手塚:今日は、久保田成子さんにお時間をいただきまして、マーサー・ストリートの、1974年から住んでいらっしゃるというアパートでお話をお聞きします。
久保田:そう、フルクサス・ビルディングね、最後の。ジョージ・マチューナス(George Maciunas / Jurgis Mačiūnas)の。
手塚:はい、フルクサス・ビルディングの最後のスペースだったところで、インタヴューさせていただきます。情報的に色々と、以前いろんな方にお話されたであろうことと重なってしまうかもしれませんが、ご了解ください。お生まれは、新潟県ということで。
久保田:そうそう、田舎。巻町ってとこ。
手塚:巻町。
久保田:新潟市の郊外ね。でも今は、革新派の住宅街になったのね。昔はものすごい田舎。うちの父がそこで高校の先生してたからね。転勤で住んだ町で生まれたんですけどね。その時はもう…… 今も田んぼですけどね、新潟の郊外はほら、住宅地になってるでしょ。
手塚:そうですね。
久保田:でもなんか反対する人が多いとこになったわよ。新潟で何かね(笑)。原子力発電やダム(の建設計画)とか、いろんなのが起きたりすると、すぐ反対する。だから住宅街になって、若い人たちが住んでるみたい。びっくりした。
手塚:ああ、そうなんですか。だいぶ変わりましたね。
久保田:うん。でも私はそこで生まれて。で、うちの父がまた、先生だったから転勤して、小学校4年生の時にまたその巻町に帰ってきたんですよ。
手塚:ああそうですか。
久保田:そしたらみんなも、「やあ、あなたここで生まれたの」って。「うん、昔ね」って。4年生から6年生までお世話になったんですよ。楽しかった。山があってね、角田山とか弥彦山とか。自然だね。田舎だから。
手塚:雪国ですよね。あそこらへんだと、冬なんかもう(大変でしょう)。
久保田:そうそう。小学校は新潟市の付属小学校に入ったのね。それで3年まで付属小学校にいて、4年生から父が転勤でまた巻町。今度はうちの父が、女学校の校長になったの。それでついてったの(笑)
手塚:ああ、なるほど。
久保田:もう今は行きませんけどね。でも新潟の新聞ではよく、なんかラディカルな住民が住んでるっていうので(報道される)。だから「ああ良かったな」って思って(笑)。やっぱり市に近かったからね。街に近くて、ベッドタウンになったわけ、新潟市の(笑)。
手塚:ええ。で、お父様の方のご家族は、お寺の。
久保田:お寺、そうそう。新潟って言ってもずいぶん下の、信州との山境にあるお寺なんですよ。うちの父は、そこの一番下の男の子で生まれたの。12人ぐらいの兄弟で、「もうお坊さんにならなくてもいいから、好きなことやれ」ってお父さんが言ってくれたからって言うんで。お寺では、まあ、育ったのはお寺の河原でね、育ったけど、大学は東京に出て。
手塚:ちなみに、それは何宗のお寺だったんですか。
久保田:浄土真宗ですよ。親鸞聖人。新潟はみんな親鸞聖人なの。
手塚:なるほど。あの辺は全部そうですね。
久保田:だから。父の親戚なんかのうちに遊びに行くと、柿崎ってとこもそうですけど、みんなお寺(笑)。
手塚:ああ、なるほど。
久保田:私も大学の時、「お寺の嫁に来ないか」なんか言われたことありましたけどね。
手塚:そうですか。
久保田:大変ですよ、お茶を出すのにも跪いていつもこう、なんか立ったり座ったり。「あれできないな」って思って(笑)。
手塚:じゃ、いろいろと厳しい躾を受けて。
久保田:いや、躾は受けなかったですけどね。疎開したの。ほら、戦争があったでしょ、小学校の時。あの時は、新潟市にいたんですよね。その時県庁に勤めてた父が、教育庁にいて。そしたらもう、空襲が新潟を…… あと、ペンタゴンにも狙われてたんですよ。米どころだからね。
手塚:食料を。ええ。
久保田:新潟に原爆落とせばもうお米取れなくなるから、日本人食えなくなるから。でも子供の時はそんなこと知らなかったですよ。「こんな田舎」と思ってね。B-29の飛行機が飛ぶのをいつも、うちの玄関の前で見てたんですよ。でもうちの父が、夏が近くなった時に「ここは危ないから、自分の実家に疎開する」って。行ってみると、すっごい山の中で。水道もないの。山の清水を、泉に水汲みに行くの。若い男の人がバケツをこう、肩に天秤でぶらさげて。それにくっついて子供の私は山の中を駆け登ったり走ったりしてね。清水の水飲んだりしてね。
手塚:そしたらほんとに小さい時は自然の中で。
久保田:うん、田舎。もう猿みたいに、田舎。すごく楽しかったですよ、そういう意味では。それでお寺の屋根に上ると、向こうで、長岡市なんかすごく爆弾が落っこって。長岡市は山本五十六の郷土だから。戦火になった時、長岡市が焼けるのが、空が真っ赤になってるのが見えたんですよ。だからもう、すごい田舎(笑)。
手塚:そういう自然に囲まれた環境で育たれて、アーティストになろうと思われたきっかけというのはあるんですか。
久保田:それは、うちの母方のおじいちゃんが絵描きだったからね。墨絵の絵描きで。うちの母は上野の音楽科を出てピアノ弾いてたし、割合ハイカラだったのね。で、最初三条っていうとこの幼稚園に行ったら、キリスト教の幼稚園で。あれが一生懸命でね、毎日行くと絵を描かされて。でもおやつが楽しみで行ったのね。クッキーなんかくれるし、音楽がきれいだし。で、新潟に引っ越したら、今度はお寺の幼稚園に行ったのね、仏教の。そこでも折り紙したり、毎日ノートに自分の絵を描いて、折り紙で鶴とかカエルとか折って、そこに貼り付けたりして。毎日やらされて、私「ああ、今日はもう行きたくないなあ」って思ったけど。でも「幼稚園は行かなきゃいけないんだ」って思って。そして、肝油(ドロップ)くれるのよ。戦争がもう始まる頃で、子供の栄養考えて。ぽんと口あけると肝油をくれるからね(笑)。まあそこも「肝油くれるし行った方がいいのかな」って。
手塚:そういうごほうびに惹かれて(笑)。
久保田:そうそう(笑)。おやつとか肝油とかね、そんなのにつられて幼稚園行ったけどね。私が行った幼稚園が絵とか工作とか、そういうのを一生懸命やってた。
手塚:ああ、なるほど。
久保田:それで好きになって、家に持って帰ったら親に「ああ上手ね」なんて言われて。うちの母が、「あなたおじいちゃんに似たんだわ。上手だわ」って。「お姉ちゃんや妹よりも上手」みたいに言うのね。自信ついちゃって(笑)。そして、新潟小学校3年生の時、付属小学校から…… 『小学館』って雑誌あったでしょ、昔講談社に。
手塚:はいはい。
久保田:あの雑誌のコンクールに応募したの。そしたら入選したの。私の絵が。
手塚:作品公募で。
久保田:それで、カラー写真で出たの。
手塚:小学校3年生の時に。
久保田:うん、入選になって。新潟大学付属小学校3年生の時ね。それはね、キューピーさんみたいなおもちゃを描いたの、うちにあった。静物画ね。他の男の子が一人入ったのは写生画だったの。田舎の風景みたいな。またそれで自信がついたのね、「『小学館』に入った」って。それは全国から応募してるわけでしょ。だから、そんなのが良かったみたい。
手塚:じゃあ子供の時から、そういう励ましが重なって。
久保田:でも応募したりなんかするのは、何か付録がつくから。作文も出したわよ。なんか付録がつくじゃない。幼稚園はおやつにつられて行ってたし、小学校に入っても、作文とか絵を送ったりすると、あの頃はなんかおまけがついてくるのよ、賞品とか。だから楽しいなあって思って(笑)。おもちゃがなかったから、昔は。テレビもなかったしね。もう戦争が始まる頃でしょ。おばあちゃんに「何かおもちゃ買って」なんておもちゃ屋行っても、なわとびなんて、竹がついてて、跳ぶと竹がぱんぱんと割れたらもう跳べないような。そんなおもちゃばっかりだったもの。だから絵を描くのが楽しかった。
手塚:じゃあ、戦時中は特に大変な思いをされたっていうよりも……
久保田:うんうん、新潟だから食べ物はありました。で、父の実家の山に行って「ああ、こんな田舎の生活があるんだ」って思って。それも社会勉強になったっていうか。そうしてるうちに戦争も終わったしね。
手塚:で、戦後は。
久保田:戦争が終わったら、今度は4年生で巻町にまた帰ってきたわけ。それで、6年生までそこにいて。今度は父が直江津高校の校長になって、巻から直江津に引っ越したわけ。直江津ってとこは、高田、信州に近くて。日本海の、すごく港で栄えた町ですよね。港町だから、元気がいいのよねえ。漁師の子供達が多くてね。それもまた面白かった。
手塚:また違った環境で。
久保田:海に行ったり、泳いだりね。言葉が乱暴だし。直江津で覚えたんだけど、なんかするとぽんと背を叩いて、ボディー・ランゲージがもうすごいわけ。ガッツがあるわけ。で、信州に近いから、そこで山登りね。中学の体操の時間や、夏休みも、「妙高山、行きたい人」って言って、先生が連れてくわけ。
手塚:いいですねえ。
久保田:で、ついてくと、そこの旅館で一泊して、朝の4時半ぐらいにたたき起こされて。そして、暗い時に妙高山に登って、(日の出を)見るわけね。妙高山って言ったら結構高いのよね、あのへんの山では。信州の近くだったからね。楽しかったですよ。そこで登山好きになって。
手塚:ええ。では、そのあとは。
久保田:高校もそこにいたの。直江津高校。で、その時の絵の先生が、教育大(注:現在の筑波大学)を出た先生で、彫刻やってて。佐渡島出身でとてもいい先生で。私がひまわりなんか描いて二期会に出したら入選したり。で、「私も先生みたいに教育大行こう」って。(東京)藝大はもう難しいから。うちの母が音楽で上野の藝大に入った時は、東京に別荘があったって。うちの母は実家が良かったから。で、そこでプライベート・ティーチャーについてピアノ習って、上野に受かったけど、なんせ直江津高校からじゃねえ。藝大は油絵でも彫刻でも一発では入れないから、うちの父が「あなたは浪人しない方がいい」って。やっぱり女の子だから、先があるし、結婚があるからね。「あんまり道草しないですぐ入ってくれ」って。それで「教育大だったら入れる」って、受け持ちの絵の先生がおっしゃってくださって。
手塚:教育大に行かれて。
久保田:そうそう。
手塚:ではその時は、絵画で? それとも彫刻で入られた。
久保田:彫刻科の方が入りやすいから(笑)。絵は倍率が大変よ。
手塚:やっぱり、絵のほうが多いんですか。
久保田:うん。彫刻も好きだったし、私の先生は彫刻の先生だったしね。で、私有名になりたかったから。彫刻の方が、女の子はまだ少なかったのよ、女流彫刻家っていうのが。
手塚:なるほど。女流画家はいても。
久保田:女流画家はいっぱいいたわ。女流。あの頃は女流だからね、やっぱり。で、油絵で高校2年の時に二期会に入選して、みんなが「油絵やったら」、「続けたら」って言うけど、いやあ、これは…… こう見渡して、「これでトップ切るってのは大変だ」って思って。で、女流みたら、まだ少ないしね。
手塚:うんうん。
久保田:上野の美術館とかよく行ったんですよ、私。研究しに(笑)。夜行列車に乗って、上野に行って、それでまた夜行列車で帰ってくるのね。それで翌日学校へ行って居眠りしてた(笑)。秋になると大変だった。
手塚:結構な時間かかりますよね。
久保田:あの頃はだって、一晩かかったもの。直江津って駅は大きいけど、軽井沢を通って上野に出たでしょ。
手塚:じゃあ、遠回りして。
久保田:そうそう。あれしかなかったもの。
手塚:結構熱心だった。
久保田:そう、うちの人がやらしてくれたから。
手塚:で、彫刻科に入って。
久保田:4年間ね。
手塚:4年間。その間は。
久保田:その間に「教員の免許とれ」っていうから、うちの父が。「女の子はやっぱり、身持ちになった時に何か免許持ってた方がいいから」と。現実は修羅の道よ。食えなきゃ自分で食えっていう。だから「免許ってのは大事だから」って(笑)。
手塚:教育大学に行かれている間に、既に展覧会に出されてたんですか。
久保田:その時は、新制作(協会)に彫刻を出したの。高橋清先生っていう、新潟県出身の新制作の先生に、プライベートに習いに行ってて。で、学校では日展の先生なの。だからすいぶん学校の先生に嫌がられたけど。でも「新制作の方が面白いな」って思って、新制作に出してて。で、その頃、全学連があったでしょ。学生の頃に走ったの、私。
手塚:それはどの程度、のめりこんで。
久保田:どの程度っていうか、やっぱり授業より面白かったからねえ、あのジグザグの。あの、岸首相が…… こう、アイゼンハウアー(Dwight David Eisenhower)が羽田に来るのを阻止しようとか。あの頃ですよ。安保反対。
手塚:そういう、安保反対のデモには全部参加されてた。
久保田:全部じゃないけど。教育大はほら、貧乏人の子が多いでしょ。だからラディカルなのね。わかる? そういうのはっきりしてるし。私も「これは社会勉強だな」って思って、ついていったの。
手塚:お父様の反応は。
久保田:うちの父は全然構わない。だって言わなかったもの、私(笑)。新潟だから、目が届かないじゃない。
手塚:じゃあ事後報告で(笑)。
久保田:目が届かないでしょ。だからあんまり言わなかった、安保なんか行ってるなんていうのは。うちの父は学校に行ってると思ってたから。それで夏になると、体育の授業に毎週出なくてもいいから、その代わりに山に連れてってくれると。それで私ついてったの、大学2年の時。そしたら、槍ヶ岳とか、穂高とか、上高地高原からずっと入ってね、ずーっとあのへん登ったのよ。
手塚:うわあ……
久保田:だから今、NHKなんかで、槍ヶ岳で、女の人がよく落っこちるじゃない。あの時は、絶壁のこの頂上のところなんかね、下で先生が私の脚持ってくださったのよ。這い上がるように登るじゃない。
手塚:うわあ、すごい。
久保田:でもね、すごくチャレンジがあったの。で、私ねえ、「うわあ、妙高も素敵だったけど、これはさすがに日本アルプスだな」って思って。だから《Three Mountains》(1976–79)とか、山の作品でしょ。
手塚:はい。あとからそういう作品に。
久保田:山好き、私。だから教育大が悪くなかったのは、安保と、その登山ね。普通の専門学校じゃ山には連れてってくれないでしょ。
手塚:普通はないですよね。
久保田:で、私は藝大も受けたけど、一回落っこったのね。「二年浪人すれば入れる」って、菊池一雄先生はおっしゃってくださったけど、うちの父が「浪人しちゃいけない、教育大に入ったんだからそこに行けばいいじゃないか」って言うのね。で、「総合大学の方がいい」って言うの。なぜかって言うと、総合大学はいろんなこと教えてくれるから。ひとつのことだけ勉強するのも大事だけど、総合大学は広く勉強できるからね。「国立だし、月謝安いから行ってくれ」って頼まれて(笑)。美濃部亮吉先生なんかが経済教えてた頃ですよ。一般教養であの先生なの。うちの父は、東大の経済だったから、美濃部先生のお父さんに習ったわけ。だからいろんなことで、総合大学は悪くなかったと思う。だからビデオに転換できたわけよ。
手塚:では、あんまり線を引くことをしないっていうのはそこからきてるんでしょうか。
久保田:そう。だから私があの時、藝大を目指して、藝大に入って彫刻がうまくなって、そしたらビデオなんて来れないですよ。これだけテクニック習ってこれだけやったっていったら。さっとビデオに転換できなかったと思う。
手塚:ちなみにそのころの彫刻作品っていうのはどういう感じですか。
久保田:ある、ある。
手塚:あ、まだあるんですか。
久保田:うん、そのへんに写真ある。
手塚:じゃあ後ほど拝見させていただいて。どういう感じの作品だったんですか。
久保田:やっぱりこう、トルソー(半身像)とかさ、新聞。
手塚:フィギュア。
久保田:楽しかったですよ。うち行くとまだあるけどね、写真もまだそのへんにある(笑)。私、彫刻が好きなの。もともと自分で彫刻やってて、ビデオに入ったらなんかシングル・チャンネルで、テレビの平面っていうの、二次元がつまんなくてね。もうちょっと立体を出して、オブジェの中に二次元を入れたらいいんじゃないかっていうんで、ビデオ彫刻にしたの。
手塚:いろんなビデオ作家を見ていても、絵画的な使い方をしている人は結構いるんですけど、ビデオ・スカルプチャーという形で使っているのは、やっぱり久保田さんですよね。
久保田:私が一番最初にカタログだした時に、ルネ・ブロック(Rene Block)っていうDAAD(デー・アー・アー・デー / Deutscher Akademischer Austausch Dienst)のキュレーターが、彼は今ベルリンですけど、ルネ・ブロック・ギャラリー(Rene Block Gallery)持ってて。彼が「あなたの彫刻はインスタレーションじゃなくて、ビデオ・スカルプチャーだ」って。「ビデオ・スカルプチャー」って、つけてくださったの。
手塚:フォームとしてビデオがあるんですね。
久保田:やっぱり、彫刻が好きだった。子供の時から。なにしろ彫刻で有名になりたかったから(笑)。野心が先にあった(笑)。
手塚:なるほど(笑)。
久保田:がめつかったのよ(笑)。表現っていうより、やっぱり立体っていうのは迫力あると思ってね。ダイナミック。全学連なんか行って、イデオロギーに燃えちゃってさ、「私は女性でも、男と同じぐらいの人だ」って、あの頃からこんななって、燃えてたじゃない。そういうエネルギーが、彫刻は表現しやすいっていうか。それで奈良とか京都の仏像見に行くと、天平時代の仏様とか、なんとも言えないこう……
手塚:存在感がありますよね。
久保田:ねえ。品がいいし、思想が出てるし。やっぱりこう、わあっと入るわねえ。なんか崇高な感じがするっていうのは、やっぱり神様に近いんじゃないかと思って(笑)
手塚:じゃあもう初期の頃から、女性のアーティストとしてステータスを築くっていう意識があった。
久保田:だってもう、「男の大学行った」って叩かれるもの。高校の時から男女共学でしょ。それで大学は、女の子二、三人で、あとはみんな男じゃない。「こんちきしょう」と思うこといっぱいあったから、やっぱり。あの頃は激しかったわね。今はそんなに抵抗ないけど(笑)。
手塚:まあ、だいぶ変わりましたね。
久保田:変わるよね。
手塚:それで50年代、60年代に入って、久保田さんがニューヨークに移られたのは64年ですね。その以前の、東京のアートの様子っていうのは、どういう感じだったんですか。
久保田:私はその時、ハイレッド・センターの人たちと友達でね。新橋に内科画廊ってあったの。そこで展覧会してくださるって言って、私が展覧会やった時に、自分が持ってるラブレターで床を作って。ごみくず屋でこんなに新聞古紙を買ってきて部屋中に敷き詰めて。その写真あるけど。ドア開けるともうそこに。
