本阿弥:丹羽さんの生まれはどちらでしょうか。生年月日を聞かせてください。また、実家はこの場所だったのでしょうか。
丹羽:1931年、昭和6年9月28日生まれです。現在の袋井市。旧磐田郡三川村。静岡県の西部、磐周平野の水田稲作地帯の西北に位置しています。僕は昭和6年生まれですから、数え年で15歳のときに敗戦でした。僕らの少年時代は丸ごと戦争中。毎日、国のどこの学校でも職場でも宮城の遥拝から始まったものです。皇居に向かって最敬礼です。その上に、僕の村を挙げての誇りというか、周りの村々に威張れる要素として、毎朝1時間目の始めに御真影に向かって「侍従御差遣の御聖旨に報います」と大声で斉唱する。こんなことが僕の少年時代の日常の始まりだったんです。だから、僕も少年航空兵や海軍の予科練を夢見る軍国少年でしたね。親父は近隣一番の大地主の村長の名代などすることもあって、村役場の助役をし、村の中心的な役割を背負わされていました。その中でもやはり一番大きなことと言えば、大政翼賛会の先頭に立って時の軍政に協力することでした。だから敗戦、即、公職追放ですよ。国破れて山河ありと言うけれど、今から思えば、その草叢に放り出された15歳の少年が、その後、反体制に与するような活動に参画するようになったのは、このような少年時代にその原点があったのだと思いますね。
本阿弥:静岡大学で美術を専攻されたと伺っていますが、美術の道を志した理由は何だったのでしょうか。
丹羽:段々とゆっくり見たり聞いたりして、勉強を始めていきました。ですから、大学に入って、将来このようになりたいというような、みなさんが抱く夢は、あまり抱かなかったですね。僕らの少年時代は戦中ですから、絵を描くときには臨画という手本がありました。手本の通りに野菜の絵を描いたり、花を描いたりした。習字でも手本を見て一字一字間違いなく書き写しました。そういう臨画、臨書の教育時代でした。確かに絵が上手いと学校の先生に褒められて、郡の絵の大会などに学校代表で出されたことも2回ほどありました。大学に入るときは、高邁な思想を持っていたわけでもなく、だからといって、ただのんびりしているわけにもいかず、あっちの子はあの大学に行ったというようなことを聞くと、じっとしていられなくて、「俺も行くぞ」と、そんな気持ちで入りましたね。
本阿弥:静岡大学に入ったころの思い出を聞かせてください。
丹羽:ご存知のように、静岡大学は新制の国立大学で、美術科に入りました。美術科は、中学、高校の美術科の教員免状が取得できるのが一つのメリットです。教員の免許を取って中学や高校の絵の先生にでもなれたらいいなと、ごく普通にそんな思いだったですね。僕らの時代は前半の2年は教養部で、後半が専門になります。鮮明な意識はないのですが、その教養部時代に、教員になるというよりは、絵をもっと深くやりたいな、本格的にやりたいなと思った。結果的には卒業して中学の美術科の教員になるわけですが。ところが、自分の大学は地方で、美術界ではマイナーな美術課程ですからね。周りを見れば、芸大や有名私立の美大などの存在があって、自分も知っているものだから、遅まきながらも、「よぉし、芸大や美大の連中に負けてたまるか。そのために相当やらなければならない」というような気概はありました。大学の指導教官は松岡圭三郎という包容力の大きな先生でした。僕の結婚の仲人をしてくださった先生でもありますが、その先生に手ほどきを受けながら、卒業する前から先生の言うことは聞かないで、しっちゃかめっちゃか変な絵を描いて、先生に叱られるようなやり方でした。当時は、各県に美術展があって、静岡にも静岡県美術展、ふつうは端折って県展と言っていましたが、県展に出品すると、教員仲間の間では注目されたんですね。しかも、それに入選したり賞を取ったりすると、外から見ると「すごいね」「大したものだね」と言われたものです。3年の時、その県展に出した佐伯祐三ばりの、フランスの裏町風な白壁の建物を描いた絵が「S氏賞」になった。初出品初入賞ですね。その時初めて飯田昭二さんに声を掛けられたと記憶しています。指導教官の寵児よりは、在野の人たちの存在や絵画志向のほうが魅力的でした。
加治屋:その頃は1950年代ですか。佐伯祐三や他の人の絵をどこでどのように見ていたのでしょうか
丹羽:当時は、『美術手帖』、『みづゑ』が、手元にあるバイブル的なもので、そういうものでしか知るよしはない。たまたま1年に1回ぐらいは、ブリヂストン美術館なり東京画廊なりに行って見る程度です。未だにそうだけど、情報には疎いですね。怠け者かもしれないけどね。
本阿弥:丹羽さんは、大学卒業後に学校に勤められていますね。
丹羽:そうですね。私の最初の赴任先は、石子順造さんの自宅があった静岡市産女の小学校でした。なので、石子さんと初めて会ったときにはとても親近感が持てた記憶がありますね。
本阿弥:丹羽さんは、卒業後に1956年から65年まで新制作協会に参加されていますね。そのきっかけと思い出をお聞かせください。
丹羽:先ほどちょっと申し上げたように、僕らは静岡大学ですから、ある種の劣等感を持つわけですよね。マイナーだという。確かに、美大の連中と比べたら、デッサンする時間や制作する時間が少ない。あるいは教授陣の人数なり、用具、設備の充実ぶりなど、とてもじゃないが追いつかない。だけど、先ほども言ったように、「その連中に負けてたまるか」という気持ちがあった。僕がなぜ新制作を選んだかというと、大学時代に三軌会というところに1回出しているんですね。出したら、しょっぱなにご褒美を貰っちゃった。プールヴー賞という賞で、トルソーの石膏像を貰った。びっくりしたけど、学生が出品して直ぐに賞をくれる会というのはちょっといい加減じゃないかなと思った。生意気に言うとね。そこは1年でやめちゃった。自由美術の先輩に牧野重信さんという人がいらして、その人が絵に対して厳しい人で、小山田二郎さんらとも親交のある方でした。飯田さんと僕で牧野さんのところに2、3回遊びに行って、いろいろと刺激を受けました。それで、僕も自由美術に1回出しているんですよ。それは多分4年生の時です。ところが、大学を卒業して初年度に新制作をなぜやったかと言うと、一つは「負けてたまるか」という気持ちが自分にあったこと。(もう一つは)静岡県内では新制作に出品していた人がほとんどいなかったんです。あるのは、春の国画会や春陽会、秋の独立や行動美術などで、そういうところに出している人たちがいましたが、新制作は一人もいなかったんです。