坂上:2013年6月24日14時2分。これから塩見允枝子インタヴューを開始します。よろしくお願いします。
小勝:よろしくお願いします。聞き手は坂上しのぶさんと小勝禮子です。このインタヴューはアーティストの方々の生い立ちを、普段、他ではお話になってらっしゃらない事でも、詳しくお話いただくところから始めさせていただきます。まず、塩見さんはどちらでお生まれになったのでしょうか。
塩見:私は岡山市の中心街からちょっと離れた住宅街で生まれて、その近所には、たくさん親戚といいますか、母の実家が近かったし、父方の大叔母も(近くで)お茶の先生をしていて、お年寄りに囲まれて育ったんです。
小勝:ご家族としては、ご両親と塩見さんとご兄弟は。
塩見:弟が2人。
小勝:今おっしゃったご親戚がまわりにいたので、お祖父さんお祖母さんが(いらした)。
塩見:そうそう。両親の他に年寄り5人が、よってたかって私を育てたという、もう過保護もいいとこ。最悪の環境でしたよ(笑)。
坂上:皆さんご近所。
塩見:3−4軒先というような。実は母も一人娘で、弟は1人いましたけれど、父親というのが非常に母を可愛がっていて、いろいろな縁談が来ても、岡山県以外(の人)は、絶対に結構でございます!ってお断りして(笑)。たまたま父は同じ町内(に住んでいて)、お互い音楽が好きだというのでお見合いして、親も本人も大喜びで一緒になったというような(ことを聞かされました)。
小勝:何よりですね。ご両親とも音楽がお好きだそうですが、お父様のご職業は。
塩見:三井物産の岡山支店にいました。商社ですから、一度、ラングーン(現在のヤンゴン)に行かないかという話があったんですけれどね、それを断ったら大阪になって。私が4つくらいの時かなあ。戦争がだんだん激しくなってきて単身赴任。それ以後は母の実家に(引っ越して、祖父母と)一緒に暮らしていました。
小勝:お父様は音楽の方で職場では…
塩見:父はすごく歌が好きで、いい声をしていたんです。職場でコーラスの指揮をしていてね。朝比奈隆(あさひな・たかし 1908—2001)さんって有名な指揮者がいらっしゃいますでしょ。彼もまだ若い頃よね。お互い30代頃かなあ。朝比奈さんを職場のコーラスに招いて、指揮法も教わったりして。「やっこさんも飲んべえだからなあ。今度一緒に飲みに行く約束してるんだ!」ってうれしそうに話してた(事もありますよ)。月1回大阪から帰ってくるんですけど、その時は楽譜をいっぱい持って帰ってきて、(家族でよく)コーラスしました。
小勝:弟さんは音楽をされてるのですか。
塩見:弟達も好きですね。上の弟も(一時期)職場のコーラスに入っていたし、下の弟は退職してからは、「第九」オタク(笑)。いろいろな都市の「第九」の応援に行って。バスだから少ないでしょ。学生時代は、音楽なんか苦手だと思っていたけど、やっとDNAに目覚めたとか言って(笑)。
小勝:お母様も、もし結婚とかされないで、家庭に入らなければ、そういう音楽家の道に進みたいとか。
塩見:もちろん。母はね、私が聞いても羨ましいと思うくらい綺麗な声で、女学校時代はラジオなんかでも歌っていたらしいの。岡山一女(岡山県第一岡山高等女学校)の音楽の先生に薦められて、今の東京藝大を受けるつもりだったのだけれど、父親の反対でやむなく諦めて、おとなしく親に従ったわけ。
小勝:時代とかありますよね。
塩見:そうねえ。
坂上:お宅は街中だということですが、緑はなかったのですか。
塩見:緑はありましたよ。母の実家にもお庭があって、木がたくさん生えていました。近くを西川(にしがわ)っていう、川幅はそんなに広くないんだけれど、割ときれいな水がね、早いスピードで流れてた。
坂上:よく外で遊んだりしたのですか。近所の子とか、それともお祖父さん?(笑)。
塩見:2−3歳頃は、お祖父ちゃんお祖母ちゃんと。でもある年齢になると、もちろん幼稚園は行きましたし、近所にも1人(同じ年の)女の子がいましたから、彼女とはよく遊んでいましたねえ。
坂上:忘れられない出来事とか記憶はありますか。小さい頃の。
塩見:残念ながら生まれた時の記憶はないのよね。子供の頃って3歳4歳で、生まれた時の事を聞くと、何割かは覚えているって言いますよね。それはないんですけど、一番私が小さい頃だと思われる記憶は、父が私を寝かしつけるのに、だっこして寝室の脇の薄暗い廊下を、子守唄をハミングしながら行ったり来たりするの。そうすると(私の眼は)、父の胸あたりから天井に向けての薄暗い、細長い空間を見るわけね。その空間がね、どうしても“しんしん”という空間だと思っちゃうの。“しんしん”という名前ではなくて “しんしん”という音声。音の響きね。しばらくすると今度は“ピッピッ”だと思っちゃうの。ある時はそれをね“ハヤコン”だとも思う。だから私にとってその空間というのは、“しんしん”でもあり“ピッピッ”でもあり“ハヤコン”でもある。その事を、親に伝えようと思って、「“しんしん”は“ピッピッ”。“ピッピッ”は“ハヤコン”。“ハヤコン”は“しんしん”。」って繰り返し親に教えていたの。少し後になって、「あんたは、こんな事を一時期言っていたけれど、あれはどういう意味だったの?」って親に聞かれたの。そう言われて(その時の感覚を)思い出したのね。子供の感覚って、結構インターメディア的なのよ。
そういう意味で言うと(別の記憶もあるわね)。夕方(になると)、夕陽が斜めに、ある角度から家の中に差し込んでくるわよね。オレンジ色のきれいな光。あれが好きだったの。それと同時にね、母が水道をひねってバスタブにお水を(入れるの)。最初はジャーっていう音なんだけど、だんだん深くなると、ドーっていう音になるのね。そのオレンジの光を見ながら、水がバスタブに入る音を聞くと、何とも言えない幸福感(に包まれたの)。何でだかわからないのだけれど、その幸福感というのは“予感”みたいなものね。これから楽しい事が起こりそう、みたいな。多分それは、夕方になって母はお風呂の用意をしてくれて、お勝手でお料理もつくってくれて、間もなく父が帰ってくるという、家庭のあたたかさというか、楽しさ。守られているという感じ。オレンジ色の光は綺麗だし、水の音は力強く(響いているし)、というね。それが片方だけでは駄目なの。その幸福感は来ないの。お風呂の水がドーッと流れている音だけだったり、オレンジ色の光だけでは、それは起こらない。その2つが一緒になった時に(初めて)、「ああ、何だかうれしい!」みたいな、もうわくわくするような気持ち(になるの)。子供ってそういうものだと思うのよ。あまり(うまく)言えないだけであって。
小勝:それはおいくつくらいの時ですか。
塩見:2歳くらいじゃないかなあ。3歳になるともう重いものね。そしてオレンジ色の光と水道の音というのはちょっと上。3歳くらいかな。
坂上:身体で体験。まさに体験としての。
塩見:感覚でね。そう。目とか耳とか、あらゆる五感を使って、子供というのは外界を体験しているんだと思うのね。それがヴィヴィッドにいつまでも(記憶に残っている)。
坂上:何か言われたとか、怖い事があったとか、そういうのは割と覚えているけれども。
塩見:そういえば、1つ怖い記憶もあるわね! おやつがそれこそ無くなってきている時だから……
坂上:戦争で。
塩見:そう。梅干しにお砂糖入れて甘くして、竹の皮で包んで、その端から吸うおやつを母が作ってくれて、それを家の外でチュウチュウやっていたの。そうしたら、チュルーンっと種ごと呑み込んじゃったの。うわあ、どうしようって思ってね。たまたま祖父が通りかかったので「お祖父ちゃん、私、梅干しの種飲んじゃった」って言ったら「そうかあ、じゃあそのうち、口から梅の木が生えるぞ~」って言ったの(笑)。そこは子供だから本気にしちゃったのね。梅の木が生えてきたら、だんだん幹が太くなって、もう口一杯(になって)、喉が詰まって息が出来なくなるだろう!「ああ、私そうしたら死んじゃうんだ!」って思ったら、もう怖くて。それでもジーッとしゃがんで我慢していたのだけれど、耐えきれなくなって。4歳にしてもう死を覚悟したわけよ(笑)。それで家に帰ったら、まあ様子が変だったんでしょうね。母が「どうしたの?」って聞いてくれたので、「お祖父ちゃんに、口から梅の木が生えるって言われた。そしたら私、死んじゃうんでしょう。息が出来なくなるんでしょう。」って。そうしたら「あなたバカねえ。お母さんだってね、梅の種だけじゃなくて、今までいっぱい(いろんな)種を飲んじゃったけど、そういうものはね、ちゃんとお腹の中を通って外へ出るの。ね、表に出て(よく)見てご覧なさい。口から木が生えてる人なんて歩いていないでしょう!」って(笑)。それでホッとしてね。すごく嬉しかった(笑)。生き返ったような気持ちがしたんだけど、同時にね、お祖父ちゃん、何てことを言ってくれたの、って(恨めしく)思ってね。
坂上:お祖父ちゃんっていうのは大人なんですね。
塩見:(というより)子供の気持ちがわからないの。こういう冗談は通じない、っていうのがわからないのよ。それ以来、子供っていうのは何でも真に受けちゃうから、いい加減な事を言っちゃいけないって思った。そのお祖父さんっていうのは、岡山一中(岡山県第一岡山中学校)の英語の教師だったの。昔、オランダ人を自分のうちに下宿させてあげて、英語を習ったんですって。昔はね、英語って言わないで、エゲレス語って言ったらしいですよ(笑)。昔は、ひどい英語だったと思うわよ(笑)。
