加治屋:まず生い立ちについて伺います。建畠先生が(1947年に)お生まれになった京都の家は部屋数が20以上もある古いお屋敷で、2階には病理学者であった母方のお祖父様がお住まいで、隣は画家の家だったとお書きになっていますが(建畠晢「詩人の部屋」『ダブリンの緑』五柳書院、2005年、48頁)、いつまでそちらにいらっしゃったのでしょうか。
建畠:僕はそこで生まれて、小学校3年まで暮らしたんですね。そのあと東京に移ったんです。その家は、御所のすぐ横にあって、医者だったから資産的にも裕福な家だったですね。そこで、孫として蝶よ花よと育てられました。父(注:彫刻家の建畠覚造。1919~2006年)と母、兄(注:彫刻家の建畠朔弥。1944年生まれ)は東京にいたんです。そもそもそこにいた理由は、父がフランスに留学したんですよ。その間、母と兄と私はそこで暮らしたんですけども、父が帰ってから母と兄は東京に移った。アーティストの家だったから経済的に貧しくて、じゃあ孫一人だけ置いておきましょうということで、小学校3年まで京都で暮らしました。僕の黄金時代と言うべきかもしれません。
加治屋:お母様のほうが医者の家系だったんでしょうか。
建畠:そうですね、母方の実家ですね。正確に言うとちょっと複雑なんですけれども、祖父母に育てられたということです。
加治屋:お父様、お兄様、お母様が東京にいらっしゃったということですが、ときどきお父様は京都に戻られていたんでしょうか。
建畠:というより、僕が休みごとに東京に行っていました。母や兄が京都に来ることもあったけれども。僕は小学校4年で東京に移るまでは、行ったり来たりしながら暮らしていたという感じですね。
加治屋:お父様と美術の話をする機会はあったのでしょうか。また、東京の仕事場に行かれる機会はどのくらいあったのでしょうか。
建畠:京都時代ですか。
加治屋:はい。
建畠:京都時代は本当に子供だったからね。まだこちらもアーティストの仕事、彫刻家の仕事を理解していなかったから、積極的に話をした記憶はないですね。ただ、父がフランスに行くときに神戸港から出港したのを、母や兄と一緒に送りに行った記憶は鮮明に残っています。
池上:それは何年くらいのことですか。
建畠:正確には覚えていませんが1950年頃です(注:1953年7月に神戸港よりあとらす丸で単身渡仏)。神戸港に行って船に乗ってね。父の船室の中を見て、最後に銅鑼が鳴って降りてきた。絵のような話だね。テープを投げて(それが)すーっと伸びて、ああ父が行っちゃったみたいな。ただ、母親じゃないから、そんな悲しい思い出ではなくて、賑やかなお祭りのようにして父を送り出したという感じですね。兄と母と日本に残ったし。
加治屋:お父様はどのくらい行っていらっしゃったんですか。
建畠:1年ちょっとくらいです。すごく長い期間だったような思い出がありますけど、実際にはそんな長くなかったですね。
加治屋:東京に移られてから、お父様と美術の話をする機会はどのくらいあったのでしょうか。
建畠:アトリエが家の中にあったから、しょっちゅう仕事をしているのを横で見ていました。もうちょっと大きくなってからは、芸術論みたいなものを交わすことはありました。抽象彫刻は売れないのね。で、展覧会に出した作品が帰って来ると、置く場所がなくなってくるわけよ。大きな作品なんかは特に。だから、兄と一緒に父を手伝って、帰って来た作品をハンマーで壊して、粉々にして庭に穴を掘って埋めた。子供にとっては面白いわけだよ、そういうのは。きゃっきゃしながらやったわけだけど、父はずいぶん悲しがっていたんだろうなと、今にして思えば思います。あと、雑誌の取材を受けて――女性月刊誌だったかな、『婦人公論』のような雑誌だと思うんですけど――「アーティストの子供」といったような記事で、僕はアトリエに父に呼ばれて、人の顔か何かを作って、それを雑誌社の人に写真に撮られたりした。普通の家庭とは違った、アーティストの環境のなかで育ったという記憶はありますね。ただ、僕自身は、小学校の頃から文学者を目指そうという意識が強かったので、父の影響を受けて絵描きや彫刻家になろうという意識は、少なくともその頃は全くもっていなかったですね。具体的に言うと、小説家になろうという意識が、非常に早熟な文学少年として芽生えていたんです。本ばっかり読んでいる子でした。父の仕事に興味はもっていたけれど、職業としての美術家というのは念頭になかったですね、その当時は。
加治屋:小学生から文学者を目指すのはかなり早熟だと思うんですけども、具体的なきっかけとか、影響を受けた小説家はいたんでしょうか。
建畠:何がきっかけだったのかは分からないけれども、兄は東京だったから実質的には一人っ子みたいなものでした。小学校の頃、文字が読めるようになってからは、本ばかり読んでいた。最初の頃は、講談社の少年文庫や岩波の少年文庫を読んでいた。小説の道に具体的に目覚めたのは、山本有三の『路傍の石』。家に訪ねてきた人が連れ出してくれて本屋に行って、「何か買ってあげよう」って言って、僕が希望したのか、その人が選んだのか忘れましたが、その本を買ってもらった。それを読んだときに、自分は物書きだろう、小説家だろうと強く思いました。それからかなり自覚的に、もう小学校の3、4年の頃から小説ばかり読んでいました。結構背伸びしていました。自分で文章を書くのも好きでしたね。
加治屋:お父様のご活動を間近でご覧になっていたけれども、そこから美術の道に進もうという意識は当時はなかったということなんですね。
建畠:そうですね。父は途中から、小学校の高学年や中学生の頃から割合に注目されるようになって、展覧会ごとに新聞に出たりしたのね。学校に行って、先生や同級生から「昨日朝日新聞に出てたよ」などと言われたのはすごく誇らしくはあったけど、自分自身が美術の道に進もうという意識はなかった。少なくともその当時はなかったです。後にちょっとそういうふうな気持ちが芽生えてくる日が訪れるんですが。小学校のときの卒業の記念文集みたいなものがあるじゃない。そこに僕は小説家になりたいという宣言をしていたんだね。
加治屋:反対にお父様の方が建畠先生にアーティストになってほしいというようなことは。
建畠:それは全くなかったですね。
加治屋:なかったんですか。
建畠:うん、全くなかった。自分で言うのも何だけど、どちらかと言えば、僕は小学校、中学校は勉強ができる方だったのね。うちは非常に特殊な家系で、祖父は僕が生まれる前に死んでしまったけれども、(東京)芸大の彫刻科の教授だったし、父は芸大卒、兄も芸大卒。おじが二人いるんですけども、二人とも芸大の建築科卒。それから、いとこも芸大の日本画卒だったりして、僕以外は全部東京芸大。昔は美校と言ったんだけども、そこの出身だったんですね。そういう特殊な家庭環境で育って、アーティストとしての生活を見ていた。父をつぶさに見ていて、非常に純粋で非妥協的で、全てを彫刻に注ぐ父の人生を今でも非常に深く敬愛はしているんですけれども、父親としては暴君だったんですね。荒れ狂う父親で、非常に暴力的でもあった。一人のアーティストが純粋に生きるためには、家族は大変な犠牲になるわけですよ。母もすごく苦労していた。だから、一方で非常に尊敬していると同時に、ああいうふうな家庭に対してはむしろ反発を感じていました。それでも小説家の道を目指そうとしたので、別にサラリーマンになろうと思ったわけではないんですが。ただ、家庭環境への反発から、「人生を平穏に」という気持ちはあったと言えばあったでしょうね。ただ、そんな無茶苦茶な崩壊家庭ではなかった。父は経済的には支えてくれたし、それから中学生から高校生くらいになると、芸術論を交わしたりすることもありました。非常にまじめに深く考える人だったから、人生の師としては僕は非常に大きな影響力を与えてもらったように思っています。ただ、父親として、家庭人としては、非常にワンマンというか、全部を自分が支配するという強烈な性格の人でした。アンビヴァレントな気持ちですね、父親に対しては。
池上:実際に手をあげられることもあったんでしょうか。