手塚:新聞の山が。
久保田:その山に白いシーツを張って、そこをよじ登っていって。私はその時、鉄を溶接したような彫刻作ってたんですよね。それを置いて。
手塚:それをてっぺんに。それもまた山登りに続いているんでしょうか。
久保田:そうそう。山登りをするっていう、体験する彫刻の空間ね。そういうのをやったんだけど。誰も、評も出ないし。東野(芳明)先生とか、中原(佑介)先生も見にいらっしゃったけど、なんにも言ってくれないしね。1963年よね。それで私は「これはもう日本でチャンスないな」と。ともかく有名になりたかったからね。
手塚:その当時、ハイレッド・センターのメンバーの方々の反応はいかがでしたが。
久保田:うん、みんな優しいわよ。まず小杉武久と友達で、それで「グループ・音楽」と知り合って。「グループ・音楽」と知り合ったのは、うちの叔母が邦千谷(注:くにちや、創作舞踊の邦正美の弟子)っていって、ダンスやってたの、創作舞踊。スタジオ持ってて、音楽のパティシペイション(participation、参加)が要るからって、「グループ・音楽」連れてきて。それで光と映像とダンスのパティシペイションの時に知り合って。で、小杉なんかと話してると、オノ・ヨーコさんが日本に帰っていらっしゃって。フルクサスのこと聞いて。
手塚:それが1962……
久保田:1963年。その時ナム・ジュン(白南準 / Nam-June Paik)もドイツから帰ってきて。私はその時、もう中学校の先生になってたの。品川の荏原(えばら)二中の絵の先生になって、うちの人も安心して。「この子はもうこれで食える」って。大学出て、免状取らしただけあったって。東京都の先生になるのも大変だったのよ。絵の先生なんて要らないでしょ。学校に一人か二人しか要らない。「でもよく入ったねえ、あんたは」なんて言われた。というのも、教員試験受けなきゃいけないわけよ。それにパスして、品川区の第二荏原中学の先生になって、毎日そこに通って。うちへ帰ってきて、自分のスタジオで彫刻つくったり。内科画廊で「展覧会やろう」ってやって、読売アンデパンダンに出したり。でも全然評が出ないじゃない。「ああ、これチャンスないわ」っていう時にフルクサスのことを聞いたのね。ジョージ・マチューナスが「あなたたち、フルクサスやらないか。ニューヨークに来ないか」って。「カーネギー・ホール(Carnegie Hall)で、フルクサス・フェスタやるから、自分で全部旅費出して、来たらこっちで世話する」って言うし。それで私、小杉に「あんた行こうよ」って言ったの。彼は「うーん」って言うのね。この時小杉が「行く」って言ったから私は切符を買って、先生も辞めたのに、今度は小杉が「僕行かないよ。君先に行け」って。もう私は学校辞めちゃったし、残ってても食えないし。
手塚:もう行くしかない、みたいな。
久保田:うん、もう行くしかないでしょ。そしたら塩見允枝子さんが「私行くわ」って言うから、「じゃあ二人で行こうよ」って。それで、64年に。
手塚:一緒にこちらに来られて。
久保田:そうそう。64年に来たのよ。そしたら、ジョージ・マチューナスなんて感激しちゃって、ケネディ・エアポートまで迎えに来てくださって。そして連れてってくれた所が、キャナル・ストリート(Canal Street)のフルクサスのオフィスね。でも楽しかったわよ。靉嘔さんが隣にいたりさ。斉藤陽子(たかこ)さんとか。
手塚:既に日本人の作家と、フルクサスのコミュニケーションができていて。
久保田:そうそう。349キャナルでね。だから、あそこでフルクサスと知り合ったことから出発したから、このへんにずっといるわけよ(笑)。
手塚:もうここらへんが、テリトリーですね。
久保田:そうそう。ジョージ・マチューナスの最後のフルクサス・ビルだから、「あんたたちはここに残って」ってジョージが頼むしね。「ジョージが最後だって言ったら、これしかチャンスがないんだわ」って思ってね。つかんだわけ。
手塚:ちょっと前に戻って、日本で叔母さまを通して「グループ・音楽」の方々と知り合ったというのは、音楽にやっぱり興味があられたんでしょうか。彼らのやっているエクスペリメンタルな感じとか。
久保田:あの人たちはやっぱりハプニングだったから、音楽っていうよりイベントとか。
手塚:じゃあ、そういうハプニング性に面白さを感じて。
久保田:そうそう。なんていうの、楽譜じゃないわけよね、即興性でしょ。だからそれが良かったわね、あの人たちは。新しいと思った。彼らのやってることは、なんか彫刻と結びつくんじゃないかなって思って。やっぱパフォーマンスとかハプニングとかは、破壊でしょ。壊したり、ぼーんなんて投げて壊したりするじゃない。行動、アクションね。アクション・ペインティングなんかが流行った頃よ。
手塚:ご自身でその頃パフォーマンスとかそういうのはされてたんですか。
久保田:私はそういうタイプじゃないもの(笑)。
手塚:そうですか?
久保田:見てわあわあ言う方で(笑)。
手塚:でも1965年ですよね、フルクサスのサマー・フェスティバルで、いわゆる《Vagina Painting》をやられたのは。じゃあ、それが初めてのパフォーマンスだったんですか。
久保田:でもあんなのはその、戯れみたいなもんで。自分を彫刻家と思ってたから。ちょっとこの人たちと違うなって思ってた。
手塚:じゃ、あのパフォーマンスはどこから出てきたんでしょう。
久保田:どこから出たっていうか、アクション・ペインティングだからさ。こんなのがあるっていうんで、出たけれども。私は、フルクサスは、やっぱり破壊と消える…… 消却するでしょ。そこになんかちょっと抵抗があったのね。破壊はいいわよ。彫刻だって壊しゃ破壊だし、それは形態だし、そこからまたルネサンスみたいに、生まれ変わってかたちが組成されてできていくんだから、それはいいんだけれども。なんとなく一瞬で消えるっていうのはね、儚いわね。あまりにも儚すぎると思って。
手塚:なるほど。
久保田:やっぱり彫刻っていうのは、存在感がある程度要る。いくら破壊でも、消えた後でもなんか残らなきゃ、って。ぱっとフルクサスやってぱっと消えるって、やっぱり音楽的ね、あれは。瞬間でね。だから時間の芸術っていっても、私はもうちょっと永遠性を求めて。もうちょっとかたち、シェイプをどういう風にイメージしていったらいいかなって。そういうところで、ビデオだと「ああ、動くイメージと動かないイメージの結合だ」ってことになったわけ。
手塚:じゃあ、あのパフォーマンスはそれ一回のみで。
久保田:ええ、もうあんまり興味なかったんですよ。あれはもう、やれやれって頼まれてやったんで。もうしょうがない。
手塚:そうなんですか。それはマチューナスに頼まれてやったんですか。
久保田:ナム・ジュンにもマチューナスにもね。私のほんとにやりたいことじゃなかったから。だからその後ちょっと距離を持ちましたよね。
手塚:フルクサス自体と。
久保田:私がフルクサスヴァイス・プレジデントになったのは、みんながジョージのこと嫌いで、ヨーロッパに逃げてっちゃったのよ。ジョージ・ブレヒト(George Brecht)とかね。ジョージはすごく、みんなを統率したいのよ。だけどアーティストは嫌でしょ。首なんかつかまれて、「あんたこれやりなさい」、「こっち行きましょう」っていうのは。みんなばらばらじゃない。で、みんなヨーロッパに行った時に誰もいなくなって、手伝える人がいなくなって。それで私は、ジョージが手紙書いてくれて、「いらっしゃい」って言われてニューヨークに来たんだから、フルクサスで来たんだから、パフォーマンスとかはあんまりやらないけど、「事務的なことぐらいだったらお手伝いできるから」って言ってね。
手塚:なるほど。じゃあアドミニストレイティヴ(administrative、事務的)なお仕事をされてたんですか。
久保田:そうそう。まあ、そんな大したアドミニストレイトじゃないわよ。メールに切手貼るとかさ(笑)。
手塚:メーリング・アートとかって(笑)。
久保田:なんか、使い走りとかね。あの人の脇にいて「うん、いいわね」とか「うん、やりましょう」とかさ。まあ相談相手ね。ごはん作るとか、一緒にフルクサスのディナーやったりとか。お金がなかったのよ、みんな。で、ジョージはコミューンですよ。共産主義から来た人でしょ。リトアニアで。
手塚:でも、資金とかどうされてたんですか。
久保田:だから、大変だったのよ。ジョージが、もうみんなご飯食えないから、一人一週間5ドルずつ出してね(笑)
手塚:ああ、なるほど。
久保田:「共同でごはんつくろう」って言ったの。そうして、ナム・ジュンとジョージと塩見さんと私と、斉藤陽子さんと、5ドルずつ出して、一人が一週間ずつ順番にやったのよ。楽しかった(笑)。
手塚:ほんとにコミューンですね。
久保田:ともかくお金がなかった、みんなが。貧しいながらも楽しかったわね(笑)。
手塚:でも、みなさんそれぞれ制作は続けてらした。
久保田:そうそう。制作っていっても、ジョージが「はい、今日はストリート・イベント」なんて言って、外でババッてやって、そのへんの町に行ってタッタッてやるんですよ。ちょっと遊びだわね。「はい、今日はフルクサス・オリンピック」なんて、ワシントン・スクエアのビルディング借りて、ピンポンやって。ピンポンのネットに穴が開いて、ポンポンって、玉が飛んで外に逃げていっちゃう。間が抜けたみたいなオリンピックよね、そこがフルクサスなんだけど。まあそんな遊びだわねえ。
手塚:そのピンポンパッドを久保田さんが作られたというのをどこかで耳にしましたけど。
久保田:まあね。それどころじゃないわよ。それで食えないから、クレス・オルデンバーグ(Claes Oldenburg)が「誰かハンバーガー作る人探してる」って言うんで、布で作るのよ、ミシンで。それでジョージ・マチューナスのお母さんがミシン持ってた。私はミシンなんかないじゃない、洋服なんか作んないから。ジョージ・マチューナスのお母さんからミシン借りて、クレス・オルデンバーグのハンバーガーをふかふかの布で作った。キャンバスでハンバーガーを作ってあげたりとかさ。そういうのが生活資金(笑)。大変だったわよ。でも面白かった。いい勉強になった。
手塚:じゃあ広く作家さんたちとのコミュニケーションがあったんですか。
久保田:あの頃はあったのよ。今はみんな、コンセプチュアル・アートの閉ざされた部屋にこもっちゃってあんまり横のつながりがないじゃない。60年代、ポップ・アートの時代じゃない? で、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)のスタジオを覗きに行ったり。親切だったわよあの人。それは、ジョージ・マチューナスがジョナス・メカス(Jonas Mekas)と同郷でしょ。ジャック・スミス(Jack Smith)とか、あのクレイジーなフィルムメーカーもいた。その関係で私もついて行って、アンディ・ウォーホルのファクトリーを覗きに行ったりできたのよ。だから横のつながりがあったのよ。
手塚:メカスさんもこのそばでしたよね。ブロードウェイ。一度おうかがいしたことがあるんですけど。
久保田:そうそう。この前リトアニアまで行って来たわよ、私。
手塚:そうなんですか。
久保田:去年、メカスのフィルム・ファウンデーションができたんだ、リトアニアに。
手塚:そうなんですか。
久保田:ジョージ・マチューナスのミュージアムができるっていうんでね。
手塚:こけら落としですもんね、あの時。
久保田:うん。それで私、「お世話になったリトアニアだから」って行ったのね。楽しかった。あの私のギャラリーの、マヤ・ステンダール・ギャラリー(Maya Stendhal Gallery)のハリー(・ステンダール、Harry Stendhal)も傑作じゃない。あの人がジョナスを推してたのね、あの頃。それで、「行こう行こう」って言うんで、くっついて行って。それでリトアニアは私の旅費も出してくれたのよ。感激しちゃったわよ。私は自分で出すって言ったのに、向こうが出してくれて。きれいな街ね。リトアニアに行って、ジョージが生まれたとこも見たわよ。ジョージの親戚の人にも会ったわ。
手塚:まだいらっしゃるんだ。
久保田:いとこなんかがいたわよ。向こうの人はきれいね、すごく。頭がよさそうな(笑)。日本人に似てると思った。少数民族じゃない。少数民族っていうのは、フルクサスの…… やっぱりこう、アメリカみたいな大きな国じゃなくて、日本とかリトアニアとか韓国とか、小さい国の人たちがちゅっちゅっと、こう(笑)。
手塚:コミューンを作って。
手塚:頑張るっていうか、横のつながりで団結しあうっていう。面白いなんか、イデオロギーみたいな感じたけど。
手塚:その頃ニューヨークは、面白いアヴァンギャルドのシーンが真っ盛りで。
久保田:それで私、ニューヨークに行ったのよ。63年か64年、内科画廊でやってもだめだし、うちの人は「結婚しろ」って言うし。「ああ、もう日本には絶望だ」と思って、うちの人に「ニューヨークに行く」って言ったら、「お前どうしてニューヨークなんか行くんだ」って。「僕たちがあなたを立派に教育したのに、なんでニューヨークに行く」ってずいぶん責められた。学校では先生してたでしょ。私、品川区の教員組合の婦人部の副会長だったの。それはもう、アンチ・アメリカよね。わかる? 共産党に近いぐらいの社会主義だったから、あの頃の教員組合っていうのは。そこで活躍してたのが「ニューヨーク行く」って(笑)。みんなが失望しちゃってね。「久保田さんどうしたの」って言われたけど、「でもアートやってるからしょうがないのよ、ニューヨーク行かないと」なんて言ってさ。
手塚:そういった抵抗感っていうのは、久保田さん自身は全くなくって。
久保田:うん。だから、何か社会勉強だったのね。ああいうやっぱり時代の流れのね。
手塚:こちらにいらした時は、ニューヨークに腰を落ち着けようと思われて来たんですか。それとも、「社会勉強としてちょっと来てみよう」っていう。
久保田:社会勉強もあるけど、落ち着ければ落ち着けばいいと。私としては、「ちょっとやっていけるかなあ」って思って、ジョージに頼みに来たわね、やっぱり。フルクサスでどこまでできるか。でもフルクサスの中では、私みたいに彫刻とかアートをやるには、ちょっとイベントやハプニングが多くてね。ストリート・イベントとか、レンタルした場所でも、ちょっと……
手塚:一過性の活動で終わってしまうという感じ。
久保田:くるくる変わるわね。私はクラシックな芸術勉強したからね、彫刻なんかでも、もうちょっとなんか、ガシッとしたものが残るような仕事がしたいなと思って。
手塚:じゃあ、そこで……
久保田:ええ。ブルックリンのあそこに行ったのよ。あの学校があるでしょう。
手塚:プラット(The Pratt Institute)。
久保田:プラットじゃない。ブルックリンの美術館の脇に小さいアート・スクールがあるのよね(注:The Brooklyn Museum Art Schoolのこと)。そこで彫刻またやり直して。
手塚:今もあるとこですか。
久保田:今もある(注:The Brooklyn Museum Art Schoolは1985年にThe Pratt Instituteの一部として統合された)。学生ビザだったからね、学校行った方がいいと思って。そこでまたずいぶん彫刻やったわよ。
手塚:そちらに何年間ぐらい行かれてたんですか。
久保田:3年間です。楽しかった。アメリカの美術学校もやっぱり楽しいなと思って。
手塚:いろいろ学ばれて。
久保田:自由。
手塚:その時はビデオっていうのは。
久保田:まだない。ビデオは、ナム・ジュンがビデオを買い出した時だよねえ。ナム・ジュンのパートナーで、阿部修也さんっているでしょ。ビデオ・シンセサイズィスト(video synthesizist)の。彼の奥さんがカルアート(California Institute of the Arts)に来たのよ。70年に来たんだ。その時に阿部さんもカルアートに教えに来て、ナム・ジュンもそこで先生してたのよ。
手塚:じゃみなさんロスの方に行かれて。
久保田:私もそこについて行ったのよ。阿部さんの奥さんが日本から来るって言うんで、「ポータパック(注:携帯用ビデオデッキ)買ってきてよ」って頼んだの。あの頃日本で買った方が安かったのよ。
手塚:ナム・ジュン・パイクが、阿部さんの奥様に。
久保田:私が頼んだの。
手塚:あ、久保田さんが頼まれたんですか。
久保田:ナム・ジュンは要らないわよ、学校の先生してるから、学校で使えるもの。学校のスタジオにはカメラも全部ある。私はナム・ジュンにくっついてるからさ、あの頃は日本にSONYのポータパックが出てるし、「阿部さんの奥さんが日本からいらっしゃるんだったら、ポータパック買って持ってきてちょうだいよ」って頼んで、70年に持ってきてもらったの。それでいじりだしたの。
手塚:その頃はまだニューヨークではそんなに簡単に手に入るものではなかった。
久保田:なかった、こっちの方は。なんかドルが高かったんじゃない。
手塚:SONYはもうその頃、海外進出してますよね。
久保田:もちろん。SONYはフィフス・アヴェニュー(五番街)にあったわよ。
手塚:58年くらいからこっちへ来て。
久保田:でも私たちはあの時カル・アート(注:California Institute of the Artsのこと)でカリフォルニアにいたから、ロサンジェルスに。阿部さんの奥さんが担いでくれば、税金とか払わなくていいじゃない。自分のもんだって言えば。安いと思ったのか知らないけど、阿部さんの奥さんが持ってきてくださったのよ。
手塚:その頃ちなみに、どのぐらいお値段したんですか。
久保田:私が頼んだのに、いくらか忘れた。
手塚:でも結構したんでしょうね。
久保田:今もあるわよ、そのポータパック。重いの。
手塚:今もあるんですか。
久保田:それを持って、EAI (注:Electronic Arts Intermix。1971年NYに設立。ビデオ・アートを専門にサポートする、米国内でも先駆けのNPO)で見せた《Europe on 1/2 Inch a Day》(1972)とかああいうの持って、ヨーロッパ行ったの。
手塚:肩に担いでっていう、こう、赤ん坊のように抱えてますけど。
久保田:あの重いのね。今は軽くなりすぎたけど。あれを阿部さんの奥さんが持ってきて。ポータパック買った時点でビデオ・アーティストになったのかしら(笑)。
手塚:「持ってきて」って言った時点で、既に何か撮ろうとは思われていたのですね。
久保田:欲しかった、やっぱり。
手塚:それはやっぱり、ナム・ジュン・パイクが使っているのを見て?
