出光真子 オーラル・ヒストリー 第2回

2018年3月28日

東京 スタジオ・イデミツにて
インタヴュアー:小勝禮子、鏑木あづさ、中嶋泉
書き起こし:尾形万里子
公開日:2026年6月12日

中嶋:引き続き今日は出光真子さんのインタビュー第2回目、3月28日ですけども、よろしくお願いします。前回とはうってかわって、とても暖かい、20度以上で、暖かい日ですけども。前回は、生い立ちの話を長くお伺いしたんですけれども、今回は、ご結婚されて、ご出産されて、帰国されて、その後のことを中心にお伺いしたいと思います。前回お聞きするのをちょっと忘れてしまったというか、聞きそびれてしまったんですけれども、お名前について、小勝さんどちらで伺ったんですか? (注:出光真子「みっつの家族」『新潮45』第34巻3号、2015年3月に「マサコ(父だけが、私を本名で呼んでいた)」とある)

小勝:出光真子さんというお名前でずっと最初から、まあ最初はマコ・フランシス、で(発表)されたとこの前お伺いしましたが、戸籍上のお名前はイデミツマサコさん、なんでしょうか?

出光:戸籍上の名前は、今、カワセマサコなんですよ。

小勝:ああ、なるほど、そうですね。(ご結婚されて……)。(笑)でも、お生まれになった時は、マサコさん?

出光:イデミツマサコです。

小勝:それは、マコというのは、愛称なんでしょうか?

出光:愛称っていうか、アメリカに行った時に、マサコよりマコの方が。

小勝:ああ、アメリカに行ってから……

出光:アメリカに行ってから。いつの間にかマコになりましたね。

小勝:それは女子大に入られた、あのあたりですか?

出光:そうですね。留学したすぐ後から、マコになりましたね。

小勝:ああ、そうですか。じゃあ、ご家族の間での愛称っていうわけではなかった。

出光:家族のマコではない、マッコって呼ばれてます。(笑)

小勝:マッコ。なるほど。

出光:だから今でも、家族はマッコ。

小勝:マッコ。あー、そうですか。お父様だけが、マサコと呼んでいたっていう風に、この前、伺いましたが……。。じゃあ、そのマコ・フランシスなり、マコ・イデミツなりっていうのを、そのアーティストネームにされたのは、ごく普通の呼び名で、自然なことであったという(ことですか?)

出光:そうですね、そうですね。

小勝:はい、わかりました。

中嶋:ありがとうございます。お名前は結構アイデンティティとして重要かなと。

出光:重要ですね。ですから、私は最初はね、マコ・フランシスでやってたんですよ。で、やってた時に、70年代の初めに、フェミニズムの運動が始まって、それで女性はいわゆるメイドン・ネームを使え、使おうっていう動きが出てきて、それと一緒にスイッチしたんです。変えたんです。

小勝:出光にスイッチした……

出光:出光に替えたんです。

小勝:ただそうした場合でもやはり父の名前であるというところはあると思いますけどね。

出光:ね。だから、ジュディみたいに、ジュディ・シカゴなんて変えた人もいましたけど、でも私はそこまでいかなかったですね。(注:第1回目参照。ジュディ・シカゴは1970年に現在の名前に改名した)

中嶋:そうですよね。でも、ちょうどよかったですね。。

小勝:そうですね。その後のご活動、日本を本拠にしての……

出光:うん、で、結婚したり、離婚したりね、その時は予定に入ってなかったんだけど。

小勝:そうですよね。

出光:だけど、よかったなあと思って。

小勝:女性のアーティストの人で、本当に結婚と離婚を繰り返して、その都度変わる人もいて、それは非常に(履歴をたどる側からすると)困るんですよね。(笑)

出光:困るでしょうね。そうですよね。

中嶋:それで、じゃあ、また元の流れに戻させていただいて、帰国、1973年にご子息と一緒に帰国されて、それで日本でもまた作家活動を続けられるわけなんですけども、帰国される時に、やはり元々美術家としての活動をずっと続けていこうという風にお考え……

出光:考えてましたね。

中嶋:あ、そうですか。映像作家、映画の……

出光:当時はそう、映画のみでした。フィルムのみでしたけど、続けようと思って、帰ってきてまず最初に行ったのが、当時、東野芳明って美術評論家がいたんですけど、彼に会った時に、最初に尋ねたのが、こういうことをやっているんだけど、誰か知らない?って、聞いたんです。向こうは、何を言い出すのかと思ったら、こんなこと言いやがってみたいな答え方なんですよね(笑)。

中嶋:あ、そうなんですか?

出光:うん、もうちょっとこうなんか、私的に色々これから日本に住むからお世話になります、みたいなね。やるべきだったなあ、やらなかったんで、すごい腹を立てたみたいなんだけど、それでも、かわなかのぶひろさんって方を紹介してくださったんです。

小勝:ああ、そうなんですか。それは、帰国されてすぐですか?

出光:そう、もう本当に帰国してすぐ。

中嶋:ああ、じゃあもう早速そのような活動を念頭にされてたわけですよね。

出光:そうですね。

中嶋:じゃあ、特に東野さんは、主に美術だと思うんですけども、映像や映画の方では、お知り合いの方っていうのは?

出光:いなかったですね。

中嶋:ああ、そうなんですぁ。

出光:それで東野さんは、もう昔からサム・フランシスと、当時の夫と、すごい親しかったから、帰って来た途端に、もう東野さんが一番に会う人だったんですよね、サムにとっては。

中嶋:そうなんですか、そんなに親しかったんですか?

出光:親しかったですよ。

中嶋:そうですよね。かなり高く評価している記事がありますけれども。

出光:ありますか。

鏑木:ご帰国は73年。

出光:73年の夏ですね。

鏑木:で、東野さんは美術評論家ですけれども、ちょうど72年にかわなかさんたちと「ビデオひろば」を始められた頃かと……

出光:いや、だから、それはすごい誤解で。皆さん私が「ビデオひろば」に属していたと思ってらっしゃるんですけど、全然関係ないんです。

鏑木:そうなんですね。

出光:ええ。

中嶋:そうなんですね。

出光:時代が、1年ずれているんですか。

鏑木:じゃあそこは、全然関係ないですよ、っていう感じ?

出光:うん、そこ関係ないんです。それでも今でも、「ビデオひろば」でっていう話は出ますね。

中嶋:今では伝説みたいなものですかね。

小勝:ただ、《おんなのさくひん》(1973年、ビデオ、10分50秒)を発表されたのは、ビデオひろば?

出光:いや、《おんなのさくひん》を発表したのは、イメージフォーラム。当時はイメージフォーラムじゃなくて、アンダーグラウンド・センターって言っていましたけど。今のイメージフォーラムの前の……

小勝:ああ、そうですか。

鏑木:前身。

出光:そこが、寺山修司のなんだっけ?

中嶋:天井桟敷。

出光:天井桟敷を借りて上映会をやっていて、その時に出したんですね。

中嶋:かわなかのぶひろさんは、アンダーグラウンド・センターの主宰の方だと思うんですけども。

出光:パートナーの富山(加津江)さん、富山さんが主にやってらっしゃいましたね。

中嶋:そうなんですね。先程のお話だと、かわなかさんと、まずお会いになって……

出光:そうですね。

中嶋:映像を発表する場所を、お探しになったという形なんでしょうか?

出光:そうです、はい。

中嶋:じゃあ、かわなかさんにまず作品をお見せになったんでしょうか?

出光:そう。そのアンダーグラウンド・センター、天井桟敷に作品を持っていって、それでかわなかさんに見てもらったっていう。見てもらったって、本当に?(笑) 見せた。見てもらった、とも言えない状況でしたね。

中嶋:そうなんですか。

出光:うん、それで(階段を)降りたらね、萩原朔美っていう作家、彼が下から上がってきて、それでもうね、なんだこいつって顔で、私のことを見るわけ。それで「かわなかさんいらっしゃいますか?」って言ったら、「うん、いる」って。なんかね、もう全然、女が映像を見せにここに来ている、来たっていうことは、彼の念頭に絶対入ってなかった。

中嶋:やっぱり珍しかったんですね。

出光:誰もいなかったんですよ、当時は。

中嶋:やっぱり映像のような新しい分野だと、特にいなかったという。

出光:そうなんでしょうね。そうなんです。

中嶋:あるいは映画ということですかね。

出光:だから映画ももちろん、戦後のああいう映画はもちろん、映画監督なんて女性は、まずいなかった。一人ぽつんと戦前にいたくらいじゃないですか?だけど、ああいう実験的なものでも、日本では、女性はいなかったですね。

小勝:すいません、ちょっと戻りますが、《おんなのさくひん》は、アンダーグラウンド・センターの前に、楡の木画廊(「Mako Idemitsuの映像」1974年1月10日-19日)で……

出光:あ、そうそう、一回見せたんですね。

小勝:個展で。

出光:個展で。

小勝:それとやはり「ビデオひろば」でも、出品されている、という風に。

出光:それが嘘。

小勝:嘘なんですか?

出光:うん。「ビデオひろば」は出品してない。だって私、関係してないんだもん、全然。

小勝:ああ、そうなんですか。

出光:それ、どなたが書いてるの?

小勝:森下さん。(森下明彦「私がつくる。私をつくる」出光真子カタログ第2部 グループ展02‐02、p.23)

出光:森下さん、もう。

小勝:ええ、この下に。あの直せれば直しますけれど。

出光:ねえ。

小勝:自伝でも書いてらっしゃったと思いますが、そもそも、ごめんなさい、映画からビデオの話にスイッチしちゃうんですけれども、この《おんなのさくひん》はビデオで、なにかこう発表しろと言われて、急遽作ったっていう風に確か……

出光:そう、そうなんですよ。

小勝:それをじゃあ依頼したのが、アンダーグラウンド・センターの方なんですか?

出光:センターですね。アンダーグラウンド・センター。ちょっと待って、依頼したっていうのはなくて……ちょっとごめんなさい。だから楡の木画廊だっけ?で、やったのが東野さんの関係で、そこの人に会ったんですよね。それで、やりませんかと、教えてくだすって。それで上映するのに、確か作った。それに書いてます?

中嶋:《おんなのさくひん》の出品は、楡の木画廊が一番最初……

出光:一番最初ですね。(注:『私がつくる。私をつくる。』展カタログの記録によれば、楡の木画廊の個展は、1974年1月10-19日。「東京・ニューヨーク ビデオ・エクスプレス」展は、1974年1月7-9日。)

小勝:なるほど。

中嶋:楡の木画廊という画廊もちょっと調べたんですけども、見つからなくって。

出光:あ、そうなの。

中嶋:どのような画廊だったんですか?

出光:貸画廊ですよ。

中嶋:あ、そうなんですね。

出光:で、銀座の、京橋寄りの裏通りにあって、二階に上がっていく。典型的な貸画廊。

中嶋:映写するようなスペースがあった?

出光:まあ、映写するのに充分な、こう縦長のスペースがあったから、こういう風にお客さんに座ってもらって、それで後ろからプロジェクターで前に、壁に映写したっていう。

中嶋:その頃は、そういう映像の展示っていうのは、しかし珍しいですよね。

出光:非常に珍しかったですね。そうですね。

中嶋:お客さんは、結構面食らった?

出光:うん。だから、もう、入ってきて、「ええ!」とか言って帰っちゃうこともあったんですよ。(笑)

中嶋:そこでアメリカで撮られた《You Can’t Get What You Want》((1970, 8mm, 8分?現存せず))とか《Woman’s House》((1972年、フィルム、13分40秒))や《Inner-Man》(1972年、フィルム、3分40秒)も上映されたわけですね。

出光:ええ。

中嶋:かなり画期的な展覧会ですね。

出光:そうですか?(笑)

小勝:それは映像の個展ですから、当然、こう時間を追って次々と作品を上映するっていうやり方だったわけ……

出光:そうですね。

小勝:一つのスクリーンで?