建畠:そういう暴力支配めいたところがあって、なかなか大変な家庭環境でもありました。特に母がものすごく苦労したと思います。ただ一方で、母も兄もそうですが、父親の、社会的なことを一切妥協しないで――左翼でもあったからね――突き進んでいく道の強さというのは、とてもかなわないという尊敬心をもっていました。それは今でも同じです。
加治屋:お父様は左翼的な考え方をお持ちだったんですね。
建畠:そうですね。戦争中、父は軍属でベトナムに行ったんですが、そのときの日本の軍部の問題などがあったのだと思います。天皇中心の体制に対して、左翼的な――リベラリストといってもいいのかな――考えは一貫していました。僕は父親のリベラリスト的な思想には子供のときから非常に深い影響を受けています。父には全体主義に対する猛烈な抵抗精神というのがありました。
加治屋:先ほどお祖父様の建畠大夢さんのお話が出ました。お祖父様は1942年にお亡くなりになっているので、ご自身の記憶はないかと思うんですが、お父様からお祖父様にまつわるお話はあったでしょうか。
建畠:ときどき聞かせてもらいましたが、僕が生まれる前に死んでしまったので、写真で見るばかりの人ではあります。駒込に家があって、その頃は彫刻家の大家だったので、お弟子さんもいっぱいいた。父はもともと英文学者を目指していたらしくて、ちょっと僕と似ているのね。だから、あの人(祖父)に育てられたから彫刻家になろうということを要請されたわけでもない。父もどちらかと言えば学究肌の体質だったのね。さっきのことと裏腹になるけれども、非常にまじめな理論家なんです。語学力もすごくある人で、英文学者を目指していた。ところが肋膜炎を患って、1年ほど休学しているときに彫刻家に転身して、芸大の彫刻科に入るんです。祖父自身は文展の大家だったり芸術院会員だったりして、お弟子さんもいっぱいいて、直土会というグループも作ったようです。今思い出したんだけど、俳句を詠んでいたと聞きました。「夏の庭の何とかに蟻がぐんぐん…」みたいな句です。その当時は、みんな文人的な体質が多少あったんでしょうね。祖父の作品は東京大空襲で焼かれてしまって、あまり残っていないんです。でも、和歌山の近代美術館で回顧展があったときに見に行って、裸婦の彫刻が中心なんですが、日本近代彫刻のなかでケレン味のない造形力のある人だなと思いました。日本の具象彫刻家としては、あるスタンダードをもっている人です。東近美(東京国立近代美術館)などいくつかの美術館に作品は残っているんだけども、そういうのを見ると、祖父自身は留学していないけれども、人体彫刻を近代のなかで作り上げていったその姿勢自体は、日本の彫刻史の中である正系の流れを形成した人だということになるでしょう。ただ、個人的には知らないので、他人行儀な言い方になってしまいますが。
池上:お父様が抽象彫刻の方を目指されたというのはお祖父様との関係で何かあったのでしょうか。
建畠:(父も)最初は当然文展に出展して、特選をとったりして、ホープのような存在だったと思うんですけれど、戦争を契機と言えるかどうか分かりませんが、一挙に抽象彫刻に行って、みんなが期待していた祖父の直土会を解散してしまった。帝展、日展を離れて、在野としてやっていくと決めるわけね。彫刻家を目指すというのは家系の中での話だと思うけれども、反旗を翻して前衛の道に突き進んだということなんでしょうね。それで非常に苦労したということもあるんだけど。
池上:最初は具象的で伝統的な像を作られていた。
建畠:そうそう。その頃の彫刻はほとんど残ってないんだけれども、いくつかのものはあります。今見てもいい作品です。家族のことは話しにくいね。やはりどうしてもいい面を見ようという気持ちがあります。父も亡くなってしまったから、あまり内輪褒めしてもしようがないかなという気はしますが、具象彫刻家としても強靭な造形力を持った人だと思います。
加治屋:お父様のその後の抽象彫刻に関してはどのようにお感じになっていますか。
建畠:父は彫刻家としては理論家だったのね。文章も多い。論理的な骨格のないものはだめだということを常に言っていたし、晦渋な表現や情緒に流れるものに対する厳しい批判精神があった。そういう意味では、典型的な書斎派というと、彫刻家の場合は変ですが、理知的な方向性をもっている人でした。それは一貫していたと思います。論理のないものは駄目だ、情緒に流れてしまっては駄目だと。晦渋な人間の表現に逃れて、本質を迂回してしまうものに対する嫌悪感は非常に強くもっていました。一方で、最終的には、不思議なもの、謎としか言いようのないものがアートを成立させるということもよく言っていた。僕はいま詩を書いているし、美術評論もやっているけれども、そういう考え方は僕も影響を受けている。これはもうちょっと後の話題になるかもしれないけれども、僕は物理学に憧れたことがあった。論理というものを根幹に据える学問に魅せられたということです。考えてみれば論理はアートにとっても本質的なものであって、なぜそうかというと、これは父の言葉を僕なりに解釈したというか、僕なりの受け止め方なんだけど、結局、論理がなければ、ポエジーの不思議さも浅いものになるわけですよ。論理を深めれば深めるほど謎も深くなる。論理を手前にとどめると謎も浅くなるということです。だから論理の行き着くところはどこでも行こうと。アートの不思議さをより根源的なものにするためにです。僕はそういうふうに今思ってはいます。でも最後はやはり、ポエジーは了解不能なものだと言わざるをえない。だから父は、自分と体質の違った人たち、本質においてポエジーを持っている人たち、例えば若林奮さんは、どこか文学的な情緒性みたいなものがあって、そこを少し批判すると同時に、でも若林さんが根源的にもっているポエジーの深さにはかなわないとも言っていました。あとは、草間彌生に関しては非常に敬愛の念をもっていましたね。いわゆる論理的なアーティストのスケールを遥かに超えた根源的な発想のオリジナリティーみたいなものはすごいなと言っていました。それに対して、ある状況に合わせて仕事をしている人とか、韜晦性とかユーモアのウィットというもので――父に言わせればごまかして――作品を作っている人に対する嫌悪感はすごかったです。
加治屋:ではお父様は、自分よりも若い世代の作家のものもご覧になっていたんですね。
建畠:そうですね。父はある意味でワンマンだったから、自分が敬愛している人と、自分のことを敬愛している人はいたけども、友達は少なかったかもしれません。非常に自分の意見を強く持っていて、それ以外の発言を許さないところがあった。例えば日本の彫刻家で言えば、柳原義達を深く尊敬していました。堀内正和に関しては――世代の近い人で、ちょっと先輩なのかな――そのセンスの良さやウィットは高く評価していたけども、やはりユーモアのなかで本質的な意味での造形性は不足しているというような批判もしていました。あとは同時代の人だと土谷武さん――ちょっと若いのかな――、保田春彦といった人を評価していたし、若い人たちの作品もよく見ていました。家庭でもそうだけど、日常ではバランスのとれた紳士で、ウィットもあって、非常にフレンドリーなんです。だけど、酒乱ということもあって、ときどき荒れ狂うんだよね。ときどきではない。しょっちゅうです。だから親父のことを慕っている若いアーティストは、みんなびっくりするんだよね。非常に紳士で、知的で、いつもユーモアを兼ね備えて、お酒を飲みながら話をするのが好きなんです。だから、暴君だったと言うと、みんな「えーっ」と言いますね。ただならぬ暴君だったからね。だけど、若い人たちともよく付き合っていた。自分が認めている人たちとはしょっちゅう付き合ったし、一緒に展覧会やったりしていましたね。
池上:お母様はご苦労されたとおっしゃっていましたが、お母様ご自身が美術と関係していらしたということはありますか。