聞いてみると、芸大の連中がすごく多いと。本当のことかは分かりませんがね。「よぉし、新制作をやろう」と思って、それで新制作に出したんですよ。その後、石子さんと出会う産女の上の吉津というところに小学校があって、そこに僕は新任地として行った。当時の僕は、家が袋井ですから、住むところを学校から紹介してもらった。その下宿先が、お寺の離れの2階だった。2年くらいいたのかな。お寺の本堂には、何とも言えない特異な雰囲気があるんですね。そこには仏様が鎮座ましましていた。そのようなこともあって、新制作に最初に出したのは《涅槃》という作品です。そこでも、初出品初入選なんですね。当時、中央公募団体で、初出品初入選というのは、まあまあ難しかったみたいです。そして、宗左近さんが、新制作を見て展評に僕の《涅槃》を取り上げてくれたんですよ。だから何だかいい気分になってね。次の年も、次の年もと、2年3年と続けて連続に取り上げてもらった。そして3年目だったか、東京の椿山荘で新制作のコンパ、出品者懇談会があって、それに行かないかと誘われて、初めて行ったんですね。その時、半分は、驚きというか、喜びというか、充足感があった。後の半分はと言うと、それぞれの出品者には審査員なり先生が付いているわけじゃないですか。セットになって同席している。僕はどこを見ても話をする人がいないんですよ。いつも一人ぼっちです。年を経るごとに、ある種の孤独感というか、何かまずい気持ちになっていった。それでも、内心はコネを付けて仲良くなりたいという気持ちはあって、でも、田舎の美術教師だから、たかだかしれていて、そのような機会も作れない。徐々に出品に意欲が湧かなくなって、飯田さんたちの「触」に入っていくんですね。
本阿弥:丹羽さんは、新制作をやりながら1958年読売アンデバンダン展に出していますね。「触」というのはいつ頃できたのですか。
丹羽:本阿弥さんの虹の美術館で立花義彰さんとの対談をやらせていただいたときにも、その話題が出たんですけど、未だかつて「幻触」についても似たような要素があるわけです。「触」も、誰がネーミングしたか、どういう経緯で「触」となったのか。後から見れば、静岡で飯田昭二さんや丹羽勝次やその他の作家たちの集まりがあって「触」と言っているんだけど。未だに「触」が「触」たる根拠は、明確にはないです。
ただ、新制作に対してある種の負のイメージを持っていたときですから、「触」の中で「絵とは何だろうか」と(考えていた)。これだけ俺は一生懸命に絵を描いているのに(と考えていた)。絵に対する不満なり不毛なりがあった。それは、中央公募団体の不毛かもしれません。表現なり内実の不毛というよりは、組織のあり様に対するものかもしれません。それで、どんどん描けなくなっていくんですね。そこで、何とかして「描けないことが描けないか」と思った。そこで、「描かないことを描く」という態度というかテーゼを立てて、では、俺は何をするべきかと考えた。それで、ケント紙の全紙を平らな場所において鉛筆の上を持って垂直に立てて、ケント紙の上を瞑想にふけりながら描いたというか、なぞったというか、触れたというか、そういうことを一生懸命にやって、「触」展にその作品を出したんです。その時にタイトルに《触》と付けたんです。その時の静岡での集まりで「触」となったのかなと思います。しかし、自身ではおこがましいことなので、僕は未だにそうとは思っていませんが。ただ、どういうわけか、作品タイトルを《触》としたことは事実であり、その後の「幻触」の「触」に使われたのかもしれません。
本阿弥:幻に触れるという「幻触」の名前は、言い得て妙だと尾野正晴さんも言っていましたね。「触」のメンバーについて教えてください。
丹羽:飯田さんと僕は確かにそうです。当時、僕らがねぐらにしていたのが、静岡市両替町の小谷画荘という画材屋さんです。その当主が、小谷和夫さんという人でした。飯田さんと同年輩の人です。僕らの先輩になるわけです。自分でも非常に洒落た上手な絵を描く人でした。そのお母さんが非常にいい人で。僕は学生時代から入り浸っているものですから、すごく可愛がってくれた。行けば必ず、お茶やお菓子やご飯を食べさせてくれて、夜も寝させてくれた。絵の具や筆など全部そこで買って、1年に1回、ボーナスのときにツケをまとめて支払っていました。当時、小谷画荘に集まってきた連中が「触」だったんです。だから、小谷和夫さんもメンバーですし、当時、小谷画荘で働いていた人で、名前は忘れましたが、佐藤忠良さんのところに行って、ゆくゆくは新制作の彫塑部の会員になった青年もいましたね。その人とも一緒に話したり、食べたり、飲んだりしていたんですよ。メンバーについては定かではないですね。
本阿弥:読売アンデパンダン展に出した作品の記憶はありますか。
丹羽:僕自身にはそのような意識がないので、出したと言われてびっくりしました。当時は1958年ですから新制作に出して3年目、4年目です。新制作オンリーで、相当、新制作に入れ込んでいたんですよ。100号前後の作品を最低3点は出しているんです。100号3枚の絵を描かなければいけないんです。出していたと言われて自分が驚きましたね。そう言われると、笑い話ですけど、男根風の作品を描いた記憶はありますね。
本阿弥:石子さんと最初に会ったのは、飯田さんと「触」をやっていた頃と言われていますが、当時のことをお聞かせください。
丹羽:僕と石子さんとの出会いは、飯田さんに連れられて産女の石子さんの仮住まいに行ったんです。先ほども言いましたように、この場所は大学卒業後の新任地で5年間勤めました。南藁科と言いました。産女というところには、観音さんがありまして、僕の教え子もその地域にいっぱいいた。以前、本阿弥さんともいっしょに石子さんの住んでいた場所に行きましたね。その石子さんが産女に来たと飯田さんに聞いて連れて行ってもらいました。その家のすぐそばに藁科川が流れていて、鮎釣りができる有数の清流でもありました。そういうところに石子さんが来てくれたということで、非常に親近感を持ちましたね。第一印象は「都会風のインテリ」。典型的なインテリジェンスというか、それがほとばしっている雰囲気の人でした。顔立ちもそうだし、語りもそうだし。本当に惚れ惚れするような豊富なボキャブラリーが止め処もなくどんどん出てくるんですね。ですから、ただ聞き惚れているだけでした。すごい人だなと。