松本:1931年、杉並で生まれました。したがっていまだに本籍が東京の杉並です。不思議なことに質屋をやってました。中央線の沿線に松坂屋という質屋が7、8軒、今でもあるんですが、みんな同じ系統の一族。なぜそういうことをしたのかというと、昔は、私の父方も母方も、春日部とか岩槻とか東武動物公園のあたりなんですが、結婚をさせるときにお金のかわりに土地をつけてやる。それで(土地を)減らさないために、姉ちゃんと兄ちゃんを結婚させたら、その弟と妹を結婚させる、逆縁にして。そうすると二町歩持たせてやったところへまた二町歩来るってんで、減らないんですね。非常に不思議な、コンサバティブな時代で。
ですから私の本当の父の姉は、私の母の兄の嫁ですよね。伯父さん。逆になっている。そういうのを一緒にすると、すぐお金を持たせて東京へ質屋に出す。もともとその辺の土地持ちだったんじゃないでしょうか。私の父、母の実家のある春日部は日光街道の端っこで米屋の問屋をやっておりました。米を買い付けては江戸城へ船で出していた。ですからご多分に漏れず、娘や息子を逆縁でくっつけて東京へどんどん出した。その中で僕は、たまたま私の父親が高円寺に所帯を持って、そこで生まれた。
ところが、ご存知のとおり、逆縁でみんな一種の血族結婚ですから、病気に弱いんでしょうね。Aちゃんが結核になるとBちゃんも結核になって、Cちゃんもなって。頭も良くないし体も弱いという。たまたま僕だけが体だけめっぽう丈夫で、兄たちは結核です。兄弟やおじさんたちも、みんな病持ちみたいな。だから質屋にしたんじゃないでしょうか。
田舎の高等学校です、したがってね。母の実家のある春日部の高等学校。ところが取り柄がなくて、ただ乱暴者で元気なだけですから、先生にはしょっちゅう怒られていました。母親がよく謝りに行ってました。美術部を作れとか、演劇部を作れとか、人がやんないようなことだけを学校へ持ち込んで先生を困らせて。ところがやっぱり田舎ですから、素封家って言うんでしょうかね、自分の一族よりも一回りも三回りも素封家の家がありまして。そういうところには名品がたくさんあったんじゃないでしょうかね。それを高校生の頃、先生に連れられてよく見に行きましたよね。《エロシェンコ氏の像》(1920年)という、今(東京国立)近代美術館にある、あれ春日部にあったんです(笑)。
平井:ほう、中村彝の。
松本:そうそう、中村彝。それから御物(注:ぎょぶつ、皇室の私有物)になっております《旭日照六合》(1937年)という藤島(武二)の絵があるんですが、それもそこの家にあった(注:現在は宮内庁三の丸尚蔵館蔵)。それを中学校の頃、見に連れて行かれたのを覚えてます。それでそこの家が没落していったときに、本間正義(注:美術評論家、東京国立近代美術館次長や国立国際美術館館長等を歴任)がその2点の絵を取りに来てるんですね、春日部へね。変なとこでしたよ。美術のその何かを受けたかというと、そんなことないんです。ただ人が見ないとか、人が変だと思うものが面白かっただけで。私は、勉強すればできたんですけど、しなかったんでものすごい落第生で。一番できなかったのが英語でした。
平井:へー、それは意外ですね(笑)。
松本:英語がまるでダメでね。それで高校3年生のとき、大学どっか受けなきゃいけない、そしたら英語の受験科目がないのは日本中に一つしかなかった。それが東京薬科大学。それはなぜかというと、ドイツ語の試験をするんで英語はなかった。それで僕は親に黙って、英語がないなんて言わずにそれを受けに行って。そしたらもちろん当然合格するわけですよね。合格したんですけど、いいとこの子ばっかなんです、周り。薬屋の、地方の大きな街の駅の真ん前の薬屋の跡取りとか、問屋さんの息子さんとか、みんなお金持ちの坊ちゃんたち、お嬢ちゃんたちですよね。それでやっぱりものすごく合わないんですよ、自分とね。ついこの間までものすごい泥まみれのいたずらっ子だった僕は。
薬科大学に入って、まあ同級生をなめてたのかもしれません。美術部を作れ。理科系の学校で美術部作る人、いないんですよ。それから演劇部を作れ。そうしたら僕みたいな落第生がいましてね、全国から集まってるんで。「そうだ、やろう! 薬屋の学校だから薬だけやってりゃいいってもんじゃねえ」なんていってね。僕がいる間、卒業して2~3年の間、ほんの一時だけその理科系の大学の中に美術部ができて、演劇部ができて。それで劇場借りて公演したりなんかして。ですからもうご想像ください、薬科大学の勉強はなんにもしてない。試験の前の日にヒロポン飲んで徹夜して。
池上:薬科大でヒロポンですか(笑)。
松本:当時、ヒロポンってまだ自由販売だった。あれまだマルピー(注:大日本製薬)で売ってましたからね。ヒロポン飲んで徹夜して、成績ガーッと取れば次に行けるわけですよ。あとは絵を描いたり、演劇部をやったりして。その頃、やっぱり「この人、絵がうまいなあ」と思う人は何人かいましたよね。それを一所懸命見に行って感動した自分というのを覚えてます。そうこうしてるうちに何を間違えたか、自分でも絵を下手の横好きで描くじゃないですか。そしたらそれが学生油絵コンクールで入選したりなんかして。
当時、私の大学、東京薬科大学というのは大久保にあったんです。今は八王子ですけど。大久保の駅に小さな張り紙がありましてね、「皆でクロッキーをやりませんか、モデルさんを連れてきますよ、やりましょう、会費はこれこれです」って。男の子ですから、とにかくヌードなんていうのは憧れの憧れ、もう目がこんなになって、「おい、行くぞっ!」ってんで3、4人でそこへ行って、クロッキーを月謝払って勉強した。それが浜口庫之助さんの最初のアトリエでした。後でわかったんですが、大久保のそこで『黄色いさくらんぼ』(1959年)っていうのはできたんだそうです。なぜそこかっていうと、浜口庫之助さんのそのときの奥さんが藝大かなんかの人だったんですね。それで旦那はご存知のとおり音楽三昧ですから、暇に任せて若い人を集めてクロッキーの会をやった。で、そこへ僕が行ったという。
そんなことで、将来どうすんだかわかんないまま押し出されて、薬剤師の国家試験も、人の噂だとお前がおしまいで、お前の次のやつから落第だと言われて、まあそれは嘘かホントかわかんないけど、通りまして。そうしましたら就職が。当時みんななかなか立派なとこへ就職するんですよね。僕は学校の推薦状で下町の大きな薬局へ振り分けられました。江戸時代からあった遠山薬局、これは有名な薬局です。そこへ薬剤師で、白衣を着て、いい勤め人(笑)。
平井:へーえ(笑)。
松本:ところが、そういうめちゃめちゃな生活をしてたくらいですから、物を売らせるとうまいわけですよ。下町のおばちゃんとかおねえちゃんたちに物を売らせると、まあ実によく、自分でもおかしいけど成績いいんですよ。ところが心の中にあるのは、どうもその薬屋で終わりたくない、こんなものを売って自分の一生を終わりたくないというのがあって、そこも何のかんの言いがかりをつけてとうとう辞めてしまいます。そのあと丸一年ですかね、浪々の暮らしをします。
薬科大学にいたときに、ドイツ語の教授をしていた人がいました。これは武田製薬の創立者の一族ですが、中山さんという人。その人がドイツ語の先生で、その人もおそらくはみ出しっ子だったんじゃないでしょうかね。僕のことも「はみ出しっ子だ」と認めてて、お互いにはみ出しっ子ですから仲がよくて。その人が美術の手ほどきをしてくれました。骨董屋さんへよく連れてってくれた、繭山龍泉堂だとか壷中居だとか。その人は実際に売り買いしているわけだから、いいお客さんなわけですよ。すると僕を連れて行くんですよ。一緒にお茶が頂けるわけ。それでやってるときに、「ああなるほど、これ、右より左のほうが数等上だ」っていうのが何となく自分で(分かってくる)。向こうはプロですからね。買ってる人もプロだけど。そのときに美術を見ることの面白さみたいなことが身に付いたんじゃないかと思うんですね。
ところが生活できないんですよね。そしたらその中山久さんという、一本足スキーを日本へ入れて、その使い方をドイツ語から翻訳した人です。小机文夫(こづくえふみお)というペンネームを持ってました。遊び人だったんですね。その人が。「お前困るな、そりゃ困るな、どうしよう」って。「どうしていいかわかりません。薬剤師にも戻れませんし、もうどうしたらいいか」「わかった。お前は美術が好きなんだから、美術で飯食ってみろ」と言われて、「じゃあそうします」とは言ったもののどこへ行ったらいいかわからない。それからその中山っていう教授と連れ立って画廊らしいところを歩く。東京にまだその頃画廊が5、6軒しかなかったですよね。日動画廊、兜屋(画廊)……、みんな断るんですよ。「そんなひねた、しかも手に職のあるのを骨董屋の世界では扱えませんよ。小学校出たか出ないぐらいに雑巾がけから叩き込まないと物を見る目なんてできないですよ」と、そういう時代ですから。
池上:もう丁稚奉公からじゃないと。
