北山善夫 オーラル・ヒストリー 第2回

2012年3月20日

北山善夫アトリエにて
インタヴュアー:青木正弘、坂上しのぶ
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2013年7月28日
更新日:2018年6月7日

北山:(この辺は)動物がようけ(沢山)いるのよね。で、(僕は)知らない人が怖い。襲われたら逃げようがないからと思う。

坂上:ここで襲いそうな人はいます?

北山:ここはいないですよ。でも、何か、通り際に盗まれたりとか、隣に百日紅(さるすべり)が植わってたんですよ、それ、夜中来て盗られてん。

坂上:誰が盗りに来るの?

北山:植木屋さんの専門じゃないと無理や。土の中に植わってるんだから。狙って。高く売れるから。植わってるの盗ってかれて。高いんです。あれは。

坂上:北山さん、何でここにアトリエを作ったんですか。

北山:隣の、木村さんっていうのがね、82年のちょっと経った頃に友達になったんですよ。ほんで、ま、(この辺を)見に来たり。で、手狭になってたから…長岡の自宅がね。家の前にアトリエを自分で作って、そこで(作品を)作ってたんだけど、だんだん作品が大きくなってきたし。隣が売りに出たんやけど、そこ買うても仕方ないなと。二軒合わしても大したことないから。そしたら木村さんが、「世話してやる」と言う。大学の先生やから、暇があるからさ。それでこの辺を御頼み歩いて。この向こう側かな、売ってくれるっていうのがあったんやけど、栗が出来るとか、実が取れるとかで、旦那さんはオッケー言わはるんやけど…(奥さんがノー)。で、ちょうどここが竹薮で、その上と同じように薮状態やったんですよ。で、道祖神があって。(つまりここは)村の外やな。で、やっと1年半位。一升瓶何本持ってったか分からない。で、やっとオッケー出て建てました。

坂上:道祖神(どうそしん)って何だろう。

北山:村の両側に石造りの守り神があって、結界なんですよ、道のね。内側は村の俺達の世界。で、外側は魑魅魍魎の世界だと。昔の精神世界のかたち、そうなってんねん。

坂上:じゃあ、ここは魑魅魍魎の…。

北山:うじゃうじゃ何かいますよ。外やねん。ああそうかあって感じ。そういう意味では、村の区費みたいなのは取るんやけど、中には入って欲しくない。役員とかそういうのも、もういらんとか。でも今は過疎化になってるから「入れ」と。状況が変わった。

坂上:昔はお金が欲しいからって徴収してたけど…。

北山:今もね、徴収されてますよ。何にも無いよ、別に。

坂上:魑魅魍魎の世界に住んでるのに?

北山:うん。それやったら売ってあげるみたいな。でもね、村の中の方はぐしゃぐしゃしてて。で、ここに建ててね。隣は木村さんで、南側に広い谷。山が少し遠くにあるから空間がスパーっと見えるんですよ。この土地の地主さんの息子さんがこの横に家を建てて、って買った当初に地主さんの奥さんが言ってはったけど(息子は)帰って来ない。お医者さんでもう都会に住んでてね。(ここに帰って来ても)不便だし。

青木:段々畑の風景がいいですよね。ここだけ記憶に残ってる、よく。(注:1998年3月13日(金)に一度訪問している)

北山:前の時は段々田んぼやった。

青木:もう今は無い。

北山:田んぼですけど、耕地整理したから石垣で小さな田んぼだったんです。その石垣の石を全部崩したんですよ。

青木:ああ、その石をこっちに持って来たんだ。(北山アトリエにある壮大な北山手作り石垣)

北山:そう。リフォーム。僕が前の段々の田んぼの石をもう一度使って。遺跡として僕がもう一度作っているという意義はあったんや。

青木:(以前)僕が伺った時とは全然違うんやね。

北山:全然違います。だって、積める位の石で、ものすごい小さな田んぼだったから、大きな耕耘機がね、使えないわけ。(整地して)それを使えるようにしたわけ。400坪とか500坪に。だからすごい斜面が大きいわけ。耕地整理の場合は、一旦全部売るの。お国に売るの。その時は持ち主は全然無いわけね。だから(石が)取れてん。僕はその間に。国は何も言うて来なかったから取り放題。

坂上:ここにはいつ位に引っ越してきたんですか。

北山:15年位前で、その人(木村さん)が僕の作品のコレクター。僕の作品を買ってくれてたわけ。

坂上:で、知り合ったのが82年の頃で。

北山:82年以後やね。

坂上:ヴェニス・ビエンナーレの頃に知り合ったんですか。

北山:過ぎてからね。

坂上:ヴェニス・ビエンナーレは彦坂さんが足を引っ張ったんですか? 売れそうな北山さんを。

北山:自分の身の問題があるから。

坂上:でも身の問題って何か。例えば戦後だったら、日展の偉い人とかが若い子が売れそうになると足を引っ張ったりとか、「自分よりいいものを作るな!」って頭を(頭角を現さないように仕組む)。

北山:(彦坂は)僕が「受けてる」って言うことを(帰って来てから他の人に)言わんようにしたわけ。だから(僕が受けたことは)日本にあまり知らされてないでしょ。

坂上:でも彦坂さんが言わなくても、他の人が言えばみんな北山さんが売れてるってのが分かるじゃないですか。

北山:彦坂がヴェニスで言ったのは、「(北山は)棟方志功以来のヴェニスでの受け方だ」って。(棟方志功以来の評判の高さ、話題として取り上げられているの意)谷さん(谷新、1947-)も僕が受けたことをあまり言わなかった。彦坂は要するに銀座の親分じゃないですか。谷さんと彦坂は力関係からすると、僕の感じでは彦坂の方が少し上のように思っていた。彦坂に力があるように思っていた。『アートフォーラム』(Artforum)には後から載ったからね、彼(彦坂)とね。ヴェニス・ビエンナーレで5人選ばれた展覧会をするから、と、主催者側から始まってすぐ言われました。それも皆知ってて。でも(せっかくの話も)潰れてしまって。結局僕はヴェニスでは少し「受けたぐらい」で終りになったんですよ。賞とかあったら完璧に(受けた、と)言えるわけ(だけど)。

坂上:だけど賞の制度が無かった。

北山:無かったんですよ。戦後民主主義だか知らんけどね。無かってん。

坂上:それ位が理由なんですかねえ。

北山:よく分かりませんけれど。で、(同年82年の)カーネギー(インターナショナル)も『ニューヨーク・タイムズ』(The New York Times)に載ったらしく。だけど日本には広まらなかったね。僕、(東京では)ポッと出やったから。で、(もともとが)関西でしょ。あちら(彦坂、川俣)は東京の方で、もうものすごく有名じゃないですか。ダンチ(段違い)に。それは大きいですよ、と思ってる。もう一つは村松(貸画廊)でしょ。ディーラーのギャラリーが付いてたら違ったね。

坂上:そうですね。全く違いますね。貸画廊とそうじゃないところって全然ね。ついて行き方が違うもんね。

北山:今やったらもうちょっと。(ギャラリー)16さんでも、違うし。もう一人しゃべれる奴付けて。2人位しゃべれる人が付いてくれたらいいな、無理やけど。受けへんかったら終りやないですか。状況的には「もの派」とか、若林さんたち。(ヴェニスで日本人は)10年間ほとんど受けなかったから。

坂上:40年のヴェニス・ビエンナーレの記録(『ヴェネチア・ビエンナーレ 日本参加の40年』 国際交流基金、1995年)を昨日見ていて、やっぱり、何て言うのかなあ、こう、前後含めてね、その40年っていうのは52年から92年、村岡さんと遠藤利克さん(1950-)までだったんだけど。

北山:それ見ましたよ。

坂上:何て言うのかな、北山さんの作品だけが「枠外」に行っている気がした。後の人の作品っていうのは、ある意味で、こう「形式」とか「様式」みたいな要素を大事にしているというか。この(様式の)中ですごい、かたちを作っているなって思うんだけど。北山さんのだけは「ガッ」と飛び出たような感じがする。それはもう前後含めてそう思った。

北山:あ、あと一つ、思い出したんだけど、「陣取り」っていうのがあって、思い出してきた! 展示場所がね。彦坂が、「小回顧をやりたい」と。で、入口入ったところに壁があって、「そこからはじまる」ということやったわけ。彼の思い通りやから、ある意味で。谷さんも(そう対応してるし)。で、入ったところから、こう、(彦坂は)回るように並べたんですよ。で、(だけど観客は)入口入って、「パーッ」と右を見るわけ。そこが正面なわけよ。そこに僕、一番でかいやつをそこに(置いた)。あれをバーッと。そしたらみんなあれを見て「わー!」って(笑)。みんな「ウォーすごい!」って言って。「素晴しい!」って言うあれやってん。それは良かったんですよ。それと川俣は、写真で、資料的な作品やってん。外側にインスタレーションしたんですよ。川俣の作品はパネルのでかいやつやったんやけど、「あれは資料やから俺等の作品と一緒に並べたくない」って言うた、彦坂。僕もそれに乗ったんだけどさあ(笑)。(だから川俣は)もう見えへん。この裏側にあるわ。で、僕と彦坂。一応斜めの場所やったんやけど、一番こっち側の右側のところに置いて(受けた)(笑)。そんなんありましたよ。

坂上:それは話し合うんですか。まず最初に。

北山:話し合うっていうよりも、「こうだから」って説得するわけ、彼は。彦坂。(で、僕は)「うん!そうだそうだ!」って。これはメリットになるから「そうだ!」って言って(笑)。だからようけ壁取ったんですよ。だって。何点も並べたもん。

坂上:彦坂さん的には自分の思い通りになったから。

北山:なった。

坂上:彼的には良かった。

北山:良かったけど。壁の面積が沢山取れたけれど、場所的には裏側になってしまった。パッと、入ったら右に目立った大きいのがあるから思わず見てしまう。足をそこに向かわせてしまう。ヴェニス会場は沢山のパビリオンがあるから、そんなに丁寧に人は見ない。

青木:パッと見た時の印象(の方が大事)。

北山:そう。もうそのグワーっと(大勢の人が)毎日来るもん。放ったらかしや。

坂上:売れたのは、40年の記録を見て本当によく分かった。本当に、枠外まで広がっている作品って、なかなか作れないですよね。やっぱりそういうキャリアもあって、教育も受けてたら、「様式」ってものを大事にするというか、「囚われざるを得ない」しね。ってのがあるからね。

青木:要するに造形の様式が、今まである型の中に「関係ねえ」って感じで、北山の作品があったと、そういうことやね。

北山:もう一つね、僕の竹の線がグワーっと大きいじゃないですか。で、「あれ竹ですよ」って言うと(外国人は)「そうかあ!」って見に来るわけね。で、僕の場合、日本の中で言うと、「竹と和紙」やから、すごく民芸的な、日本的なものがあるっていうのは、そういう想いの作家は見るんやけど、初めて見るから、『アート・イン・アメリカ』(Art in America)かな、イサム・ノグチ(Isamu Noguchi, 1904-1988)が提灯作ってるじゃない。「イサム・ノグチの様式ではあるけど、彼独自だ」っていう書き方をするわけ。向こうの書き方はそうなんですよ。

坂上:まず先を踏まえて。

北山:踏まえてね。歴史主義やから。向こうは。それはそんなに悪くはないわけ。そういう意味で。「だからどうなんだ」ってことで。

坂上:若林さんが駄目だったのは、ボイス(ヨーゼフ・ボイス Joseph Beuys, 1921-1986)の「後追い」と思われたから駄目だった。

北山:そうやね。

坂上:だけど(北山は)イサム・ノグチの系譜の作家であるけれども「新しい世界が見えるからいい」と。

北山:そうそうそう。それと素材的な。もう一つは、いろんな紙片があるでしょ。で、印象派のやつがタッシュ画法(点描)であると。そういうなんも「近いな」と。「絵画的な様式の中にある」と。だから、向こう側の中で、ある程度浮世絵が向こうで認知されてるのは、自分たちの絵画の透視画法形式の一番主流の問題が浮世絵で表現されてるということで、評価されてるわけですよ。全く文化的に「切断されている」というか「繋がりが無かった」ら受けないわけ。分からないんですよね。「そっからどうなんだ」っていうね。それも言われましたよ。

坂上:北山さんとしては、俺は絶対、って。ちょっと話戻るけど、79年の時点で、それまでの自分は「勉強中」。79年に個展をした時から「自分は行く」っていうことから、79年を線引きして(展覧会歴を)出しているって言ってるじゃないですか。79年の時点で、そこまでの想いをして「出した」ということは、「自分は行ける」っていう確信があったんですか?

