榎忠 オーラル・ヒストリー 第2回

2012年4月10日

神戸市西区の榎忠アトリエにて
インタヴュアー:江上ゆか、池上裕子
書き起こし:永田典子
公開日:2013年8月19日
更新日:2013年10月6日

池上:前回は、ZEROを脱退されて、自宅で展覧会をされたというところぐらいまでをお聞きしたのですが、実はZEROを結成された辺りでやっておられたハプニングの話をあまり詳しくお聞きしてなかったので、体を使った表現活動から今日はお話を聞こうかなと思っていて。最初に戻ってしまうんですけど、裸のパフォーマンスですよね。これは1970年に銀座でされたやつですね(「裸のハプニング」銀座歩行者天国)。あのあたりから、直接行動というか実際に体を使って表現されたというのが始まったのかなと思うんですけども。万博は大阪でやってるわけなんですけど、それを、印を焼いて、東京でパフォーマンスというか路上を歩こうというような、何かきっかけはあったんですか、思いつかれた。

榎:きっかけいうかね。僕も田舎でね、子どもの時分祭りに参加して、太鼓たたいたり、獅子舞とかもやるんだけど。その時秋祭りがほとんどやけど、収穫とかね、そういう。親戚の人が集まったりなんかして、田舎のことやから手打ちうどんを打ったり。ごちそう、お寿司とかうどんなんかでお客さんとかそんなのを招待するというか。年一回そういう楽しみがあったわけね。近所の人とかそういう人と。自然なんかを相手にするから、農作物とかいうたら。やはりそういうものに対してのお祝いであり、来年に向かってまた、そういう生活の基盤の中で祭りいうもんがあるわけ。
その時、僕も田舎から都会へ出てきて、美術とか絵のほうに関わってやりだしたんだけど、街なんかは高度経済なんとかいうて、お祭りみたいなんを大阪の方でやるとかね。
僕は田舎を出てくる時、お金がないからずっと列車に乗って来るんだけど、土地を買収してるわけ。その時に桜のマークがね、エキスポ何とかいうて、ごっつい桜のマークで。ずっと田舎をの土地を買収して、新幹線をつくるとかそういうので。まだその頃は山陽の方は通ってなかったんかな、新幹線は。大阪までは来てたんだけど。その後そういう買収とかもあるしね。なんかお祭りみたいな感じで大阪でやるとかいうて。まあ言うたら国の祭りやん? それも企業とかでやってるような。言うたら、僕らよう分からんけど、金儲け主義いうのか、なんかそういう祭りであってね、僕はあれは祭りと思ってなかったわけ。

池上:祭りって、コンセプトには挙がってましたけどね。

榎:そう、でもそういう疑問を感じてた、ずっと。万博やるというのも分かったし、歩行者天国いうのも。公害とか起こした企業とかが、人間を閉め出す感じで歩行者天国ができたわけ、8月2日に。それを聞いとったからね。だから祭りというものに対しての、僕自身のひとつの表現方法で。そういう(万博のような)祭りもあるかもわかんないけど、僕は、否定とか肯定ではないんだけど、祭りって、僕にとっては自然の恵み(に対するお祝い)というのか。そういうことで太陽の光を体に焼き付けて。8月2日が歩行者天国の最初の日やったんや、日本で初めて。六大都市でそういうのができたんだけど。神戸でも大丸前とか2か所ぐらいあったんかな、1か所やったんかな。土日か、日曜日だけやったか。それは8月2日神戸でもあるんやけど、僕は、神戸でなしに東京という、今で言う「セレブな街」いうのか、そこを選んでね。新宿とかあっちの方にもあったんやと思うんやけどね。

池上:でも銀座へ。

榎:そう。僕は銀座という、とりすました金持の場所を選んだ。それで体に太陽のエネルギーを焼き付けて。4月、5、6、7……おおかた4か月近くかな、ずっと焼き付けて。

池上:その春の時点で、夏にこれがオープンするというのを知っていて?

榎:うん、それを目指してずっと焼いてたわけ。

江上:目指して、行くつもりで焼いてた。

榎:うん、行くつもりで。春はまだ寒いんよ、ちょっとね(笑)。だからよっぽど天気がいい日に準備して。まあ助手がおってね。会社で昼休みに焼くの。

池上:そうだったんですか。いつ焼いたのかなと思ってて(笑)。

榎:食事の後ね。会社で弁当とか食べて。

池上:じゃあ昼休みの小一時間。

榎:そう、道端で。

江上・池上:道端?(笑)

榎:会社の通りの前へ出てね、段ボール敷いて、裸になって。

池上:それ自体が一種のパフォーマンスですね。

榎:そうそう。ビニールで型紙作って、布のついたビニールを切り抜いて。万博のマークを切り抜いて。そしてずれないように助手がおるわけ。それが、僕がパッとご飯食べてひっくり返って寝てたら、ちゃんと合わせて貼ってくれるわけ。

池上:セロテープみたいなもので留めるんですか。

榎:セロテープでなしに、接着剤みたいな、簡単にひっつくやつで。それはだいたい30分ぐらい焼くわけ。1時間ぐらい休憩が昼休みあるから。もう汗が出てきたらね、その接着剤もだんだんとれていって、だいたい30分ぐらいしたら剥がれてしまう感じかな。そういう中で毎日ずーっと焼き続けていくというか。そうしたら太陽受けて、結構まぶしいんよ、真上見て。だけどすごく太陽から力をもらってるいうイメージがあるわけ。そうしたら汗が出るでしょ、だから入った分が出ていくような感じがするわけ。天からエネルギーをもらったという感じがものすごくあった。それが証拠として、汗として流れていくからね、余計すごく実感として感じられるというか。なんかそういう自分だけの世界をつくって、色々想像してやるわけ。もちろん、5月とか6月って雨とか梅雨が多いから、焼く時間は少ないんだけど、一応8月2日を目指してやっていくわけ。

池上:すごくきれいに焼けてますもんね。

榎:うん。そうしたらなかなか消えない。春のゆるい光から焼いたらなかなか消えない。夏の海水浴とかで、みんないろんな型貼ったりなんかしてやってるやん? あんなのはもう2、3日したら消えたり、1か月でとれてしまうんだけど。

池上:さめてしまうんですね。

榎:これは2、3年、もっとやったかな、消えなかった。背中は、このへんにチョウチョがおったりするんだけど。前だけと違うの。

江上:裏表で焼いてたってことですか。

榎:その時は、場所をちょっと横になったりとか、そういうふうにして焼けるから。それを主力に焼いていくんだけどね。

池上:実際にこれは、銀座でされて、すぐに捕まっちゃったということだったんですけど。

榎:うん。

池上:実際、時間的にはどれぐらい歩かれたか覚えてますか。

榎:5分か10分ぐらいちがうかな。10分、もっとあったんかな、時間が分からへんねんけど。昔、銀座に村松画廊いうのが地下にあったんや。地下にあった時代やから(注:村松画廊は1942年銀座で開廊、1965年10月から1977年1月までは銀座7丁目パールビル地下1Fにあった)。そこで僕の田舎の速水史朗という先生が個展をやってたわけ、焼き物で、お化けかなんかいうて(注:1970年7月27日—8月2日)。

池上:お世話になった先生ですよね。

榎:そうそう。その人がやっとって、そこで服脱がしてもろて(笑)。

池上:楽屋みたいなとこがあったんですね。

江上:先生、共犯者やん(笑)。

池上:そうですね(笑)。

榎:先生は何やるのか知らんかったわけ。「先生、ちょっと行ってくるから」いうて。

江上:「ちょっと脱がして」みたいな。

池上:そのまま出て行くとは思わなかったんでしょうかね。

榎:ほんと10分、15分やったかな。最初はいいんだけど、初めてやん。裸で銀座行ったら、もうすごい人やったんや、初日やったから。そうしたらすぐカメラマンとかあんなのが近寄ってきたりとか。

池上:報道者がすでにいるわけですね。

榎:初日やからね、ヘリコプターもドーッと写真撮りに来たりとか、そんなすごい感じやったんかな。その時は学生運動とかそういうのがまだ残ってたんかな、社青同(日本社会主義青年同盟)とかそういう連中が。

池上:1970年ですもんね。

榎:そういう人が「反博」みたいな感じでそういうとこへ来るわけ。で、機動隊が追い出したとこやったんや、その学生らを。

江上・池上:ああ。

榎:その時僕がひょこっと出て行ったからね(笑)。変なとこで捕まえよったら、彼らがまた引き返してくるからね。だから捕まえんとこ、どこで捕まえるかって無線でピッピやってたみたい。そういう人たちがおって、無線で連絡しよったのは分かってたけど、何のことか分からなくて。カメラマンに取り囲まれて、「ポーズしてくれ」とかね、なんかもう足がガタガタになってもうて。それからかな。

池上:「歩行者天国で何かやったろ」というような若者は、ほかに学生運動関係の人たちでいたんですね。

榎:そうや、おったわけ。それはもう完全にたぶん万博とかそういうものの反発でやってるんやと思うけどね。もっと違った意図があったのかも分からんけど。

池上:最初から、「天国」と言いつつかなりコントロールされた空間だったということですね。

榎:そう。ほんとの時間って分からへんね。銀座4丁目の手前の方ですぐ機動隊の人に囲まれて。僕小さいから、ひょこっと持たれてね(笑)。両手で持たれて。

池上:そうなるだろうな、とは思ってました?

榎:全然思ってない。

池上:もっと悠々とこう。

榎:もっとドーッと、悠々と歩けるかなと思って。たぶん「なんでそんなことやってるの?」とかそういう質問みたいなのがあるとは思うし。ああいうもんて、それに触発されて、ガーッと出てくるやつがおるわけ、「オレもやる!」とかね。そういうやつもおるし、ある意味危険な面もはらんでるわけ。どんな人間がおるか分からへんから。そのへんがハプニングの怖いとこでもあり、面白いとこやけどね。そうしてるうちに機動隊に捕まってしまって。

池上:身の危険というか、やっぱり怖かったですか。機動隊に……

榎:全然怖くない。僕、やるまでは色々心配したり、不安がったり、怖いとか、想像したりするんだけど、やり出したらもう全然怖いと思わへん。そんなふうに囲まれて捕まってもうて、今はきれいなポリボックスになってるけどね、4丁目のちっさいボロっちい交番所、交番所いうより中継所みたいな、監視所みたいな感じのポリボックスへ放り込まれて。4、5人入ったらもういっぱいみたいなとこでね。パトカーが準備して待っとんの、毛布なんか積んでね(笑)。

池上:連行する。

榎:それで帰らせてくれへんわけ、色々質問されて。「今晩は泊まってもらわなあかん」みたいな感じで。誰か身元引受人か、「そういう人いないんか」とか言うて。しゃあないから、僕、明日会社行こうと思っててね。

池上:1泊2日の予定だったんですか。

榎:そうそう。日曜日やったからね。月曜日には帰って会社行かなあかんと思てたから。そうしたら帰してくれへんみたいなこと言うから、これは困ったなと思って。それでさっきの村松画廊の先生に連絡して、釈放の身元引受人いうのか。

池上:身元保証人ですかね。

榎:「引受人がいなかったらあかん」いうて。しゃあないから先生呼び出して。ほんなら先生、ニコニコしてやってきて(笑)。「何しとんや」いう感じで。「こんなことやっとったんか」言うて。で、今度先生が調書とられて。先生、なかなか職業を言わへんのよ。「職業は?」「いや、ちょっと」「どういう関係?」「いやちょっと絵のほうの教え子」とかなんか言うて。「いや、アンタの職業や」いうて聞くんやけど、なかなか職業言わへんの(笑)。で、とうとう先生も言わなあかんようになって。その時はもう高校の先生になってたんやけど、まあ言うたら教師やん? 「どういう教育しとったんや!」いうて、ごっつい先生がしぼられて(笑)。「ここはニューヨークと違うんだから」いう感じで。それでまあなんとか現場釈放いう感じで帰してくれたんだけど。先生が展覧会をやってるということで、田舎におった、東京に出てる連中が先生の展覧会を見に来てたわけ。それらと一緒にいろんなとこへ飲みに行ったりなんかしたら、昼に全部中継やってたわけ、全国で初めての歩行者天国を、テレビで。いろんなとこに飲みに行ったらね、みんな見とるんや、そういうバーとかスナックの店でも。そこのママさんなんかが見とって、「わー」いう感じで、「さわらせて~」って。

池上:「さっきテレビで見たわ」って。

榎:ほな、お小遣いくれたりただで飲ましてくれたり。また友だちが面白がっていろんな店へ連れていってくれてな、「オレの仲間や」「友だちや」いうて。

池上:その日のうちに帰れたんですか。

榎:いや、とうとう帰れへんようになってもうて。

江上:釈放はされたけど帰れなかった。

榎:もうその晩は飲んで、泊まってしまって。

池上:この頃って、やっぱり「ハプニング」という言葉を使ってはったんですか、みんな。

榎:あんまり使ってなかったなあ。

池上:「ハプニング」という言葉も使ってなかったんですか。

榎:いや、使ってたのは使ってたと思うけど、あんまり意識、ハプニングするという意識ではあんまりなかったかな。「ハプニング」という言葉はあったしね、そういう感じで。

池上:今だと「パフォーマンス」とかも使うじゃないですか。

榎:その頃は作品とか美術で、ハプニングという表現の仕方いうのはあんまりなかった。 「ハプニング」というのはあるんだけどね。これは、突如やってびっくりさすとか、突如生まれたとか、偶然性とか、そういうのを狙ったような表現の仕方やから。計画して、「今度どこどこでやるから」いうて告知したりとか、そういうものと違ったからね。だからわりと突発的なものが多かったかな。

池上:でも榎さん自身は、何か月も準備されてやったわけですよね。

榎:そうや。

池上:やっぱり一つの作品としてやってるんだ、という意識でしたか。

榎:どっかではそれはあるんだけどね。その頃は身体を使ったような作品が写真としてよく出だした。身体測定とか、裸になって寸法みたいのを計ったりとか、写真で作品とかは出てたんだけど、僕はそんなのはやりたくなかった。それを作品にするとか、作品として展覧会に出すとか、そういうのは僕はあまり興味なかったし、やりたくなかったし。そういうものでなしに、何か自分の体を使ってやるハプニングは、あんまり写真で作品としてやるというのは、僕はしたくなかった。

池上:やることのほうが大事。

榎:そう、やることのほうが大事やから。

池上:だから銀座のほうは写真があんまり残ってないですね。

榎:ほとんど残ってない。たまたまこれも週刊誌か、『週刊明星』か何かが撮ってくれたんかな。

池上:万博の会場でそれをあらためてやった時というのは。

榎:これはまたね、『KOBECCO』(注:『月刊神戸っ子』)いうのがあってね。そこにコマーシャルとか使ったり。上島珈琲いうて、缶コーヒーができた頃やったんや。それの写真を、万博の前で、缶コーヒーを持って写真を撮りたいというので。だからわざわざハプニングするつもりで行ったというのでもないんだけどね。それを頼まれて、コマーシャルみたいな感じで。缶コーヒーが、神戸の上島珈琲って有名なとこやけどね。

池上:UCCですよね。

榎:出始めた頃やったんかな。それのコマーシャルみたいなんで。ずっと写真撮ってくれてた米田(定蔵)さんいう人がやってくれたんだけど。それもたまたま万博いうとこでやったから。「万博行こう」いうて僕から思ってやったんではないわけ。

池上:横でコーヒー持って写真撮って、榎さんがモデルだったという。

榎:そうそう。

池上:上を脱いでモデルしてという?

榎:そうそう。

池上:面白いですね、それも。こうやってずっと焼きが残ってるから、どこでも脱いでしまえばハプニングみたいになるわけですよね、ある意味。

江上:そのつもりがなくても。

池上:それもおかしいですね。さっき祭りというので、ZEROのほうで皆さんとされたハプニングなんかでも。

榎:これは《虹の革命》(1971年)やね。

池上:《虹の革命》のあたりからお話を聞こうと思ってたんですけども。これも第一回神戸まつりでやってらして。いま大阪万博の祭りというのにもちょっと抵抗があったというお話だったんですけど、神戸まつりに関してはどうですか。

榎:べつに僕は、祭りに反対だとかは、さっきも言うたように(別にない)。これ(《虹の革命》)は元町でやってるわけ。神戸まつりいうのは、フラワーロード、市役所の前とか、あの一角が一応メインになってるわけ。元町は2丁目か3丁目までは結構人がおるんだけど、4丁目から西いうのはもう全然人がいないんよ。古いんだけど、跡を継ぐ人もいないし、寂れていくというのか。そういうとこで元町画廊の佐藤(廉)さんいうて、亡くなったんだけど、ちょっと変わった、面白い人やけどね。僕らが活動する場所とかをいつも佐藤さんに、「どっかないか」とか「街中を使えないか」いうて。その時、彼が元町の商店街の会長みたいなのをやってたわけ。それで僕ら、街中でこういうことやりたいというプランを持って行ったんや、「場所貸してくれないか」と。「ほな頼んでみたる」いうことで。昔は結構元町ってすごいハイカラな有名な街だったんだけど、神戸まつりで三宮に取られてしまって、寂しくなってしまって。

池上:ちょうどその頃だったんですかね、街の中心が三宮に移ったのは。

榎:もうちょっと前やろね。まだこの頃は市電が通ってたような時代やったから。それで、そういうプランを持っていったら、センター街の人も、通路とかああいうのでもずっと貸してくれるようになってね。で、10万円くれてね。

江上・池上:へー、すごい!

