畠山直哉 オーラル・ヒストリー 第2回

2016年8月30日

東京都練馬区、畠山直哉氏アトリエにて
インタヴュアー:青山勝、牧口千夏
書き起こし:青山勝
公開日:2026年3月11日

青山:今日は2回目のインタヴューになります。今回は畠山さんのアトリエに来ておりますので、まずこのアトリエについてお聞きしたいと思います。前回、2011年の震災の年にこのアトリエを構えたと伺いましたが、アトリエを整備しようと思ったきっかけについてお話しいただけますでしょうか。

畠山:ここは、そんな特別すばらしいものってわけでもないんですけど、ただ、前に使っていたのは、有楽町線千川駅のそばにあった古いマンションの最上階の部屋で、ワンルームプラス台所、お風呂みたいな感じでした。そこはちょっと狭くて、それで、もう少し広いところで仕事がしたいなと思って探し始めまして、1カ月かそのくらいで、ここが見つかりました。でも、空っぽで天井も張ってなくて、前は100円ショップだの倉庫だのに使われてた場所だったんですけど、広さも適当だし、天井高があるので。

青山:だからシャッターが、もともとついていたんですね。

畠山:そうです。それで、友人の建築家の武松幸治(たけまつ・ゆきはる)さんに頼んで、床を張ったり、棚を作ったりする相談をしました。あと、壁を一枚、中間に立てて、その後ろを暗室にするっていう設計もやってもらいました。僕にしてはお金を使った感じで作ったんです。まあ年齢も50だし、そろそろ落ち着いて仕事ができる部屋があったほうがいいなと思って、そうしました。

青山:2011年にこちらに移られたということですが、11年といえば、ちょうど東京都写真美術館で個展「ナチュラル・ストーリーズ」があった年ですね。

畠山:(アトリエを探していたのは)震災前だったですね。ちょうど工事が終わって、さあっていうあたりで地震が来ちゃったって感じですかね。

青山:こちらのアトリエができたことで、制作になにか影響はありましたか。

畠山:プリントを壁にかけて見ることが容易になりましたね。もちろん前の部屋でもやってたんですが、壁がそんなに大きくなかったんで、こっちと比べると3分の1くらいしかかかんなかったんじゃないかな。

青山:今日もちょうどそういう現場に来ていますが(註:インタヴュー時、畠山はせんだいメディアテークでの個展「まっぷたつの風景」の準備中であった)、こんなふうに展示(室)の模型を作って空間を確かめるっていう作業はずいぶん前からされてるんでしょうか。

畠山:はい、やってます。個展のときは、ほぼ必ず。巡回展とかになると、すべての会場は作れないですが、やりますね。でも今回の模型は縮尺が以前とは違って20分の1です。以前は50分の1くらいでやってたんですけど、今回はせんだいメディアテークのほうでその大きさでいっぺん作っちゃったんですね。これを僕が仙台で見たときに、その大きさが非常に具体的だったんで、「東京に持ってっていいですか」っていう感じで持ってきたんです。ただ、テーブルがなかったんで、テーブルを作りました(笑)。テーブルを作って、それで模型の到着を待って載せたという感じです。

青山:紙コップに、畠山さんの作品を縮小したものが入ってますが、あれは普段から模型用にストックされてるものですか。

畠山:いいえ。あれは仙台の若いスタッフが面白がって、僕の写真集から作ったものですね。今回、新たに作りました。

青山:では、普段はその都度作っておられるわけですね。

畠山:作ってます。自分一人だけでやる場合は、大きさだけそろえて、画像はプリンターとか使わないで、手描きの絵で済ませたこともあります。でも、作品の大きさがどのくらいか、壁に対してどのくらいか、あるいは、隣の作品との距離はどのくらいかってことを見ないと、どうにも落ち着かないですね。

青山:前にここに来させていただいたときも、いくつか作品を並べておられました。最終的に発表されなかった作品も、そのときには並べておられたように思います。壁の利用の仕方についてですが、作品を壁に貼ってしばらく眺めてみるっていう感じでしょうか。

畠山:プリントを最初に作るときというのは興奮していますから、例えば、コンタクトプリントから見つけて、これ伸ばしてみたいなっていって、うまく伸ばせた。そうすると、それなりの満足感とか興奮とかがあるわけですよね。でも、そのことと、いったいこれがほかの作品との間でどのような意味を持つかとかいうことは別に考えなくちゃいけないでしょ。だから、ある程度さらす必要があるんですよ。壁に貼って長い間見ていると、だんだん魅力が失せてくるものと、いつまでたっても結構大丈夫なものとが出てきちゃうんです。そういうふうにして判断するためにも、壁に掛けるっていうのはいいことだと思いますね。しかも、写真はもともと壁に掛けるものか、それとも掛けずに印刷されるものかっていうのは結構、写真家によって態度として異なるものだと思うんです。60年代から80年代あたり、印刷物中心に仕事していた人たちは、あまり壁に掛けるということに対して関心を持っていなかったかもしれないですよ。だけど、いわゆる「コンポラ」あたりから、写真展として写真を見せるという態度の人たちが増えてきましたからね。そうするとやはり、プリントというものに対するこだわりがあの時代に結構生まれてきた。80年前後ですね。70年代後半から80年前後。プリントを扱うギャラリーが出てきたのも、あのころですね。つまり単なるグラフィック、あるいは印刷された写真ではなくて、ある種の物性を伴った紙の上のプリントですね、その価値に目覚めたっていうのが僕の上の世代、および僕たちです。ですから、コンピューターの画面で写真を見ることには満足できない人たちってことですね(笑)。つまり、いちど紙の上に焼いて、それをまず眺めるというのが、写真を発表する以前の大事な時間になってくるわけです。

青山:今のお話にも少し関連しますが、大阪の「アートエリアB1(ビーワン)」での展示(註:京阪電車なにわ橋駅地下1階コンコースにあるスペースで2016年3月11日から6月26日まで開催されたグループ展「ニュー“コロニー/アイランド”2〜災害にまつわる所作と対話」)についてお伺いしたいと思います。我々も展示を拝見しましたが、スライドショーというかたちでの展示でした。会場の特殊性もあったかと思いますが、いろいろ考えられて、スライドショーというかたちになったと思います。〈陸前高田〉のシリーズについては、畠山さんは、もちろん美術館やギャラリーでのプリントの展示というかたちでも発表されているし、それから本としてつまり写真集というかたちでも発表されています。今回はスライドショーというかたちで、プリントと比べた場合、いろいろな違いがありますね。一つには、たくさんの数の写真を見せられる。あれ結構長かったですよね、全部一通り見ようと思うと30分以上かかったはずです。

畠山:200点くらいは見せたはずだな。

青山:写真を見せるメディアが違うときに、特に今回の〈陸前高田〉のシリーズにおいて、たとえば写真のセレクトの仕方などに大きな違いはありましたか。

畠山:まず、僕自身がスライドショー的なことを行ったのは2011年の「ナチュラル・ストーリーズ」展での〈気仙川〉なんですね。あのときはもちろんプリントを事前に焼いてはいますけども、それを壁に並べるっていう発想はあまり出てこなかった。壁に掛けられる写真っていうのは、ある種、絵画にも似てくるように思えます。絵画の(歴史の)中でも、グラフィックだけを強調するものじゃなくって、絵画が持っている物性みたいなものに意識が高くなったのは、たぶん20世紀の美術の特徴だったと思うんですよ。だから、そこに何が描いてあるかっていうことに加えて、どのように描かれているか、何の上に描かれているか、どんなテクスチャーを持っているか、ということが、やはり重要になってきたと思うんですね。そうすると彫刻というものと絵画というものが、ある種、共通項を持って語られるような、なにかそういう新しい見取図のようなものが出てきて、そこで立体とか平面とかといった言葉が新たに生まれてきたと思うんです。それがたぶん、戦後美術の流れだった。そういう流れの中から、やはり戦後の写真芸術も生まれています。19世紀から連綿とリニアに続いているように見えて、実は20世紀の写真芸術というのは、結構、強力にレディメイドの思想に影響されています。だから、そのことを意識している人、あるいは無意識にそういうことをしている人、あるいは全然知らない人、さまざまかもしれませんけど、僕自身は教わったのが大辻清司さんだったせいもあって、シュルレアリスム、ダダイスムのことは(学生の時代に)もう聞いてましたから。写真が持ってる「物性」——この物性っていうのは、プリントであることだけじゃないんですよ。もうちょっと形而上学的な部分まで含んだ議論なんですよね。これはまだまだ十分言葉にされているとは僕は思っていないんです。写真における、ものとか物性、それから物質、物体っていうものを一所懸命語ろうとしていたのが、ちょうど僕が学生時代だった頃の写真の状況だったと思います。それは十分語られたとは僕は思っていません。でも、そのあたりのことを語らないと、その後の、いわゆるマーケットでの写真のブームもきちんと分析できないような気がするわけ。それから、デジタルフォトグラフィーの時代になって、どうして写真に変革が起こらないのかってことの説明もできないと思うんですよ。つまり、古い考え方、古い姿勢のままで新しい技術を使おうとするから、つまり、うまくページをめくれないっていう状況にあるんだと思うんです。20世紀の写真芸術をまねて、いくらインクジェットプリントのクオリティを上げていっても、なにか20世紀のいわゆるオーセンティックなプリントの、あの秘密に近づくことはできないっていうなにか、そういう苛立ちをみんな感じてるはずなんですよ。でも、そういうのを見ないようにして、ばんばんプリントして、まあ、プリントはプリントだからって、みんなサインして売っていますけど、でもそういうことを続けていたら、やがて写真プリントの魅力はもちろんなくなっていくし、コレクターもだんだん興味をなくしていくし、ってことになると思いますね。話が、逸れちゃいましたけど。
 〈気仙川〉のスライドショーに関しては、プリントでは見せたくなかった、つまり凝固したものとして、固体のようなものとして映像を扱いたくなかったってことですね。この眺めはもう、今はないのだっていう、そういう気持ちを強調するためにもスライドショーはいいと思った。だからスライドショーにした。B1のスライドショーに関しては、一つ新しい要素を加えたんですね。日づけです。日づけとクロノロジー。物語を編むようにして、例えば、幼い子どもの顔のアップのあとに空の写真とかさ、そういうふうに映画的にスライドショーを組むっていうことがありますが、そういうことではなしに、2011年3月から現在まで、撮った順で、ただクロノロジカルに並べる。そこに日づけをつけた。そうするとなにかカレンダーをめくっているみたいな感じ、日めくりの風景カレンダーみたいな感じですか、そういう気持ちでそれを5年ぶん見ましょうよってことですね。たしかに、(アートエリアB1の)木ノ下智恵子さんから「プリントを展示するにはちょっとどうかなっていう場所なんですけどね」って言われたんで、スライドショーのほうがいいかなって思ったってこともあります。大量に見せられるしね。

青山:あまりこれまで見たことのない写真も入っていましたね。

畠山:映写の条件はそれほどよくなかったですけど、大きな画面で自分の撮った写真を見るっていうのは、またこれもちょっと独特な体験でね。

牧口:〈気仙川〉のときはモニターでした。今回プロジェクションで大きな画面にしたというのは、どういう意図があったんでしょうか。

畠山:B1の企画は、結構、直前あたりにどたばたで、向こうからいろんなことがあって、データを渡した、つまり写真を渡したのも京都にいたときだったでしょ。あなた方と一緒の……