久保田:カルアートの生徒がやっぱり使ってるじゃない。私は学校に入ってないし。ただナム・ジュンのガールフレンドぐらいだから、そんなに学校のファシリティ(facility、設備)は(使えない)。それでもアラン・カプロー(Allan Kaprow)の授業なんか覗きに入ったわよ、月謝払わないで。面白かったねえ、アラン・カプローのアース・アート。土掘ったりとか、そんなのをビデオで撮ったりとか。そういうのを撮るのに、やっぱりポータパック欲しいなって思って。買ってきてもらって良かったわね。重いなあと思ったけど。あの頃ほら、メイド・イン・ジャパンってチープだったけど、SONYぐらいから、ぱっとこうね。
手塚:そうですね。イメージを変えて。
久保田:すごく立派。機能もすごいし。学校なんかでひょいひょい盗まれんのよ。カルアートの生徒が盗んでいっちゃうの。ナム・ジュンもすごく苦労したわよ。ビデオの先生になって呼ばれて、やっとビデオ・デパートメント作って。モニターも、プリンストンなんか高いじゃない。ソニーのストゥディオのエディティング・マシーンも高いじゃない。すると生徒がトラックで盗んでくのよ。
手塚:うわあ(笑)。
久保田:ポータパッグなんて簡単よ。肩にかけてもう、ちゅんと持ってくぐらいだから。だからやっぱり自分のものを持った方がいいなあと思ってね。その点、阿部先生の奥さんは、阿部先生がこっちでナム・ジュンと先生してたから、カルアートにいたから、会いにいらしたわけ。お子さんがまだ小さかったからね。日本で教育してらしたから、ついて来れなかったのよね。
手塚:その頃、ビデオのクラスをやるなんていうのはカルアーツくらいしかなかった。
久保田:ナム・ジュンが一番。っていうの、アラン・カプローがカルアートのディーン(dean)、芸術学部の一番偉い先生に呼ばれて。そしたら、アラン・カプローはすごく優しいから、以前、ニューヨーク州立ストーニー・ブルック大学(State University of New York, Stony Brook University)の先生やってる時もナム・ジュンを呼んでくれたの、ロックフェラー(Rockefeller Foundation)なんか通して。ナム・ジュンが食えないの見てたから。で、今度は自分がカルアートの親分でしょ。それで食えない人をみんな先生に呼んでくれたの。それでビデオ・デパートメントを、初めてオープンしたのよ。
手塚:第一号ということですかね。
久保田:うん。ほら、ハリウッドがあるから、フィルム・デパートメントはすごいの。でも、これからはビデオが花だからって。で「ナム・ジュンは僕の友達だから」って、ナム・ジュンをすぐ呼んでくれて。ナム・ジュンは、やっぱりテクニカルなアドバイザーとして阿部修也先生がどうしても要るからって、「シュウヤ・アベと一緒にやる」って言って、阿部先生を呼んでくれて。あとは、フルクサスのディック・ヒギンス(Dick Higgins)とか、アリソン・ノウルズ(Alison Knowles)とか、エメット・ウィリアムス(Emmett Williams)とか。全部呼ばれて行ったのよ。だからそれにくっついて私も行ったの。で、トニー・ラモス(Tony Ramos)なんかはラディカルな生徒でね、あの頃はあの人、兵役に行きたくないからって言ってドロップアウトして、もう隠れて。アラン・カプローがそれを拾って、自分のティーチング・アシスタントにし、兵役に行かなくてもいいようにしてくれたの。そういう時代だったから、ベトナム戦争の。あのどさくさの後だから。
手塚:カルアートでは、久保田さんは、ビデオに関してのテクニックっていうものは、いろんなクラスを見ながら学ばれたとか。そんなことはされたんですか。
久保田:いや、ビデオって触ってれば覚える。
手塚:では特に。
久保田:何もしない。で、ナム・ジュン見て、ビデオ重いでしょ。だから一緒に持ったりして。阿部先生がこうやってるのを見るとかね。
手塚:じゃあそれでもう自然に、自分でも。
久保田:そうそう。あれは普通の人に売るようにできてるから、ホームビデオ。8ミリフィルムと同じわけよ。SONYは上手く作ってるわよ。一般の人が買えるように。そんなに難しくしたら一般の人が使えないじゃない。だからちょっと見たら、「ああそうか」って。やっぱり「ああ、これ良かったなあ」と思って。自分の欲しいなって思って、阿部先生の奥さんに「買ってきてください」って。でも一年で帰ってきたの。私が嫌だったの。ナム・ジュンはやっと貧乏生活から卒業したんだけど。カルアートは給料良かったのよ、すごく。それでディーンだか、ビデオの一番のクラスのあれで、鼻高々だしね。でも私が、カリフォルニアはもうのろくてのろくて、天気はいつも夏みたいにぼやーんとしてるしね。機械は生徒が盗んでっても、学校がまた買い入れてくれるのよ。ディズニーランドの学校だから、お金はあるの。「ああそうですか」なんて会計の人が買い入れてくれる。なんかだらしないなと思ってさ。
手塚:ちょっとぬるま湯状態みたいな感じですか。
久保田:「ナム・ジュン、あなたこんなことしてちゃあ、偉大なアーティストになれないわよ」って私言ったの。「何よこれ、田舎暮らしじゃないの」って。「やっぱりニューヨークが本場なんだから。ニューヨークへ帰って、またヨーロッパ出かけなきゃだめなんだから」って。「ここであなたがいい先生になっても、いいアーティストにはなれないわよ」って、じわじわ毎日言ったの(笑)。
手塚:それで、一年で。
久保田:その時幸いに、契約を延長する手続きでね、オフィスとちょっとごたごたがあったのね。それで「ああ、サインしちゃだめよ」って言って。「帰ろう」って。
手塚:じゃあ、契約がそこでごたごたしてる時に、もう辞めて帰って。
久保田:契約のサインする前に、私が「サインしないでよ。これで一年で帰ろう」って。「こんなとこ、二年もいたら気が抜けるよ」って言って。で、ニューヨーク・タイムズを買うのもね。リトル・トーキョーってあるじゃない。ロサンジェルスの日本街。あそこも今はホテルなんかできてにぎやかだけど、当時はわびしかった。カルアートのあるヴァレンティアから、ホークスタウンにぬるぬるドライブして、リトル・トーキョーに行って、ニューヨーク・タイムズを買って、おすし食べて帰ってくると、それが日曜日のおしまいよ。
手塚:なるほどねえ。刺激がない。
久保田:だからニューヨーク・タイムズ買うにも一日がかりじゃない。だから「ああ、こんなとこだめだわ」って。「ニューヨークにいたらすぐ買えるじゃないの」って言ってね。「やっぱり、これ文化の果てだよ」なんて言って。それで、学校はすごく活気があるのよ。スイミング・プールなんて行くとみんなネイキッドで、裸で泳いでるのよ。すっぽんぽんでさ。
手塚:リベラル。
久保田:もうすごいリベラルだけどね。でも私、ちょっとここでいくらリベラルでも……
手塚:周りの環境がもうアートには……
久保田:うん、アラン・カプローなんかは好きだったわねえ。あの人あそこにずっといて、それからサンティアゴにいらっしゃったしさ。ああいう、ハプニングなんかでダイナミックな生活をアートにする人にはいいけど、私たちはねえ。
手塚:ちなみにその頃、ポータパックを手に入れて、初めて撮られたものって何ですか。
久保田:自分の顔とかそういうのよ。ナルシシズムもいいとこよ。
手塚:じゃ、バイオグラフィカルな。オートバイオグラフィカルな。
久保田:うん、そんなもんよ。ダイアリーみたいなものよ。
手塚:ではその頃から既に、ビデオをダイアリーとして使って。
久保田:いや、だってそういうのが多かったわけよ、身近なもので。だってポータパック持ってアフリカに行けるわけでもないし。日常のそのへんでね。でも楽しかった。カリフォルニアで一年っていうのは良かった。ナム・ジュンは帰ってきて後悔したこと言ってたけど、最後は感謝されたわよ。「あなたが引っ張ってきてくれて良かった」って。で、ニューヨーク帰ってきたら、今度ニューヨーク・ステイト・カウンシル(New York State Council on the Arts)ができて、ビデオに力入れましょうって時でしょ、ちょうど。ロックフェラー・ファウンデーションの。ビデオっていうのができてきたって。「今度ビデオに力を入れる」と。ニューヨーク・ステイト・カウンシルはビデオ・デパートメントができて、フィルム・プラス・ビデオでしょ。それでビデオ作家にお金くれてプロテクトくれるようになったじゃない。
手塚:ビデオが認可されてきた。
久保田:そう、WNET(注:現在のチャンネル13、Channel Thirteen New York Public Media。アメリカの公共放送サービスの中で最も視聴率の高いチャンネル)が今度アーティスト・レジデンスで、ビデオ作家をそうやって実験的な作品で呼ぼうって(注:当時AV機材は高価だったため、公共放送がアーティストに機材を貸し出すなど支援をしていた)。だからそのタイミングを上手く持ったのよ、ナム・ジュン。その時ウェストベス(Westbeth)に住んでたの。だって帰ってきたって住むとこないじゃない。カリフォルニアに行ってさ、ナム・ジュンはキャナル・ストリートのロフトあったんだけど、とってもうるさくてね、ノイズが。仕事できなかった。
手塚:じゃあ、その頃ビデオ作品の制作は。
久保田:それはもう、どんどんビデオ撮ってるくらい。オブジェなんか作れないわよ。もうジョージもどうなっちゃったかわからないし。ともかく住むところがウェストベスで、アーティストの小さい部屋一つもらったわけよね。そしたら、「あなたたち子供いないから大きいとこあげられない」って言うのよね。で、しばらくぶりにジョージを訪ねていって、「実は大きいとこ行きたいんだけど、あなた今ロフトもいっぱい持ってるじゃないの。ひとつ売ってちょうだいよ」って。それで、「これが最後のビルだから」って言うので、ここをもらって、74年にここに引っ越してきたわけ。
手塚:それだけの資金は、ちゃんと先を見越して。
久保田:資金なんていうのはないわよ。
手塚:じゃあ、分割払いで払っていった。
久保田:みんな、みんな安かった、あの頃。ウェストベスもアーティストをヘルプしてくれるとこだから、そんなに高くないじゃない。部屋は狭くても、安全だったしね。眺めは良かった。窓からニュージャージーとハドソン・リバーがずっと見えてね。で、あの頃はウーマン・ビデオ・フェスティバル(Women’s Video Festival)や「キッチン(The Kitchen)」が有名だったから、「キッチン」でいろいろやったの、私。《Europe on 1/2 Inch a Day》とか、ヨーロッパ行って。ナム・ジュンがカリフォルニアからこっちへ帰ってきて、あの頃はまだドイツにもいろんなスタジオがあったの。で、「それ整理に行かないと」って、私も一緒についていって、ブレーメンに行ったりケルンに行ったりベルリンに行ったりして。で、そこまで行ったから「じゃあ私パリにも行きましょう」って言って。私が一人でパリに行ったり、アムステルダムにも行ったり。それからヴェニス・ビエンナーレがあるっていうんで、そのままヴェニスまで行ったの。その時、ウェスト・ブロードウェイに日本の作家が住んでて、「ヴェニス・ビエンナーレの日本館で見せるから」って。「じゃあそれ見に行こう」って、あのへんうろうろしてたのよ、ヨーロッパを。
手塚:日本のどなたが見せられたんですか。
久保田:なんて方だったかな。もう、名前は忘れちゃった。ロックフェラーが呼んだでしょ、日本の作家をたくさん。今も呼んでいらっしゃるけど。お名前ちょっと忘れちゃった、最近日本の方とお付き合いしてないから。彼有名になったわよ、その後。
手塚:それで、ヴェニスのビエンナーレを見られたりして。それがひとつ作品になって。
久保田:そうそう。それであの時期、『Europe on 5 Dollars a Day』っていう旅行ブックがあって。
手塚:トラベルガイド。
久保田:ナム・ジュンが《Europe on 1/2 Inch a Day》っていうタイトルにして、面白いのをした。
手塚:ハーフ・ア・インチというのは、ビデオ・テープの。
久保田:そうね。みんな幅がハーフ・ア・インチだからですよね。それで楽しかったですよ。
手塚:エディティングとかは。