ですから「丹羽さんにとっての石子さんとはどういう人か」と言われると、僕にとっては、石子さんの存在自体が畏敬そのものでしたね。そんな思いを持っています。丹羽さんは石子さんのどういうところに惚れたのか、あるいは傾倒したのかと言われると、これは、たぶん「幻触」のメンバーのどなたに聞いても共通だと思うんですけど、僕は生まれつきそうだし、能力的に言っても遅まきですから、石子さんの語りの内容などは、何を聞いても「すごいなあ」と思って感心していました。その一番の原点は、言ってみれば当たり前のことなんだけど、生活を含めて、美術も含めて、何かに対して問いを持つことです。「それは何」「どうしてなの」「そうするとどうなるの」という問いをいつも持っている人でした。そういう姿勢に鮮烈な印象を持ちました。(石子さんに接した人なら)誰に聞いても同じものが出てくると思うんですが、美術の現代がどうあるべきかという問いです。僕らは共通の認識のつもりで「現代美術」と言っているんだけど、今日描いたものがみんな現代の美術というのは間違いです。「そうじゃないんだ。美術の現代をどう見るか、どう表すか、どう語るかなんだ」と言っていた。これは非常に素朴なことなんだけど、それを強く認識させられたのが石子さんなんです。多かれ少なかれ、「幻触」メンバーのみんなはそう感じたと思います。石子さんは藁科川の河畔に住まわれた。藁科川は清流で鮎釣りのメッカで、その川を歩いてだんだん奥に入っていくと、清沢とか大川、そして井川に行き、南アルプスに到達する。石子さんは静養を兼ねて産女に転地された。そして、死を抱えた生きざまの中で、あの人が膨らめていった自然観とは、もしかしたら藁科川の河畔の産女のそこにあるんじゃないのかなと思う。飯田さんが『あいだ』175号(2010年8月)に書いた論考の中でも語っていることですが、石子さんが「川とは何か」「何を見て川と言うんだろうね」「川のどこを川と言うんだろうね」と言った問いは、最初に聞いたときには「何?」と思ったけど、そのことが分かったときにはびっくりした。「ああそうか」と。僕らは生まれながらに田舎に育って、いつも山を見て川を見ていた。何の不思議もなかったし、矛盾や気兼ねなどもなかったんです。ところが改めて、石子さんに「何を川と言うんだろう」「どこを見て川と言うんだろう」「答えられるか」と言われると困っちゃうじゃない。未だに困るね。答えられますか。川だと思っているところは「堤防と堤防に挟まれている水」であるというのは説明でしかないでしょう。石子さん以外に未だかつてそのようなことに触れさせられた学者や作家はいないね。
加治屋:石子さんは、藁科川のそばにお住まいだったのですか。川の大きさはどの程度のものですか。
丹羽:今日、みなさんがこちらに来るときに渡った安倍川の半分程度の川でしょうか。
本阿弥:安倍川の支流です。
加治屋:河原もあるんですか。
丹羽:はい。国道1号バイパスの安倍川大橋の先で安倍川と合流する川ですね。
本阿弥:石子さんの産女のお宅は、先ほど丹羽さんは仮住まいだったと言っておりますが、石子さんの本宅ではなかったのですか。
丹羽:僕には、本宅というようなイメージはなかったな。結婚後の新居だったんですかね。
本阿弥:そのことは、石子さんの奥さんに直接聞けば分かることですね。丹羽さんが石子さんと会ったのが1964年で、奥さんを静岡に残して東京に仕事場を移したのが1965年頃だと思うんですね。当然、「幻触」のスタートもその頃ですが、石子さんとみなさんとの交流はさらに深まったのでしょうか。親密になったのでしょうか。
丹羽:僕は、親密かと言われると困っちゃうんだな。「幻触」と言っても、清水派(注:旧清水市に在住していた人たちを指す)(は親密だったと思う)。石子さんが東京から1956年に鈴与(注:鈴与倉庫は旧清水市にあった会社。現富士ロジテック)にいらして、その周りで、鈴木慶則さんや前田守一さん、途中から小池一誠さんや伊藤隆史さんなどが、「白」というサークルというか研究会を作っていた。前田さんに言わせると、「幻触」が「空中分解」する1970年ちょっとまでの間、清水派と言われる人たちは、石子さんと非常に濃密な関係があったんですよ。同窓会的な関係というか、寮生気分というか。アパートに同宿している仲間のような関係です。それに対して、当時の静岡(静岡市)の僕らは、半分はうらやましかった。石子さんと寝起きを共にできたり、日常の中で怒られたり褒められたりするという。それらをうらやましいと思いつつも、自分の日常は勤務地があって、市営住宅が解体されるということで浜松に転居しなければならなくなり、土地も探さなければならなかった。そういう私的なことを抱えながら、「幻触」をやっていました。1966年までね。浜松に転勤で行くのは1967年4月からです。その前の年から住居の関係で行っていましたが。転勤の前は静岡市伝馬町小学校でした。年度末に突然に辞令が出て、組合挙げて大喧嘩しました。
本阿弥:1967年とは、「幻触」が最も活動が活発に行われていた時期ですね。そうすると、1年ぐらいは、静岡で活動をいっしょにできたんですね。ちょうど、「幻触」がスタートする機関紙とか展覧会とかには参加できたんですね。
丹羽:展覧会の作品は、離れていても作れるけれど、会合は、僕が一番出席率が悪かったと思います。僕は、「触」の頃、1964年に石子さんと出会っているんですね。僕は1965年を最後にして10回目にして新制作への出品をやめたんです。石子さんと出会う前から、いつやめるかな、やめたいなと思っていた。絵は描けないし。だけど、今までずっと続けてきて、もう9回も出してきたし、連続入選10回というのもいいじゃないかと思って、10回目65年の秋に出したんです。もちろん入選しました。その前の年の1964年、石子さんにお目にかかっていて、先ほども言いましたように、強烈なインパクトを受けたわけですよね。新制作に出していたら、恥ずかしいんじゃないかと思いながら出したんです。そして、さらに、「幻触」の中で石子さん、飯田さん、鈴木慶則さんや仲間の話を聞いて学習するごとに、もう中央公募団体はだめだと思うようになった。言ってみれば、連続10回の新制作の出品を取りやめるという決断のきっかけは石子さんとの出会いだという思いが僕には鮮明にあります。そして、もう一つは、ある種の良心だよね。現代作家の良心だと思う。僕は、天竜川の河畔の浜松市に転居するんですね。