牧口:シンポジウムのときですね(註:畠山直哉オーラル・ヒストリー、2016年3月6日参照)。

畠山:そう。あの直前に写真を選んで、(そのデータの入った)メモリースティックを渡したりして、どたばただったんですよ。お金もそんなにないし。だからやれる範囲でいいってことで。

牧口:そうか。じゃあ、モニターよりプロジェクターのほうが、向こうはやりやすかったっていうことですか。

畠山:モニターって、僕はあの地面からどーんと立って、ばーんってプラズマのスクリーンが立ってるとか、ああいうものに写真を流すのってあんまり好きじゃないですね。フォーマットも違うし。

牧口:そうですね。

畠山:で、なにか両側が黒かったりして、残念な感じっぽいし(笑)。

青山:横に伸びたり(笑)。

畠山:そうそう。

青山:前回のインタビューでは後半、お話がちょっと駆け足になってしまいましたので、そのあたりを補足するようなかたちで進められればと思っています。
まず、大学に入る前の話にまたちょっと戻ります。前回、大学に入るまでに芸術に触れる環境がどのようなものだったかお話を伺いました。特に文学というか、国語の時間とか、そういうところで芸術的なものを少し感じていたというようなお話がありました。一方、畠山さんは、大学ではビル・ヴィオラの映像作品を見たり、その後は映像の仕事をされたりもしているわけですが、大学入学以前に、映画やテレビなど、「映像」的なものに接した経験というのはどのようなものだったのでしょうか。何か思い出されることがあれば教えてください。

畠山:子どもの頃の話で言うと、やはりなんといっても円谷プロですね。昭和30年代には陸前高田に3つ映画館がありました。セントラル、東映、公友館。東映はもちろん、東映の作品を流してたし、セントラルは、松竹系の映画や日活の映画が多かったですね。それで公友館は東宝、そういう配給会社、制作会社によって館が違ってたっていうのは、たぶんよくあることだと思うんですよ。洋画はあんまり見てなかったかな。最初に洋画ってものを意識したのは中学生の頃、友達が一所懸命見に行ってた『エマニュエル夫人』(ジュスト・ジャカン監督、1974年)とかですかね。あとは、アンディ・ウォーホルが(監修として)参加した『悪魔のはらわた』(ポール・モリセイ監督、1973年)とか、3D映画もありましたね。あれ結構、強烈だったな。それからエルビス・プレスリーのドキュメンタリー。大ヒットしたんですけど、『エルビス・オン・ステージ』(デニス・サンダース監督、1970年)とかありましたね。それを公友館で見た記憶はありますね。あとは、いわゆるアートフィルムっていうものを見たとしたら、『フェリーニのアマルコルド』(フェデリコ・フェリーニ監督、1973年)っていうのを、あんなど田舎の公友館で見た記憶がありますね。

青山:それは高校生の頃でしょうか。

畠山:高校生の頃だったと思いますね。非常に新鮮でしたね。

青山:映画館で一年に何本ぐらい見ておられましたか。

畠山:僕はそんなに映画が好きだってはっきり自覚してたわけじゃないですからね。だから話題になった映画を見に行くみたいな。子どもの頃はもちろん漫画映画が好きだったし、『狼少年ケン』とか、ああいうのを一所懸命見に行きましたよ。それから東宝の円谷プロの怪獣映画、あれは必ず行ってた。だから青山さんみたいに映画から芸術って言葉を連想する、そういう習慣はないですね、僕には。高校まではないです。
怪獣映画は結構、テレビでも『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、それから『ウルトラセブン』くらいまでは、僕が多感な時期にやっていたやつですからね。それ以降、ウルトラシリーズも、ちょっとだめになっちゃいましたけど、『ウルトラセブン』あたりまでの、いわゆる倫理をテーマにした物語構成って、結構、子どもたちのものの考え方に影響してると思いますね。倫理とか難問とかね。例えば、文明が発達することによって起きてくる負の側面、それから、手がつけられないほどの自然の猛威とか、ああいったものを、あの時代の円谷プロ作品は真正面から扱ってましたから。だからずいぶん影響受けてると思いますよ。僕の父の世代だと、これがまたやっぱりジャン・ギャバンとか見てますから。『ペペ・ル・モコ(望郷)』(ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、1937年)とか、ああいうの見てるくちですからね。ただ、それ以降の、あの時代、例えば僕が子どもの頃に、ヨーロッパ映画っていうと、やっぱ田舎じゃあんまりヒットしないわけですよね。『シェルブールの雨傘』(ジャック・ドゥミ監督、1964年)とか、あれはひょっとしたら、かけたのかもしれないね。だけどヌーヴェル・ヴァーグなんてとんでもないって感じですよ。あんなものかけたってもう、客なんか入らないですよね。

牧口:ハリウッド映画は?

畠山:ハリウッド映画っていうと、あの頃は何があったですかね。まあ、いろいろきてたと思いますよ。『ダーティーハリー』シリーズ(第1作はドン・シーゲル監督、1971年)とか見ました、たしかにね。それは見た。あとは西部劇。いわゆる『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督、1952年)とか、ああいうやつ。

牧口:『ゴッドファーザー』(註:Part Iはフランシス・フォード・コッポラ監督、1972年)とか…

畠山:そうそう。そういう、アカデミー賞をその年に取ったようなやつは、さすがに陸前高田の公友館でもかかってましたよ。

牧口:高校生ぐらいですか。

畠山:そうだね。中学、高校。

牧口:私から1つ。1970年に大阪万博がありました。その時期の畠山さんは、どんな感じでしたか。

畠山:僕はたしか、中学生か小学生でしょ、あの頃。それで、ガイドブックを眺めて、ため息ついてましたね、すげーとか言って。ガイドブックはたくさん出たんですよ、子ども向けの。

牧口:実際は見てはいないけれども、それでもガイドブックで……

畠山:そうそう。あとは、当時の科学技術の粋を集めた建築とか、そういうのはあったじゃない。空気を入れると立ち上がる建築とかさ。あとは、べらぼうに美しい細かなデザインとか、ありましたよね。ああいうのを見て、へえ、すごいものだなあっていうふうに思ってました。で、それを大学に入ってから、山口勝弘さんなんかが、ああいうことに関わってたことが分かったしね。当時、脂の乗ってたアーティストたちがずいぶんな数、参加してましたから。宇佐美圭司ですら、彫刻作品とか作ってたでしょ。レーザー光で、アクリルとレーザーで。まあ、大辻さんからは、あんまり聞かなかったけど、でも、知り合いで、おうち建てたっていう話は大辻さんから聞いて(笑)。写真を撮ってる知り合いで。万博後、家を建てたみたいな。だから大きな仕事になってたんですね、みんなね。もちろん反博なんて動きがあったことも、学生でしたから、ずっと同時に眺めてましたね。時々、山口さんのこと、ああ、この人は体制側の人間なのかなあと思ったりして。

青山:(笑)

畠山:まあ、それほどのことでもないんですけど(笑)。ふと、そのときは考えたりしてました。

青山:その後大学に入り、修士に進み、というあたりの話は前回、詳しく聞かせていただきました。年譜を見ながら、もう一度復習しますと、ボイスのビデオのディレクターを務められたのが1984年で20代の後半、そのあと、85年から86年にかけて、石灰石鉱山の撮影を開始ということになってます。ちなみにちょっと話それるんですけど、お誕生日って何月何日ですか(笑)。

畠山:3月19日です。魚座です。

青山:高校生のときに、セメント工場の絵を描かれていますね。あれは陸前高田でしょうか。

畠山:大船渡です。

青山:では、大船渡高校の近くにあったということでしょうか。

畠山:大船渡高校の近所の工場ですね。

青山:そういう場所に、大学に入られる前から親しんでおられて、その後筑波大学に入って写真に出会い、さらに東京に行かれ、その後セメント工場での撮影を開始されたというお話は、『話す写真』(小学館、2010年)の中にも書かれています。撮影を開始されて、その後もずーっと継続しながらも、チュニジアでの撮影もあったり、それから今度は石灰石鉱山の撮影も、91年、33歳ぐらいから始められています。そういうあたりまで、いろいろとお話を伺ってきているところです。ちょうどその33歳ぐらいのときに、内藤礼さんの作品「地上にひとつの場所を」の撮影をしたと書かれているんですが、この撮影にはどんなきっかけがあったのでしょうか。

畠山:撮ってみませんかって僕に声をかけたのは、ペヨトル工房の今野裕一さんです。今野裕一さんとは、ヨーゼフ・ボイス・イン・ジャパンの頃からの知り合いで、それで、彼は当時『夜想』とか、『Ur』とか、あと、『銀星倶楽部』とか、いろんなメディアを持ってたんです。それでときどき僕をカメラマンとして、「ちょっとこれ撮ってみない?」みたいな感じで声をかけてくれてたんです。今野裕一さんは内藤礼さんの仕事に注目していて、佐賀町(エキシビット・スペース、1991年)で大きい作品展示をするっていうんで、自分の雑誌にページをどんと作りたかったんですね。それでカメラマンっていうときに僕のことが頭に浮かんで、それで紹介されて僕が撮った。
それまでも内藤さんの名前はもちろん知っていました。僕よりちょっと下の、いわゆる「超少女」的な語られ方で、三上晴子とか、なにかもうあの時代、何人か出てきたんですよね。

青山:その後ずっと、かなりの作品を内藤礼さんの展示があるごとに撮っておられると思うんですけれども、それは、今度は内藤礼さんからの依頼というか、指名というかたちになのでしょうか。

畠山:すべて僕が撮ってるわけじゃないんですよ。

青山:でも、かなり撮ってられますよね。

畠山:かなり撮ってる。内藤さんがお金、なんていうか、写真撮るに際してどこが予算を持つか、予算を出すのかによって、予算を出す人がカメラマンを選ぶ場合ってのがあるんですね。そういうときに僕に声がかかんないことも、もちろんあります。でも、内藤さんの意見が通る場合、誰にしましょうかね、なんていうふうに内藤さんが相談される場合は僕の名前を出してくれてると思うんですよね。それで僕のところに話がくる。

青山:信頼されてるっていうことですね、内藤さんからすれば、自分の作品を、畠山さんならきちんと撮ってくれるだろうと。

畠山:まあ、そう信じたいです。

青山:もちろんそうだと思うんですけれども。そういう意味では、おつき合いは長いと思うんですが。

畠山:四半世紀。

青山:91年から、もう、今の資生堂ギャラリーでの展示(第七次椿会展「初心」、2013~2017年)もずっと毎回ですし……。

畠山:この前も撮りました。直島に行った。《きんざ》のリニューアル。壁が大潮で汚れちゃったんすよね、床上浸水になっちゃって、何年か前にね。それで、黒くなっちゃって、カビが浮いちゃって。それで、それを全部作り直したんで、彼女としては《きんざ》だけの本をできれば作りたいと思ってるみたいで。それで福武財団も写真は撮っといたほうがいいっていう判断で、それで僕に依頼がきて、撮りに行きました。でも、外側はまだ終わってなくって、また11月に行って、もう一回撮影します。