小勝:塩見さんは1938年のお生まれなので、4歳だと42年で日本が戦争に突入していく時代だったと思うんですけれども。そのうち岡山にも空襲が来るようになった…
塩見:そうなのよ。小学校1年生の6月29日だったと思うんだけれどもね(註:6月29日未明)。その頃は戦争も激しくなって、空襲警報もあったから、枕元にはちゃんと防空頭巾とか、すぐ着て出られるようなものは用意してたんだけど。ある晩寝てしばらくしてから、ものすごい声で目が覚めたの。それでハッと外を見たら、雨戸を一生懸命、母が開けていて、その向こうに見える空がピンクというかオレンジというか、見た事もないくらい綺麗な色なの。だけれど、ものすごく不吉な色。これはただ事じゃないと思った。母に「空襲だ~!」「洋服着なさい!」って言われて、あわてて着て、(茶の間から、)玄関へ出ようと思って襖を開けたら、天井が(一面、)それこそ紅蓮の炎に包まれて燃えてるの。家が燃えていたのよ! 気がついた時には。うちと隣の間に焼夷弾が落ちたらしいのね。それで「門のところに行って待ってなさい」って言われたんだけれど、弟と2人で表に出たら、前の家は燃えてるし、大人たちはどんどん必死の形相で逃げているから、本当にここで待っていていいのかしらって不安になって、ついふらふらっと、その人たちの後について駆け出してしまったの。それが失敗の元だったのね。弟は幸い2軒先に住んでいた親戚の人が、「こうちゃんだ!」って連れて逃げてくれたんだけれど、私は一歩先に行ってしまっていたから、とにかくひとりぼっちになっちゃったの。で、どっちに逃げたらいいのかわからないでしょ。大人の人を見つけては「一緒に連れて逃げてくださ~い」ってお願いするんだけれど、その人もしばらくは私の手を握って逃げてくれても、(B29が急降下してきて、近くに)ヒューン、ドカーン!なんて(爆弾だか焼夷弾が)落ちてしまうと、後はもう…知らない女の子の面倒なんて見ていられないわよね。みんな必死だから。とにかく逃げて逃げて。何回「ああ、もう駄目だ~!」って、(頭抱えて)地面にしゃがみ(込んだか分からないわ。)どこまでどういう風に逃げたかも、はっきり覚えていないんだけれども、辿りついたところは教会みたいな建物。祭壇があってオルガンがあったから。
坂上:どれくらい走って逃げたんですか。何時間も。または……
塩見:10分20分じゃないわねえ。1時間か2時間だったと思う。その教会のような所にみんなが入っていくから、私も入っていったの。そしたらそこへはね、焼死体がいっぱい運び込まれているの。それで急に母の事が心配になって、ひょっとしたらこの死体は母じゃないかと思ったりしてね、黒こげの死体を一体ずつのぞいて回ったのよ。だけどそんな…母じゃないかなんて分かるような状態じゃないんですよ。「これは犬だろうか、子供だろうか」っていうような話も聞こえるの。そのうち夜が明けて雨が降り出した。消防団みたいな人が2人立って放心したように、「よう燃えますなあ…」「ほんによう燃えますなあ」って、むしろのんびりしたような声(で話していたのを)覚えてる。私は(とても心細くなって)、雨が降ってくる(灰色の)空に向かって…少し前に亡くなった祖父母に向かって、泣きながら一生懸命お祈りしていたの。「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、どうぞお母さんに会えますように。生きていてくれますように」って。あの空の色って、未だに忘れられない。そのうちね、「七軒町の人は盲唖学校へ行って下さい」っていうおふれが回ってきたの。皆、散り散りに逃げていたから、町内ごとに1カ所にまとまれば、お互いに安否を確かめられるでしょう。だけど盲唖学校っていうのがどこにあるのかわからないので「私、七軒町なんですけれど、誰か七軒町の方いらっしゃったら連れてって下さーい!」って叫んでお願いしたの。そうしたら、母と同じくらいの年齢のおばちゃんが「ああ、私、七軒町だから連れてってあげましょう」って手を引いて下さったの。道々ずっとお話をしたわ。「実はね、おばちゃんも貴女と同じくらいの娘がいるんだけど、はぐれてしまったの」って。「私も母とはぐれちゃった」って言ったら、「もしね、貴女がお母さんに会えなかったら、おばちゃんの子として育ててあげるわね」って言って下さったの。
小勝、坂上:何だか、涙が出そう。
塩見:もう本当にうれしくてね。「ありがとうございます」って手をギュウッと握りしめて、「おばちゃんに好かれるいい子になろう!」って思った。生き延びたい一心よね。母が駄目ならこのおばちゃんにすがって、っていう。盲唖学校に着いて、言われるままに2階へ行ったら、弟や英語のお祖父ちゃんや親戚の人達がいたの。母はいなかったけれど。とにかく私はその人達のところへ行くべきだと思って、「あ、いたいた!」って言って、(飛んで行ってしまったの)。おばちゃんは「ああ、会えたのね!」って言ってくれたんだけど、私、その時に何でもっときちんとお礼が言えなかったんだろうって、それがすっごく残念なの。だって歩いている道々、20分か30分かわからないけど、私の心の支えになってくださった人でしょ。本当に感謝していたのに、その気持ちがきちんと伝えられなかったことを、未だに後悔しているの。
坂上:じゃあその娘さんに会えた事もわからない……
塩見:わからないの。で、お祖父ちゃんの一中の教え子がすぐ近所にいらっしゃって、まだ家は焼けていないというので、とにかくその夜はその家へ泊めて頂くことにして、みんなで行ったのね。母に会えたのはその日の夜遅くなってから。母は母でまた、ストーリーがあるのよ。どういう逃げ方をしたとかね。赤ちゃんを乳母車に乗せて。で、遅ればせながら盲唖学校へ行ったら、お祖父ちゃんの字で「千枝子、紘一無事。小山家へ身を寄せる」ということが黒板に書いてあったので、それで母が尋ねてきたわけね。空襲って悲惨よ、本当に。いつまでたってもリアル。B29がキューンって急降下してくる音とか、焼夷弾がヒューンって落ちて来る音。あれを思い出すと嫌なのよね。
坂上:岡山の空襲も結構すごかったのですか。
塩見:とにかく丸焼けね。中心街は。
坂上:じゃあ向こうの方まで見えちゃうくらい。
塩見:もう何にも無い! 次の日行ってみたけどね、母と一緒に。皮肉な事に、防火水槽の中に水遊びして沈めてしまっていたセルロイドの洗面器が燃えないであったの(笑)。セルロイドよ!(笑)。
小勝:それは小学校1年。6歳ですか。
塩見:そう。
小勝:というと44年。
塩見:いや、45年のはず。終戦の年。8月に広島があって。岡山にも原爆を落とそうという話があったらしいんだけれど、もし原爆だったら、私はもういないわね。
小勝:その後、焼け出されて疎開をされた。
塩見:そう。その後、小山家というのも他人の家だから、一晩くらいしかいられないと母は思って。それで母の叔母の家が六条院っていう、汽車で1時間くらいのところにあったので、そこへ訪ねて行ったわけ。私達を連れて。その六条院の(家の)長男、つまり母にとって従兄弟に当る人は、阿藤伯海(あとう・はくみ 1894−1965)っていう漢文学者なのね。一高から東大の哲学、それから京大大学院に行って中国文学とか勉強して、漢詩を書く…… 漢詩人になったのね。一高でも先生をしていたらしくて、教え子に『詩禮傳家(しれいでんか)』(1975年)(という阿藤伯海についての詩人論)を書いて下さった清岡卓行(きよおか・たかゆき 1922—2006)さんという詩人がいます。そういう学者の家だったものですから、なかなか立派なお屋敷でね。老松があって、お庭にも白い玉砂利が敷いてあって、熊手で波の様な形(が描かれていて)…という風流な家にガキが3人行って走り回る(笑)。もうとてもじゃないけど、って母も遠慮して、もう少し庶民的な親戚を探そう(笑)という事で、結局、玉島の浅野家の二間続きのお茶室を借りて住むことになったの。そこはそこで楽しい場所でしたね。浅野家には4つ違いの兄と、私から見ると7つ上の姉がいて、優しいし勉強も出来るし、すごく素敵な人たちだったから、5人兄弟みたいになっちゃった。
坂上:みんな仲良く。
塩見:うん。ただ一番下と上は離れすぎてるし、私がかろうじてあちらの2人と対等に話が出来る、という感じだったかしら。
小勝:小学校はそちらで通われたのですか。
塩見:そうそう。
小勝:玉島というのは瀬戸内海に面した…
塩見:瀬戸内海からはちょっと離れているのだけれど、丘があってね。その家は丘のふもとにあったわけ。そして一番素敵だったのが、高梁川っていう大きな川。橋が600メートルって言ってたかな? 河口だから、満潮になると海の水が流れてきて、フグなんかが上がってくるのね。干潮になると、今度は鮎が上から流れてくるわけ(笑)。しじみが取れて。きれいな色の黄色いしじみと黒いしじみがね。それは貴重な食料源でしたね。それから手長海老もいて。美味しいのよ!手長海老って。夏は、小学校から「今日から高梁川行ってもよろしい」っていう解禁の日があるの。そうなると皆「うぉーっ!」てね! 放課後は皆、川に行って。河童どもが泳いだり潜ったり(笑)、川遊び!
