加治屋:オーラルヒストリーというのは、生い立ちから現在の活動までお聞きするというプロジェクトで、30代の研究者や学芸員が中心にやっています。今日は、批評や展覧会の現場に長く関わってこられた建畠先生にご協力いただいて、針生先生にインタヴューさせていただこうと思います。
針生:大浦信行君という作家が僕をインタヴューして、『日本心中』という映画を何年か前に撮ったことがある。大浦君は富山出身なので、1986年に富山県立近代美術館で〈富山の美術’86〉に彼の《遠近を抱えて》というコラージュの版画シリーズを展示したのちシリーズの一部作品を美術館が買いあげ、残りを作者が寄贈した。ところが会期後に富山県議会で、大浦作品は昭和天皇の肖像写真を裸体や仏像とごちゃまぜにして不快だった、天皇の肖像権やプライバシーを侵害していないかと質問が出て、全国から右翼が200人くらい富山の公園に集まって、大浦作品を追放しろ、小川正隆館長を辞めさせろと決議した。その後も地元の右翼が〈富山の美術’86〉の図録を寄贈された図書館に入りこんで、図録から大浦作品の部分を破りすてたり、知事に実害はなかったんだけど、知事室に殴り込んだりとかいろんなことをやるもんだから、富山県としては手を焼いて、大浦作品を民間の匿名の個人に払い下げ、図録残部は全部破棄することにした。僕らは匿名の個人たって小川君しかないだろと噂したが、小川君はそれで嫌気さして館長やめたんだよね。僕は、公有財産だから払い下げるには競売にかけなきゃいけない、そういうことをしないと違法だということで、地元の連中と一緒にそれを告訴する原告に加わったんですよ。中北龍太郎という大阪の弁護士が、弁護士料をいらないと言ってそれをやってくれた。で、一審の判決は、確かに公開するかどうかは美術館の裁量次第だが、〈富山の美術〉という展覧会とは別に、大浦作品を特別許可のある者に個人的に見せるのを、そこまで制限するのは行き過ぎだというので、作者に20何万かの慰謝料を払えというものだった。僕は、上告したってそれ以上良くなりはしないからそれでやめればいいと思ったんだけど、中北弁護士が、「収蔵しているものは公開するのが原則で、そこを外れたこの判決は承服しがたい」と言って、上告して最高裁までいった。最高裁の判決は、全部美術館の裁量で、慰謝料も必要ないというもので、負けたんだ。大浦君はそれが悔しくて、原告の一人だった僕が、戦争中は右翼で戦後に左翼になったというのは非常に必然性があるという立場から、『日本心中』という映画を撮ったんです。つまり右翼からも左翼からも、日本と心中するくらい日本を抱え込んじゃった針生一郎という視点で。僕は、僕をインタヴューするくらいで映画になるかなあと思っていたんだが、映像としてあまり関係ないような場面が多いんだ。例えば、日本一の彫師だそうだけど、それが若い女の背中に入れ墨を彫るという場面とか、当時百歳に近い大野一雄が踊るともなくわずかに身を揺らすそばで、息子の大野慶人が活溌に踊っている場面とか、20代と10代の男女が二組でてきて、これも全く関係ないポーの小説の一節なんだそうだけど、そういうことを二人でしゃべっている場面。さらに僕が韓国光州ビエンナーレで特別展〈芸術と人権〉のキュレーターを頼まれ、光州の市場で魚や果物を眺めたり、迷路のような光州住宅街の路地を歩いたり、韓国料理店の狭い座敷で女が踊るサムルノリ(伝統芸能の一つ)を見たりする光景もある。僕のしゃべったことを、そういう日本と韓国の様々の文化現象の中に投げ込んで、それでシルク(スクリーン)の場合と同じように、モンタージュの方法で映像として見せる。だけどそれは、大浦君の作った映像の面白さであって、僕はちょっと違うんだがというところがどうしてもある。あの映画ができて、それも第二部まで作った。第二部ははじめハンス・ハーケを引っ張り出したいって言ったんだけど、アメリカまで行くのはやっぱり金がかかるから、金芝河にしたんですよ。そのほかに重信房子の娘、重信メイさんが日本に帰って来てどこかで英語教師かなんかをしていて、それを登場させた。この重信メイがまた、全然知らなかったんだけど、僕の後にもう一回金芝河を訪ねて、金芝河も「重信さんの娘さんかあ。パレスチナでやっていた人が、僕のところへ来るなんて、何か運命的な出会いという感じがする」なんて、のっちゃってね。金芝河の家でその映画は終わるんだ。
建畠:それは二部のほうですか?
針生:そう。だから主役は金芝河と重信メイであって、僕は刺身のツマみたいなものだと(笑)、試写会で言ったんだけども、まあ結構面白かった。見せる才能はあります、大浦君は。
建畠:富山問題の記者発表のときに一緒に抗議声明を発表したのを覚えています?
針生:ええ。
建畠:谷(新)さんもいたかな、美学校でやりましたね。針生さんから一緒に出てくれって電話がかかってきました。裁判のとき、針生さんはどういう立場でいらしたのですか。特別弁護人みたいな立場ですか。
針生:いや訴訟する側。要するに原告の一人なんだ。
建畠:原告側にいらした。
針生:だから原告側の最終陳述でしゃべりました。県側の弁護士が苦しまぎれの理屈でしょうが、昭和天皇は毛沢東、ドゴール、スターリン、チャーチルなどの「元首」と違って「象徴」なんだから、それだけ慎重な配慮で扱ってくれなきゃ困ると言った。僕はこれは敗戦直後に占領軍司令で廃止された「不敬罪」、日本人が敗戦を代償としてようやく解除を贖いとった「不敬罪」にかぎりなく近い思想で、とうてい受けいれられないと述べたんです。
建畠:裁判に関わられたのは、赤瀬川原平の千円札事件のときもですね。特別弁護人をされませんでしたか。
針生:ええ、そうですね。その前のサド裁判にも渋澤(龍彦)君に言われて、僕は関わった。あっちのほうが先だな。
建畠:法廷論争というのは、三回くらいあるわけですね。大浦事件、サド裁判、赤瀬川裁判。針生さんの中では、批評家としての役割の一つなのか、その法廷闘争自体が針生さんにとって一つのメインの仕事なのか、どうなのでしょうね。積極的にそこに関わっていくこと自体が、芸術の政治性ということを表面から見据える大きなプロジェクトだったでしょうか。
針生:うん。そうですね。
建畠:多摩美裁判もありましたね。
針生:あ、多摩美? 僕らは授業から締め出されたもんだから、当時の真下信一学長を被告にして、僕らが地位保全のための裁判をした。ところが、大学側は誰も法廷に出てこないんだ。こっちは負けるわけはないんだけど、結局裁判所が勧める和解で、今までの未払い金、それから退職金を全部払うからここで18人かなんか全員辞めてくれということになった。こっちもあれ以上続くと、生活問題が18人あって、団結がちょっと保証し難いというか。だからその和解に応じざるを得なかったんです。
建畠:少なくとも4つの裁判に関わった評論家って日本にはあんまりいないでしょう(笑)。あまり言われていないけど。一つ二つ関わったというのはあるだろうけど、4つ関わったというのは偶然じゃないだろうと思うんですね(笑)。
針生:もっとも、僕単独では、大阪寝屋川で起きた、毛沢東学園での集会のためのビラ貼りが府条例に違反するという事件(注:1966年の寝屋川ビラ貼り事件)の裁判にも都市の美観の鑑定証人として出たことがあります。一つは、東京なんていうのは権力のお膝元という感じがするけど、大阪はその点随分自由だなあという感想がありましたね。あともう一つは、それでもやはりただのビラ貼りを府条例に反すると言って禁止するのは、結局、電柱にビラを貼るのも、電力会社をやめた元電力会社社員がそういう広告の元締めみたいな会社を作っていて、そこに金を払わないと駄目ということなんですよ。そういうふうになっていて、ビラ貼り禁止の府条例は必ずしも民主化に役立っていない。むしろそういう商売になっているというか、届出をして金を払うということによって電柱広告も成り立っているんだなというのがわかりましたね。それはともかくとして、大浦君の問題をめぐる裁判で、それが悔しいと言って大浦君は映画を作ったわけだけども、僕の方はあそこに捉えられているのは映像としてのおもしろさだと思う。物語は見るほうが勝手に自由に作ればいいというのは立派な方法論だけども、ただ、戦争中でも戦後でも右翼から左翼へというのはそんなにすっきりした転換じゃなかったんです。もっといろんなことがあった。で、そこら辺のことは小説にでも書くほかないかなと思いつつ、そういう小説は大変なんだ。というのは、戦中から戦後への転換が僕個人にとっても依然として問題であるように、日本全体にとってもそこにはごまかしみたいなものがあって、いまだに引っかかってくることがある。だから重要だという意味で小説を考えたんです。でも小説にいく前に評論でいくつかもう書いたので、全く活字になっていないというわけじゃない。一つは特に戦争中のこと。戦争中何故右翼になったかというと。僕は結核で休学してしまった。学徒出陣の世代なんだけども、徴兵検査で僕だけ徴兵管区で丙種になった。第一乙、第二乙くらいまでは、徴兵召集令状が来ることがあるんだけども、丙種というのはほとんど兵役をまぬがれちゃうんだ。それが戦争中は非常に負い目で、コンプレックスだった。だから療養中雑読して、その中で、ときのオピニオンリーダーだった保田與重郎に一番傾倒した。だから非常に神道的な純粋右翼だった。
加治屋:例えば吉本隆明は、針生先生と同じ世代で、いわゆる戦中派の世代なんですが…
針生:彼も保田與重郎のファンだったらしいね。
加治屋:針生先生が書いたものを読ませていただくと、針生先生の場合は、右翼思想への関わり方がかなり深くまで行ってらっしゃる。大東塾の影山正治氏のところに行って、仙台支部を作られたりとか、かなり積極的に活動なさってますね。
針生:4歳ほど下の創樹社社長の玉井五一のように、僕は大東塾を自分でたずねはしなかった。仙台支部をつくるには手紙を大東塾に出して宮城県在住の投稿者、読者の名前と住所を聞いたのだから、仙台在住の右翼思想家を自分で探してそれを歴訪するというか、訪ね歩いたので、そのせいかどうかわからんけども、外出のたびにちょっと後ろ振り向くと、軍服を着たのと私服を着たのと二人つけていて、さっと物陰に隠れるんだよね。憲兵と警察の両方が僕を尾行している。そんなに大物じゃないのにと思った。でも何やるかわからんというのでは確かに危険だったかも(笑)。当時は天皇絶対で、むしろ悪いのは重臣たちだと思っていた。彼らは純粋右翼、大変危険な若者というふうに見ていたでしょうね。
加治屋:影山正治が戦後に針生先生について書いたものも読ませていただきました。『日本民族派の運動』という本の中で、「学生諸君を結集して新国学協会の仙台支部を作り、その支部長として積極的活動を展開していた中堅学生会員の一人針生一郎君」と出てくるんですが(影山正治『日本民族派の運動 民族派文学の系譜』[光風社書店、1969年]281ページ)、たぶん針生先生とその上の世代でも差があると思うんですね。
針生:そうそう。
加治屋:例えば丸山眞男の世代だと軍国主義に行く前に教育を受けていて、戦後すぐに活動を始めますが、先生の場合は戦争中に皇国教育を受けられているわけですよね。やはり上の世代との違いというのは強く感じられましたか。
針生:丸山さんの世代は全然違うんだけども、僕らだって学校で皇国教育を受けたわけではない。橋川文三という人がいて、『日本浪漫派批判序説』という本を書いて、戦後、竹内好さんにくっついて、民族問題というか民族派の問題をかなり深めようとしていた。橋川さんと一定の交流が僕はありましたが、ああ、こういう人が僕より3、4年上でもいたんだと思いましたね。ただ、加藤周一が朝日新聞に連載していた「夕陽妄語」で、戦争中の話を書いている。ある時、橋川文三が同じ一高の同級生に対して、そんなのは非国民だというようなことを言って、それに対して宗左近が、「そんな非国民なんていう言葉を言ったら致命的だよ、そういう言葉を使うべきでない」と抗議したという。加藤周一さんの発言は、橋川文三はもう札付きの右翼だったということなんだけど、ああ、そういう存在だったのかとその時思った。そんなに右翼バリバリという感じではなかったんだけどね、戦後は。
建畠:本題から外れるかもしれないけど、右翼愛国青年になっていく過程で、針生さんは結核、肋膜になられていますね。それは、普通から言えばドロップアウトですよね、学校を休学されたりしているから。興味深いのは、たまたま今、国際美術館で新国誠一の展覧会やっているんですが、寺山修司は青森で、新国誠一は仙台なんです。二人とも針生さんより少し若いと思うんですよ、世代的には。二人とも結核になって入院するんですよね。新国誠一は徴兵の世代より若いから、結核でなくても徴兵にはならなかった世代ですが、ともあれそこでドロップアウトして、その後で敗戦を迎えるんですね。寺山修司の『われに五月を』の中に有名な「祖国喪失」というテーマがあって、そこに「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし、身捨つるほどの祖国はありや」とあります。彼らは海外には行かないけれども、国内で祖国喪失の経験をするということがあった。その背景に、病気になった人たちの、一番戦わないといけないときに病気になってしまったという思い――軍事的に役に立たない青年みたいなものですね――そのときの挫折と祖国喪失感が戦後訪れて、それが寺山修司や新国誠一の戦後の表現活動に大きな影響を与えたという話があります。しかも二人とも――寺山修司も新国誠一も――そして針生さんも全部東北の人たちなんですね。東北独特の文化風土があったんじゃないかというふうに思います。