青山:内藤礼さんについて、なにか特に印象に残っているエピソードというか、思い出のようなものがあれば教えていただけますか。

畠山:特にないです(笑)。会うと普通の人です。でもアーティストですから、その辺は普通とは違います。実は僕も最近、岡部あおみさんに頼まれて、内藤礼さんのパリ展(「信の感情 émotion de croire」展、パリ日本文化会館、2017年)のカタログのためにエッセイを書きました。ちょっと珍しいことだと思うんですよね(笑)。それを、岡部さんも内藤さんも気に入ってくれて、今度パリの日本文化会館の会場で配布する英仏文のパンフレットの原稿に、僕のエッセイと、岡部さんのエッセイと、それから元ポンビドゥーだかパレ・ド・トーキョーだかの人のエッセイ、3本でやるんですよ。

青山:それはぜひ、また読ませていただくのを楽しみにしております。いずれにしましても、特定のアーティストと長く継続的に仕事するというは、かなり珍しいことのように思いますが。

畠山:もう一人挙げるとしたら、伊東豊雄さんですね。

青山:そうですね。伊東さんとのことは後ほど伺いたいと思います。内藤礼さんの作品の撮影の進め方についてですが、内藤さんからの指示はかなり多いんでしょうか。

畠山:内藤さんはありますよ。僕はものごとをフィジカルに見る習慣がありますけど、彼女はもうちょっとのめり込んでものを見る人ですから、例えば、明け方の光で見ると全然違うとか言うんですけど、明け方の光が入ってくる窓の位置ってのは同じなわけですよね。つまり、たしかに明け方の光、本当に弱い、目がもうジェームズ・タレル的に鋭敏になってるような状態で見る作品と、それから、日が昇りきった状態の強い光が同じ窓から差し込んでる、そのときのくっきり見えるあの感じとは全然違うんですけど、フィジカルに言えば、窓の位置は同じなんですから、明け方の光も長時間露光で長く撮れば、昼間撮った写真と同じように映るんですよ(笑)。だから、僕はどっちかっていうと、そういう、心を通さないで作品を見るっていうことで作品を観察するようにしてますね。ですから平気で言いますよ。「明け方に見てほしい」とか言うから、「おんなじでしょ」って(笑)。そういうことは、はっきり言います。でも、一応つき合います。「じゃあ一応行きますけど」みたいな感じで(笑)。でも同じ写真になっちゃいますから。例えば、色を少し青っぽくしたりすると、昼間撮った写真でも明け方っぽくなるんですよ。そういうふうにフィジックスっていうか、物理世界が人間の心になにか及ぼすことってありますよね。そこら辺が、どういうときに心がどう思うかってことを研究するのは写真家の仕事ですから、そこは内藤さんがのめり込んで、いきなり心の話をするとこに、まあまあそれは、実は光の世界で言ったらこうこうこうだから、ちょっと分けて考えようねみたいな。

青山:そういう話を畠山さんがされるときに、内藤さんはどう反応されるんですか。

畠山:少し黙りますね(笑)。少し黙りますけど、でも、なかなか折れないですね。

青山:たしかに、論理が全然違いますもんね。

畠山:はい。レンズの画角とか、被写界深度とか、そういう本当に物理的なお話で、写ってる写真のなんとなく表情とか印象って変わってくるもんでしょ。そこら辺は、結構理屈で説明できる部分で、その理屈をはしょって、いきなり写真の中に飛び込むようにして見るっていうのが一般の人ですから、そこはもうちょっと、僕なんかは冷静にプロセスを分析的に見ていますね。

青山:では、さきほどお話の中に出てきた伊東豊雄さんの話に移りたいと思います。せんだいメディアテークができるときに出版された写真集『Under Construction』(建築資料研究社、2001年)のお仕事は拝見しておりますが、伊東さんとはそれ以前からおつき合いがあったのでしょうか。

畠山:そうです。実は、最初の接触のきっかけは、今、もう独立されている立派な建築家ですけど、ヨコミゾマコトさんっていう藝大の先生もやっている方です。彼が僕と知り合ったのは、吉原悠博、プレジャー・ドームの頃だな。スパイラルでやった。あれ、何年だろう。バブルの頃だった。吉原悠博っていう、僕の友人がいるんですよね。彼は東京藝大を出て、ニューヨークにいて、ナム・ジュン・パイクなんかのそばにいた人なんです。彼は青山のスパイラルで大個展(1989年)をやったことがあって、そのときの巨大な彫刻の図面を引いたのがヨコミゾマコトさんだったんですよ。そのときに知り合って、それで、ヨコミゾさんは、青山通りを挟んで向かい側にある伊東豊雄事務所に勤めてるって話だったんですよ。その後、英国でジャパンフェスティバルっていうのがあったんですね。

青山:何年ぐらいですか。

畠山:1990年前後かな、たぶん。もう、大々的に日本のことを取り上げた大イベントで、文化イベント。例えばハイドパークで流鏑馬とかさ。使う馬はポロ競技の馬とかね。あとは、アート・エグジビションも英国の各地であったし。僕はロンドンのザ・フォトグラファーズ・ギャラリーで「メイク・ビリーブ」っていうグループ展をやった。何年でした? 「メイク・ビリーブ」展。グループショーで、石内都、佐藤時啓と僕。それから今道子。

青山:91年ですね。

畠山:それが実にジャパンフェスティバルの年だったんですよ。そのときに一番の話題になったのは、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムにおける大建築展(「ヴィジョンズ・オブ・ジャパン」)だったんですね。総合コミッショナーが磯崎新。それで日本の「過去」、「現在」、「未来」っていう3部門を、それぞれ一人ずつの建築家に任せた。「過去」、「現在」は誰だったか忘れたけど(笑)。「未来」を担当したのが伊東豊雄さんで、会場の設営、インスタレーションに派遣されてたのがヨコミゾマコトくんだったわけ。それで、カメラマンを雇う余裕がないから、「畠山さん、ちょうどロンドンにいるんだったら写真撮ってくれませんか」みたいな感じで、「あ、いいっすよ」って言って、小型のカメラでちゃちゃちゃって撮って。それがその展示を代表する写真になっちゃった。液晶ガラスを使って、それからプロジェクション、東京の都市風景みたいなものをビデオプロジェクションでぶわーって。液晶ガラスというのは、電気のオンオフで乳白になったり透明になったりするんですね。そういうのが、床、壁にびしっと敷き詰められていて、会場の中に入るともう、情報空間の中を漂う身体みたいなさ、そんな感じだったわけ(笑)。それを僕が写真に撮った。それが一番最初の伊東豊雄さんとの関わりですね。もちろんそれ以前に、家庭雑誌、何っていうのだっけな、あれ。そう、『ミセス』。『ミセス』っていう雑誌があって、伊東豊雄さんが当時、自宅としてた《White U》だったかな、中野に自宅があったんです、そこに行って、伊東さんの肖像を撮った記憶がありますよ。まあ、雇われカメラマンのときだから。(註:「ヴィジョンズ・オブ・ジャパン」は日本文化を総合的に紹介することをテーマに全英各地で開催された大規模な「U.K. ジャパン・フェスティヴァル1991」の中核となった展覧会。磯崎は日本人の行動原理を説明するキーワードにゲームを挙げ基本コンセプトとした。会場である3部屋は、石井和紘が「クリシェの世界」、石山修武が「キッチュの世界」、伊東が「シュミレーションの世界」をそれぞれ構成した。)

青山:以前からそういう関係もあり、またジャパンフェスティバルのときに展覧会の写真を撮影するということがあって、その後かなりいろいろとやり取りが増えてきたっていうことでしょうか。

畠山:そうですね。そのあとまとめて仕事したのは、『2G(ジージー)』っていうスペインで出てる建築の専門雑誌があるんですけど、それで伊東豊雄特集をやるっていうんで。伊東さんは、いろいろ完成した作品を紹介するのもちょっと飽きたから、時間に線を引くような感じで、今、進行中のものも、できたものも混ぜて。例えば、千九百九十何年何月っていうもので、それぞれの場所にずーっと線を引く感じで、そのときの写真をプレゼンテーションしたいっていうんで僕に声がかかったの。だから一冊丸ごと撮りました。よかったら持って来ます。

青山:お願いします。

畠山:これですね(2G International Architecture Review, 1997 N. 2, Barcelona)。これがジャパンフェスティバルのときの。あの頃は、日本企業はすっごいもう、やる気満々でたくさんお金出したんですよね。

青山:まだね(笑)。90年代ですね。

畠山:バブルの終わり頃ですか。

青山:はじける直前ぐらいですね。

畠山:そう。直前っていう意識ないんですよ。突然、危機がやってきたから、それまではもうイケイケって感じだったんで。だから、バブルがはじける直前なんて言われても何のことかわかんないですよ。

牧口:バブルって思ってないんですもんね、きっとね。

畠山:警鐘を鳴らしていた人はいるのかもしんないですけどね。この当時、もうすでに(せんだい)メディアテークのコンセプトは発表されてんですよね。

青山:これは97年。

畠山:あ、そっか。結構、時間たってる。

青山:『2G』の特集が97年で、そのときいろいろ作品を撮られていて……

畠山:このときに、まとめてずいぶん撮りましたね。あちこち旅行したし。熊本行ったり、秋田行ったり。このお金は旅費も含めて伊東事務所から出た記憶があります。ほぼ、丸一冊、僕が撮ったって感じ。

青山:建築家としてやはり、ここから撮ってくれっていうようなことが一般的にはあると思うんですね。ここがポイントっていうか、絵になるところとか。伊東さんの場合、撮影について指示があったのでしょうか。 それとも畠山さんに任せるよっていうような感じでしょうか。

畠山:伊東さんは、建築の性格もあると思うんですけど、ここから撮ってほしいっていうふうなことが、あまり大事じゃないような建築を作ってらっしゃるっていうこともあると思うんですね。だから僕にはそういうことはあまり何も言いませんよ。ただ、僕がどのような写真を撮って帰ってくるかってことはずいぶん楽しみにしてらっしゃるって感じですかね。まあ、イヌになったみたいな気分ですね。

青山:どういうことですか。(笑)

畠山:飼い主がイヌを放つでしょ。何かくわえて帰ってくるみたいな。何くわえて帰ってくるかな、みたいな感じじゃないですかね。

青山:この特集に関しては特に、オープンのときの状態じゃなくて、建築としてすでに使われている状態のものも含めて、というコンセプトがあったわけですね。ものによっては、できてないものも含めて、っていう。

畠山:そうですね。あとは、せんだいメディアテークのときは、彼自身、建物ができあがるまでは、プロセスそのもののリアリティにずいぶん、心を動かされたってとこがあったんで、それでUnder Constructionっていうのはもう、建物のコンセプトにまでしちゃいましたから。で、そういうつもりで僕にまた頼んできたし。(註:2001年に共著『Under Construction :「せんだいメディアテーク」写真集』が建築資料研究社より刊行された)

青山:畠山さんは2012年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展(「ここに、建築は、可能か」)に伊東さんらとともに参加されています。僕がヴェネツィアの建築展を見たのはこのときが初めてだったんですが、全体に「写真」がすごく大きな役割を果たしているという強い印象を持ちました。(註:この展覧会は伊東豊雄がコミッショナーを務め、畠山のほか建築家の乾久美子、藤本壮介、平田晃久が参加し金獅子賞・パビリオン賞を受賞した。)

