杉浦邦恵 オーラル・ヒストリー 第2回

2008年9月26日

ニューヨーク、チャイナタウン、杉浦邦恵の自宅兼スタジオにて
インタヴュアー:富井玲子、由本みどり
書き起こし:鈴木慈子
公開日:2009年11月12日

富井:先日は、生い立ちのところから、カンヴァスを使った作品のところまでうかがったんですけれども、少し人間関係のことなど、教えていただきたいと思います。ニューヨークで、他の作家や美術関係者の人とか、日本人も含めて、いろいろ交流がありましたね。この間は、デイヴィッド・ヒッキーとリチャード・ベラミーの話をしていただきましたが、そのほかにもアーティスト仲間との交流はいかがでしたか。

杉浦:そう。私の場合は、シカゴのアート・インスティテュート・オブ・シカゴに行ってたから、そこのクラスメイトとか、そこから卒業して、別に友達でなくても、同学年でニューヨークに来た人とか、ニューヨークに来ると最初は仲良くしたりしていたんですけどね。そのほかに、ダウンタウンに移って来てからぐらい。でも最初にニューヨークに来たときに、ばーっと会ったのは日本人のアーティストだったの。だから今思うとね、向こうも覚えてないし、こっちも覚えてないけど、飯村隆彦さんとか。私もちょっと映画とかやってたんで。それから、(河原)温さんは全然会ってないけど、川島(猛)さんとかね。

富井:川島猛さん。

杉浦:そう。それから、古川喜重さんとか(杉浦注:九州出身で2006年に日本で死亡したと聞いている)。

富井:吉川さん。

杉浦:それから、近藤竜男さんとか。それから、『エーゲ海に捧ぐ』の、池田満寿夫とかがすごい乗ってたときなの。(彼がニューヨークに)来たときに、私はアーティストの作品の写真なんかを撮ってたんですよ、スライドで。そういう仕事もらったりしたんで、ばばーっと皆に会った。ここ(注:チャイナタウンにある杉浦の住居兼スタジオ)に移ってきたのは30何年前なんですけど、ここ(の住人)は6人アーティストだったし。下にいたのがケイジャン(注:ルイジアナに移住したフランス語系の移民)っていって、ルイジアナ出身のアーティストで。それで私の下の人はランドル・アラビィ(Randall Arabi)って写真家だったんだけど。彼の友達にキース・ソニア(Keith Sonnier)とか、それからフィリップ・グラス(Philip Glass)、あと二人ほどマボー・マイネ(Mabou Mines)ていうアングラ前衛劇団(注:Joanne Akalaitisにより1970年創設)の人がいて、近所に住んでて。その向こう側のところに、メアリー・ハイルマン(Mary Hailman)とか、ディッキー・ランドリー(注:Dicki Landry、ルイジアナ出身のサキソフォン奏者、ヴィジュアル・アーティスト)とか、ぞろぞろっといたんですよ。それで、ここに入ってきてから、自分の家っていうより、合宿所みたいで、上に行ったり下に行ったり。皆、仲が良かったとは限らないんだけど、がたがた、いつもしてたの。それで、その人たちが、何というかな。下の人たちはケイジャンっていって、フランス系の、ルイジアナに住んでた人たちなんだけど。その人たちって、音楽とか食べ物とかがすごいやっぱり好きで。だから、コミュニティの生活みたいな。

由本:パーティーばっかりしてたんじゃないですか。

杉浦:そうそう(笑)。お金は全然ないんだけど。楽しむことは大好きで。その人たちが後に「フード」(注: “Food”、1971年から80年代にかけてソーホーにあった芸術家達の実験的協同組合、レストランとしても運営された)っていうのを始めるんだけど。だから、すごいグルメ。それで、その人たちは、自分たちがここでやらなければ、どこか友達のところに行くとかね。それにくっついて、ただで食べられるってだけでついて行ったりしたから(笑)。誰がいるのかは知らない。だから、そのへんで、ばばーっとすごい会って。今の人脈みたいなのがあるとすれば、そういう人たちに会ってる。

富井:そういう人たちとおつき合いして、作品に何か影響があったとかっていうことは。

杉浦:すごいあると思う。なぜかって言うと、今でも、たとえばそばにキャロル・ヘッパー(Carol Hepper)とか、リサ・ホーク(Lisa Hoke)とか、ニーナ・コナリー(Nina Conally)とか。今みんな40代とか50代とかになったけど。やっぱりみんな作品ができると見せ合うんですよ。で、そういう人たちが、この間ニュージャージー(注:Visual Arts Center of New Jersey, Summitでの“Kunie Sugiura: Time Emit” 展、2008年)でやったときも、まだオープニングに来てくれたりして。だから、その人たちの作品が出てきたら、私も行くし。だから、何て言うのかな、そういうコミュニケーションっていうか、ソリダリティ(solidarity、団結)っていうのはすごい重要だと思う。それは、やっぱり日本の作家なんか見てると、埼玉県とか移っちゃって、わりかし引っ込んじゃうでしょう。それがニューヨークの場合、美術学校の続きでみんなここに来てる感じだから、それが今すごいと思うわね。ただ今はみんな、ブルックリンとかで若い人たちはやってるんだと思うのね。みんなやっぱり、スタジオなんか借りてるでしょう。だけどマンハッタンではもうそういうことは、ちょっと、若い人は難しいね。ほとんど住めないし、(家賃が高くて)借りれないから、スタジオ。

富井:邦恵さん、わりと若いアーティストとも今つき合ってますね。アシスタントしてもらってる人たちもいるだろうし。

杉浦:うーん。ていうか、私はほら、『BT(美術手帖)』にずっと書いてたから。今度『BT』からは今度「お休み」が出たんですけど。今年の5月から、特別な、いろんなリニューアルがあって、私たちはちょっと、一時お休みってことになって。でも20年以上やったから、日本へ行っても人に会うと、みんな知ってるような顔をしてしゃべりかけてくるんですよ。みんな読んでたりして、私の考えを知ってるみたいな人がいたんだと思うんだけど。それで、ニューヨークなんかにみんな来るでしょう、文化庁芸術家在外研究員とか。そうすると、最初は偉い批評家に行くわけじゃないですか。みんな全然会ってくれなくて。しょうがないから最後ぐらいに私のところに作品見せに来るんですよ。「あ、やっぱり今年もまた来たな」という感じで(笑)。

富井:じゃあ、みんな邦恵さんのところに(笑)。

杉浦:最後のつり箱みたいな(笑)。

由本:その人たちは杉浦さんの名前をいろんなアーティストから聞いて、会いに来るんでしょうか。

杉浦:「一回は見てあげる」とか言って会うでしょう。そうすると、最後はやっぱり「画廊を探したい」とか、そんなことになるんだけど。でもやっぱし選ばれて来た人たちだけあるから、みんなすごいすばらしい人だし。作品はニューヨークではじけるかどうかわからないけど。最後に会いますよ(笑)。

富井:『BT』はどういうきっかけで書くようになったんですか。

杉浦:『BT』は、いつも画家、アーティストに「ニューヨーク・リポート」を書かせてたの。近藤竜男がやったりして、それで依田(寿久)さんがやってて。何年やったか知らないけど、依田さんが大変になって。依田さんの奥さん、順子さんもやって。だけど一応、依田さんの名前で書いてたらしいんだけど。

富井:そうなんですか。

杉浦:うん。何年やったか知らないけど。で、とっても大変になってきちゃったから、私に「やらないか」って言って。それで、近藤さんと依田さんは、すごい仲が良かったの。今でも仲が良いかもしれない。それであの人達の話で、「邦恵さんが2、3ヶ月でどうせだめになるから、その間に他の人を探そう」って言って(笑)、「とにかく邦恵さん」って言ったんですよ。そしたら意外と私が続いちゃって、みんなびっくりしてたみたいだけど。で、20何年やった。

富井:それまで、文章を書いて発表したりとか、あったんですか。

杉浦:ほとんどないけど。小さいころは「詩人になろうか」とか思ってたりもしたから、文章はすごい好きなの。本を読むのがすごい好きで。だから、自分が書けるとか全然思ってなかったし、今も思わないけど。だから、ことばに対する、何ていうのかな、愛着、造詣は、すごいあると思う。

富井:なるほど。日本の話が出たので、ついでに、日本の美術界とどんな連絡や交流があったかということで。最初に日本で展覧会したのは、どこでしたか。

杉浦:日本で最初の展覧会は、1978年なんですよ。すごい遅くて。私、63年に(アメリカに)出てきてるのに。学校卒業したのが67年なんだけど。日本でやったのは1978年が初めてで。

富井:この、銀座絵画館っていうところでいいんですか。

杉浦:そうです。なぜかっていうと、《Cko》っていうカラーのモンタージュを、日本のジャズやってるグループの人がいて、その中にアートが好きな人がいて。私に「絶対にこの作品を、日本で展覧会やると良いから」って言って。どこだったかな。本屋さん、新宿の本屋さんで。

富井:紀伊國屋かな。

杉浦:そうそう。「そこの画廊があるから、そこでやらないか」って、言ってくれた人がいたの。そうしたら、ギューちゃん(篠原有司男)たちと知り合ったら、ギューちゃんたちが「そんなとこでやるのはもったいないから、僕の友達に紹介するから、カラー・フォト・コラージュをやったら」って言って、田中信一郎さんを紹介してくれたの。そうしたら、田中信太郎さんが、その頃できて、「今人気がある日本の画廊」って言って、銀座絵画館を紹介してくれたの。