建畠:母はそんなことはないですね。普通だったら、ああいう暴君の夫とは離婚するのかもしれないけれど、家庭と子供を守るという意識の非常に強い人でしたね。母親も僕は愛していますが、やはり気の強い人です。だから父親と母親はしょっちゅうぶつかるわけですよ。でも母は、夫としては大変な人と結婚しちゃったんだけれども、アーティストとしての純粋さみたいなものを自分が支えているんだというような自負はもっていたし、特に父が亡くなってからは、いい思い出だけに変わっていった。それは子供にとっての救いですね。むしろ僕がときどきトラウマのように父の暴力性を思い出したりする。母親はあんなに苦労したのに、今は悪いことを絶対言わないね。私がこの人を支えてきたということに誇りをもっているみたいですね。それは僕にとっては救いになります。
加治屋:お兄様の朔弥さんも彫刻家でいらっしゃいますよね。お兄様のことはどのようにお感じになっていましたか。
建畠:兄も、もともとは彫刻家を目指していたわけではなくて、最初は芸大のデザイン科を受けたんです。当時は意匠科と言っていたのかな。それで一浪しているあいだに、デザインというものの限界の中で苦しむんだよね。それで、よく覚えているんだけど、兄は悩んで父に相談した。父は、自分の子供をアーティストにするという意識は全くなかったんだけど、父は兄が迷っていると思って、彫刻家とはいかに重要な仕事か、アーティストとして生きるとはどういうことか、アートに人生を賭けることの意味とは何かといったことを諄々と話して、兄がそこで迷いを振り切って、その次の年に芸大の彫刻科に入るんです。それは今でもいい思い出です。しかし兄は、父とは世代も違うから当たり前なんだけど、彫刻家としては違う方向に行くんです。僕は兄、父、祖父については一回も評論を書いたことがないし、キュレーター的な視線で公的に見たこともないんだけれど、父が論理的な骨格の上に立った彫刻家、理詰めの彫刻家だとすれば、良くも悪くも、兄は、文学性というかストーリー性というか、ナラティヴなところがあります。兄がもっている詩的な感受性というのは父にはなかったものでしょう。ただ、彫刻家としての芯の強さというところから見ると、どうなのか微妙ですね。面白い資質を持ったユニークな彫刻家だとは思いますが、オーソドックスな軸線を貫く父の強さとは少し方向性が違うというふうに言うべきでしょうか。
加治屋:芸術家一家にお生まれになったわけですが、そうしたご自身の出自についてはどのように意識されているでしょうか。
建畠:難しい問題ですね。うちの家系で周りに多いのはアーティストや学者です。僕は、もともとは文学の道に進むと決断していたんだけど、論理的なものに対する憧れも非常に強かった。純粋論理だけでできているサイエンスの世界と比べれば、芸術というのは、やわなものだという気持ちがありました。その二つの方向に対するアンビヴァレントな思いで、かなり悩んだんですよね。ずっと文学の道を目指していたんだけれども、文学青年は高校時代くらいまでで、大学受験期になってからは、湯川秀樹の自伝の影響もあって、物理学の世界に憧れをもつようになった。変な話だけど、高校の図書館でいつも物理学の本のコーナーに行って、自分が理解できない数式の載った欧文の学術誌――なぜか高校にいっぱい置いてあったのね――を理解できないままに見ていた。しかし今思えば、それも文学的な憧れだったのかもしれない。僕は、明らかに文科系の人間で、数学や物理学が得意ではなかった。それでも、どっちの道に進むか、非常に迷った。兄は父との話の中ではっきり彫刻家の道を目指したんだけれども、僕が人生を決めたのは、浪人時代か高校三年のときです。芸術がもっている論理的な欠落ややわさみたいなものに対する嫌悪感が、そっちに進もうと思っているがゆえにと言ってもいいが、アンビヴァレントなかたちで強く浮き上がってきてしまった。そんな時に、これは非常に変な話なんだけれども、模擬試験を受けに行った帰りに、たしか代々木だったと思うんですが、映画館があったんです。そこで『日本春歌考』という大島渚の映画をやっていたんですね。これは荒木一郎と小山明子が主演する不良高校生の物語なんですが、それを観て、映画館から表に出たときに世界が晴れ渡ったのね。ようするにアートは論理だということを、なぜか知らないけれど、大島渚の映画で納得してしまったんですよ。芸術がもっている論理的な骨格のすごさというか。『日本春歌考』は大島渚の重要な映画の一つだと思うんだけど、代表作と言えるかどうかはもう一回観ないと分からない。そのとき以来、僕は観ていないから。それは、たわいもない不良高校生の映画で、たしか、修学旅行の最中に不良高校生が先生の小川明子の部屋に行ってガスの栓を開けて死なせてしまうというようなストーリーです。いろいろ複雑な伏線はあるんですが、それを観たときに、芸術がもっている論理性というものに気がついた。大学は、東大の文IIIを受けるか理Iを受けるか迷っていたんだけれど――まあ僕は受験勉強をあまりしなかったから最終的には落っこちちゃったんですが(注:1968年、早稲田大学文学部に入学)――そのときもう文学に行こうという決断をしました。それは非常に偏った決断だった。文学がもっている人生の本質を見極める力に憧れたというより、文学というものがもっている論理性に憧れたのね。実際に観たのは映画だから、それは文学だけではないんですけれど、そのときにはっきりアートの道に進もうと思った。ちょうどそのときに構造主義が紹介されていました。石田英一郎という文化人類学者が最初の構造主義の紹介をしたんです。石田英一郎はたまたま僕の親しい人の先輩だったので、石田英一郎の講演のテープを貰ったり、構造主義を紹介した連続レクチャーを聴いたりした。芸術を支える論理というのは、今思うと、一つにはレヴィ=ストロースだったんだと思います。そのときレヴィ=ストロースの翻訳はなかったから読んでなかったんだけど、石田英一郎を介在して、文化におけるサイエンスから芸術を読み解くということを学んだ。そのとき、兄がフランスに留学していて、ちょうど五月革命の頃だったんですが、五月革命に兄も巻き込まれながら、向こうからフランス語の本を送ってくれるんですよ。『テオリ・ダンサンブル(Théorie d’ensemble)』といったテルケル・グループの本や(ミシェル・)フーコー(Michel Foucault)の本を送ってくれた。僕は仏文科だったから、それを一生懸命に読もうとした。物理学の本に憧れていたのと一緒ですね。兄がフランスから送ってくれるおしゃれなNRFとかエディション・ミニュイなどを見ながら、辞書を引きながらちょっと読んだりした。僕のそのときの先生は、平岡篤頼という、この前亡くなった方です。ヌーヴォー・ロマンを翻訳していて、(アラン・)ロブ=グリエ(Alain Robbe-Grillet)の『スナップショット』の長いあとがきを熱心に読んだのを覚えています。彼も少壮の学者だった。ヌーヴォー・ヌーヴォー・ロマンと言われるフィリップ・ソレルス(Philippe Sollers)たちの『ノンブル』なんかを、訳の分からないまま翻訳やフランス語で読んでいた。そのときに思ったのは、構造主義的な思考を背景にしながら、小説論が小説でもあるような世界というものを自分で構築しようということです。特にソレルスは僕にとって、そういう意味で先駆的な存在でした。そんなたくさん読んだわけではないんですが。他には、(ジュリア・)クリステヴァ(Julia Kristeva)の理論などを、訳の分からないままに読んでいた。それから、もう一人、川本茂雄という言語学者がいたんですね。この人は、日本における生成変形文法の紹介者で、MITの教授と早稲田の教授を兼ねていた。年に半分くらいMITで教えて、年に半分早稲田で授業をやるんです。そのゼミ室に僕は2年程通ったんです。学生運動の時代だったので、僕の大学はバリケード封鎖されて、授業はあまりなかったんだけれど。仏文の先生も「フランス語をやるんだったら日仏(学院)に行きなさい」みたいなことを言っていた。日仏ではプルーストの有名な学者が来て一年間講義をもったのを聞いたりしていた。川本茂雄の授業は、バリケード封鎖のあいまに開かれていた。彼がゼミをしている部屋というのは、このくらいの部屋(国立国際美術館館長室)か、もう少し広い部屋なんだけど、ほとんど言語学者で埋め尽くされていた。学生は背後の方で立ちながら聞いているような状況です。