畠山:ほかのパビリオンも、見てってことね。

青山:はい。もちろん日本館についても、まさに、畠山さんの写真がなければ成り立たないような展示になってるなって思いました。

畠山:あの年は特にトマス・シュトゥルートの存在感が際立ってましたね。非常に大事なキャラクターとして取り上げられてたから。

青山:そういう意味では、建築家にとっては、これはもちろん伊東さんに関わらず、どういう写真家に、どういう写真を撮ってもらうかっていうのは、その次にどういうプロジェクトをやっていくかってことにも関わってくる、大きな問題なのでしょうね。

畠山:でも、青山さんね、最近は、写真ってあらゆるところから集まってきちゃうんですよ。有名な建築家の仕事の場合は特に。今の若い建築写真家ってのは、とにかく動き回ってて、お金になるかどうかもはっきりしない状態で、とにかく飛行機に乗って世界中の話題の建物を、新しいうちに、あるいは建築中に、撮りに行っちゃうんですね。そのくらい身軽になった。まあ、機材が身軽にだってこともありますよ。昔、4×5(シノゴ)のカメラでレンズを、例えば5種類6種類持って、巨大な三脚、あとはフィルムはどうのこうのとか言ってたときっていうのは、そんなに身軽じゃなかったんですけど。今はキャノンのカメラに、あと、レンズ何本かで、それで悪い条件だったら、じゃあ三脚なしでみたいなことでも撮れちゃいますから。そうやって体力のある若い写真家たちが膨大な量を撮って回ってんですね。しかも中にはもちろん、優秀な目を持った写真家がいますからね。僕も何人か知ってますけど。そういう人たちが、まるでもう、地球上をスキャニングするようにして新しい建築を撮って回ってんですよ。そういうものが、情報として建築家のところに流れてくるんですね。見ると、とてもライブないい写真、いわゆる、建築と人がちゃんと交渉してるみたいな(写真だったりする)。そしたら正式に連絡して、これ使いたいという感じで、結構、ストックがぶわーってあちこちから集まってくるわけです。別に頼まなくても。だから僕は今、伊東さんの台中のオペラハウスを撮ってますけど、それは竣工写真として撮ってるっていうよりも、なにか僕の目をとおして、建築が使われてる(ところを撮る)っていうことなんです。一つの出版物を作りたいって目標がもともとあって、そのために行ってるだけで、全然、竣工写真とかじゃない。

牧口:伊東さんの作品を、畠山さんの目で、フィルターを通して解釈するみたいなプロジェクトってことですよね。

畠山:そうですね。できればそこに伊東豊雄さん個人を超えた、なにか建築と社会が新しく交渉してる瞬間とか、そういう新しさが出てくればいいなって2人とも思ってるところです。

青山:2001年から2002年にかけては、次々と大きな展覧会がありました。

畠山:あのとき1年で個展が7つあったんですよ。

青山:前回、ローター・アルブレヒトというギャラリストのお話を少しうかがったんですが、ヨーロッパのギャラリストと、日本のギャラリストを比較して何か違いのようなものは感じられましたか。

畠山:何から話したらいいんでしょうね……。アートフォトグラフィの中でも、ドキュメンタリースタイルまで含めてアートフォトグラフィって呼ぶようになったのは最近のことかもしんないですよね。本当にトラディショナルなドキュメンタリースタイルのもの、例えば日本の『プロヴォーク(provoke)』とか、VIVOとか、ああいったものもアートフォトグラフィの中で扱えるようになったのは、ごく最近だと思うんですよ。それ以前のアートフォトグラフィは、もちろん19世紀から20世紀前半くらいまでのものはありましたけど、どちらかというと、なんかもう落ち着いて一件落着みたいな感じになってたんです。そこに新しい現代美術的なニュアンスが加わったドキュメンタリースタイルのフォトグラフィが出てきたのが、やっぱり70年代、それから80年前後くらいなんですよ。アメリカではもちろんコンセプチュアル・アートの作家たちが写真を使ってた。それから、それにちょっと似た雰囲気のものとして、例えばルイス・ボルツなんていう人がいた。で、ヨーロッパでは、フランスなんかのばりばりのヒューマニズム・ドキュメンタリー・スタイルと違って、やっぱりアメリカで評価を受けたベッヒャーさん(Bernd & Hilla Becher)と、その学生たちの世代から、ちょっとレディメイド的な雰囲気の写真が出てきたんですね。だから、コンセプチュアル・アートではないけれど、でも従来のマグナム系のヒューマニズム・ドキュメンタリーとは全然違うっていうふうな、ちょっと冷たいドキュメンタリーみたいなものが、ヨーロッパでぶわっと出てきた時期だったんですよ。僕もその動きに触れてましたし、僕自身の作品にもそういうところはあったんです。いわゆる「ジャパン」を押し出してるようなものじゃないんですけど、細江英公さんとか、ああいう、欧米の本当に洗練されたモダニズムスタイルと、それからサブジェクトマターとしての「ジャパン」、そういったものがうまくブレンドされたものってありますよね。これはもう世界中ですばらしいっていうふうに言われるんですけど、僕の写真はどちらかというと、「東京」とか「日本」とかが個性を失ったあとの姿なんですよ。いわゆるグローバリゼーションが世界を覆い、どこの都市もあまり特徴がなくなってきたと。人も自由に行き来するようになったと。そういう時代の「東京」であったり、「日本」であったりするわけですね。だから、典型的なそういう場所の記号みたいなものは、僕の写真の中には出てきません。でもよく見ると、なんかやっぱり極東の島国で撮られたみたいなところがちょっとあるわけですね。で、そのあたりを面白いと思ってくれた人たちは何人かヨーロッパにいて、それで、まあ見せてもらえたっていうことですね。ローター・アルブレヒトのギャラリーでは、ほかにも松江泰治さんとか扱ってましたよね。

牧口:ヨーロッパ系のアーティストだったらどのあたり?

畠山:ヨーロッパのアーティストは、ローター・アルブレヒトは、まあホモセクシャルだっていうこともあったんですけど、カナダのケン・ラムとか。ケン・ラムって言葉のアーティストがいるんですけど。それよりちょっと前だと、ベルナール・フォコンなんかも扱ってましたね。それからジョン・ヒリヤード、この人もコンセプチュアルな写真を作る人ですけど、そのあたりかな。あとは、オリヴァー・ボバーグですか。精巧な建築模型を作って、それを写真にする。

牧口:トーマス・デマンド的な。

畠山:デマンドみたいな、ああいういかにも紙でございますっていうんじゃないんですよ。一見して、模型だと言われても全然わかんないくらいの精巧なものです。

牧口:それでも写真の。

畠山:写真です。

牧口:主に写真を扱うギャラリー。

畠山:そうです。あの当時はメディウムのブームってのがあったんですね。例えば70年代に東京でもありましたけど、版画ブームとかあったでしょ(笑)。もう猫も杓子も版画っていう時代があったんですよ。あとはたぶん、オイル・ペインティングがブームだった時代も東京にはあったと思いますね。それと同じように、フォトグラフィック・プリントを壁にかけるっていうのがブームになった時代があるんです、やっぱり。申し訳ないけど。

一同:(笑)

畠山:そう思います。だから、猫も杓子もアートギャラリー写真展っていうね、そういう時期がありました。過去形で言っちゃいますけど(笑)。申し訳ないけど。そういう時期があったからこそ、少し遅れてニューカラーの人たちがちゃんと巨匠になったりとかね。例えばウィリアム・エグルストンなんていうのはもう最初から名前は知られてたけど、やっぱりいわゆるアートギャラリーでの写真のブームがなければ、今みたいなポジションにはいないかもしれないですよね。あの辺の変遷っていうんですか、趣味の変遷っていうか、結構面白いですよ。今から考えると、なんとなくわかるような気がする。分析できるような感じだし。美術館の中で写真を見る体験が、いつ頃から普通のことになったのかとか。だってボードレール的に言ったらけがらわしいですよ、写真なんて(笑)。ねえ。

青山・牧口:いえいえ。

畠山:だって芸術の王様は絵画とかっていってるのに、写真ですよ、ペラペラの。そういったものが堂々と自然なものとして見られるようになったのは、そういう時期があったっていうのは確実ですから。今じゃ平気で見てますけど。これが50年前だったら、「なんで写真なんか絵画の隣にあるんだ」って言われたはずですよ、絶対。けがらわしい。

一同:(笑)

青山:でも、今でもあるかもしれないですね(笑)。

畠山:うん。そういう人に会いたいですよ。

一同:(笑)

畠山:僕自身は子どもの頃、中学、高校の頃、具象画とか描いてた時の絵の記憶とかありますけどね。そういうものをふと思い出すときに、自分が行っている写真の仕事と、どこが違うのかなって思ったりしますよ。あんまり違わないような気がしますね。具象絵画を描きたいっていう欲望、つまりもう、物性とか、支持体とか、シュポール・シュルファスとか、平面/立体とか、そういう関心がなくって絵を描きたい人が世の中にいっぱいいるわけですよ。イラストでもいいから、とにかくグラフィックがあればいい。そういう人たちと僕が行なってることは、あんまり変わらないと思ってますよ。あの時代、僕の(高校、浪人時代の絵の先生だった)佐藤実先生とかは一所懸命、絵を描いてましたけど、彼なりの絵画に込めた時間とか、そういう彼なりの、ちょっと別の真実があると思うんですけど、ルックスだけ言ったら、たぶん、彼の持ってた欲望みたいなことと僕が持ってるものと、そんなに違いはないと思う。

青山:なんですって(笑)。

畠山:そんなに違わないような気がしますね。

牧口:イメージへの欲望みたいなものって言ったらあれですか、違うかな。

畠山:よくほら、団体展の画家たちがマジック・リアリズム的な絵を、いまだに性懲りもなく描いてるじゃない。ああいうのってどうして廃れないんだろうと思うんですけどね、やっぱりファッションとかブームとかじゃない何かがありますよね。いつまでたっても、ああいうものを描いちゃうっていう。そこら辺まで降りてったら、僕もやってることは結構、似たようなことって思いますよ。

牧口:そこまで根源的なところに(笑)。

畠山:そうそう、降りてったら。

牧口:それはでもなにか、写真だからだと思うんですよ、そういうことを考えるのって。たぶん、絵画の人、そんなふうに考えないと思うんですよ。

畠山:それはたぶん、その人たちがあんまりものを考えてないんだと思いますよ(笑)。周りに似たような人も多いし。

牧口:なにか写真にはジャンルとしての独自のあやふやさみたいなものが常にあるような気がして。誰でも撮るっていうのもあるし、作品の定義も不安定というか。

畠山:そうそう。だから「なぜこれがアートなの?」みたいな質問をもう(笑)、僕は写真を始めてからずーっと自問してるし、周りからも言われるしという状況の中で生きてきたから、「私のやってることはアートです」って堂々と言えるような、マジック・リアリズムをやってる人なんかとは、やっぱりちょっと悩み方が違うんですよね。僕は「アート」って言葉をずいぶん揉んで考えてきたような気がします。