久保田:エディティング・マシーンがうちにまだあったの、その時は。そのくらいは買えたの、ナム・ジュン。うちにエディティング・マシーンが二つあればいいわけでしょ。まだそこにあるわよ。ハーフ・インチの。ナム・ジュンが使ってたのね。それでモニターを置いてね、エディティングはうちでやったのよ。そのうちにEAIができて。EAIに行ってやるようになったけど、EAIができる前は、ナム・ジュンがWNET入ってたから、WNETのアーティスト・レジデンスで。
手塚:じゃあ、WNETも、あちらの施設で。
久保田:私は入れなかったけど、あの人は、もうワン・インチとか全部使えたから。そこに私が一緒についてってる時に、《Nude Descending a Staircase》(1975年)のカラライズ(colorize、色をつける)を、そこにあるファシリティでやってたのよ。
手塚:WNETの方でなければ、そういうのはできなかった。
久保田:そうそう。うちはビデオ・シンセサイザーはあるけど、あそこはカリフォルニアの元放送局だから、いろんな機材があったわけね。そこで休憩の時間にちょっと自分のテープ流して編集したりさ。ジョン・ゴッドフリー(John Godfrey)って怖いエンジニアがいらっしゃったけど、怖いけどとてもいい方で、アーティストとコラボレーションして、ナム・ジュンと《Global Groove》(1973年)をつくった方。あの時は、ロックフェラーがチャンネル13にうんとお金出したのよ。デイビッド・ロクストン(David Loxton)ってイギリス人の系統のプロデューサーがチャンネル13のアートプログラムをやってらしたけど、コラボレーションでロックフェラーのファウンデーションに来たナム・ジュンだとか、エド・エムシュウィラー(Ed Emshwiller)とか、ウッディー・ヴァスルカ(Woody Vasulka)とか、みんなと一緒にアートを作ってた頃があったのよ。
手塚:当時のカッティング・エッジ(cutting edge、先鋭的)な作家さんを、ロックフェラー・ファウンデーションがサポートして。
久保田:あの頃はだって、ビデオが本当に花形だったもの。ニューヨーク・ステイツ・カウンシルもじゃんじゃんお金あったし。ロックフェラーも一番お金をメディアにあげた時じゃない? そして、若い作家が……
手塚:どんどんでてきた。
久保田:育っていった。それを実際にエアしたでしょ。ナム・ジュンたちの作品を放送したじゃない、じゃんじゃん。だからインパクトあったし、若い人も盛り上がった時よね。
手塚:でもまだ美術館がそれをコレクションするとか、そういう時代ではないですよね。
久保田:その次に私がナム・ジュンに言ったのは、「チャンネル13に作ってエアしてもらうのは大変いいけど、エアっていうのは、お宅のテレビにみんなただで入ってくる。《Global Groove》はいいわよ、ジョン・ゴッドフリーと一緒に作った。でも誰が作ったかっていうクリエイティヴな点では、ナム・ジュン・パイクの名前のインパクトが薄いよ」って、私言ったのよ。「これオブジェにしなさいよ」って言ったの。オブジェに。彫刻に。
手塚:はい。
久保田:それで《TV Garden》(1974)ができたの。その時、ボニーノ・ギャラリー(Galeria Bonino)でナム・ジュンがしてて。そしたらナム・ジュンが、テレビと植物と混ぜ合わせてやろうってね。ガーデンってもう、日本のあれですよね。ナム・ジュンはやっぱり日本で育ってるし。やっぱりそういう転換は「ああこの人すごいな」って思って。ウェストベス(注:Westbeth Artists’ Housing:ニューヨークのウェストヴィレッジにあった元ベル・ラボラトリーズのリサーチ・センターを改築し、1970年にオープンしたアーティストとその家族向けの13棟からなる集合住宅兼スタジオ・スペース。改築デザインは建築家リチャード・マイヤー)にいる時にも私たちはテレビ局でシングル・チャンネルを一生懸命やって、すごく勉強になったけど、ピーナッツを空にばらまくみたいなものよ。
手塚:で、消えてしまう。後に何も残らない。
久保田:やっぱり美術館にいくと、作品は入り口のとこに、「うわあ、神様」みたいにあるじゃない。オブジェでもレオナルド・ダ・ヴィンチでも、何でもね。「やっぱりそのへんが違うのよ」って私ナム・ジュンに言ったの。彫刻とかで言えばやっぱり、神様に近寄る、あの存在感が違うって。「これで何とかなるんじゃないの」って言って。私もそういうのに興味があったし。ナム・ジュンはそこをうまく入っていったわね、三次元とビデオに。
手塚:じゃあ、久保田さんご自身の作品制作っていうのは、ナム・ジュン・パイクさんのエクスペリメントと同時進行でいろいろと。
久保田:以前からやっぱり、二人して同じようなことしてるじゃない。同じことしてると「あなたもやってるの」なんて言われるけど、私は元々ナム・ジュンの仕事に興味があったから。あの人の、音楽からハプニングしたりね。音のエクスペリメントで、ジョン・ケージに行って、音の破壊だとか、作曲でもやっぱりダダに近いようなアヴァンギャルドの。あれを今度ヴィジュアルに彫刻にする展開っていうのはやっぱり、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)なんかの世界。いかに芸術というものが、時の流れの時間の芸術か。ビデオだって一コマ一コマの時間が流れていく。それを静止したオブジェと結び合わしたら、その空間は美術館の空間のように、神様の神殿みたいにもなる。それが公共の場所に行ったら、にぎわうエアポートでも人の心を慰めるようなヒーリングになるし、いろんな可能性が含まれてるわけじゃない。私もお寺で育ったから、仏様をみるとすごくいいじゃない、イマジネーションが出てくるし。壁なんか見ると地獄とか極楽の絵が描いてあるじゃない、こうシナリオみたいに。あれはやっぱりビデオだと思うわよ、壁画みたいなのも。だから仏様の壁画はね、ちゅっちゅっと動けばそれがビデオでいいんだから、それに合わして仏様を作ったりとか、なんかオブジェでね。
手塚:確かに絵巻物とか、そういうものを見ると、空間と時間の動きがありますよね。だからそれがビデオとつながって。
久保田:そうそう。それと同じよ。伝統よ。伝統芸術をビデオの中に入れるっていうのは。だからアナログの時間で、私たちはちょうどいい時期に生まれたのよ。
手塚:ちょうどその、機材も出てきて。
久保田:そうそう。今だったら遅いわ。もうみんなやっちゃってるもの。私たちはアナログとデジタルの間に出てきたから。で、ナム・ジュンは勘が良かったですよ、やっぱり。ジョン・ケージなんかに電子音楽習ってるから、次のビデオなんてのは「物理やるとすぐわかる」って言うのよね。で、阿部先生みたいな家庭教師がついてたから(笑)。
手塚:次はこの方向にテクノロジーが進むと。
久保田:そうそう。いいとこ。それは私見てたから。
手塚:文脈を変えることによって何か物の見方がぱっと変わるっていうのは、まさしくデュシャンのアートですけど、それが久保田さんがデュシャンに惹かれた理由でしょうか。
久保田:いや、デュシャンに惹かれたのはね、彼に会ったから。
手塚:68年でしたっけ。
久保田:そうそう。そのボンで《チェス》をやった時ね。この時はもう、バッファローにいたの。
手塚:はい、コンサートか何かで行かれたというお話で。
久保田:ジョン・ケージとデュシャンがティーニー夫人(Teenny Duchamp)と《チェス》のコンサートやった時、私はキャノンの安いカメラを持ってて。いつもはナム・ジュンが「ピーター・ムーア(Peter Moore)がいるから写真撮るな」って言うのね。この時はピーター・ムーアはニューヨークにいらっしゃったけど、バッファローまでは来なかった。
手塚:じゃあ、その代わりに。
久保田:「じゃあ、写真撮ってもいいんだわ」って。ピーター・ムーアいないから。その時私は日本語学校の先生をしていて、土曜日の12時に学校で子供教えて、すぐラガーディア(空港)に行って、アメリカン・エアラインに乗って、バッファローに飛んだの。ちょうど冬だった。そしたら飛行機の中に、デュシャンの奥さんとマルセル・デュシャンがいて。「あら」と思って。そしたらもうすごい雪と風で、「バッファローに着陸できないからローチェスターに行く」って言うの。で、私も「あ、これはいいねえ」と。その時ちょうど『美術手帖』を持ってたのね、マルセル・デュシャン特集の。
手塚:その頃リポートをされてたんですよね。
久保田:そうなの。お金ないもの、だって。宮澤壯佳(みやざわたけよし)さんという『美術手帖』の編集長がいい方で、「久保田さん、何でもいいから情報集めて。写真も何かつけとく」と。で、それを見せてあげて、「私があなたの……」って、日本語だし、マルセル・デュシャンの特集を読んでたんですよ。ローチェスターに着いたら今度はバスでバッファローまで行ったの、雪の中。で、その夜にこのコンサートがあったの。マルセル・デュシャンの、花嫁をリップ・オフ、裸にするっていう。ジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)が舞台装置作ったじゃない。
手塚:ええ、大ガラス(注:《The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even》、通称The Large Glass)。
久保田:そこでマース・カニングハム(Merce Cunningham)が踊ったの。
手塚:大ガラスとの踊りってことですね。
久保田:そう、舞台装置が大ガラスで、マース・カニングハムが踊って。その次の週にバッファローまで行ったから、今度はトロントに呼ばれたんだね、あの方たち。トロントでこの写真、ジョン・ケージ(John Cage)との《チェス》の写真撮って。それでこの写真撮ったことも私、忘れてたの。これは2月か3月だったかな、冬で寒い時。この9月にデュシャンは亡くなったのね。
手塚:じゃあほんとに数ヵ月後に。
久保田:亡くなった後に、「そうだ、あの時一晩のコンサート写真撮ったわ。どうなったかしらあのネガ」と思って。
手塚:それをもとにして、あの《チェス》を。
久保田:その時のコンサートはテープで録ったんだけど、お金がなくてレコードにしなかったの。そのテープを少しわけてもらって、音を入れて。で、ジョン・ケージに「マルセル・デュシャンが亡くなられて、この写真集出したいから何かメモリアル書いてくれ」って言ったら書いてくれて、こういうの。
手塚:執筆がジョン・ケージで、写真が久保田さん。
久保田: 書いてくださったのよ。それで自費出版したの、500冊。自分でお金出して。
手塚:レコード付きで、500冊。
久保田:私は『美術手帖』の仕事してたから、宮澤さんが時間がある時に印刷屋に行って。ニッパチ(注:出版物の少ない2月と8月)に安くできるところで作ってくださったの。
手塚:印刷は日本で。
久保田:うん、もちろんみんな日本よ。だから、やっぱり縁よ。ナム・ジュンはいつも人の巡り合いは因縁万里って言うけど。それでマルセル・デュシャンに会って、「あら、まだ生きてらしたんだ」と思ったの。現代美術だって、美術館に行けばマルセル・デュシャンの作品はあるわよ。でも、会えるチャンスってのは、ニューヨークにいればないじゃない。あるようでないのよ。偶然よ、飛行機の中でお会いできたっていうのは。
手塚:日本にいた時から、デュシャンの存在は。
久保田:もちろん学校では、歴史で習ったけど。もっとポップ・アートの方が主力だった。華やかだし。デュシャンがポップ・アートの初めの方だっていうのは、歴史をたどればそうだけどね。
手塚:そうですね、いろんな方をプロモートされたりしてましたからね。
久保田:あの頃のデュシャンって、ものすごい地味じゃない。
手塚:じゃあ、ほんとにたまたま。
久保田:たまたまジョン・ケージとのお付き合いで、ああそうかっていうので。それで最後まで良くしてくださったのよ。本を出したらティーニー・デュシャンがすごく喜んで。この奥様はいい方だった。
手塚:すぐに数ヵ月後にお亡くなりになってしまったから、それまでにも交流があったとかいうわけではない。
久保田:ノーノー。9月に亡くなられたから。それだけ。
手塚:もう時間的にもなかったですよね。ティーニー・デュシャンとの親交は?