針生:そうかもしれないね。
建畠:同じ愛国主義でも、東北の風土の中で同じような病気の経験をして社会からドロップアウトしながら日本の国体みたいなものを考える、それが祖国喪失感の背景にある。針生さんは、丘の上から仙台の町を眺めたら灯の明かりがまたたいていて、それが転向の一つのきっかけになったと書いてらっしゃいますね。
針生:東北人の宿命というか東北人だからそうなったかもしらんと僕も思うね。ちょっとさかのぼることになるけども、仙台の旧制二高に入ったばかりのときに、農村に勤労動員で行ったんですよ。そしたら校長が、今、日本ペンクラブの会長をやっている阿刀田高の伯父さんなんだ。阿刀田令造っていうんだけど、これがその農村に来て、川の土手みたいなところに座って訓示したんだ。「諸君、本を読むだけが勉強じゃないんだと。この大自然と農村の生活の現実の中に無本の本を読む、本がないところに本を読むというのが最高の勉強なんだ」という話をしたわけ。僕は、その前の旧制中学がある意味でひどい中学で全く受験教育だったんだな。例えば、教室の座席から廊下の帽子掛けそれから下駄箱にいたるまで、学年ごとに順番が変わるんですね。学年の1番が1組の1番、学年の2番が2組の1番というふうにこの座席も変わり、全部変わるわけだ。ところが何故か僕は、2年のときに学年の1番になっちゃったんだ。それで、これはいかん、上がりすぎだと思って(笑)、柔道部に入って夕飯まで毎日ずっと稽古してそれで帰ってくる。それまで予習復習を必ずやっていたから1番になったんだと思うけど、それをやめたんだ。予習復習をしないと。その代わり、不得意な学科、例えば数学はどうしたかと言うと、『数のユーモア』(吉岡修一郎著)という本が当時ベストセラーで出ていたので、読みました。それと化学も不得意だったから『蝋燭の科学』(ファラデー著)もベストセラーで出ていたんで読んで、あとは美術教師のところに行って、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなどの伝記を借りて来て読む。そういう学校以外の本を読むということで、予習復習に代えちゃったわけね。つまり無本の本を読むために、いわば僕は柔道を道としてやっていた。間違っていなかったというふうに、阿刀田校長の話を聞いて思った。しかし同時にまた、無本の本を読むにはかなり有本の本というか(笑)、それも読まなきゃいけないんだということを更に痛感したわけだな。とくに病気になってからはやることないから本を読むしかない。それからもう一つは東北。仙台は東北第一の都会といっても、やはり文化的コンプレックスがあって、非常に遅れているというか、ローカルなものに閉ざされている。それを突き抜けるには本を読むしかないんですよ、当時としては。マスメディアとしてはテレビはまだないからラジオですけど、ラジオでそんなに目が開けるということは少ないから、本を読むしかない。それで保田與重郎にぶつかったわけ。で、その旧制二高の同級生に歌人で玉城徹というのがいる、玉城肇という社会思想家の長男なんだけど、これが東京育ち。青山学院を出て旧制二高に来た。東京育ちというのは、例えば僕が有本の本を読んで、誰かの名前を挙げると、「これはこういうメリットあるけど、こういうデメリットもあるなあ」なんて言ってね。どんな分野の――僕は将来何をやるかと考えているから、経済学でも政治学でも何でも読んでいたわけだ――どんなの人を挙げても彼からそういう答えが返ってくる。つまり東京育ちというのは、さすがに視野が広くて、批評の視座が出来ているということを痛感した。しかしこれは、あとで玉城君が自分の個人雑誌みたいなのに書いていることだけど、保田與重郎だのファナティックなものを彼は受け付けないんだね。東京育ちというのは、そうじゃなくてファナティックでないものは受け付けるんだ。こっちは、東北の後進性を脱却するにはファナティックなものしかないと思っているから、右翼時代は保田與重郎になったわけ。
大浦君の『日本心中』という映画に取り上げなかったけれど、悪いことというか、いろいろなことをやりました。例えば下級生の玉城の弟にそそのかされて、僕自身も病み上がりだし知らないんだけど、神道の本を読んで、禊の指導をする。松島海岸で冬の寒いときに民宿に泊まって、朝早く起きて海に身体を浸けて禊をするわけだ。それから、この阿刀田校長というのが軍部と対立してね。旧制高校というのは全寮制で、ところが軍部は寮に寮監を置いて、それが監督する、東京高校の24時間教育を推奨して、24時間全部を管理するようにしなきゃいかんと言うのだけど、二高だけは受け付けないわけ、全然。阿刀田校長の考えで。だから軍部と対立して結局、途中でやめて、侍従かなんかをやっていた野口という二高の卒業生を校長の後釜に据えていくんです。戦争中に仙台大空襲で旧制二高の奉安殿――奉安殿というのは一番神聖なところで――天皇の御真影を飾っておくんだけど――その奉安殿に爆弾が落ちて焼けちゃったの。僕はやはり玉城の弟にそそのかされて、校長の官舎に行って、御真影を焼いたのはあなたの責任だから、僕らが見ているから目の前で切腹しなさいって言ってね(笑)。まあそう言わないでなんて言ってごまかしていたけど、向こうは(笑)。悪いことと言えばそのくらいかな。それと、もう一つは、天皇制に関しては、1946年1月1日の日付で天皇の人間宣言といわれる最後の勅語が出るわけだ。だけど、人間ならば2000万の人間を殺し、300万の日本人を死なせた戦争責任の元凶としてせめて自分が退位する、天皇の位を退くくらいがなければ、全く責任の感覚がないとなると思った。だからこれいんちきだ、占領下で実権を失っても天皇という地位にしがみついていたいといういんちき宣言だと思ったから、天皇制否定になるんです、そこから。だけど、やはり昭和天皇というのは同時代を生きてきて、自分の父親と同じくらいの年齢で、情において否定するに忍びないものがある。だからこれはほとんど書いたことはないが、大学時代になってから、飲み屋で知り合った村の青年団長が今から宮城奉仕に行くんだけど君ら行かないかと言うので、宮城奉仕には天皇皇后が必ずでてくるから身近に見てみたいというだけのことで宮城奉仕団に加わった(笑)。
加治屋:いつごろですか。
針生:1946年か7年くらい。
建畠:東大にいらしてからですか。
針生:いや、まだ東北大にいた。
建畠:その時はもう愛国青年でなくなっているのにもかかわらずということですね。
針生:昭和天皇が出てきて、この人は中野重治が書いているように底抜けのお人よしだといっぺんでわかった。大正天皇は、頭がおかしいんじゃなくて、天皇という地位が嫌いだったということは、原武史――知り合いなんだけど、皇室学者ということになっている――が『大正天皇』という本を出して書いている。皇太后としては、大正天皇みたいでは困るので、明治大帝の英明さを受け継ぎなさいということを、摂政宮時代から昭和天皇に言い続けたらしいのね。だから、底抜けのお人よしに明治大帝を受け継ぐという使命感がまるでコラージュのように張り付いた人だということが一目でわかった(笑)。
建畠・加治屋:ふーん。
針生:原武史がその後、去年だったか、岩波新書で『昭和天皇』というのを出した。皇太后としては講和条約が成立したら戦争責任をとって昭和天皇に自ら退位するということをさせるつもりで、昭和天皇もそのつもりになったんだけど、それを申し出たら吉田茂首相に反対された。今辞められちゃ困ると。それで止める程度の決意でしかなかったとも言えるんだけども、非常に納得がいったな。あそこで辞めていれば、雅子妃の問題なんて起こらなかったと思うんだ。雅子さんというのは、保阪正康という昭和史の歴史家みたいなのによれば、外交官のキャリアを生かせないとかそんなことではなくて、あるべき天皇像、皇后像のイメージが描けなくなったんじゃないかという。僕はその通りだと思う。
加治屋:少し話を戻してよろしいでしょうか。先ほど中野重治の話が出ましたが、東北大学に先生がいらっしゃったとき、仏文の教授だった桑原武夫が『第二芸術論』を発表して話題になっていたと思います。そのとき針生先生は講義も受けていらっしゃったと思うんですが、そこで桑原は俳句批判、とくにその無思想性や、俳人たちの党派性に対する批判をしました。非常に近代主義的な立場だったと思うんですが、それに対して針生先生はどのようにお感じになりましたか。
針生:まず何故東北大に行ったかというと、旧制高校まで仙台で、生家も仙台にあったから、生家をまず離れたいと思った。日本浪漫派の影響で国文しかないなと思って、東大の国文を受けたんです。ところが受験が昭和20年の3月という戦争末期で、全国主要都市が米軍の爆撃によって入試なんかやってられる状況じゃない。だからその年だけ入試全廃で内申書によって決まった。東大でも別の科を志望すれば入れたかもしれないんだけど、国文っていうのは定員をはみだしていた。それで自動的に居住地に近い東北大に回されたんですよ。不満だったけど、まあしょうがないやと思って。一月くらい授業があって、それから農村、勤労動員で、それが終わったところで終戦を迎えるわけだ。しかも農村に僕は保田與重郎の『万葉集の精神』か何か、壬申の乱を書いた本を持っていって、それを読んだりした。一軒に一人ずつ分宿するわけだけども、その農家の親父が、「百姓は、とにかく腹いっぱい食べなきゃ戦もできないんだよ」というようなことを言うから、おかずは具の多い味噌汁と漬物くらいしかないんだけど、とにかく飢えっていうものを経験しない。腹いっぱい食べて、そして空気のいいところで適当な肉体労働するものだから、結核が、勤労動員の期間に直っちゃったんだ(笑)。それで間もなく敗戦。敗戦の時は、旧制二高での指導教官――クラスの指導教官がかなり右翼的、右翼的と言ってもナチスばりの思想だったんだけど――そこの家へ行って、玉音放送というものを聞く。彼は学校へ出ていなかったんで、奥さんと並んでラジオを聴いて、翌日くらいからそこの家に、もう大学に行っているけども、(教え子の)右翼的な連中が集まった。この先生は母校である二高に来る前は幼年学校で教えていたんだが、そこの幼年学校の卒業生の青年将校が栃木の軍隊から飛行機を勝手に乗り出して、飛行機で仙台空港に着いた。それで、こんな無条件降伏なんてどう考えたって重臣たちの陰謀だから、この飛行機で行けるだけの人間が行って皇居を襲撃して、天皇を奪い返そうと言う。二日ぐらいそれを議論して、じゃあいよいよ行くかというときに、一番年長だった、たぶん医学部インターンの先輩が、「もう一度だけ考えてみよう。これは本当に重臣の陰謀なのか、もしかしたら陛下の大御心じゃないのか」と言い出して、議論が収集つかなくなった。僕はそれがいやで、そこの家を飛び出した。山の上に先生の家があったんだけど、山の中腹に横穴防空壕ができていて、その横穴防空壕の一つに入って、開戦以来の詔勅の切抜きが内ポケットに袋に入ってあるので、それを、当時ライターなんてないからマッチの火をつけて読み返すんだけど、あの玉音という人間の声とは思えないものを聞いたのが初めてなんだよね。昭和天皇の写真はしょっちゅう新聞なんかにでるけど、声を聞いたのは初めて。あれ聞くとますますわかんなくなっちゃって、一眠りしたらものすごくのどが乾いてね。もう少し下のほうにある仙台の伊達政宗の銅像がある天守閣のところまで行った。のどが乾いていたから、7月30日の大空襲で焼けたらしい水道管が裸で出ていて水がどくどくと流れ出ているところがあって、それに口をつけて水を飲んだ。それでひょっと顔を上げたら、もう8月17日か18日になっていたんでしょうね、今までは灯火管制で、天守閣から見る仙台の町というのは真っ暗だったのが、もう全部焼け跡でもバラックでも電灯をつけて窓を開け放っている。夏だから。だから灯の海が見えたんですよ。ああ、普通の市民たちは、戦争が終わったことを無条件に喜んで、もう普通の生活をやっているんだ。我々が天皇の大御心か重臣の陰謀かって二日間も議論していたのは純粋ではあったけども、目隠しされた純粋さで、この人たちからは隔絶しているなあと思った。同世代といっても一つ年上なんだけど、吉本隆明が最初の本『高村光太郎』の中で、昨日まで神州不滅とか一億玉砕とか言っていた文化人と称する連中が、一夜明けたら平和国家、文化国家などと言い出すのを見て、金輪際この連中を信用するまいと思ったと書いているんだけども、そうすると吉本の考えは『近代文学』派の批評家たち、荒正人とか平野謙とか本多秋五とか、そういう連中と同じように、個人的主体性、情勢が変わってもそれで揺らがない個人的主体性の確立ということになる。だけど僕は、戦争が終わっても極限状況が続いている、だから個人的主体性の確立というのはほとんど日本にはありえないと思っていたものだから、時間は少しごちゃごちゃになりますけども、吉本が個人的主体性を敗戦によって自覚したとすれば、こっちはむしろ客体性、どうやったら庶民たち、市民たちに近づけるかという、自己を客体化しなきゃ近づけないということを敗戦で感じ取ったんだということを書いたことがあります。
加治屋:話を戻しますけど、特に桑原に関してはそんなに…
針生:戦争中、この先生がナチス思想で――ニーチェを専攻して、それからナチス肯定に行くんだけども――ドイツ語の先生なんだけども、ユダヤ人問題の本、例えばフリーメイソンとかそういうドイツ語文献を彼は僕の家に疎開したんだ、10冊くらい。戦争中そういう本を読んでいたもんだから、ユダヤ人問題についての僕の思想は何段階かにわたって非常に屈折するんだけどもね。桑原さんというのは、戦後顔を見たとき、ユダヤ的な顔だと最初に思った。
