白髪一雄 オーラル・ヒストリー

2006年12月15日

尼崎市出屋敷 白髪一雄自宅にて
インタヴュアー:加藤瑞穂
書き起こし:鈴木慈子
公開日:2026年3月30日

加藤:白髪先生は、一番初めは、実は具象的な作品を描かれておられて。

白髪:学生時代は、こっち(「アクションペインター 白髪一雄展」カタログ、兵庫県立近代美術館、2001年、pp. 29-30)のような、あちこちの景色。なんで風景が好きやったか言いましたらね、浮世絵版画のね、要するに透視法みたいなあれで描いた浮絵(うきえ)ていうのがあるんですわ。それやら、北斎なんかの洋風がかった版画、風景、そういうもんが好きでね。それを研究してはったんが、外山卯三郎(とやまうさぶろう)という先生で。あの方は長崎の美術、長崎絵とか、西洋がかった、秋田のああいう日本画とも洋画ともつかんようなものとか、そういうのの研究をしておられるんかな、と思ってたんですよ。そしたら(僕が)病気になりましてね、そのとき金山(明)君が持ってきたんが、その外山卯三郎さんの『純粹繪畫論』(第三書院、1932年初版)やったんですわ。それにしびれましてね、それから再認識して、もっぺん、日本洋画の古い、発祥した時のこととか、そんなんも一生懸命調べるようになったんですわ。それで学生時代、風景を一生懸命描いてて、それを制作するときに、どう言うたらええかな、浮絵ふうに空を広くとったり、ちょっと遠近法を極端にしたりしたもんを描いてたんですわ。それがね、全然残ってないので、何とも言いようがないです。油絵で描いたもんはね、上を塗りつぶしてしもてるんです。例えば、30号ぐらいに描いたもん、大阪の御堂筋なんか描いたんがあったんですけどね、それが、カンヴァスが手に入らないから、次に描こう思ったら、それ塗りつぶさないと。ほんで、前のもんはどうしても自分では嫌なとこが出てくるもんでね、塗りつぶしてしもて。ほんで、日本画の方は日本画の方で、あんまり描かなかったんで、学校(注:京都市立美術専門学校、現・京都市立芸術大学)へ出したんが一点、卒業制作で。今は歌舞伎なんかやっている、松竹座、あれが夕映えでわーっとピンク色に輝いている、それが卒業制作でしたね。それぐらいが残っている。

加藤:まだ今残っているのですか。

白髪:京都芸大にあるんじゃないかと思いますわ。それは日本画の絵具で和紙の上に描いたものです。(注:京都市立芸術大学の所蔵品としての登録は確認できず。)

加藤:卒業された後も、例えばこのような作品(《照魔鏡》1951年)をしばらく描いていらっしゃって。

白髪:はい、そうです。

加藤:この頃は何を描こうと思われたのでしょうか。

白髪:その時分は奇っ怪な風景とか、奇っ怪なものを描こうかなあと思ってたんで。例えばこれ(《照魔鏡》)なんか、ビルが化けた化けもんですわね。それから《妖家具》(ようかぐ)という題で、妖しい家具と書いたんがある。それは剥落がひどいんで、今もあることはあるんですけどね、あんまりお見せできるような状態ではないようになってしもて。それは暗い部屋に家具が置いてあってね、西洋式の。それがみんな、こう、化けかけてるというか。『聊斎志異』(りょうさいしい)の中にそういうふうなものがちらっと書かれているんで、何かそんなん描きとうなったんだと思うんですよ。

加藤:こちらの作品(《甲冑部屋》1951年)も同じような主題ですね。

白髪:ええ、それも同じような、西洋の兜、鎧、盾、それから斧ですわね。剣とか。そういうもんが暗い部屋に置いてあって、それがなんとなく不気味に光っているとか、そういうイメージ。それでゴチック時代のそういう雰囲気を出そうと。厳密に言うと、この鎧はでてないけど、兜なんかはゴチック時代よりもっと後のもんや思いますけどね。それは話が別として、そういう西洋の中世的なものにちょっと憧れとったんで、それでまあ、これ描いたんです。

加藤:ただもう少しすると、こういう《脈》(《脈、モノクロームA》(1953年))や……

白髪:《文》(1954年)とかね。

加藤:このように変わられるきっかけになったのは何でしょうか。

白髪:描いているうちに、だんだん変わってきたというのがほんとなんですわ。というのはね、夜6時前ぐらいにね、母親が店で商売してますわね、呉服屋を。そこへ代わりに交代に行くことになってね。それで、行って、夜になったらその時分はまだあんまり人が買いに来ないんですわ、ひまでね。それで番頭さんとふたりで店番してるわけ。そのときに、そこらに来た案内状の、裏が白いですからね、用紙があった。そのハトロン紙にばーっと手にまかしていろんなもん描いたんですわ。それでさっきのこういうもん(《甲冑部屋》など)もできたんですけどね。それが描いているうちに、だんだん、こういう形がなくなって、こない(《脈、モノクロームA》(1953年)などに)なってしもて。「店番ドローイング」とか「店番デッサン」とか勝手に名前付けて(笑)。それがこのぐらいのブックになって。このぐらいの分厚いやつ(手で約5センチの幅を示す)と、もうちょっと薄いのと。2冊目なんか、ほとんどまったく抽象ですわ。こういうふうな絵(《脈》など)でね。それまではこういう(《本能の結集》など)ので、だんだん変わっていって、これ(《脈》など)になる。これになって、いよいよ油絵がこないなってきたらね、下絵見て油絵を制作するという、タブローつくるっていうことができないんですわ。環境が逃げて(注:制作現場で抱いた感覚がなくなる、の意)しまうから。ほんで、店で描いたデッサンだけでもう環境が出て(注:定着される、の意)しもてね。ほんで、タブローに向かって描いても、なんや固いものにしかならないんで、下絵見てやったら。ほんで、もうフリーにばーっとやるようになって。ほいでまあ(「アクションペインター 白髪一雄展」カタログをめくりながら)、これ(《脈、モノクロームA》)なんかまだ計画的なとこありますけどね、次の、こういうの(《流脈1》1953年)なんか、もうそれこそ行き当たりばったり。結局、自然とこういう脈みたいなもんができるんで、この線を中心に、こういうふうに絵の具を両側へ伸ばしていったらできるんやないかという発想で。