坂上:転校生という感じで向こうの小学校に入った。
塩見:間違いなく転校生だった。小学校1年生の2学期から行ったのね。困ったのは、着るものがないのよ。全部焼けちゃったから。何枚かは疎開していたの。でも疎開するものっていうのは一張羅というか、よそ行きのものしかしていないでしょう。だんだん秋になって涼しくなってきても、着るものがないの。で、母が前に作ってくれていた真っ赤なフード付きのコートとレギンス。脇にボタンがずらっとついている(可愛い外出着)。しょうがないからそれを着て学校に行ったの(笑)。そうしたら、まわりは皆もんぺ。農家の人が多かったから。その中にそんな格好をして行ったもんだから、それは目を剥くような格好よね。クラスではどう言われたか覚えていないんだけど、学校の帰り道で男の子達が寄って来て「ざーつな、ざーつな!」ってはやし立てるの。「ざつな」って言うのはね、今の言葉で言うと、まあ、ださいとか、おかしいとか、非常にネガティブな言葉。イカさないとか。奇天烈な、とか。まさにそうだったんだ、私(笑)。別に暴力をふるわれたわけじゃないんだけど、怖くなって走って帰って、「今、男の子にこんなことを言われた~!」って言ったら、母は憤然としちゃってね。「あのね、そのお洋服は、ものすごくいいお洋服で、可愛いし貴女にはとってもよく似合ってる。そんなお洋服を“ざつな”って言うんだったら、そういうことを言う子の方がよっぽど“ざつ”なんです!!」って怒ったのね。「自信を持っていなさい!」って言われちゃって。その時からかな、自分が(周りとは)ひとりだけ違う事があっても、あまり気にしなくなったのは。
坂上:空襲で逃れてきて……ショックじゃないですか、そういう体験をして。そこから元気になっていくまでというのはいろいろ…… 克服する為にというか、いろいろあったのじゃないかなと思うんですけど。
塩見:あれだけの辛い体験をすると、トラウマになるとか言うでしょう。でも私達は毎晩、母と私と弟とで、空襲をどのようにくぐり抜けて来たか、自分がどんな体験をして逃げ延びて来たか、っていう事を繰り返し繰り返し話したの。母は母で話す。そうすると皆それを息を詰めて聞いているわけ。私が話すと、今度は母が一生懸命聞いてくれるわけ。何十回って聞いたり話したりした事なのよ。それでもね、話す度にものすごくリアルだし、皆息を詰めて、共感を持って聞いてくれて。で、最後には「でも、皆生きていてよかったね~!!」って。「ふーっ!」ってため息をつくの。そうやって繰り返し話す事で、そして家族みんな無事でよかったねって言うことによって、克服出来たんじゃないかなって思うの。
だけどそれは心の表面の事で、深層心理はわからないわね。っていうのはね、私はよく天体の異変の夢を見るの。例えば、これは大学の寮にいた時に見た夢なんだけれど、お布団を干そうと思って…ここは現実的なんだけど(笑)丘を上っていくの。丘のてっぺんまで行くと下は絶壁で、向こうに広い平野が開けていて、真ん中に大きなビルがあるのね。その前には2000人くらいの黒い人影が蟻ん子みたいにいるわけ。向こうを見ると遠くに山があって、その向こうに朝焼けみたいな雲が浮かんでるんだけど、太陽が5つくらい出ているのよ。で、その群衆が「ウォー」って時々叫ぶの。すると太陽が、グワッ!グワッ!グワッ!って平行に移動するの。また「ウォー」って叫ぶと、また一緒にグワー!!って動く。すごいドラマチック。今でも忘れられない。そういう夢だったの。その時、目が覚めてから気がついたんだけど、寮って学校と廊下続きになっているのね。で、近いところにオルガンの練習室があって、早く来た生徒がバッハか何かを弾いていたんだと思うの。(その音が)群衆のウォーって言う叫び(として聞こえたの)じゃないのかなあ。で、それがきっかけになって、雲の隙間に出ていた太陽が5つ、一緒に平行移動するの。
坂上:何か舞台の話みたい(笑)。
塩見:それから他にも、大学時代はよく夢を見たわねえ。これは夜のシーンなんだけど、星がいっぱい出ているの。そのうちひとつがね、フワーッとにじむの。涙が出た時に星がにじんで見えるような感じで。ひとつがにじむと、他のもフワー、フワーっと、あるリズムを持ってにじむの。それは音楽的なリズムなのよ。と思ったら、今度は星が煙みたいになって渦巻いていくとかね。それから月の夢も見たわね。月が3つくらいあって、(ひとつが)パーッと向こうへ飛んだら、今度は(別のが)こっちからヒューッと飛ぶというような。よく天体の異変の夢を見るなあと思ってた。(でもそれは)きっと、私が空が好きで空ばっかり眺めていたせいだろうと思っていたのね。ところがニューヨークからの帰り、飛行機の中で隣に座った初老の紳士が「僕はカナダの大学で心理学を教えています」って言うのね。で、「私はよくこういう天体の異変の夢を見るんですけど、それって心理学ではどういう風に分析するんですか?」って聞いてみたの。そうしたら「貴女は小さい頃に、(大きな)火事にあったことはありませんか」って言われたの。「火事どころか、空襲にあいましたよ」って言ったら、「一応心理学では、そういう夢はそういう風に分析するんです。まあ当っているかどうかはわからないけど」って。その辺のぼかし方がなかなか(謙虚で)いいなあと思って、印象に残っているのだけど。だから心の表面の事と、深層心理の事っていうのは、これはわからないわね。
坂上:そういう事がありつつも、友達と外で遊んだり。元気というか。
塩見:そうねえ。小学校の頃は、割と無邪気に遊んでましたね。
坂上:絵を描いたりとか、自分で一人遊びをしたりとかそういうことは。
塩見:絵はない。
坂上:天変地異の絵を描くとか。
塩見:それはなかった。小学校では写生の時間があって、校庭に出ると瀬戸内海が見えるのね。近い島は緑がかった青。遠くに行くにつれて緑が減って青になり、空色になって、向こう(の方)は霞んでしまう。その色のグラデーションと、実際の遠近法とが綺麗に一致してるでしょう。それが魅力的でね。その絵はもう何枚も描きましたね。写生というとそこへ行って。
小勝:でもわりと活発に外遊びをされていたんですね。
塩見:そう! とにかくねえ、遊ぶものがないわけでしょう。本もその頃はない。小学校も高学年になると、父が『小学5年生』とか『小学6年生』という雑誌を買って、大阪から帰って来てくれてたんだけれど、(他には)ほとんど本もないし。一番魅力的だったのはやっぱり、丘ね。丘の崖のところに藤の木があって、いっぱい藤蔓が垂れ下がってるわけよ。それにぶら下がってターザンごっこ!(笑)。私は本当にものすごくお転婆だった。孟宗竹の大きな竹やぶもあってね、台風が来ると竹やぶがユサユサ揺れるじゃない。そうすると「それー!」って竹やぶに入って竹に上って、一緒になってしなるわけ。そのしなる竹の勢いで、隣の竹に飛び移ったり、弟を従えて遊びまくったわね。
坂上:お父さんはコーラスの指揮をされていたけれど、家で歌を歌ったりは。
塩見:しましたよ。それに父が帰ると皆でピクニックに行くのが習わしだったの。高梁川の河原に行ってお弁当を一緒に食べたり。夏だと(岸に)川船が連なっているの。そこへ上がって父がね、私達兄弟3人を(代わり番こに)抱き上げては、ボーンっと水の中に放り投げてくれるの。ドブーンっと水の中に落ちるのがおもしろくて「もう1回、もう1回!」って3人で(せがんで)ね。父は、彼の教育方針として、「パパは、お前達の首に鎖をつけて、指図がましく育てるようなことはしたくない。安全で広い柵を作って、その中で思いっきり自由に遊ばせてやりたい」と(よく)言ってましたね。(あの頃は、太陽が一杯!って感じだったなあ。)
小勝:それは疎開されてからも同じだったわけですか。お父様はずっと大阪に。
塩見:(私が中学の頃までは)ずっと大阪。
小勝:ではさすがに空襲で大変な目にあった時は戻ってらして。
塩見:岡山市が空襲で、おそらく全滅らしいってニュースを聞いて帰って来たの。岡山市に戻って来た時には何も残ってなかったから、「ああ、これはひょっとしたら、もう家族とは会えないかもしれない」って(思ったら)、もう何とも言えない気持ちがしたって。とにかく私達が住んでいたところまで、何とか道を探して辿り着いてみたら、母が庭石にね「一同無事。六条院へ行く」ってクギで書き置きしていたらしいの。もうそれを読んだ時には、「嬉しくって、嬉しくって」って。父も私達が六条院へ行った日の夜中くらいだったかな、(来てくれたんですね。)父は非常におおらかな人でね、天文学や星の事も話してくれたし、いろんな事を話してくれたわね。
小勝:大阪も空襲があったようですが、お父様は。
塩見:まあ何とか大丈夫だったみたいですね。私達はその頃の大阪の空襲の事は知らなかったし、あっても知らされていなかったと思うんですね。
坂上:お母さんはお父さんと同じような教育方針というか……
塩見:母はどっちかというと現実的だし積極的、行動的。
坂上:「勉強しなさい!」とか。
塩見:それは言わない。母から私は一度も「勉強しなさい」と言われたことがないの。ただね、小学校時代の話になるのだけれど、(私が)小学校4年生の時、クラブ活動として6年生の希望者だけが、先生にバイエルを教えて貰えることになったの。それを知った時、私は(すごく)羨ましくて。母の実家にはオルガンがあったし、疎開した浅野家にもオルガンがあって、勝手に弾いていたのだけれど、ちゃんと習いたくて。「6年生だけって言われたのだけれども、私、どうしても習いたいから、お願いに行ってくれないか」って(母に頼んだの)。そしたら母はお願いに行ってくれたのね。(図々しい話よね。娘も母親も。でも)先生は、父兄懇談で、うちの家庭環境を知っていらしたから、「じゃあ、塩見さんだけ特別に」って、4年生でひとり入って教えていただくようになったの。(すっごく嬉しくて、夢中で練習したわ。)でもまあ、他の生徒から見るとそういうのって、やっぱり贔屓よね。それで一時期「塩見さんは、先生から贔屓されてる」って、陰口が広まって。それを先生が聞きつけて、「貴方達はこういう事を言っているようだけど、先生だって人間です。好きな子と嫌いな子があります。」って(笑)。「貴方達も贔屓されたかったら、贔屓されるような子になりなさい!」って。昔の人たちって、ほら、PTAの力もそんなに強くないし、モンスターペアレンツもいないから、先生って自信を持っていらしたわね。自分の考えをピシッと生徒に向かって言う。ある程度自分の考えで行動する。特定の生徒とも個人的にコンタクトを取る。今じゃ絶対駄目なんだろうけどね。そういう意味では古き良き時代でしたね。
小勝:やっぱり特別な才能がある子は伸ばすみたいな。
塩見:まあねえ、うん。
小勝:みんな横並びで同じだと……
塩見:そうそう。出るクギはおさえるというのではなく、伸びる子は何事においても伸ばしていくという。皆それぞれ違っていてもいいじゃないか。平凡な子は平凡な事がいい事だし、何か突出したところがあれば、それはそれでいいし、っていうように、もうちょっとおおらかだったよね。個を尊重するという気風があったと思うのね。今はちょっとそれが、少し…皆、(周りに対して)神経質になっているんじゃないかって思うのよね。
坂上:レッスンは……
塩見:小学校の時は小学校の先生について。中学校に入れば中学校の先生について。けれども中学校2年生になると、(そろそろ)本格的な先生につかなくちゃいけないというので、母の恩師で藝大に行きなさいって言ってくれた先生が、たまたま引っ越して比較的近くに見えたので、私もそこに行って(レッスンを)受けるようになりました。