天竜川の西岸です。新しい家が天竜川のすぐそばだったものですから、新制作や今までに描きためた作品を全部トラックに積んで河原に運んでいった。新しい転居先は、昔の村役場だったんですよ。町村合併で民間に払い下げられたものを、ワイフの実家のテコ入れなどで買ったんです。昔の村役場なので広いアトリエになった。「新制作はやめた」ということを、もっと明確な形にしようと思った。作品があればあったで、ああだった、こうだったと、非常に惑わされるし、まだ少し中央公募団体に対する想いがあった。画壇のヒエラルキーというのも魅力的だったからね。初出品から、準会友、会友、準会員、会員となっていく。そのようなステータスがあるわけです。それを切るためには、作品を焼却するしかないと思って、トラックを借りて、それまでに描き溜めていた作品を全部積み込んで、天竜川の河原に積み上げて火を付けて燃しちゃったんです。新制作などの公募団体と決別する証として作品の焼却を決断したわけです。
本阿弥:公募団体では、10回とかで会友とか会員に推挙されるということなどを聞いたことがありますが、丹羽さんはどうだったのですか。
丹羽:コネクションがなくてね。先輩なり会員なりを介さないで、平出品でいくらがんばっても、新制作レヴェルだとだめですよ。なれませんよ。
本阿弥:その時は、平のままだったのですか。
丹羽:そうですね。
本阿弥:丹羽さんがやったことと同じような話で、ニューヨークで活躍されたフルクサスの靉嘔さんから直接うかがったことですが、アメリカに渡って日本での作品がアメリカでほとんど評価されなかったことから、過去の作品と決別するために、持っていたキャンヴァスの作品に筆でバツ印を付けたと聞いたことがありますね。作家が飛躍するときや脱皮するときにはそのような状況が生まれるのでしょうね。
丹羽:天竜川に作品を持っていって、作品を焼却して、煙が立ち上がり、遠州の空っ風に砂埃と共に吹き飛ばされて、自分の作品が灰燼に帰して無くなっていくわけです。何というのか、言いようがない思いがしました。当時、パフォーマンスという言葉はまだなかったし、ハイレッド・センターの人たちがハプニングという言葉を使い始めた頃ですね。ですから、個的なハプニングであったかもしれません。できることなら、周りに仲間を呼んで、これこれしかじかで、俺の作品を今から燃して灰燼として風に吹き飛ばすと(言うべきだったかもしれない)。新聞社に電話するとか。そういう演劇的なパフォーマンスなどを(するべきだったかもしれない)ね。しかし、当時はそのようなことを思うこともなかった。それから今まで、油絵の絵筆を一回も使っていないですね。そのとき、燃して家に帰ってきて、キザでも「キャンヴァスをベニヤ板に。油絵具をラッカーに。絵筆を刷毛に」の3点をセットにして、小さい紙に書いて貼り出した。それから、「幻触」時代の箱のシリーズに移行していくわけです。
本阿弥:そのことは、石子さんに話しましたか。
丹羽:それはないですね。その点、清水の人たちはそのような会話が日常的にできた仲だったので、うらやましさはありましたよ。「幻触」の鈴木慶則さん、前田守一さん、飯田昭二さんにも言わなかったですね。
本阿弥:1966年9月に、「幻触」が高松次郎を静岡県民会館に呼んで講演会を開催していますが、丹羽さんは聴いていますか。
丹羽:残念だったが、聴けませんでした。高松さんに対して大それた気持ちで言うわけではないですが、当時の高松さんの遠近法のシリーズを、「幻触」の何人かのメンバーが援用というか逆用したということが、外の人から言われることがあります。言ってみれば、高松さんは我々よりメジャーだから、そういうふうに位置付けて、彼の影響があったのではないかと、言いたがるんじゃないかと思うんです。高松さんの場合、常に石子さんが中心にいたわけではないだろうけど、だけど、静岡では、石子さんがいて、遠近法的な近代のものの見方に関する話が日常化されていましたから、そういう見方や考え方を、東京の人たちと静岡の人たちが共通意識として持っていたんじゃないかと思います。それで、東京にも静岡にも、遠近法を応用した作品があっても何ら不思議ではない。生意気な言い方かもしれないけど、両方からごく自然に同時に出てもいいんじゃないかと、僕は思います。そして、「トリックス&ヴィジョン」の時に僕は、初めて生の高松さんの作品を見るんです。僕との決定的な違いは、僕はあくまで平面だし、等角投影図法での作り方なんです。それは、最終的には僕の弱点になるんですが。凹凸とか、あるいは前後とか、表裏とか二次元的なプランの転換ははっきりするんです。ネガとポジとか、遠近とか逆遠近とかね。それらは鮮明に見えるんだけど、その先が見えない。作れない。最終的にはそれが自分の個人的に弱点だと思った。そこで、1969年の「今日の美術・静岡」展へ移行していくことになるわけです。
本阿弥:トロンプルイユで、平面はしょせん平面でしかないということ、マジックでしかないということ、立体の実体を平面で描くんだから目の錯覚だということですね。遠近法自体を表現として、題材として作品化した1966-68年の作品があり、その傾向の中で、代表作家として高松次郎がいたわけですね。そしてその周辺にいた作家のうちで、それぞれの表現で作品化してシェル賞に入賞したのが「幻触」の丹羽さんであり、前田守一さんだった。鈴木慶則さんも、石子さんを通して高松次郎さんと近かったので、高松次郎さんからは直接、「幻触」の作品の皮肉を言われたと発言しています。しかし、鈴木慶則さんにはそれなりの表現があったし、鈴木さんは、他の「幻触」メンバーの名誉のためにも、高松さんから「自分の作品と「幻触」の作品が似ている」と言われたときは歯がゆかったと言っていました。このことも、石子さんという人が中に入って、情報をいろいろな形で伝えたり話をしたことで広がっていったから、作品が似通っていたと言えるのかもしれませんね。「幻触」の飯田さんも鈴木慶則さんも、高松さんの作品があったから後追いで模倣したりしたということはなかったとはっきり言っています。
加治屋:作品についてもう少し詳しく話していただけますか。作品は、立体ではなくて平面ですか。
