黒田オサム オーラル・ヒストリー

2011年5月31日

東村山駅前喫茶店にて
インタヴュアー:岡村幸宣、坂上しのぶ
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2011年11月27日
更新日:2018年6月7日

黒田:…ヨシダヨシエさんと針生さんを対照的に見ててね、ヨシダさん会うたんびにねえ、「俺死んじゃう、死んじゃう」言うんですね。死んじゃうって言うからね、だから僕はねえ、針生さんよりヨシダさんの方が先に死ぬと思った訳よ。まさか針生さん亡くなると思わなかったですね。まあ、ほら、長い間ガンでねえ。肺ガンで、わずらっていてねえ。新宿の、公園のところの、大きな病院に入院してた、大学病院ですか。

坂上:本人死ぬって思っていなかったんじゃないかなあって。

黒田:そんな感じですよ。ですからあそこの入院先にねえ、お見舞いに行ってますね。針生さんいないんですよ。看護婦さんに聞いたらね、いつも出て歩いてるんですよ。ガンでしょ。しかもタバコぱくぱく吸っててさあ。(笑)。だから簡単に死ぬって思ってなかったんじゃないですかねえ。

坂上:でも普通に考えたら、動脈瘤もこんなに(こぶしくらい)大きくなってて、生きてること自体が不思議だったみたいなことを、葬式のときに身内の方がおっしゃってたんで、たぶん死ぬような体であることにも鈍感だったのかなって、フフフ。人間って死ぬ死ぬ思うと具合悪くなるけど、そういうことに鈍感になると、死ぬような体になっても元気なのかなあ、とかねえ。ちょっと思ったりしました。

黒田:まあねえ、不思議なお方ですねえ。不思議な。何ていうかなあ、とらえどころのない大きさを持ったねえ。ヨシダさんの話によるとねえ、針生さんはねえ、はにかみやって話ですねえ。俺から見るとはにかみやなんて見えないけどさあ、(笑)。だから何かいろいろ集会があってもですねえ、必ず遅く来るんですねえ。

岡村:ああ…

全員:爆笑

岡村:場所を間違えたとかねえ…

坂上:間に合わないとわかって来てるとか…

黒田:それでねえ、なかなか話にのらないんですね。でね、だからそのへんがね、ヨシダさんの説によるとはにかみやって。どちらにしてもねえ、気持ちのやさしい人ですよ。

岡村:そうですね。そう思います。

黒田:顔に似合わず。(笑)。非常にやさしい人でね。年賀状出すとね、必ずくるんですね。ねえ。ですからねえ、あの方お年ですからねえ、僕自身も年賀状書くのおっくうですからねえ。年賀状、針生さんにねえ、迷惑かけるから、年賀状出さないようにしましたね。年賀状出すと必ず来ましたからね。それからね、僕はへんてこな踊りなんかやってますからね、とことこって来てね、お金を入れてくれるんですね。だから、割になんて言うのかな、そういった面の人間関係をわきまえた人じゃないかなあってねえ。昔のね。

坂上:生い立ちとかどんな少年時代を過ごしたのかお聞きしていいですか。

黒田:僕はね、昭和6年生まれなんですね。(注:黒田年表「1931年3月4日 群馬県桐生市郊外渡良瀬川ほとりの寒村に生まれる」)

坂上:1931年。

黒田:でね、普通の子供よりもね、遅れてた感じだっていうのをおふくろが言ってたってね。

岡村:お生まれになったのは桐生なんですか。

黒田:桐生のちょっと田舎なんですね。

坂上:桐生って群馬県の。

黒田:そうそうそう。それでね、えー、小学校に入ったのが昭和12年なんですね。昭和12年っていうと、僕たちの時代は支那事変って言ってましたですけどね。いわゆる日中戦争ですね。あの当時は戦争って言ってなくて、事変って言ってましたですね。宣戦布告してやる、そういう戦争じゃなくて、いわゆる事変ですね。簡単に片づけると思っていたんじゃないですかねえ、お互いにね。でまあ、あれは北支ですか、北京の郊外の盧溝橋で、ドンパチが始まって。ま、日本側に言わせると向こうが先にやってきたと。ま、実際には日本側が仕掛けたもんでね。昭和12年7月7日ですかね、盧溝橋事件っていうのは。それでね、僕の親父のところに支那事変がはじまって、日中戦争がはじまってすぐに召集令状が来たんですね。それで兵隊に出て行く日が、7月のね、7日が盧溝橋事件の勃発がして、15日か20日頃かなあ。召集令状が。兵隊に出て行くってわけで。

坂上:お父さんのところにそういう召集令状が。早いんですね。

黒田:支那事変はじまって一番最初の召集令状ですね。

岡村:お父さんのお仕事は何をされていたんですか。

黒田:おやじの仕事ねえ。僕のようにはっきりしていないんだけど、親父もはっきりしてないの。それはねえ、今で言うね、体裁よくいえば廃品回収業みたいなね。

坂上:リサイクル

黒田:リサイクルって言えばかっこいいですけどね。てんびん計りを持ってね、自転車の後ろにちょっとした、宅配配達の人が付けているような籠ね、後ろにつけて。で、玄関から入らないでお勝手から入って「おかみさん何か出物ありますか」っていうな。そうするとね、まあ、ボロ切れやね、古い衣類なんか出して、「これを買ってくれ」とかね。いろいろな金物を出してきて、それを計りにかけたりね。持って歩いてましたね。そういう職業ね、けっこう朝鮮半島の人が日本にきてやっているのが多かったですよ。手に職持ってないから。で、会社にも入れないから。だからね、まあ、僕の親父もそんなわけでね、貧乏人で、ろくに学校教育も受けてなくて。まあ、ちょうど年頃になったら学校に行かないうちに、年季小僧に出さして。で、まあねえ、年季が明けて、お袋と一緒になった。お袋も全然(教育を受けて)ないですね。やっぱり年季か何か行っていたんじゃないですかね。そういうあれですからね。おやじもね、根はまじめで働き者なんですけどね、そういう職業を得られなくてね。そういう廃品回収業をやっていたんです。

坂上:お父さんはおいくつくらいだったんですか。まだ若かったんですか。若いから召集令状も若かったんですかね。

黒田:いや、その時はね、日中戦争のときはもう40近かったです。ですから兵隊に行ってもね、軍隊では老人扱いでね。

坂上:お兄さんかお姉さんか上の兄弟はいらしたんですか。

黒田:僕はいちばんバッチで。男3人で僕は一番バッチなんです。末っ子なんです。当時ね、そういう召集令状が来るって、ちょっとめずらしかったからね、兵隊に出て行く日はもう大騒ぎでね。それがね、僕がちょうど通信簿をもらう日だったんですよ。小学校入って1年生の1学期の通信簿もらいの日。で、僕は通信簿をもらって、父ちゃんが兵隊に行くっていうんで、もう、大急ぎで帰ってね。そしたら、僕のうちの前は大騒ぎ。在郷軍人会とか、婦人会とか。国防婦人会とか愛国婦人会とかありましてね。たすきかけて。かっぽう着きて来たわけですね。それから青年団も出て来ているしね。その上、楽隊まで来たんですよ。どんがらがった、どんがらがった、えらい大騒ぎで。僕はね、父ちゃんはえらくなっちゃった感じがしました。えらくなっちゃったなあって。でも実際には、二等兵で行って一等兵で帰ってきたんです。全然出世していないんですね。で、大急ぎで帰って来て、父ちゃんの前に通信簿渡したんですね。そしたらみんながのぞきこむんです。父ちゃんが兵隊に行くので、兵隊さんもらってきたかって。当時ね、通信簿は甲乙丙の時代。甲が一番いいんですね。普通が乙。一番悪いのが丙。その下に、丁(火)とか戊、とかあるんですけど、それは使わないんですね。大体甲乙丙。僕の通信簿には甲がひとつもなくて、丙があって。で、「まあ、父ちゃんが兵隊に行くので、兵隊さんもらってきたのか」って言われたのを覚えていますね。それで甲のことはね、電信柱って言っていたんです。電信柱に似ているでしょう。で、乙のことはあひるって言ったんです。で、丙は何で兵っていうのか。兵隊さんのかっこうをしてないですよね。だから、その、言葉の音とかひびきが兵隊さんの“へい”だから、それで兵隊さんって言っていたのかもしれないですね。

岡村:そういう何か、丙をもらうっていうことと、お父さんが兵隊に出るということをからめてほめられるっていうのはその頃あったことなんですか。

黒田:そうですねえ、ほめられたっていうかからかわれた。ハハハ。成績悪かったですからね、丙ですからね。小学校の一年生の一学期の最初の通信簿ですね。甲はひとつもなかったですね。それでね、2学期に入ってもね、依然として成績よくない。3学期になってはじめて甲をもらったんですね。それが図画。それで道を誤ったんですね。図画が甲にならなければ今の僕のようなこんな境遇にならずにすんだと思うんですけどね(笑)。(注:黒田年表「1937年4月尋常昭和小学校入学」)

坂上:お父さんはやっぱりあんまり帰ってこなかったんですか。

黒田:2年間で帰ってきたですかね。年ですから。

坂上:それからはずっと家にいたんですか。

黒田:そうですね、再び召集はこなかったですね。若い人は何回か召集されたみたいですがね。

岡村:上のお兄さんは召集されたんですか。

黒田:上の兄貴もね、まだそこまで年いってなくて。それで、まあ、誰言うとなく、お前は、おめえは、あの辺の言葉は大体「おめえ、おめえ」って言うんですね、おめえと俺。あるいは親なんかが自分の子供のことを「うちのがきっちょ」って。どうしようもねんがって。で、女の子のことは「あまちょ」って。今そんなこと言ったら大変ですよね。口の悪い人だったらねえ…。で、誰言うとなく「おめえは勉強できないけども、絵はうまいね」って。先生も言うんですよ。「お前はほんとにみんなダメだなあ。絵はうまいなあ」って。

坂上:どんな。水彩画とかやってたんですか。

黒田:1年生の授業の1学期っていうのは、1年生は水彩は使わずに、クレヨンなんです。で、2年生か3年生頃になってから水彩絵具を使うようになったかな。

坂上:何を描くんですか。

黒田:図画のね、本があるんですよ。それにはりんごとかあひるとか。それをうつすわけですよ。

岡村:本をうつすんですね、本物でなく。

黒田:そう。それから、りんごの格好をしたものが置いてあって、それをみんなで描くとか。

岡村:黒田さんは学校にあがるまえから絵を描くのが好きだったんですか。

黒田:どうだったですかねえ。小学校に入って一年生でね、図画が甲ですからね。子供の頃から絵描きになりたいって。みんなも絵がうまいって言うからねえ。信じちゃったんですね。だから勉強せずに絵ばかり描いてました。あの当時の先生っていうのは口が悪くて、今だったら大変なことになるけど。僕はね、うしろが断崖絶壁なんです。先生がね、このへんから、とことことこって歩いてね。でーんって。とことことこ、でーんってね。断崖絶壁から落ちるってね。先生にそうやられてね、僕も一緒になって笑ってたですよ。今だったらね、そんなことされたら親は大変ですよね。PTA、教育委員会が動きますからねえ。

坂上:のどかだったんですか。戦争があっても。

黒田:うーん。まあ、川もあったし山もあって。しょっちゅう鬼虫っていうんですか、夏休み中はね。勉強なんかせずに山ばっかり行ってましたね。で、山行くと、今で言うくわがたですね。僕らのときは、くわがたって言葉、使わなかったですね。鬼虫って。でね、一番ポピュラーなのがカブトムシ。カブトムシのことはみんなバカにして。まぐそ虫って。なんか地方によってはね、あれは、馬の糞の中で住んでるとか、馬の糞を転がしているとか。何か、アフリカなんか行くとそうだって言ってましたね。だから糞と関係あるんですかね。だからまぐそ虫って。だから少し少年になると、学校に入るくらいになると、カブトムシはバカにしてとらないんですよ。それからいわゆるクワガタ。いまでいうヒラガタのことはねえ、与一って。これは那須与一からきてるんですね。与一っていうのは格好よかったですね、黒光りしてねえ、挟む力が強くてね。

坂上:いっぱいいるんですか。

黒田:結構いましたですね。与一。それから与一でね、少しはさみが細いのは、華奢なはさみをしているのは、ど忘れしたなあ、あ、ナタ。鉈。それで、この与一よりももっと赤くなって光っているのは武田って言いました。武田信玄からきてるんですね。

坂上:全部そういう武士の名前なんですか。

黒田:さむらいの名前。与一は真っ黒ですね。黒いダイヤモンドって言われて高いんですね、今ね。で、武田っていうのは赤っぽいんですよ。与一から見るときゃしゃっぽいんですけど,敏捷に動くんですね。それから、一度は取ってみたい取ってみたいって思っていたのが、熊谷(くまがい)ってやつですね。熊谷っていうのは背中のところがちょっとでっぱりがあってね。それのこと背嚢背嚢って、背嚢しょってるって。熊谷は背嚢しょっててね。熊谷次郎(直実)からきてるんですね。

岡村:ああ、熊谷出身の。丸木美術館の近く。

坂上:そうなんですか。

黒田:っていうのはね、熊谷のことはね、ミヤマクワガタとか言ってますねえ、今。

坂上:なんで武士の名前なんですかね。

黒田:鎧兜してるからね。鬼虫は。夏休みはね、鬼虫とりばっかりしてたですよ。

坂上:森がいっぱいあったんですか。

黒田:林がいっぱいあったですからね。鬼虫がいるのはね、ナラの木やらクヌギの木。それから栗の木。だいたいナラの木に一番多くいたですかね。ナラの木、ナラ林ですからね。そういう鬼虫は取り放題。それから朝なんか行くとね、まぐそ虫なんかいっぱいいてね。まぐそ虫なんか取るとバカにされてね。結構よう東京ではね、まぐそ虫けっこう人気あるみたいですね。

坂上:一番

黒田:一番ですか。それからよくセミとり。夏はセミとりばっかりしました。で、秋になるときのことり。いいきのことれないですよね。だいたいナラもたせなんか。ナラの木に必ず生えているからね。ナラの木に。毎日毎日ならもたせばっかり食べてましたね。これはね、近所に山や川があったんでね、我々部落のものはね、そのための恩恵を受けてね、戦時中から戦後にかけての食料難時代ね。だから、夕方おふくろと一緒にバケツもって。もう支那事変も押し迫って太平洋戦争はじまったでしょ。ろくな食べ物ないですね。配給が主体で、配給だけでは、食っていけないですからね。そこで山に雑草とりにいって。それを飯にして。

坂上:やっぱりご飯がなくて大変だったんですか。

黒田:大変だったですね。だからね。草ばっか食ってましたね。草が山にあったからね。僕はまあ、好き嫌いなかったですからね、何でもうまいうまいって食べましたからね。それから燃料がない。山の枯れ枝を、こうロープで巻いて、かーっと引っ張ると枯れ枝が落ちて。それをまあ焚き付けにしたりしてね。山があったほうがいいですね。

坂上:疎開とかそういうこともしなくて。

黒田:しなかったですね、田舎ですから。人間と自然、森とものはね、お互いに、人間は森に生かされたんですかね。大昔にしてもねえ。森があったから良かった。それからね、渡良瀬川が流れてましてね。こうやって見るとね、小さい、メダカね、いっぱい泳いでいるんですよ。それを手ぬぐいですくってそれを飲むの。飲んじゃうの。そうするとね、泳ぎがうまくなるって、メダカ飲むと。どうだったかねえ(笑)。

坂上:お父さんお母さんお兄さんはやさしかった。

黒田:まあねえ、おふくろも親父もねえ、子供のためには一生懸命にやろうと思っていたんですね。おふくろはきつかったですね。今で言う教育ママ。

坂上:丙ばっかりとって怒られなかったんですか。

黒田:まあねえ、勉強しろ、勉強しろって。結局ねえ、親父も昔の義務教育も受けてなくて年季になったでしょ。おそらくおふくろも年季でね。だから、父ちゃんが職業はっきりしてなくて貧乏したからね。せめて子供くらいは教育させて、教育があればちゃんとした会社に入れてって。いわゆるサラリーマンですね。会社に行きさえすれば月に一回給料もらえるんだから安心できますわね。だからね。

坂上:そういうふうにどうにか食べて行ける子供にするために一生懸命子供に勉強させて。

黒田:そう。親はね、苦労したからね。せめて子供くらいはね、勉強して。ところがね、兄貴二人は割に勉強できたですけどね。僕はできなくて。でまあね、2年生3年生4年生5年生6年生、図画だけはよかったですね。だから子供心にね、大きくなったら絵描きになろうと。絵がうまければいいんだってね。

岡村:その頃は戦争の絵は描いたんですか。

黒田:そうです、戦争の絵ね。昭和16年12月8日はね、いわゆる太平洋戦争はじまった年だわね。

坂上:いくつくらい。10才くらい。

岡村:41年だから、10才ですね。

黒田:で、まあねえ、その時分があって、僕はね飛行機の絵ばっかり描いてましたね。

坂上:見たことありますか、飛行機。

黒田:見ましたよ。飛行機の空中戦。

坂上:落ちたり。

黒田:それはね、近所に中島飛行機の工場があったから。

岡村:ああ。

黒田:飛行機はしょっちゅう見てた。そこでね。で、近所にね、生品の飛行場っていうのがありましてね。

岡村:いくしな

黒田:生品の飛行場。あってね。そこに少年飛行学校があるんですね。陸軍の。それで先生に引率されて、軍事教育の一環ですかね、そこに行くわけですね。で、行くと向こうの飛行場のね、まあ、何ですか、向こうの教官が我々をあたたかく迎えてくれて。いろいろとにこにこ話をしてくれるんです。それで、まあ飛行機の中まで見せてくれてね。