松本:そうそう。「そんな手に職の付いた、薬剤師なんてうちは雇えませんよ」って、みんな実に一所懸命断った。で、こっちはもう食うや食わずですから、一所懸命行きました。そうしましたら、何を間違えたのか東京画廊の山本孝(1920–1998)さん、これは復員してきておまわりさんをやっていて、それから日本の骨董屋さんへ就職して。自分でも挫折したか、苦節何年かの男なんでしょうね。「いいよ、置いてやるよ。そのかわり給料ないけどどうする?」って。「いや構いません、置いていただくだけで結構です、置いてください」「じゃ、3ヶ月置いてやるから」と。そうなりゃしめたものですよね、昨日まで生活できないんですもん。で、あっという間にそこに居つきまして、3ヶ月たって入れてもらったのかな、「おう、置いてやる」って。「初任給1万円、多すぎるけどいいか。1万円やるよ」って言った。うれしかったですよ、1万円が夢に出ましたよ、僕。それがこの東京画廊へ入ったときですね。
経歴の次にある「重役になった」というのは、今も申し上げたとおり、したたかに何でもやってきた男ですから、お客さん来ると、山本とか他の同輩先輩のお店の人が言う前に、私がいろいろ出過ぎないようにやるもんだから、来るお客さん、来るお客さんが「面白いよ、山本君。うちの会社でもらいたいよ、あいつ」とかって。そんなことで成績もよかったんでしょう、わりあい早いときに山本さんが「重役にしてやるよ」と。
当時、東京画廊へ来ていたお客さんってそうそうたる人でした。画家では安井(曽太郎)さん、それから鳥海(青児)さん、フランスで活躍した佐藤敬さん。お客さんでは井上靖さんとかね、文化庁の長官とか、それから宮内庁の方々がよく内密でお姫様をお連れしたり。僕はいろんなところを歩いてるから、別に偉い人を偉い人だと思わないんですよ、「お姫様だっておしっこすらぁ」てなもんですよ、僕にすれば。それが逆によかったのかもしれません。成績がよかったこと、お客さん方から非常に可愛がられたので東京画廊に居つくことができた。
当時の山本孝さんというのは、ほんとによく稼いでよく遊びまわってた。もうほんとにどうにもなんないような破天荒な男でしたよね。でも自分の社員に教えるのに、何々をしろとは言わないんですよ。当番制みたいなものを作りましてね。当時私の目上に3人か4人いましたね。今、中島誠之助さんってテレビでにぎやかな、あれのちょうどいとこが私の上にいましてね、中島家の跡取り。それから3、4人いました。ところが山本孝さんという人は一人ずつ呼んでね、「君はこのお客さんの係で」って言うんです。もう否も応もないんですよ。「君はこのお客さんの係、わかった?」、「作家は、あんたはこの人やんなさい」って。青木外司さんって人。「あんたは鳥海さんの係ね」っていうと翌日から鳥海さんの担当ですから。そういう縦割りをよくしてくれましたね。
そんな乱暴な中で私に割り当てられたのが大橋嘉一さん。「あんた大橋さん担当ね。いいかい、わかった?」。大橋さんって大阪の(コレクター)、ご存知でしょう。それで何遍も大橋家へも行ったり来たり、会社へも行って。申し上げていいのがどうかわかりませんが、大橋さんという人は「焼付漆」というものの特許を持ってましてね。漆っていうのは塗るだけだったでしょ。ところがそれを戦前に加工して焼付漆というものを作った。何かというと、漆って光ってるじゃないですか。ところが焼付漆ってつや消しなんです。何に使うのかというと、望遠鏡や双眼鏡。軍備にはなきゃならない。戦争になんない、焼付漆がないと。つや消しの黒で中を塗らないと。潜望鏡から望遠鏡からあらゆる光学機械、軍備のためにはなきゃならなかった。それからもう一つ、漆というのは、弾を作って火薬を入れたら漆で封印するんですよ。今みたいな化学薬品のいいのがないですから、漆で封印する。そうすると日本軍部は、海軍も陸軍も空軍も、大橋さんのとこへ日参しないと漆を回してもらえない(笑)。それで一代を築いた男ですよね、大橋嘉一さんというのは。元気な人でした。大橋家の工場には、見たことも聞いたこともないような、石油からガソリンからそういう軍需必要備品が山のように積んでありました。そのまま終戦。で、それを使って大橋嘉一さんという人はまた会社を大きくするんですよ。
池上:ほう。
松本:もうあとは使い道ないじゃないですか。で、美術のコレクションをおっ始める。いつかお話ししたかもしれませんけど、黒塗りの大きな車に乗って来て、燕尾服とはいいませんけど、後ろから運転手が付いてきて、南画廊という画廊があるんですが、あそこへ行って、九州の作家の若い人……
平井:菊畑(茂久馬)。
松本:菊畑の茂久ちゃんの、つかつかと入ってきて、「よろしいな。もらいます、こっからここまで」。「よろしい、ほな」といって帰ったっていうんです。
池上:即断即決ですか。
松本:そう。嘘じゃいけないんで、茂久ちゃんに聞いたんですよ、「お前、ほんとか?」って言ったら、「そうですよ、びっくりしましたよ~」。正装の紳士がパッパッと入ってきて、「よろしな、こらよろし。こっからここまでいただきますわ」って帰ったという、それは逸話ですがね。その大橋さんというのは非常に神経質な人だったんですけども、どういうわけか僕が行くと、「お入り、飯を食っていきなさい」って。他の人がいくとだめなんですよ。特にうちの山本孝はだめでした、晩年は喧嘩みたいになって。大橋さんが「お前のおやじに言うてやれ。今度は空手で試合しよう」って(笑)。「私の一撃で山本を倒してみせるって、言うてこい」とか。美術のコレクターとも思えない(笑)。その大橋さんの晩年、最後の最後まで僕は(一緒にいた)。ですから大橋さんの一番最後の、いよいよ亡くなるときに枕元にいたのは、私と運転手です。それが奈良の。
平井:奈良県立美術館。
松本:あれは残ってしまったんでどうしていいかわかんない。で、遺族が、とにかくもらってもらうと。
池上:亡くなった後に残されたコレクションということですね。
松本:大橋さんは宝塚にお屋敷を持ってまして、大阪市内にも少し住んでたし、家族は別のところにおられた。今日本には、イヴ・クライン(Yves Klein)のブルーの絵があります。ちょうどこのテーブル2枚、ここから向こうぐらいの、大きさでいうと100号の横のブルーの絵です。それをいきなり買ってくだすって。僕、額縁に入れて届けに行くんですよね、宝塚へ。届けに行ってしばらくして、台風が来てそのお蔵が潰れてしまう、倒壊してしまうんです。シェパードがそこのお屋敷にいましてね、それがお蔵の下へ入っちゃうんです、それで死んじゃう。大橋さんは当時ヨーロッパに行ってたのかな、それで留守部隊が大騒ぎになった。それで泊りがけでお蔵を起こして、イヴ・クラインは、額縁は落っこちたんですけど助かるんです。で、いろんなものを片付けるのをお手伝いして。「こっから先は松本さん、このふるいで振るいましょう」といって振るって。こういう杯のちょっと大きいくらいのがあるでしょ。そこにダイヤが山のように二つとか三つとか出てきました。長女のお婿さんが「そうそう、親父これ持ってたんですよ」って。
池上:振るったらダイヤが出てくるんですね。
松本:そうそう(笑)。まあ破天荒な人でした。それが東京画廊の初めの頃、経済的にもずいぶんその人に助けられた。これが大橋嘉一さんですね。
平井:国立国際(美術館)にも入っていますね、大橋さんのコレクッション。奈良だけではなくて。
松本:そうそう。奈良は「そんなにいらない」って言ったんですって。それで国立国際へ。この人は逸話の多い人でね。僕がたとえば白髪一雄を持って売りに行くでしょ、風呂敷に包んで。「こういうので、これは最新作で、どうですか」なんて。「あんたね、無茶言うたらいけまへんで。こんなもん誰でも描けますわ。こんなもんただ塗たくっただけやんか、そんなんいりまへんわ。もう今日は帰んなはれ」と追い返される。その次に行くと、「あれ全部ね、うち、庭で燃しますわ。私のコレクション全部、あんたのとこから来たの全部燃しますわ。くだらないもんばっかりや」と。「わし腹立っとるから燃しますわ」ってね、工場の庭で、駐車場の端でほんとにお焚き上げみたいにして、お金を払ったものをボンボン燃したことありますよ。
平井:へーえ。
池上:ほんとに燃やしたんですか。ええ~! どういうものが燃やされたんですか。
松本:「言うてください、作家に言うてください、『こんなもの描いたらあかん』と言えー! お前ら画商どもは、ゼニの亡者め」という。自分のやってることもかなり破天荒ですよね。でも売りつければ買うと思うわれわれも、何でも構わず、確かに銭の亡者で押しかけたことも事実ですよ。ですから今名品になっていろんな美術館に入っているようなものが旧の大橋コレクションにはずいぶんありますよ。ただ亡くなったときはみんなそれを人手に渡した後ですから、大橋コレクションという名前は、国立国際と奈良しか残ってないんです。でもね、名品は大橋家出のものはいっぱいありますよ。
池上:亡くなる前に引き渡されたっていうのは、ご本人が?