丹羽:そうです。最初の石子さんとの出会いで、ものやことに対する認識が180度転換させられました。そして、平面の箱のシリーズに入る前に、《リンゴがリンゴであること》という小品を描いています。特大のリンゴの大きさを測って描いたものです。原寸大に。そして、リンゴの底部がテーブルにつくところを少しめくったように描いて、そのめくれた部分を切り抜いて穴をあけた。「今までのリンゴの絵のようにイリュージョンではありませんよ。紙切れですよ」という仕掛けをしたんですよね。
本阿弥:この作品は、いつ頃の作品ですか。
丹羽: これは1967年4月頃の作品ですね。この作品は発表していません。浜松に転居したしょっぱなのときですね。
加治屋:この作品の素材は何ですか。
丹羽:紙に水彩絵具です。克明に一番大きなリンゴをそっくりそのまま描いた。10数センチの大きさをその通りに描いたもので、自分で描きながら「結構うまく描けたな」と思いました。
本阿弥:ちょうど、それぞれの作家がトリックに移行する流れのなかの作品ですよね。
丹羽:この作品を、大きな作品に転用したのがこの作品(注:《作品66》(1966年)。『グループ『幻触』の記録(1966~1971)』(虹の美術館、2005年)42頁に写真あり)なんです。このへんに仕掛けがある。
本阿弥:石子さんや「幻触」メンバーと討論したり話し合ったりしながら、できたんでしょうかね。
丹羽:必ずしもそうではないですよ。誰々の作品について討論するということは、静岡の場合はほとんどなかったです。清水の人たちは、もしかしたらあったかもしれません。僕は浜松だったし、浜松で作品を作っているときに、誰か来たということはほぼなかったですね。
本阿弥:少なくとも、個々人が話をしなくても『美術手帖』や『みづゑ』で一つの流れとして状況をつかんでいたのかもしれませんね。
加治屋:この作品はどのようになっているのですか。
丹羽:1枚のべニヤ板を長方形に切って蝶番を付け、開閉できるようにしています。大きなベニヤ板を切り抜いています。シェル賞に出品した2枚のうちの1点です。こっちは『空間の論理』(ブロンズ社、1969年)に収録された作品で、全て平面です。石子さんが何回か展評の冒頭に取り上げてくれてすごく嬉しかったですね。シェル賞の作品は、今までの絵画におけるキャンヴァスであったり、紙や板であったり、絵としての支持体が背景にありました。それを僕はキャンヴァスの抜け殻と認識していました。やはりそれはおかしいんじゃないか。タブローを否定したのにこのキャンヴァスは何だ、と。それで(支持体である)板を切り取ったのが、その後の切り抜きによる「箱」の作品になっていくんです。それは、原寸大に拡大された箱の見取図そのままの切り抜きなんですよ。この「箱」のシリーズの作品を石子さんは、「絵画という〈制度〉を模型化する手続きとして遠近法によるトロンプルイユを巧みに逆用した作品だ」と評価してくださった。
加治屋:この作品は、平行に描いているから消失点がない。したがって、正確に言うと、遠近法とは違う空間ですよね。1920年代にデ・ステイルやル・コルビュジエが描いていたアクソノメトリックで、歴史的には、遠近法とは異なるものとして、こういう空間構成に興味を持った画家たちもいるわけです。もし立体と平面のトリックだけだったら、遠近法的なものをお描きになってもよかったのではなかったかと思います。この空間構成に関心をもったのは何かあるんですか。(リンゴの作品から箱の作品への)大きな跳躍があるような気がしたんですが。
丹羽:一点透視図法の応用では、行きっぱなしで逆遠近が見えないというか、一方通行になってしまう。だから高松さんは「トリックス&ヴィジョン」展で巧妙に平面を掘り下げている。何かをすることによって、加治屋さんがおっしゃることも意識して、その両方を取り込んでいるということですね。それが僕の作品に無いユニークなところですね。もしかしたら、さすが高松さんなのかもしれませんね。
本阿弥:私は、一点透視図法も、二点透視図法も、アイソメトリックも、広い意味で遠近法だと思うんですね。平面を45度や60度に傾けて立面を立ち上げて見せるということでは(同じです)。一点に集束するのか平行になっていくのかの違いですが、近い場所やものを表現する場合には、同じような見え方をしていると思います。しかし、アイソメトリックの方が、四角が飛び出て見えたり、引っ込んで見えたりするトリックの表現には適していると思います。話は変わりますが、鈴木慶則さん、前田守一さん、丹羽さんが、シェル賞など、中央画壇の公募展とは異なる展覧会にチャレンジしています。「幻触」メンバーの結束はなかったにしろ、みなさんには競争意識があり、シェル賞展の情報を共有したり、共通認識のようなものをもって、何かを求める状況があったのでしょうか。何かにチャレンジする状況は偶然だったんでしょうか。その点はとうでしょうか。「幻触」が輝いていた時期の前期が1966-67年頃であったと思いますので。
丹羽:僕は「幻触」のメンバーでありながら、当時は、日常の生活が浜松という遠距離にいたんです。先ほどから何回も言っているように、65年に新制作をやめて66年からフリーになっているわけですよね。今までは中央公募団体オンリーでやっていたのをやめたわけですから、ある種の空白期間がありました。そのようなこと(公募展とは異なる展覧会に挑戦するということ)は考えていなかったですよ。鈴木慶則さんが前年のシェル賞で入賞していることは、自分が参加する時に初めて知ったくらいです。ですから、そのような情報のつながりはなかったですね。コンクールの情報に疎かったかもしれません。
本阿弥:1967年には飯田さんもおぎくぼ画廊賞を取ったりして、68年の「トリックス&ヴィジョン」展に突入します。このときに「トリックス&ヴィジョン」展に「幻触」グループの6名が選ばれていますが、参加打診の話は急にあったのでしょうか。
丹羽:素直な気持ちで言えば、その前の年に「シェル賞展」で佳作をもらったことだし、「幻触」展でも石子さんに褒められていたものだから、ご褒美で浜松の丹羽さんも出したらどうだと言ってくれたと思うんですね。でなければ、浜松の僕のところに声はかからないだろうから。
本阿弥:関根伸夫さんの《位相-大地》が発表された1968年10月には、李禹煥さんの論文が入選する『美術手帖』主催の芸術評論募集の締め切りもありました。その締め切りの2ヶ月後の12月には、石子順造さんが静岡での美術講座で、李さんの未発表の原稿をテキストにして、「幻触」や静岡の美術家たちに解説をしています。この講演の中で丹羽さんの作品についても石子さんは語っているくだりがあります。「丹羽君の作品は、云々」というものです。丹羽さんはこの勉強会に参加されていたのでしょうか。