坂上:やはり頭角を現していた。自分でもうまいなとか思っていた。
塩見:それはわからない。自分ではへたくそだと思ってた。だって思うように指が動かないんだもの。小学校4年生、9歳から始めるなんて、もう致命的に遅いのよ、ピアニストになるにはね。やっぱり3歳4歳からやらないといけない。ただね、私、小学校時代は歌が好きだったの。遊ぶ事と言えば、外でターザンごっこ(や、自然を相手に遊びを考える事と)、もう一つは歌を歌うこと。母は何をしていても歌っていたの。オペラのアリアとかドイツ・リートとか。それを耳で覚えて、マネして母と張り合って歌っていたわけよ(笑)。知ってる歌がなくなると、今で言うスキャット、とにかく意味のない、単なる発音だけで勝手なメロディで歌ったりとかね。とにかく声を出す事ですごく発散出来るし、楽しかった。気持ちよかったわね。
坂上:音楽の先生が一番印象に残ってますか。
塩見:一番印象に残っている……音楽を志す決め手となった(という意味では、母の後ろ姿ね。)母が音楽大学に行って声楽を勉強したいっていう夢を諦めたでしょう。しょっちゅうラジオで、音楽は一家で聞いていたのね。特に、藤原義江(ふじわら・よしえ 1898-1976)とか、あの時代の人達が歌う歌声を聞くと、(終わってから)母は「いいなあ…ああ、悔しい、悔しい!」って。正座して聞いているのだけれども、畳を叩いて悔しがるの。「私もあの時、反対を押しきって勉強しておけばよかったわ! そうしたらこんな思いをしないで済んだのに。学校の先生でもしながら、ちゃんと生計立てていけるのに」って。その本気で悔しがる姿を見て、さっきの「梅の木が生える」じゃないけれども、ちゃんと音楽の勉強をやらないと、大人になったらこんなに悔しくなるんだ、って(本気で)思ったの。
小勝:中学2年で個人レッスンを受けるようになった時にはもうピアノを……
塩見:その時はピアノが好きで、ピアノ科に行きたかったわね。でも自分ではいつも「へったくそだなあ」って思ってた。ただある時、ピアノを教えて下さっていた(中学の)先生が、何人かの生徒を連れて、その先生の先生のところへレッスンを受けに行ったことがあるの。私達が(順番に)その先生の前で弾いたら、何故だか、私だけを褒めるのよ。「貴女には素質がある」って。私は一番易しい曲を弾いたのに、どうしてそんな事がわかるんだろうって(不思議に)思った。
その事があったせいか、中学校のその先生から、ある時、「塩見さん、放課後、部室に来て下さい」って言われたの。ドキッとしてね、叱られるんじゃないかと思って。それで放課後に行ったら、『醜いアヒルの子』の話を突然はじめるのよ。(微に入り細に入りね。そして)最後に「私ね、貴女も醜いアヒルの子だと思うの」って言うの。「今は、まわりの人達とどこか違うから、うまくいかない事があるかもしれないけれど、将来貴女は自分と同じ種族に会えると思うから、自分が属すべき世界を探しなさいね」っていうようなことを(おっしゃったの)。でも私はまだその頃は全然自意識がなくて、とにかく楽しい、(ピアノを)弾いて楽しい、友達と遊ぶのも楽しい、卓球やっても楽しい、ソフトボールも楽しい、根がお転婆だから身体を動かすことが好きで、すごく活発な子だったの。だからその時は「ああよかった! 叱られなくて」って(笑)思った(だけだった)のね。でもその言葉はそれこそ、潜在意識の深いところに突き刺さったみたいで、高校に行っても時々ふっと思い出して、「私と同じ種族ってどんな人達だろう」とか「どこに行けば、その人達に会えるんだろう」とか、ぼんやりと思ってた。
小勝:中学・高校は玉島から通ってらした。
塩見:そう。同じところで。東中だったんだけども、東中と西中が一緒になって玉島高校へほとんど全員が行くわけね。
坂上:親しかった友人とか。
塩見:中学時代にね、ピアノ仲間でもあり文学上での友達でもある、っていういい友達がいたわ。2人とも詩を書いているという事がわかって、じゃあお互いに見せっこしようって。それからシュトルム(テオドール・シュトルム Hans Theodor Woldsen Storm, 1817-1888)とかヘッセ(ヘルマン・ヘッセ Hermann Hesse, 1877-1962)とか、自然を豊かに描写している『ジャン・クリストフ』(ロマン・ロラン著、1903-1912連載)なんかも読んでは、感想文を書いてお互いに交換したわね。(だから)音楽と文学の両方で深く交流できたの。その友達とは卒業してからも、ニューヨークから帰ってきてからも、時々は会っていましたよ。すごく綺麗な子なの。イタリーの名画に出て来るような彫りの深い(顔立ちでね)。ちょっと儚いところもあるんだけれど。だから美術の先生から「モデルになってくれ」と言われたり、英語の先生からくどかれたりしてね。(困っては、私のところへよく相談にきたわね。)
小勝:その方は音楽家になられたんですか。
塩見:私立の音楽大学(註:インタヴュー時は学校名)を出て、すぐ結婚なさいましたね。
小勝:ピアノの練習というのは(どのように)。
塩見:高校時代は困ったのよ。だってうちに楽器がないし。楽器が(簡単に)買えるような時代じゃなかったのね。ヤマハのアップライトが19万5000円で父の給料が1万とか2万とかいう時代だったから、逆立ちしても買えない。学校には練習用のグランドピアノが1台あったのだけれど、(弾きたい子が多いので)時間割を組むことになったのね。それによると1週間に2回で合計1時間15分しかないのよ!(お話にならないでしょう。だから)譜読みはオルガンでやっていたの。バッハなんかはいいわよね、ちゃんと音の繋がりが聞こえるから。だけれどもツェルニーなんかを弾こうとすると、一生懸命(べダル漕い)でも、音が出る前に(指は)次の鍵盤を叩いているから、もうガタガタいうだけなのよ! 足踏みオルガンだから。終いには手よりも足が疲れちゃって(笑)。で、それ程熱心でない子は下校時刻の5時で帰るから、その後を狙って弾くのだけれどもね。ある日なんかいつまでも日が暮れなくて「今日はラッキー!だけど変だなあ、いつまでも明るいなあ」と思ってふと(後ろの窓の外を)見たら、(月が煌々と輝いていて)「なーんだ、月の光で弾いてたんだ!」ってこともあったわね。でも冬になると日が暮れるのが早いじゃない。だからマッチと蝋燭を鞄にしのばせて(行って)、先生方がお帰りになってから、蝋燭を立てて(練習した時期もあったわね)。
小勝:ヨーロッパの昔のピアノってキャンドルが立つようになってますね。
塩見:そうねえ。とにかくもう弾きたくてしょうがないのよ。特に受験を意識するようになってからは、死活問題というか、試験なんか、練習出来なきゃどうしようもないでしょう。
小勝:特別に他に、ピアノの練習に大阪まで通ってらっしゃるとかありませんでしたか。
塩見:藝大の楽理科を受験しようと思ってからは、藝大の福井先生(福井直俊 ふくい・なおとし、1904-2001)が大阪までレッスンにいらっしゃる(事がわかった)ので、母に頼んでレッスンを受けられるようにしてもらったの。月に1回通ってた。何しろ昔はシュッシュッポッポの機関車でしょう。玉島から大阪に行くのに5時間くらいかかるのね。レッスンが終わって玉島に帰ると、もう夜の10時とか11時。(真っ暗闇の)田んぼの中の一本道を歩いて帰るのよ。怖かったわよ、それは。道に沿って小川が流れているのね。星明かりがあれば大体見えるけれども。(曇った夜は、どこからが小川でどこまでが道か分からない。でも)何が怖いってね、向こうから自転車の灯りがフラフラ近づいてくるのが(一番)怖いの。そんな時間に自転車乗っているって、大体男でしょう。乱暴されるのが怖くて。とにかくもう…何ていうのかしら、向こうが私を怖がるような風情ですれ違ったわね(笑)。それこそ、すごい形相して、気違い女みたいな歩き方して! 一世一代の演技よ(笑)。(受験時代)何が辛かったって、(人気のない夜の)帰り道ね。
小勝:それで東京藝大を受験されて、1回でパスされて。
塩見:ええ。東京藝大は子供の頃から憧れてはいたのだけれど、とても自分が入れる学校じゃないと諦めて(いたのね)。で、中国地方では、一番レベルが高いと言われていたある国立大学の特設音楽(過程)を受けるつもりで、その学校の教諭の所へ、いわゆる鑑定レッスンを(受けに行ったの)。そこでベートーベンのソナタとバッハの平均律を弾いたら「在校生でも、こんなに弾ける子は(そんなに)いないなあ」っておっしゃったの。「だけどうちは国立大学だから5教科もあるよ。成績はどうなんだ?」って聞かれたから、正直に答えたら「じゃあ君、もうパリパリの一番で入れるよ」って言われてしまったの。急にがっかりしてね。だって、ろくすっぽ練習もしていない私が、パリパリで入れるんだったら、(行ってもしょうがないかなあ…って、悶々としはじめてね。)何しろ私は、自分よりも高いレベルの人たちに揉まれて、もっともっと自分を高めたいという、がむしゃらな向上心(の塊)だったのよ、あの頃は。夏休み中ずっと悩んで、たまたま音楽室の棚に受験要項があったから、藝大の楽理科というところを見ると、これは絶対不可能という科目はないな、ということが分かったの。それで夏休みの終りになって「藝大を受けさせて下さい」って。ギリギリの決断。もう半年しかないのに! そうしたら母も納得してくれて。やっぱり自分が行きたくても行けなかった学校だからね。それからは二人三脚で頑張りましょうっていう事で、(私が)レッスンを受けられるように、母はいろんなところに奔走して、道を開いてくれましたね。
小勝:では先程おっしゃった藝大の先生のレッスンというのもその夏以降なのですか。
塩見:もちろん。秋になってからね。4−5回は受けたかなあ。(福井)先生は「楽理科なら入れると思うよ」と言ってくれてたから、まあ、(ピアノに関しては)通るとは思ってた。
小勝:でもまあオルガンの練習と…その蝋燭の練習でよくまあ…
塩見(でも練習時間がまだ足りないから、)朝は小学校へ行って、皆が登校してくる頃まで学校のピアノで練習させてもらって。それから帰ってご飯食べて高校に行くから、高校は毎日遅刻(笑)。受験科目に理科と数学はないから、理数科の授業は全部さぼって、図書室に行って英語(や楽典)の勉強をするか、母の友達の家に行ってピアノの練習をさせてもらうとか。とにかくひどい生徒だった。高校3年の1学期までは(どちらかというと真面目な)優等生だったのね。だけど2学期からは、(手のひらを返したような)問題児になってしまったの。けれども担任の先生は、ちゃんとそれを理解して下さっていて、数学の時間も一番後ろの席に行って英語の本を広げていても、「大丈夫そうか?」って(こっそり)聞いてくれたりして(笑)。
坂上:藝大に行く生徒は少なかった。
塩見:その学校からは誰も入ったことがなかったの。私が第一号だったのね。後は何人かいるみたいだけれど。だから(その頃の)私の勉強の仕方は(しばらくの間)伝説になってたみたいよ。(笑い話のようなね)(笑)。とにかく時間がもったいないでしょ。自転車で家に帰るまでの15分くらいの時間は、出来るだけ難しいメロディを歌って、それを(頭の中で)楽譜に直していく(聴音の練習をする)とか、英単語を覚えながらとかね。まあとにかく、あらゆる時間を受験のための勉強に使ったわね。だから担任の先生がね「おまえ、あの頃は廊下で会っても、寄らば切るぞ! みたいな顔をしていたから(笑)、声をかけてもいいものかどうか迷ったよ」なんて言われちゃった(笑)。とっても理解力のあるいい先生でしたね。
