細谷:昨日は、名古屋で〈ゼロ次元〉の活動が始まって、東京に出てくるまでのお話でした。1964年に東京にいらっしゃって、明星(めいせい)電機という会社を。
加藤:設立して東京に来た。
細谷:そもそもなぜ電機会社だったのか。そして明星電機という名前はどこから来たのか。
加藤:明星電機は、うちの嫁の親父の会社なんだよ。元からあった名前。そこの親父が富士通の創立の社員でもあった。富士通の前身の富士電機を名古屋で設立した人なんだ。そのコネクションで組織をもっていた。俺と娘が絡んじゃって、俺が東京に行くというのは嫁の親父も知っていたわけ。付き合って1年くらいから知っていた。これ以上、教員をやっているとあまりのおもしろさにもっていかれちゃうから。子どものすごさだね。子どもの作品には、俺の言う以上に無意識が出てくる。無意識を殺すのが芸大とか芸術大学だとすると、俺の言う教育論をやると無意識以外出ない。だから今まで絵が不得手だった奴がうまくなって、上手だと言われていた奴が落ちていく。俺は中学校からそういうふうに(北川民次の)絵画教室に入れられていて、大人に混じってヌードを描いていた。それは俺だけなんだよ。そのヌードが評判になって、いろいろ展覧会に取り上げられた。多摩美に行って帰ってきて、同じ塾に行って、またほめてもらおうと思ってヌードを描いた。そしたらその先生がものすごく怒った。「お前は多摩美なんかに行ったから、絵がダメになった」と言われてびっくりした。先生が何をほめていたのか思い出せなかったんだけど、先生の指導は、ヌードを描きながら俺の全然違うものを引き出していた。それをきっかけに、俺は授業をがらりと変えた。多摩美で学んだことを違うかたちでやろうとしていたのを、そこの塾に行ってそういうふうに言われて「あ、そうだ」と思った。(岡本)太郎も「規格のものを描くのをやめろ」と教えてくれたのに、ヌードデッサンとかを忠実にやってしまったがゆえに、以前の俺の絵が壊れちゃっていた。それを復活させるのが絵画教室で、子どもたちにそれをやらせると皆が戻ってくる。子どもに帰ってくるんだ。どういうことをやるかと言うと、鉛筆を両手で5本持たせて、目をつぶってぐるぐるとひっかき回して描かせる。その後、そこに好きな色を塗り込ませる。俺が手を出す授業は全員にそれをやらせた。それから、教室中に画用紙を並べておいて、皿に入れておいた絵具を裸足の足裏に塗って走らせる。右から15人走って、左から15人走らせる。足を洗わせて好きな紙を取らせる。それで一等賞から十等賞を俺が決めちゃう。だから、誰が描いたかじゃなくて、選んだもので決める。そういう授業を俺が始めちゃったんだ。俺は1年後に(日教組の)青年部長になって、絵画の全国区にストレートに出して、愛知県中の有名校になっちゃった。皆、俺の絵を超えてるの。俺はバケツに絵具を溶いておいて、ハタキを7本入れて描いているんだけど、それは奴らにかなわないね。そういうようなことで次々と賞は獲るわ、外から見学に来るわでね。一番おもしろいのは、女はブルマー、男はパンツにして、顔に石膏をやって、鼻で息をさせて、全員を寝かせる。フーハーフーハー言ってるんだよな。「ちゃんと息しないと死ぬぞ!」と言いながら仮面をつくるんだけど、俺はそのかたちを撮影してるわけよ。全員が寝てるところをね。女はこっち向き、男はあっち向き。そこをパフォーマンスとした。俺が一人ひとりの腹を片足で踏んでいくの。「こうするとお前には運がつく」とか勝手なことを言ってね。それがおもしろくなっちゃって、4年もやってると抜け出せなくなる。
細谷:そこから肉体の何かが始まっていたんですね。
加藤:始まっていた。もっと言うと、ハプニング以上のことが始まっていた。
黒川:それ、授業ですよね?(笑)
加藤:はじめはPTAが何か言ってきたけど、賞を獲るものだから文句言えなくなった。他校からも見学に来たり、評判になって。それをやっているのと、密教の研究にも入っていた。比叡山と高野山の関係から、百済から日本に一挙に来たことの研究。百済から朝鮮人が来るまで、日本は竪穴で文化もへったくれもない。そんな国が一挙に目が覚めて、中国と直接の取り引きを始める。百済の連中は国に帰ったら殺されちゃうわけだから、自分の国をつくろうと思って日本をつくる。日本と天皇の名前を調べてみたら、道教の名前だった。そういうことで老子のタオも入ってくるわ、華厳も入ってくるわ、政治をやるということは仏教と対だったんだね。それはインドで発祥して、国を支配したあとにどう治めるかで利用していた仏教を、百済は貴族でエリートだから正確にやっている。律令国家をつくるということは大仏教を信仰させないといけないということで、毘盧遮那(びるしゃな)仏教をもってくる。毘盧遮那仏教を調べていったら華厳だった。俺の家は、実は密教の伝統的な高野山派だった。親父は右翼なんだけど、高野山の系列の坊主がいて、俺は奈良に行くたびに、朝4 時頃に柵を越えて石仏の秘仏の拓本をとる作業をやっていた。俺が金をかけてつくったそれを、俺が知らないうちに親父が持っていっちゃって、自分の寺にカンパで差し出しちゃった。「あれ、なくなった」と思って訊いたら、親父が寺に寄贈したと言うからさ。全部取られて(笑)。それでいいんだけど、そういうふうに4年間、密教と華厳について調べていた。俺は日本史を田中一松に仕込まれたんだけど、「日本なんかに美術史や歴史なんてありゃしない。今からお前たちがつくるんだ」と言われてびっくりしたんだよね。俺は美術史や歴史を勉強しに行くんだと思って東京に来たのに、「歴史なんてねえよ。あるとしたら中国だけだ。中国の真似をしてつくっただけなんだから、お前たちが今からつくらなきゃならん」と。「え、歴史をつくらなきゃならんのか!」って。拓本をとるのもさ、つまり俺は歴史をつくる作業をやっていたわけで、考古学者になっちゃったんだよね。この作品の元はどこかということを確かめる勉強を、一松に仕込まれた。そういうことで土日はそっち(奈良)に行ってるわ、月に1回は篠原(有司男)のところに岸本(清子)を送り込んであるからそこ(東京)に行くわ、こっちのほうは暇があれば行っておった。そういうことで、俺はアヴァンギャルドをやるのに仏教研究がものすごく恥ずかしくて、絶対に言えなかった。岩田(信市)にだって言ってない。そういうことを隠してやるから、余計に西洋的でも日本的でもないアイデアを出そうとした。そこが破れかぶれで、今までにないものだったら何でもいいという発想だった。だからアヴァンギャルドだったらいいのよ。古典が一切見えたらいけない。動機がそれだけ。太郎が言うシュルレアリスムを調べたら、フロイトのところにブルトンが行ったら断られるんだよね。「あなたたちのは無意識の表現とは言いません」と断られた。バタイユたちは秘密結社とかだよね。バタイユのパルチザンを見ると、「あっ」と思った。エロチシズムは地下工作のパルチザンの闘いにつながっている本質的なものだ。その当時、俺はやっとユングにたどり着いた。ユングを読んでいたら集合無意識が出てきた。集合無意識とは何だろうと調べると、潜在意識のなかに民族の遺伝子が入っていると。彼が言っているのは、アルタミラの洞窟が6,000年前で(旧石器時代、約18,000~10,000年前)、6,000年前に自然を絵に写したが、そこは洞窟だから真っ暗な中で描いている。それは夢の絵につながる。