富井:そうですか。

杉浦:ところが、やることになったら。まあ、一週間だったけど。お金払わないでいい、一週間でね。それでもって。

富井:じゃあ、企画展。

杉浦:企画展だったのね。カラー写真はもったいないから。そのときに《ディプティック》(Diptych)とかやってたんですよ。「だから、その《ディプティック》にした方が良い」って言って。「カラー写真は小さいし、どっかでもまたできるんじゃないかな」と思って、いっそ《ディプティック》にしたの。銀座絵画館では、すごい良い展覧会を、一週間だけどしたのね。

富井:一週間ですか。

杉浦:でも誰も来ないし。でもそのときに、銀座絵画館に勤めてた、美学生みたいな女の人が、峯村(敏明)さんの奥さんに今なってる人で。今は、なびす画廊? なすび画廊? (をやっている)。

富井:なびす画廊。なすび画廊は違う人の作品(注:小沢剛が1993年になびす画廊前の路上に設置した、牛乳箱を展示スペースとするギャラリー)。

杉浦:もとは違う名前だけど、そこの女の人で。彼女のところに泊めてもらって。そこで、若い作家が、鷲見和紀朗(注:スミ・ワキロウ ブロンズ・蝋をつかう彫刻家)さんとか、いろんな人が出入りしてたのね。で、私が友達になったのが、吉田誠さんっていう人と、洋子さんっていう夫婦で。その人たちも、銀座絵画館でやってたりしたらしいんだけど。銀座絵画館っていうのは、もうすぐつぶれちゃうの、その後。

富井:そう、聞いたことはないんですよ。私、知らなかった。

由本:知らないですねえ。

杉浦:2年も続かないぐらいで。シナリオライターの男の人がやってたんだけど。結局、お金がなくなっちゃって。夜逃げみたいなのしちゃったの(笑)。

富井:そうなんですか。

杉浦:でも私、運が良かったのはね、そのとき作品を(画廊に)全部残さないで、「ニューヨークでほしいから」って、全部すぐ送り戻したの。それで今、あそこ(Visual Arts Center of New Jerseyでの個展)に出してる作品も1点ぐらい入ってる。《ディプティック》ね。だから、すごいそれは良かった。

富井:なるほどね。ラッキーでしたね。

杉浦:それ、取られちゃった人とかがいて。うやむやで分かんなくなっちゃった人がいて。

富井:夜逃げしたんだったら、置いてあったもの、全部持って行かれますよね。

杉浦:すごい良い人だったけどね。鈴木ヒロシ(漢字表記不明)さんだったか、もう忘れちゃったけど。そういうことがあって。そうしてたら、カラーの写真が余ったわけですよ。

富井:余ってるっていうか、見せないでね(笑)

杉浦:見せないでね(笑)。そしたら、吉田くんって、銀座絵画館でやってた人が、「今、開いたばかりの画廊があって、そこは写真だけやってるから、そこに持って行って見せたら」って。彼が持って行って、私がくっついて、会いに行ったら。それがツァイト・フォトっていう、石原(悦郎)さんが始めてまだ2ヶ月ぐらいの画廊だったの。

富井:じゃ、開いたときだったんですね。

杉浦:開いたときだったの。1978年。

杉浦:うん。そしたら彼が見て、すぐに「ぜひ展覧会をしよう」って言ったんですよ。それで、展覧会をしてくれたのが79年。

富井:79年ですね。年譜みてたら、79年にツァイトでやってるんですね。

杉浦:だけど見せたのは78年。だから9月か10月。最初の銀座館でやったときに、日本に行って、会ってるの。

富井:それも企画展っていうかたちですか。

杉浦:そう。あそこは企画しかやらないんですけどね。

富井:企画展しかやらないところですか。

杉浦:でも、それが《Cko》を発表した日本で最初の展覧会で、最後の展覧会で。それで、なってるんです。

富井:後、わりとコンスタントにしてますよね、ツァイト・フォトでは、86年、89年、それから93年。

杉浦:もう10回ぐらいしてる。

富井:そう。95年。コンスタントに。

由本:最近もありましたね。

杉浦:でも最近は、2005年です。

富井:ツァイト・フォトさん、78年ぐらいっていうことで。写真専門の画廊としては、わりと新しい方でしたね。

杉浦:すごい最初だったんじゃないんですかね。だって、それから4、5年たってから、「コンポラ」とかいう言葉ができてきて。写真をアートとして見るとか買うとかいうことになったけど、その頃はね。私も、最初のふたつの展覧会は、オープニングも何も行ってないの。もう最初のは日本に行ってたし、《Cko》は行ってたし。次のときは、カラーの、じゃない、白黒のフォトグラムを85年かなんかにやってるんですけど。それは、もう一人のロサンゼルスの作家の、ジャパニーズ・アメリカンの人と二人展だったんで、それも行ってないんです(注:カズオ・カミタキとのフォトグラム2人展『K551』、ツァイト・フォト・サロン、1981年)。最初の2度は行ってないの。ツァイトも、オープニングは。

富井:そうなんですか。

杉浦:3回ぶりぐらいに行ったことがあるけど、閑古鳥が鳴いてる感じで。毎日ランチ食べにだけ行くみたいな感じだったんですよ(笑)。

富井:どのくらい日本に行き来してたんですか。

杉浦:だから、最初の15年は全然戻ってない、日本に。その理由としては、やっぱし友達がみんな「ニューヨークに来たい」とかそういうので、向こうが来るんで、あんまり行く必要もなかったし。展覧会もこっちのことを考えて。いわゆる日本のことも考えないではなかったけど、私は日本の美術学校も出てないし。だから、なぜ篠原さんとかに会うようになったかっていうと、私の友達で、日本人の女性作家の絵描きの人が、亡くなったんですよ。自殺したんですよ。それで、そのときにみんな日本人の作家の人がすごい助けてくれて。それでギューちゃんとかいろんな人、全部会ったの。

由本:それも78年前後ですか。

杉浦:それはね、彼女が自殺したのが。井出咲子さんっていう人なんですけど。

富井:じゃあ、シカゴから一緒に出てきた人ですね。

杉浦:そうです。一緒に学校に行って、一緒に来て。すごい純粋な、いわゆる文学少女を絵描きにしたみたいな人だったんだけど。結局、彼女は神経衰弱になって、自殺しちゃうんですよ。それが75年の8月で。それで「メモリアルの展覧会をやろう」とかっていうので、まずアパートの処理がある。おうちの人も、お父さんとか弟さんにニューヨークに来てほしかったのですけど、あんまりぱっぱっと反応しないんで、その間にアパートのものなんかが全部捨てられちゃったりして。(それを防ぐために)篠原さんなんかが、彼女の身の回りの品をオークションしたりして、私たちで、ばばってやって。その前から井出さんから、篠原さんとかいろんな日本人の話は(聞いてた)。彼女はアート・ステューデント・リーグに行ってたんです、ニューヨークに来てね。私は写真だったから、すぐ写真家のアシスタントになっちゃって、日本人の人には、彼女みたいには会わなかったんだけど。それを契機に、日本の作家にいっぱい会ったんです。だからそれまでは、私は全然、向こうも知らないし。シカゴで勉強してシカゴからニューヨークに来たから、日本の普通の芸大とか、武蔵美とか、ああいうつながりがなかった。でもニューヨークに来たときに、もう一組シカゴで勉強してた、(大西)かこちゃんって、日本人のカップルの人がいて。(夫が)大西公平君だ。大西君って、絵を勉強してた人がいて。その人の友達にソル・ルウィットなんかのアシスタントしてる人がいて。だからニューヨークに来たときに大西君たちに会ったら、大西君たちの友達とかで、また日本人の作家の、違う群れに会ったんですけど。大西君たちもしばらくして東京に帰っちゃうんですよ。でも、私が今つながってる日本人の、今までの人脈では、その頃会った人がすごい多いの。だから67年にニューヨークに来たときに、いっぱい、ばーっと会ってるんですよね。だから誰かが「引っ越しする」って言うと「引っ越しの手伝いに行け」とか言って、行って。そこで手伝いに来てた人と会ったりして。それで、みんな知り合ったのかなあ。

由本:世界が、せまいですね。

杉浦:せまいですね。

富井:そのわりには、ギューちゃんのことは、75年まで知らなかったわけですか?