北山:ありましたね。フォルム画廊(大阪)に、グループ展に招待されて会場を見て。個展もあって。周りも見てんだけど、「(自分の作品は)完璧に周りと違う作品だな」って思った。自分で見て。で、いいか悪いか分からんけど、周りと全然違う。ものすごく傲慢な言い方かも知れないけど「富士山の雲の上にバーッと出た」っていう認識ありましたよ。

青木:そういう実感があった。

北山:実感があった。

坂上:「もの派」の頃から、突破したいけれども、ブレークスルーしたいけど出来ないっていう時代が続いていたじゃないですか。そこで自分は「突破した」というような、感覚みたいなのが。

北山:ありました。

坂上:だからこそ個展もしたし。

北山:それが後、80年か81年の個展以後、招待が来るからね。

坂上:自分の中の確信が、どんどん人のリアクションで。

北山:展評は載らなかったけど、『ぴあ』とかね。あと、読売新聞の、あの、ここに中島(中島徳博、1948-2009)さんが書いたやつがある。それが最初やった。これがね。これが80年に書いてます。

(みんなで記事のスクラップファイルを見始める)

坂上:中原浩大(1961-)の時だって(最初に記事を書いたのは)中島徳博さんなんです。

北山:一緒にお寿司屋さんに行った。取材費があるからってごちそうになった。で、朝日新聞の吉村(吉村良夫、1939-)さんも靫(ギャラリー)の個展で書くと言われたけど、上司がオーケー出さなかったので載せませんでした。『美術手帖』の展評だけは載らなかったけど、徐々には来てるんですよ。

坂上:だけど平野(平野重光、1940-)さんのアンパン(記事)とか、(81年に書かれているけれど、内容は)全体の中の一部っていうか。

北山:そうやねえ。でもそれが載るっていうのが。今まで載らなかったし。

坂上:そっかそっか。で、中原佑介が来て。

北山:これはもう(読売新聞の)安黒(安黒正流、1937−)さんに「(記事に)書く」と。

坂上:中原佑介の方から「俺はもうここで(書くから)」と。

北山:安黒さんもまあ。で、これは(新聞の)年鑑に載ったのね。81年。北辻さんとね。

坂上:で、これが田中幸人(1937-2004)。

北山:そうそうそう。田中幸人さんも「これはすごい」って言って。村松のやつやね。これで、ドドっと出たわけ。これが針生さんでしょ。これがヴェニス・ビエンナーレのやつなんですよ。(これは)サーレか、ですよ。で、これが谷さんの。控え目なんよ、谷さんでも、ほら、周りに、ほら、ものすごい気遣いしはるし。

坂上:あ、これは200部かな、(北山さんが自分で作成してヴェニスに持参した)スライド。これは何でスライドにしたんですか。

北山:スライド、韓国と日本の紙の展覧会があって、その時スライドのカタログがあったんですよ。「これ、いい」って思った。これは行けると思ったんですよ。

坂上:でも、高いし。

北山:でも写真屋さんと契約して「これだけでやってくれ」って言ったらやってくれたんだ。トータルでやった。5000枚くらいかな。

坂上:村松で展覧会をやった時は、彦坂さんも待ち構えて「作品、出せ出せ」っていう感じで。一緒に梱包を開けたわけじゃないけど。

北山:写真撮影の為だけやから、数点しか持って行ってない。自分の車で持って行ったんですよ。ワゴン車で。

坂上:その時に待ち構えて見る位。「北山善夫どんな奴」って構えて待ってたんですか。

北山:そうそうそう。構えて。(既に北山善夫の)研究会があったし。

坂上:(北山善夫はまだ東京には)上陸してないわけでしょう。

北山:上陸してないけれども、(個展は既に)決まってたでしょ。81年の暮れには決まったもん、ヴェニスが。村松の前に(ヴェニスは)決まってたからかも知れん。

坂上:でも、谷新がコミッショナーで。谷さんはどこで決めたんですか。北山善夫をヴェニスに選ぶ、っていうのに。

北山:あの時のコミッショナーは中原佑介やったんですよ。で、中原佑介は下りた。下りて、「戦後世代と言う事が主催者の考えであったので、全部戦後世代でやる」、っていうことで作家もコミッショナーも全部戦後世代。下りたから、谷さんは、中原さんに「お伺い」したわけです。だから中原佑介好みの人選になってしまった。1回目はそれで。2回目を(谷さんは)自分でやった。だから、川俣も中原佑介だし、彦坂もだし。そういうことがあんねん。その時に僕が谷さんに直接聞いたのは、僕が、中原さんが言うには「10年に一遍の男だから」っていうので、一遍にオッケーということになって、というのを谷さんから聞いた。

坂上:「10年に一度の男だ」というキャッチフレーズを中原佑介は持って流布してた。

北山:僕には全く言わなかったですよ。ずっと生涯。あの、おだてたらあかん(笑)って言うてた。褒めた奴は全部落ちるって。褒めへん。けなすことはするけど。

坂上:北山さん的には、有頂天になった。

北山:有頂天になるっていうか、ボン!と(飛び出て)来てこう(一躍スター)でしょう。(でももう既に)32(歳)やないですか。そんなでもないんですよね。それにヴェニスでは受けると思っていなかったけど受けた。この後もそうだけど。売れたけど。もっと売れると思ったわけ、僕。その状況、その流れやったら。だけどその5人の奴(ヴェニス注目作家五人選抜展)出来なかったし。その後、まあ、自分の主題っていうの、絵画で、それも持ってやり出したし。で、85−6年迄はうまく行けたけど、やっぱし自分の感覚として作品の出来として、(竹の作品は)なかなかそれ以上行けないなっていう、大きなやつとかやったけどね。もう一つ、絵画の問題をやっていて。それがやっぱし落ち着きありましたね。受けても「我の問題」があるわけやから。うん。

坂上:竹で、自分の感性でどんどんくっ付けてって。

北山:出来ますよね。作って行けばね。

坂上:肥大して行くことは出来るけど、どっかでそこに。

北山:肥大もあるけど、最初の頃の、あの、考えないで、考えないでというか、ものすごく考えないで、空間とか、緩やかだし、その後ね、作って行ったら、竹が折れたり破れたりとか気になるから、強くしたりするわけね。そしたらがっちりしてくんですよ。
キジ、キジですよ。今キジ鳴いてるの。

青木・坂上:え?

北山:バタバタしてんの、雄。見えますよ。見えないですよ。ずっといてんねん。あの、この村に。

坂上:(窓際に移動)あ、いたいた! 顔が赤い。クジャクみたい。ボディが緑。あの石垣の、石の道の上。

北山・青木:本当だ、本当だ、いるいる。

坂上:キジ鍋?

北山:キジバトも旨いらしい。

坂上:すごいねえ。北山さん、キジ捕って食べたりとかしないんですか。

北山:しない。そんなことしませんよ。鳴いてるの見て楽しんでんの。でも、繁殖さしてるみたい、キジバト。向こう側にな。

坂上:(話戻って)自分の子供のね、素朴な絵の描き方をいいなあと思って、(竹を)置いてみる、みたいなのが出来なくなった? ファーストインプレッションから…(新鮮な気持ち、初々しさを持って竹を置いて行くことが出来なくなった?)

北山:うーん。そうやろねえ。やっぱ思考が入って、作品を壊さなくしよう、とか強くしよう、とかって、違うことが入ってくるのね。ものを残そう、みたいなところがあるでしょう。

坂上:竹と紙ってもろいじゃないですか。

北山:最初、洋紙を貼ってたんですよ。和紙やったらあまりにも日本的やから。でも作品を運搬すると破れることがある。で、和紙貼ったら持つんですよ。丈夫やから。それで、強さっていうことで和紙を優先したわけ。だから概念的にそういう思い込みってのがあるなあと。

坂上:段々そういう大人の思考が入って来ちゃった。

北山:そうねえ。処女作と同じように。作品の処女作っていうのは、それまでの作品のインスピレーションっていうのか、ものすごく、ものの出会い、絵でもそうなんだけど、出来上がったものに対し、自分でまた考えるでしょう。そのことが無いと思うの。言うたら、処女作っていうのはそれまで貯め込んだやつやから、ドーンっとね、火山みたいにバーンと出て行くもんであって。(けれども処女作以後は)それからは自分をなぞらないかんやん、自分を。自分のエピゴーネンに…次になるじゃないですか。(次の作品が)それより良かったらいいんやけど。そこに処女作の秘密があるんやないですか? 初々しさっていうかなあ。ものと自分の世界との出会いみたいなものが、すごい、初々しいと。初めてのもんやと思うねん。

坂上:ドキドキ感みたいなのが、

北山:かも分からんわね。

坂上:だんだん薄れちゃう。

北山:薄れるやろね。

坂上:でも(構図の)バランスとしたら、良くなるよね。

北山:でもその、長期に、長編小説みたいに、短編じゃなくて、ずーっと作って行くっていうのは、その後のどういう具合に自分を認識するか、あるいはそこからどう差異が違うのかっていうことの積み重ねがあって、それがやっぱり自力やと思うわけ。本当はその方がいいんですよ。うん。そこが、と思うね。ある程度は作れると思うけどね。

坂上:自分の竹の作品の作り方の限界みたいなのをそこに感じた。

北山:僕の場合はね、(だんだん絵画の方に比重が)大きくなって行って。(竹の)作品の作り自体も固くなって行ったから。こう、ブラックホールみたいになって行ったし、意味付けっていうのかなあ、そういうことがあって。だからそれをある意味で言うと分かるみたいなところを解放させて行くという作品がやはり「いい」と思うし、それは処女作の作品の中にもみんなの作品の中にもあると思うんですけども。だから、(立体、竹の作品は)見えることに対する、在ることの存在の強さはあるんだけど、まどろっこしくなる。ダイレクトに目と作品とが繋がりたい。見て、ブレイン、頭に広がるものの方を、好むようになんねん。で、他の立体作品を見ても、ものすごい物性が見えるんですよ。

坂上:それはもう三次元の限界です…。

北山:そうやろね。

坂上:作品の作りとか言うんじゃなくって。そりゃ二次元のイリュージョン…。青木さんは彫刻の出身で、私は平面、油と日本画なんですけど、そこでいっつも交わらない時があるんです、考え方が。彫刻の人は「三次元だから楽しい、三次元だからこそいろんなもっと面白い表現が出来る」って言うけど、我々は、三次元っていうのはばかばかしい面がある(どこかで茶番な感じが否めない、の意)。

北山:ええっと…それ考えたのね。キーファー(アンゼルム・キーファー Anselm Kiefer, 1945-)の作品がね、あって、それ、彼は僕、イギリスもアメリカも見たんですよ、ギャラリーでね。ほんで、あそこ、イギリスの何やったかな、アンソニー・ドフェイ・ギャラリー(Anthony d’Offay Gallery, London)、その時に、こう、絵があるんですけど、キャンバスの上に戦艦が乗っかってんねん、鉛で出来た、大きな作品もあったけど、ものすごい「物性」っていうか「生」の「物性」に対して…それ平面なんですよ、巨大ですよ、どっから作品を入れたのかと思う位、そんなんだけど、やっぱり物の存在性に依存してるなあと思ったわけ、彼は、物(ブツ)に対して依存してるなと思った。絵画は物質じゃないと僕は思った。

坂上:そう。三次元の方はそれが逆にあり過ぎて、何か、入り込めないの。

北山:だからね、僕が最初に立体の竹の作品はパネル張りのところから、物を乗せて、ある存在の強さ、ものがある、確か、はあるんですよ。僕はそれを再現しているけれども物によってです。今の絵画シリーズは、物性を抜いてしまうわけですよね(粘土で作ったかたちを平面に描いて再現することは、物性を抜くということ、の意)。空(から)にしてしまうやんか。(絵と違って立体は)虚像じゃないわけ。物(ブツ)があんねん。それはね、「もの派」とか彫刻のブームがあったのね、その時にはね、多分その様な作品って、時代のある意味のイデオロギーっていうのかな、そのことが流通してるからみんなその視線で見ていて、絵画を追いやってるみたいなところがあるけど。それをずーっと続けてしまった時に、ものすごいキーファーの作品で、僕は、その「物性」っていうか、絵画と立体と(差を感じた)。ただジャコメッティはちゃう(違う)わけですよね。そこで、一応解決したことは、僕の方にもかかってくるから、よりまどろっこしい。取り繕うっていうか。そこに依存している自分があって、それは作品の本質じゃなくて、ものに依存しているわけであって。だからキーファーの作品でも、初期のね、ルイジアナで見たけど、畑のね、写真の上にうす塗りでふぁーっと描いたやつがあった。そちらの初期の方が良かったですよ。ものすごいイメージが膨らむわけ。だけど、鉛のやつで立ち止まっちゃうねん。正面に立ち止まっちゃうんですよ。

坂上:所詮「もの」っていう…。

北山:絵画は「もの」ではなく虚空である。彼はそこに依存してるし、これは絵画じゃないと思うわけ。絵画の装置としては全くイリュージョンの世界、イリュージョンを最大に発揮させることが絵画だと思うわけ。そこに結論は至んねん。

坂上:うん、芸術自体がそうなんだし。

北山:そうなんですよ。脳のね、頭の方が大きいんちゃうかと。

青木:うーん。昨日言ってた思考とか哲学とかに繋がって行くとこだよね。

北山:そうやねん。だからライプ(ヴォルフガング・ライプ Wolfgang Laib, 1950-)でも、花粉のね、こう…撒く、床の上に。あれはある意味で絵画的なあれで、ブツでもあるんですけど、科学的に、現象的にあれは「花粉で」っていうことも含めて、そこで立ち止まらないじゃないですか。分かる、っていうことで、感覚、視覚的なものだし、感覚的なものだし、そういうものを総動員さそうとする、ものすごい感覚を総動員させる、宇宙みたいなね、タレル(ジェームズ・タレル James Turrell, 1943-)の上見る、空見るみたいにした、あのすごいもんがあるわけ。考えをやめさそうみたいな位の力がある。