俺はその頃から夢の絵をやっていたから、アルタミラというのは俺たちが昼にアトリエで描いてるようなものじゃないということがわかって、子どもたちの目を鉢巻で隠して絵を描かせるとかをやった。あれはユングから来ているんだよ。アルタミラは自然を写すということが自然から離れる大きな動機だと、フランスの思想家が言ってるんだよね。誰が言ったか忘れたけど。アルタミラの絵を描くということにおいて、動物は自然界にいないと生きられないのに、人間だけが写す能力があるから描く。しかも絵が文字になってから大革命が起こるわけよ。絵を記号にしたところから、しかもその記号が漢字であることに俺は衝撃を受けた。ギリシャはアルファベットになる。6,000年前に絵を描いてるのと同じようなことが中国で出てきて、それが記号になるのが4,000年前だから、西洋より早いんだよ。亀の甲羅に書くとか竹に彫って書くとか、パルプまで発明しちゃう。紙の発明が早いんだ。そういうことの好奇心で、奈良へ行っているくせに中国に興味が移った。でも奈良に行かないとそういうイメージが湧かないのでね。寺まわりをすることが中国のイメージを喚起することだった。仏像とかはどうでもよくなったんだね。家(の菩提寺)が高野山派の法輪寺という寺で、そこの茶室を夏休み中、借りる権利を俺は得た。そのかわりに毎朝、坊主と一緒に掃除をして食事をして、お経に付き合う。その条件で普通の10分の1の料金で貸してくれて、飯も食わせてくれた。実はあとで聞くと、そこは家の寺だった。満洲から寄進して金を送ったりしていた関係だった。京都へ行くと光悦村があって、光悦がひとつの村をアート村にしてるんだよね。そこに光琳や光悦、つまり光悦の支配する京都画壇のアトリエを、その山の中に30ほどつくっていた。そこと同じようなものが法輪寺だというのが、俺の勝手な妄想だったんだ。そこであっち(法輪寺か)のほうに俺の家の何か大きなルーツがあって、しかもそのルーツは百済から来た以前のもの。もっと言うと、ユングの言う民族の集合無意識のルーツが巻き込まれているのを巻き戻せばいいと思っていた。そのとき、東京でニューサイエンスに出会って、デヴィッド・ボームにズバーンと出会って、ユングとデヴィッド・ボームとクリシュナムルティがこんがらがってくるんだよね。そっちのほうが芸術論なんだ。ホログラフィというのはそういうふうに古代の歴史を巻き込む癖がある。巻き込むのを巻き戻すというのは、宇宙の原則として、物理学的に素粒子の原型と同じだということでね。フロイトを勉強していたのがユングになり、ユングが華厳教の唯識論の記号論に出会っている。ものすごい偶然でね。華厳の唯識論というので、俺は「あっ」と思ったんだよね。その頃俺は丸山(圭三郎)や岸田秀と会って、岸田秀に連れられて丸山の講演を聞くようになってから、唯識論と華厳とがビタッと合致するようになった。人間は記号や形象で知覚したイメージにおいてものを見ているので、実際に見たもので見ているのではない。動物は世界を抽象的、総合的に捉えているのに、人間だけが見た形を意味のように翻訳してしまう。人間が見る屋根や飛行機というのは、猫には抽象的な形にしか見えていない。華厳の唯識論、そして中観(ちゅうがん)論をやったんだけど、これも人に言えないんだよね。これはまったくアヴァンギャルドではなかったから。俺はアヴァンギャルドをやってるのに、そればっかりやっていた。
細谷:最初に加藤さんが名古屋に戻って奈良の研究をして、それから東京に出て、70年代、80年代とつながっていくという具合でしょうか。
加藤:そうそう。その頃、(ヴァルター・)ベンヤミンを取り上げたのが針生一郎。多摩美の教授だったんだけど、万博のあれをやってクビになった(大学紛争で大学と対立して退職)。俺は〈万博破壊共闘派〉、針生は反万博だった。俺は彼には言ってないけど、一番衝撃を受けたのはベンヤミンだった。「複製版画論」。彼が取り上げたときには「複製版画論」だった(『版画藝術』に「複製芸術の価値」を1973年から86年まで連載)。版画で写すことによって人類は、原自然から外れて生きうることを得たと同時に、自然界を写すことを、また写して記号にするということで、アウラ、魂、オリジナルがなくなる。そういうことが彼のベンヤミン論だった。奈良や京都を研究しているときに、俺はレヴィ=ストロースに突き当たった。あれがやばかったんだよね。レヴィ=ストロースとベンヤミンが絡まる。その頃、日本に来て京都を絶賛している変なフランス人がいるというので、その講演に行ったらロラン・バルトだった。あいつは日本人だけがファンタジーの形象の宝庫のなかに生きていて、こんな民族はいないと言った。その一番の宝庫の元は京都だった。京都で俺はその講演を聞いちゃった(バルトは1965~66年に3回来日)。グキッときたね。いよいよどうしようと思った。前衛も馬鹿馬鹿しいし、全部振り切って生徒の絵のようなことを俺もやろうと思った。だから、〈ゼロ次元〉というのは生徒と俺との合作なんだ。中学生が出してきて、はじめはPTAとかに弾圧されたけど賞を獲っちゃって、3年目には名古屋にわざわざ先生が俺の教室に来るようになった。太郎とは違うし、ダリとかは無意識じゃないというのはジョルジュ・バタイユを読んじゃったので。結局、エロスは禁圧されることによって革命論としてメキシコの壁画と通じる。壁絵の闘い、パルチザンの闘いはそういう意味なんだね。人間の本質的な表現を弾圧するとはどういうことかをバタイユから学んだ。そのへんからフランス思想にどんどん入っていっちゃう。東京に出てきて事件が起きるときに、俺は用意できていたんだ。(ジャン・)ボードリヤールまでいっていたわけだ。彼のメッセージで一番すごかったのは、芸術や人間の歴史は伝承だと言っている。本来は地球の次元から移された生態系をしっかりメタファーとして握っていないとやばいという。それなのに、アメリカのディズニーランドは一切の伝承なしで勝手に宇宙をつくって、記号と記号だけでつくられた人工的な都市論をつくることにおいて、伝承から外れた危険があると読める。他にボードリヤールを研究してる奴と討議したけど、そいつはそこを読んでなかったね。俺は歴史を叩き込まれた一松の弟子だから。伝承をしていなくては絵ではないと多摩美の先生に言われた。カラヴァッジオは外れたんじゃない。あの当時できた印刷術の大革命をドイツのグーテンベルグで起きる。グーテンベルグと組んだのが耶蘇に対する革命家のマルティン・ルターで、神は坊主の特許じゃなくて、各人が神とやるということだとルターは言った。それがカラヴァッジオだと先生が言ったことを、俺は思い出した。カラヴァッジオはおかしな奴だと思っていたけど、とんでもない。あれこそ庶民が初めて神と出会った瞬間を描いたものだとわかって、目が覚めた。ルネサンスの革命のときのマニエリスムのすごさがあるけど、マニエリスムが今俺がやってる抽象絵画論とつながるんだよね。形象を抜いちゃって、純粋な色と形だけで作品をつくるという、ものすごくアヴァンギャルドだった。マニエリスムがそのときつながって、抽象絵画が描けなくなった。「なんだ、そういうことだったのか」と、これもやめないといけないと思ってパフォーマンスにいった。絵においてはどんどんラディカルになっていった。違うテキストをもっているのを隠すために表現するから。隠さないで言えばよかった。酔っぱらうとつい「奈良のあそこがな」と言っちゃうんだよね。ものすごく非難されて、「お前、東京まで出ていったのに、奈良の仏像なんて婆くさいな」と言われて喧嘩までした。でも「そうなんだ」と思って、俺は涙ぐんどった。