小勝:すごい集中力だったんですね。
塩見:あの半年間程は一種のピーンと張った集中状態。スポーツ選手で言うと(本番で)走っている時とか…。半年間だったから持ったと思うの。あれ1年だったら続かない。
坂上:人が変わったみたいですね。
塩見:本当に豹変しちゃったの。お昼から鞄持って登校すると下級生から「重役出勤!」とか言われて(笑)。
小勝:それで許されるという……周囲が理解してくれて。
塩見:ありがたかったわねえ。例えば、物理の時間の出席日数は足りなかったんですって。でも担任の先生が「あの子はあんな思いをして入ったのだから、どうか単位をやってくれ」って(頼み込んで下さったらしいの)。単位をもらえなかったら卒業取り消しになるでしょう。(そうすると入学も取り消しよね。今じゃ「申し訳ありませんでした」と頭を下げるしかないですね。)
小勝:作曲家になりたかったというのはどういう。つまり、なぜ、作曲をしたいと思われたのですか。
塩見:小学校時代は母の影響で歌い手になりたい。中学校時代はピアノが好き。でも、高校時代にはねえ、ピアノも好きなのだけれども、自分の限界がわかっていたし、それよりも曲を作る事の方が、よっぽどやりがいがあるのではないかって(思い始めたの)。ピアニストは大勢いるでしょう。でも女の作曲家って、その頃あまり知られていなかったのね。実際、作曲を我流でやっていたのよ。それで親友にね、「ねえねえ、この曲聴いて!」って暗譜で弾いて、「これ誰の曲だと思う?」って聞くとね、「ショパン?」「違う」「シューマン?」「違う」「え? 誰? まさか!」って。「そう! 私の曲!」って言ったら、その時、彼女は(驚いた)ような顔をしていたわね。とにかく作曲家になりたくて、夕方、音楽室には代々の作曲家の肖像画が掲げてあるでしょう、その中にじーっと座ってね、「この人たちの魂がどうぞ私に降りてきてくれますように!」(って念じてた)。結構、神がかってたわね(笑)。追い詰められていたからね、劣悪な環境の中で。
小勝:念願かなって大学に入学されてからですけれども、授業はいかがでしたか。期待されていたものと。
塩見:うん。なかなかおもしろかったわね。一番最初の授業で、大宮先生という音楽理論の先生が「人のものを研究するのなんてつまんないよ」って。それは先生ご自身の悩みだったのだと思うんだけれど、「太鼓でも叩ける奴は、今から転科して実技へ行け」って言うのよ。ちょっとびっくりしたわね。私は作曲をやりたくて入って来た(からいい)けれど、中にはちゃんとした研究家になりたい人もいるわけでしょ。それと「君達は(授業料を)計算すると1時間10円くらいだと思っているだろうけど、ここは国立大学だから、君たちを勉強させるためには、国民の税金を月々1万円ずつくらい払っているのだ。その事をゆめゆめ忘れるな」って言われた。他にもいろんな先生がいらしたけれども、小泉先生(小泉文夫 こいずみ・ふみお 1927-1983)がねえ、インドからお帰りになって、グランドピアノの上にあぐらかいて、シタールをつまびきながら、ラーガの事とかインド音楽の本質についてお話して下さったのは、すごく新鮮だったわね。インドには朝のラーガや夜のラーガがあって、朝に夜のラーガで弾くことはないんだって。その頃の私は、既に即興演奏とかやり始めていて、いわゆる超時間的な、つまりどんな時刻でも、どんな場所でも通用する音楽をやってたから、そうじゃなくて、一日のうちの太陽の運行に呼応した音楽がある、というのがすごいショックだったわね。音楽の在り方としてね。
坂上:一般教養なんかは。
塩見:ありましたよ、もちろん。法律もやったし哲学とか、いろいろやりましたよ。カリキュラムは普通の総合大学と、多分一緒だと思うのね。3年生からは音楽が中心になっていたけれど。入ってからすぐドイツ語が週3日あるの。大変だったわねえ、ついていくのが。楽理科というのは学書を読んで、論文を書くわけでしょう。大体ドイツ音楽が主流だったからドイツ語が必須だったわけ。(合格後にカリキュラムを貰って)その事を知ったから、帰る時ね、目白の駅前の本屋でドイツ語入門を買って、帰りの汽車はドイツ語を勉強しながら(笑)帰ったの。だって勉強癖が止まらないわけよ(笑)。あの時のドイツ語を勉強する嬉しさ! 行きがけの英語はとにかく合格するための打算的な勉強。だけど帰りは、本当の意味の勉強の喜びを味わいながら帰ってきたのよ。受かって良かった! たぶん受験の神様も、「もう、しょうがないなあ、この子は」って(笑)。
小勝:それだけ神様に運をいただくような勉強をされていたのですね。
塩見:そうねえ。親戚の叔母なんかからも「京大を受けようとする息子がいるのだけれども、千枝子さん、受験って何ですか」って聞かれて、「受験っていうのは、気迫です!」って(笑)。
坂上:上京してから寮に住まわれていたというのは金銭的な事なのでしょうか。
塩見:もちろんお金がないからね。第一高いでしょう、下宿するなんて。親としても女子寮に入れておけば安心だしね。
小勝:やっぱりひとりで東京にいらっしゃるというのはねえ。
塩見:親戚から通うという手もあったのですけどね。通学の時間も勿体ないでしょう。寮に入れば傘もいらないし、始業のベルが聞こえてから出て行けばいいわけで。放課後は5時に食事で、ご飯をそそくさとかき込んだら、すぐ楽譜抱えて練習室へ(行くの)。1日4−5時間は弾いていたわね。今まで飢えていたから。とにかく(喉が渇いた動物が)ゴクゴク水を飲むような感じで、ピアノを弾いたり、勉強したり、友達といろんな話をしたり。
小勝:まわりもやはり同じように、地方から(出て来た学生が)。
塩見:そうそう。寮はね、皆、地方から。4年生、3年生、2年生、1年生って4人部屋で、パパ、ママ、室子という感じで上下関係をつくって。皆仲良かったですよ。寂しいとか、そういうことは全然なかった。
坂上:他の科の子とかも皆一緒なんですか。
塩見:もちろん一緒。美術学部も1部屋あった。同じ寮の中なんだけれど、ひとつだけ孤立した部屋があって、そこへ4人程美術学部の子がいたわね。そのうちの1人と仲良くなって。それがまた綺麗な子でね。油絵の子。3年から、どういうきっかけか、絵が好きになってね。(クレーとか)シュールレアリスムの絵とか、あの辺の(画集)は神田の古本屋に行っては、200円でいろいろ買って来たわ。で、自分でも絵が描きたくなって、美校の仲良くなった友達に、「絵具一式揃えたいの。付いてって!」って(一緒に美校の売店へ行って、必要なものを選んでもらったの)。
坂上:油ですか。
塩見:油。寮の一室に油絵の人たちが絵を描けるスペースがあって、そこへ私もキャンバス買って持って行ったの。彼女はね、何であんな絵を描くのかなあ、妖怪みたいな、骸骨みたいな絵を描いてるのよ(笑)。私はどちらかというと超現実的な絵が好きで、平原があって建物があって赤い三角形のピラミッドみたいな山があって、それだけじゃつまらないから、ここに女の人の顔があったらおもしろいなあと思って、雑誌から女性の彫刻の写真を切り抜いて稜線に合わせて貼ったら、結構、これおもしろいや!って感じでね。
坂上:コラージュ。
塩見:そう。コラージュをしたり。
坂上:さきの天変地異の……
塩見:まあ、天変地異の続きみたいなものよね。何枚も描きましたけど、もったいないから描いた上に描くの、別の絵を。だからひとつのキャンバスで3つも4つも絵が重なってるの。描いたら終り。で「今度はこんな絵を描いてみよう!」って思って、新たにその上に塗って。油絵っていいわよね、その点いくらでも描けるから。終いには石膏(の粉)を(溶いて)塗ってね、化粧品の黒い空瓶をはめ込んだりして、かなり遊んだ。
小勝:この頃は絵がお好きになると、美術館とか画廊とかも(行かれましたか)。
塩見:いや、そこまではなかった。
坂上:コンサートとかは。
塩見:コンサートはもちろん、行きましたよ! それはよく行きました。
小勝:それは現代音楽の方の……
塩見:ばっかりでもないわね。話題の人とか来るじゃない。そうすると行ったり、「毎日コンクール」(現在名:日本音楽コンクール)があると行ったり、知っている同窓生が出ると、聴きに行ったりね。それと(イタリー・)オペラも観に行ったり……
坂上:コンペとかには出したりしたのですか。作曲コンペとか。
塩見:出しました(笑)! 1回だけ。3年生の時にピアノ曲を書いて、「毎日コンクール」に応募したのよ。そうしたらね、一次は通ったの。で、新聞に名前が出たの。でもね、私、寮にいて3年生でこんな事をしていいのかな、って思ったから、浅野の従兄弟がね、東大の大学院に来ていたので、(住所と名前を借りて)出したの。そうしたらちゃんと「浅野洋子」って出ていたのよ(笑)。寮でもそれが評判になってね。でも二次で落っこっちゃった。で、作曲を教えて頂いてた長谷川先生(長谷川良夫 はせがわ・よしお 1907-1981)のところに楽譜を持って行って、「先生、二次で落ちました」って言ったら、「ああ、これ覚えてるよ。うーん、トッカータ風だけどねえ、それにしては各部分にライツがないなあ」って。ライツ(Reiz)ってドイツ語で“魅力”の事ね。がっくりきてねえ。
坂上:楽譜を見ただけでわかる……
塩見:わかる。楽譜が音になるんでしょうね。そう言われて、しばらくしゅんとしていたの。でも後日談になるけど、70年代に書いた『鳥の辞典』(1977年)という曲をイイノホール(東京)で初演した時には、長谷川先生も聴きにきて下さってね、挨拶に行ったら、「塩見ちゃん! うまくなったね~!」って言われてね、うれしかった(笑)。
坂上:学園祭なんかでいろいろ交流があって楽しかったって本(塩見允枝子著『フルクサスとは何か』フィルムアート社、2005年)にも書いてあるんですけど、学園祭の時は自分がつくった曲をみんながやるというのではなくて…ミュージカルとか……
塩見:それはやらなかったわねえ。声楽科の人たちはやっていたかなあ。私が関わったのは、自分が書いたヴァイオリン・ソナタをピアノ科とヴァイオリン科の友達に演奏してもらった。
坂上:自分の曲を演奏する機会というのは学内にはあった……
塩見:そういう特定の時じゃないと出来ないわねえ。それとまあ、即興演奏をするきっかけになったのは、『ピエロ•リュネール』っていうシェーンベルク(アルノルト・シェーンベルク Arnold Schönberg, 1874−1951)のピアノ・パートを私が弾いた事ね。現代音楽を人の前で弾いたのは、それがはじめてだったの。それを練習するプロセスも、またすごく楽しかった。ヴォーカルもいわゆる音程がきちんとした歌い方じゃなくて、話すような語るような、非常にめずらしい歌い方。当時の西洋音楽としてはね。それにクラリネット、ヴァイオリン、チェロ、フルートという編成で、一応指揮者がいて。それを弾いた後に、「今度はシェーンベルクじゃなくて、自分の音楽を弾きたい!」(って思った)。それでピエロをやったヴォーカルの人とフルートの人と、3人とも寮にいたから、学校に夜集まっては3人で即興演奏をやり始めたわけ。
小勝:それは何年生の時。
塩見:3年生の時ね。その頃小杉さん(小杉武久 こすぎ・たけひさ 1938−)、水野さん(水野修孝 みずの・しゅうこう 1934—)、戸島さん(戸島美喜夫 とじま・みきお 1937—)という楽理科の男の子達がヴァイオリンとチェロで即興演奏をやっているのをふと目にして、「一緒にやりませんか?」って、一応、私が提案して合流したわけ。
坂上:もともと楽理科の皆は同じ授業を受けていたわけで。