加藤:これは、ペインティングナイフですか。

白髪:ペインティングナイフです。

加藤:こういう作品を「ゲンビ展」に出されて、その作品を吉原先生がご覧になられて。

白髪:この手の作品ですわ、それの紫っぽい絵(《流脈2》1953年)を出したんです。大阪の心斎橋の大丸やったと思うねんけどね。そのときに「先生、この作品、どないでっしゃろか」て言うたらね、「うーん、非常に独創的でええけども、三次元の空間を感じるとこがまだあるから、それを二次元にしなあかん」というんですよ。その意味がね、なかなか分からないでね(笑)。ほいで、やっているうちにだんだん分かってきて。それで、足で描くとこへ移行した時分には、平面的に描こうなんて思ってないねんけど、結局もう立体的に見えない。これ(《流脈1》1953年)なんか、やっぱり風景的な三次元的要素が残ってるんですわ。それを(吉原先生に)見せたもんやからね、そう言われて。抽象画というのは、とくにノン・フィグラティーフの、非形象の絵は、平面的でないと表しにくい、人に伝わりにくいから、と言われてね。それがやっと分わかってね。「先生、あの時分おっしゃっていただいたことがやっとわかりました」と言うたことがあるんですわ。

加藤:コンポジションとか、色彩を組み合わせて、というようなことをまず意識的に否定する、ということをされたのでしょうか。

白髪:そうです。洋画の根本的な造形の要素をいっぺん全部否定したらどうなるかなというので。まず一番自分が好きな色、クリムゾン・レーキが好きだったんで、あれ透明感が強いから、下が白い何かで塗りつぶしてあったら、カンヴァスそのままでもいけるんですけどね。白で丁寧に目つぶしたりなんかしてあったら、その上へクリムゾン・レーキで描けば、伸ばしたら、伸びてないとこは色が濃いから暗くなるけど、ずーっとのばしていくと、ピンク色になって明るくなりますわね。それを利用したもんをつくったろうと、その要素だけで絵描こうというので、それが次のこの種類(注:1953年の《亀裂》等のクリムゾン・レーキのみで描いた作品)ですね。

加藤:タイトルが《亀裂》となっていますが、これは絵の具に何か混ぜられたのでしょうか。

白髪:クリムゾン・レーキのような透明色をきれいに発色させようと思ったら、白で地塗りをしとかなあきませんわね。シルバーホワイトかなんかで。それをやってね、乾き足らなんだと思うんですわ(笑)。それをね、乾き足らんところを、厚く塗りすぎて。乾き足らなかったとこへ、クリムゾン・レーキだけで、横にこう、なんか引き伸ばしたような跡がありますわね。それ描いてほっといたんですよ。ほな、こんなもんなってね。これおもろい、しめた!(笑)ほんで、だいぶ経ってから《亀裂》という題をつけて、ほってあったんですよ。どこへも出品しないで。たしか、芦屋の美術館へは出したことあります。

加藤:はい。こちら(《赤の三番》1953年)もございますね。

白髪:それもね、やっぱしクリムゾン・レーキを塗っといて、右上から、こう指でなぜていくわけですね。そやけど、真ん中の方になったら手が届きにくいから、こう大まかになっていて、ここ(画面右上)から始めて、こうやっていって、ほんでここ(画面左下)へ抜けるという。そういう、造形を無視した、指の行動だけで絵ができるというふうなことをやったらどうやろ、いうのでやったんですよ。

加藤:この頃はもう0会はできてましたか。

白髪:できてました。もう、こっち(《亀裂》)の頃からもできてましたね。

加藤:その0会は、こういう実験的な作品をお互い持ち寄って、批評し合うという会だったんですね。

白髪:そうです。批評会、互評会というかね。そやから、みんな集まって、結局、言いたい放題言うて。中にはぼろかすに言われて怒って帰ったやつもおったりね(笑)、若いので。まあ、いろいろありましたけどね。

加藤:先生のこういうふうな作品については、当時どのように皆さんおっしゃっていたんでしょうか。

白髪:いや、皆きれいなぁって。非常に透明感が強いから。そら、透明色の一番強い絵の具で描いてんねんから、透明感でるがな、とか言うたりしてね。

加藤:こちら(《作品》1954年頃(「アクションペインター 白髪一雄展」カタログ、p. 40、no. 19))は指ですけれど、こちら(《作品》1954年頃(同カタログ、p. 40、no. 20))も指ですか。

白髪:それも指です。50号の真四角やったか、60号やったか忘れたけど。それ、ありますからね。真ん中から塗っといて、真ん中からこう、指でこうして(絵の具を伸ばして)いったり。真ん中からこう、放射状にぐるりと回ったりして作ったんですわ。あんまり大きいもんやと手が真ん中へ届きませんからね、できないので。たしか50号やったかな。