青山:話が戻るんですが、イギリスやドイツを巡回した「Naoya Hatakeyama」展と、国内の「畠山直哉」展(岩手県立美術館・国立国際美術館)はどちらも2002年でほぼ同時期ですね。

畠山:たまたまだったんですね。だから2セット作ったんです、個展を。

牧口:それでも国内では、美術館での個展は初めてということですよね。

畠山:そう、島(敦彦)さん(当時、国立国際美術館学芸課企画係長、主任研究官。国立国際美術館は万博記念公園内にあった〕。島さんが声かけてくれて。

青山:島さんにも(展覧会の企画のきっかけについて)インタビューしてみたいですね。

畠山:内藤礼展やったよね、島さん。

青山:あと、O JUN展(「近作展27:O JUN」2002年)ですよね。島さんってすごく沢山いろんなものを見て回っておられて、その中から厳選して、展覧会を企画されていますよね。その中で、やっぱり畠山直哉展をあの時期にと思った経緯を聞いてみたいですね。

牧口:どの作品かというきっかけがあったんでしょうか。

畠山:内藤礼からじゃないの? 内藤礼と僕ってどっちが先だったんだっけ? 内藤礼のほうが先かな。それで大阪に僕、撮影に行ってたんですよ、たしかね(「近作展18:内藤礼 みごとに晴れて訪れるを待て」1995年)。そんな記憶がある。その頃からだんだん僕に関心を持ってくれてたのかも。あとは安齊重男展なんかもやったでしょ(「安斎重男の眼1970-1999 写真がとらえた現代美術の30年」2000年)。

青山:あれは…… 前後関係の記憶が少し曖昧になってますが(笑)。

畠山:僕も曖昧になってる。僕はIMIに行ってた頃だな、たしかね……。だから(島さんも)写真ってメディウムに対するなにか身近な感じっていうのは持ってたんだと思いますけど。

青山:『俵屋の不思議』(世界文化社、1999年)のお仕事のきっかけはどういうものだったんでしょうか。

畠山:福のり子さん。あのときは福のり子さんに相談しました。僕はもともと『家庭画報』で何年か仕事してたので、それで、『家庭画報』から話がきたのかな。でも、もうレギュラーっていうか、毎月、結構、頑張って通わなくっちゃいけない撮影だったから、ちょっとうーんとかって言ってたんですよ。それで福さんに相談したの。そしたら、「ぜひやりなさい、絶対やりなさい」と言われて(笑)。「俵屋を詳しく見るっていうのは本当にすばらしい機会になるだろうから、やりなさい」と。

青山:その連載の期間が……

畠山:1年半。

青山:その間、結構行ったり来たりして。

畠山:毎月行ってたよ。

青山:では、俵屋とも、アーネスト・サトウとも、それまでは縁がないというか、つながりは全くなかったってことですか。福さんはアーネスト・サトウの……

畠山:「アーネスト・サトウ展」ってのもあって。

青山:はい、ありましたね。美術館「えき」KYOTOでの展覧会「Y・アーネスト・サトウ展」(2000年)。

畠山:そのときに僕はなんかしゃべったりとか、プリントのスポッティングをしたりっていうはあったんだけど、あれは個展のあとだったかな。あとかもしれないね。あとかな。

青山:福さんがキュレートした展覧会ですね。

畠山:藤部明子なんかも手伝ってくれてたからな、あの頃な。

青山:たしか佐藤守弘くんに聞いた話なんですが、アーネスト・サトウは35ミリをずっと使っていたので、女将さんが「撮影は35ミリにしなさい」と編集者に指示を出したっていう話をちょっと聞いたことがあるんですが、そうだったんですか(笑)。そうでもない?

畠山:そうでもない。

青山:あ、そうでもないですか。佐藤くんから、母がそう言ったはずだっていう話を聞いたことがあるんですが。

畠山:へえ。

青山:(笑)

畠山:そうだったっけかな。あれ、忘れちゃった。でも僕、35ミリでいいんですかって編集者に聞いた記憶があるけど。大丈夫ですよって言われた記憶もあるけれど。

牧口:実際は35ミリで撮っておられるんですね。

畠山:実際はすべて35ミリ。リバーサルフィルム。

牧口:普通だったらもっと大きい大判のフィルムを使いますね。

畠山:そうなの。こういうなんか由緒あるとこだから、ほかの人たちはみんな頑張っておっきいカメラとか持ってくるわけよ。1枚撮るのに2時間、とかやるわけよ。僕はもうちょっと身軽な撮り方じゃないとだめだなと思ってたし。

青山:これがフランス語版(Tawaraya: Les traditions vivantes du Japon, Ed. Philippe Picquier, 2002)ですね。畠山さんの名前がきちんと入っていて。

畠山:ちょっと懐かしいな。これ、フランスで全然売れなかったんだよ。

青山:なんででしょうね。

畠山:値段のせいじゃないかな、やっぱ。

青山:値段は……

畠山:35ユーロ。

青山:なるほど。まあまあしますね。

牧口:今だったら、ばか売れすると思いますけど(笑)。

畠山:まだ売ってますよ。懐かしい。

青山:国立国際の展覧会などを通じて畠山さんのお仕事を知った僕なんかからすると、普段の写真と全然違うわけですが、畠山さんの中ではこういう写真ってどういう位置づけになるんでしょうか。

畠山:位置づけ?

青山:この本にも当然畠山さんの名前は入っているわけですが、『Lime Works』以降のいわば「作品」としての一連の本作りとは全く系列が違いますよね。

畠山:そりゃあそうだ。

青山:こういうものをどういうふうに捉えておられるのか。

畠山:これは、例えば、あったほうがいいか、ないほうがいいかって言ったら、あったほうがいいわけよ。

青山:世の中にって意味ですか。

畠山:世の中に。この本がない世界と、この本がある世界を比べて、どっちがいいかって言ったら、ある世界のほうがいい。だったらそっちに加勢するわけ。で、そのときの僕の役割は、その本が決める。本の読者が決めるわけ。そこで、私の作家としての首尾一貫性とか、そういったものを強弁することはできないですよね。引き受けるとしたら、これに身を捧げるくらいの感じで、読者が一番喜ぶような写真を撮るべきでしょ(笑)。そういう意味では、僕はだからカメラマンですよ。

牧口:シャッターチャンスの選択や決定の判断が、作品作りとは全く違ってくるってことなんですね。

畠山:ほとんど関係がない。別のことしてるって感じ。使ってるカメラとか似てますけど、でもほとんど関係はない。第一、(作品として撮っているのは)風景写真だし。全然違う。私は風景しか撮りませんとか言ってる人がいたら、じゃあどうぞって感じだけど(笑)。

一同:(笑)

畠山:でも、やれば撮れるからね、このくらいは。それで時々、ああ、撮っといてよかったなと思うことがあれば、やっぱりそっちのほうがいいじゃない。そう思いませんか。

青山:今の説明でよくわかりました。では、例えば、アーレンの写真集(Zeche Westfalen I/II Ahlen, Nazraeli Press / JGS, 2006)なんかもありますよね。あれもちょっと特殊な作品、本だとは思うんですけれども、自分で自発的にプロジェクトを作ってそこに行ったのではなくて、依頼があって写真撮ってくれと。で、その本は、もうなくなってしまうものの記録、そういうものとして作るわけですね。これもある意味似てるところもあるように思います。もし違いがあるとしたらどういうところになりますか。

畠山:まず読者が違うし。『俵屋の不思議』は小説家の村松友視さんがやっぱりメインなんです。小説家がここを取材して泊まって文章を書くと。写真はあくまでそれに添えるものですから、そういう気持ちで撮っちゃいますね。でも、あっちの、アーレンの本は……

青山:写真がメインですね。

畠山:そう。テクストはないと言ってもいいぐらいですからね。…… 第一、もう被写体が全然違うじゃん。炭鉱の工場の建物と、旅館じゃ全然違うでしょ。

青山:違いますね。いや、違うのはわかりますけれど(笑)。

畠山:アーティストの首尾一貫性っていうものが求められてるというのは、理解はできます。でも、もしそのことに厳密な人がいるとしたら、こういうことに手を出さないですよね。自分でもう禁じちゃって。例えば、内藤礼さんはコマーシャルワークはほとんどしないですよね。やればできると思いますよ。イラストこうやって、にょろにょろとかって描いたりさ。それで1枚何万円かで、とかね。でも彼女は、そういうのを気をつけてやらないようにしてるって言ってましたから。彼女の場合は、そのぐらい厳密なんですね。僕はそうじゃない。僕はどっちかっていうと、学校出てからすぐ請負仕事してきたし、今でもしてますよね。例えば、内藤礼さんや伊東豊雄さんとの仕事もしてますから、なかなか線が引けない。線が引けないんだったら、いっそ線引くのやめるっていう態度ですね。頼まれたものも、それから自分のいわゆる作品として行うものっていうとこに線を引きづらいわけですよ。実際、引こうと思ったらなかなか難しいでしょ。いっそもう、引くのやめましたってことですよね。

青山:バリ島も行かれたんですか。

畠山:バリも行きましたよ。これも企画物ですよね。だってなんで俵屋の人がバリ行くの? って。ねえ。まあ、有名なアマンダリというホテルがあって、そこがアマンリゾートって世界有数のホテル経営の企業なんですけど、どうもそこが気になってたみたいで。それで村松友視っていう小説家に佐藤年さんが「行かれたらどうですか」っていう話をしたっていうね。そうすると、俵屋との比較で面白い考えが出てくるかもしれませんねっていう。大した人ですよ、佐藤年さん。

牧口:その俵屋の取材を通して、アーネスト・サトウさんに少し深く関わるようなことはあったんですか、トークに呼ばれましたけど。

畠山:僕、『芸術新潮』のアーネスト・サトウの特集(1999年6月号)でエッセイを頼まれたことがあって。で、それの文章がなかなかよいっていう(笑)、評判を取ったらしいんですね、佐藤ファミリーから。あれは福のり子さん経由で頼まれたんだと思うんですよ。彼女、新潮社に知り合いがいたからね。だから一応、畠山ってやつは、アーネスト・サトウ及び写真のモダニズムに関しては、まあまあいけてるじゃないか、と思ってくれたんじゃないの?

青山:日本でもフランスをはじめ海外でも、多くの写真集を出されてますが、ヨーロッパでの出版にかかわって日本とすごく違うなって感じられるようなことはありましたか。

畠山:大体同じじゃない?