出光:そうですね。

中嶋:なかなか技術的にも大変そうです。

出光:でも当時はプロジェクターっていうのが、私にとってはもう日常的なものだったんですよね。だからそれは全然、感じなかったですね。

中嶋:ああ、そうなんですね。

出光:今やれ、って言われたら、もう、こうです(手でバツ印を作って)。

小勝:はい、自伝の方で確認しました。「東京 ニューヨーク ビデオ・エクスプレス」というタイトルの、当時は珍しいビデオの上映会を渋谷の天井桟敷館で開くので出品しないかと、言われたと。それでそのビデオを初めてお使いになって、《おんなのさくひん》を撮ったと。

出光:はい、そうです。

小勝:じゃあ、「ビデオひろば」で上映っていうのは、これは間違いということですね。

出光:もう、完全に間違いです。(注:「東京 ニューヨーク ビデオ・エクスプレス」はビデオ・ひろばとアンダーグラウンド・センターが主催。第3回目に訂正があった)

中嶋:「東京 ニューヨーク ビデオ・エクスプレス」が、ビデオひろばのショー?

出光:あれはアンダーグラウンド・センターっていう、今のイメージフォーラムの前(身)です。だからかわなかさんよりむしろ富山加津江さん、富山さんが主宰した。

中嶋:そうなんですね。わかりました。アンダーグラウンド・シネマテークという、そのアンダーグラウンド・センターのイベントが、ありましたよね。それで……

出光:私、シネマテークって言ってました?それ知らない。

中嶋:シネマテークっていうのが、アンダーグラウンド・センターがやっていた、多分定期的な上映会の名前なんですよね。

出光:ああ、シネマテークねー。

小勝:なんかナンバーいくつっていう風に、書かれていて、ナンバー51に、出光真子さんが出品されている……

出光:あ、そうなんですか。

小勝:ていうか、映像個展だったわけですね。ナンバー51が。

出光:そうですね。

小勝:はい。

出光:で、確か、そう、そのシネマテーク、そうそう。それ1年に一回やってましたね、安田講堂、じゃない、安田生命、なんかあっちこっちの会場を借りて。

中嶋:その頃は、そのような会場を借りて行うという形だったみたいですよね。で、最初は毎年、出光さんが、展覧会をそこで開かれるという形だったみたいですね。

出光:あの、アンダーグラウンドの、あの、天井桟敷の方ですね。

小勝:この前、文献で鏑木さんが見つけて下さった、あの吉増剛造の批評が載ったのは、このアンダーグラウンド・シネマテークの時ですよね。

出光:ああ、そうかそうか。そうですよね。

小勝:覚えてらっしゃいます?

出光:うん、覚えてます。

小勝:なんかあの非常に(出光さんの)初期のかなりこうちゃんとした批評……

鏑木:これですね(吉増剛造「類稀な高速の波動」『文藝』第13巻6号、1974年6月のコピーを渡す)。

出光:わー。

鏑木:よかったら、どうぞ。

出光:わあ、嬉しい。ああ、そうだ、これが本当に。

小勝:本当に日本で最初の(出光さんの批評?)(注:『私がつくる。私をつくる。』展カタログの参考文献によれば、大岡信、かわなかのぶひろによる『UNDERGROUND CINEMATHEQUE』第19号、1974年3月の批評がある。しかし同カタログには、吉増の『文藝』の批評の記載なし。)

出光:うん、で、これ、どなたかの編集者の方が連れてってくださったんですね。

中嶋:吉増さんを。

出光:うん。

中嶋:あ、そうなんですか。

出光:『文藝』かなんかの。

鏑木:そうでした、『文藝』です。

出光:編集のね、編集者の方が、連れて行ってくだすって、吉増さんに見せて、で、書いてもらったっていう、そういうことだったみたいですね。

小勝:やっぱり独特の、こう吉増さんらしい批評というか…

出光:そうですね。うーん。

中嶋:日本での反応は、吉増さんはとても詩的な文章で評価されてますけれども、どのような印象でしたか?

出光:なんか、覚えてないですね。印象なんて。評価っていうのは……

中嶋:評価というか、こう受容というか。

出光:そんなものなかったんじゃないかな。

中嶋:ああ、そうですか。

出光:うん、本当に当時ねえ。一つだけ、すごいおかしいのを覚えてるの。一週間位やったんですよ。家の私の姉が、「マッコは変なことやってるらしい」ってね、誰かと二人で見に行ったんですって。そしたら、彼らしかいなかったんだって、お客さんが(笑)。そしたら彼女、それで妙に安心して帰ってきた。私以外、誰もいないんだって(笑)。それはすごく印象に残ってますね。

中嶋:そんなに大きい劇場じゃないんですね。

出光:劇場もう本当にこれぐらい、こういう風に階段降りて、地下にあって、これぐらい(のスペース)で、本当にこんな感じです。(出光さんのスタジオを指して)

中嶋:そうなんですね。

出光:ええ。

中嶋:イメージフォーラムとか、アンダーグラウンド・センターっていうと、ほとんど伝説みたいになってるので……

出光:あ、そうなんですか

中嶋:そこで展示をされていたってこと自体が素晴らしいことというか。

出光:そこでやった方々、皆さんもう亡くなられた、ですか?

鏑木:亡くなられた方もいらっしゃる。

小勝:だからかわなかさんの批評が一部だけ引用されてますけど、例によって「女性らしい繊細なカッティングと、サンタモニカの溢れる光が印象的だった」と述べていらっしゃるそうですが、(笑)必ず「女性らしい繊細な」っていうのが、褒め言葉で付きますよね。(笑)

鏑木:かわなかさんの「サンタモニカの白い雲」(かわなかのぶひろ『映画・日常の実験』フィルムアート社、1975年に所収)というテキストで、出光さんの〈at〉シリーズについて書かれていました。かわなかさんはどう評したらいいのかお困りだと、いつも映像を見ながらメモを取るんだけれども、そのメモが真っ白だ、というようなことを書かれています。これはかわなかさんのテキストの中では、出光さんについて比較的まとめて書かれていますが、その前にもちょこちょことは書かれていて、さっき小勝さんがおっしゃったような言葉で書かれていて……

出光:そうですね。これ(批評のコピー)、いただいていいですか?

鏑木:もちろんです、どうぞ。

出光:わー、ありがとう。これは?

鏑木:はい、かわなかさんの本のコピーは、これですね。

出光:『映画・日常の実験』、これは家にもあったけど、どこにいったんだろう。

鏑木:あ、そうですか。よかったらどうぞ。

出光:いいですか?

中嶋:今回、鏑木さんが、出光さんの書かれたものと、出光さんについて書かれたものをみんな集めてくださって。

鏑木:あ、みんなじゃないんですよ。カタログを見ながら調べただけなんです。

出光:ありがとうございました。

鏑木:出光さんが当時、どういう評価をされていたかがわかるのかなと。

出光:ああ、(都立)中央図書館っていうところにあったんですね。

鏑木:図書館でちょっと調べました。

小勝:ご苦労様です。

出光:ありがとうございました。

中嶋:じゃあ、このままちょっとビデオ作品について、お伺いする?

小勝:どうでしょう?でも、《おんなのさくひん》だけ例外的に撮られて、ただこの時代はまだ映像(フィルム)の方が中心でしょうか、73年以後、70年代。

出光:そうですよね。

小勝:ね、と、思いますけど。

中嶋:じゃあ、《おんなのさくひん》について……(注:《おんなのさくひん》(1973)はビデオ作品。ぼやかされたタンポンの映像に、男性の声のナレーションがついている)

出光:77年から撮り始めてますね。

小勝:ビデオですか?

出光:はい。

中嶋:それじゃあ、《おんなのさくひん》だけお伺いしてもよろしいですか?早いうちに作られていたので。この時に、お使いになったビデオ機材がちょっと特殊だったと伺っているんですけども。

出光:特殊っていうよりも、それしかなかったっていって、要するにオープンリールなんです。

中嶋:それは取り扱いがとても難しいものですか?

出光:難しくはないけど、引っかかる。オープンリールでこういくから、途中でぽんと引っかかる可能性があるんですね。それはまあ実際に映像作った時には、そういう問題はなかったんですけど、一つちょっと面白いなあと思ったのは、なんだっけ?作品名忘れちゃった。高橋アキさんが……なんか書いてますよね、私。

鏑木:音楽を。

出光:音楽をつけてくれて。

小勝:それはビデオの方ですか?

出光:えー。

小勝:《Something Within Me》(1975年、フィルム、 9分30秒)ですか?

出光:Something With…

小勝:音楽

出光:音楽、出てます?アキさん?

小勝:はい。

出光:じゃ、それが一番正しいですね。

小勝:これはでも16mmです。

出光:うん、だから16mmで撮って、それをビデオにして、そしてアキさんがそれで音楽をつけてくれて。それを見ながら。で、そのビデオにした時に、オープンリールだったんですね。それ、何年になってます?

小勝:75年です。

出光:75年だから、オープンリールなんだ。

鏑木:カセットになる前。

出光:うん、カセットになる前ですね。

小勝:なるほど。

出光:それで、とにかく彼女が、ピアノの後ろに細工をして音を出したいから、スタジオは使いませんって言うんで、彼女の家にそれでまあ機材も持って行って。それで録ろうと思ったら雷が鳴り出したんです。それで帰ったんですけど……

小勝:(自伝で)読んだ記憶があります。

出光:帰って。それで結局終わって、じゃあできたと思って、ああ、止まったと思って。あ、日を変えたんだ。なんかとにかく、とても大変で、それでやっとできたって、言った途端に引っかかっちゃったんです。それがオープンリールの、オープンらしい、リールらしい。ね(笑)。

中嶋:最初は、みんなそれを使っていたっていうことですよね。

出光:それしかなかったってことですよね。カセットテープはなかった。

小勝:そうでしょうね。

中嶋:で、このビデオで、この《おんなのさくひん》っていうのは、タンポンを流す前のものを撮られている、そういうものですよね。これは私の感想なんですけども、とても抽象的で、きれいというか、美しい映像で、ぱっと見、何が映ってるかはわからないですよね。あれは、そのビデオでできる表現だっていう風に、思われた?

出光:そうだと思います。私、フィルムをやっててビデオにしたら、やっぱり記録するっていうことで、ビデオは優れてると思ったんですけど、映像の質はもうフィルムの方が圧倒的にいい。じゃあ、ビデオの何がいいのかって言ったら、とにかく記録すること。記録するってことは延々と記録する、してもそんなにお金はかからないし、またいらなかったらその上にまた(上書きできる……)

中嶋:ああ、なるほど。

出光:うん、だからフィルムを撮ってる時って常に、こんなに撮っちゃったら大変だぞ、っていう思いがあったんですよね。だけどビデオにはそれがない。だから、とにかくビデオでやって、いいものっていうか得になるものというか、そういう風に考えていくと、やっぱり何かを記録していく、その日常的なものを記録していくのにビデオはとってもいいなって思う。

中嶋:なるほど。日常的な反復されるようなものとか、そういう。

出光:うん。反復されるものでも、まあとにかくいくら撮っても構わないよっていう感じですから、うん。

中嶋:映像の質というか、種類としても、ビデオと、ビデオで撮るっていうのが非常に効果的だったように思うんですけれども……

出光:あの、《おんなのさくひん》の?

中嶋:はい。

出光:そうでしたよね。あれも本当に自分じゃ読めなかった。

小勝:何しろ初めて。

出光:初めて。

小勝:のビデオですよね。ビデオ作品。

出光:初めてのビデオですね。だから、フィルムでタンポンは撮ってないんで、比べることもできない、

中嶋:うん、そうですね。

出光:ただまあ、あれだったら、期間は限られるけど、でも、お金はかからないなっていう。(笑)

小勝:モノクロにされたのは、やっぱりカラーだと、生々しすぎるから?

出光:そうじゃなくって、あの頃モノクロしかなかったんですよ。

小勝:モノクロしかなかったですか。

出光:オープンリールっていう。

小勝:ああ、そうですか。

出光:そうなんですよ。

小勝:えー、でもそのモノクロがすごく効果的ですよね。

出光:効果的よね。よかったですよね。そうですよね。

中嶋:あのイメージに、その、「女のお子さんです」で始まる、男性の医師が話してるような、会話が重なるわけですけども、それによって、あの映像が胎内を撮ってるかのようにも見えたりするんですよね。

出光:あー、なるほどね。

中嶋:その頃、あっただろうとは思わなかったですけども。

出光:今だったら、ね。こう、撮れますよね。

小勝:そうですね。

中嶋:そういう風にも見えたりして、とても多義的な表現だったと。

小勝:あのタンポンが赤ちゃんみたいな感じで(笑)。

中嶋:そうなんですよ。すごく象徴性が高いもののように、で、タンポンは流しちゃうし。で、そこにもちょっと皮肉があるようにも見えますし。そういうお考えのようなものは?