細谷:でも加藤さんの経過のなかでつながっていくんですね。
加藤:うん。フランス思想を読んでつながった。道教をやったときにつながったのは、道教と支配について馬の思想というのがある。騎馬隊。泰の始皇帝の勝利は馬の支配だ。馬によって脅かされて万里の長城をつくったわけだから、馬の民族が中国の支配の基礎になってる。それに対してタオは2,500年前だから、中国に密教や仏教が入る前にあった宗教だ。それが稲作や川や海につながっているので、船の思想と言えるんじゃないか。100冊くらいの文献を読むと、それがおぼろげに出ていた。そのうち、それをはっきり書く奴が出てきた。その頃、俺はそういう資料を読まなくなったんだけど、あとになって騎馬民族の馬の文化と船の文化について書かれていた。船の文化は南なんだよね。上海のほうだ。騎馬民族は北京からモンゴルのほう。それが入り乱れて闘争するのが三国志の時代。(始皇帝による中国統一の)紀元前200年から400年間やるんだけど、そのときに百姓一揆で次々と百姓が立ち上がってくるので、その黄色い帽子をかぶった百姓たちを抑えるために、出世できない不良武士たちを雇ったという裏の歴史が見えてきた。それはちょうど、明治維新で徳川がやくざの侍を雇ったじゃん。近藤勇とか新撰組の面々を使って長州を抑えたでしょう。そういうものだ。そうして400年たって漢民族がいったんだけど、その次の五胡十六国というところでまた復帰してくる。黄色い頭巾の黄巾派とか言うんだけどね。それらがいつも中国を引っ掻き回している。それがタオ、老子の思想だった。権力を握った奴が使う思想と、それにアンチテーゼを唱える思想がある。1960年代になってニューサイエンスの(フリッチョフ・)カプラが道教をもってきて(The Tao of Physics[1975年]が世界的に話題となった)、俺はものすごい衝撃を受けた。俺のやっていたことは間違いないと確信した。いよいよ身体が地球にシンクロして、コンクリート詰めになって進歩発展と言って、人間が勝手に記号と記号でつくっているものに対して、コンクリートに穴を開けて地球と俺たちが呼吸をするようなことをして地球を喜ばせなきゃいけない。それで、都市の強姦派というイメージが〈ゼロ次元〉にはあった。皆にはそういうことは言えなかったけどね。そういうこととタオの百姓一揆、信長にもつっかかっている勢力が、全部道教だった。道教がどう仏教化しているかについては、資料が雑多で途中でやめちゃったんだけど、きっとつながるだろうと思った。そこで俺は一遍上人に出会うんだ。
細谷:だいぶ話が進んでしまったので、少し戻します。
黒川:ここままではまずいと思って教師を辞めたとき、東京に行くと決めて辞めたんですか。
加藤:そう。帰ろうと思った。ここにいては俺は考古学者になるか、子どもを喜ばせるだけかになる。俺自身がなくなるという恐怖を覚えた。「こんなことをやっているために生まれたんじゃない。本来の役割は違うところにある」と思ったんだ。岸本がしきりに「東京がすごくなった。ハプニングという言葉も出た」とワーワー言うので、俺の時代が来たのに埋もれていてたまるかと思った。でも、あの埋もれているときくらい、本を読んだことがない。2年目に図書館の係になって、俺の買えない本を学校で買ってたね。バタイユが図書館員だったのを真似したの。あいつも国会図書館員だったでしょ。図書館を俺のアトリエ兼勉強部屋にした。4年でもう卒業しなきゃいけない。百済から来て中国の文明をとことん受け継いだんだから、そのシルクロードを逆に行くように東京に行こうと思った。今のアジアンタリズムは同じことをやってるけど、あのときのは違って、東京に出てシルクロードをやろうと思ってた。お返ししなきゃならん。伝承がある限り人間は地球と一体のものとして生きうるんだけど、60年代後半にボードリヤールに出会ってものすごい衝撃を受けた。生の講演を聴きに行った(60年代なら前出のロラン・バルトの講演か)。いろんな人が来たのを、俺は練り歩いたよ。記号論の有名な女の人、(ジュリア・)クリステヴァもすごいよね。たくさん来てた。日本だけだよね、あんなことやってるの。アメリカに行ってボードリヤールやロラン・バルトと言っても、誰も知らなかった。すごく不思議だった。アメリカの60年代のカウンター・カルチャーはフランス思想でやっていると思っていたけど、ニューヨークに行って聞いてみると、そんなことは欠片もなかったね。アメリカは感性でやっていて、コンセプトはフランス人だけ。「カルチエ・ラタンのときにヒーローだと言われたくらいで、加藤が言うようにはあの先生たちは問題にされてないよ」と言われて驚いたことがある。俺が見ている革命はずいぶん違うんだと思った。
細谷:少し話を戻します。東京で明星電機と〈ゼロ次元〉の活動を並行してやりますよね。いわゆる社員として、永田智さんとかがいますね?
加藤:永田はまた俺が引っ張ってきた奴。
細谷:社員はどれくらいいたんですか。
加藤:社員を2人、嫁の親父がつけてきた。彼らは〈ゼロ次元〉とは関係なくて、俺を仕込むために来た。嫁の親父が送り込んだ精鋭なんだよ。彼らをクビにするまで入れられなかったんだよ。彼らがいる限り、会社は潰れないんだよ。俺を信頼してないから(笑)。松葉(正男)は俺の中学の教え子で、あとから入った。
細谷:最終的に社員を全部入れ替えてしまうんですね。
加藤:1年で1人、ハードな奴と喧嘩して切った。2年目は、経理ができる奴を仕方なく置いておいた。会社が成り立たなくなるからね。その会社に2年間、俺は朝4時から夜9時まで1日おきに通ったよ。
細谷:電機会社は主に何をやっていたんですか。
加藤:クラッチという、電気と電気を結ぶメカニズム装置。最終的に俺が大当たりしたのは、自動販売機の小さいクラッチ。大きいやつでやるんだけど、最後は沖電気が開発するのに俺が関係した。あそこが特許を取ったんだけど、小さいクラッチがパッパッパッパッパッと秒速で動く。電気が変わるとつながる。電気が外れると外れる。それだけの単純なものだけど、それをクラッチ・ブレーキという。その会社が明星電機。半年会社に通っているうちに、俺は機械の構造はわからないけど、電気のルーツは読めるようになった。ルーツというのは配電盤なの。俺はなぜかシステムが好きで、コントロールボックスで、電気でできることがわかるようになった。歴史もそうでしょう。どこがどういうつながりで、という。それを追うことが歴史の勉強だけど、電気のシステムもそれと同じ。逆に俺を指導している2人はそれができなかった。技師じゃないんだよ。嫁の親父がそっちの技師なの。それを俺が勝手に開発しちゃったんだよ。闘争に入って4年目に全学連に逮捕状が出て、東大とか京大とか優秀な奴が俺のところに遊びに来ているうちに、彼らを社員にすることができた。奴らは図面が書けるんだよ。
細谷:彼らは〈ゼロ次元〉の儀式には参加しないんですか。
加藤:参加しない。
細谷:〈ゼロ次元〉としては永田さん、松葉さんだけですか。
加藤:うん。半年くらいで辞めていっちゃうんだよ。
黒ダ:でも加藤さんとしては、会社の経営と〈ゼロ次元〉を両立させるつもりだったんですよね。
加藤:そう。最初は社員を使うわけだけど、「お前、天才になれるから」と言ったけど、口説けなかったんだよ。乗ってこないんだよね、あいつら。それで名古屋に帰っちゃった。
黒川:電機会社はシステムの開発で、たとえば配電盤とか?