青木:すごくあれ、彼の作品だけど、空間を意識させますよね、ライプは。床に花粉を撒くだけだけど、この空間をすごく意識させるっていう。

北山:だから舟のね、蜜蝋(の作品)とか全然おもろない、僕。

坂上:ちょっと話違うけど、村岡さんが年取って来て、自分で作品作れなくなるじゃないですか、ああいう鉄の彫刻。年取って来てもう鉄作れないんだから、「もう絵を描いたら」、って(こちらは)言うんですよ。絵の方が村岡さんの考え方みたいなのを、今の村岡さんの考え方を映し込めるから。と言っても、「絶対立体じゃないと嫌だ、絶対鉄じゃないと嫌だ」って言う。「でもそれってウソの世界じゃないの」って言うと、「だけど、三次元であるからこそ、針の穴より小さいあり方だけれども、そこで何か自分は、二次元の世界に拮抗出来るようなブレイクスルーの仕方をしたいんだ」ってこの間、言ってて。未だに何かそれが、私の中で解決出来なくって。

北山:榎忠(1944-)ともね、この前しゃべったんですよ、あの展覧会(「榎忠展 美術館を野生化する」兵庫県立美術館、2011年)が終わってからね。で、榎忠、僕の作品見に来て、すごい彼との…去年の展覧会ですけど、ものすごい近いものを持ってるってことは(僕も感じたし)、彼もそう思ってるわけ。で、だけど、そういう、(彼の作品は)鉄を流したりっていうのがあるじゃないですか。で、聞いたら、もう、人が切断されるような、事故が起こって肉が切れ、血が噴き出すような、それぐらいのことの体験が(彼には)あるわけ。そのことが、作り手の経験としてある。ただ僕ら見るだけじゃない? その経験がない、ただ見るだけじゃん。だけど作り手はその体験に基づいたそのものだと思ってるわけ。そこに込められたものが(彼には)あって。

坂上:(けれども込められた意味が)見えない。

北山:それが、そのことから抜けられないの。ほんで、バーってやるんやけど、まあ、面白いんだけど、そのことが無いわけやから、うーん…って思うわけやな。

坂上:本当にそう。鉄のかたまりがボンッと。

北山:流しただけやないかって。で、あの重さと、あの溶鉱炉っていうか、ただのああいう…見え方はいいんだけど、うーん…やっぱし限界を感じるんですよ。僕、それを絵で表したいなと思って。虚像で表したいなと思いますね。そっから、こう、見る人が、もっと増殖っていうか、もっとイメージ豊かにさすことが…

青木:今の話を聞いていて、今の北山さんは立体的なものも作る、写真も使う、インスタレーションも使う、空間っていうか。それと今みたいに、8ヶ月に1枚(しか出来ない)という描写の方へ行くっていう…この距離と。あとはその北山さんの中で二つの仕事に対する自分との関係性が、共通なものを強く感じているのか。それとも全く違った自分っていう風なのを意識するのか。どっちかなあと思って。

北山:あの…今言ったあれで、絵画の方が主にやってて、つまり2000年の時に豊田に入れた(豊田市美術館で展示をしてその後に収蔵した作品)、あの「歴史」っていうか「この世界はどうして出来たのか」、「どうなってるのか」、その歴史を辿る、一応宇宙が出来るところから出発して社会的なものとか歴史的なものとか、一応やれた、と。やれたから、あの妻有の作品(2000年、竹のインスタレーション)は出来ると思ったんですよ。そういう世界観を持った僕は、それは出来て当然だと思った。それは、インスタレーションはもう少し物(ブツ)的なものじゃなくって、全体の関係性があるわけ。その場の歴史もあるし、建物もあるし。この世界もあるし。地域の歴史もあるし。死にかかってるわけだし。そういうことが全部あると。だからブツだけじゃなくて空気感とか、存在感、みんなが知っていることの中に僕が立ち会えるっていう、関われるという、これは絵画のイリュージョンそのことだけではなくって、もっと違う世界があって、そこでは可能性を、面白さを見つけました。だから何回も作品をやれないと思った。こう、壁とか見てても、イリュージョンを見るようにして僕は見て行ったんですよ。自分は勝手に、その、この100年位の間に、どんな周りに生活があったのかなって。想像したわけ。そしたらその想像したことを出したいと思ったのね。自分の或る程度能力がある限り、付け足して回ったり。

坂上:記憶みたいな。

北山:そうそう。記憶の再生を。僕が初めて見たそのことを出現さしたいと思ったわけ。それは僕、最初に、ドローイングして、手前にこうきたり、鉄に見えたり、木に見えたりっていう、その感性やね。その自分の中にある思考体系っていうか、世界観がそこに立ち現れるわけ。瞬間的に。そのことと全く一緒なんですよ。それは僕のイリュージョンなんですよ。

坂上:ものを見せるんじゃなくって、目に見えないものを感じてもらうための装置みたいな。

北山:現に僕はそう思ったという、僕の中にある世界観と、その前にある世界観がぶつかり合って、どう考えたのかということを現出するのが僕の仕事や、と思うわけ。それは絵画で出そうが、もので出そうが、或る程度「ものに委託」しないとあかんわけですよ。

坂上:でも、見るお客さんは、北山さん(の作品を)キーワードみたいな感じで、それを通すことによって(お客さん自身の記憶も繋げて行く)。

北山:もちろんそうです。だから作家なんですよ。総合的に出せるから。総合的にやって、一つで言えない、一つで言えないから複合的に出せる、っていうことは大きいですね、インスタレーションの場合。

坂上:絵もそうだよね。私、よく絵の前で全然関係ないこと考えるのが好き。やっぱり何か絵にはそういうことさせてくれる力があるから好きなんだけど。でもそれ、360度そういうところに身を置くっていうのは、絵も、もちろん絵も360度、ロスコの宗教画の教会じゃないけどああいう遣り方したら出来るかも知れないけど。ああ、そういう意味でインスタレーションにはそういう可能性を感じますね。

北山:そうやねえ。だから絵画でもやっぱし、一応ね、ディスプレイあると思うんです。インスタレーションはあると思うんですよ。隣と隣との関係でね、作品変わりますよ。場所によっても完璧に変わりますよ。美術館の中でも展示方法がいろんな方法でされるっていうのは、関係性で変わると思う。

坂上:微妙な位置で。

北山:そうそう。

青木:もう一つは、(北山さんの)インスタレーションの場合は、ある意味で抽象性でしょう。具体的なものだけど、いわゆる、こう、人体のフォルムとか、形態とか、絵画の中に出て来るようなものはほとんど無いですよね。インスタレーションの竹と紙とか…北山さんの作品の中に。で、紙に描く時って、やっぱり、見る人が、人だとか、具体的なものや形と言われている、それの多くはモノクロームで。そこの時の、いわゆる人体とか、今度の展覧会では顔と生と死の、それがバッと見ると。具体的な人体っていうのがそこにはあるけれども、インスタレーションには無い、と。そこの距離感っていうか、それはどういう風に捉えているんですかね。

北山:インスタレーションの場合は生活っていうか、社会的な現場だと思うんですよ。そこでは見る人自体が人だし、ものがあるけど、人の息づきの現場なんだけど、生と死っていうのもそこに持ち込んで来てるし、新聞の死亡記事とかっていうのは、その直接の社会の現象を書いてるのね。これみたいに人体的には書かないけど、ある程度絵の方が抽象的なんですよ、こっちの方が。一応人体の絡みとかそういう抽象性、そういうものの中で、ある抽出、ある抽象性を言葉と同じように引き出しているんですよ。図説を作っているんですよ、僕の中で。だから、彼方の世界のことも言えるわけですよ。過去のことも言えるわけだし。顔なんかはかなりこう、ガガっと作っているから、ほんまに社会的なものも混ざっているけれども、ちょっと違う絵画的なね、そういうなもんもあるんですよね。でもそれは顔という認識があって、顔はやっぱし僕らの中でも感覚器官が集中してるわけですよね、認識し易い。実際に網膜脳っていうのがあって、子供が初めて親を見た時に、それは「私の世話する直接の親だ」っていうのを、動物でもそうらしいけど、認識する、その器官があるらしいのですね。それはもう備わっているものであるというのは、作ってきてから分かったんですけど。人体ではまだね、抽象的なんですよ。このへん(手足)やと分からへんわけ。でも顔は、もう目描いたら分かるわけ。目は眼差しだから。相手の目を見てしゃべるじゃないですか。だからもう、人は目をすごく大きな生き方っていうか、時間をかけて目を見てると、人間は人間の顔に特別の経験の重さがへばり付いている。

坂上:木目とかでも顔に見えるとかありますよね。

青木:僕なんかそれに引っかかっちゃってて、あらゆるところで人体とか特に顔…。

北山:(そこにあるYの)木なんて見てると人体やと思いますよ。手が出てるし、股があるし。

坂上:えっ? そのY…。

北山:木を見てみなさい。股割れの逆向きで。一旦見たら見えちゃう。

坂上:えー、私それは見えないよ。

北山:逆さま向いてると。あの枝もこう足開いて向こうに行ってる。

坂上:え…考え過ぎだよ。

北山:5つの枝が、手足出てたら人体やと思うよ。

坂上:昔の絵で、象徴的にわざと二股に分かれた。

北山:そうそうそう。これそうですよ。これ、トルソ(実際は薪)。

青木:まさにあそこですよ。

北山:あそこですよ。ものすごく似てんねん。なかなか燃やせへんねん。

3人:爆笑

青木:いつも家で飯食う時、向かいに、李さんがくれた、これくらいの紙に、セザンヌを僕は…ちょっと描いたって意識しちゃうんだけど、木炭紙に木炭でザザザザって描いたドローイングが掛かってるんですよ。その中に、5つ位顔が見えるんですよ。それいつか写真に撮って見せてやろうと思って。

坂上:でも李さんにしてみたら不本意ですよね。ものとして見ないといけないのに、そこに顔が出たら、「もの派」としては失格よね。

青木:でもねえ、その逆にジャコメッティっていうのは、僕のひとつの重要なポイントなんだけど、今、僕の中ではジャコメッティとゴッホがピッとひとつになってるんですね。それはジャコメッティのあのディエゴ、豊田(市美術館)にも1つありますけど。あれはディエゴという弟の胸像、具体的な具象彫刻と、言い方によっては。でも実はそれは具象彫刻じゃなくて(ディエゴのかたちは)単なる要素なんだな、と思ったんですよ。彼にとって一番基になっているのは、「粘土の山の在り様」だというのが、僕には一番うまく収まったんですよ。それは、ディエゴのかたちをちょっと取り込んでいるだけで、ディエゴを作っているんじゃない。ディエゴをちょっと借りてるだけ、という粘土の山の存在。というのが一番収まりがいいんですよ。それはねえ、何でそう(考えるように)なったかというと、僕が持ってるジャコメッティの資料を調べただけでも、ディエゴ、30体くらい作ってるんですよ。普通は何回も何回も同じ人の肖像を作らないですよね。というとディエゴとアネットが2人いれば充分胸像が出来ちゃう。っていうのはディエゴを使って何かをやろうとしたのかと思うんだよね。それからジャコメッティがすごくうまく(自分の中に)収まって行くようになったんだけど。あと1つ。これは20年以上前に僕が買ったフランスから出てるゴッホの画集があって、それを久し振りに、じっくり見たら、ゴッホは売れなかった絵描きだって言われながら、同じ構図の絵が、多い時は6 点位描いてるんですよ。例えば(アルルの)ゴッホのベッドルームね、あれは3点ある。アルルの女達も2、3点ずつ描いてる。あとは麦畑の風景も4点くらい描いているし。サンレミの病院の庭や大きなプラタナスの絵も全く同じ構図で複数描いている。木の枝振りとか歩く人の姿勢とか全く同じ。何で同じものを複数描いたんだろうっていう、これがまあジャコメッティのディエゴと重なったんです。すると何かゴッホが具象的な印象派の風景とか人物とか描いたんじゃない、もっと現代的な、ゴッホの絵画に対する思考が、現代に近いもの、あの時彼は(そういう思考を)持ってたな、と思った。でも何で同じ場所ばっかり。売れもしないのに。春の風景描いて、また秋に描きに行くなら分かるけど、そのリズムが、全然そういうもんじゃなくて描いているんですよねえ。

北山:まあ、サルトルの存在があって、ジャコメッティの矢内原さんのやつですけど、「鼻の先が描けたらいい」と言うてるんですよ。その1点が描けたら前後の奥行きは全部描ける。それはこのことがあるためには、全体が絶対あるわけやから、そのことは、その山の上があれば、その上を描くということは全部を描くと同じ位。言葉上は、言うたわけ。もう点のところまで。「点さえ描けない」っていう言葉がそこに出てくんねん。だからもう全部否定で。肖像描いててもバサっと顔を削る。兵庫のやつ(『ジャコメッティと矢内原伊作アルベルト・ジャコメッティ』神奈川県立近代美術館、川村記念美術館、兵庫県立美術館巡回、2006年)見たら、だんだん顔がちっさくなって行くね。だんだん。骸骨かなと思った。顔の奥行きは死まで描いているんやな、と思った。この前見て思った。それまでは思わなかったんですよ。だから時間差。ある。あと一つ「遠くに行く」。小さな彫刻は、一点が描けたら、と言うものと同じように、ジャコメッティの手と連動する一握りの粘土が実在させるものとして、また、視点と空間と量の集中として小さな像になった。小さな像に絞り込むことで確かな存在になる。

青木:ジャコメッティは、ディエゴの、それは一番彫刻で端的に現れるけれど、やっぱり絵画の中でやってることと同じ。彼は非常にテクニックを持っている人で。僕はいつも思うことがあるんだけど、例えば彼の見せ方っていうのは、例えば、これは、ライターって何って言ったら、普通「これがライターです」と(分かり易く全体を)見せる。ところが「ライターって何?」って言うと、「これや」っていう見せ方(ライターの先端を目に近づける)をするというのがあるんですね。彫刻の中に。つまりディエゴの像で言うと、こういう面の胸を作ったら、顔はこう見せようと。それで幅持たせないで、鼻の先から、耳の真ん前までを非常に薄いんだけど距離を出させる。これはちょっと視覚的にすごく独特のものがあって。それを見事にジャコメッティは分かってて、やってるのね。絵画の奥行きと、彫刻の距離っていうのを。うまく彫刻の中でやってるなって。絵画の中ではそれやってますよね。昨日、僕が「60年代以降は」、って言ったのは、60年代になると、それを丹念にやってないんですよ。ところが50年代は、室内のお母さん描いたり、アネットや赤いシャツのディエゴを描いたものを見ると距離っていうものを常に(しっかり意識している)。ま、そう。少し話がはずれちゃったけど。

北山:最初ね、僕の絵、絵の場合、ヴェニスから帰って来て、ドローイングやるのね。でもね、本当に2000とか3000(枚)位、描いたんですよ。

坂上:それは何で描いたんですか。鉛筆?