久保田:ずっとあった。私が《Europe on 1/2 Inch a Day》の時にパリまで行ったから、「じゃルーアンに行こう、お墓があるから」って、ティーニー・デュシャンに電話したら、「駅で降りて、タクシーでお墓にあるところ行きなさい」って言うのね。でもあの頃若かったから、重いポータパックしょって家族のお墓に行ったら、広くて何もわかんないとこで。それで墓碑銘が“It’s always been the others who died.”「いつも誰かが死んでいく」じゃない。
手塚:ええ、デュシャンの。
久保田:ウィット、ウィット。もう機知が飛んでるなぁと思って。行っただけあったなあって。すごく風がビュービュー吹いてるし、心細いじゃない。フランス語もできないし。
手塚:その時は一人で。
久保田:一人で。みんな一人よ。だってお金ないもの(笑)。助手なんて連れてけないもん。だからポータパックが良かったなあって思って。あれ画期的よ。
手塚:みなさん旅行される日記を書かれたりしますけど、久保田さんにとってはビデオがその役割を果たしてたってことですか。
久保田:いえ、一番最初は、子供の時小説家になりたかったの。林芙美子みたいな。「放浪記」みたいな、めちゃくちゃな生活ね。アーティストだからめちゃくちゃな生活はもうできるわよ。それをどういう風に書くか。林芙美子みたいになりたいって思ったけど、あんなにたくましく生きる人でも大変なことだと思った。でもポータパック持ちだした時は、ともかくじゃあ、ポータパックと旅行しただけでもいいじゃないかって。書くってことは、カメラで書けばいいんじゃないかって。
手塚:なるほど。
久保田:その後ちょっと、文章なんかも書きだして。今、韓国で出版社の人を見つけたのね。で、書いてるの。ナム・ジュンとの生活だけど。貧乏生活ね(笑)。
手塚:じゃあ韓国で出版されるんですか。
久保田:うん、もちろん。ちょっと話が飛ぶけど、韓国の人はナム・ジュン・パイクが韓国で生まれて、有名になって死んだけど、その真ん中を知らないって言うのよ。それはほんと。だって韓国にいなかったもの、ナム・ジュン。
手塚:韓国にいた時期っていうのはほんとに少ないですよね。
久保田:少ない。だって朝鮮戦争が起きた時、もういたら殺されるからってこっちに逃げたじゃない。いられなかったのよ、いたくても。そういう激動の国だから、危なかったわけね。だから知らないのよ、あの人たち。それでね、「教えてくれ」って言うから、「そんなの私いっぱい知ってるわよ」って(笑)。
手塚:それで書かれている。
久保田:とにかく、林芙美子みたいなの、書きたかったの。でも私、『美術手帖』でやってる時も「久保田さんの文章、『てにをは』がおかしい」って言われて。「てにをは」がおかしいってことは、小学校の文章よりまずいってこと。主語が何か、動詞が……
手塚:日本語で書かれてるんですか。
久保田:もちろん。だから「てにをは」がおかしいってことは、「じゃあだめなんだ、小説家には向かないんだわ」って。でも感情はあるわ、イマジネーションはあるわで。「じゃあ、ビデオカメラで、書いてけば何かなるだろう」って。それでルーアンに行ったり、《Europe on 1/2 Inch a Day》だとか作って。今度はナバホに行ったでしょ、マリー・ルシエ(Mary Lucier)と一緒に。
手塚:76年ですか。
久保田:あれも傑作だったわよ。アメリカにもこんなとこがあるかと思って。アリゾナのランドスケープが。日本語とナバホ語って似てるのね。「ヤッテ、ヤッテ」っていうのが「こんにちは、こんにちは」なの。日本では、セックスやってくれって言うのに「やってやって」って言うじゃない。だから「何この人たち」って。
手塚:それがハローですからね(笑)。
久保田:「ええっ、やろう」って、ダイレクトに言うなあって思って。もう「ヤッテヤッテ」って。「ああそうか、日本語と似てるなあ」って、もうなんかすごくかわいいのね。にこにこしてるし。音楽も、なんかねえ…… ナバホはほんとに顔も似てるし、「やっぱり近いんだなあ、民族」と思った。
手塚:そういうナバホの経験とか、アメリカのサウスウェストのあたりを旅されたのが、ランドスケープっていうものになっていくっていう感じですか。
久保田:そう。また彫刻に帰ってくると、昔山登ってたことが。富士山登ったのよ私、冬。山岳部だったのその時は。頂上まで行けなかったけど、八合目くらいまでね。「クリスマス、12月にやる」って言うんで、全部食料担いで。男の子ばかりの中に女の子二人だったけど、ピッケル持って、テント張ったの。もう木がないから、ビュービュー風が吹くとこで。やっぱりあの時の風景は忘れられないわよ。山とか槍ヶ岳の、アルプスの…… やっぱり人間は高いとこ登るのね。ゴシックや宗教アートの願望ってわかる。天国に近づきたいっていうのか。
手塚:高く高く、って感じで。
久保田:高く高くってねえ。その願望は、やっぱり彫刻もそうなのよね。
手塚:高くっていうと、デュシャンのお墓っていうのは結構平らな感じを受けたんですが。
久保田:あれはお豆腐みたいだったわよ。長方形の、全くシンプルなコンセプチュアル・アートね。だけど、魂は永遠にリサイクルする、ぐるぐるまわるじゃない。迂回するじゃない。だから、長方形を立てたわけよ、床から壁と天井に(注:《Marcel Duchamp’s Grave》、1972–75年のこと)。それを影で映すミラーを床に置いたわけよ。それで向こう側にもミラーを置いて、天井にもミラーを置いて、その魂がぐるぐる、禅で言うと円(まる)を描く。
手塚:円相のかたちになるように。
久保田:始めもなく終わりもなくっていう。その空間をつくりたいと思ったんだけど。そういうビデオと第三次元のコミュニケーション。だから私、よくナム・ジュンに「ちょっと神懸かってる」って言われた。「しょうがないわよ、うちがお寺なんだから」って。うちの父がそういう商売なんだから。子供の時、母と父がよく喧嘩して、「あんたのうちきたないし」とか、母が父に言うのよね。父はお婿さんだったから、母の方が威張ってたの。地主だったから、お母さんのうちはさ(笑)。
手塚:なるほど。
久保田:そりゃあお寺のうちはきたないわよ、死人をこういう風にやるんだから。でもそれも誰かがやらなきゃいけない仕事なんだけど。疎開した時なんかもそういうの見てきたから、子供の時に。小さい時の、そういう幼児体験っていうのかしらね。
手塚:のちのち作品に、こう徐々に出てくる感じは……
久保田:入ってくるのね、やっぱり。ナム・ジュンが亡くなった時だって、私人間が死ぬなんて考えられないと思ってた。ジョン・ケージなんか絶対死なないと思ってたし。わかる? で、今肉体は滅びたかもしれないけど、精神は生きてて、「じゃあなぜ肉体と精神が一致しないのか」なんて、馬鹿みたいな疑問だけどね、よく付きまとわれるわねえ、まだ。
手塚:ナム・ジュン・パイクが、久保田さんのビデオ作品に関して、ビデオの死を発見したのが久保田さんだと言ったとか。
久保田:そう。でもあの人はそういう風に親切に言ってくれるけど、ビデオってのはもともとそうでしょ。だから私が言ったのは、「ビデオっていうのは、あなたのお化けだ」って。“Video is ghost of yourself. ”って言ったのね。影みたいなもんじゃない。内面が出てくるしさ。亡くなってもそこにいるじゃない。
手塚:影としてあるって感じですね。
久保田:うん。だから今でもそう思ってるわよ、私。
手塚:なるほど。《Marcel Duchamp’s Grave》に使ったのは、12個のモニター、11個でしたか。
久保田:それは何個でもいいの。地面から天上まで。
手塚:つながる数であれば。
久保田:そう、テレビが入ればいいんで、たまたまそうなったんだけど。でもあの時ナム・ジュンがすごく怒ったの。私が帰ってきたら、「あんたのカメラぐらぐら揺れてる」って。すごい風が吹いてるし、重いポータパック担いでるし、もうくたくたになってお墓の中を歩いて、探してたから。で、感激してるし、カメラもぐるぐるこうなるわよ。
手塚:そうか、じゃあハンドヘルド(hand-held、手持ち)で。
久保田:でもあの人はスタジオで撮ってるじゃない。トライポット使って、もっと頑丈なスタジオカメラでがちっと撮ってるから、私のみたいにポータブルでぶるぶる震えてるイメージなんて…… でも今度それを「キッチン」で見せたら、ジョナス・メカスが「シゲコのカメラは素晴らしい」って言うの。「目が動くようにね、カメラが動いてる」って。だから「ほら見なさいよ」って言ったの。誰が良いって言うか悪いって言うか、その人によって違うわね(笑)。
手塚:でもフィルムメーカーがそう言えばそうですよね。
久保田:そうよ。だって、ジョナスはずいぶんほめてくれたなあと思って。『ヴィレッジ・ヴォイス(Village Voice)』に書いてくれたのよ、わざわざ。だから私救われたと思ったわ。
手塚:でもそのハンドヘルドっていう部分が、書くことにつながってるような感じがすごくするんです。
久保田:そうそう、ぶれるし、私が声で「マルセル・デュシャン」なんて呼んでるから、そこで。
手塚:こうじかに、作家の手でやる、みたいな。
久保田:そうそう、風もビュービュー入ってくるじゃない。風がこう動いてるしね。お化けみたいな木があるのよ、そのお墓の脇に。木がこう揺れて。だからもうなんか、あの景色は忘れられないなと思ってね。
手塚:久保田さんは、結構オマージュ的な作品が多くないですか。
久保田:そうなのよ。どうしてなのかわからないわ、私。
手塚:デュシャンから始まって。
久保田:ジョン・ケージだとか、ナム・ジュンだとか。
手塚:あと、アル・ロビンス(Al Robbins)さん。
久保田:アル・ロビンスは、私の作品作ってくれた人よ。彫刻。
手塚:彼は、最初の時から、ずーっと。
久保田:アルはその窓も、階段も、全部私の作品をつくってくれた。この人いなかったら私、有名にならなかったわよ。
手塚:そのスカルプチャルな部分っていうのは、彼がほぼ全て。
久保田:だって私は作れないじゃない、こんな上手に。私、粘土とかそういうのは上手よ。教育受けてるから。
手塚:そうですよね、訓練されて。
久保田:この人とどうやって知り合ったかっていうと、私が「キッチン」の仕事終わって、彫刻に入る時、《Marcel Duchamp’s Grave》をつくる時。アイラ・シュナイダー(Ira Schneider)っていうヴィジュアル・アーティストの《Manhattan is an Island》(1974年)っていう作品が「キッチン」にあって、なんかこんな台が作ってあったの、木で。「誰が作ったの、これ」って言ったら、「アル・ロビンス」、「誰、アル・ロビンスって」、「ニューヨークのMoMA(The Museum of Modern Art)の庭に行ってごらん」って。「毎日あそこでタバコ吸ってるよ」って。「ぽかんとしてるよ」って言うの。こんな髪しちゃってさ……
手塚:ほぼホームレスのような生活をされてたっていう風に聞くんですけど。
久保田:それは、ハーバード・ドロップアウトよ。ハーバードまで行ったのよ、建築科で。頭いいのよ。バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller)の弟子じゃない。あの頃ヒッピーだから、みんなドロップアウトなの。ホームレスが普通だったのよ。それで私が、アル・ロビンスに会った時ね、「私こういう作品つくるんだけど、あんたやって」って言ったら、「いいよ、あなた日本人だから僕好きだよ」って言うのよ。「僕は日本へいくチャンスもあったんだよ。日本人だったらやるよ」って。日本人で良かったわよ。「アメリカ人だったらやらない」って言ってたわよ。
手塚:ああ、そうですか。じゃあ、それでご縁ができて。
久保田:だって強者だもん。あれ作るの大変よ。見てても。
手塚:じゃ、こういったプライウッドの木でつくられた《デュシャンピアナ:階段を下りる裸婦》やその他デュシャンを引用した作品(《Meta Marcel Window》、1976年)の模型も全部、アル・ロビンス製作。
久保田:これ全部。これオリジナルあるのよ。これはベルリンから持ってくるの、今度。倉庫代が高くて(笑)。マルクで払ってるの。100個入るのよ、こんなおっきいのが。
手塚:これのバージョンということですか。これ以外の?
久保田:オリジナル。全部このカタログに入ってる。というのは私、ムービング・イメージ(The Museum of the Moving Image)で展覧会したでしょう。このカタログをやった時ね、ムービング・イメージから日本の原美術館に持って行ったのよ。
手塚:ああそうなんですか。
久保田:それで日本からね、シュテデリック・ミュゼアム(Stedelijk Museum)に持ってったの、アムステルダムの。そこからドイツのキールに持ってったの。キールのクンストハレ(Kunsthalle zu Kiel)。ベルリンとか。キールの脇のハンブルグの近くのウェアハウスに、今100個クレートがあってさあ。マルクだから大変なのよ。
手塚:その時からじゃあずっと、そちらに置かれてるんですか。じゃもう、91年からってことですか(笑)。
久保田:そう。で、助手が来月来るんだけど。ベルリンやハンブルクのウェアハウスに行って、少しナム・ジュンの作品もあるし、ニューヨークに持ってきて少し倹約しないとね。ニューヨークにもウェアハウスあるけど、ブルーム・ストリートにスタジオがあるから、そこにも少し入れられるしね。少し整理しようってことになって。これが帰ってくるのよ。
手塚:楽しみですねえ。
久保田:アル・ロビンスが作ってくれたのよ、それも。あの人は、夏になるといないの。マーサズ・ヴィニヤード(Martha’s Vineyard)に行っちゃうの。ジャクリーン・ケネディ(Jacqueline Kennedy Onassis)のサマーハウスがあったでしょ。あの頃、ジャクリーン・ケネディとかお金持ちがマーサズ・ヴィニヤードに行って、もう、華やかで。CBSイブニング・ニュースのアンカーマンだったウォルター・クロンカイト(Walter Cronkite)の娘も、あのへんにうろうろしてんのよね。アルはブロンドが好きで、「青い目じゃないとだめだよ」って言って、夏になるといなくなって仕事してくれないのよ。で、秋になって帰ってくるでしょ。それで「アル、アル、お願い、お願い」って言って。もうともかく住まわせて食わせればいいから、お金もそのぐらい、ナム・ジュンが見てくれたし。アルが作ってくれるのすごいし、私もアルじゃないともう。もうそれも最後だったねえ、最後まで作ったんだけど。なんかクリスマスに「カフェオレ」行ったんだわ。知ってる? 「カフェオレ」って、イーストヴィレッジの9丁目とサード・アベニューかセカンド・アベニューの。
手塚:はい。
久保田:あそこで女の子に会って、その女の子が、「あなた素敵だから一緒にサンフランシスコ行きましょう」って連れて行ったんだよ。
手塚:それでサンフランシスコで亡くなった。
久保田:サンフランシスコでハート・アタック(心臓発作)で亡くなった。馬鹿みたい。
手塚:ハート・アタックですか。
久保田:だから行かなきゃいいのに、女の子についてってさ(笑)。だけどアルにはほんと感謝してんの。アルじゃなかったら作れなかったよ。
手塚:じゃその後につくられた作品というのは、どうされてたんですか。
久保田:その後の助手はね、イタリアのマチェロ(Machello Mazzulle)という人。今ミラノ帰っちゃったけど。このカタログはイタリアの人が作ったのよね、ジーノ(注:Gino Di Maggio、ミラノのMudima Foundation の創始者)っていうフルクサスの。この人はすごくフルクサスで私とナム・ジュン助けてくれたの。で、「ミラノの美術学校を卒業したのがニューヨーク行くからよろしく頼む」って、マチェロが来たのね。で、彼に「木で作ってたけど、木で作る人死んじゃった」って。今度はお金がないから、チキンワイヤーが一番安いじゃない。「チキンワイヤーで作品つくるから、ナム・ジュンと私のこういうポートレートつくるから、つくって」って。
手塚:なるほど。