坂上:あこがれですか

黒田:うーん。憧れでねえ。爆撃機の中まで見せてくれたですよ。でね、当時はジェット機なんかないですからね。プロペラ飛行機でね。普通の戦闘機はプロペラ飛行機で、単座戦闘機って、独り乗りの、単座戦闘機。で、それから爆撃機になるとね、軽爆、中爆、重爆って。軽爆だとちょっと小柄な飛行機でね。これはプロペラがふたつあるんですよ。エンジンが二つあるんですね。それなんかはね、乗せてくれたんですよ。もちろん地上にあるときですよ、飛んでなんかはね。でね、重爆にも乗っかったかな。とにかく入口がせまいんですよ。中に入ってもね、立てないんですよ。僕ら最近海外行くから飛行機乗りますけどね。でかいでしょう。広くてね。ああいうんじゃないですからね。爆撃機って大きいですからねえ。だけど入っても立てない。で、中の造作はね、何て言うんですかね、ジェラルミンの骨枠だけでね。骨枠だけですからごつごつしてて。だから今から見ると全然時代遅れの飛行機。だけど当時は新鋭飛行機。新鋭爆撃機で僕らの憧れだったです。

岡村:その頃の少年雑誌なんかは御覧になってたんですか。

黒田:僕もね、飛行機も一辺倒でね。だから飛行機の雑誌ばかり見てたんですよ。当時ね、『航空少年』っていうのが人気あったんですよ。月刊誌で。『航空少年』。その『航空少年』でね、新型の飛行機の、写真で掲載されると、僕らはもうドキドキしましたですね。新しいものがつくられてるって。まして、ドイツのね、飛行機なんか紹介されててね。ドイツの飛行機は格好いいんですよ。メッサーシュミット戦闘機なんか。日本の飛行機は空冷式でね、前から空気入れるわけでしょ。ドイツの戦闘機はね、液冷式なんですよ。で、前が流線型してるでしょ。格好よくってね。で、ましてやメッサーシュミットって戦闘機はね、当時ね、時速700キロくらい出たのかな。で、当時の戦闘機としては、世界一だったそうです。時速ね。だから戦後もね、しばらくジェット機は別としてね、プロペラ飛行機としてはメッサーシュミットの記録は破れなかったって言ってましたけどね。僕はメッサーシュミットって憧れました。日本でも「ひえん」ってね、飛んでるツバメと書いて「飛燕」。飛燕っていう飛行機が出たんですよ。これは空冷式じゃなくて液冷式なんでね、ちょっとメッサーシュミットに似てましてね。飛燕がつくられて、新聞に紹介されてるのを見たときに、さっそく切り抜いたですよ。

坂上:乗って戦争に出たいと思ったんですか。

黒田:うーん。飛行機には乗りたいと思った。でね、生品の飛行場に行くと向こうの教官がいろんな話をしてくれるんですよ。日本の戦闘機は優秀だとか、日本の戦闘技術は世界一だとかね。ぶんぶん出て行ってね、向こうの戦闘機をどんどん落としていっちゃうって。で、「みなさんも是非ね、そういう戦闘機乗りになってください」って。みんななりたいって思った。僕もなりたいって思ったけど、成績悪いから。

坂上:成績良くなくちゃダメなんですか。

黒田:そうそうそう。飛行学校に入るのは、本当に成績がいい。体の方も丈夫でね、勉強もできて、そういうのが入ったですね。それでね、僕らのクラスからね、ひとり、少年飛行学校を受けて、見事、まあ、入学できたのがいましたね。彼は成績よかったですね。まあね、日中戦争、太平洋が昭和20年8月15日で終わってくれたからいいけど、もう少し一年二年三年のびたらね…。

坂上:小学校のあとはどうしたんですか。

黒田:僕はね、義務教育しか終わってないですね。尋常小学校6年。それが義務教育ですね。その上がやっぱり義務教育で、尋常高等学校が2年。これで義務教育終りなんですよ。で、義務教育っていうのはね、勉強できなくてもね、ちゃんと卒業させてくれるんだね。ですから、僕は勉強できなかったけどもね、尋常高等学校も卒業させてくれましたね。その途中で名前は変わりましたけども。小学校じゃなくて、国民学校って名前になりました。それで、尋常高等小学校に入って、その時点で、戦争が長く続いて、いろんな物資が減って、若者がどんどん兵隊にとられちゃってたからね。それで学生をそういう軍事工場につかおうということになってね。僕らは学校から軍事工場に派遣されて仕事場に行ってたんです。もう学校いかずにね。勉強しなかった。

坂上:12才13才で…。

岡村:中島飛行機。

黒田:そうですね。中島飛行機のね、下請けの下請けの会社なんですよ。そこで戦闘機のガソリンタンクづくりをやったですね。ジュラルミンにドリルで穴をあけてね、ダダダダダ、ダダダダダってね。そこでこのリベットを打つんです。リベットっていうのは、エアハンマーですね。これもまた、やると、タタタタタってね。ドリルのはジジジジジでしょ。ハンマーはタタタタタ、タタタタタ、タタタタタ。毎日こんなんですよ。タタタタタ、タタタタタ。

坂上:小学校出ているような小さい子がそうやってやってるんですね。

黒田:僕ら軍事工場でそれをやってるんですよ。それからね、本当に、まあ、若者がいなくなったから子供をつかうようになったでしょ。それから夜業までやるようになったんですよ。残業。夜業。今だったら労働基準法とかでさあ。

坂上:子供だったらそれ以上働いちゃいけないとか。

岡村:年齢制限とかもありますよね。

黒田:まああの当時ですから、非常時ですから。

坂上:戦争がもう負けるかもしれないとか。そういうのはうすうすわかってたんですか。

黒田:全然わかんないですよ。勝つ勝つです。で、まあねえ、残業までさせられて。夜業ね。でね、夜中に夜食が出るんですね。ちょっとしたおにぎりみたいなのが出るんですけど。僕ら好き嫌いないから、何でもおいしいおいしいって食べたんですけどね。そのおにぎりはほとんどお米がなくてね、大豆かす。満州でね、だいぶ大豆がとれてて。それを油を絞って圧縮して、かたまりができたんですね。丸いかたまり。それを内地に持って来て。配給なんかに持って来て飯に炊き込んで。

坂上:ほんとうに貧しかったんですね。

黒田:うん。大豆かすを夜食に食べさせられた。僕らもおなかすいてますからね、美味しかったですよ。だけど他の連中はね、食べられなかったみたいですよ。でね、学級のなかでもいろいろわかれて工場に送られてね。僕は中島飛行機の下請けの下請けの工場に入ったんですよ。そこでは夜食がそんなでね。それからね、中島飛行機のね、直属の工場ではちゃんと夜食がお米のおにぎりだったとかですね。だからね、今でも下請けの下請けって悪いですけどね、当時もそうだったんですね。

坂上:一番末端だから大豆かすを…。

黒田:うん。

岡村:そういうところには朝鮮人労働者とかはいたんですか。

黒田:まあ学級の中にはねえ、朝鮮人いたんですけどね。まあ、僕ら、あんまり朝鮮人とは。仲良かったですからね。あれだったですけどね。

坂上:近所に住んでるもんなんですか。

黒田:そうです。僕の近所に住んでましたから。それでね、えー、まあお互いにね、こう、休みの日なんか街で会ってね。「おまえんところは何か、大豆かすか」「俺んとこはお米だ、お米だ」って。こりゃあ失敗したなあって思ってね。それでね、僕は中島の直属の工場に入りたいと思って、職業紹介所へ行ったんですよ。当時、あのね、職業紹介所って言わなくてね、職安って言わなくてね、国民動員署って言ったんですよ(注:正しくは「国民勤労動員署」。1944年3月に国民職業指導署が改称されて設立)。国民動員署って偉い権限持っててね、国民動員署の許可なく職業を変えられないんですよ。職を変えられないんですよ。それでもしや何も職につかずふらふらしてたら、街でつかまって、憲兵がうろちょろしてますからね、つかまってその場で徴用令がかけられる。徴用令状がかけられたら、本人が望むようなところへ行けないんですよ。炭鉱とかね。よくね、軍艦島とかあるでしょ。軍艦島なんかに持ってかれちゃうんですね。

坂上:囚人みたく。

黒田:そうそうそう。朝鮮の方が日本に働きに来たでしょ。あれはみんな徴用令かけられてきちゃうのね。徴用令状がかけられて。だから逃げられない。

岡村:日本人でも徴用令状かけられて軍艦島につれてかれる人がいたんですか。

黒田:いましたよ。

岡村:そういう場合は朝鮮人の人と待遇は一緒になってしまうわけですか。

黒田:多少違うのかなあ。ねえ。

岡村:どっちにしろ酷な仕事場であることは間違いない。

黒田:そうですね。

岡村:そういう中で黒田さんは徴兵検査とかはあったんですか。

黒田:まだ年がいかないからない。

岡村:ああ。その前にどこかで働かなくちゃいけないと。

黒田:それでいわゆるその、そういう工場へ追いやられて。働いていたんですけどね。そこでまあね、まあね、僕は職場変えたくて、国民動員署に行きましてね、「中島飛行機の直属の工場に入りたいんですけど」って言ったらね、「理由は何か」ってね。言わなきゃよかったんですけど、おにぎりだったんですよ。おにぎりだと。そしたら「何事かあ!」って大変なことになったんですよ。「戦地の兵隊さんを見ろ」と。命かけてね。とんでもねーって。大騒ぎされてね。言わなきゃよかったんですけどね。そしたらね、そばにね、事務員がいて、女の事務員がいてね、何かね、「運送店がね、空いてるらしいですよ」って言ったのね。運送屋。そしたらね、僕にね、「お前運送店行く気あるか」って。で、僕は今のところやめたいからね、「お願いします」ってんで。それで運送店入ったんですよ(注:黒田年表 1945年5月)。で、運送店で敗戦を迎えたんですよ。運送店の小僧ですね。その運送店の仕事っていうのはね、まあ、通運ですね、通運の仕事ですね、貨物列車が入ってきて荷物を降ろしちゃいますね。それから貨物列車の中を掃除するんですよ。その列車まだ、貨物列車は空車を早く移動させなくちゃいけなくてね。で、貨物列車が空になるとね、すぐに竹帚持って行ってね。それがね、石灰なんか運んでくると、視界がぼーっとなって息ができないんですよ。

岡村:桐生で働いてらしたんですか。

黒田:桐生で。それからね、えーっとね、それから僕の仕事というのはね、先輩に大西さんっていうおじいちゃんがいたんです。その大西というおじいちゃんの部下になったんですね。それで田舎ですからまだ牛車が使われてましてね、牛や馬のね。それら糞しますね。それから、他力ね。リヤカーでね。で、牛車や馬車がくると、牛はうんちたれる。だいたい駅のホームって御影石が敷き詰めてありますからね、ですから、うんちたれると次にきた車はスリップするんですよ。だからうんち出したらすぐにそれを片づけなければならない。だからね、タンスコで取ってパイスケっていうのに入れて。掃除するんですけどね。それから馬のうんち。たれるんですね。馬のうんちはね、牛のうんちと違って、そんなに水分がなくて、くさみがなくて、そんなに汚く感じないですね。で、冬なんか湯気がこうぽーっと出てね、なんか美味しそうなんですよ(笑)。なんか食べたくなるような(笑)。

岡村:よくキツネに化かされて糞を食べるってありますよね。

黒田:笑。で、ちゃんとしたかたち、してましたからね。で、それを、馬のうんちが一番かたづけやすかったですね。で、タンスコで取ってパイスケに入れて。横っちょの方に貯めておくんです。夕方になると、帰り際になると、大西のおじいちゃんが南京袋ね、南京袋に牛のうんこは駄目ですからね、馬のうんこだけ別にしておいて南京袋に入れるんですよ。っていっても水気がないからね、扱いやすいわけですね。それで南京袋に入れて、大西のおじいちゃんがそれをかついで帰っていくんですよ。さよならって帰っていくわけね。でね、あくる朝ね、大西のおじいちゃんが、「おい、おめえ、口あけ」って言うから「あー」ってやるとね、鉄砲玉入れてくれるんですよ、あめっ玉を。「変だなあ、何であめっ玉僕にくれるんか」。そしたらね、馬のうんこをね、農家へ持って行って売ってるんですよね。肥料に。こっちは鉄砲玉ひとつで騙されていたわけ(笑)。

坂上:じゃあそれでお給料をもらっていたわけでもなんでもなくって、働かなくちゃいけないから働いて。ご飯は食べさせてもらった。

黒田:いや、弁当持って行きましたからね。まあ、太平洋戦争が昭和20年8月15日で終わりましてね。その頃は本当に食料難時代で。ですから、さつまいもを2本、弁当に持って行くとかね。

岡村:戦争が終わった時のことは覚えてらっしゃいますか。

黒田:覚えてますよ。あれはね、まあね、8月15日、夏、暑かったですね。その日ね、朝ね、「今日ねえ、重大放送があるからお昼に集まれ」って言われたんですよ。天皇陛下のお言葉があるからって。玉音ですね。あると。「何だろう何だろう」って。わけわかんなくってねえ。それで、12時近くなったので、ラジオの前に集まって。ラジオのアナウンサーが、「ただいまから恐れ多くも陛下のお言葉が」って。何しろ陛下のお言葉なんて神様ですからね、そりゃあ、普通の格好できないですからね、ラジオに向かって最敬礼したんですよ。それで頭あげちゃいけないからね。陛下の行幸のときは頭あげられないんですね。これは陛下だけじゃなくて宮様が来たときもおなじだね。みんな「最敬礼、なおれー」って。で、そうしているうちに通過しちゃってるんだね。

坂上:見えないですよね。

黒田:見えない、見えない。

岡村:行幸に行ったことはあったんですか。

黒田:行幸は、陛下の行幸は見なかったけど、宮様のね、来たときはあったんですよ。陛下の行幸なんかそりゃすごいよね。だからね、むかーし陛下の行幸がきたらしいですよ。道を誤っちゃって、それを先導した憲兵、陸軍の案内役が自殺したらしい。切腹したかなんかねえ。そんな時期もあった。道誤っちゃっただけで。ちょっと横っちょ入っちゃっただけでねえ。大変な事件だったですね。それから、公園なんか行くと、囲いがしてあって。陛下だか皇太子か、皇太子時代かなんかのお手植えの松っていうのがあってね。これはもう大事にしなくちゃってね。

岡村:ラジオの放送の内容はわかったんですか。

黒田:いや、全然わからない。なにしろ最敬礼。でしょ。そのうち陛下のお言葉が始まったんですよ。なんかねえ、「うにゃらうにゃらうにゃら~うにゃらうにゃらうにゃら~」ってね。何かねえ、独特のふしがあってねえ。何か人間の言葉じゃないですね。

坂上:じゃ、全然理解できない。

黒田:理解できない。神様のお言葉ですからねえ。「うにゃらうにゃらうにゃら~うにゃらうにゃらうにゃら~うにゃらうにゃらうにゃら~うにゃらうにゃらうにゃら~うにゃらうにゃらうにゃら~」。

坂上:うん、そんな感じですよねー。ほんとに。そういう、ラジオの声が聞こえると、テレビで聞くとそんな感じ。

黒田:ましてね、雑音が入ってましたからね。ラジオもいいラジオなかったですからね。陛下のお言葉終わって頭あげたら、なんかみんなが「日本は戦争に勝ったらしい」って言うんですよ。で、大喜びして。

岡村:へえ。

坂上:何人くらいそこに集まっていたんですか。

黒田:10人以上、20人くらい集まっていましたかね。それでうにゃらうにゃらの解説はねえ、全然わからんかったですね。日本は戦争に勝ったらしい、勝つらしいって言うんですね。そういうのはね、当時、日本陸軍の最強って言われたのは関東軍ですね、関東軍は満州で無傷で残ってるんですね。ところが関東軍はね、途中で輸送で、船で、沈められちゃったんですね。で、なにしろそんな情報隠されているからね。関東軍は無傷でいる。ね。その上、連合艦隊ですね、日本の艦隊が沈められたって全然報道されてないですから、連合艦隊もそのままそっくり残ってると。もう本当にね、太平洋戦争も押し迫ってくると、水戸の方からね、艦砲射撃もあったんですね。艦砲射撃。アメリカの機動部隊が、太平洋で、日本に近づいていた、水戸の方にね。で、艦砲射撃があったんですよ。うわさによるとね、黒船の来訪じゃないけどね、アメリカの艦隊が遠くの方に見えたってうわさもあったですけどね。近海からね。アメリカのね。まあ、ウソだか本当だか。かなり近くに来てたんですね。本当に見たか見ないか、近くにいたかは知らんけどねえ。ま、そういう噂だったですからね。

坂上:でも桐生の方は空襲も何もなかったですか。

黒田:いや、あったんですよ。一応ないってことになってますが、実際はあったんです。

岡村:中島飛行機の工場を狙って。

黒田:それもあったんですけどね。ええ。あの。ま、水戸の方は艦砲射撃もあったでしょ。かなりアメリカの艦隊が日本に来てる。来てるっていうんじゃなくって、日本はひきつけてるって。日本の作戦上。引き付けて。日本の連合艦隊が大和以下無傷でそっくり残ってる。大和かどうか知らなかったですけどね、とにかく巨大な戦艦がある。ね。それだからね、アメリカの艦隊を引きつけるだけ引き付けて、最後に一気にやっちゃう。その激励の言葉だって言うんだね。

坂上:それが実は負けだったってわかったのはいつだったんですか。

黒田:それがね、夕方になってうちに帰って、暗くなって、僕んちラジオないですからね。あの、何か日本は負けたらしいよ。らしいよって、まだ。で、明くる日ね、会社に行きましたらね、日本負けたって。びっくりしましたねえ。

坂上:じゃ、次の日まで気がつかなかった。

黒田:そうそうそう。

坂上:お父さんもお母さんもみんな勝ったと思ってたんですか。

黒田:そうそう。負けたらしいってことですね。噂でね。

坂上:まだ信じられない。

黒田:そうそう。明くる日。ショックです。ショックですよ。勝つ、勝つって思ってたんですからね。僕にしたってお絵描き少年でね。戦争の絵描いてたんですよ。それでね、まあね、さっき空襲の話出て。東京はもちろん。3月10日の陸軍記念日ですかね。3月10日にねえ、下町はみんなやられたんですね、焼夷弾で。燃えちゃったわけですね。で、東京やっちゃって焼け野原にしちゃってから、地方へね。

