鈴木慶則 オーラル・ヒストリー

2010年9月19日

静岡市、鈴木慶則自宅アトリエにて
インタヴュアー:本阿弥清・加治屋健司
書き起こし:本阿弥清
公開日:2010年12月31日

本阿弥:鈴木先生は、昭和何年何月何日生まれか聞かせてください。

鈴木:昭和11年1月13日生まれです。ちょうど、二二六事件があった年です。

本阿弥:多摩美術大学出身ということですが、美術を志した理由を聞かせてください。

鈴木:僕は、腺病質でね。小さい時から体が弱かったんですよ。それで、敗戦時に親父が結核で死んだんです。それがうつっちゃって、小学校を一年間休んでいるんです。それで微熱が一年間続いて髪の毛も抜けちゃって骸骨のようにやせちゃって。友達もいなくて、非常に孤独な子供だったんですね。それで、自分ひとりでできる遊びということで、クレヨン画を描くのが大好きで、それが高じて、高校で美術部に入って、そして、福島繁太郎さんの『エコール・ド・パリ』――画集ですね、真っ白い厚い本――を図書館で発見して、狂っちゃったんですね。
朝、学校に行って、まっすぐに入るのが美術室。欠席も出席も取る前。ホームルームにも行かないんですね。それを続けて学校に叱られた。体育の授業もサボり、みんなが一所懸命にやっている横をイーゼルを抱えて通って、典型的な「変わり者」で。「あいつは腺病質なだけだ」という感じでしたね。
その時に、同級生だったのが建築家の伊丹潤さんです。伊丹さんは、当時、龍(りゅう)君と言われていましたね。まだ差別が残っていた時代で、伊丹さんも非常に苦労されていた。二人は友達になりましたね。伊丹さんは油絵を描いていました。真っ赤な抽象画を。二人で絵を持ち寄って、ああだこうだといって。交流は今でも続いています。

本阿弥:大学では油絵専攻ということですが、教わったのは大沢昌助先生ですか、それとも別の先生ですか。

鈴木:三人いらっしゃったですね。主には、川端実先生。それから末松正樹先生。それから大沢昌助先生。この三人の先生方に教わりました。一番、お世話になったのが末松先生ですね。この方は、フランスに滞在していて、第二次大戦が始まった頃は、まだフランスのパリにいたんです。ドイツ軍が進駐してきて捕まっちゃったんです。自由人だということで、インテリ自由人らはみんな捕まったんですね。そして収容所に入れられて。ユダヤ人ほどはひどい扱いはされなかったんでしょうが、しばらく収容所に入れられて苦労されたんです。その時の体験が身に沁みていて、非常に温厚な方で、学生の面倒もよく見てくれましたね。個人的にも非常によく付き合ってくれましたね。
先生は人徳で、当時、多摩美大の学園闘争――全学連の――があって、学長代行にされちゃったんですよ。学長が逃げちゃったから。学長がいなくては困るということで、その代わりに据え置かれてしまった。そうすると、下からあおられ、学生からぶん殴られ、行き場所がなくなった。当時、僕らが安保闘争などで国会に行くと先生がおられましてね。「ここは先生のような人が来る場所ではない。先生、帰りましょう」と。先生は「学校に行っても行くところがなくて、しかたなくここにいるんだけれど」というような、そんなお付き合いをしましたね。アトリエを訪問し合ったりした。フランス映画の題名をつけたり、翻訳をしたり、非常にインテリ文化人でしたね。
川端実先生は、渡米する直前でした。一番、張り切っていた時期でしたね。だから怖かったです。そして、5、6年前に川端実展を東京画廊でやったんですよ。「あっ、先生の展覧会だ」と思って見に行きましたよ。そして、東京画廊の人に「先生にお会いしたいんですけれど」と言うと、「話しかけても無駄。レコードになっちゃった」と。ひとつ聞くと、同じことを10回20回繰り返しているからね。「だまってお会いして帰られたほうがよろしいんじゃないですか」。そういうことがありましたね。
大沢先生は、非常に絵が売れていた時期でした。当時、10号が100万円。そういう時代で、田園調布にお住まいでした。大きな家に住んでいて、僕たちが学校の帰りに寄るとね。「おうっ」なんて、悠々たるものでね。こんな刷毛でチャッチャッと描いちゃうわけ。人物をね。サンパウロ・ビエンナーレに招待されると抽象になっちゃうんです(注:1965年の第8回サンパウロ・ビエンナーレに参加)。女性像が消えちゃうんです。非常に、良いも悪いも臨機応変でしたね。そんな思い出があります。
それから、文化祭では、美術評論家の今泉篤男と岡本太郎の二人が必ず来たので、長時間話を聞きました。岡本さんは学校のすぐそばに住んでいました。そして、先ず先に登場するのが岡本さん。今泉さんのほうが偉い。岡本さんの言うことは、今泉さんの悪口。「俺の次に出てくる大馬鹿者は、今泉という男である」という語り口で始まるわけですよ。
私の場合は、関根伸夫さんと斉藤義重先生の関係のように濃密な影響を受けて作家として育つということではなくてね。非常に、普通の先生と生徒という関係で学生時代は過ごしてきました。

本阿弥:当時、身近な仲間とか先輩後輩とかで印象に残っている人はいますか。

鈴木:同級生に『太陽』の編集長になったのがいますよ。木幡(朋介)君。それから、『新建築』の編集長になった本田(一勇喜)君。同級生です。ある時、銀座を歩いていたら、5、6人スタッフをつれて、デカいカメラで写真を撮っていましたよ。3人目、真鍋博は先輩。これが絵が上手くてね。ものすごく油絵がうまかった。細い線でね。そして世渡りもうまかった。宮本三郎先生の教室。宮本さんは戦争の後、二紀会に復帰したばかりで、そして取り入れば、即、二紀の会員ですよ。当時、公募展というのは、非常に権威があった。ある意味でね。
大方の批評家は見に行くんですよ。そして、『美術批評』という難しい雑誌が出ていて、それに批評が載るわけです。「今年の独立展は」とかね。考えられないほど。それで真鍋さんは、一躍、注目されたんですね。そして、後には推理作家の星新一先生とコンビを組んでいましたね。そんな方くらいかな。

加治屋:最初に名前が出た木幡さんというのは、同級生で絵を描かれていたのですか。

鈴木:木幡朋介さんと言います。新制作でね。中原佑介先生に絶賛された人です。長く『太陽』の編集長をやっていましたね。彼は、島根県の陣屋の息子ですよ。大名の泊まる旅館だからね。総体的には、当時はオム・テモワンの時代でしたね。社会の脈絡で社会主義的な匂いがする。戦後まもなくの時代だしね。
サルトルの時代で、サルトルが初来日した時期ですね。新聞に大きく出ていましたよ。そして、サルトルを日本人として一番研究していたのが、多田道太郎ですね。翻訳はするし紹介はするしサルトル論も書くし、フランスのパリにいるサルトルが「多田という男は誰だ」と。「日本人らしいけど、こんなに深く研究しているとは」ということで、空港からサルトルが(多田の)家に直行して対談をしたそうです。
サルトルは、どの本屋さんに行ってもちょっと大きいとサルトルコーナーというのがあってね。そして、哲学者としても読みやすいですね。半分ドラマ、小説のようでね。『嘔吐』などは非常に、ロカンタンの生きざまと自分の生きざまを重ねたりしてね。青年がデートに行くのに、当時はサルトルを忍ばせて行くんです。他の男たちと違うことを見せ付けるんです(笑)。
絵描きでは、フランスのオム・テモワンでは、アンドレ・ミノー、ベルナール・ビュフェ、ベルナール・ロルジュの三人組です。ビュフェがクリティック賞をもらった直後ですね。当時は、『美術手帖』も『みづゑ』もオム・テモワン一色でした。カラーページは。

本阿弥:先生が大学を卒業したのは、1958年でよろしいんでしょうか。それから、石子(順造)さんが鈴与倉庫に勤務したのが1956年のことと言われています。そして、鈴木さんが1957年の4年生の夏に初めて石子さんと出会ったと言われていますが、間違いありませんか。