久保田:軽いじゃない、チキンワイヤー。木は重かったりして。これも重かったけど、グレン・ダウニング(Glenn Downing)っていうテキサスの子が作ってくれて。私、人の使い方うまいのよ。っていうのは学校の先生してたでしょ。品川の荏原第二中学で、SONYの地元で。親がSONYの手仕事のアルバイトで子供育ててるような、貧しい子供たちの世話したの。問題児よ。学校へ来ないし、家庭訪問に行くと「うわあ」なんて言って、お母さんは一生懸命SONYのパーツつくってんのよね。で、ラーメン屋に連れてって、「あんただめじゃない。もっと学校来なきゃだめよ」なんて叱りつけてたの。だから問題児の扱いうまいのよ。
手塚:そういう問題児をじゃあいろいろと。
久保田:マチェロは問題児じゃない。
手塚:アルさんは問題児だった。
久保田:アルはね。女の子のお尻ばっかり追いかけてんだもん。そして、泊まるとこないって、グランド・セントラル・ステイションに行って寝るのよ。「そんなの汚いから行かないでよ」って言って、それでアルもうちにベッド作ってさ(笑)。で、飯食わして。私料理うまいじゃない。
手塚:それでじゃあ、ご飯も食べさせて。
久保田:ドイツ出身のヨハン・ザウラッカー(Jochen Sauracker)っていう助手なんて龍安寺まで連れてったわよ、石庭つくる時。龍安寺に行って、石の置き方はこうよって。
手塚:この、グリーンの。
久保田:あれあれ。龍安寺まで行ったわ、ヨハン連れて。その時はスパイラル(・ギャラリー)でショーがあったの。中谷芙二子さんが、成子さんの作品をスパイラルで見せたいからって。でも私セットアップできないから、ヨハンに「行こうよ」って言って、東京行って。東京まで来たから「あなた、京都に行って龍安寺見せるから。次の作品は石をつくるんだよ、プラスチック・ミラーで。キャナルで買ったプラスチック・ミラーでつくるから。石庭を見せるから、一緒に行こうよ」って言って、京都行って。お庭まわって、研究したのよ(笑)。
手塚:ビデオ・スカルプチャーも形が、段階によっていろいろ変わりますよね。アルさんが作られてた頃は、もっとミニマリスティックな。
久保田:そう、ミニマリスティックで、木で。お金なかったから、プライウッド(plywood)の一番安いのを使ってたでしょ。
手塚:その頃、ミニマリストの作家は、ボブ・モリス(Robert Morris)もそうですけど、みなさん結構プライウッド使ってましたよね。やっぱり素材として手に入りやすかった。
久保田:うん。やっぱりみんなあの時はお金がなくて、この一番安いプライウッドが。のこぎりやなんかでも切りやすいし、場所もとらないでしょ。組み立てもそのへんでできる。アルはもう木は素晴らしかったし、木でダーッってつくったのね。で、アルが亡くなってから、これつくったんだ。ナム・ジュンの助手だったグレン(Glenn Downing)と。グレンは運送屋勤めてて、テレビを運びに来たのね。うちは力持ちの男の子が要るから、「あなたどこ卒業したの」って言ったら、「テキサスのアート・スクール」、って。「じゃあいいね、うち来てやってよ」って言って。もう木はいっぱいつくったから、今度は「こういう一番安い、そのへんに落ちてるの拾ってきてよ」って言ったの。ファウンド・オブジェクト(found object)で、「板でもアルミでも、こういうファウンド・オブジェクトで一番安いのでつくるから」って。
手塚:じゃあ、そのマテリアルの変化によって、かたちがフィギュラティヴになってきた。
久保田:この人はもともと彫刻つくってたしね。私もちょっとデュシャン卒業して身近なもの、ナム・ジュンとか私とか、フィギュラティヴなものを人間でつくろうかなと思って。粘土でもつくったのよ、そのへんに模型もあるの。でも粘土っていうのは、型をとるのが大変なの。すぐ固まったりしてさ。それで、テキサスの美術学校を卒業した彼と、ブルーム・ストリートのスタジオで、そのへんで拾ってきたり、買ったりなんかしたものでフィギュアをつくって。これ、母の日の『ニューヨーカー』の表紙になったわよ。女の人が、こうやってお母さんがジョギングしてる。
手塚:これは題名は何という。
久保田:《Jogging Lady》(1993年)。これは、ナム・ジュンがいつもトイレいっておしっこばっかりするから、《Pissing Boy》(1993年)で。これはグレンにつくってもらって。ヴェニス・ビエンナーレまで持ってって、見せたのよ。もうクレートつくったら重いから。で、その次にミラノから来たマチェロに、「お願いだからもうお金ないから、チキンワイヤーで一番軽いのでつくろう」って言って。上手につくった。イタリアの人たち手が器用よ。すごい。
手塚:職人文化があるとこですもんね。
久保田:あるある、もうすごい。美術学校だって、ミラノの美術学校は大変なんだって、卒業するのが。その先生がナム・ジュンの友達でさ、「すごーくおっかない先生だったよ」なんて言って。女の先生なのよ。女の先生にびしびしやられたんだわ。だから私みたいなおっかない人にでも、震えあがらない。にこにこして。
手塚:後期のチキンワイヤーを使い始めた作品で面白いと思うのは、今度は初期と逆に、内部の構造が見え始めるんですね。ビデオとか、ワイヤーとか。
久保田:そうそう。昔はそれを隠してたのは、SONYのテレビだとか…… 日本人でSONYなんか使うのは当たり前じゃないの。でも今度はナム・ジュンが出てきてさ、サムスンじゃない。「SONYじゃないの、サムスン?」って下に見るように言うのよね。だからテレビ会社に申し訳なくなって。JLCだってサムスンだってSONYだってどこでも同じくらいのレベルがあるのに、「どこの、RCA?」って。RCAの昔のテレビが一番、私の《メタ−マルセル》のウィンドウ(《Meta-Marcel : Window》)には良かったわよ。線がまだそんなにないから。
手塚:クオリティが良かったんですか。
久保田:ドッツ(dots)が大きくて。工事が良くなって、線が多くなると、ドットが出なくてもうブラックになるもの。それもナム・ジュンが捨てたものなの、「このテレビ壊れてるから」って。うちへ帰ってきたら、家の前にテレビが捨ててあるのよ。「カラーテレビじゃない、もったいない」と思って、また持ってきたの。つけたら、ぼやけてんのね。でもスリーカラーの、緑と赤とブルーだけは出てるしさあ。で、スローが出るから、「ああこれはいいわ」と思ってとってた。今ホイットニー(美術館)が買ったわよ、私の窓。《メタ-マルセル・スノー・ウィンドウ(Meta-Marcel : Snow Window)》で。
手塚:ああそうですか。スノー・バージョン。
久保田:うん。それで私いいお金もらったもの。ナム・ジュンが捨てたテレビから。
手塚:オブジェクトがアートに変わった瞬間ですね(笑)。
久保田:ナム・ジュンは結局、お金があるからばんばん、100買ったり200買ったりするじゃない。私はお金ないじゃない。ナム・ジュンが捨てた、壊れたのとか、いかに少ないテレビでやるか。モダン(MoMA)にある階段の作品だって、4つしかないでしょ、テレビ。
手塚:そうですね。
久保田:4つしかなかったの。
手塚:それで4つになったんですか。
久保田:ナム・ジュンがトリニトロン持ってた。高いのよ、あの頃のSONYのトリニトロン。それも4つあった。3つが少し大きくて12インチ、1つは9インチ。「あ、これはものになる」と思って、階段にした。《Nude Descending a Staircase》。「どうして4段なの」ってみんなに聞かれるの。だってテレビ4つしかなかった。
手塚:だろうなと思ったんです。なかったから4段になったと。
久保田:というのは私買えなかったもの。あの頃はカラーテレビ高い。今でも高いけど、あの頃はもっともっと高かった。
手塚:トリニトロンの、SONYの、すごいですよねえ。
久保田:トリニトロンなんてSONY素晴らしいよ。黒木(靖夫)さんなんかずいぶんお世話になった。SONYの人はナム・ジュンに親切にしてくれて。SONYの石井宏枝さんていう女性がナム・ジュンに一生懸命、親切にしてくださって。ナム・ジュンが60歳の時、ホイットニーの大きい回顧展が上野の美術館に行ったんですよ、84年に(注:「ナムジュン・パイク展—ヴィデオ・アートを中心に」1984年6月14日~7月29日、東京都美術館)。そのとき、SONYが全部機材出してくださって。ウォークマンとか、トリニトロンを発明した黒木さんが全部SONYでOK出して。ナム・ジュンはずいぶんSONYにお世話になって、お友達になって。黒木さんはすごいエンジニアで、千葉大の意匠科っていうの、デザイン科卒業なさって。SONYに入ってトリニトロン研究して、ウォークマンでまたヒット出されて、引退なさった。いい方で、いつもずっとナム・ジュンのお友達だったですよ。去年かおととし亡くなられたけど。SONYがずっとナム・ジュンを84年に推してくださって、上野でヒットして。それで広島美術館でメガトロン買ってくれて、そこでもSONYが全部機材出してくださった。そうしてるうちに、サムスンが来たの。
手塚:なるほど。
久保田:韓国の人がやっと。韓国の人は何もやってくれなかった、ナム・ジュンに。
手塚:それは知らなかったんですよね。
久保田:知らないというより、知ろうとしなかった。というのは、ナム・ジュンがハプニングとかしてるから、「何だあれは、気が狂った男じゃないか」、「韓国の恥だ」なんて言ってね。
手塚:ああ、そうなんですか。
久保田:だってすごい、ハプニングでシャーロット(Charlotte Moorman)とトップレスやったりしたでしょ、おっぱい出したり(笑)。
手塚:やっぱりそういうところが受け入れられなかった。
久保田:韓国は儒教の国じゃない。こっちはもうちょっと慣れてるけど、韓国ってかたいのね、やっぱり。なんかすごく風当たり強くてね。今になって「ナム・ジュンの知られざる生活を、人生を教えてくれ」なんて私に来たから、「じゃあみんな書いてやるわ、あんたたち何もしてくれなかったじゃないの」って言って。
手塚:ええ。ようやく美術館ができて。
久保田:美術館ができたんじゃないのよ。あれも名前だけよ。中は全部変えられてさ。
手塚:そうなんですか。
久保田:「ナム・ジュン・パイクの美術館にする」って言うのを、「ナム・ジュン・パイク・アート・センター」にしたからさ、「ナム・ジュンだけには限らない」なんて言って。いいように名前を利用されただけよ。だからひどいよ。
手塚:でも、一応新しいメディアにフォーカスした美術センターなんでしょうか。
久保田:そうそう。だけど、ほんとはナム・ジュンの作品が全部入るはずだったのよ。
手塚:そうなんですか。
久保田:韓国の人は、まだわかってないわね、ナム・ジュンのこと。よくわかんない。
手塚:国民的ヒーローと言ってもいいぐらいですけどねえ。
久保田:というのは、やっぱりナム・ジュンは一旦(韓国を)捨てたからね。アメリカ人になったでしょ。韓国の人は韓国に残って、っていう。でも韓国に残ったら何もできなかったわよ。あの人たちは、やっぱりスケールが違うじゃないの。
手塚:久保田さんご自身はいかがですか。ニューヨークにずっと長くいられて。
久保田:私? どこ?
手塚:在米の日本人作家なのか、アメリカ人作家なのか。
久保田:私は…… 私はどうも思ってないよ。だいたい結婚した時から日本の人と結婚しなかったし。日本と韓国で生まれたっていう。でも良かったと思うわよ。日本に生まれたから、アメリカの人や、ヨーロッパの人でもない、自然に対する叙情っていうのか、日本の俳句みたいなところを持ってるじゃない。日本で生まれたカルチャーっていうのは身の中にあってすごくいいと思うし、宗教だっていいと思うよ。仏教だって、山水の流れのように、水墨のようにっていう、哀れみよねえ。この自分の人生まで無にしてもっていう。悔いのない無の世界なんていうのはやっぱり、西洋の世界じゃないから。我が強いからね。そういう人生観とか哲学感は、日本に生まれて良かったなあと思う。でも、あんまり日本にいないってことは、いないっていうより、いれないっていうのか。ニューヨークに長くいると住めば都でね(笑)。どこでもよくなるわけよ、わかる?
手塚:でも頻繁に行き来はされてはいたんですか。
久保田:行き来はしたけど、2年前まで。母が亡くなったら、もう行く勇気がしなくなった。うちの母が「あんたがいるから私はまだ生きてんのよ」なんて言って、「心配で死ねない」って102歳まで生きてたのよ(笑)。
手塚:102歳。うわあ。お元気なお母様でいらっしゃった。
久保田:だからみんな、「結構親孝行したんじゃないの」って。私のことあんまり不良少女だったから、「心配で心配で」って。だから悪かったなって思うけどね(笑)。それで新潟美術館に「うちの娘の展覧会してください」なんて頼みに行くんだけど、新潟美術館には「いや、まだまだ」なんて言われてさ、かわいそうに。私は「そんなとこでしなくていいわよ、もっとすごいところでしてんだから」なんてお母さんに言ってもさ、新潟は頭が古いじゃないの。
手塚:やっぱり、地元の美術館に凱旋展みたいなものを。
久保田:そうよ。うちの母としてみれば、故郷に錦飾るというか。でも新潟美術館に行ってみたらずいぶん小さいとこで、天井は低いし(笑)。新潟は食べるものがいっぱいあるから、芸術に熱心じゃないのよ。長岡の方がまだいいわね、長岡の現代美術館ね、有名な美術館。まあいろいろあったのね(笑)。でも、ナム・ジュンの場合は、あの人はもうそりゃドイツにお世話になってるからねえ。
手塚:そうですよね。ドイツも長かったですし。
久保田:生まれ変わったみたいなもんだからねえ。今度、来年の9月かな、デュッセルドルフで大きい回顧展がありますよ。去年も行ってきたの。面白かった、ケルンに行ったり、デュッセルドルフ行ったり。昔住んでたから。
手塚:懐かしい思い出がいっぱいで。
久保田:ナム・ジュンの教えてた生徒なんかもいっぱいいるし。情があるのね、やっぱり。ブレーメンもよく行ったしねえ。ナム・ジュンと72年の《Europe on 1/2 Inch a Day》の時ね、ポータパック持って行って。ベルリンもDAADでお世話になった。ほら、住んでたでしょ。マルクの強い時。ずいぶん助かったわよ。ニューヨークで貧乏してた時にばーっとドイツ行ってね。
手塚:それは何年から何年ですか。
久保田:ドキュメンタ、77年。ドキュメンタで二回行ったわね。ドキュメンタはやっぱり、登竜門っていうのかな。ヨーロッパで一旗上げる時はやっぱり、ドキュメンタに入ると注目されるしねえ。
手塚:ひとつ、テクノロジーに関してなんですけど、久保田さんはやはり新しいビデオカメラなんかが出る度に、新しいものを使おうという感じで、いろいろされるんでしょうか。
久保田:ナム・ジュンはそうだったわね。いろんなものを最初のSONYから持ってたわね。でも私は今のデジタルまでだわね。テクノロジーっていうより、やっぱり映像よ。何を映すか。自分で何を映したいか、何をつくりたいか。それはやっぱり媒体であって、主流じゃないというか。
手塚:久保田さんの映像を見ると、すごく詩的な感じがするんです。
久保田:そう言うわねえ。それはやっぱり田舎育ちだからよ。カントリー・ガールの仕様が入ってるのよ。今は私、それは戦争の時の子供の体験だと思う。新潟でも市内だったから、うちの父の実家行った時はびっくりしたわよ。あんまり山の中で、こんなとこに人間が住んでるかって思うぐらい。お寺の広いがらーんとしたとこに仏様がいるけど、ちょっと行くと水道もない。遊ぶとこはお寺のお墓の中に隠れたり。そしてもうついてくとこは山の中で、ツツジが咲いてて、水があって。「うわあ、これはきれいだわ」と思った。子供の時、新潟の学校に帰ってきたくなかったのよ、私。ずっとそこにいたいと思ったけど、親が「お前だけ残してくわけにいかないから」って連れかされて。そのうち忘れちゃったけど。でも、ああいう自然の中っていうのは、特に戦争の時で何もなかったじゃない、もうほんときれいに見えた。自然っていうのは、こんな花でも、木でも、なんか語りかけてくれる。楽しいもんだなって思って。友達だなって思った。
手塚:そういうのは結構、ビデオ作品を編集する場合でも、ふーっと出てくる。
久保田:なんか出てくるわね。フォーティーン・ストリートのユニオン・スクエア・マーケット(Union Square Market)に行くと、田舎の人が持ってくる花なんて見ると目が散る。もう買って、欲しくなる。持ってきてそんなのを植えてるけど。あなたにいただいた花も、心慰めてくれるわよ。言葉以上に何かあるんじゃない。人間の言葉なんてあてにならないと思うわよ、自分でべらべら言ってるけど(笑)。そう思わない?