岡村:広島のこととか知ってたんですか。

黒田:新型爆弾って。新聞にちっちゃく出てたんですよ。

岡村:ああ。

黒田:新型爆弾ってね。原爆って言わなかったね。そんな大きな被害受けてると思わなかったですね。新型爆弾落ちたってだけですね。

坂上:どんな爆弾なのかも

黒田:わからなかったですね。僕はねえ、軍国お絵描き少年ですからねえ、戦争の絵がうまく描けるようになったならば、従軍画家に行こうと思ってましたね。

岡村:ああ、そういう夢があったんですね。

黒田:従軍画家になりたいって。

坂上:従軍画家っていう職業があるっていうのを、もうずっと小さいころからわかってて。

黒田:そうですね、っていうのはね、靖国神社の大祭っていうのはね、これ年に2度あるんですよね。春と秋に。で、まだ東京へ行く、爆撃されてないときにね、靖国神社の大祭に行って。人がいっぱいいて。びっくりしたですね。そのときにね、何か、遊就館か何かもう忘れてしまったけどね、大きな絵が飾ってあってね。こんな大きな。うーーーって思った。ああ、僕もそれ描きたいなって。早く描けるようになって外国へ。海外へ行かれるってね。それでね、早速ね、画集買ったの。

坂上:遊就館で。

黒田:そう。戦争絵巻っていうのでね。上下になってましてね。紙質悪いですけどね、そこにはね藤田嗣治 宮本三郎、小磯良平とかねえ。みんな描いてた。それ見ちゃうの。僕。

岡村:じゃあもう藤田の絵なんかにはなじみがあったんですね。

黒田:あったんです。

岡村:それが桐生の方に巡回してくるってことはなかった。

黒田:なかった。

岡村:東京に行かないと見られなかった。

黒田:そうですねえ。それでね、僕はね、僕も漫画みたいなのを描いていて。漫画家の田河水泡さんと仲良くなって。それから、島田啓三の『冒険ダン吉』って漫画ありましてね。これは大体ですね、南洋諸島のことをとりあげた漫画ですね。南洋諸島っていうのは文明が入って来るのが遅くて、非常にそれだけにのどかな島々で、海産物があり。それから、バナナとかね、パイナップルとかね、いろんなものがあって。働くという観念がなくて、会社もなくて、学校もなくてという世界だったらしいですけどね。で、僕は『冒険ダン吉』の漫画を見て、ああ南方へ行くと南方の人っていうのは学校行かなくていいんだって。僕は勉強できなかったですからねえ、学校行かなくていいんだあ。僕は会社入ったけど会社はつらいですからねえ、会社行かなくていいんだあって。木に登っていけばバナナがいっぱいなっててさあ。それでバナナ食べてさあ、あとは寝てりゃいいんだから。僕なんか絵描いてりゃいいんだから。だから僕なんか早くねえ、絵がうまくなって、絵描きになって、従軍画家になって、外国に行って、つまり南洋諸島に行って、そこでね絵描きしてね、会社行かないでバナナばっかり食べて。俗に今で言うヒッピー願望があったんですね。

坂上:でも戦争がおわっちゃって従軍画家がなくなっちゃって。どうしようと。

黒田:なくなっちゃってねえ。まあ、運送店でねえ。でまあ、運送店でねえ、僕はね、爆撃にあってるんですよ。っていうのはね、だいたい東京はみんなやられたですけどね。群馬県も各都市やられたですけどね。艦載機なんかが、まあ遊び半分で機銃掃射なんかやったりしたんですね。それで、駅なんかのね、貨車なんかがね、おもちゃのように見えておもしろかったんですかね、狙いやすかったんですかね。で、ダダダダダダダーって。で、同時にね、飛行機が近くになってくると、アメリカ敵機が近づいて来ると警戒警報が発令する。警戒警報発令。それで飛行機がほとんど近くなってきたときに空襲警報が発令される。そして、真上に敵が来た時に、敵機襲来って。で、警戒警報、空襲警報、で、防空壕へみんな入るんです。で、僕も防空壕入ったんですよ。で、敵機襲来。敵の飛行機上に来てるからねえ。いやあ、飛行機見たくてね。で、防空壕から飛び出して。で、見えたのかなあ。一瞬ねえ、太陽が遮ったのでしょうかね、ちょっと暗くなったんですね。そしたら、パンパンパンパーン!って。いやあ、もう、びっくりしちゃって、生きた心地しなかったですよ。で、ホームにもね、機関砲か何か当ったんでしょうかね、ホームのね、御影石が降ってきたんですよ。当った時痛くなかったですけどね。それからはもう怖くて、空襲警報発令で、敵機襲来で。もう防空壕に入っちゃって、出ないですよ。

坂上:怖いですよ。そんな、自分が殺されそうになるんだもん。

黒田:そりゃあ。僕はアメリカの飛行機が見たくてねえ。ドイツのメッサーシュミット見られないけどねえ、アメリカの飛行機、グラマンですね。艦載機のグラマン見たですね。グラマンのノースアメリカンP-38っていうのとかね。Pっていうのは戦闘機なんですね。で、Bが爆撃機。B-29。ですからね、アメリカの飛行機見たくてね。それで敵機襲来っていうので防空壕から飛び出ちゃった。それからもう防空壕から飛び出ないですよ。いや、怖いもんですね(注: P-38はロッキード社の戦闘機。グラマン社はF4FワイルドキャットやF6F ヘルキャット、ノースアメリカン社はP-51ムスタングで知られる。Pは追撃機(Pursuit Plane)を指す)。

坂上:東京大空襲は知ってたんですか。

黒田:知ってましたね。っていうのはね、夜の空襲になるとね、東南の方の空がぽーっと明るくなりますからね。

岡村:群馬から見えたんですか。

黒田:見えたんですよ。だからみんなね、年配の人たちがね、関東大震災のときもそうだったからね。これは東京は焼けてるっていうの。関東大震災は東京焼けましたからね。関東大震災のときも東京は焼けてるって言ってね。それから、中島飛行機の飛行場とか、それから工場が、太田の飛行場とかも爆撃されましたからね。

坂上:でもあまり身近で、自分のすごく身近なところで、死人が出なかった。

黒田:蟹川があってね、機銃掃射があったときに、蟹川の向こう側の民家でひとり死んだって噂があったですけどね。まあ、とにかく、敵機襲来が怖いですね。あの音が。あの音の凄さねえ。生きた心地しなかったですからね。それがまあ戦後になってね、東京へ出て来て、東京が焼け野原でびっくりしたんですよ。

岡村:仕事を辞めて東京へ出てきたんですか。

黒田:兄貴はもともと東京へ出ていましたからね。学校終わって軍事工場追いやられて。それで戦争終わって。それからは京浜地帯に、多かったです。東京へ来た人は。それで兄貴のところに。東京見物がてら。それで、東京のですね、山手線の駅のホームに立ったら、ホーム高台でしょ、ずーっと見渡すところ焼け野原。ところどころに焼け残った建物はありますけどね、なんかね、山手線がぐるっと回るの、かすかに見えるような感じしましたよ。そのかわり夏だったですけどね、風通しがよくってね。

坂上:8月15日の終戦の夏ですか。

黒田:そうですね。なんか夏すずしかったですよ。風通しよかったですからねえ。まあねえ、一応絵描きになるってことはね、もうあきらめきれずにね。義務教育で尋常高等学校終わって工場へ追いやられて。で、敗戦になって。絵はずっと描いてましたね。描いていてね。それでね、油絵具に憧れたんですね。油絵具っていうのは専門家が使って。しかも、僕ら、水彩絵具やクレヨンで描いたのと違って、油絵具は盛り上がるからね。盛り上がるの。専門家っていうか絵描きっていうのをそこに感じてね。ああ、僕もそういう絵描きになりたい。描きたいって。それで、一応、社会人になってましたから、給料もらいましたから。給料もらってもねえ、おふくろに全部渡してましたけどねえ。だけど、ほら、一応働いてますからお小遣いをもらいやすかったわけ。それで小遣いをもらってすぐに買ったのが油絵具だったんですよ。昭和20年に油絵具を買ったんですよ。だけどね、画材屋さんに行っても油絵具なかったです。まだ油絵具がつくられてなくて。ただし、売れ残ってるのがあるって。出してきたの。ほこりかぶってた。それで、僕は絵具の名前知らなかったですからね。赤色とか青色とか、そういう名前で、絵具を買って。買ってきましたね。ま、一応チューブになってましたけどね。セットになってるのはなかった。新しい絵具はなかった。絵具って昔のやつですね。ところがね、それをボール紙の上でしぼって、筆で描いてみたらね、油を吸っちゃってぼそぼそして描けないんです。そこで考えて、これはあれかなあ、何かうまい方法ないかなあって。で、ボール紙のうえににかわをひいて、それで描いたらうまくかけましたね。

岡村:にかわで溶いた。

黒田:にかわっていうのは棒になって。板になって。それをお湯で溶かして。それを筆でもいい、はけで塗ったんですね。で、かわいたらば、その上に油絵具で絵を描いた。

坂上:何を描いたんですか。

黒田:もう戦争の絵じゃないですよ。

坂上:山とか。

黒田:そうそうそう。

坂上:絵描きになりたいんだったら、何を描きたいとかそういうのなかったんですか。海を描きたいとか。自分の顔とか肖像画を描きたいとか。

黒田:自分の顔もあったですけどね、一番最初に描いたのはね、静物ですね。目の前にある。

坂上:りんごみたいな。

黒田:そうですね。まだね、抽象絵画とかね、アヴァンギャルドとかそういうもの知らなかったですから。

坂上:静物。

黒田:まあねえ、油絵具買ってね、油絵具で描けたときはうれしかったですよ。何だ、俺でも描けるんだって。

岡村:当時そういう画家になりたいっていう人は近くにいたんですか。それとも黒田さんまったくおひとりで。

黒田:そうだったですねえ。

坂上:家で描いてたんですか。

黒田:そうです。

坂上:お父さんとかお母さんがそれを見て何か言っていませんでしたか。うまいねとか。

黒田:そうねえ、何も言わなかったかな。でもまあねえ、もしやね、絵描きになれたら僕自身がいいなあって思っていたし、僕の親父はね、ことによったら絵描きになって成功したらいいなあって思っていたんじゃないかなって、思ってますけどね。まあ、なんせねえ、美術学校に入ろうとかそんなこと思っていなかったですからねえ、そういったこと知らなかったですからねえ。

岡村:じゃあ、画家になりたいって思ったときに、どうすれば画家になれるかとか、

黒田:とにかくね、絵がうまけりゃいいって思ってたの。はっはっは。

坂上:誰かが見出してくれる、自然になれる。

黒田:自然になれると思っていたのかしらねえ。自然になれなかったけどさ(笑)。

坂上:(年表に書いてある)肉屋のヨネちゃんっていうのは誰なんですか。

黒田:肉屋のヨネちゃんですか。ヨネちゃんね。僕がねえ、まだ小学校に入る前ですね。近所でたき火してましてね。それで、たき火のところで僕はなにか餅か何かをたき火の上に置いて焼いていたのかね。何かお菓子みたいな物をね。田舎のお菓子だからたいした物じゃないんだけどね。焼いてて。食べていたのかな。それで、足下のところにプチプチって音がして、「あちち」って思ったら、ズボンが燃えていた。火がついていたんですねそのときに、ヨネちゃんのお父さんが大慌てでもみ消してくれてね。それで、肉の油かなにかを足に塗ってくれてね。覚えていてね。それから渡良瀬川に水浴びに行きましてね。兄貴なんかも、大人ですので、川の真ん中入って泳いで帰って来て。で、僕らも川の真ん中すきですからね、好きで入って、ちょっと何か、自然と手が土から離れちゃってね、すすすすーっと流れて行っちゃってね。で、ところが兄貴と肉屋のヨネちゃんがね、見ててね「うまいうまいうまい」って言うんだよ。だけどね僕は流されたんだよね。で、これはおかしいってわけでね。あわててね、兄貴とヨネちゃんが、兄貴よりもヨネちゃんの方が先だったかな、ヨネちゃんの方が兄貴より年上だったのかな、ヨネちゃんが川の中に入って来て僕を捕まえてくれたんですね、それで助かった。そのまま流れていったらどうなっていたかねえ。それで、僕のうちに帰って来てから、ヨネちゃんは、果肉だかなにかそういうのいっぱいおふくろがあげてたの覚えてますね。ありがとうって。命助けてくれたんですからね。ハハハ。

坂上:ヨネちゃんは絵描きになりたがっていたんですか。

黒田:いや違う。ヨネちゃんは、その後ヨネちゃんとは、小学校は入る前ですからね。その後ね、小学校は入ってから、お絵描き小僧でね、絵ばかり描いていて。で、近所にヨッちゃんって人がいたの。

坂上:紙芝居屋のヨッちゃん。(注:黒田年表 「1938年 子ども心に画家になることを決心、紙芝居屋のヨッちゃんに師事」)

黒田:ヨッちゃんね。紙芝居屋のヨッちゃんっていうのはその頃にやっぱり年季小僧みたいな感じで、町工場に働きに出ていたんですね。

岡村:紙芝居っていうのは当時やっぱりものすごい人気だったんですか。

黒田:人気だったですねえ。で、町工場で働いているわけですけど、ときたま休みの日に自分のところに帰って来て。結局働いていますから、少しは小遣い持っているんです。それでよく休みのときに絵を描きに行ったんです。で、僕も絵描きになりたかったから、絵描きの大先生のように思えた。で、絵描きになりたかったから、ヨッちゃんの弟子みたくなっちゃったんです。で、ヨッちゃんは写生に行く時に、僕たちはいつも画用紙なんですが、一枚に描くわけですが、ヨッちゃんはスケッチブック持ってるんです。当時田舎じゃ、スケッチブックなんていうのは知らなかったですから。画用紙が帳面になっているからこれにはびっくりしたね。で、ヨッちゃんと一緒に絵を描きに行く時はいつも、それを持たせてもらったんです。するとなんとなく朗らか。それを持たせてもらうだけで。いいもんだなあってね。で、何故ね、紙芝居屋のヨッちゃんって言うかというと、近所の子供を集めては、原っぱで、あるいはひなたぼっこしながら、いろいろ紙芝居のまねごとをやるんです。

岡村:本当の紙芝居屋ではないんですか。

黒田:ないんですよ。「正義の味方の黄金バット」なんて言ってね。あるいは「たこのはっちゃん」とかね。そういうのをやってくれるんです。で、結構人気があったんですよ。で、ヨッちゃんだったらお金払わないですむから。ヨッちゃんのあとついてまわるのが楽しくてね。紙芝居はお金払わなくちゃならないって話だから、ヨッちゃんならただでいいんだから。で、人気あったですね。で、その後ヨッちゃんはね、本当の紙芝居屋になっちゃったんです。ヨッちゃんの弟子になりまして、よく一緒にスケッチに行きまして。ヨッちゃんのスケッチブックを持たしてもらってね。弟子っていうのはこんなにすごい先生のそばにいられて、スケッチブックを持たせてもらってうれしかったですね。写生行くって言うと、だいたい風景ですがね。ヨッちゃんが絵具を持ってますから、多少。で、ゆっくり描き始める。で、山を描くと、僕も山を描くんです。ヨッちゃんが雲を描くと僕も雲を描いて。ヨッちゃんが川を描くと僕も川を描く。それからヨッちゃんが松の木を描くと僕も松の木を描く。それでヨッちゃんに言われたんです。「俺の絵ばかり見るな。前を見ろ。前を見て描け」って。だけど、隣にヨッちゃん描いてくれているんですからね。それを描くってこんなに便利なことはないですからねえ。たまには怒られた。ちゃんと前を見て描けって。それで、一番うれしかったのは、ヨッちゃんは社会人になって、多少はお小遣いを持っていますからね、今度僕に一銭銅貨を持って来て、「あめを買ってこい」って言うんですね。ちょっと町の方に行かないと駄菓子屋ないですからね、ちょっと遠くの方までかけっていって。それであめっ玉買って来て。いわゆる鉄砲玉ですね。一銭で鉄砲玉2つなんです、大体。それを袋に入れて。新聞や雑誌のあれを貼った袋ですけど。今みたいにきれいな袋じゃないんですけど。それを僕が持って帰って。2つあるからひとつはヨッちゃん、ひとつは僕。はいって。ヨッちゃんに渡すわけ。で、ヨッちゃんが鉄砲玉ひとつくれるわけ。何で鉄砲玉って言うかというと、当時、江戸時代から明治の時代にかけて、鉄砲の弾っていうのは丸かったんですよね。そっからきてるんですね。

坂上:鉄砲玉っていうとやくざの映画とかで、すぐ死ぬ役の人ですね。

黒田:ありますね。鉄砲玉のように早く出て死んじまえってやつね。

坂上:この略歴に、「1945年8月15日日本国敗戦に決定的影響を受け、戦時体制への反逆。以降アプレゲールとして自由な発想によるアバンギャルドな美術、踊り等に熱中」って書いてあるんですけど。

黒田:生意気なことを書いてますね。

坂上:「日本国敗戦に決定的影響を受け」っていうのは、やはりそれまでとゴロっと変わる、ある一日みたいなのがあったんですか。

黒田:まあねえ、日にち経ちますけど、徐々に変わっていくわけですけどね。ですけど大きな目で見るとはるか変わったようでね。僕にとって尊敬出来る人はヨッちゃんだったですね。っていうのはあめ玉もらえるってことですね。それからたまには、五銭渡されて、「おまえアンパン買ってこい」って言われてね。これにはびっくりしたな。あんぱんっていうのは本当に高級ですからね。で、あんぱん屋に行って、たしか五銭だったかな、あんぱん買って来て。それでもらえたんですから。弟子ってものはいいもんだなあって思ったですよ。僕も子供心にまさにヨッちゃんは尊敬できる最高の先生だったですからね。

坂上:どれくらい年が離れていたんですか。

黒田:僕から見るとけっこうおじさんに見えたんですけどね。

坂上:でもたぶんもしかしたら若かったんですかね。

黒田:若かったんでしょうね。今でも、ヨッちゃんのようにあめ玉くれて、あんぱん半分くれて。こういう先生に恵まれたいなあ、会ってみたいなって思ったですね。そういう人にまた会って、そうやって弟子になってみたいなって思ったですね。僕にとっては最高の先生です。あめ玉くれてあんぱんくれたんですから。でまあ、ちょっと飛びますけど敗戦ですね。昭和20年8月15日。で、たまたま、ちょっと生意気になってきましてね、ちょっと町に出ると、古本屋によく行きましてね、古本めくったりしてね。