松本:いや、われわれ悪徳画商が引き出して、変なものを持って行って売りつけて、売れそうなものを持って帰るという。
池上:そうなんですか(笑)。
松本:それだけじゃないですけどね。まあ破天荒な人だったと思いますね。それだけに男意気に感ずるところがあったかもしれませんけどね。「あんたよろしいな」「あんたよろしいでえ」とか。どこがよろしいんだかわかりませんね(笑)。
平井:もうその頃には東京画廊はいわゆる現代美術の専門画廊になっていたんですか。
松本:まだね、純粋に抽象絵画だけには踏み切れてないんですよね。たとえばこの資料で見ますとね、川口軌外とか、野口弥太郎さんとか、安井さん、佐藤さん、鳥海青児さん、脇田(和)さん。
平井:近代洋画のそうそうたる先生方ですね。
松本:そう。僕がちょうど入ったときに萬鐵五郎展(1957年)をやって。世の中の人が萬鐵五郎なんて何だかわかんないときに、山本が萬の一族のところへ出かけていって、それを展覧会に仕組んだんですね。いつでもそうでしたけど、死んだ山本孝という人は、今やっている展覧会のことなんてもう考えちゃいないんですよね。次の次の次の展覧会くらいに、どうやったら人がびっくりするだろうか、喜ぶんじゃなくてびっくりする、あっと言わせるのにどうしたらいいだろうか。それを別の言葉で、要するにアイデアというかな、思いつき、発想、企画力というかな、そういうことを一所懸命に考えて続けていた男でしたね。だから北川民次さんなんてまだ帰って間もなしの、向こうで描いた絵をたくさん持って帰って。
平井:メキシコ。
松本:ええ、メキシコ。もうすぐ出かけて行って。「おい、松本、行くぞ」なんて。「行くぞ」と言ったらもうほんとに行っちゃうんでね。その日家に帰るとか、そんなまごまごしてたら、もう行くんですから。東京駅から乗って北川さんとこへまっすぐ行って。またうまいんですよ、「先生がこの後の日本を動かすんです」って(笑)。北川のおじいちゃんなんて、今考えてみると実にほちゃほちゃ喜んでね、「そうかい、じゃあ山本君頼むよ」なんてね。小山田(二郎)さん、海老原(喜之助)さん。海老原さんなんかも絵が売れてなかったんですね、九州で。代表作は全部お持ちでしたよ、あの海老原らしい絵。私はそのときに「お前はもうこれで帰っていいよ」っていうんで帰ったんですけど、山本はそれから海老原さんと一緒に1泊、2泊遊びまわって(笑)。帰る汽車がもう出るから、「先生、これでおいとまを」と言ったら「うるさい、山本、まだ帰るんじゃない、おれが駅長に電話する」って特急を止めたという。当時海老原さんて、九州では大物だったんでしょうかね。そんなところへ僕は入社をしたわけでしょ? しばらくは一所懸命やった。人の嫌がるようなことをせっせとやると、職場っていうのは自分に都合よくなるというのは嫌になるほどわかったもんですから、もうお手洗いの掃除から喜んでなめるようにやるわけだから、そりゃまあ受けますわな。
そうこうしているうちに、山本はどうしたらいいかと。もともと美術を勉強した男じゃないんですよ。骨董屋の出でしょ。ついこの間まで朝鮮でドンパチやってた人でしょ。ただ勘のよかった人ですよね。誰に聞けばいいかっていうのはよくわかっている。いろんな評論家の人を端から尋ねるわけですね。有名な評論家の方々がみんな山本の訪問を受けて、このあと日本はどうなるだろうか、このあと日本はどうすればいいだろうという話を聞いて、それを自分の心の中で練って新しいアイデアにして自分の行く道を決めたんじゃないでしょうか。有名人、たとえば土方(定一)なんていうのはもうすでに鎌倉でいましたからね。あとは東野(芳明)さんと針生(一郎)さん、中原(佑介)さん、それから瀬木さん。この瀬木慎一さんとおっしゃる方を、初期の頃山本は非常に大事にしていた。
平井:そうですね。瀬木さんのご本なんか読むと、山本さんとあちこち行かれたり。
松本:というのはね、(ミシェル・)タピエ(Michel Tapié)という人が来て、吉原(治良)さんのことに出入りして。そのときにフランス語を一所懸命、間へ入ってやってくだすった。瀬木さんのフランス語っていうのは生きてんですよ。山本が、「瀬木君のフランス語はめちゃめちゃだけどよく通じるんだよね、あいつのは松ちゃんいいよ」って。それで瀬木さんと相談してたと思われる節が多々ありますね。このあと世の中はどうなるんだと。「山本さん、こうなるんじゃないですか、ああなるんじゃないですか」って。瀬木さんが初めてピカソ展を日本に持ってきてやったときに、「山本君、これ額縁入れてくれよ」って。百何十枚か、いいとこ。「お金ないんだよ、何とかしてよ」「わかりました、うちの若いもんにやらせます」って、若いもんってたまたま僕だった。こっぴどい目にあいましたよ(笑)。
そうこうしているうちに、瀬木さんの肝いりで、もう今無名になってしまいましたけどね、バーナード・チャイルド(Bernard Child)などという作家を推薦されるんですね。ロベルト・クリッパ(Roberto Crippa)なんていうイタリアの、(ルーチョ・)フォンタナ(Lucio Fontana)のお仲間、空間派ですけど、それも瀬木さんの紹介で。そしてやがて瀬木さんからフンデルトワッサー(フリーデンスライヒ・レーゲンターク・ドゥンケルブント・フンデルトヴァッサー、Friedensreich Regentag Dunkelbunt Hundertwasser)の紹介が飛び込んでくるんですよ。さっき申し上げた当番制ですから、「松ちゃん、お前フンデルトワッサーな、ロベルト・クリッパ、二つ続くけど一緒におやり、お前当番だぞ」って。当番になったらひどいんですよ、何もかも全部やらなきゃならないんです。そいつらが腹減ってると言えば食わさなきゃいけない、宿がないっていったら探さなきゃいけない、こういう絵具がほしいっていったら、それをおやじから金をもらって買ってきて与えなきゃいけない。でも、そのときにやらされた当番制が全部後で僕の身に付くんですよね。
ロベルト・クリッパっていうのはもうすでに名前がありましたからね。大変ないい格好でしたよ、飛行機から降りてきたらね。すごいコート着てね、綺麗なべっぴんさんの、女優さんかなんかの奥さん連れて、「ニーニ」というんですけど。すげえな、おいどうなるんだろうって。こっちは食うや食わず。それからまもなく今度はあれが来るんですよ、フンデルトワッサー。(迎えに行ったら)どこにもいないんですよ、そんな人。そしたら汚い格好して何にも荷物のない、片っ方の靴下が破けている人が、ふーっと来た、それが彼でしたよ。ロベルト・クリッパはすぐホテルへ、自分もカネ持ってるから。でもフンデルトワッサーはその日から、どこでもいいから食べられればいいみたいな。
変な話になっちゃうんですけど、僕、東薬(東京薬科大学)受けたとき、英語がない学校で受かったって言ったでしょ。ずっとこの頃まだね、英語はめちゃめちゃなんですよ。ただ「やっちゃ場英語」っていうの、耳で覚えた英語ですよね。だから通じてんだか通じてないんだかわかんないんだけど、通じているという。ロベルト・クリッパっていうのはイタリア人、これ英語が得意じゃない。フンデルトワッサーも英語が得意じゃない。なに言ってんだかよくわからない。こっちの言ってることもわかんない、向こうもわかんない。わかんないもん同士だとちょうどいいんですね(笑)。だからアメリカから来た人たちとあまり話が通じない、向こうが上等すぎてね。
僕は、最後のほうはずっと海外に出ずっぱりに出るんですけど。そんなことをしながら10年経って、山本に「お前外国行って来い。ぐるっと一回りして来い。これだけのお金やるから、これ使うまで帰ってくんな!」って言われて出されるんですよ。大ざっぱな男ですよねえ。社員ですよ。しかも一番上の社員じゃないんですよ、上から3番目くらいの駆け出し社員。英語のできないまんま、今でも覚えてますが、パン・アメリカンという飛行機に羽田から乗るんですよ。ここはいつも僕が皆さんにする笑い話なんですけど。スチューワデスのおねえさんがこういう帽子かぶってね、すごいの。映画で見たような人がキャッキャッと来るんですよ、「ウジュゲ、キャッキャ」って聞いたんですよ。何か言ったんですよ。「Would you care for any cocktail?」、「何かお飲みになりますか」と。「ウジュキャ、エニキャッ、キャッキャッ」。
池上:子音が多いですね(笑)。
松本:習ってきた、カタカナで書いてきた、「ショーミー、プリーズ」。店の中に入ったら、「見せて」って言うとき、「ショーミー、プリーズ」とカタカナで書いて覚えていた。それみんな全部汗と一緒に吹っ飛んで、何がなんだかわからなくなって。そのとき初めて、ニューヨークに着いて「こりゃいけねえ、おれは間に合わないかもしんない、こいつは大変な事になった」と思って、今度は何にもやんないで朝晩英語だけにしましたよ、自分で。
この間、東京都知事がニューヨークに行って、地下鉄の中に急行、ニューヨークのマンハッタンなんかは線路が4本あって、普通が往復してこっちに急行が。あれを見て感心したって(笑)。いやそんなの僕もう何十年も前に寒気がするほど感心した(笑)。ですから僕は英語を覚えたんではなくて、もう死に物狂い。後でよく人に、外国人に「お前どこで習ったんだ。英語じゃないよ、それは」ってよく言われましたよ。そうだと思います。子供たちが、「お父さんの英語はひどいよ、めっちゃめちゃ。しかしよく通じるんだよな」(笑)。そんなことがあって、まあフンデルトワッサーの英語も同じようなものなんでしょうな。ロベルト・クリッパの英語もそうだったんじゃないかと思うんですけどね。
池上:ニューヨークに行かれたのは何年ごろになりますか。
松本:それはね、しっかり(手元のメモに)書いてきました。だいぶ後ですよ、1968年かな。
池上:先ほど、勤めて10年ほど経ってからとおっしゃってたので。
松本:ええ、東京画廊に就職してから10年経ってますね。5月に行って、帰ってきたのは7月の末です。お金がなくなるまで行ってろと言われて。それで回れるだけ回ろうと思って、一所懸命ニューヨークからイタリアへ行ったり、トリノへ行ったり、ロンドン回ってパリ回って、全部一緒に回って。ですから今でも覚えてますよ、パリでエッフェル塔を見たときに、自分で一人で感動してるんですね。それを覚えてますね。山本という人は、「お前、勝手に行ってこい」とはいっても、「しっかり何が起きてるか報告しろ」と。で、せっせと手紙を書きましたね。世界の何々はどうだこうだという。
池上:画廊の様子だったり?
松本:そうそう。怖いもんなしですよね、どこでも構わず入っていくという。だってもう失うもの何もないんですからね。当時、東京画廊の経済を支えてくださった人たち、大橋さん、山村(徳太郎)さん、大原総一郎さん、これは皆さん後で触れますが、もう一人、山本の郷里、新潟の長岡に、大光相互銀行のオーナーで駒形十吉さんという人がいる。これがまためちゃめちゃな横紙破りの男で、山本を可愛がったんですね。可愛がられた山本がそそのかして、「もう田舎でそんなことをやっている時代じゃありません。もう世界の波が押し寄せてきてるんですから、美術館を作りなさい、文化会館を作りなさい」。そしたら「そうか」てんでまた建物を作るんですよね。「ここで何かをやらなきゃいけません」「どうしたらいいだろう」「展覧会なんかやるのはもう古いんですよ。今は公開審査というコンペをやったらどうですか」と。で、「長岡現代美術館賞展」という長い名がついた展覧会をやりました。これはと思う作家を10人集める。それにこれはと思う評論家が、公開で、みんなの見てる前で審査をするという新アイデアを、山本孝が駒方十吉さんに、まあお願いして、タレ込むんですね。「面白いじゃねえか。それ、やろうじゃねえか」なんていうんで始まって、1回目に賞もらったのが岡本信治郎さん?