榎:向こうから協力金で、好きなことやっていい、いうて。それで神戸大学とか甲南大学とかいろんな学生も集めてね、音楽をやってるやつとかそんなのを集めて。一人参加費500円で。そういうお金で衣装とか。これカラーじゃないけど、虹色なんですよ、みんな。そういうのを作ってね。シリコンで面作ったりなんかして。

池上:「虹」とか「虹人間」というのはどういうところから考えられたんですか。

榎:虹って、太陽の光でいろんな色に見えたりいろんなものに反射したりとか、そういう太陽いうのはもちろんあるんだけど。それとその頃、靉嘔いうのがおって、そういう虹なんかを使う人もおったりするし。カラフルやし、きれいやし、そういうとこで虹を選んだのとちがうかな。

池上:これは榎さんの発案?

榎:ううん。僕らはだいたいいつも10人、20人集まって、「何しようか」って。

池上:みんなで話し合いながら決まっていった。

榎:そうそう。衣装なんかでも、安く、布とかそんなのを使って。色も簡単な七色の色とか、そういう感じでやって、街の中で寝てみたりとか。商店街を何十人かズラーッと、どんどん寝ていくわけ、パタパタパタッと。ずっとそういうことをやりながら、音楽とかいろんなハプニングみたいなのをやって、最後は大丸の前で。

池上:これは大丸の前ですか。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、21頁)

榎:うん、ちょうど大丸の前。今はどこになるのかな。本屋が、昔角にあったんやけどね。今は地下鉄の入口になったりしてるけど。その前に市電が通ってた、そこを借りて。虹人間が神戸の街に突如誕生して、それが消滅していくまでの、一日の虹人間の生き方というか、新しい人間が生まれてくるというのか。だからひとつの、革命ではないんだけど、そういう新しい人間が、騒いでいろんな表現をしたりするんだけど、最後は朽ちていくという、だんだん。その間に途中で自殺するやつもおるし、首つり人間が出てきたり。最後にトアロードか、今はもうなくなった亀井堂とかね、ドンクとか、ヤノスポーツがあったんかな。その前でみんな力尽きてパタパタ倒れていって、死ぬというか、消えていく。そういうストーリーになってるんだけど。この広いところに泥絵の具をぶちまけてね、ドーッと道端に。虹色に染めていくというのか。それも最後に大丸の人が全部掃除に来て。

江上:へえ、すごい協力的ですね。

榎:ごっつう協力的やったんや。

池上:今だとちょっと考えられないですね。

榎:僕ら、そういう神戸の若者文化いうのをやろういうことでね、みんな集まって話してた時期。ちょうど70年代頃に、僕が銀座でやった後、神戸でもそういうのをやろういうて。神戸だけでなしに関西の、京都とか大阪とかの連中が集まって。その時に集まって、よう集会を。学生会館って知ってるかな。阪急のちょっと山へ上がったとこに。

江上:六甲のとこ?

榎:阪急六甲か。

池上:ああ、あります。今もありますね。

榎:そこを借りて、そこを集会所にしていろんな討論会をやったり。国際会館の何階かを借りて。結構50人から100人ぐらい集まってね。建築家とか音楽家とかいろんななのが集まって。その頃、まだ維新派の、あれ誰や。

江上:松本(雄吉、1946—)さん?

榎:彼なんかも来たりね。一緒にやろう、いうて。彼とは結構仲が良くて。近いうちに維新派を立ち上げる前やったんかな。布施の方まで一緒に行って、話したこともあるけど。そういういろんなやつがおって。

江上:学生さんとかもみんな集まってきてたんですか。

榎:学生はいなかったね。ちょっとはおったけどね。

江上:もうちょっと年が上の?

榎:ちょっと上。

江上:卒業して、働きながら色々。

榎:そうそう。これ(《白い布 400㎡のハプニング》1972年)も神戸まつりの一端やけどね。こういうとこ(神戸まつり)にまぎれたら結構できるんよ、こういうことが。普段こんなことできないよ。大きい布使ってね。噴水の周りでも、30メーターの直径があるんよ。この噴水を止めよういうてね、噴水に布を。

池上:噴水を止めようということなんですね(笑)。

榎:うん。布をかけとるんや、これ。これに日が当たったらものすごくきれいなんや。ビーッと、西日が布の間からビーッと飛んでるの。ものすごく美しい世界やね。それで怒られるねん(笑)。

江上:これは後で怒られたんですか?

榎:これはやっぱり最後に怒られた。

池上:これはじゃあゲリラ的にやられたんですか。

榎:みんなゲリラ的。

池上:でも、元町の時はゲリラ的でも協力を得られて。

江上:街の人は協力してくれて。

榎:そうそう、向こうの人は知ってたというか。一般の人はもちろん知らないんだけど、「何かな?」いう感じで。こういうとこで色々計画立てて、布を持っていろんなとこへ行くわけ。ゲリラ的にやるんだけど。空いてるとこ使って。

池上:こうやって普通に道路を行進してるとお祭りのパレードみたいできれいですけど。

江上:まぎれて。これも普通だったらこういうのはやっぱりやらせてくれないですね。

榎:やらせてくれないよ。これなんかでも、大きい布を下地にして、そこへZEROのマークの布を大きく広げてね。この中に僕が入ってるんやけどね。そこでいろんな踊りが始まるわけ。始まる前に、この布からズボンが出てきたり、パンツが出てくるわけ。ほんなら見とる人が想像するわけ、「あ、裸やな」「中で裸やな」って(笑)。そういうふうにいろんなことを、できることをゲリラ的にやっていくという。

池上:これが計画中の写真。

榎:そう。出発する前か、前日ぐらいか、ちょっと忘れたけど。

池上:これは学生会館なんですかね(『Everyday Life/Art Enoki Chu』、29頁)。

榎:これはどこやったかなあ…… これはひょっとしたら元町の、いろんな組合の集まりがあるようなとこを借りたのかもわからん。すぐその前に鴨居さんがアトリエを借りてたとこがあったから、たぶん元町やったと思うけどな。

池上:このアイデアをみんなで話し合ってる時に中心人物だったのは、やっぱり榎さんと、ほかにどういう人が。

榎:もう一人、古川清いうて、武蔵美の人やったんだけど、その人がだいたいリーダーで。その頃、丸本耕さんて知らないかな。今はもう年いってちょっと弱ってるけど。その時、丸本さんとか、中西勝(1924—)さんも武蔵美やねん、武蔵美のそういう先輩たちとか。その頃結構、乾さんとか高橋亨(1927—)とか。

池上: 乾由明さん?

榎:うん。(兵庫県立美術館の)館長やった木村重信とか。僕ら、ZEROの勉強会をいつもやってたんや。そういう人を呼んで、現代美術いうのか、これからの美術とかの勉強会みたいなのをやりよったわけ、いろんな人を呼んで。そういう関係で。佐藤さんも武蔵美やねん。

池上:ああ、そうなんですか。元町画廊の佐藤さんですね。

榎:そうそう。日本画やったらしいんやけどね。先輩では古川清というのがだいたい。

池上:わりと中心になってアイデアを。

榎:これからの美術にどういうふうに取り組んでいくかとか。松井憲作(1947—)とかそういうのもおったんかな。

池上:中心的な方がおられても、みんなで「集団でやるんだ」と。だから個人名は出てこないわけですよね、グループ名はあるけど。

榎:出てこない。

池上:それは皆さん「それが大事なんだ」という考えで?

榎:そうやね。彼がリーダー的に、理論的なこととか、そういうものに対して彼が色々話したりするんだけど、僕は一応それを組み立てて、それを実行していく、実行隊。行動隊というのか、そういう感じやったわけ。

池上:実際にオーガナイズをするという。

榎:彼は、理論とか、絵を描くのも結構うまかったし、そういうことはできるんだけど、動きのもんはあまり得意でないの。どうしていいのか分からないわけ。その辺は僕は結構分かっていたから。

池上:じゃあいいコンビというか。

榎:そうそう。その時松井君とか若い連中が結構手伝ってくれたり、分かってくれたりしてたから。なかなかこういうことって、一人や二人ではできないからね。

江上:そうですね。

榎:集団でやろうと思ったら、やはり街とか環境とかそういうことが問題になってくるから、どうしても個人的な絵とか個人的な作品には行かないの。どうしてもみんなと一緒にやるんやから、いろんな考え方が広くなる。命とか、なぜ生きてるのか、なぜ死ぬのか。一人で死ぬのは自殺とか、二人で死ぬのは心中とか、三人以上は何と言うのかとか、集団で死ぬのはどういうものかとか。宗教とかそんなのでは集団で亡くなるとかあるんだけど、そういうものでなしに、生きるとか死ぬとか死んでいくいうて。

池上:テーマがちょっと普遍的になるんですかね、みんなでやると。

榎:そうそう。PLAY(注:グループ・THE PLAY)なんかでも、池水(慶一)さんなんかがやってる、自然とか、海とか、山とか、風とか、そういうことがどうしても対象的に問題になってくる。

池上:PLAYの《雷》(《雷 THUNDER》1977~86年)に榎さんも参加されたことがあって。

榎:あるよ。3回ぐらい行ったかな。

池上:ああ、そうですか。

榎:ZEROでやってる時は、僕ら変にライバル意識があったんや。だからPLAYいうたって「プン」いう感じ(笑)。京都の美術館でも「集団と美術」とかで一緒になる時があるんよ(注:「京都ビエンナーレ・集団による美術」、京都市美術館、1973年)。だけど会場通っても知らん顔よ、わざと(笑)。なんかそんな感じやったかなあ。なんかお互いが意識しとったのか、どうか知らんのやけど。

池上:じゃあZEROを抜けられて、個人だったらべつにいいけども。

榎:僕ね、池水さんカッコいいしな、好きやったんや。すごく「男」いうかな。

池上:あこがれてたんですか。

榎:そう、あこがれいうか、カッコええねん、向こうがやるのは。わりとまとまって、すっと、なんでもね。風に向かって。北海道行ってずっと旅するんやけど、どこへ行くか決めてないわけ。風の吹く方向に向かってみんなで、集団で歩いていくわけ。

池上:カッコいいですね。

榎:カッコええやろ(笑)?

江上:シュッとしてる。

榎:彼らはだいたい10人から15人ぐらいの単位やねん。だからわりとまとまりやすい。うちはちょっと人数が多すぎてね。

江上:逆に、さっきの《虹の革命》とかは人数が多くないとできないことですね。

榎:そう。だから僕らがやってるのは、また逆にPLAYができないようなこととか、そういうのもあるし。

池上:次は、神戸まつりの日に合わせてやっていらっしゃるんですけど、《イメージの箱》(Japan Kobe ZERO、1973年)というのを。これは何人ぐらい。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、52–53頁)

榎:これは、箱の中で、さっきの《人間狩り機》(注:京都アンデパンダン展、京都市美術館、1973年2月25日—3月9日)を作ったような構造の組み立ての箱やけど、ここからは出ないんよ。人が出たらあかんの。臭いが出たり、この布の箱の中に段ボールをどんどん積んでいって、ずっと伸びていくわけ。段ボールやからいつか壊れるやん? 倒れてくるやん? そこまで積み上げていくとかね。

池上:その時によって見えるものが違うわけですね。

榎:そう。これは色がついとるし、臭いがついた。病院なんかで使うオキシドールとか、いろんな臭いが出るわけ。

池上:不穏ですねえ(笑)。

榎:煙が出たりね。中で発煙筒とか。もうこの中大変よ。中でやってるんやけどね。

池上:何人ぐらい入ってたんですか。

榎:十何人入るかなあ。

池上:次はこれ、次はあれ、というふうに次々繰り出して。これもゲリラ的ですか。

榎:大きい気球みたいなのが入ってるんやけどね。

池上:すごいですね。

榎:バーッと上がっていくんやけど。ここから出るのは、変な宇宙人みたいな、動物みたいな感じでダーッと出ていくわけ。そこからはもう人間が出れないような感じで。

江上:これはこれごと移動するんですよね。

榎:移動する。

池上:みんなが中で歩いて、ということですね。

榎:そうそう。車がついとるの。

池上:ああ。これはゲリラ的にまたやられたんですか。

榎:そう、これも。

池上:べつに「おとがめなし」ですか。

榎:なし、なし。

池上:当時はおおらかだったんだなあ。

榎:僕らは、やる時はちゃんと制服作るの、上が赤で下が白とか。なんか統制とれとるわけ。だから係の人も、「あ、何かちゃんとした手続きやってる」と思てるわけ。

池上:そうか。いちいち「見せなさい」とかないですもんね。

江上:お祭りやから。

池上:パレードにまぎれて、あざむいてるわけですね。

榎:そう。外れたところでちょっとやってるとか、そんな感じ。

池上:それは面白いですね。

榎:怒られてもね、「祭りやから」って許してくれるとこがあるから。普段そんなのなかなか許可出ないやん。噴水をああいうふうにするとか、言うたって出ない。

池上:こういう時は交通もストップしてるし、だからできるというのもありますよね。おかしいですよね、これ。村上三郎さんも箱(注:「箱」個展、1971年)の作品がありましたね、全然コンセプトは違うんですけど。あれってちょうど同じぐらいだったかなと思うんですけど。

榎:もっと前ちがうかな。

江上:いや、同じぐらいかもしれない。

榎:そうやな。具体を辞めてからだから。個人的にやってたんや、街中で。

池上:70年代には入ってたと思うんですけど。

榎:彼とはよく飲みに行ったり。「お互いにアホなことやっとんな」いう感じでね(笑)。道端にいろんなもの置いたりとかやっとったな。

池上:三郎さんの《箱》は、ほんとに箱を置くだけで、写真を撮ってパッと撤去という感じだったみたいですけど、これはもっと生々しさがすごく面白いというか。

江上:動くのがおかしい(笑)。

池上:そうそう。勝手に動くというのがね(笑)。

榎:出てくるのはこういう感じでね。人間が出てこない。人は入ってるんやけど、こういう感じで出てくるわけ。

江上:ここから入って、また。

榎:出てくるのは、みんなそういう何かを。(スティーヴン・)スピルバーグの、いろんな宇宙人が出てくるみたいな感じで。

池上:大阪の万博と神戸まつりだったら、同じ祭りでもやっぱり捉え方は結構違ったんですね。

榎:違うな。ある意味、祭りやったら、面白いこというのか、何かそういうことをやりたいなと思って。

池上:万博は国家の一大イベントで、神戸まつりは、もうちょっと自分たちがゲリラ的にアクションを起こしていける場みたいな感じで、関わり方がちょっと違うのかなという気がしました。ZEROで、神戸まつりでされたのはこの3回ですか。

榎:そんなことないよ。ものすごいあるんよ、間に街中でやったりね。だけどほとんどこういうとこには載ってないけどね。結構怒られたのはね、「日本列島の告別式」いうのをやったんや。さんちか広場でね。

池上:《日本列島への提案》(1970年)ですね。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、17頁)

榎:告別式いうて、日本列島に反対して、縁起の悪い感じのポスター作ってね。さんちかにお経の音楽をドーッと流してね。それでこれをやったんや。

池上:お経!

榎:普通やったら軽快な音楽が流れとるやん? そんなのでなしにお経を流したんや。それで埋葬式いうてお葬式やったんや。みんながお祝いとかで持ってきてくれた、献花とかああいう感じのかわりでね、そんなのもらって、ご祝儀もろて、葬式やるわけ、日本列島背負って。これはベニヤ板で作ったんやけど、ほんとは立体的な日本列島作ってね、布で。ここに、後ろに布が見えてるんやけど、結構大きい、四国や九州や本州を布で。それを最後に埋葬するわけ。その時ごっつう怒られてね。お経流した、いうて。

江上:来た人に怒られたんですか。誰に怒られたんですか。

榎:センター街いうの?