加藤:こちら(《作品Ⅰ》1954年(同カタログ、p. 41、no. 21)など)は掌ですか。

白髪:いや、足の裏。

加藤:足の裏ですか。

白髪:これが一番最初の足の裏の絵で。ここの2階をアトリエにしてたんですけどね、そこへケント紙の全紙を板に貼りつけといて。ほんで絵の具をまずこう、手で伸ばして塗って。その上をこう、ぐーっと歩いただけなんですわ。そしたら勝手にこういうふうに白うなってね、足の跡が出て。「あ、これはおもしろいもんできた」と思って。これ一つ描くのに5分もかかってないかもしれない。そんなので、図に乗って3枚、ぱーっと描いて、0会のときに見せたら、「わーおもろいもんできたなー」言うて、村上(三郎)やらが喜んでくれて。村上君は、先に投擲絵画、あれをやっとったんですわ。おたくにありますわね、(ボールが)ぽーんと(当たって)楕円形みたいな形になったのが(注:当時芦屋市立美術博物館は、村上の《投球絵画》(1954年)を預かっていた。)。それで「負けるもんか!」と思って描いたんがこれでね(笑)。そこのとこは、みなお互いに。ほんで金山君は金山君で、何と言うたらええかな、ハードエッジみたいな。もう簡単な、シンプルな。

加藤:端だけに、こう線があるような。

白髪:ええ、(そんなのを)描いたりね。

加藤:先生ご自身は、こちらの作品(《作品Ⅰ》(1954年)など最初に足で描いた作品)ができたとき、どう思われましたか。

白髪:いやあ、「ええもん発明した」と思ったです(笑)。ほんで、今まで足で描いた人おれへんのかな思てね、それが一番気になりましたね。ほんで、金山君のこういうわりとシャープな作品とか、村上君の投擲絵画とかを、そごう(注:心斎橋の百貨店)のウィンドウで並べて。おそらくね、(その展示を)吉原治良が見たと思うんですわ。ほんで、嶋本(昭三)君に「あいつら連れてこい」て言うたんですよ。ほいで、嶋本君が「0会に寄してくれや」言うて来てね。ほんで、そのときに「おみやげや」言うて幻灯機持ってきてね。ほんで、自分が白いフィルムに、勝手に何やわーっと描いたもんをね、こうまわして見せてくれて。「いやあ、これもおもしろいなあ」言うたりして。ほんで、3回来て、「吉原先生知ってるやろ」言うて。「そりゃあ、知ってるわな」。「具体いう会合してんねん。来い言うてはるで」言うて。「ほんなら行きまっさ」言うて(笑)。11月頃かな、初めに行ったんが。(注:上前智祐の日記によれば、白髪が金山と共に吉原宅で開かれた具体例会に出席したのは1955年3月29日。)まず会合に顔出して、いろいろしゃべったり、向こうの言いはることやら、他の人が言うのやら聞いててね、「これ考え方全然おんなしやなあ」と思ったんですよ。それで「それやったら0会しててもあれやから、この具体へ合流した方が、何もかもやりやすいんちゃうかな」と思って。ほいで、この上の2階でみんな集めてね、「0会をやってんのええけどね、もっと大きいとこへ入った方が思うような仕事ができるかもしれへんし、共同で何かやったりできるからね、その方がええのんちがうか」と。金山君と僕と村上君と3人で、くどいたわけですわ、みんなを。ところがみんな「いやあ、小磯(良平)先生や、伊藤継郎先生に義理が悪い」とか言うて(笑)。(注:小磯良平と伊藤継郎は新制作の関西における主要作家で、0会メンバーの多くは彼らに師事していた。)いっこも乗ってけえへんのですわ。しょうがないから、まず村上君とふたりで、伊藤先生とこへ断りに行こうや言うてね。「『新制作』へ出してたけど、離れて、吉原先生の『具体』いう会に合流したいんで、出品もそっちの方へ出したいと思いますので」って。「ほな、両方出したらええやないか」言われてね。「いやあ、それが、もう両方出すような気になれませんねん」言うて。ほいで結局そのときは村上君が行けんようになって、僕だけで行って困ったんですわ、一人やから。でもまあ「わかった」って言わはってね。ほんで「思ったようにし」って。それで村上に言うたら、「わし行かんでよかった」言うて。

加藤:そうですか。白髪先生はいつもそういう役回りで。

白髪:それで皆に「0会解散する。具体へ合流する」言うて。そのときは、金山、村上、僕と、後で田中敦子さんが入って、それからだいぶ後に家内(白髪富士子)が入って。そんなような状態でした。

加藤:ちょうど(具体に)入られた後くらいにすぐ、「真夏の太陽にいどむ 野外モダンアート実験展」がございました。そのときに《どうぞお入り下さい》を制作されたのですが、これはどういうところから発想されたのでしょうか。

白髪:これは野外で、しかも緑のきつい松の林でやるからね。よほどのもんでないと目立たんと思たんです。ほいで、立体的なものでないといかんと。ところが僕は根っからの平面作家でね、立体的なものいうても、頭に浮かんでこないわけですわ。それでまず、何でもええから、なんか立てたらええと思ってね。それも緑に対して真っ赤がええのんちがうかというので、丸太棒買うてきて、ワイヤーで通して、ひろげて。赤は先に塗ってあるんですけどね。それで、これでわりと松に負けへんなあと思って。それから、鉞というか、斧というかな、それを買うてありましたんでね。中入ってばーっと切って、切りまくったんですわ。そやから中だけ切れてるんですわ。外側は全然傷ないんでね。中側だけにあるから、どうぞ中へ入って、その切り口を見てくださいと。そしたら、端からずーっとまわって見たら、結局はエンドレスの絵になると。そういう考え方で作ったんですわ。

加藤:それでは斧で切りつけていらっしゃるところを、見てほしいっていう思いは、その当時はなかったんですね。

白髪:その当時はなかったですね。なんか恥ずかしいと思ったぐらいでね。ほんで、これ(「アクションペインター 白髪一雄展」カタログ、p. 14)を撮ったんは、朝日(新聞)のカメラマンやったと思うんですけどね。偶然かぎつけて来て。そんで、やってるとこを撮ったんとちごてね、できあがってから、もっぺんその格好だけしてくれって言うから(笑)、やって。奥さんも子どもさんも向こうへ立って下さい、って。