加治屋:それはどういうことなんでしょう。
針生:なんて言うのかなあ。文化についてすれっからしというか非常によく知っているところがありますよね。だからユダヤ的というのも一理はあると思うんだけども。ただ僕はちょうど新聞部で、東北大学の学生新聞の編集に携わっていたんで、桑原さんかのところに訪ねてインタヴューすることも随分あった。彼は顔が広くて、例えば三好達治なんかを東北大に呼んできたのは彼だし、太宰治、舟橋聖一、そういういろんな人を連れてきて紹介したりした。『第二芸術論』の頃は、大体桑原さんの言うほうに賛成でしたね、僕は。ただ、あれで簡単に俳句なら俳句、短歌もなくなりはしなかったけど。むしろあれを危機として捉えた俳句なり短歌の努力があって、却ってあれから盛り返したと思いますけどね。桑原さんの影響も多少あったし、ずっとあとで、野間宏と僕は親しかったから、野間宏の義兄にあたる富士正晴――同級でもあるんだが――その富士正晴の絵がなかなかいいからこれを紹介するのにどこか画廊を世話しろって僕に桑原さんから言ってきて、文春画廊を斡旋したことがありますが。
加治屋:桑原さんはその後京都に行かれますけど、その後も交流というか。
針生:そんなに常時交流があったわけじゃないんだけど、時々そういうのがありました。
加治屋:その少し前に同じ『世界』に丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」という論文が出て、かなり話題になったと思いますが、それについてはどのような印象がありますか。
針生:日本にひと握り、ヒトラーやゲッペルスみたいなファシストがいたかどうかも疑わしいが、各分野におみこしかつぎがいっぱいいて、抜き差しならぬ状況を作り上げたというのはその通りだと思うね。美術なんてのは、横山大観を会長とする日本美術報国会というのが戦争中できてね。そういうことは去年出した『戦争と美術』(国書刊行会、2007年)という戦争画の画集みたいなものに改めて書きましたけどね。
建畠:戦争画というのは、針生さんは、戦争中にすでに見る機会はあったんですか。
針生:戦争中、例えば藤田の《アッツ島玉砕》とかああいうものは聖戦美術展かなかに発表されたと思うけど、戦争中交通難でもあるし、仙台では展覧会としては見ない。むしろグラビア雑誌の表紙になったり、口絵になったりして、そういうので見ていましたね。ある時、NHKの日曜美術館の始まる前だけども、丸木夫妻をNHKでインタヴューしたことがあって、そこで丸木俊さんがアメリカに《原爆の図》を持って行って、アメリカ人の捕虜でも原爆で犠牲になった人がいるというのを描いたものだから、それを持って行った。アメリカ人を、原爆を落としたというので憎んでいたけどもやはり被害者もいたんだということを改めて強く感じて、そこで理解し合えたという。そうすると、戦争中藤田嗣治を戦争画家として憎んでいたけども、あれも一種の被害者だったのかしらなんていうからね、終わってからだけども、僕は丸木夫妻ともあろうものが藤田まで認めちゃったんじゃあしょうがないなあというのが僕の感想だ。何しろ僕は戦争中にあの絵を見たときに、これは一生懸命力んで描いているけども、どっちが勝ってもかまわないみたいな、つまり野次馬根性でどぎつく刺激的に描いているだけなんで、本当は悪い、僕の右翼思想から言って、聖戦思想から言って、悪い画家なんだと思った。それはコンテクストは違うけど今でも変わらない。野次馬にすぎないというのは変わらない。俊さんはきょとんとしていて僕の言うことがよくわからないみたい。で、丸木位里さんのほうが、「おい、お前さんの発言は、針生さんに言わせると相当良くないらしいよ」なんて言って(笑)。そういうことがありました。この頃丸木俊さんだけじゃない、鈴木邦男なんて元右翼で今はもっともリベラルな文筆家なんて言われているけども、思想的葛藤のあとが全然ないから、藤田も平沢貞通が富士山の絵を描いたりしたのも、むしろ戦争の被害者としてではないかというようなことを言っているのをあんまり信用しないんだな、そういう論は。
加治屋:質問のほうを進めさせていただきますが、針生先生は48年3月に東北大を卒業なさっています。その時に卒業論文で島崎藤村を扱って、これは平野謙の『島崎藤村』の影響を受けたとお書きになっていますが、戦中あるいは戦争直後は保田與重郎とか、右翼思想に関心があって、『近代文学』の人たちも読み始めたということなんですか。
針生:そうですね。東北大に入ってからは、近代文学に大体焦点を絞った。その中でもつまり古いと言われる自然主義なんだけど、本当に戦後文学によって超えられたのか、そういう意味も含めて(読んだ)。東北大時代に先輩に戸石泰一というのがいて、仙台一中の卒業生たちで同人雑誌を作ろうと言いだした。同人雑誌が出るところまではいかないんだけど、同人雑誌を作ることの集まりがあって、みんな太宰ファンなんだ。戸石泰一自身が東大時代に太宰のところに通って小説を見てもらっていたということがあって、そうしたら、太宰ファンが次々に出てきた。その中の一人は東北大学新聞に、太宰は青森に疎開していたんだけどもそこまで訪ねていって、寄稿を求めるということで、なんか生活態度まで太宰に似てきたような感じなんだ。僕自身はその頃から、太宰は自意識の中できりきり舞いしてみせるだけで不毛だなというのがちょっとあって、それよりも野間宏だの武田泰淳など戦後文学のほうがまだいいと思っていた。だからそれで、太宰に比べれば坂口安吾のほうがまだ、普通の意味での常識があって、その坂口が、『堕落論』なんかで、人間堕落もするからこそ人間なんだ、落ちろ落ちろ、特攻隊帰りの勇士は闇屋にでもなれ、戦争未亡人はパンパンでもやれというのに非常に感激したわけだ。なるほど、こういうふうな人間の天国にも地獄にも通じるような振幅を捉えるのは、歴史かもしらんけど、文学芸術が一番いいなあと、その時すでに文学部の学生だったんだけどそう思った。ところがその坂口が『文藝春秋』に「新日本風土記」というのを連載していて、僕が東北大4年のときの秋くらいに仙台の番になったんだよね(正確には「安吾の新日本地理」で、仙台の回は1951年5月)。仙台は東北第一の都会だから坂口の書いてるところによれば、もとは第二師団があり今も東北大を中心に各種の大学があり、それから中央官庁も大企業も全部支社や支所を持っている。ところがその中の一番偉い人間、上長は必ず中央から派遣されて、それで地元の連中はそれに非常に従順でもり立てようとするから町全体が下宿屋みたいな感じだというふうに書いていた。これは、やっぱり仙台は出なきゃいかんなと思って(笑)、それで東大の大学院で美学を専攻するというのがいいと思った。東北大は岡崎義恵という日本文芸学なんてことを主張していた先生がいて、その先生が、東大美学の竹内敏雄という人がドイツ文芸学を専攻していて、そこへ行って美学をやるというのが一番いいと言った。自分の家に対しても東大に行くというのが一番いい口実になると思った。
建畠:国文学から美学に変わるわけですね。
針生:文学をやめるつもりはなかったんだけど、美学のほうが広いかなと思って。ところが、東大の大学院で最初の1年だけ都立高校の専任教員をやって私費で大学院生だったんだけど、二年目から旧制大学院にだけあった特別研究生という身分、これは一種の教授コースで、僕の年から給与じゃなくて育英会の貸与になるんだけど、公務員ベースで研究費をくれて、助手ほどに事務をとらなくていいという、一番いい身分に、東大学部卒業生を差し置いて僕が選ばれちゃった、その教授のおかげで。それで前期3年後期2年間という5年間、私費の時も含めると6年間大学にいたわけ。東大に。ところがその間に文学のほうはいろいろ書いていたんだけどみんな左翼雑誌だし、特にルカーチの訳編著を出したもんだから、マルクス主義というのはやっぱり当時も怖がられていて、専任の大学教師の話がどこからもかかってこない。これはようするにフリーライターでいくほかないなと。そうすると、フリーライターでは文学は左翼だからほとんど稿料にならない。むしろ持ち出しだと。それで、一年前から勧められてやっていた美術に比重を移し、さらに演劇などにも関わった。ヨーロッパの演劇論について『文学』という岩波の雑誌に書いたのを見て、千田是也に俳優座の養成所で講義しろと言われて、一年講義してその後、俳優座の中のブレヒト研究会というのに誘われた。千田さんは、いろいろ僕と対談したのはありますが、演劇批評家にしたかったんじゃないかな、どうもそう思いますね。それから映画は、小川徹という『映画芸術』の編集長が東北大の新聞部で一緒だった。一年上ですけど、それのせいで、いろいろ注文があるし、美術以外でもあらゆる芸術、ときには政治や思想も注文次第で応ずるという体制でやっと生活できるようになった。ただ、大学院をやめた年に親友だった安部公房が日本文学学校というのがあって、そこで教務主任格の、つまりカリキュラムを作る人間を求めている、それを君やってくれんかと言われた。これは党が作った学校なんで党員になってもらうのが条件なんだけども、週に3日午後から出て、午後から夜までなんだが、それで普通のサラリーマンの月給の半分くらい払うと。これが魅力で、生活がいっぺんに安定しちゃったわけだ。1960年か61年くらいまでやっていましたから、やはり僕はその頃も今も本業は文学だと思っているわけ。自分では。
建畠:それで共産党に入られるわけですね。
針生:ええ。
建畠:それまでは共産党との接点はあったんですか。
針生:ないです。ないですけども、『新日本文学』を創刊準備号からずっと読んでいて、その別れが『人民文学』派、分派闘争時代の主流派というか、そっちになるわけね。だからここ(質問表)で書いてあるスカラベ・サクレ論争の武井昭夫ね、武井君は六全協で、宮本顕治独裁のための盲目的統一ということに反対という立場なのね。彼は東京都の共産党の委員かなんかやっていたんだけども、それで、花田清輝の「芸術のアバンギャルドが目を内部でなくて外部に向ければたちどころに政治のアバンギャルドになると、その逆もまたしかりである」というようなことをテーゼにして、針生にそういう点で期待していたけども、『人民文学』というへたくそ万歳の俗流大衆路線に加担したために政治の前衛でも芸術の前衛でもなくなっちゃったという立場での批判なんです。
建畠:それは花田清輝からの批判?
針生:武井昭夫。
加治屋:路線対立というのが大きかったんですよね。その武井昭夫の針生先生への批判っていうのは。
針生:その頃、例えばシュルレアリスム、アンドレ・ブルトンもトロツキーに非常に共感して、一時集団で入党するわけですね。ところがくだらんことばかりやらされたと言って間もなく辞めちゃって、でもアラゴンなんかは残ったし、エリュアールも残った。花田清輝をそういうテーゼに使うのは良くないと。花田清輝は弁証法的思考の運動を進めているのであって、しかも正反合でいう合のほうは矢印のように書くか、あるいは展望だけ読者のうちに呼び起こすということで終わっているので、決してそういう図式を書いていないんだ、ということから始まって、具体的にシュルレアリストたちがどういう運命をたどったか。その中でむしろシュルレアリスムを生かしながらある種のドキュメンタリー――花田清輝があの論争は結局ドキュメンタリズムというもの、シュルレアリスムを否定的媒介としてのドキュメンタリーということを巡る対立だということを言ったんだな、個人的に話をしながら。だから、それに力を得て――そういうドキュメンタリーに完全に転換したのはダリと絶縁したルイス・ブニュエルくらいだというようなことを具体的に検証した。自分でもあの時代、武井君にそういう論争を、しかも『美術批評』という雑誌で挑まれたからね。これに応えなきゃいかんと思って、自分でも割り合い質の高いというか、緊張したものがこの時期書けたと思っていますけどね。
加治屋:ブニュエルについてはその後に「サドの眼」をお書きになってそこで論じられていますけど、「サドの眼」も武井昭夫との論争を踏まえた形で書かれた。
針生:そうそう。もちろん踏まえています。佐々木基一さんが、最初の僕の評論集『芸術の前衛』というの本について、これだけ多くの人を取り上げながら、彼が全面的に共感し支持するのはブニュエル一人らしいという(笑)ことを書いていて、本当にそうだなと思った。
加治屋:中原佑介さんが、針生さんは「しごきの針生」でなかなか評価しないと書いたし、東野芳明さんも「俺は待っているぜ批評」だと針生さんのことを書いていました。肯定的に評価することが少ない中でブニュエルは印象的でした。話は戻るんですが、当時東大の美学は、美学美術史で一緒だったかと思うんですが。
針生:いや、科としては一緒なんだけど研究室は隣り合わせで違うんです。
加治屋:当時美学は、もしかしたら先生と入れ違いかもしれませんが、ナム・ジュン・パイクさんが学部でいらっしゃったと思うんですが、覚えていらっしゃいますか。
針生:ナム・ジュン・パイクに聞いたら、いやもう針生さんやめた後だった、ただし針生さんの伝説はいっぱい聞きましたと言ってました。
建畠:松本俊夫とも入れ替わりくらい?
針生:松本俊夫はいました。いたというか、僕が研究室に行っていたころ学生で入ってきた。静岡出身で美術批評していた木村、木村なんだっけ、あれは。もう死んじゃったけど。中原佑介と一緒に展覧会をやった。
建畠:石子順造?