加藤:配電盤をつくる会社。
黒川:64年はオリンピックの年だから、工事や開発の需要もあったのかなと思ったのですが。
加藤:ありましたよ。バンバン注文を受けた。面倒くさいと断ってたね。自分の都合のいい注文だけ受けていた。最後は冷蔵庫のコントロールボックスが一番金になったし、楽だったね。霜がついちゃうんだよね。そうすると温度が下がらないから、ヒーターをぶち込んで自動的に調整するコントロールボックスをつくった。俺はそれで特許を取ったんだよ。全学連の工学部の連中、名前を言わないけど、全部そういうやばい人たちが支えた。そのうちにおおえまさのりがサンフランシスコから帰ってきた(1969年)。すごい映像を持ってきて、金坂(健二)のところに1年いた。金坂が「あいつは大変な奴だよ」と言うんだ。「あんなおとなしい奴がどうしてだ?」と俺は言ったよ。ちょうどその頃、『いなばの白うさぎ』(1970年)を他の映像作家に撮らせていたけど、ダメなんだよね。それでおおえを雇った。おおえに1日1個配電盤をつくらせて、4畳半の部屋を与えたよ。
細谷:おおえさんも社員だったんですか。
加藤:そう。雇ったよ。4畳半の部屋をあいつのためだけに1年間与えたよ。
黒川:明星電機は何年まであったんですか。
加藤:いつまでだったかな。
細谷:『いなばの白うさぎ』が70年代に入って完成しますね。
加藤:ずっとありますよ。潰さない。潰しちゃいけないから。
黒川:加藤さんの経営権のままだったんですか。
加藤:そう。28歳から50歳まであった。
黒ダ:1986年ですね。
加藤:86年に俺は浜田山に一軒家を1億でつくった。すごい豪邸だよ。善福寺川が流れて、森があって、それが借景になるの。ベランダから全部見える。後ろが土手だった。理想の家を俺はつくったんだよ。夢タントラ殿という。
黒川:その間、明星電機は?
加藤:やってたよ。誰かがやってるんだよ。専門家が常にいた。社員が常にいるから。
細谷:昨日、おっしゃっていましたが、明星電機は目黒で、土方巽さんが近所にいた。土方さんとはどうやって知り合ったんですか。
加藤:それが思い出せないんだよ。いつの間にか「加藤、飲みに来い!」と言われて、俺が土方のアトリエに行って飲んでいた。300mくらいしか離れてなかったね。あいつが散歩がてら俺のところを見て、「この材木で何かつくってくれ」と中西夏之と二人で来たことがあるよ。中西と俺は昔からの友達。「夏之、なんで?」と訊いたら、「土方の舞台美術は俺がつくってるんだよ」と言うから、俺も「だったら看板は俺がつくるしかねえな」って言ったんだよ。それで中西は舞台装置、俺が看板(明星電機の加藤に土方が看板の制作を依頼した。「土方巽と日本人 肉体の叛乱」では電飾を多数使った看板を制作、他にも多数の土方の公演で看板を制作した)。
黒川:美術関係の誰かが土方さんと加藤さんをつないだわけではないんですね。
加藤:ないない。道で会ったかわからないけど、中西が入っていることも知らなかった。ずいぶんあとで知ったよ。中西がやってるなんて思ってもみなかったし、中西が出てきたのはだいぶあとだよ。
細谷:澁澤龍彦の名前が前に出ましたが、ほかに三島由紀夫とは交流はあったんですか。
加藤:ない。あそこへ行ったら何か威張った奴がいて、どこかで見た奴だなと思っていたら「あれ、三島先生だ」と言われて気がついた。こんなところに来てるんだって驚いたよ。
細谷:澁澤さんも土方さんのところで会ったんですか。
加藤:あいつはしょっちゅういたから。俺は澁澤を土方の弟子だと思ってたもん。澁澤が糊を持って、俺が貼って、一緒にポスター貼りをやっていてね。それもずいぶんあとでわかるんだよ。何かで澁澤を見て、「あれ、こいつは俺とポスターを貼ってたおとなしい奴だ」って。澁澤はしゃべらないから、弟子の一人かと思っていた。皆が土方をダッと囲むからね。
細谷:土方のところで文化人に接触する機会が多かったですか。
加藤:月に1回は行っておったから。単にサロンで飲んでいただけだ。
黒ダ:当時の身体表現、特に60年代になると土方の暗黒舞踏がだんだん成長発展していきますが、土方の舞台を生で見てどういうふうに思いましたか。
加藤:しょっちゅう見てたよ。今の舞踏もけっこう知ってるの。それとの差を言うと、10分間くらいは弟子が踊る。これはどうってことはない。10分から20分すると、そこに土方がふっと入ってくる。すると全部が違っちゃうの。つまり土方が何かやり始めると、そこだけが包まれて異次元になる。土方の踊りは踊りじゃなくて、シャーマニズムなんだ。俺はシャーマンを専門的に研究してるからね。「ああ、土方は人をもっていけるんだ。よくブツなしでやるなぁ」というのが俺の感想だった。
細谷:身体ひとつということですか。ブツなしというのは。
加藤:マリファナもなしで。ああいうものがないといけないという概念を俺はもっていたんだけど、土方はシラフでもっていけるすごい能力だよ。だから土方の踊りは真似できない。今のアーカイヴス(慶應義塾大学アート・センターの土方巽アーカイヴ)は「土方がこうやった。ああやった」というものでしょう。馬鹿だよね。一切のナンセンスですよ。同じ形をしたからといって、いけるはずがない。土方がやらないとダメなんだよね。ということの不気味さだ。土方が来たら次元の違うお芝居になると俺は見ていた。それだけだよね。
黒ダ:東京での文化人交流のお話ですが、東京で先端的な演劇は観ていましたか。
加藤:寺山修司(劇団天井桟敷)のところのお嬢さんを借りていた。あそこの半分くらいの女の人は、〈ゼロ次元〉に参加したことがある。でも寺山に交渉したんじゃないんだ。勝手にちだ・ういが交渉していただけ。
細谷:寺山とのコンタクトはほとんどない?
加藤:ない。
黒ダ:勝手にスカウトしていたんですね。寺山のお芝居はどう思いましたか。
加藤:つまらねぇと思った。こんなものでよく芝居と言ってると思った。唐十郎はちゃんと演劇をやってるよ。辻褄も合うし、因果律もあるし。仙台の糸井貫二と〈九州派〉の違いみたいだよ。歌えば天才になれるというものじゃなくて、音痴は音痴なんだよね。でも寺山のすごさは、唐のような古くささがない。唐の紅テントは1回観ればいいんだよ。寺山は年に2回くらい見ると、あっと驚くようなシチュエーションが出てくる。シチュエーションががらっと変わる。あのあたりはアヴァンギャルドだと俺は見ている。俺の基準はアヴァンギャルドかどうかだからね。安定したものをいくら頑張っても……というのが、俺としてはある。だから寺山のほうが好きなんだよ。ストンストンとシチュエーションが変わって、年に1回くらい「わぁ、新鮮!」というのがある。そういうアヴァンギャルドの驚き。
黒川:紅テントは基本的にいつも同じですか。
加藤:何度も観てるけど、言葉でおもしろいだけなのよ。どこかではレボリューションがなくちゃダメだと俺は思ってる。その点、土方には文句が言えないのが嫌だった。あいつのは、あいつしかできない名人芸だったから。アヴァンギャルドなんてへったくれもない。土方は能を観てるみたいだね。土方特有のもので、文句をつけられない。土方のやってることは伝承と見た。土方には本当は師匠がいないんだけど、本質的には師匠がいて、それを勝手につないだ古式のシャーマンが土方だと俺は見てる。シャーマンとしては日本固有の何かを受け継いだ人だ。だから土方に弟子は出ないだろうと思う。土方に弟子入りした奴らは皆、俺の友達だった。俺がニューヨークに行ったときも玉野(黄市)がサンフランシスコにいた。ヨーロッパに行った石井(満隆)とは一緒に展覧会をやったりしたけど、石井のほうに土方を感じる。石井は土方をコンテンポラリーにしたシャーマンだな。土方そのままを受け継いだのが玉野だ。ところが玉野はシャーマン性がない。玉野と石井を合体で組ませようと俺は企画を何度も組んだんだけど、いつも逃げられる。玉野と石井はうちのお嬢様(〈ゼロ次元〉女性軍団)を1年間訓練しているんだよ。うちのアトリエ(新宿)に毎週通ってきて、英会話と踊りと、最後は新体道を教えていた。うちの女軍団は全部、石井の弟子なんだ。
黒川:1回、六本木でやりましたよね(2009年7月4日、六本木Super Deluxe)。
加藤:あのとき合同でやった。石井先生と弟子のお披露目席だ。
細谷:1964年頃、〈ゼロ次元〉としては儀式をやっています。「尻蔵界(けつぞうかい)曼荼羅儀式」とかをK神社とかでやっていますね。儀式という言葉はどこから出てきたんですか。
加藤:その頃は儀式という言葉もなかった。
黒ダ:1963年の桜画廊の案内状には「赤の儀式」と出てきます。それから同じ年の読売アンデパンダンでも、儀式という言葉を使っています。
加藤:使っているんだけど、俺は儀式という言葉が嫌いでね。違う奴がつけたんだよ。
細谷:でも今は儀式を使っているんですね。
加藤:今はもうしょうがないから。
黒川:最初は誰なんですか。
加藤:なんとなくつけたみたい。
細谷:あてはまる言葉がなかったんでしょうか。
加藤:ニューヨークから日本に帰ってきたとき(1990年に移住、98年帰国)、最初にミヅマ(アートギャラリー)(加藤好弘「立体夢タントラ装置(襖絵マンダラ)」展、2001年6月26日~7月14日)でやったときの評論家がいる。
細谷:椹木野衣さんですか?