塩見:そうそう。それはもう密な交流でねえ。一緒にしょっちゅう音楽の話をしたり議論したりね、とっても活発な交流だったわねえ。
坂上:ではお互いに何を考え、どういうことをやろうとしているかなど。
塩見:よくわかる。
坂上:彼等の事をおもしろいなあと思っていた。
塩見:そう。随分勉強させてもらったわね。どういう曲がどこに行けば聞けるとか、誰のどの曲を聴いたらおもしろかったとか、どこで何のスコアを売っているとかね。情報源なわけよね。寮では、現代音楽が好きな女の子はいないから。楽理科で、後に「グループ・音楽」に入ったような男の子達はもう(貴重な存在だったの)。私、大学に入って初めて、男の子を尊敬したわ!(笑)。子供の頃って弟2人でしょう。男の子って可愛がる対象だったのね。小学校の頃はガキ(大将)が怖かった事もあるけれど、あまり相手にしていなかった。中学高校は男の子ってなんとなく幼稚な感じでね。学年でもトップ争いをしているのは女の子だったし。でも、大学に入ったら全然違うの。ものすごい知識があって、自分の方向性みたいなものがはっきりしていてね。男の子ってすごいなあ、って思ったわね。
小勝:彼等は浪人とかしないで同じ年齢くらいな……
塩見:いやいや、もうほとんど浪人ですね。
小勝:やっぱりその間にいろいろな知識を。
塩見:そうなの! 浪人の1年間ってすっごく大きいの。私なんか半年間、受験勉強だけして、ギリギリで入ったようなものでしょう。彼等は1浪とか2浪とかして、その間に音楽ばっかりやっているわけだから、その差はものすごいの。それに追いつきたいっていうのが、1-2年生の頃の自分だったわね。楽理科が好きなのはね、みんなが卒論に向けて(目指している方向が)バラバラなのよ。だからみんな違うわけ。実技の科だったら、誰が一番うまいか大体序列がわかるじゃない。でも楽理科はそれがなくて。(強いて言えば)いかにその道に本気で取り組んでいるか、いかに勉強しているかっていうのが(ステータスになるわけね)。
坂上:先生は成績の判断をどこでつけていたんですかね。
塩見:どこでつけていたんでしょうねえ。ある時(校内放送で)、「次の人は教務室に来て下さい」って名前を呼ばれて。これまた叱られるんじゃないかと思って、ドキドキしながら親友と一緒に行ったのね。そうしたら安宅賞っていうのがあって月3000円(ずつ返さなくていい奨学金を)くれる(って事だったの)。柴田先生(柴田南雄 しばた・みなお 1916-1996)に「どうして私と深尾さんが頂いたんですか?」って聞いたら、「いやあ、何かねえ、(教務から言われて)秀とか優の数を数えさせられたんだ」って(おっしゃって)(笑)。
小勝:柴田先生の授業というのはどんな……
塩見:これは授業というよりも一対一のゼミナールでしたね。卒論に向けて、私はアントン・フォン・ヴェーベルン(Anton von Webern, 1883-1945)について研究しようと思って(いたの)。で、ちょうどタイミングよく全集が出たのね。レコード2枚なのよ、(曲が)短いから。スコアもヤマハに行けばいろいろあったし。そういうのを手当たり次第買って、分析していくのね。その分析の仕方とか、(他に何を調べるといいとか)、いろいろ助言を受けられるわけ。
坂上:一対一というのがすごいですね。大学院では一対一に大体なるけれども学部でというのは。先生の数が多いんですか。
塩見:というか生徒が少ないもの。楽理科20人でしょう。で、楽理科を担当する先生が6—7人(以上)いらっしゃったから。柴田先生は人気が高かったから殺到したの。だけど1人も来ない先生もいるわけよ(笑)。そうなると(テーマがなかなか決まらない生徒は、その先生に)回されるわけ。だから「柴田先生じゃなきゃ駄目!」みたいなテーマを選んで行くと、柴田先生になるわけね。「柴田先生が今年から赴任して見える」って聞いたら、シェーンベルクとかミュージック・コンクレートとか選んだ人が4人程(我勝ちに)行ったわ。
坂上:同時に実技の授業というのは。
塩見:ありましたよ。ピアノの実技もあったし。渡邉暁雄さん(わたなべ・あけお 1919-1990)て、素敵な指揮者の指揮法もあったしね。変拍子って、3拍子になったり5拍子になったり4拍子になったりっていう曲を、わかりやすく振り分ける授業もあったし、ヴァイオリンやクラリネットや打楽器にも(手を付けましたね)。ピアノがメインだったけれども、他の楽器も知る上でね、とにかく手当たり次第。楽器係に行けば貸してくれるから。ヴァイオリンは自分で買いましたけどね。
坂上:即興音楽みたいな事をやるというのは自然の流れだったのですか。それは流行だったのですか。
塩見:ううん、流行じゃない。私達独特の事。私達はとても異質だったわけ。わたしは『ピエロ•リュネール』から入って、現代音楽。すぐに蓋を外して弦を引っ掻いたり、フレーム叩いたり(して、鍵盤とは)違った音色(を求めたの)。ミュージック・コンクレートの影響もあるのよね。外の音を録音してきて、テープに定着してっていうね。音のコラージュですよね。
小勝:一世代上だと思いますけど、「実験工房」をグループになってやってらした湯浅譲二さん(ゆあさ・じょうじ 1929-)とか武満徹さん(たけみつ・とおる 1930-1996)とかそういう方々の事はもう藝大に入られてご存知だった?
塩見:いやいや、まだ知らなかった。
小勝:今ミュージック・コンクレートとおっしゃいましたけれども、そういう方達の演奏を聴く機会というのは……
塩見:なかったわね。(ミュージック・コンクレートは元々テープ音楽ですから、)これはレコードとか何かじゃなかったかしらねえ。テープとか。
小勝:では湯浅さんや武満さんとは知り合ったのは…「グループ・音楽」を始められてからですか。
塩見:もちろん、卒業してから。湯浅さんとはどこだったかなあ。(そう言えば、湯浅さんに頼まれて、彼の曲を草月ホールやテレビ局のスタジオで、「グループ・音楽」の連中と演奏した覚えもあるわね。)『クロストーク・インターメディア』(1969年、後半で後述)の時は、終わった後、飲みに連れて行って下さったり、というような(事もあったっけ)。
小勝:秋山邦晴さん(あきやま・くにはる 1929-1996)と一柳慧さん(いちやなぎ・とし 1933 -)が、最初の「グループ・音楽」のコンサートを褒めて下さったと。
塩見:そうそう。来て下さってね。
小勝:その辺りから知り合いに。
塩見:そうです。その辺りからいわゆる社会人としての音楽家や評論家たちと、接触を持てるようになったのね。「グループ・音楽」のコンサートは、私達が初めて世の中とコンタクトを取るきっかけになったの。
小勝:「グループ・音楽」を結成して、やろう、という風に盛り上がっていったのはいつくらいですか。
塩見:卒論を提出するまでは皆それに必死だったわね。いつだったんだろう。卒論の締切は。よく覚えていないけれども。(大学院の前身として)専攻科というのがあってね。卒業論文によって、卒業特別資格というのが何人かに与えられて、希望すれば専攻科に残れる(ようになったの)。授業はなくて、ただ修了論文を書いて出せばいいのね。でも図書館とかいろいろな学校の施設は利用出来るし、学生の身分でいられる、つまり学割も効くという便利さもあって、私もそれに残ったの。毎週(のように)楽器係から楽器を借り出して、楽理科のお部屋に行って、そこで即興演奏の練習(を本気で始めたわけ)。
小勝:では刀根康尚さん(とね・やすなお 1935—)がいらしたのも専攻科からと……
塩見:いや、あの人は千葉大を出ていて、水野さんの友人だったわけね。たまたま遊びに来て、「おもしろい! 俺も仲間に入れてくれ」みたいな感じで入ってきたの。彼はシュールレアリスムも詳しかったし、私達とは毛色が違っていたから、おもしろがって彼からのものを吸収というか……
小勝:刀根さん自身は藝大の専攻科に入ったというわけではなく……
塩見:いえ全然。ただ遊びに来たの。
小勝:専攻科というのは塩見さんが専攻科の時にいらした。
塩見:そうそう。専攻科に入ったのは水野さん、柘植(柘植元一 つげ・げんいち 1937-)さんと私。小杉さんは卒論を出さないで留年したから、まだ4年生だったの。
小勝:「グループ・音楽」のメンバーを確認させていただきたいのですが、小杉武久さん、水野修孝さん……
塩見:のぶたか、と昔は読んでいたらしいのですが、本人から「しゅうこうって呼んでくれ」と言われて。
小勝:それと戸島美喜夫さん、柘植元一さん、あとはいらっしゃいますか。
塩見:刀根さんと私、それだけですね。一緒にやりましょうって言っていた、淡野弓子(たんの・ゆみこ 1938- )さんと牧野圭子(まきの・けいこ)さんというヴォーカルとフルートの人は、すぐやめちゃった。
小勝:やっぱり目指すところが違う…
塩見:やっぱりヴォーカルの人は声楽をやりたい。フルートの人もフルートをやりたいという事で。
小勝:1961年9月15日がこの最初のコンサートだったわけですね。この時は専攻科でいらした。(「即興音楽と音響オブジェのコンサート」草月会館ホール/東京、1961年9月15日)
塩見:はい。
小勝:コンサートをやりたいという風に皆さんがこう…練習というか即興演奏をやっていく中で…発表したいと……
塩見:だんだんそういう気持ちが湧いてきたのね。
小勝:これはどこでされたんですか。
塩見:草月ホールです。
小勝:草月ホールというのは学生さんたちでも借りられたんですか。
塩見:お金出せばね。でもまあ学生といっても一応卒業はしているし。
坂上:「即興音楽と音響オブジェ」というタイトルの“オブジェ”って言葉は。
塩見:例えば街の中の騒音とか、そういうものを時間的なオブジェと捉えるのね。つまり、きちんとコンポーズされていない、非常にアンフォルメルな、分析不能な、音の塊みたいなものね。それを音のオブジェと当時言ってたわけね。
小勝:街の音を拾ってきたという感じなんですか。
塩見:電車の音だとかトラフィックの音を拾ってきたり。私なんかは上野の地下鉄の地下道へ行って、いろんな物を投げつけたり転がしたりして…すっごい残響があるから、そういう残響のある音を録音して。もちろん電子音を出す機械もあったし、オルガンのような(楽器の)音を入れたり、いろんな種類の音を混ぜてテープに定着して。回転を変えると全然別の音になるしね。
坂上:それを即興的に皆が……
塩見:いえいえ。それは別なの。それは(各人が)作曲するみたいに時間をかけて丁寧に作っていくわけ。それは即興とは関係ないのね。いわゆる即興演奏というのは、楽器とかを使ってその場で(音を出すわけだから)。
坂上:では2つの要素がある……
塩見:そうです。
小勝:それに対して秋山邦晴さんと一柳慧さんが評価して下さって。
塩見:そうそう。
小勝:高橋悠治(たかはし・ゆうじ 1938−)さんはちょっと批判的な事を書かれたと。
塩見:そうです。「小児病的発作」って(笑)。それで楽理科の男の子達が、みんな頭に来てね、「ようし!リンチだ!悠治を呼び出そう!」って言って(笑)。
小勝:高橋悠治さんというのは当時もう演奏家として…
塩見:ピアニストとして素晴しい演奏をしていらっしゃいましたね。だけど即興演奏については、彼は非常に懐疑的だったの。どちらかというとクセナキス(ヤニス•クセナキス Iannis Xenakis, 1922—2001)なんかの方に興味があったらしく、(むしろ)数学的な秩序で出来ていたものに、その頃は関心を持っていらしたんじゃないですか。
小勝:彼は年齢的には…?