針生:そうそう。石子順造(本名木村泰典)。あれを僕は知らなかったんだけど、李禹煥は、もの派の時最初に同志として考えていたらしいね。
建畠:最近再評価が進んでいるんですけども、静岡にある「幻触」というグループは、トリッキーアートのグループだと思っていたんだけども、実はもの派のほとんど先駆的なことをやっているんですよね。
針生:そうですね。国際美術館の展覧会に「幻触」がいっぱい出ていて、ああなるほどと思った。僕は彼らがそんなに深く関わっていると思わなかったって言ったら、峯村君だったかが、例のトリッキーアートという中原君と石子順造とで企画した展覧会、あれを見て李さんの方はもっと純粋芸術派だからこれ切らなきゃと思って、峯村君は相談受けたことありますよって言っていた。李禹煥からと言うんだよね。
建畠:李さんに、あの展覧会について聞いたんだけども、当初は否定的に考えていたが、今ではトリッキーアートによる世界のズレというのがもの派を誘発したんだというふうに、はっきり認めていると言ってましたから、やはり石子順造という人の役割は大きかったですね。
針生:そうらしいね、どうも。
加治屋:石子さんはたしか経済学部かなんかでしたね。
針生:そうですね。
加治屋:大学で知り合いでは……
針生:松本俊夫とあれは同級みたいで、なんか一緒によく研究室へ連れてきていたから。
加治屋:この頃、針生先生は美学会の雑誌『美学』の編集をなさっています。そこで芸術批評の特集というのが第三号にあるんですが、これは今から思うと随分アクチュアルというか、今の『美学』と異なる印象があるんですけど、当時今泉篤男が『美学』に関わっていたんでしたっけ?
針生:関わっていると言っても、それ程深くかかわってない。僕が彼に寄稿を求めると、書く暇がないとか言っていた。
建畠:木村重信さんから、時々針生さんの話が出るんですけども、美学会の活動を立ち上げるときに東京では針生君が、関西では僕がやったんだよって言っています。
針生:彼はある種の関西モンロー主義で、関西では自分が一番、しかし全国区じゃ針生だと思っている。
建畠:そういうふうに言ってました。二人でがんばったんだという言い方をしていました。
針生:同い年だからね。例えば、中原佑介と僕が「ハナの会」という会――最初は「針の会」というんだが――それは、前衛と呼ぶには落ちこぼれ、団体から落ちこぼれたような連中を集めてそれぞれの制作についての発表をさせてそれをみんなで批評するという会なんだけども、なぜそこで中原君に頼むかというと、さっきの今泉篤男さんなんかも出てくるんだけど、戦前派の批評家っていうのは原稿料がなかったからね、だいたい名門の子弟が自分が趣味がいいと思う作家を訪ねてその書生代わりにいろんな雑用をしたりしながら話を聞いて、その芸談がある程度まとまると『みづゑ』なんかに書いて、そうすると美術出版の社長が一席設けてご馳走してくれるというような生活だったわけね。だからいつまでも、自分が通った、もう戦後長老になっている作家を現代展とか国際展とかあるいは秀作美術展とか、そういう選考のときに外せない。国際美術館のもの派をめぐる討論の総括のときに言ったけども、今泉篤男、植村鷹千代、矢内原伊作、僕というので、丸善石油の審査を三日くらいにわたってやったときに、昼飯のときになるとどこの国の何とかっていう料理は非常にうまい、あれは逸品だとかいう話が続いて、それで針生君何も言わんねって言うから、僕はまだ外国へ行ったことないし、今のところ何食べてもうまいからねって言ったら、今泉篤男がまあ皮肉な顔をして、君は美術もそうだろ、つまり趣味がないから何を食べてもうまい、前衛なんていう非常に趣味の悪いものをありがたがってるという皮肉なんだけど、そういう趣味や好みで見ているからいつまで経っても人間関係を離れることができないし、思想やビジョンで見なきゃいけないというふうに思っているから、全然皮肉がこっちには応えない(笑)。
加治屋:雑誌の『美術批評』が創刊されたときは、例えば植村鷹千代とか、前の世代の方もいました。あの雑誌は西巻興三郎が中心となって創刊されたとうかがっていますけど、そのとき西巻さんは、美術批評が必要だということで立ち上げられたんでしょうか。前の世代の批評に問題を感じていらしたんでしょうか。
針生:そうでしょう。美学会の雑誌を美術出版社が出すことになって、僕が編集責任者みたいなものだったから、美術出版社に行ったら、夜の会という、花田清輝と岡本太郎が中心になって埴谷雄高、佐々木基一、椎名燐三、野間宏などを含めた集まりを東中野のモナミというところで月に2回例会を開いてやっているのを知った。僕は最初に東京に出たときの下宿が東中野で、そのモナミが近いもんだから毎回必ず出て、安部公房、関根弘などの常連と知り合って、世紀の会というのを作る。その頃までしか知らないんだけども、あとは東大の研究室に常勤することになっちゃったから。その時、夜の会の事務局をやっていた河野葉子という女性が美術出版社に変わっていて、それで美術批評をやらんかと勧められたのが美術批評の最初なんですよ。だから夜の会時代は、花田清輝でも岡本太郎でも、アンチヒューマニズムみたいなところがあって、あとで考えれば、それは僕の言う個人的主体性という論理に対するある種の反発だったと思うんだけど、それがよく分かんなかったんだ。ただ自分が批評を始めてみて、どうも個人的主体性というのは日本ではあまり成立しない。それに比べるとアバンギャルドのほうに集団的抵抗の論理があるなと思って、それを自分の批評の足場にしたんで、その間10年くらいの落差がありますけどね。
建畠:岡本太郎の対極主義にはどういうふうに思っていたんですか。
針生:岡本太郎はフランスから帰って、小林秀雄だの――あれは一種の白樺派の延長で芸術を美談として捉える――そういうのに反発していたのは分かっているんだけど、ただ間もなく軍隊にとられて中国へ行った。戦友たちに言わせると、(岡本は)ものすごく不器用な男で、しょっちゅう下士官に殴られてばっかりいたと。ところがその殴る力が一番出てくるのが4人目だっていうのね。そうすると岡本太郎はその一番強く殴られる4人目を必ず選んで、で、そういう点で不器用だけど、みんなに嫌われてはいなかった。非常に愛されていた。その軍隊生活が、フランス帰りの前衛文化論みたいなものをもっと生活に密着した生活者の思想として戦後展開するまでの足場、基盤になったというふうに僕は思いますね。
建畠:岡本太郎の対極主義的な考え方にシンパシーを感じますか。
針生:うん。
建畠:彼の場合はやっぱり個人的な主体性ですね。大衆とか政治的な問題提起はほとんどしなかった。
針生:実は僕が批評を始めた頃に、上野毛の彼の家に呼ばれて、君が美術批評を始めてとてもうれしいが、何でその鶴岡政男だの麻生三郎だの、ああいう自然主義の連中と妥協するんだ、君は画壇に妥協しすぎるよ、岡本太郎がいいと思えば岡本太郎一辺倒で行かなきゃいけないんだと言うんだけど、こっちはそうは思えないんでね。
建畠:安部公房との接点は夜の会ですか。
針生:最初はそうですけど、文学学校への就職を勧められるようになったのは、彼が中心になっていた「現在の会」という文学のグループです。安部公房というのはよく分からないけど、江藤淳が非常に若くして出てきてたちまち保守的な文壇のイデオローグみたいになった頃で、大変危機感を感じていて、中原佑介なんかにも美術批評をやめて文芸批評をやれと言ったらしいね。つまり、よく分からんけども、左翼の現有勢力では戦えないっていう考えが安部公房に一貫してあるんです。だから現在の会でも、佐伯彰一とか、村松剛とか、後には明らかに右翼としか言えないような、特に村松なんかそうですが、そういうのを入れていろいろまわりに物議をかもしたり、記録芸術の会というのを作って、その発会式に佐伯・村松を入れるというのを発表したものだから、あんな右翼と一緒にやれるかと言って吉本隆明、奥野健男、島尾敏雄、清岡卓行などがそこでやめていったわけ。
加治屋:針生先生は、福岡の九州派とか福井の北美などを回られていますが、記録芸術の会の活動と関係があるんでしょうか。地方を回られたのは、各地域の団体から呼ばれていかれたということなんでしょうか。
建畠:九州派や北美の関係で僕も呼ばれる機会があるんだけど、名前が出てくるのは針生さんなんですよね、決定的に。やはり針生さん自身がかなり意図的に地方における前衛運動を支援するという立場を自覚的にとってらしたんじゃないかと思うんですけど。
針生:地方といっても九州派だよね。九州派は、1950年代後半から関係が始まった。57年くらいかな、河北倫明が読売アンデパンダンで「ロカビリー的狂騒派」とか書いた。それで九州派に呼ばれて行ったら、河北さんがロカビリー的狂騒と呼んだのはほとんどここだったということが分かった。
建畠:河北さんは九州の出身だからもともと情報として入っていたんでしょうね。でも土岡秀太郎との関係も深かったでしょ、北美、北荘の。
針生:もうちょっと後じゃないかな。
加治屋:その地方に行って、作品を批評したりとか、講演をしたりといった活動をなさっていたんですか。
針生:うん。そうですね。
建畠:中央画壇は団体展が中心で、針生さんは前から「団体を憎んで、個人を憎まず」とおっしゃっていますけど、地方の公募団体展に対するアンチというものとそれは連動しているんでしょうか。
針生:その前にさっきの安部公房のからみで言うと、野間宏、安部公房、僕というのが、『人民文学』派から、六全協後に党の統一で『新日本文学』に戻った。野間、安部とも新日本文学会員のまま『人民文学』あるいは文学学校に関わっていたんだけども。武井昭夫は僕の批判の後に、野間宏批判を書いた。安部公房はやっかいだから、これも書くつもりだったらしいけども、そこまで行かなかった。安部公房は、僕をスポークスマンみたいに、創作対談なんかに引っ張り出したり、あるいは彼が演劇に関わっていろいろ戯曲を書いている頃、僕は忙しすぎるから君代わってくれなんて言って、演劇座のレパートリーの相談に僕が何回か行ったりしたんだったんだけども、だんだん僕は、共産党員ではあったけども、共産党中央と対立するあるいはそれを批判するほうに使命感を感じ出して、安部公房は逆に、現有勢力じゃ戦えないという考えのせいか、『記録芸術』という雑誌の編集長を引き受けたりして、もっとジャンルを拡大する方に重点を置きだした。そこでちょっとすれ違うんですけどね。これは全く話が違うけども、中野重治が、共産党と絶縁した後の新日本文学会を非常に心配して、いろいろ言うんで、中野重治全集を手伝っていた元新日本文学会事務局にいた且原(かつはら)君というのが、針生さんを呼んで、中野さんの心配するところを伝えたらいいじゃないですか言ったそうだ。そうしたら中野さんが、針生君っていうのは結局仕事師だろうと。何かよくわからないけど否定的で、いや違いますよって言って、且原君がいろいろ説明するんだけど、どうも仕事師という観念が拭い去れなかったようだということを聞いた。この仕事師というのは、安部公房と同類だと思ったからそこからきているな、と。安部公房は新日本文学に復帰してそれをひっかきまわすだけひっかきまわして、さっと記録芸術の方に逃げちゃったというある種の仕事師だというイメージが中野さんにあっただろうから。そこからきてるなと思ったことがありますね。
加治屋:記録芸術というのは作家や芸術家によるルポルタージュ的な作品だと思うんですけど、それと例えば日本文学学校でやっていた生活記録はまた違うものですよね。それは非専門家による創作活動だったと思うんですが、その両者はどういう関係があったんでしょうか。文学学校でやっていた下からの表現の立ち上げと、ルポルタージュの記録芸術というのは。
針生:人民文学や文学学校を、武井君なんかはへたくそ万歳俗流大衆路線と見ていたから、それが承認されたわけではないけども、全く庶民の下積みの生活を送っていた、作者の名前を忘れたけど、「生きる」という生活記録みたいなものが『人民文学』時代に非常に評判になったりした。それとか、国鉄詩人連盟に属していた足柄定之(あしがらさだゆき)っていう作家がある種のチャンピオンだったんだけど、その後どこへどう消えたのかさっぱりわからなくなっちゃった。