加藤:椹木野衣は荒川(修作)がつけたとしちゃった。荒川も儀式をやってる。だから荒川が〈ゼロ次元〉の儀式の名付け親だろうと言うので、それでいいやというふうで(笑)。本当は全然関係ない。あれ(荒川の棺桶風の箱の作品)を儀式という作品だと言っているけど、違うの。まさか赤ん坊の水子を作品で出すなんて考えないだろう。そういうものの不気味さが出るのよ、荒川の作品って。だって生の儀式だよ。
細谷:生というところでは、〈ゼロ次元〉も裸じゃないですか。そもそも裸になってしまうというのは流れからだったんですか。それとも意識的に裸になろうとしていたんですか。
加藤:いやいや、学識のうえで。その学識を言うね。俺たちは裸で外に出れんだろう。そう思いませんか。女が昔はおっぱいを出して電車の中で平気で乳をあげていたけど、あれも進歩発展のうちに消えたよね。ということで、身体は俺にとって無意識みたいだった。衣服が自我だ。つまり裸の身体こそ、あとでそれはボームを読んでからつなげた勝手な話なんだけど、地球を凝縮したメタファーこそ肉体だということが、60年代で俺が培った思想だ。子どもの絵とかからも来ているんだけど、あいつらを見ていると多摩美を出た俺のインテリよりすごいわけだから、勉強してどうのこうので出すものなんてチャチなものだ。だから身体を出すような教育ばっかりした。人には平気でアヴァンギャルドをやれと言ってきたけど、本当は〈ゼロ次元〉なんて自我に縛られちゃって窮屈なの。それの原型として中学生を〈ゼロ次元〉として見ている。ボディこそ、地球というボディのメタファーと見るんだ。だから都市は地球の自然を衣服の下に隠したりする。衣服で無意識を表現するというのはデザイナーの話だけど、普通の人は自分の正体を出さない。だからボディを隠す衣服は自我だと思うのね。ゆえにボディが喜ぶ、ボディを防ぐ進歩発展に対することで、コンクリートを外して地下とシンクロニシティしようということだ。シンクロニシティはユングから学んだ言葉なんだけど、ユングが集合無意識とつながるというのは、俺にとってはボディが地球化するということ。俺こそ地球の代表者で、俺が気に入るように東京をつくらないといけない。東京をつくり変えないといけないくらいまで考えていた。だんだん俺の身体が氷詰めされる。コンクリート詰めされて窒息するんじゃないかという都市論理から、ハプニング儀式が出ている。俺もオリンピックを見に行ってるんだよね。逆に、俺は好きでね。高校のとき、俺はマラソンランナーだったんですよ。
黒川:陸上部?
加藤:陸上なんです、中学と高校。陸上の優等生だった。だから肉体派だったんだ。小さい頃から柔道をやってるし、剣道をやってるし、だいたい仕込まれてるんだよね。柔道は、俺の家はどうしても5歳くらいから仕込まれた。
細谷:64年からどんどん社会状況が変わってくる。
加藤:うん。だからスポーツというものは、オリンピックのようにやるものじゃないというふうに俺は見ている。
細谷:そもそもの肉体に賭ける。
加藤:何と言うのかな。神にお礼をしたり、そういう儀式があってやるやつばかりだから。中学校に行って、陸上に出会ってほっとした。そういうのがないんだよね。マラソンや駅伝は近代なんだ。俺の場合、剣道とか、「終わって礼」みたい儀式を仕込まれていたので、それが嫌だった。だから儀式という言葉は、俺のなかから出るはずがないんだ。
細谷:加藤さんのなかでは、もっと近代的なスポーツとかのほうがよかった?
加藤:ハプニングだったのよ。
黒川:ハプニングは〈ゼロ次元〉にしっくりくる言葉だったんですか。
加藤:うん。アメリカから輸入されて「これだ!」と思ったよ。
細谷:加藤さんのなかでそれがつながったんですね。
加藤:アイデンティティはハプニングだよね。儀式は嫌なんだよね。高野山派だから、帽子をかぶって四角い箱をつけて、棍棒をついて草履を履いて、4時間山登りをするのが俺の家は日課だったから。婆が連れていくところに行くと、こんな玉が300個くらいあって、100人くらいの婆さんが玉を回している。数珠を回している。
細谷:数珠回し、百万遍とか。
加藤:そう。数珠回しを1時間くらいやって、鍋を持つのよ。全員が、100人くらい、土鍋を。そこに坊主がもぐさを入れに来る。そして入れ終わったところから順番に火をつけるから、「手を離すと燃えるぞ」と脅されて、だんだん頭の上の皿から煙が震えてくる。こういう儀式を月に1回やらされるとか、とにかく虐待がいいかげんなんだよ。
細谷:でもそういうものが、K神社でやったロウソクを突っ込んだりするのに通じてくるんですよね。
加藤:通じてる。だから無意識に儀式に支配されてるんだ。
細谷:加藤さんがやってきた経験が出ているんですね。
加藤:尻の穴にロウソクを突っ込んだり、線香を突っ込んで火をつけるのは、頭でやらされたもののメタファーだ。
細谷:ハプニングなんだけれども、結局これをやってしまうわけですね。やってしまうというか……。
加藤:わざとやってる。そのときに儀式だなとは知ってるの。だから、儀式という名前を誰かが言うと、文句を言えんのよ。
細谷:儀式だからですね。
加藤:やむなく「しまった!」と思うけど。「気がつかれたか!」という感じなんだよね。一番嫌だった、儀式という名前は。これをアヴァンギャルドにしたかった。
黒川:頭じゃなくて、お尻なんですか。
加藤:そうそう。頭の皿窯に火をつけるのをひっくり返しただけなんだ。
細谷:お尻がずっと続くんですよね。
加藤:尻に感動するのは『楢山節考』のあの先生と、リッチ(ドナルド・リチー)と。
細谷:深沢七郎ですね。
加藤:「加藤のすごさは尻に対する愛着だ」って、二人とも言った。
細谷:加藤さん自身も尻に愛着があったんですか。
加藤:ないよ。頭にくるのを裏返しただけだ。
黒ダ:でも、昨日渡した写真にあるんですが、最近見つけた内科画廊の個展の写真です。お尻とか、完全に型取りしたものを、いわゆる「尻蔵界」だけじゃなくて作品においても尻なので、よほど尻に重要な意味がないと。
加藤:だからね、ここでは皆オカマが来るんだよね。本格的に女を愛せない奴が〈ゼロ次元〉に来るの。
黒ダ:でも最初につくったのは加藤さんでしょう。
加藤:そうだけど、そういう奴を寄せちゃうんだよね。
黒ダ:寄せるためにつくったわけじゃないですよね(笑)。
加藤:違う、違う。
細谷:寄ってきちゃうんですね。
加藤:そう。そうじゃない男の集団をつくりたいの。でも実は全員がそうなの。