青山:そうですか。例えば部数とかもあんまり変わらない感じですか。

畠山:あんまり変わらないと思いますよ。ただ、大手出版社が写真集を作るっていうケースは、欧米の場合、たぶんほとんどないですね。大手出版社っていうのは、日本で言えば、新潮社とか講談社とか、あと河出書房新社とか、ああいう文芸書も出すようなところ。

青山:ありとあらゆる種類の本を出してる……

畠山:フランスで言ったらガリマールとか、スイユとかさ。ああいうとこが写真集を作るとしたら、よっぽどピンポイントで作るか、それともよっぽどブロードな、つまり読者数が多そうな企画。

青山:レイモン・ドゥパルドンとか。

畠山:いわゆるスターたちの仕事とかね。そういうのはあると思うんですけど、ほかはみんな小さい出版社ですから、小部数で、ちょっと公開して、それで宣伝を熱心にやって、ネットとかを使って。で、ファンを作る。だから、本屋でなんの気なしに手に取って買うみたいな読者を、あまり期待してないっていうか、そんな感じですね。そういう出版社、東京にもあるし、パリにも、ロンドンにも、ニューヨークにもあります。ただ、あとは本当にメガハウスみたいな、ファイドンとかタッシェンとか、そういうのもありますよね。いっぺん作るときは数万部とかどんって作っちゃう。そういうののラインナップに入っちゃう写真家たちも何人かはいるでしょうけど、大概はスーパースターたちですよね。そうじゃない人たちに関して言ったら本当に、今はそれこそもう、ニッチな企画ばっかりで、お蔵入りになってたものを掘り出したとか、写真集に関してはそんな企画が多いですよ。それからあとは若い人たち。20代30代の上り調子な人たちのものをどんどん出すとか。その辺は日本でもほかの国でも、同じじゃないでしょうか。経済に関しては、あっちの人たちの金がどのように回ってるかってことに関してはよくわかりません。ケースバイケースですね。参加した写真家にちゃんと印税が払われることもあるし、ごめんなさいねっていって、それが制作費に回っちゃう場合もあるし。さまざまじゃないですか。あとはもう、自分で最初からお金を積んで、とにかく俺は本が作りたいって出版社に協力してもらうケースもありますよ、もちろん。で、その区別は本屋の棚ではつかない。どのような背景で、その本ができあがってるかってことの区別はつかないです。

青山:畠山さんが刺激や影響を受けた写真集ってありますか。あるいは、若い頃からよく眺めていた写真集とか。

畠山:よく眺めているものに関してはあります。フレデリック・ソマー(註:The Art of Frederich Sommer, Frederick and Frances Sommer Foundation, 2005)ですね。

青山:どういうあたりが特に。

畠山:本としての工夫とか、そういうことじゃないですね。とにかく写真。

青山:それをよく眺めていた。

畠山:うん。ちょっとこれは極端な言い方かもしれないけど、彼さえいれば、あとは何も要らないみたいな(笑)。そういう気持ちになることがあります。

青山:それはいつぐらいから見ている写真集ですか。

畠山:そんなに昔からじゃないですね。1995年くらいからかな。

青山:なにか機会があると、それを取り出して見ているという感じでしょうか。

畠山:好きですねえ、やっぱりフレデリック・ソマー。見飽きない。でも本を見てるって感じじゃないですけどね。ページを開いたままじーっと見てますから、だから写真の束をこうやって開けてるって感じ? なんか写真集って感じもあんまり。まあ写真集ではありますけど。

青山:それは、例えば畠山さんが高校時代に美術全集を見てる、ページをめくってるっていうのとは違う感じですか。

畠山:違う。だって僕がめくってた美術全集なんて平凡社とか講談社とか、ああいうやつだもん。小学館とか。解説がついてて、文脈抜きで大事なものだけぽんぽんと出てる。印象派とかね。そういうのばっかり見てましたからね。それとはやっぱり違いますよね。特に最近まで生きてた人だからかもしれないね。何か比較できるものがあるとしたら、みすず(書房)からシリーズで出てるジャコメッティの関連書籍。矢内原伊作なんかが(書いた本とか)。あの雰囲気にちょっと似てる。

牧口:写真集を作る際、編集の視点が働くと思うんですけども、ページレイアウトとか、畠山さんはどの程度関わっておられるんですか。一つ一つの写真集に関して。

畠山:僕自身はデザインをするっていうことはあんまりないですね。だから意見を言うってことになりますけど、できあがるプロセスの途中途中で意見を言うっていう。

牧口:編集者があらかじめ仮で出してきたレイアウトを畠山さんが見て、こことここの順番は入れ替えたほうがいいみたいなことをアドバイスしたりしますか。

畠山:どちらかというとデザイナーとですね。デザイナーと話をします。順番もそうだし。あと、紙の厚さとか判型とか、ハードカバーにするかソフトにするかとか。

牧口:じゃあ、もう本当にデザインの部分からちゃんと(関わる)。

畠山:もちろんです。「はい」って材料預けて料理をさせるっていう人もいるみたいだけど、つまりノータッチで、あとは好きにやってみたいな。僕は違いますね、そんな忙しくないし。

牧口:いやいや。

畠山:森山(大道)さんなんか、こうやって、「はい、じゃあこれ写真」って、ぽんっと置いて、それで作らせるみたいね。ひょっとしてその人の能力を測ってんじゃないかなって気もちょっとするけど。

青山:前回、『陸前高田』のフランス語版を用意しているという話も伺いましたが、もうだいぶ仕上がってきた段階でしょうか。(註:Rikuzentakata, Light Motiv, 2017)

畠山:お見せしましょう。ものはまだないですけど。(パソコンでデザイン案を見ながら)これがテクストページなんですね。カバーの写真はちょっとないんですけど。『Terrils』(Light Motiv、タカ・イシイギャラリー、2011年)って本がありますよね、それをデザインしたのと同じジェローム(・グランベール)さんっていうデザイナーなんですよ。だから、今回も中にちょっとテクストが入るわけですよね。判型はこれになります。河出書房新社版はこれでしょ。

青山:判型が全然違いますね。

畠山:全然違います。ジェロームがこの(河出書房新社版の)機械的なレイアウトを非常に残念がっておりまして。僕の写真は真ん中にすごくものがいっぱいあるのに、ノドのところがちょっと見えなくなってると。もうちょっと臨機応変に作りましょうってことで。日付とかはそのままなんですけど、こんな感じのレイアウトになったんです。でも日付は入っていて。並び順はもう、クロノロジカルに並んでますよね。

青山:今のはフォーマットが違いますね。横が長かったですね。

畠山:これね。これ、だから上下切ってあるんです。切ってるんです。

青山:あ、切っているのか。それはすごいな(笑)。

畠山:なんで?

牧口:トリミングをするってことですね。

畠山:そうですよ。

青山:なるほど。いや、トリミングをするという発想がなかったんで(笑)。

畠山:いや、切ってますよ。これもそうです。まあ、切ってもいいなって思うものを選んでいるわけで。

青山:機械的にやってるわけじゃないと。

畠山:例えばこの写真、してないでしょ。

牧口:全然印象が変わりますね。

畠山:そう。まあ、色も違うけど(笑)。その写真の上下を切ったのがこれです。こういうのはもちろん、あらかじめ「切りますよ、いいですか」って確認はくるんですけど、だめだよって言ったら、じゃあ、こういうふうに使うしかない。『Lime Works』の場合は切らなかったんですよ。切らないで…… あ、切ってる。

一同:(笑)

牧口:でも、白の余白が使われてるものもありますね。

畠山:うん。まあ、雰囲気としてはこれ、ちょっと似てますよね。こういう新たなレイアウトで10月に出る予定なんです。

牧口:写真も新たに増えてますね。

畠山:この子どもが写ってる写真なんか、ぜひ入れたいとか言うから、じゃあ入れてもいいよって話をして……

青山:そういう意味じゃ、セレクトもある程度任せている?

畠山:そう。向こうのエディターインチーフ、編集長が写真家なんですよ。で、結構、彼なりのこだわりがあるんですね。おおかたは僕の意見をのんでくれるんですけど、さっきの子どもの写真なんかはさ。

青山:見覚えのない写真が入ってますね。

畠山:例えばこれなんかも、河出書房新社版だと。

青山:(見開きページの)真ん中にきちゃうんですよね。

畠山:真ん中にきちゃってるわけ。だから本を無理やり開くのが嫌いな人がいたとしたら、こうやって……

青山:結構、いるんです。

畠山:これ何なんだろうみたいな感じになっちゃうでしょ。

一同:(笑)

畠山:全然違うんですよ。

青山:違いますね。

畠山:たぶん、ノド、この辺にくるんですよ。

牧口:ストレスが少ない。

畠山:これ新しくできた防潮堤。風が強いからこうやって波立ってる。次がラストのカットですね。こんな薄いんですよ、防潮堤(笑)。壁だよ、壁。こんなんで大丈夫かって思うくらい薄いよ。で、しかもフィニッシュがすごいじゃん、ピカピカで鏡みたい。これがラスト・ピクチャーでさ、こっちがエッセイで。

青山:二カ国語版ですか。

畠山:英仏、二カ国語。昨日、英文を最初から通しで読んだんだけど、最後で泣いてしまって、自分の文章なんだけど(笑)。

牧口:畠山さんの文章なんですね。

畠山:違う言語で書かれてるだけなのにね、面白いもんだね。これ、フランス語の訳がコリーヌ・カンタンで、英語訳はフランス語からの二重訳なの。だから最初全然うまくいってなくて、コリーヌさんが今、パリにいるんですけど、向こうの翻訳者とじかに会って、それで1行ずつやってブラッシュアップしてくれてる。

畠山:表紙の写真は、木を見上げてる写真があると思う。これが、ばーんって。

青山:真ん中が……

畠山:光がカブって赤くなっちゃったけど、それでも面白いかと思って。この本は10月の半ばくらいにできる予定なんです。

牧口:これは、買うべきですね。なんか日本語版には申し訳ないけど(笑)。

畠山:日本語版も、おかげさまでなんとか2500部以上はもう売れてますね。

青山:「まっぷたつの風景」展のキュレーターはどなたですか。

畠山:キュレーター、まあ、合議制でやってましたよ。甲斐賢治、清水チナツ、清水有。まあ、有さんが実務やってますけど、甲斐さんって発言力大きいから。知ってるでしょ、甲斐さん、大阪にいた人。

青山:はい。remoの甲斐さん。

畠山:remo?

青山:remo(record, expression and medium – organization =「記録と表現とメディアのための組織」)というNPO法人の代表を関西でされてて。その後、ちょっと仕事があるから仙台に行ってきまーすっていう感じだったのに、すっかり仙台に根づいちゃいましたね。

畠山:うん。もう定年になって理事かなにかになっちゃったけど、副館長だった佐藤泰さんっていう人がいるんですけど、彼が、やっぱり甲斐さん的な人間がこれからのせんだいメディアテークには必要だってことでわざわざリクルートに行ったんですよ。だから佐藤さんが引っ張ってきた。で、鷲田(清一)館長を引っ張ってきたのも佐藤さん(笑)。感動したんですけどね。寡黙な方なんですけど。

牧口:佐藤さんは事務系の方なんですか。

畠山:もともとは市の博物館の人だったと思いますね。

牧口:勘のいい方ですね。

畠山:勘のいい方です。メディアテークの準備段階からずーっといる人ですね。

青山:この副題はどなたの?

畠山:これは清水チナツさんのアイデアですね。

青山:それは向こうから提案されて。

畠山:僕も、どうしたもんかなと思ってたんですけど、ある日、ほぼ初対面の清水チナツがぱっと資料を持ってきて、そこに「まっぷたつの風景」って書いてあって(笑)。ぎょっとしましたけど、まあ、この人はたぶん、僕が昔『ARTiT』のインタビューで答えたウェブの記事を見てたんですね。そのときに、イタロ・カルヴィーノの『まっぷたつの子爵』の話を結構してたんで、それを引用したっていうことでしょうか。非常に面白い小説なんですよね。まあ、カルヴィーノは本当に優れた人ですからね。なんていうか、認めるしかないくらいに優れた人ですから。何でもすばらしいんですけど。

青山:(仮デザインのフライヤーを見ながら)日程は大体このあたりなんですね?