江上:さんちかの人に。

榎:これ、中だけでなくて外も行ったわけ。外でもいろんなパフォーマンスするわけ。日本の青森から下関までの、各駅の駅の名前をドーッとプリントしたやつを、そこの地下街の直線のところに並べて。そして僕は告別式のプラカードを持ってやるんやけど、その時も怒られて。さんちか広場というところでやってるわけ。だけど「ここは貸してるけど、通路とかそういうとこは貸してないんや」いうて、すぐ壊しに来てね、業者の人が。とにかく酒やら飲ましてね、「もうちょっと待ってくれ」いうて(笑)。

池上:飲ませてごまかしたんですか。

榎:そうそう。

池上:日本列島を埋葬というか葬式したいというのはどういうところから。

榎:公害にしたって、原発のことにしたって、どうなるのかという、なんか知らんけどなんとなく不安いうのか、そういうのがあったからとちがうかなあ。そういうことがこのひとつのテーマになってくるというのか。

池上:やっぱり万博のこともちょっと考えて、ですかね。

榎:そういうことも含んでるしね。

池上:アンチ万博とか反博とか、ああいう組織的な活動には榎さんは全然加わっていらっしゃらないですよね。

榎:あんまり。結構僕らの友だちもおったけどね。僕は美術のほうで考えていくような作品をやりたいなと思って。だから告発いうのは僕はあんまり持たなくて、今、自分が何を感じてるか、考えてるか、ということをやっていく。それが、これからずっと原爆のほうとかの作品につながっていくんやけどね。

池上:実際の政治活動がやりたいわけじゃないんだ、という。

榎:そう、そんなのでなしに。みんなが、誰でも感じたり、考えていくいうて。普段から日常の中で必要なことなんだけど、何かが起こればそれを問題意識とかそういう、あまりそういうことでなしに、日常的に毎日考えたりするものであるし、想像力にかなり重きを置いていた。それは、祭りとか、そういう運動があるからいうのでなしに、毎日自分たちが気をつけておかないとあかんこというのか。

池上:誘われたりとかはしなかったんですか、「反博一緒にやろうよ」みたいな。

榎:あるよ。

池上:そういうのは断ってらしたんですか。

榎:断ってる。「僕は僕のやり方でやるから、そういうのはやらない」いうて。

池上:脱退される前の個展のこともちょっとお聞きしようと思っていたんですが。さっきおっしゃっていた《人間狩り機》(1973年)は。

榎:これはひとつの、美術館いうのか、そういうとこに対して…… その頃まだ平面とかそんなのばっかりやったんや。平面も、半分もなかったけど。

池上:その、出品されているものが。

榎:うん。この頃から、監視員の人が、これは作品なのかゴミなのか迷うぐらいな感じの時代やった。だけどまだまだ油絵とか、花を描くような絵もあったし、そういう中で美術館へこういう立体的なものを出して。これ、鳩がおる。伝書鳩をここに飼うてるわけ。美術館の中に。3匹、何匹おったかな。それを2か月ぐらい訓練したんかな。合図があったら戻ってくるようなに。最初は美術館の中で飛びまくってたけど、最後飽きてきてね、美術館、平安神宮へ行ってしもてなかなか帰ってこないの(笑)。監視員の人が、「まだ何匹か帰ってない」いうて、怒られたりなんかして。

池上:飽きちゃったんだ(笑)。

榎:この中に餌が入ってるわけ、檻の中に。それは、シリコンで作った面とか電話ボックスとを何十機と入れて、作品らしいオブジェみたいみたいのを作って。展覧会に来た、作品らしいのを見たい人が入ってくるわけ。入ったらガシャンと、ねずみ捕りみたいになっとるの、ドアが閉まってね。すごい、鉄でできたドアやねん。開かないの。「脱出方法」って書いてるわけ。最低限、分かりやすい日本語で書いてるわけ。どこどこ持ってどうしたら脱出できるということを。蓋が開けられるわけ。一人監視員が、たえず僕らの仲間がおるんだけど、その人がアドバイスを後でするんだけどね。だけど、入った瞬間もうネズミと一緒。説明が書いてあるんだけど、それどころちゃうの、もうウロウロしてね。

江上:「アーッ」いうて(笑)。

池上:恥ずかしいですよね。パニックですよね。

榎:みんなに見られてるから、余計恥ずかしいし、どうしていいんか分からなくなるいうのか。人間いうたってネズミと一緒で、恐怖みたいなとこに入ったらどう判断していいか分からないというのか。

池上:観客に結構厳しい作品ですね。

榎:そうそう。だけどこういう美術館へ行ったら、中にオブジェみたいなのを置いてたら、ノコノコ入ってくるのがおるいうのか。そういうのの美術いうものに対して、美術を見るいう中で。だけど結局は人間だし、生き物だし、自分の身が危なくなったらそういうふうになってしまうというのか。

池上:怒ってるお客さんとかいませんでした?

榎:それはいなかったな。「あぶない」とは言うてたけどね。鳩がよそで糞するやん? よその部屋でほかの作品に影響を与えたり。そういうふうに物理的には怒られたりなんかしたけどね。

池上:よく怒られますね、やっぱり(笑)。こういうものを出して、美術館も協力してくれたというのも。

榎:うん。その時、今いるかな、名前も忘れたな。平野(重光、1940—)さんやったかな、学芸員の人がおった。その人がわりとZEROの勉強会なんかにも来てくれて。

江上:京都アンデパンダンに出したの自体はどういう経緯で出されたんですか。ZEROが出したのは。みんなで「出そう」って?

榎:そう。場所取りも早い者勝ちやねん。だからその頃、自分たちも美術館でやりたいものがあれば、もう早うから。僕らも朝4時、5時に出てね、美術館の前に泊まり込んどってね、美術館の搬入の時間がきて開けてもらったら、みんなバーッと場所の取り合いやねん。一室取るの大変。

江上:場所をどこからどこまで使う、というのもみんな取り合いなんですか。

榎:取り合い。どこ置くとかね。

江上:花見みたいな。

榎:そうそう。まず最初に行って、自分とこにモノをポンポンと置いてしまうわけ。

池上:ほんと花見ですね(笑)。

榎:どの辺を確保するかは、もう取り合い。

池上:でも、これはいい場所を取られたんだなという。

榎:そう。それは早くから泊まり込みみたいな感じで、トラックで待っとくわけ。PLAYなんかもやってたかな、表でね。

池上:でも、この時点ではお互い敬して遠ざけるという感じで。

榎:関西ではこういうので頑張ってやってたら、ビエンナーレいうのがあるの、2年おきかに。その時に、こういう関西で頑張っている人が選ばれるわけ。その後、ZEROの活動もどんどんこういうとこに出て行きだして、ビエンナーレに参加したのかな。それは、天井、美術館の一室がダーッと降りてくるような作品やけど。

池上:それもお聞きしたかったんですけど。どこかに写真が出てるかな。

榎:それそれ。(注:《400?の昇降する天井》、1973年、『Everyday Life/Art Enoki Chu』、54–55頁)

池上:1973年の、あ、同じ年なんですね。

榎:そうやったかな。

池上:京都アンデパンダンの《人間り狩機》も1973年だから。

江上 アンデパンダンが2月で。

池上:ビエンナーレが8月。

江上:春というか冬にやって、それを夏に、ということですね。

池上:こっちのほうは選ばれて参加するという。これもすごいいい写真というか。

榎:これも大変やったんや。美術館の窓全部を黒いので覆ってしまって、光が入らないようにしてね。美術館は、6メーターか7メーターぐらい、天井あったんかな。それを半分に仕切って、吊り天井みたいにしてね。モーターで上がったり下がったりするんや、これが。それは小泉製麻という、石屋川やなくて……

江上:新在家のとこの?

榎:新在家のとこに大きい会社があったんや。今はもうその会社はないんだけど。そこで新しく、ビニールハウスとかそういうので開発された。ものすごく軽いんよ。強い光は反射したりとか、紫外線とかはのけて。どっちがどうやったか忘れたけど。野菜とか植物に開発したものを僕らが実験的に使ったわけ。

池上:これ、光沢がある。

榎:そう、銀。それで窓閉めてるわけ。窓閉めてたら、これ鉛色やねん。蛍光灯つけたら、こっちから光って、蛍光灯消したら今度は透けて見える。

池上:視覚的にも面白い効果が。

榎:鉛色がどーっと、美術館にシーツが降りてくるわけ。

池上:怖いですね。

榎:これ、横が9メーター、長さ30メーターちょっとあったんかな。結構大きいんよ。広い部屋やったから。

池上:天井からどこまで下がるんですか。

榎:人の頭、かぶさるぐらいまでね。こういう感じまでずーっと降りてくるわけ。それはすごいんよ、ゴーッと降りてくるから。

池上:背が高い人だったらついちゃう。

榎:そうそう。

池上:それはすごい迫力ですね。

榎:何日もやるわけ。これの搬出とか搬入の時に、東山ちがうわ、大文字焼きとか、ああいうとこにいたずらしに行ったりとかね、絶えず何かやっとるわけ(笑)。

池上:作品見せるだけじゃなくて。

榎:いたずらやったりね。

池上:こういう大きい布を使う作家でクリスト(Christo)とかもいましたけど、特にそういうのは意識はされてなかったですか。

榎:到底スケールが違うからね。あんまりクリストは意識してなかったんちがうかな。この後ぐらい、県美でクリスト来たんよ(1988年6月5日-7月3日)。《ヴァレー・カーテン》(1970~1972年)かなんかいうて。あの時、「わー、すごいな」と思って。兵庫の、今の原田の森に。

池上:(元)近代美術館のほうに。

榎:《ヴァレー・カーテン》って、山と山の間にオレンジ色のあれをつくったんかな。この時はまだあんまり意識を、それをやってるのは知らなかったと思うわ。

江上:これは再現してみたいですね。

池上:再現したい。

榎:どうなるんやろ。今やったらできるやろか、こんなの。

池上:兵庫県美で、ぜひ(笑)。

榎:これね、自動になってるわけ。モーターを付けて自動で巻き上げていったり。結構長いからね、重みがあるから大変やった。みんなで模型作って、そういう訓練やったりとか。

池上:計算しないと。

榎:張力とかそんなのを計算してやるんやけど。途中でモーターが熱持って、煙が出だしたりなんかして。

池上:怖いですね(笑)。

榎:結構許してくれよったわけ、その平野さんいう人が。ここに水を張ってね。30センチぐらい水を張って、広い部屋に、水の中へみんなが入るとかね。その水も、横に川があるやん? あそこからポンプでバーッと水を入れて逃がしていくというか、そういう感じで。

池上:ほんとにやったんですか。

榎:やろうと思たんやけどね、あの川の水臭いんや(笑)。

池上:お堀みたいな感じですもんね。

榎:やっぱり生ものいうのか、ああいうのはなんぼ平野さんでもあんまり。面白いけど。それとでっかい鳥居があるやん、あそこの前に、赤い。あそこにブランコ作るとかね。

池上:楽しそう。それはやってほしかったな(笑)。

榎:それはちょっと、平安神宮は許してくれへんやろ、いうて。美術館の中やったら可能かも分からへんけど、外はやっぱり。

池上:それはやってほしいかも。

榎:あんな大きかったら作りたくなるやん?

池上:そうですね。遊び心をそそりますよね。

榎:たえず「ああいうことやってみたいな」とかね。

池上:個展もやられているんですけども。

榎:僕は個展はやってないよ。これ、個展いうたって、たまたまオートバイがほかされとって、事故で。それがあまりにも気になるし。

池上:《Yellow Angels》(1973年)という。

榎:警察とか「いいかげんやな」と思て腹立つわけ。で、こういうふうにきれいに、危なくないように色塗って。黄色やねん、線とかああいうのが。同化さすいうのか、自然いうのか、危なくないように。時々燃やされたり、いたずらされたりすんの。何回かそんなのがあって、またペンキ塗り直してちゃんとしよったら、警察が来て、「こんなとこでこんなことされたら困る」いうて。「なんでや」いうて。道端にこけとってん、油だらけになって。あまりにも危ないし、きたないし、汚れてしまって。僕は、危ないから、保護するというのか、きれいに自然に返すいうような感じで黄色い色塗ってしてるのに、「あんた何や」いうて。もちろん警察の格好して来てるんやけど。「なんで今頃そんなの言うの。これ何か月も前からほかされとったんよ」いうて。「近所の人から通報があったからいうて、通報がなかったら来ないんか」いうて、初めて警察に逆に文句言うて。向こうが後で、「よろしくお願いします」って。(笑)

池上:今まで怒られてばっかりだったのが、「オレはいいことしとるんや」という。

榎:その時思いっきり怒っといた。「自分ら、こういう事故が起こったら、誰が起こしたか、そんなの調書もとっとるんやろ。分かるはずや」「そのままほったらかして、いいかげんや」いうて。

池上:これは、あるものに、気になって手を加えたという感じで。「作品作ったんです」、という個展とはちょっと違った個展ですね。

榎:そう。だから日常でね、自然に返すという。簡単なハガキの案内状だけで。家に帰る時に、タクシーに言うたら、「あ、黄色いオートバイがあるとこですね」って(笑)。有名になっとるんや。目印になってたというか。

池上:それで結局警察が粗大ゴミとして持って行った?

榎:市が、たぶんね。

池上:警察が連絡して、「持って行ってよ」ってことになったんですかね。

榎:うん。案内状も、「期限は永遠に」いうのか、そういうので。

池上:無限大マークがついて。

榎:無限大でね。

池上:そういう街の人々とか警察の姿勢も浮きぼりにされるというか、面白いですね。

榎:ああいう人ってほんまにええかげん。危ないとかそんなの分かっとるんやったらね。みんなを守るためとかなんか言いながら。だから結構腹立って言うたわけ、「なんで来たんや」いうて。電話があって、近所の人が見とって、「本人が現れとるから」いうて、「注意してくれ」言うたんかしらんけど。「それがなかったら来ないんか」いうて。僕は見かねて、危ないし、そう思ってやっとるのに、「あんた何も感じんのか?」いうて。「いやー……」いうて向こうも言葉に困ってしもうてな。

池上:恐縮してたんですね。次の年の《We Captured a Small UFO at Last!》(1974年)という、これは作品を作った個展を久しぶりに。

榎:そうや、UFO作ったんよ。

池上:作って捕まえた(笑)。

榎:ここになかったかなあ。家か。3種類作ってね、バーッといろんな。近畿のUFOの研究者っておるの。会長がおるわけ。その人のとこを訪ねて行ってね、UFOの情報とかデータをもらって。写真もそこから借りてきたのが多いんだけど。そのUFOを捕まえた、いう感じで。その頃できた、いろんな、僕が世話になったとこを爆撃してる。

池上:お世話になったところを爆撃してるんですか(笑)。

榎:こういうUFO作って。何十機いうて。那智黒いう黒い石があるの。そこへ星型とかあんなのしてね、蛍光塗料でずっと星をいっぱい描くの。そうしたら中に、蛍光塗料でやってるから、ブラックライトでやったから星がいっぱいバーッと出てくるわけ。

池上:あー、きれいですね。

榎:その中にUFOが捕まっておるわけ。で、このUFOはしゃべるの。

池上:しゃべるんですか(笑)。

榎:最初やったのは、光やったかな、光に反応してしゃべるわけ。

池上:何語をしゃべるんですか。

榎:宇宙語をしゃべるの(笑)。僕がなぜ捕まえてこういう展覧会をやったかいうたら、神戸の街を爆撃して、いたずらするわけ、UFOが。だから「なぜいたずらするんか」いうのを聞きたかったわけ。それで捕まえて、確保してね、檻みたいなとこを使ってやったんやけど。最初やったのは「パール」いう喫茶店でやったんやけど、サンプラザの。サンプラザができた頃やったかな。捕まえて、檻の中入れて。光に反応するから、この部屋は暗いから、ドア開けたら、バッとUFOがしゃべりだすわけ。1個がしゃべったら、作動して、次のUFOにしゃべっていくわけ。ビビビッと。

池上:連鎖して。

榎:連鎖して、30機ぐらいがババッとしゃべりだすわけ。結局、宇宙語やし、「何しゃべっとるのか分からんかった」みたいな、バカみたいな(笑)。

池上:「なんで爆撃するの?」っていう答えは。

榎:分からなかったわけ。それは、僕が考えて、いうことやねん。なぜそういうことをやったのかいうのは、僕自身が考えることであって、UFOに聞くのは間違いいうか。結局、UFOも僕が作ったやつやからな(笑)。

池上:そうなんですけどね。これは市役所?

榎:市役所。新幹線ができた頃やったんや、新神戸やな。貿易センターもできた頃やった。生田署もこの後爆撃されて、生田神社の上の方に行ってしまったんやけど。文化ホールもできた頃やったんかな。まあ何年かしてたよ。

池上:これから神戸が一番いい時代に入っていきますよ、というその準備が整った頃という感じですかね。

榎:いいかどうか分からんけどね。

池上:そうそう。

榎:まあ言うたらハコモノばっかり作って、いう感じがあったんかな。

池上:その時代に突入しようとしていたわけですよね。

榎:それをなんか不思議がって、UFOがやったのか、どうしてやったのか知らないけど。貿易センタービル、この間ニューヨークでテロがあったやん。

池上:ちょっとそれを思い起こさせるような。

榎:これは県庁とかさんちかやろ。これはどこや?

池上:このヌードのヘンな像、ありますよね、今も(笑)。

榎:新谷いうの(注:新谷琇紀、1937—2006。神戸を拠点とした具象彫刻家。多くの作品が市内に野外彫刻として設置されている)。こっちでは、世話になった県美も。

池上:お世話になった県美も爆破してます(笑)。そうか、やっぱり榎さんとしては、こういうハコモノがガーッとできて、神戸の街が変わっていくというようなところに何か違和感があったということもあるんですか。

榎:僕ね、そんな深い理由でなしに、なんか不安があるわけ。こんなにボンボンでっかいビルができたりとか、新神戸に新幹線とか、それはずっとつながってると思うんやけどね。田舎を買収して、山の中に穴掘ってこんなのができるとか。それよりもっと大事なものがあるのとちがうかな、いうのがどっかにあるから。どうしても時代って便利になっていくというのか、時間が短縮されて、人間の便利なほうに行くんだけど、なんかそういうものに対する不安みたいなものがあったんとちがうかな。だから美術館にしたって、自分たちがやってるハプニングにしたって、新しいものって何か分かんないけど、そういうことやってるんだけど、美術館でも色々規制があったり、お役所やから難しいとこもあるやん? そのへんが、僕ら若いからなんとなく分からないというのか、不安みたいなとこあるし、どうしていいのか分からんとこもあるし、そういうのもみな含んでるのとちがうかな。それはUFOがやるから、いっぺんUFOに聞いてみたかったんやけど、分からなかった(笑)。

池上:UFOに託して。

江上:分からへんからUFOに聞いてみた。

榎:結局、宇宙語やから分からんかったわけ(笑)。

池上:それは非常にいいオチですよね(笑)。榎さんだけじゃなくて、それを見るお客さんへそれが問いかけになるというか。

榎:そうそう。

池上:UFOに聞いたって分からんからやっぱり自分たちで考えよう、という。

江上:考えなしゃあないみたいな。

榎:もう一個、ギャラリー16いうとこでも同じことやったんだけどね(1974年11月19日—24日)。それはたまたまギャラリー16が空いたから、「使ってくれないか」いうことで、「UFOをやってほしい」いうことで。僕はあまりギャラリーではやる予定ではなかったんやけど。

池上:それでサンプラザでも16でもやられたんですね。これはすごい面白いです。UFOがかわいいし。

榎:これは普通のモンタージュの逆のやり方でね。ほんとに紙貼って、写真撮ったという、分かりやすいやり方やけど。

池上:コラージュして、それをまた写真に撮ってはるんですね。

榎:そうそう。

池上:攻撃の仕方が、すごく分かりやすく攻撃してて、すごくいいですよね。

榎:これなんかでも、ビルを攻撃したりするのでも、組織とかそういうのじゃなしに、自分が弱いやん? だから強い世界と戦うには捨て身でいかないとあかんわけ。ゲリラってみんな捨て身やん? 自分の命かけてやるというのかな。そういうもんは必要やいうのか。

池上:この展覧会は、反響というか評判みたいなものは。

榎:あんまり。子どもに評判やったな、高校生とかね。面白かったのは面白かったんやろうけど。盗みに来るんよ、UFOを。欲しがってな。1個は盗られたけどな。それも何回か来てね、何人か集団で来てね、狙ってやるの。ちょっとしたすきに盗られたりして。

池上:悪ガキたちですね。

榎:垂水の方の高校生かなんかが、「文化祭やるのにUFO使いたい」いうてね。写真とかみな貸してくれ、とか言うて。写真とか全部貸してあげたんよ。そしたら文化祭で、これをいっぱいコピーしてね、売っとるんや。

池上:あかんやん!(笑)

榎:先生に見つかって、「どないしたんや」いう感じで。「いやいや、こういうことで借りてきたんや」いうて。「そんなの売って」いうて怒られてね、先生に。学生がケーキ持って謝りに来てね、「ごめんなさい。売ってしまったんです」って(笑)。ある意味、ヘンなとこで評判いうのか。美術とかそういうのと関係なしに評判いうのはあったけどね。

池上:わりとストレートに訴える力がありますよね。いくらで売ったんでしょうね。

榎:なんぼか知らんけどね。UFOもちょっと評判になって。時々UFOが評判になる時期ってあるやん?