丹羽:僕は、確定的な意識としては記憶にないのです。だから的確には答えられないですね。
本阿弥:この講演会で石子さんは、丹羽さんのことだけでなく、静岡で交流がある多くの作家たちのことを、作品を例にして語っています。この石子さんの肉声が入った講演会の録音テープは、丹羽さんの仲間で「幻触」メンバーでもあった飯田昭二さんの自宅アトリエから近年に発見されたものです。それでは、次にメールアートのことを聞かせてください。丹羽さんは、石子さんが東京に批評活動の拠点を移したときのお住まいのアパートにメールアートを送っています。そして、当時の新潟のGUNの前山忠さん、堀川紀夫さんたちが、石子さん宅にあった丹羽さんのメールアートを見たと、堀川さんが数年前にまとめた自分の記録集に書いています。その作品についてですが、美術出版社の『現代美術事典』(1984年)の「メイル・アート」の項目に、「幻触」について唯一触れた数行ほどの文章があります。読み上げますと「68年頃、静岡では鈴木慶則らが「幻触」グループ内・外への発表を始めているが、これに触発され新潟の「グループGUN」の堀川紀夫らが積極的にこの形式を取り入れた(69年)」と書いてあります。「幻触」は、近年に入ってクローズアップされるまで、はっきり言えば、ほとんど中央では無名のグループでした。そして、私の知る限り「幻触」では、切手をキャンヴァスに描いた鈴木慶則さんのような作品はあっても、メールアートを発表した形跡がほとんど見られないのです。
丹羽:鈴木さんの作品には、「1円切手シリーズ」がありましたね。
本阿弥:あれは切手を題材にしただけであって、メールアートではないですね。
丹羽:(作品を見ながら)僕以外に、メールアートをやったという「幻触」メンバーのことを聞いたことがない。やった人はいないんじゃないですか。飯田さんも、当時はメールアートに興味はなかったと言っていますね。もし当時、僕の作品をGUNの堀川さんが見ていたとしたら、これがその現物の作品です(と言って3枚のはがきを出す)。これは、中原佑介さん宛てのはがきです。これが谷川晃一さん、前田守一さんから送り返されたはがきです。この3点が現物として作品として完結しているんです。僕の説明抜きで加治屋さんや本阿弥さんがこの作品を手にとって、どのように見てくださるのか聞かせていただきたいですね。
本阿弥:1969年1月の年賀状ですね。
丹羽:これは69年1月だけど、僕が作ったのは68年12月に作ったものですね。
本阿弥:これが石子さん宅にあったんでしょうね。
丹羽:それが、僕にはまったく分からないわけだね。ただ、僕の「メールアート」と言えば、これしかないですね。ただ、当時作っていた切り抜きの小包の平面作品は、ミニチュア(模型)なものだから、メールアートにはできないんだね。これは、僕の箱シリーズにあたるもので、ロープをかけて、斜めの切手を描いて貼った作品です。これはメールアートにできない。この作品はこれ1個でしたね。
本阿弥:東京や新潟のGUNには伝わっていないんですね。
丹羽:そうですね。
本阿弥:はがきを送りたい人に送りつける方法は、堀川紀夫さんの石を小包にして送りつける作品と確かに似ていますね。堀川さんは1969年後半から石の小包作品をスタートしていると思いますので、時間的にも合致します。丹羽さんのはがきによるメールアート作品がその原点とも言えるものでしょうかね。
丹羽:1968年12月当時、郵便局員とやり取りがありました。僕の住所は浜松市豊西町というところで、そのそばに笠井局という職員7、8人の小さな郵便局があった。そこに年賀はがきを12、13枚持って行って、直接ポストに投函しないで局員に直接手渡したんですよ。そして、局員さんが手にとって表を見て裏を見て、また表と裏を見て、「これは困ります。受け取れません」と言うものですから、「なぜだ」と聞くと、「年賀はがきの裏に切手が貼ってあります」と言う。僕は、「これは切手ではありませんよ。紙切れじゃないですか」と言うと、「これは紙切れではなくて金券です」と言う。僕はさらに「金券ではないですよ。切符と同じじゃないか。用を持ったときにはじめて金券の代用物となる。だからこれは紙切れなんだよ」と大きい声で言った。「それでもだめです」と言われたものだから、「局長さんとお話がしたい」と言って局長ともやり取りをしました。私は当時36歳の血気盛んな頃でしたから、そうとうやりあった。それで「分かりました」ということで、結果的には受け取ってもらえたんです。僕のメールアートは、生意気に言えば、制度・組織へのささやかな個的抵抗の一つの試みであり、通信・伝達の不可能性もしくは無意味性を明らかにするものです。その手立てとして、郵便の制度に則って、普通はがきを往復はがき化する。行って返ってくる。郵便というのは、ご存知のように、差出人から受取人への、あくまでも一方通行ですよね。(メールアートの)やり方は、僕が差出人になって受取人に僕の住所、氏名を送信する。受取人は今度は自分が差出人になって、自らの住所、氏名を僕に送信する。返信ではないというところがミソです。例を挙げれば、谷川晃一さんと中原佑介さんが相互に差出人と受取人になり、自らの住所、氏名を送信し合うということです。それは、つまり、差出人と受取人の関係が対等な形に反転することになるということです。更に言い方を変えると、それは、両面が共に表で、裏が無いあり様であり、両面が共に裏で、表が無いあり様であるのです。正月に、自らの住所、氏名のみを送信し合うおかしさは、制度や組織が持つおかしさと同一であり、それは現代社会が抱えるコミュニケーションの不可能性と無意味性を示唆することになろうかと思うわけです。今、ふと考えたんだけど、まど・みちおさんの「やぎさんゆうびん」がエンドレスであるように、僕の手元に送信された前田守一さんのはがきに、もう一度新しい切手を貼って前田さんに送信する。すると、また前田さんが同じように新しい切手を貼って僕に送信する。これはエンドレスですよ。そこまで当時やっていれば、もっと面白かったかもしれませんね。
加治屋:3枚持って行って2枚は相手に届いているようですが、中原さんのはがきだけは両方の面の消印が同じなので、届いていないんじゃないでしょうか。谷川さんと前田さんのはがきは違う局の消印が押してあるんですが、中原さんのだけは同じ浜松の消印になっているんですよ。