杉浦:ギューちゃんのことは、井出さんがすごく尊敬しててね、よく私に話してくれたんですよ。「みんなを泊めて、1日1ドルかなんかで泊める」とかね、いろんな話してくれたの。

富井:そうなんですか。

杉浦:そうらしいです。旅行者とかね。それから、ギューちゃんがいろんな版画とかを教えて、他のアーティストに。

富井:ギューちゃんが教えてたんですか。

杉浦:それでみんな習いに行って、授業料みたいにちょっと払ってたりしてたみたい。

富井:ギューちゃん、それでも生活立ててたんだ(笑)。

杉浦:うわさには聞いてたんだけども、その咲子さんが亡くなるまでは、私は彼に会うことはなかったの。それで会ってから後はね、すぐそばに住んで、ぱっぱってすごい仲良くなったんだけど。

富井:ハワード・ストリートですよね。

杉浦:そうそうそう。それで、犬かなんか飼ってて、散歩に、いつも歩いてたんですよ、この辺。それで、一回会ってからは、「あの人たちだなあ」と思って、仲良くなったんですけど。だからちょうどその頃は、篠原さんの近所に、杉本(博司)さんなんかも住んでたのかスタジオがあったのか、出入りしてて。だから、またそれはそれで、ギューちゃんのところに行くと、一晩中食べたり飲んだりして、そこにまた人が来てっていう感じで。みんな会った。

富井:そうすると、世界がせまいっていうことはせまいんだけれども、やっぱり鍵になる人のところから、つながっていくっていうことですね。

杉浦:ていうか、私はシカゴの時は学生だったからよく分からないけど。ニューヨークに来たら、「本当に、アーティストどうしの関係ってすごい密だなあ」と思った。だから、仕事だけでも、仕事を探してるとか、そういうことにつながるし。だれか一人が画廊が見つかってオープニングすると、そこにわーっと行くでしょう。すると、また今度そこで会った人が、違うところでオープニングやったら、わーって。でももちろん、売れるなんてことはほとんど、その頃はなかったけど。だから、キース・ソニアとかもすごい早い頃会ってて。その頃は、彼もすごいハンサムで、他の作家の人(注:ジャッキー・ウィンザー(Jacki Winsor)、ポーラ・クーパー画廊所属)と結婚してたりして。今の彼とはすごい違うんだけど。だから、いろんな人にぱっぱっぱっと会ったわね。ゴードン・マッタ=クラーク(Gordon Matta-Clark)なんかもあったし。下で作品つくってて。

由本:そうなんですか。

杉浦:下で作品つくってたんですよ。

富井:だって、フードの関係だからね。

杉浦:そう。だから、みんな食べることがすごい上手だし、すごいクックが上手かったから。寄って集まって何かすると、夜は必ずガンボとかつくって食べてたんです。においが、良いにおいがするから、また私とかが「ああ!」とか思ってると、だいたい電話してきて、「早く来るとまだあるから」。

富井:においがして、自分で行くわけじゃないんですね。一応、電話が(笑)。

杉浦:一応ね。そうですね。一応、けじめはついてました。

富井:前も聞いたかもしれないんですが。いろいろ写真の仕事で、スライド撮ったりして、一応生活の収入になってたという話は聞いたんですけども。「作品で食べられないから」っていうかたちでおっしゃった。作品で食べられるようになったのは、だいたいどれくらいですか、時期的に言うと。

杉浦:だからやっぱし、90年代にMoMA(の展覧会)に入ったぐらいです。だから10年間、まだ。

富井:まだ10年ぐらいですか。

杉浦:自分の作品だけで食べられるのは、10年間。

由本:MoMAに入ったのは97年。

富井:97年。なるほどね。

由本:あの展覧会ですか。

杉浦:あの展覧会が、人生変えたんですよ、ある意味では。

由本:私、MoMAでインターンやってたんですよ、その頃。

杉浦:意外とつながってるね。

富井:つながってるね。そうなんだ。3人展ぐらいでしたよね、たしか。

杉浦:あれは一応9点とか出すんで、個展なんですけど。だいたい4人なんです。6人のときもあったの。

由本: “New Photography”(展)。

杉浦: “New Photography” ですね。今年は2人だけど、やってるの。結局いなかったんですよね、今年は。普通はだいたい4人っていうのがフォーマットだったの。時には6人入ったときもある。

富井:数はときどき変わるわけですね。

由本:金村修さんとかも。

杉浦:そう。あの人が入ったときもありますよね。

由本:それは次の年だったかな。

杉浦:それがね、何て言うかな、この頃はそうでもないけど、その頃はゲスト・キュレーターのときが多かった。MoMAのキュレーターで“New Photography”展を企画した人は少ないんだって。86年ぐらいからやってるけど。

富井:そうですか。

杉浦:だからカタログは全然付かないんですよ。責任負いたくないんだろうと思うんですけど。で、紹介する。キュレーターも紹介、ゲストのキュレーターを紹介して、その人が選んで、っていうかたちで。だからその後で、MoMAのキュレーターの人たちにしてみれば「自分だったら絶対選ばない」っていうような人が入っちゃってて、っていうことが何回もあったみたい。だから私もいっぱい言われたけど、半分ぐらいの人は全然消えちゃうし。作品が消えちゃうだけじゃなくて、名前も全部消えて、「ほとんど自分たちは何の関係もない」とか言ってた。

由本:展覧会があったのに。

杉浦:“New Photography”に関しては。

由本:では展覧会が直接、購入につながるわけではないんですか。

杉浦:私たちのときも買ってくれたから、一応買ってはいたんじゃないですかね。建前として、1点ぐらいは。みんなニュー・フォトグラフィーで、安かったから。

富井:そのとき出てたのは、たしかフォトグラムでしたよね。

杉浦:そうです。花のだけね。

由本:花のでしたね。

富井:それで一応、フォトグラムを始めたきっかけとか、そういうことに、ちょっと移ると。何年から始めてました?

杉浦:だから(前回)言ったように、シカゴのアート・インスティテュートで、写真のオリエンテーションで、写真として習ったのは、フォトグラムとピンホール・カメラだったんです。その両方ともすごい執着があったけど、(すぐには作品に)しなかった。80年ぐらいになって、絵やドローイングを描き始めたときに、自分の中で、何て言うのかな、予期できないようなドローイングをするために、暗いところに入ろうと思って。私、写真の仕事してたから、ダーク・ルームみたいなのがいつもあったんですよね。暗いところで描く。目隠しをするのと同じように、暗いところで、分からないで描くとかね。そういうのをやってて。そうしたら、「どうせだったら写真の感光紙に描いちゃえばいい」とか思って、それで始めたの。そしたら、やっぱし見てみると、どっちかっていうと、描いてるってことで、写真に近いから。フォトグラムって気になってたから、「フォトグラムってどんなものかなあ」と思って、マン・レイの本とかみたり、モホリ=ナジをみて。「ああ、こういう、小さなオブジェクトとかガラスを使ってるんだ」と思って、この辺にあるものを使って、フォトグラムをもうちょっと真剣にやり出したんですよ。それでやってるときに、誰かにもらった花を使ったら、「やっぱり自然のものはすごい良いなあ」と思って。花っていうよりも、植物とか、生きてるっていうことで。やっぱり輪郭とかがとってもきれいなの。それで。

富井:ちょっと戻って、最初の頃は、オブジェクトっていうか、ものを使ってたわけですか。

杉浦:そういうのもあるんですよ。だから卵とかもあるし。それから、いろんなもの。骨のあるがらくた、電球とか、いろんなのをやってたんだけど。そういうときもあるんだけど、あるときに花とかを見つけて。花っていうこともあるんだけど、「自然のものって輪郭がきれいだな」っていうのはすごい思ってた。それでもやっぱり、やってるものが小さかったから、そこに載るもの。だから、自分の手をやったりなんかもしたけど。

富井:小さいっていうことは、レターサイズの、このぐらいの。

杉浦:写真の大きさって、8×10(インチ)か、11×14か、16×20で。この頃はみんな大きい写真もつくるけど。写真はだいたい8×10ぐらいで、仕事なんかでも、アーティストの撮影なんかもしてた。だから、そのぐらいに収まる、そこに乗るもの、消しゴムとか鉛筆。だから、そういうものが、初めは主題に。

富井:なるほど。で、だんだん大きく、作品になって。

杉浦:そう。ていうか、時代もあるし。自分も、ちょっと絵なんかもやってたから、「このぐらい大きい方がいい」とか。体が入ってきた方が、絵に近くなるから、おもしろいんですよね。ジェスチャーになるから。だから、小さいものを細かく上手くできる人いるけど。私は、何となくね、すごく器用にきれいにやるっていうことがあまりできないの。だから体で、こうやったりすると、自分と作品がもうちょっと密着するっていうかな。

由本:花から小動物に移ったっていうのは、そういう動きを捉えようっていうことですか。

杉浦:ていうか、花を、ある時期やったときに、「次に何しようかな」と思ってね。何か、かたちが似てるけど、違うふたつをやろうと思って。例えばナスと、ウナギ。何だっけな、キャットフィッシュ、ナマズとか。

由本:私、あの作品が一番良いなと思って。

杉浦:そういうのを思ったのね。両方、この辺(チャイナタウン)で売ってるから、買ってきてね、並べてみたら。

由本:その辺で売ってるんですね(笑)。

杉浦:そう。1ドルぐらいで売ってる。で、こうやって並べてみたら、ナスは全然動かないけど、ナマズはごちゃごちゃ動く。そしたら、つくってみたら、全然おもしろさが違うの。それで「もうナスは要らないから、ナマズだけとか」って言って。

富井:あと、ウナギとかやってるでしょう。

杉浦:だから、この辺で買えるもの。カエルもウナギも。

富井:カエルね。

由本:じゃ、食用ガエルなんだ。

杉浦:全部食べられる。

富井:だって大きいでしょう、あれ。

由本:そうですねえ(笑)。

富井:だって、実物大だから。

杉浦:もちろんね、ペットショップも、全部その辺、チェックしたんですよ。14丁目とか。

富井:ペットショップも見たの?

杉浦:全部。だけど、ペットショップのカエルってのは、すごいきれいだけど、100ドルとか150ドルするの。

富井:高いんですね。

杉浦:高いのよ。だから全然(だめで)。

由本:そうですよね。しゃれにならないですよね。見るだけじゃないのに(笑)。

杉浦:それから友達に言って、ナメクジとかね、生きてて、どっか田舎からもらってきたものとかね。そういうのもやったけど。ナメクジなんかでも、小さいし。すぐに死んじゃうんですよ、飼っとけないっていうかな。

富井:食用ガエルは、少し飼ってたんですか?