鈴木:間違いないね。どうして石子さんと出会ったのかと言うと、私の兄嫁の妹の雪江さんが、鈴与で石子さんの部下だったんです。その雪江さんが、石子さんに「実は家に多摩美大で下手な絵を描いている義理の弟がいるけども会いませんか」ということになって、石子さんと初めて会いました。
今、一番、忘れられないのは、五味川純平の映画(『人間の条件』)の批判ですね。評判は非常に良くて、誰一人、批判めいたことを言わなかった映画です。石子さんが一人「あの映画は、あんまり良くない映画だ」と。「主人公の梶上等兵を英雄にしている。戦争に英雄というのはいないんじゃないか」と、石子さんはおっしゃいましたね。非常に高度な批判精神だと思うんです。これは、後年、『ガロ』の「カムイ伝」で正助という主人公が、最後は英雄でしょう。死に様がね。農民の代表として舌を抜かれて死んでいくわけです。正助も英雄にしちゃった。「名作がああいう結末では寂しい」と、後年はおっしゃいました。見方は通じていたのではないでしょうか。
石子さんは、映画に限らず各ジャンル全てに興味があったんです。石子さんの仲間の松本俊夫さんは、当時、演劇も作っていました。『此処か彼方処かはたまた何処か』という(注:1968年上演)。確か草月会館でしたね。そして一番凝っていたのが舞台のセット。外のファサード、正面と同じ壁を、劇場の中に作ったんですよ。切符売り場もそっくり。いよいよ劇が始まると、見物人にサクラが混じっているんです。「松本、ぶっ殺せ」とか「こんな劇やめろ」とか言って舞台に飛び上がっていく。そのサクラが僕の隣に座ったんですよ(笑)。僕は素朴だからいっしょに舞台に上ろうと思ったんです。
松本さんは、東大に入ったのは医学部です。そして、絵が描きたくて映画を作りたくて東大美術史科に入るんですね。転科しているんです。石子さんもそう。経済で、これは面白くないということで、文化系がやりたくて美術史科に入った。研究室に松本さんがいたんですね。その時からライバルになったんです。

加治屋:劇を見たのは学生時代ですか。

鈴木:卒業後ですね。「幻触」(注:1966年に静岡で結成された美術家の集団。飯田昭二、丹羽勝次、前田守一、鈴木慶則、小池一誠など。71年頃まで活動)も含めて、僕たちが前衛という概念に染め上げられていくのは、前衛音楽の刀根(康尚)さん。あの方が石子さんの親友だったんです。それで、「50AF展」(1967年12月)に仲間として加わってくれるわけ。石子さんの友人として。それで、ジョン・ケージの話を毎晩してくれる。学校では習わなかったことです。田舎者の三流芸術家の私たちは勉強になったんですよ。
ある時「鈴木、俺と組もう」と刀根さんに言ってもらった。こちらはジョン・ケージも知らないじゃないですか。「何をやるんですか」と言うと、「俺の言うことを聞け」ということで、「先ずは通りの角に写真屋があるからスライドを買ってきてくれ」と、外国人用の舞妓とか金閣寺とか。嬉しいもんだから走って行って買ってきました。セロハンを会場の真中に貼った。一面に貼ってありました。鉛筆でもって四角を描くんです。そして「君は四角をカッターで切ってくれ」と。それを僕がやった。「これで、だいたい君のやることは終わったよ」と。本当の上映作品は、その場で両方に観客を分けて、真中のスクリーンに向かって、プロジェクターで同時に投射して、タッタ、タッタといくのが作品だった。カタログにもちゃんと僕の名前は載っていた。刀根康尚と鈴木慶則と2人同時に載せてくれたよ。スライドを買いに行っただけでね。(尾野正晴の「「幻触1968年」展報告」(『静岡文化芸術大学紀要』3(2002年))の年表を見ながら)この展覧会は、ギャラリー新宿ではないと思うよ。当時のルナミ画廊だと思ったな。しかし、場所については記憶間違いかもしない(注:実際は、ギャラリー新宿で1967年12月に開かれた)。とにかく、そういうことをやっていたんだ。刀根さんは、フルクサスのメンバーだよね。

本阿弥:鈴木先生は、大学卒業後に中学校の美術教師になっていますが、その経緯、そして何年ぐらいお勤めになったのでしょうか。

鈴木:僕は、お金のない家でね。没落しちゃって。不在地主。マッカーサーの法令で、土地を全部取られちゃったんだ。広い土地をね。藤枝から夜逃げして清水に来たんです。お金がないでしょう。美術大学に行くにはお金がいると。長兄と次兄が、給料の半分ずつを出してくれて送ってくれていました。そして、やっと少しずつ食べていたんです。東京には残れないじゃないですか。すぐに帰らないと。「また給料を半分よこせ。送ってくれ」とは言えない。それで、すぐに田舎に帰らなくてはならない。もうこれ以上、兄たちに迷惑をかけなれない立場だったんですね。それで、清水市立第一中学校に美術教師として奉職したんです。それも6年間やりました。その頃は、今のように管理体制が非常に厳しくなくて、教室をアトリエにしちゃったりね。それから、授業を抜け出して、そこで絵を描いたりした。非常に自由な雰囲気でしたよ。学校自体がね。昼間から飲んじゃったり、冬なんか達磨ストーブでスルメを焼いたりね。そういう職場だったの。だからあまり管理されて苦しんだとか、絵が描けなくて苦しんだりという体験はあんまり。それは確かにあったんですが、普通のサラリーマンが感じているほどはなかったでしょうね。それで6年間なんとか我慢できて奉職しましたね。
次は長い。クリスチャンの静岡雙葉学園に13年間。非常勤としてね。そこは非常に良かったね。授業のある時に行けばいいのでね。休みも多い。ボーナスも出る。非常勤で10万円。グループ白の大沢富子さんの紹介ですよ。彼女が先生をやっていたんですよ。彼女が「私、カナダに行くから、代わりにやってくれない」ということで入ったんです。

本阿弥:先生は、1963年に読売アンデパンダン展に、64年に「アンデパンダン64展」に出品されていますが、どんな作品でしたか。初期の頃は、どのようなところに作品を出品されていたのですか。

鈴木:公募展に出していたのは、多摩美大の4年の頃からです。独立展ですね。ある時は、独立が針生(一郎)さん、新制作は中原さんなど、そうそうたるメンバーが順番に見に来て、(展評を)『美術批評』に載せていた時代です。そして、針生さんが見に行った。そして絶賛。「地獄絵みたいなのがあった。地獄草子に影響されたものだ」と書かれたんです。それが、一番最初の審査がある展覧会でしたね。その後、独立は落選したのでやめちゃった。一度、落選するといやになってね。その後、アンパンでしょう。アンパンに出した作品は、真っ赤に塗った絵を紐で縛ってね。鎖でがんじがらめにしてね。「絵画の管理」ということで出したものですね。
石子さんは、当時、まだ鈴与のサラリーマンでしたから、会社の帰りに必ず僕のアトリエに寄ったんです。疲れきった顔をしてね。そして、僕のベッドに潜り込むんです。そして、『フェニックス』(注:石子順造が編集・発行していた雑誌。1960年6月発行の1号には石子、伊藤隆史、鈴木慶則の名前があり、1961年1月発行の2号には石子と鈴木の名前がある)に描く画面のアイデアを言うわけ。「コラージュにこういう方法がある」とか、「リボン屋は清水にもあるのか」とか。「君、キャベツ畑は何とかならないか」とか。変なことを言うわけ。『フェニックス』は全部、石子さんのお話を絵にしたんですよ。(『フェニックス』2号を見ながら)これはド・ゴール。『アルジェの戦い』という映画を観た直後です。アルジェの戦いのドキュメンタリー映画がありました。(それを観た)石子さんは興奮して「あの映画を絵にできないか」と。

加治屋:『フェニックス』の挿絵を描かれていたのが鈴木さんですね。

鈴木:当時、『フェニックス』の書評が『日本読書新聞』に大きく採り上げられました。当時から石子さんは、美術としての単独ジャンルとしての追求よりも、「美術と何」という複合思考の強い方だったですね。

加治屋:『フェニックス』の創刊号と2号の両方に描かれたのですか。

本阿弥:1号のほうは伊藤隆史も入って3人ですね。2号のときは(石子さんと鈴木さんの)2人です。

鈴木:1号、2号とは別に、隠れた3号もあるんですよ。それは映画のシナリオです。アニメのシナリオ。それをひと月ぐらいかな、石子さんは一生懸命に毎日しゃべって帰っていったよ。《ザ・ペーパーマン》という作品で、僕が絵にしたもので、燃しちゃったので、今はないよ。200枚ぐらい。安部公房の真似のようで、燃しちゃった。東西モグラ軍というのがいてね。富士山麓の米軍基地にもぐって行って、ミサイルを食べちゃうというお話。

本阿弥:最近、ある方から、石子さんが『フェニックス』を出す前の年に、『記録映画』という雑誌に石子順造の名前で執筆していると聞いていますが、ご存知ですか。

鈴木:ありましたね。デビュー作か分からないけど、松本さんが編集にいたからね。それは当然あることだね。石子さんは、松本さんとは終生のライバルです。学校がいっしょで、美術史科もいっしょで。ああいう古い学閥の中で、二人は仲良くなっちゃったんです。その前、終戦直前には、東野(芳明)さんも東大にいたらしいです(注:東野が旧制第一高等学校に入学したのは1947年)。そして、東野さんは、戦争末期に(学徒動員で)日劇のホールで風船爆弾を作っていたみたいです。戦果はあったみたいで、東野さんが作ったものかどうか知らないけど、カルフォルニアかどこかに落ちて樹木を二、三本焼いたとか。