加藤:後ろに、写っていらっしゃる(笑)。

白髪:ほんまはこんなはずないんですよね(笑)。これを人にお見せしようなんて全然考えてなかったですよ。そやけど、切ってる最中、かなり見に来てました。子どもなんかも。ほんで、「わー」言うてね、「えらい汗かいてやっとるー」とか言われて(笑)。それで東京の展覧会(第1回具体美術展)が10月にありましたでしょ。あのときに泥を考えついたわけですわ。あれはね、田舎へ行って、泥田(どろた)見たときに、「この中でうわーと泳ぎ回ったら気持ちええやろな」と思ったんですよ。それで「これを作品にしたろ」と思って。ほいで、あの時分、東京で田んぼなんか借りるわけにいかへんしね。どないしたらああいうものが手に入るかな、そや、壁土やと思ってね。ほんで、壁土屋へ行って。大きな、あれは何トントラックかな。バタコ[オート三輪]いうて、三輪車のおっきいやつ。あれに、ばーっと二杯ほど送ったんかな。ほいで(会場となった小原会館の)表のとこで、もうひとつ固練りのんがあってね、それをやって。そのときにね、大勢見に来よったんですわ、近所の人やら。「何してんねやろ」いうような顔して、「何だいこりゃ」ていう感じですわ。ほんで(小原会館の)裏の横手のとこでもした。前の(最初に表でやった)ときはね、セメント混ぜてやったから、すぐ固まってきてね。フランス人のジョン・ローノワ(John Launois)っていう、ライカの、えーっと、何やアメリカの雑誌。

加藤:あ、『ライフ』。

白髪:そう『ライフ』。『ライフ』に所属してるカメラマンやいうて撮りに来ましてね。(注:実際はパナ通信社所属。『具体』第5号(1956年10月)によれば、撮影後にローノワが『ライフ』へ写真を送った。)それで「さあやろう」と思ったらね、固まりかけてるんですわ。ほんで「こら、思ったようにいかんわ」って。しょうがないから、膝やら、それから肘とか、げんこつやらで、こうばーっとやって、くーっとやったりして、やっとでこぼこつくってね。足でぐーっと引き伸ばしたりして。やっと写真もええのん撮れたと言ってくれてね。ほんでおさまって。(次に裏の)横手でやるときはね、もう柔らかく練っとかなあかんし、セメントなんか入れたらあかんというので、柔らかい練りのやつでやったんですわ。それがまあ、これ(《泥にいどむ》、1954年)として紹介されることが多い作品写真でね(注:「アクションペインター 白髪一雄展」カタログp. 26に掲載)。

加藤:これは全部、柔らかい方ので、それとは別の表側のところで……

白髪:表の、ちょっと広い庭でやったんは、固練りの方で。固練りというよりも、硬くなってしまった。

加藤:セメントをちょっと入れたので硬くなってしまった。

白髪:硬くなって。そやから軟と硬、硬と軟みたいな作品になって。ちょうど偶然ですけど、それでかえって良かったんやと思うねんけど。その横手でやってるときなんか、読売(国際)ニュースのカメラマンが撮りに来て(注:映像は確認されていない。その一方で日活世界ニュースには記録映像が存在する)。これですわ(『具体資料集』財団法人芦屋市文化振興財団、1993年、p. 79、下から二段目右)。それが撮りに来てるときなんかもう、人がねえ、写ってないけど、フェンスのとこへいっぱい見に来てね。そのときにね、「これ人に見せた方がおもしろいわ。やりがいもあるし」と思って。次のとき(第2回具体美術展)やったかなあ、屋上か何かで、みんなが見せるやつやったんですわ。ほんで雑誌社や新聞社まわって、見に来てくれ言うて、その人らが見て。ほんで僕は、大きい8メートルほどある紙に、大きい部屋の展覧会場で、そこでスケートするみたいに描いたんですね。それはもう、大勢見に来て。一般の人も見に来たり。

加藤:一般の方も。

白髪:聞き付けたんかな。

加藤:こちら(第2回具体美術展会場となった小原会館での制作記録写真、『具体資料集』p. 97、下段左)ですか。

白髪:それですわ。こちら側(写真に写っていない側)にようけ皆いて。ほんで、写真撮る人は折りたたみの椅子の上へ立って撮ったりしててね。それで一人はひっくり返りはってね。カメラがばーっと飛んできたりしてね。

加藤:ちょっと危険な。

白髪:ええ、それからお見せしたいという方の気持ちが強くなって、それが自然と舞台へ移行したと思いますわ。

加藤:こちらの、ちょうど作られたときの作品なんですけれど、これは鳥の子紙の上に描かれて。

白髪:7尺と9尺の紙やから、3 × 9で(注:一尺は約30センチ)2メートル70センチちょっとと、それから(3 × 7 で)2メートルちょっと、一枚の紙で。それを4面やったかな。壁面いっぱいに描こうと思ったもんやからね、計って。4枚やったか、5枚やったか、忘れたけど、のりで貼って。ほんで、いずれも上へ上げられるよう、いろんな細工しましてね。ロープ通しといて。ほんで、ええかげん乾いてもう持ち上げても大丈夫やいうときに。2、3日かかりましたね。ずーっと上げて。そいで、展示したんです。