手塚:では、今まで書くのがお好きなのに、書かずにビデオという視覚美術を通して語られてきたっていうのは、やっぱりそういう風なことがあるんでしょうか。
久保田:そうそう、アメリカにいたからよ。やっぱり、日本語が通じないじゃない。
手塚:最初来られた当時、やっぱり言葉はすごく大変でしたか。
久保田:大変だった。やっぱり英語でどこまで自分が表現できるかってことは、これは言葉の限界じゃない。すると映像は抽象だから、どんなとこにも入り込める。
手塚:でも最初はすごく辛くなかったですか。
久保田:楽しかったわよ。
手塚:先生という立場で、日本で教えてらしたりしていたのに。
久保田:いや、先生なんて収入のためよ。なりたくてなってんじゃないもの。子供が好きだからなったけどね。子供は好きだったわよ。こっちに来ても日本語学校に教えに行ったり。子供といるの、今でも好きよ。シカゴ・インスティテュート(Chicago Institute)に行って、人気だから何回も呼ばれたりしてね。シカゴの子は田舎の子だから、ニューヨークの子よりいいのよ。なんかこう、純朴でね。ビデオが盛んでしょ。あそこはすごく寒いから、みんなビデオルームに入って、ビデオやんのよ。
手塚:ああ、なるほど(笑)。環境がそういう。
久保田:うん。あったかいとこは外に出て遊ぶけど。シカゴに行くと朝9時からよ、授業。9時に学校なら、8時にうち出なきゃだめよ、寒い時に。レイク・ミシガンからすごい風が吹いてくるのよ。でもシカゴですっごく楽しかった私。シゲコっていうのシカゴに似てるでしょう、“Shigeko in Chicago” で子供が楽しむのよね。「へえ」なんて言っちゃって。いろんなとこから子供が来てるのね。アリゾナとか、セント・ルイスとか。シカゴの生徒に交じってるの。
手塚:インスティテュートですね。シカゴの。
久保田:今でも音信があるわよ。子供が来るわよ。
手塚:あそこは、シャープのセンターがありますよね。メディア・センターみたいな。
久保田:ああ、そうなの。なんか上場企業なんかも出てるし、クレス・オルデンバーグもそうだよね。根性あるアーティストがいっぱいいるから、生徒もすごいね、根性ある子がいっぱいいて。楽しかった。だから私、生徒が好きなのよ。夜なんかいつも生徒とブルースの喫茶行くのよ。私一人で行けないじゃない。生徒に「つれてってよ」なんて。お金もらってるから、学校で。だから生徒ぐらい連れてって、ちょっとこう気分によって、黒人のブルースなんか聴いたりしてね。良かったよ。すごく。
手塚:ニューヨークで教えられたことっていうのは。
久保田:ヴィジュアル・アート。ちょっと行ったけどね。
手塚:スクール・オブ・ヴィジュアル・アート(School of Visual Arts)。
久保田: うん、ちょっと行った。でもスクール・オブ・ヴィジュアル・アートの子はしょっちゅうこのへんに来て電話してくるから(笑)。もう嫌だ(笑)。
手塚:大変(笑)。
久保田:シカゴは遠いからさ、めったに来ないじゃない(笑)。でもほんと、シカゴにはお世話になった。お金がない時はいつもシカゴ行った。というのは、まずお金がない時にDAADに呼ばれて、ベルリンに行ったでしょ。その時までジョナス・メカスのアンソロジー・ビデオ・アーカイヴ(Anthology Film Archives)でキュレーターやってた。ビデオ・キュレーターね。
手塚:ああ、そうでしたね。
久保田:そうすると、収入は入ったわけよ。ニューヨーク・ステイト・カウンシルがビデオ盛んだったから。
手塚:キュレーターということは、プログラムを組んだり。
久保田:プログラム組んだよ。友達ばっかり呼ぶのよ。それで終わったらここへ来てパーティーしてさ。それで、ゲスト・キュレーターにジョン・ハンハート(John Handhardt)呼んで、ナム・ジュンに紹介したり(笑)。
手塚:ああ、そうなんですか。
久保田:MoMAのバーバラ・ロンドン(Barbara London)とかさ。結構ポリティクスになるのよ(笑)。
手塚:じゃあホイットニー(Whitney Museum of American Art)にナム・ジュンが行ったのも、MoMAにナム・ジュンが行ったのも、久保田さんが。
久保田:そうそう(笑)。そうよ、あの時なんてジョン・ハンハートが…… あの、最初のホイットニーのキュレーターが亡くなったのね。ユダヤ系の方だった。その次にジョンがいらっしゃったからさ。74年の頃だから、初めでしょ。アンソロジーの給料も上がらないし、そしたらドキュメンタ77の後にDAADが来いって言うから、79年に行って。マルクが一番高い時に。ベルリンに一年いて、まっすぐニューヨークに帰ってきたくなかったの。「どこ行こうかな」って言ったら、シカゴ・インスティテュートにバーバラ・レイサン(注:Barbara Aronofsky Latham、1978年から1984年にかけてThe School of Art Institute of Chicagoのビデオ学科長)っていう友達がいて、「シゲコ、うちおいでよ」って。「NEA (National Endowments for the Arts、アメリカ国立芸術基金)に申し込めば、あなたのアーティスト・レジデンスのサラリーくらい出せるから」って。それで行ったの。それからずっと、一年にワン・セメスターくらい、いつもお世話になった。勉強になるのよ。
手塚:ああ、教えることによってまた自分が。
久保田:うん。あそこの人たちはすごく創造的よ。
手塚:それが1980年代に入ってからですか。
久保田:うん。82、3年からずっと、お金がない時にシカゴ・インスティテュートに教えに行って。それで、レイク・ミシガンに行ってみんなで撮影したりさ、ビデオ撮ったりして。
手塚:ビデオは結構、常に撮っていた。
久保田:うん。生徒と一緒に撮った。あの時、学校にカラーのカメラがあったし、買いに行ったりして、それで撮ったのよ。うちで一緒にやったりしてさ。
手塚:70年代からカラーはもう使われてた。
久保田:うん、でもあの頃学校でカラーカメラを入れるっていうのは大変だった。だから白黒使って、白黒カメラで、ビデオ・シンセサイザーでカラーつけて。
手塚:色をつけて。
久保田:だけどシカゴ・インスティテュートの時は、カラーカメラを学校で買ってもらって、それでデュシャン撮ったりしてね。
手塚:何かやはり違いますか。色でもう既に撮るというのは。
久保田:自然の色だからやっぱり。シンセサイザーの色はアクセントにはいいけど、やっぱり自然の色は自然にきれいじゃない。いろんなの混ぜたりして、勉強になったですよ。それで、子供はみんなカメラ持ってくるわけよ、だから助手雇わなくていいわけじゃない。一緒にやるからね。楽しかったですよ、それで帰りおすし屋行ったりして。シカゴは食べ物がおいしいのよ。ほら、カリフォルニアからくるのがシカゴ降りてお魚新鮮じゃない、それでニューヨークに来るじゃない。
手塚:ええ。お肉とか。ステーキも有名ですよね。
久保田:メキシコ料理なんかすごいわよ。メキシコの移民がいっぱいいるのよね。子供たちとよく遊びに行った(笑)。
手塚:面白いな。私はいろいろと久保田さんの資料を読ませていただいて、久保田さんの、いろいろな役割っていうのが今まであったと思うんです。ひとつはもちろんアーティストとしての久保田さん。もうひとつは、女性アーティストとしての久保田さん。もうひとつは、キュレーターであったりオーガナイザーであったりの久保田さん。
久保田:そうそう、キュレーターね。面白かった。
手塚:それからもうひとつは、コラボレーターというか、ナム・ジュンさんのパートナーとしての久保田さん。
久保田:そうそう。パートナーじゃないわ。その同志よ。
手塚:同志。
久保田:コラボレーターはしたことないもん。だってあの人とコラボレートする? 全然違うわよ。水と油よ。コラボレートしてないって言って、自分のことしてても、「ナム・ジュンの真似してる」なんて言われて、ずいぶん侮辱感じることもあるけど。だからデュシャンにもっと走ったのよ。あの人がああいう風に、ちょっと庶民的に行くと、私はもっとハイ・アートにいって、デュシャンとかすました方の作品つくってやろうなんて思ったし。わかる? ナム・ジュンと同じじゃ、とても私やってけないわよ。
手塚:じゃ、同志であり、お互いにこう……
久保田:フルクサスでは同志だったわよ。二人ともフルクサスだったから。でもビデオになるとナム・ジュンは実験的だし、エクスペリメンタルで、汚いじゃない、作品が。もうワイヤーは出してあるし、機械はナム・ジュンの初期の作品よね。ああいう風に。
手塚:そのままっていうかたちで。
久保田:そのままでしょ、機材そのままじゃない。《コスモ》って作品。反対側のちょっと今ではないんだけど。阿部さんがさ、この前直してくれたんだけど。
手塚:じゃ、逆に久保田さんは、クラシックに彫刻作品を。
久保田:私はだからデュシャンなんかに行って、全部コンセプチュアルみたいに箱つくって、もう中に全部入れちゃって。ちょっと気取った感じになっちゃったわけ。でもナム・ジュンのはもうちょっと汚らしいっていうか、もうテレビをがすがすっと並べればいいっていうか。けたたましく違うじゃない。一緒にされたくなかったわよ、私。
手塚:では、お互い制作中っていう時は話したりとかそういうのは全然なかったんですか。
久保田:うーん、って見てるわよ、「ああまた汚いのつくってるなあ」と思って見てるけど、黙ってるわよね。
手塚:ナム・ジュン・パイクは、久保田さんには。
久保田:ナム・ジュンはずいぶん私のこと励ましてくれたわよ。カメラが動くっていう、ぶれるっていうのを、「なんだこのカメラ」なんて言って。彼がちゃんとしたスタジオカメラで、重いカメラをトライポットでがしっと支えて、じーっと映して、2つも3つもカメラをミックスしてやるなんてのと違うでしょ。私がひとつのカメラで全部やらなきゃいけない。それから《Nude Descending a Staircase》つくった時も、私が「《Duchampiana》つくるよ」って、デュシャンの墓つくって、「次は《Nude Descending a Staircase》だ」って言ったら、「何それ」って。ほら、高峰秀子の、女が階段を下りる映画(注:『女が階段を上る時』1960年、成瀬巳喜男監督)があったでしょ。
手塚:ありました、映画。
久保田:「あれと、デュシャンの階段のモールと結び合わせんのよ」って言ったら、「そんな話で誰がわかる、ややこしい」って、こう言うのよね。
手塚:でもそう言われてみたらその通りですね。あの映画のポスター自体がもう、彼女が階段に立ってるとこですもんね。
久保田:そうそう。それがあったわけよ、私。そしたら、「そんな話して誰がわかる」って。「アメリカ人なんてシンプルだからそんなのわからない。やめろやめろ」って言ったけど、やったのよ。そしたらそれがドキュメンタで当たったじゃない。バーバラ・ロンドンが一番最初にうちに来て、「MoMAのコレクションにシゲコの階段を買いたい」って言って、ナム・ジュンはぎゃふんよ。私の方がキャッシュもらったのよ。
手塚:一番最初ですもんね、ビデオ・スカルプチャーでMoMAの作品になったの。
久保田:そうそう。パーマネント・コレクションよ。ナム・ジュンよりも、ビル・ヴィオラ(Bill Viola)よりも、私よ。
手塚:じゃあ、バーバラ・ロンドンが久保田さんの作品を見ていて、これっていうことでMoMAに、入った。
久保田:あの時、プロジェクトに入ったの、最初。プロジェクトって小さい部屋で、新人アーティストでやるじゃない。
手塚:はい。今もやってますよね。
久保田:今もやってるわね。ドキュメンタ77に入る前、76年に、ジャパン・ハウス・ギャラリー(Japan House Gallery。現在のJapan Society Gallery)ってあるでしょ。ランド・カスティール(Rand Castile)さん覚えてる?
手塚:はい。
久保田:あの人が来たのよ、マゴットと二人で。で、「シゲコさん、ドキュメンタに行くって聞いたし、MoMAのプロジェクトにも入るって聞いた。私たち何もやってないから、ジャパン・ハウス・ギャラリーで何かやらしてくれ」って言ったの。「ありがとうございます」って。それでデュシャンの墓とか、《Nude Descending a Staircase》とか、窓をね、見せたの。そしたら吹雪で、誰も見に来ない。地下鉄も止まったのよ。
手塚:行けないですね、誰も。
久保田:そしたら、ジャパン・ハウス・ギャラリーのキュレーターが、「いや、雪が降るってことは、お金が降る、お金が降り込むことだ」って。「いいんだ。心配するな。地下鉄止まったなんて何だ」って(笑)。地下鉄が止まってもオープニングの日に見に来たのよ。そしたらランド・カスティールさんも気前が良くて、自分が持ってるすごいウィスキーやなんかのコレクション全部出して、みんなに飲まして(笑)。すごいオープニングだったのよ。すごく力入れてくださったのよね。それで私がドキュメンタで行って、今度はバーバラさんがプロジェクトに入れてくださったのよ。だからプロジェクトが最初ね。ヌードだから、文句が出ると思ったんですって。昔のMoMAは、入ったらすぐに広い玄関があったでしょ。そのすぐ脇がプロジェクトだったの。だから玄関よ。
手塚:じゃあ、一番最初に見るものがヌードってことですね。
久保田:ヌード。それで、みんなひやひやしてたんですって。そしたらだれからも文句出なかったって。
手塚:へえ。
久保田:ヌードっていうと、美術では。絵でもマティス(Henri Matisse)でも、彫刻でも、レオナルド・ダ・ヴィンチでも、みんなヌードじゃない。伝統じゃないの。
手塚:クラシックなモチーフですよね。
久保田:そう。だからみんなほっとしたんですって。それでMoMAのトラスティーが、「お金を出し合って、この作品をMoMAのパーマネント・コレクションにしましょう」って、買ってくださったのよ。だからわかんないもんねえ。
手塚:そうですねえ。結構頻繁に展示されてません? 私何度も見ましたけど。
久保田:今も見せてる。この前も見せたでしょ。それで、あの中のテレビがたった4個しかないじゃない、ナム・ジュンの壊れたの使ったから。私いつもナム・ジュンと買う人に頼んでて、「これが最後のSONYの12インチのトリニトロンだ」って言うの。みんなあったの5つか6つ買って、別の作品に使ってたの。それを全部あげたわ。「これはあなたたちのためにとってたんだから」って、向こうはね。「どうして私の階段見せないのよ」って言ったら「いやあ、壊れた時の代わりがない」って。「私のうちにいっぱいあるわよ」って、全部あげて。そして、「もしこれが壊れたらどうしよう」って言うから、その時はこの薄いのが、今デジタルの出てるでしょう。
手塚:しょうがないですよね。新しいのに。
久保田:「それがまた壊れたらどうしよう」って言うのね。「その時はその時よ」って言って(笑)。
手塚:もうどんどん新しいのに変えていくしかないですもんね、やっぱり。
久保田:それでもトリニトロン買ってたのよ、私。最後のトリニトロンだって、CTL Electronicsって中国人のお店があるでしょ、ダウンタウンに。その人がナム・ジュンに親切で、いろんなものを買ったのね。今でもナム・ジュンの作品、「こんなの壊れた」って言うと直してくれたり。結構チャージするけどね。で、そのトリニトロンを全部、MoMAが「じゃあ買う」って言ってきたけど、私は「要らない」って言ったの。私の階段のために買ってたから、「階段のために使ってくださいよ」言ってさ(笑)。で、この前見せてた。
手塚:見てきました。
久保田:いいところですよね。
手塚:入ってすぐですよね。
久保田:そう。そしたら、それを見た韓国のジャーナリストが感激して。その韓国の人がまた傑作なのよね。ナム・ジュンの奥さんだから、まあ大したことはないと、みんなそう思うわよ、私のこと。そのジャーナリストびっくりしちゃって、「あなたえらい奥さんね」って言うから、「あらそう」 って。その人が今度、私がナム・ジュンとのストーリーを書く出版社を見つけてきたのよ。先週(笑)。
手塚:ああ、その人が。なるほど。
久保田:面白いわよ。この頃韓国の人ずいぶん親切にしてくれるの。だからね、捨てる神あれば拾う神ありなのよ。そういうもんだわ。
手塚:じゃあ久保田さんにとっては、ビデオのああいった彫刻作品のマテリアル性っていうのはすごく重要なものなんですね。ビデオのモニターがトリニトロンであることとか、モニターの色の付け方が、もともとは白黒を色つきにしたりとか。
久保田:ナム・ジュンはあまりにも裸のTVだけ積み上げてたでしょ。あれみっともないと思ったのね。
手塚:やっぱり、それに代わる何か彫刻作品を……
久保田:というのは、みんなが「あれ、SONYからお金もらってるの」って言うのよね。とんでもない。こっちお金ないのにみんな買ってるのよ。でも「これ、使ってください」って持ってきて、やってると思われるのよね。それでめんどくさいから、「SONYでもサムスンでも同じだから隠しちゃえばいい」と。それでみんなが、私の彫刻作品見ると「テレビの仕組みの中に入ってる」って言う。違うのよ。どこの製品か、メイド・インを隠すために、木でオブラートみたいにオブジェをつくった。それから展開してったのよ、みんな。最初はプライウッドの木が安かった。日本はまあ木は専門だよね。木の彫刻っていうね。でもアルが、たまたますごく天才的で。あの人は建築を勉強したのよ、バックミンスター・フラーと。だから模型つくるの上手いのよ。こんなちっちゃい窓のフレームなんかは、カフェでつくったのよ。OGって、この階段上がったとこの。あそこのカフェでコーヒー1杯飲んでたばこ吸いながらちゅっちゅっと。
手塚:作ったと。器用ですよね。
久保田:だからアルのおかげなのよ。あの人亡くなってほんとショックだったよ。あの時お金なかったのよ。私もアルも、この作品がお金になるなんて思ってなかったよ。私がお金なかったから、これ一発だけどオリジナルつくったらみんなとってあるの。あとつくれないもの、同じの2つも3つも。
手塚:エディション・ワークっていうのはない。
久保田:あんまりないね。この窓はたくさんつくったけどね。階段も。
手塚:あと、《チェス(Video Chess)》(1968–75年)は。
久保田:《チェス》は一つだけ。というのは、私はナム・ジュンみたいに作れない。ナム・ジュンは助手使って、「おい」ってこうやるけど、ファクトリーみたいになっちゃうでしょ。私はそれができなかった、お金なかったから。
手塚:《チェス》のひとつひとつのピース自体は?