それは非常に熱気の帯びた授業でした。言語という、僕が目指している文学のメディアに対するサイエンスだよね、簡単に言うと。彼は(ノーム・)チョムスキー(Noam Chomsky)の同僚でもあったから、MITと直結した授業が半年ごとにあるわけです。これは知的興奮を覚えましたね。正直なところ、僕は、理論的な体質という意味では、物理学や数学のような厳密な論理に耐えうるような頭をもってないんです。言語というメディアにおけるサイエンスとなると、分析哲学というものがあるでしょう。その分析哲学の本を買ってきて読んだりしていた。慶応の沢田允茂先生の本とか。翻訳でも、(アルフレッド・ノース・)ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)とかいろいろなものを読んだ。ただ、分析哲学はあまりにも厳密で耐えられないのね。飛躍のない論理の緻密な進め方がね。そのときにチョムスキーの生成変形文法の先端的な学問を知ったんです。川本茂雄は、今最も創造的な学問は言語学だという。どうしてかと言ったら、物理学や数学を君たちがやろうと思っても、先端に立つまでには膨大な時間がかかる。だが生成文法は今始まったばかりだからだと。言語学をやれば、言語学史の全てをわきまえなくてもすぐに最も創造的な現場に立てるということを彼は言ったのね。一種のアジ演説みたいなものです。実はそんなことはなくて、川本茂雄は、語学力一つとってもすごいのね。それで、ゼミにはいろいろな国の語学の専門家がいた。韓国語からロシア語からドイツ語やフランス語からさまざまです。アメリカの文法分析の人が枝分かれ図を書くと、それぞれの言語の専門家たちが同じセンテンスをみんなで分析していた。異様な熱気、盛り上がりでした。数学の論理もどんどん入ってきていて、僕がどこまで理解したか分からないけれど、分析哲学への絶望が生成変形文法への憧れに変わったということがあります。ただ僕は文法学者になるつもりはなかったんですね。そうしたものを構造主義的な思考と融合させながら、小説論を構築したいなと思っていたんです。その頃僕は、詩にはあまり興味なかった、というか、ほとんど関心をもたなかった。構造主義や生成変形文法の聞きかじりから入って、それを小説論に向けようと思っていました。しかし、その元にあるプルーストなどを読んでいるうちに今さらのように気づいたんですが、小説というのは最終的に人生の問題なんですよ。生の真実というのは、アートにとって非常に大きな問題なはずなのに、僕は人生を平穏に送りながら、つまり学者のようなノーマルな生活をしながらラディカルなことを考えたいと思っていた。でも、文学の世界というのはどこかで人生を素材にせざるをえない。学匠詩人や学者的な小説家はいるんだけど、大きな限界を形成していると思います。しかしその時は、文学に賭けよう、人生を素材にしようという方向には向かわないで、あたかも学者のような論理がどのようにアートに繋がっていくのか、に関心を持ったのかな、今思うと。そして、僕はマラルメに出会うんです。リセの英語の先生をずっとやっていて、ある意味では凡庸な人生を送った人がもっている言語空間のラディカルさを知った。今でも僕はマラルメを最も仰ぎ見る存在だと思っています。特にマラルメの散文詩を読みふけっていた。その頃、若気の至りで、「人生を素材にする貧しさ」ということを宣言するんです。今は考え方が変わってきたけれど。それで、新たな論理的な文学に賭けようと思うときに、美術に対する興味が湧いてくるんです。
加治屋:それはどういうきっかけでしょうか。
建畠:ピカソとの出会いですね。これはちょっと話が前後しちゃうかもしれないけども、自分の中では、簡単にいうと美術の遺伝子みたいなものがざわめくみたいな気持ちがあって、そこでまた、二番目の迷いが湧いてくるんですよ。つまり、文学にいくのか美術にいくのかという迷いです。もうアートの方向にいくことは決めているんだけど、またずっと悩むんだよね。悩んだときに、これは二者択一じゃないんじゃないかって思うんです。文学でもあり美術でもあるような領域を独力で切り開けないかと思うわけですよ。でもこれは、ナイーヴに考えても無理な要求なのね。例えば人間の大脳生理的な本質から言っても、言語中枢と視覚中枢は別ですよね。視覚中枢が破壊されたって言語中枢は生きています。言語中枢が破棄されたって視覚中枢は生きているということはあるでしょう。その両方の分野を重ね合わせた肥沃な領域を安定的に作るのは不可能であるに違いない。でも、例えばデュシャンのように、定冠詞のtheを星形に置き換えてしまうことの戦慄というものがある。しかしデュシャンにしても、言語と美術の端境で表現したのはやはり、ある刹那的なものというか、一過性なものだったのね。安定した彫刻や詩のようなフィールドが開けるわけではない。でもそこに何か可能性が開けるんじゃないかと思っていたときに、僕はたまたま銀座でコンクリート・ポエトリーの展覧会を見るんです。新国誠一がやっていたASA(注:アザ。Association for Study of Artsの略)というグループの展覧会でした。僕はたまたま、そこを通りがかって入るんですね。そうしたら、会場で新国誠一が鍵谷幸信らとのシンポジウムをやっていたんです。その頃は、コンクリート・ポエトリーという言葉を知らなかったんだけども、言語芸術と視覚芸術との融合領域の可能性をを個人的に考えていたときに、そのこと自体を一つの領域として挑戦している運動があることを知った。それからすぐに、ASAだけでなくいろいろなグループがあることが分かった。東京のVOU(バウ)、ノイガンドレス(Noigandres)というブラジルのグループ、ドイツのウルム造形大学を中心とするコンクリート・ポエトリー派、ロッタ・ポエチカ(Lotta Poetica)、マルセイユなどフランスの詩人たちなどです。そうした情報が入ってきて、僕は新国誠一のもとに通うようになる。新国誠一はコンクリート・ポエトリーの厳密な教義を守る人だったんだけれど、僕の話もよく聞いてくれて、いろいろサジェスチョンしてくれたんです。でも、実はそのとき彼はVOUと激しい対立をしていて、で、VOUが詩を造形一般性に向かわせる北園克衛的な方向に行ったのを非常に激しく批判して、詩はあくまでも、言語に基づかなくてはいけない、音声と文字性とを重視すべきだと言っていた。彼の考えには大いに触発されました。その頃に僕は国際美術館に移るのかな。で、しばらくして新国誠一は50少しで亡くなってしまうのね。亡くなった後、僕はお宅に行って、書斎に残されていた資料を国際美術館で科研費で買おうとしたんだけど、事情があって武蔵野美術大学にとられてしまいます。コンクリート・ポエトリーの運動は70年代に破綻するんですね。実質的に解体してしまう。論理は面白いんだけども、そこに豊かな表現的なフィールドが開かれるわけではない。僕がさっき言ったような意味でもね。でも運動は間歇的に起こるものです。70年代は国際運動が起こった時期です。僕は新潮社時代に10日間くらい休暇を取って、フランスに行ったことがあります。二つ目的があって、一つはロマネスクの建築を見て歩くことで、もうひとつは、パリでピエール・ガルニエ(Pierre Garnier)やジャン=フランソワ・ボリー(Jean-François Bory)というコンクリート・ポエトリーの詩人たちに会うことでした。ジャン=フランソワ・ボリーは、どちらかといえば造形意識があって、オブジェ主義を擁す人なんですが、そういう人たちに会ったり展覧会を見たりしながら、何らかの活路を見出そうとして、自分でもコンクリート・ポエトリーまがいの作品を作っていましたね。
加治屋:そのときが初めての海外旅行だったんでしょうか。