畠山:このあたり(の対談の日程)はもう決まりですね。いがらしみきおさんの人工地獄は、人工天国っていうことになりそうですね。『人工地獄』を、いがらしみきおさん、タイトルだけで買っちゃったんだって(笑)。クレア・ビショップの本ね。で、読んだらしいんだけど。これは、鷲田清一さんがよくやる、1階でやってるイベントがあって、それのゲストで佐々木幹郎さんを予定してたんだって。で、佐々木さんは僕とぜひ話がしたいっていうんで、鷲田さんが司会で、僕と佐々木さんが話すって感じ。これは志賀理江子と僕でしょ。「志賀」と「直哉」で、「暗夜光路」(笑)。

青山:面白いですね。

畠山:志賀直哉。

青山:直哉ってお名前は、お父さんが何か意識されてつけた名前なんですか。

畠山:僕の父は志賀直哉ファンなんですよ。

牧口:じゃあ、ぴったり(笑)。

畠山:でも、あの頃、国民的な小説家ですからね、志賀直哉ってのは。もう、知らない人がいないくらいで。小説の神様。

青山:なんとかオープニングに伺いたいなとは思ってるんですけど。

畠山:でも、大事な作品、あんまり出てないですよ。〈Lime Hills〉、〈Lime Works〉とか……

牧口:そのあたりが出ないのはなぜですか。

畠山:集めづらかった。話のスタートが本当に遅くって、あとは途中で、「すいません、畠山さん、24時間空調がうちできないんです」って……

青山:ええー。

畠山:各美術館が(所蔵品の貸与)条件としてる24時間空調ができないってことで、じゃあ、美術館から借りるのは一切あきらめますって。僕、ものすごい腹立てて、もういいよ自分でやるからみたいな感じになったんだけど、その後、話し合いがうまくいって24時間空調やるってことになった。だから……

青山:借りられると。

畠山:「〈光のマケット〉と〈Ciel tombé〉は写美(東京都写真美術館)から借りることにして。あとは資生堂からずいぶん借りました。

牧口:資生堂も結構お持ちなんですね。

畠山:そうなんです。あとはこの《カメラ》っていう25点組の写真のシリーズ。あとこの《フィントリンク》。あと、ちょっとかわいい写真も出していこうかって…… こういう写真。

牧口:それ珍しいですよね。

畠山:ポーランドの廃虚になった屠殺場に残ってた落書きなんですけど。ポズナンって街の(《ポズナン(恋人たち)》)。

牧口:ポズナンの廃虚の写真?

畠山:そう。屠殺場の廃虚に残ってた落書き。これは新しくプリントを作るんです。後ろ姿の落書きってちょっと珍しいかなと思って。

牧口:とても珍しい。畠山さんのお仕事でも珍しいですね。

畠山:僕は後ろ姿の写真は多いですよ。この雪の中の男もそうですね。

牧口:山のシリーズですね。

畠山:そう。……まあ、ロマン主義ですから、もともとが(笑)。何かヨーロッパ的なロマン主義が僕の体の中に入ってんのか、よくわかんないですけどもね。ひょっとして円谷プロ経由かもしれないね(笑)。

青山:畠山さんは6×7(ロクナナ)の中判カメラを愛用されていますが、その理由はどんなところにあるんでしょうか。

畠山:6×7より大きなものでは、4×5とかあります。もっと大きくなると8×10(エイトバイテン)というのがあって、そのくらい大きくなると、移動そのものも結構大変なんですね。フィルムも大きくなっちゃう。ということはカメラも大きくなっちゃう。三脚も大きくなっちゃう。レンズも大きくなっちゃう。その後のポストプロダクションも、結構たいへんなんですよ。たとえばこの引き延ばし機では無理ですね。僕は、6×7ではカラーネガフィルムしか使ってないですけど、その6×7のカラーネガフィルムから、例えば10×12インチとかのペーパーに焼いたときの十分な感じってのは好きなんすよ。これで十分。

青山:過不足ない?

畠山:過不足ない感じ。これが35(サンゴー)だと、ちょっと物足りない感じなの。写ってるものの際(きわ)の部分とかが少し物足りない感じなんです。4×5だと、途端に機動力が落ちてきて、もちろん手持ちで撮るなんてことはできなくなっちゃう。一枚一枚の撮影にもちょっと時間がかかるようになる。まあ、もちろんこの前は4×5で撮りましたけどね。4×5で撮ると、それなりのものにはなりますけども、ただ、歩きながら撮っていくっていうときにはやっぱり6×7とかのほうが撮りやすいですよね。

青山:〈等高線〉は6×7で撮影されたというお話でしたよね。ですからその時期からそのフォーマットはずっと使われてると思うんですけど、カメラは代々変わってきてるってことでしょうか。

畠山:うんうん。最初のカメラは「プラウベルマキナ67」っていいますね。

青山:いろいろと試行錯誤しながら何台かを使っている。

畠山:35ってのは、「24×36」っていうフォーマットですけど、あれは映画フィルムを流用することから始まっていますよね。もちろんライカっていう会社が、そのフォーマットを作り上げたんですけど、それが世界の標準になっちゃったんですけど。ちょっと横位置で使うと長すぎるんです。縦位置で使ってもちょっと長すぎる。もう少しずんぐりしてるほうが、僕はフォーマットとして、っていうか、プロポーションとしてきれいだと思いますね。もちろん6×7はずんぐりしすぎかもしれませんけど、でも、35はちょっと長すぎる感じは今でもしますね。ただ、そんな話をしてても、もう、6×7も4×5も35も誰も使ってませんからね。世の中では。もうすべてはデジタル、センサーの時代になってますから。6×7って何ですかって話でしょ。

青山:6×7って、連続して撮れるもんなんですか。

畠山:はい。

青山:何枚ぐらい撮れるもんなんですか。

畠山:ロールフィルムっていうものがありますからね。4×5ってのはロールフィルムはないんですよ。で、シートフィルムっていって、1枚1枚……

青山:1枚ごと入れ替えないといけない。

畠山:交換しなくちゃいけないのね。6×7は幸いロールフィルムがあって、二つ形があります。120って書くものと、220って書くものなんですけど。英語で言うとOne twentyとTwo twentyって言うんですよ。One twentyの場合はフィルムの長さがTwo twentyの半分です。だから、6×7で撮影するときにOne twentyだと10枚、Two twentyだと20枚撮れます。もう製造してませんけど。

青山:結構、撮れるんですね。

畠山:一つのロールで20枚撮れると、結構、撮れるっていう感じですね。

青山:ベタ焼きも、大きいけどつながってるものなんですよね。

畠山:つながってます。これが6×7のネガですね。これは実際は切らないと、これが2コマですね。これの10倍あるわけですよ。

青山:で、それを2コマずつ切って?

畠山:それで、ホルダーに入れるとかね、そういう感じですね。

青山:わかりました。

畠山:これを印画紙に重ねて撮ったものがベタ焼きなんですけど、どういうものかっていうと…… これが6×7のベタ焼きですね。この印画紙の大きさがエイトバイテン(8×10)って言います。テンバイエイトと言う人もいます。例えばこの白いところは、こういうホルダーのここに黒いテープをべとっと貼って、それでベタ焼きを撮ると、そこが白く抜けるんですね。で、そこへあとで書き込むという感じです。これを見て、隣のコマとの露出の差ってのはちょっとわかります。例えば、こっちのネガのほうが薄い、だから絵が濃い。これをプリントしたものが…… これ。6×7のプロポーションが好きですね。4×5に似てます。だから、人に、「この写真、何で撮ってんですか」って聞かれて「6×7です」って言うと、「ええー、4×5じゃないんですね」とかって言う人は結構いますね。まあ、そのくらい人の目はアバウトだってことです(笑)。それで、一つ言えることは、シートフィルムの単位面積当たりのクオリティと、ロールフィルムの単位面積当たりのクオリティを比べると、たぶん、ロールフィルムのほうが上だと思う。単位面積当たりで比べると。だから、4×5は4×5ですごく魅力はあるんですけど、6×7も負けてない感じはありますね。同じものを少し露出を変えて撮るなんていうことがあるんですよ。そういうときに例えば連続で写真をプリントするとしますね。隣のコマがこのくらいだから、隣のコマは、ベタ焼きで見るともちろん暗いです。そうすると、光をかけるときに秒数を少なくしないと同じ仕上がりにならないなあとか、そういう予想はつくようになってきます。あとは色の感じ。これは夕日が当たってるからピンク色ですけど…… いや朝か。もしこのピンクを抜きたいとしたら、あらかじめ頭の中に入れてこなくちゃいけないですよね。ベタ焼きはいいですよ、本当に。このルーペで見ると、僕が必要十分って言ったわけがわかると思うんですよ。明るいところでこういうふうにルーペを載せて。デジタル写真ほどのキレッキレな感じはないんですけど、なんか十分なんですよね。十分な感じ。うん、そうそう。なんか十分な感じしませんか。京都の近美で見せた〈Atmos〉とかも6×7なんですよ。

牧口:これがあの大きさになるんですよね。

畠山:こんなちっちゃいのが。

牧口:すごい引き伸ばして。十分ですね。

青山:十分(笑)。

牧口:十分って言ったらあれですけど。

畠山:うん、十分なんですよ。

牧口:でもやっぱフィルムですね。フィルムのよさがあるなあと思って見ました。

畠山:この角の甘さっていうんですかね。甘いのがいいなんてスノビズムかもしれないよね。

青山:ぴたって感じですね。

畠山:なんか機械的じゃないんだよな。不思議な安心感がありますよね。

牧口:粒子が見えるようにするとか、デジタルのガジガジが見えるよりいいなっていう(笑)。

畠山:最近は見えなくできますよ。例えば、こういうエッジの甘さ、および、フィルム的な粒子感とかさ、やろうと思ったらできますからね。シミュレーションの世界ですから、その気になれば何でも可能です。フィルムの時代だと、ここまではやれるけど、ここから先はできないって限界みたいのがあって、そこの限界をまず理解して、じゃあ、そのぎりぎり手前でどうするか、あるいは、限界をもうちょっと広げられないかっていうふうに仕事してたんですけど、デジタルだと、はっきり言って限界ないんですよ。こうしたいと思ったらそうなっちゃう。そうすると、やっぱり自由ってことはなにか恐怖と似たものになってきますよね。そういう気持ちを持ってる人は多いんじゃない。真面目な人は特に。真面目じゃない人っていったらおかしいけど、楽しくそういうのと戯れる人っていうのは、そんな恐怖なんて感じないと思いますけど。例えばスポーツ写真とか、鉄道とかさ。デジタルカメラがあったからいい写真が撮れるようになったと思ってる人の数は本当に多いと思いますよ。実際、スポーツ写真のクオリティは、10年前と比べたら、もう途轍もないものですよね…… 瞬間を止めるっていうことだと。あとは過去に遡るとか。

青山:過去に遡る?