由本:少し飼ってたんですか(笑)。食べずに。

杉浦:あれは全然飼ってないです。だけど、ナマズは1年半ぐらい飼ったことあるの。1回、インスタレーションに使った、タンクをつくって。それに、ナマズを飼ってたことがあるんですよ。そうしたらその中で1年半ぐらい、3匹ぐらい飼ってたんだけど、残ったのがあって。それを最後に、友人の子どもがもらってくれるっていうんで。あげる前に、記念につくってたら、やっぱり死んじゃったんですよ、そのナマズが。それで、その後に、「ナマズのメモリアル」っていうんで。

富井、由本:(笑)

杉浦:ナムちゃんっていうのが、「ナム」のインスタレーションっていうのを、ニューヨークのアキラ・イケダ(ギャラリー)で。

由本:あれが「ナム」っていうんですか。

杉浦:ナマズだから「ナム」っていうんですよ。

富井:なるほど。

杉浦:それで、アキラ・イケダのニューヨークのスペースでやらせてもらったの。だから、何て言うのかな、すごい科学者がやってるとかそういうのじゃなくて。何かこう、うちの前でちょろちょろっと買ってきたものをつくって、またそれをちょろちょろっと動かしただけなんですけど。私がひとつ思ったのは、「アートっていうのは簡単なものでもできるんだな」って。あんまりすごいセオリーとか、神秘的な透視法とか勉強しなくても、もうちょっと気楽に、直感的につくれるのがフォトグラムの良さで。それから、東洋の思想って意外とこう、メディテーションして、サマリットですか、エンライトメント(enlightenment)に到着するけど。その間の、何て言うのかな、理論っていうのがはっきりしてなくて、あるときにぱっと当たるみたいで。だから私は、アートも意外と、そういうふうに、わわわわとやってて、ぱっとクリアになって。それが作品としてヴィジュアライズされる。そういうのが一番うまくいくのがフォトグラムだった。

由本:それで、自然の生物なんかを扱うのが、一番ぴったりきたような感じですか。

杉浦:うん。ていうか、だって、写真の紙にそれを置けば、勝手に動いてくれるわけですもんね。だから自分で絵を描くというのは、すごく惑いがあって。それで、あるところまでくると、「もう一ヶ月描いてるんだから、失敗したくない」とかね。自分の醜い、他の人は知らないですよ、私の場合は、自分の中の弱いそういうところが出てきて、すごく嫌だったの。それが、フォトグラムなんかだと、写真の紙をぱっぱっと破って捨てればいいし、また次に紙持ってきて、カエルを乗っければ、次の作品ができるわけでしょう。そういう意味で、すごい気楽だったの。「今日4枚紙使って1枚作品が撮れればいい」と思うわけですよ。ところが絵なんかだと、こんなカンヴァス買ってきて、一ヶ月半やると、やっぱりそこで「一ヶ月半かかってるから、上手く仕上げたい」っていう欲が出てくるの。そういう自分を、何かきゅうきゅうしてくるのがすごい嫌だったの。挙げ句の果てに、うまくいかなくて。

富井:そうねえ。煮詰まっちゃってね。

杉浦:絵はいまだに難しいなあっていう印象があるんだけど。写真の場合はそういう点ですごい気楽。ていうか、紙だとやっぱし、私の場合は紙だとすーっと入ってくるところがあったの。で、布っていうのはやっぱり難しいし。油絵っていうのも好きだけど、全然難しい、私にとっては。

由本:でも思うんですけど、カンヴァスに焼いてらっしゃるように、最終的に絵になるようなもの。写真というよりは絵というものを意識してらっしゃるような。

杉浦:私がもうひとつ思うには、新しいヴィジョンができるときって、何か今までにない掛け合わせ、いわゆる混血児みたいに、そういうところに何か生まれるんじゃないかと思うんですよ。だから写真だけでやってたら難しいけど、カンヴァスに写真をやることで何か新しいものが出てくるとかね。それから、絵をやってるんだけど、それにテクスチャーをつけて、ごしごしこすると、プリントと絵みたいな、何か違う、ちょっとゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)みたいなイメージが出てくるとかね。自分が理論で考えたんじゃなくて、プロセスとか材料を掛け合わせたり、違うコンビネーションをすることによって、新しい領域が開けるっていうのが、私にとっては、やり良かったです。他の人は知らない。

由本:なるほどね。

富井:それで、テクニックの話出てきたので。一応、こちらに今『ニュー・イメージ・テクニック』(1994年)、美術出版社から出た本の中に、邦恵さんが寄稿しているところがあるんですけれども。基本的には自分のスタジオっていうか、暗室で。全部自分でできちゃうわけですね、作業は。

杉浦:私、前にも言ったと思うけど。やっぱり他の写真家の人とすごい違うのは、外に出て行くのがあんまり好きじゃないんだと思う。だから、外に出て行くと、いっぱいいろんなエレメントがあるじゃないですか。それから何が起こるかわかんないし。だから、こわいから家にいるってわけでもないんだけど(笑)。

富井、由本:(笑)

杉浦:だから、作品をつくるときに。例えばリー・フリードランダー(Lee Friedlander)だとか、ああいう人みたいに、毎日どっか歩いてたりして、見つけて。私の場合は、その可能性がすごい少なかったんだと思うんですよ。歩いても歩いても何も得るものがない日が続く。ところが、うちに帰ってぱっと見たら、そこにころがってる卵でも、「ああ、フォトグラムになるな」とかね。そういう意味で、社会に出るより、減じるって言うんですか、いろんなエレメントを取り去ったときに、やっと自分のものが見つかるみたいな。そういう傾向だったの。

富井:じゃあ、暗室はずーっと、60年代にこっちへ来たときから、自分の、例えばバス・ルームとか。

杉浦:そう。だから、だいたいキッチンかバス・ルーム。水があるところで。だから昼はふつうにしてて、夜パッと暗くしてとかね、そういうやり方で。だから、普通の、すごい機械がうるさい写真家で、ダーク・ルームつくって、入ってきたらダーク・ルームのにおいがするとか、そういう写真のやり方はあんまりなくて。いつも生活とごっちゃになってる。白黒の場合は、それが可能なの。だからカラーもやりたかったけど、前にも言ったけど、カラーはできなかった。私の場合は、ときどき今もレンタルとか行くと、他の人がいるとやっぱりすごい嫌なの。その人が嫌っていうんじゃなくて、すぐ気が散りやすいんだと思うんですよ。だからスタジオに行ったのに、人に会っちゃったら、しゃべって疲れて帰ってきちゃうとかね。こういう、自分のところにいて、ある日ちょっとやる気がして、フォトグラムをやるとか。そういうので。やっぱし自分のプライベートなムードが、すごいやり良いんだと思うの。

富井:花と小動物の次に、書類の《アーティスト・ペーパー》になったんでしたっけ。

杉浦:(はじめは)いろいろ、レントゲンを使ってやってて。自分ではフォトグラムの延長なんだけどね。一番最初はね、「1枚のレントゲンでおもしろいイメージがないかなあ」と思って、いっぱいやってみたのね。たまにネックレス使ってる人とか、足にブレスレットする人とか、そういうのが入ってるんだけど。だいたいは、つまらないって言うか、私には。ふつうの、骨折ったとかね、ふつうの何とかって。何百枚ももらっても、すごい似てるわけ。それで、レントゲンは、今度はモンタージュみたいに違うのくっつけたりしてつくるんだけど。それを何年間かやるんだけど。そのうちにやっぱし「人間っておもしろいから、やりたいなあ」と思ったけど。「私、人間ってやったことないし、どうするのかな」なんて思って。それである日、ギューちゃんたちとコーヒーを飲んでたら、(私が)ぼそっと言ったらしいんですよ。「人間を次にやりたいんだけど、どうやってアプローチしていいかわからないんだ」って言ったら、彼とのりこさんが「いや、僕たちやるよ」って。

富井:ああ、そうなんですか。

由本:自分から言い出したんだ(笑)。

杉浦:そうそう。「僕たちやるよ」「なんでもないよ」とか言って。そうしてたら、彼らがどこかへ行っちゃったんですよ、ヨーロッパに。それで、そのときに「何やろうか」ってちょっと話して。そのときはわかんなかったけど。そのときにギューちゃんがたしか「ボクシングのパフォーマンス(をし)に行く」って言ってたんですよ。それで「あのふたりはけんかしてるから、ふたり使え」って思ったの。ギューちゃんとのりこさんにボクシングやらせようと思ったの、影で。そうしてたら、彼らが行っちゃったから。そうしてたら、知ってる男の子が「僕を使って」って。「使って」っていう男の子がいたんですよ、何だかよくわからないけど。アンドレ・セラーノ(Andres Serrano)の友達で。早稲田に勉強に行ったとかいうような。その子と、「あなた、友達を連れてきたら、ボクシングのモデルになって」って言って。それで、その子たちを使って、ボクシング・ペーパーをつくった。

富井:本当にボクシングだったんですね、それは。

杉浦:でもボクシングっていっても、(グローブを)はめさせたくらいで。どっかあの辺のスポーツ屋に行って、グローブは買ってきたんだけど。何か巻いて、やっぱし、アクリルにつけて。それでゲームとしては、「写真の印画紙に、最初にマークをつけた方が勝ち」って言って。ひとりが防御でひとりが攻撃みたいにしてやったの。いったんマークをつけたら、位置を変えて。そういうボクシング・ペーパーだったの。それがジョージとマイケル。