北山:鉛筆で。あるいはペンも混ざってたんですよ。スケッチブックでね。それ見て、自分の中にある、どれだけの図像を持っているかというのを、吐き出したわけ。で、その中から、大きな作品になるようなものを探したわけ。それがたまたま粘土で作ったやつの、再現のね、やつやったんだけど。絵画は今まで厖大な数が描かれているけど、その絵画たちは、拒否するんですよ。(その頃は)ニューペインティングがあったけれど絶対マネしないと。でさ、自分の絵を描かなければ。画面いうのは描けば絵画なんですけども、それは全部僕にとっては「拒否」の画面なわけです。何を描いたらいいのか分からないわけ。絵画やめてんだから。で、そこで真ん中にちょこっとしか描けないわけ。背景は拒否の現場なんやから。

青木:最初にポッと。あれはその頃。噴火したやつとか。

坂上:その前に2、3000のものを描いてる。

北山:そうそう。だからドローイングは今でもやってるんですよ。ほんまのドローイング。まだ描いてるし。だけどドローイングと絵画、本画は全然違うのね。違いますよ。そんなたやすいもんじゃない。

坂上:絵を、オーストリアの作家を見て、ドローイングをやらなくちゃ、と何となく思うじゃないですか。その頃、竹の発注ってすごかったんですよね。

北山:そっちがあったからギャラリーは、上田さんも来たし、村松さんも来たし。個展やろうかとは言わなかった。上田さんは「これは画面、紙を売るのか、絵を売るのか、どっちや」言わはって。値段付けられへん。あれ。

坂上:号いくらとはねえ。

北山:そうやあ。背景にうす塗りも何もしてないじゃないですか。うす塗りも嫌やし、オールオーバーのものもやりたくなかったんだけど、宇宙図描いた時は、オールオーバーになったけれど。だから「地と図」っていうのはあって。地を拒否してるから。それは絵画の問題で。だから図だけ描いてるわけやね。図だけ、だから意味するものだけなんや。だけど絵画という伝統的に、歴史的にものすごくある構築されたそのものに対して答えは出えへんけど、一応画面は拒否の現場だった。で、だんだん10年かかって「歴史は死者が作った」っていうのが全面的にもう、6回位発表してるんですよ。いつも完成、完成っていうか、ここまでなんですよ。余白との関係の中で。そのバランスはあるんやけど。やっぱし、うーん、見ているとまだ駄目だな、って。っていうので最後に全面描くねん。やっと絵画の領域まで行ったし、藤田嗣治(1886-1968)のアッツ島虐殺の(絵)(《アッツ島玉砕》1943年、東京国立近代美術館蔵)を見て。「あれは見ないかん」と。あの絵見た時、やっぱし印刷ではもう一つ分からへんかったけど、完璧に虐殺してるわけね、イギリス人を。それはすごく分かったし。でも絵はすごいいいですね、それを抜けて。善悪のけて。彼はのめり込んだと思う。あれはすごい、絵としては。でもあれ描いたら「日本にいられんな」とは思った。あれに対する僕は批判も描いたんですよ。絵で。それを踏まえて描いてます。もう一つは3.11とか9.11とか、オウムとか、ずっと事件を描いてたから、世界で、歴史上の起こっていた事件を描こうと思って描いてきたから。そういう意味で自分のこれからの死っていうのは、最大のそのものだと思ってる。

坂上:藤田のアッツ島をこれだと思ったのは、何か前に誰かが言ってたことだけど、なかなか、自我というものに、物事にとらわれて自分たちは(そこから解放された作品は)作れないけど、正にあれを越えた事件で藤田はあれを描いたと。

北山:思うね。画家の「鬼」が出た。

坂上:そう。で、それを私はどこかで否定して「そういうの嫌だなあ」って言うのと、でもそうなんだろうなっていうので。北山さんがあの絵を見て感じたと。

北山:実物見てそう感じましたね。それまではもう一つ分からへんかった。何故この人は、あの人を追いやるまでに描かれているのか? っていうこともあるしね。でも、やっぱり本物見ないとあかんね。絶対に。もう彼の心の中も分かったわ。で、作家としては、描くのも分からんことはないね。うん。

坂上:赤ちゃんの線みたいにしたいっていう、気持ちとも重なるのかな。

北山:無垢の線みたいのね。それの。それよりも人間の中の悪魔や。人を殺せる悪魔性と、人をいたわる善、天使のようなものも持ってるんですよ。それでなかったら殺せんし、ある勢いの中で出来るわけ。みんな出来てんのや。その時には、道徳観はもうズボーっと落とせる位出来るんですよ。命令されたとか言うけど。でも個人がやるんじゃない、あれ。

青木:個人の人間の中に、僕らはそれが見えないようにつくられているけど、お互いにこうやって3人いても。(お互いに)心の中にあるものが見えたら。

北山:追い詰められた時に、生き残りをかけて、人を殺せるかも分からんね。

青木:お互いに見えてしまったら、多分生きていけないね。ちゃんとそれが分かっているからいいけど。

北山:自分に対してモラルとかそういうもの、今はやっぱし事件とかあって、そのことをやっぱし作家は人間として引き受けんといかん時代やと思うわけ。描くとか描かんとか、そういう表現するってことはそれくらい公になって行くし、一人一人の責任に掛かってくると思うわけ。昔はある意味で徴兵とか、あれで、ごまかせたんですよね。個人じゃなくてさ、お国の強さに対して言えたんだけど。今は人権って問題出てるじゃん。アメリカが「人権」って言うんだったら、何故兵隊にさして戦争さして行くんか、と。人を何故殺すことを命令するんか、ってことは通らへんじゃないですか。人権って言う度に。イラクのあれとか言うてるけど、ものすごい矛盾してますよ。整合性がない。そう思いますよ。ものすごい情報がグローバルになってきてみんな発表されて行く中で量的には薄まるけども、作家はやっぱし藤田のことがそれだけ書かれるってことは、全部が認識しないと。責任を持って表現ということを、広まるか広まらんかは分からんけど、ある良心の問題やと思うんですけど。つまり悪魔もいるんだけど愛もあるんですよ。

青木:両面備えてますよね。

北山:そうそうそう。

青木:それもやっぱり生活してて感じるけど、何か反社会的な、特に欲望に類することね、例えば週刊誌とか新聞記事見ると、わんわん書き立てるわけ。特に男と女のこと。ところが、みんな秘めてる。それを書いた奴も。で、そこの場から振り向いた時にはそいつも同じっていうそこのところがね。

北山:だからそれが受けるんやろうね。スキャンダル。

青木:社会性と反社会性そのことが一番。

北山:他人(ひと)のことはおもろいんですよ。

青木:ところが自分だってもっと劣悪なものを備えながらも、他人(ひと)が持ってるものは面白い。

北山:スーザン・ソンタグ(Susan Sontag, 1933-2004)がね、人の痛みを知れ、って最後の本で出たじゃないですか。(『他者の苦痛へのまなざし』みすず書房、2003年)そういうことがものすごい難しい、言葉上で、ボランティアとか寄付とかってあるけど、やっぱし自分を大事にしながらちょっとすることで心の痛みを減らすとしてる。それでいいと思うの、自分のできる範囲の中で。みんな何か政治的な中で生きてるし。

青木:本当に、人間は、両方備え持ってる生き物。それが他者の問題になった時と自己の問題になった時と全く違う。

北山:自分は善人や、と思ってる人が多いからね。

青木:それが本当に難しいところですよ。

坂上:そういうことって前から思ってましたか。藤田の絵を見たいとか。そういう。

北山:ずっと書かれてたし。それは問題作やもんね。日本の絵画としては。そして社会的なこととしては戦争の問題も描いたけども。

坂上:私、見たのって4、5年前でしたけど。

北山:そうだよ。国立近美で。京都にも来ましたよ。東近美がアメリカから永久貸与で。戦争画は。部分的に公開されてるわけ。部分的に。全部の展覧会はまだでけへんねん。それはやりたいって人ものすごい多いんですよ。

坂上:何回か出てるんですかね。

北山:何回か出てる。リクエスト多いから。僕は藤田嗣治展(「生誕120年 藤田嗣治展 パリを魅了した異邦人」東京国立近代美術館、京都国立近代美術館、広島県立美術館巡回、2006年)で見た。死体の山っていうのかな、かなり大きめでイギリス兵を銃剣でズドーンと刺してる。

坂上:あそこで藤田は射精した(比喩)ってことだよね。嫌だよね。快感。自我を越えてワーっていう、ウォーって。だからすごい。誰が言ったのか忘れたけど、人間ってなかなか自我越えられないじゃないですか、作家もね。藤田の正にあれが自我を越えた作品だ、あれはすごい、そういう言い方が。そこで「自我越えたくないわ」っていう自分もいて、何とも言えないもやもや気分。

北山:そうやんな。あの絵で。そうだよね。だから男はあれやねん(笑)。あと室内のやつとか描いてますけど。だから従軍画家として指定されて描いているけど、そういうものを描かない人もいたわけ。兵庫の、ロートレックに似た、綺麗な絵を描く人、うまい人、あの人、絵を描かなかった、のどかな風景を描いた(注:小磯良平、1903-1998)。嫌やったらしい、それは。(藤田は)彼はフランスに行っていたから、何とか指定されたかったから、手柄立てようと思ったんちゃう? そういうなんはあると思うで。日本人だっていう。それぐらいリアリティがあるんですよ、あれは。

坂上:北山さんの中で、死体みたいなのがモチーフに上がり出したのって、何か切っ掛けがあるんですか。もともと病弱でね、死と近い距離にいたっていうのがあるかも知れないけど、具体的にそれが作品の中で意識して…。

北山:キリストの磔刑図は人に殺された死体の絵だし、釈迦は80何歳で眠るが如く往生したと、それは自然死ですよね。その二つの死があるっていうそういうことが本を読み解く中で、分かってきて。そこからが大きいですね。死を問題にするってのは。もう一つは、神っていうか宗教ってのがありますけど、これだけ科学が発達しても、明日、未来っていうことに対しては、過去はみんな分かる、分かったことでしょ、だけど明日っていう未来は誰も分からないわけ、どういうことかって誰も分からないわけ。とても不安なんですよ。未来は。若者で前途揚々な人はいいんだけど、だけど死ぬかも知れない不安はあるけど、でも僕らはどうしてどんな風にして死ぬのんかなっていう、ものすごくリアリティのある死のイメージを持ちながら、もう近づいているっていうの、あるじゃないですか。そういうことで、生きてる時に死っていう事は離れられない。不安の材料でもあるし、未来なんですよね。開かれてるかどうかは分からんけども。でも、この1月1日思ったけど、もともと「生きる」って言葉と「死ぬ」って言葉は「もともと、一つの言葉やったんちゃうかな」って気がしたんですね。分けた理由、二元論にしたっていうのは、その後の世界で、動物なんかはもう全く一緒だと思いますね。

青木:それは僕もそう思いますね。生と死っていうのは。もう一つ自分が思考しているのと別の次元から見たら、それは一つと違うか、みたいなね。気はします。時々。年取って来るとそうなるんじゃないかな。

北山:せやね。輪廻、生まれ変わるっていう希望ってのも嘘なんじゃないか?死っていうのを納得させる。要するに実際に病、老になって病を得て死んで行くわけやけど、この間バタイユの本を読んだら、死んだらウジ虫が来る、肉が溶けて流れてウジの虫の山となるって一気に書かれてる。そこまで西洋人っていうのは書くんだなあって。死のそれ以後までまざまざと思った時、まあ、かなりおぞましい感じがするけど、そこまでの認識に至らなかった世界の狭さを感じたんやけどね、僕は。そこまで思う、思考はすごいなと思いますね。

青木:やっぱり死のことはいつも思う。年取ればいつも思う。決定的なのは、これは昔から思ってたんだけど、死、と一言で言うんだけど、決定的に違うのは、我々、個々が、こう、視覚的に見る死っていうのは他者なんですよ。ところが他者の死と自己の死っていうのは決定的に違って、自己の死だけは自分で認識出来ないし、見ることもできない。この距離感。いつも父親が亡くなった、母親が亡くなったって、それは見てるんだけど、でも自分の死というのは。そこが非常に…。