坂上:それは桐生とか。

黒田:桐生の町ですね。で、その古本屋さんから、ちょっと本棚みたら、ちょっとぎょろ目の男の写真が載ってるんですよ。それでね、頁めくってみたら、いわゆる○○○○○○×××って、伏せ字ですね。ほんとです。伏せ字っていうのは知らなかった。何で○○○、何で×××なんだってね。不思議な本があるなあって。それで写真見たら、いわゆる大杉栄ですね。非常に魅力のある男で。早速その本を買って、生意気にもめくって読んでみたら、割に大杉の本っていうのは読みやすいんですよ。文章があんまり。ま、ちょっと大杉ってしゃれもんですから、カタカナ用語が多いですがね。カタカナ用語が多いっていうのがまた僕にとってはねえ、生意気ざかりだったですからね。それに惹かれたんでしょうかね。

岡村:大杉栄の本っていうのは、普通に、その当時出回っていたんですか。

黒田:これは戦前に出たものですね。それが古本屋に出ていたんでね。で、まあ、大杉の写真が出ていて、ちょっとギョロ目の男でね。そばに可愛い女の人が。だっこしてたかな。それが大杉の娘の魔子ですね。いやあねえ、一応大杉の本読みましたですけどね。何かそれも○○××とか大杉の写真とか非常に惹かれたですね。まだ大杉の思想についてはちょっとわからなかったですね。非常に危険な人だっていうのはわかったです。僕も一応思春期ですから、好奇心強いですから、そういう人に会ってみたいなって。そういう危険人物っていうのは共産党の事務所にいるっていうんで。それで共産党の事務所に。その後に、アナとボルっていう、徹底的な対立関係、知らなかったですけどね。アナに入りたくて、ボルの事務所に行ったわけですよ。いっこうにそういう人に会えなかったですけどね。それでおもしろかったのは、戦後すぐの時だったですから、その後少したってから左翼ブームで左翼出版物だすわけですけど、その頃はまだ左翼出版物は東京の印刷会社も焼けていましたから新しいものは出来ていなくて。結局古いものが置いてあったですね。2Fがあって、2Fにみんなそういう資料が置いてあって。それを見て勉強しろってわけですけどね。そこにあったのは『ニューマッセズ(New Masses)』っていうアメリカの左翼系の雑誌だったです。あるいはアメリカ共産党の出版物だったのかもしれなかったですけどね。でしかも、横文字で。写真がふんだんで。ものすごくモダンに見えたですね。それから新聞が置いてあって。ちょっと古い新聞ですけど。いわゆる戦前に出た新聞ですね。戦前には共産党が『赤旗(せっき)』っていわゆる『赤旗(あかはた)』ですけど戦前は「せっき」って言っていたですねえ。『赤旗(せっき)』って新聞が出ていて、これ共産党はいろいろ非合法の機関紙ですから、『赤旗(せっき)』っていうのは非合法で出していて、それから一般大衆向けに『無産者新聞』って出したんですね。『無産者新聞』あるいは『無産新聞』(注:正しくは『無産者新聞』)。その『無産者新聞』」か『無産新聞』だったかに、いわゆる戦後はね、無産者って言葉はあまり使われなくってね。戦後は一時期プロレタリアートなんて言ってね。カタカナ用語にあこがれたからね。うちに帰って父ちゃんに「父ちゃんは貧乏人だから、父ちゃんはプロレタリアートだね」って言ったら、「お前どこでそんなこと覚えてきた」って。戦後。プロレタリアートだねえって。父ちゃんびっくりして。何だかそういうふうに言ってみたかったわけだよ。

岡村:そういう言葉を使うと危険だっていう、雰囲気はまだあったんですか。

黒田:ちょっとね。それからまあ、好奇心旺盛だったからそういう言葉使ってみたかったんですよ。プロレタリアートとかブルジョワジーとか(笑)。

岡村:時代もあるでしょうね。それで共産党の事務所に出入りをした。

黒田:出入りしました。それで、まあね、古い資料置いてあって、そういうものを見て勉強しろというので置いてあって。それでまあ『ニューマッセズ』。これ非常にモダンな雑誌でかっこよかったです。もちろん僕は読めませんが。それから、『無産者新聞』か『無産新聞』、それをとって。そしたらばすごい漫画が出ていたんです。モダンで、しかも力強くて。それが、柳瀬正夢ですね。「労働者諸君」なんつってですね(笑)。

岡村:無産者新聞に柳瀬正夢が。

黒田:載っていたんですね。『無産者新聞』か『無産新聞』かどっちかですね。でねえ、僕自身もね、いままでおとなしい静物や風景を描いていたんですがね。ヨッちゃんに教えられたってんで。ずっと戦後やってきたんですけどね。そこでこういうふうなもんを見ちゃってね。なんかこういうふうなもんを描きたくなっちゃったんですね。柳瀬正夢みたいなね。柳瀬正夢っていうのはドイツのゲオルグ・グロッス(George Grosz)の影響をかなり受けていますね。ベルリンダダねえ。

岡村:黒田さんはそういう意味で最初に大きな影響を受けたのは柳瀬正夢。

黒田:柳瀬ですよ。ね。柳瀬。柳瀬を知ったのは結局大杉の『日本脱出記』って本ですね。柳瀬のことは書いていないけれども、大杉みたいな人に会いたいってことで共産党の事務所に行って。共産党の事務所に行くと資料が置いてあって。そのなかに『無産新聞』があって。見てみたら柳瀬正夢だったですね。柳瀬正夢は大正時代のダダっていう、村山知義のダダとは言っていないけど、意識的構成主義だって言ってますけどねえ。一種のダダですね。

岡村:そこではじめてダダイズムみたいなものにも触れていった。

黒田:そうですねえ。若さですね。絵を見ただけでダダになっちゃってね。ヨッちゃんにね、あめ玉もらってあんぱんもらってすっかり感激してさあ、ヨッちゃんすばらしい。それと同じですよ。発想も同じなんですよ。

岡村:でもその根底に共鳴するものが黒田さんの場合あった。それがたまたま絵であったことで。

坂上:気持ちが毎日劇的な感じだったんですか。

黒田:そうです。戦後はねえ。一日一日変わっていきますからね。

坂上:いろいろなものを目にするたびに。

黒田:そうそう。

坂上:気持ちがどんどん。

黒田:ねえ。

坂上:やっぱりそれくらい戦争が終わったっていうのは大きなことだったんですか。

黒田:そうねえ。運送店の小僧をやってましたからねえ、いろいろな面でねえ、共産党のお手伝いをしたっていうか、させられたっていうか。例えば共産党のビラ、出版物はですね、当時駅に届けられるんです。当時、『赤旗新聞』ね。届けられるんです。そうすると僕、駅に出入りしてるから、仕事の合間を縫って、『赤旗新聞』届いているやつを、当時のことですから、こもかぶりで荒縄で結わいてあるだけですから、それを『赤旗新聞』。それを僕が預かって、自転車のうしろに乗せて、共産党の事務所に届けたんです。毎朝それやってたんです。会社には内緒でしたけどね。それで、僕の仕事、朝の仕事は郵便局にいろいろな郵便物が届くんですよ。それを私書函って言ってね、箱みたいなのがあって、その中に郵便物が届いているんですよ。それを僕はカギを預けられて、そのカギで開けて。で、運送店あての郵便物が毎日来ているんです。その私書函を取りに行くのが僕の日課で、共産党の事務所がそのすぐそばにありましたから、郵便物を取りに行く、ついでに、共産党の事務所に『赤旗新聞』を届けて。共産党の事務所の中でそれを分けて。それを、当時国鉄でね、管区で赤いバッジを付けている人たちが、青年たちがいっぱいいたわけ。それらは共産主義、青共(せいきょう)青共って言ってましたね。青共、青年共産同盟の連中ですね。今はそういうバッジつくると職務上禁じられているみたいですがね。当時はまだ。得意になって赤旗のバッジつけてましたけどね。で、機関区の『赤旗新聞』届けるのが僕の役目。

坂上:新しい思想に。という感じが。

黒田:そう。それから、昭和22年ですか、「2.1スト(にいちすと)」っていうのがあったんです。これ戦後最大のストです。まああの、それはストは中止されて。

坂上:どこであってどんな感じだったんですか。

黒田:まあだいたい国鉄を主として全国止めちゃうわけですから。おそらくあのストが成功していれば戦後最大ですね。だから、当時非常に噂は出ていて。このストをきっかけにして、日本に革命を起こすって。

坂上:共産主義の国をつくるのですか。

黒田:その先の先になりますけど、最初のステップですね。ストライキをして。民主戦線を築いて。民主戦線内閣をつくろうってわけ。それで、噂ですけどね、人選まで行われたたそうですよ。例えば野坂参三が昭和21年に帰ってきましたからね。野坂参三を外務大臣にして。社会党の、共産党に対して仲のいい左派の中から内閣総理大臣府をつくって。内務大臣が誰々とか。いろいろ人選まで噂になっていましたからね。実際にそういう動きがあったのかはわかりませんけどね。我々の間では、そういうふうな話まで出ていたんです。革命前夜のような。とにかく革命前夜で、日本は燃えていたんですからね。それが昭和22年です。ところが、その2.1ストはその前夜ね、マッカーサー司令部によって、大変なことになりますからね、それ実行されればね、あの、中止せよって命令が出たんだね。当時の闘争委員会の責任者が伊井弥四郎っていうのね。伊井弥四郎はGHQによってピストル突きつけられて、それでスト中止を宣言したと。ピストルは突きつけられてはいないけど、そういうふうなもんだったと。GHQっていうのは絶対的な権限がありますから。

岡村:GHQの占領政策はこの頃から変わってくるわけですか。

黒田:そうそう。で、伊井弥四郎は泣きながら放送した、結局中止になった。戦後最大のが成功しなかったんだね。ストだったんですがね。

坂上:その前の年にはじめてメーデーに出るって。

黒田:そうそう。それからメーデーは昭和21年でね。

坂上:どんな感じだったんですか。

黒田:あれはねえ、おもしろい。戦後はじめてですからね。戦前はメーデーあったけどね。

坂上:戦争おわっておおっぴらに。

岡村:食糧メーデーっていうのが

黒田:その年だったですね。僕らんとこも、割に保守的な職場ですから、保守的なんですけども、保守的であるがゆえに労働組合がつくられたんです。というのは、保守的ですから、労働組合って会社の命令でつくったんです。っていうのは労働組合をつくらないと役所から怒られるからって。しかも役所はアメリカから怒られるからって。(笑)そういう時代だった。ちょっと信じられないよね。それでね、組合によっては職場のいろいろなことの力になるっていうのが総務部ね。総務部長ですね。あるいは庶務部長ですね。進駐軍に怒られるから労働組合つくらなくちゃならない。会社の方も労働組合つくるなら、会社のシステム、管理職に、すべて命令したわけよ。で、いやでも総務部長や総務課長が労働組合の委員長になったんですよ。で僕のところの会社もね、庶務課長が委員長になって労働組合がつくられたんだよね。ところが労働組合のシステムも傾向もそういうものがわからないのね。で、産別会議に参加したの。あんな保守的な組合がね、一番左翼的な労働組合の全国組織に入っちゃったんですからね。

坂上:戦争が終わってその次の年にはメーデーがあって、その次の年にはストがあって。すごい激動ですね。

黒田:ほんとです。だからね。役所で労働組合の人は、役員は集まれって命令が役所からね。それはアメリカ軍のGHQから派遣された人が来るからって。必ず一名出せって。必ず連絡が来たんですね。で、僕の会社の労組の委員長っていうのは、真面目すぎるんです。会社の仕事がいそがしくて、労働組合の方が疎かになってしまったの。あんまりそういうことが好きじゃないの。それで、誰でもひとり出せって、顔が立つから。それで、僕に行ってくれって。よく僕はそういう労働組合のそういう役員会に出されたんですよ。役員会に出ているからみんな顔見知りでね。共産党員ですから、みんな共産党のシンパなんですよ。共産党で会った連中ばっかりなんだから。で、アメリカ軍の兵隊の方が来て、話するわけね。我々はそれを聞くわけ。共産党と同じ様なことを言うわけ。労働者は団結しなければならないって。(笑)。労使は対等であるって。まさにそういうわけですけどね。GHQはそうやって言っていたんですからね。

岡村:それは財閥解体がそうした目的で最初そう言っていたわけですね。

黒田:そうだね。

岡村:それが強くなっていくと逆にまわっていくと。

黒田:そう。間もなくね、労政事務所ですね。労政事務所っていうのは大体労働組合関係のそういうことを扱っているわけですね。労働基準局っていうのは職場のいわゆる労働事情について扱っている事務所ですね。労政事務所と労働基準局ってね。労政事務所でね、『労働』っていう新聞が労政事務所でつくられていて、それを各会社に配布されていたんですが。それなんか見ると、赤旗の文化欄に書かれているようなことは何か載ってたですね。役所の新聞なのに。メーデーの意義についてとか。ハハハ。

岡村:おもしろいですね。

黒田:それから当時はね、日本の労働組合の大きさはだいたい産別って言ってましたですね。左が産別。右よりの方は総同盟って言っていたですかね。産別っていうのはだいたい共産党系って言われているんですけどね。もちろん社会党の人達もいますけどね。社会党系の人達。それから総同盟の方はだいたい社会党の右派だね、牛耳った労働組合の全国組織。僕らの会社は産別系だったですね。たまにそういう労働組合の一番一生懸命に文化活動というかいろいろなことをやっていたのは教員を中心にやってました。それで、いわゆる勉強会ということで、教員組合から出たと思うんですけどね、羽仁五郎が呼ばれたの。羽仁五郎はね、群馬県に縁のある人なんです。で、羽仁五郎を呼んで勉強会をやったりしたんです。

岡村:それで何か芸術サークルのようなものは出来たりしなかったんですか。

黒田:それまでは出来なかったですね。まあ羽仁五郎にはびっくりしたですね。我々は待っていたら羽仁五郎はさっそうとした格好で現れたわけ。ダブルの背広で。それで、あの人シャレ者ですから。蝶ネクタイして。こんな大きな鞄を持って。洋行帰りの鞄を持ってさっそうと現れた。みんなびっくりしたですよ。そしてまあ羽仁五郎の話はじまるわけですけど。その鞄の中から新聞出して開いてみせて。英字新聞なんですよ。当時教員なんかでは多少英語を読める人もいただろうけどね、それほどねえ、まあ、英語を、当時英語っていうのは敵性語だったから。多少少し位読めた教員はいないわけじゃないですけど、英字新聞なんてそんなとこまで行っていなかったですからね、みんなびっくりしたんですよ。で、羽仁五郎はぺらぺらっと英語を読んだわけ。それこそみんなびっくりしてね。いやあ、まったくそれが羽仁五郎らしさ。キザな人ですね。それで、何か、第一声が、英字新聞が開かれているんで、オーストラリアだったかな、オーストリーだったかなあ、オーストラリアで日本のことがいろいろ問題になっていると。そして、今、日本負けて大変な騒ぎになっているけれども、戦前において日本は安い商品を大量に生産して、それが進出して、いろいろと資本主義の資本主義同士の戦争でいろいろな国が被害を受けたと。日本はそうなってはならないと。いわゆるソシアルダンピング。羽仁五郎はソシアルダンピングって言って。それもまたびっくりしたですよ。羽仁五郎の話によると、日本は団結して労働賃金を高くして、ソシアルダンピングをさせないようにして、叩こうじゃないかとそういう意味なんです。賃金を安くさせて、その上商品を、海外とのね、戦争において、日本の資本家は勝とうとしているから、そうさせてはならないとね。労働者は団結して賃金を高くして闘おうというそういう意味でしょうね。それから、羽仁五郎は、また話が大きいんですが、GHQから呼ばれたって。怒られたお小言でもされるのかと思ったら、GHQで日本の将来についてご意見はありませんかと言われたらしいんですね。ま、羽仁五郎の話はそうなんですよ。日本の有名な歴史学者としてGHQからお呼びがあったんじゃないですかね。で、羽仁五郎の話によるとGHQから「日本の将来をどう思われますか」と「ご意見を出してください」と。羽仁五郎は躊躇することなくね。あの人はマルクス主義者でねえ。マルクス主義の正統派と言われている人ですから、唯物史観ですか、その言葉でね、日本の歴史というものは、社会進化の過程において、必然的にそこに革命が起きて、そしてそれがやがて社会主義革命となり社会主義国家になると。それをGHQで言ってきたと言うんですね。つまりマルクス主義の唯物史観によると、何か、原始共産制ですね。その次が、奴隷制社会。その次が封建制社会。生産手段によって変わるんですがね。奴隷制社会。封建制社会。そしてブルジョワ革命があって資本主義社会。そして発達した資本主義は必然的にプロレタリア革命があって、そのプロレタリア革命から社会主義革命と。それがねマルクス主義の唯物史観のプロセスですねえ。だから、羽仁五郎はね、マルクス主義者として必然的に日本も社会主義国家になっていくだろうと。遠からず。と、GHQで話をしてわたしは帰ってきましたと言ってましたねえ。ま、遠からずそうなるって言ったし、僕らもそうなると思ってましたから、まわりの者も拍手喝采です。ところが遠からずが、それからだいぶ経ってますけどねえ、ハハハ。

岡村:そういう活動の中で『原爆の図』が桐生に。

黒田:そうなんですね。

岡村:1951年、昭和26年ですね。当時の資料を。僕の資料はガリ版なんですけど。

黒田:そうですか。

岡村:桐生市モリマサ百貨店。1951年2月22日から2月25日まで。主催、群馬美術鑑賞会。賛同発起人、前橋。この前に前橋でやっていて。で、その記録がここにあるんですけど。発起人は市川為雄。それから関口(志行)、何て言うんですかね、市長ですね、前橋の。

黒田:市川さんは前橋の人ですね。

岡村:そうですか。おそらくですね、前橋でやったものがそのまま桐生に。ええ。この時はどうも(丸木)俊さんたちも行ったようで。前橋と桐生とたぶんセットで、展覧会をしてからまた、自分のアトリエの方に戻られたと思うんですが。この辺の経緯は黒田さん覚えてらっしゃいますか。