加治屋:1963年の読売アンデパンダン展が最後の年ですが、当時のアンパンに出品した作品がどんどん過激になって、東京都美術館や読売新聞社が手におえなくなって中止になったとよく言われています。東京オリンピックが64年で、アンパンの中止が64年1月に急に発表されたのですが、近年では、オリンピックの開催を目前にして、締め付けというか、管理社会の進行というのが進んだなかで中止になったんではないかという意見も出ています。そのへんはどう思われますか。

鈴木:まったく無関係とは言い切れないと思いますね。特に、各国、日本に限らず、オリンピック開催年は、大変な粛正が行われるんです。文化面でも都市計画面でも。都市美化が徹底的に行われる。東京もそうではなかったんでしょうか。
作家自身が自爆したんだという意見が大勢だったです。ゴミを出して潰れない展覧会はなかなかないです。篠原有司男さんの最後の作品は「こうなったら、やけくそだ!」ということで、ゴミを置いてきたんです。これは自爆ですよ。近年、また東京でオリンピックという話もあるでしょう。とんでもないことですよ。
僕は、後年、旅行をして、バルセロナ・オリンピックの直前に、バルセロナに行っているんです。20日ぐらい。そうしたら例えばですよ、汚い話ですが、淫売街の看板を覆っちゃう。見えなくしちゃう。モンジュイックの丘の工事を非常に早めに終える。何故かというと人間の骨が出でくる。共和国軍とフランコ将軍の最後の激戦地ですね。共和国軍が全滅した丘なんでしょう。それを掘ったらたまらんのですね。そういう工事はスパッとやめる。万博も同じでね。国家行事というのは、恥部はないですね。恥部は消していくわけですよね。

加治屋:「アンデパンダン64」展は針生さんが企画されたものですよね。このときはどういう作品をお出しになったのでしょうか。

鈴木:これは、おとなしいペン画だったな。ケント紙大判四枚綴りの画面に、《会社》という名前で、ボンドをペインティングナイフでキュッキュッとまぜて、椅子を背骨のように繋げるんですよ。上から下までそれをやっておいて、頂上に椅子を描いて、下部にジャングルを描いた。一種の自虐画というか、サラリーマンの体験を描いたつもりなんです。つもりだけですけどね。
当時、中村宏さんが、「前衛」というグループを作っていた。中村さんの若いときのもので、前衛的なこともやったんですよ。オリンピックが開かれた時に銀座通りで、こんな大きなドーナツ。特注で作って高かったらしい。それを5つ繋げて、揚げる前からね。焼きあがった時には繋がっているんですよ。銀座通りの人通りの激しいところで長い机を並べて、タイガー立石と2人で食べたわけですね(注:実際は駒沢オリンピック公園)。
ハイレッドセンターは掃除をやったんですね。そして、パトカーが来てさ、「ごくろうさんです。がんばってください」と。そういう頃ですよ。それは分かるんだよ。前衛の意味が。必然的に。中村さんは、凝りに凝って「前衛」というグループを作っちゃったんだ。そして、僕も仲間に入りました。名前がかっこいいから。田舎にいたからね。会合をやっていました。大勢いました。東京都美術館近くの料理屋です。そこに棒立ちとなって中村さんが演説をぶっていた。「今度の展覧会は、みんなの作品を燃やす」と言うんだよね。燃やす前に塔を作って、それに吊るして火を付ける、と。入江(比呂)さんという彫刻家が、「おい中村、お前が演説をしているけど、静岡から来ている新人もいるじゃないか。話させろ。お前がひとりでやることじゃない。ところで俺のような彫刻はどうやって燃やすんだ」と。考えは面白い。「東京芸術柱展」と名前を付けた。

加治屋:それは、四角柱に絵を貼っているんですか。最後には燃やしたんですか。

鈴木:そうそう。てっぺんまで貼って火を付ける。燃やす直前に「これはちょっとやばいよ」ということになった。消防庁に報告に行ったんですよ。そうしたら「だめっ!」ということで中止になった。
その次の年は「齣(コマ)展」ね。何をやるのかなと思ったら、お祭りの時の出店なのね。お好み焼き屋とか。あれを絵画とか彫刻でやる。その一つ一つがコマであり、そこで各自個展を開こうという。中村宏さんの独壇場でした。非難されましたよ、「人をコマ扱いする」と言って。それでもへこたれない。そして100号くらいの絵を持って、東京駅を端から端まで歩くわけね。「俺の個展だ」と言ってね。しかし、今「前衛」という言葉を一番嫌っているのは中村さんですよ。

本阿弥:石子さんが音頭をとって、「グループ白」を前田守一さんや鈴木慶則さん、大沢富子さんたちが作っています。その頃のことを聞かせてください。

鈴木:石子さんと池田龍雄さんとの濃密な交友関係ですね。「たっちゃん」と言っていましたよ。「たっちゃん、たっちゃん」とね。毎日電話をして、芸術論を戦わせていました。その頃、池田龍雄論を書いていました。自分としては自信を持ったでしょうね。池田さんに速達で送ったわけ。返事が無い。非常に落胆していた。その当時、池田さんはスターだったからね。「一介のサラリーマンから、芸術論を挑まれてもね」という気持ちもあったでしょうね。
それで、しかたなく石子さんは池田さんを罠に賭けたわけね。池田さんのことを非常に批判しだした。「外部との接触を失った外部至上主義はゴミだ」とかね。そういう言いがかりで挑発したんですね。そして、「最後になるかもしれないので、池田君にお土産話をしておこう」と。「俺の勤務する鈴与の倉庫には、こんなにでかいネズミがいる」と言ったんだね。犬より大きいのがね。それに引っかかっちゃってね。「嘘か見に行く」と。そして、スケッチブックを持って来ましたね。そして、その時の絵が絶賛されましたよ。「倉庫」というテーマでね。鈴与の倉庫を描いたわけ。倉庫の名前が描いてあって扉が少し開いていて、ネズミのしっぽが出ている絵を描いて帰った。その後、親友になりましたね。
ときに「池田さんの社会的な視線は、どうもズレを感じる。真っ当じゃない。ちょっと違う」と。そういう批判は終生あったですね。

本阿弥:池田龍雄さんにインタヴューをした時に聞いたことですが、石子さんが東京に出ることになったきっかけは、「池田龍雄論」の執筆を紹介したことからだとうかがっています。

鈴木:石子さんは「池田龍雄論」の執筆を紹介されて東京に行くことになった。池田さんは恩人ですよ。

本阿弥:鈴木先生は、松本俊夫さんが清水の石子さんに会いにきたときのことを、月刊誌『あいだ』175号(2010年8月)に書いていらっしゃいますが、その時のことを聞かせてください。確か、松本さんが石子さんに対して「木村(石子)君、いつまでもこのような生活をしていると、後で必ず“いま”に復讐されるぞ」(注:石子順造の本名は木村泰典)と言っていたと。