北山:非常に分からんこと。でね、僕は、自分の、死にかけてることが多いから。ずっと自分の死ばっかり考えてたわけ。この頃、周りの人が死ぬから、やっと他者の死を想うようになった。自分の死ばっかし想ってんねん。で、あ、これは広がり出たなあって思ったのよ。死に対する広がりが出たなあと。他者がほんまに死んでるっていうことを認識しなかった、考えようもなく、そういう意味ではザーっと本読んで、そうなんだけど、この身近な死っていうのは本当に、身近なほんまに他者や。それこそほんまに他者なんや。抽象的な死やない。

青木:具体的には他者の死しかないんですよ。自分の死だけは思考でしかなくて、あ、これが死か、って言う風に自分の死を捉えることは出来ない。

北山:いや、前の日に「死ぬかも知れない」って寝たことがあるから。その時は、死んでも、苦しいことの解放だなあと思った。楽だなと。

坂上:死ぬ時ってみんな楽になって死んで行くんですよね。

北山:多分ね。

青木:そうらしいね。

坂上:だから、何か、お告げが来る様な気がして。

北山:多分。そう思うんですよ。だけど、この世界がね、無くなっちゃうかと思うと、その断絶感、喪失感は余りに大きいんですよ、自分の中で。自分の死を考える時。だけど他者の場合は、自分はこの世界にまだ生きてるけど、彼はこの世界にはいないんだなあと。でも彼から見たら「死後の世界を生きてるな」と思った。「死後の世界」を生きてる。それ、まだ解決してない。まだそこのイメージは無いから、なんですけど。うん。ま、その連続で死ぬんだと思うんですよ。で、これはやっぱしね、ものすごい大っきい問題で、これは大事件なんや。もう毎日思う位の、死、想いますよ。僕にとってはいつもあるのね。

青木:そしてやっぱりさっきの、生き物の話とか木の話とかに共通するんだけど、やっぱり死というのは恐怖を持たせますよね。これも、死が楽で、ま、楽かも知れない、でも人間に死っていう恐怖感を持たせるというのも、何かの働きでそうさせてると思う。

北山:そうやと思う。頑張って生きろということやと思う。

青木:そうじゃないと、すぐもう、ちょっと苦しかったら「はい、死ぬ」って感じで。命を繋いで行くっていう為にはね、恐怖感を与えないといけないという風にセットされてるような気がします。

北山:絶対そう。生の打力っていうのかなあ。パワーっていうのは強いんですよ。最後まで、ためらい傷とかあるじゃないですか。

青木:だからね、その、そこの辺のね、あまりにも見事過ぎてね、作られ方が。死を怖がるようにちゃんと作られてる、生きろということ。

坂上:この辺の動物とかも死を恐れて生きてるんですか。カメ(虫)とか。

北山:絶えず、敵、警戒してやってるからあると思うし、動物は、じゃれ合う時は噛み方が軽いけど、攻撃する時は、ほんまにでしょ。殺す位まで。殺すところまでで相手が逃げたら離すよね。

青木:そうそう。殺してしまうことは滅多に無いけど。

北山:殺してしまう時もあるけど。それは加減や。だからまあ、ルーベンスが描いた昔の戦争は遊びや、って。ここらでやめとこか、とか、ここらで休憩しようとか。今は無くなって来てる。

坂上:私たち、戦争したら最後だもん。

北山:でも戦争起こってますやん。

青木:戦争と、インベッド(注:2004年、青木が企画した展覧会『イン・ベッド』豊田市美術館)というのを考えたんだけど、もし戦うということが人類に無くなったら、あるいは、レイプが無くなったら、人類、生存出来るかなというのが一面にあるんですよ。何処見ても戦いが無い。となった時に…。

坂上:それは無いですよ。闘争の倫理ってのがある。

北山:うん。それはね、それは、もう僕はもっと人間は愚かやと思ってるの。「自然の美」と言った時に、自然は完全なるもの、っていうそれは、ギリシャ以来理想としてるんですよね。で、人間の場合は自然じゃないわけ。原罪と同じように、僕らは、考えるっていう知恵の実を持ってしまったけど、パーフェクトな知恵の実じゃないんですよ。ちょろっとなわけ。もうその思考自体はめちゃくちゃなわけ。で、あらゆるものが考えるわけやから、これはもう多くてしょうがないわけよ、摩擦が。

青木:その摩擦を、せめぎあうような、戦うことも、ひょっとして。それは生きるものの何か。

坂上:勝ちたいと思うもん。走ったって隣の人より早く走りたい。

青木:それは僕が、その時思ったのは、21世紀、っていうのは、そこにどんな知恵を、本当に戦争して殺し合うわけじゃないけど、それに近い何かを、獲得する知恵を人間は生み出せるのかなあ、と。それで僕は一番最初にイメージするのは、サッカーなんですよね。あれ戦争の代行。戦いの代行ですよ。これは一つの知恵だと。戦争しちゃうことはこれはいけない。だけど、でも何かせめぎあって行く一つの力を持ち続けるためには何かにそれを置き換えないといけない。

北山:遊びがあるわけ。スポーツには。だから人間の中で、限界がある、ルールを持ってるわけ。ルールの元に戦うわけ。相手を殺さないように。そういうセーフティが働いてるわけ、ずっと。だから遊びっていうのは本気で、藤田みたいに本気で描いたらあんなことになっちゃうわけよ。だからあれは殺してるのよ、本当に。彼はあの絵で殺したんだ。イギリス人を殺したんですよ。絵で描いてるんだけど、殺してんねん。

青木:ギリシャの頃からもう、本気で殺し合うのを人々が見てた。

北山:そうですよね。死んでたんですよ、あれ。(それが自分にとって)深いものを持ってるし、絵の主題にもなってるし。もう一つその問題で言えば、僕は社会的な問題を主題にすると言ってる時に、田中幸人が「何を言うてんのや」と。「何を言うてんのや、今はそんなのはいらん」って言わはったんです。

坂上:えー、それって何年くらい、80年代。

北山:絵を見て、西洋的だって言われたんよ。田中幸人さんに立体の作品はものすごく評価してくれてたからね。もう、無限の可能性がある、って書いてくれてるわけ。で、練馬でやった時やから、90年位かな。(『浮遊する彫刻』練馬区美術館、1990年)その話出てる。その時代はね、そういう時代だったんですよ。「主題の喪失」って。美術だけが美を追求してたらいいし、純粋主義で。もう社会との繋がりは考えなくてもよい、っていうようなのがその時代の考え方やった。そう思いません? ずっと後、中原さんの世代の「木との対話」(「art today ’79 木との対話」西武美術館、1979年)の後世代の主題になる作品が作られて行くじゃないですか。「もの派」の影響もありながらね。だしもう、ものすごい美術的なんですよ。とても局部に入って行ってるのよ。そのことが、僕の発見は、もう少し、引いた、と思うのね、違う要素を持って来たから。個の問題を持って来て解決出来ない問題は、美の追求の時に社会の問題という時に、美とは「ずれる」んですよ。そういう意味で社会のことをやったら、美とは違うかも分からん。だから美は先端的になってるわけ。科学みたいなね。新しいことはいいっていう、まだ近代が続いてると思うの。前衛があるし、新しいものがあるし、それを求めてたんですよ、次の展開とかいうのを。それをある程度行ってしまった、っていうの僕は早いこと気付いたと思ってる。もっと多様な中で、「美術は、社会の中であるべきだ」と思うんだけど、っていうのは「落ちた」と思うんですよ。美術は美術のことを主体にしたんですよ。だから人間を主体に、生と死っていうのはそこで、美術あるいは絵画、彫刻そういうものが成り立つことであると。そこから遊離したと思いますよ。

坂上:私が大学生になったのが1990年なんだけど、その時はパラダイムロストっていうか、歴史を引きずってない世代が80年代なんですよ。イエスアート(関西若手作家による自主企画展。80年代関西ニューウェーブの発表の場となった。会場は大阪にあるギャラリー白)があって。さらにその下(の世代)だから、歴史自体学ばないから知らないし、その必要も無いという正にゼロ世代になっちゃったわけだけど。拠り所も無いみたいなね。

北山:だけど、もっともっと大きなスパンで見るべきやと思うのね。どんどん専門的になって行って、他の科学もね、専門的になって行ったんですよ。それで、大気に放出しながら、地球のどっかで解決してくれるだろうって。溜まり溜まって人口も、増えて行くしみたいな。そこまでは先に行けばなんとかなるんちゃうかっていう。でもある程度行ってしまって、予測力も出てきたわけやから、そうは行かん、と。

坂上:でもさあ、自分たちは歴史は学ばなかったけど、どっかで、その寂しさみたいなのは、すごくあった世代だと思うんだけど。私世代が田中幸人さんみたいなことを言うんだったら分かるんですよ。まだ分からないことはないんだけど。

北山:正にそれは考えなかったんですよ。

坂上:でも年寄りの人がそれを考えなかったっていうのが不思議。

北山:言説が流通するというのがあって、流通している問題って皆、気を付けないかんのですよ。言説をみんな流用して行くじゃないですか、書く人たちは。そうじゃなくて、言説は何故出来るのかというところまで行かなあかんと思うのね。うん。もっと大きなスパンで見るべきやと思うねん。もう近眼になってて、直近の問題しか問題にしてない。抽象主義は近代主義と言ってもいい…マレービッチ(Kasimir Severinovich Malevich, 1878-1935)が1914年黒い方形を出しますよね。で、モンドリアン(Piet Mondrian, 1872-1944)が14年にオーシャン描きますよね。そっから抽象主義が始まって。で、マレービッチ1917年に非対称の理論、本書きますよね。理論ってものすごい大きいんですよ。作品だけじゃなくって。それで、再現するってことを、完璧に追いやるんですよ、過去にするわけ。それが、アメリカの抽象表現主義にも繋がって行くわけやね。ニューヨーク近美に行った時、マレービッチの建築はあるけど、彼の絵は無いもんね。ポロック(Jackson Pollock, 1912-1956)を置いててさ。それトップにしていて。それ政治的やと思うねん。ポロックが神様なんですよ、向こうの。だけど見たら、やっぱし一つの流れの中で「抽象ということが一つの近代を現す(表す?)」という中で、その主題っていうのが具象的なものとちょっとリンクしているわけやから、抽象性、抽象主義が、近代主義。写真が、具象として出してくるんだよね。そこから今日の流れが外れて行くっていうか、今日の流れの中に入って行くと思うのね。だけど日本の場合本当に近代はあるのかと。これは西洋の受け売りちゃうかと。そしたら明治に切られた以前の美術と繋がる日本の美術がある。その美術と繋がなあかんと。だけど現代の目線で繋がなあかん。喪失そのことをどう意識するか、言うのはマレービッチの抽象主義の中で、その後あれ以上のものは出えへん。出ないですよ。出てないじゃないですか。っていうことはあの傘に入ってるわけ。デュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968)の便器、あれの概念のちょうど二つの傘の中で、近代っていうのは語れると思うわ。だからジャコメッティが過去の伝統的なものにシュルレアリスムの作品から戻ろうとしたのは、そこにこそ大きな世界があるんじゃないか、シュルレアリスムを捨ててもいい位のもんがあるんちゃうか、と僕は思った。僕はその決意に立ったんですよ。一つはマレービッチのあの14年のところで近代というものを過去と未来に分けて、堰作ったと思う。過去と未来の流れを止めたと思うねん。で、今あれをもう潰してしまって、歴史の流れがね、過去の作品までどどっと流れ出て、同じ一つの世界の中で僕らは生きてるっていうことにしたら、もっと自由になれんちゃうかと。ものすごい多様性って難しいんですよ。でもその近代って問題は僕はそう思ってる。だから(僕は)写実で行こうとしたんですよ。具象じゃなくて、写実をしようと。

青木:僕はマレービッチの方で余りそういうことは考えて来なかったけど、やっぱりデュシャンでそういう風に思えてましたね。デュシャンの開いた土俵でまだやってるんじゃないかっていう想いがずっとあったね。自分の中に。

北山:デュシャンの言説、東野さんが主であると思うんですけれど、日本の中では沢山言説ありますね。マレービッチの方が少ない。何かアイデアみたいな感じがする。デュシャンも。だけどアイデアだけじゃなくて、絵画っていうのはもっともっと歴史的に長い。ジャコメッティが粘土やりながら、身体っていうか、僕は「ここ(手)に脳がある」って言ったけど、もっと人間の、全体を、頭でっかちになってく、あれなんだけどね、方向性としてはね、もっと想いがあって、もっと身体があって死がある、そういう死っていうのは肉体の死だけではなく、もっと全体の問題じゃないかなって。なかなかすっぱり切れない問題であって。うん。ものすごい矛盾があるんだけどそういう意味では矛盾を無くしてたんですよ、過去は。東西問題っていうのものね、もう無くなって、戦争起こらへんわ!って言ったんだけど、そう言ったって起こってるわけですよ。そういうもんじゃなくって、大きな枠を取り払ったら今度は細かいことがいっぱい出て来て、」ウワーっと立ち現れてくることまで言わなかったですよ、あの当時。というのが。それと絡んで明治の頃、明治の西洋化と、戦後、どんなテレビ見たいか、って質問あったね。(注:インタヴュー事前に渡した質問表にあった質問が「どんなテレビを見ていたか」)「うちのパパは世界一」とかさ(見てた)。

坂上:北山さんの頃って、アメリカの…。

北山:アメリカの映画ばっかし。結局、洗脳みたいな。

坂上:だけどさあ、それが50年代後半とかになってくると、ロシアになってさあ、ロシア映画とかポーランドの何とかとか上映されるようになるでしょ。私、正にああいうのって政治的だなあって思う。同時期にアメリカンセンター出来た時は、アメリカの実験映画とかやってたし、美術の世界の中でも(東西が)喧嘩してたなあって思うけど。北山さんの時はアメリカなんだ。

北山:アメリカ。週給制で7万とか8万とかもらってる時なんで、月給やったら20何万やなあとか言って、ものすごい落差を見せ付けられて、ものすごいアメリカに憧れたわけ。で、玄関ピンポン開けたら階段がゴーンっとあるの、ね。もう間取りとかそんなね、ジャズが流行ったんじゃん。

青木:あと西部劇ってやってたし、それと、もう一つは「うちのママは世界一」ってのがあったし。

北山:パパは世界一

青木:ママは世界一や。(しばらく2人で言い合う。実際は「ママ」)

北山:それから「奥様は魔女」。

青木:まだモノクロで、「うちのママは世界一」はモノクロで、我々の小学校の頃には全く(自分の家には)無いような冷蔵庫とかそういうものをバンバン見せられるわけ。(豊かな)生活を。もう一つはね、何て言うタイトルか忘れたけど(「サンセット77」、1960-63年にKRテレビ・現TBSで放映された)、アメリカのキャデラックとかそういう大きい自動車をしょっちゅう見せられる。

北山:小型は無かったですよ。

坂上:お前たちも頑張ればこんないい生活が出来るんだぞって?