丹羽:あ、そうですか、他局の消印になっていないですか。今まで知らなかったな。
加治屋:それから、谷川さんのはがきで、丹羽さんが書いた表面をボールペンで消しているのは、たぶん返信をした谷川さんでしょうね。
本阿弥:このメールアート作品は、石子さんにも届いていたんでしょうね。そして、石子さんは丹羽さんに返信しなかったものが石子さん宅にあったのでしょうね。
丹羽:当時、送った何人かの人もそうだったと思いますね。
本阿弥:たぶん石子さんは、この作品のことを、ちょうどアパートに来ていたGUNの堀川さんや前山さんらに語ったんじゃないでしょうかね。
丹羽:そうかもしれないね。
本阿弥:その後、堀川さんが石を郵便で送る行為のヒントの一つにしたのではないでしょうか。特に堀川さんらにしてみれば、「幻触」メンバーの小池一誠さんの「石」の作品を1969年5月の毎日現代展で見ていたでしょうし、丹羽さんのメールアートを見たことなどは、間接的にしろ、石子さんが絡んでいるということが重要ですね。それから、当時の丹羽さんのメールアートは、インスタレーション的なスタンスの作品ですよね。ただ単に立体であったり平面であるのではなくて、時間であったり、人と人との関係で成立する作品です。フルクサスのイベントやパフォーマンスと繋がりますね。
加治屋:メールアートは、この後はなさらなかったのですか。
丹羽:この後は(やらなかった)。話題に取り上げられることもなかったし。ささやかですが、今の制度に対して手軽にできる一つの問いの手段としてやりました。1968年とは、そのような時代や社会の状況にあったということです。つまり、新たな資本と労働の関係や市民意識の台頭に自ら立ち会う義務に駆られたということでしたね。
加治屋:この作品が可能なのは、年賀はがきの時期ということもありますね。普通の時期にこのようなものを出したら迷いますからね。でも、はがきで切手を送ってはいけないんですかね。よく封筒に入れて送りますよね。
本阿弥:それにしても、このメールアートは、「幻触」の作品としてはほとんど知られていないものですが、石子さんを介してGUNなどに影響を与えたという重要な動きがその後に起きているということですよ。GUNの堀川紀夫さんらに影響を与えたことは事実ですし、1969年の『美術手帖』(1969年11月)に李禹煥さんが書いた論考「観念の芸術は可能か」にも、堀川さんの石が送られた記述と石の図版が掲載されています。そして1970年に開催された「東京ビエンナーレ」には、コミッショナーだった中原佑介さんらの推薦で堀川さんが招待されていますものね。
それでは、次にいきたいと思います。「幻触」の作品は1969年に李禹煥さんやもの派メンバーに影響を与えたと思われます。特に、李さんは、はっきりと「幻触」から影響を受けたということをいろいろなところで語っています。また、石子さんのオルガナイザーとしての役割も大きかったと思いますが、「幻触」の中では、石子さんと年齢が近く、石子さんの一つ年上の飯田昭二さんの存在が大きかったのではないか。そして、多くの影響を石子さんにもメンバーらにも与えたらしいです。このことは中央ではほとんど知られていないことです。丹羽さんは、鈴木慶則さんや前田守一さんらの清水のグループ「白」よりも、静岡の「触」の時代から飯田昭二さんと行動を共にしていた仲間でした。身近にいた人として、飯田さんの存在について聞かせてください。
丹羽:僕の場合、大学3年のときからの長い付き合いになります。飯田さんは読書家で、哲学書から文明論、宗教書までよく読むし、ユニークな文章表現にも優れていると思う。飯田さんの表現の根幹をなすのは、「間」の構造ですね。それは、「トランスマイグレーション」や「ニュートラルゾーン」によく表れています。石子さんからはシュペングラーの『西洋の没落』を推薦され、世界観を広くさせてもらった、と言っていました。また、一面、僕に言わせれば、「清水派」の人たちよりも、石子さんに対する見方というか、評価というのが、情がらみでなくてきちっとできていたと思いますね。『あいだ』175号に飯田さんが書いた「身体」としての石子順造論と、鈴木慶則さんの文章を比較すると、慶則さんは日常的で体感的な石子さんとの付き合いの中で文章ができているのに対して、(飯田さんの)石子順造論は非常に醒めていると思います。飯田さんの存在は、「幻触」メンバーだけでなく、石子さんにもある種の刺激というのか、影響を与えたことは確かだと思いますね。
本阿弥:そうですか。飯田さんの存在はこのくらいにして、丹羽さんの作品について話を聞かせてください。丹羽さんは、1969年9月に行われた「今日の美術・静岡」展に《ゴム》という作品を出品して、準大賞を受賞しています。この時の審査員が針生一郎さんと石子順造さんでした。自分の作品についてどのように思われますか。さらに突っ込んで言いますと、具体メンバーの元永定正さんが1956年の「具体野外美術展」に水を使ったテンションの作品を出しています。また、もの派の一人にも位置付けられている本田真吾さんが、丹羽さんの「ゴム」の作品を出す同時期の1969年の田村画廊の個展で、石を入れたシートを四方で吊ったテンションの作品を出しています。このことについてどう思われますか。本田さんの作品写真は、峯村敏明さんらがまとめた『モノ派』(鎌倉画廊、1986年)のカタログに図版が掲載されていますね。丹羽さんの作品は、1968年の箱シリーズからこのゴムの作品に移行する69年の1年間で大きく作品傾向が変わっています。他の多くの作家たちも68年から69年の短い間に作品のスタイルが大きく変わったという事実があります。そして、丹羽さんのゴムの作品と他の作家の作品の類似性、似ている理由はどこにあるのか聞いてみたいのですが、いかがでしょうか。