黒ダ:もちろんこれもそうだけど、たとえばK神社のこのへんとか(黒ダライ児『肉体のアナーキズム』、2010年、グラムブックス、p.360参照)、本当に尻ばっかり。
加藤:だから尻蔵界と言った。尻蔵界曼荼羅なんだ。
細谷:尻蔵界曼荼羅はどこから来たんですか。
加藤:尻を作品とした。
黒ダ:そもそもなぜ尻ですか。
加藤:女はオマンコで子を産んでちゃんと正常な創造活動をするのに、男は尻から糞しか生産しないという、俺の論理がある。だから男が一番アーティストには遠い。アートは女がやるべきだという原型が、俺自身にある。でも男がやる限りは子宮がないんだから、尻から糞を出すしかないので、これをやるしかない。だからやってみる。「男の儀式」とやられたときにギクッとしたんだよね、「ずばり言う奴がいるなぁ」って。けっこうインテリが集まるからね。上條(順次郎)も東北大でしょう。あとは京大の設計図面やる奴(詳細不明)とか。
黒川:非生産性の象徴としてのお尻で、個性がないとかそういうことではないんですか。
加藤:ない。アナルは男の子宮なの。男は子宮がないから、やむなくチンポを入れるでも尻を使うように。いくらそこでセックスしても、一切創造とはかけ離れた行為をするということで、男の作品は皆あわれだと俺は思ってる。だから何かに縛られないで勝手にやれるんじゃないか。男の子宮、女の子宮が、俺ははっきりしてる。
細谷:当時、女性の作家ではオノ・ヨーコさんがいます。オノさんとの交流を聞かせてください。
加藤:テレビも1本つくったしね。
細谷:『ある若者たち』(1964年8月25日に日本テレビで放映された長野千秋監督の『ノンフィクション劇場―ある若者たち』)、ギュウちゃん(篠原有司男)と一緒に出ましたね。
加藤:結局、一柳(慧)とか、ピアノの上に裸で寝るとか、ピアノの前に座って30分何もしないとか、ジョン・ケージだよね。俺はジョン・ケージが大嫌いなんだよね。冗談じゃないと思うよ。ムカムカする。その典型をオノ・ヨーコはやってるだけ。だって全部音楽家じゃない? 刀根(康尚)とはいつも論争してた。俺がニューヨークに行くと全部あいつが俺の世話していた。
細谷:仲いいですよね(笑)。
加藤:刀根には一番厄介になる。本当はギュウちゃんとやらないといけないのに、篠原と俺は知らん顔でニューヨークでは離れていた。東京ではギャンギャンやっとったくせにね。刀根がアメリカで俺の世話をする。ところが『美術手帖』で俺を一番辛辣に批判するのは、刀根なんだよね。辛辣にやってる奴が、一番俺を優しくニューヨークじゅうを案内している。おかしいでしょう?(笑)。そういう関係。
細谷:加藤さんが東京に来てから、けっこう早い段階でヨシダ・ヨシエさんがミューズ週間(1965年12月16日~22日)をやりますよね。
加藤:尻蔵界曼荼羅の尻が並んでいるやつ。東京に来てから。モダンアート(センター・オブ・ジャパン)というところでやった。あれはヨシダ・ヨシエの主宰する画廊なの。ヨシダ・ヨシエが美術界で最初に東京で〈ゼロ次元〉を取り上げて紹介した。
細谷:ヨシダさんとのやりとりを聞きたいです。
加藤:俺は喧嘩としてよくいじめたり怒鳴ったりするということで、針生一郎と張り合ってるの。その横に腰巾着みたいにいるのがヨシダ・ヨシエなの。
細谷:加藤さんと針生一郎が張り合って?
加藤:その脇にいて「まあまあ」と言ってるのがヨシダ・ヨシエ。そうやって敵味方で論争しているうちに、ヨシダ・ヨシエは両方の通訳みたいになった。俺がこれ(尻蔵界のような儀式)をやると絶対に針生一郎は来ない。おもしろいよね。
細谷:ヨシダ・ヨシエは来る?
加藤:ヨシダ・ヨシエの主宰だもん。彼の画廊なんだから。ということで、ヨシダ・ヨシエは刀根のような奴なのよ。文章を書くときは俺の悪口を書いていてほめてない。そのくせ面倒を一番見てる。そういう関係って変だけど、俺はしょっちゅうあるのよ。
細谷:万博のときも、結局ヨシダさん。
加藤:喧嘩をやっていて大変だった。あのあと、仲が戻るのは5年後くらいだ。論壇で皆がいるところで「お前(ヨシダ)は反対なんて、非アナーキーな生やさしい運動をして。破壊しなくてどうするんだ、こんなもの!」とやると、俺のほうがウケるんですよ。アジをやったら俺にかなわない。それで怒るんですよ。「お前は人前であそこまで言うのか!」って、あとで飲みながら涙ぐんで(ヨシダは)怒っていたよ。俺はそんなものは演技だから「当たり前じゃないか」って。そしたら「いいかげんにしろ。お前には礼儀ってものがないのか!」なんて、礼儀なんて馬鹿なことを言い出す。「だっさ!」と思ったね(笑)。俺は中原(佑介)とかアメリカへ行っていた東野(芳明)と付き合っていると、一番身近なヨシダ・ヨシエが日本の田舎の村長みたいに見えるわけ。田舎のどさ回りばかりやって苦労してる。それに対して東野や中原は近代だよね。
黒ダ:たしかにそれはそう言えるかもしれない。
加藤:そのへんに金魚の糞みたいにくっついてるヨシダ・ヨシエはもっとダサく見える。でもそういう奴が俺のバックについてる。いつもそうなのよ。社員というと、本も読まない、身体だけでぶつかってくるような奴が俺の弟子なんだよね。
細谷:せっかくだから聞きたいんですが、美術評論家との関係について。今、御三家(針生、中原、東野)が出ましたけれども、『美術手帖』や美術のメディアについて。
加藤:その間に日向あき子がフランス語が読めるということで、俺がフランスの話をやるから、日向はものすごく俺に指導をした。「加藤がやっているロラン・バルトの継承はこういうふうに違う」とか「気をつけろ」とか、あいつの指導は大きい。
細谷:美術評論のほうでは日向あき子さんとのつながりが強いですか。
加藤:つながってる。裏で。
黒ダ:日向さんが〈ゼロ次元〉について書いたものはないですよね。
加藤:ない。嫌いなんだよね、俺のこと。〈ゼロ次元〉は嫌いなんだけど、俺とはいつも「加藤ちゃんのところに行ってもいい?」って来てたよ。表向きはダメなの。日向は結局、〈ゼロ次元〉を表現だと思ってない。
黒ダ:日向さんは〈ゼロ次元〉の発表を何か見ていますかね。
加藤:見てるよ。見てたり来てたりするんだ。そして一生懸命、手伝ってるんだよ。小道具を運んだり。だからスタッフなんだよ(笑)。
黒ダ:不思議な関係ですね。
細谷:美術メディアは〈ゼロ次元〉をほとんど取り上げないですよね。
加藤:絶対にね。取り上げたのは刀根だけなの。それは悪口言うためだけだ。だから刀根が一番貢献してる。
細谷:週刊誌にはよく出ていましたね。それを加藤さんはどういうふうに戦略的に?