加藤:これはほぼ一色ですか。

白髪:いや、いろんな色を使ってます。

加藤:そうですか。

白髪:この時ね、あんまりまだカラー(写真)が普及してなかったら。これのカラーの作品(写真)はないんですわ。7色ぐらいは使ったと思います。

加藤:そうですか。これは先ほどのクリムゾン・レーキのときより……

白髪:だいぶ後ですわ。

加藤:色をかなり入れられるようになったのは。

白髪:色を入れるようになったのは、これ(「アクションペインター 白髪一雄展」カタログ、p. 96、No. 11《指絵・掌》、No. 13《文》など)が1954年でしょう。

加藤:1954年ですね。

白髪:もうね、1955、56年。

加藤:これ(同カタログ、p. 97、No. 23《作品 BB21》)が1956年になりますね。

白髪:1956年に、あれ描いて、大きい鳥の子紙に、色を使い出して描いてましたんで。そいで(同カタログをめくりながら)これももちろん色がね。そこら(同カタログ、p. 96、No. 15《作品》、第1回具体美術展出品作)が初期ので。この時分のが全然残ってないんですわ。ゲンビ(現代美術懇談会)に出した、赤一色のもなくなってしもてね。結局あんまり残すということを考えてなかったからね。今になってみりゃ、しもた、と思いますね。

加藤:少し戻りますが、初期は奇怪なもの、あまり気持ち良くないもので、内臓を思わせるような作品も同時に作られていて。これ(《赤い液》1956年(2001年再制作)、《赤いびん詰》1956年(2001年再制作))はどういうふうなところから発想されたのでしょうか。

白髪:やっぱり、人が見てね、気持ち悪がる。気持ち悪いほど、迫力が出るんちがうかと。見た人は何かの刺激をうけるから、その刺激は今までの美術の絵画作品とか美術作品の美の与え方とは全然違うもんだと、そういう考えで。ほんとは内臓を買うてやりたかったんですけどね。ホルモン漬けをつくろうと思ったわけですわ。尼崎の三和(さんわ)の辺には、ホルモン焼き屋がたくさんあって、売ってましたからね。それで、ハチノスとか、いろんな内臓買うて。実際にゴールデンサラダの油(吉原治良が社長を務めた吉原製油の製品)に漬けたりして、バットの上へ。ほんで先生「これなんや」言うて。「いや、美と醜とのぎりぎりのもんつくってまんねん」。「こんなもん醜ばっかしや」言われてね(笑)。「こんなん、くさいやんか」て言うから、「いやこれ、ゴールデンサラダオイルでっせ」言うたら「へえ」言うて(笑)。この手の作品は、先生にはあんまり評判良くなかった。

加藤:こちらも(《十六個の個体》1956年)も芦屋市展に出ていて。

白髪:それはわりと褒めてはったです。これもやっぱり、気持ちの悪いもんつくろうと思ってしたんが、あんまりそうでなくなってしもた(笑)。

加藤:これは、非常にカラフルで。もともとオリジナルもこのような色なんですか。

白髪:そうです、それはまだありますわ。その作品は、だいたいが、パン屋にね、見ただけで嫌になるような、パン作ってくれ言うて。上へわしが色塗るから、固めのパンでないと、もたへんから言うてね。近所にベーカリーができててね、お店も表にしてはった。「ほっぽう」っていう、青年団の友達みたいな、商店街の。それが「パン作ったるわ」言うて。そやけど「あかん、できへん」言うんですよ、そんなもんは。「あんたが自分で練って、作って、それ焼くぐらいやったらするけど」言うて。でもそれやったら、永久にもたへんし。「ほな、自分でやるわ」言うて、白色セメント買うてきて、それでやって、彩色したんです。そやからこれまでですね、こういう気持ちの悪い作品は。ああ、これ(《○》1956年)があるわ。(注:円の図形が作品の題となっている。)

加藤:これ(《》)も、野外展の。(注:楕円の図形が作品の題となっている。)

白髪:そう、野外展で、あんなん(《十六個の個体》)の大きいのをしたろ、と思って。

加藤:これ[《》]はピンクの方でしたね。

白髪:ピンクのビニールのシートですね。

加藤:この時は二つ、作られたんですね。

白髪:おまんじゅうみたいなのと。

加藤:こちら(《○》)のと。

白髪:それとね。

加藤:吉原先生はあまりこちら(《○》)のは、個人的にはお好きじゃなかった。

白髪:こっち(《》)の方はね、なんか知らんけど、好きやったですね。

加藤:この後タピエが来まして、具体を発見して、その中でも白髪先生の作品を高く評価されたと思うのですが、その頃ちょうど、今まで紙に描かれていたのを、支持体をカンヴァスにしたほうが良いと言われて。

白髪:契約しょうと言い出してね。ほいで、契約すんのには、カンヴァスでないと困るて言うたんです。そりゃカンヴァスにしてもかまいませんて言うてね。ほんでまあ、紙をやめて、カンヴァスにしたんが、そやからタピエが来て、1900… 何年かな。

加藤:1957年ですね。

白髪:1957年に来て。そのあと58年くらいから、もうカンヴァスに。

加藤:やはり、紙の上でされるのと、カンヴァスの上はかなり違うと思うんですけども。

白髪:いや、あんまり変わらないですね。

加藤:変わらないですか。

白髪:変わらないです。ただね、最初は、カンヴァスが丈夫でないといかん思て、粗いめのやつを使ってましたからね。足にやっぱりこう、ざらっとさわるんですわ、最初のうち。そやけど2、3回やり出したら、全然分からない、感じなくなる。

加藤:例えばこういう(1960年代前半の作品は)、たくさん色を使われていますけれど。色はどういうのを使おうと予め決めていらっしゃって。

白髪:そうです。今度は赤を中心にした作品を作ろうとか、逆に、紺色みたいなのを、たくさん使ったり。その時分、紺一色とか赤一色はあんまりなかったんですよ。ほいで、赤を中心に、紺を中心に、黒を中心にというふうな、そういう考え方で作ってまして。それがだんだん移行して、今度水滸伝のシリーズやろうと決心しだした時分から、その豪傑のイメージを入れていくように。そやから、色も勝手に決まってきますわね、豪傑の。読んだ印象とか。前に頌歌いうのが載ってて、その頌歌に書かれてる目鼻立ちの具合とか、肌の色とか、それから着てるもんのこととか書いてありますからね。そのイメージが画面に出るように。