建畠:そうでしたね。大学を出るときに、さっき言ったように、「考えることはラディカルに」ということがあったので、学者になろうかなという気持ちがあったんですね。それで、フランスに留学するつもりにしていて、大学院の試験を受けたりしていました。たまたま僕の友達が、大学に来ていた筑摩書房と新潮社の応募の書類を出すんだよね。彼は筑摩書房を受けて落っこちてしまうんだけど、お前のは新潮社に出しておいてやったよと言う。そうしたら受験票が送られてくるのよ(笑)。大学時代、授業はほとんどなかったけれど、授業があるときは出ていたから、成績も悪くなかったんだろうね。受けに行ったら、500人だか1000人だかいたんだよね。高校の講堂かどこかに集められて、このなかから2、3人を採用しますと言われて、爆笑が起きた(笑)。でも受けたのね。そうしたら1次試験、2次試験と受かっちゃうわけだよ。それで困ったなあと思った。就職する気がなかったし、フランスに行くつもりだったから。でも受かってしまった。新潮社のことはあまり知らなかった。ただ知っていたのは、僕の恩師であった平岡篤頼さんが、新潮社からヌーヴォー・ロマンの本をたくさん出していたということですね。『週刊新潮』が新潮社から出ているということすら知らなかった(笑)。どうしようかなと迷った。それで、僕のおじが建築家で大江健三郎と親しかったので――大江健三郎は憧れていた小説家でした。言語におけるラディカリズムという特殊な憧れ方でしたが――、北軽井沢の別荘に会いに行ったんです。その頃、僕はすごく無口だったのね。病的に無口な少年でした。一日いて、自分が書いたものを見てもらったんです。そうしたら最後に、大江健三郎が、君は非常に無口だからジャーナリストに向いていない。でも物書きになりたいんだったら、新潮社は大事な出版社だから、けんかしないで辞めなさいと言った。では辞めようと思って、すっきりして帰ってきた。それで平岡さんに言ったら、平岡さんが、でも普通学者になっても、運が良くて田舎の語学の先生になれればいい方かなと言ったんだよね。そこで、田舎の大学に行って詩を書くのも悪くないなと思ったんだけども。そうしたら、新潮社には先輩がいるから話を聞いてきたら。とりあえず一年行って、肌に合わなければ大学に戻って留学すればいいんじゃないのと平岡さんが言った。それでその先輩に会いに行った。酒井さんという方でしたね。新潮社に行くかどうか、彼に相談しようと思ったんです。新潮社に行ったら、彼が「今度入ってくる建畠君です」と言って、みんなに紹介されてされてしまった。辞めづらいなあと思った。それで結局入ることにして、見習い期間に『芸術新潮』の編集部に配属されたんです。ちょうど高松塚の特集かなにかを組んでいて大騒ぎだった。それで一挙に巻き込まれましたね。編集のアシストみたいなことをしました。
加治屋:最初から『芸術新潮』にいらっしゃったんですね。
建畠:最初は『芸術新潮』に配属されました。『芸術新潮』の編集部は、非常に不思議な編集部で、10人くらいいたんだけど、そのうち3、4人は学者なんですよ。普段は大学で教えていて、大学が週2日か3日か知らないけど、あとの3、4日は『芸術新潮』の編集部にいる。学者と編集者が一緒になったような、非常に不思議な梁山泊みたいなところでした。そこは文字通り24時間労働でした。昼頃に行って、みんなが会社にいる間は外を取材したり、食事に出たりして、5時頃から仕事が始まって朝まで仕事をしていました。土曜も日曜も、正月もへったくれもないようなところでしたね。そこに山崎省三という編集長がいたんですね。この人は、僕が人生の中で最も影響を受けた人で、最も尊敬している人なんです。僕はそのときまで、美術評論家になろうなんて気持ちは全然なかったし、学芸員になるっていう気も毛頭なかったんですが、美術には、さっき言ったような意味で興味もっていました。山崎省三という人はものすごく厳しい編集長で、しょっちゅう怒鳴られていました。おろおろしっぱなしでしたね。編集者として天才なんですね。5年くらいいたんですが、その人にこき使われたとも言えるし、非常に多くのことを学んだと言えるでしょうね。例えば、ものの見方を学んだ。ある作品を見て分からないときに、彼が一言二言いうと目から鱗が落ちるんです。この人のもう一つすごいのは文章力ですね。僕が書いた社内原稿を――匿名原稿ですが――酔っぱらってタバコを吸いながら、パパパッと直していく。その直したものが、舌を巻くような文章力でしたね。彼は編集長だから自分ではあまり書かない。リタイアしてからはいくつか本を出されましたけれども、あれほどの文章力をもつ人なのに自分では書かない。全部人に書かせる。彼は「自分のできることは知れている。才能ある人に自分のやりたいことをやらせる」と言って、彼は物書きじゃない人を物書きにしていくんですね。例えば、岡本太郎です。岡本太郎に素材を与えて、取材旅行にも付き合い、自分が本来書くべきことを書かせるということをした。他にも、白洲正子、岡部伊都子、洲之内徹、栗田勇、梅原猛といったもともと美術の物書きじゃない人たちに、美術について書かせるわけね。
池上:今でも読まれている方たちですよね。
建畠:そう。彼の直感と誘導力ですね。それで自分の思うような物書きに仕立てていって、いずれも巨人たちになっていく。その人の、よく言えば薫陶を受けた、悪く言えば怒鳴られて使いっ走りをさせられました。いろんな物書きたちとの出会いもあったし、今で言えば展覧会評みたいなものですが、ずっと社内原稿を書かされたから、書き方も彼に学んだということですかね。今となっては懐かしい時代ですね。24時間労働の激しい5年間を過ごしました。その頃は美術館ブームが起きる前だから、美術館はほとんどなかったんですが、たまたま国立国際美術館の準備室ができたので、「美術館ができるまで」という取材をしたんですね。それで、そこに来ないかということで移るんだけども、移りにくいわけですよ。怒鳴られっぱなしで、今思うと、他の先輩の編集者たちも「建畠君には厳しすぎる」と思っていたくらいなんだけど、自惚れた言い方をすれば、少し買われていたところもあったかもしれないのね。その頃は、すでに美術評論に興味をもっていたし、また美術館というのは非常に創造的な場所であるという思い込みがあって移る決断をするんです。なぜやめにくかったかというと、最初の見習い期間に『芸術新潮』に配属されて、初日から振り回されるんだけども、三ヶ月か半年くらいしてから本属が決まって、『小説新潮』の編集部に行きなさいと貼り出されたんですよ。辞令ですよね。それで山崎さんところに行って、「僕は『芸術新潮』にいたいんです」と言ったら、「会社の人事ってそういうものじゃないし、もう他の人も全部配属されたんだから」と言われた。「いや、僕はどうしてもいたいです」と言ったら、「じゃあ重役とかけあってみるけれど、だめだったら辞めなくちゃいけないかもしれないよ」と言ったから、「ええ、いいです」って言ったの。だいたいもうフランスに行こうなんて気持ちもあったからさ。それで山崎さんがかけあってくれたのね。斎藤十一という人に。その人は、編集界では巨魁で、ものすごいオーラをもった伝説的な編集者です。業績から言ってもとても近寄りがたい雰囲気をもった人なんだけども、重役室に行ったら、パイプをくわえているのよ。「お前なんかがたがた言ってんだって」って言われて、「申し訳ありません」って言った。「お前なんか『小説新潮』には向いとらんわ。『芸術新潮』に返してやるけど半年だけいけ」って言われたのよ。もう辞令がおりちゃったから。それで僕は『小説新潮』に行ったのね。行ったら面白かったんですよ、すごく(笑)。まあいいかなあと思ったのよ。滝田ゆうという漫画家の連載を担当したり、水上勉とかいろんな文士とつき合った。つき合ったというよりは、原稿を取りに行ったんだけどね。楽しかったけれど、でも一応約束は約束だから戻ったのね。それはあり得ない人事なわけ。会社だからね。有名になっちゃったのよ。自分で人事を発令した男みたいな。だから辞めるときは辞めづらかったのね。山崎さんには、そこまでやってくれたという恩義があった。普通だったらあり得ないことをやってくれたんです。でも、恩知らずのようにして『芸術新潮』を離れてしまうんです。その時は、山崎さんに申し訳ないことをしたという気持ちがありました。
加治屋:少し戻ってよろしいでしょうか。卒論のテーマは何だったんでしょうか。