鈴木:石子さんは、いろんなことがあったにしても、近々に上京した方でしょうね。だって、田舎にいたって美術批評などの注文がないもの。仕事がない。批評家とは、対象があって注文があって自分を磨いていくもので、それが何にも無い田舎ではしょうがないわけだよ。いずれ上京したでしょう。
ただ、松本さんとはライバルでしょう。非常にライバル意識がある。松本さんが『ドグラマグラ』の上映会に清水に来たときだと思いますが、言った言葉の最初が「木村のやっていることはだめだ。だめだよな」と。二人は、そのようにお互いを批判しあっていたね。
あるとき、僕の下宿に二人が来て、小山田二郎論になったんだよ。さすがに二人だなと思ったことがあった。「小山田二郎に前衛という冠をかぶせられるかどうか」という話題になって、二人の論議が深まった。それには意味がない。小山田二郎が前衛とか関係ないじゃない。あの魔的世界の深化しかない。前衛があれば後衛があるのか。その時に話を中断して「ところで木村。いいか。こんな生活をしていると、この今の時間に、将来、復讐されるぞ。それでもいいのか」と。そうしたら、石子さんはうつむいちゃってね。鼻白んじゃって、気まずい空気が流れた。
僕の下宿に来た理由はね、ある出版社からイラストを頼まれたの。有名人10人ぐらいがね。松本さんも入っていたんだね。いざ描こうと思ったら、ペンはないはインクはないわ。描き方が分からないので、それで、わざわざ東京から僕の下宿に来て「悪いけど描いてくれない」と。しかし、結果的には、道具を貸して「こうしたらこういうのが描けますよ」と説明したら、松本さんは、抽象イラストを10枚くらい描いていました。何日も寝泊りして描いていきました。
当時の有名人は仕事に対して鋭敏。下手な仕事は絶対に俺はしないという根性があった。下手に妥協して、マンガみたいなものを描けないわけ。わざわざ来て、寝泊りしていった。
当時、小山田二郎はスターですよ。そして、石子さんと二人であるとき、東京の小山田二郎のアトリエに行こうとなって、行ったよ。そうしたら、ピエタを描いていたね。油絵でね。そして、家たるやテント小屋。床は地面にムシロを敷いただけ。それで奥さんは「小山田は天才です」と言っていた。「人間なんて、そう遠くに行けるもんじゃないよ」と小山田は言いだすんだよね。そして「ただ困るのは、キャンヴァスが足りなくなったとき。水彩は安いんだけど、油絵は高い」と。そうすると石子さんは、すっ飛んで行ってキャンヴァスをロールで買ってくるんだよね。「小山田さん、使ってください」と。そういう石子さんの良いところがあるんだよ。見栄を張ったかどうかしらないけどね。
そして、泊まった。そうしたら夜中じゅう動くものがいるんだよね。アヒルの子。アヒルの子を飼っていましたね。松本さんも「誰か絵描きを一人挙げるとすると、俺も小山田だ」と言っていたね。だから、二人が会うと小山田論が激しかったね。小山田さんは詩人だね。そして天才ですね。それは間違いない。

本阿弥:石子さんは、当時、鈴与のサラリーマンの顔と、批評家をめざしていた姿があったと思いますが、何か印象に残ることはありますか。

鈴木:石子さんは、二つの顔を上手にバランスよく持っていました。お酒が入るとよく言っていました。「俺はサラリーマンも結構できちゃうんだ」と。「課長を結構こなしちゃうんだよ。いやになるよ」と。何でもできちゃうんだね。「松本から、何でもできる奴ほど、くだらない奴はいないとよく言われるんだ」と。「そうだよな」と寂しそうに言っていました。時々鈴与に行くと、部下を叱ったり、激しい勢いで叱責したりしていた。模範サラリーマンみたいでしたね。
そして、副社長の家によく行っていましたね。木村家と(鈴与の)鈴木家は閨閥だよ、財閥系のね。そして、副社長と遊んでいるわけね。そうすると鈴木家に東京画廊が絵を持ってくるんですよ。東京画廊の石井(利治)さんが。「木村(石子)が出てきてダメと言うと、絵が売れないんだよ」と石井さんは言っていました。「俺、あいついやだよ。顔も見たくない」と。石子さんは、絵の売買係のようなものですかね。(フリーデンスライヒ・)フンデルトヴァッサー(Friedensreich Hundertwasser)の作品なんかを持っていくと売れるんだよ。よく買っていましたね。

本阿弥:「幻触」についてですが、「幻触」をスタートした時の思い出とかあったら聞かせてください。

鈴木:「幻触」をここまでにしてくれたのは、本阿弥(清)さんです。本阿弥さんがいなければ「幻触」のげの字もなかった。もう消えている。だからものすごい恩人。私費を投じて本は出すし、研究会は開くしね。
しかし、「幻触」にそれほどの価値が、冷静に客観的に考えてあったかどうかということだね。価値があるんです。部分的で、まだらだけど。そのまだらの濃い部分が、飯田昭二さんの《トランス・マイグレーション》。そして、小池一誠さんのカットした石。前田守一さんの氷。この3点。三種の神器。3点セット。今でも、非常に優れた問題を抱えていますよ。一番の暴れん坊が前田さん。ハプニング、パフォーマンスなんかもやっていました。
先ずは、飯田さんの例から言いますと、会場は市民会館かな、広い床の前面に、奥さんと徹夜でじゅうたんを作って、手仕事で縫って糊をつけてね。それをたたんで持ってきてジョウロで水を撒いて、そして、空の色が天井に美しく映るんです。パフォーマンスと言ってもいいんじゃないんですか。
そして、屋外では、藁科川の河原でもやりました。それは、ビニールで作ったもので、水を引くんです。ビニールの上に水が流れるんです。これは、李禹煥さんからも注目された作品です。鏡を持っていって川の中に立てたりしていました。

本阿弥:この作品は、李(禹煥)さんの『美術手帖』に掲載された「出会いを求めて」の図版として使われていますね。

鈴木:これも傑作ですよ。本人がこの作品を作ったきっかけは、飯田さんは鮎釣りの名人級。鮎を釣りながら考えているんですね。飯田さんの鳥かごの作品は売れてね。東京画廊で売れに売れた。

本阿弥:前田守一さんのハプニングとしては、鈴木先生のビニールの作品の中に入ったものがありますね。

鈴木:タイトルが《ビツウィーン》ですね。2枚のビニールとビニールの間に入ったもので、前田さんは窒息寸前でしたよ。当時、秀才はいましたよ。その時代を越えた。それから、前田さんの吹き出しの作品は、これは僕のアイデア。この作品は評判が良かったんだよ。僕が言うと、すぐに作っちゃってさ。何と今では北海道立(近代)美術館に収蔵されている。前田さんは転向の名人。
前田さんの《栽培》という作品は傑作。レンガの上に、買ったジャガイモを乗せてね。会期中に芽が出るでしょう。そういう生きている時間を作品にしたものです。非常に進んでいました。飯田さん、前田さん、小池さんの三人は。群を抜いていた。前田さんは、途中で一部を玉ねぎに変えたんだね。玉ねぎは育つのが早いからね。一週間で大きくなっちゃう。生きているということを非常に問題にしたんだね。前田さんは、個展もやったし現代展にも出していた。
この系統の、生き物を並べる作家は、第10回の毎日現代展(注:1971年の現代日本美術展)では多かったんだよ。審査員が怒っちゃってさ。「俺たちは、野菜の品評会に来ているんじゃないよ」と。

加治屋:この展覧会は「人間と自然」というテーマでしたね。

鈴木:前田さんのウォーカー画廊での個展は「幻触」の晩年だね(注:1970年11月)。モノに対する感性というか、物質に対する感性では、この三人は、ちょっと群を抜いていたんじゃないですか。僕はそう認めます。大変なものだと思います。だけど、本人たちが意外に気づかないんですよ。「もの派-再考」展(国立国際美術館、2005年10月-12月)で、中井(康之)さんの努力で結実したのは本阿弥さんがいたからです。