塩見:同じ。小杉さんは1浪しているけれども、早生まれだから1938年生まれ。高橋悠治さんも1938年生まれ。私も同じ。この3人は同い年の生まれなのね。
小勝:高橋さんはピアノ科だったのですか、藝大の?
塩見:違う。あの人は桐朋(註:桐朋学園短期大学)の作曲科だったと思うんだけど。
小勝:で、まあ、平行線だったと。
塩見:そう。
小勝:それと一柳慧さんが「グループ・音楽」のコンサートを聴かれたのがきっかけなんでしょうか、同じ年の11月に一柳さんが……
塩見:帰国コンサートをなさる時に、「君達も手伝ってくれ」って言われたのね。やっぱりパフォーマーが必要だからね。
小勝:一柳さんは帰国して間もなく……
塩見:だったと思います。いつ帰国されたか知らないけれど。
小勝:そのコンサートの時も、即興音楽を「グループ・音楽」はされた…?
塩見:そうじゃないですねえ。彼の場合は図形楽譜があるわけね。その図形楽譜に基づいて私達が演奏する。ただ図形楽譜も即興するセンスがないと出来ない。楽譜の通りにしか弾けない人は面食らってしまって、どうしたらいいかわからないでしょうね。(確かに)即興能力も必要ですね。だから便利だったわけ、私達は。
小勝:「グループ・音楽」は、でも一柳さんのコンサートに参加した後、解散されたわけですか。
塩見:(いつの間にか)自然消滅ね。「グループ・音楽」は、よく湯浅さん(や舞踏関係の人達)から頼まれて、都合のいい人が何人か出たりね。そんな感じで、邦千谷(くに・ちや 1911-2011)さんのところも。
小勝:邦千谷さんの舞踊研究所の発表会の時は……
塩見:やっぱり「グループ・音楽」が行って、音響の方をお手伝いさせていただいたということはあったわね。
小勝:久保田成子(くぼた・しげこ 1937—)さんが、邦千谷さんが(ご自身の)伯母さんだって(おっしゃっていた)。それで久保田さんともこの時(お会いに)……?
塩見:久保田さんとはもうちょっと後だと思うわねえ。岡山へ帰った後じゃなかったかなあ。岡山へ帰っても、しょっちゅう東京と行き来していましたから。その時に近しくなったんじゃないかなあ。
小勝:塩見さんは1962年にいったん岡山に帰られるわけですね。それはどういう事でお戻りに(なったんですか)?
塩見:専攻科を1年で修了したので、親は帰って欲しいという事と、東京にいたのではね、結局ピアノも買えないわけよ。専攻科の時は寮に居られないから、外へ下宿したのね。就職と言っても、ヤマハ音楽教室の講師として、週3日教えに行ったり、個人的にも出稽古に行ったりで。そんなで暮らして行くのがやっとだったから、何の進展も図れないのね。それと「グループ・音楽」での大音響の(即興)演奏がちょっと嫌になってね。離れて一人で自分を見つめ直してみたいという気持ちもあったので、とにかくいったん家に帰ったの。月賦ですぐにピアノを買って、(家で音楽教室を開いたら)生徒がいっぱい集まって来て。楽器店でも教えたりね。
小勝:ご実家はまだ倉敷だったんですか。
塩見:岡山市です。
小勝:帰られてピアノ教師としてある程度の収入を。当時藝大を出た先生というのは……
塩見:まだ少なかったからね。(それにピアノ・ブームだったしね。受けきれないくらい)来ましたよ(笑)。
小勝:それで帰った翌年、63年3月に岡山県総合文化センターでソロ・リサイタルを。
塩見:そう。やっぱりね、帰ったからには今までの勉強の成果を披露しなきゃというのがあって(笑)。それで今まで経験したいろんな音楽を、それこそ自分でも図形楽譜を書いて演奏したり、岡山市に住んでいるフルートやお琴の人にも演奏をお願いして。でもそれは何て言うんだろう、今まで自分が勉強してきた事の総まとめみたいな形だったのね。もちろんテープ音楽もたくさん作りました。(でも)結果的には脱皮の為のコンサートだった。今までやってきた事を全部脱ぎ捨てて、「私は蝶になろう!」と(笑)。
小勝:今おっしゃったテープ音楽とか、即興演奏はその時にはされなかったんですか。
塩見:(テープ音楽はプログラムに加えましたけど)、即興演奏はしなかったですね。ただアクション・ミュージックみたいなこと、いわゆる舞台音楽と言って、何人かが舞台でいろんな行為をやるというような(作品はやりましたね)。
小勝:当時としてはかなり前衛的と言って(よろしいでしょうか)…
塩見:(岡山では先駆的な事だったのね)。でもおかげで、たくさん友達が出来て。やはり前衛的な姿勢で仕事をしていた音楽家とも友達になったし林三從さん(はやし・みより 1933—2000/前衛アーティスト)とか、海見さんとか、ほとんど美術の方の人達ですが。
小勝:海見さん(海見久子 かいみ・ひさこ、1931-2007/抽象画家)ともこの時に。
塩見:そうそう。
小勝:林三從さんたちとは岡山青年美術家集団などで、ご一緒に前衛的な活動をやってらして。
塩見:そう。招かれて(何かの)音を提供した事もあるような気がしますね。(「第2回岡山青年美術家集団展」岡山県総合文化センター、1963年12月24日~29日のオープニング・イヴェントに、塩見千枝子(允枝子)《EVENT for Dec24》の参加の記録がある/「戦後岡山の美術―前衛達の姿-」展図録、岡山県立美術館、2002年、p.62)
小勝:コンサートをされたり、ピアノを教えたりされる傍ら、東京にも。
塩見:しょっちゅう行ってました。何かおもしろいことがあると、誰かが教えてくれるのでね。
小勝:この頃でしょうか。久保田さんともそろそろ知り合いに。
塩見:そうですね。知り合いになったと思います。
小勝:そうしますとオノ・ヨーコ(1933—)さんがおそらく一柳慧さんと同じくらいに日本に帰って見えていたと思うんですけども。それで1962年にオノ・ヨーコさんの草月ホールでのイヴェント(註:「Works of Yoko Ono sogetsu contemporary series 15」草月会館ホール、1962年5月24日)があったんですが。
塩見:その時は岡山へ帰った後でしたね。
小勝:由本みどりさんが書いてらっしゃるエッセイ(由本みどり「フルクサスと日本人女性芸術家たち」、「前衛の女性1950-1975」展図録、栃木県立美術館、2005年、p.23)で、塩見さんは久保田成子さんとともにオノさんが当時住んでいた新宿(渋谷の間違い)のアパートを訪ねるとか。
塩見:新宿じゃなくて渋谷ね。それは覚えてる。久保田さんが、紫陽花を持って来て「水切りもしているから、このまま活けて」とか言った場面は記憶にあるわね。
小勝:それから「モーニング・イヴェント」(1964年)にも参加されたと書いてあったんですが…
塩見:(確かアパートの)屋上に行って(註:屋上でのイヴェントは1964年5月31日)、ガラスの破片があって。でもそこでは、いろいろとお話してしまったわね。
小勝:ガラスのかけらを買うとかそういうことはされなかった。
塩見:それはしなかった。
小勝:林三從さんもこの当時やっぱりご自分の個展(やグループ展)をやったりで東京に出てらして。それでオノ・ヨーコさんのガラスのかけらを買ってらして、今も(2点)林三従ミュージアム(註:WHITE NOISE林三従ミュージアム/岡山県備前市)にありますけど。(「前衛の女性1950-1975」展図録、cat.no.195)
塩見:そうですか。
坂上:ハイレッド・センターとの出会いもやはりこの頃…?