久保田:あれはキャナルで買ってきたのよ。
手塚:ああ、そうなんですか。
久保田:10セントとか。あれはジョージがデザインした。いろんな人がデザインしたけど、ジョージがね、キャナルで買ってきたのが一番良かったから。それこそレディ・メイドで。で、私がオリジナルはオリジナルで捨てないで持っているから、ウェアハウスが大変なの。もう100個クレートがベルリンやハンブルクの近くのウェアハウスにあるでしょ。ウェアハウスの人が心配してるの。これ一体どうなるのかって、助手も心配してる。ユーロは上がるし、シゲコが死んだら誰が払うか。で、ここに少し来月持ってくるの。
手塚:全部電気機器ですし、どれくらいもつかっていう。
久保田:電気機器はいいの。新しいのに変えてくから。オブジェが残ってんのよ。木の彫刻が。それが場所食ってんのよ。
手塚:なるほど。
久保田:それから《River》(1979–81年)なんてメタルでつくってるでしょ。あれもベルリンでつくって、オンリー・ワンよ。でも、風情があるのよね。オンリー・ワンの作品っていうのは、人生の思い出みたいなもんよ。木も色が変わるしね、あの階段、この前見た時もいい色になってるし、味が出るし。やっぱり捨てられない。捨てればウェアハウス代払わなくてもいいけど、どうせ子供もいないし、教育費も払わなかったから。自分の思い出だしね。今は、払える時までは払っとけばいいと思って。ほんとは、韓国のナム・ジュン・パイクのミュージアムに入れば良かったんだけど、ミュージアムをやめたでしょ、あの人たち。「アート・センターになったら入れない」とか、ちょっとニュアンスが変わっちゃった。
手塚:コレクションはしないとこなんですか。
久保田:だからよく知らないのよ。会ってないのよ。だって、言わないのよこっちに。自分たちが勝手に変えちゃってさあ。
手塚:あと、私がすごく好きな久保田さんの作品で、バッグの中に入っている。
久保田:小杉のチェンバー(《Chamber Music》)ね、今そこにあるわよ。あれこの前も韓国で見せたの。韓国美術館の彼女が好きだったからね。私が62年か63年に小杉といる時、東京でつくった。チャンバー・ミュージック、小杉があの中に入ってこうパフォーマンスしたのよ。
手塚:じゃ、あれがほんとに実際に小杉さんが使われたバッグなんですか。
久保田:そう。喧嘩して別れた時に、私が手切れ金で(もらった)。私がつくったから、「私これもらうわよ」って言って。
手塚:あれはじゃあ、久保田さんが作られた。
久保田:私がつくった。あの人がデザインして、縫うのは私がやったの。ガールフレンドだったから。それで、私があちこち引っ越した時も持ってたんだわ。で、ひょっと見たら、「ああこれテレビ入れられるわ」って。小杉が入ってたんだからテレビも。私の自画像、カルアートで一番最初につくったの入れて、後ろに扇風機入れてぷかぷかしたのね。あれ人気よ。軽いしね。
手塚:動きがあって、すごく面白い。
久保田:うん、あれ小杉のチェンバー・ミュージックなのよ。
手塚:扇風機の音のエレメントも入って。
久保田:そう。ああいうの軽くていいわね、あの作品。なんか詩情があるしね。私も「ああ、いいアイデアだったな」と思った。小杉も思い出があるし。小杉は見てないと思うよ、知らないと思う。「返せ」なんて言うかもしれないから(笑)。
手塚:見せない(笑)。
久保田:黙ってる(笑)。もう寄ってこないわよ、怖がって(笑)。
手塚:久保田さんは作品に音のエレメントがある場合、それはどこから取り込んで。
久保田:割合、自然の音じゃない。私音楽じゃないから、ナム・ジュンみたいに。ナム・ジュンは音のコラージュが上手いわよ。
手塚:じゃ、別にコンポジションしてとかではなく。
久保田:あの人が脇にいちゃ、もうとてもじゃないけど。音のコラージュはすごいよ、あの人。天才だと思う。ああいう人と暮らしてると、もう自分で音は使わない。デュシャンの墓に自然の風の音がヒューヒューぐらいでしょ。もうとても。だから、割合音がない作品が多いでしょ、私。というのは、やっぱり音っていうのは、画廊の人が「毎日聞くから頭痛い」なんて言うし。美術館の人も「音はちょっと」なんて。美術館は嫌がるでしょ、ナム・ジュンの作品。だから、「じゃあ音なしにすればいいんだ、美術館静かだ」と思って。
手塚:複数の音を出す時が問題になるんですよね。
久保田:そう。「ナム・ジュンの作品の脇は嫌だ」なんて、作品とる人いっぱいいるし。
手塚:久保田さんの作品は、本当に彫刻性の方に重要性が置かれてますよね。
久保田:そうなの、音の才能ないのよ、私。
手塚:先ほど言及された、龍安寺の石庭をモチーフにされたスカルプチャーにしても。
久保田:そう、お寺が好きなの。子供の時のお寺。
手塚:環境づくりですよね。
久保田:そう。うちの父の姉が結婚した家は、インド様式のコンクリートの、もうすごいお寺よ。木のお寺じゃないのよ。火事になった後コンクリートで建てて。柿崎ってとこで。タワーに上ると日本海がバアッって見えて、すごいお寺なの。高校の時うちにいるのが嫌だったんで、そのお寺に逃げてっちゃうの。広いとこで受験勉強なんかしてごらんなさいよ。すごく頭がすかーっとするのね。コンクリート建築で階段上っていって、もうお寺って感じしないわね。そうかと思うと、うちの山の中のお寺みたいな、うらさびた寺もあるわけ。今度は京都なんか行くと、すごい立派なお寺から、すごいいいとこあるじゃない。室生寺なんか行ったら、山の中の密教ってのはすごいなあなんて思うし。やっぱりそういう、仏教じゃないんだけど、心の中に小さい時の風景が自然と住み着いちゃってね。
手塚:あと、かなり頻繁に鏡を使われますけれども、それは石庭にしても。
久保田:お金ないからよ、それは。テレビたくさん買えないから反射使ったのよ(笑)。
手塚:あ、なるほど。
久保田:反射よ。だってデュシャンの墓にこう立って、下もテレビ入れたらさ、ほんとは全部テレビでくるくる回って。
手塚:じゃ、理想としては。
久保田:反射よ、全部。お金がないことよ。鏡は増やしてくれるじゃないの。そして《Three Mountains》も、あの中には3つぐらいしかテレビ入ってないのよ。で、テレビカッティングしたので、もういろんな角度で、映像が。
手塚:ちょっと万華鏡のようになるのは、鏡が入ってるから。
久保田:そうそう。それも私の貧乏性からきてるのね。ナム・ジュンがあれだけお金使ってごらんなさいよ。家族二人で使ったら、すでに破産してるのにもっと破産して食べるものがなくなるわよ(笑)。
手塚:《River》という先ほど言及されたお話も、下に(鏡が)。
久保田:あれも陽炎よ。《River》も鏡よ。
手塚:あと、もうひとつ面白いのが、振り子になっているビデオ。昔の鏡にこう。
久保田:あれね、GVC TV(丸型テレビ)いっぱい買ったでしょ。今でもあれ見ると買ってくるのよね、アンティークショップに売ってると。もうほとんどないけど。あれもやっぱり振り子ね。ベルリンで考えたんだけどさ。
手塚:あれも下に鏡があって。
久保田:やっぱり、鏡は映してくれるし、覗いた人の顔も映るし。パティシペイションと両方になるから。で、上にも鏡つけたの。そうすると上でもこうなるから。
手塚:じゃあ人の影が入ってきて、こう、パティシペイションになる。
久保田:覗くもの、みんな。作品に触ったり覗いたりするでしょ。
手塚:山の作品もそうですよね。そうやって上から覗く。
久保田:そうそう。あれなんか、ベルリンの子なんか滑り台で滑ったわよ、赤ちゃんが。ちゅーなんてやると、危ないじゃない。
手塚:なんかそれこそ元の、内科画廊で見せた最初の山の作品に回帰していく。
久保田:そう、またそれに帰ってきてるわけ。売れない作品よね、結局。コンセプトはね。でも、公共アートみたいなものに興味があったから。遊園地みたいな、一緒に遊べるような。それがやっぱりパティシペイションで、フルクサスのイベントね。ハプニングね。
手塚:いくつか聞き逃していることがあるので、ちょっと戻って聞かせていただきます。デュシャンに戻るんですけど。デュシャンで、ニューヨークで、日本人作家でというと、やはり、荒川修作さんがくるんですが。
久保田:荒川さん、そうそう。
手塚:荒川さんとの交流っていうのは、全然なかったんですか。
久保田:だってあの人、お鼻が高いじゃない(笑)。
手塚:会う機会がほとんどなかったっていうことですか。
久保田:会ったけど。おすし屋さんで見るとか「お麺」で見るとか。そんなに親しくない。チェンバー(・ストリート、Chamber Street)にいらっしゃった、昔。
手塚:ああ、今はハウストン(・ストリート、Houston Street)ですね。それから、最初にジョン・ケージの演奏を見たっていうのは、草月会館ってことですよね。
久保田:草月。東京にいらっしゃった時。
手塚:ジョン・ケージの、何がそれほど、久保田さんに。
久保田:指揮なのよ。この時計なんかの、これだけ…… アクション、やっぱり。
手塚:彼の動作。
久保田:こんな指揮じゃないわよ。時計の針がこう動くように、こう、指揮やったり、料理したりさあ。携帯ラジオみたいなちっちゃい、あの……
手塚:トランジスタ・ラジオ。
久保田:ラジオあの頃はやったじゃない、ちょっとつけてぴゅっぴゅって音楽流して、ちゅっと料理したり。
手塚:じゃあその、アクションの部分に。
久保田:やっぱり音楽の域を超えてるんじゃない。生活をアートにするっていう、私もフルクサスの生活をアートにするって、日々の行為をアートにするっていうのがあって。だからビデオは日々のイメージ、ダイアリーみたいにそれをアートにするっていう。ナラティヴがダイアログになるわけじゃない。
手塚:ええ。それで、先ほどのアル・ロビンスさんをトリビュートにしたアダムとイヴの作品(《Adam and Eve》、1991年)っていうのは、以前撮っていたビデオがあったからこそ、そこでこう組み合わされて。
久保田:なんかそれは、アルが京都の西山に行って銀閣寺見た時の崇高さ。アルの作ってくれた崇高な銀閣寺。あの人も建築やってて、日本の建築にすごく興味があった。崇高な世界をつくってくれた人だし、崇高な世界の中にある、その空間ね。アルがいなかったら私こんなに出なかったわよ。誰がつくってくれた、他に。私は自分で上手に木を切ったり、できないじゃない。私が習ったあの頃の彫刻っていったら、粘土が元だからね。粘土は一生懸命やったけど、それを石膏にとって、型とって、削ったりとか。彫刻刀なんか習っても、こんなにきれいな、機械を使って切るっていうのじゃなかったし。
手塚:内部のワイヤリングとかは久保田さんがされるんですか。
久保田:それはナム・ジュンもやったし、私もやった。覚えればインプット、アウトプットだから。阿部先生もいたしね。
手塚:じゃあ久保田さんがほぼ、外見(そとみ)は。
久保田:アルが。うちはそういうチームがいっぱいいたのよ。私が面白い人を連れてきてナム・ジュンに感謝されたけど、何にでも面白い人が来たの。あの頃はもっともっとユニークなのがいたわよ。だからいつも若い子がごちゃごちゃしてたし。私もアーティスト・レジデンスに行くと、くっついてくる子がいるじゃない。それでやっぱり、私は人使うのが上手いじゃない。妹なんかにすごい嫌われたわよ。「きょうだい使うのが上手い」って。「自分は何もしないで、妹ばっかりこき使う」って。妹なんか今でも私のこと憎んでるわよ。二人いるの、妹が。姉もそう。「顎で使われたの」って言って(笑)。
手塚:お姉さんがですか(笑)。
久保田:そういう性格なのかしら。だから学校の先生なんて、私のこと誉めたわよ。あの、「クラスを動かすのが、生徒動かすのが上手い」とか、親に言うんだね。「積極的だ」とか。っていうことはずるいからさ(笑)。
手塚:いろいろな才能の使い方があるんですね。
久保田:性格よ、それ。
手塚:あと、1964年にニューヨークに来られた時、7月4日(ジュライ・フォース)ですよね。それは意味があったんでしょうか。
久保田:たまたま。びっくりした。ジュライ・フォースなんて知らなかったもの、私。
手塚:インデペンデンス・デイだとは知らずに。
久保田:そう、レキシントンの五十何丁目かにあるYWCA(Young Women’s Christian Association)に行ったの。最初、ジョージが私と塩見さんをそこにいれたのね。そしたら、そこのお掃除の人たちが「Hello, Nice weekend… Happy holiday!」なんて言って帰るのね。花火がぼんぼんあがるし。それで「ああ、今日が独立記念日だ」って思った。そのぐらいアメリカのことあんまり知らなかったわ。ニューヨークのポップ・アート、それだけしか。フルクサス、ポップ・アートで来たんですもの。歴史のことあんまり知らなかった。
手塚:で、行ってちょうど一年後に、あの《Vagina Painting》をされますよね。それは何か意味が。それともたまたまフェスティバルだったからですか。
久保田:それは、ジョージがフルクサスをオーガナイズしたから。ワシントン・スクエア・パークで、ワシントン・ヴィズィティング・フルクサスを。それはフルクサス何回目かの……
手塚:サマー・フェスティバル。
久保田:フェスティバル。というのは、シャーロット・ムーアマン(Charlotte Moorman)が、ニューヨーク・アヴァンギャルド・フェスティバルをやってたから、それに対抗して。ジョージが最初にフルクサスのイベントやってたけど、シャーロット・ムーアマンがさ、もっと市から予算もらって、アヴァンギャルド・フェスティバルやりだしてるじゃない。二人で喧嘩してさ。で、もっとジョージも一生懸命そういうイベントやるようになって。
手塚:ああ、じゃあたまたまそのイベントが企画されたのがその日だったから、久保田さんのパフォーマンスもその日になった。
久保田:「やれ」って言われたの。私やりたくなかったの、ほんとは。私ああいう、何ていうのかな。ピアノだって習ってたのよ、子供の時。うちの母親がピアノだから。
手塚:ああ、もちろん。
久保田:でもステージに上がると弾けなくなるのよ、練習してても。ステージ・フライトっていうの、あれがあったのよ。だから彫刻や絵を描く方がいいと思った。自分ひとりでできるから。人の前でやるのが嫌だったのよ。ピアノ弾くと、ステージ上がるとつっかかるのよね、練習してる時も。
手塚:でもそれにしては、ものすごい衝撃的なパフォーマンスだったじゃないですか。
久保田:でもないわよ、みんなすごいことしたもの。
手塚:じゃあ、その当時のオーディエンスの反応っていうのは、それほど。
久保田:オーディエンスなんて十何人ぐらいしかいないもの。あんな写真だけよ、あれ。ジョージが写真撮ったじゃない。30人いたらいいとこね。
手塚:みなさんアーティストであったり、フルクサスのお友達であったりとか。
久保田:みんなお友達のお友達よ。フルクサスの人がほとんどで。他の人なんていないわよ。夏だし暑いし、エアコンもないしね。だいたいフルクサスに来る人なんてあんまりいなかったもの。今だったら満員でしょ。ジョージが亡くなった後にフルクサスはもっと有名になったけど、あの頃はもう全然。
手塚:ではその当時、他の結構過激な、ナム・ジュン・パイクさんの身体を使ったパフォーマンスであるとかは。
久保田:うん、クレス・オルデンバーグなんかやってたんじゃない。
手塚:そういう傾向、ボディーを使ったパフォーマンスやアクションみたいなものはご存知でいらした。
久保田:うん。だけど私はそんなに……
手塚:それ自体に興味がそんなにあったわけでは。
久保田:なくて、全然。ちょっと失望したわね、フルクサス。こうなんか、こまごまとしたことをしすぎると思って。
手塚:ああ、なるほど。もっと作品としてのものをつくりたいという感じはあった
久保田:と思ったけど。でもジョージの生活が面白かった、あの人は人格がものすごい変わってるのよ。その後農場買ったり、「フルクサス・ファームつくる」って言って、コネティカットにあばら家みたいなすごいとこ買ったのよ。
手塚:はい。
久保田:それでついていったのよ、私。もうここにいたけど。ジョージについてく人がいないじゃないと思って。ナム・ジュンも「じゃあチキン・ハウス買う」って言って。チキンがいた汚いところ。そこに行くと、お化け屋敷みたい。前のオーナーが自殺したのよ。いや、自殺じゃないんだわ。飛行機に乗ってて、昔はほら、プロペラ飛行機があって、パイロットが人前でこう遊芸するじゃない。それが失敗して墜落して亡くなったのよ。だからその人の衣装なんかが全部残ってるのよ。パイロット衣装だとか、スーツだとか、ガンのベルトだとか。それがみんなジョージの寸法に合うのよ、靴も。そこにまた畑がいっぱいあったの。私は新潟だから畑上手いじゃない。夏に行って豆植えたり、花植えたり、結構楽しかった。ジョージそんなとこまで買ったのよ。「フルクサス・ファームつくる」って言って。
手塚:じゃあほんとに、自分たちで全てつくって生活して、サバイバルしていくっていう。
久保田:うん。それでおんぼろ車持ってて、ハイウェイをすごいスピードで飛ばして。だからいつも車の脇に座るんだけど怖くて、運転もすごいし。それでバーバラ・ムーア(Barbara Moore)ね、フルクサスのいろんな資料持ってる。彼女やピーター・ムーアも行ってね、みんなでごはんしたり。その時、ジョージは結婚したのよ、ビリー(Billie Maciunas)っていう女性と。それで、結婚したから奥さんもいたんだけどさ、みんなでごはんつくったり。そのごはんが傑作なの。ジョージが食べられないのをつくった(笑)。
手塚:なにか特別なレシピとかだったんですか。
久保田:すいぶん楽しいこといっぱいあったんだけど。ヨーグルトだって、腐りかけたのをそのへんの店からもらってくるのよ。あのへん、ヒッピーがいっぱい住んでたからヨーグルトなんて盛んなのね。でもヨーグルトはすぐ食べないと腐るじゃない。そういうお払い箱なのを持ってくるのよ。その中にチキンぶちこんで、インディアン料理だとか。
手塚:結構危険なような気がするんですけど。
久保田:そうなのよ。だからよく下痢になるけど、フルクサス自体が下痢じゃない。フルクサスってほら、下痢したのを中から出すんだから。だから、私ジョージが生きてる時にね、一緒にこの世にいられて良かったと思う。ジョージがいたからジョナスと縁がついて、ジョナスがいたからアンソロジーでビデオ・キュレーターになって、もっとビデオと一緒のもやるようになって。で、ナム・ジュンがいたからビデオとミュージアムとかスカルプチャーに入って、って。もう全てジョージから始まってるわね、フルクサスでニューヨークに来た時に。今だってあそこにジョージの写真も飾ってあるわよ。毎朝お水あげてる。フランスのお水あげてるの(笑)。
手塚:そうなんですか。特別に。
久保田:いやいや、私が飲んでるから(笑)。エヴィアンあげてるの。
手塚:今日はいろいろとお話しいただき、ありがとうございました。