本阿弥:そんなことありませんよ。

鈴木:本人たちが堂々と「俺にはこんな作品がある」と言えばいいのに、しないんです。それを本阿弥さんが相当カバーしているんです。作家の主体性として彼らは弱いところがあるんだ。これは致命傷。それが後に、石子さんと松本さんの話じゃないですが、作家は復讐を受けますよ、作家自身に。惜しいんです。
例えば、小池さんの石をカットした作品の中原佑介さん評価は正しいです。石を「削る」というのは彫刻なんだ。(でも)「カット」というのは世界観ですよ。スパッと日本刀で切るようにね。これはものすごいことです。彼(小池)とは友人だった。随分、彼から哲学を教わりました。メルロ=ポンティやフッサールなどを。彼の本棚にドーンとある。ただ場所が悪い。御前崎の近くの静波に住んでいるからね。上京しようにしようがない。
「幻触」には、そういうように非常に早熟な三人がいましたね。飯田さんの作品を見たときはびっくりした。浜松の静岡文化芸術大学ギャラリーで「幻触」展をやったときに、竹でも柘植でもいいからホールでもう一回《トランス・マイグレーション》をやったらどうかと言ったんだよ。飯田さんが「俺はもう二度とあんなものはいやだよ」と「あんなことをやったかな」と、とぼけちゃってさ。
当時、批評家の中でね。李禹煥さんと論争できる人はいなかった。シロタ画廊の白田(貞夫)さんが、李さんの版画を扱いだした。そして、白田さんが李さんと友だちになった。そして「批評家を紹介しよう」と。先ず中原さんを紹介しようと場を設けた。しかし全然、両者が通じない。(中原さんは)「白田君、この青年はなんだね」と。李さんは「これほど真剣に命を懸けた話をしているのに、そういう言い方をされる理由はない」と喧嘩になっちゃって、白田さんが困っちゃった。白田さんは、「喧嘩はやめてくれ。せっかく座を設けたのに」と。「また明日座を設けるから。今日はこれまで。論争はしてくれてもいいけど、喧嘩はやめてくれ」と。そういう時期があったのね、中原さんも。ましてやほかの批評家が分かるわけないじゃない。
かろうじて分かっていたのは、国立近代美術館でもの派展をやった東野さんだよ(注:「1970年8月――現代美術の一断面」展)。ただ、東野さんが(十全に)分かるわけないよね。ジャスパー・ジョーンズだからね。それは勘だよ。東野さんは、ものすごく勘がするどい。理屈が後で来る。「あっ、これは何かあるな」と。率先して自分が展示会場で柱を担いだりして、飾りつけを手伝ってさ。僕は会場に見に行ったよ。「何かいいな。かっこいいな」と思った。会場からかもし出す雰囲気全体が。並みのものじゃなかったね。
帰りに、ピナール画廊に寄ったんだよ。そしたら、当時、李さんの個展をやっていたんだ。緑色の座布団を同じ間隔で並べてね。その布団の上に石を自然石が乗せてあるんだ。これが非常にユーモラスで、禅坊主が座っているようで。そういう世界を感じました。だから、不思議なもので、一番、最初にあの世界に触れえたのは、日本人の批評家では東野さんです。想像できない。
僕は、外国人のジョセブ・ラヴ(Joseph Love)先生、そしてマリー・パラアレド(Marie Parra-Aledo)先生――この人は日本美術研究家で日本語がペラペラ――この二人と友人だったんです。ジョセフ・ラヴさんが、外国通信かなんかで「もの派」の世界を紹介したの(注:Joseph P. Love, “Tokyo Letter,” Art International 15, no. 5 (May 1971), 79-84)。ラヴさんが初めて。これを李さんが知ったときの喜びは大変なものだったね。ラヴさんは牧師をやめて、その結婚式に500人くらい集まったんですかね。来賓代表が李さんで、「ここでラヴさんにお礼を申し上げたい。私たちの運動をいち早く、一番内容を濃く外国に知らせてくれたのが、ここにいる花婿でいらっしゃるジョセフ・ラヴさんです」と言ったよ。それをみんなが知らないもんだから、シーンとなっちゃってさ。その後に大拍手でしたね。
李さんは、スターを歩むコースにいたんですよ。あの人は、やることなすこと当たるんだもの。

本阿弥:石子さんと李さんの1969年前後の交流はどうだったのですか。

鈴木:それは、東野さんの比じゃないね。「もの派」の世界観は、石子さんが色濃く研究し尽くしている。二人で徹夜して夜を明かした。石子さんが冗談で、「俺はしゃべりすぎて、アゴがはずれたぞ」と。二人でよく話し合ったみたいですね。両者は喧嘩もしたけれども。石子さんはキッチュの最後には、「デン助」というのがいたでしょう、喜劇俳優のね。あの人も研究しだしたんだよ。デン助を見に行って、楽屋まで行っちゃってさ。それを李さんが知ったんだよね。そうすると怒るわけ。「何もデン助の楽屋に行くことないだろう。冗談じゃない」と。

本阿弥:最近、李さんから直接伺ったことですが、石子さんは「もの派」が一番嫌いだったと聞きました。しかし、僕は、自然的な「もの」ではなくて、西洋美術史の流れの中のアカデミックで人工的な「モノ」に対して好きでないということだと思うんです。石子さんは、李さんや「幻触」らによって生まれた「もの派」起源ともいえる表現が嫌いだったのではないと思いますがどう思われますか。

鈴木:それは正しいと思うな。石子さんが李さんの芸術評論の論文に鉛筆で書き込んじゃったわけでしょう。難しくなっちゃってね。哲学が入っちゃうから。李さんは哲学の専門家だよ。日大の哲学科だから。李さんも難しいというんだから。相当、難しくしちゃったんだね。

本阿弥:それから、「今日の美術・静岡」展(1969年9月)で、石子さんと針生さんが審査員で、斉藤義重さん、吉田克朗さん、李禹煥さんらが招待されています。李さんは、その時に《知覚と存在》という作品を出していますが、当時、会場で見ていらっしゃいますか。京都国立近代美術館での展覧会(注:1969年8月から9月にかけて開催された「現代美術の動向」展)では、《知覚と存在A》と、《知覚と存在B》を出品しています。李さんの代表作となっているものです。静岡で同時期に同名の作品を出しているので、どういう作品だったのでしょうね。

鈴木:記憶はないね。当時、李さんの作品で一番記憶に残っている作品は、《雪》という作品でね。雪が降った朝に、雪の周りに石の黒が覗くじゃないの。点々と後がつくでしょう。それを作品にしたいということでした。当時、神田が美術の第二のセンターとなっていた。高山登の一派があそこで育ったわけね。李さんは当時有名じゃないから、あそこから出発した。安いからね。テーマは雪。小清水(漸)も同じことを考えていた。李さんは真綿を雪にしたわけね。真綿をたくさん持ってきて置いた。そこに真っ黒い石を置いてさ。スポッと埋まっちゃうんだよ。どうしたらいいか。僕は疑問に思わないわけではないけど、(李さんは)鉄骨を溶接して、背の低い四角いジャングルジムを作ったの。そして真綿を巻いてそれに合わせて石を載せたんだよね。トリックスじゃないけど、本当に雪風景が現出した。その時に林芳史さんが--李さんの盟友だね--すごく反対した。「李君。いくら埋没してもいいから、この鉄は取りなさい」と。「これはあなたのやることではない」と。堂々と言ってのけていたね。林さんは僕の親友で、雪舟の研究家でもあったね。『雪舟の龍』という本も出している。そして渋谷のBunkamuraで個展が決まったら病気になっちゃった。

本阿弥:鈴木先生は、1969年から70年にかけて「もの派」的傾向の作品が一斉に出た時にどう思いましたか。当時「もの派」的傾向の作品後の作品づくりに行き詰ったという話を聞いたことがありますが、鈴木さん自身はどうだったのでしょうか。

鈴木:前衛の台頭期と前衛の消滅期と、日本は極端に二つの現代美術の歴史があるんですね。両方とも激しくあったんですよ。「具体」ですらああいう潰れ方でしょ。「幻触」の場合は、理由は二つあるんですよ。ひとつは、石子さんが主導した青山デザイン学園の闘争。もうひとつは、静岡大学武闘派への接近。日本陸軍特殊部隊、細菌部隊、マルタ事件、生体解剖。それを静大の武闘派が研究しだしたんだよ。そして展覧会もやるわけ。人形を作ったり、写真を貼ったり。「幻触」のメンバーの一部がそれに深く関わっちゃったんだよ。特に飯田さんを中心に関わったんだね。ある時、研究会があって僕は行ったんだよ、静大の教室に。そうしたら黒板の真ん中に「鈴木慶則を追放する会」とでかでかと書いてある。本当だよ。それで「幻触」をやめたの。それと、杉山邦彦さんの死亡届作品裁判への加担。これには勝訴したの。このような田舎で県庁の役人に「すみませんでした。私達の主張は誤りでした」と言わしめたのは偉いよ。県庁の役人は悔しい思いをしたに違いない。僕もそれには加担しました。静岡の呉服町商店街でデモをしました。「死ね。死ね。静岡県教育委員会」と書いてね。鈴木健司さんも参加していたね。そうしたら健ちゃんのお母さんが来て「健司、帰んなさい」と。
青デは、完全に石子さんペース。炉端会議というのがあってね。毎晩、学生を囲んで話をする。そして最後の結論は、トロツキーの永久革命しかないと石子さんは言うんだよ。学生はそれを聞いて「はい」と。石をぶつけるんだよ。教授たちは、石をぶつけられてまでやるのはいやだということでみんなやめちゃうんだね。逆に困ったのは学生たちなんだね。いるところがなくなっちゃったんだね。学校は段々つぶされていく。勉強できない。就職もできない。それで学生が石子さんに相談したんだね。そうすると石子さんというのは自己中心的なところもあるので、「誰々のところに行けば、寝泊りがタダで面倒を見てくれる」というんだね。その中に鈴木も入っているんだね。
当時、僕は新婚時代で、ピンポンと玄関のブザーがなるわけ。そうするとアパートの前に若者がいる。「石子先生のご紹介でまいりました」と言うわけだよ。「何しに来たの」と尋ねると、「寝泊りです。飯ください」と。学生は非常に図々しいんだよ。あれでよくプロレタリア革命とか言えるもんだね。それで零細な人民をいじめているんだから。毛沢東は、針1本取らないんだよ。パルチザン。青デの武闘派は、針どころか飯までよこせと言うんだ。
「幻触」はその闘争に参加しちゃった。共同路線を張るなり、同盟関係を結ぶなら、前もって相当な討論をやるべきだった。天才がゴロゴロいたグループなんだから、討論があってしかるべきだよ。無条件に降参するかたちで武闘派の中に入っちゃって、埋没しちゃった。僕が一番良くないなと思ったのは、飯田さんが当時の静大の学生の機関紙に記録の挿し絵を描いたんだよ、生体解剖の。ペンで。描けるわけないんだよ。それはいけないよ。飯田さんが少なくとも遠藤周作の『海と毒薬』を読んでいれば、そういうことはやらないんだよ。直情的に、純情一本で、「僕が挿絵担当で描いた」ではいけないんだよ。それで案の定、それが終わるとコンセプチュアル・アートにのめり込むんですよ。どういうコンセプトかというと、椅子の作品でね。海岸に6つ椅子を置くわけ。「複数による複数展」。3人ぐらいが椅子にすわっているところを写真に撮るわけ。それが複数で1回。全員で複数展となると6人全員が座るわけ。そしてパチッと写真を撮るわけ、2回。「複数による複数展」として針生さんを講師に呼んでまとめあげたわけね。私はやめさせられた人間なので座っていないよ。
しかし、前田さんは偉いね。粘り強く全「幻触」)へ行くと言う。李さんにも連絡して、「こんなことになっちゃったんだけど、造形という研究会を作るから来てくれないか」と。李さんに電話したんだよ。李さんも来てくれたよ。