建畠:ルポルタージュの絵画って、針生さんの活動の中では完全にシンクロしてるんですか。文学の活動と。
針生:ニッポン展っていうね、非テーマ的テーマの展覧会をやった。
建畠:池田龍雄とか入っていた。
針生:そう、池田龍雄ら、夜の会から流れてきた連中、それから当時芸大や日大芸術学部を卒業したばかりの連中。それから前衛芸術会というところにいた桂川寛とか、そういう連中の寄り集まりです。これがすでに安部公房の影響があったから何でドキュメンタリーということを言わなかったのか。ルポルタージュ絵画というのは何かもっと通りやすいから誰かがそう名づけたのかもしれないけど。
建畠:これ針生さんの命名かと思ってた…
針生:違う。
建畠:そうなんですか。
針生:ルポルタージュ絵画という言い方に僕は賛成じゃないんだ。安部公房なんかいろんなサークルまわってドキュメンタリーを主張していたから、ドキュメンタリーが問題になるべきだと思うんだ。もう一つは、若い新聞の美術記者なんかがニッポン展は社会主義リアリズムだと新聞に書いているんだけど、社会主義リアリズムを信じていたのは誰もいない! ニッポン展には。やはり問題になっていたのはドキュメンタリーだと思うんだけど、それをルポルタージュと言ったために大変曖昧な焦点のぼけたものになったなあと思うんです。
建畠:ルポルタージュってどこから来たんでしょうね。左翼用語のような感じがするんですが。針生さんだと思い込んでいました。それではドキュメンタリーという言葉のほうがいいんですね。(ニッポン展に出品していた)曹良奎には、韓国か北朝鮮でお会いになったって言っていませんでしたか。北朝鮮に帰っちゃうんだけど、曹良奎というのはこの流れの中では重要な位置づけだったんですか。
針生:自由美術からは、曹良奎、安部公房夫人の安部真知、小山田二郎夫人の小山田チカエ、中野淳――中野淳というのは氷を描いた作家、主体美術にも行って主体美術もやめている。松本竣介の生前の弟子としては唯一の生き残りみたいなものだから松本竣介のことをいろいろ証言ふうに今でも語ったりしているらしいけど――そういうのと、夜の会から――これ(居間に飾ってある絵の写真)は福田恒太の葬式の想像画なんだけど、弔辞を読もうとしているのが僕らしいんだが(笑)――その夜の会出身の福田恒太、山野卓、池田龍雄を集めて、僕が1956年か57年に「新具象」というグループを作ったんですよ。瀧口修造さんが企画したタケミヤ画廊の展覧会に、グループとして2回くらい取り上げられたんだけど、何と言ってもそこで一番の論客が曹良奎だった。
建畠:曹良奎は日本生まれなんですか。
針生:違う違う。
建畠:向こうから来た。
針生:韓国の晋州って言ったかな、南のほうですが、そこで李承晩大統領の時代に、それと戦う学生運動をいろいろやっていられなくなって、密航してきたわけだ。あの頃、北朝鮮への帰還運動を北朝鮮は進めていましたからね、曹良奎自身は、北朝鮮に行くと、材料の点でも芸術の自由という点でも日本よりも劣るんだけども、朝鮮民族というものが記憶の中でしかもう描けなくなっていると言っていた。深川の枝川町というところの朝鮮人部落に住んでいたから、まわりに人がいないわけじゃないんだけど、あの頃、部落でも南労働党という韓国の中の共産党みたいなものに入るかは入らないかによってアルバイトの仕事も町内会から斡旋されるのが違うっていうんだよね。彼には、自分が絵に描いている倉庫番とか下水道工事のための人足とかそういうのしかない。それもあって、生まれ故郷じゃないんだけども北へ帰るんだって言っていた。そうしたら、これは藤島宇内という詩人の話で間接情報でよくわからないんだけども、北へ帰ってすぐチェコかなんかに留学した。ところが帰ってきたら、チェコみたいな自主独立路線はよくないということになって、美術家同盟の中でも一番役職外されて辺境のほうに追いやられてしまった。僕は一度だけアジアアフリカ作家会議ではないんだけど――それに北朝鮮は入っていない――それを基盤にするアジアアフリカ作家シンポジウムというのがあって北朝鮮に行ったことがあるんですよ。その時、小田実は、北の系の玄順恵という女性と結婚したから、その義兄が夫婦で、北朝鮮によって軟禁されている、それにどうしても会う用事があるんだって言ってしつこいくらいに毎日掛け合って、ついにその夫婦が出てきた。我々といっしょに食事して、これでまた捕えられることはないのかって言ったら、ない、もう大丈夫だと、おかげで釈放されたというようなことを言っていた。あのくらいしつこくやらないと駄目だったのかもしらんなあ、曹良奎については。こっちでも調べているんだけど全然で、住んでいるところがわからないとか、そういう返事ばっかりで、ついに会えなかった。
建畠:粛清されたんじゃないかって噂を聞いたこともありますね。
針生:ただ、僕が言い出したことじゃないけど、僕らは在日日本人みたいなもので、政府の政策にはみんな反対だし、それをはみ出してどうやってこの友好関係を築けるかというのをいつも考えているという僕の発言がなんだか大変評判よくて、新聞にもテレビにも大きく出たもんだから、曹君自身が亡くなったにしても奥さんも知っているし、何か連絡くれるだろうと思って心待ちにしていたけど全然連絡がなかった。そうしたら、織田達朗――亡くなったんだ、最近――が亡くなる前に、在日の収集家で河と書いたハーさんが集めた文集の中にAと書いてあるんだけど、Aというのはどうも僕のことで、「曹良奎が帰るときに僕つまり織田達朗はそれに反対だった。だから美術出版社に画集の出版の交渉はしたけども自分は書かなかったと。それにただ一人書いているAは――というから針生一郎のことだと思うが――織田の名前を全然挙げもしない」(と書いている)。それは、織田君のほうは知らんけども、僕も美術出版社に交渉して出版したというのがあるもんだから(書いたんだ)。それから、テレビで、曹良奎たちに呼びかけたけども返答もなかったと……
建畠:北に行ったときですか。
針生:ええ。僕が呼びかけたわけじゃない。発言がたまたまテレビに採録されて、それに対して何の応答もなかったということなんだ。それをなんか悪意で捻じ曲げているようにしかとれない文章だということを河さんに手紙で書いたら、私が尊敬している批評家ではあるが、確かに亡くなる前は、そういうふうにまわりに当たってまわりを敵視して、自分がやったことを認めさせようとするような感じでしたと書いて返事が来ました。曹良奎は、韓国の中で政治活動もし、ある種の近代化の芸術運動にも高校時代ながら加わって、だからどちらに対してもそんなに新しい感じを持っていない。そうすると、近代化論にも政治のアバンギャルド論にもあまり加わらない。彼の倉庫番や地下工事の人足の絵というのは、その意味で言えば、近代化に達しない自然主義のままで、ただマチエールの重厚さで、それを一種の極限状況にしている非常に独特な絵だと思う。だからフランスのポンピドゥー・センターでの日本の前衛展に在日ではただ一人曹良奎がとりあげられているんだろうと僕はどこかに書いたんだけどね、そういうところがありますね。
加治屋:曹良奎は新具象展に先生がお選びになっているわけですね。針生先生はいくつか展覧会を企画なさってます。他にも66年に村松画廊で「今日の作家66展」とかあるいは日本橋画廊で67年に「これが日本画だ」の展覧会をされています。何かご自身で強く印象に残った展覧会ってありますか。
針生:「これが日本画だ」というのは65年くらいからやった日本画研究会がもとになっている。若くして日展の審査員になった中村正義――四天王寺の壁画を模写している中村岳陵という先生の塾の連中、このなかで中村岳陵より年上の最年長の画家が風邪を引いて、模写の間に風邪を引いて死んじゃうんです。ところが中村岳陵は画塾としての葬式もせずに、自分に関係なかったみたいにして、その四天王寺壁画模写は自分が功績を独り占めしようとする。それで、中村岳陵批判が中心になって――中村正義は日展をやめちゃうわけだ。それと、翌年くらいに、横山操が、川端龍子に非常に可愛がられていたんだけど、青龍社の先輩社人たちが嫉妬をして妨害したりするんで、これも嫌気がさしてやめてしまう。このふたりを中心として65年くらいから、ここの家の前の持ち主であった朝日ジャーナルの矢野純一君と、『芸術新潮』の当時副編集長だった山崎省三という人たちの肝いりで、日本画研究会というのを何年かやった。
建畠:横山操、中村正義……
針生:を中心にしてね。それから創画会をたくさん、院展から片岡球子、常盤大空というような人たち、それから無所属で丸木夫妻や佐藤多持、水谷勇夫みたいな人たち。
建畠:石本正は入ってないんですか。
針生:どうかな。パンリアルも入っています。三上誠も来たことがある。ほとんど個人的にしゃべったことないんだけど、写真を見てああこれ来ていたなあと、死んでから思った。成果を集める意味で「これが日本画だ」というのをやったんです。ところが、中村正義はこれを反日展の公募団体にしたいという考えがあって、一方片岡球子や常盤大空などはやはり院展であることを気にしていて出さなかった。創画会でも加山又造なんかは出さなかった。
建畠:横山操は出した。
針生:横山操も出さない。
建畠:創画会系の人も出さなかった。
針生:ええ。だからちょっと中途半端なものになっちゃった。それで正義は人人会という会を作って、あそこに三上誠だの、とにかく幅広く集めて、自分としてはこれは日本画研究会の発展のつもりだなんて言っていた。
建畠:人人会ってデパートでやっていたやつですよね。
針生:そうそう。最初は三越でやったんだよね。やがて東京都美術館に行きましたけども。
建畠:ルポルタージュの絵画の後で、アンフォルメル旋風が来ますよね。針生さんはアンフォルメル旋風をどう考えていらっしゃるか。なかでも今井俊満に関して、針生さん、非常に強く支持されていますよね。でも、それまでの記録とかドキュメントとかから言うと、アンフォルメルは両極とも言えますよね。針生さん自身はどうだったんですか。最初にアフォルメル旋風が出てきたときの受け止め方というのは。
針生:アンフォルメルで、特にタピエが頻繁に日本に来るようになってから言われたのは、シュルレアリスムは文学的な運動、キュビスムは抽象芸術に発展する純粋造形主義ではあるがかなり古典的な側面も持っていて、一番重要なのはダダであると、ダダのような、創造の根源にあるアナルシー、アナーキーというものを回復する運動が重要なんだということで、そこに僕はある程度共感したんですね。そこから日本のシュルレアリスムなんかももう一度捉え直す、そういう作戦をとるべきだと書いたんだけども、ルポルタージュ絵画の連中に言わせると、僕が転向あるいは変節したということだった。山下菊二という人だけがすごくて、僕と常に雁行しているというか、彼はアンフォルメル的な作風に変わっていくんだけどもその中でダダ的要素もちゃんと踏まえて、それを捉えているところが山下さんはすごいなあと思った。とにかく一般的には転向論なんですよ。批評っていうのはその時その時によって戦略の立て方というものがあるわけで、そういう意味では一貫したモラルとか節操とか、そういうものだけでは捉えきれない要素があると僕は思っている。
建畠:アンフォルメルに対するルポルタージュの人たちの批判は、ブルジョワ・ラディカリズムとかそういうものですね。
針生:そうですね。昨日、東邦画廊で今やっている、宮崎に住んでいる藤野ア子という女性(の個展で)で、東邦画廊の中岡氏が、これは日本のマティスだと、マティスは色彩が非常にあざやかで平塗りでそして抽象を築くというあの思想が日本にはほとんど定着しなかったということを書いた短い文章を僕に示すんで、なるほどそうも言えるなと思った。マティス礼賛というのを僕が聞いたのは、アンフォルメルの一人として活躍し、その頃タピエと一緒によく日本に帰ってきた今井俊満なんだよね。今井俊満だけじゃなくて、アンフォルメルがニューヨークを訪ねてマティスの晩年の作品をずっと見たときに、マティスのほうがピカソなんかよりもはるかに空間が大きいし、それから晩年の睡蓮の連作なんかを見ても、抽象に直結しているという意味で、マティスを評価したの。
加治屋:モネの話ですか。マティス?