建畠:当時は、ヌーヴォー・ロマンに影響を受けて、純粋言語空間みたいなものを考えようとしていました。文学というものを物理的な意味での空間として考えるということですね。ブランショの影響もありました。そう思っているときに、ベケットの小説が翻訳されるんですね。もちろん芝居のベケットは知っていたんだけども、その小説の三部作――『モロイ』、『マロウンは死ぬ』、『名付けえぬもの』――が翻訳された。ベケットの小説には空間性を感じるのね。具体的な空間としての文学空間がある。ベケットの小説は、よく伽藍と言われる。巨大なドームがあって、それはたぶん言語が響きあう頭蓋骨の内側のことなんだけども、読んでいて、そういうものを感じる。ようするに空間を作るための言葉だから、ほとんど冗語なんですね。無駄な言葉を、ただ空間を維持するために吐くみたいな、そういう小説の空間性みたいなものに憧れて、ベケットを卒論に選ぶんですね。ベケットの小説の空間論ですね。そのときの指導教員は平岡先生じゃなくて安堂信也先生です。安堂さんは、『ゴドーを待ちながら』から小説まで全部翻訳しているすばらしい翻訳者でした。本人は演劇人でもありました。その人を指導教員に選んだ。何かを教えてもらったことはないんだけれども。ただ苦労したのは、自分で訳さなきゃいけないじゃない。それで、一生懸命訳そうとする。でも安堂先生の訳があって、見事な名訳なのね。それで、苦労して別の言葉に置き換えたりすると、卒論の口頭試問のときに「無理するな、引用してもいいんだよ」と言われて(笑)、そうだったのか、と思ったね。
今改めて考えてみると、詩の世界ではボードレールが原点にあるとして、これはあまりラフに整理しちゃいけないんだけども、ランボーの系譜とマラルメの系譜があるわけですよ。僕は、ランボー的なサンボリスムの系譜というのは、ヴェルレーヌとか、破天荒な天才の世界ではあるけれど、どうしても、マラルメやヴァレリーの系譜のほうに心惹かれるところがあった。それは書斎派みたいなところですね。その限界も含めて。マラルメは別格ですけどね。その書斎派的な方向に憧れながら、ヴァレリー的な限界に苦しんだときに、ベケットという、マラルメ的な純粋言語建築の現代的な可能性に目を開かされるというのが詩人としての僕の原点ですね。ベケットは詩人から出発するんだけども、実は今でも(彼の詩は)読んでいないんです。ベケットの劇作家になる以前に書かれた小説空間というのが、同時代の仰ぎ見る目標としてあった。ベケットは生きていたからね。仰ぎ見る目標というか、大先達の切り開いた可能性という感じでしたね。
加治屋:さきほど文学と芸術の二者択一でない道を考えて、コンクリート・ポエトリーのほうに関心が向かったとおっしゃっていましたが、そのときは詩人になろうとしていたんでしょうか。それともそれを研究しようとしていたんでしょうか。
建畠:さっきも言ったように、研究がそのまま作品になるような世界を夢想していたんですね。それはソレルスの影響があったんですが。研究者でありながら創作者でもある、しかもそれは二つのことではないというようなことが念頭にあった。そういう世界に対する夢想があった。そういう意味でマラルメやベケットに興味をもったんです。そのときはブランショの影響が一番大きかったですね。ブランショのカフカ論は今読んでもすごい。不在の中心に向けての求心運動であるとブランショは言う。なぜそれが永遠の求心運動であるかというと中心がないからですね。不在の弁証法と言われているものは、僕に言わせれば空間概念なんですよ。文学空間ですね。ラフな言い方すると、それをメタファーとしての建築空間としているのがマラルメやベケットだとするならば、コンクリート・ポエトリーというのは、実体としての空間を作り上げるんです。現実の空間として地上に出現させる。メタファーではなく、現実に建築を構築する。言語によって。そのことが安定した領域たりえないので、運動は繰り返し破綻してきたんだけども。そういう意味では、物理学に行くか、文学に行くかで迷ったという、一種のコンプレックスみたいなものがずっと尾を引いているということではあるかもしれない。最終的には、僕は散文詩という、ビジュアルな意味での空間性を全く排除した世界に行ってしまう。行書の詩というのはまだ空間性がありますから。今やっていることは、空間性からは遠いことなんだけど、頭の中では現実の建築にしたいという意識はまだ夢想としてあります。不可能な夢想ですね。自分の書くものはそうしたものとシンクロしているのかもしれないですね。そんな分析は自分でしたことないけれど、今の流れで言えばそういうことなのかもしれません。
加治屋:先ほど、銀座を歩いていて、コンクリート・ポエトリーに出会ったとおっしゃっていました。銀座の画廊を回られたり、美術館に行かれたりしていたと思うんですが、学生時代や編集者時代にご覧になった展覧会で特に印象に残っているものはありますか。
建畠:印象に残っている展覧会が二つあります。学生時代で印象に残っているのは「人間と物質」展ですね。かなり鮮烈な記憶が残っています。東京都美術館に行って、部屋の中を覆ったクリスト(Christo)の作品とか、(ジュゼッペ・)ペノーネ(Giuseppe Penone)の作品とかを見ました。当時は名前も知らなくて、それまで構築してきた美術の図式とは違ったものが出てきたという印象をもちました。そのときもっていた美術の図式というのは、幼稚というか、シンプルな図式でした。抽象美術が出てきたことによって美術は再現性から解放された。そのあとにポップアートが出現して、概念的にも今までの美術から解放された。間違ってはいないと思うけど、そういう図式のなかで、現代芸術、前衛芸術が進行しているときに、それと全く系列の違った、簡単に言うと、物質という存在自体が表現としてありうるというか、即物性というもののストレートな存在感に衝撃を受けましたね。ただ、今思えば、弁証法的な美術の展開ということもあるんだろうけれど、むしろ、反映論的に見るべきものであって、戦後の産業化社会や自然環境の変質の中における物質観の変遷というものが表現に通じていたという言い方もできると思います。でも、そのときは、芸術の概念の更新がここまでラディカルなものなのかと圧倒された思いがあります。それからもう一つは、これは編集者時代に見たんだけども、鎌倉の近代美術館で開かれた若林奮展ですね。三十代の作品で、今思えば《北方金属》とか《不透明・低空》とか《2.5mの犬》という、不思議なポエジーをもった彫刻を見て、別の方向で圧倒されました。この二つかな。「人間と物質」展は学生時代だし、若林展は新潮社に入ったばかりの頃だと思います。新潮社時代に、さっき言ったコンクリート・ポエトリーの運動を調べると同時にロマネスクのカテドラルを見る旅をするんだけど、そのときに、ポンピドゥー・センターができる前のパリの近代美術館でピカソの作品を見たんです。メタモルフォーゼの作品ばかりを集めている一室があって、そのとき、印象的だったというより、感動している自分に驚いたのね。美術ってそれまで感動したことなかったのね。美術って、音楽や演劇のように、感動が訳も分からずこみ上げてくるというものではないでしょう。僕にとって、美術の体験とは、そういう体験とは違った体験だった。ところが、ピカソの部屋でメタモルフォーゼの作品を見ていると、自分が感動しているんだよね。それにびっくりしたのね。演劇を見るのと同じような感動がこみ上げてきたんです。これも大きな経験でしたね。
加治屋:現代美術に関心を持つようになったのも新潮社時代からですか。
建畠:もちろん、それまでも普通の人に比べれば現代美術はよく知っていたほうだよ。家庭環境もあったし。だけど、自分の専門性と重なる部分で、職業選択も含めて関心を持つようになったのは、『芸術新潮』という雑誌の編集部に配属されたからですね。
池上:それは希望されて配属されたのではなく、たまたまだったんでしょうか。