加藤:少し戻るんですが、ちょうどタピエの来る直前の、これは京都市美術館の第3回(具体美術)展のときの写真です。この頃はまだ鳥の子を使っておられて。

白髪:ええ、鳥の子を使っています。

加藤:タピエが来た後、こちらの、これは同じ京都市美術館なんですが、第8回(具体美術)展で。このときの作品が本当に、今は(白髪先生の)代表的な作品群になっています。

白髪:ええ、その辺のね、この時代のものとして残ってきたという。

加藤:このときも実は立体の作品が、会場の絵の前に置かれていまして。

白髪:赤い梁の材料の、斧でへつったような。

加藤:その少し前の展覧会(第4回具体美術展)でもこういうふうな材木の作品がありまして。

白髪:これが一番初めですね(注:実際は、第3回具体美術展にも材木による作品が出品されている)。そういう梁の材木を使って。ほんで、これ(第8回具体美術展に出品された材木による作品)がわりと大きいもんでしてね。このくらい(1メートルくらいの幅を両手で示す)。

加藤:やはり絵だけではなくて、それも見せたほうが良いと思われた。

白髪:ええ、それも見せようと。このくらい(1メートルくらいの幅)の梁をぱーっと切って、それに赤を塗っといて切って。それをこう、切った方を中にしてこうやって(鉞ではつった側が互いに接触するように組んで)、それで足つけて飾ったんです。

加藤:やはり材木を見せたほうがより、白髪先生の資質が伝わるということでしょうか。

白髪:まあ、材木の持ってる重量感とかね、それから切ったとこの、切り口の鋭さとか。そういうもんで訴えたいと。ほんで、それをもっと立体的に、組んだもんにしよう思たんがこれ(第4回具体美術展出品作)でしてね。それはもう《赤い丸太》(《どうぞお入り下さい》)の発想で、そういうふうに組んだらええかなと思ってね。

加藤:一番初めに野外でこれをされたときは、松林の中で目立つものというと、赤い丸太を立てて、と思われたということなんですが、その時点から、材木だから斧でやってみようと思われたんですか。

白髪:ええ、材木やから、斧を使って切ったら、切り口がどんなもんになるかな、と思って。そいで、そこらになかなかそんな斧売ってませんからね。神戸の元町に、今でもあるんですわ、「切味の店」いう刃物屋さんが(注:切味乃家(きれあじのいえ)。兵庫県神戸市中央区元町通3丁目3-9)。あそこ行ってね。ほな、三木(兵庫県三木市)がそういう刃物とか、大工道具とかの本場でね、三木で探してみます言うて。ほいで探し出してきてくれたんが、刃渡りこのくらいの(両掌をほぼ15センチほど離す)。あれはだいたい船大工がね、へつったりするもんなんだそうですよ。ただ欠点はね、あんまり切っていたら、だんだん刃が歪んできて、抜けるんでね、飛んだことあるんですわ。

加藤:それは危ないですね。

白髪:もっと普通の、薪割る、このぐらいの(両手の指をほぼ20センチほど離す)斧ありますわね。あれだと切り口が鋭くあんまりならないんで。だから辛抱して、船大工のそれ使ってたんですわ。まあ、いろんなことがあって。

加藤:また少し違うことを。ちょうどタピエが来た頃に舞台での発表もあったのですが、こちらの《超現代三番叟》はどのようなところから発想されたのでしょうか。

白髪:あのね、僕は狂言を親父といっしょに(やってた)。僕はあんまり好きやなかって、嫌々やけど、親父が「いっしょに習ってくれ」言うから。ここ(自宅)へ先生が来ましてね、京都から。茂山忠三郎(しげやまちゅうざぶろう)いう、大蔵流(おおくらりゅう)の先生が。その人に習ってたんですわ。ほいで、いろいろ聞いてみたり。それから、舞踊なんかにも、三番叟(さんばそう)が出てきますよね。お能の場合、狂言師が三番叟をやるんですよ。それも初日にやって、一番初めの、先駆けというかな、そんな感じでやるもんやから。「白髪君、おまえ一番初めにやれ」って言われたからね、何したらええかなと思って。せや、動きをうんと見せるために、袖を長くしようと。ほんで、袖だけやったらだめですからね、へなへなで。ほんで、竹を、煙突掃除やら溝掃除する竹を買うてきて。それを中へこう通したらええんちゃうかと。竹いうのは、平らにこう(竹を握った掌が下に向くように)持ってたら、こないなる(両端が撓る)わけですけどね、あれをこうやる(竹を握った掌を90度立てる)とね、びーんとこうなる(真っ直ぐになって撓わない)んですわ。ほんでこう、しないだり(腕をあげる動作)、それからばっとしたり(竹を握った手を90度立てる動作)、いろんな動きができるんで、これを中心に考えて、お面にも長い鼻を付けて、頭にも尖った帽子を付けて、ほんで、袴は長袴にして。ほな、ちょっと振っただけで目立ちが強いし、顔ちょっと上げても、鼻がついてると、ばーっと大きく動きがわかりますので。それで、よし、狂言の三番叟や言うて。そう言っても、真っ赤なものを着て三番叟や言うたってわかりにくいから、「超現代」というのを付けて。三番叟ということで、一番初めに、とっぱしに出てやらされて。