針生:マティス。ピカソと同じ頃に、日本で展覧会が戦後間もなくあって、寺田透が――かなり自分でも絵を描くし絵がわかると言われているんだけど――「マティス嫌い」というのを『みづゑ』に書いたんだよね。マティスはようするに感覚だけであって、ピカソのような造形の力がないみたいな言い方をしている。寺田さんが好きなのは井上長三郎、非常にデッサン力のある作家なんだよね。それで日本ではフォーブでも何でも、求道派的な暗さとか陰影とかそういうものが中心で受け止められるから、マティスがほとんど定着しなかったと言えばそう言えるかなと思った。
建畠:ピカソのほうが日本人の心情にぴったりくるのかなあ。
加治屋:高階秀爾さんがお書きになっているんですが、日本では、特に30年代から50年代にかけて、キュビスムよりもシュルレアリスムの方が紹介された。これはアメリカだと逆で、シュルレアリスムよりキュビスムのほうが批評の上でも実作の上でも関心が高かったんですね。もちろんピカソに関する関心は日本にも一定としてあるんですけども、キュビスムとシュルレアリスムの受容の違いは、どういったところにあるんでしょうか。
針生:日本のシュルレアリスムというのはほとんどダリの影響だし、かなり戦争に妥協せざるをえなかったから、トロンプルイユつまり克明に対象を模写するというところにだけ重点を置いた変なものですよ。だけど、前衛美術会などを中心としてシュルレアリスムが日本における抵抗の基盤、ある種の抵抗の基盤を形作ってきたことも否定できない。他の人がシュルレアリスムを否定するのはいいけども、例えば高階君みたいな、日本における前衛芸術というのは、羽田空港――当時は羽田空港しかない――から権威を帯びて降りてくるというようなことを、一番羽田から権威を帯びて帰ってきた高階秀爾が書くのはおかしい。
建畠:針生さんは瀧口修造が中心としたシュルレアリスム研究会には関わっていらっしゃいましたか。
針生:はい。関わっていました。
建畠:針生さんのシュルレアリスムというのは、やはり瀧口さんの存在が大きかったですか。
針生:そうですね。もちろん。
建畠:瀧口修造はその頃は海外に行っていないわけだから、羽田空港には降り立ってないわけですね(笑)。瀧口修造は、僕の中にとっては非常にアンビヴァレントな人なんですけども、針生さんにはどういう存在だったんですか。戦後美術史の中で。
針生:瀧口さんですか。最初は、夜の会の頃の花田清輝や岡本太郎の言うことがよく分からなかった。そういう点では瀧口さんのほうがわかりやすい。特に『近代芸術』という瀧口さんの戦争中の著作に、あとで私は解説を書きますが、あれが対物意識というか、物の意識というものをかなり中心にしていて、マルクス主義の哲学者、戸坂潤に認められて唯物論叢書として最初出版される。その点はよくわかる。それから68年にベニス・ビエンナーレのコミッショナーに私は推されるわけだけど、それは瀧口さんがもっぱら推薦したの。今、国際交流基金の来年のコミッショナーを選ぶ会議が終わったところだって電話をかけてよこした。実は富永惣一君は山田智三郎氏を推したんだけど、山田君なんて僕が敗戦直後に会ったときは、占領軍へのお出入りをひけらかすただのアメションですよ。美術史家でも美術批評家でもなんでもない。あんなものをコミッショナーに選ぶわけにはいかないから私は極力あなたを推して、ついに富永惣一も説得したので絶対引き受けてくださいと言われた。そうまで言われちゃと(笑)、引き受けた。
建畠:だけど、結果的には向こうで粉砕運動をなさったわけでしょう?(笑) アーティストは誰を選ばれたんですか。68年のときは。
針生:高松次郎、三木富雄、山口勝弘、菅井汲の4人。
建畠:引き受けて、粉砕したと。瀧口さんは喜んだんじゃないですか(笑)。
加治屋:話が戻ってしまうんですけど、『美術批評』にお書きになっていたとき、リアリズムについて随分お書きになっていますね。最初に独立評論で書かれた「実存への復帰」という53年5月のものですけども、最後に新しいリアリズムの展望について書かれています。その後も「ニッポン展によせて」という批評でも、新しいレアリズムのことを書かれています。リアリズムについて考えていたときは、どういった背景があるんでしょうか。例えば、ルカーチのリアリズム論があったのか。それとも、その前に植村鷹千代さんなんかのリアリズム論争が40年代後半にあったと思います。あるいは、先ほど社会主義リアリズムの話が出ましたけど、共産党の議論もあったと思うんです。リアリズムを強く出していくきっかけになったのはどういうことだったんでしょうか。
針生:最初のきっかけはよくわからないけども、今日のリアリズムは何かという問いなしではいけない、つまり、目に見える世界だけを描く19世紀的リアリズムじゃ駄目なんだ。そこから、印象派以後の20世紀美術がでてくる。今日のリアリズムに対する問いなしにアバンギャルドというのもありえない、(それがないと)アバンギャルドじゃなくてただのモダニズムになってしまうんだという考えが一貫して僕にはありますね。1940年代にドイツからモスクワに亡命していたマルクス主義者の中で、表現主義というのはファシズムの前段階じゃないかという論が起こって、それに対してエルンスト・ブロッホなんかは違うと、「モンタージュ、コラージュというのは20世紀芸術が作り出した最大の発明である、それなしに今日のリアリズムはありえない」と言う。僕は、だいたいエルンスト・ブロッホの考え方に近い。だからモンタージュなしに今日のリアリズムはありえないと思ってきた。ただ、東京国立近代美術館でのゴッホの展覧会を見て、ゴッホは新しい芸術を作り出そうという関心は全くない(と思った)。オランダの貧しい農民たちが抱えている心の闇をずっと見ていたものだから、あれに対しては、ミレーの農耕労働を浄化するような絵の複製を作って与えるのが一番慰めになると思って、最初はそれに集中するわけだけども、ゴッホ自身が模写してみても、ミレーの模写というよりもやはりオランダの農民の闇がそこにいっぱい広がっちゃって駄目なんだな。それで結局筆触や色彩のコントラストを最大限に活用しながら、しかしモンタージュまではいかない、その対象を、デフォルメにデフォルメを重ねてどう表現するか、それで最後は精神病院に入るような状態に、狂気の一歩手前まで行くわけです。でも、20世紀の芸術、前衛的な実験を全部総合してもゴッホ一人の苦悩には及ばなかったというのはほぼ明らかになってきている。だから我々の前にはモンタージュによるリアリズムと、ゴッホ的なモンタージュ以前のリアリズムというふたつの道があるように見える。しかしそれももっと突き詰めればゴッホほど苦悩する能力があるかということになるんだ。単なる方法論じゃないんだというのが今のところ僕の結論ですね。
加治屋:また前後しちゃうんですが、先ほどアンフォルメルの話がありました。針生先生はアンフォルメルショックの56年の前、55年に具体美術協会の展覧会が東京であったのをご覧になった。それは東京ではあまり話題にならなかったとお書きになっているんですが、その時の印象っていうのはあるでしょうか。
針生:千葉成夫君が、『現代美術逸脱史』で、具体というのが初めていわば西洋のアバンギャルドの観念を抜き出て、日本土着の前衛として出発したのに、東京のいわゆる御三家といわれるような批評家たちは誰もこれを認めなかったということを書いている。僕は、その出版記念会で、新聞記者や画商の親玉なんかとばかり話をしていて、最後に僕が指名されたんで、「いや千葉君というのはどうも評判が悪いから、今日はあんまり出版記念会に人が来ないんじゃないかと思ったら、斉藤義重、堀内正和とかいう長老から若手まで随分人がきてびっくりしていると。ただし千葉君のナイフにはものすごく切れ味のいいところと錆びついて全然切れないところがあって、いわゆる御三家はここではやっつけられているけども、どっちかというと錆びついて切れないところで力任せにごしごしやられているような感じだと。なぜかと言うと具体というのは、吉原治良氏が当時の外国の美術雑誌なんかも全部見ていた非常にすぐれた批評家でもあって、その批評眼から生まれた、いわばいろんなコンクールでの優等生をあつめて作ったようなグループである。そこがちょっと頼りない点でもあるのだが。だから僕らは小原会館での東京では初めての発表を見て、ああ、ダダイズムなんかの観点を今にもってくればこういうことになるなあと思ったものの、どっからも注文されなかったから書かなかっただけのことだ」と言ったら、そうしたら、藤井雅実とかいう若い批評家がそこにいて、「随分ずけずけとおっしゃるもんですねえ」って僕に話しかけてきた。そうしたらすぐ後で、教え子でもある堀浩哉が、「針生さん、あれは誉めすぎだよ、千葉君って根からの官僚ですよ。」って(笑)言うので、このふたつもまた随分極端に違うなあと思った。千葉君はもの派を第二の土着の前衛として挙げるんだけど、千葉君の見方にはちょっと僕は疑問がある。李禹煥の理論『出会いを求めて』だと、もともとアートというのは人工の世界あるいは技術の世界、だから絵空事みたいなフィクショナルな要素がそこに入ってくるということをまったく李君は無視している。僕はもの派よりもポストもの派といわれる方が興味があるというか、もの派の受け止め方についてはまた、70年代以後に出てきた若い批評家たちの中でもいろいろともつれているから難しいんだけどね。とくに堀浩哉、彦坂などの美共闘などは全く評価が決まっていないみたいだから。
建畠:美共闘の運動は多摩美の学園紛争の中で台頭してきたわけだけども、多摩美の学園紛争では針生さんが中心的な立場にいらした。
針生:でも、僕は教師としてときどき関わって、おやおやこんなところまで行くのかと思っていたくらいのもので、わからない。美共闘っていうのはよくわからない。
加治屋:彦坂さんはバリケード封鎖している中で展覧会をやったときに針生先生がいらしたとお書きになっていたんですが、その時に美共闘の人たちの作品をご覧になったんでしょうか。
針生:もちろん、ある程度面白いと思い、ある程度評価するんだけども、本当にわからないのは、あれだけ政治的にも動いていた連中が、多摩美封鎖中に工藤哲巳を呼んでくれというから僕が声をかけて工藤哲巳にちょっと講演してもらって、美共闘の連中はみんな工藤哲巳に傾倒していたのに、堀浩哉があとで、僕がサンパウロ・ビエンナーレに工藤を出品作家として選んで、連れていくというときにタクシーに乗り込んできて、「針生さん、僕は工藤さんみたいに芸術の中に政治の問題を直接無媒介に持ち込むような作家は、反対なんですよ」というようなことを言う。それはどうしてどこから変わったのかよくわからない。
建畠:もの派にどういう影響があったのか知らないですけども、(ヨーゼフ・)ボイスがまあその前の巨人としていますからね。図式的にいうと、御三家では、東野芳明さんがジャスパー・ジョーンズで、中原佑介さんがフランク・ステラで、針生さんはボイスだというような海外との関係――個人的な関係も含めてですけど――があるというイメージを僕らは持っているんですけども、ボイスの位置づけというのはどうなんですか。運動家としてというところがあるんですか。
針生:運動家として「あらゆる人間は芸術家だ」というのは、シュルレアリスムのエリュアールなんかにもあったし、近代芸術の中にずっと含まれている。それをどういうふうにとらえるかが問題だけど。塩田千春の展覧会のときに、横浜でやったシンポジウムでしゃべり足りなかったから僕をひっぱり出してくれんかと言ってあなたに手紙を出したよね。塩田千春はドイツだから当然ボイス的なものに触れていると思うけども、近代芸術というのは大体、ものの効用や意味を抜いてオブジェという作品にする。ところがボイスのオブジェというのは違うんだな。人間の行為が今終わったばかりのようにその生々しい痕跡を残すオブジェなんだ。で、塩田千春がそのベルリンで暮らしていてどの程度そういうボイス流のオブジェ観に影響されたかというのをちょっと聞きたかったということがあるんですが、聞くまでもなく、国際美術館での発表なんかを見ても、靴とかベッドとかそういうものだし、そういう直接の痕跡、要素をかなり活かしているなと思います。そういうことですね、ボイスの一番の衝撃というのは。もう一つは、ボイスに紹介してくれたのが、当時東ドイツから西ドイツに移ってきたばかりの男だった。彼自身も人間関係について非常にざっくばらんで、誰にでも紹介してくれたんだと思うけど、ボイスの家に電話して、今ならしばらく家にいて待っているからって言っているよって言って、僕は家を訪ねたんだ。
加治屋:その方はどなたですか。
針生:ゲルハルト・リヒター。リヒターの日本での展覧会を見て、彼は東ドイツから西に来たから、リアリズムというものを、写真を通してもう一回捉えなおすというか、写真を絵画にするということに目覚めたんだろうと思っていた。それが、写真が持っているある種の仮象性、フィクション性みたいなものに対してもかなり意識しているし、それでいて、バーダー・マインホフ・グルッペっていうドイツの赤軍が警官隊に撃ち殺される場面も写真を通して作品にしている。多くのドイツ人は経済成長以後、忘れたいような事実だと思うけども、そこまで行くんだったら、広島、長崎の原爆の惨禍というものも、風化して地元の連中にはもう忘れさられたいような感じになってきているから、それをあなたの方法で取り上げてくれんかという手紙を出そうと思った。しかし考えてみたら、何もゲルハルト・リヒターに改めて頼むまでもない、日本人がそれをやるべきだと思って、手紙出さなかったんだけどね。原爆というものを直接目撃したりした人はほとんどいないんで、一瞬ピカドンという音や光とともにケロイドを浴びた亡霊のような人間がまわりでみんな死んでいくという光景だから、何て言うか、被害、加害というものがはっきりしない。それは、写真のような複製機能を借りないと十分表現できない、しかし極めて抽象的な性質を持ったものだから、そのことをリヒターを借りて、どこかで問題提起する必要はあるなあと思っています。
建畠:ボイスに戻るんですけども、その時ボイスにあって、対談をされたわけですか。
針生:ええ。
建畠:どういう内容でしょうか。
針生:いろんなことを考えていて面白いと思うけども、それはあくまで芸術家としてであって、大統領選挙に彼は立候補して、ものすごく少なかったんだ。票がね。
建畠:緑の党ですね。
針生:結局、緑の党かなんかに加わるんだけども、やはり政治的な能力というのはあんまりないんじゃないですかね。ないというか合わないというか。芸術の延長としてあくまでやっているんだという点が強いと思うね。
建畠:社会彫刻という考え方には共鳴されますか。