本阿弥:これが、1971年に清水で発足した「現代美術を語る会」ですね。鈴木さんは参加されたのですか。李さんもある時期は毎月、清水に来ていた記録がありますね。

鈴木:僕も時々行きましたね。石子さんもこの会の講師として来てくれました。「李君。こんなところにいたのか」と石子さんが尋ねると、李さんが「はい」と。そういう場面もありました。
当時、李さんは非常に良いことを言っているんです。「みなさん、これから絵画の時代が始まりますよ」と言うんだ。立体全盛の時代にね。丸石を並べ真綿を並べた時代に、「絵画の時代だ」と。当時、絵画は死んだと言われた時代だよ、状況としては。絵画はだめだといわれた時期に、堂々と「僕はやってみたい。絵画の新しい時代が始まる」と。これには石子さんもびっくりしちゃってさ。「李君、それはどういう意味。絵画はだめだろう」とね。「そんなことはないですよ」と。

加治屋:それは年代的にはいつ頃ですか。

本阿弥:清水での勉強会の頃ですよね。

鈴木:はい。

加治屋:そうすると、1971年頃のことですね。

鈴木:これはえらいことになるなと思った。びっくりした。転向という苦しい問題を抱えていて、その時に助けてくれたのが林芳史さんだね。技法的にね、僕は転向するための勉強、反省、準備を10年間やりましたよ。刷毛をやめて、それで何をやったからと言うと、あぶり出し。これを10年。簡単に言うと、雪舟の小さいときに怒られて、大泣きして涙の溜まりでねずみの絵を描いたでしょう。僕は、この「溜まり」に僕の活路があるんじゃないかと思った。「涙溜まり」にね。それで「ウォーター・ドローイング」というタイトルを付けて10年間描いたわけね。コイルでジュージューと水が焦げる仕事は、現象的には非常に面白いでしょう。でもだれも評価してくれない。しかし、そのなかで「これはやがて結果するよ」と言ってくれたのが林さんだった。
明治時代以降の美術史の研究家の木下直之さんの著書『美術という見世物』を読んで、腰抜かしてさ。これが日本だったんだと。それから、最近、彦坂尚嘉さんから、「落ちぶれている君じゃないよ」と言われた。彦坂さんは最近本を書いた。皇居を美術館にしようと、日本美術界を占領すると言う。世界、古典を含めて勉強しろとね。日本美術ほど、古典を含めて、繊細で華麗で思想に深く、造詣に深く、生活に密着し、いい親分に恵まれて、売れなきゃだめだという人に支えられ、いい職人がいるという、こんな国はどこにもないよと。日本美術を尊敬し直せ、勉強し直せというわけ。彦坂さんは立派な全集を見せてくれました。「いかに馬鹿が多いか、君分かるだろう」と。あるとき、千葉成夫さんから年賀状が来て、「今、熱海にいます。(尾形光琳の)《紅白梅図》を見終わったところです。なかなかのものですね」とあった。
僕は全面的に絵画復活ということは今でも信じていません。タブローほど制度の上に成り立っているメディアはないじゃない。最初から四角だし、平らだしさ。平らの上に描くということは抽象です。これほど制度に支えられた物体はない。特殊な物体ですよ。あるとき、アルテ・ポーヴェラ(Arte Povera)を見に行ったら、写真が飾ってありました。それはローマの裏町を一人のアーティストがキャンヴァスを抱えて歩いている写真です。キャンヴァスは裏だったんですね。じっと見ていると、レンガ、家の窓、人物の服装、歩道など、あらゆるものに意味があるんです、何らかの。電線ですら。ところが、アーティストがうつむいて抱えているある木の物体だけが、特殊なんです。壁から離れた途端に。この問題を今でも抱えているのが、タブローです。非常に制度的な(問題を)。マンガ的な表出の一つに、今、木枠を買うと青いハンコが押してある。「絵画以外に使用しないでください」と書いてある。絵画以外に使用する方法ってないでしょう。
ゴッホは、オーヴェール時代(1890年5月-7月)に、医師や看護婦に絵を1点ずつ配ったそうですね。そうしたらある医師は、自分の家の鶏が、金網に穴が開いていてイタチに食われるから、イタチよけにしたわけだ、ゴッホの絵を。そして一気に絵が高騰したときが来るでしょう。絶賛されて1点が何億ドルとなる。真っ青にして取りに行くともう穴だらけ。彫刻はいいですよ。物だから。アルテ・ポーヴェラを見に行くと、豊田市美術館のコレクションは「物」だけですよね。絵はないですよ。となると、絵画で新しい世界を開拓できるか。言い切れるわけがない。それを李さんは言い切った。70年代に突入しちゃって、今でも李さんの作品で高価なものは70年代の作品ですね。絵です。絵が何億円とするわけね。何億はしないか。
当時、前田さんはいい作品を発表していました。こんなにでかい毛布の作品。それにこんなに厚いガラスを載せた。兄貴がガラス工場にいた。厚いガラスを運ばせて、毛布の上にパッと置いた。そうすると毛が押されて横に倒れるじゃないですか。これは非常に良い作品ですね。李さんも褒めていました。この頃の「幻触」は裁判一辺倒の時代だったね。

本阿弥:前田さんは終生、作品を通して語ろうとしていたんでしょうね。鈴木さんも同じだったのでしょうね。それから、鈴木健司さんや小林幹於さん、丹羽勝次さんらが「針生一郎ゼミ」を静岡市で1972年から開催していますね。鈴木先生はその活動をご存知でしたか。

鈴木:知ってるよ。参加したこともある。針生さんというのは、非常にコンセプトの批評家だ。政治的にも文化的にもね。石子と針生は仲が悪い。あるときに、針生さんがこんなに厚い全集を出したでしょう。労作だよ。それを石子さんは「分厚い週刊誌」と言っちゃった。「針生はこんなものしか書けないのか。ただ事実を並列している。分厚い週刊誌だ」と。そうしたら針生さんが怒ってね。「石子ごときに、どうしてこういう言い方をされなければいけないのか」と反論が来てね。全然二人は合わない。石子さんも、それは言うべき言葉ではないですよね。針生さんにとっては、一生かけての大仕事ですよ。全集だもの。

加治屋:今、針生さんの話が出ましたが、1971年に針生さんが企画したピナール画廊での「言葉とイメージ」展があって、鈴木さんも参加されています。このときには、李さんも参加されていて、確か本を使った作品を出していると思いますが、ご記憶がありますか。

鈴木:ありますね。実際の本をものとして出したと思いますね。思想が詰まった物体。そりゃそうだよ。それから前田さんの作品は傑作だったよ。黒板の作品ですよ。

加治屋:李さんは、自分の書物と他の書物を並べたんでしょうか。

鈴木:その作品は、どのような形か忘れましたね。本を出すという形態、本に対する想いは、思想としての物体だからね。これは繋がりますよ。李さんの中でね。石子さんの著書『表現における近代の呪縛』の書評を李さんが書いたのをご存知ですか。正確かどうか知らないけど、毎日新聞だったか、文化欄に書いたものです。僕の記憶の中では毎日新聞ですね。インクの匂いとか、重さとか、紙質とかについて語ったものでね。李さん本人は昂然として言いましたね。「あれほど苦労して書いた書評はない。僕の最高傑作の書評である」と。

本阿弥:当時、前田さんが会場で撮った写真に李さんの本の作品がありましたね。確か「出会いを求めて」の著書を使った作品です。鈴木先生は、「言葉とイメージ」展では、1円切手の作品を出品していますね。