出光:そこまでは考えてなかったですね。ただタンポンにしたのは、家にいて出来ること、とにかく撮影に外に出て行くって余裕はなかった、子供がいたから。だから家でできるっていうことと、ただで(笑)。

中嶋:そうは言っても他にも色々あるわけですから。

出光:まあね。(笑)

小勝:あと、森下さんがどこかに書いてましたけど、タンポンを使われたのは、こちらの《Woman’s House》で、やっぱりジュディ・シカゴが、使用済みのタンポンを作品に使っていたから、っていう風に。(森下明彦「出光真子の作品を振り返る-年代期的に-」、『私がつくる。私をつくる。』カタログ、p.27参照。ジュディ・シカゴ《生理時の浴室》、Woman’s House、『花もつ女』、p.160の後の図版ページに写真掲載)

出光:ああ、だから私ね、それをみんなから言われるんだけど、本当に考えてなかったですね、その時は。うん。

小勝:それはそうですよね。

出光:それだったら、うん。恥ずかしい、やめると思う。ジュディがやってたって。

小勝:女性にとってタンポンは日常的なものですからね。人が(作品に)使ったから、私も使おうかしらなんて、そんなことはないですよね。

出光:そんなね。

小勝:やっぱりそういうとこに、批評の中の男性の視点が入ってるかなっていう風に思ったんですよね。

出光:あ、そっか。

中嶋:それもそうかもしれないですね。しかし、静寂な映像で、男の人の声もすごく落ち着いてるし、その内容の、例えば(シカゴの)《Womanshouse》だと、血の付いたタンポンっていうのは、かなり攻撃的なイメージがあるかもしれないですけれど、それとは全く印象が違いますよね。

小勝:でも、怖いですよね。《おんなのさくひん》ね。

出光:ああ、そうですか。

小勝:ええ。あの淡々とした男の声が……(笑)

出光:あの声やった人っていうのが、黒テントってあるじゃないですか。あの中の役者さんなんですよ。

小勝:ああ、そうですか。

中嶋:とても上手なナレーションですよね。

出光:うまいですよね、さすがだと思ったの。

中嶋:なんというかこう、慇懃無礼な感じが。

出光:別にもう本当に、男なら誰でもいいみたいな感じだったから、ある人に紹介してもらって、「服部さんですか、こんにちは」と。それで入ってきて、じゃあ、お願いしますって言ったら、ああいう風になったんですよ。全く合わないっていう人だってあるわけで、そう、その辺はもう選んでる余裕はなかった。うん。

小勝:そういう言ってみれば、なんていうか、即席と言ったら失礼ですけれども、事前にものすごく準備してやったものではなくて、たまたまそういう……

出光:なっちゃった。

小勝:なってしまったっていう、それであれだけの完成度の作品ができているのが素晴らしいですよね。

出光:ありがとうございます。

中嶋:ビデオ、これ以降、どんどん制作されていくんですけれども、もう一点だけお伺いしたいのが、その次の年にお作りになっているアメリカンセンターの要請で作られた《Sam Are You Listening?》(1974年)っていう、これもビデオの作品ですか?

出光:これもビデオです。

中嶋:これはビデオで撮ったのは、アメリカンセンターからビデオで撮るようにという?

出光:いや、アメリカンセンターは、ビデオで撮るようにとも何にも言わなかったけど、機材もスタッフもクルーもそれからみんなこちら持ちで全部出します、って言ったから、私は断ったんですね。そういう人はいりません、自分でやりますから、って。それで自分でやりますからって言ったらやっぱりどうしても安くできる、それで、こうなったんです。

中嶋:ああ、そうなんですね。

出光:ええ。

中嶋:これは私、拝見したことないんですけれども、瀧口修造さんや武満徹さん、高松次郎さん等、美術界の当時の重要な人が登場されてますよね。みなさん、出光さんのお知り合い?

出光:サムを通しての、当時、南画廊って画廊で。そこに皆さんいらっしゃる方なんで、顔見知りではあったんですよね。

中嶋:ああ、南画廊によくいらしていた。

出光:ただ瀧口さんだけは、お願いしてもだめなんですよね。電話の向こうで黙っちゃう。「私には…」で、止まっちゃう(笑)。だから瀧口さんが南画廊のオープニングにいらした時に、こう座るじゃないですか。彼、座ったらもうほとんど立ち上がらないんですね。だから座ったところへ向かってカメラをつけて、そしてそこに福島秀子さんがいらして、福島さんに「ちょっと瀧口さんを、あっちの方に誘導して」って(笑)。そうしたら誘導してくだすって、それでまた話もこうしてくだすったんですね。

中嶋:それで、ドキュメンタリー的に……

出光:それで、私はそのカメラを、そこにあった、こういう入れ物の脇にペタッとつけて、それでこう留めちゃって、それでずっと撮って。

小勝:それっていわゆる隠し撮りという。

出光:そうですよ(笑)

小勝:それは、後で上映、上映会とかにはこれは出してらっしゃらないんですか?

出光:これは出してないですね。

小勝:ええ、じゃあ撮られたことを瀧口さんはご存知ないまま。

出光:お亡くなりになった(笑)

小勝:でも、貴重な映像ですからね。

出光:貴重ですよね。瀧口さんの、動画なんてね。そうですよね。

小勝:それはお持ちでらっしゃるんですか?

出光:あるはずなんですけど、ちょっとこれに関しては、何がどうなっているんだかはっきりしないんですよ。もう少し調べないと、どうなるかわからない(注:本作は東京国立近代美術館に2014年度、作家より部分が寄贈されている)。

鏑木:クルーをつけるのを全部お断りになったっていうのは、なぜですか。

出光:それはだって、クルーがいたら、撮られる方もみんな緊張するじゃないですか。そうしたらもう話の内容が大体わかる、想像できるような話しか聞けないだろうし、と思って。それでお断りして、それで和田守弘さんって亡くなった、彼にお願いしたんですね。

鏑木:撮影を?

出光:撮影を。で、彼が、北澤さんって評論家いたよね。

小勝:北澤憲昭さん?

出光:そうそう、彼を連れてきて、二人がやってくれた。それがあてにならなくて、「あ、音が入ってなかったです」、とかね(笑)。

鏑木:それは困りましたね(笑)。

出光:ええ、おかしいぐらいでしたよ。

小勝:つまり、和田さんもそのビデオは全然慣れてなかったっていうか……

出光:和田さんは北澤さんよりは慣れていて、で、北澤さんは触ったこともないのね。なんで北澤さんがいたのかわかんないけど。北澤さんはきっとそういう、こういう人達のことに興味を持っていらしたんだと思う。

鏑木:そうでしたか。これはアメリカンセンターからの依頼だったそうですけど、こういう風に撮ってくださいとか、そういったリクエストは、あちらからは?

出光:全然ないですね。

鏑木:全く? じゃあ内容は自由で、サムさんの紹介をお願いしますという。

出光:サムについて語ってもらってくださいっていう。

鏑木:これは当時、どういう形で見られていたんですか?

出光:いや、あれはだから、撮ったのはオープンリールで、それでアメリカンセンターでなんかこうしゃべる、話の。私は喋ってはないんですけど、なんかサムに関係する会みたいなのがあって、その時に。

小勝:なんかサムの個展の会場で流したみたいな風に。

出光:あ、そうだ、そうでしたね。

小勝:書いていらっしゃいます。

出光:無責任ですよね。すっかり忘れちゃって。(笑)

小勝:いえいえ。そのアメリカンセンターで、サムさんの個展をしたんですか?

出光:ですよね。

鏑木:当時、個展の会場で映像で作家が紹介されるのは、きっと珍しいですよね。

出光:ああ、そうなんですか。

小勝:やっぱり奥様が映像作家だからっていうことで、依頼されたんでしょうかね。

出光:なんでしょうね。

中嶋:これ、タイトルも印象的ですよね。《Sam Are You Listening?》って言ったら、聞いてるの?みたいな。

出光:聞いてるの?っていうか、そうです、私のあれですから(笑)。

鏑木:サムさんは何かおっしゃってましたか、この映像について。

出光:いやー、サムには何にも聞いてないし、聞いたとしても、記憶にないです。でも、何にも言わなかったですよね。

鏑木:そうですか。

中嶋:ちょと興味深い。

鏑木:機会があったら……

小勝:見てみたいですよね。

出光:そうですか。

中嶋:出光さんの視点が反映された、稀有な映像になってるんじゃないかという風に思いますね。

鏑木:そうですね。

中嶋:ビデオの話に入ってはしまってはいるんですけども、まだ映像の話があったので、前回ちょっとお聞きしたんですよね、最後の方に。

小勝:そうですね。

中嶋:フィルムの作品、「Santa Monica」と「Yukigaya」は〈at〉シリーズと呼ばれているんですか。あとは、《Baby Variation》(1974)と《Something Within Me》(1975)のようなものですね。前回ちょっと、(これらの作品で)心象風景を撮られたというお話を聞いたと思うんですけども、またビデオの話と混ざってしまうんですが、ビデオがこう記録に適しているのと対比して考えると、映画というのは、内面のようなものが関連するような映像という風に理解されてるんでしょうか?

出光:そうですね。だから私は、映像、フィルムの方が、映像としての力は圧倒的に強いと思います。今はもう全てビデオになっちゃてるから、そう言っても、えーって言われるかもしれないんですけど、でも二つ並べてみたら、圧倒的にフィルムの方が強いです。

小勝:そうですよね。

出光:映像に語ってもらいたいと思ったら、やっぱりフィルムね。じゃなきゃいけない。

小勝:こないだ恵比寿映像祭で、《At Yukigaya 2》(1974年、フィルム、11分10秒)ですか、ずっとこう会場で上映されてましたけど、あれもそのデジタルに変換して、ただなんかすごくこう精度の高いデジタル画像にしたみたいに、写真美術館のホームページに書かれてましたけど。(出光真子のWebサイトに掲載された同映像祭に関する情報として「モノクロハイコントラストな映像に吸い込まれるような展示を是非体験してください」と述べられている。http://makoidemitsu.com/2018/01/28/yebizo2018_jp/  2026年6月1日最終閲覧)

出光:書いてました?

小勝:ええ。なんでしたっけ?8Kとかでしたっけ?(注:ハイビジョン動画)

出光:ああ、そうなんですか。

小勝:ええ。

出光:だから、あれ……

小勝:いかがでしたか?

出光:ああ、こんなもんかなと、(笑)あ、そうなんですか?

小勝:ええ。なんか私はやっぱりああフィルムで見たいなと思ったんですけどね。なかなかでも今は連続上映でフィルムで上映っていうのは、ねえ、機材が磨耗してしまいますし、難しいと思いますけれども、やっぱり出光さんとしては16mmフィルムの作品は、フィルムで、フィルムをこうプロジェクターで上映するっていうので見てもらいたいと。

出光:それはそうですね。でもフィルムで何回も上映すれば、もうフィルムは痛んでだめになる。だからどっちを取るかですよね。だから次から次へとフィルムのプリントをとるお金があって、それでそれに音付けまでしなきゃいけないわけでしょ、フィルムの場合。だからそういうことも全部やるお金があるなら、フィルムの方がいいと思います。でも、フィルム高いですよ。

中嶋:高いんですね。

小勝:高いし、かつその上映機材自体がもう地方の映画館でも無くなっている、っていう。

出光:無くなっているでしょうね。そうでしょうね。フィルムでやってるとこってあるんですかね。

小勝:あるんですかね。

中嶋:この頃の〈at〉シリーズや、《Baby Variation》(1974)、《Something Within Me》(1975)のような作品は、コラージュのように出来ていますけども、固定された視点のようなものがあるように思ったんですよね。それと場所っていうものが繋がってるのかなという風に思ったんですけども。この場所の名前を、作品のタイトルに冠して、それでこう作品全体をまとめるというのは、どのようにしてそういう風に思いつかれたんでしょうか?