池上:岡本信治郎さん、「10人のインディアン」のシリーズのですよね。
松本:信治郎さん、そうです。あれがそのとき初めてそこに並ぶんですよ。2回目には、今度は国際的で、日本とアメリカを10人ずつ出して公開審査。そのとき審査員として誰をアメリカから呼ぶんだって、呼んだのが(ウィリアム・)リーバーマン(William S. Lieberman)。そのときにリーバーマンと日本の評論家と丁々発止と、みんなのいるとこでやって、結論が出なくて、高松次郎とチャールズ・ヒンマン(Charles Hinman)とに票が分かれる。で、2人が100万円ずつ。当時100万円ですからね。
池上:すごい値段ですよね。
松本:そうそう、すごいですよ(笑)。
池上:今だってすごいですけど、当時はさらに(笑)。
松本:2回目がイタリアの評論家ネロ・ポネンテ(Nello Ponente)。一席を取ったのがバリー・フラナガン(Barry Flanagan)。今でこそバリー・フラナガンっていうとみんな「うさぎ」だと思ってるんですけど、そのとき出品してきたのは「ブルー・ジーン」。ジーンズのこういうサック、底がついてんですよ、で、上が空いているんですよ、こうなって。それを3本、ブルー・ジーンのサックだけ3本送ってきた。で、紙に書いてある「中に白い砂で詰めろ」って。そうすると立体ができるわけじゃないですか。ブルーのジーンズの布のこういうのと、中の鮮明な白の砂、それが見事一席。もう手も足も出ませんよ、それではね。そのカタログをかろうじて全部一部ずつ僕は持ってたんですが。今日間に合えばと思ったんですけど、わかんないんです、どこへいったのか(笑)。あとドイツとイタリアとやって、イギリスとやったのかな。イギリスはヤシャ・ライハート(Jasia Reichardt)という女性の評論家ですね。ドイツの人も来てますね。
それで何回かやっているうちにもう魅力が失せちゃうから、そのうちに経済的なスポンサーである駒形さんのほうから、お金がどうなっちゃったのかわからないけど、そのうち長岡現代美術館賞展というのは5回か6回で鎖展になっちゃう(注:第1968年5回展で休止となる)。残念ですけどね。でもその最初のアイデアを持ち込んでいったのは山本孝ですね。その展覧会のおかげで「おつり」が出たんですね。それで、東京画廊の山本さんとウィリアム・リーバーマンとが非常に仲がよくなって。彼がお正月日本に残ってずっといたら、年の暮れからお正月誰も遊んでくれる人がいない。そりゃそうですよね。それでご飯食べるとか、どこどこ行こうとかっていうんで、すっかり彼は山本孝を気に入っちゃいましてね。それが身になるんですよ。こんなこと考えられないと思うんですよね。1969年、リーバーマンがニューヨークの近代美術館へ帰りましてね、版画部長、当時、大変なもんですよね。それがね、「山本君、ニューヨーク近代美術館のムンクの版画、全部貸すよ」って。きれいなもんでしたよ、傷んでないんだもん。「君に友情のお礼に貸すよ」って。
池上:じゃあ、ムンク展をそれで。
松本:ムンクの版画展が全部来たんですよ、木の箱に入って。
池上:へえー。
松本:乱暴な話、木の箱に入ってムンクの版画が全部届いた。それでそれをあの狭~い東京画廊へ並べたんですよ。入りきらないですよね、もう。4段掛けぐらいにしてね。そうしましたらそれが新聞に大きく出てね。行列が400メーターぐらいできて、新橋の駅まで行って、おまわりさんに怒られて(笑)。貸してくれる時間が決まってた。1週間で返せとかって言われてたんじゃないですかね。みんな見に来てくれましたよ。僕はムンクの版画展というのは、ただ人いきれの中、人の整理をしたのしか覚えてないんですよ。それはリーバーマンっていう人が、「サンキュー山本」っていうんで貸してくれた。それは「おつり」みたいなもんですよ。
池上:いろいろお世話になったからと。
松本:そうそう。それが1969年です。僕がニューヨークに行ったのが68年ですから、ニューヨークへ行って、やっぱり一番最初にリーバーマンにお世話になり、あれもして、これもしてですよね。
池上:今じゃ考えられないですね。
平井:ありえない(笑)。
松本:木箱で(笑)。台紙が付いてるとみんな同じ大きさで、それで版画で、木箱でしょ。自分たちでドリルでギーって開けて、自分たちで貼ってんです。で、またそこへ戻して。すごいことです。リーバーマンだってクビになっちゃうだろうと思うんですけどね。
平井:よくできましたね。
松本:よくできましたよ(笑)。でも昔美術館の人ってそういう横紙破りの人がいましたね。
平井:日本にもいろいろ伝説がありますけどね(笑)。
松本:ええ日本でもいました。僕今でも覚えてるんですが、今泉篤男さんっておっしゃる方が近美の次長さんかなんかになられて、あるときうちへみえて。岩波書店の、岩波さんのアシスタントをしてた玉井(乾介)さんという国文学者のおうちの人ですが、それと今泉さんと2人で来て。「山本君とこね、クルマ持ってるだろ。若いのいるよね。遊んでんのいるだろ。2日間貸して、クルマと」。「どうするんですか」と言ったら、近美の絵を、東村山市の、今は言葉が違うんですけど、昔はハンセン病の隔離病院(注:現在の名称は国立療養所多摩全生園)、そこで「患者に見せたいと」。「君んとこスタッフ出せよな。で、近美へ何時に取りに来い、裏へ。そしたらおれ貸すから。それ車へ積んで持ってって、みんなで掛けて眺めて、それで僕がちょっとおしゃべりするから。それで翌日持って帰るんだよ」。行きましたよ。そしたら紅白の幕が張ってあるんですよ、講堂に。今でも覚えてますけどね、端から名品ですよね。藤島の絵《耕到天》(耕して天に至る、1938年)とかね。
今泉さん、「これも、これも、これも」なんて。「ああそうですか」「落とすなよ」なんて(笑)。10点ぐらい持って行ったかな。そしたらもっともらしい解説をして、患者の人が看護婦さんと来て、わかったんだかわかんないんだか。で、展覧会は翌日持って帰った。その日に今泉さんと玉井さんと僕ら三人くらいで、ご飯をお昼に食べろって言うんですよ。僕はどうしてもその人たちが作ったカレーを食べられなくて、困ったの覚えてますよ。「申し訳ないな、おれは何という人間なんだろう」と。他のやつはみんな食べてる。今泉さんなんて「玉井君、うまいだろう」なんて。私は、それは鮮明に覚えてますね。今もありますよね、建物と、研究所になってるのかな。変な話ですけどね、美術と関係ないんだけど、そういう横紙破りの美術館の人もいた。ちょっと話があちこち飛んでしまいますけど、そんなことでしたね。(注:後に松本は、生家から譲り受けた大量の貴重なSPレコードをこの療養所に寄贈し、感謝状を贈られた。現在は療養所に隣接する場所に、国立ハンセン病資料館がある。)
池上:先ほどフンデルトワッサーのところでお聞きしたかったんですけど、ちょっと話が戻ってしまうんですが。彼の展覧会がすごく成功してすごくたくさん売れたというふうにどこかでお読みしたんですけど。
松本:フンデルトワッサーっていうのはね、乞食まがいみたいなんだけど、やっぱり一つのポリシーを持ってたと思うんですよね。たとえば上着が、こっちが黒でこっちがピンクなんですよ。ダブダブのそれ着て歩いてたら、誰だって見ますよ。
池上:そうですね(笑)。
松本:宣伝上手だったんじゃないかな。フンデルトワッサーのその頃の東京における暮らしを、田中田鶴子さんという絵描きさんのおばさまが、当時はおばさんじゃないんだけど、「なんて宣伝上手な人でしょう、私はキライ」とか言ってたのを覚えてますよ。池袋の駅の西口に泊まって。日本旅館がいいって。でも連れ込みじゃないと日本旅館ないんですよ、安いとこは。高いとこはあるんですよ。でもお金出せないから。すると何とも怪しげな連れ込みで、水が流れてましてね、赤い手すりの欄干がついている、連れ込みらしい、ご想像ください(笑)。それで日本の布団でしょ。でもえらい気に入って。「ここは日本だ」って(笑)。そこで彼は生活を二ヶ月か三ヶ月かするんですよ。そのときに絵を描くんですよ。
フンデルトワッサーの絵についてちょっとお話ししますとね。ロベルト・クリッパさんみたいな人はもう「アトリエを借りろ」とか、「アシスタントを用意しろ」とかね、「僕はその鉄板は使わない、こっちの鉄板を使うんだ」とか、言うだけ言うんですけど、フンデルトワッサーって人は何にも持ってないんですよね、変な上着着てるだけで。で、「絵を描かないのか」と言うと、「いや僕描くよ」って言うんですけど、ポケットから荷造りの紙を折ったぐしゃぐしゃのを出しましてね、ここから筆を1本出しましてね、定期入れくらいの大きさのプラスッティックの透明の板がありまして、そこへ使い古しの絵の具をこう無理に搾り出して。するとこっちからも出てくる、あっちからも出てくる。それで卵の黄身を小さな目薬の瓶みたいなのに入れて持ってて、それを真ん中にテケテケテケッてやって練るんです。そうするとほら界面活性剤ですから、卵の黄身で油も水彩も混じるじゃないですか。それで筆をこうやってですね、小さな筆ですからね、こうずっと描くでしょ。でまたずっと描く。で、紙を回すから渦巻きになる。
池上:ふぅ~ん(笑)。
松本:それで描き終わると、もう乾くもへったくれもないですよね、動く紙ですもの。今日はもう終わり。そういう描き方をしたんで、これも僕らはもう肝をつぶして驚きましたよ。なんだろうあの野郎、ふざけた野郎だなって(笑)。ところがやっぱりポリシーがあったんでしょうね。それは私ではなくて私の兄弟子に中島誠之助のいとこになる器用なのがいて、それを捕まえてね、キャンバスを作らせてましたよ。ドンゴロスに白い胡粉と膠を練って張らせて、それでキャンバスを作らせて、そのキャンバスに旅館で描いて渦巻を作ってましたよ。それでまあ点数がだいぶできた。それから持ってきた版画みたいなのもあるし、ポケットの中からいろいろ出てきた。大きい絵は50号か30号くらいかな、そういうのを持ってきた。じゃあ展覧会だというので東京画廊へそれを掛けまして。当たり前のところへ当たり前に掛けたら、「それはおれはイヤだ。これ全部外してくれ」って。それで低く、できるだけ低く下げろと。それで絵と絵の間を全部自分の渦巻で埋めるんですよ、壁に直接。その前にその異様な風体、それから個展らしいというのが喧伝されてますから、追っかけのオネエちゃんたちがぞろぞろ。いい男なんですよね。
池上:そうなんですね(笑)。
松本:ちょっといい男なんですよ。で、ちょっとスキニーでしょ。追っかけのおネエちゃんが、朝、まだお店が開かないうちからもう来て。5、6人いましたよね。その中の一人ですよ、奥さんは。池和田侑子さんという追っかけ。値段も安かったですね。山本が「高くすんな、いつまで上がってるか下がってるか、わかんねえぞ。第一、ロベルト・クリッパさんに悪いよ」なんて言ってさ。それで安かったです。展覧会は2週間ぐらいしかやってないですけど、もう10日目ぐらいには全部予約で決まってしまった。
池上:じゃあ前評判みたいなものがうまく出来上がって。
松本:そうそう。その非常に不思議な風体で、描きかけの絵を両手で持って、片一方黒で片一方がピンクの、サンダルだか靴だかわかんないような。で、後ろからその追っかけのおネエさんたちがぞろぞろ、それで銀座の表通りを歩いてんですよ。
池上:それはすごい宣伝効果ですね。
松本:そしたら新聞社撮りますよ、それ。それでまあ大成功で、お金も握って、お嫁さんまで握って。それでいよいよ帰るんだって。またこれがね、このときは僕に言ったんです、「君ね、僕帰りにどうしても持って帰りたいもんがあんだよ」「ああそう。何でも言いなさい、何でも買ってきてやる、何だい?」って言ったら、「船で帰るんだよ。僕ウラジオストックから帰る」。何だろうなと思ったら、「畳100枚ってどうかね」(笑)。あのね、畳100枚買って帰りたいっていうその発想がね、やっぱり僕たちは「ウーン、何だこいつは!?」という。それで100枚は、船が乗せてくんなかったんですよ。30枚は持って帰りましたよ、ほんとに、船に積んで。
池上:30でもすごいですね。
松本:それが、ウィーンの自分の家に後で行くとちゃんとあるんです。「これ君覚えてる?」って、畳。変わった人だったなあ。
池上:それだけ全部売れたりというのは、ウィーンでもなかった?