鈴木:そう。

本阿弥:鈴木さんが、証人の1人として参加された千円札裁判についてお聞かせください。

鈴木:石子さんが大活躍したんだよ。毎晩、勉強会に出席してね。瀧口修造さんを勉強会の後に自宅に送り届けたりね。僕も、出品要請されたよ。何を出したかというとね、3×6版の大きさに、1円、5円、10円、50円かな、コインを全面に貼り付けたもの。岐阜で行われたVAVA主催の岐阜アンデパンダン展にコインの絵を4点出したの。河口龍夫さんが参加していた「位」(注:グループ名)が中心だったね。それが縁で「鈴木慶則という作家も金を使っているぞ」ということで、それが縁で証人として出廷することになった。

本阿弥:それは、石子さんのルート、河口さんの「位」のルートで紹介されたのでしょうか。

鈴木:石子さんでも「位」でもないね。赤瀬川さんだったんじゃないかな。誰かが、千円札裁判の関係者に言ったんだろうね。証人になってくれという要請があったんだよ。絵を持っていって証言しましたよ。「紙幣は使わなかったか」と聞かれて、「あります」と答えたよ。作品があるんですよ。キャンヴァスのロールを広げて紙幣を貼り付けるわけ、はがせる糊があるでしょう。ペーパーボンドだね。半年ぐらい貼り付けておくわけ。それをはがしてみると、その場所が真っ白なわけね。他の場所は、デュシャンの時間じゃないけど、黒ずんでいるわけ。
その作品を持っていって、「この白い跡が紙幣です」と言った。そうすると裁判官が、「それ使えないんじゃないの」と。僕にとっては、使えないけど紙幣なんだね。職業はと聞かれて、悔しい思いをしましたね。正直に「教員です」と答えた。そこでアーティストとか絵描きとは言えないもの。「教員です」と。非常に悔しかったね。少なくとも画家と言いたかったけど、言えないよ。

加治屋:VAVAとか、ほかの地域の展覧会にも出されたと。新潟のGUNの方たちと交流があったと聞いていますが、具体的にはいつ頃知り合って、どのようなことがあったのでしょうか。

鈴木:いつ頃かは忘れましたけど。堀川紀夫、前山忠の2人が大活躍していた。堀川は石を送ることだとか。それから前山忠の反戦運動。こんなに大きな日の丸の旗を、ハサミでジョキジョキに切っちゃうわけ。最初は赤いところを真ん丸く切る。1970年には、自衛官が自衛隊基地で反戦ビラまきで逮捕されたんですよね。その人の支援運動が全国的に盛り上がった。だからGUNの表現活動も当然政治的なテーマとなり、また現実に政治的な活動に軸足を置くようになったようだ。そして、前山が毎日現代展に出品したの。200号くらいの作品を3点。赤い布(赤旗)に白い布で反戦・反帝・反軍の文字を縫いつけたの。そして、アジビラと反戦ステッカーそれに寄付用の箱を置いたわけね。「反戦に賛成の方は、ここにお金を入れてください」と。これがまずかった。都美術館の運営規則の中に、館内での商売はいけないというのがあった。それに抵触したわけね。それでカンパ箱が撤去ということになった。そして、針生さんと前山さんはがんばったんだよ。「これは、商売ではない。神聖なる表現行為で撤去できない」と。そして両者は主催者と大論争をやったんだ。そして、同展のコミッショナーだった針生さんは、当時、大物だったから毎日新聞社と話をし、箱だけ撤去してこの絵だけはしょうがないということになったらしい。しかし収まらないのが前山。「反戦旗もビラもカンパ箱も全体で一つの作品だから、カンパ箱撤去は許せない」と。ついに、自ら全作品を撤去して抗議したんだ。

本阿弥:毎日現代展は、1969年ですか。GUNが、審査の一般公開の要望書を事務局に提出した時のことですか。

鈴木:いや、その後だね。

本阿弥:長岡現代美術館のシンポジウムに石子さんと鈴木さんが行っていますね。

鈴木:石子さん、刀根さん、僕。研究会をやるから来なさいと言われてね。当時のことを思い出すなあ。勉強会をサボって映画館に行ったんだよ。そうしたら長岡の映画館の客席は畳敷きなんだよ。何十畳とね。それからコタツが掘ってあるわけ。コタツに入って映画を見たのは初めてだよ。びっくりしたね。

本阿弥:その時の出会いで、石子さんの推薦などで後に「トリックス・アンド・ヴィジョン展」に前山さんが招待されたんですかね。

鈴木:それは分からないね。

本阿弥:「幻触」の6名が招待されたのは、石子さんの推薦だったんですか。選考者が中原佑介さんと石子順造さんですよね。

鈴木:そんなことは分かりませんね。外部からはうかがい知れないことだから。「トリックス・アンド・ヴィジョン展」という名前の由来は、はっきりしています。(ジェフリー・)ヘンドリックス(Geoffrey Hendricks)。その頃は、山本孝さんの時代で、出品作のうちの2点を気に入っちゃって、山本さんが自分で買ったんだね。自分の画廊から作品を買っちゃったんだ。初めてのことだと。タイガー立石の作品。ピカソのキュビスム時代の裸婦のような立体。もうひとつは、柘植の木を電球に見立てた大きな作品で柘植が生きている。買っちゃったんだよ。

加治屋:話は少し戻りますが、長岡現代美術館のシンポジウムに石子さんや刀根さんと行かれたのは、「幻触」のメンバーとして行ったのですか。それとも、石子さんや刀根さんとの個人的な繋がりがあって行かれたのですか。

鈴木:それは、前衛グループ同士の交流という目的で行ったんですね。

本阿弥:当時は、石子さんが日本全国のいろいろなところに顔を出していた初期の頃ですよね。その後は九州にも行っていますしね。

鈴木:石子さんは、どこにでも行っちゃうんだよね。風呂屋のペンキ絵を研究するということで、都内の風呂屋500軒を全軒まわっちゃうわけね。そういう人だよ。石子さんが「うれしかったよ。こんな風呂に入れたよ」と。私は「人はいないんでしょ。1人もいないときでしょう」と。

加治屋:交流ということは、他の地域のグループの人も来ていたんですか。

鈴木:GUNは発信地として活躍していましたね。情報源としてね。

本阿弥:「幻触」メンバーの中では、鈴木先生が最も外の人たちと交流が広いですね。GUNや赤瀬川原平さんなども今でも交流が続いていますものね。

鈴木:グループ活動としては70年代中頃までで、その後は「GUN残党」として個人がそれぞれGUNを名乗って活動していたみたい。活動期が最長のグループの一つであるのは間違いない。今でも衰えない。たいしたもんだよ。池田龍雄さんが石を彫ってね。義眼をはめてね。投げるわけ。1965年の岐阜アンデパンダン・フェスティバルでは、秋山祐徳太子なんかが自分で作ったオリに入るわけ。人間という展覧会になっちゃったわけね。そんな中で「位」は黙々と穴堀りをやっていましたね。池田龍雄さんは、河原の石の全てを作品と見立てた作品を出していましたね。

本阿弥:鈴木先生は、キャンヴァスの裏を描いたのは石子さんの影響と聞いていますが、いかがですか。

鈴木:高松次郎さん。高松さんが講演会に静岡に来て、「幻触」の作品に対して「こんな作品は、みんな全部僕が考えちゃっているよ。君たち、僕のスケッチプックを見たんじゃないの。全部知っているよ」と。当時の遠近法の作品をバカにされてね。僕に「鈴木君、ちょっと、ちょっと」と呼ばれてね。「君は額縁を描くね。あれは、1つではつまんないよ。終わりまで真ん中まで全部描かないといけないよ」ということで、描いてみたんだよ。そうしたら、つまらない作品になっちゃってさ。
僕は高松さんに疑問を感じることがあるんだよ。机と椅子の遠近法の作品。作品の横がなくなっちゃうんだよね。急いでべニヤで覆うわけね。そして虹色を塗るわけね。コンプレッサーでグラデーションにね。「あそこは何ですか」と。ほかは分かるけどね。ヴェネチア・ビエンナーレで賞をもらった作品ですよ。あの作品は、矛盾が露呈しているんですよ。あの立体遠近法自体。作者は何と答えるの。へんなものだよ。何とも説明がつかないよね。
当時、李禹煥さんが『美術手帖』に高松次郎論を書いている。2人は交流があります。李さんもこれが分からない。高松さんのほうが、李さんよりちょっと年齢が上だったんだね。高松さんが「李さん、僕の全作品が画集になっているけど、買いたい作品はありますか」と尋ねたら、李さんは「ちょっと買いたくないな」と。そうしたら高松さんが「僕だったら全部買いますよ」(笑)と言う。高松さんは、その後、絵に転向したでしょう。本人は苦しんだでしょうね。レヴェルが全然違うけど、僕と同じような苦しみを高松さんも味わったらしいですよ。そして、毎日のように李さん宅に、高松さんから(電話が)あったらしいですね。「李君、僕は絵を描きたくなったんだけど、どう思う」と。李さんは、「それほどやりたいのであればやるしかないんじゃないなか」と。
絵としては、落第ですね。最後は、コンパスに筆を付けてさ、ヒューだものね。それも飽きて、今度は、赤いエイの魚を描いてね。「三流画家ども、ざまあ見ろ」という気持ちがあるんでしょうね。
府中市美術館で、高松次郎さんの回顧展をやったでしょう。高松さんにしてはローカルな扱いを受けたなと思いましたね。あの後、北九州市立美術館で終わっているんです。そういう人じゃないよ。「影」だけでも。美術界というのは、一度でも立ち直れないことをやると、そういう扱いを作家は受けるんですね。