黒田:覚えてますね。えーっと。昭和23年か24年頃に、当時桐生辺り周辺に2つの美術団体が出来てね。ひとつは「Q人会(きゅうにんかい)」って。西洋のQですね。これは、スタートは9人からスタートしたから、そっからQ人会ってつけたんでしょうねえ。

岡村:でも、数字じゃなくてアルファベットのQ。

黒田:「新創会(しんそうかい)」。ってのが出来て。僕はその「新創会」に属したっていうか。地方のそういうお絵描きのグループで。そして何か、美術協会みたいなのが「新創会」と「Q人会」を網羅して、それ自体の会がつくられて。そこらへんで、いわゆる『原爆の図』を桐生に持って来るっていって。それで美術協会の人たちがみんなお手伝いしたんですね。

岡村:美術協会の中から持ち上がった話ではなく、共産党主導ですかね。

黒田:やっぱりそうでしょうね。

岡村:それで美術協会がお手伝いをしたと。

黒田:と思いますけどね。わかりませんけどね。僕もまだ、子供みたかったですからね。それでまあ僕はあんちゃんこですからね。いろいろつかわれて。絵を描いているのに大工さんをやっている人がいて、大工さんとそれの展覧会のお手伝いっていうのでね。ま、モリマサって出てますけどね。あそこはたしか、戦前はタカシマヤと言ったかなあ。

岡村:タカシマヤ。

黒田:タカシマヤってデパートがあったんですよ。といってもおそらくね、2階建ての建物だったと思いますけどね。そんなに高くないですからね。2階屋で。

岡村:2階で展示をしたと。

黒田:おそらくね。3階まではなかったと思うんですけどね。2階屋で、そこは戦前はスーパーっていうかデパートみたいなもんですが、軍事下に入ってそういうもんではやっていけなくなって、そこはいわゆる軍事工場みたいになったんです。軍事工場で。だからあまり大げさな工場じゃなくて、ちょっとした部品を組み立てる程度だったんですね。

岡村:じゃあもうデパートではなくなってしまっていた。

黒田:そうですね。

岡村:戦後復活したんですか。

黒田:戦後そのデパートが復活しないで、空き家になったので。展覧会するにはちょうどよかったんですね。

岡村:じゃあ展覧会のときは空き家だった。

黒田:空き家状態ですね。あるいは貸事務所みたくやってたかもしれないですけどね。

岡村:なるほど。で、そしたらデパートで人寄せとしてやるというそういう意味ではなく、貸しホールみたいな感じでそこでとにかく展覧会をやると。

黒田:そうですね。

岡村:お客さんは。

黒田:もちろん来ましたよ。めずらしいですからね。それでね、当時は、画廊もなかったし、美術館もないしそうした経験もないですからね。それで、造作、ふかえさんっていうのが大工さんで、ふかえさん、たしかふかえって言ったかな、名前忘れちゃったけどね。大工さんが、何て言うか、垂木かな、に幕を張って、そこに幕を張って。そこに会場作りをして。

岡村:すごい。会場もちゃんと設営したんですね。

黒田:そうですね。その、僕もお手伝いした。

岡村:運んだりしたんですか、『原爆の図』を。

黒田:『原爆の図』はどうだったかなあ。場所づくりはねえ。場所だけは。それから、いわゆる印刷物できてね。ガリ刷りだったかなあ、あるいは活版だったか、わからん。忘れた。

岡村:今それ持ってらっしゃらない。

黒田:持ってないですね。

岡村:ああ。

黒田:その当時それが大事なもんだなんて知らなかったですからね。今になってみると大事なもんですからね。

岡村:今ないですからね。

黒田:そこに、いわゆるそれに賛同者を。そこに僕の名前も載ったんですよ。生まれて始めて印刷物に名前が載ったんですけどね。うれしかったですよ。賛同者っていうか発起人っていうか。とにかくね。

坂上:お名前はこの名前なんですか。

黒田:それじゃないんですけどね。フフフ。それはいろいろ複雑なあれがありましてね。ウフフ。これは死ぬ時にねえ、アハハ。

岡村:評判はどうでした。

黒田:いやあ、ねえ、びっくりしたですよ。絵が大きいので。いやあねえ、戦争絵画よりも大きく感じましたけどね。僕は靖国の宮で戦争絵画見ましたけどね。あれより大きい感じがしましたよ。

岡村:大きいと思いますね。

黒田:それでこれ思い出したの。「幽霊」。

岡村:「幽霊」ね(注:『原爆の図』第1部「幽霊」)。じつはね、このとき展示された作品は、今、丸木美術館にある作品ではないんです。あれはオリジナルなんですけど、そのときあれは大阪に行っていて。もうひとつ、写しを取っていた再制作版。「幽霊」と「火」(『原爆の図』第2部「火」)と「水」(『原爆の図』第3部「水」)。それが前橋と桐生と行っていたようなんです。時期がかぶっていて。そしてたぶんもう一つの組みの『原爆の図』が展示された一番最初の例だと思うんですけど。もちろんその時は当時の人は誰も知らないですよね。この資料の中に、前橋の麻屋デパートのやつが、一部作二部作三部作及びにデッサン100点は大阪大劇、大阪劇場なんですけど、地下劇場へ出品中の為、三部作の模写を制作して陳列。で、未発表のものを出品したと。たぶんこれは間違いなくて、当時この頃アメリカで原爆展をやりたいと丸木夫妻のところに来たアメリカ人がいて、丸木夫妻も一時はそれに乗り気になって、『原爆の図』をアメリカに持って行こうと。だけどあの頃ですから、もし持って行ってそのままアメリカに処分される可能性もあったので、念のために写しをつくっていたんです。で、ところが結局最終的には危険が大きいと感じたのか、そのアメリカ行きの話を断って、手元に『原爆の図』が二組残って、ということになった。で、まあそのときに大阪で、本当に長く、一ヶ月くらい展覧会があって。オリジナルの方は大阪に展示されて。で、前橋と桐生の方は、もうひとつのつくりたての『原爆の図』が展示された、っていうことがどうも確かだと思うんです。ただそれはそれで、複製だから展覧会の意味が落ちるとかそういう意味ではぜんぜんなくて。このあと、オリジナルも再制作の作品もいりまじって、日本中あちこちで展覧会が行われていて。たぶんヨシダヨシエさんたちも、この前橋とか桐生で展示された作品を持ってずっと九州を回っていたんじゃないかと。僕は見ている。ヨシダさんは否定しているんですけど。当時の新聞記事の写真を見ているとどうも、もうこれは明らかにオリジナルじゃないっていう作品が展示されていて。微妙に違うんです。なので、あの、ま、これからその両方の『原爆の図』がどういうふうに生かされていったのかということをきちんと調べてまとめていかないとなと思っているんですけど。まあ、ちょっとそういう展覧会だったっていうことなんです。でももちろん当時の人たちはそんなの全然気にしなかっただろうし、感動を、絵から伝わって来るものの凄まじさっていうのは、かわりはなかったというふうに思うんですね。このときの展覧会の市川さんとか、丸木位里・俊、と、あと赤岩さんっていう方が牧師さん。

黒田:赤岩栄さんですか。

岡村:赤岩栄さんです。赤岩さんとの対談が『中央公論』で連載されています。それは多分この、前橋か桐生で展覧会をやったときの座談会だったんじゃないかというふうに思いますね。赤岩さんは黒田さんは。

黒田:会ったことはないですけどね。有名なお方ですよ。赤いクリスチャンっていうのでね。

岡村:赤いクリスチャン。それは宗教的には問題なかったですか。

黒田:まあねえ、マルクス主義っていうのは無神論ですから。そこらへんでいろいろ議論があったんでしょうけど。要はまあ世の中の無神論者であろうと有神論者であろうと、世の中を変えていかないといけないという実践行為を持って、持っていれば、お互いに手を結んでと。それから共産党の大衆化路線でね、赤岩栄、あの人、共産党だったですからねえ、宣伝になりますからねえ。

岡村:黒田さん自身は入党はされて、

黒田:してないです。

岡村:していないんですね。

黒田:年がいかなかったから。

岡村:ああ、年齢が。

黒田:だけど実質的には党員以上に。僕はすごくおとなしすぎるから、そういうことになっちゃうんだよね。よく使われたですよね。

岡村:結局は最後まで入党せずに。

黒田:入党せず。

岡村:今迄こられて。それには何か理由があったですか。

黒田:っていうのは大杉みたいな人に会いたかったんですね。

岡村:そうですね。入口が大杉栄だったら。コミュニストではないわけですね。アナーキストですからね。

黒田:まあねえ、昔のね、明治のね、平民社時代の、アナもおるよね。未分化時代のね。僕もいろいろ情報を得ることによって、そういう未文化時代の憧れたですからね。

岡村:柳瀬正夢は、共産党員ですね。そのあたりは厳密な区分けはなかった。表現として柳瀬正夢にという感じなんですか。

黒田:そうですねえ。で、柳瀬正夢はね、結局、マヴォに参加したですね。マヴォに参加して、アナをあけるきょうさんって名前にしたんですね。まあ、漢字で、穴を、明ける、共産党の共、で、三本の三。穴明共三。あなあけきょうぞう。ペンネーム使ってね。ま、柳瀬正夢の若さっていうかまあ、おもしろがっていたっていうかね。そういうところから、アナキズム、共産主義って非常に危険思想だったから、それを拒んでる。自分の名前をペンネーム使ったりして。ね。だからといって当時もてはやされた社会主義リアリズムな絵を描いていたわけじゃないですからねえ。前衛的な絵を描いていたからねえ。前衛的な。劇団もね。

岡村:黒田さんはそういう前衛的な絵を描いて。

黒田:やっぱりそれも描きました。

岡村:よく池田龍雄さんのお話なんか聞くと、芸術の前衛と、政治の前衛とは、なかなか両立しないんだということを。結局、共産党っていうのは、前衛的な絵よりわかりやすい絵を描け、というのがありますよね。誰にでもわかる大衆的なものを。だけれど芸術の前衛っていうのは、そうではなくて新しいことに、つまりわからないことが、わからない人が多くても、新しいことに挑戦していかなければならないというわけで。そういう葛藤のようなものはあったんですか。

黒田:そうねえ、割に無頓着だったからねえ。好奇心が先走ってね。大衆にわからせようとか、大衆を啓蒙しようとかね、そういう考え方っていうのはさらさらないですね。

岡村:あの時代でそれは結構、貴重なというか。やっぱり大衆啓蒙しなければいけないというのが強い時代。

黒田:そうですねえ。僕がねえ、共産党の事務所に出入りしていて、とうとう大杉みたいなのに出会えなかった。だけどね、たまたま東京でね、フラクション会議があるから、お前出てくれるかって言われてね。っていうのは、全日通っていう労働組合があった。これはねえ、日通ってのは大きいですからね、全国組織ですからね、運送屋としてはねえ。まあ、全日通っていうのはねえ、結局まあ、全国の運送屋さんが、集まって、それで日本通運っていう株式会社が出来た。ね。ま、その全日通の労働組合が、日本通運の労働組合が全日通ですね。全日通の大会が開かれるので、共産党っていうのは非常に用心深くて、大会が開かれる前に、フラクション会議だね、戦略戦術を考えようという、大会対策ですね。それをやるからといってね、そういう通達が党本部からきたんです。ところが運送店関係の人がひとりもいないの。僕しかいないの。それでねえ、地区委員会から言われてねえ、お前、こういう通達が来たんだけども、お前、行ってくれるかって。僕もまあ東京行きたいですからね。で、行くよと。でね、当時ねえ、確か、切符買うのがちょっと大変だったのかな。切符の枚数が決まっていたんですよ。遠距離になると、東京は遠距離だからね。運送店にいると切符買いやすかったからね。それでまあ地区委員会から僕は派遣されたという証明書を出してくれて、地区委員会のスタンプをだーんと押してくれて。それで、年少者なのでよろしくお願いしますと書いてあって。それを持って明日東京行ってこいと。それで僕は東京行くことになりましてね。それでうちへ帰って何か共産党関係で出張するなんて親に言えないでしょう。親に言わなかったんだよね。だけど明日行くからって用意したわけよ。朝早く出ましたね。家を。朝早く一番列車でね。当時汽車ですからね。それでね、弁当持って行くのどうしようかって、早く出て行くからおふくろ弁当もつくれないしってねえ。それでね、かつぶしのね、今みたくけずりかつぶしってないですからね。かつぶしのこんな大きい奴ですね。あれを僕のじゃない、大工さんのかんながあってね、そのかんなでこう、ズーコズーコって。これ僕の仕事なのよ。で、かんなが切れなくて大変なのよ。つるつるして。ゼーコンゼーコンってね。で、このくらいになるとかんなかけ危ないんですよ。それを残して引き出しに。それが溜まっていたんですね。僕はかつぶしのあれをしゃぶっていれば、飯、幾日か食べなくてもいられると思ってね、で、かつぶしのけずりかすをポケットに入れて。で、まあ、朝早く出たんです。出て、汽車に乗っかって東京に、上野に出たのかな。上野に出て来て。それで、山手線に乗ったのかなあ。で、代々木、共産党の本部が代々木にありますからね、代々木の駅降りて、ここに来て。駅降りたらば、左の方に行かないで、右の方に行って。共産党に行く時は左ですからね。右の方に、共産党っていうのは地区委員会があって、その上に地方委員会があって、その上に党本部があるんですね。で、地方委員会に、市川のおじいちゃんがいるから、そこに挨拶して行ったらいいよって言われていたんですね。で、市川のおじいちゃんっていうのは、市川正一っていう共産党の大先輩なんです。これは徳田球一の先輩です。戦前の共産党の委員長ですね、市川正一っていうのは。で、市川正一はね、獄中で亡くなったんですね。それで市川正一は裁判のときにいろいろな歴史について述べたのかな。あるいは誰かに、誰に述べたかわかりませんけどね、口述したんですね。それを秘密のうちに戦後まで保管したんです。それを持っていたのが羽仁五郎ですね。羽仁五郎は、共産党の歴史を、市川正一の口述したものを、戦時中ずっとね、秘密で持っていたんですね。で、戦後はですね、この口述文を、日本共産党の暁書房って出版社できましてね、赤旗新聞は暁書房で出版したんですがね、また別な暁書房があってね、同じ親戚みたいなもんなんですよね。暁書房から『日本共産党小史』っていう単行本出して。それは日本共産党の党学校にね、テキストがわりに使っていたですね。その、口述した徳田球一の先輩の市川正一の弟さんが、市川義雄っていうんです。市川正一の関係もあるって、何か、市川正一は共産党にとっては大先輩ですから、大事なお方ですからね、亡くなったですけどね、獄死しましたけどね、その弟さんというね、市川義雄さん大事にされていたんですね。なんかね、おじいちゃんっぽいようなね、なんか共産党にとってはね、水戸黄門のような感じなんですね、一目おかれていたんですね。で、まあ地方委員会に市川のおじいちゃんがいるからってね。みんな、おじいちゃん、おじいちゃんって言ってましたね。市川のおじいちゃんに挨拶して、市川のおじいちゃんが一緒に行ってくれて、踏切をわたると、そこに左側に党本部があるんですよ。結構大きい建物だったですね。

岡村:今の建物と同じ(場所)ですか。

黒田:場所も一緒ですね。今の建物はなんか、大きなもんになってますがね。あのときの建物は岩田さんの所有物で戦前からの建物なんですね。割に立派な建物だったですよ。党本部がそこで、下で何か、赤旗新聞の印刷していたのかなあ。下で何か梱包してましたですよ。赤旗新聞。荒縄で十文字結わいたりしてね。梱包して。それを駅にもっていって貨物で発送したんですね。ってことはその市川義雄さんと一緒に受付で顔合わせして、用心棒みたいなのがいましてね、守衛に。それで通されて下の方で待っていて。しばらく待っていたら、上と下との連絡をですね、なんか潜水艦の中みたく、合理的な連絡方法でしてね。こんな竹筒だか何だかの筒がありましてね。それでね「おーい」って言うと上から「おーい」って答える。それからねえ、いろいろコピーなんかねえ、つくるように上でおこしてましてねえ、共産党は革命的社会主義っていうから、なるほど、合理的なあれだなあって。思いました記憶ありますね。ただ、間もなくね、上から連絡あってね、今日のフラクション会議は中止だって。僕はホッとしたですよ。読み書きも出来ないでしょ。会議に出たら党の会議を筆記して書いて報告しないといけないですね。だからホッとしたですよ。ああよかったなって。だけど帰るには時間があるから新宿の町に出て、新宿の屋台が通りにいっぱい出てましてね。まあ少しは小遣い持ってましたからね。貧乏人ですからお金あんまり使いたくないですからね、かつぶしのかけらをかじりながらねえ。何かね、ストリップの看板があったんですよ。こりゃあ、見たい様な見たくないような。入っちゃおうかな、入らないほうがいいかな。なんかお金がもったいなくってさ。やっぱり僕もちょうど思春期ですからねえ。ええ。あれ、入るもんか、入るまいか。入らなかったです。で、新宿の駅の方に行きましたらね、ちょっとした変なおじさんが、サンドイッチみたく、合ラメで描いたねえ、絵をうしろに下げてねえ。なんか平民新聞って書いてあるんです。で、そのおじさんは新聞売りしてるんですよ。それで見たらね、無政府主義者ってね。生まれてはじめて無政府主義者ですよ。で、さっそくあれは平民新聞だね、平民新聞を売っていたですね。で、すぐ平民新聞を一部買って。で、生まれてはじめて、アナキストに会いたかったですからね、生まれてはじめて会ったんですからね。握手してすっかり感激したですね。で、何事もなくうちに帰ったですね。疲れていたんでぐーぐー寝ちゃったですね。そしたらね、突然ね、なんか起こされたんですよ。「おい」って僕を見てるんですよ。おやじが。「お前、どこ行ってきた」って、電気つけられて。いやあ、びっくりした。どこ行ってきたって。どこ行って来たって言えないでしょ。僕はねえ、共産党の紹介状に地区委員会のはんこがべたんと押されてましてね。それがポケットから出てきたんですね。で、あやしいって調べたんですね。でそんなのが出ちゃって。で、「お前はこんなもの行っちゃいけねえ」ってね。あとはお前にはまだ早いって。大人になってからならいいけどね。えらくおこられてね。で、まあ夜が明けて。会社に行きましてね。いつものとおり赤旗新聞を積んであるのをとって、郵便局に行くついでに新聞持って。で、東京に行って来たけれども、夕方帰って来たら報告するからって。会社勤めして。それで夕方帰って来て、地区委員会に出て行った。で、まあ実は東京のフラクション会議は中止になったってね。ああそうかって。それですんだからよかったですね。中止でなかったら、そのとおり報告しなくちゃならないですからねえ。そのときに、僕は新宿の駅の前で買った、見せなければ良かった、平民新聞を自慢に出して見せたんです。そしたらえらく怒られてね。それではじめて知ったんです。共産党とアナキストは仲が悪いって。