出光:「At Santa Monica」って、これ、サンタモニカで撮った映像です。(注:「At Santa Monica」には1〜3までの三作品がある)

中嶋:そうですよね。

出光:それでサンタモニカ、(笑)だから、あとそれ以上は何とも言いようがないんだけど。サンタモニカで撮ってて、私の心象風景ですっていう風に言うしかないのかもしれない。

中嶋:それはやっぱりアメリカと日本と行き来していたので、こう二つの場所を。

出光:そうです。それはもう本当にそうですね。

中嶋:光の表現は、本当に色んな方がおっしゃってますけども、印象的ですが。日本と、あるいはサンタモニカと雪谷と、光は。

出光:違いますね。カリフォルニアは、本当に光の場所ですよね。

中嶋:雪谷の方は?雪谷の方もこう、木漏れ日とか。ここ(出光のスタジオのこと)は、かなり明るいと思うんですけど。

出光:明るいですよね。明るいですよね、うん。でも、ちょっと違うでしょ。映像にしてみると、カリフォルニアの光と雪谷の光と、やっぱり違うと私は感じるんですよ。

中嶋:うん、違うように映ってると思います。

小勝:あと、こないだおっしゃってた、その《At Yukigaya 2》と、あと《At Santa Monica 3》(1975年、フィルム、15分30秒)ですか、こちらがハイコントラスト・フィルムで撮ってらっしゃるんで、これはモノクロなわけですよね。モノクロで、かつ非常にコントラストが強いので、他のカラーで撮ってらっしゃる映像とはまた感じが全然違うと思うんです。

出光:違いますよ。

小勝:特に、光にこう焦点を当ててらっしゃるんでしょうか?

出光:ですね。ハイコンは繊細ですよね。

中嶋:光を意識して生活されていましたか?

出光:うーん、カリフォルニアにいる間は、本当に光をかなり意識してましたね。

中嶋:光の中で生活してるような。

出光:そうそうそう。

中嶋:そのあたり、日本とのこう、日本に帰ってきた時に、ギャップというか。

出光:それはでも光より、人の振る舞いのギャップの方が強いですからね。(笑)

中嶋:そうですよね。

小勝:この時期は、季節的には、夏がサンタモニカですか?

出光:そうです。夏がサンタモニカですね。

小勝:それ以外の季節が、日本。

出光:日本、70年代。

小勝:70年代はね、で、お子さんもご一緒だったんですか?つまり夏休みで。

出光:うん、夏休みでアメリカ。うんうん、そうですね。

中嶋:ただ、この時期の映像は、どれもそうだと思うんですけども、お子様の影とかほとんどないですね。映ってないということ以上に(笑)。

出光:ないですか?あんなに引っ張られて、大変だったのに(笑)。うーん。

中嶋:だから、自伝を拝読してると、お子様がこう周りにいる中で撮られたっていうのを、まあ、初めて知るわけですけども、全くそういう感じがなくて。

出光:ああ、そうですか。

中嶋:とてもこう、出光さんの世界という印象でしたね。

出光:幸せですね(笑)。

中嶋:そのように見えるなということです。でも、なので……

出光:いいんでしょうか?悪いんでしょうか?

小勝:やっぱり出光さんにとっては、こう作家としては母親の部分を切り捨てるっていうか、そういうところがあるんでしょうかね。

出光:そうかもしれないですね。うん。でも、子供が目の前で死にそうになってたら、ちゃんと助けますよ(笑)。

小勝:それはそうですよね。(笑)

鏑木:さっきお渡したかわなかさんの評の中で、〈at〉シリーズについて書かれています(「サンタモニカの白い雲」のこと)。出光さんがすごくニュートラルな視点を持っている、ある意味、場所を変えても撮れる作家だということを……

出光:かわなかさんが書いてらっしゃるんですか?

鏑木:書いていらっしゃるんです(笑)。かわなかさんが出光さんについて書いている中で、そこは特徴のある書き方しているという感じを受けました。

出光:(出光の《At New Mexico》(1975年、フィルム、12分30秒)を評したかわなかのぶひろ「自分自身の眼で見るということ」『映画・日常の冒険』を読んで)最後に、「かぎりないやさしさをぼくは感じた。」って(笑)。

小勝:女性の場合は優しさと繊細さ(笑)。

中嶋:そういうのを当時、聞いてどう思われましたか?

出光:私、正直言ってね、あんまり今みたいな反応はしなかったですね。というのは、何なんだろう。女が一人だったていうことと、それから、だから一人であるゆえに、女の作品もこうやって一緒に見られているっていうことがやっぱり、私を満足させてたんじゃないか、それ以上のことは望まないみたいなことが私にあったんじゃないかなって気が、する。うん。

鏑木:評価そのもののことよりも、まず発表する(こと)。

出光:するって、いうこと。それで、まして最初にアンダーグラウンド・センター行った時の、あの萩原朔美の。あれ、傷つきましたもんね(笑)

鏑木:そういう感じなんですか、当時って。

出光:いや、たまたま会った人が、彼だったからかもしれない。(笑)

鏑木:そうですか。

出光:うん。

鏑木:冷たいですね。

出光:なんかね。

小勝:女性映画作家フェスティバルみたいなのが、76年でしたかね。

出光:3年後ですよね。

小勝:じゃあ、本当にまだはしりの、

鏑木:ですね。ちなみにその時、かわなかさんに最初に見せた作品というのは何だったんですか。

出光:それは、《What a Woman Made》じゃないかな。

鏑木:ああ、そうですか。

出光:うん、うん。そうですよね、確かそうだと思う、うん。

中嶋: 70年代にフェミニズムや女性解放運動が始まりますけども、その前に、出光さんは大変幼くていらっしゃったと思いますが、50年代頃に例えば、時々お話にでる福島秀子さんとか、そういう女性の画家はいらしたわけですよね。で、瀧口さんとか阿部展也さんとか、そういう戦前から活動してる方が、彼女達の応援をしていたわけじゃないですか。そういう状況は映画にはなかったっていうか、その頃の感じとは全く違う様子だったんでしょうか?

出光:だから映画っていうのは、まず男の世界でも、映画をアートのメディアとして使うってのは70年代過ぎてからじゃないかと思います。

中嶋:じゃあ、実験映画的なものっていうのが、また別の世界を作っていたということですか?

出光:うん、だから実験映画っていうのも、あれ50年代、60年代位じゃないですか、ねえ。

中嶋:そうですね。

出光:ねえ。でも、私はだからその実験映画の世界ってあんまり知らないけど、勅使河原宏さんが草月(会館)ホールかなんかでやったりしてたのは、そうですか?

中嶋:そうですね。

小勝:ええ、実験工房とかね、ええ。

出光:あれ、全く男の世界ですよね。実験工房ってどうなんですか?

小勝:福島秀子さんが一応関わってはいらっしゃいましたけど。

出光:関わってらっしゃるけど、なんか……なんて言ったっけ?女性一人輝いてる、みたいな感じの扱われ方じゃなかった?

中嶋:そうですね。紅一点っていう風に言われてましたね。

出光:ねえ。

中嶋:だから実際には、男女平等はなかったわけですけど。一時女性の活躍が取り沙汰されていた時期は戦後にもあったんですけど、その頃とはまた全然違うものなんですかね。

出光:その頃って、戦後あったていうのは、その福島さんとは関係ない、もう一つ前の世代?

中嶋:いえ、福島さん世代。私の研究でもあるんですけども、戦後一時その、男女平等というのが、こう。

出光:ありましたね。

中嶋:45年に法制化されて、それで女性も活躍しようということで、色々とメディアに載っていた時期っていうのがあるんですね。

小勝:まあ、その場合、福島さんたち戦後世代だけじゃなくて、戦前こう抑圧されていた戦前からの女性画家もやっと認められるようになったっていうのが、それこそ戦後すぐ40年代後半から50年代に少しあったんです。

出光:学生運動が盛んな頃ですか?

小勝:いえ、学生運動より前。

中嶋:その頃よりは、ちょっとまた下火になってしまって。

出光:その頃には下火になって。

中嶋:その頃はやっぱり女子大生亡国論とか(笑)。

鏑木:出光さんが学生だった時。

中嶋:女性はやっぱり家庭の主婦になるべきだという風潮がまた強まってしまうんですよね。なので、波を描きながら、進んでいっていると思うんですけども、まあ70年代の映画っていうのが、まだそんな感じだったのかというのがちょっと。

出光:70年代の、だからいわゆる実験映画ってのは、あってないようなもんじゃないかな、うん。

中嶋:なるほど、そうなんですね。そうなんだろうと思います。ちょっと想像がなかなかしにくいですけれども。

出光:まあ、とにかく富山さんが中心になって、場所を借りて、一年に一回やって、そんな感じでしたよね。で、それも最後は富山さん、(それが)嫌だっていうんで、あのイメージフォーラムを建てたんじゃないですか。

鏑木:ああ、そうなんですか。

出光:あの、あそこに行き着くまでの富山さんの大変さっていうのは、見ていて、ああ、やっと作ったよなっていう思いはありますよね。

中嶋:富山さんは、どのような方でしたか、出光さんにとっては。

出光:だから最初はね、富山さんと私しか女はいないんですよ。だから、なんかいつも二人でつるんでいましたね。だって、男は相手にしてくれないっていうよりも、男といるとなんか言われるじゃないですか、ねえ。あの二人はなんか怪しいみたいな。(笑)

中嶋:ああ、そういうことですか。

鏑木:そういう時代なんですか。

出光:だから、女同士でいると安心です。

小勝:それこそ三岸節子さんとかでも、そのように(自伝で)書いてました。

出光:そうですか。

中嶋:ああ、そうなんですね。

出光:彼女でさえ?

小勝:あ、(女性画家として目立つ)彼女がそういうものの常に噂の的みたいなことだったわけです。さっき出光さんが関係ないっておっしゃってた「ビデオひろば」のメンバーには中谷芙二子さんが入ってらっしゃった。

鏑木:そうですね。

小勝:中谷さんとは、特に?ご関係は?

出光:私、中谷さんとはあんまりお付き合いないんですよね。

鏑木:(ビデオギャラリー)SCANの時ですか。

出光:中谷さんがSCANを始められた頃、私が中谷さんにSCANで個展(1982年)をやらせてもらったのかな、一回位、うん。

鏑木:じゃあ、だいぶ後なんですか、お付き合いは。

出光:後ですね。

小勝:ちょっとついでにあの先程触れた女性映画作家フェスティバルというのが、76年にあったそうなんですけれども、ここに出品した作家さん達、女性の映像作家の方々とのお付き合いで、どなたか他にいらっしゃいますか?

出光:私、どなたがいらっしゃるのか(わからない)。ちょっと見せてください。

小勝:あのね、いや、これがね、小さくて見えないんですけど、岸本清子さんがおそらくここに。

出光:あー、岸本清子(さやこ)(注:1970年代には岸本麻理と称した(1939-1988)。ネオ・ダダに参加した前衛女性アーティスト)さんとかね、道下匡子さんとか。

小勝:ただ、皆さん、その映像作家というわけではなくて、たまたまやったっていう……(笑)

出光:女性をかき集めたって感じですよね。

小勝:なるほどね。あの岸本さんもおそらくその時だけちょこっとやったんじゃないかなと思うんですけど。

出光:岸本さんとは随分お付き合いありましたよ。

小勝:何しろあの《アニムス パート2》(1982年、ビデオ、19分40秒)の主演。

鏑木:そうですよね。

小勝:お付き合いの始まりはここ(女性映画作家フェスティバル)ですか?

出光:いや、お付き合いは、どこだったのかな?ちょっとお手洗い行って、考えてみます。

(一時中断)

中嶋:えっと先ほどの……

出光:岸本さんですよね、岸本さんはね、自由が丘に住んでいたんですよ。だから結構うちと行き来ができやすい、ていうことでお付き合いして。それとやっぱり女、ですよね。誰かに紹介してもらったんですよね。

小勝:あ、そうですか。

出光:それで、付き合っていましたね。彼女、すごい力でしたよね。

中嶋:やはりパワフルな方でしたか?