加藤:「今度やるよ」と予告するところは、100,000部以上の部数をもっている雑誌だけなの。
細谷:告知をするところですね?
加藤:そう。だから『美術手帖』は入らない。10,000部だから効果がないと思ってる。あんなものを読んでも読まなくても。
細谷:いわゆる大衆週刊誌、部数の多いところですね。
加藤:部数の多いところ。大衆とか何とかじゃなくて。そして、文章よりも写真を。その頃、俺はマクルーハンを読んでいたの。
黒川:じゃあ、新聞は入らないんですね。
加藤:入らない。
黒川:『文藝春秋』とかそういうのも入らない?
加藤:入らない。『朝日ジャーナル』は入る。
黒川:グラビアのある週刊誌ということですね。
加藤:そう。「メディアはメッセージである」で一番感動したのは、アメリカ人でカシアス・クレイ(のちのモハメド・アリ)がベトナム戦争反対のときに、アラブの指導者みたいな恰好をして来た。それでインタビューを受ける。ベトナムの徴兵を拒否したすぐあと、テレビを見ていたら「僕はもう牧師だから戦争なんてやれない」と。その断り方がかっこいいんだね。彼はアメリカ人には、ボクサーでとろいと思われているんだよね。つまりポピュラーな奴でアーティストでも思想家でもないのにいかにも戦争反対をやるから、「ところでクレイさん、ベトナムってどこにあるか、わかりますか」と訊かれた。
黒ダ:すごく失礼な質問ですね。
加藤:ものすごく失礼なんだ。「お前は知ってるか」と言わんばかりに。そしたら彼の言い方がすごかった。その頃、俺はマクルーハンに惚れ込んで、日本語に訳されたものをほとんど暗記するくらい読んでいたんだけど、彼がインタビューしてる部屋のテレビでベトナム戦争のちょうど報道をやっていた。彼は「ここだよ」と言ったの。「ここでやってるんだ。お前たち、見えないのか」って。ものすごい衝撃を受けたね。これは素晴らしい。わかる? その思想なの、俺は。それからなの。グラビアで50,000部以下には出まいと決意する。もちろん前からそうだったんだけど。
細谷:マクルーハンの影響はかなりありますか。
加藤:加藤の生(なま)みたいなものはほとんどいないと皆が言う。そんなものは見せてない。つまり、グラビアで出たときに一番の作品だというのを、当時俺だけが知っていた。部員にもそのことは言ってない。
細谷:部員(笑)。なるほど。
加藤:言ったって、話ができる奴は一人もいないわけだろう。マクルーハンやロラン・バルトやボードリヤールを読んでいることを誰も知らない。俺の書斎は見せないわけだから。昔は金があって、俺の書斎は6畳で2,000冊は持っていた。教員のときから買ってある歴史書とかね。闘争が終わるときにトラックいっぱいに売ったね。よく言われたのは、「そろそろお前は美術評論とか読んで、もうちょっと勉強してからしゃべったらどうだ」って。金坂と俺が論客として京都大学、早稲田、東大へ行って、夜に学生に囲まれて質疑応答をやるの。そうすると俺と同じようなボリュームで応答、対応できるのは、金坂だけなの。金坂健二ってすごいんですよ。金坂と俺がいる限り、どんな論客も相手にならないわけ。金坂の英語力は半端ない。彼は慶應(義塾大学大学院英米文学科修士課程修了)なんだけど、どうしてそんなに英語を覚えたかというと、映画館だと言うわけ。映画を小さいときから何十回と行っている。(アンディ・)ウォーホルにインタビューするし、カシアス・クレイももちろんだ。カウンター・カルチャーをヒッピーの身体ごとニューヨークで体験して、日本に帰って論議をやる。そんな奴は初めてだ。金坂はニューヨークが中心なんだけど、あいつはサンフランシスコのバークレーの、あの先生(ティモシー・リアリー)がいたところ、3,000人やって、入れて、(グレイトフル・)デッドのアレで飛ばす。そのセットにあとから俺も参加するんだけど、それの最初の体験者がおおえまさのり。おおえまさのりが帰ってきて中沢新一とかに手伝わせて『チベットの死者の書』(おおえまさのり訳編、1973年、?書房)を出す。ドラッグで飛んで自我がいったん消えて、そして再生するプロセスのテキストとして、あの当時『ドン・ファンの教え』(カルロス・カスタネダ『呪術師と私―ドン・ファンの教え』、1972年、二見書房)と『チベットの死者の書』を読んでない奴がいないのね。二大教本だった。その教本の一冊を、事もあろうにおおえまさのりが訳しちゃった。映像だけじゃなくてね。あれだけがインドでいって、俺もその影響を受けるんだけど、チベットへ行ってダライ・ラマの共同体にも入って、その脇で進歩発展を拒否してる田舎があるじゃない?
黒ダ:ブータンじゃなくて?
加藤:ブータンだ。ブータンに1ヶ月いた。そういうふうに半年にわたってアジアの拠点をまわってきたおおえまさのりは聖者なの。金坂健二はヒッピーじゃなくてイッピーだと言うのね。「闘うヒッピーは俺だ」というわけだ。その二人はフランス思想にほとんど手をつけてないのに、俺はフランスからしかカウンター・カルチャーの資料がない。あるとしたらマクルーハンだけ。マクルーハンだけは三人とも共通するから、用語で論争するとマクルーハンしか通じない。俺はフランス思想のバタイユから入ってる本格派を隠しているから。それとアメリカの市民権運動として、クロンボの前に何とか言うのがあるんだよね。有名な言葉で、「ブラック・イズ・ビューティフル」の。暗殺される有名な二人のうちの一人がいるでしょう?
細谷:マルコムX?
加藤:もう一人。
細谷:キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)。
加藤:その二人が殺される。二人とも金坂はインタビューしてるんだよね(掲載記事不明)。そこが日本人で初めて。金坂が発表するのは『アサヒグラフ』とか写真と論評で、あれの論議を俺はアメリカからの感性として読んでいた。ロラン・バルトやボードリヤールが伝承することにおいて……。(ボードリヤールが)ラスベガスを死ぬ間際に取り上げるんだよね。あそこの子どもの王国、もっとラディカルなところは、砂漠にできた娯楽場ということ。伝承するのが砂漠だというところで決定打を出す。ということにおいて、おおえや金坂がやろうとしているのは、進歩発展に対していかにつながるかのルーツ探しに入ることで、それがサイケデリックの論理なの。サイケデリックというのは、自我という近代意識を飛ばすことによって、無意識の体験を呼び戻す。そのロックの原点をやる奴は、ビートルズでも(ローリング・)ストーンズでもなくて、デッドだったのよ。デッドはレコードやテープで何度聴いてもダメなんだよ。キメて、ここで聴いても飛ばないの。ビートルズだと飛ぶんだよ。不思議なんだよね。俺も(サンフラン)シスコに行って、彼を3年間追いかけた。共同体のテントを張ってね。60,000人入るところが1時間前に埋まっちゃってて、だんだん前の奴が見えなくなる。すごいんだ。あんな会場を初めて体験するんだけど、ビートルズやストーンズの会場も何度も行ってるけど、あんな会場じゃないの。デッドだけはだんだん霞んできて、60,000人の野外の球場が煙でモワッとくる。そのときにダダダダダッと始まる。それまでにだいたい200人は意識不明になっちゃう。いくまでに待ちきれないのね。バタバタ倒れる。そこで始まる。まったくこの世じゃない。全員が手を握っちゃったりさ、すごいんだよね。鑑賞じゃないの。一気に自我とかを捨てて、生まれ変わりのイニシエーションが始まる。身体は消えていくわ、「俺はどこに行ったんだ、今!」とか言ってる奴がいるわ、泣いてる奴がいるわ、ひっくり返って足をバタバタやってる奴がいるわ、もうすごい。
黒川:それはシラフでは成立しない?