岡村:で、東京に出てくるんですよね。東京に出て来て。

坂上:東京に出たいなって思ったのはおもしろいからとか。

黒田:そうですね、好奇心と、絵描きになりたいっていう。

岡村:自由美術ですね。

黒田:東京出てしばらくたってからですね。まあ、ああいうねえ、グループ展みたいな、昭和24年か23年頃に地方に出していたんでね。それから、僕は公募団体の性格とは全然違うですが、一番最初に出したのは、旺玄会ですね。(注:黒田年表「1950年 出品」)今でもありますね。まあ旺玄会のあれ、牧野虎雄っていう人が、あそこの会の親玉だったんでしょうかね。日展の画家ですね。日展系の団体だったんでしょうかね。それからねえ、あれは小野里(注:オノサトトシノブ)さんって人から誘われて、あの方は昭和23年にシベリアから帰って来て。あの方は、僕のところの親父のところに来ていた友達がいてね、その友達が、小学校の小使いをやっていてね。俺の学校にはおめえみたいな、せがれみたいな絵を描いている先生がいるんだって。僕もその当時抽象絵画描いていたから、小野里さんに会いたくて。会ったのは昭和25年だったかなあ。あの方、昭和23年にシベリアから帰ってきたからねえ。昭和24年か25年に小野里さんに会ったんですね。で、小野里さんは戦前にちょっと自由美術の小さいグループ時代に、芸術家のグループに参加したことがあったんですね。で、戦後はシベリアに抑留。で、帰って来てから自由美術で。小野里さんの誘いがあったからかなあ、僕は自由美術に出したんです。

坂上:抽象がみたいなのを描いていたって。何かを見て影響を受けてそういうものを描くようになったんですか。

黒田:割に早くね、抽象とかシュールとか。それは柳瀬正夢の構成主義的なね。

岡村:じゃあこのころは本当に柳瀬正夢の影響を受けて、抽象。

坂上:普通のキャンバスに油絵の具で。

黒田:そうですね。

岡村:おもしろそうなのは、「美術展会場でゲリラ的にパフォーマンスを行いひんしゅくを買う、1951年」

黒田:それはその後になってからですね。それでね、旺玄会出してましたからね。旺玄会みたいな保守的な団体で、そこで僕はシュールレアリスムで出しましてね。サルバドール・ダリみたいな地平線の彼方みたいなのを描いてね、そこに頭蓋骨みたいなのがこうあってね。赤旗みたいなのがこうあってね。そうするとね、旺玄会っていうのはね、そういう団体にはあわないのよ、なんてね。

岡村:戦後すぐに保守的な団体っていうのは、どうなんですか。割とこう活気はあったんですか。

黒田:うーん。何しろ絵を描いているものがねえ。絵描きですからね。そんでまあね、そこの僕の絵は見事入選ってなって。行ってみたら一番すみに置いてある。一番目立たないところに置いてあるの。ハハハ。で、その団体がね、分裂しましてね。その団体の岩井弥一郎って人が出してましてね、日展系の人でしょうね、岩井弥一郎が、いっせん美術会っていうのをつくったんですね。一線。それでこういう会をつくるんだけど参加しないかって。それのまあ発起人っていうんですか、ま、名前を連記されてね。それで入るのにお金がいるんですか、それでまあ、その会派つくられたんですね。そのまま僕は自由美術あたり出していればよかったんですがね。いろいろな人間関係があって、それで、自分自身もあまりねえ、もっと自由に絵が描ければいいなって。そこで、僕がやっぱりねマヴォにあこがれたですからね。マヴォの人たちがいろんなことやってたんですね。単なる絵を描くだけじゃなくってね、演劇関係のことやってたりそれから舞踊ですね、音とか。それからなんか今で言うパフォーマンスっていうか、むしろハプニングに近いですがね、そういうふうなことをマヴォの人たちやっていたってね。非常にアナーキーなんですね。だから保守的な団体、一線美術で、僕みたいにマヴォに感激してそんなの出してって。自分で自分なんか矛盾感じたですね。それでまあね、やっぱり根がね、おっちょこちょいっていうかなんかへんてこなことやりたくなってね。それがパフォーマンスですね。で、美術館の中で「ちょっと躍らせて」って言ったら、「絵描きがね、そんなことやって目立とうとしたってダメだって。絵描きは絵を一生懸命描けば絵描きになれるんだから」って。だけどなんかこういうへんてこなことをやりたくなるのね。

岡村:それは東京都美術館。

黒田:そうですね。

坂上:どんなことを結局やったんですか。

黒田:結局、まあね今の僕のやってるのにちょっと入ってますね。結局ね、「ふーーーー」っとねやってね。

坂上:幽霊みたい。

黒田:そうそうそう(笑)。ものもらいのマネをしてね。

岡村:ホイト芸をそのころやっていたんですか。

黒田:ホイト芸。ねえ、なんかそういったものをやってね。そういったものをするなって言われてね。バカにされたわけですよ。なんかそういうものをマネしたくなるの。ダダ。アナキズム。

坂上:自然にからだがそういう動きを始めたんですか。

黒田:まあねえ。

岡村:それは人を集めてやったんですか。

黒田:いやいや集まってない。人に見せないとこで。

坂上:はじっこの方で。

黒田:そうそうそう。でもね、見た人はね、怒るわけね。「みっともねえからやめろ」って。で、見たひとに田河さんがいたわけ。田河水泡が。田河さんがね「お前なあ、そんなことやっちゃだめだよ。みっともねえから」ってね。

岡村:って田河さんがおっしゃってたわけですか。

黒田:ねえ。おもしろがっていたわけよ。で、「車が来るからな、車に乗っけちゃだめだ」って。つまり精神病院の車ね。お前すぐ乗せられちゃうからって。上手に乗せちゃうからね。乗っかっちゃダメだよってよく言われたの。だけどよくおもしろがってね。それがね、ある日田河さんがね、「俺も昔やってたんだ」ってさ。ハハハ。

岡村:それまでは知ってる人いないんじゃあ。

黒田:いないですよ。

岡村:やっぱり『のらくろ』っていうかそういう。

黒田:そう。

岡村:田河さんはどんな方だったんですか。

黒田:田河さんは普通、あの人は銅版画やってましたね、戦後、エッチング。花とかなんか描いていてね。マヴォでね、演劇やってたって思い出してね。根はね、非常にこう、お祭り気分っていうかさ。ちょっとヨシダヨシエさんみたいなところがあってね。そういう人ですからね。酔っ払うと何を言ってるかわからんのですよ。人はいい人ですよ。そういう人ですからね。「ようね、俺も昔やったんだ」って。ちょっと信じられなかったですね。田河さんがマヴォに参加していたってことですね。

岡村:知らないで。

坂上:偶然出会った。

黒田:そうね。

岡村:でもまだパフォーマンスは、黒田さんの中の中心ではなく、絵の方をやっていくという。

黒田:そうですね。

坂上:絵の展覧会に出したのはこれが最後ですか。

黒田:アンパンにも出してますし。まだ。絵は描いてた。

岡村:この頃東京に出て来て。で、山谷で。

黒田:そうですね。田河さんとの出会いが大きいですね。いい人に出会った。それで「俺も昔やった」って。ちょっと信じられなかったからねえ。あの方はね、本名は高見沢仲太郎っていうのね、田河水泡じゃなくて、高見沢仲太郎。それで、マヴォのときは高見沢仲太郎を名乗らずに、高見沢、なんつったかな、ちょっとど忘れしましたけどね、高見沢仲太郎じゃなかった(注:マヴォのときは高見沢路直を称した)。それからね、落語のね、義太夫みたいなのもちょっと書いていたらしいのね。それもちょっと受けてたらしいんですね。ペンネームはね、落語家らしいペンネーム使ってて(新作落語作家のときは高沢路亭を称した)。で、漫画になって田河水泡に変わってね。で、漫画でね、成功したでしょ、有名になったでしょ。で、かつてマヴォあたりで前衛的なことをやっていたとかね、そうしたことが、あんまり漫画で有名になったのでかげに隠れていたのね。だから田河さんのことはそういうことあまり知られてないのね。で、このマヴォっていうのはね、ご存知だと思いますけど。村山知義ってね。東大出ですね。哲学出たんですね(注:村山知義は東京帝国大学中退)。そういうこともかねて勉強にドイツにいきましてね。ところがちょうど第一次欧州対戦の終わった時点、前後ですから、ヨーロッパ荒廃していて若者たちは新しい世の中つくっていこうって。新しい芸術をつくっていこうって雰囲気あったですね。最初は未来派。未来派のあとはですね、構成主義とかダダイズムとか、いろいろもろもろいっぱい出て来てね。そういったドラマチックなものに村山知義たちが絡め取られてね。そのなかで、活躍しちゃったんですね。ドイツでね。それでまあ日本へ帰って来て。マヴォって団体をつくった。当時のね、若いちょっとダダ的なね、時代に対してね、まあ、反逆していこうとしたんですね。熱かったんですね。そのなかのひとりが田河水泡で、柳瀬正夢だったんですね。その他諸々いたわけだね。それからね、当時ね、これは美術じゃないけどね、伊藤野枝の最初のだんなだった辻潤。伊藤野枝はね、九州の田舎にいいなづけっていうか、一緒にさせられるべき人がいたのにそれをほっぽって東京に出て来て、辻潤のところに入りこんじゃって。

岡村:それで大杉栄のところに。

黒田:そうですね。まあね、田舎者ですからね、最初から嫌いなんですよ。でまあ、辻潤のところに転がり込んじゃうのね。当時辻潤は当時はなかなかいい職を得られなくってね、いろいろやっていたんだけど、ところが運良くね、上野の女学校の先生になったんですね。それで辻潤は英文学に非常に通じていてね英語が読めたんですね。で、この年で、英文の詩かなにかを朗読すると、辻潤っていうのは声がよくてね。朗々とした歌声でね、英文学の詩を朗読した。そうすると女学生みんなぼーっとして。そういう才能はね、のちになってもありますね。そのなかのひとりが野枝だったんですね。それでまあ野枝はまあ、田舎へ帰ってね、おしつけられたんだけども、東京に逃げ帰って来た。それで、辻のところへ先生先生って転がり込んできた。辻潤も困っちゃってね。当時教え子と一緒になっちゃったら、辻潤これになっちゃうでしょ。これになるでしょ。これになるからねえ。辻潤もまんざらじゃなかったんでしょうね。野枝はそれだけ魅力があったんでしょうね。それで辻潤は野枝と一緒になっちゃった。で、学校これになっちゃってね。ああ運がよかったっていうか運が悪かったというか。まあ、当時のね、いろんな女性が文学者になっていろいろ文章残してますけどねえ。野枝はね、決して、美人じゃなかったんですね。田舎臭かった。女性から見るとそういう雰囲気なのかな。だけどやっぱりね、辻潤はねえ、ころがりこんだんだから、これになって一緒になっちゃったんだから。大杉にしたってねえ、まあ最後までねえ。生活したんですからね。それなりに野枝っていうのは魅力があったんですね。

岡村:僕はあの時代のひとたちを見ていると、男女関係のすさまじいところがあるじゃないですか。すごく不思議というか面白いというか。平塚らいてふにしても男の人を変えて行ったりとか。あれは何なんでしょうかね。仲間内同士でこう。

黒田:当時はねえ、新しい文化、新しい生き様、そういう時代だったですからね。

岡村:やっぱり旧来のモラルを壊していくっていう。

黒田:そうそう。

岡村:それで恋愛も自由だという。

黒田:そうですねえ。そういうところにね、いわゆるダダイズムがあるんじゃないかなと。大正の若者の心を捉えたんじゃないですかね。ましてダダイズムの延長線上にアナキズムがある。アナキズムというのは非常に格好のいい思想だからね。非常に危険思想されたけれどもね、格好いい思想。

岡村:子供とか棄ててくわけですよね。ちょっとしんどい。子供もしんどいですけどね。

黒田:自由恋愛とか言っちゃってね。ま、ところがねえ、野枝は辻潤のところに入っちゃったでしょ。辻潤は困ったと思いますけどね、それなりに仲良くやっていこうとしたんでしょうけどね。ま、野枝は平塚らいてふと会ってね。これが辻潤にとっては、野枝にいろいろと新しいことを勉強させようと、それがよかったんでしょうね。それでまあ、らいてふのところの、「青踏」に入って。でまあ、そこで、大杉なんかもそこで出会った。で、大杉が渡辺なんとか(渡辺政太郎)っていうねえ、辻潤宅へ遊びにきて。そこらへんから妙な動きが出ちゃうのね。やっぱり野枝がね、その当時の大杉っていうのは危険人物でしたからね。また格好のいい男でね。背が高いしギョロ目で話がうまいし。うまいっていってもねえ、流暢なんじゃないんですね。あの人はどもりなんですね。どもりなんですが。

岡村:語学がすごいって。

黒田:そうなんですね。演壇だってどもりながら話すとそこに熱が入って、それが引きつけるらしいですよ。で、語学の天才でね。辻潤はね、英文ですけどね。大杉は、外語を出ているのかな、フランス語を専攻したみたいで。それがよかったんですね。アナキズムって非常にラテン系で盛んだったみたいですからね。

岡村:黒田さんはパフォーマンスで大杉栄のことを。最近は結構それでやってますね。

黒田:それでやってますね。野枝にしてもね、大杉のね、男らしさというか、それなりに魅力があったんでしょうね。後になって、野枝は言ってますけどね、大杉は危険人物で、もしやことがあって、大杉と私がこの世から事件があって去るようなことになったとしてもわたしは大杉に会ったことに悔いはないと。ねえ。実際そうなったですからね。野枝にとってもねえ、結局はわからないけどねえ。最高の男を得たわけですからねえ。大杉にしたってそうですからねえ。小田原に近いところの日影茶屋事件ねえ。あそこにねえ、斬りつけられてねえ。あったわけですね。三角関係っていうか四角関係っていうかねえ、アハハハ。ねえ。で、まあ最後にね、最後に野枝は勝っちゃったわけだよね。野枝は去らなかったんですよね。他の女は去ったですけどねえ。まあねえ、あのふたりはねえ、まあ、最後はああいうふうになったですけど、それはあのふたりらしいね、生き様ですよね。

岡村:その一方で辻潤は路上で死ぬんですよね。行き倒れで。

黒田:そうですね。辻潤らしいね。ニヒリスト辻潤。それらしい生活に入っていったんですよ。それで晩年は尺八を吹きながら。

岡村:全国をまわって。

黒田:一軒一軒まわって。もらいっていうか。かどづけっていうか。やはりね、辻潤はね、野枝を忘れられなかったんでしょうね。辻潤はねえ、まあ野枝とわかれたときにね、自分は自由になったと。ホッとさせられたような感想を述べているけどねえ。実際そうじゃないのね。やっぱり忘れられなかったんですね。それが辻潤らしい生活に走ったんですね。あの方は、終戦は昭和20年でしょ、前の年の昭和19年のねえ、11月24日かなんかにね。もう少し生きてれば戦後を迎えられたですけどね。前の年の11月24日ですね。ま、たまたま知り合いが彼の下宿先というかアパートを訪ねていったら、彼はそこで死んでたんですね。死んでいて、無数のしらみがはってたと。餓死したんですね。

岡村:路上ではなく下宿先で。

黒田:らしいですね、ミイラになっていて。

岡村:辻まことはどうしたんですか。

黒田:辻まことさんはねえ、お父ちゃんに憧れてたから。呆れたのかねえ、まことさんはいなかったですね。ひとりだったですね。でね、辻まことさんはね、あれからお父さんに似ててね、音に対するなんて言うかな、才能があってね。マンドリン弾きながら、ちょっとした演奏がうまかったらしいですね。でね、あの方はね、戦後はね、あの方漫画みたいなのを描いていたの。あれなかなかすばらしいの。僕らがもっているような世界じゃなくてもっともっとすばらしいの。あれ何かねえ、読書新聞かなんかに、連載で描いてたんじゃないかな。動物だか昆虫だかを擬人的にとらえて社会風刺の漫画ね。で、あの方、あんまり一般紙に書いてなかったから、それであまり知られてないですけどね。

岡村:黒田さんは、影響を受けてらっしゃるんですか。

黒田:受けてますね。辻まことさんの展覧会が、池袋の西武でね、大きな展覧会あったんですね。

岡村:図録は持ってます。昔ですから展覧会は見てないですけど。

黒田:そうそうそう。あれ早速行ったですよ。あれ、マンドリンも置いてあったかな。で、割に、思い出したけど知られてないんですね。辻まことってのは。西武の社長だか何だかに詩人がいるでしょう。あの関係で辻まことがやられたんじゃないですかね。あんまり取り上げられない人ですからね。いいことしてくれたんですね。