松本:もう大評判。評判というのはみんな瀬木さんのフランス語ですから、全部向こうへすぐ伝わる。『Cimaise』とか『Quadrum』とかにみな載って、即売り切れだと。フンデルトワッサーはここでは誰も相手にしなかったけど、日本で大変なブームになった、と。
池上:本国でもそんなに売れてはいなかったんですね。
松本:なかった。売れないから来たんですよ。
池上:ですよね(笑)。
松本:ロベルト・クリッパさんは売れてたから来た。フンデルトワッサーは売れないから来た。
池上:それじゃあ日本に行ったらマーケットあるぞ、みたいな感じで。
松本:いやー、売れるとは思ってないでしょうね。
池上:フンデルトワッサーの成功の後、ヨーロッパの人はちょっとそう思ったということですね。
松本:そうそう。そのあとは、いやーこれは大変だと、瀬木に頼めば何でも売れるぞという(笑)。
池上:それでわりといろんな方が海外から来られた。
松本:そのあといろいろ来る。たとえば(ルイス・)フェイト(Luis Feito)なんていう人がそうですね。瀬木さんは山本さんとそのあと、イヴ・クラインの展覧会を東京画廊がやってるんですよね。で、イヴ・クラインの展覧会をやるために山本が瀬木さんと一緒にクラインのアトリエへ行くんです。それでブルーの絵と、火と水かな、バーナーで燃してるところを水かけるという不思議な絵ですよね。あれを山本が買うんですよ。ブルーの絵と、オブジェと、火と水の大きな絵、50号かな、それを3枚買うんです。そしてイヴは、そのときにこの4点、5点は売れたというので、小さなスティッカーに、誰に売れたかというのを書かなきゃいけないじゃない、たくさんあるから。そのときに「Segui」と書くんですよ、フランス語だから。そのスティッカーが今、偽物と本物を究めるのに一番(役立ってる)。
池上:ああ、そういうことがあるんですね。
松本:「Segui」と書いてある。
池上:フランス語風に、綴りに「u」が入るんですよね。
松本:そうそう。ところが作品が来るということになって、イヴは自殺しちゃうでしょ。飛び降り自殺かなんかしちゃうんですよ(注:公式には、クラインの死因は心臓発作とされる。1962年没)。今度はそのニュースを瀬木さんから教えられて、山本はすぐ追悼、イヴを悼む展覧会をやろうというので準備を僕は仰せつかる。ブルーだからブルーがいいんじゃないかって。ホンコンフラワーって当時日本へ来たばっかりなんですけど、秋葉原に造花屋がありまして。そこへ行って、残っているブルーのホンコンフラワーを全部買った覚えがありますよ、僕は。それでホンコンフラワーのブルーの中に彼の肖像と絵を並べて追悼展というのをやりましたね。
平井:1962年頃ですよね?
松本:ええ、そうですね。
池上:亡くなったのは1962年ですよね。
松本:亡くなってすぐやってますよね。
池上:じゃあ1962年のはずですね。
松本:イヴ・クライン(の追悼展)は1962年の7月23日から7月31日までですね。だから生きてればこの時まさにイヴ・クライン展だったんでしょうけども、まあ残念ながら。ですから瀬木さんの、私たちというか山本を支えた瀬木さんの労力というか功績というのはずいぶん大きいですよね。そのかわりもちろん目違い、どうしようもないような人もずいぶん紹介されて、困っちゃったなって(笑)。まあそれはそれでいいんですよね。それが全部ダメだとは言えない。
話が前後しますが、この頃、私が東京画廊へ入る前に瀧口修造さんの肝いりで斎藤義重展というのがあった。これの1回目が1958年の11月。斎藤義重というのは、ご存知のとおり、軍人さん、連隊長か何かの息子ですけど。不承の息子。体が弱い、もう脆弱そのもので。そんな屈折したものがいろいろあって、瀧口さんと知り合って、瀧口さんが「斎藤くんというのはいい作家なんだよ、山本くん」というわけで。「そうですか、じゃあやりましょう」というので1回目の展覧会をやるんですね。そしたらそれが何かのはずみで全部売れてしまって、大変な評判になった。「斎藤が売れた」っていう。「あの斎藤の絵が売れたよ、おい」「どこで?」「東京画廊って変なとこだよ」「ああそう」。まあ画商というのは欲張りだから、売れるとすぐまた「2回目、2回目!」なんて。で、斎藤が2回目の展覧会をやる頃、山本が「松ちゃん、ちょっとおいで。あんた斎藤の担当ね。浦安へ迎えに行ったのあんたでしょ? それからずーっと斎藤を面倒みてる。一生おやり」と言われて、「ああそうですね」といって斎藤と一緒に暮らし始めるんですよ。
でね、ここんところがちょっと僕はね、今回のこのお話をするのに自分でもちょっと違うなと思うのは、一緒に暮らし始めて何だというと、ご飯作るのを手伝ってるわけじゃないんです。アイデアの中で、斎藤は口べたな人ですから、ぽそりと言うんですよね。そしたらそれを一所懸命考えるのね、斎藤と二人で。「どうしたらいいかな。そんな変なことできない、どうしたらいいかな」って考える。それで、「そうだ、こうしょう、ああしよう、よしやってみよう」って。「よしやってみよう」って言っても、斎藤はやらないんですよ。そこから先は、僕が体が非常に丈夫にできてるから、「よし、じゃあおれドリル買ってくるよ、ベニヤ買ってくるよ、ああするよ、こうするよ、道具買ってくるよ、絵具手に入れるよ」っていうんで、斎藤のドリルの仕事が始まるんです。斎藤はなんとかして今までの洋画家の描いてきたマチエールでないマチエールの絵を作ろうと思ってずーっと来たんですね。斎藤のそういう思いをくみ取っていたのが阿部展也さん。この阿部さんの手紙が斎藤の手元に残っていましたね。「斎藤くん、その不思議なマチエールを作るのにはこういう方法がある」とか「ああいう方法がある」とか書いてある。やってみるけどうまくいかないんですよ。非常に原始的な方法だった。で、その手紙を読みながら斎藤が、どうしたい、ああしたい、そうねえどうしょうかねえ、と言ってるなかで僕がハッと気がつくんですよ。「そうだ、大学行って聞いてこよう」って。有機化学の部屋へ飛び込むんです、落第生が。
池上:薬科大に行かれたんですか?
松本:そうそう(笑)。「お前何しに来たの?」って。「うちの卒業生の中じゃあ珍しいんだよ、お前は。何しに来たの、今頃」。いや実は先生、かくかくしかじかで、「非常に不思議なマチエールを作るために蜜蝋というものがあります。この蜜蝋を自由に扱うためには、先生どうしたらいいでしょう」「松ちゃん珍しいね、真面目だね」って。「じゃあ考えてやるよ」って有機の先生が一所懸命考えてくれて、蜜蝋の扱い方のレシピが僕の手元へ来るんですよ。そのときにいろんな薬品も使うんです。ラベンダー油という油を使うんですけど、それを混ぜて蜜蝋を溶かして。そうすると絵具が好きなように入るんです、中へ。色が出せる。くさいんだ、それがまたね。でもそんなこと言ってられないんで。下がベニヤ。ベニヤをドリルで削った上に蜜蝋をかけて、もういっぺん削って、また着色をしてという、不可思議なテクニックを二人で考えるんです。で、蜜蝋だけでやったのが第2回展で、1960年の3月。3回目が1960年の11月から。これはかなり乱暴な画面ができる。で、画期的な技術だって、『藝術新潮』にまたおだてられて。山崎(省三)さんかな、何だかわかんないけどうちの山本におだてられたんだろう、「科学者を雇って鋭意制作に没頭」なんて書くもんだから。そんなの科学者でもなんでもない、こっちは落第生なんだからさ(笑)。この第3回目の展覧会のときに、斎藤のあの力強い、何とも言えないデコボコしたザラザラの赤いものができるんですね。その会場に若い非常に気品のいい、坊ちゃん坊ちゃんした人がパッと現れるんです。それが山村徳太郎さん。
平井:今お話しになっている最初の個展からの作品というのは、兵庫(県立美術館)に入っていますね。
松本:そう、そっくりね。それでその山村さんが「これいただきます!」って。まあ大橋さんの二の次だよね。それで山本が、「いただきますって今言ったよな、松ちゃん。山村さんいくらって言っとく?」「えっと、じゃあおまけしてこれこれ」って、250万だか300万だった。「では大阪へお越しください。ロイヤルホテルでお支払いいたします」って。またもらいに行くんですよね、二人でそろって。
池上:結構なお値段ですよね。
松本:そうそう。そしたらね、もそもそっと現金をポンとくれた。これで山本がすっかりびっくりしちゃって、「あの人何だ?」って。「いや、酒瓶屋で瓶作ってるんだって」「ほー、大事にしなきゃ。君が当番だ!」って(笑)。
池上:大事な方は何でも当番に(笑)。
松本:以後、ずーっと山村さん亡くなるまで私が担当になる。そのときに山村さんと私がつながったおかげで、山村さんは自分のコレクションを育てるのに何でもかんでも、山本の意見も聞くけど、「松本さんどうしましょう、あと誰が足りませんか。こういうコレクションをするためには何が必要ですか。私は何を考えたらいいでしょうか」ってことになる。このカタログ(注:『山村コレクション コレクション・リスト』、国立国際美術館で1985年4月に行った「山村コレクション研究会」のカタログ)のコレクションがほとんど出来上がりかける1年前ぐらいに、山村さんが「自分のコレクションを見たことがない」って言うんですよ。置くとこがないんですよ。だってご存知でしょ、日本のお蔵ですもん。文庫蔵ですもん。このぐらいしかないじゃないですか。あの中に置くとこないんです。しょうがないから瓶の倉庫に置いてある。行くと社員に嫌がられるんですよね。「松本さん、これねえ、いいんだけどねえ……」。
池上:「邪魔なんです」って?(笑)
松本:「邪魔で困っちゃうんですよ。なんとかしてください」。
平井:私も伺いました。
松本:ね、そのへんはよくご存知だと思う。それで「私、見たことない」って。私は買ってるばかりで、いっぺんに見たことない。いっぺんに見る方法がないか考えて。やっぱりそのときもずいぶん相談されましたよ。木村重信さんとこへ頼みに行って。近美(注:兵庫県立近代美術館)の方がいい、大阪の近美がいい、いや東京の近美がいい、重信さんは「乾由明さんがいい」。どうしようかって、とどの詰まり増田洋さん、兵庫の洋さんに白羽の矢が立って、洋さんとこへ頼みに。そして今度は場所をどうするか。そのとき小倉(忠夫)さんですよ。
平井:そうですね、(当時の国立国際美術館の)館長は小倉さんですね。