建畠:全くたまたまですね。あそこに配属されなかったら、詩人に転身する時期が早まったかもしれないし、そのまま物書きになったか、あるいは大学に戻って仏文学者の中でポスト構造主義の翻訳かなんかしていたんじゃないかと思いますね。友人にこの前そう言ったら、「そうであったとしても、お前大して変わってないよ、今と」と言われた。周りにいるのは、そういう人たちばかりだからね。ただ、美術評論の道に入り、キュレーションの道に入ったのは、山崎省三との出会いでしょうね。僕が編集者に長居しなかった一つの理由は、編集というのは非常に創造的な作業だけれども、創造性は美術館のほうにより主体的なものとしてあると思ったからでしょうね。それから、編集者としての才能は、あまりなかったと思うのね。社内ライターとしてはそれなりに評価されたし、山崎さんもそう思っていたかもしれないけども、企画の独創性とかさ、編集能力とか、誰かに書かせるとか、既存のものの価値を再編して一つのものを練り上げていくとか、そういったことに、それほど情熱をもたなかったし、山崎省三を見て、もうかなわないと思った。到底足下にもおよばないと思った。あの人と同じ方向を目指すとしたらね。僕に大きな影響を与えた人だし、今でも敬愛している方ではありますが、同じ道を歩もうというふうには思わなかったですね。
加治屋:学生時代や編集者時代に、建畠さんの周りにいた方で、他に印象に残っている方はいらっしゃるでしょうか。
建畠:『芸術新潮』時代、いろいろな芸術家と接触はありましたが、むしろ僕は、物書きのほうが印象に残っていますね。親しくしたのは何人かいました。親しくしたと言っても、編集者と大文学者との出会いだから、対等ではないけども。水上勉さんには、僕はずっと私淑していた。僕の興味のない方向性の小説家ではあったけども、水上勉という人物には本当に惹かれましたね。偉大な文学者だと思いますね。あとは、圧倒的に巻き込まれたのは田村隆一という詩人ですね。これはもう無茶苦茶な付き合いでしたね。地獄のようでした。僕はその頃まだ詩を書いていなかったが、田村隆一は学生時代から読んでいました。特に「立棺」という詩は、すべての学生が読んでいる、文学志向じゃない人も読んでいるような詩でした。そういう巨人だったんですけども、この人の禁治産者のような生活の凄まじさには巻き込まれましたね。もう私生活にいたるまで巻き込まれて、地獄のような現場を編集者時代にともにしました。この人は70いくつまで生きられた方で、自滅したわけじゃないんだけども、詩人というものの生活の凄まじさというか、傍若無人というか自堕落というか……。でもこちらは、詩人としては非常に敬愛していました。田村隆一との付き合いというのが一番深かったですかね。原稿取りから始まってね。
加治屋:その頃、針生一郎、中原佑介、東野芳明といった美術評論家が活躍していたと思うんですが、こういった方たちの美術批評についてはどのようにお考えでしたでしょうか。
建畠:学生時代は、この人たちの美術評論は読んでいました。特に中原さんの評論は、「人間と物質」のキュレーターということもあって、興味をもちました。僕がその頃読んでいた広い意味での構造主義的な言説とオーヴァーラップするところがあって、『見ることの神話』は熱心に読んでいました。編集者時代は、この人たちからしょっちゅう原稿を取る立場になりました。東野さんを除くと、他の人は原稿を取るのが大変なんですよ。書かない(笑)。逃げちゃうのね、すぐ。それで、缶詰にしたりする。面白おかしいエピソードはいっぱいありますね。この三人が評論の御三家と言われる時代は非常に長く続くのね。これは美術館の時代が訪れる前で、彼らは、旗幟鮮明な批評のイデオローグであると同時に、まあ今で言うと、キュレーターとしても活躍するスーパースターでした。御三家を中心に美術の構造が成立していた時代が長く続くんですね。今思えば、彼らは20代でデビューして、30代、40代という、今の僕よりはるかに若い時代に、ヘゲモニーを取り続ける。体質がそれぞれ違っているのが面白かったですね。針生一郎は、広い意味での思想家的な立場を維持する。中原さんは物理学出身ということもあるだろうけども、理論的な支柱として活動する。東野芳明は文学性と言ったらいいのか、華麗な文体を操る。非常に見事に、クリアにこの三人の体質が違っていたということがあり、彼らがそれぞれ支える美術の領域の違いにも重なって、非常に面白い時代でしたね。一番影響を受けたのは中原佑介さんだと思います。針生さんは、広い意味での反映論的な批評で一貫していて、芸術の社会的な役割を重視している人なんですが、一方で、一種の慨嘆主義者でもあって、その意味では一種のロマンチストかもしれないね。「あれもだめ、これもだめ、俺は待ってるぜ」という「俺は待ってるぜ批評」だという人もいますが、本質的なものはいつか現れるだろうという主張です。中原さんは二つあって、一つは「創造のための批評」ですね。これはフォーマリズムとは違うけれど、論理的に創造性というものを解きほぐすというものです。ただ単に客観的に解明するというよりは、アーティストたちにとっての創造の原理を示すという方向性です。それからもう一つは、ユーモアや遊びに対する軽やかで柔らかな捉え方ですね。そういう柔軟な精神をもちながら、一方では論理を貫いていくという、その二つが共存している人ですね。東野さんの場合、最大の華麗さは文体でしょうね。非常に豊潤な文章力と、もう一つはアートの生活化ということですね。これは、詩人的な意味で人生を芸術の素材とするということではなくて、ダンディというのかな。針生さんや中原さんにしても、客観的に見れば、別におしゃれでも何でもない。まあ、中原さんが一時期おしゃれなときはあったけれども。東野さんはやはり華麗なのね。着るものとか、ライフスタイルとか、しゃべり方とか、パーティーでの振る舞い方とか。アートというものを実際に自分の生活と一体化させて、人生を享受していくみたいな。そういう意味では徹底した人でしたね。
池上:一番影響を受けられたのが中原佑介ということなんですが、特に印象に残った文章はありますか。
建畠:しばらく読んでいないので、ちょっと思い出せないな。『見ることの神話』には影響を受けましたね。芸術と制度の関係は、針生一郎的な意味では理解していたけども、中原さんの議論は違っていました。中原さんは、社会的な意味での制度性ではなくて、例えば額縁や台座というものの制度性のように、芸術というものが――彼の場合は視覚芸術なんだけども――制度化されているんだというところから解き明かして、その制度のパラダイムを更新していくこと自体が表現の更新につながっていくということを言った。その思考の枠組みには強い影響を受けましたね。それから、物理学者だったからというのもあるかもしれないけど、中原さんが書く文章の論理性がもっている快感は、非常に刺激的でしたね。
加治屋:そのあとに出てきた宮川淳さんについてはいかがでしょうか。建畠先生は2007年に『絵画とその影』という宮川さんの選集を編集なさっていますね。
建畠:個人的には、宮川淳さんに会ったことはないんですね。ただ、彼のもっている透明な澄んだ知性と文体の香しさには憧れたことはありますね。あの人のように生きたいということはありました。彼が仏文出身だったっていうのもあるし、詩と美術にまたがるような評論のスタンスを取っていたということもあるでしょうね。両方を同じレヴェルで捉えながら評論を展開していくということです。ただ、存命中は憧れていたけれど、そんなにたくさん読んだり、集中的に彼のことを論じたり調べたりはしていなかった。新潮社から国際美術館に移るとき、キュレーターという職業自体がまだ確立されていなくて、僕は何も知らないでキュレーターになったんだけど、キュレーション自体が創造的であると考えていたとき、宮川淳は僕の精神的な支えになっていました。彼はキュレーションをした人ではないけれど、キュレーションの原理として、彼のいうディスクール、彼のやっているプラティック・ディスキュルシヴ(pratique discursive、言説的実践)があるのではないかと思った。彼自身は、アートを、現場批評としてでなくて、あるいは、フェティシズム的な批評としてではなくて――フェティシズムというのは彼の独特の使い方だけども――、つまり、実体としての作品を論じるのではなくて、言説を通じて分析していった。そのやり方には目から鱗が落ちる気がしました。