岡村:そうですね。たぶんあのとき一回だけ。ですね。他にやったことはないんじゃないかな。

黒田:あんまり聞かないですね。僕がねえ、アナキストの新聞っていうのは、戦後は平民新聞っていうのが最初なんだけど、平民新聞っていうのは明治の幸徳秋水らが平民社をつくって、アナとボルとか未分化時代でねえ、あの時分は、社会主義者というか、あるいはキリスト教的な社会主義者、それにねえ、リベラルな人たちも参加してきて、平民新聞が出ていたんですね。それで、ま、結局、まあその最後の孤塁を守るっていうのが幸徳の信条ですからねえ。だから平民社っていうのはだんだんアナーキーのねえ、アナキズムになっていくわけね。その伝統をアナキストは持っていて。戦後はね、平民新聞を出していたんですねえ。だから、明治のね、平民のね、平民新聞の伝統は我々にあるということなんでしょうかねえ。平民新聞出したんですけどね。みんな平民新聞が、共産党っていうのは赤旗ですね。アナキストは黒旗なんです。アナキストも赤旗使うときありますけどね。黒旗。赤旗混ぜて。たとえばスペインのアナキストの旗なんかは赤と黒ですね。まあ、最初は平民新聞で出発して、クロハタになって。クロハタの次が自由連合になった。自由連合っていうのは、これは組織原則をね、アナキズムの建前としてね。コミュニズムは中央集権的なね。アナキズムってのは自由な、しかも個人が自由で、そういったなかでお互いに、コミュニケーションつくっていく、いわゆる自由連合ですね。そういう組織原則があって。で、まあ、アナキズムは自由連合って組織でしたね。で、辻まことさんはねえ、おそらく最初の平民新聞から漫画描いていたんじゃないですかね。僕はね、自由連合になってから何回か漫画描かせてもらっていたんですがね。

岡村:ではその頃は抽象ではなく、絵は今みたいな漫画的な。

黒田:そうですね。

岡村:その変わり目はどういう。

黒田:ま、結局、そうですねえ、抽象的なままで、抽象絵画そのものじゃあ、見る側から、不思議な心情。言語がない感じ。抽象絵画って言語がないから。そこでコミュニケーションをとるためには言語がないと。そこで具体的技術を。具象的な、半抽象的な、半具象的な。もちろん抽象絵画に影響受けてますね。それでそういうふうな漫画みたいなのを描いたんですね。

岡村:いつ頃からそういうふうになったんですか。

黒田:それは、柳瀬正夢の無産者新聞見て。それがじわりじわり頭の中にきて。

岡村:それで読書新聞に描いた。

黒田:いや、読書新聞には描いてないですよ。描きたいと思ってたけど。読書新聞に描いたのは、辻まことですよ。ってことはね、僕は、辻まこととはねえ、すごい人いたんだな、って。会いたいと思ったんですけどね。いずれすぐ会えると思った。私らの傾向の団体のすぐ近くにいたわけですからね。で、亡くなっちゃったですからね。だから僕は、自由連合改訂時代にね、自由連合の編集はねえ、秋山清って知ってます? 秋山清って詩人がいるんです。もう亡くなりましたけどね。秋山清。それから大沢正道ってね。結構本書いてますね。あの方は自由連合の編集やってたんです。ふたりで交代でね。大沢正道さんが編集のときは僕は大沢正道さんのところへ原稿を届ける。秋山さんが編集のときは秋山さんのところに原稿を届ける。そういうふうなかかわり持っていましたからね。かつて平民新聞の時代に辻潤のせがれさんが描いていたってねえ。いつでも会えると思っていたんです。ところが亡くなっちゃったですからね。あの時点で話をしていればすぐ会えたんでしょうねえ。残念に思いますね。ちょっと出来なかったです。それからまあ、新宿へねえ、フラクション会議があって、東京に出て来て、そのまま日帰りで、アナーキズムの平民新聞買って。そのおじさんってのはね、あれなんですね、九州の人間なんです。東じゃなかったんです。それがねえ、えー、松下竜一とかいう小説家いますね、あれはねえ、なんか豆腐屋さんの経験があってね、豆腐屋さんのことを書いた小説でデビューしたらしいですがね。で、あの、大杉の子供ルイズっているでしょ、伊藤ルイズね、ルイズのことを小説に書いたりしてました。『ルイズ――父に貰いし名は』って書いてありましたね。映画にもなったですね。そのものじゃないけどね。ルイズについての映画もありましたね。ルイズはね、戦後いろいろ世話になった人といえば、九州の博多ですかね、人形作っていた、博多人形つくっていた、職人なんですね。で、ルイズもそこで人形づくりを手伝いしたのかねえ。で、まあ、その人からいろいろルイズのこと伝わってね。それからまた平民新聞できたときに、九州の方の博多の平民新聞社の支局やってたんですね。それで、もっと一生懸命手伝おうと思って、その彼が東京に出て来て、そこで東京の平民新聞の新宿の駅前で販売してたんですね。その人だったんですね。名前なんていったかな。調べればわかりますね。副島辰巳だ。その人、松下竜一の『ルイズ――父から貰いし名は』って小説に登場しますよ。その販売した人はね。

岡村:年表を見ると、「山谷でいろいろ仕事をしていくなかで知り合ったカメちゃん等とホイト芸を行う、1953年」とありますけど。

黒田:カメちゃんねえ。カメちゃんのことですね。とにかく東京に出て来てね、履歴書を書いて、会社入ろうと思って行くんですけどね、なにしろ、ちゃんとした大きな会社に入っていれば生活的には安定して、絵を描くのに都合がいいと思ったんですね。

坂上:運送屋さんはずっと続けて…。

黒田:東京に出て来るときは、辞めて出てきたんですけどね。運送屋さんの小僧やっていたのが最初で最後ですね、勤めらしい勤めは。で、どこに入ろうと思ってもね、学科で落ちちゃうんですね。初歩的な読み書きで落とされちゃうんですね。まして計算も苦手でね、もちろん代数とかそういうのもできないですけどね、普通の算数すらもね、九九も覚えないうちにそうなっちゃったですからね。今更ここへきて九九を覚えようとは思わないですけどね。九九覚えなくても結構生きてられますからね。でね、会社で面接すると、おとなしくて。面接はうまくいくんですよ。でも学科で落とされちゃう。とうとうちゃんとした会社に入れなくて、一番てっとりばやいのが山谷のあそこへ、泪橋のところへ。あそこは昔都電が通ってたんです。チンチン電車がね。あそこへ朝はやく暗いうちに行って、通りのところに立ってればいいんです。立ってれば手配師が来て仕事に連れて行ってくれるんですよ。立ってるからたちんぼですね。涙橋のたちんぼ。あるいは山谷のたちんぼですね。で、手配師が来て、仕事連れて行ってくれてね。手配師の方はね、仕事できようができまいが関係ないんですね。頭数なんで。お金要求してお金渡すんだけどピンハネしてデズラ渡すんだね。日給のことデズラって言うんだよね。で、山谷ってドヤ街って言うんだよね。宿の反対でドヤ。宿が多いからね。ドヤ街って。ドヤ街の人ってほとんど日雇いなんだよね。それはたちんぼやってるとか。で、たちんぼの仕事っていうのは、闇労働。闇労働市場なんですね。職安に登録されている日雇いの方は、公の、闇じゃないですからね。僕は両方行っていたんですね。職安通しての方はね、仕事と言っても仕事先でちょっとめんどくさがられるんです。っていうのは失業保険、保険入るから、失業保険の手帖と健康保険の手帖と、これあの、企業はね、保険金を出さなくちゃならないんですね。企業は保険に入らないといけないんですね。そのときに印紙を貼らないといけない。その印紙の枚数によって、医者にかかれたりするんだよね。それをまあ、企業って、会社によっては面倒くさがってね。ところがたちんぼできたらね、闇労働ですから、そういうことないですからね。結構重宝がられるんですね。で場合によってはトラブルがあったときにはやくざが中に入ってまあまあまあと抑えてくれる。まあ、両方ともねえ、非常にいろいろかかえているわけですよね。まあねえ、やくざにねえ、ピンハネを許してねえ。ああいうところに。弱者はいじめてね、搾取してるんですからね。僕なんか職安とたちんぼの仕事行ってるんですからね。でね、カメちゃんって僕より上ですけどね、いまして。彼は沖縄の踊りで、ありますよね、カチャカチャするやつ。彼、カメちゃんは自分で竹でつくったやつを、手製のやつをカチャカチャ鳴らしてるんです。で、朝、冬なんか日が短いですからね、朝なんか真っ暗ですよ、それで、カチャカチャが聞こえると、あ、カメちゃん来てるんだなって。カメちゃんのところに行くんです。で、カメちゃんと一緒に仕事に行くとだいたい楽なところにまわされていくんです。カメちゃんってのはね、昔の人っていうのは体小さいですからね、僕もそんなに大きい方じゃないですけど、僕よりも小さいんですで、やせっぽっちでね。決してまあ土方に耐えられるような体型じゃないです。だけど彼はね、くちが達者でね、うまいこと言うんですよ。だから彼のあとをくっついて行くと、おかしらというか、向こうの親分というか、うまいこと言って楽な方へカメちゃんまわしたんですよ。僕の方はカメちゃんのうしろにべたーっとくっついてるから、一緒に楽になっちゃう。だからいっつもカメちゃんのうしろばっかりくっついてるの。で、カメちゃんに言われたんですよ。「おめえ、俺のあとばっかりくっついてくんなよ」って。ですね。とにかくね、口の上手な人で、うまいこというからね。これで生きてきたのかな。本当になんであんなうまいこと言えるのかな。口がうまいから口がとんがっちゃって発達してね。そういう人いるんですね。でるんですよ。口とんがっちゃって。なにしろカメちゃんのあとくっついてれば、そんないいことないですからね。くっついていて。カメちゃんはいつもこれを自慢してるんです。カチャカチャをね。おめえらみたいんじゃないんだぞ、おれは芸人だって、ね。でね、ある日カメちゃんはね、「お前、俺と一緒に回る気あるか」ってね。芸人になってお金もらうなんてそんないいことないですからね。土方は楽じゃないですからねえ。楽してお金もらえるなんてそんないいことない。だから、それでまあ、カメちゃんの弟子になっちゃったんですよ。お願いしますって。でねえ、何のこともないねえ、電車のっかったりあるいは歩いて行ったり、かなり遠くまで行ってねえ。農村ですね、農家へ出て、おもらいですよ。手出すと、さつまいものふかしたのをもらったりね。おにぎりなんかもらったりはいい方で、たまに10円銅貨もらうんですね。なんだ、カメちゃん俺芸人だって言うけど、芸人なんてことはない、乞食だったんですね。なにしろカメちゃんの弟子になっちゃったですからね。

岡村:黒田さんも一緒にまわられた。

黒田:一緒にまわった。だからまわっててねえ、ええ、お正月の後なんかにねえ、僕らのとき、おもらいさん、おもらいさんっていったかなあ、あるいはホイトさんっていったかなあ、「こういうものがあるけど持って行ってくれるか」なんてなねえ。正月にねえ。のし餅の固くなったやつ。あれが。ちょっとカビのはえたやつねえ。「コレもってってくれるか」って。かなりもらったですよ。これをねえ、山谷のすいとん横町っていうのがあってね、それを買ってくれたお店があったですね。それをお雑煮みたくして一杯10円で売ったんでしょうかね。でまあカメちゃんと一緒におもらいに行って。すこし乞食でも格好つけたほうがいいかあって。どんぶりでね、箸でね、叩いてね。箸で叩いて、まあねえ、箸で叩いて少しね、唄でも入れたらいいかなってことで。乞食は割に元気のいい唄じゃうまくないでしょ。そこで、お地蔵様を讃えた「地蔵和讃」っていうのを唄ったんですね。最近あんまり聞かないですけどね。僕のパフォーマンスのときにとりあげて唱ったですけどね。これはね、ま、これは子供の地獄をあつかった唄ですかね。「地蔵和讃」って地蔵様を讃えて唱ってたんですよ。この子供の地獄っていうのは賽の河原に子供の地獄があるんだっていうことですね。昔、子供っていうのはたとえいたずらしなくても、親より先に死ぬってのは親不孝って言われたですね。いたずらやった子にしても、あるいはやらなくても親より先に死んだ子供は子供の地獄へ送られるわけですね。そして、賽の河原で石を積むわけです。積んでいくわけです。ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のためっていいながら積んでいくわけです。で、積んでいくと鬼が来てかなんぼうで払っちゃうわけね。そしたらまた積んでいくわけですよ。で、鬼がまたかなんぼうではらっちゃう。何回も何回も積んでいくわけね。これがまさに子供の地獄。

岡村:最近は大杉栄でその前にやっていた。

黒田:やっていたです。

岡村:おかーちゃーん、って最後に言う。

黒田:はいそうですね。お地蔵様の地蔵和讃。つまりお地蔵さんの、やさしいお地蔵さんを讃えてるんですね。鬼がきてかなんぼうで払っちゃう。それをお地蔵さんが見かねて鬼を追い払う。あるいは子供をね、自分の下へ隠してあげるとかね。かばってくれるんですね。そういうお地蔵様の優しさを讃える唄。地蔵和讃。これはかなり古い唄でね。明治よりもっと前のちょんまげ時代に、坊さんが地蔵和讃を唱ってちーんちーんと鳴らしてお布施をもらっていたんでしょうかね。これは全くね、乞食にとっては、昭和20年、それらしい唄ですね。自分で唱っていて、何か、自分のみじめさをしみじみと感じさせられて涙が出ちゃうんですね。まさに乞食にあってる唄なんです。乞食は明るい元気な唄はあわないですからね。これはね、本当のふしはわかりませんけどね、文句は昔からの文句なんですね。ふしはどっからでたのかわからないですけど、僕はふしをつけて唱ってるんですけどねえ。

岡村:それが黒田さんのパフォーマンスのはじめというか、きっかけになったんですね。

黒田:そうねえ。これはね、はじめ、(唄がはじまる)
これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり

二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
賽の河原に集まりて
(ポンポン ポンポン)
父恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は

ってことだよね、そういうことなんだよね。

一つ積んでは父のため
二つ積んでは母のため

昔はそういう唄を知っている年寄りもいたからね。そういう唄を唱うおじいちゃんおばあちゃんもいたかもしれないけどね。まさにね、乞食にとってはぴったりだったね。農家の土間は広いでしょ。それで僕はでーんとひっくりかえってね、で、カメちゃんがびっくりして「だいじょうぶか、だいじょうぶか」って。それが僕のパフォーマンスの、ハプニングの原点なんですね。いまでも僕はでーんとひっくりかえるでしょ。そっからきてるんですよ。

岡村:でもすごくなにか、ひっくり返るんだけど、体がしなやかというか、転がる様もひとつのかたちが出来ているような気がします。

黒田:頭が弱いですからね。いろいろなことを、覚えられないんですね。同じことの繰り返しなんですよ。マンネリズムなんですよ。毎回繰り返しなんですね。

岡村:舞踏の勉強はなさったことがあるんですか。全部自己流ですか。

黒田:自己流ですね。そういうマンネリでもね、何回も何回も繰り返していくとね、だいぶ変わったねって言われるんですね。自分の意思と関わりなく、体が変えてくれてるんでしょうかね。いつの間にか違った動きに、ほんのわずかでしょうがね、変わっていてね。まあねえ、僕は舞踏家でもないし。ですからことさらに勉強して、っていうようなかたちにはね、いまさらやろうとも思わないしね。やってきたことをね、同じことをやっていてもね、繰り返していればいいんですね。繰り返していればね、そのうち少しは変わるだろうってね。それに気楽ですよ。そのときの、僕の先生は、カメちゃんなんですね。今考えてみると、カメちゃんとの出会い感謝してますね。僕がパフォーマンスして、僕が絵描きとして成功していたならば、僕にとってお師匠さんね、ヨッちゃんでね。ヨッちゃんどうだーいって。もうヨッちゃんはいっちゃってるだろうけどねえ。カメちゃんにしたってね、どうだいって。現代パフォーマンスってね、有名な、今海外で売れてる黒田オサムだよ、なんて。カメちゃんに言って聞かせたいけどねえ。もうあっちいっちゃっただろうねえ。その弟子すらももう80ですからねえ。

岡村:でもそういうのを、ホイト芸というか、いろいろ農村をまわって歩くところから、パフォーマンスを意識して発表に変わって行くなかで、同じ時代の舞踏とかパフォーマンスなんかは意識したんですか。

黒田:そういった人たちとは何もなかったですね。

岡村:なかった、全くそういうことは無縁で。

黒田:なかったねえ。もちろん知識としてそういうことは知っていましたよ。知識としては。まあ話題になってますからね。

岡村:見に行ったりはしたんですか。

黒田:見に行ってないねえ。かかわりもなかったってことはね、僕にとってはマイナスだったのかプラスだったのかわかりませんけどね。

岡村:こういうことを質問すると失礼なのかもしれないけど,パフォーマンスとして何かこううまくなろうとか、高めようという強い意識というのは最初からあまりなかったというか。

黒田:最初のころは余りなかったですね。最近になってからは、現代パフォーマンスアートなんてことで、若い人と、おだてられてるのかわからないけど、外国行っちゃったりとかしてねえ。何かうまいことやって踊ろうかなってこともないことはないですけどね。だけど今更ってことでね。それはそれでいいと思いますね。

岡村:それが黒田さんのおもしろいというか、魅力的なところに感じるんですが。

黒田:まあねえ、このように生まれ落ちてしまったのが残念でね。まあ、だから、ねえ、僕が油絵の具を最初に買ったのが昭和20年でね。油絵具の名前今でも覚えてないですからねえ。赤だ黒だ白だってことで。買って来たからね。古い絵具を、セットじゃなくて、バラ売りで買って。キャンバスのない時代でね。ボール紙に描いて。それがスタートですからね。絵を描いてね。戦後65年って言ってますからね。だから、65年経ってますからね。僕も絵を描いている頃はねえ、先輩がねえ、20年描いてるとかね、30年描いてるとか聞いていたときは、「ええ、すごいなあ、がんばって描いてるんだ」って。僕自身が今振り返ってみると65年経ってますからね。65年経ってますが、絵描きになれなかったですからね。絵を描いているから絵描きって言えないこともない。黒田オサムが絵描きだなんて誰も知らないことですからねえ。お互い、「おっ」「おっ」って挨拶しているだけような世界ですから。それから、大体、身体、体動かすといってもねえ、ちゃんとしたダンサーでもないしね。それから僕はね、漫画描いてね、柳瀬正夢の影響もあったけどね、その間、また何かで食っちゃおうと、新聞の、出版社の広告欄見てね、自分で漫画を描いちゃあ出版社まわりをしたんですよ。で、「こんちわー」って言って。作品見せて。「追って連絡します」って。追って連絡がないんですよ。あっち行ってもこっち行っても連絡なしでね。なかにはね、追って連絡があったこともあるんですよ。でも、だいたい、漫画家にもなれなかったですからねえ。まあ、幸い田河さんと知り合いになって、田河さんに一筆書いてもらって、出版社まわりしたこともありますけどね。やっぱり追って連絡がなくて、田河さんに報告しづらくて。田河さんを避けてましたね。「お前どうだった」って聞かれるのが嫌でねえ。ま、田河さんとの関係は僕にとっては、ちょっと言葉かけられたなあって、幸せだなあって。それからカメちゃんとね、弟子になって、幸せだったです。ヨッちゃんの弟子になったことも。けれどまあ、何をやってもものにならなかったからね。なんでこんなふうに僕を生んでくれたんだって、親を恨んでたですよ。親しか恨めなかったですね。他人を恨むわけにはいかないですからね。だけど今になってね、僕は虫歯が一本もないんですよ。で、今日まで80になるまで、病気らしい病気をしたことがないんですね。海外行ってますね。何事もなく無事に帰ってこられてね。そんな頑健な体じゃないんだけども、割に丈夫に長持ちするようにつくられてるんでしょうかね。これはやっぱり生まれつきかなあと思ってね。親はそういうふうに生んでくれたんだって、感謝しなきゃならないなって思ってますけどね。あんなに親を恨んだことも、今になってね、親に感謝しようと思っても、あっちいっちゃったですからねえ、ハハハ。ああ。だからね、青森の方ですか、あれがあるでしょ、死んだ人を呼んでくれる。