池上:うん、ありますね。

榎:そういう時期や。ブームみたいなのがあった時期やったのとちがうかな。さっきの研究者が面白いの、会長が。ものすごいデータ持ってね。いろんなとこから情報がいっぱい入ってくるんやって。だけどその人見たことないんやって、UFOを。会長やのにな。なぜかいうたら、面白いのは、情報は入ってくるんやって。岡山のどこどことか、「UFOよう来るんや」いうて、「来てくれ」いうて。出た後やからね、一回も見てないんやって(笑)。

池上:あー、情報が来てからだと。

江上:必ず後追いで。

池上:面白いですね。これは松の木を切って、前の兵庫県立近代美術館のほうに(《Tree, Out-In-Out》、アートナウ ’75、1975年1月5日—19日)。

榎:神戸で始まった最初の時やったかな。それは増田(洋、1932—1997)さんがおる時で、結構色々怒られながら、だましながら(笑)。だけど、分かっていながらやらせてくれたという。結構、乾さんなんかがZEROに色々協力してくれてたから、そういう力もあったんやと思うけど。

池上:これは、当時のピロティというのか、ちょっとプールみたいになってるところに、まず3分割したということですか、切ってきた木を。

榎:そうそう。だから会場に来たって幹しかないの。何か分からんの。一応メッセージにちょっと絵を描いてね、説明は置いてるんやけど。寒い時やったんや。1月頃やったかな。それで根っこは下へ置いて、外から見たらこの枝が見えるん。

池上:ピロティと2階の展示と、また外から見て、「屋上からも生えてる」というのは、見ないと分からない。

榎:そう。だから阪急電車とか、遠くから見たりとか、外のバスから見たら、なんか一直線に松の木が貫通してるように見えるんやけど。だけど多くの人は、寒い時やったから、見ないで帰る人がおるわけ。幹だけしか見てないの。

池上:これは何だろうって。ちょっと残念ですね。

榎:その辺は狙ってやってるの。展示場に作品があるという意識しかないと。そういうとこで、ひねくってるんではないんだけど、多くの人はそういう見方しかしないという。

池上:展示のこれだけ見ると、その時ちょっと流行っていたというか、「もの派かな?」みたいな感じがするんですけど。

榎:そうではないよ、いうて。

池上:全然違うよ、って(笑)。もの派のことはもちろん知っておられたんですね。

榎:もちろん知ってたよ。

池上:でもああいう感じのもんじゃないよ、という。それもおかしいですね。

榎:僕は、もの派とは言うたら反対みたいな感じというのか。「あれが悪い」いうのでなしに、ああいうことだけでなしに、もっとやる表現の仕方いうのを考えていくほうやったから。反対とかそういうものでなしに。

池上:もの派は、どこが違うなという感じがしてたんですか、べつに反対ではなくても。

榎:あれは、なんやかんや言うたって、絵に近い表現の仕方いうのか、頭の中で考えていくというのか。そういう中の一つの見せ方やん? 日常的なもんとか、そういう寄せ集めみたいな、その辺にあるものをうまく組み合わせたりとか。僕らはそういうものでなしに、もっとガーッと外へ広がりをもっていきたい。彼らは、自分らさえ分かったらいいいう感じで作ってる世界みたいと思うの。その辺は僕らはちょっと嫌やったというか。もっと多くの人に美術いうものを知ってほしいと。だからもの派が悪い、いうのでないよ。彼らは彼らの表現の方法があるんだから、それはそれでやったらいいと思うしね。

池上:発表したいという、その向いてる方向がちょっと違うということですかね。

榎:方向が違う。そのほうが面白いやん? ワーッいうて。

江上:これとか、外から電車で見た人は、逆に上だけ見てる(笑)。

榎:そうそう。

江上:「あ、美術館に松生えてる!」みたいな。

榎:「前からあったかな」って。そういう、普段日常の中でも「あれっ?」と思うようなこととか。「ほな、行ってみようか」いう気持ちになったり、確かめてみようとか。

池上:「なんであそこにあれがあるんやろ」と思いますよね。

江上:びっくりしますよね、屋根に松生えてたら。

池上:そうですよね。

榎:あそこの美術館は吊り天井で、柱がないんよ、上は。それで増田さんが、結構建築の方の人と、「吊り天井だから弱いから、屋上に松の木を設置するのは難しい、無理や」いうて。最初、8メーター言うてたんやけどね。8メーターやなかったら松らしく見えないんよ。それで建築のほうの人は、構造的には4メーターぐらいにせえ、言うわけ。4メーターにしたら、この先ぐらいしか見えないの。それやったら僕らやる必要がないし、困るから、「それやったらもうできない」いうて。もう搬入しとってよ(笑)。中島(徳博、1948—2009)さんなんか、トラックで松の木運んできて。

池上:いまさら言われてもね、という。

榎:僕らもうそういう準備はちゃんとやるしね。1月頃は突風が、風速25メートルぐらい吹く時があるんだって。「そういう時もあるから、いつ吹くか分からないから、やっぱりそれは危ない」いうて。

池上:これはどうやって固定してあるのかなと思ったんですよ。

榎:すごいよ。セメントのごっつい、穴掘ってそこへ入れて、固定して動かないようにする。

池上:セメントで固めて。松の重さだけじゃないということですね。

榎:そうそう。それでロープを、ワイヤーを何か所か張ってね。

池上:1階のピロティのところと2階のところは、置くだけで大丈夫という感じだったんですか。

榎:これは、上のところにちょっと吊ったりして、倒れないようにして。これはもう差し込んでね。3箇所に切り込んだやつを後からぶち込んでるんよ。

池上:結構すごいことやってますね(笑)。

榎:そこで中とって何メーターにしよう、いうて。増田さんには内緒でちょっと長めにして。だけど、増田さんも分かってたと思うけど、黙っといてくれたんや(笑)。

江上:見たら分かりますものね、長いの(笑)。

池上:4メートルじゃないよな、というのは。

榎:一緒に搬入とか制作に関わってやってるでしょ。みんな一生懸命やってるんよ。僕ら何十人ってやってるから。そんなら少々のことは断れなくなってくるんや、向こうも。そこまでやってるのにって。

池上:これだけ一生懸命やってるからって。

榎:これなんか市の山小屋借りて、泊まり込みいう感じで、飯盒炊さんやりながら、食事作って。そういう生活の中から一緒に、作品なんかでも関わっていくというのか。

池上:美術館の人もそれは引き込まれるというか、助けてあげたいと思いますよね。

江上:見てるのは楽しいけど、自分が担当やと思うとゾッとします(笑)。

池上:「その時担当じゃなくてよかった!」みたいな。「(当時は)まだ子どもで良かった」みたいな感じですよね。

江上:そうそう(笑)。「屋上にコンクリート?」とかいうて。

榎:京都の美術館の窓を黒くするのでも、「危ないから」「無理ちゃうか」って言うてんけど、「いや、僕らやるから」いうて。

池上:そういう制度の限界みたいなものを、常に見せてくれるというのがやっぱり面白いと思いますよね。

榎:僕らそういうのに「挑戦する」というとこがどこかにあるしね、美術館に対して。今までだめだと言われてるし、あんまりそういうことやってない人もおるやん。駄目もなにも、最初からやらなかったら何も残らないやん? 僕らが行動していろんなことが現象として生まれてくるというのか、そういう大事さもあるから。

池上:ですね。美術館の壁とか天井とか、普段気にしない「制約」ですよね、結局。そういうのが目に見える。

榎:この後、PLAYが、美術館の日差しを、窓を開けたり、そういうことをやったりとか。そういうとこでいろんな面が可能になったり、実験的にできた。この頃は実験的に美術館に挑戦するという、結構そういう意識もあった。

池上:美術館の側も、それをギリギリのところで受けとめる……

榎:僕ら、いつも今までやったことないことばっかりやん? だからどう判断していいのか分かんない。美術って、ないことをやるんやん? あることをやるのと違うから。だからどうしても挑戦とか最初のことになるから難しくなってくる。だって、前例があれば美術やらへんもんね。やらないことをやろうとしてるから。その辺が面白いのとちがうかな。もういっぺんお湯入れてくれへん? まんじゅう食べよう。

(しばし休憩後、再開)

榎:今の若い人はどういうふうに感じてるのかなと思って。今の美術作品って、色々多様になっていきよるやん、どんどん。ああいう中で何を見つめていくんかなと思たりして。僕らは僕らなりに、分からない時代に、なんかそういう体制みたいなとか、結構そういうなにが、「流行ってる」言うたらおかしいけど、アンチとかね、そういうのがあったから。やっぱり向かっていくもんが、どうしても権威とか社会とか国とか、そういうとこになっていくやん? 昔は学生なんかが主に学生運動とかそういうものに向かっていきよったんだけど、今は怒ってないやん。みんな満足しとるのか、くすぶってるのか。どっかでいつまた起きるかも分からない。たぶん人間やから、いつか誰かがまたそういうところで出てくるんやろなあ、ヘンなもんが。いいほうに出るのか、悪いほうに出るのか知らんけどね。怖いのは、オウムみたいな、ああいう感じで出てきたら怖いわな。

池上:そうですね。

榎:僕らも、オウムの問題みたいな感じの作品も考えたことがあんの。だけど「それはやめとき」言われたことがある。

池上:ああ、そうですか。

榎:ああいうのは怖いよ、いうて。

池上:先ほどZEROのところを途中までお聞きしてたので、ちょっと戻らせてもらいます。さっきの松の木の後に、大きい布を使うのが多いですよね、これもすごく素敵なプロジェクトですけど。マッコウクジラの《Sperm Whale》という1975年の作品。(注:「仮称Exhibition 方法から方法へ」、神奈川県立県民ホールギャラリー、1975年5月6日—12日)

榎:それはたまたま横浜の連中が「やらないか?」いうて。ちょうど県民ギャラリーができた頃やったのかな。神戸って、神戸の作家でも大阪とか京都で活動するのがほとんどやねん、ギャラリーなんかでも。横浜の連中も、作家は神奈川県にもたくさんおるんだけど、ほとんどみな東京でやるわけ。横浜の連中は、ギャラリーがまだないねん、活動する場がないわけ。だからどうしても横浜に作家はおるんだけどみんな東京の方へ行ってしまう。神戸もある意味環境が似てるということで、やらないかいうて。関東の方で活動やってる連中が「一緒にやろう」いうことで。ほかにもおったよ、村岡三郎(1928—2013)さんとか福岡(道雄、1936—)さんもおったかな。何人かおったんだけど。向こうも、ぜひ僕らのグループがやってほしい、いうてね。横浜やから大洋ホエールズとかああいう。

池上:あ、そういうことですか!(笑)

榎:クジラの拠点やったやん?

池上:なんでクジラだったのか、聞こうと思ってたんですけど。

榎:うん。神戸、海とかそういうのもあるし。

池上:海つながり。

榎:そうそう。その頃、シルクいう版画が作品になり出した頃やった。版画でもカラフルなシルクスクリーンの作品が出だした頃やったんかな。シルクでも使い方によったらこういうでっかい作品ってできるやん? その頃まだあまりシルクで大きい作品ってなかったの。せいぜいこのぐらいやったんかな。そういうことも含めて、横浜、クジラ、海いうので。展示するだけでなしに、動くんや、これずっと、カーテンみたいになっとってね。

池上:最初、たたまれてると何か分からないですね。

榎:分からへんやろ。それがダーッと自動的にね、前に布を京都でやったように、自動的にガーッとそれが広がっていったり。そうしたら全貌が見えるわけ。これマッコウクジラの原寸大やねん。

池上:すごいですよね。

榎:16メートルぐらいあるのかな。

池上:放っておいてもたたまったり開いたりというのを自動的に繰り返してるわけですか。

榎:そう、自動的にするわけ。最後の週に、作品を外して山下公園へダーッとみんなで持って行って、公園に遊びに来てる子どもを巻き込んで、最後に海に逃がしてやる。もちろん回収するんやけどね(笑)。

池上:放っておいたらまた怒られそうですからね。これは何色だったんですか。

榎:黒。

池上:黒だったんですか。すごいきれいな。

榎:これも県民会館の広いとこを借りて、みんなでバーッと刷っていくわけ。これ、刷ってるでしょ、こういう感じで。

池上:ドットみたいな感じで、点を一個一個押してるんですね。やっぱり人数が多くないと。これは12人となってるから、そんなに多くはないんですかね。

榎:いろんなプロジェクトがあるんやけど、これに参加する人を募るという。

池上:そのつど手を挙げて。

榎:そう。やりたい人がおれば募って。

池上:榎さんが参加しなかったZEROの催しもありますか。

榎:何個かあるよ。

池上:次に、《HARVEST》というのが、榎さんが参加された最後のプロジェクトになるんですか。1976年ですね。

榎:そう、最後。ちょうどこの空間が信濃橋画廊の空間でね。(注:「HARVEST」、信濃橋画廊+兵庫県氷上郡、1976年6月7日—12日)

池上:その大きさの?

榎:そうそう。ちょうどギャラリーの空間を残して、模擬的に信濃橋画廊で展覧会をやるわけ。田植えもやるよ、実際。だけどそれは模擬やから。ここへ図面を描いて、「HARVEST」の文字を書いとって。そこに見に来た人が、番号を書いてるわけ、何番いうて。見に来た人がそこへチェックするわけ、住所と名前を。で、僕らがこの苗を運んで行くわけ、田んぼへ。で、植えてね。3、4か月ぐらいずっとそれを育てていって、最後にこの稲穂を、見に来た人が名前書いたとこへ送ってあげる、「収穫できたよ」いう感じで。これも友だちの実家が田んぼをやっててね。そこのおばあさんとか家の人と、こういうことやりたいということで、自然とか、これからの食べ物とか、食料問題とか。そんな深い問題でなしに、食べ物に対しての考え方とか、そういうのを、美術にどういうふうにもっていけるかなと思って。それはやっぱり田植えから、土の中へ、水とか土を体験しながらやっていく。僕らは、体験するということ、行為が大事ということが基本的にはあったから。

池上:前も言っておられた、田舎では、収穫とか、一年のサイクルとかのリズムがすごく大切にされていて、ということとつながって。

榎:この田植えする間隔があるわけ、稲穂を植えていく。それも自然とか、台風とか雨とか、そういうので倒れるんよ、ある程度成長したら。倒れてもお互いがもたれあって、ベタッと倒れないように工夫された間隔らしい。土から栄養をとるのにとりやすい間隔いうのか。この関係で、やってほしいって、姫路の人が。田んぼ、1反以上やったか、300坪か、もっと大きい田んぼやったかな。姫路の市川いうとこやけど。そこで非原発いうて、原発の仲間がおって、それを「田植えでやってほしい」いうて。田植えを、ほかは普通の苗を植えていく。非原発だけ(赤米で)。赤米って、茅みたいに結構固い稲穂で、葉っぱが赤っぽいの。ものすごくしっかりしてるやつやけど。それが大きくなっていったら、だんだん文字がはっきりしてくるわけ、原発反対みたいな感じで、非原発いうの。それを山から見たりとかしたら文字がパッと映る。最近、お城とかいろんなマークやってるやん?

江上:やってます。

榎:僕らは昔やってたの、そういうのを。

池上:いまの姫路のはいつされたんですか。

榎:この後やから。

池上:この後すぐ? これが1976年だから。

榎:1年か2年後ぐらいちがうかな。僕はもうZEROをやめてた時やと思う。

池上:そっちが姫路で、《HARVEST》のほうは、これは何郡?

江上:氷上郡。

榎:黒田町やったかな。柏原町やったかな。

江上:丹波の方ですね。

池上:北の方になるんですね。

榎:そこのメンバーが、ここで育った子がおってね。「うちの田んぼやったら使ってもいい」いうことで、そこのお母さんとかおばあさんと話し合って、「やらせてくれないか」いうことで。向こうは「食べ物とかそんな大事なものを遊びなんかに使われたら困る」いうてね。そこは説得して、僕らの説得いうてもいいかげんな、遊びいうたら遊びかもわからんけど、そういうことはやっぱり真剣に考えていきたい、いうことは言うて。そこの兄さんがお母さんに「協力してやろうや」いうことで、なんとかできたんやけどね。田んぼ借りるのでも大変なことがあるわけ、何回も行って。

池上:そうですよね。でも、協力的な人々にいつもちゃんと出会われてるような感じがしますけど。

榎:そうなんや。それをやらなかったら実行できないやん? そういう人の協力とか理解をもらわなかったらできないから。

池上:ちゃんと説明するということですよね。いつも榎さんはそれをしてるから、周りの人も助けてくれるのかなって。

榎:そう、協力してくれたり。そこのお母さん、おばあさんなんかも反対してたけど、自分らも関わってもらうわけ。そうしたら「面白かったな」「楽しかったな」いうて、「自分らもこういうこと思ってもなかったけど、みんな頑張ってやるのって大事やな」って。

池上:これがZEROとしては最後になって。江上さんが先ほどちょっと気になるとおっしゃっていたのは?