それから、フォーマリズムとか――フォーマリズムは、この頃まだ紹介されていなかったと思うし、宮川淳はフォーマリズムについて言及したことはないと思うんですよね。編集者に聞いてもグリーンバーグの名前は一回も出てこないという話です――あるいは芸術至上主義とか、反映論的な芸術の見方といったものは、実体としての芸術から出てきたものではなくて、ある意味では事後的に言説として成立したという見方にも目から鱗が落ちる感じがしました。芸術の自律性でモダニズムの芸術を捉えることはできるが、見方次第ではそうした芸術は、他のいかなる時代の芸術に比べても、現実の政治に参与しようとしているとも言える。特にアヴァンギャルドの美術を見るとそうです。そういうようなことを高みの見物的にさらっと言ってみせるところには憧れました。展覧会というものは、企画も、キュレーションも、プラティック・ディスキュルシヴなものに対する分析が中心になるべきだと思った。美術館に移ったとき、宮川淳は、僕の精神的な支えの一つだった、会ったことはないんだけども、支えでした。移ったときにちょうど亡くなったんですよ。43歳という歳だったと思いますが、僕にとっては衝撃的な出来事でした。ある精神的な支えを失ったという気持ちはありましたね。ただ、その後僕は宮川淳については、憧れながらも批判的に書いた。畏敬の念をもつがゆえに、宮川淳というものがもっているノーブルな批評のスタンスの無効性みたいなことを勝手に書きました。単純には批判できないんだよ、もちろん。批判というのは、ある種の甘えみたいなところもあるわけね。憧れている人だから。でも、一番の問題はやはり、僕が言う「高みの見物批評」です。最大の問題は、モダニズムが価値概念であると同時に様式概念として成立したということです。言われてみれば、驚くべき本質の看破と言うべきでしょう。そのとおりなのね。それがモデルニテの捉え方として最も正しい定義だと思うんですが、それでどうなるかという話にならない。だからどうした、という話なのね。モデルニテに象徴される価値概念というのがボードレールによって定立されて、その範疇に今われわれも置かれているというのが正しいとして、その中でいろいろな様式概念が交替していく。そして、一つの様式に出会った人は、それが究極的なモダニズムの実践であると思うけれど、まあ3年後には逆にふれるわけですよ。アール・ヌーヴォーとアール・デコにしても、構成主義と表現主義にしても。常に逆方向に揺れるわけですよね。でも、ある様式に出会った人は、それがモダニズムの究極的な姿だと思ってしまう。抽象芸術が出てきたときに、我々はついに再現性を乗り越えた、そこにモダニズムの美術の本質があると思ってしまう。コンセプチュアル・アートのときには、我々はついに物質性を乗り越えたと思う。しかし次の日にはおぞましき具象絵画やおぞましきオブジェが復活してくるわけじゃない。それは、価値概念と様式概念というのを混同しているがゆえに批評の錯乱だと言う。そのとおりなんだけど、でも、それがどうしたという話なんですよ。本質をわきまえたうえで、アーティストとしての、あるいは評論家としてのオルタナティヴはありますかと言う話です。様式とは宿命的なんですよ。ファム・ファタールみたいなものですよね。自分が出会った様式は自分を滅ぼすべき宿命の女であると思っている人に、「あんたの恋人はワン・オブ・ゼムと思いなさい」と言っている。それはそのとおりなのね。恋人に惚れた腫れたというときは、男でも女でも、運命の糸で結ばれていて、宿命的に出会ってしまったと思っている。それを相対化しなさい、ワン・オブ・ゼムですよって言われても、ああそうですかということにならないでしょう。それは「高みの見物批評」でしょう。他にもいくつか批判があるんですが、非常にシンプルに言えばそういう疑問がありました。宮川淳は現場の批評の人じゃないし、ある状況から距離を置いたうえで聡明な見方ができたんだと思う。それは正しいけれど、正しいだけだと言ったんです。ただ、正しいだけだということだけで、済んでしまうような人物ではないですよね、今読み返すと。それは、彼の評論がもっている一種の「破砕したクリスタル」というのかな、「砕け散る光の輝き」と言ったらいいのか。それが、透明な文体の中に戦慄的な照明を差し入れている、その凄さというのはやはり恐るべきものがあるなという感じがします。批評家に対する批判というのは難しいんだよね。テーゼを立てた者に対するテーゼ的な批判が単純にできないというか。小林秀雄にしたってそうでしょう。
加治屋:他の批評家についてもお伺いしたいのですが、それはまた次回のインタヴューということにします。今日はもう長くなりましたので、最後の質問をさせていただきます。建畠先生が大学に入学なさったのは60年代後半で、学生運動が非常に盛んだった時期だったと思います。先生自身はどういったお関わりをお持ちだったんでしょうか。また、どのようにお考えになっていたんでしょうか。
建畠:さっきも言ったように、大学時代はほとんどバリケード封鎖の時代でした。早稲田の文学部というのは、革マル派(注:日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派の略)という反代々木系のセクトの牙城でした。革マル派の幹部の人たちは僕の周りにいましたし、非常に優れた人もいたんだけども、革マル派のもっている組織重視の集団的なイデオロギーの構築に対する一種の距離感はありましたね。黒田寛一の著作はほとんど読んでいないので、革マル派のイデオロギーを批判するわけにはいかないけれど。ただ、学園紛争の吹き荒れた時期だったので、僕はベ平連のデモによく参加しましたね。これはちょうど構造主義に興味をもった時代と重なっているんです。全共闘の造反有理の思想の影響を受けていなかったかというと嘘でしょうね。一種の近代主義批判ですね。簡単にテーゼにすれば、操作の対象としての人間性を否定するためには、操作の対象としての自己を否定しなくちゃいけないというものです。その自己否定の論理は、ようするに全体性をどう捉えるかということですが、それは、全共闘の思想を通じて、自分にとってリアリティーがあることとして入り込んできました。ただ、実際の政治闘争の中で、僕はけっこう柔な学生だったかもしれない。覚えているのは、佐藤訪米阻止か何かのデモがあって、清水谷公園からデモで出発して、革マル派のデモか何かについていった気がするんです。そうしたら、弁天橋のところで封鎖線が張られて、そこで三々五々になりながら、とにかく蒲田に行けと言われた。羽田空港が近くだからね。それで、何人かと一緒に裏通りを歩いて、途中でまたデモが再編された。そこで、みんな機動隊の盾が並んでいるところに向かって、突っ込んでいくわけだよ。突っ込んでいくと、すっと盾が開いて、10人ぐらい入ると、また盾が閉まるんだよ。こんなところで捕まったらたまらないなと思って、突っ込み隊には参加しないまま、裏通りを歩いた。それで、(午後)2時か、3時か、4時か知らないけれど、裏通りを歩いていたら、喫茶店が開いていたんだよね。そこにふらっと入ったのよ。そうしたら、ノンポリの人間が『少年マガジン』を読んでいるわけ。それで、ココアを頼んで、ココアを飲んだ。通りの外に出たら市街戦をやっているわけじゃない? でも、ここで帰ってしまったらもうノンポリの学生と変わらないわけじゃない? しかし僕は蒲田に行かなかったのね。その記憶というのは、一種の後ろめたさとして今でも残っている。そのときのココア――僕は「恩寵のココア」と言っているんだけど――のことは、詩に書きました。今度高見賞とった詩集の最後に書いた詩です。「石のつぶてが飛び交う日に私は生まれた」という感じはありますね。そこに私は参与しなかったということに対する自己懐疑みたいなものがずっと残っています。一晩で2000人も逮捕されてしまう市街戦みたいな時代でした。あとは、内ゲバがあったからね。僕の友達も両方の犠牲者になりました。今思うと暗い時代でもありましたね。
加治屋:では、本日のインタヴューはこれで終わらせてもらいます。ありがとうございました。