出光:そうでしたね。それで(出身が)名古屋なんですよね。それで私は、今の二度目の夫が名古屋に転勤になったんで、一緒には行かなかったんですけど、時々名古屋に行ってたんですよ。それで岸本さん、名古屋で個展かなんかやってたんでね。それで行って、よくお会いしましたね。

中嶋:名古屋での繋がりもあるんですね。

出光:名古屋でも繋がりありますね。

小勝:ただ岸本さん名古屋に行かれたのは、もうちょっとかなり晩年、80年代になってからだったと思うんですけど。

出光:うん、その前にだから、彼女名古屋に。

小勝:あ、個展をしに。(注:名古屋での初個展「Look Left!!」(桜画廊、1967年)。1979年以後、名古屋で活動)

出光:あのご実家のとこに。

小勝:ああ、そうでしたかね。

出光:それで彼女のお父様が、なんか。

小勝:お医者様。

出光:お医者様で、精神、神経か、精神かなんかそういうカウンセラーのようなことで、大家でしょう。ものすごい大家だったんですよ。あの岸本さんて言えば、名古屋で知らないものはない。で、私は当時河合(隼雄)先生を訪ねて関西に行って、時々名古屋で降りてたんです。だから私もすごい精神的、そういうことに興味があったから、岸本さんのお父様っていうことに、なんかお会いはしてないんですけど、どうしてこの父親にこの娘なのって……(笑)
(注:岸本鎌一(1905‐2001)名古屋大学環境医学研究所長、名古屋市立大学精神医学教室教授を経て名古屋大学名誉教授。専門は精神薄弱の遺伝生化学的研究。1969年に心身障害者のための総合施設である愛知県心身障害者コロニーを開設。禅に根拠をおいた森田正馬の体験療法に共感し「自覚的精神療法」を唱えた。http://ncupsychiatry.com/history.htmlより2026年6月1日最終閲覧)

鏑木:すごくパワフルな方ですよね、岸本さんって。

出光:すごいですよ。すごいですよ。(笑)

小勝:あのね、《アニムス》を見ればわかりますけど。

出光:ねえ。

小勝:まあ、あれはでも、なんでしょう、いきなりあの《アニムス パート2》の話になっちゃいますけれども、あの場合は岸本さんに普段通りやってくださいってことだったんですか?(笑)

出光:本当に普段通りやってくださいって言ったの。

鏑木:(驚いて)実際、普段通りなんですか?

出光:うん、普段通り。(笑)

鏑木:すごい。

中嶋:じゃあ、常にパフォーマンスをやっているような立ち居振る舞いでいらしたんですか?

出光:そうですね。だからパフォーマンスやってないかもしれないけど、パフォーマンスをやってて力があんまり強いから、パフォーマンスをやってない岸本さんが記憶にないんですよ、うん。

鏑木:それくらい強烈なんですね。

出光:強烈でしたよね。

小勝:つまりオンオフがなくて、常にオンって感じですか?(笑)

鏑木:ああ、わかりやすい言い方ですね。

中嶋:やはりその女性で、創造活動することの大変さのようなこともお話になりましたか?

出光:あの、彼女自身ね、なんか体全体でそれを語ってましたね。

中嶋:そうですよね。とてもかっこいい方ですよね。

小勝:やはり「アニムス」というユング心理学の方のタイトルで、岸本さんの中のいわゆる男性性を、あのタイツ姿の男性で表すということだと思うんですけれども、なんかこの《アニムス パート2》に対する批評を書いてらっしゃる人がいて、黄色いタイツの男と黒いタイツの男が出てくるのはどうしてなのかな、みたいな。(注:北折智子「出光真子と岸本清子 《アニムス パート2》における自由な魂の交叉」、『美術運動史研究会ニュース』No.101、2009年3月、pp.1-4。」

出光:そういうところありました?私覚えてない。

小勝:基本全身像で、これはおそらく。

出光:これは……ああ、それで頭が黒い。

小勝:頭が黒い。

出光:これ、別の日に撮ったからだ。(笑)

小勝:そういう単純な。

出光:それぐらいですよ。

小勝:でしょうかね。特にあんまりその違いっていうのは。

出光:意味はないです。

小勝:あんまり私もわかんなかったですけれども。で、岸本さんに対する出光さん自身の批評みたいな、そういう感じもある?

出光:ない。私、批評、彼女に対してそれはない。

小勝:ああ、そうですか。

出光:ただ大変だなあっていうのは、思いましたよ。彼女自身がね。すごい大変だなぁみたいな。

小勝:だから岸本さんがすごい一生懸命パフォーマンスみたいに、演説をし、動いてやってらっしゃるのを、このタイツの男性は結構、茶化すみたいに見えなくもないんですけれど。

出光:彼女、本当に一生懸命やってるのを見てて、彼女の中のアニムスってのは、こういう感じで動いてんじゃないかなと私は思ったんですよね。

中嶋:そういう風に思われたんですね。

出光:思ってね。それでじゃあアニムス入れちゃおうと。

中嶋:そういう順序だったんですね。

出光:順序だったんですよね。

鏑木:じゃあ、後から入れることにしたんですか。

出光:後から入れたんです。ていうか、後から考えついた。

鏑木:そうだったんですね。

中嶋:アニムスというタイトルで作られたフィルムで、やはりアニムスの存在がコミカルなのが、前回もちょっとお聞きしたんですけども、なんでなんだろうっていうのが……(笑)

出光:本当に私もわかりません(笑)。

小勝:最初が《Inner-Man》(1972年、フィルム、3分40秒)ですかね。《Inner-Man》もアニムスですよね。

出光:うん、アニムスですよね。で、後、セリフだけでやる中に出てくる。セリフがアニムスの、アニムス的な表現、男性的な表現を使ってるセリフがアニムスです。パート1かなんか。

小勝:パート1、はい。パート1は色んな方のアニムス。

出光:色んな人のアニムス。

小勝:山上千恵子さんとか。

出光:でも山上さんは、それは演じてくだすってて、私が言ったことを、彼女が、それぞれの人達が自分達の言葉で演じてくれたんだと。

小勝:すみません、ちょっと岸本さんで先に進んじゃったんですが、ビデオの始まりあたりからお聞きしましょう。

中嶋:そうですね、ビデオの始まりあたりから、またお聞きしてもよろしいでしょうか?

出光:どうぞ。

中嶋:ビデオの始まりは、先程《おんなのさくひん》と《Sam Are You Listening?》についてお聞きしたんですけども、その後77年からまたビデオを本格的に制作されるようになります。この時に作られた《女たち》(1977年、ビデオ・インスタレーション)という作品についてお伺いしたいんですが。

出光:《女たち》ですね。

中嶋:はい、77年ですね。この時から、「ホーキ星」という女性解放運動のグループとお付き合いになっていたと思うんですけれども、その女性解放運動のグループと出会われた時のことを覚えていらしたら、お聞きしてもよろしいですか?

出光:出会いは……

中嶋:ちょっと関心があるのが、アメリカでフェミニズムの本格的な運動を経験されていて、日本でも女性解放運動、その時ウーマンリブという風に呼ばれていたと思うんですけども、に参加されて、その違いとか。

出光:それはね、私、アメリカの方はアーティストを中心にしたフェミニズムの運動だったんです。日本の場合は、そういう運動を主体にした人達だから全然違いましたよね、それは。

小勝:なんかアートに興味のある人は、ほとんどいなかったっていう風にどこかで書いてらっしゃいましたよね。

出光:そう、それはありましたよね。本当、ホーキ星の人達といつ知り合ったのかってのは、全然覚えてないですけど、覚えてないってことは、忘れたい感じ?……(笑)

中嶋:心理学的にはそうなんですかね。新宿をベースにしたグループですね。

出光:そう、一つの小さなお家を借りて、そこで皆さん寝起きしてらして、

小勝:そうなんですか。

中嶋:共同生活を送られてたんですか!

出光:共同生活してました。

中嶋:新宿のどのあたりですか?

出光:あのね、東口、西口、東口、西口だったような、東口だった。

中嶋:駅の近く?

出光:割と駅の近くでしたね。

中嶋:そうなんですか。じゃあ特にアートのことを話すっていうことではなくて。

出光:全然アートのことじゃなくって、アメリカでフェミニズム運動をちょっと知ったっていう話をしたら、誰かが、こういう人達がいるよって言って。それでその彼女達と知り合った興味っていうのは、私は彼女達を撮影したいと思ったんですね、ビデオで。だから正確に言えば、彼女達を集めて、それぞれにビデオのあれ(機材)を持ってもらって、それで好きな物を撮ってもらうってことで、フェミニズムをやってた女性達がどういうものを撮って、どういう風なことをやるんだろうかって、そういうことに興味があったんですね。

中嶋:もうなんというか、観察者の視点。

出光:観察者の視点ですね。

中嶋:一緒にというよりも。

小勝:撮られた映像は、つまりそれぞれの人自身が撮ってきた。

出光:撮って、それでまたそれを誰かが撮るとか、なんかぐちゃぐちゃになってますよね、忘れちゃった。

中嶋:かなり詳細な記録を書かれてるものがあって。

鏑木:(テキスト見せながら)これは出光さんが、この作品を撮影した時のことを書かれています。

中嶋:この文章はすごく面白かったです。面白かったっていうか、とっても詳細で当時の状況が本当によくわかりました。「無意識を観察する」っていう文章です。(出光真子「無意識を観察する」『イメージフォーラム』第2巻3号、1981年1月)。

小勝:これは白樺画廊で展示をされた時の文章ですね?

鏑木:そうですね。

出光:いや、違う。

中嶋:そのために作ったという形で書かれてはいらっしゃいますけれども。

出光:そこで載っかったっていうんじゃなくて、これは何らかの。

鏑木:『イメージフォーラム』に書かれた記事のコピーです。

出光:あの頃、イメージフォーラム、雑誌出してましたよね。

鏑木:はい。

中嶋:ありました。

鏑木:そうですね。だから、少し後になってから書かれているようですよね。作品を発表された後。

中嶋:当時のことを回想して、書かれたというようなものだったと思います。やはりそのビデオを、女性達に持ってもらって、撮ってもらうことを撮るという、そういう視点だったという風に書かれてますね。

出光:そうですね。

中嶋:ちょっと素朴な疑問なんですけども、そんなにたくさんビデオカメラを購入されたという……

出光:いや、一個、1日一人。

小勝:なるほど、使い回しという感じの。

出光:そうです。

中嶋:随分お金がかかるだろうなと思いまして。

出光:それで、それ一個、オープンリールのビデオ。

小勝:で、それは無編集で流したんですか?

出光:いや、無編集じゃないと思いますよ。編集したと思います。

小勝:じゃあ、出光さんが編集して。

出光:ええ。

中嶋:撮影の時のご苦労等も色々書かれているんですけれども、一つ印象に残っているのが、なんていうか、訓練された人ではなくて、素人というか、あまりそのビデオカメラとかは扱っていない人物に、ビデオを持たせることというのに意味を見出していらしたようなんですけれど、これはこの無意識ということと何か関わることでしょうか?

出光:そういう人達の、無意識のあれが、無意識のどの辺の無意識を捕まえるかにもよると思いますけど。でも、そういう人達の方が意識的に操作したりなんか出来ないだろう、っていう素朴な思いですよね。技術的にビデオを色々操作出来る人にやってもらえば、彼らの好きなように出来るんじゃないかって。

中嶋:実際そうですよね、きっとね。意識してコントロールするところは少なくなる。

出光:なるだろうと。

中嶋:その女性の無意識というものが、ビデオという機材や、メディアとうまく噛み合っていくようなそういう印象ですか?

出光:いや、噛み合うとか、噛み合わないっていうことはあんまり考えてないですね。ただ、そのビデオという道具に対して、知らないっていうか、そういうものを操作出来ない人達がやることによって、彼女達の無意識的な、内面的なものは、もっと素朴に出てくるんじゃないかっていう……

小勝:それはフェミニストの女性に対する興味っていうことではないですか?

出光:それもありますよ、うん。だからそういう風になった、フェミニストだからやってもらったって。もう一つ、母、娘、祖母みたいなのが……

小勝:はい、《祖母、母、娘》(1976年、ビデオインスタレーション)。

出光:それは、もう本当に彼女達がどういう風に作られたかっていうのを、私、見たかったんですよね。内面がどういう風に作られた、結果《祖母、母、娘》。

小勝:今おっしゃってる《祖母、母、娘》と《女たち》は、発表の形式としてはインスタレーションみたいなんですよね。

出光:インスタレーション。

小勝:ね。《祖母、母、娘》が最初のインスタレーションの作品だと思いますけれども、それを栃木県立美術館の「前衛の女性」展の時に、この76年に発表されて以来(の展示)っておっしゃいましたけど。

鏑木:そうなんですね。

小勝:その途中にもどこかでやってらっしゃいましたっけ?