由本:それは、男性がやった。

杉浦:そう。だから最初のカップルは、ジョージとマイケルっていって、男の子がふたりやってる。それで演出してたら、ギューちゃんたちが帰ってきたかな。それで、ギューちゃんと。ギューちゃんとのりこさんがいらっしゃると思ったら、最後にのりこさんが「ぶたれるから、嫌だ」ってやめちゃったの。それで、しょうがないから「バケツをぶて」って言って、バケツを。

富井:それで、あの写真になったんですね。

由本:カップルで打つやつの方が、先なんですか。

杉浦:そう。ていうか、私の中では、ボクシングってふたりでやるから。それで男の子のふたりやって、ギューちゃんたちが入って。ちょうど私のアシスタントをやってたリア(Leah)って子がいて。絵描きの友達のカーター(Carter)っていうので、女の子のカップルをつくって。すみこさんとドン(Sumiko and Don)っていう友達がいて。カップルでけんかしたりするから、それは、男と女のカップルでやったの。

富井:ずいぶんこれで、作品が大きくなるわけですけども。そうすると、壁か何かに印画紙をかけて。

杉浦:床に、今までやってたのが、壁に紙を貼るんですよ。

富井:その前でボクシングしてもらって。邦恵さんが、ある一瞬に光を当ててるわけですか。

杉浦:そう。フラッシュさせて。

富井:光を当てたら、フラッシュたいたら、それでもうすぐにプロセス(現像)するんですか?

杉浦:すぐにしたときもあるのね。でもだいたいは、それをまた巻いて、そこに薄いプラスティックとかを入れて、巻いて、箱に収めて。その人たちが帰ってからプロセスするの。でも、帰ってからすぐプロセスしたときもあるし、それから一週間ぐらい経ってからプロセスしたときもあるの。

富井:それは、別に、置いておいても大丈夫なんですか。

杉浦:大丈夫、黒い箱に入っていれば。だからロケーションでして、カリフォルニアでして、戻ってきてニューヨークでしたりしてるの。

富井:ああ、なるほど。ロケも可能なんですね。

杉浦:そう。だから、ジャスパー(・ジョーンズ)のときも、コネティカットのおうちに行って、戻ってきてやってるんですよ。でも、すごい心配で。失敗したかと思って、すごい心配だったりしてる。

富井:そうですね。見れないものね、結果。

杉浦:見れない。

由本:一回きりなんですか。

杉浦:まあ、だいたい、アーティストでやってくれる人は、一回きりでしょう。それで、失敗したからって。だから、ギューちゃんたちのときは、2度目のがうまくいって。最初のは何だかうまくいかなかったんです。だから彼たち、ギューちゃんたちが、またやってくれて。ギューちゃんたちは3回か4回やってるの。やっぱり2回目のが、一番良かった。

富井:出張したら、1回に何ショットぐらい? 何ショットって言わないのかな。

杉浦:最初はやっぱり、すごい少ないの。だからジャスパーのときも4枚しかやってないの。だけどそのうち、お医者さんのときなんかは、サイエンティストのときなんかは。ウェスト・コーストで。やっぱりそうすると、紙を送らないとならなかったりして。今はもうできないと思うんですよ、飛行場でエックス・レイ(X線)か何かをかけすぎちゃうから。でもその頃はまだ、写真の紙を巻いて、黒い箱に入れて送れたの。でもそんなにたくさん送れないから、一人に、やっぱし、8枚から10枚ぐらいっていう感じで。3人お医者さんやったら、30枚とかってやったんだと思う。

富井:それで、こちらに持って帰ってきて。そうすると、紙が大きいから、前お聞きしたと思うんですけど、バス・ルームで。

杉浦:現像用トレーのサイズです。

富井:水着着て、シャワーの中でやったっていう。それは違う?

杉浦:それはね、フォト・カンヴァスのとき。今は、40x30の(印画紙)。1枚ずつやるから。今は、水着着ないでやってる(笑)。

富井:そうか。カンヴァスのときに、水着を着てやったっていうのが、私、とっても印象が強くて。

杉浦:夏は楽しかったの。水、こうやって、かけたりして。

富井:今はもう、ふつうの40x30のやつで。

杉浦:40x30の。トイレに行ったら置いてあるんですけど。あのサイズです。

富井:ギューちゃんのやつとかを見ると、ネガになってるのと、ポジになってるのがあるでしょう。

杉浦:とくに人の場合、「人影」って言うと、黒を思うでしょう。だからポジティヴつくるんですけど。それから花とかでもポジティヴつくった。なぜかって言うと、最初は、フォトグラムの本なんかをみてたら。モホリ=ナジが最初「ポジティヴ・フォトグラム」って言って、こんなちっちゃいのふたつぐらい組み合わせてやってるんですよ。それで「ああ」とか思って。それから、ヘンリー=フォックス・タルボット、写真の。その人も「フォトジェニック・ドローイング」って言って、フォトグラムをつくってるんだけど。そのときはフィルムがなくて、紙のネガなの。それで、みんな2枚つくってるんですよ、合わせて。それで、写真の感光紙って、表面に写真の感光する部分が塗ってあるの。だからこういうふうにやると、紙のテクスチャーが先になっちゃって、ぼやぼやになっちゃうの。だから、こういうふうに面と面を合わせないとだめなの。だから、鏡のイメージになるの。表面と表面、こっちの表面に写真の感光剤が塗ってあって。次の写真の紙も、ここに付いてるわけですよ。薄いんだけど、こうやってやると、ぼやけちゃうの。こうやってやると、きれいにイメージが出るの。

由本:本当に、文字通りにポジとネガなんですね。版画みたいに。

杉浦:そうそう。

富井:それをふたつ合わせて、その上に。その前で、フラッシュたくわけ?

杉浦:というか。やっぱり大きいサイズ、小さいサイズもそうだけど、大きいサイズになると、やっぱりぶわぶわするの。ガラスを上から押すの。写真をやってる人はみんな分かるけど、「密着焼き」って言うんだけど。フィルムを、コンタクト・プリントするときは、ガラスで押さないとだめなの。でないと、フィルムがみんなぶわぶわしてるから、アウト・オブ・フォーカスになっちゃうの。それで一応、押すんですけど、それだけです、テクニックで難しいのは。でも、きれいに写る。

由本:焼くときに、2枚一度に焼いてるっていうことですか? それとも、後から。

杉浦:最初にオリジナルのフォトグラムをつくってから、それを今度フィルムの代わりに。そのかわりポジティヴは何枚でもできるんだけど。アメリカの美術界では、それをはっきりさせなきゃいけないんで。私の場合は、一応4枚ポジティヴをつくって、1枚自分のアーティスト・プルーフでとっとくっていうんですけど。もちろんつくらない場合もあるの。もとだけのフォトグラムで、それで終わりのときもある。でも、つくっても4枚まで、ということです。

由本:違うのが4枚ですね。ジャスパーのって、例えばこれですけど(杉浦の回顧展カタログを指しながら)。

杉浦:だから、これはオリジナルなんですよね。これを使って、今あそこの学校でやってる、今ニュージャージーでやってるのなんか、これが白になって、こっちが黒になる。それは、4枚までつくった。エディション4。この顔のプリントも、ここが黒くなるの。

富井:もう一回聞いてもいいですか? そうすると、最初の、ジャスパーのオリジナルですよね、黒地に白く抜けてるのは。

杉浦:うん。一枚しかない。

富井:壁に置いてあるのは印画紙?

杉浦:そう。そのまま。

富井:印画紙ですよね。

杉浦:だから、全部ダーク・ルームでやるんですよ。だから、ダーク・ルームで、ジャスパーに入ってもらって。それで「あなたは終わるまで出られない」って言って。紙を、こう、壁に貼るわけですよ。プッシュピンかテープで。そして、紙、顔にアクリルを塗ってもらって。まずプリントを、写真の紙につけてもらって。その傍に立ってもらう。そしたらフラッシュをたく。

富井:フラッシュをたく。で、これがネガティヴで、これが1枚しかない。

杉浦:これは1枚。ネガティヴって言うか、これがフォトグラムです。

富井:フォトグラムだから。

杉浦:うん。これは1枚しかない、ユニークなもの。

富井:それを使ってポジの方のプリントを、後で4枚まで、今おつくりになっているということですね。

杉浦:最高でも4枚ぐらい。

富井:4枚、プラス、アーティスト・プルーフ。わかりました。

杉浦:それで、花とかで、トーニングとか色付けたときは、エディションって言わないで、ヴァリアブルズ(variables)っていうんですよ。それは1枚1枚が違う、版画の言葉なんだけど。ブルーになったり、紫になったりする。

由本: “toned ”って書いてありましたね、キャプションに。これとか、“Unique toned gelatin print”って。

杉浦:時間とかで、ブルーとか変わるんです。同じイメージ、エレメントは同じでも、色がすごい違ったりするの。そういうので、ヴァリアブルズって言うんですけど。基本的には私は、何というのかな、絵とかドローイングの感じでやってて、あんまりマルティプルなプリントっていうのには興味ないんです。

由本:ちょっと今、ポジティヴとネガティヴっていうことを言ってらっしゃるので、ちょっとこれについておうかがいしてもいいですか。

富井:イーチン(I Ching)の作品。

由本:97年の。これ、線とこれで、陰と陽っていうことを表現したと。

杉浦:中国の、何とかって言う、棒かなんかで。植物なんですよね。植物だって言うし。だから、こういうのを使おうと思ったんだけど。やっぱし軸だけだとつまんないから、やっぱり花を入れて。開いてるところは、花のところで。閉まってるところは、一直線。一直線っていうのは、まっすぐじゃないけど。それで、6つのエレメント。それで、何というか、イーチン。