塩見:私、ハイレッド・センターの《シェルター・プラン》には行ったのよ、帝国ホテルへ。ハイレッド・センターの中西さん(中西夏之 なかにし・なつゆき 1935—)なんて藝大の美校の2級上だし、高松さん(高松次郎 たかまつ・じろう 1936—1998)もそうでしょう。赤瀬川さん(赤瀬川原平 あかせがわ・げんぺい 1937—)は違うけれど。
坂上:学生時代は特に。
塩見:交流はなかったわね。だけど卒業してからは、「読売アンデパンダン」なんかで「グループ・音楽」とハイレッド・センターとはコンタクトがあったんじゃないかなあ。(読売アンデパンダン展:刀根康尚は第14回展(1962年)、第15回展(1963年)に、小杉武久は第15回展に出品)私はそれには出さなかったけれど、大体情報源は「グループ・音楽」の仲間なのね。≪シェルター・プラン≫に誘われて行って、お風呂に入って体積を計って、それからベッドの上に寝て、足の裏を撮って、頭を撮って、とにかく六方から写真を撮って。(その写真を張り付けた)箱を後で送ってもらったんだけど、ボロボロになって、いつの間にかどっか行っちゃった(笑)。
(一旦休憩)
坂上:岡山に帰った後も東京と頻繁に行き来したというのは、「グループ・音楽」の人達が「このコンサートおもしろいよ」とか。
塩見:そう、教えてくれる。
坂上:それで1964年にニューヨークに行くわけですがその前の年に草月でパイク(白南準 ナム・ジュン・パイク Nam June Paik, 1932- 2006)に会って。
塩見:そうなんですよ。確か「ニュー・ディレクションの会」(「ニュー・ディレクション第二演奏会」)という、高橋悠治さんとかがやっていらした会だったのだけれど、これは行くべきだと思って行ったら、ナム・ジュン・パイクという人に小杉さんや刀根さんから紹介されてね。白いスーツを着ていて、とても折目正しい、礼儀正しい感じの人だったのね。日本語はまあまあで、「ミス・塩見はどんなことをしてますか?」って聞かれたものだから、「今、《エンドレス・ボックス》といって、箱の中にどこまでも箱が入っている作品を作っているんです。これはヴィジュアルなディミヌエンドなんです」って言ったらね、「ああ、貴女はまさにフルクサスだ! フルクサスの人たちは箱を作っていますからね。それをマチューナス(ジョージ・マチューナス George Maciunas, 1931 – 1978)という人に送ってあげて下さい」って言われて。「マチューナスってどんな人ですか? (フルクサスって何ですか?)」(って尋ねると)「雑誌の座談会にフルクサスの事について、僕、話していますから読んで下さい」って(音楽芸術の何月号だったかを教えて下さったの)。他にも「自分ではアクション・ポエムって言っているんですけど、こんな風な行為を自然の中で行うという作品も作っています」って言ったら、「ああ、それもいいですね。僕も見たいから、まずは僕に送って下さい。僕からジョージに送りますから。でも《エンドレス・ボックス》は直接ジョージに送って下さい」って言われたんです。その通りにしたら、マチューナスから直ぐ返事が来て、「エンドレス・ボックスはすごく好きだ。今、自分は(フルックス)キットを作ろうとしているので、それに入れたいから、たくさん送ってくれ」って。
坂上:作るの大変ですよね(笑)
塩見:大変ですよ! 本当に。10個くらい送りましたよ。岡山市の紙問屋へ行ってね、持てるだけ買ったんだけど、全紙2枚で1個作れるようにサイズを決めて。だいぶ試行錯誤しましたけど。
小勝:紙質もだいぶ選ばれて……
塩見:そう、紙質も。やっぱり折りやすくて、しかもしっかりしていて、折った時にこうペコッと割れないような紙質ね。色も蛍光染料でも入っているのかな、こういう風に隙間を空けると薄紫に(見えるの)。私は薄紫が大好きでね。それは玉島の田園の夕方の色なの。道ばたの藁塚の上には、かんぴょうの花が、夕顔と言うのだけれど、真白くて震えているような感じの花が、ポーっと空気の中に浮んでいるのよ。その風景が大好きで忘れられないものだから、その紙を選んだのね。
坂上:《エンドレス・ボックス》を作ったきっかけというのは。
塩見:私は(その頃)「音楽の本質って何だろう?」って(ずっと考えてた)。まあ楽理科だから理屈っぽいのよね(笑)。そうしたら、「結局、音楽の本質というのは“時間の持続の認識”にすぎない」のではないか、という結論になって。それは正しいかどうかわからないけれども、私の中では一時そういう風に思い込んでしまったのね。それならば音じゃなくて、他のものでも音楽的体験は出来るんじゃないかな、と思った時にふっと思い出したのが、箱の中に箱があるという(折り紙だった)。これ実はね、私が子供の頃、病気してしばらく寝ていた事があったのね。その時に父だったか母だったか忘れたけれども、折り紙でそういう箱をつくってくれたの。「千枝子、これ開けてごらん」って言われて開けたら、普通、箱は開けたら中は空っぽのはずなのに「あれ? まだ箱がある」「あ、まだある!」っていうのがすごく魅力的でね。折り方を教わって自分でも折ってたんじゃないかと思うの。《エンドレス・ボックス》(の原点)というのは、その病気の時に親が私を元気付けようとして折ってくれた箱なのよ。その時の、先へ先へ(と続いて)行く感覚が忘れられなくてね。
坂上:それと音楽が結びつく……
塩見:音楽は音でなくても出来るのよ。時間に乗っかればいいの。感覚的、肉感的に(何かの動きに)乗っかればいいの。例えばね、風が吹くでしょう。もみじの葉が揺れるでしょう。揺れる場所が違うでしょう。あちらの枝がサーっと揺れて、今度はこちらに(それが)移って来るという(風に)、対位法的に動きが変わるのね。それをずーっと眺めていると、これは音楽的な体験になるのよ。さっきの夢の中の星でも(ひとつがフワーとにじむと、続いて他のもフワー、フワーとにじむ)。そういう視覚的な動きも、私の中ではすごく音楽的な体験として感じられるの。身体の中にそういう時間が流れているのかもしれない。それに感応するのかもしれない。
わたし一度、不思議な事を言われた事があるの。スタジオ200(註:池袋西武美術館内のホール)というところで90年代に藤枝さん(藤枝守 ふじえだ・まもる、1955−)たちとコンサートをやった事があって、ビー玉をピアノの弦の上に落とすとかいろいろなパフォーマンスをやったら、後の打ち上げの時に、高橋悠治さんから「貴女は自分では、おそらく無意識なんだろうと思うけれど、何をやっても一貫したリズムがあるね。多分それは、身体が感じているんだろう(けれど)」というような事を言われて「そんな事を言われたのは初めてだなあ。さすがこの人鋭い、怖い!」って思ったわね(笑)。
小勝:それとアクション・ポエムとおっしゃっていた、いわゆる音ではない……
塩見:イヴェントね。
小勝:イヴェントをこの時期に始めていらっしゃる。
塩見:そう。《エンドレス・ボックス》は(1つ)作ってしまえば自分としてはもう終りで、後は複製するだけでしょ。(今度は)いわゆるアクション・ミュージックを、舞台の上で音を出したりするのではなくて、自然の中でいろんなものを対象にした行為として行なえないかなと、思い始めたの。それで一番最初につくったのが《Mirror》っていう作品ね。その後、そんなようなもの何曲か作っている時に、パイクに会ったわけ。
小勝:それがまさにフルクサスのイヴェントと……
塩見:よく似ていたの。そうなのよね、フルクサスなんて何も知らない時に。どうして人間って、お互いに知らないのに、同時に同じようなことをするんだろうなあ…って思って。ミームとか、集団的無意識とか言うけれど、何かこう繋がっている。今ならそれは理解できるわよ。インターネットで交流が早いから。だけど昔はそういう情報の伝達がものすごく遅いし、ないしね。そういう時代にどうしてヨーロッパでも、ニューヨークでも、日本でも、お互いに何も知らないのに、同じ様な事をするのかなあって。私(の場合)はクラシック音楽から現代の音楽への流れ(の先端)で、そういう所にたどり着いちゃったんだけどね。
坂上:フルクサスはこういう事をやっているんだっていうのはその後に知ったんですか。
塩見:そう。(後で)パイクの座談会を読んで(から)。(で、マチューナスのと交流が始まって)彼はさかんに「来い、来い」って言ってくれるんだけれどもね。やっぱり勇気が…(笑)。でもまあニューヨークっていう所にも魅力はあったし、せっかく私の作品を受け入れてくれる、共感を示してくれる人達がいるんだったら、行ってみようかな、という気(持)になりかけている時に速達が来てね、秋山さんとジョージとパイクだったかな? 寄せ書きをして下さって。特に秋山さんは「こちらの連中はすごくいい人達で、貴女の作品にも非常に好意を持っているから、来ても大丈夫だと思いますよ」って言って下さったの。知らない人にいくら美味しい事を言われてもちょっとねえ。で、「同じ来るなら、カーネギー・ホールでのフルクサス・シンフォニー・オーケストラで僕が指揮するし(註:1964年6月27日)、出来たらそれまでにいらっしゃい」って。それがもう2−3週間しかないのよね(笑)。(註:実際は1週間だった)
坂上:そんな頃までまだ……
塩見:迷ってたの。朝レッスンに行く前に速達が来て、途中のバスの中で読んで、うわあ、どうしよう…って感じで、一日レッスンしながら悩んで、悩んで、もう行こう!って思って、帰ってから母に「明日、ニューヨークに行く!」って言ったの。(爆弾宣言よね。)「明日、東京に行ってヴィザもパスポートも取って来る!」って、それですぐ東京へ出て、いろいろと手続きを(始めたの)。
坂上:反対を押しきってという事ですか。
塩見:いや、反対はしなかった。前から「行こうかなあ、行きたいなあ」みたいな事は言っていたから。でもまあ不安はあったと思うわよ(笑)。
小勝:渡航費用とかは。
塩見:レッスンで稼いでいたの。ある程度はね。だけど飛行機代が往復30何万だったの、高いでしょう。当時1ドルが360円で、500ドルまでは持って行ってよかったのね。足りない分は親に借りて行ったけど。
小勝:行かれる時は1年で戻るとか、あるいは大学に行くとか…
塩見:何も考えなかった。その年から(渡航が)自由になって、観光ヴィザが6ヶ月とれる(ようになったの)。とりあえずそれで行こうと。先の事なんか何も考えていなかった。居て楽しければ居よう、つまらなければ帰ろうみたいな、軽い気持ちで。ニューヨークに行って、ちゃんとした芸術家になろうとか、一切そういう気持ちはなかった。
小勝:久保田さんの同じ(オーラル・ヒストリーの)インタヴューを拝読すると、久保田さんはかなり(明確に)日本を脱出しようと。日本は男性社会で私は認められないからって。そういう決意をかなりしていたようなのですが、塩見さんはそういう風な(気持ちは)……
塩見:全くない。私は社会が自分を受け入れるとか、他人が自分をどう考えるとかっていうのは、あまり関心がないのね。自分が何をやりたいか。自分がやったことに誰かが共感を示してくれるかどうか、それだけなのね。
小勝:それは作品の形態というか、アートの手法が違うっていったところも……
塩見:あるのかもしれない。(だけど)音楽の世界は、どっちかっていうと女性優位の社会なんですよ。作曲界はちょっと違いますけどね。音楽なんていうのは女の子がやるもので、楽理科も放っておくと、女の子ばっかりになっちゃうから、男女で定員制を設けるという事もあるくらいでね。女性の勢いは音楽の世界では強いの。だから女は虐げられているという意識はなかったですね。
坂上:では明日からその続きを行きましょう。