加藤:動きを強調するというか、いろいろ付けて、ちょっとした動きも目立つようにということでされたんですね。

白髪:そうです。その発想から来ててね。ほんで、一番最初にやれ言うから三番叟やと。

加藤:今でも具体の当時の写真を貸してくださいと言われるときは、先ほどの《泥にいどむ》と、《どうぞお入り下さい》と、《超現代三番叟》というのが、一番白髪先生の写真では依頼が多いです。

白髪:こんなんやってるときはね、人には見てもらいたいとは思ったんですけどね、今の、要するにパフォーマンスをやろうなんて全然そんなん考えてなかったんですよ。ほんで、これやっているうちに、アメリカの、何やいう。

加藤:アラン・カプロー(Allan Kaprow)ですか。

白髪:ああ、カプローの、あれ。

加藤:『アッサンブラージュ・エンヴァイロメント・アンド・ハプニング』(Assemblage, Environments & Happenings、1966年)というのですね。

白髪:あれがあるということがわかって。具体の8人ほど本に載せられて。ほんで、それの部類だというように言われて。自分もそうかなあと思ってるうちに、だんだん時が経ってきたら、パフォーマンスいうことばがね、出てきて。

加藤:やはり先生の一番元となっているところは、ペインティングであるということですか。

白髪:そうです。絵を描くということが一番の眼目で。

加藤:具体に参加されて、一番何がプラスだったでしょうか。

白髪:自分一人でやったり、金山君、村上君なんかと一緒にやっとったんではね、だんだん絵がこういうふうに変わってこなかったと思うんですわ。それと、こんな舞台でやるものなんかは、具体へ入ったからできたんで。共同作品じゃないけど、何かそういうふうに、だんだんなったような。一人の人間の作品をみんなで助けて。僕がこれで出たあと、矢を飛ばすときに、仲間が出て飛ばしてくれましたでしょ。それから、他の人のも、僕が出てやる。田中さんの電飾服着たり。そういうふうなことをやってるうちに、何か得るものがでてくるわけですよ。仲間意識というよりも、何か芸術家根性みたいなものの集まりみたいな感じで。それが、非常に有益だと感じ出したんです。ほいで、非常にうれしかったですけどね。

加藤:具体のメンバーで、皆さん非常に密接に交流されていたと思うんですけれど、特に0会で一番初めからいらっしゃった金山さん、村上さん、田中さんなどは、具体でも一緒で。例えば金山さん、村上さんについて、どういうところが印象的でしたか。

白髪:まず、金山君のことやけどね。子どものときからいっしょに遊んで育ったんですよね。(旧制)中学だけは、向こうは大商(だいしょう)いうて、大阪商業(学校)かなんかへ入ったから、全然違うんですけど。それ以外は、ここの近所におりましたんでね。ほやから、ずっと付き合うて、見てきたわけやけどね。僕と全く反対の人間やなあと思ったんですよ。つくるもんも。「おまえの絵、かたいなあ」言うたことあるんですけどね、裸婦なんか描いてるの。ほんで、彼はホルバインなんか好きでね。きっちり描くんですよ。僕は、その時分からわーっと(笑)、気の向くままに描いてたから。全然違う、反対の人間やなあということを感じてね。ほいで、僕が病気で寝てるときに、退屈やろうから言うて持ってきた本が、『純粹繪畫論』だったんですよ。それ読んで、ものすごく感銘してね(笑)。芸術にはふたつの流れが、とくに絵画の場合は、ふたつの流れが強いと。冷たい理性的な流れと、それから情熱的な熱い流れとあるということが書いてあるわけですわな。タピエもさかんにそれを言いよったんですわ。熱いと冷たい、理知的と情熱的というのは、金山君の方を見たら、知的で理性的で冷たいと。僕の場合は、自分でも、非常にむちゃくちゃするしね。情熱的で、酒飲んでわーっとするから(笑)。全然反対の人間やなあいうことを、よけいに感じましたね。だから「おまえは冷たい方、どんどんやって、モンドリアンを越せ」言うたんです。僕は、ドイツの表現主義やら、フランスの野獣派が好きやったんで、あの人らを越えようと。そういう考え方でやってたら、抽象表現主義みたいなもんになってしもたと(笑)。ほんで、タピエが来て、アメリカにポロックやら。その前からポロックなんかの作品は見たりしてましたけどね。あれと同じ系列のもんになるとは思てなかったですよ。ほんで、熱い抽象の流れになって、ずーっと来たわけでね。村上君の方はね、熱い冷たい、そういうことをいうとね、あてはまらないんですよ。彼は要するに、絵画とかそういうふうなもんも、全部否定してたからね。そやから、紐を持ってきて釘うって、こう結びつけただけで芸術やとか、紙を破って芸術やとか、そういうことやってたから。これまたこれで全然僕とは違うし、金山君とも違う人間やなあと、そういうふうに感じてました。ほんで、村上君が投擲絵画やったときは、「ええもんつくりよった、考えつきよったなあ」と思て(笑)。ほんで、前からやってた、手で描く絵が、すぐ足になってね。彼は紙を破ったり、もの投げつけて墨一色で描いてるけど、僕は赤で、クリムゾン・レーキでやろうと。その違いを非常に感じましたね。ほんで、田中さんの場合はね、やっぱり女の人やし、つくってたもんもきれいなんが多かった。あんまり影響を受けてないのちゃうかなと思うんですけどね。電飾やりだしてから、ベルや電飾やりだしたら、ますます、「これはもう僕らとは全然違うなあ」と。「ええ作品つくる人やな、えらい作家やな」とは思ったけどね。せやけど、僕とはとくにあんまり関係ない仕事やと。影響も受けへんし、こっちの絵も影響を与えへんやろ、とそういうふうに思いましたわ。