富井:易ですね。

杉浦:易。中国の易だと、6つのエレメントでヴァリエーションやると、64できるんですよ。これが64なの、全部でね。それのポジティヴをつくると、また64できるわけです。だけど模様としては同じなの。

富井:そうですね。

杉浦:それで、私もよくわからないけど読んだら、ふたつ意味の読み取り方があるんだって、易の見方は。だから、今開けてみると、クライシス(crisis、危機)っていうのとオポチュニティー(opportunity、機会)っていうのが両方出てくるんだって。

富井:陰と陽ですね。

由本:フィロソフィカルですね(笑)。クライシスがオポチュニティーに変わるということで。

杉浦:だからそういう意味で「ネガティヴとポジティヴのフォトグラムつくるのに、ちょうど良いな」と思ったの。でも、ここは10フィートぐらいで、ぎりぎりだったの。それから私、陰カップと陽カップっていうのをどこかで読んで。だからこれカップのつもりだったんですよ。だから、これ、“Art in General”(注:チャイナタウンのオルタナティブ・スペース)でやったんだけど。そのときに “Wall Works”っていうタイトルで、何でも壁に作品をつくれっていうことでやったんだけど。今度あそこのニュージャージー見たら、17フィートできれいだから。「ばーんと丸くやると良いな」と思ったの。本当は、あの丸いのを真ん中にばーんと置いて、スタックスをふたつ、横にやろうと思ったんですよ。

富井:あっ、そうなんですか。

杉浦:ところが、行ってみたら。フロア・プランには書いてなかったんだけど、真ん中に、こう壁が、ちょっと柱が出てきちゃってるの。それで、真ん中に置けないから、左側にばらのこれを移して。で、スタックスをふたつやったの。でも、「まあ、それはそれでいいかな」と思いますけど。

富井:この間、私、易を使ったっていうのを聞いてたから。実は、イーチンをちょっと調べてたら、インターネットで。そうすると、ちょうど今回ニュージャージーでやったようなかたちで、ああいうのがひとつ、フォーマットで、並べ方がちゃんと決まってて。

由本:ああ、あるんですか。円になってるのが。

富井:円になってるやつが。邦恵さんが「半分のカップみたいに」におっしゃったのと、どういうふうに違うのかなと思って。

杉浦:私は、別にひとつひとつのコンセプトにはこだわってないけど。ある種の曼荼羅。だから、チャンスとシステムとか、そういう感じで。「これを使って、作品をつくればいいんだな」って思った。私の場合は、花とかが好きだから、花のばらを使った。小ばらなんです。それだけです。

富井:これもインスタレーションですけども。この間ジャパン・ソサイエティでは、鏡を使った部屋で。インスタレーションっていうかたちで、空間的にどういうふうに見せたいかっていうことでは、何か。

杉浦:うん、私が思うには。写真っていうのは、やっぱし、何て言うんですか、シンボル。だから、もちろん写真を写真として作品にしてもいいけれど。いわゆるエレメントとして、いわゆるスリー・ディメンショナルな空間にインスタレーションするには、すごくいいものだと思うんですよ。そういう意味で、例えば影なんかでも、影として作品やってもいいけど。例えば、そこで。青森とかは、美術学校もないとこだって聞いたんで。そういうところでジャスパーなんか出したって、見に来た人が関係づけられないと思って。

富井:「ジャスパー・ジョーンズ、誰ですか」みたいな感じ。

杉浦:草間(彌生)さんとか言っても、あんまり。子どもなんかはもちろんわからない。それで、考えて、一番安くてすてきな感じとして、「プラスチックのマイラーを床にひいちゃったら」と思ったんですよ。そして調べたら、そんなに高くなくて、送れたから。ばーっと床にひいて。窓をやっぱし曇りガラスにして。それで「アーティストの部屋」っていうかたちで、インスタレーションした。だけど私が思うには、インスタレーションっていうのは、私の場合は写真を使って何かするから、そのまた向こうにインスタレーションっていうのがあって、すごい好きなんだけど。いわゆる画廊とかでは、売れたりしなくて、みんな嫌がるんですよ。だから、なまずのインスタレーションも、イケダアキラの画廊ではやらせてくれたんだけど。日本の鎌倉画廊でやるときも、なまずの写真だけは送ったんだけど、「タンクとかは送らないでくれ。そんなもの持ってきても売れないから」って断られた。だから意外とインスタレーションっていうのは、できるときとできないときがあって。でも私の中の楽しみとしては、わりと自然にわいてくる。だからインスタレーションってやってる作家と比べたらどうなのかは知らないですけど、私としてはわりとナチュラルに「こうしたいな」ってときがあったら、させてくれるときは、してきた。

富井:それはやっぱり自分のテーマと関係するっていうよりは、その場所と関係したり。

杉浦:スペースと関係するっていうのはすごい魅力的だと思う。だからもちろん、これからもしたいけれども。だから「インスタレーション作家」かというと、いつもインスタレーションだけやってるっていうんでもないですよね。だから「こうやって見てもいいし、こうやって見ても、こうやって見てもいいじゃない」って。だから、はっきりしないって言われれば、はっきりしないかもしれないけど。アートの見方として、今、絵をやる人、絵も写真も全部やっちゃう人が普通になってきたから。別にインスタレーションやっても、ただフレームに入れてもいいと思う。

富井:あと、フォトグラムのシリーズだと「書類のシリーズ」、「アーティスト・ペーパー」とか、「ペーパーズ」っていうかたちでおっしゃってますけど、それは何か意味があるんですか。

杉浦:だからそれは、最初の頃、《キトゥン・ペーパーズ》っていうのをつくったときに。

富井:猫ちゃん。

杉浦:うん。「子猫の書類」って名付けた。その頃ちょうどペンタゴン(アメリカ国防省)で持ってる、ニクソンの「ペンタゴン・ペーパーズ」とかあって。それで私の場合は、写真の感光紙だけど、そこに染みこんだ跡とか、それから猫の足跡とか。そういう意味で、写真っていうよりも、ペーパーズ、書類ってした方が、ふさわしいと思った。それから普通は、何とかペーパー、ペンタゴン・ペーパーとかいうと、重要な書類ってことらしいんです(笑)。

富井:そうですね(笑)。

杉浦:子猫のおしっことか、そんなのだから。それをペーパーと言うことで、わざわざくだらないものを重要だって言ってる感じで。反抗的な私としては、気が済んだわけです。

富井:なるほど。

由本:なるほど。それは、何というのかな、一連の、ひとつの時間の区切りを記録するものとしての、何かドキュメントみたいな意味があるんですか。

杉浦:一枚じゃなくて、何枚かで、何かのリサーチの結果みたいな。だから子猫の書類も、7日間の夜の記録だから、ペーパーズっていうのにしたの。だからアーティストも始めたら、ギューちゃんやって、今度ジャスパーやって、草間さんやれたから、ペーパーズってしたんですけど。それが、いつもいつも。50人ぐらいやったんです。だからちょっと長くなったから、ただアーティスト・シリーズにした方がいいかなってちょっと思ってる。そうすると、ペーパーズ、ペーパーズって言ってると、こじつけみたいな感じがするかなあと。

富井:聞くとどういう意味かなと思う、ペーパーズ。だから今、由本さんが「ドキュメント」ということばをたぶん使ったと思うんだけど。だから、今おっしゃった感じだと、どっちかって言うと、ドキュメントしてるみたいな。ポートレートではないっていうことは、前、うかがったことがあると思うんだけれども。ドキュメントって言っちゃうと、どうしても、写真っていうか、邦恵さんがイメージづくりをしているっていうところがどうも落ちてしまうみたいな気がする。そういう意味では、最初にペーパーズっておっしゃってたのは、かなり意味があったと思うんです。

杉浦:うん。だけどいつもリピートするっていうのもあれだから。ただ、「アーティスト・ペーパーズ」って言わないで、「アーティスト・シリーズ」、「サイエンティスト・シリーズ」って普通の言い方にしようかなと今ちょっと思ってるんですけど。

由本:そのときの瞬時のことだけではなくて。例えばこのジャスパー・ジョーンズの作品でも、わざわざ彼に小麦粉を顔に塗ってもらって。

杉浦:小麦粉と墨。墨かアクリル、どっちか。

由本:そうですか。それで、ラプト・ドローイング、本人の作品の真似をしてもらったわけですね。

杉浦:だから、あるじゃないですか、本当かどうかわからないけど、クリストのシュラウド(注:キリストの聖骸布)とか言って。こういう、布に。

富井:キリストのね。

杉浦:ああいう感じで。何て言うか、真影っていうか、顔が写ってるみたいな。

富井:奇蹟の布ってやつですね。

杉浦:そういう感じもする。彼の作品に《Study for Skin》っていうのがあるんです。それを、帝国ホテルで、日本に行ったときに、つくったらしいんだけど。彼が言うには、それはラードと煤をこねて、自分に塗ったんだって。手と顔でやってるんだけど。だからそんな感じで、よくわからなかったけど、彼は、自分か人か、体の一部をつかった作品があるじゃないですか。手をこうやったり。だから、「何かそういうふうに、体を使ってほしい」って「ひとつのエクザンプルとして、私は《Study for Skin》がとっても好きだ」って言ったの。そしたら「何枚あるか」って言うから「4枚やりたい」って。本当は8枚持ってったの。でも「8枚やりたい」って言うと、彼がもしかして「嫌だ」って言うかと思って、「4枚」って言っちゃったんですよ。だからそのとき、もうちょっとがんばって、8枚って言えば(笑)。