針生:そうですね。あれも同じようなことなんだけど、人間のあらゆる行為が社会彫刻なんだということだからね。でもとにかく、70年代くらいかな、もうどこに行ってもドイツというのは、地方による文化の分権性が非常にはっきりしているところなんだけど、ドイツ全土を通してボイスほどカリスマみたいな――カリスマって言われるのはボイスは好きじゃない。シャーマンと言われるのはいいんだそうだけど――そういう者はいなかったですよね。それで、少しさかのぼるけれども、丸山さんのことで、あれは60年代の末か70年代の初めかな、共産党が、党をあげて、新日本文学会の大会に干渉する、私物化しようとして反対する勢力があるので、党を挙げて共産党直属の大衆団体にしようというので干渉して、結局跳ね返される、で、みんな辞めたりして絶縁するということがあった。その時期ですね、だからやっぱり60年代の末か。
加治屋:新日本文学会と共産党が絶縁するというと……
針生:64年です。それが完全にはっきりするのが65年以後です。私はその時期に編集長だったんで、丸山さんに戦術指導の意味で対談したいんだがと言ったら、家へ来てくれればいいと言うから行ったんですよ。例えば、会内民主主義はどうなっているかと、丸山さんが言うから、実質民主主義が保たれているかはわからないけども、形式民主主義という点では、例えばそういう干渉があっても、即座に共産党系を排除するとかそういうことはしない。少数意見でもかなり尊重する。むしろその時議長をしていたのは、主として近代文学の平野謙とか本多秋五とかそういう人たちなんだけど、前に言ったことの繰り返しになるような議論をまたやられるんじゃ迷惑だから、それはやめてくれと。で、違う意見だったらしゃべってくれというようなことを言って、違う意見も言う。そうすると反論も出て、結局向こうが黙らざるを得ないみたいな形で少数意見も十分尊重しながらやってますよと言ったら、「それはたいしたことだ。形式民主主義が守られているということはやがて実質民主主義も実現する条件があるということだから、それは大変貴重なことですよ」というような話があった。それでともかく対談を終わって僕が失礼しようとしたら、竹内好の家がはじっこにあってこれも訪ねたことがあるんだけども、その次が丸山眞男、そしてその次が三雲祥之助と小川マリさんの夫婦。で、実はその時三雲さんは亡くなっていた。で、三雲さんの晩年に何度か私は座談会などで一緒になったもんだから、三雲さんに呼ばれて「画集を作るのに誰に序文を書いてもらったらいいか、いろいろ考えたけれども、針生さんしかいないんだ」ということで呼ばれていろんな話をしたことがあるんです。それで、三雲さんが亡くなってから、丸山さんが「今から、三雲さん亡くなったけど小川マリさんのうちあなたが来たから表敬訪問しようと思うので一緒に行ってください」と言うから、「私は今日は丸山先生のところに来たので、小川さんのところに訪ねるつもりは全くないんだが」と言った。丸山さんは、「私は三雲さんも芸術家として一定の尊敬をしているけども、小川マリさんのほうはもっと尊敬している。厳密に学問的に比較検討したことはないからわからないが、もしかしたら明治以後の最高の女性芸術家じゃないかと思っている。それで、あなたと一緒に、表敬訪問で、隣でもなかなか合えないから訪ねて、お茶を一杯ごちそうになるくらいで長居するつもりはないから行きましょう」と言うので、そんなにまで言われたら断れないから行ったんです。それで三雲さんっていうのは、何だろうね、口内破裂かなんかでフガフガって言う感じでよく聞き取れない。それを小川さんが通訳みたいにして、小川さんはほとんど、表面に立つというんじゃなくて、小川さんのほうが年上なんだけど、三雲さんを助けて通訳、介護みたいなことをしている。それで、しかも、三雲さんが亡くなったあとで、小川さんの個展が兜屋画廊であったからそれに行ったら、「90何歳になって、とにかく私の展覧会のために大勢の人が来てくれる。ずっと立って応対していてくたびれたからちょっと休んできていいですか」って言うから、「もう90歳過ぎた小川さんがここで立って迎えてくれるなんて誰も思っていないからもうお帰りになったほうがいいですよ」って言った。「そういうわけにもいきません。ちょっとだけ休んでくる」って(笑)。でちょっと休んでまた出てきた。いやあれには感心したよ。その小川、三雲の家の隣が武蔵野美術大学で、三雲さんは武蔵野美術大学に非常勤で講義に出たこともあるんだけど、小川さんは全く関係なかったのが、武蔵美の女性教師たちが呼びかけて追悼会を武蔵美でやったんですよ。それで僕もしゃべれと言うから、丸山さんの話をしたら「いやあ、今日で一番いいお話だった。丸山さんがそこまで小川さんを買っていたっていうのは誰も知らなかった。さすがですねえ」なんて言っていた。大勢の人に言われて、なるほどと思ったんですが。まあそういうことがありましたね。
加治屋:話が変わるんですが、針生先生は1966年にクレメント・グリーンバーグと対談をなさって、翌年岩波の『世界』に対談が掲載されています。この時グリーンバーグは、ちょうど現代アメリカ絵画展というのが東京国立近代美術館、京都国立近代美術館であって、それにあわせてアメリカの国務省の後援で来日したと思います。まずこの時の印象を聞かせていただきたいです。グリーンバーグに対する印象を。
針生:サルトルとボーボワールが日本に来て、日比谷の公会堂で、壇上に日本人はサルトル、ボーボワールの翻訳者、研究者などを含めて20人くらい並んで、シンポジウムがあったんです。サルトルはその時、「第二次大戦の末期に日本にアメリカが原爆を落としたのは、その後の冷戦の時代、ソビエトよりも世界支配のイニシアティヴを取るためで、だから核兵器はベトナム戦争朝鮮戦争でもつねにある種の威嚇としてはアメリカが常に秘蔵している」というようなことを言っていたと『世界』の対談で僕は言った。「それは違う」と、グリーンバーグがね。「私は、ガダルカナルで戦っていたからよくわかるんだけども、殺されても殺されても日本軍のようにあんなに立ち向かってくる軍隊というのは、我々アングロサクソンの常識から考えられない。これは本土決戦の前に日本にやはり原爆を落とすほかないと大統領及び軍が判断するのは当然だ」というような話をした。ニューディール左翼と呼ばれて、それは実際にはニューディール時代の左翼であったけど、その後マッカーシズムの時代に何もできなくて、ドゥーナッシングの世代だとも言われている――それがガダルカナルの印象を固執して、戦後のイニシアティヴを取るためじゃなくて、日本人に衝撃を与えて敗戦、戦争終末に導くためには原爆以外なかったという、これはまさにアメリカ帝国のいい加減な論理だなと思った。
加治屋:そこのところは対談に採録されていないですよね、岩波の『世界』には。
針生:そうですか。じゃ、削ったのかな。
加治屋:それに、グリーンバーグはガダルカナルには行っていないと思います。
針生:ガダルカナルに行ってない。
加治屋:行ってないです。
針生:じゃ、どこへ行ったの?
加治屋:徴兵はされるんですけど、精神的にダウンしてしまって、実戦経験はなかったようです。
針生:ふーん。日ソ文学シンポジウムで僕が日本側の基調報告をやるために、ソビエト、東欧に初めて行ったんです。それが65年のこと。その時に雑誌に書いた論文が、非常にソビエト、東欧について批判的というか、「制度となった社会主義よりも、資本主義社会の中で社会主義を求めている我々のほうがはるかに純粋だし思想が深い」というようなことを書いたものだから、当時アメリカ大使館の文化アタッシェだったニコルズという人が「いやいや、あなたの書いたものはおもしろかった。あなたのような人がアメリカへ行けばいいんだが」と言うから「私も行きたいんだ」と言った。国務省招待でしか(アメリカには)入れそうもないから、国務省招待でニコルズが呼んでくれるって言うんだけど、アメリカ大使館というのは我々が書いたものを全部ファイルしているから、下っ端が反対した。最後の最後に国務省派遣でかつて日本に来たグリーンバーグが「針生なら是非国務省招待で呼べ」という手紙を寄越してやっと実現したわけ。だから僕はニューヨークでお礼の意味もあってグリーンバーグの家を訪ねた。そうしたら、ユダヤ人マフィアの親玉みたいな感じで、ユダヤ人の美術家が引きも切らずいろいろ訪ねてきて。それにいろいろ指示をしたり世話をしたりしていて、「いや、こうはなりたくないもんだ」と僕は思った。それいっぺんだけで行かないんだけども。
加治屋:グリーンバーグが針生さんを推薦したのはどういう理由なんでしょうか。
針生:日本で社会主義や原爆のことまで話せたのは僕だけだという意味ですよ。
加治屋:先ほど、グリーンバーグのアメリカ帝国主義的な発想についておっしゃってましたが、この対談を読んで印象深かったのは、グリーンバーグはこの時まさに文化帝国主義というか、アメリカの自由や民主主義というイデオロギーを世界中に広めるという国務省の考えのもとに来たということが指摘されているんですが、これは『世界』に載ったわけですし、針生さんは左翼の批評家だし、グリーンバーグの紹介を読んでも社会派的な紹介のされ方だったということなんです。そこら辺はどういうふうに意識されたかと思っていたんですけども、やはり対談を実際にしてみて、そういった帝国主義的な側面がわかったということなんでしょうか。
針生:グリーンバーグの最初の翻訳されたのはあれなんて言ったかな、あれを読むと彼も文芸評論が先だね。藤枝君がこの対談よりずっと後でグリーンバーグを呼んでシンポジウムを開いて、グリーンバーグさんが言うのはこういうことだと解説をしたというのをどこかで読みました。だけど、藤枝君は、僕の国務省招待と前後するけどアメリカに行って、そのときにグッゲンハイム美術館でのちに館長と対立してやめた、何て言ったかな……
加治屋:エドワード・フライ。
針生:そう、フライが、「藤枝君をフォーマリズムの批評家として今育てようと思っていろいろ工作しているところだ」なんて僕に言っていた。まさにフォーマリズムなんだよね。藤枝君のは。何を求めているのかというのが彼の批評からはわからないんだけど、彼が嫌うのは美術に美術以外の要素が加わってくること。だからまさにフォーマリズムだなと思った。しかし、岡崎乾二郎なんかが『モダニズムのハードコア』で書いているように、グリーンバーグのニューディール時代の初期なんかにはもっと幅の広いものがあって、必ずしもポスト(ペインタリー)アブストラクションというかそういうフォーマリズムの風潮に染まるものではなかった。むしろあれは後から出てきたもんだと言う。そうも言えると思う。藤枝君が広めようとするグリーンバーグ像ってどうかなという感じがちょっとあるもんですからね。それと、彼はユダヤ人マフィアで、グリーンバーグはモーリス・ルイスかなんかの亡くなった後で絵の鑑定までしてそれが本当はモーリス・ルイスの作品じゃないのをこれは本物だと言って鑑定して、もう二度と批評家として立ち直ることはできないだろうというような話を、アメリカの画商筋から聞いたこともある。だから必ずしも一筋ではいかない批評家だと思いますがね。
加治屋:ルイスの死後、作品がロール状のキャンバスにたくさん描かれているのが残されて、そのキャンバスを裁断して、一つ一つ作品にしたことがあって、それが問題になったんですね。裁断する位置が書いてあるものもあったんですが、そうじゃないものについては、余白の大きさを管財人の立場として決めていたということです。
建畠:文芸から入って美術評論の方に軸足を移した評論家って多いと思うんです。瀧口さんもそういうところがあります。針生さんは、世間では、美術評論家という名前の方が定着していると思いますが、この今日のインタヴューの最初に「私はいつも文芸が中心だ」とおっしゃいましたよね。今でも文芸が中心だと。グリーンバーグの方は明らかに文芸評論家から美術評論家に切り替わっていって、ある時期から文芸評論はやっていないんですけども、針生さんは今でも非常に深く関わっていらして、ずっとお話を伺っていても必ず両方の話が並行に出てくるんですが、ご自分の中では文芸評論の方法や問題意識と美術評論の方法や問題意識っていうのはクロスオーバーしているんですか。同じところから出てきて執筆活動していらっしゃるのか、それともそれぞれ違った位置づけがご自分の中であるのか。それ以外に、演劇にも一時期興味持っていらして評論もやったとおっしゃっていました。文芸と美術だけに関わらないお話でもいいんですが。
針生:無本の本を読むというものの延長なんです。美術も演劇も。僕はかなり読むんですよね。絵なら絵、あるいはその作家の文章ももちろん。だから昔は美術の方が手間と時間がかかるという感じだった。中間点を言えば、美共闘だけじゃない全共闘のシンパあるいは元締めみたいに見られた時期がある。例えば60年安保あるいは70年のベトナム反戦運動、全共闘の頂点みたいなときには、僕は文芸評論家でも美術評論家でもなくて、政治思想を語るためにNHKとか朝日新聞とかマスメディアの第一線に引っ張り出されるということが多かった。ところが浅間山荘事件というので、あれから全共闘の転向が始まったと言われますが、マスメディアの方も、彼は全共闘寄り過ぎるというので、少なくとも政治や思想に関してはパージした。あるいは文学に関しても。だけども美術というのは、大阪の万博あたりを契機としてその頃から企業メセナ、あるいは政府の文化芸術予算みたいなものがかなりあった。美術というのは一点売れれば100万くらいの金が動いたりするので、コレクターあるいは美術館、パトロンが成立する場合に、資本や権力と無縁ではありえないわけだ。そういう社会制度にわたる面を論じるのは、僕しかいないというところがあって、僕は浅間山荘前後だってテーマを自分で限定した覚えはないんだけど、むしろマスコミによって美術批評家としてもりたてられたという実感がある。
建畠:じゃ70年代以降ですか、世間的には美術評論家と定着したのは。
針生:ええ。
建畠:そうなんですか。むしろ書く場所の問題でそうなっていったんで、針生さん自身はもしメディアがあれば他のこともなさっていた。
針生:そうそう。さっき言ったように、文学は左翼だから稿料にならない、食えないという生活問題があって、美術や演劇や映画に比重を移したということなんだけども、文学というのは言葉の芸術だから、言葉というのは分析し抽象し総合する能力は一番優れていますが、反面ごまかしが効くんだよね。ごまかしあるいは言い訳みたいなのが効く。美術というのは、この頃少し変わってきているけど、対象がものだから、感性がそのまま現れて、ごまかしがきかない。日本人の感性を変革するには美術の方が具体的で手っ取り早いかなと思うこともありました。ただ反面、作家の意識まで結局経済に振り回される。この頃、孫なんかが美術教室に習いに行って、「もっと画集だの美術の本でも読みなさい」と言われ、「そういうものなら、おじいちゃんのところに行けばいくらでもありますから」と言うと、「え? おじいちゃんは作家なの」と聞かれて、あんまり言いたくないんだけど「美術批評家なの」と言うと、「誰だ」と言うから、しょうがないから針生一郎だと言うと、「私たちが学生時代に神様みたいに思って読んでいた人よ。そういう人がおじいちゃんなら幸せだ」と言われるんだ(笑)。僕は久野収さんが田畑書店から出した『針生一郎評論』を読んで、「いやあ、何でも触れているけどもすべては序論であってつっこんでないな。だから君は序論批評家かもしれないね。もしかしたら」と言われたのを思い出した。序論批評家だから学生時代や若いときは読まれるけども、ちょっと売れ出すとフフンてなものでみんなそっぽを向いちゃう。