畠山:そうそう(笑)。つまり、常に撮ってるわけよ、ビデオカメラみたいに。で、撮りながら捨ててるんだけど、スイッチを押すとその瞬間に、過去に遡って(映像が)ストックされるわけですよ。だから、(ここっていう)瞬間をはずすとするでしょ。でも、タイムマシンみたいに、自分が押した瞬間以前の絵を呼び出すことができるわけですよ。(たとえば)サッカーのゴールの瞬間とかはずすとするじゃない。でも大丈夫なの(笑)。一応(機械が)撮ってるわけ。だから(過去に)遡ることができる。すごいと思わない?

牧口:「決定的瞬間」っていう言葉の意味がなくなってくるわけですね。

畠山:そうだよね。モニカ・ルインスキーっていたじゃない。クリントン大統領だっけ?

牧口:スキャンダルの人。

畠山:そう。セクハラ問題を起こした人(笑)。彼女はインターンのときにあれこれあったんでしょ。で、ゴシップが出てうわさになったときに、彼女のインターン時代の写真はないかってみんな探したんだけど、どこにもなかったんだよね。ていうのは、その頃からもうジャーナリストたちの使うカメラって全部デジタルカメラになってて、それで記念写真とかたくさん撮ってたんだけど、モニカ・ルインスキーなんてもう全然目立たない人物だったから、全部消してるわけ。それで、たった一つ残ってたのはフィルムで撮られてた。

牧口:(笑)

畠山:フィルムで撮られてたから写真が残っていて、探したら1コマ写ってたわけ。これがインターン時代のモニカ・ルインスキーって、たった1枚だけ世の中に出て、そのことで、そのカメラマンはずいぶん儲かったはずですね(笑)。だから情報の取捨選択っていうの、なかなか難しいですね。捨てないで残そうと思ったら、もう途端に天文学的な数になっちゃうしさ。それこそクラウドですよね。いきなり数億って枚数なんてもう、自分ではとても把握できなくなっちゃうんですよね。そうするとなにか検索システムみたいのに任せなくちゃいけないでしょ。そうすると、人間のほうがそのシステムの奴隷になっちゃうわけですよね(笑)。だからな。どうでしょうね。でもこういう話って、レトロな話なんですよ(笑)。もう、20年くらい前の話なの。この引き延ばし機がもう20年前に製造が中止になってるし、こっちのプロセッサーも10年前にもう中止になって。そっちのペーパードライヤーもそうだし、だから壊れちゃったらもう終わりなんですよ、結局。すべてもう作ってないものなの。骨董品みたいなものですよ。そういうものにすがってありがたがってるっていうのも、なんかばかばかしいなって気もちょっとしますけどね。だって工芸品とか、漆とかなんか彫刻刀でコツコツ鎌倉彫とかさ、そういうんじゃないんだもん。ねえ。

青山:ねえって言われても(笑)。

畠山:伝統工芸だったら、道具の面で言ったらなんとかなりそうな気がするじゃない。自然素材とかだから。

青山:写真の道具は、工業製品ですからね。

畠山:工場で作るような印画紙とかさ。

青山:大量生産できないと、コストがどんどん上がっていくし(笑)。

畠山:そうなのよ。シートフィルムはもうなくなっちゃうって話だし、4×5のネガカラーフィルムとか。フジ(富士フイルム)がもうやめるって言ってんのね。僕が使ってるフィルムなんてもう、(有効)期限が切れて1年以上たってますよ。それでもまだ使ってますよ。それしかないから。

青山:まだ大丈夫。

畠山:完全に息の根を止められちゃった後はどうするかっていうことなんですけどね。…… フィルムにこだわるなんてのはもう本当、なんかどっかスノッブですね。

牧口:デジタルカメラも、部分的には使ったりされるんですよね。

畠山:最近、内藤礼さんの写真とか、伊東豊雄さんの写真はデジタルカメラで撮っています。結構、きれいですよ。

青山:いかがですか(笑)。

畠山:カタログにしちゃうと、全然もう、何をそんな議論してんだみたいな。さっさと使えよ、みたいな感じです。これは結構うまくいった。カラフルにできた。(註:『内藤礼 信の感情』東京都庭園美術館、2014年。デザイン:祖父江慎)

青山:これも、デジタルなのか…… きれいですね。

牧口:縦なんですね。横もあるけど。縦って畠山さんの写真には珍しい。

畠山:人、立ってるからね。

青山:思い出してきました。

牧口:これ、いつの展覧会?

畠山:2014年かな。

牧口:庭園美術館のリニューアルのときの展覧会ですね。

畠山:こういう、色を強調するなんてのは、つまり、電気信号で残ってるものを増幅して出すわけですよね。いっぺんプリントを作って、それをスキャニングしてだと、こんなに色とか出てこないんですよ、やっぱりね。これは見た目よりも色を強調してある。もやもやを。

青山:もやもや(笑)。

畠山:あの人さ、絵の具をどのくらい水で薄めるか全部決めていて、全部リストにしてて、で、この色にこんだけの水って、ものすごく薄い絵の具を作って、それを1日1回ここに塗るとかって全部決めて、毎日毎日やってんのね。いくつかキャンバス並べといて。

青山:差がないと何だろうって、こんないっぱいあって(笑)。

畠山:そう。会場に入るとただ白いキャンバスが並んでるようにしか見えない。

青山:遠目には。

畠山:なにかキャンバスの白さみたいなものをアイデアとして見せたい人なのかなあって一瞬思っちゃうんだけど、違うんだよ。描いてる。あと奇妙なのは、《ひと》に時々毛糸の帽子とかかぶせてあるの。で、これ母親に作らせたとか言うわけ。

青山:(笑)

畠山:時々、本当に奇妙なことするよね。あと、雑誌のページをもみくちゃにして、広げて、糸で吊しただけのやつとかあるじゃない? いや、よくこういうことするなあって、感心しちゃうときあるんだよ、本当に(笑)。
なにか、あるビジョンみたいな、最終目標みたいなものが頭の中にはっきりあるときにはデジタルカメラはいいですよ。そうじゃなくて、特に何も考えてません、みたいな感じで、ものや何かと出くわすときに使うカメラとしてはフィルムのカメラはいいですね。そんな気がします。

青山:こういうカタログの写真なんかのときにはわりとデジタルでできると。

畠山:それがさ、青山さんさ、僕、椿会の初回で、会場撮影を頼まれたから、よしって4×5で撮ってプリントして、それで原稿を出したわけ。そしたら、あんまりカタログの印刷の出来がよくなかったのね。しかも別に、プリントだからすごくよくなるとか、そういうことなかったんだよ。

一同:(爆笑)

畠山:別に誰も喜ばなかったし、もうなんか意味ないなと思って…… その次の回からデジタルカメラに変えたの。

青山:デジタルの写真を撮って、いじるのも畠山さんがされてるんですか。

畠山:ある程度やってるけど、まだまだ下手ですね。で、やりたくない。デジタルフォトグラフィーのポストプロダクションの仕事ほどつまらないものはないです、僕にとっては。幸い、最近、若い知り合いがいて、アルバイトでときどき来てもらってるの。彼はもう、アドビ社の製品にずいぶん詳しくって、スタジオのアシスタントの修行とかもしてんのね、2年半くらいかな。彼にはいろいろ教わることが多いですね。RAWデータの現像とか。

青山:「現像」って言うんですよね(笑)。

畠山:そうです。あとは、邪魔なものがあったら、それをちょっと消すとか。実際やってみると、これはこれでなかなか、そんな一概に邪道とか言って片づけるようなことじゃないなと思いますね。人間が考えてる理想のヴィジョンってのがあるわけでしょ。その足を引っ張る現実があって、でも人間の目はもうすでに、ある程度現実を理想化して見てますからね。だから、どこが落としどころか、つまり落としどころってのは、俗に言う「リアリティ」のことなんですけど、どこにリアリティを設定するかっていうのは、結構その人その人で違うんですよ、レベルがね。そこら辺に夢中になり出す人もいるんだろうなと思って。まあ、僕はめんどくさいから、あんまりやりたくないすけどね。だから、内藤礼さんが「これ消して」って言ったら、はいはいって、消しちゃいますけど(笑)。

牧口:なるほど。

畠山:実際消しましたよ。目にはそうは見えてなくて、会場出たときは誰もそのことを覚えてないような、ごく些細なものってありますよね。例えば、石と石がくっついてると。で、球に見えるんだけど、実際は半球がふたつくっついてると。で、造作上しょうがないから、半球をふたつくっつけるしかなかったんだけど、暗いとこで見ると、完全なもう球で、真球。で、写真撮ってみたら線が写っちゃったって場合。線があるっていう前提で、それを肉眼で見ると線って見えるんですけど、完全なもう真球だと思って見てると、あんまり見えないわけですよね。ましてや、ありがとうございましたって外に出たら、球しか覚えてないわけですよ。その人にとって線が写ってる写真というのは、意味があるかどうかね。別に、これがリアリティだっていわれても、え、そんなのリアリティじゃないんじゃないって、反論されそうな感じがあるじゃない(笑)。だって見てないんだから、それは。じゃあ、見えてない、見てないものだったら写真にも写らなくてもいいんじゃないのってことですよね。でも、それがちょっとアンドレ・バザン的な、写真の存在論的な言い方とは真逆の言い方になっちゃうわけですよね。よく考えると、とても面白いですよ。ちょっと前までは、僕より上の世代だって、やっぱり線は見えてしかるべきだと、それこそが現実だってなるから、見えてないとしたら、おまえの目が曇ってるせいで見えてないだけなんだから、現実はこうなんだから現実を受け入れろみたいな言い方をしたと思うんですけど、その言い方が最近はちょっと、なんとなくちょっと退いてる感じがしませんか。世の中全体的に。

牧口:ためらいは減ってる気がしますね。

畠山:でしょ。

牧口:はい。

畠山:そうだよね。目に見えるものばかりじゃないと思うんですけどね。例えば、一つ出来事が起きた。で、それは本当かどうかっていうことを、どうやって実感できるかっていうのはいま大テーマになってるでしょ。放射能の問題もあるし。あとは遠隔地から見た東北っていう問題もあるし。その辺の嘘かまことかじゃないけど、つまリ、「本当とは何か」っていう話は、僕にとっては今、一番面白いところですね。何がいったい本当なのか。あるいは、本当などなくても構わないって断言すべきなのか。本当とかいう言葉は捨ててしまったほうがいいんじゃないか、とか(笑)。そういうポストモダン的な態度も含めて。

牧口:せんだいメディアテークでの展覧会のテーマの一つですか。

畠山:そうですね。哲学もここ100年くらい、そんな話ばっかりしてますからね。今回は、哲学者と話すチャンスあんまりないんだけど。

牧口:美術館でやるのとは、また方向性が違いますよね。

畠山:うん。メディアテークは最近、震災後は特になんですけど、甲斐賢治さんが入ってきたせいで、結構、言論とかディベートとかをどうやって活性化するかっていうことが、おっきいテーマになってんですよね。その辺は美術館とはちょっと違いますね。

牧口:じゃあ、そろそろ終わりにしましょうか。

畠山:いいんですか?

牧口:青山先生、よろしいでしょうか。

青山:はい。

牧口・青山:じゃあ、ありがとうございました。