんだから。想像すればするほど、刺激が強い。永井荷風が『四畳半襖の下張り』を書いたのは、今の僕を超えてるくらいの年代よね。最晩年だもの。あれは凄い小説だね。素人の女性を、「もっともっと」と言わせるまで追い込んでいくんだから。性のテクニックが一杯書いてある。昔は、襖の紙が破けているとその下に手紙の紙やなんかが貼ってあったんです。それを見たら、性の告白があるっていうんで。

光田:先生は美術評論の果たしてきた役割というか、それこそ美術評論家連盟が出来るころから書いていらっしゃるわけですが、どんな役割をはたしてきたと思われますか。

ヨシダ:戦後の美術評論だよね。美術評論家連盟というのは日本には無かったんだけれど、国際的な組織から誘われて瀧口修造さんが入って、瀧口さんが推薦してくれたんです。美術評論家連盟というとだいたい官僚が多いけれど、「君みたいなタイプの人が入っているといい」とは言わなかったけれど、それに近いことを言って推薦してくれたの。当時瀧口さんが会長だったから、そのまますぅっと入っちゃったね。

光田:連盟自体はさほど仕事はしていないと思うんですけれど、評論家の先生方というのは、日本の現代美術にいろんな役割を果たしたと思います。先生はどんな役割を果たされたと思われますか。

ヨシダ:要するに、名門が多いんじゃない。植村鷹千代とか、本当の御三家の、徳川家の系列とかね。そういう意味では、岡倉天心以来の伝統があるね。

中嶋:先生はそのような歴々の批評家の中で、ご自分の立場というかあり方をどのように今お考えになっていらっしゃいますか

ヨシダ:自分で言ったらちょっと恥ずかしいけれど、この間ある画廊でたまたまオープニングをやっていてそこの隅っこで一人で飲んでいたら、突然一人が「今ヨシダ・ヨシエが来ている。名前を出すのはまずいけれど、針生さんなんかみると『偉い人』だと思うけれど、ヨシダ・ヨシエっていうのは僕たちの、絵描きの立場でものを発言している唯一の味方だ」という意味のことを言ったとき、あまり違和感はなかったね。上からものを言わないから。

光田:先生は作家みたいな感じの先生ですよね。

ヨシダ:作家と一緒に飲み屋を荒らしたり、喧嘩をしたり(笑)、無頼をやっているから。

光田:先生は就職されたことってなかったんですか。

ヨシダ:いや、何度もある。市ヶ谷の駅前の「瀬味証券印刷」。それから、若いときは詩の雑誌。『ユリイカ』の編集は手伝ってたよね。神保町の1−3、神保町のラドリオの前の二階建ての建物、これは本の手帳をやった森谷均。僕は森谷均に好かれて、朝から晩まで焼酎を呑みながら編集をしていたことがあるから、編集技術は全部そこで学びました。それと瀬味証券印刷だけれど、証券だからナンバリングが使えるようになったの。機械のことに詳しくなったね。そのデザインをやったんですよ。宝くじっていうのは三色刷ですからね、(印刷費用がかからなくて)宝くじの仕事をとっちゃえばお金がんがん入るんですよ。そうすると宝くじは、北海道宝くじ、東北宝くじ、北関東宝くじ、関東宝くじ、中部宝くじ、北九州宝くじ、とあるわけだよね。それだけの種類の仕事をとってきて、三色刷でデザインだけ考えればいいんだから。
 営業マンもやりました。それから富士銀行からコピーを頼まれたの。富士銀行がちょっと緩みだしたから、社員がみんな心を一にするような名コピーを頼む、っていわれたの。よし、俺に任せろ、って思ってね。富士山を紙に書いて、その後ろから煙草でぽーっと煙を出して、そこに金色で大きい文字を抜きました。

中嶋: もう3時間近くお話をお伺いしていて、お疲れじゃないかと思うのですが。
最後に一つだけおうかがいしたいのですが、今一番ご興味を持たれていること、今一番なさりたいことというか、なさっているお仕事が有ればお教えいただけますか。

ヨシダ:百歳になって、結婚する相手を探すこと(笑)。

中嶋:了解です。

光田:婚活(笑)。先生にお聞きしたかったのは、美術評論家というのはどういう役割だと思われるか、という事なんですけれど。
 先生の文章は、なんかこう、たとえば現代美術のトピックというような事よりも、とくに作家論ですけれど、人間性・本質をヨシダ節で描くというような。他の方の現代美術評論とはスタイルが違っていて、先生の世界ですね。

ヨシダ:瀧口さんが悩まれたとおりです。「描く」と「書く」、が同じ頃に発生したものだとするならば、それをどう言語化するかというのは、不可能じゃないかと時々思うことが有ります。

一同:今日はどうもありがとうございました。