岡村:ああ、イタコ、恐山。

黒田:うん、恐山行って、かあちゃん呼んでもらいたいですよ。で、かあちゃんにねえ、感謝しますよ。かあちゃんにね、フランス行って来たよって。このあいだインドに行って来たよって。

岡村:海外で今あちこちでパフォーマンスされてるんですよね。

黒田:うん。割に海外で喜ばれているんだよね。結構有名なんだよって。ハハハ。

坂上:ちょっと戻るんですけど、「アナキズム的な前衛芸術集団ホワイトプールを提唱」(注:黒田年表「1947年」)って。

黒田:あああああ、生意気なねえ。

坂上:ホワイトプールっていうのは何ですか。

黒田:それはねえ、マヴォから来てるんです。マヴォからね。あの、ま、これはね、大杉が白紙主義っていうことを言っていたんですね。白紙主義って。これはアナとボルというのは非常にこう、異なった反対なもので、反対な考え方で。アナボル論争っていうのはねえ、大きな論争が2回ありましてねえ、最初はねえ、大正12年関東大震災ですからねえ、大正11年、関東大震災の前の年ですかねえ、大阪で、全国の労働組合の大きな総連合をつくろうという動きがあったんですよ。その大会が開かれてね。ボルシェビキ側に乗り込んだんだ。それがアナキスト側の大杉をはじめね、ボル側に乗り込んじゃって。それでまあ、最大の懸案となったのが組織問題でね。中央集権組織か、自由連合組織かっていうんで、争いがあったんですね。アナボル論争ってね。それから昭和へ入って。今度は文学上のアナボル論争ってのがあってね。これはあのプロレタリア文学につながっていきますね。これは、プロレタリア文学というものは、特定の革命的勢力にプロパガンダとして役に立たなきゃならないと。それがいわゆるボル系のプロレタリア文学への考え方なんですね。共産党に役に立つなら。大衆にとって役に立つならと。役割の問題ですね。それに対してアナ系の人たちは、宮島資夫なんてプロレタリア文学の前身みたいなのがいるんですよ。労働者文学というか、炭坑夫を取り扱う小説書いてますね。でね、アナ系の人たちが、我々の方も、決してプロレタリア文学を否定するものではないと。我々の方がプロレタリア文学の本家だとして。ただし、文学というものは特定の政党、特定のイデオロギーに奉仕するものであっていいかどうかとかね。その立場上の論争があったんですね。アナとボルっていうのはね。そのときのアナ側の論者が高群逸枝ね。高群逸枝ってのはアナキストだったね。まあ、いろいろな論争があったんですけどね。ま、どっちかというと、これはねえアナルコサンティカリスムの問題になるんですよねえ。いわゆる第一インターナショナルってあるでしょ。その次が第二インターナショナル。第三インターナショナル。第三インターナショナルっていうのはコミンテルンのことを言ってますからね。第一インターナショナルというのはまだ。第一インターナショナルの呼び掛けの精神というのは、労働者の解放のためにはこれは労働者自身のテーマだと。テーマなんですね。つまり、特定のインテリゲンチャ、思想家、団体によって労働者はね、その人たちに率いられて闘って解放されていくのではなくて、労働者自身は自分自身を解放していくと。それが労働者の任務だと。それが第一インターナショナルのね、最初の呼び掛けなんですよね。それをかたくなに守っているのがアナーキスト側なんですよね。そして、革命というものは、路線というものは、特定な政党、特定なイデオロギーによって書かれて、それに忠実に闘っていくんじゃなくして、労働者自身が白紙の上に書き入れていくもんだという、そういうのを大杉はよく「労働者白紙主義」だと言ったんですね。労働者白紙主義だと。労働者自身が主人だとね。その白紙主義を僕はね、僕は。

岡村:ホワイトプールと。

黒田:そうそうそう。ハハハ。

岡村:なるほど。

坂上:前衛的芸術集団。

岡村:集団ということは、他にもメンバーが。

黒田:まあね、芸術というものはねえ、芸術家自身がねえ、自分からつくっていかないと、芸術家自身が主人だということで。そしてね、新しい試みがね、白紙の上に新しい試みをしていくんだってね、それでホワイトって言ってたのね。それが強制されたものじゃなくて、自然と集まって自然と去っていくんだっていうことでプールですね。

坂上:それを16才で言うというのがすごいですね。

岡村:16才だなんてすごいなそれは。黒田さんものすごいインテリだったんですね。

坂上:16才のときの自分を思い出すとちょっと。

岡村:すみません。ちょっともれていたところで言うと、自由国際大学で、黒田さん随分。そこで針生さんとの関わりも大きかったという。針生さんと知り合ったのはいつ。

黒田:針生さんと知り合ったのはねえ、自由国際大学FIUのできるちょっと前ね、ちょうど60年安保ってあったでしょ。僕はね、60年安保のちょっと前あたりにねえ、日本アンデパンダンに出してましてね。それが読売アンデパンダンにも出していて。間もなく読売アンパンは中止になったですけどね。まあ同じようなアンパンで、日本アンデパンダンと読売アンデパンダンは両方とも同じ様な名前使っていて。それで日本美術会の方が先にやっていたんですね。1960年の日本アンデパンダン展目録をみると、黒田オサムの名前はありません。黒田義輝という名前がありますが、これじゃないですよね。

岡村:それは抽象画を出していたんですか。

黒田:抽象画ですね。それで、いろんないざこざもあって、読売アンデパンダンを告訴しようって。日本美術会で。ま、告訴しなくても読売止めちゃったですけどね。読売の方で、あまりにも手が着けられなくなってもう。で、読売の方は廃止になりまして。僕の方は日本美術会の方にね、出していて、日本美術会に参加していたんですね、安保の前ですね。出していて。それで、あの時分にちょうどソビエトで、ロシアじゃないですよ、ソビエトで、日本現代美術展をやるということで、まあ、あったんですね。

岡村:60年くらい、59年ですかねえ。

黒田:そのくらいの。

坂上:ソビエトで日本の。

黒田:現代美術展をやると。

岡村:丸木位里が出しているんじゃないですか。

坂上:実現したんですか。

黒田:(1962年)実現したんですけど、その人選のことについて。つまり日本に非常にソビエトの美術団体と友好的な団体、日本美術会があるとね、にもかかわらず、日本美術会の公の場にそれを出さずに、討議せずに、個人プレーで、人間関係で、ソビエトで展覧会をやっちゃったってことで。それは大きく日本美術会もめたんですよ。そのとき、僕はね、ちょうど事務局にあたっていてね。誰か、誰か前に事務局長やっていた人が、なにしろ若い人が必要だってわけでね。若かったし、それからいつも自由に、日雇い人夫ですからね、いつでも自由に時間がとれるということもあった。それからちょっとした、かしこそうに見えたんですかね。それで事務局員に推薦されちゃったですね。それで、日本美術会の委員に、というか事務局員にさせられたんですね。いやあ、これしまったってことになったんですね。その時分にその問題が出てきて。もめたんです。そのときの急先鋒が針生一郎なんですよ。

岡村:そうなんですか。

黒田:日本美術会にいたんですよ。それでまあ何回か針生さんとお会いしたんですよね。何しろ針生さんはああいうタイプのお方ですからね、ここで僕に言葉かけないし、僕も針生さんに対して言葉かけれる立場にないですからね。何回かお会いしたんですがね。それからね、針生一郎さんのね、大先輩でね、共産党の先輩でね、宮川寅雄って人がいたんです。美術評論家であると同時にね、中国にも関係あった人ね。あの人は和光大学で教えてたってね。針生さんも和光大学ですよね。宮川さんは針生さんと違ってね、非常にこう、ニコニコしててね、言葉かけやすいし、言葉をかけてくれるんです。「元気かい」とかね。針生さんは言葉かけないし、怖いですからね。根は優しい人ですね。そういうごたごたがあってしょっちゅう会議出ていて。僕もしょっちゅう会議に出ててね。これまた事務局、事務局長を金野新一さんがやってたかなあ。金野さんのところに行って報告しなくちゃならなくってね。それで会議のごたごたを、そのときはわかってるんですがね、○とか△とかババっとつけてね、これはまだとか、これはわかったとか。それをすぐに暗唱すればいいんですが、一晩寝ればその○の意味がわからなくなっちゃって。それで金野さん宅行って報告するんですがね、報告できなくてね、いやあ、まいったですね。役員はもうこりごりでした。まあね、その時点で針生さんと知り合ったんですがね。針生さんが、和光大の先生になったのは宮川さんの口利きじゃないかと思うんですがね。あのごたごたのときにね、日本美術会がごたごたになっててね。当時ね、日本美術会は、新日本文学会もそうなんですがね、共産党の大衆化路線に一環としてされていたんですね。新日文っていうのはなんかね、国際派多数占めてて、その関係で、ちょっと共産党離れちゃったですけどね。日本美術会は依然として主流派で、まあちょっとあいまいだったですけどね。そういうところにいたんですけどね。それでまあ、宮川さんは共産党の古参の大幹部ですからね。あの方はね、戦前の共産党の中央委員をやってたんですよ。宮川さんは針生さんの肩持つんじゃなくって、まあまあまあってことで、って言うのは覚えてますよ。まあまあまあもめないでって。宮川さんはね、ちょうどあの時分の中央委員だったですね。昭和3年頃のね、3.15のあくる年の4.16って事件があってねえ。共産党の連中が、幹部もみんな、ね。狙い撃ちで。もちろん何かあったんだよね。スパイのね。Mって。Mの口車に乗ってねえ。大森ギャング事件なんてのがあるんですよねえ。共産党ってのはね、お金のためならこんなこともやっちゃうんだって。まあ、当局が仕組んだね。そのM事件の時代に宮川さんは党幹部だったんですよ。バカだったんだよ。早稲田大学の生徒の時分にねえ、中央委員会に推薦されたんだよね。というのは、幹部からみんな、パクられちゃったから。

岡村:で、ボイスの。

黒田:交友関係ね。あの、ヨゼフ・ボイスのね、どこで呼んだんですかね。西武で呼んだのか、美術学校で呼んだのか、それが最初で最後ですね。

岡村:西武が呼んだんですね。西武美術館。

黒田:西武ですかね。それで、ボイスってのは、いわゆるすべての人は芸術家っていうんだよね。これはアナーキーの芸術と非常に近いんですね。

岡村:講演会なんかに行かれたんですか。

黒田:講演会行かなかった。

岡村:え、講演会。

黒田:行かないです。全然接点ないですから。あとになってわかったんですよ。それで、まあ、ボイスの針生さんに、まあドイツで実験的にやったFIU国際自由大学ねえ、大学で。ところがまあ原則的に大衆をみんな受け入れて。それでまあこれになったわけですね。で、ボイスはね、本格的にね、国際自由大学をつくろうと思って来たわけですね。どの程度有効であったかはわからないですけどね。ボイスが日本へ来たときに針生さんとその話が出て、それで国際自由大学を提唱したんですね。僕はマスコミからそれを知ったのかな。

岡村:ではもうボイスが帰られたあとですね。亡くなった後。

黒田:まだ亡くなってなかったです。それで、あ、日本美術会で針生さんに顔合せたんです。あ、針生さんここに来ているんだって。ボイスの生き方に非常に僕に近い、アナーキーなものがあって、勉強になったですね。それで、針生さんはね、ひときり、ボイスの関係でしょうかね,緑の党の研究をはじめたんですよ。あんまり針生さんその話もしないでしょうねえ。

岡村:そうですね。あんまり。

黒田:それやっぱりボイスの影響でしょうね。ボイスが緑の党に参加したんで。もちろんあとになって抜けたですけどね。それで、ボイスの思想ってのは、だいたいエコロジーなんですね。エコロジーからきてるんです。ボイスは決して、緑の党というのは決しておかしくないんです。緑の党でね、組織っていうの組織原則ってのは普通の政党と違うんですよね。非常に、こうリベラルな、開かれていて、少数意見もね、ま、多数決で決めたにしてもね、必ず少数意見も表記、一緒にならべて発表するってのがありましたね。だから、非常にアナーキーな団体ですね、今はどうなったかわかりませんけどね。ま。党らしい党になったんでしょうね。それから、フランスのカルチェラタンであった5月革命。5月革命の英雄と言われたコーン・バンディ(注:ダニエル・コーン=ベンディット(Daniel Cohn-Bendit)のこと)。西独の学生ですね。コーン・バンディは大学の小さなグループで産声を上げた。これが5月革命の大きな力になったんですね。その小さなグループはアナキストのグループなんですね。バンディがアナキストだったですからね。コーン・バンディは緑の党に参加していてね、現在は、欧州議会の議員かなんかになってるんですかね。一時期ドイツの地方都市の市長かなんかやったかなあ。緑の党ってのはね、アナーキズムに近い政党なんですね。アナキストの団体ではないけど、アナキズムから影響を受けている。アナキストが受け入れられた党なんでしょうかね。ちょうど5月革命があった年に、イタリーの地方都市で、国際アナーキスト大会っていうのが開かれたんですよ。それはね、なんか、石の出る都市、何ていったかなあ、ちょっと忘れちゃったけど、そこで国際アナーキスト大会が開かれたんですよ。で、各国のアナキストがそこへ登場するわけですね。ひとつのグループに代表が(ひとりいるけど)、ところがね、フランスにはね、アナキストのグループがいっぱいあるんですよ。だから5月革命の英雄コーン・バンディはアナキストの代表になれなかったのね。で、フランスのオブザーバーとして参加したのね。日本ではね、アナキスト連盟はひとつですからね。そこが大沢正道さんね。大沢正道さんが代表でイタリーの大会に出ていたんですけどね。で、5月革命の後ですからね、コーン・バンディは時の人ですからね、コーン・バンディが来るっていうんで、イタリーのね、若い学生、女性がね、みんな駆けつけたって。コーン・バンディ見たさに。そのためにその大会はにぎやかだったって言われているんですね。そのうち討論が始まって。ところがコーンバンディは発言を求めても、発言させてくれないんですよ。代表じゃないから。で、まあ、きつく「しゃべらせろ、しゃべらせろ」って。アジテーターらしいですからね。良くしゃべる人で。で、いいだろってんで、コーン・バンディが登場して一節アジったんですね。ま、そこのへんはボルシェビキとは違うところですね。外部からの登場者にしゃべらせてしまう。そういうふうに開かれていたんですね。5月革命ってのは、日本でも全共闘がつくられて、神田あたりで大騒ぎしたでしょ。神田ってのはカルチェラタンですねえ。大沢さんってのはね、なかなかのね、本を書いていてね。最近はでもあんまり書いてないですねえ。近く電話でも入れてみようかなと思っているんですがね。たまたま僕がフランス行ったときに、コーン・バンディの話が出てね。日本に帰ってきたときにコーン・バンディはどんな人かってことで。大沢正道さんは会ってるわけですからね。イタリーのアナキスト大会に出席してますからね。大沢さんはコーン・バンディとお会いしたんですかって。私はフランス語できない。私は英語だからって。コーン・バンディと話をしなかったけれども、コーン・バンディっていうのは元気のいいあんちゃんだったって言ってましたねえ。大沢さんの年から言うとあんちゃんでしょうねえ。で、コーン・バンディっていうのは元気がよかったんですね。だから5月革命では英雄扱いされたんですね。

黒田:(FIUの会で話したとき)まあ、針生さんも来ているってことだから、ヨシダさんも、一番前の方にねえ、一番前のところに座っていたんですよ。で、僕もね、針生さん見てるって、やっぱり格好いいところ見せたいからね、はりきっちゃったんですよ。そしてね、針生さんみたら、こうなんですよ、こう、寝ちゃったんですよ。晩年とくにそうでしたね。すぐこうなっちゃう。お年かなと思いましたけどね。しょうがねえなあ。しょうがねえってもねえ。終わったあとにねえ、「黒田さんうまいねえ、うまいもんだねえ」って。ハハハ。見てないでしょ。ですからねえ。見てたんでしょうかねえ。不思議なねえ。結構ねえ、急所急所をおさえてるんですよ。あれは不思議な人ですよ。それからね。FIUの会、和光の学生さん多いですから、自分の教え子ということもあって、こころが開かれてたんでしょうかね。会議ってったって、研修会みたいなもんですがね、デーンとひっくりかえって。話してても、で、ラジカセかけて聞いてるわけね。聞いててね、で、会議はじまってるわけよ。そして聞いてるんだか聞いてないんだか。でね、ふっと、我々の方に顔をむけてね、その会議の中の話題にね、急所をおさえた発言をしてるんですよ。だから天才ですね。すごいですよ。それからね。喫茶店でね、長い文章は別としてね、短いね、ちらしなんかの文なんか、たばこ離さないで書いててね、その場で出来上がっちゃうんですね。やっぱりプロですね。だから記憶力が非常にいいですね。非常にこう、晩年はちょっと、ちょっとだけですね。ハハハ。