松本:小倉さんは、よくわかりましたと。山村さんと帰って、それからしばらくして僕行ったのかな、小倉さんと。「何でも僕はいいんです。まあケガをしたり壊れたりそういうのだけなければ何でもいいですから、どうぞお好きにおやりください」って話で。それで(美術館を)借りて。山村さんはこのとき、もう癌だったんです。ご自分でわかってた。密かに奥さんとか僕には「もう僕これで終わりだよ」というようなこと言ってました。案の定、これをやられてしばらくして(亡くなられた)。そしたらこれ全部、遺産で奥さんのものになったでしょ? それをどうするか。売りたい気持ちもあるけど、山村徳太郎の名誉のために1ヶ所へ、散らさないでっていう。どうしようというので、また増田さんのとこへ。要するに買ってもらうことに。当時のお金で、何もかも全部入れて2億5千万だか2億4千万。
平井:そうですね。2億……
松本:その相続税をまた、未亡人は持ってたんだね、現金でポンと払った。驚いちゃって。山村節子さんていうんだけど、「節ちゃん金持ちだねえ」って。その山村さんとおっしゃる方は、やっぱり見果てぬ夢を追ってらしたんでしょうね。瓶屋のせがれとして会社を継がせられたけど、いろんな夢を持ってたのね。だからオリンピックに出す、帆で走るヨットがあるじゃないですか。ヨットレースの国際。あれのお金を出してましたよね。見果てぬ夢を見続けた人だね。
平井:大橋さんなんかとはまたタイプの違うコレクターでいらしたんですか。
松本:タイプの違う人。大橋さんという人はただものすごくきまじめな、癇性の人でしたよね。山村さんはそうではないんだけど。僕は当時西宮の北口にアパートを借りて住んでたんですけど、朝起きるとアパートの前にベンツが止まって、山村さんが乗ってるんですよ。それで家内が、「ほら、山村さんのクルマだ」っていうと、「どうぞ、ゆっくり食事をして下りてきてください」って言われる。
池上:そう言われてもゆっくりできないですよね(笑)。
松本:そうそう。それで慌てて行くでしょ。そうすると「どこ行きましょうか」って言う。どこ行きましょうかって言われたっておれは考えてないんだ。「じゃあまず会社へ行って」なんて。山村さんのところというのは365日赤旗が立ってましたよね。瓶を作るって、高熱の炉があるじゃないですか。だから労働者にとっては大変な。
平井:過酷な職場ですからね。
松本:過酷な職場だった。みんな錠剤になってる塩をカリカリ食べながら工場へ行く、そういうとこでしたから、おそらくそういう重労働、労働のきつい職場だったんでしょう。
池上:赤旗というのは、組合なんかが強くて。
平井:労働運動というかね。
松本:日本中のそういうきつい職場は労働運動の人たちの支援をいつも受けてた。ずっと赤旗が立ってた。社長室行くまでずっと赤旗(笑)。それで「気になりますか?」って言うの、僕に。「いえいえ、全然」「気にせんでいいです、あれ。あれはああなってるんですから、大丈夫です」って。まあご存知のとおりね。今考えてみるとこの山村さんという人は、大橋さんと違った意味で見果てぬ夢を見て、ちょっと中途で残念だったかなと。
池上:山村さんは、日本の現代のものを集める前は西洋の近代ものを集めてらした。それを処分されたんでしたっけ。
松本:要するにこれのために全部手放すんです。
池上:日本の現代を集めるために。
松本:これをやるために。たとえば加山又造なんかのでかいのを持ってたりね。鳥海なんかも持ってたしね。
平井:梅原(龍三郎)なんですね、最初お持ちだったのは。
松本:梅原も持ってました。
池上:洋画も持ってらした。
松本:洋画も。とにかく手当たり次第買って持ってた。それを全部これに注ぎ込んだ。
平井:あと今西洋美術館に入っている(ジャクソン・)ポロック(Jackson Pollock)とか(ワシリー・)カンディンスキー(Vassily Kandinsky)とか。
松本:カンディンスキーもそう、ポロックもそう。それから(フェルナン・)レジェ(Fernand Léger)がありますよ。それから(ジャン・)アルプ(Jean Arp)。アルプは2点持ってました。大理石の《芽》というのはきれいな作品でした。そういうものはみんなこれになっちゃった。
池上:そのあたりの処分といいますか、お手伝いも東京画廊でされたんですよね。
松本:そう。「わし、もうこれいりまへんわ」って、簡単なんですよ。「もういいですわ。いくらになりますかな」って。「これは500万ぐらい……」「ああそうですか。ほんなら秋口までにひとつ頼みますわ」って、それで終わり。
池上:それで、しかるべき収め先を探されたということですね。
松本:それを保管しているカギがどこにあるかわかってるのは僕なんですから。本人わかんないんだから。どこに置いてあるのかわかんない。僕はいっぺん怒られましたよね。誰だっけ、(ヘレン・)チャドウィック(Helen Chadwick)だったかなんかを「いりまへん。売りますわ」、「ああそうですか」って、大林組の大林芳郎さんに僕は売ったんです。で、お金をもらって山村さんに届けた。そのときに僕大林芳郎さんに、「これは前の山村さんのコレクションで」って言ったんだな。そうしたら、あの人たちみんな株主総会かなんかで横に並んでご飯食べるじゃないですか。「あんたのあれ、わしが買うたで」ってなこと言うたんでしょうな。「えっ、松本のおしゃべりめ」というんで、すぐ怒られましたよ、僕。
池上:言うなと(笑)。
松本:「わしが今ちょっと株で困っとんのは、言わんでほしいんですわ」なんて。「そのかわり大きいザオ・ウーキー(Zao Wou-ki)売りますわ」とかね(笑)。今もご健在でいらっしゃる節子夫人に言わせると、「松本さんというのは私の家では家族のようでした」と。あと、尾崎さんとおっしゃる方。
池上:尾崎信一郎さん。
松本:あの方はこれが出来上がる1、2年前に人手が足りないんで、山村さんが「誰かいまへんか」って学校へ聞きに行くんですよ。そしたら木村重信さんが「絵が好きで、ちょっと体の丈夫めなのがおりまっせ」。
池上:そこがポイントだったのか(笑)。
松本:「尾崎っていいます。給料いりまへん」って。「ああそうでっか、ほな来週から来ておくんなはれ」っていうのが尾崎さん。だから大変言葉が悪いけども、昔風にいうと書生ですよ。
平井:まさにそうだと思います。
松本:内働きの書生。
平井:このリストも尾崎さんが作ったはずですよ、こういうのみんな。
松本:そうそう。
池上:これで尾崎さんも修業されたんですね。
松本:ねえ(笑)。当時としては、僕は東京へもう帰ってたんで、働くのにはとにかく地元にいる尾崎さんに頼んでおかなきゃしょうがない。尾崎さんにへそを曲げられたら僕は仕事になんないんで。
平井:そんな(笑)。
松本:いやいや、そういう思いはありますよ。まあそんなでしたね。
池上:山村さんと大橋さんで二人とも関西にいらして、何と言うのでしょう、ちょっとライバル関係のようなものはなかったんですか。
松本:お互いにほとんど行き来はありません。それからお互いにライバル意識はありません。大橋さんは晩年に、「あんた、変な瓶屋に行っとるやろ」って。「いや、瓶屋って……」「ほら、酒瓶作っとるやつおるやろ。あんなのと一緒にしたらあかんで、おれのこと」「はい、わかっとります」って。山村さんのほうはそんなこと全然考えてない。
池上:ほしいものが重なるということは。
松本:重ならなかったですね。ほしいものは重なりませんでした。木村重信さんという人もある意味で非常に豪快な大ざっぱなとこがある先生でしたからね。
池上:ええ、そうですね(笑)。
松本:僕は今でも覚えてるんだけど、平井さんが聞きに来ていただいたことがあるかもしれません。国立国際(美術館)で私が「大橋嘉一さんの思い出」という話をしたとき、来てくださいました。
平井:伺いました。
松本:今でも覚えてます。あのときに木村さんが僕に、「松ちゃん、あのな、何でもいいから話をせえ。何でもいいんだ、ほら大橋の話をせえ」って。「ほうすると具体(美術協会)のこともよくできるだろ?」って言った。だからあの人の頭の中は大橋コレクションも具体も一緒だったんですよ。「それは木村さん、全然畑の違う話でね、水田の中でおかぼ(陸稲)を作ってるような話じゃないですか」って言ったの。「そんなことおまへんで、あんた。だいたい訳のわかんないのはみんなおんなじや」って(笑)。このなかに出てくる大原聡一郎さんという人はまたちょっと別ですね。というのは、この人はまあ、はっきり言うとええとこの子ですわ。京都に大きなお屋敷があったし、二代目ですし、すでにもう経済人として名を成してるし、それから最初の美術館はもうすでに建ててあるし。で、僕は大原聡一郎さんという人にはもちろん可愛がってもらって、大原に藤田慎一郎さんという館長さんがいらして、あの人にもよう可愛がってもらいましたな。藤田慎一郎さんは先年亡くなりましたけど、彼がこの大原さんの跡を継いで大原美術館を大きくした、現代美術をやった人ですね。その方に僕は可愛がられた。今は髙階(秀爾)さんですね。
平井:はい、そうですね。髙階先生が館長です。
松本:その前は小倉さんでいらした。大原聡一郎さんのコレクションですけど、藤田さんが「これがええんとちがうか」といって京都へ聞きに行くわけです、京都の白河の自宅へ。そうすると「君がええんならそれでええんとちがうか」という返事をもらって、それでものが売れていったという。大原美術館というのは、僕は藤田さんの引きがあったものだからすごいお世話になりましたよ。できない展覧会があると大原へ持っていくんですよね、予算がないから。「斎藤展をやりたいんですけど、ちょっと予算が足りないんです」。「お、いいよ。やってあげるよ」と。「川端実展をやりたいんですけど、今予算が足りないんですけど」「ああいいよ、やってあげるよ」って。大原さんのとこでお金を出してくださる。
池上:それを東京画廊で?
松本:いや、美術館でやる展覧会。
池上:ああ、大原のほうでやってくださる。
松本:そうそう。たとえば川端実展というのは大原と京都でやった(「川端実展:在米35年孤高の軌跡 国公私立美術館連繋企画展」1992年)。京都は、内山(武夫)さんの時代にやったでしょ。そうすると内山さんのとこだけではちょっと予算がきつい。どこかないかな。「じゃあ藤田さんとこ行って頼んでくるわ」って。藤田さんとこで予算半分持ってもらえればできちゃう。
池上:そこから作品も買ってくださったり?