北山:憧れさせるため。

青木:あれはアメリカに方向を向ける洗脳政策だった。

北山:駐留軍のね、マッカーサーの。

坂上:するとみんなアメリカ人になりたいとかアメリカ大好きって。なったんですか。

北山:アメリカ嫌いじゃなかったですよ、あんだけ見てて。でもイデオロギー的にアメリカのあれがあって。

青木:僕が小学校の頃に、バスで岐阜(市内)に行くと、進駐軍がいたんですよ。

北山:いましたよ、僕んところにも。近所にアメリカ兵と結婚した人がいましたから。

坂上:パンパンじゃなくて?

北山:違うと思う。

坂上:普通の人で?

北山:普通の人で、恋愛して。

青木:あとギブミーチョコレートの時代で。チョコもらって。

北山:くれはったよ。駐留軍。

坂上:京都なんかいい家が全部接収されてめっちゃくちゃにされたっていうじゃないですか。床の間にペンキ塗られて。本当にごちゃごちゃにしたみたいで。だから結構アメリカ嫌いとか。

北山:そこのところだけじゃないですか。そう思う。部分だけですよ。被害受けた人だけですよ。そりゃあ、楽しむことは楽しんだと思う。日本も提供したと思うし。

青木:それともう一つはねえ、そういう意味で日本人が、彼は日本人じゃなくて、朝鮮から来て。力道山って。あの頃は、プロレスリングがものすごく大事にされた。

北山:そう。息抜きや。

青木:戦争に負けて、日本人はちょっと元気が無いところに、力道山に…。

北山:テレビが出来た時や。

坂上:街頭とかで見たんですか。

北山:町内のお金持ちが(テレビを)買わはって、そこの見せてもらいに行ってた。

青木:そうそう。いつも。

北山:パパは、もうちょっと後ですね。

青木:でね、レスリング見ると、(力道山が)空手チョップで外国人をバンバンやっつける。

北山:最初は負けんのよ。力道山は最初は負けんねん。

坂上:力道山はミスター日本みたいな感じで。

北山・青木:そうそうそう。

北山:タイツはいてね。それでルー・テーズとかね。

坂上:あ、鉄人ルー・テーズ。

北山:そうそう。

青木:それと空手チョップで戦うという。

北山:あと豊登がいましたよ。

青木:だから、力道山とかは元相撲取りなの。それが関脇位まで行って(プロレスラーに転向するの)。

坂上:それが最初負けてたのにどんどん勝ち出すの?

北山:日本のあれと同じで。最初は「ああ、あかんわー」っていうのがあって、だからスッとするの。解放させてくれるわけ。最初ハラハラするわけ。最初勝ったらアウトやん。芝居やん。臨場感を。シナリオがそうやねん。毎回そうやねん。

青木:みんな元気もらってた。

北山:毎週。見られた。

青木:テレビのある家に行って、毎週西部劇と力道山と。

坂上:最後、力道山って刺されて殺されませんでしたっけ。

北山:やくざに。菌がね、腸に入って。腸に菌が入ったんですよ。普通だったら死なへんわけね。死なへんねん。その当時の医学が、洗浄とかね。何日間か残ったんですよ。最初はすぐに死なへんかったんですよね。

青木:あの頃は、戦後の10年位だよね。戦争終わって。僕ら小学校の低学年の頃。その頃はね、ほんとにアメリカが豊かなんだって。台所とか冷蔵庫とかそういうものが。

坂上:日本はまだたらいで洗って。

青木:そうそう。日本はまだたらいで。こうやってやってる頃に僕らの目を方向付けた。国策だと。西部劇を誰でも見るようになるし、それからアメリカ文化をどんどんこう取り込ませたっていうのかな。戦略だよね。アメリカと日本の政府がそうやったんだよな。ヨーロッパのものは出なかった。アメリカだけだった。しかも貧しい。

北山:ジョン・ダウアーの『敗北を抱きしめて』(1999年)ってやつを読むとかなり正直に書いてあって。日本人はすぐアメリカと融和していったのね。どうなるかって言われてたんだけど。だから復興自体、すごく協力的に信じられない位の動きをしたんですよね。

坂上:そりゃそうですよね。私が生まれた時って、まだ敗戦から25年位しか経ってないのに、もう当たり前だけど焼け跡も無いし。だけどまだ傷痍軍人がいてっていうのはあった。

北山:ああ、ありましたね。あなたの時もそうでしたか。

坂上:上野の山はね。いっぱいいたんです。

青木:松葉杖とか。

北山:そうかあ。京都でもねえ、そうでしたよ。河原町とか。

坂上:それとか映画館の地下のね、穴蔵みたいなところ夜通ると目玉がぎょろぎょろって。だからまだ戦争から抜け切れてない貧乏人が。

北山:昭和何年

坂上:46年(生まれ)。

北山:46年でそんな。

坂上:まだそういうのいたもん。うん。戦争の傷跡は無いけど、まだ戦争の人たちはいたから、私たち世代はアメリカ嫌いなんですよ。(そういう人が多い)

北山:一応嫌いと言いながら、潜在的にはものすごく洗脳されてきてるから。前はねえ、東と西で、共産主義とがはっきり分けられてたから、どっちに付くかって。社会党も大きかったしねえ。労働問題が大きかったしさあ。それが無くされて。潰されて。今ものすごいあれじゃない、派遣社員とか。あれは体制的にはものすごい変わったね。ものすごい戻ってる。社会的な意味では。

坂上:戻ってるっていうのはどういう?

北山:体制的には。貧しい人間がものすごい出てるじゃん。それがもう文句言えないような時代やん。誰かが人をまとめて集団になるってことがないわけやから、組織されないわけやから。個人主義になって来てるでしょ。分断されてるよね。

青木:僕はすごく不穏なものを感じますね。

北山:だからテロが起こるんです。内気になってる。籠るようになってる。

青木:内気。小さめ。

坂上:点で描いたり(笑)。

北山:壮大なことを考えながらね。僕。

青木:日本の「個」が弱くなってる。しっかり自分の発言をしなくなってる。それがヨーロッパなんか見てるとやっぱり個が発言する、はっきりする。

北山:そういう伝統があったから。今、それよりも、ほら、スマートフォンとか何とかで、ものすごい個人が発言することが多くなったやん。それの、僕、あまり関わってないけど、そういうものがどうして、誰かが集約して、学者が、その意見を、ある一つの本とか発表するとか。個になってしまって、すごく拡散してしまってると思うの。

坂上:だけどさ、個々に発言はするけどさ。「バカ」とか。それに対するバッシングはさあ、集団で来るの。すっごい気持ち悪い。あれって。ブログ炎上とかある。やばい発言すると、それは個人の発言なんだからいいじゃないですか。だけどそれに対するバカやろう、なんなんだっていう発言は個を越えて来るみたいな。

北山:そういう無責任がなんぼでも出せる。もう一つさ、アメリカの議員さんがみんなが賛成するから、「私は反対の意見を投ずる」っていうのは、あった。満場一致はあかんと。理由はそうなんですよ。みんながやるいうことは、どっか問題があると。かけらでも問題がある、100パーセントじゃない、そのために反対票入れるっていうのは西洋にもあるみたいですよ。全部が戦争に向かって行くんじゃない、誰かが反対をする。その意見を尊重する土壌を作るっていうね。だから、谷川俊太郎の耳をすませてって、子供向けみたいな大きな字の詩集があるんですけど「一つのことを言うと、一つのことが抑えられていく」っていうのがあってね。その文章すごい気に入ってるんだけど。つまり一つのことを言う時に、もう一つの、あらゆるいろんなことがそのためにかき消されるっていうの。(『みみをすます』1982年)

坂上:でもそもそも言葉ってそうだよね。言葉にしたこと自体がもう、暴力じゃないですか。もっともやもやもやもやしてたら、さっきみたいにいろんな記憶が含まれているっていうのを、そのまま言葉にしないで提示したら、もっとこっちは自由に受取れるけど。それが、はい、生きること死ぬること、って言われたら、もうその、別にそっから膨らむこともあるけど、一つの制約を言葉って作る。

青木:それは方向付けをすることはあるよね。こちらの受けとめる側を。

坂上:言葉がより理解を、分かり易くするから、私たちは言葉を使ってるわけだけど。仕方ない。

北山:それは持った宿命やねん。ヴィトゲンシュタインはね、その生きること死ぬることなんやけど、その想いっていうのは、だけど、その発言者の想いとしては、そのことなんだけど、そのことではないことを想ってる。受け止める人間も、そのことではないんだけど、その人の、世界像の中でそれを受け取るわけで、そのもの自体は絶対に伝わらん、と言うとるんです。

青木:そこが言葉の面白いとこだよね。会話してても、同じ言葉、一つは言葉って記号だから、やってるけど、お互いがどういう思いを込めて使ってるかまでは分からないですよね。

北山:分からん。だから会話の中で、こう、そのことを確かめながら、もうちょっとこういうこともあるよって言うわけね。それは反対意見やなくて、会話の中で広がりがあるわけやから、このこと以外しゃべれんっていうのやなくて、このことに付随しながら、あるいは、もっと違うことも話せるいうことがあるんですよ。

青木:一つ一つの言葉がどう個々の中に収まってるかっていうのは、やっぱり生まれてからの、経験の中で(培われる)、言葉というのは。

北山:自分の世界像の中でさらされているんです。

青木:それを、それぞれが全部違うのに、言葉っていう記号をルールの中で遣り合ってるのね。対話って。

北山:それだから楽しいわけ。だから相手を信頼するってこともね。嫌な奴やったらケンがあるっていうのがあるでしょう。

坂上:そしたら美術っていうのは言葉じゃない。チープな言い方をすると、言い表せないものを表しているんだ、って言うじゃない。

北山:視覚言語やから。だから、そういう意味で「視覚とそのもの」を見るわけやから。ものに、まあ「生きること、死ぬること」っていうテーマはあるんやけど、そこに付随したものを…作品に対してある委託をするわけですよ。それは個の委託であって、そこから「もの」やねんから、そことやっぱり僕とそれとは全てじゃない。完璧には繋がってないし。そういうもんもある時はあるやろし、あるかも分からん。そういうものを客観的に見るわけやから、僕が死んでしまっても、そのものは生きるわけ。で、時代的なそれは、作られたベースが離されて行くわけだから、何のこっちゃって、リアリティが無くなることもあるし、また再生することもある。その時代が来た時。だから言葉の場合、また翻訳があって、変えられて行くじゃない、小説とかそういうの。

青木:例えば制作した作家がいて、作品があって。で、例えば僕がそこで見てて、そこで感じて、…って言って。すると作家は、「感じてくれたかな」って思うかも知れないけど、その作家が自分の中にイメージしているものとこっちは同じかどうかって証明出来ない。

坂上:(展評とか感想等を)書くとさあ、「僕が言ってることと違うんだよ」とか言ってさ。こっちは別に評論家じゃないけど、自分の考えでその人の作品見て書いてるのに、その作家が「僕の意図してることじゃないじゃないか」とか言って。結局、私が嫌な奴みたいな。

青木:そんなこと言ってる奴がおかしい。

北山:許容量がない。

坂上:小さい男なんだよね。

北山:そういう奴もいる。そういう奴もいるよ。いろんなこと書かれるじゃない。しゃあないやん。

坂上:だけど「テーマを持つことは駄目だ」っていうことだけは違うよね。田中幸人さん。

北山:ああ、主題。時代的に主題を持つことは無かった。だから僕その社会的な問題を受け入れられるベースを考えださなあかんと思った。

坂上:だけどさ、ちょうどその頃湾岸戦争とかあったじゃないですか。90年ですよ。で、91年の1月15日か何かでしょう(戦闘が始まったのは)。

北山:主題の喪失を言ったのは、80何年か(1980年代)ですよ。あとソビエトが瓦解したのが88年かな。87年位でしょ。

青木:ベルリンの壁は88…?(註:89年)

北山:僕はね、前後ベルリンに行きました。89年かな? ハンガリーの方から出して行くんですよ。人がね。そこだけが開かれて出て行くんだけど。その後全部無くなってしまうんやけどね。(注:最初はハンガリー経由で西に行くことが出来ていたの意)。「開放と改革」ってのをゴルバチョフが出すのね。87年かな(註:86年)。僕、その直後ブランデングルグ門のとこでその言葉が浮んで来て、「この壁ってもう無いな」って思った。既に。まだあったんだよ(壁自体は)。それ人に言ったら「(予見が)ものすごい早いな」って言われた。その言葉をここにぶつけた時に、「開放と改革」っていうのを最高指導者が言ってるんだから、もう(壁は)無いんだって思ったわけ。無くなる、と。

坂上:話飛ぶけど、ヴェニスの時、82年って海外は何回目。

北山:海外旅行2回目。1回目はハワイ(笑)。仕事場から行かせてくれたんですよ。僕一人で。遊びで。染織やってる時。後、英語勉強しなあかんと思ったわけ。全然しゃべれなかったね。全然出来てないしとにかくしゃべれないね。めちゃくちゃや。

坂上:82年にヴェニスに行った時、もうオファーがすごかったって言うじゃないですか。当時どれ位注文があったんですか。

北山:会場で沢山の人が僕に直接あれはいくらだっていうのはあった。

坂上:展覧会の要請はものすごい来て。

北山:10個位ね、年間。

坂上:断ってくの?