加藤:元永さんの作品などは、どのように思われましたか。

白髪:これもね、僕と全然反対の人間のひとつのタイプやなと思いましたね。ほんで、彼の出だしの絵を見たら、漫画やなあと思ったです、まず。「摩耶山の上に電気が灯ってるねん」言うてね。「おもしろいもん描きよるなあ」とは思ったけど、それが無二のライバルで親友になるとは思ってもおらなんだです、その当時。付き合うてるうちに、だんだんだんだん、おもしろいやっちゃなあと思って。ほいで、いっしょに酒飲んだりね。村上、金山、それからときどき元永(定正)が入って、僕と4人で、この上で酒宴したり、金山君のお寺の部屋で酒宴したり、酒ばっかり飲んどったんですわ。この上でしゃべり倒すもんやからね、親父とお袋がここで寝とってね。それも夜明け近うまでしゃべってるでしょ。怒りよってね。ほんで、(彼らが)帰ってから、「降りて来ーい」言うて、ここへ呼び出されてね。親父はここへ座っとってね。「おまえ、あんなにしゃべって、しんどないのか」言うて。「いや、おもしろいねん」言うて。「何がおもしろいねん、こっちは迷惑で寝られへんやないか」言うて。ほんで、「聞くところによると、足で絵を描いとるそうやないか。絵というものはな、昔から床の間へかけて、拝むようにして鑑賞するもんや。足で描いたもん拝めるか」言うて。「いや、そんなもん、拝んでもらわんでもええねん」言うてね。しまいには怒り出しよってね、はさみをばーっと前へ投げつけられてね。そのときに「出て行けーっ」って言われてね。そのときに、はっと思たんはね、意地はって出て行くのはええけどね、家内が困るわ、まずね。それから、僕も食えんようになるの決まってるからね。こらあかん、と思って、すぐぱっと前に手をついてね、「すんまへーん!」言うて(笑)。ほんで、「悪うございました」言うて。「これからは、大きい声でしゃべって、長いこと夜寝られんような目にあわしたりしませんけど、足で描くのんだけはさしてください」て言うたんですよ。ほな「勝手にせえ」言うてね。ほんで、しばらくたったら、親父さんの方がね、足で描くのえらい気に入りだしてね。なんやかんや世話焼くのはええけど、じゃまになんねん(笑)。「ここんとこ、もうちょっと黄色が多い方がええ」とか言いよんねん。「そんなん分かってんねん、こんな絵は黄色が多いとか少ないとか、そんな問題と違う」言うたら、また怒られて。そういうことばっかしで。まあでも、謝らずに出て行っとったら、何にもできてませんわ。僕みたいな性質やからね。学校へ急に勤めようにもね。それから後で、学校へ勤めた方が、子どもから得るもんがあるやろうと思て。子どもを家で教えるようになって、それから学校へ勤めたんです。ずいぶん、学校へ勤めてね、益になると言うたらおかしいけど、ためになったと思いますわ。子どもから得られるものが。

加藤:例えば、どういうところで鼓舞されましたか。

白髪:子どもがね、僕が描いた絵が、2階の踊り場に飾ってあったんですけど、それ見てね、喜ぶねん。ほんで「えらいここんとこ、ばーっと描いたある」とか「とばっちりがあって、ええなあ」とかね、まあ男の子が主やけどね、言うんですよ。ほんで「こんなん先生どないして描くねん」言うから「こうや」言うたら、「やらしてくれ」言うてね。大きい紙、絵の具ばーっやって、足でやってね、やりよったのがおるんですよ。そういうのを見てるとね、ほんまに子どもって純粋にすぐものにとっつくし、おもしろいなあと思ってね、発想が。それからいろんな発想を思いつくやつが出てきてね。芦屋の「きりん展」やったか、「童美展」やったかなあ。あの時分小学生も両方に出せたからね。どっちにもね、ええ作品つくって出しとったんですよ。ほんなら「先生」、「何」、「砂場でやってもええか」言うねん。「何すんねん」言うたら「花火買うてきて、やりまんねん」言うてね。「花火でつくった絵やりたい。絵つくりしますねん」言うて。しばらくしたらパンパンいうて、「できましたー」言うて持って来よったら、焼けこげがばーっとできてね。絵の具を花火が飛ぶ前にがーっと載せとんねん。それがばーっと散って、えらいええもんできて、えらいほめたりした。自由に、そういうものを考えついてやるところがね、こっちもその影響を、やっぱり受けましたね。

加藤:白髪先生が、ずっと今まで、今日に至るまで制作を続けてこられて、一番大事にされてらっしゃることって何でしょうか。

白髪:あのね、僕が一番大事にしてるのは、「なるがままになれ」ということなんですわ。というのは、自分の絵はオートマチズムやと思ってるんで。そやから、意識せんように意識せんようにと。夢中になって、無我夢中でやるという。それで、思わぬ効果が出たりすることを望んでるわけです。それとまあ、全体的に「迫力」というか、それが出たらいいと。それから新鮮さとか。それを一番大事にしてんのとちがうかなと思います。そやから、酒飲んで、水滸伝の豪傑に憧れたりしたんも、絵がそういう強さとか、何かうわーっとしたもんが、ねたねたの人間のね、あれが出ないかなあと思ったりして。それでよけい酒に。酒飲んでも酔わへんですわ。今でも。

加藤:お強いんですね。

白髪:今でも焼酎、このくらいの瓶を(高さ約20センチ、直径10センチほど瓶を手で示す。商品自体は720ミリリットル)。いいちこのスーパーいうのを三分の二飲むんですわ。一晩に。

加藤:一回にですか。

白髪:それを飲むのはええねんけどね、昼間何かで字を書こうと思ったらね、手がこの頃震えてきて(笑)。まあ要するに、アル中みたいなもんやからしょうがない。

加藤:ありがとうございました、長い間。非常に面白いお話をありがとうございました。