出光:《祖母、母、娘》、やってないですよね。(註:後述のように港区男女平等参画センターで2004年に展示。)

小勝:やってなかったですかね。3台のモニターを、栃木県立美術館の場合は積み上げて、祖母、母、娘の順で、同時に放映して、若干長さが違うんで少しずつずれていくんですけれども。はい、あれも非常に面白かったんですが。で、しかもその時に既にその画面の中にもう一つモニターが現れる、みたいな。

出光:ええ。それで見ながら、で、うちの母なんて止まっちゃうんですよね。人がやってるのを見ると同じようにやらなきゃいけないっていう意識、あの世代の人。他の人と違っちゃいけないっていう意識がもろ出てくる。

小勝:最初、ただタバコの箱でしたっけ?ピースでしたっけ?それをたくさんお渡しして、自由に扱ってもらう、で、次はモニターを見せながらやってもらうということでしたっけ?

出光:そう。

中嶋:そう考えると、ある仕掛けのようなものを作っておいて、あとは即興的に映像が出てくる様を撮るという。

出光:そうですね。

中嶋:そういう、わりと勇気のいる、作り方が多いですね。

出光:そっか。

小勝:あと、このビデオ・インスタレーションっていうのはかなり早いかなと思って。

中嶋:そうですね。

出光:あの時期は、早いですよね。

小勝:他に日本でご覧になりましたか?

出光:私は覚えてないです。どなたかいらっしゃいますか?

小勝:久保田成子さんとかは、日本ではやってないですよね。アメリカですよね。時代的にはどうなんでしょうか?ちょっと調べないとあれですけれど。

中嶋:本当は知らなきゃいけない、デュシャンのやつ、何年でしたっけ?久保田成子さんはご存知でいらっしゃいましたか?(注:久保田成子《デュシャンピアナ(階段を降りる裸体)》1975-76年、René Block Gallery, New York,1976年の個展で発表)

出光:いや、だから、ほんとう、旅行に行った時にお会いする、例えばニューヨーク行ったら、ちょっとお邪魔する程度のお付き合いですかね。もちろん(ナムジュン・)パイクさんの方は、よく。ほらよく日本に来てたじゃないですか、パイクさんって。

中嶋:それでお会いになることもあったんですね。

小勝:そのモニターを幾つか並べて同時にこう、映像を流して、それをまあいわゆる今でいうインスタレーション、当時はインスタレーションっていう言葉もなかったですよね。

出光:なかったですよね。

小勝:そういうのを発想されたっていうのはどういうきっかけなんですか?

出光:私が発想したんですかね(笑)。ほとんど覚えてない、それは。ただ、ビデオで私がやってることっていうのは、同じように動画を扱っていても、フィルムじゃ絶対できないことっていうことがいつも頭の中に。ビデオじゃなきゃできない、そうするとフィルムで三つのモニターを、人を歩けるぐらい明るくして、流すってことはほとんど不可能ですよね。

中嶋:どこかでビデオは明るいところで見るっていうのもおっしゃってましたね。映画は暗いところで。そういう鑑賞の違いもあるわけですよね。

出光:ありますよね。

中嶋:後は、ご自宅でテレビを見ながら、日常家事をされることがあったっていう話も書かれてました。モニターを見る自分というのが、やはり客観的に意識されていたのかもしれないですね。

出光:そうですね。そうかもしれない。

中嶋:《祖母、母、娘》はVTR3台使って、西武百貨店の渋谷店で展示。

出光:そうそうそうそう。そうですね。

中嶋:これもかなり画期的な。

小勝:その時も(モニターを)積み上げたんですか?

出光:私、忘れちゃった。特にあの時子供が忙しくて、渋谷まで見に行く時間がなかったと思うんですよね。

小勝:どこかで写真があったと思うんですけど、今日私「前衛の女性」のカタログ置いてきちゃったんですが、あれにちょっと確か当時の。

中嶋:今日持ってきてないんですけれど、コピーはありますよね、どこかに。

鏑木:あります、これですね(注:「前衛の女性」展図録、p.127に《祖母・母・娘》の展示写真2点掲載)。

小勝:これは、じゃあこれが西武百貨店って書いてあるから。

中嶋:積み上げてますね。

小勝:これが当時の写真でしたかね。

出光:これはね、どこかであれをやったんですよね。楡の木画廊かなんかで、画廊でこういったなんかをやったんですよ。

小勝:深澤純子さんのところでも、純子さんが企画してやられた時の?(注:出光真子のビデオ・インスタレイションとトーク ビデオ・インスタレイション「祖母・母・娘」 2004年10月29日 港区男女平等参画センター 1日だけの展示という記録がある。)

出光:あの時かな?

小勝:なんかこれ女性の年表ですよね。多分。

出光:そうそうそう。女性の年表。

小勝:そうだったかもしれない。

出光:でも、西武百貨店。

小勝:それが最初の発表ということで書いておいたんですけどね。

出光:そうですね。

小勝:あと、これ(「前衛の女性展」図録、127ページ右側に掲載されている展示写真)はその後の映像(《REAL? MOTHERHOOD》(2000年、ビデオ・インスタレーション))と一緒に写ってますよね。あ、こちら。これと一緒に写っているんで、この時も、この……

出光:これもやって、これもやってたんですね。

小勝:この、「私がつくる。私をつくる。」の時も、両方インスタレーションされたんでしょうかね。《REAL? MOTHERHOOD》ですね。(「私がつくる。私をつくる。」カタログによれば、ビデオ・インスタレーション展示は、《Still Life》(神戸アートビレッジセンター)と《REAL? MOTHERHOOD》(The Third Gallery Aya)の2作品のみ。)

出光:そうですね。

中嶋:インスタレーションの話はまた後ほどお聞きしようとは思っているんですけれども、これもビデオ作品なので、ちょっと横にそれました。ビデオ作品について、引き続きお聞きしたいんですが、この後1977年、同年に《主婦の一日》(1977年、ビデオ、9分50秒)という作品を制作されますよね。この時が、先程の《祖母、母、娘》でもありましたけれども、ビデオの中にビデオモニターが入るという構造が定着した。「マコ・スタイル」という風に呼ばれてる……

出光:みたいですね。

中嶋:どなたがお呼びになったんですかね。

出光:あれはアメリカかなんかじゃないかと思いますよ。

小勝:なるほど。

中嶋:これは、《主婦の一日》は、ご自身が出演されているわけですよね。ビデオというのは、多分その私達想像するしかないんですけども、撮ってすぐ見ることができるっていうので、フィルムとだいぶ違ったと思うんですが、ご自身の姿を撮って見られるっていう経験はどのようなものでしたか?

出光:あんまり何も感じてないですけどね(笑)。

中嶋:そうですか。あまりね、こう自分が動いてる姿とか、家事をしてる姿を自分で見るっていう人はいなかったと思うんですよね。

出光:あ、そうなんですか。これね、テレビで「11PM」っていうのが当時ありまして、それで藤本義一さんがすごい気に入ってくだすって、これをやりましょうっていうんで、ちょっとやったんです。

小勝:《主婦の一日》をですか?

出光:うん、だから全国放映された。だから自分の姿を見せたくないという(笑)……

中嶋:テレビに出ちゃうわけですもんね。そうなんですね。テレビに出たっていうのは、今回『フェミニスト』という雑誌で、小林裕子さんですかね、この方がテレビでご覧になったという風に書いていらっしゃいました(小林裕子「女の感性は女のメディア フェミニズム芸術こそヒューマン芸術–出光真子」『フェミニスト』第7号、1978年9月)。

出光:そうですか。

中嶋:ええ。だから、やはりたくさんの人の目に止まったわけですよね、きっと。

出光:本当だ。私、全然知らない人です。あ、そうですか。

中嶋:はい。なので、多分おそらく、多くの人が見たんだと思いますけども、その時にやはりその女性の日常というものと創造を結びつけた画期的な試みだったという風に書いていらっしゃいました。で、その時に、女性の日常というものが創造と結び付くっていう視点があまりなかったのかもしれないという風に思うんですよね。

出光:そうですね。ていうか、毎日毎日家事ばっかりやってる人が、映像を作るっていうことはなかった時期じゃないですか。今だったら、皆さん撮るだろうけど。当時は、機材からして面倒くさいし。

中嶋:この作品の話も多分他のところでもなさってると思うんですけども、これはどのようにして撮影されたのかちょっとお聞きしてもいいですか?

出光:物理的にですか?

中嶋:はい。

出光:まず私の目だけを撮ったんです。それで目だけを撮るのっていうのは、大変。長いレンズがいるんで、それは義理の兄の関係で、銀座にあるなんとかなんとかっていうカメラの会社、そこへ行って借りてきて。

中嶋:特別なレンズなんですね。

出光:それで私が汚い格好で行ったんじゃだめだって彼が言ったんで、着物着て「なんとかの妹でございます」とか言って、借りてきた(笑)。

中嶋:そうなんですね。

出光:でも、借りられたってことだけでもう感激ですよね。

中嶋:そうですよね。

出光:それぐらい大変な、長いのを借りてきたっていうのがすごい記憶に……

中嶋:やっぱり色んなところでちょっとサラッと書いていらっしゃいますけども、色々なプロセスがあったわけですね。

小勝:そうですよね。で、それはモノクロのレンズっていうんですか?

出光:いや、それはモノクロのレンズじゃなくて、そのビデオの本体側がまだモノクロしかなかったんですよ。ビデオっていうのはまだ、モノクロでオープンリールしかなかった時代。

小勝:ただ、全身像の方はカラーですよね。あの、色々動いてらっしゃる。

中嶋:うん、家事をされてる方は。

出光:だからその後は、あれが出てるんですよ。

中嶋:じゃあ、期間が空いてるんですか?目を撮った時期と?

出光:だから本当、一年で違いますね。

中嶋:日進月歩なんですね。

出光:それは日進月歩ですよね。

中嶋:じゃあ、目を撮ったのとちょっと時期がずれていたっていう?

出光:うんうんうん。

中嶋:じゃあ、着想されてから作品になるまでもかなり時間かかったということなんですか?

出光:いや、だから、そのもう本当にないと思ったのが、私はでも目を、カラーで撮っているじゃないですか?

小勝:いや、モノクロです。

出光:モノクロで、ただ目の周りが、モノクロにしか、私、アイメイクアップしてないから。

小勝:いや、どこかに書いてらっしゃいましたよ、たまたまそのレンズか何かのカメラの都合で、モノクロしか撮れなかったので、目だけモノクロなんだけれども、結局効果的であった、という。

出光:あ、本当に? 無責任ねぇ(笑)。

鏑木:自伝に、そのような記述があったと思います。

出光:(『私がつくる。私をつくる。』を見ながら)あー本当だ。なんなんだろう。

小勝:なんか機材の都合。

出光:それじゃこの機材は、わかった。これがオープンリールで撮ってた。

中嶋:そうなんですね。

出光:オープンリールのモノクロで撮ってて、それでこれがその後に出た4分の3っていう、こういう結構大きなビデオのデッキ。

中嶋:そうなんですね。

出光:うん。それで撮ったんだと思いますけど、私のこと信用していただけるならの話で(笑)。

中嶋:ご記憶されてることで。この目が本当に力強い目なんですよね。

出光:この目ですか?

中嶋:暗闇で光り、昼間も。これ見る人によって多分かなり印象が違うと思うんですけども、ちょっと見張ってるというような、感じもありますね。

鏑木:洗濯物を干している時まで見ていますもんね。庭にまでついてくる。

中嶋:で、その一方で、出光さんは淡々と家事をこなされてるのが、このコントラストがとても印象的ですね。この時やはり主婦の毎日を記録するならビデオだと思ったとおっしゃってますね。やっぱり永遠に続くものとビデオという、そういう組み合わせなんですか?そういう視点自体は、もしかすると女性的なものかもしれないという風に思いますね。つまり、出光さんの当時の記事等を探していて思ったんですけども、色んな雑誌の裏に広告があるんですよね、それがみんなビデオカメラとか、ビデオデッキの広告がすごく多いんですよ、イメージフォーラムとかもそうなんですけども。その頃、多分みんなホームビデオとかを撮り始めてた時期だと思うんですけどね。でもみんなホームビデオを撮る時に、主婦の一日を撮ろうとかそういう風に思わないですよね。運動会、イベント、そういう使い方なので、やはり出光さんのビデオに対する見方ってのは独特なんだと思うんです。フィルムとビデオの違いだけではなくて、周りの人がビデオに対して持っているものとやはり違う方を見てた。

出光:そうですね。違って欲しいですね。

中嶋:そりゃそうですよね。アーティストにとって当たり前ですよね。で、その後、時期を置かずに、あ、《主婦の一日》はいいですか?