江上:この間に「大砲」を始めてはるんですよね、ZEROをやってる間に。初めてつくられたのが72年になるのかな、信濃橋(画廊)でされた時が最初ですか。

榎:もっと前かな…… ああ、その辺か。

江上:これは、えらいことになってますね(笑)。これは1972年かな(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、24頁、自室で大砲を作る榎の写真が掲載されている)。

榎:これはアサヒグラフの特集でね。ちょうど浅間山荘とか、過激派とか赤軍派とかが活動やってた頃。それもたまたまやけど、浅間山荘事件がこの取材をやってる時に起こったわけ。古川いうのが。

江上:ああ、これが一緒にZEROをやってた古川さんですね。

榎:もう一人、横のは和佐(一三)さんいうて、もう亡くなったんだけど。一番こっちのが松井くんで。

江上:一番最初に大砲を作った時の、きっかけみたいのはあったんですか。

榎:きっかけ? きっかけは、いつか作りたいないうのがあったし。その頃はもう絵を描かなくなってたから、ひとつのハプニングみたいな感じで何か作りたいないうのがあったし。子どもの時分、竹で作って遊んどったいうのもあるし。

江上:ちょうどZEROをやってはって、さっきのバイクの個展もやってはる、というぐらいの時ですね。ハプニングの後。

榎:グループでやるでしょ、集団で。ミーティングとかそういうことばっかりでね、なかなか決まらないんよ。みんな好きなことは言うんやけど、実現とか、そういうプランはちゃんと持ってないから、僕にしたらもうイライラしてくるわけ。だからもうたまらなくなって、作りたくなってくる、何か表現してみたくなるわけ。そういうのでたぶん作っていったと思うんやけどね。

江上:グループでやってる一方で、個人としてそういうハプニング的なことを単発的にやってはったという感じですね。

池上:材料はどこから調達されたんですか。

榎:部品なんかは、これは作ったものがほとんどやけどね。廃品は、この頃はあんまり使ってなかったん。多少は廃品も入ってるけど、ほとんどこの頃は作ってた。

池上:結構大変じゃないですか。これを実際に自分で手づくりされるというのは、すごい手間も、肉体的にも大変なことじゃないですか。

榎:そんなことない。こんなん簡単なもんや(笑)。そら時間はかかるよ。車まで作ってるからね。タイヤに付いてるゴムまで作ってるし。それはまあそんなに大変とは思わへん。「大変」と思たらできない。作りたい気持ちがなかったら作れない。

池上:それはそうですね。

榎:作ってどうなるか、どんな音が出るかというのはやってみな分からんし。これなんかでも、デュシャンの「コーヒー(挽き)」みたいな感じでね。それがガーッと回転して、モノをぶっ壊していくんやけど。作るときはほとんど僕が作ってるわけ、こういう大砲から、弾作る金型から石膏から。この時の展覧会、4人が白衣着て、ここで作業をするわけ、弾作りの。見に来た人が梱包して。パラフィンで梱包するんやけど。それを持って帰ってもいいし、作品として置いとってもいいし、それを大砲にこめて撃ってもいい、いう感じで。

池上:これはいろんな色をしてるんですか。

榎:弾に布とか、紙とか、メッセージみたいなものとか、いろんなものが入ってるわけ。

池上:型があって、その中に何を入れて作ってもいいという。

榎:そうそう。だから思い出の品も。彼女からもらった大事なもんとか、もう別れたから、「これを大砲でぶっ放してくれ」言う人もおるし。

池上:そういう自分の思いを昇華させるためというか(笑)。さっき言ってたのはエリントンでしたか。

江上:そうそう。エリントンと何かが。

榎:デューク・エリントン? これを作った後で。僕らがよく飲みに行ってた「デッサン」いう飲み屋があってね。どこかで撃った後やったと思うけど、「デッサン」に置かしてもろてたわけ、大砲を。ハタケヤマ・コーポレーションという神戸の興行主がおったわけ。外国からいろんな人を呼んだりして国際会館でイベントやったりとか。そういう時に「大砲やらないか」いうて。今度デューク・エリントンが来るから、「いっぺん相談してみるから」いうて。音やったら大丈夫いうことでね。僕もそんなの初めてやん。デューク・エリントンいうのはどんな人か知らなかったんや。すごいカッコ良い、黒人ばっかりでね。真っ青なブレザーで、真っ黒い人ばっかりやねん。もうすごいとこでね、リハーサルがちょっとあって。その人ら、こんなでっかいグラスにウイスキーをカポーッって。で、リハーサルやったん。すごいの。僕らの知り合いの音楽やってる人は、リハーサルとかいうとみんな緊張してな。向こうの人は全然違うんや、リハーサルいうたって。そのへんがすごいカッコええなと思って。で、舞台へ引っ張っていって。植松くんと一緒に行って。

池上:植松奎二さんですか。

榎:奎二さん。あいつと一緒にロープ持って舞台まで引っ張っていって、客席に向かって。暗いんよ。運んでいって、僕の大砲の合図でデューク・エリントンがパッと出てくるわけ。

江上・池上:はーっ(笑)。

榎:カッコええねん。

池上:オープニングっていう感じ?

榎:オープニング。プレス関係とかそんな人が結構取材とかいっぱい来とるわけ。言うてなかったんや、大砲やるいうの。ドーンと撃ったもんやから、関係者とかそんなのが、機械室かどっか爆発したんかと思って大騒ぎになってな。

池上:びっくりですね。

榎:で、また怒られて(笑)。僕が怒られたんじゃなくて、その関係者が怒られたんやけどな。おもろかったな。

池上:エリントンはどういう反応で?

榎:喜んどったよ。「こりゃオモロイ」いうて。聞いたら、エリック・サティかなんかいう、フランスのピアニストか。

池上:作曲家ですね。

榎:あの人が大砲が好きでね。演奏会とか演劇とか、その頃結構絵描きとかいろんな人が集まってそういう舞台をつくったりしてやるんや。映画が好きでね、彼が。映画をつくったら、必ず大砲が出てくるの。

江上:ありますね。

榎:ああ、やっぱりそういう人もおるんやなと思って。

池上:榎さんは、それまでエリントンとかジャズとか聴いてたんですか。

榎:ぜんぜん(笑)。友だちは結構おるんよ。ジャズ喫茶とかそういう店があったりとか。

池上:ジャズが流行ってた時代じゃないですか。音楽はそんなに?

榎:僕、音楽は一番苦手いうの? 聴くとかそんなのは、べつに嫌いじゃない。自分が歌ったりとか、ああいうのは嫌いなほうやな。

池上:レコードとかもそんなに熱心に集めたりという感じではなかった?

榎:よく行ってた、「バンビ」いう、神戸に古いジャズ喫茶があった。そこへ結構絵描きとか、音楽やってるやつとか、ジャズのファンが来てて、みんなコーヒー飲んで、タバコ吸うてね、きたな~い格好でね。もうほんまに「変なやつやな」と思てたわ。

池上:あんまりそういうとこには行かれず。

榎:行っとったよ。そういうたまり場があったんや、変なやつが来る。高橋信夫(1914—1994)とか、ろくさん(山本六三)、ああいう絵描きとか。

池上:そういうとこで聴くぐらい?

榎:あんまり聴いとらへん。そこ行って酒飲んどるぐらい(笑)。

江上:みんなに会いに行くって感じ?

榎:そうそう。そこへ集まっとるんよ、そういう連中が。「神戸で何かやりたいな」とか、ムンムンしとんのよ、その頃。ヒッピーみたいなのとか、フーテンいうの、あの頃。そんなのがヘンな薬を手に入れたり。こっそり北野町の寺院に吸いに行ったりとか。僕はあんなの嫌いやったから。サイケデリックとかああいうのが流行った頃やった。ああいう薬なんかでも、酒飲んだたら効きが悪いんだって、少量しか飲まないから。だからみんなその頃酒とかタバコやめてね、そういうのをやるわけ。

池上:そうなんですか、薬が流行ってた頃は。

榎:全国からそういうやつが、旅してそういうのを運んでくるやつがおるわけ。そんなら、どっか知らんけど情報が入るの。「今度入った」とか「どこどこでパーティやる」とかね。映画なんかでも、あれを飲んで観たら全然違うんだって。

池上:へえ。榎さん自身は全然。

榎:僕は嫌いやった。横尾さんなんかも、その頃…… 神戸に「メイド・イン・ニッポン」というすごいゴーゴー喫茶ができたんや。お酒ももちろんあるんだけど、コカコーラも出始めた頃やった。そこの社長がうちへ絵を習いに来てたんや、デッサン教室。それで、「今度変な人に室内の展示を頼んだんやけど、ちょっと見に来てくれへんか」いうて。若者の感覚で見に来てくれへんか、いうので見に行ったら、横尾忠則がテーブルから天井から壁面の絵から全部やっとるの。「わー、ええやん」、「ええかなー」いうてね。

池上:「ええかなー」って(笑)。

榎:オープンだから、コーラなんかただやったのかな、試飲みたいな感じで。大丸でもコカコーラをただでみんなに飲ませてくれたんや。そんな時代やった。そういう場所は結構行ったり、友だちがそんなのやったりするのが多かったから、行ってたなあ。トン(東仲一矩)ちゃんいうてフラメンコやる、あいつらがおったり、それの手伝いやったり。べつに僕がやりたいとかでなしに、友だちが結構音楽活動とかやってることが多かったから。

池上:では、ZEROをやめられてからの話にもなるんですけど。ご自宅で個展をされた時、まさに半刈り状態でやってらしたんですよね。

榎:そうよ。その展覧会のためにやったわけ。それは、あとの「ハンガリ」になっていくんやけどね。

池上:子どもたちがすごい喜んで来てたという話をこの間もされて。「半刈りのおっちゃんがいる」ということが一番喜んでた理由だったのかなと思ったりするんですけど(笑)。

榎:それは分からんのやけどね。近所の人なんかも、やっぱり何かやってるのは分かってたわけ、道端とかそんなのも使ってやったから。オートバイのことも知ってたしね、「変な人や」いうのは。

池上:ご近所の人との関係というのはどういう感じだったんですか。「なんか変なおっちゃんいるな」という感じ?

榎:まあそんな感じちゃうかな。「何者やろな」いう感じやろな。

池上:でも、べつにそんな迷惑がられたりとか苦情とか。

榎:それはない。べつにそんな悪いことやっとんちがうしね。

江上:普通に勤めもしてはるしね。

池上:そうですよね。で、自宅を開放されて、「あそこで何やってるんやろ」と思ってた近所の人が見に来たというのも。

榎:そうそう。案内状も、一般の美術館とかギャラリーとか友だち、もちろん多少は出すよ、そういうとこ。だけど新聞の折り込みに案内状を。家で、こういうとこでやるから、いうて。安く配ってくれるんや。1,000枚ぐらいでも何百円ぐらいで全部配達してくれるわけ。朝刊やったら広告が入ってるから、夕刊に頼んでね、近所中にずっとばらまいたというか。みんなその案内状を持って。子どもはやっぱり怖いから、お母さんと一緒に見に来るとかね。子どもが来たら、「お母さんも入ってくれ」言うんやけど、「いや、私は分かんないから、怖いから外で待っとく」いうて(笑)。

池上:べつにいいのにね。

榎:子どもなんか、最初は冒険心がある子が来るんや。その時に、もらった差し入れとかジュースとかケーキをやったら喜んでな。その時に、街を歩いた映画もやってるわけ、部屋の中で。そういうやつを30分、もっと長かったかな、一部屋映画をやって。ドキドキしながらみんな観てるんよ、その子どもたちが。ケーキとジュース飲んで、喜んで、「ありがとう!」言うて帰ってな。

池上:いいですねえ。

榎:それが学校へ広がっていくの。「あそこへ行ったら変なおっさんがおって、ケーキやジュースもろた」いうて。そしたら10人とか20人単位で来るわけよ。そんなもうケーキもあらへんしな、ジュースも。こづかれながら、「おまえウソ言うたんちゃう、ジュースがあるとかいうて」。ないやんって(笑)。

池上:その半刈りにするという最初の発想はどういうふうに出てきたんでしょうか。

榎:それは、ZEROをやめた次の年に結婚したんかな……

池上:1976年にご結婚というふうになってます。同じ年ですかね。

榎:ZEROをやめてから結婚して。やめたのはいいんだけど、ああいうグループ活動やってたやん? 集団とかそういうことばっかりやったから。べつに何かやりたいためにやめたわけじゃないわけ。僕はちょっとしんどい、疲れてきたというか、集団でやるのに。やめたのはいいんだけど、なんかウズウズするんよ、何かやりたいねんな。でも何していいか分からへんし。今まで集団思考というか、みんなでやるようなことばっかり考えてたし。一人でできるものっていうても分からないし。で、クヨクヨ、クヨクヨいうたらおかしいけど、ウズウズしとっても仕方ないし、これは何かやらなかったらちょっと体にも良うないなと思って。生活とか日常とか、自分の生活から始めていこうかなと思って。そこから美術いうものとか、今まで絵をやってきたこととか、集団でやってきたことをもういっぺん、べつにふり返るというのではないんだけど、どういうことかいうことを、まず家から出発しようかなと思って。まず家を使ってやってみようと思って。
会社勤めやから、ちょうど春の連休がある、そういう時をはさんで4月の終わりから5月にかけてやったかな。前から髪の毛とかそういうのを何かでやりたいなというのはずっとあったんだけど、どうしていいのか分からへんし、いつやるかとかもなかったんだけど、この時「日常」いうことで、いろんなヘアスタイルあるやん? 美術のなかでやっても、そういう感覚でやらなあかん。これを作品とか展覧会という意識でなしに、もっと日常の中でちょっと変えるだけ、いう気持ちでやらなあかんと思って。それで先輩のギュウちゃんとか、デュシャンの星型もあるし、そういうなかで色々思たんやけど。今度は半分にしたら、いろんな髪の毛とか、生きてる機能的なものが案外感じられるかなと思って。全部してしもたら、なんかもうひとつよく分からないとこがあるから、半分やってみたらどうかなと。そういうのを思いだしたら、僕はもうやりたくてたまらなくなるの。どうしてもしたくなるというか。それまでは「やってみたい」いうのはあったんやけど、なかなか、親のこととか、反対するとか、会社勤めしとるし、結婚したりとか、いろんなこと思たらなかなかできなかったわけ。こういうのを思い出したらもう止まらなくなるの。もうやるしかなくなるというのか。それはもう美術であろうが、展覧会であろうが、そんなの関係なしにやりたいことをやっていこうと進んでいく、いうのか。

池上:最初、左半分を剃られたんですか。

榎:これが最初、こっち。右側。

池上:こっちが最初か、失礼しました。それでは半分刈るために、伸ばしたんですよね。

榎:そう。この展覧会、映画もつくったりするから、半年前から準備はやっとるから、だから伸ばし始めて、ずっと。それまでも長いことは長かったんやけどね、髪の毛は。

池上:じゃあ半年とかそれぐらいは伸ばして、右を刈られて。身体感覚としてはどういう感じになりましたか。

榎:あんまり感じんかったな。

池上:そんなに差はないですか。

榎:うん。それよか、見られるいうこととか、そっちのほうがごっつい気になったりとか。どういうふうに見てるんかなとか、どういうふうにみんなが想像したり、どういうふうな人間かなと思たりとか。そっちの外的なことが強かったから。

池上:あれですよね。映画でも、電車の中に榎さんがいはって、周りの人が、見たいけど怖いから見れないみたいな感じになってて(笑)。

榎:そうそう、そんな感じ。夏になってから、これが5月頃やったから、夏になってからは、汗とかがぼわーっと右に汗が流れてくる。こっちはジクジクする。そういうとこで完全に機能が。子どもの時分、ケガしないために頭の毛は、眉毛とかそんなのでも、涙とか汗とかが入らないようにとか、いろんな機能の話は聞いたことあるんだけど、それがどういうもんか実際分かったなと思って。「あ、なるほどな」と思って。風が吹いたらね、こっちはジクジクしてるんやけど、こっちはひやっとしてね、なんかそういう感覚があった。

池上:まつげはべつに抜いてないんですよね。

榎:剃ってるだけ。

池上:まつげも剃ってるんですか。

榎:うん。こっちはあるけど、こっちは剃ってる。

池上:眉毛じゃなくてまつげ。

榎:そういう細かい、産毛とかあんなのはやってない。

池上:ですよね。

榎:これはもう最初から何年もやるつもりやったから、産毛とかそういうのはやらない。

池上:そこまでやると大変ですよね。

榎:脇の毛とか下の毛を半分にしたりとか、そんなのは簡単にできるから。前にも言うたかもわからんけど、この展覧会を見に来た人が、絵描きさんやけど、そのダンナが物理学者なんや、京大の。ZEROの勉強会にも彼を呼んで、その人が数学とか位相物理の話とか宇宙の話とかをしてくれよった。その人の奥さんが見に来てくれて、この展覧会を。うちのお父ちゃん今ハンガリーの大学で、向こうの方の大学の要請で国賓で授業に行っとる、いうて。たまたま「ハンガリー」言うから、「えーっ!」いうことになって。「ほな行こか」いうことになってもうて。

池上:その奥さんはべつに洒落として言ったわけじゃなくて?