北山:受けたけど、断ったやつもある。峯村さん(峯村敏明、1936-)のやつ断って。それから、あれやね。全然来ない。

坂上:海外は。

北山:カーネギー(カーネギー・インターナショナル、Carnegie International, Carnegie Museum of Art、1982年)は向こうのやつやね。カーネギーの時も個展しろ、っていうのがあったけど、(ギャラリー16の)井上さんが「ギャラリーがもっと良くないとあかん」って断った。

青木:峯村さんのは?

北山:平行展。あれは82年や。ノヴェンバーステップスって、横尾忠則とかが。(82年「第18回今日の作家展ノヴェンバー・ステップス」こちらは出品している)

青木:何処でですか。

北山:「平行芸術展」は小原流(会館)。「ノヴェンバー・ステップス」は横浜市民ギャラリー。

坂上:日本の展覧会のオファーばっかり。

北山:そやね。海外からはその後ね、デンマークのオーデンセっていう市立美術館からオファーがあって、3年後かな4年後かな、やりました、個展。(フランツクレデファブリック美術館、1989年/”Japansk Skulptur: Yoshio Kitayama”, Kunsthallen Brandts Klædefabrik, Odense)あとドイツのベルリンと東京のギャラリーの交換展のやつも、向こうのやつが北山を知っていて擁されて、ベルリンで個展をした。朝日新聞が主催だった。

坂上:個展やれば全部飛ぶように売れた。

北山:そんなことはないね。そんなに飛ぶようには。でも徐々に売れて、ギャラリーが買ってくれたの。展覧会したら。だから半分近く売れてるかな。多分その82年の1月に(染織の仕事を)辞めてから、それだけでやれたから。まだ若林さんが辞めたらへん時でしょ。早よ、売れたんちゃうかな、ひょっとして。

坂上:(一時期)アシスタントが20人位いたって。

北山:大きなやつやる時に入れるだけ。もう夜昼となく、子供まで紙張り作業。

坂上:売れる時に、作品が手放されるわけじゃないですか。

北山:全部売らないかんと思いました。

坂上:そういう時は未来永劫残すつもりで作品って作ってたんですか。

北山:そんなの思わないですよ。

坂上:朽ちてっていいんだって。

北山:言われたことある、ジネット・コップロスさんが、日本の作家論を出す時に、家で。「ちょっと早く朽ちるだけです」って言った。紙は障子の張替みたいに直したらいいわけじゃないですか。日本の伝統であるんですから。「メンテナンスは楽にしてます」っていうのは言った。

坂上:メンテナンスの指示書なんかも一緒に納入するんですか。

北山:しません。それは客観的に出来るやん。普通の人でも障子は張替出来るんだし。修復師に出せば出来るわけやから、僕の死後でも出来ると思ってますよ。

坂上:じゃ、一応そういうことは意識して?

北山:意識しました。

坂上:最初から?

北山:三木さん(三木哲夫、1947-)って、(当時は)和歌山(県立近代美術館)。今、国立(国立新美術館/註:インタヴュー当時の所属)。(ギャラリー)上田に見に来て、あと練馬でやった時(「浮遊する彫刻」1990年)に、「危ない」って言ったんですよ。「買えん」って。「買えんなら買っていらんわ」って言って。あ、「どうするんや」って言ったんやな。「買ってくれんなら、メンテナンスの方法言いますけど」って言ったんだ。けんか腰やったけど。それでも後から買ってくれた。

坂上:竹って丈夫なんですか。ずっと残るもんなんですか。

北山:竹は、伝統的な方法で、油抜きって言う…してる。で、秋に取ったもんやったら大丈夫です。虫が入っていたら、その年に、やられるから。中に虫がいても、こっからフワーっと出て来て。あかんようになりますよ。油抜きをやればかなり持つんですね、竹はね。充分残ることは考えてますね。責任持って。だから紙もその後、美濃紙の人間国宝から直接買うのね。最高水準なんですよ。(注:北山は既に一生使う分の鳥ノ子紙を購入済)

坂上:美術館がどんどん80年代に出来るからそういうオファーがあって、どんどん(美術館に作品が)入って行くんですか。それとも画廊経由で。

北山:画廊、個展を年1回か2回やるから。ギャラリーは小っさい作品で、大きな作品は、うーんと、美術館も買って頂いたり。あとギャラリー、コレクター。結構ギャラリーが買ってたかな。

坂上:日本のギャラリーってそこまで責任持たないわけじゃないですか。作家の生活まで。

北山:あ、ちょっとヴェニス終わって、あるギャラリーが来たんですよ。東京から車飛ばして、奥さんが、「契約して」と。で、村松と僕のコレクターに話をしたら「あそこは危ない」と。「ちょっとおかしいとこがあるから、やめなさい」というのがあって。一応やるつもりで写真とか渡して。で、「契約書も書く」って言うから。契約書まで。それはね、「弁護士さん雇ってやらないと怖いから」って、それは辞めました。

坂上:それは「月々いくらって払うよ」っていう。

北山:そうそう。でもギャラリー上田もね、「そういう風にしようか」、って言わはったんですよね。でも、もう、村松とか16さんもあったから、やっぱしその関係は辞めて。フリーにして。やっぱし買ってくれるんですよ。やったらね、責任上。貸し(の展覧会)じゃないから。笠原さんだってそれで。年間100万とか。あの時は300万くらいかな。税務署が来てわかったんだけどね、これは。何百万かで、合せて1000万近くあったんだって。

坂上:だけど日本の画廊って、今はそうじゃなくなってきたのかもしれないけど、基本的には弱小だし。商売のキャパも小さいし。昨日の話じゃないけど、高松次郎がアメリカかヨーロッパにいたら、もっと腰を落ち着けていいものを作ってくれたのに残念だ、ってアンドレが言ってたって。やっぱりそうやって日本の画廊なり、評論家なりが弱小だから、作家はある意味で尻軽になる面みたいなのもあるんじゃないのかなって。

北山:その原因がね…この国でこの国の作家の作品の価値を決められないんですよ。で、江戸の作家ですけれど伊藤若冲がね、彼が「動植彩絵」を最終的にね、相国寺に寄付するのね。彼は、売るというんじゃなくて、「この作品を残す為にはどこに置いといたらええのか」と。しっかりした蔵があるのはね、一番しっかりしたところは相国寺や、と。それで寄付したんよ。それはまあ豊かやったからかも知れないけど。でもあれものすごい時間ですよ。5年以上。5年じゃ描けへんと思いますよ、あの作品を作るのね。それは彼は自分個人がこの価値を作れたと思う。これを持つべきだ、と。日本人は、作家は、思いますよ。うん。売れるとかじゃなくて、その価値は、自分が作った時に、とにかく重要であると。だから僕、国宝目指してますよ。作品は。国宝になるように作品を作ろうと思ってる。

坂上:画廊の力が無いとか、そういう日本の弱さ…。

北山:個々に力無いとか言うよりも、自分等個々が持つべきやと思う。何故それが原因なのかって。海外でもやったし、ドイツでもアメリカでも個展やったし。その基盤を人に寄るんじゃなくて、自分ら自体が持つべきやと思う。

坂上:それが難しい。昨日も、「ああ何でこんな(情報から遮断された)ところに住んでいるのかなあ」と思いながら、こう…来た時に(思った)。もっと都会に住んでいろんなものに左右されてたら…いろんなものに右左しないと生きていけないんですよ、やっぱり。ネットしてニュース見て、明日嫌だけど会社行って、ぺこぺこ右左挨拶して。だけどそうじゃないと生きていけない、わたしたちは小市民だから。だけどあえてこういうところに身を置いて、ネットもしない、テレビも無い。昨日、新聞、北山さん、新聞読んでるのかなあって。(そしたら、机の上にあるのは、東京裁判の東郷死刑判決の日の新聞だし)

北山:(笑)。僕は古いやつの新聞読んでんねん。今日でなくてええねん。ラジオでニュース聞いてんねん。

坂上:そこまで遮断してるのに、アンテナだけはどうやって張ってるのか知らないけど、ものすごく張ってるじゃん。

北山:僕、今、動いてるそのものだけではなく、本読んで、ものすごく大きな動き見てるんですよ。あれ(本を指しながら)は僕の今なんや。今というスタンスが違うと思うの。だからお手紙もらっても返事書くの嫌い、っていうか筆まめじゃないからね、あまり時間取られるの嫌やねん。僕、絵、描いてる方がええねん。

坂上:3.11とかどこで知ったんですか。

北山:ああ、大阪でアルバイト、草月というところで教えていて、揺れたんですよ。

坂上:たまたま外にいたから。何事だ!って。

北山:ものすごかったです。

坂上:あれいなかったら。もしここにいたら。

北山:ここも揺れるけどね。そうそうそう。

青木:何となく、こういう山(遮断されたところ)に居て、今、北山さんが「制作すること」と、「集中して行く」ようなそういう感じがすごくするんですよね。今のこういう環境。そういう風に、自分を意識的に持って行ってるのか、何となく自然にこういうところに来たのか、どっちなのかなあって。

北山:ここに来たのは大きな場所がとれるということと、もともとテレビあまり見なかったですね。だからたまにホテル泊まるとものすごく見ちゃうんですよ。ほんまに。

坂上:ネットとかあんまりしないんですよね。

北山:やり方分からへんから。アハハハハ。

坂上:引きこもりの人って、ネットすることで繋がってて、っていう風に言うじゃないですか。世間だと。

北山:もう一つね。関西と関東、東京とかあるでしょ。で、関西の作家のスタンスっていうのは、関東はやっぱしものすごい展覧会もやってるし、人の関係もあるやん。距離があるねん、関西は。距離があるから。適度な動きの中で、あっち行ったら大変だなって思うのよ。東京にいたら動きが激しいし、あそこだけで済むみたいな。だけど世界行ったら、東京なんて田舎やねんな。だからものすごく危険があると思う。そういう意味では(関西は)距離があって、ある程度の付き合いっていうか。でも美術みたいなものは、新聞みたいに消費、出来事が消費されるんやなくて、文化なんやから、もっと緩やかなもんなんですよ。もっと大きな長いものを研究すべきもんやと思うの。

(中略)

北山:作り手はものすごく自分の中で、満足度、問題点を絶えず作っていたら、世界と関わりながらいてんのやけど。自分のが「ええ」っていう価値があると、そう思っちゃうわけ。売れたり書かれたりすると、それで止まるねん。若い時。とどまんねん。だから僕ものすごく受けてへんから(止まってない)。言うたらね、次々売れてっていうあれは、たまに売れるっていうあれで、去年一昨年は、えっと、北京ビエンナーレに行きました(2010年)。釜山のも。(「中国と日本の現代美術」釜山市立美術館、2010年)

青木:良く売れてるっていうのは、インスタレーションの方の、竹とか、そっちの方が売れて、絵画の方はそれ程売れない。

北山:そうそう。

坂上:あ、絵はそんなに売れてないんだ。

北山:そんなに。豊田は最高。売れてないことはないねん。評価はあんねん。そのあれ(評価の格差)はものすごいきついんですよ。千葉さんは毎日新聞年間でベスト5で1番に入れてくれてるわけ。その展覧会INAXでやった。8年前。新聞さえ載らなかったんですよ。それぐらい落差ある。終わった、言うのがあって、もう見放されて。(「北山善夫展 絵画の言挙げ」INAXギャラリー2、2004年)

青木:大体買う人っていうのは、まあ美術館もそういうとこちょっとあるけど、最初にドッと売れたイメージがガーンと頭の中に入るの。だから竹と和紙のインスタレーションっていうのは、まず普通は、ワーっと頭の中に浮かぶの。そっからある意味でコレクターとかってのは、抜けられないところがあるの。