松本:作品も買ってくだすったし、展覧会もやっていただいた。ですね。だから大原さんはちょっと……
平井:大原さんというよりは藤田さんですね。
松本:藤田さんですね、これは。藤田慎一郎さんというのは大原家の一族ですけれども、例の大原美術館の奥の方に東洋館とかバーナード・リーチ館とか何とかって。
池上:民藝の。
松本:しゃれたたたずまいというかインテリアがあるでしょ。あれをやったのが、秋山正(1915–)というインテリアデザイナー。藝大を出て、日本航空の鶴のマークを作った人。その秋山正という人を支えた、石黒(孝次郎)さんという男爵がおられた。芝でクレッセントというレストランをやっている、その人が藤田さんを可愛がって大きくした。クレッセントのインテリアもそうですよね。インテリアが非常にユニークで、いい仕事をしたものだから、これはと思うお金持ちというか素封家の人はみんな秋山さんのインテリアをみんな頼んだ。たとえば、今大阪(大阪新美術館建設準備室)に入っている(アメデオ・)モディリアーニ(Amadeo Modigliani)の《横たわる女》(《髪をほどいて横たわる裸婦》、1917年)、あれを持ってたのは山本清雄さんというメリヤス屋さん。そこの家のインテリアなんかも秋山さんがやっている。それから乾由明さんのお家というのは「はり半」という大きな料亭。それもこの秋山さんがインテリアをやった。それから大原美術館の後ろのたたずまいは全部秋山さんがやった。その秋山正という男と藤田慎一郎というつながり、それに乾由明、そこへ僕が加わって、4人でウソみたいに遊び回った時代。そこへ吉原治良さんが入ってくる。
池上:ほう。
松本:後からですけどね。吉原治良さんという方はすっごいド真面目で、ただひたすら真面目だった。でもインド・トリエンナーレ(1971年)の前後、突然目覚めて、「人生やり残したことがあるんじゃないか」と、もっと楽しい世界がいっぱいあるだろうというふうに思い込んだんでしょう。われわれの仲間に入ったんです。
池上:遊び仲間に(笑)。
松本:そうすると吉原さん、秋山さん、それから藤田真一郎さん、乾由明さん。僕だけが飛び抜けて年が若いんですよ。でもほら根が嫌いじゃないのと、体が無茶苦茶丈夫だから、全部ホイホイという楽しい時代でした。
池上:どういう遊びをされたんですか。
松本:いやあ、夜集まると安いキャバレーへ行って散々飲んで、最後はみんなこっちですよね(手のひらを頬に寄せる仕草をしながら)。
池上:と、おっしゃいますと?
松本:吉原さんなんて最後のほうはひどかったね。「松ちゃん、あの子さ」とか言って、男の子ですよ。言えないけどさ。
池上:へえ、皆さんそういう……
松本:いやいや、そんな趣味ないんですよ。僕なんかはとんでもないですよ。乾由明さんもないし、藤田さんもない。ただ言えることは、その頃の日本というのは、何と言うかな、今日より明日、明日より明後日は楽しいぞという。それでウソじゃなくお金も入ってきたんですよね。僕らだって、サラリーマンがそんな遊ぶ金なんてあるわけないんだ。ところがやっぱりなんとなくそのお金がグルグル回ってきた、日本のよき時代じゃないですかね。万博が始まる前後かな。
平井:具体なんかはその時代の象徴みたいなところがありますね。
松本:そうです。その頃、僕は西宮へ2年半ぐらいいた。「お前行って住んでこい」って。女房連れて行くんでまあいいんですけど。その頃、あれはライオンズ・クラブ、ロータリー・クラブかな、大林芳郎さん、大林組のオーナー社長がこの辺(注:聞き取りを行った国立新美術館がある六本木界隈)に住んでいた。その人のロータリー・クラブの会員の中に岡本太郎さんという人がいた。すぐそばですからね。同じ町内なの。ロータリー・クラブで毎週会ってて、吉原さんが岡本さんに尋ねたんだそうですよ。「まともな画商さんは日本にいないのか」って。そうしたら太郎さんが、「ううんいるよ、変わりもんだけど。山本孝というのがいるよ。あいつは変わってるけどね、国際的だよ」と言ったらしい。そしたら吉原治良さんが「それは面白いね、会おうじゃないか」って。それで山本さんと吉原さんと大林芳郎さんの友情みたいなものがそこで生まれるんですよ。それがまた面白いんだな。それで普通の人だったら、オーナー社長だから、山本孝が全部仕切るじゃない。それはやんない。「松ちゃん担当な、お前」。吉原もお前がやれ、大林芳郎んとこもお前がやれよって(笑)。
池上:関西がご担当みたいな感じに。
松本:それで大橋さんと山村さんのカネもあるから、「じゃあ大林芳郎さん、私やらせていただきます」というんで、大林組、そこへどんどんものが売れるようになる。そのうちにあそこへ超高層のビルを建てる、大林組が。今でこそ時代遅れだけど、当時としては大変画期的な、大阪で1番目か2番目の超高層ビル。あれは藤縄(正俊)くんというアメリカ帰りの設計者なんです。僕より年下の人。でもあそこ不自由ですよね、行くと。エレベーターが2台くっついてるんです、これが偶数階、こっち奇数階。どこへ行くのでもこう、入れ違いになってる。ものすごい面倒くさい。スペースをセーブしたのと、エネルギーをセーブしたんだと思うんですけどね。そういうビルができて。
そしたら大林芳郎さんが東京画廊を買ってくれて。松本を買ってくれて。「よしわかった、正面の彫刻は流政之」。だから大林芳郎さんを連れて流政之のアトリエへ出かけて行って。あの頃、鉄のあれができるでしょ。大林のビルは上から下まで、当時最も元気のいい、私たちの戦列に並んでいるアブストラクトの人のもので埋めたんです。斎藤の波の作品とか、高松次郎の破いた紙とか、久野真の鉄板とか、(エンリコ・)カステラーニ(Enrico Castellani)の真っ黄色なデコボコの絵とか、フォンタナとか、吉原治良とか。そしたら今度は逆にそれがニュースになった。新しいビルができて、全部新しい現代の作品だぞという。大林組の大林芳郎さんという人は、新しいか古いかなんてどうだっていいんですよね。自分はとにかく企業を大きくすればいいわけだから。
大林芳郎さんがたった一人だけ僕を紹介してくれたの。「松本くんね、僕今日あんたに紹介したい人がいる」「そうですか、ありがとうございます」。香川県に金子正則っていう知事がいるんだよ。「これは面白いぞ。お前行ってこい」「そうですか、ありがとうございます。じゃあ行ってまいります」って、そのまま金子正則さんに電話して訪ねて行くんですよ。そしたら香川なまりのおじちゃんでね。何言ってるのかよくわかんないような人なんだけど、それがあの橋(瀬戸大橋)架けた人だよ。そのかわり香川県は破綻しますよね、いっぺん。全部預金崩して、あの橋を現実にしようとして。それから丹下健三さんに日本で最初の新しい建築物、県庁を造らせた人です。それは大林が造るんですね。丹下健三さんの香川県庁、今も残ってるかな、壊しちゃったかな。
池上:あります。新館か何かがくっついて。
松本:ものすごい使い勝手が悪い(笑)。住んでる人はみんな死にそうになって困ってる。「なんでこんなもん作った」って。知事に「知事がお作りになった丹下さんの建物ね、みんなが困ってます」って、言うたよ、僕。そしたら丹下さんてえらいね、「自分たち使うもんが慣れろ」って言ったって。変な建物だった。その金子さんという人が、知事っていいながら予算なんか何もないんですよ。予算なんか取れませんよ、そんな贅沢な話ね。でも展覧会をやりたくてしょうがないの、現代美術の。フォンタナだとか(ジュゼッペ・)カポグロッシ(Giuseppe Capogrossi)だとかそんなのを並べたでしょ。それで東京へ来るんですよ。「マシモト(松本)くん、マシモトくん、ちょっと話がある」とかって。「今度やろう」とかって。しょうがない。木箱作るのボランティアだもん。私、自分で作ってるんだもん。美術品を送る箱。
池上:クレートですね(笑)。
松本:向こうへ行って開けるのも僕、飾るのも僕、終わったら荷造りするのも僕、持って帰るのも僕(笑)。ただ言えることは、それでその金子さんという人がすっごい喜んでくれてね。ポスターを作るときに、ポスターの紙ってこういう格好してるでしょ? ところがフォンタナで作ろうって。フォンタナって縦にこうずっと切れ目がある。1枚じゃ入らないでしょ。だからポスターを2枚つなげて割れ目がビャーッとこういうのを作って、「これだ! マシモトくん、これが現代だ」って(笑)。
平井:それはどこでされた展覧会ですか。
松本:それは香川県の高松に香川県立文化会館というのがありまして、そこでやりました。やっぱりそうやって考えてみると、その金子さんという人もめちゃめちゃな人ですよね。予算ないんだもん。それでただ何かやりたいって。それで僕、この人やんなきゃいけないんだと勝手に思い込んで(笑)。だからクレートまで手前で作って、手前で安いので積んで持って行って、開けて展示して、それでまた荷造りして持って帰って。「マシモトくん、ありがとう。今日は魚を食いに行こう」なんて、「ここのマナガツオはおいしいでしょ?」なんてものすごい自分で食べるんだ(笑)。
池上:その後、香川の美術館に作品が入ったりとか、そういうことにはつながりましたか。
松本:ええ、そう。文化会館に残ってますよ。その金子正則という風変わりな知事が流政之を支える。「おいで、うちへおいで」って。「庵治半島のタバコ畑を買うて、そこへ住みんせえ」。(イサム・)ノグチもそうじゃないですか。
池上:そうですよね。アトリエもあって。
松本:あれもはじめの頃は和泉(正敏)さんというアシスタントが。
池上:今もされています。
松本:あの人なんかほんとにもう奥さんと二人で、どうしていいかわかんないような時代に行ってますよ、彼を連れて。金子さんの黒塗りのクルマに乗ってるんだもん、僕は。「やあ」なんつって。
池上:では金子さんがイサム・ノグチも流政之も呼んできて。
松本:みんな引き受けた。表向きで引き受けるとほら、県民に叩かれるでしょ。だから表向きは引き受けてないんだけど、実際は引き受けてるの。
池上:紹介したりとか。
松本:そうそう。だからイサム・ノグチなんかでもそうですね、地元の人がみんな「金子知事から言われてるから、しょうがねえよな」、「松本くん、ほんとはどうなってんのかね」なんて裏の話を聞きに来るんですよ。僕だって言えないしね。僕は秘書官じゃないしね。金子さんの黒いクルマに僕と一緒にずっと乗って、県の中でずいぶんいい顔してた秘書は、金子さんが知事選で落選すると同時に小豆島の図書館長になっちゃった。すごい。
池上:どう反応していいのか(笑)。
松本:何て言っていいかわかんないでしょ。一世を風靡したあの男が。
池上:流されたみたいなことですか?