榎:いや、僕が話してたわけ、「半刈りにして」いう話。そしたら「うちのお父ちゃん、今、ハンガリー行っとるで」って。「えっ、ハンガリ?」いうて。いいなあと思て、「わー、行きたいな」言うたら。だけど今ハンガリーは一般の人は入れないって言うからね。「とにかくいっぺんお父ちゃんに手紙書くわ」いうて。で、何日かして向こうから、大学の方からメッセージを送ってきてくれて。ハンガリーは共産圏で、今はそういう国やけど、アートはあんまりない、って言うたんかな。だからいっぺん日本のアーティストに今のハンガリーの国の状態を見てほしいとかいうて。その手紙を持ってビザが取れたというのか。ほんとに偶然いうたら偶然やし。

池上:向こうの人はハンガリがハンガリーやという、それは分かってたんですか。

榎:向こうは分かってないけど、僕は、「あ、これはハンガリやな」いうて。向こうも「あ、そやな」いう感じで。「ほなお父ちゃん行っとるから」、いうて。

池上:それはおかしいですね。実際ハンガリーはどれぐらい、いらしたんですか。

榎:2日か3日やったと思うよ。もうお金も限られたものしか持って入られないし、全部使って出なあかんし、あまり日にちがなかった。ハンガリー自体は4日か5日おったんかな。そこの行ったとこはデブレツェン(Debrecen)いうて、だいぶ離れたとこやけど。

池上:ハンガリーの印象はどんな感じでしたか。

榎:印象いうて、すごかったな。向こうはこんな感じやから、見方が違うわけ。その頃、日本の昔がそうやったけど、警察より軍隊が結構力を持っとるんよ、治安とかそういうので。だから飛行機を降りた時でも、機関銃を持った人が待っとるの。ほかの人が降りて、僕が最後嫁さんと二人でタラップを降りるんやけどね。機関銃を持った人が待ってるの。別な入国審査とかそっちのほうへ通されて。メッセージを持ってたから、入国はわりと簡単にできたけど。

池上:この髪型だと、どこに行ったって注目されるのは絶対注目されるから、文化の差とかちょっと分からなくなりますよね(笑)。

榎:この時フランスから出発したんやけど、列車で。ポンピドゥー(・センター)ができた年(1977年)でね、デュシャンの100周年かなんかをオープニングでやってたんや(注:デュシャンの生年は1887~1968年。デュシャン没後、フランスでは初めての回顧展)。その時これで行ったんや。向こうの人は、聞きたいんやけど、みんなウズウズしとるわけ。で、そういう話をしだしたら。僕、ハガキ大の名刺を持って行ってたんや、ハンガリの。で、いろんなサインしたりなんかして。ごっつい喜んでくれた。

池上:「それデュシャンと関係あるの?」みたいなこと聞かれましたか?

榎:聞かれなかったかな(笑)。

池上:この頃、普通にお勤めもされていたということなんですけども、ハンガリーに行く前後は。会社の方たちというのは、「今度こういうのやるねん」という説明とかは?

榎:全然、しない。

池上:全然。ある日、いきなり榎さんが半刈りで来た(笑)。

榎:そう。それはうちの嫁はんもびっくりしとった(笑)。まあ嫁はんには「やるかもわからん」いう感じは言うてたけどな。まさかほんまにやってくるとは思ってなかったかも。

池上:どこでやられたんですか。

榎:うちの会社の近くの散髪屋へ行って。行く前に、記念写真でもないけど写真を撮ってもらって、そのまま散髪屋へ行って、散髪屋の帰りにまたもういっぺん写真を撮ってもらって。それがいまだにずっと残ってる写真やけど。

池上:勤め先の会社の人たちはどんな反応をしてましたか。

榎:どうやったやろな(笑)。びっくりいうたらびっくりやし。だけどみんな何も言わんかったな。社長も何も言わんかったわ。

池上:やっぱり作家活動してる人だというのはみんな知ってはるから。

榎:まあ変なことやっとるのは知ってるからね。東京で捕まったりとか、それまでいろんなハプニングやったりしてたから、「ああ、またやったんか」いう。

池上:「今度はそういうことやったのね」という。

榎:まあそういう感じかなあ。

池上:みんなすごい許容量が(笑)。

榎:僕の作品とか展覧会に結構会社の人が手伝いに来てくれてたんや、搬入とかああいうのも。だから仲間とかは知ってるから、そういうなかの一つかな、いう感じやわな。

池上:じゃあみんなすごい理解があって。

榎:理解とかいうものでもないと思うんやけど(笑)。「ああ、またやったんかな」いうて。

江上:「今度はこんなことしたわ」ぐらい。

榎:それでこの展覧会終わって、「ほな行こか」いうて嫁はんと。それから嫁はんも英会話の特訓に行って。僕はしゃべるの全然だめやし、嫁はんもしゃべれないんだけど、一応個人レッスンを半月ぐらいやったんかな。5月の頭、それからすぐ「行こか」いう話になって。

池上:奥さまとはどこで知り合われたんでしたっけ。

榎:ZEROの研究所へデッサンを習いに来てたわけ。その頃は僕らはもうZEROを立ち上げて、そういう活動を始めてた頃やったかな。《Yellow Angels》とかの展覧会、道端でやったりする案内状を渡したりはしてたんだけど。松の木を立てるのにも参加したり、一緒にやってたわけ。

池上:お年は結構離れてはるんですか。

榎:7つぐらい離れてるかな。

池上:ご結婚されて、お子さんもその後できはって。家族を持たれたというのが制作に何か影響をしたことってありますか。

榎:それはないね。結婚するのもそうだったけど、結婚したら、なんかいろんな自由とかああいうのも奪われてしまうとか、自分の頭の中で考えてたけど、べつに…… そういうのも、好きな人と結婚するんだから、作品とかそんなのやってて結婚できないんやったら、それはまた違うなと思て。結婚してると作品ができなくなるんだったら、べつに作品やらなくてもいいし。だけど好きなものやったらやっていくのとちがうかなと思って。最初は怖かったね。自分の中で結婚とか生活とか、言うたら知らない人と生活するんやから、それはものすごく不安は不安やったし。だけどやっぱりそっちの不安は、好きな人と結婚する方が強くなったら結婚するしかないし。作品はできたらやってもいいし、結婚したから作品できないんやったら、もうやめたらいいと思うし。そんないいかげんなものやったら美術なんかやる必要ないと思って。
子どもができた時もそうよ。子どもとなったらもっと自由とられるやん? でもそれも同じ。そんなので美術ができないようやったら美術なんかやめたほうがいいと思うし。子どもの方がやっぱり、生きもんやから、大事にせなあかんと思うし。大事いうのか、育てていく役目があるやん、親として。そういうふうに変に、わりと割り切ってしまった。

池上:結果的には、ご結婚されてからも制作はものすごくされているわけなんで。

榎:そうよ。それは確かに時間とか拘束は、子どもが保育園行くとか、だんだん動き出したら、赤ちゃんの時はまだ寝転がしてたらいいけど。寝転がすわけではないけど(笑)。やっぱり大きくなったらそれなりの、保育園へ連れて行ったり。僕が朝保育園に連れて行って、嫁はんが帰り迎えに行くとか、そういうふうにやっていかなあかんやん? そういうなかで多少は時間をとられるのは、それは仕方ないし。それは生活いうもんやし。

池上:奥さまは、制作にはずっと協力的というか。

榎:まあ、僕がやってることやから、うん。仕方なしか、一緒にやろうとか。それが生活やからと思って、わりと一緒にやってきたんかなあ。考えるって、そんなものちがうかなあ。難しく考えてもきりがないぐらい難しいやん? 深いやん? だけどそんなものでもないし、それをどういうふうに切り離したり、考え方の方向を向けたら、また違う考え方も生まれてくると思うし。今までの人とか、先輩たちとか、周りの人を見てるからね。自分の生活やから、自分で背負っていかなあかんやん? 作品でもそうだけど。そういう考え方を持たなかったら、しんどいとか、じゃまくさいとか、お金がいるとか、そういうことでやめてしまうやん。だけどほんとに好きなものとかやりたいものって、そんなものでなくなるもんでないと思うし。

池上:ほんとにそうですね。このハンガリーの旅のほうにいきますと。ドクメンタに行かれたのは、この旅の時なのかな?(注:1977年のドクメンタ6に半刈りでゲリラ参加)

榎:そうそう。これが行く途中ね。平賀敬(1936—2000)さんとか魚田(元生、1945—)とか。この人がその京大の物理学者の人。これがポンピドゥー。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、86–87頁)

池上:ほんとだ。これがチューブのエスカレーターですね。

江上:エッフェル塔。

池上:そのついでにドクメンタにも。

榎:そう。カッセルでちょうどやってたから。

池上:そこでヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)に会われたんですね。

榎:会ったよ。ちょうど授業いうのか、いっぱい若者集めてね。例の黒板みたいなの書いて、授業みたいなのやってた。ボイスは知ってたし。その時グリースかなんかを(展示をしている美術館の)全館に移動させるかなんかいう、大がかりなプロジェクトをやってた。

池上:ちょっとお話しされたりは。

榎:話しなんかしない。授業してる時に、こんな頭では向こうも気がつくし(笑)。こういう感じ(目配せして)。挨拶いうか。アイ・コンタクトをとったぐらいのもんで。

池上:でもおかしいですね(笑)。半刈りしてなかったら普通の聴衆の一人で、気づかれなかったかもしれないですけど、「なんだこいつ」って。

榎:それは、僕ら聞いたって分からへんし。だから僕はべつに話したいとも思ってもなかったし。会えたらいいな、いう感じやったから。その時、(リチャード・)セラ(Richard Serra 1939—)が、でっかい金属の作品を、30メーターかなんかの鉄板を組んだやつを、ガーッともたれ合わせたような感じで高いのを作って。

池上:ああ、あの頃から大きくなり始めたんですね、セラの作品。

榎:もう一人、真鍮の棒みたいなやつで、アメリカの……

池上:ウォルター・デ・マリア(Walter De Maria、1935—)。

榎:おう。彼が穴掘りよったんや。5000メーターとかいうて、ボーリングみたいなのをやってた。その時、女の人で裸になってぶつかりあいする、マリーナ……

江上:マリーナ・アブラモヴィッチ(Marina Abramovi?、1946—)ですね。

榎:あの人なんかもその時やったかな。

池上:すごく面白い時期のドクメンタですね。(ドクメンタ6、1977年6月24日—10月2日)

榎:ぶつかり合いして。あとで『美術手帖』の表紙になった人ってね。「わー、『美術手帖』の表紙」って。彼女なんかも招待作家ではなかったらしいの。

池上:ゲリラ的にやっている。

榎:ゲリラ的にやってるの。結構向こうもああいう展覧会多いんだって。その時を狙って作品を準備して、トラックで持ってきて、公園とかで自分らでやるんやって。結構そういう人がピックアップされたりするって。だいたいあれは国単位で何人か、一人か二人ぐらいでしょ、招待されるのは。

池上:そうでしょうね。

榎:そういう感じ。みんな狙ってるの、そういう展覧会でバーンと売り出していくというか。みんな何年間かかけて、そこへ殴り込みみたいな感じで来るからね、迫力あるんよ、作品に。招待された人は、今までの何かで評価されて、推薦された人ばっかりやん。だいたい感じは分かるんやけど。そういうやつのほうがすごいの。

池上:榎さんもそういうふうに思われてたという可能性は? 「ハンガリ」で殴り込んできた(笑)。

榎:取材はいっぱいあったんやけどね。何の取材か分からなかった。映像みたいなのは撮られたりしたんやけど。

池上:その旅自体は何か月?

榎:1か月ぐらいよ。僕も会社勤めやったし、そんな休みも取れへんし。うちの嫁はんも学校へ勤めてたから。夏休みを利用して行ったわけ。

池上:それで帰ってこられて、また次の半分をするために。

榎:そう、それが始まっていくんやけど。

池上:その後が「ROSE CHU」(《BAR ROSE CHU展》、東門画廊、1979年7月7日—8日)ですね。こっち(《LSDF》、1979年)が先かな。

榎:そう、正月やったんや、1979年の。(アート・ナウ’79、1979年2月3日—25日)

池上:アート・ナウ(’79)に出された。

榎:これは2月の初めのほうやって、7月の、僕の誕生日頃にROSEを誕生させるいう感じで。

池上:では、アート・ナウのほうからお聞きすると。この時に初めて《LSDF》という、「ライフ・セルフ・ディフェンス・フォース」(LIFE SELF DIFENCE FORCE)というタイトルで発表されたんですね。

榎:考え方は前から使っていたんだけど、実際大きいんよ、この大砲は。8メーターぐらいあったんかな。

池上:大きいですね。

榎:その時初めて、僕のひとつの考えをここで刻印として「LSDF」を使い込んだのが初めてかな、作品に取り入れていったのは。

池上:自衛隊の、セルフ・ディフェンス・フォースの頭にライフというのをつけるというのは。

榎:僕は後から気がついたんや。Jいう。これをJに替えたら自衛隊になるのとちがうか、いうて。ほんとは自衛隊はJSDFとは言わないんだって。だけど、そういうふうに思うことはできるんだけど、自衛隊はそういうふうに使ってないみたい。

池上:正式名称は何でしたっけね。Japan Self-Defense Forcesではあるのかな?

榎:意味的に言うたらそうやと思うんやけど、そういうふうには使ってないらしい。

池上:JSDFみたいに略して言ったりはしてないということですかね。

榎:Fとかそういうのは、軍隊用語でForceとか、アメリカの飛行機とかそんなのにはみな「力」とか「軍隊」いうのはついてる。だけど自衛隊やから、あれは使ってないんとちがうかなと思うけどね。意味ではまったく一緒よ。

池上:英語の正式名称をちょっと見てみよう。(注:正式名称はJapan Self-Defense Forcesだが、国外ではJapan Army, Japan Navy, Japan Air Forceと表記されることも。)

榎:それを発見したのは、薬莢を作った時に、LSDFを使ったわけ。そこでLをJに替えたのがそうやった。その時山脇(一夫、1948—)さんなんかと、「これはジャパン・セルフ・ディフェンス・フォース、自衛隊になるな」いうて。「だけどほんとは違うよ」とは言うたけど、山脇さん。

池上:じゃあ最初このタイトルを考えられた時は、日本の自衛隊というのはあまり念頭にはなかったんですか。

榎:いや、どっかにあったと思うよ。

池上:ですよね。

榎:守るというのか、自分を守るのは国には任せておれん。自分の力で守っていくというのか。それは前にも話した、子どもの時分、大量殺人とかあんなのも、人質とかとらないで自分が殺される前に何人乱射できるかいう計画のとこから、そういう考えは持ってたんかなあ。

池上:ここに大砲があるだけじゃなくて、的があって。これは突き刺してるんですか。

榎:そう。この比率はね、国旗やねん、日本の。そういう権力みたいなのに対して、それを一つの的みたいな感じにして。

池上:で、薬莢が突き刺さっている。

榎:弾頭を突き刺してる。そこにあるんやけどね。この時から刻印なんかも作って。

池上:これが実際ここに使われたやつですか。

榎:(実際の薬莢を見せながら)こんな重たいのがついとったんや。重たいよ、結構。

池上:重たそう、確かに。

榎:1979年。

江上:ほんまや、アート・ナウってついてる。

榎:LSDFね。これは、取り付けるのは結構大変やったんや。一応、中は抜いてるんやけどね、軽くするために。今はないんやけど、中にメッセージが入っとったわけ。

池上:そうなんですか。どういうメッセージが入ってたんですか。

榎:自分を守る、いうのか。それを美術でやっていく、いうんか。

池上:そのメッセージの紙はどこにあるんですか。

榎:ない。もうない。

池上:なくなってしまった。残念!

榎:大砲とかあんなのはなくなって、こういう分身だけが少しずつ残ってるんやけどね。

池上:こういう大きい作品が残ってないというのは、置く所もないし、ということですか。

榎:もう作るので精一杯。置くとかそんなの考えへんなあ。潰す前提で全部作るんや。

池上:美術館が購入とか、コレクターの人から「欲しいねんけど」とか、そういうのは。

榎:そういうのは一切思たことない。

池上:榎さんが思ってなくても、向こうからそういうこと言われたりというのはなかったですか。

榎:ない。ないし、僕は、これを買えるもんかどうか分からないぐらいなもん作る。だから作品とか彫刻とかいう感じにはしたくなかった。

池上:これだけ大きいと、見るほうも「買おうか」とは思いにくい(笑)。

江上:「どこに置いていいん」という。

池上:売り物という感じは確かにしないですもんね。

榎:なるべく売り物みたいな感じになるようやったら、もうやめてしまうんよ。そこでもう、これはもうそういう変な欲があるなと思てね。なるべくそういうことからは外れていくいうのか。そのほうが案外好きなことができるというか。

池上:そうですね。これは国旗の比例とおっしゃってましたけど、この的の部分は赤だったんですか。

榎:赤よ。

池上:じゃあやっぱり日の丸っぽいなというのがはっきり分かるような。

榎:そうそう。だけど見た感じでは分からへんと思う。その比率が国旗の比率とは思わへんと思うし。

池上:でも、わりとメッセージ性の強い。

榎:だけど、あんまりメッセージ性を表に出したら失敗やねん。だからなるべく(出さない)。後からこういう話し合いしたら、そういうことが言えるんやけど、最初から、これはそういう権威的なものに対して、日本国家に対してのメッセージやとか、そういうのはなるべく見せない。ちょっとまあ言うたら茶化すみたいな感じでやっていくというか。

池上:そうですね。告発のための道具になったらやっぱり面白くないですもんね。

榎:それはまた美術とは違うと僕は思てるし。

池上:そのバランスが難しいとこですよね。それでこの後、《大砲》もどんどん作っていかれるんですけど、この1979年という年でいうと、いよいよ「ROSE CHU」が。

榎:僕、こういうとこで展覧会やったことないし。まあこれも初めてやったけどね。これをやってる、この堀尾(貞治、1939—)さんが、東門画廊いうのができたって。

池上:東門街の中の画廊ですよね?