建畠:いや、そんなことないですよ。それはない。
加治屋:ないと思います。
建畠:今でも、他のジャンルにもご関心があるというのはよく分かるんですけども、先ほどお話ししたボイスとか、クロスオーバーというかジャンル特定的でない活動をしている人がいますよね。たぶん針生さんにとっては、文学なら文学、音楽なら音楽、美術なら美術っていうんじゃなくて、批評活動においてもクロスオーバーするというかジャンルが特定的でないということをどこかで意識されているのかなあと思うんですよ。
針生:うん。さっき言ったように、昔は美術の方が手間と時間がかかると思っていたのが、今は文学の方が時間がかかる。なぜかと言うと、例えば私は今、中野重治の会の代表なんだ。それから野間宏の会の幹事でもある。中野重治の会というのは、彼の生まれ故郷である福井県の丸岡町の隣の町で、僕は金津創作の森というのの館長をしてるんだけども、丸岡町で毎年8月にくちなし忌という中野重治を偲ぶ会があって、そこによく行くんです。その前に金津創作の森で、環境アートコンペというのがあって、それは僕は館長として若手の審査員を4人ばかり委嘱して、そのお膳立てと始まり終わりに立ち会うために出るんだけども、しょっちゅう煙草吸いに廊下に出るもんだから、ずいぶん煙草を吸われるんですねってその審査員の一人に言われたんだけども、本当はそうじゃないんだ。つまり館長には投票権も決定権もない。で、立ち会っていると毒舌批評家だからこんなものどこがいいんだと言いたいようなものばかりなんだけど、そう言ってはぶち壊しだから煙草吸いにと言って廊下に出ているだけなんです(笑)。つまり美術の方が、オブラートをかけるところがどうしても出てくる。文学じゃオブラートかけたんじゃ評論にならない。だから中野重治についてだって僕はかなり深刻なことを言わざるを得ないんです。つまり一人の文学者としてはかなり尊敬し今でも再評価しなきゃいかんと思っているけども、共産党中央委員という立場を兼ねての発言にはいつも反発していたし、そういうのが関わってくること自体がおかしいと思っていた。そういう違いがありますね。文学と美術だとね。
加治屋:多ジャンルにわたるクロスオーバー的な活動でいうと、時代的に少し戻りますが、鶴見俊輔さんたちが『思想の科学』という雑誌をやっていて、そこで様々なジャンル、そして大衆文化についても随分議論が進んだと思うんですが、それについてお考えをお聞かせいただければと思います。それから、針生先生は大岡昇平と大衆文化論について論争なさっていて、大岡昇平が大衆文学を批判したときに、そうではないんだというようなことをおっしゃっていました。鶴見さんたちが、小説や流行歌の分析をしていたと思うんですけど、そういったことについてもお考えをお聞かせ願えればと思います。
針生:大岡さんとの論争の中で、なるほどこれが美術と違うなと思うのは、文学というのは原稿料というものが一応確立している。それで売れるか売れないかというのはかなりの程度その出版社の宣伝力というよりも中身の魅力によるところがあって、それが批評の如何に関わらず作家の自立性を保証していますね。美術はそうはいかないんだな。例えば台湾で国際美術批評家会議があって、僕は日本の美術評論家連盟の会長だったから、来い来いって言うんで行ったんだけど、そこでオーストリアの批評家が「何のために美術批評をやっているかというと、美術市場にドミナントな潮流を作るためだ」と言ったんですよ。ところがアジアにはそんな美術市場というものが明確にあるかどうかわからない。日本は美術市場が一応あるとは言えるけれども、何回かのバブルで崩壊しちゃって、実際にはもうないというか、老舗の銀座辺りの画廊が画商同士の交換会で手持ちの物故作家の作品を交換してやっと商売を維持しているみたいなところですから、このドミナントな潮流を美術市場に作るというふうに明確に言えるアジアアフリカの批評家っていうのはないと思う。だからそういう意味でアジア、少なくともアジアのセクションっていうのは別の会場を作って、そういう問題、必ずしもそれは遅れているんじゃなく、独自な道を探求しつつあるんだということを自覚する必要があるんじゃないかと思ったんです。市場との関わりという点では、さっきの延長だけども、中原佑介というのは、現代美術という観念と具体的な作品や作家との距離だけを論じていて、その作家、作品に彼自身がコミットするかどうかさっぱりわからない。そういう不満を直接彼に言ったことがあります。反面、東野芳明あるいは古手の批評家はみんなそうで、それから千葉君、峯村君、たにあらたもそうだけど、70年代以後の美術批評家は、たにあらたはちょっと違うかな、僕の眼から見ると相撲の何々部屋みたいな部屋を抱えて、自分の弟子や友人たちをその部屋に抱えこんでそれだけを誉めるみたいなところがある。中原というのは僕と考えは違うところはあっても、そういう部屋を作らない点で、一種の同志と言えるなあと思っているんですよ。
建畠:東野さんについてもう少し伺えるでしょうか。
針生:東野はやっぱり自分の部屋を抱えていた。
建畠:抱えていましたよね。
針生:そこをはみ出さないというか。これは『我が愛憎の画家』という本のあとがきに書いたけど、東野が僕の批評について、「あれも駄目これも駄目俺は待ってるぜ」という批評だと言うから、それじゃ君の批評は、「酔わせてよやらせてよいいじゃないの」という批評だと言ってやった(笑)。混ぜ返して。
建畠:針生さん、少なくとも一時期は、椹木野衣さんを非常に高く評価されてますよね。
針生:ええ。よくわからないんだな。椹木野衣というのは。
建畠:『日本・現代・美術』でしたっけ、僕も非常におもしろい本だと思いましたけど。
針生:あれはいいと思いましたけどね。国際美術館で言ったけども、『万博と戦争』という本、調べ魔だから何も言わなくていいと思ったけども、あれでの僕の扱い方って非常に不満です。大阪の大手前公園で反博というのをベ平連が中心になってやった時に、僕はあれこそカウンターカルチャーというものの起点だと思った。カウンターカルチャーというのは60年代ベトナム反戦運動の中でアメリカの学生、若者に出てきたもので、商品化されているものはもう駄目で、商品化以前の生活、自然を直接表現とするという運動ですから、なかなか日本に定着しにくいんだけども、大阪万博での反博をそれの起点としようという考えがあった。ところが僕も発起人なんだけど、発起人の会議があらかじめ開かれたわけではない。それであそこに行ったら中国物産展みたいなものもあったりして、いろいろ文句が若者たちから出て、吉川勇一に「一体この反博はどういうイデーで始めたんだ」と言ったら、「反戦反体制の万博だ」と言う。それじゃあ資本から言っても規模からいっても大阪万博にかなうわけがない。だからカウンターカルチャーの起点としてこれを捉え直せ、例えば、ポスターというものが時代遅れだという説は前からあるわけで、じゃあ口コミなり何なりで、あるいはただのチラシ、ビラなどでもいいんだけど、どう宣伝するか、それから「今日のティーチイン」でも少数派の意見でも重要なものは必ずそこに立ち返って議論するとか、そういう運動のやり方自体を課題にするような運動が必要なんだと僕は言った。特にシュプレヒコールっていうのはシュプレヒコールだから、ドイツから日本に輸入されたようなものなんだろうけども、長崎に呼ばれて講演をしたとき――長崎の前の本島市長は、天皇にも戦争責任があると言って、右翼の襲撃を受けたわけだけど――その講演が終わったら長崎でデモをやった。市庁舎の前に行って、「右翼の暴力を許さないぞー」ってシュプレヒコールをやるんだけど、こんなむなしいことはない。許さないと言ってもすでに起こっちゃった(笑)。それを許さないぞーって(笑)。そのシュプレヒコールというもののあり方をもっと考え直す。例えば歌垣みたいな伝統が日本にあるとすると、みんなが歌を歌って、ひとりが言うことをみんなで反復するというのじゃなくて、歌の掛け合いみたいなものがある。これは能力がもっと高度でないといけないけれども、そういうこと自体を討論のテーマにすべきだって言ったんですが、なかなか難しい。70年頃、ベルンの美術館長だったハラルド・ゼーマン(Harald Szeemann)というのが、「態度が作品になるとき」(When Attitudes Become Form)という非常に変わった題の展覧会をベルンでやったんですよ。ボイスもフラナガン(Barry Flanagan)もマリオ・メルツ(Mario Merz)も含めて、のちにインスタレーションといわれるようなものを先取りしたとも言えるけども、もっと幅広く、それで前衛という観念が国際的に終わりつつあると言われたその時期に、もの派よりももっと広くそれを捉え直す、インスタレーションを中心として捉え直して、前衛の概念を立て直そうという試みだと思う。僕は実際に会場を見たわけじゃなくて、カタログを見ただけなんだけど大変おもしろかった。そうしたら、ゼーマンが72年のドクメンタのコミッショナーになった。国際展というものは、中原佑介がやった70年の東京ビエンナーレもそうだけども、全体に50人くらいに絞って、全作家を招待してそこの会場で作品を作らせるというふうにやることが成功の秘訣だと思うんだよね。ところが、ゼーマンがやったドクメンタは会場が広いもんだから、コンセプチュアル・アートとハプニングという二つの源流から出てきたものが今日の貪欲な大衆文化に飲み込まれて通俗化すれすれになる瀬戸際ばかりを200点くらい集めた。例えば主会場のフリデリチアウム(Fridericianum)美術館の屋根にアメリカのジェームス・リー・バイヤース(James Lee Byars)という戦後すぐ京都に住んでいた男が上がって、真っ赤なターバンと真っ赤な服で、ハンドマイクでエウとかアウとか、要するに意味のないことをずっと叫び続けている。それからフリデリチアウムの玄関を入って突き当たりにはボイスがいて、これがドイツの政党、東ドイツとの関係、女性解放の問題、芸術の問題ありとあらゆる問題について、朝10時から夜の10時までかな、とにかくありとあらゆる質問に答えて討論をずっとしている。で、その隣の部屋にはフランスのハプナー、ベン・ヴォーチェ(Ben Vautier)というのが大きなベッドに寝ていて、トイレに行く以外何もしないでそこにずっと寝ているという。会場全体がゲテモノの巣窟みたいな感じで、会場警備のアルバイト学生たちが、プラカードを掲げてデモをしているんだけど、「あらゆるものが芸術ならば我々の労働だって芸術だ。もっと賃上げしろ」(笑)ってプラカードを掲げている。この展覧会の会期の後にゼーマンはカッセル市とヘッセン州からゲテモノキワモノばかりを集めて大赤字を出したというので告訴される。ところがそれでベルン美術館長をやめちゃって、その退職金を全部赤字の穴埋めに提供したんで、原告は告訴を取り下げたんだな。ただ、そのために長年連れ添った奥さんからゼーマンは愛想づかしをされて、新しい恋人の画家の女性とスイスでも東南端のマジョーレ湖北岸に住み着くんですよ。初めからそれが狙いだったのかわからないけども、このマジョーレ湖北岸にモンテ・ヴェリタ真実の山という、山といっても海抜150メートルくらいの丘ですけどね、そこに住み着く。19世紀の半ばくらいに資本主義が爛熟すると芸術も商品化してそして金の支配する世の中になるというので、ゴーギャンがタヒチに行ったり、ランボーがアジア航路の船乗りになったり、コンラッドもイギリスの国籍をとったり、そういうのと並行してヨーロッパの中の辺境みたいなところ、しかも、南方の暖かい、かなり地中海に近いそこに住み着いて、自然と素朴な生活を芸術化するというカウンターカルチャーの巨大なコロニーを作るんです。私は、今日の前衛というものがもし国際的に終わったにしても、20世紀の初めから第二次大戦後まで続くこのスイス東南端のコロニーの意味は消えない。だからその源流から見ると、ダダイズム以後の前衛というのは決して滅びても古びてもいないなあというふうに思って、今はそれを単行本に書こうというので口述を週1回やっているんです。今は大体そういうところから前衛の問題を見直すふうに考えている。もう一つは、19世紀にヨーロッパの大都市が成立する。巨大な工場のスラム街というものができて、大都会が成立するんだけども、それが、アル中、薬の中毒、結核、そういう病気の巣窟なんだ、このスラムが。19世紀後半になると、気候のいいところにサナトリウム、大気浴や日光浴のヒュッテ、山小屋、あるいは集団居住地というものを作ろうという動きが非常に盛んになって、若者たちのワンダーフォーゲル、渡り鳥という意味だけど、野外を歌を歌いながら歩こうというのもその一環なんですね。こんなに19世紀文明というものが病に冒されているということを僕は知らなかったんですね。だからみんな田園に逃れて、田園都市みたいな運動が起こるわけですね。今はそこから見直そうという関心が私には一番強い。そして、そういうカウンターカルチャーみたいなところまでは日本ではあまり紹介されたことがないからね。文化っていうのは、爛熟するとある種の反文化からしか出発できない。そういうものも考えるべき段階なのだというふうに思います。
建畠:ゼーマンのコロニーというのは、どういう期待を抱かせるようなものなんですか。
針生:うまくいったかどうかはわからんけど、かなり続いていますよね。
建畠:針生さんが口述筆記されているというのは本になるんですか。
針生:うん。本にしようと思っている。
加治屋:それは楽しみですね。
針生:例えば、アルプは、アルザス・ロレーヌ地方のフランス人であり、ハンス・リヒターはベルリン生まれのダダイストですけども、そういうのがみんなあの辺の、直接コロニーとは関係ないんだけれども、あの辺に住み着くんですよね。僕が知っている第二次大戦のかなりあとでもそこに住んでいて、そこで亡くなりますからね。ちょっと独特なところである。
建畠:前に『芸術新潮』の編集部にいたときに、針生さんからドイツ語の本を見せられたことあったんですが、それはそこの話ですか。
針生:そうだろうね。
建畠:30年か20年くらい前ですけど。
針生:ゼーマンにも何度か会ったが、亡くなっちゃったんだ、僕より若くして。このコロニーについては和光大学で講義したこともあって、ところが登場人物がそれほど日本になじみがないもんだから、はじめ150人くらいの受講票が出ていたのが、終り頃5人くらいになっちゃった(笑)。これは駄目だと。語り口をよっぽど考えなくちゃと思った。
建畠:出席をとらないとそんなもんですよ(笑)。針生さん、ゼーマンと重なるところがありますよね、雰囲気とかイデオロギー的なところとか。
針生:ゼーマンって面白い男だったね。