丹羽:ある種の疑問を持たれても仕方がないでしょうね。僕はその写真(注:元永定正、本田真吾の作品の写真)を初めて見ました。情報として知りませんでした。展示の見え方と、作品に使われている素材の同一性から似て見えるかもしれませんが、「僕の作品とは違うよ」と、僕の名誉のためにもきちっと言っておきます。ともかく二人の作品とは、似て非なるものであることを強調しておかなければいけません。何が違うのかというと、両者の作品はハンモックです。宙吊りです。僕は「ゴム」の作品の前の箱シリーズで限界を感じていたことは確かで、どうしても抜け出せないときにこれからどうするのかと悩んだ。「幻触」は、この時期にコンセプチャルな作品の傾向に移行していったと(本阿弥さんは)思っているみたいですが、そうではなくて、もっと事物が持つ事物性に接近していく方向であって、考えが逆ではないのかと本阿弥さんには申し上げたいと思っていました。もともと僕は「もの」へのこだわりというのがあって、石の発想はすぐに浮かびました。「今日の美術・静岡」展のサブタイトルが、「自然・存在・発見」でしたから。その石たるや、石子さんとの縁ではないですが、藁科川の自然石を使った。何の変哲もない石です。ただ、藁科川の石をどうするのかということになって、最初に思ったのはハンモックです。ハンモックを吊って石を落す。しかし、ハンモックに石を入れて仰々しく展示しても、それだけでは世界のありようを映しだすことにはならないのではないのかと思った。それでは石の重みしか見えない。そこで、石の重みとそれを跳ね返えそうとする反作用を導き出そうと思って、それを引っ張り出すのに何がいいのかというときに、生のゴムを使うことになった。あのゴムは強力な弾性があるんですよ。僕の使った石は30キロ以上の石ですから。それでミソは、床面ぎりぎりのところに止めようとしているわけです。先のお二人の作品は、空間に宙吊りというテンションの一義性に対して、僕の作品は作用と反作用の問題、重力とそれを跳ね返す弾性というのか緊張感を見せるために単に宙吊りではない。床面すれすれにして、床についてしまってはいけない。つかないというのは物理的に非常に難しいもので、梁から梁にゴムを渡すときにも、非常に困難を極めたんですよ。そして、もう一つの狙いとしては、静岡県民会館という会場全体を取り込むような、空間への働きかけのような大きさの6メートルのラバーにしているわけです。6メートルのラバーというのは伸ばすと相当な迫力というか、大きさになるわけですね。
加治屋:ゴムには色はあるのですか。
丹羽:生ゴムの色ですね。アメ色というのか。
本阿弥:ゴムの収縮性、作用と反作用が重要な問題で、タイトルも石ではなくてゴムにしたわけですね。作品写真を見ただけでは分からないところがありますね。一番探しにも繋がることですが、短絡的に、視覚的で表面的な部分だけを見て判断することには危険性があることは私も分かっているんです。特に抽象芸術については、理論がベースにあって作品に昇華しないものは信用してはいけないと思っています。丹羽さんの重要な仕事に関しては、作品について語って欲しいとの思いがあったので話を伺ってよかったです。今日言われたことも、ちゃんと文章にして残しておかなければいけないことのような気がします。それはもの派のみなさんも同じことだと思います。歴史に残るべき作品の全てが突きつけられている問題で、記録として残す必要が作家のみなさんにはあります。そうでなければ、似たような作品が先にあったとしたら、評価としての形勢が逆転することもありえるからです。
丹羽:生意気に言えば、元永さんの水とテンションの作品では、水は宙吊りのための道具です。小道具として水があって、それで宙吊りされて終わっている。
本阿弥:しかし、そのことについては、丹羽さんが語るのではなくて作品を作った当人に聞かないと分からないですよね。それから、この日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴでインタヴューを過去に受けている具体の嶋本昭三さんが1955年に発表した作品《この上を歩いて下さい》が、「幻触」初期のメンバーの一人と言われている鈴木健司さんの「今日の美術・静岡」展(1969年)で大賞を取った作品《BASE》と似ていることについても同じような問題をはらんでいますね。偶然にしろ具体と「幻触」の接点を感じますね。
加治屋:おそらく1969年のこの時期には、元永さんや嶋本さんの作品の写真は、関西はともかく、東京のほうでは出回っていないのではないかと思います。偶然の一致なのか、確かに類似性は気になります(注:これは事実誤認で、元永定正の作品の写真は、『美術手帖』1967年8月号の山口勝弘の記事「生きている前衛・8 H2O」76ページに掲載されている)。それから、もう少しゴムの作品について聞かせていただきたいのですが、この作品の下は結局着いているのでしょうか。
丹羽:着いていないです。ギリギリ床に着いていない状態ですね。ただ、展示の初日には着かない状態でセッティングしましたが、当然、生のゴムなので会期中にわずかですが接触しています。
加治屋:こういう形状のゴムは、普通に手に入るものなのですか。
丹羽:あります。普通のホームセンターなどでは扱っていませんが、卸の専門店などでは入手できます。たまたま静岡で手に入ったものです。ロール状にあって、何メートルという単位で切ってくれます。
加治屋:最後に今お作りになっている作品についてお聞きしてもよろしいでしょうか。
丹羽:(作品写真を見ながら)僕が今やっている「道」というシリーズの作品です。この展示(の写真)を見てもらうと分かりますが、やっぱりトリックスですね。この作品の背後にある僕の等身大の写真にある道と、その前に置かれた紙の作品の関係について、お分かりいただけますか。前後の道のセンターラインはいずれも同じ太さ、原寸大のものです。浜松のケイブ(注:ギャラリー名)というところで「身体」をテーマにした展覧会をやりましたが、肩を壊してしまいました。これは、アスファルトの道路を鉄のハンマーで叩いて道の凹凸を紙に反転写させたもの。ジャンルで言えばモノタイプの版画になるものです。「道」のシリーズです。その他には、今風に言えばインスタレーションがあります。遠州横須賀街道(現掛川市)の文化展の時に、李美那さん(注:当時静岡県立美術館学芸員、現神奈川県立近代美術館学芸員)が展評を書いてくれたことがありました。これがその時のものです。炭屋さんを一軒丸ごと作品化するというインスタレーションです。こちらは、一昨年、静岡の駿府公園でやったアートドキュメントです。《プラトンの国の先住者たち》という作品です。石は1個20キロくらいのものを70個使いました。大井川の自然石を彩色したものです。これで今日は終わりになりますが、「幻触」以後すでに40年が過ぎています。この間、僕の表現の根幹をなすのは常に行為の痕跡の実感であります。今日は、ありがとうございました。