榎:そう。そこへできたから。堀尾さんに任されてたわけ、好きなような展覧会を自分らで作っていくという感じで。で、堀尾さんから声がかかって、「やらないか」いうて。好きなようにやっていいし、制約もないし。なら、飲み屋街やし、僕もお酒好きやし、ああいう遊び好きやから、夢のような、面白い、今までの展覧会とかそんなのでなしに、何か楽しい、面白い、酒の飲める場ができたらいいなと思って。それをひとつの展覧会形式みたいな感じでやったというのか。だから場所性いうのか、ああいう繁華街やし、そういう感じで。それも日程が誕生日、7月11日。僕と誕生日が一緒って言うたな?

池上:一緒なんです(笑)。

榎:合わそうとおもったんだけど、それはちょうどできなかったんや。2日ほどずれたんかな。それで2日間だけ。そこを借りるのがだいたい1週間ぐらいしか借りられないから、ずっと準備して、4日間でバーを作って、2日間だけの展示。そのほうが面白いと思って。噂が広がったら、その頃にはもうこのバーがないというか、来たらもうなくなってる、なんかそういう感じが、面白い。4メーター×1メーターの、L字のカウンターがあるわけ。だからイスもL字型の、それに添ったイスやねん。シーソーになってるねん。1点だけで支えているわけ。だから、L字の向こうの人が立とうと思たら、こっちの人がドーンとなるわけ。こっちの人が立とうと思たら、向こうがドーンとなる。だからお互いに。

池上:常にバランスを。

榎:声をかけんでも、声をかけてもいいし、そういうコンタクトいうのか、コミュニケーションをとるというのか。そういう楽しいような、危ないけど(笑)。

池上:危ないです(笑)。酔っぱらってるし。

江上:忘れてガーンみたいな(笑)。

池上:女装してみようというのは。

榎:それはね、女装いうのはね、僕はうーん、女性でないから、なんかやっぱ興味あったというのか。化粧とか。

池上:やってみたいのが。

榎:やってみたいというよりか、どういう気持ちかなと思てね。会社へ、いつもオートバイかクルマで通勤してたんだけど、一時なんかしら歩きたくなってね、会社まで歩いて行くなにを1年か2年つくってたんかな。その時毎朝出会う女性がおるの。板宿駅で降りてね、ものすごい化粧した人やねん、その人が。ものすごいの。眉毛でもほんまに「描いた」いう感じの、すごい化粧した人やねん。毎朝同じ時間に会うの。5、6分ずれてたら、時間帯によってちょっと違う場所で会ったりするの。その子と会わない時があるんよ。そんなら心配するんよ、どうしたんかなと思って。色々想像するの、化粧失敗したんかなとかな。眉毛描くの、どうやって描くんかなと思って、あんな大変な眉毛。その子に会わなかったらものすごく気になるの。どないしたんかなって。それで何日かしたらまたいつものように会うから、「あの時どうしたんかな……」って。最初はね、結婚したんかなとか色々想像するわけよ。
そういうことがすごく面白くなってきてね。毎朝、全然知らない人と出会って、そういうことを想像したり。化粧とか、女性の髪型にしたって、そういうことがずっと気になるというか、面白いなと思って。女性も顔描いたり化粧するのもひとつの表現やと思とったわけ。そういう時にそういう出会いがあったら面白いなと思うし。それはまあいつかやりたいってのは、ずっと前からあったわけ。そういうことがあるから、繁華街やし、変に作品みたいなのやったってしゃあないなと思って。だからこういうのが面白いし。一般の、美術を知らない人でもひょこっと入ってきたらね、もう夢のような。ただやねん。無料やろ。無料でお乳触れるしな、シーソーもあるし。そんなのやりたいなあと思って。
その時映画みたいなの作ってね。その頃、ビデオが出始めた頃やったんかな。まだ一般には出てなかったんや。東芝とか最初出始めた時期かな。そこから借りれるということがあって、映画が好きな連中に頼んで、ずっと写真を撮ってもろた。

池上:榎さんが消滅して「ROSE CHU」に生まれ変わるという、あの映画ですよね。

榎:そうそう。これを肴にみんながワイワイ、アホなこと。「あいつアホやな」とかね、そんな話ししながら飲むような場所やねん。

池上:ちょっと自宅を開放された時と少し似てる雰囲気もありますよね。「ハンガリ」のフィルムを見せながら、みんながワイワイ、榎さんの家でお菓子食べたりして。

榎:ああ。

池上:これはご自宅ではないけども、やっぱり「ROSE CHU」という女性の空間にみんな入り込んできて、映画観て。

榎: ROSEが、言葉でやる、今日みたいに質問でね、「なぜROSEをこんなとこでやっとるん?」とか、やっぱりみな質問するわけ。それよか映画見てくれ、という。

池上:こうやって生まれ変わって出てきたんやという。

榎:ROSEがエノチュウと結婚して、ROSEは榎の妄想の世界に勝って、ROSEのほうは誕生したというのか。あの時の6連発の中に1発だけ弾を込める、ロシアンルーレットがあったんや、『ディア・ハンター』か何かいう映画で。その時にそういう賭けをやって、一発勝負で、その時は金のかけ合いっこするんやけど。命をかけてそういうルーレットみたいなのをやるという。その時映画にもそれを使ったんやけどね。6連発の中の1発、どこに入っとるのか分からないんやけど、榎忠は撃ち抜かれてROSEが誕生して、そこでバーをやってるいうか。

池上:「ROSE CHU」の、巻き毛で長くてとか、そういうのを参考にした女優さんとかモデルさんなんかは。

榎:いない。たまたま僕らの研究所へ絵を習いに来てる子がいて、その子は美容院やってたんや。だからそこで。結構そこは、今やったらエステとかいうて、泥でいろんなことしたり、すごい美容院やったのかな。若い子やったけど。その子が「手伝うよ」いうて。そのへんはみんなその時の雰囲気みたいなのでつくってもらって。こっちが「こうしてほしい」とかいうのでなしに、「このカツラやったら合うよ」とか「こんなほうがいいのとちがうか」って。

池上:その人がプロデュースじゃないけど、色々。

榎:うん。

池上:2日間ですごいたくさんお客さんは来ましたか。

榎:結構来たよ(笑)。

池上:ただで飲めるとなれば、それは(笑)。

榎:それは展覧会やと思わへん人が多かったしね。

江上:ほんまに間違えて入ってくる。

榎:その頃はまだ、山脇(一夫)さんとか、ここにおる中島(徳博)さんとか。シティギャラリーできた頃やったんかな。その頃、まだ椿(昇、1955−)くんとか、あの辺はみな学校を出た頃やったんかな。学校の先生やったんか、もう。

池上:椿さん?

榎:椿くんとかね。松井智惠(1960—)とか、あのへんが。

池上:あの辺の人たちも来て。

榎:そう。ちょうどそのギャラリーができた年やったんかな。

池上:その頃の東門街って、たぶん今よりももっと。

榎:前はすごかったんよ。

池上:猥雑そのものみたいな。

榎:一番の繁華街。地震の後はさっぱりになってしもたけどな。

池上:今はちょっときれいになっちゃいましたね。

江上:神戸、港町らしい感じですね。

池上:私、子どもの頃、「あそこは一人で通ったらあかん」と言われてましたから。今はたぶん全然平気ですよね。

榎:そうよ。「元町のトアロードから西は危ない」とか、そんなの言われてた。

池上:「トアロードで帰ってきなさい」と言われてましたから。

江上:高架下とかも危なかったですもんね。

榎:結構あの頃、船員とか、外国の人とかが多かったからね。神戸に結構外人バーいうのがあったわけ。僕は加納町の美専堂というとこへ行ってたけど、そこの下にも「オハイオ」いう外人バーがあったわけ。外人専門やねん。そこはまだきれいな店やったけど、元町の方の危ないとこ行ったら、あやしげなバーがあったわけ。そういうのもあったから、こういうバーをやってみたい、いうのがどっかにあった。日本人は入れなかったんよ、ほとんど、そういうバーには。外国専門のバーでね。そういうのをのぞきに行くとか、そういうとこ行きたいなとか。それやったら自分でやった方がいいのちがうか、そういう感じやった。だから神戸いう場所柄やったし、外人バーいうのはいっぱいあったし、なんかそういうとこでこういうものも生まれたんちがうかなと思う。

池上:キリンプラザ(大阪市)で個展(「その男、榎忠」、2006年2月11日—4月16日)をされた時に復活しましたけど、これをやった時は「もうこれ一回限りで」というつもりでやられたんですか。

榎:そうそう。

池上:また後でやろうとは思ってなかった。

榎:そんなの思ってなかった。キリンは椹木(野衣、1962—)さんとヤノベ(ケンジ、1965—)くんと、五十嵐(太郎、1967—)さんとかいう建築(史)家がいろんなパターンで展覧会やってたんだけど。個人的に1年間、ヤノベくんがやったら、あと椹木さんがやるとか、五十嵐さんがやるとかいう展覧会があった時に、ヤノベくんが「やらないか」いうて。最初やるつもりでなかったんだけど。僕、病気しとったんよ、その時。展覧会のことはあんまり考えてなかったんだけど。ちょっと病気が良くなって、こういう作品集も作ろうかって。変な気持ちでね、死ぬこととか変なことばっかり想像して、作品どころじゃなかった。その時にヤノベくんが「やらないか」って言いに来てくれたんだけど、そんな体やったし、できると思ってなかったし、あんまりええ返事しなかったわけ、「ちょっと考えさせてくれ」いうことで。「いっぺん見たいから」いうて。若い時に僕のを見てなかったって言うし、「そういうのを少しでも体験してみたいから」と言うてくれて、やってみようかと思って。それには、ただ作品をやるだけじゃなしに、あそこは宗右衛門いうて、ROSEが神戸でやったような繁華街があるわけ、飲み屋街が。それもあるし、「それやったらいっぺんROSEもやったら面白いかな」と思って。「それやったらやるわ」いう感じで。「それでもいいんだったらやるわ」って。そこはキリンビールやから、ウイスキーはなにやから、「ビールやったら協力できる」言うから。なんでもいいから、ビールでも協力してくれる、「ほなやろか」いう感じ。だから28年ぶりかにやったわけ。

池上:28年ぶりのROSEがまた美しかったのがすごかったですけど(笑)。

榎:見たん(笑)?

池上:いや。個展は見させてもらったんですけど、バーをやってるとこはちょっと見逃してしまって。

榎:あれは土曜日だけやったんかな。休みの時だけやったから。

江上:あの時もものすごい混んでましたもんね。

榎:ものすごい人やった。

池上:入れなかったかもしれないですね。

榎:整理券いるぐらいやった。

江上:バーで整理券って、どんなバーや(笑)。

池上:こういう写真とかもどなたかにお願いして。

榎:米田さんいう人がずっと、万博の時からもそうやけど、原子爆弾とか。

江上:米田定蔵(1932—)さんでしたか。

榎:そう。

池上:榎忠さんの作品をずっと撮ってくれてる。

榎:作品いうよりか、うちの近所やったんや、その人が。たまたまそのカメラのスタジオとかが。『KOUBECCO(月刊神戸っ子)』関係の仕事をずっとしてたから。僕、写真が必要な時もあったからね。もう言わなくても撮りに来てくれたりなんかしてた、案内状出すから。結局、ROSEの映画撮るのもここのスタジオを借りてやったんや。

池上:そうですか。写真がまたキマってるので、ポーズをとる様も(笑)。

江上:写真館をやってはる人ですね、ずっと神戸で。

榎:今はもう年いってね。息子が後をやってるんだけど。そういうアホなことやっとって、さっきの増田さんとかが推薦してくれたのが、「神戸でこういうことやるんけど」いうて。

池上:それがポートアイランド博覧会(《スペースロブスターP-81》を「テーマ館」で発表、1981年3月20日—9月15日)で。

榎:テーマ館やから、ちょっと色々うるさいことがあるかもわからんけど、神戸の発展してきた、こういう作品をやってほしい、言うから。僕はそんなのはあんまり分からへんから、廃材とかそんなのが使えるし、そういうのは協力できるいうから、「ああ、それやったらやりたいな」思って。僕らがなかなか手に入らないような、船とか電車の車両とかそういうのでも。その時の大きなプロデューサーが、小林公平いうて、阪急電車の、歌劇か。新喜劇ちゃうな(笑)。あそこの専務か何かやっとってん。

江上:小林一族ですね。

榎:そう。「電車もいると思う」「いや、そのぐらいやったら手に入る」いうて。「へー!」って。それで、実際これ走っとるんや、塚口線やったかな、阪急のね。それ乗りに行ってね。実際、中は木やったんや。

江上:次にありますね。

榎:これ、この電車に乗りに行ったんや。これがあと1か月ぐらいしたら廃車いうのか、正雀いうところの工場で切るから、そこへ来てくれたら、どれがいるか言うてくれたらできるから、いうて。そういう大きな部材が集まるという魅力があったから、「ほなやろか」いうて。最初はあんまりやりたくなかったんや。だけどどうせ誰かがやると思ってね。それやったら、変な彫刻なんか出されたらかなわんなと思って。僕が好きなことできるんやったらやったほうが、僕にとってもやる気が出てくるし。

池上:やりたくなかったというのは、やっぱりそういう博覧会とかそういうものに対する何か。

榎:見せ物みたいやん? なんかそういう意識があったから、あんまり最初は思わなかったんだけど。特にまたテーマ館やろ。神戸市の一番のなにいうのか。

池上:一番の目玉というか。

榎:子どももたくさん来るし、学校単位で来るからね、ああいうとこは。それやったら、変に閉鎖的に思わないで、もっと広がっていくようなとこでやるのだったら、材料も協力してくれるというのもあるし、言うたらありがたいなと思って。今までは思ってたけど、こういうことやったら思いっきりできるかなと思って。

池上:こういう大規模に廃材を使って、というのはもちろん初めてですよね。

榎:初めて。部分的には《大砲》とかあんなのではやったことあるけど、ほとんど廃品使ってこれはやった。中には作ったやつもあるけどね。

池上:鉄道の車両から船舶まで、ってすごいことになってますよね。

榎:船に実際乗りに行ってね。これか。石川島播磨へ乗りに行ってね。いっぱいつながってるの、船が。解体される順番を待ってるの。それでこのぐらいのクラスやったらいいかなと思って。

池上:実際にちゃんと乗って確かめてから、というのが榎さんらしい。

榎:ボートいうの? モーターボートみたいので、そこの業者の人と役所の人と一緒に見に行くわけ、だーっと。雨の日やったかな。最初は3枚のスクリューを描いてたんだけど、実際出てきたら4枚やったわけ(笑)。それもかえって良かったんやけどね。すごいフジツボが付いてね、いっぱい。

池上:フジツボは取ったんですか。

榎:全部磨いて。

池上:これは全長13メートルで重量が25トンとなってるんですけれども、手伝ってくれる人とかはいたんですか。

榎:だいたい小さい部品を集めて組んでいくからね。ある程度大きくなったら、業者の人に運んでもろて。いっぺんにこういう大きいもんは運び込めないわけ。だからまず大きいものをとにかく入れて、徐々に作っていって、その時とび職の人とかそういう人を頼んでセッティングしていく。

池上:アシスタントが1人か2人いたらどうにかなるようなものではないですよね。

榎:ちゃうちゃう。だから上からぶら下がって(ネジを)留めたりとか、すごかったんよ。とび職と一緒。

池上:これは今でも、今まで作られたなかで最大の作品ですか。

榎:そうやね。重量的にしたって。大きいのはあるよ、《AMAMAMA》(尼崎記念公園設置、1986年)とかね。20何メーターとかそんなの。やっぱりこういうモノとしては一番。

江上:複雑やし。

池上:これも残ってないというのが非常に残念ですね。

江上:途中まで残りかけたんですけどね。

榎:いっぺんそういう話があったんやけどね。

池上:そうなんですか。それはどなたかが。

榎:それは最終的に。いろんなとこがあったんよ、水族館とかね。だけど水族館やと海の近くやし。

池上:錆びちゃう。

榎:屋外はだめやいうてね。これは屋内用に作ってるからね、鉄板なんかでも薄い鉄板が多いから、海の潮風では傷みも速いし。あんまり塗装してしもたらこの面白さが出ないしね。そういうのは無理やって。最終的に住友金属いうところ、此花区か、今の博物館とか水族館があるとこ。あそこにそういうものができるという予測があったんだけど、その前に住友金属が金属の博物館作りたい、それにぜひ置きたい、いうて。

池上:良さそうですけど。

榎:そう考えるとやっぱり3階建てか4階建ての空間がいるわけ、高いから。そういうのを検討しよる間に、「鉄冷え」いうのか、景気が悪うなってしまって、住友金属自体がもうだめになってしまって。あそこはもう変わってしまったんだけどね。4~5年は置いてくれてたんよ、分解して。

池上:景気が悪くなったというのは、バブルがはじけてしまったということですか。

榎:いやー、バブルの前やと思う。

池上:もっと前ですよね。

榎:「鉄冷え」って、全国的な不況でなしに、金属のほうがすごく悪くなったことがあったんだけど。

江上:バブルの前にたしか重工業みたいなのがちょっと一回だめになりましたよね。

池上:そうか。屋内でこれを設置できる、引き取れるようなところがなかったという。

榎:最終的に住友金属が引き取ってくれるというんだけど、結局は、4~5年は置いておいたんだけど、もう錆びが出てしまって。

池上:それは残念でしたね。最後は住友金属が解体。

榎:もう向こうに任せてね、好きなように処分してくれ、いうて。

池上:じゃあ解体されてしまったんですね。

榎:動かすだけでものすごい費用がかかるの(笑)。

池上:でしょうね。

榎:だからもうほんとに引き取ってくれるだけでもありがたかったというか。

池上:いや、でもこれはほんとにものすごい迫力ですよね。

榎:これを、村上(隆)とかあんなのが若い時見とった。写真しか見てないんやけどね。それですごく気に入ってくれて。彼は、最初のドローイングを買ってくれたりしてね。このドローイングを村上が買うてくれてね。彼もその頃結構いろんなものがボンボン売れ出した頃や。金持ちになってた頃や(笑)。

池上:村上さんて、隆のほうですか、三郎のほう?