北山:抜けられない。

青木:そこで止まって、「これいいなあ」って思っても。

坂上:だから2度売れない。

北山:大きく僕は変わったやん。で、海外でもそういう風なんがあるみたい。フランスでも、新宮(新宮晋、1937-)さんがやったはる(画廊が)、「やろう」って。その後来ないんだよね。調べよったら立体とえらい(違う)と。アハハハハ。

青木:そこのところが、面白いところだけど。コレクターなんかも見せたい意識強いんですよ。「北山持ってるよ」って言うとみんな竹とあれをワーっとイメージするから、そういうことを思うと、なかなかこっち(絵画)に手が伸びないんですよ。僕なんかはそういう風じゃないから。

北山:少ないですよ。僕のは立体がガードしてんねん。

坂上:しばらく立体と絵と両方(やっていた)。

北山:それしかしょうがなかったから。だから絵は少し。ちょこっと出す位。でも両方あったかなあ。インド・トリエンナーレ(1991年)の時は二つ出しましたよ。大きなやつを。

青木:川崎の時もあのでかい宇宙図、焼いて焦がして穴空けて…。(「現代作家シリーズ ’93 北山善夫展」神奈川県立県民ホールギャラリー、1993年)

坂上:自分の気持ちもまだ「捨て切れない」ものを持って。

北山:そうそう。あったね。90年まで。ね。で、もう、絵に。仕事があればやる。立体も。でももう面白みは無いねん。

青木:立体から受ける、インスタレーションから受けるものと、このモノクロームの、描くこととやっぱり入り方違う。受け止め方違う。ある意味で、これ(立体)は、すごく明快さもある。作家の像を描く時にはすごく明快さがある。だけど最初にあれでバッと出たから。普通はあっちに(流れる)。僕は北山さんの竹はよく知ってたけど。最初はあっちよりこっち(絵画)の方に先に入ったんじゃないかな。(豊田市美術館の)コレクション。

北山:あれ同時のものやったんですよ。

青木:同時位か。

北山:でも、あの、ほら、テーマ展でやった。(「図 絵画 北山善夫」豊田市美術館、1999年)

青木:これで、あのINAXで、ぐっときてバッとやったから。他の知ってるものは、愛知県美とか、他に行っちゃってたし。でもまあ。ビエンナーレの。

北山:ビエンナーレの一つは豊田入ってる。

青木:それと寄贈してくれたのあるでしょ(《図 絵画 場所の時》1997年)。

北山:あれがね。やっぱし「出産図」みたいなところが、あるのね。原点だから、って思ってるの。

青木:いいのが入ってるんですよ、豊田に。全然見え方が…。

北山:残念でした。その後、吉竹(豊田市美術館学芸員 吉竹彩子)さん生きてはったら、個展をね、立体も含めてやる、って。それをね、瀬戸内(「瀬戸内国際芸術祭」、2010年)で僕が貯めてたやつ(粘土の人形など)があって。それでレクイエムやったんです。あの展覧会全体を豊田でやろうと思っていたわけ。個々の作品が一部屋分のがあるんですよ。ちっさいけど。

坂上:(担当学芸員が)亡くなっちゃったから(展覧会が)頓挫したんですか。

北山:一応ずっと仕事してたから。やるね、って言ってはった。

青木:彼女は相当強い想いを持ってましたから。他に彼女が担当したのは(黒田)辰秋(1904-1982)とか。北山さんには本当に入れ込んでたからね。(インタヴューの最中にMEMで開催中の展覧会DMに使われてる絵を見ながら)この背中に一番(テカリが)出てるけど、こういう表面って(北山の絵画の中に)見たことない。

北山:この背中のね、光がいいんですよ。ヌメっとしてんねん。

青木:ここが、ちょっと見たこと無かったなあと思ったの。これ実物見たいなあと思ったの。

北山:デューラー(アルブレヒト・デューラー Albrecht Dürer, 1471-1528)なんかものすごいうまいと思うんですよ。デューラーいいですよ。プラドにある。あとピナコテカとか。肖像画を10年ごとに描いて4点しか無いねん。

(昼食)

坂上:昔、庄司(庄司達、1939-)さんが…(北山さんは)。

北山:「自分の知ってることしかしゃべらない」って…(爆笑)。

坂上:それが今回のインタヴューでは、作家としてはかなり珍しいタイプで。私たちの話を「中断」せずに聞く、って作家はまずいないから。そういう風になった切っ掛けは「学生との出会い」っておっしゃってたじゃないですか。でもそれは他人に対する態度まで変わるっていうのは、ものすごく北山さんにとって大きなことだったと思うんです。質問の最後になるけど「若い人たちにメッセージを」って、言うのに、その「若い人」っていうのがまず「聞いてあげないといけない存在」であるから、そういう人に対して「何を言えばいいのか」って難しいかも知れないけど。「頑張れ」って言うのも変だし。しかもこういう地震があったりとか、年金問題で苦しんだりとかする世代だから。

北山:(小声)若い人にって言われると躊躇するんです。あのお、自分が若いと思ってるからかも分からんのやけど。あんまり考えたことが無くて。で、自分が若い人にって言う時に「下目線」な気がするの。

坂上:人生の先輩から後輩へ何かアドバイス(みたいなものがあれば)。

北山:そうそう。あんたらも頑張りなさい、こっちも頑張るよーみたいな。感じはありますね。そういう立場を、とるのが一番いいかなと僕は思うんやけど。

青木:若い学生たちに合う教師というか、その立場での北山さんって多分いっぱいあると思うんだけど。

北山:教師になって、っていうの、僕50歳からなったんですよ。12−3年前なのね、たったの。で、それは何でやろうかなと思ったのは、その前から話はあったんですよ。断ってたんですよ。それの一番大きな原因は、僕は「教えられた経験が無い」から。どうして教えたらいいのかっていうのが分からへん。で、なってみて、一緒に聞いてたら、例えば中ハシ克シゲ(1955-)が佐藤忠良(1912-2011)からこんな風に教えられた、とか、いっぱいいいことを言ってくれて。それをまた次の代に「いいことを教えたい」「伝えたい」んやね。伝えたい、と、媒介者になろうとすることがあってね。僕もその時に思い出したんですよ。街中でね、八木一夫(1918-1979)が、本当に、僕は79年に出たんですけど、彼は79年に死んでるんですね。で、平安画廊によう行ってて、声かけてくれるんですよ、見ず知らずの(僕に)ね。でねえ、「君ねえ、2回やったら技術だよ」って言うんです。2回やったら技術だよ、って。

坂上:それってさっきの竹の作品と通じる…

北山:全然、(まだ竹を)やらない時に言うんですよ。で、彼は伝統的な陶芸だから、技術っていうのをものすごい嫌ったと思うのね。で、1回目のこと、2回目3回目っていうと技術的になって行って、最初の初々しさっていうのかなあ、そのことが駄目になって行くのが一番技術だ、と。要するに工芸の問題にものすごい反映している。

青木:要するに技術を否定して言ってる。

北山:言ってる、と思うのね。そう思いながらあの人の技術、を、どうしたって使わざるを得ないってところがあるじゃないですか、そういうこと言われた時に、そのことを思い浮かべたわけ。で、僕は、直接の先生は言いひんやけど、他に、彫刻教えてくれた岡本庄三(1910-1994)とかね。そんなんでも、印象に残るのは無いんやけどなあ、あ、ジャコメッティの足のこととか言ってはくれたけど、えー、そういういい言葉を送る立場に、僕はもう50位やし、経験上、マネージングっていうのかな、金のことまで知ってるから、価格があって売れるってことを知ってるから。それは他の人あんまり知らんと思うの。経験的に。そういうことも伝えられるかなと思ったんですよ。もしやらなかったら自分の知ってることが死滅するわけで、作品は残るかも知れんけど、作品との関係だけなんですよね。作品だけ送り出せばいいと。でもこれは、知ったこと、僕のそれがいいかどうかは分からないけど、義務があると思ったんですよ。それでやろうと思った、教師の立場にね。だから僕、作品を作るのと同じ気持ちでやってますよ。非常勤講師だけどね。とても親切にする、と、心掛けてます。丁寧にね。お金の問題じゃなくてね。彼等にとってはその現場なんだから。どんな給料貰ってるとか、そういうのは別として。やっぱり手抜いたらあかんと。作品と同じ。

…(なんとなくオーラルヒストリーが終りに)

北山:僕がヴェニスの時に、そのお母さんの枕元に磔刑図が掛けてある、でかい、ね、黒っぽいやつやけど、あれは肉がぶら下がってると思った。

坂上:誰のお母さん?

北山:そのね、パヴィリオンを手伝ってくれたミケーレっていう奴のお母さん。グランドカナールのところに3階のフロアのところがその人のお家で、結構お金持ち。お父さんがどっか行ってるのか知らないけど、そこで夕食を、ヴェニスを発つ前の日に食事呼ばれて。その時に「イタリアが破産する」って(日本のテレビとか)言うんだけど、嘘だなあと思ったわけ。冷蔵庫は(壁に)埋まってるし。こんなでかいやつ。壁とフラットー!なんですよ。で、話は戻って、そういうベッドが一つあって。その時に向こうのキリスト像。日本に帰ってきて、東福寺の釈迦の入滅の図、でかいやつ見た時、お釈迦さんは眠るが如く自然死なんですね、眠るが如く。で、キリストの磔刑図っていうのは、その自然の横軸を断ち切るようにして、立って死んでるわけ。殺されて死んでるわけ。何と象徴的だと。意思的な縦軸なわけ。意思的な思想なわけですけど。そういうものがシンボルとしてあり得る、と。それがまた死体としてあるっていうのが僕にはものすごいキーポイントだったんですよ。だからね、肉の思想っていうのも全然違うもんやと思った。僕らと考え方。で、そこに至らなあかんと思ったね。そっから。それで、僕らのことって向こうはあんまり、どうでもええと思ってんねん。ところが精華大の漫画館。(彼等は)知ってんねん。ものすごい広がりですよ。漫画とアニメってものすごい凌駕してる。ヨーロッパすごいですよ。

青木:僕らが子供の頃に見ていたディズニーとは違うんだよね。

北山:そう。ものすごい厚みある。かなり輸出産業らしいけどね。芸術大学にも芸術系が少なくなって、アニメ系がすごく多くなってるんですよ。どうなって行くんでしょう。やっぱりきちっとしたもん作らないかんと思うねんな。本当に。うん。で、若い人たちってそういうもんに、流れて行くじゃないですか。まあ僕らでも美術手帖とか雑誌とか流行ってるものに、洗礼受けてるわけですから。頭の中にあるけれども。実際にそれを見た時に。だけどあれ(漫画)は、実物見られるもんね。最初っから。内容がどうなんかなあ。

北山:僕、ボッスの絵好きなんですよ。デューラー、ボッス、ダヴィンチ。みんな同じ世代。フランドルとルネッサンス。

北山:あとねえ、みんなねえ、若林さんでも、人物像、挟んでやったやん。ジャコメッティみたいに。あれ、失敗やと思うのね。で、長いことやってくと、どうしても敏感さが落ちる。ほんま感度が落ちてくる。感度は自分の作品だけやなくて、世界とか社会とか、その自分の関係の中でどんな風に見て行くか、っていうのがとても大事やないかなと思うんですよ。で、芸術新潮で大賞取った時、(「日本芸術大賞」1992年)授賞式の時、来賓で中原さんが(来てた)。で、別れたかみさんが、カウンセラーやったんですよ、で、中原さんに「なんで北山を選んだんですか」って問うと「勇気だ」って。無名の僕を選んでくれた。

坂上:中原佑介って何者なんだろう。

北山:「人間と物質」展は重要ですね。目ききですね。あとはマレービッチ研究してた。最後ロシアに見に行こうとしてたし。僕は「あの人は近代主義者や」と思うんですよ。僕の絵を、周りの方からも聞いてるけど、宇宙図は、まあまあ、と思っていたように思えるけどよく分かりません。悪いとは言わんのですよ。でも「展示が何とかかんとか」言って、「マジでしゃべってください」って、ご飯食べに行って。でも違うことでぼろかす言われて。「お前は何を考えの元にしてるんや」って事を言ったのね。で、「情報」って言ったら、「情報などでお前の考え方を作ってるのかー!」とか言われて、タクシー乗ってるのに、「お前、降りて行けー!」って言われて(爆笑)。ほんで、一週間後まだ展覧会してたから、ばったりユマニテ(ギャルリーユマニテ)で、中原さんの好きな展覧会あったんですよ。で、「だいじょぶか」って言うんですよ、行ったら(笑)。中原さんが僕に。気にしてたんや、って思うてね。落ち込んで、って。河口さんなんてすごいぼろかすに言われるわけ。まあ密かに僕は初めてぼろかす言われたから「ああ、中原さんの弟子になったなあ」って思ったんだけど。「おかしいです」って言ったら「そやろー」って納得してたし喜んでた。とにかく批評家っていうのは言葉の厳密に定議とかきちっとやってく人で、怖いなって思うんですね。自分の、言葉の定議に対して。意味付けを一個ずつ自分の中にしていって、その中でやって。だから相手のやってるやつもしっかり定議しながら、層を見て行くっていうか、がちっと枠付けする。間違っていようがね。そういう立場が批評家やなあと思いました。