小勝:はい。

中嶋:《主婦たちの一日》(1979年、ビデオ、21分50秒)というのを撮られてるわけですけど、

出光:どこいきました?《主婦たちの一日》?

中嶋:《主婦たちの一日》も、同じ年だと思います。

出光:あ、これだ。

中嶋:これは何人もの主婦の方々を撮ったんですか?

出光:そうですね、主婦の方々に来ていただいて、例えば東野さんの奥さんだと、明代ちゃん。ああいう人に来てもらって、それで、これがだいたい主婦が一日を過ごす場所なんですよ。それで、今日何時はい、昨日やったことかって、はい何時あなたはどこ、って。で、駒を置いていってもらう、すると、だいたい主婦が一日で回る場所って限られてるから、それが主婦の一日。

中嶋:全くやっぱり生活が違うわけですね。その働いてる男性と、家にいる女性で。

出光:当時は。

中嶋:当時は。まあ、今でもそういうところはあると思いますけれども。あと、これ79年でしたね、すみません。失礼しました。

小勝:「主婦たち」にしたのは、出光さん以外の主婦についても興味があったわけですか?

出光:そう、だから明代ちゃんでしょ、それからあと何人かやってもらいましたよ。誰にやってもらったか、忘れちゃったけど。

中嶋:ちょっとあとで確認しておきます。

小勝:あのパク・ヨンスンさん、韓国の人で(出光真子さんの作品についての)博士論文を書いた、彼女は「韓国版主婦たちの一日」を撮ったんですよ。

出光:そうなんですか?

小勝:覚えてらっしゃらないのかもしれないですけど、私ビデオもらいました。

出光:あ、本当に?

小勝:彼女が博士論文を書いていた時に、同じ社宅の中にいる韓国人の日本在住の主婦たちに同じことをやってもらったんです。あんまり変わってなかったような感じですけど。朝起きて、これなんかあの部屋の見取り図みたいなのを置いてるんですよね、で、どこ(の部屋)に行って、どこ(の部屋)に行ってって。

出光:そうなんだ。

中嶋:この頃、日本に帰ってきてから、もう数年、6年位ですね、経っておられると思うんですけれども、この《おんなのさくひん》と《主婦の一日》というのが、この後80年代を中心に国内外のビデオアート展にたくさん出品されるんですよね。

出光:そうでしたっけ?

中嶋:という風にお見受けしましたけれども。最初のうちは、大体この二つか、あるいは《おんなのさくひん》なんですけれども、これで本当に色んなところに行くんですよね。北米、ヨーロッパだけではなくて、アジア、中国。

出光:中国まで行ったんですか?

中嶋:中国行ってませんでしたっけ?

出光:いや。

中嶋:ごめんなさい、あやふやで。

鏑木:台北ですか?(「第2屆女性影像藝術展」皇冠藝文中心、1994年)

中嶋:台北か。

出光:台北行きました。

中嶋:色んなところで、上映されるんですよね。で、そのビデオアーティストとしての出光さんの存在というのがかなりこう認識されるというか、確立していくんですけれども、この国外で評価されていくその過程で、印象に残った反応とかはありましたか?

出光:なんかに書いたかもしれないけれど、アメリカを巡回した時、巡業だわね、巡業した時にピッツバーグかなんかあの辺の、だったと思うけど、そこにありません? もう、全く同じだっていう言い方。

中嶋:全く同じというのは?

出光:家、アメリカの。

中嶋:そうですか。

小勝:アメリカの主婦も。

出光:アメリカの主婦も同じだっていう。

中嶋:これは1979年にバーバラ・ロンドンが企画した「Video from Tokyo, Fukui and Kyoto」というその?

出光:それはバーバラがそういう風にやって、私はバーバラがその私だけどっか見て、東の方の、ニューイングランドの方一つと、それからワシントンの方の一つと、なんかあの辺バーバラが企画してくれて。

中嶋:一人だけのもあるんでしたっけ

出光:一人でもあったんです。

中嶋:そうなんですか。

出光:うん。

鏑木:これですか。(展覧会歴を見ながら)「Video Works by Mako Idemitsu」アメリカ、ロサンゼルス、83年。

出光:いや、それ、ロサンゼルスは。

鏑木:ロスではない。

出光:ロスに寄って帰ったのは、子供達がいたからロスに寄って帰ったのは覚えてるんですね。上映は。

中嶋:どれのことなんだろう?

鏑木:ピッツバーグは、86年(展覧会名不明、会場=Pittsburgh Filmmakers Inc.)。

出光:86年ですか?

鏑木:ええ。

出光:じゃあ、86年です。

中嶋:じゃあ、もうちょっと後なんですね。そうなんですね。同じだという風に言う人がいたっていうことなんですね。日本の資料で。

出光:そうそうそう、日本の、そう、それも男の人が言ってたの。

中嶋:そうなんですね。

出光:うん、それでなんだユダヤ人だってことについて。

小勝:これはただ86年なので、もう〈グレート・マザー〉シリーズとか、《英雄ちゃん、ママよ》(1983年、ビデオ、 27分)とか。

出光:ああ、そういうのになってますね。

小勝:80年代の主要作品に移ってます。

中嶋:じゃあ、まだもうちょっと後ですかね。

出光:すみません。

中嶋:いえいえ。また国内外での反応については、後でお聞きしたいという風には思ってるんですけども。で、その年代順に作品を追っていくと、その《主婦たちの一日》の後には、《アニムス》等撮られる、先程《アニムス》についてお話をお伺いしたので、1980年の〈シャドウ〉の話をお聞きしたいんですけれども、この〈シャドウ〉の話をお聞きするにあたって、マイケル・ゴールドバーグ(Michael Goldberg,1945-)さんとの出会いについてお聞きしたいんですが。(注:〈シャドウ〉は《シャドウ1》と《シャドウ2》の二作品を含む。)

出光:マイケルとはね、どこで出会ったんだろう。まあとにかくビデオのことで出会ったんですよ。

中嶋:ビデオのことで。

出光:うん、それでマイケルは当時日本語がしゃべれなくて、英語で。私は当時英語がしゃべれたから、今しゃべれないんですけど、通訳しても(笑)。だからそういう意味でマイケルは人探ししてたんですよね。で、ビデオやってて、英語しゃべれるって、そんなにいないじゃないですか。

中嶋:全然いないでしょうね。

出光:それで、付き合うようになったんです。

中嶋:そうなんですね。

出光:うん、だからマイケルがどっかに行くっていうと、そう、って言って、色んなところへ。

中嶋:助けてあげていた。

出光:で、向こうもまあ、私がだから今度この作品を作りますって言ったら、助けてくれましたね。

中嶋:マイケル・ゴールドバーグさんが、最初にいらしたのは、日本にいらしたのは1972年だそうですね。その時は、じゃあお会いになっていなかった。

出光:「ビデオひろば」の時、マイケルが来たけど、あの時は会ってないです。

中嶋:そうなんですね。79年には、どういう風にお会いになったのか、まあちょっと覚えていらっしゃらないということですよね。

出光:多分あの人、なんだっけ、ほら、こうさん、なんて言ったっけ。恐ろしい男、なんとかこうさん

鏑木:中島興さんですか?

出光:中島興さん、言っちゃだめよ(笑)。

鏑木:わかりました。恐ろしいんですね(笑)。

出光:中島興さんが電話してきて「英語をしゃべる、日本語がわかんないのがいるんだけど」っていうことで、知り合ったんですね。

中嶋:そうなんですね。

出光:で、どっかに行くって言うので、じゃあ行きましょうって、一緒に行ったんですよね。

中嶋:マイケル・ゴールドバーグさんは、どこかで日本では芸術表現にビデオを使う人があまりいなかったっていう風に驚いていたんですけれども、出光さんはその時に自分のビデオの作品のお話などを。

出光:ええ、もちろんしました。

中嶋:そうなんですね。で、そこからお付き合いが始まっていくわけですね。

出光:始まりますね。それで、作品を制作する時に手伝ってもらいました。

小勝:これ(《シャドウ パート1》(1980年、ビデオ、25分30秒))以後のビデオ作品はほとんどマイケルさんの撮影。

出光:マイケルが撮影してくれました。それでマイケルが機材を、彼が教えてる学校から借りてきてくれるんですね。だから機材も一緒に作るから、すごい助かりました。

中嶋:教えてる学校というのは?

出光:なんか新宿か新大久保かなんかに、そういう割と専門の技術専門の学校があって

中嶋:日本の。

出光:日本で。

中嶋:そうなんですね。「ビデオひろば」とはまた別の。

出光:全然別のそういう専門学校ですよね。

中嶋:そうなんですね。先程からちょっとあまり関係ないという風におっしゃってるので、恐縮なんですけども、「ビデオひろば」のご活動自体は全くご興味がなかったんですか?

出光:いや、私に日本にいなかったですね。72年なんで。

中嶋:72年にはそうですよね。

出光:73年に帰ってきて、紹介されたのが、イメージフォーラムの方だったから、「ビデオひろば」のことは全然話にも出なかった。

中嶋:そうなんですね。

出光:その当時は、私はフィルムしかやってなかったの。だからビデオはやってないから、そういうこともあって、だと思います。

中嶋:なるほど。今はそのビデオの、ビデオアートの歴史となると、こう一体化して、出光さんはパイオニアで、ビデオひろばのパイオニアで、なんかこう、さも同時代で一緒に活動することがあったかのような、そんな印象、そうじゃないんですね。

出光:えー! 本当?

中嶋:そういう風に書いてあるわけじゃないんですけど、そういう印象になってしまうんですよね。ビデオアートの歴史みたいな事を振り返る時は。でも、作品の作り方も本当に違うので、そこら辺は、もしはっきりしたら。

出光:はっきり、どうしたらそれはっきり出来るんです?

鏑木:このインタビューで、ご本人がそういう風には思ってらっしゃらないという事を読んでいただければ。少なくとも認識を改めてもらうきっかけにはなるかもしれません。

出光:でも、それをね、なんだっけ。森(美術館)かなんかで、やったじゃないですかね、その時に。(「MAMリサーチ004:ビデオひろば――1970年代の実験的映像グループ再考」森美術館、2016年7月30日-2017年1月9日)

中嶋:ビデオひろばの。

出光:その時に和田(守弘)さんって、「ビデオひろば」にいらした方の奥さんと一緒に行ったら、「ご一緒だったんですね」って。

鏑木:なので出光さんが間違いだとおっしゃっていたことも、「ビデオひろば」の展覧会の時に、どこかでお名前があったからだと思うんですよ。

出光:そうですよね。

鏑木:ええ。

小勝:そうですね。見た記憶があります。

鏑木:私も出光さんが(ビデオひろばの)一員ではないという認識はあったんですけれども、なんとなくこう、接点を持ちながら活動されていたのかと思っていました。

出光:いや、だから72年は私いないから、73年に帰ってきて、それで和田さんを、東野さんが紹介してくれて、それでお付き合いするように、っていうか手伝っていただくようになったんですね。だから、和田さんとの接点がもしかしたら誤解の元になったのかもしれないです。

小勝:そうですね。

鏑木:そうかもしれないですね。ちょっと違う話で、先程の《主婦の一日》のお話の時にお聞きすればよかったんですけれども。当時、ビデオだけじゃなくて、フィルムの作家の間でも、例えばジョナス・メカス(Jonas Mekas, 1922 -)などの影響もあって、個人の表現を映像で制作するという人たちがいたと思います。さっきのかわなかさんたちも含めて、男性作家が中心に言っていたことだと思いますが、私は彼らにはきっと、マスに対するカウンターという意識もあったのだろうと理解していたんです。でも出光さんが《主婦の一日》を作ったときのお話をうかがうと、そういうことは関係ないのかな、という印象を持ちました。ある意味すごく純粋に、ビデオそのものの面白さから制作の動機が立ち上がってきているといいますか。

出光:そうですね。一つ今、あれっと思ったのは、かわなかさんにしろ、メカスにしてもフィルムじゃないですか。

鏑木:そうですね。

出光:今、ビデオって言うことで話していらしたから、ちょっと私、彼らは、特にメカスはビデオ使ってたんですか?