榎:隆。

池上:隆のほうですよね。村上隆がちょっと稼ぎだした頃にこれを買った。

榎:これはアートフェアいうて、東京の山本現代が「出さないか」って、それで初めて。森美術館でやる予定ができた頃やったんかな。山本(ゆうこ)さんが、椹木さんの奥さんやけど、ちょっと費用を稼がなあかんいうことで、銃とかドローイングを展示したんかな。ドローイングは売るつもりでなかったんだけど、村上が「よそに売るんやったら絶対欲しい。売らんとってくれ」いうて。「ほな買うか?」言うたら、「買えるんか?」言うから、「買ってくれるんやったら売るよ」いうて。で、買ってくれたんかな。
なんかこういうようにやっていったら、次々うまくつながっていくというのか。面白いなと思って。だから何かやる時に、次何かやりたいとか、そういうのは全然僕もたない方やから。とにかくそれをやりきってしまったら、あと何つくるか分からへんし、どういう動きをしていいのか分からないし、先のことは考えんとやるから。だから今一番のんびりしたい時期やけど、なんか今一番不安みたいなとこで。これからどうしていこうかなと思たりして。そういうとこから、また何かやりたいものがあれば立ち上がってくるかなと思うし。それまでは放ったらかしてるの、自分を。

池上:この頃はほんとに次から次へと発表の機会がある感じですよね。この次の年にまた個展をされていて。

榎:次は《原子爆弾》(「U235Pu239 原子爆弾」、神戸・花銀別館大西ビル、1982年5月2日—9日)かなあ。

江上:《原子爆弾》です。

榎:あ、その時代。

池上:そうですね。《リトルボーイ》という。

榎:これはまた、たまたま二宮に「海皇(ハイファン)」というのがあったんだけど、そこに「クア」いうてお湯が出てくるとこがあるわけ。そこの地下で、「場所があるから使ってみいひんか」いうて。倉庫で、資材をいっぱい置いてたんやけどね、それを貸してくれる。何年でもいいいうから。それを片付けしながら、その間にいろんな映画やったり、舞踏やったり。田中泯(1945—)とかが来て「使わせてくれ」とか、いろんなことやったんだけどね。最後に僕の展覧会が目的やったから、やったんだけど。そういうふうに偶然と、場所とか、なんか面白い場所を提供いうのか、貸してくれる人がだんだん出始めたというのか。

池上:今までも原発とか原子力に関することってずっと、この展覧会をする前にも。

榎:あったよ。

池上:あったと思うんですけど、この展覧会で初めて《リトルボーイ》という、まさに原爆の名前をバーンとつけはって。それに至る心境というのはどういうものがあったんでしょうか。

榎:心境いうかね、ああいう原発とか反核、その時は原発いうより反核のほうが強かったかな。

池上:そうですか。

榎:その時に、言葉とかそういうんじゃなくて、集団でするのも大事やと思うんだけど、僕は美術のほうをやってるから、そういう方面から、メッセージにしろ、告発にしろ、やりたいなというのがあったから。集団でいろんな人の署名取ったりとか、そういう運動ももちろん大事やと思うけどね。僕自身が単なる、何万分の1かどうか知らないけど、そういうのに参加することは大事やいうのは分かってるけど、それよかもっと方法もあるのとちがうかな、という。僕の考え方はそういうものを持ってるから。ただ原発は悪いとか、戦争に使われるものは悪いとか、そんなの誰でも分かってることなんだけど、そういう、作ってみようとする人間の心境みたいなものを僕ら想像するわけ。原発のウランとかを発見した人でも、これで原子爆弾作るように思ってたわけじゃないと思うねん。

池上:最初はね、発見した時はそうですよね。

榎:ノーベルいう人も、火薬とかああいうのでもそうやと思うんだけど。だけど人間がそれを戦争に利用したり、殺傷力が強いことが分かるからそういうふうに使っていくいう。なんかそっちのほうに興味があるわけ。実際の原子爆弾は作られへんけど、そういう心境にどこまで自分が入っていけるかという。それにはあんまり抽象的な、作品的な原爆ではだめなわけ。やっぱりもっと具象的な。

池上:そのものズバリというか。

榎:そうそう。見たら、「あ、これは原爆」とかいうのが分かるような感じにするわけ。あんまり変に作品とか芸術とか美術いうのでなしに、そういうとこでやっていきたいなと。だから、発明した人とか人間の想像力とか、そういうものがすごく興味があるいうの、面白いなと思うし。

池上:実際に作ってみて、その心境に近づくことというのはできましたか。

榎:うーん、心境いうかね、「ものづくりってそうやな」いうのは分かる。たしかに原子爆弾とか銃とか、そういうものではないんだけど、殺傷できるものでないんだけど、モノマネいうのか、具象的な似たようなもんやけど、実際は似て全然違うもんやん? そういうもんだけど、モノを作るというのは、やっぱりそういう魅力いうのか。

池上:だから兵器だろうが。

榎:なんか引きこまれる。

池上:銃だろうが。

榎:何であろうが。

池上:作ってる時は夢中になっちゃう。

榎:うん。その辺の人間の心境いうのか。だから僕にも、こんなの作れば、使ってみたい、見せたくなるとか、なんかそういうようになっていくやん? なんか人間のものすごく凶悪な面とか、欲いうのか、そういうものがどこまで自分に耐えられたり考えたりできるか、というものがあるんだけど。そのへんの魅力いうのが、ものづくりいうのか。

池上:あやうさと紙一重みたいな。

榎:その辺が、ものづくりにすごく魅力あるいうの? 彫りものにしたって、ものすごく細かい、こんなの人間がやるのかなと思うぐらいすごい職人とかおるやん? そういうのが感じられるわけ。やっぱり人間ってすごいな、いうのか。だから僕はいつも、ホンモンでもない、美術とかなんかそういうの言うてる、ある意味変に中途半端なとこでやってるないう気はしながら、だけどやっぱり作りたくなるいうのか。

池上:でも、こういうのを作りっても、ただの告発じゃないというのは、そういうところなんだなと。

榎:うん。だからものすごい人間個人の想像力もあるし、人間として生まれている人は、みんなそういうことを考えるという。それはまあ人間の特権かなと思うし。その特権を悪く使う人もおるけどね。だけどそういう危ういものやと思うねん、ものづくりって。そういうのはすごく惹かれる。

池上:これも、残ってはない?

榎:これも残ってない。ほんとはどこかが買ってくれたんや、これ。だけどどうなってるのか分からない。靫ギャラリーというのが大阪にあったんやけど。そこの桜井(弘子)さんいう女の人が買ってくれたんやけど。

池上:買ってくれたということは、どこかに残ってる?

榎:置くとこがない。大きいんよ、これ結構。河内の方やったかな。兄貴が農業かなんかをやってたかな。そこの納屋が空いてるからいうて置いてたんやけど、置いてたら、納屋やし、湿気があるから、「鉄やから錆びるよ」言うたんやけど、「いや、かまわないから欲しいんや」いうて。

池上:どうなってるか、見に行ってみたいですね。

榎:たぶんないと思う。兄貴にほかされてると思う。これも一緒でね。後ろにある自動車の排気ガスのマフラーなんだけど(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、114頁)。その頃、原発とか反核運動はあって、自動車の公害とかは出ていたんだけど、そういう告発なんかの運動みたいなものは(僕はしない)。これ地下なんだけど、この下に水を貯める水槽みたいなのがあるわけ。そこからメタンガスみたいな感じでマフラーをつなぎ合わせてるんやけどね。徐々に自然とか人を犯していくというのか。それと一瞬に、人を殺すのという、対比したような武器なんや。

池上:両方。

榎:だけど、問題になっている、大量殺人とか戦争いうのは反核とかそんなので運動はあるんだけど、まだまだそういうCO2いうのか、排気ガスとかそういう問題はあまり出てなかった。その時に、そういうひとつの人殺しの方法としてこの作品をやってたんだけど。ここの窓に少しダイオキシンの芽が出てるんよ(笑)。その時はあまり言ってはなかったんだけど。その後にダイオキシンがダーッと。それは、成長していくやつが次の喫茶店になっていくんやけど。

池上:この展覧会ですでにその芽はあって。ダイオキシンのお話まで聞いて、今日はいったん切りがいいところで、ということにしようかと思います。この写真もすごい迫力なんですけど、これが喫茶店のスズヤでやられた。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、120–23頁)

榎:スズヤいうて、春日野道の、阪神に近いんかな。阪神の春日野道に近い商店街の、ちょっと東に入ったところか。

池上:今もありますかね。

榎:今はマンションになってしまってる。そこは友だちのお母さんが喫茶店をやってたんだけど、お母さんが年いって、もう喫茶店をやるのはちょっと。病気かなんかしたのかな。息子と娘がおったんだけど、その息子も娘も研究所へデッサンを習いに来てた関係で。僕も何年もずっと場所を探しているわけ。そういうことを前に言ってて。「こういう喫茶店をうちのお母さんがやってたんやけど、やめて、そのまま空いてる」言うからね。「ほな、いっぺん見に行くわ」言うて。

池上:じゃあもう喫茶店じゃなかったんですか、これをやった時は。

榎:店はやってない。だけど喫茶店のままやったんや。イスやそういうのが全部残ってるんだけど、それを片付けして、2階へ運んで。床もめくってね。

池上:今これ見ながら、「喫茶営業できないな」と思ってね(笑)。もしまだやってたら。

榎:風呂からもう全部、2階へ上がっていくやつとかね、いろんなのを利用して。

池上:家そのものをインスタレーションに使ったという。また子どもが喜んで。

江上:お店兼住宅やったんでしょ? ここが風呂場で。

榎:そうそう。2階に住宅みたいなのがあってね。

池上:このタイトルの《2・3・7・8 TCDD Propagation Dioxin》というのですかね。これは?

榎:これはダイオキシンの記号いうのか。そういういろんな番号があるの。2・3なんとかでもいろんな番号があって。毒性が強いのが、この時世界で一番きつい、強い毒性があるダイオキシンがその番号らしいんよ。

池上:ダイオキシンの種類を表記する記号。

榎:そうそう。こういうふうに、化学記号かなんか知らんけどね、角形かなんかで記号があってね、それの組み合わせによっていろんな猛毒が出てくるんよ。

池上:番号が変わってくるんでしょうね、種類とか毒性によって。

榎:そうそう。原爆もそう。PU-239(プルトニウム)とかU-235(ウラン)とかいうので。そういう中で、ちょうどそういう場所があったし、前から気になっとったんや、ダイオキシンいうのはね。

池上:ゴミ処理場からそういうものが出てという。ここにあるのは、マスコミを騒がせたんだけども、1週間で報道がやんでしまってという。

榎:1週間もなかったぐらいよ。テレビとかあんなので、すごい最強の猛毒が出たいうて。だけどもう2、3日して新聞の一面から全部消えてしもた。

池上:そうですか。

榎:それは、どういうのか、気になるわけ、こっちにしたら。

池上:あやしすぎますよね。消えるわけないし。

榎:その頃、プラスチックいうのがごっつう出だした頃やったんや、ビニールとか。その時に企業がすごく、積水とかああいうとこが、窓枠とかあんなのに塩化ビニールを使い出した、プラスチックとか。そういうことがあるから、そんなのがボンと出たら困るわけ、企業としたら。だから国とか、情報を流す方は全部シャットアウトするわけ。こっちにしたら「なんでかな」と思うわけ。余計何か裏があるのとちがうかなと思うわけ。それはずーっと思ってたんだけど、作品にしようというのはなかなかなかった。
僕が地震の前におった、家で展覧会をやったとこが、まだ山の方やったから土の道やったんよ。それを、議員さんかなんかが、地元の人の力でアスファルトにしてしもたんや、地面を。そうしたら、春になったらアスファルトを割って、細い草花とかぺんぺん草みたいなのが出てくるの。

江上・池上:へえ。

榎:アスファルトからよ、ワーッと割って。アメリカタンポポいうのが、日本のタンポポはほとんどなくなってくるんやけど、アメリカタンポポいうのはものすごく力が強いの。そういう強いやつはそういうとこを割って出てくるんよ。そうしたらほかの弱い植物はどうなったのかと思うわけ。みんな死んでしまったのかね。だけど違った生き方を見つけて、地中で育つような生き方をしてるのか、想像するわけ。そんならもう気になって、たまらなくなってくるわけ(笑)。それでダイオキシンとか、その時ベトナム戦争の枯れ葉剤とか、あんなのが使われてるというのを後で聞いたんかな。すごい猛毒がどこへ行ったんかなと思ってたら戦争に使われてたんや。そういうことで、「これはやらなあかんな」と思って。ずっと場所は探してたんだけど、たまたまここが空いたということを聞いて。下町で突如、美術館とかギャラリーじゃなしに、バッとドア開けたら、表に看板がある喫茶店を開けたら、こんなのが繁殖してるいうの? そういう感じにもっていくというのかな。

池上:これも鉄で作ってるんですよね。

榎:全部鉄。全部つながってんの。ポンとどっか叩いたら、ボーンと揺れたりね、音がずっと響くわけ。風呂入っとるやつもおるしね。

池上:ダイオキシンが風呂入ってる(笑)。

榎:真っ青な、ブルーの風呂の水やねん。そういう不思議な風呂に入っとったりね。鏡見てたり、いろんなやつがおって。2階へ上がってるやつとか。ここはものすごく古い建物やってね。床めくって、下に出てくるのはレンガとか瓦とか、戦争の時焼け野原だったにおいがそのまま出てくるの。その時ごっつい、あの辺ね。

池上:ああ、春日野道とかは焼かれてますよね。

榎:空襲されたりしたんやって。そういうとこが、掘り出したら、そういうにおいとか。

池上:土地の記憶みたいなものともつながりますね。

榎:その近くで友だちが喫茶店をやってて、コーヒーを沸かした後のカスをもらって。ええ匂いがするんよ、コーヒーの香りと。それを何日か置いてたら、冷たいコーヒーから出るコーヒーのカスがごっついいい匂いがするんだけど、カビが生えるんや。これ、結構カビが生えてんねん。なんともいえん感じやねん。それににおいがあってね。カビが生えてね。そういう中でこういうダイオキシンが。これが全部変形してるの、顔が、へっこんだり、ポコッとふくれたりしてね。ベトナム戦争でダイオキシンを使ったら、子どもとか妊娠した人とか、卵とか穀物なんかを巣にするんやって、ダイオキシンは。そういう性質を持ってるんやって。だから子どもに奇形児とかそういうのが出るわけ。そういう中で、全部、目が飛び出たり、へっこんだりしてるの。こういうようにへっこんだり、こっちが出たり、変形してるんやんか。
ちょうどその頃に関空いうのが出来始める、準備やってた頃やったかな。そこへ淀川とかいろんな川が、ずっとたまり場になると想定してね、大阪湾が。そこにダイオキシンの巣ができるというのか。その時にみんなが楽しみにしてるわけ、「あそこに自分たちの仲間が来るな」と思って。みんな関空をにらんでるわけ。全部こっち向いてるの。

池上:関空を向いてるんですか。

榎:向いてるの。

池上:ああ、そうなんですか(笑)。

江上:南の方面で。

池上:仲間があの港にできるって。

榎:ここは閉じ込められた世界やったんやけど、僕が掘り起こしたことによって、ガーッとワラビみたいに繁殖していくというか。

江上:いや~。

池上:すごい。

榎:これは街に出た、さんちか広場やけどね。もう一個、甲南大学の近くのとこに、橋本くんていう建築家の家の周りにバーッとこれがあるんや。これがどんどん徐々に外へ出ていってね、繁殖(Propagation)していきよる。水道筋のもそうやけど。もう一個の、岡本にあるのはね、木にくい込んで。(注:『Everyday Life/Art Enoki Chu』、126頁)

江上:ほんまや! わ~。

池上:これは今も見れるんですかね。

榎:見れるよ、そこへ行ったら。

江上:これはお家ですか、個人の。

榎:個人の家。植松なんかの先輩やねん、神戸大学の。

池上:中に入らないと見れないか。ちょっと見に行きたいな。

榎:岡本の川沿いをずっと上がって、埋め立てしたとこ。

池上:梅林公園の。

榎:うん、あの上の方。

池上:いいとこですね。

榎:木が小さかったんや、作った時は。それが、何十年たったら木のほうが大きくなって。これは動かないからね。

池上:巻き込まれてね。

江上:一体化してる。

榎:一個だけ家の中をのぞき込んどるのがおるの。

江上:へー、狙ってる。

池上:狙ってるんですね。

榎:家の中の様子見とるんや。これがあそこの水道筋の。

池上:これですか。

榎:うん。これはブラッケンサウルスいうて、ワラビ。繁殖していくわけ、ずっと、根っこが。

池上:こういうのは当時どこで作っておられたんですか。

榎:うちの会社。仕事終わった後とか、休みに作ったりとか。友だちとこの場所借りたりして。細かいものはうちの会社でできるけど、大きく組んでいくというとなかなか広いとこでないとできない。こういうとこ(今のアトリエ)なかったからね、まだ。全部中で組み合わせるわけ。出る時は全部またバラしてね、全部ガス(バーナー)で切って運び出す。

池上:さっきのスズヤのも、このままは持って来れないし、出れないだろうなと思って。今日もすごくたくさんお話を聞かせていただいて。今日はこの辺にして、また次回お願いしたいと思います。w