富井:今だったら言いますね。

杉浦:今だったらね。ジャスパーに秋に聞いたら「じゃあ、来年の春だったら」って言ったんですよ。そしたら、ジャスパーは絶対「ノー」ってことを言わない人で、延ばすんだって。レオ・キャステリもそうなんだって。「今日作品みてください」って言ったら「今忙しいから、ヨーロッパで。帰ってきてから後」とか言って、そのときに行ったら、今度は「また次のとき」って勝手に延ばして。そのうちみんな忘れていっちゃう。だから、っていったんだけど。その次の春にまた会うチャンスがあって、聞いたら。そしたら、「どのくらい時間がかかるか」って言うから、「1、2時間です」って。それから「自分のところへ来てくれるか」「行きます」って言って。そして追いつめていったら。

由本:追いつめる(笑)。

杉浦:そしたら、ある日、「ここに2時とかに来たら、2時間いますから」って言うんで、行ったんです。

富井:普通、アーティストの場合、そういうふうにアポイントメントね。ギューちゃんなら簡単にとれるだろうけども、とれない人もいるだろうから。

杉浦:いや、普通は断られる。だからこの頃やらなくなった。やれなくなった。「もっとやりたい」と思ったりしても。だんだん輪が広がっていくから、別に私に関係もないっていうか、「忙しいから嫌だよ」って言う人がいっぱい入って来ちゃった。

富井:今そういうかたちで、ストレートな写真ではなくってみたいなところがあって。評価に時間がかかったり、誤解されたり、理解されなかったりっていうことは、言ってらしたと思うんですけども。そういう評価の移り変わりっていうのは、どうですか。

杉浦:最初は、私がフォトグラムやってたら、80年代とかは、やっぱし写真機を使ってないとか、フィルムを使ってないっていう点で、写真家の人は全然興味がなかった。だけどしばらくしたら、写真っていうのが、ある程度飽和状態になってくると、やっぱりオルタナティヴに何をしているかっていうことに、興味が出てくると思うんですよ。それでピンホール・カメラとか、そういう違うテクニックでやったようなブルー・プリントだとか、そういう人に興味が出て。ところが、そのうちにコンピューターが出てきて、デジタル・カメラとかが出てきて。だから、自分で撮らなくても、どっかのイメージを取ってきて、フォトショップで何かして、それを印刷して。自分も印刷しないで、どっかに発注して、作品にしても、フォトグラファーになってきたし。それから、シンディ・シャーマン(Cindy Sherman)はそうでもないけど、ニッキー・リー(Nikki Lee)みたいに、自分を使って、自分がパフォーマンスして。自分が撮らないで、誰か友達に撮らせて、それでも写真家になる。そうなってくると、何が写真かっていうことで、どんどん枠が広くなってくるんで。私なんかは逆に、いまだに自分で作品をつくったり、写真の紙をつくってるってことで。いわゆる本道に入ってきた。というか、誰でも写真家みたいになってきた。そういうことで、すごい、時代として、変わってきてる。それから写真自体が、(昔は)絵や彫刻に劣るっていうか、マイナーで、プリントとかドローイングの域だったのが、今は写真が絵とか彫刻とかと同じように、値段とか、その存在感が認められることで、写真をやっている人も普通のアーティストとして、みんな上昇気流をえるの。

由本:そういうふうに今の時代の他の写真家に比べると、邦恵さんの写真っていうのは、ドローイングとか、やっぱりペインティングに近いようなところがあるんですかね。そういう、暗室でやる、マニピュレーション(manipulation、操作)。

杉浦:それと、私は思うには、やっぱりコンセプチュアル・アートとかプロセス・アートと、すごい関係があるから。そういう意味で、アートだと思いますよね。ていうか、マージナルか、マージナルじゃないかとか、そういうことがあんまり(関係ない)。逆にマージナルならマージナルほど、本流になる可能性が、今は強いような時代でしょう。だからそういう意味で、区別すること自体が、非常に保守的かもしれないし。そういう状況の中では、何をやって、何をイメージしても、それがあるときに、ある強さを持っていれば、認識されるんじゃないですかね。

富井:ニューヨークに、これでずいぶん長い間いらっしゃる。67年からだから、40年以上いらっしゃることになるんですけども。先ほど、いろんな友人の方が、アーティストのネットワークがあるみたいなことも聞きました。ニューヨークにいたからできたのか、それとも、別に日本にいても、シカゴの後、日本に帰っててもできてたのか。どうですか、今から振り返って。

杉浦:私が思うには、日本にいたら、たぶん、あきらめてたと思う。ていうのは、やはり日本はスペースがないから。それから、いわゆる写真で仕事したら。日本の場合は、人間関係がすごい密だから、そういうところで失うエネルギーとかも多いし。アメリカの場合は、こうやって、ニューヨークでぱっと閉めれば。死んでようが生きようがそれはわかんないこともあるけど。自分が作品したければ、がーっとできるわけですよ。それが、白人の男で、イェール(大学)を出て、優等生だったとかいうと、最初からアテンションが来ちゃうから。うまくいったときはいいけど、ある意味では、バーン・アウト(注:burn out、燃え尽きるの意)しちゃったりするんだろうと。そういう意味で、私にとっては、ニューヨークにいたってことは、すごく続けられた。それからこのチャイナタウンのはじっこで、これだけのスペース。別に自分のものじゃないですけど、安い家賃で続けてこられたっていうのは、すごいメリットだったと思う。そういうのがなかった場合は、やはりすごく(やりづらい)。例えば、ある時期、銀座絵画館でやった頃に、日本の若い作家さんに会ったら、やっぱりみんな、スタジオを獲得するのがすごい大変なの。「奥さんとここに住んでても、埼玉県にスタジオがある」とかね。私なんか見てて、「それがどのくらい続くんだろうか」っていつも思ったのね。だから、ある展覧会の準備期間だけはいいけど、結局どっかの美術館のグループ展に入っても、別に売れるわけではなくて、作品が返ってきたら、それを置く場所がない。そういうような状況でやってるから、日本の人はすごい大変だと思った。

富井:そうすると、邦恵さん、制作っていうか。だいたい毎日、どうやって。制作する日があるとか。どういうふうに過ごしておられるんですか。

杉浦:だから私もよくわからないんですけど、写真の仕事なんかをしてたときは、もちろん毎日はできなかったですね。でも、何て言うかな。私が最初になぜ若いときに結婚したかっていうところらへんから始まるんだけど。やっぱり作家っていうのは、やっぱりフルタイムでないとだめだと思う。フルタイムっていうのはどうかっていうと、じゃあ9時から5時まで作品をここでごしごしつくってるかっていうと、そうでもないんだけど。作品を見に行ったりとか、あるんだけど。何かゆとりがないとだめだと思うんです。そのゆとりっていうのは、精神的に。だから物質的には何も、パンしか食べるものがなくても。ぶらぶらできる、そういうもの。それからニューヨークだと、ただで一番良いものがいっぱいあるわけじゃないですか。画廊もただだし。アーティストの友達に会うのもただだし。そういう、大学時代の延長みたいな感じでいられる生活と時間があって。その程度が非常に高いっていう意味で、ニューヨークはやっぱり最高にすばらしいと思う。だからその場の演出するものって、すごくばかにならなくて。だから日本の作家見てると、すごいセンスが良い人でも、引っ込んじゃって。自分のところに入っちゃって、陰気になっちゃったり、作品が迷路に入っちゃってる人も見かけるんだけど。「この人もそうなるんじゃないかな」っていう人も、たまに会ったりするんだけど。そういう意味で、他の国の作家は知らないけど、日本の作家で若い人を見てると、そういう落とし穴がいっぱいあると思う。

富井:それは、日本にいる日本人の作家。

杉浦:うん。だからやっぱしニューヨークに出てきて、みんな喜ぶっていうのは、そういうある種のフリーダム、精神のフリーダムが感じられるからだと思う。

富井:でもそのかわり、ニューヨークにいると、外国人だってこともあるでしょうし。もちろん「女性だし」って最初おっしゃってたし。

杉浦:最初ずーっとそうですよね。フェミニズムの運動が出てくるまで。

富井:そういうフェミニズムの問題とか、人種の問題とか。そういうことは、作品に、邦恵さんの場合はそんなに反映しているわけでもないと思ったりするんですが。

杉浦:ただ、私の場合は、80年代にネオ・エクスプレッショニズムとかが出てきて、自分の心の悩みとかそういうのをみんなが描いてたときに、私なんか、花をフォトグラムにしたり、カエルとかやっていると。「何かつまんない。どうしてこんなつまんないことをやってるか」っていう顔をされていたわけですね。だけどそれが、ある時期、逆転して。