鏑木:いえ、使っていないですね。すみません、フィルムとビデオを混ぜて話してしまいましたが、映像表現自体に当時、そういう流れ(個人映画)があったのかと。でも少なくとも出光さんはそういうこととは、あまり関係がないというか、本当に出光さんならではの表現なんだということが、とてもよくわかりました。面白いですね。

中嶋:文脈、例えば、映像なり、ビデオなりの文脈とかその展開を知らずに、無関係に発想されていて、発表されていくってのは、なかなか勇気のいることでもあるような気がするんですよね。そういうことは?

出光:それはないと思いますよ。ただね、今中嶋さんが言ったけど、私はフィルムをやってたじゃないですか。それでかわなかさんから、ビデオっていうものがあるよって、ビデオの使い方教えてもらった時に、かわなかさんを含めて皆さん、ビデオとフィルムと被写体が同じに思えたんですよね。撮る間合いも。それでどちらかって言うとビデオの方が、手軽にできるから、それはかわなかさんがほとんどビデオ撮ってないのは、それが理由だと思うんだけど、それはちょっとわからない。とにかく、フィルムは高い、コストがかかる、ビデオは安いから、じゃあビデオにしますっていう態度は、私、嫌だと思ってます。そういうと、私、あなた金持ちの娘だから、そう言われるの嫌なんだけど。

鏑木:それぞれの特性に合った表現ということを、かなり強く意識されていらっしゃるんですね。

中嶋:フィルムを始められた時に、ブルース・コナーの作品を見て、まずコラージュ、モンタージュ、繋げていくっていう発想があって、で、それも色々な材料を寄せ集めてできるっていうことからの発想もあったわけですよね。そのコラージュ的な発想っていうのは、ビデオの中でも活かされているという風に。

出光:いや、活かされてないです。ビデオは、直に持ってて記録してる、それですね。だから全くないって言った方が。

中嶋:そうなんですね。

鏑木:出光さんの中では、かなり別のものと考えていらっしゃる。

小勝:ビデオとフィルムを。

出光:全く別のものだと思ってます。

中嶋:小勝さんが前回お聞きになってたと思うんですけども、ビデオとフィルムの使い分けっていうのは、じゃあほとんど迷わなかった、

出光:迷ってないですね。

中嶋:同時代でビデオのものとフィルムのものという感じがするのは、やはり元々目的が違ってということなんですね。

出光:だから、ビデオの場合、私のビデオの内容見ると、わかるんですけど、ビデオの中にモニターがあるじゃないですか。あれをフィルムじゃやっても意味のないことなんですよね。それで、モニターの映像に合わせるために周りがおかしくなるとか、フィルムじゃほとんど不可能に近いと思うんですけど。そういう意味でも本当にビデオとフィルムは全く違うメディアだと私は思ってます。

中嶋:まさしく、そのように作られているわけですよね。《シャドウパート1》の構成について伺いたいんですけども、〈シャドウ〉はモニターを使った、やっぱり実験的な方法で作られてるわけですよね。これについては、どのように着想されたか覚えてらっしゃいますか?

出光:(コピーを指して)これに書いてあるかも(笑)。

中嶋:書いてあります。

鏑木:そうですね。それは、和田さんが編集されていた雑誌なので。

中嶋:「シャドウズの制作」という、出光さんが書かれている、書いてるわけじゃないんですね。これは、どういう文章だったんでしょうか?(注:出光真子「シャドウズの制作」『象』第3号、1982年4月。出光さん著「シャドウズの制作」は《シャドウ》の制作過程をいくつかの場面に区切り、登場人物のセリフのみで状況を説明するシナリオ風の記録。)

出光:私も覚えてないですよ。

鏑木:制作を追ったような。

出光:これ、和田さん達が作ってた雑誌じゃないですか?

鏑木:そうです。『象』っていう雑誌なんですけど。

出光:そうですよね。

中嶋:その「シャドウ」が作られる経緯が、会話、対話のように。

出光:そうですね。

中嶋:マイケル・ゴールドバーグさんと、出光さんと、あと出演されている方々と対話のように作られてるんですけど、すごく面白いですよね。

出光:ありがとうございます。(コピーを読みながら)……本当に東野さんがうるさかったですよね(笑)。(注:「シャドウズの制作」によると、出光家での撮影時に、妻の明代さんの帰宅を促す東野氏からの電話がなんどか入る)

鏑木:途中で(東野から)電話がかかってきたっていう。撮影をしている時に。

中嶋:作品の撮影は、徹夜で二日間で行ったという風に。

出光:そうですね。

中嶋:自伝でも書かれていましたね。これは、シナリオなしで、撮影された?

出光:そうですね。で、それぞれ皆さん即興でセリフをつけていただいたんです。

中嶋:そのそれぞれの出演された方々が、自分でセリフを考えてくださったわけですね。

鏑木:あれはセリフなんですか? アドリブのようにお話をされていますよね、《シャドウ パート1》(1980)って。

出光:だから、アドリブです。

鏑木:アドリブで、その場で会話してください、みたいな。

出光:その場で、はい。こういう、こういう、こういうことを考えてる人達なんですけどお願いします、って(笑)。面白いのはね、この中に、最後に三浦氏っているじゃない。これにも、なんかに書いたんですけど、とにかく私、鍼に行ってるんですよ、それでその日の夕方撮影しなきゃいけない予定があって、だけど一人男の人の役をやる人が決まってない。ああ、どうしようかなと思って、ふって横見たら男が一人いるじゃないですか(笑)。

中嶋:鍼の治療受けながらですか(笑)。

出光:思わず声をかけて、あなた今日暇ですか?それで聞いたら、周りの人も行きなさい、行きなさいって、言ってくれたことがあって、で、その人が本当に夕方家に現れてくれたんですよ。

鏑木:すごい。

中嶋:彼は何の役でした?

出光:なんかちょっとこう、普通の男。

中嶋:普通の男(笑)。

鏑木:スーツを着てらっしゃる方ですか?

出光:スーツかなんか着て、うん。

鏑木:最初に出てくる。

出光:本当にきちんとお話のできる人。

中嶋:すごいですよね。そういうアクシデント的な。

出光:ことが結構多いんです。

中嶋:作品を作っていらっしゃる時に。でも、ただそういう風にお話なさってますけども、このような制作の記録等を読むと、本当に準備に色んな段階と色んなプロセスがあったんだなっていうのをお伺いするので、なんか偶発的に出来た作品のように語られることが多いですけど、それだけではもちろんないですよね。

出光:ないですけど、その彼、三浦さんっておっしゃったんです。その人の場合は本当に。

小勝:偶然。

出光:偶然ですよね。だから私が言いたいのは、どれくらい私がその時切羽詰まっていたか。私、日頃知らない男に声をかけることないんですけどね(笑)。

小勝:なるほど。

中嶋:それは、たくさんの人と制作を一緒にされているので、そういう気さくな方なのかなと、このエピソード聞いて思いましたけれど、

小勝:それともう一つは、それこそ出演料払ってお願いするっていうことではない、っていうことですよね。

出光:そうそうそう、そうなんですよ。出演料払ってならね、もうね、どっかに行って、あれすればすぐ見つかるけど、そうじゃないからね、大変。

小勝:これは第3回東京ビデオフェスティバルで特選を受賞されたそうなんですが、その時の評価とかなんか大林宣彦さんとかが、賞賛していたそうなんですけど、その辺のご記憶、どのように思われたかとかそういう……

出光:それはもちろん嬉しかったですよね。

小勝:これはそのビデオフェスティバルに出品するために制作された?

出光:いや、そうじゃなくって、ビクターで機材を借りてきたりしてたんですよ。マイケルができないって言ったら、私、それでビクターで編集させてもらってたんですよ。だからそのフェスティバルのことを知って、やったーっていう感じですね。

中嶋:それで出品した、そうなんですね。大林監督の記事っていうのは。

鏑木:ありましたね。『イメージフォーラム』で、大林さんが(大林宣彦「ビデオの幸福、ビデオの不幸」『イメージフォーラム』第2巻4号、1981年2月)。

中嶋:ビデオに関する記事でしたよね。

鏑木:そうでした。

小勝:この〈シャドウ〉に関してだったと思うんですけど。

中嶋:ビデオの可能性について。

鏑木:その時に入選された方達の作品の評価を大林さんが書いているテキストで、出光さんについてはこの黄色い線のところです。

出光:(読み上げて)「出光真子さんという主婦の制作による」……。(注:「ビデオの幸福…」で著者の大林氏は
「出光真子さんという40歳の主婦の制作による作品」として〈シャドウ〉を批評している。「まことに多層な構造を持ちながら、ビデオによるもっともビデオらしい作品という幻影のありかを、果敢に追求していった作品であるといえる」とある。)

小勝:なるほど。

中嶋:その頃は、そういう、

鏑木:ちょっとこう、ん? っていう。

中嶋:記述があるんですよね。

鏑木:ありますね。

中嶋:いやでも本当にこれはずっとですよね。小勝さん。

小勝:そうですね。やっぱり《主婦の一日》を撮った人っていうのを知ってたのかしら。そういうわけではないんですか?

中嶋:そうじゃなくても、こういう……

鏑木:書き方になっちゃうんですかね。

中嶋:語りは出ますよね、批評の中で。

小勝:応募する時に「職業:主婦」って書くわけではないですよね。どうして主婦だって知ってるだろう?

鏑木:でも大林さんだったら、出光さんのことはきっとご存知で……

出光:いや、知らなかったと思いますよ。

鏑木:そうですか。いきなり応募してきた方、みたいなニュアンスで書かれているので。

中嶋:女性という感じなんですね。でもこの女の人が出品すると、その女の人が若いか、主婦か。で、若い女性と言ったり、主婦と言ったり、その枕詞が必ず付く。

小勝:年齢によってもう主婦になっちゃうわけですか、ねえ。

鏑木:変な属性が生まれちゃうんですね。

小勝:知らない人に「奥さん」と呼びかけるように。

中嶋:みんなそうですよね。でも、今ならちょっと笑ってしまうようなことも、当時は普通だったわけですもんね。女らしさとか。

小勝:そういう中で、その《主婦の一日》や《主婦たちの一日》を見ると、またね、全然味わいが違いますよね。

出光:味わいが違いますよね。今ないですか、そういうの?

中嶋:いや、あると思います。あると思いますけども、言わない方がいいという認識は広まってると思うので。

小勝:でも逆にね、主婦でいるのが特権的な今は逆に、妻になり、つまり、共働きしないで(専業主婦で)済んでいる人は幸せみたいな。

出光:そういう人もあるみたいね。

小勝:若い人はそうですね。

中嶋:だいぶ認識が違うと思いますよね。ただ、女性であるっていうことの表し方に対する気遣いっていうのは、今と昔というか70年代とまた違うと思うんですよね。

出光:どういう風に違いますか?

中嶋:それは場所にもよると思うんですけれども、当時はどうでしたか?女性であるっていうことが知られないで作品を作るってのはほとんど不可能?

出光:そんなこと考えもしなかった。今は、知られないように作るの?

中嶋:知られないように作るのは難しいと思うんですけども、女性であるっていうことを感じさせないで、作品を受容してもらいたいって思う人は多いと思うんですよね。

小勝:アーティスト・ネームをね、ノンセクシャルな感じにしたりするとか。

出光:どうして?

中嶋:やはりそこは先入観がまだあるという風に、男性も、女性自身も思ってるところはあると思いますね。なかなかそのあたりは変わらずに残ってるところも。さすがに「女らしさ」っていう人はいなくはなりましたけれども、もう女性が作ってるか、男性が作ってるかっていうことで、見方が変わってしまうっていうのは。

小勝:それこそね、《加恵、女の子でしょ!》(1996年、ビデオ、47分20秒)ですよね。