松本:まあそれはもう、何もそこだけじゃないので、日本中どこでもそうなんですけどね。そういう乱暴な。だから裏事情を知っている人からは電話がかかってくるわけですよ。「松本くん、これでこうなってるんだけど、どうなるかね」、「それ話したってダメですよ。庶務課長聞いてませんよ」「ああそう、じゃあやめるわ」とかさ。本当は僕がそこに介在すること自体が不自然であり得ないことなんですよね。でもその頃の日本ではまだあった。
池上:その必要があったんでしょうね。
松本:今でも覚えていますが、流政之が金属の彫刻を四国で作らせる。四国で作った。ところがものすごいでかくて、当時のトラックでは乗せるようなトラックがなかった。でもコンボイのお化けみたいなのを持ってきて、積んでそして神戸に上がるんです、船から。そしたら神戸から中之島までトラックを動かさなきゃいけないじゃない。交通のOKを取らないと動かない、でかすぎて。だって載積オーバーもいいとこだし、寸法も全部オーバー。どこの陸運局へ行ったって、建前ではダメなんです。それで大林芳郎さんに、「実はこういう大きさでございまして、陸運局から許可が出ないんです」「わかった。30分経ったらもういっぺんおいで」って、秘書室へ呼ばれて行ったんです。そうするとそこへ、よく見る社員なんですよ、僕は何をしてる人だがわからないけどよくウロウロしてる社員がいたんです。「頼んであるからね、大丈夫」。そしたらこれなのね(頬に指で線を引いて)。こっちの大元だよ。それが「何月何日何時、これこれかくかくしかじかの載積オーバーのものが通る、よって通せよ、お前」、「はい、わかりました」って、通った。
平井:へーえ。
池上:そういう裏のつながりみたいなものもちゃんとあって。
松本:万博が終わって、それが3年目ぐらいの話ですよ。よく冗談に大林芳郎さんは僕に言いましたよ。万博のときのあの大きな屋根ね、こういう組み立てる大きな屋根。「あの屋根を組み立ててジャッキで持ち上げたのはこの人。日本で一番力持ちだからね、この人。逆らわないほうがいいよ」なんてよく冗談で言いましたよね。よき時代といえばそれまで、でもそれをなんとか現代風、近代風に修正しなきゃいけないなと思ったことも事実じゃないんですかね。僕は今でも覚えてますが、あるとき大林芳郎さんと飛行機で隣り合わせで座って。そしたら外をずっと見てて、「ねえ松本クン」「はい」「日本列島改造論、私は切りなく仕事がある」って言った。まあ(田中)角栄さんのほうのことでしょうけどね。
池上:関西圏のそうそうたる方々とお付き合いされていたわけですけれども、その当時関東圏では彼らに比較できるようなコレクターというのは。
松本:いましたよ。たとえば本田技研の本田(宗一郎)さんという社長さんいたでしょ。あの人全然よくわかんない。見ない。無茶苦茶に買ってましたよ。ただ片腕だった藤沢(武夫)さんというやり手のセールスマンがいて、ホンダが大きくなったのはそのためですけど、その人がやっぱり目利きでしたよね。ズカズカッと入ってきてね、「これどう?」とかね、そういう買い方を。たとえばフォンタナの大きな絵とかね。何か絵が掛かっていると入ってきて、「あ、失礼、また来ます」って。つまんない絵だとそういう言い方をする、「また来ます」って。
池上:それはやっぱり「あ、わかってらっしゃるな」という感じでしたか。
松本:こっちは「見抜かれた」って。うちの山本がすぐ思って。「何て言ってた?」「失礼しました、また来ますって」、「ああそう、ダメだ」。負け惜しみで「あいつは絵がわかんねえんだ」とか言ってるけど、ほんとはそうじゃない。向こうのほうが役者が上なんだ。そういう人がやっぱりいましたよね。それから新潟にいた駒形十吉さん、それの友だちだった吉沢(平次)さんとか、それから織物の仕事をしていた寺岡泰一郎さんとか、高崎の方の建築会社をやってた人で、お茶をやってた人とか。それから石橋一族。これはやっぱりいましたね。
石橋一族は、ご当主じゃなくて弟さんが来て現代美術を買ってました。それで石橋家というのは面白いんだよ。買ってしまったら商人をあまり行き来させないのね。歴代の家訓ですかね。自分の倉庫なんか、絶対商人を入れない。それで仲良くしない。面白いと思う。今でもそうですよ。こんないい絵を買ったって大喜びで言ってるから、もうちょっと私なんかに優しく、ってこと全然ない(笑)。全然関係ない。あれ家訓でしょうね。だから減らないんじゃないかな。嬉しがってニコニコしてたら減っちゃうからね、どんどんと。じゃないかと思いますね。
今申し上げた山村さんにしろ、大橋さんにしろ、それから駒形十吉さんでもそうだけど、ちょっと計算できない横紙破りで、ハチャメチャね。もっと悪い言葉を使えば、子どもが何かほしがるみたいに、見たもの見たものほしいんですよ。子どもってそうじゃないですか。あれもほしい、これもほしい。そういうところがみんな残ってますよね、大の大人が。経済人になって。だから会社も破綻する、うまくいかなくなる、それから税務署にやられる。ほかの人たちでも、日本でそういう人たちは出るんだけど、意外に早くみんな計算しちゃう。「あ、ここから先踏みこむと税務署だ」とか。だから粒が小さい。
ご質問の中にもあるんですけど、日本のそういう社会性みたいなもの、美術のコレクションについての社会性みたいなものは、やっぱり日本が戦後培ってきた税制に支配されている。それが大きなネックじゃないですかね。たとえば、ご質問の中に出てきている、アネリ・ジュダ(Annely Juda)、あるいはロドルフ・スタドラー(Rodolphe Stadler)とか、ドゥニーズ・ルネ(Denise René)、そういう画商さんたちを支えたその国の経済人たちというのはみんなハチャメチャですよ。要するにほしくてほしくてしょうがないんだ。自分の経済なんてどうだっていいんだ、会社なんてどうだっていいのよ。
池上:でもコレクターの本質ってやっぱりそこですよね。
松本:そうそう、だから気がちがっているんですよ(笑)。僕はそう思う。あれだけ恩になりながらそんなこと言えた義理じゃないけど、みんな気が違ってると思いますよ(笑)。だってそれがほしいんだもん。そうでしょ。70にも80にもなって、もうよぼよぼになって死にそうなのにまだほしいんだもん。それは変ですよ。
池上:やっぱり欲が強いんでしょうね。
松本:でもその変な人が、実は美術の世界を支えるんですよ。
池上:そうですよね。
松本:で、それが変じゃなくて、息子が言うからやめとこう、息子の嫁が「税務署がこわいからよしなさい」と言ってる、家内も言ってるからやめとこう、それだと全部常識的なコレクションになっちゃう。
池上:そこで止まっちゃうわけですね。
松本:こんなこと、ここで言っていいのかどうかわかんないけど、今から5、6年前に、コレクターがいなくなってきた日本を嘆いて、コレクターというものをなんとかしなきゃいけないということで、東京の何人かの人が、集まって会を作った。毎月1万円でコレクターの会を作りました。毎月1万円で1年で12万。5人集まりました。「すごいでしょ」って。すごいんだけど、ちょっと違うんじゃないのかな(笑)。僕はさすがに言わなかったけど。黙って身を引きましたよ。
たとえばアネリ・ジュダの、スポンサーでいらっしゃる一人だと思うんですが、スウェーデンの王族の一族がいます。もう全然、何て言うの、ほしさも違うけど、かけるお金も違うんです。それで非常に気さくな人で、僕なんかも友だちです。奥さんという人もたまに来るんです。自分の自宅ね、広大なお城に住んでて、暇なときはトラクターに乗って芝刈りしてるって。「コレクションが入りきらないのでまた棟建てました。いらっしゃい」なんて。やっぱり何かこう違う。逆に言うと、その何かの違いはどこから来るんだという気がしますよ。
池上:それはもう美術館のコレクションを見ても同じですよね、日本と海外で。
松本:村田慶之輔さんとおっしゃる方が国立国際美術館におられたでしょ。で、美術館が中之島へ移ったでしょ? コレクション全部公開するからおいでって。そんなこと言えた義理じゃないけど、ちょっとこれが日本の国立国際なのって。外国人はひっくり返って「次のメインの部屋どこ?」って聞くぞ、おい、って。彼はこんなになって怒りましたけどね。
池上:まあ、でも否定できない部分も。
松本:「わかった、これ玄関だからメインはどこ? 倉庫でいいから見たい」って言われるよ、慶ちゃんって。日本の国の予算のかけ方、コンピューターの京でもそうだけど、「なぜ2番でいけないの?」といったような発想が美術館の中にあるじゃない。僕らが言ってはいけないことだと思うんですけどね。まあどこかお感じになっていらっしゃると思う。
平井:寄贈でコレクションを充実させるというのも、美術館の場合、方法としてありますけど、なかなか相続税とかいろんな問題があって。どなたが何をお持ちなのかもわかんないし、うかつに寄贈しちゃうとまた税金がガバッとかかるとかいろんなことがあって。アメリカなんかそこは非常にうまくしてあって。生前は自分でも持てるし、亡くなると非常にいい条件で美術館に寄贈して、そして名誉も残るという。
池上:税金もカットになってという。
松本:たとえばこの間、もう5、6年前ですけど、京都の税務署から春日部の税務署に問い合わせがあったんです。「松本さん、ちょっとお尋ねしていいですか」「何ですか」「バーナード・リーチのエッチングというのを、あなた京都国立近代美術館へ寄贈したでしょ」とか言うから、「いや、あげましたよ。好きだっていうからあげましたよ」って。「いや、それはいいんですけど、いくらでお買いになって、あげたときいくらですか」って。差額が出たら、それは春日部の税務署としては登録してもらわなきゃって。おいおい、ちょっとやめてくれよ~って(笑)。だから国の悪口になっちゃうから、ちょっと言ってはいけないことだと思うんですけどね、なんか基本的に破天荒なところが、この3人にはあった。でもこの破天荒さもね、江戸時代の破天荒な人たちから見たら全然破天荒じゃないんだよ、そうでしょ。命を賭けて、ほしくてほしくてという、江戸時代あるいはそれ以前の破天荒な人たち、あるいは歴代の大名の人たち、あるいは天下取りの人たちのあの頭のおかしさから見たら、山村さんなんて小粒ですよねえ。そんなこと言っちゃ申し訳ないけど。
池上:でも、そういうものすら許容しないような社会構造になっているということですよね。
松本:ただ、少なくともそういう世の中にめぐり合わせて今生きてきたんだし、生きていくんだから、やっぱりそれにはどうすればいいかなというね。ただ文句を言ってるのはわけないけど、じゃあどうすればいいかなということじゃないでしょうかね。
平井:いい時間になりました。
松本:じゃあそのくらいでご勘弁いただいて。
池上:今日はこれぐらいにさせていただきます。
平井:面白いお話が聞けました。
池上:ありがとうございました。