本阿弥:郭仁植さんが石に点描風な刻みを入れた作品がありますが、「幻触」の小池一誠さんなどは影響があったのでしょうか。

鈴木:僕は韓国に2度行っている。それから、韓国の美術界の方とも大勢お会いしている。郭仁植先生、朴栖甫(パク・ソボ)先生とも、みんな懇意ですよ。今もって。朴栖甫先生は、こんな厚い画集を送ってくるんですよ。ニューヨークに個展に行くと言っていた。

本阿弥:郭仁植さんは、石をはつる仕事をしていますが、多くの方に影響を与えたのでしょうか。

鈴木:郭先生は非常に人格者で、東洋的な賢人というような方ですね。いつも石をポケットに入れて歩いていらっしゃった。作品の鉄板でも石でも、丸く点を打つんだよ。李禹煥さんにもそのような作品があります。それも偶然の一致です。どちらが真似とか、どちらが根源的な思想でやったとかじゃないのよ。たまたまの偶然の一致。ただ李さんは、郭仁植先生を批判しましたね。どんな私的なポエジーであっても近代主義の中での仕事に過ぎないと。

本阿弥:李さんと郭さんの石の作品について、一番探しをする美術研究者たちもいることは確かですね。

鈴木:作家というものは、嫉妬深いものでね。一人がぐんぐん伸していくと、たまらなくなるんだよ。

本阿弥:それは作家に限らず、誰だってそういう気持ちになることはありますよ。

鈴木:「幻触」の連中にもそういうことがあって、いやだったね。李さんに推薦されて論文の「出会いを求めて」に写真が掲載されているのに、李さんを非難する人もいるからね。いやになっちゃうよ。それは、いつかは李さんの耳に入るわけね。それで2版目からは写真図版は載らないんだよ。

本阿弥:李さんは、『あいだ』175号の中で「幻触」を非常に褒めていたじゃないですか。

鈴木:「幻触」を支えたのは、やっぱり飯田さん、小池君、前田さんじゃないかな。この3人が三種の神器だよ、「幻触」の。この3人が支えた。僕の存在は、絵画の問題としてであって、それ以上でも以下でもないよ。スタートは高松さんです。高松さんは、「鈴木君、僕は悩んでいるんだよ。キャンヴァスにキャンヴァスは描ける」と。僕は「裏なら描けますよ」と。「君は面白いこというね、やってごらん」と。

本阿弥:それは、石子さんが言ったことじゃないですか。そう鈴木さんから以前聞いたことがありますね。

鈴木:石子さんからも言われた。石子さんの問いの中には、高松さんからの問いが入っているんだよ。「鈴木君、高松が悩んでいるんだよ。キャンヴァスにキャンヴァスが描けるか」と。そういうことだね。
ただ僕の最後の愚痴になるけど、転向しようと思って前の仕事を15年したとしますね。そうすると残酷なことに15年はかかるんですよ、転向問題を自分なりに解決して次の仕事に入るには。あんまり軽く「幻触」時代の作品と今の作品と簡単に比較してもらいたくない。転向というのは苦しいですよ。僕は泣きながら絵を描いたこともあります。そう簡単なことではないからね。転向というのは。
それを「幻触」の連中は、簡単に展覧会をやるごとに転向するんだもの。その中にもいい作品は混じるよ。全般的にパッと見ると、これは転向でも何でもないね。苦しまないんだもの。一度、彼らとは対決したいんだよ。
リキテンシュタインが言っているんですよ。僕が『あいだ』175号に書いたのは「マンガと美術の境」でしょう。リキテンシュタインの作品には境がないんだよね。これは傑作だよ。これは崇高な作品だね。これには境なんてことは言えない。問題はないんですよ。

加治屋:石子さんと高松次郎さんの関係について、もう少し伺いたいのですがよろしいでしょうか。石子さんの議論は時々高松さんと考えが近いように感じられるのですが。

鈴木:2人は、お互いの部屋やアトリエを行き来していましたもの。石子さんは、高松さんの作品を高松さんから数点寄贈してもらっています。1点は黒いぐちゃぐちゃした針金の作品。もう1点は石膏像。石膏像に影ができるでしょう。影を色で塗ったんだよ。石子さんは、ハイレッドセンターの圧倒的な支持者でしたからね。赤瀬川原平さんの馬が笑っているマンガの作品も、石子さんは持っていましたね。馬が笑っているものはたまんないよね。リキテンシュタインと違う。リキテンシュタインのは、マンガを超えて芸術になっちゃったんだ。マンガの1コマを描いた人が、それこそアーティストになっちゃった。これは美しい作品です。これは6億円してもいいです。もう前衛の時代じゃないですよ。僕は、美術館はインフレだと思う。美術館インフレ時代。こんなに数多くある必要はない。それに企画がおっつかないでしょう。それが実情でしょう。何でこんなにたくさんあるの。市に美術館を作ると、全国に市がどのくらいあるの。それが美術館をみんな持ってごらんなさい。インフレですよ。若者が本当に勉強をして、これからという人の個展をどんどんやればいいよ。安くできるんだから。静岡の地元に牛の作品を作る人がいるんですよ。石上和弘君。いい作家ですよ。展覧会と講演会をやればいいんだよ。やればできるんだよ。みんな官僚化している。

本阿弥:最後に、石子さんは、鈴木さんについて長い論文を『美術手帖』(1975年2月)に書いています。また、鈴木さんも外洋船に乗った航海記を同月号に寄せていますが、どのようないきさつで船に乗ることになったのですか。

鈴木:17100トンの八海丸という貨物船でした。南太平洋を直行しましてニュージーランドまで行くのに乗せていただきました。船長は次兄です。兄が戦没者の慰霊を偲ぶ意味での渡航であったと思います。兄は、戦争中に50隻の輸送船で出発して帰りは10隻あるかないかという経験を5度積んでいます。兄は米軍の魚雷にやられて無人島にたどり着いて、生命の危険をさらして、軍属でもないのに戦争で苦労をした。死んだ戦友を偲んで、夜の太平洋を走ったんだと思います。航跡がきれいで真っ白な帯となって、船尾を水平線のかなたまで続いてやめることがないです。海濤と言いまして、右や左に舵を取ると、その航跡は楕円形、または円形になって白い渦となって天に消えます。僕が一番驚いたのは、南太平洋の海の青さと、夜の星の流れ星の数です。雨の如くあられの如く前天空に流れ星のすじばかりです。これこそ自然だと思いましたね。
日本列島の自然はもうほとんどないと思うんですね。観光ポスターの中にイメージとして残ってはいます。このように流れ星のすじが何百何千と降り注ぐ。そうなると、初めて人間が自然内存在ということが実感できた、実感性を持ったことは、非常に貴重な体験だった。今もって忘れられない思い出ですね。
戦争中、兄は輸送船でいろんなものを運んだそうですが、一番びっくりしたのは、赤い腰巻をした慰安婦が船倉の奥にいたことと、特攻隊員を船倉の片隅で見つけたときらしいですね。特攻隊員は、おまじないをして静かに暮らしていたそうです。兄は、戦争体験を人生のどの道に定めて、己の人生の一部にするか、今もって迷いに迷っているそうです。あのような流れ星のすじを今一度見たいなと思います。
もはや、日本列島は、国破れて山河なしです。城春にして草木深しです。日本の自然は、非常にデリケートなので松1本見ても曲がっているわけでしょう。ニュージーランドの木などはまっすぐですよ。最近、自然復旧活動が盛んですけど、自然そのものの根源的存在はもはや危機を超えて、「自然なんてナンセンスだ」と言いたくなるほどの美しい南の空でしたね。

本阿弥:鈴木さんの貴重な体験談と自然に対する想いが伝わってきました。今日はどうもありがとうございました。