富井:それは、周りの人が「つまんないことしてる」っていう反応。お客さんとか。

杉浦:そう、周りの人たちが、そういう感じだったんですけど。それがあるところで反転するんですよ。それで、今までやってたんじゃなくて、違うものやってる人に目がいく。だから、そこらへんでもって、波が変わってくるんだけど。私がとにかく一番最初に感じたのは、ニューヨークで花とか言ってても全然相手にされなかったけど。日本のツァイト・フォトで花の展覧会をやったら。やっぱり日本人って、花を見ただけでわくわくするとか。もう態度が全然違うのね。だから「花やってるからつまんない」とか全然そんなこと、みんな言わないですよ。だからそういう点で、わーっとアテンションが来て。「あっこれは、私の問題じゃなくて、オーディエンスの問題で。何かやってれば、後でついてくるんだな」っていうことがわかった。

富井:じゃあ、日本でも展覧会してて、良かったっていうことですね。

杉浦:うん、すごい思う。

富井:ニューヨークだけだと。

杉浦:いやあ、わからない。オーディエンスが違うっていうことは、すごい違うし。文化が違うのは、すごい違うし。それから日本人の場合はやっぱり、最初はみんな、のれんに腕押しなんだけど。ずーっとやってると、美術館の人が買ってくれるとか、やっぱり見ててくれてフォローしてくれる。だから、そういう日本人の奥ゆかしい良さは、すごいありますね。だから私、今の日本の若い人なんかと会うと、「絶対、日本もちゃんと目をつけて、そっちでも発表しといた方がいい」って言うの。だから、こっちみたいにはっきり、システムがないから、日本の場合はわかんないだけど。でもやっぱし、わかんないから無視されてるっていうことは、やっぱり慎重に、みんな見てますよね。日本の場合良いのは、レンタル・ギャラリーでやってる若い人でも、みんな良い人たちが見に行くでしょう。こっちはかなり、そのあれ(システム)を上がってこないと。有名なコレクターが美術館の有名なキュレーターに言って、やっとこのへんで何か起こるんだけど。日本の場合は、最初から来てますよね。そういう意味で、すごい日本は、ある意味で、すごい若い人に得だと思う。そこですぐ買ってくれるかっていうと、そういうことには結びつかないけど。「あなたの作品をずーっと見てる」とか、そういう人がずいぶんいるんだろうと思いますよ。ていうか、やっぱり芸術的な国だから。芸術とかに対する尊敬度が最初から違うじゃないですか。アメリカってやっぱし、もちろんそういう人もいるけど、そうじゃなくて「ショッピングだけ好き」とかそういう人口もいっぱいいるわけじゃない。日本もそうかもしれないけど。そういう意味で、日本人の方が、いわゆる芸術に対する理解力とか尊敬度が強いんじゃないですかね。ていうか、私の場合は、日本にずっと住んでいないから、そのへんはファンタジーなのかもしれないけど。

由本:場所によりけりじゃないですかね(笑)。

富井:そういうこともありますね(笑)。あといくつか、観念的な質問がいくつか、一応リストの中にあるんですけども。今までの活動の中で、何が一番良い出来事で、何が一番悪い出来事だったですか。

杉浦:えっ、活動ってどういう意味ですか。

富井:アーティストとしての仕事の中で。

杉浦:何が一番良かったか。

富井:さっき、MoMAで展覧会したのは転機だったっておっしゃってましたけど。

杉浦:うん、だからMoMAでしたことも良かったし。『アート・イン・アメリカ』の表紙になったことも良かったし。「ニューヨーク・タイムズ」で書かれたことも良かった。だからそれは、何て言うかな、ある意味では。DNAを発見したサイエンティストのDr. ジェームス・D・ワトソンっていう人の影をやったんですよ。で、そのとき、彼に質問したときに、彼が言うには「僕ともう一人のサイエンティストがDNAのストラクチャーを見つけたときに、自分と彼は「これだ!」と思ったから、すごいうれしかったんだけど。その晩、みんなで酒場に行って、他のサイエンティストに「細胞の構造を見つけた」って言ったけど、何の反応もなくて。それで自分たちはすごいうれしかったけど、すごい不安だった。それが12年ぐらい経って、ノーベル賞をとったら、それがパブリックに認められた。自分たちが認めたんじゃなくて、みんなが認めてくれた」。だからそういうところが、ちょっとあって。私だって、自分のダーク・ルームでつくって、「ああ、思ってきたようなものができたな」とすごいうれしいときもあるわけです。そして、すぐに他の近くにいる作家とかに見せて、「どう思う」とかって。すごいうれしいんだけど。それってすごいパーソナルなことですよね。だけど、それを展覧会にすることができて、新聞とか雑誌とかに取り上げられたりして、それに対する解説なんかが載ったりすることを読むことによって、「あ、他の人もそう思ってくれたんだな」っていうことは、すごいうれしい。それはある意味ではスーパフィシャル・ベイン(注:superficial vain、浅薄な虚栄心の意)と思われるかもしれないけど。でもやはり人間として、みんなやっぱしすごく自信があっても、同時にすごく不安なんだと思う。個人としては。

富井:今までの人生で、もう一回生まれ変わるとして、何かひとつだけ、これだけ変えときたいというのは。

由本:そんな質問もあったんですか(笑)。

富井:そんなこと考えたりします?

杉浦:しょっちゅう考えますよ。

富井:しょっちゅう考えてる?

杉浦:しょっちゅう考える。だけど、何と言うのかな。人間でなくても、山になるとか、そういうこと?

富井:それでも良いんですよ(笑)。

由本:山になるんですか?(笑)

富井:杉浦さんの人生観だから。

杉浦:だから私が思うのは。例えば女じゃなくて、男になって、ハンサムでお金持ちで頭がいい人になりたいかとか、そういうことももちろんないわけではないけど。でも、もっと全然違うこととか、違うものとか、違う状況もあるんじゃないかなあとか思うけど。

富井:これから新しくしたいことってありますか。あるいは、こういう作品をつくっていきたいとか。

杉浦:そうねえ。

富井:もしあればでいいですよ。

杉浦:すごく、まだ2段階ぐらい上がりたいですよ。

富井:2段階ぐらい。

杉浦:2段階ぐらい。だけど、スクリューを入れていくときに、だんだん深くなってきたら、大変になるじゃないですか。だから、すごい今大変ですよ。出てこないかもしれないけど。でも、この前言ったように、ヘルマン・ヘッセが死ぬ前に書いた本とか、ピカソの最後の自分の自画像とかね。最後にまた、ろうそくが消える前に、ぽっと燃えるときがあるじゃない。だからそういう「自分でも思ってないような、すごいものが出てきたりしたらいいなあ」と思うけど。もう消えてるのかもしれない。

由本:他はまた、シリーズで、違う職種の人を撮ってみたいとかいうのは、別にないんですか。

杉浦:もちろんありますよ、スポーツとか。だけども、やっぱりたぶんそのへんだと、こういう感じだから。そうじゃなくて、こういう感じに行きたいと思うけど。だけど、それが。やっぱりアートって、いわゆる表面的なデザインと違って、深くから出てくるから。そのへんで、だから、自分がニューヨークにこうやってずーっといたから、こういうのではだめで。例えばどっかアフリカの山の中に行くとか、そういうチェンジをするとか。何か全然違うことをしたときに違う作品が出てくるか。でも、こういう状況を続けていっても、作品が全然違うのが出てくるのか、それはわかんないんですよね。だけど、「もう1回転だけじゃなくて、2回転ぐらいしたらいいんじゃないかな」と思うけど。でも2回転したとしても、またそこに行ったら、また2回転したいと思うのが、人間の何か。

由本:元に戻ってくるみたいな。

杉浦:ていうか、人間の本質なんじゃないかなあと思う。

富井:もっと先に行きたいのね。

杉浦:うん。だから、それが私たちをドライブ(注:駆り立てて、の意)してきたけど。そういうことが、逆に、破壊にも導く。だから、これだけすばらしいアメリカにいたって幸福じゃない人がいっぱいいるじゃないですか。だから、わかんない。

富井:いや、今ので十分、お答えでした。もし何か最後にこれだけ言っておきたいとか、そういうことがあれば、自由に話していただいていいんですけども。もしそうじゃなかったら。最後に。

杉浦:うーん。

富井:ずいぶん今日はしゃべっていただいたから、いろんなアイディアを。

由本:ひとつだけ聞いてもいいですか。

富井:どうぞ。

由本:コラボレーションっていうことがさっきから浮かんできているんだけど。花とのコラボレーションであったり。かえるとか、うなぎとか。それとか、このヌードの作品は、いとこの方でしたっけ。

杉浦:いや、いとこじゃなくて。

富井:友達でしたね。

杉浦:友達。その人たちがやりたいって言って。私がモデルを探したわけじゃなくて。

由本:だからそういう意味で、そういう、人と。何かとか、あるいは人とコラボレーションすることによって、チャンスみたいなもの。自分でつくれなかった、自分ではできないような、そういうものが出てくるっていうことに、ずっといつも興味があるんでしょうか。

杉浦:そういう風に見てきたということは、別にないですね。

由本:たまたまそうなった。

杉浦:後で考えたらそうだってことだけど。でも他の人もみんな、コラボレーションっていう言葉を使わないだけで、やっぱり何かきっかけとか、そういうのって。それもそこらじゅうにあって、たまたまとんがってたときに、くっつくのかもしれないけど。あるんじゃないですかね。でも私の場合、写真ってやっぱし何かを写す。何も写ってない写真っていうのもすばらしいかもしれないけど(笑)。何か写さないといけないから。絵だって、何か描かないとっていうか、イメージと関わるから、わからないけども。でも、全然違うアートができたら、やっぱりそれはそれでいいんじゃないですかね。

由本:そうですか。ありがとうございます。

富井:では、これで終わりましょうか。

富井、由本:ありがとうございました。