加藤:ない、ない。絶対にない。そんな奴が一人でも入ったら危ないね。そういう奴を排除するために、ポリとかが来るんだよ。逆なんだよ。本場のトリップがサイケデリックという言葉とつながるということを、日本人は知らないわけだ。サイケデリックというのは、今まで自我の世界であったものを客観化して、それが崩壊してバラバラになっていく。ユングはそれをセルフ、自己と言っている。自我の分析において、自我が狂ったから社会に適応するために、とするのがフロイト。ユングは、病いになったら適応するんじゃなくて、病いである自己から飛べ、そこから決めよと言っている。そうして以前の社会に適応しないのが治療だということ。そうしてユングが到達したのがカスタネダの『ドン・ファンの教え』で、女弟子の有名な実録(詳細不明)がある。(カスタネダが)メキシコに入っていって、本物のシャーマンのところに15年いた。その本がなかなか見つからない。誰かに盗られちゃったんだけど、それを読んでものすごくびっくりするのは、彼のシャーマン婆さんのところに相談に来ると、1時間後には自分の家に帰れなくなっちゃう。本来の自分にその婆さんが出会わせるので、子どもがいたりしても帰らなくて、違うところに行っちゃう。帰らないとすると、以前の嫁を殺してるとか。そういう実例が100いくつある厚い本がある。本当のシャーマンの話なんだよね。
黒川:それを経験してシラフに戻ったときに、現実社会のなかでどうですか。
加藤:結局ここは違うというのがはっきりする。相手も違うというのが見えちゃう。俺なんかだと、子どもを何とかしようと思ってインドに連れて行ってるんだよね。3歳か4歳のときだ。4歳の姫子が2週間後に泣いて俺のところに来て、「日本に帰るから、私だけ飛行機に乗せてくれ」と言う。「どうしてだ?」と訊くと、砂浜で人前でションベンをするのが耐えられないと言う。それだけが理由。もう全然違う人になっていた。4~5歳ならすぐヒッピーになるだろうって、俺がやった過ちとは違う人生を歩んでほしいと思って4回もインドに連れて行ったのに、最後にそういうことを言われて「うわっ」と思ったね。日教組の教育にはかなわんなって思った(笑)。
黒川:少し話を戻しますが、金坂さんとおおえさんと最初に会ったのはどういう状況でしたか。
加藤:『映画評論』があって、佐藤重臣のところで皆会う。おおえは京都学芸大学の2年生のときに〈ゼロ次元〉に入りにきた。〈青年美術家協会〉と違うかたちだったけど、そのときに作品を出している。
黒川:名古屋時代ですか。
加藤:そう、京都から名古屋に来て。そのときに〈九州派〉とかに会ってるんだよね。
黒ダ:「日本超芸術見本市」ですかね。
加藤:そのときにコーラの瓶をコーラの会社から500本出させて、それを作品だとして、ウォーホルとそっくりの作品を出した。それがおおえの作品だった。それから「今から僕はシスコに行く」と(1965年)。「いいな」という感じだった。そのときに仙台の(糸井貫二の)弟子たちがパリに行くと(1964年)。
細谷:中島由夫さんたちですね。
加藤:うん。中島はヨーロッパを回るんだけど、もう一人、新宿の地下で……。
黒川:加賀見政之のセバスチャン?(1970年頃に開店した新宿のスナック)
加藤:そう、セバスチャン。あれがあっちの先生の弟子たちなんだ。
細谷:糸井さんですね。
加藤:それ(中島、加賀見)が西洋(ヨーロッパ)に行く。おおえがアメリカに行く。〈ゼロ次元〉から分かれる。そして、おおえが4年後に帰ってくる。金坂のところに帰ってきて、そのときに俺が佐藤重臣と組んで、万博破壊の宣言を『映画評論』に書いたりした。
細谷:美術ではなく、なぜ映画や映像のほうだったのでしょうか。
加藤:やっぱり写真が出るからだ。
細谷:ビジュアルですか。
加藤:そう、ビジュアルつながりだ。もうちょっと正直に言うと、俺は美術から嫌われてるの。でも俺はわざと断ってる。それは作戦だからね。断られて相手にされないんじゃないんですよ。最後に足立正生がパレスチナに行くのと、俺がインドに行くのと、同じ時期に二人して俺の家に、渋谷に明星電機の事務所があって、そこで二人が1時間前にキメちゃってベロベロの対談(足立正生インタビュー・3「加藤好弘―けんらんたる白日の韜晦儀式」、『美術手帖』1971年3月)がすごくおもしろいんだけど。
細谷:以前に加藤さんが、「宮井(陸郎)ちゃん(〈ゼロ次元〉記録映画『時代精神の現象学』を監督)と岡部(道男)ちゃんと金坂、おおえ、これはファミリーでつながりなんだ」と言っていたのが印象に残っています。
加藤:そのときも当然、宮井がいる。宮井が新宿に女軍団でいるので行くと、この部屋の3倍くらいの部屋に20人くらいの女がひっくり返ったままラリパッパなんだ。あそこもすごいんだよね。すごい女軍団ですよ。
細谷:宮井さんや金坂さん、映像の人たちのほうが共通意識や共通感覚がありましたか。
加藤:映像をやってる奴はキメてるの、サイケデリックなの。絵描きは皆ダサいの、知らんの。だから桜井(孝身)とかにはこっちから教えたくらいだからね。その関係でやり始める。日本の絵描きというのは国際感覚がすごく疎いんだよね。今はわからないけど。映画をやってる奴は全部、海外のメディア論の感性なのよ。
黒ダ:金坂やおおえはアメリカ帰りで、ドラッグ・カルチャーも……。
加藤:当然なんだよね。常識になってる。
黒ダ:金坂ほどの英語力はなかったかもしれないけど、そういう文化は充分に。
加藤:感性がね。
細谷:金坂さんがいわゆるカウンター・カルチャーやヒッピー文化を紹介しました。ウォーホルは加藤さんのなかでどういう存在だったのかを聞きたいです。
加藤:ウォーホルのことは端的に言うね。結局、今日も着てきたね(加藤が着ていたTシャツのこと)。これは一番の貧乏人しか飲まないもので。
細谷:キャンベルスープですね。
加藤:ちょっとしたインテリや小金がある奴は絶対にアメリカでは手を出さないですよ。公害食品だ、ケミカルだということで。そして人物を取り上げると、マリリン・モンローが死んだ顔だよね。俺が叩き込まれた西洋の絵画論は、神を描くことが絵画だというものだった。その前はアルタミラで、いきなり神だけになって、神をどう描くかだけでルネサンスまで来ていて、自分の思うことを当然だと思っていたら、つい最近の50年くらい前(ウォーホルが)オリジナルを始めた。オリジナルなんてなかったということを俺は教えられているのに対して、ウォーホルは神を描くことに代わって、缶詰を描いた。「この缶詰さえ食っていればホームレスでも生きられる」という一番ギリギリなものを描く、その皮肉のすごさ。そしてマリリン・モンローも生きてるモンローじゃなくて、死んでる女は美もへったくれもない。最後は交通事故をもってくる。この3点にはすごい衝撃を受けた。ウォーホルには絵のテクニックだけじゃなくて、コンセプチュアルアートのすごさ。それが俺にとって一番影響を受けた。宮井陸郎はウォーホルのところへ行って、ウォーホルの版画を日本で売る認可まで持って帰ってきてるんだよね。ということで、ウォーホルつながりはすごいの。
細谷:複製というテーマもかかわってきますよね。
加藤:ベンヤミンだ。やっぱりポップアートのすごさの究極は、印刷術でもシルクスクリーンなんだよね。シルクスクリーンは写真を絵にする。だから写すというのは、地球次元で写したアルタミラに対して、もうすでに地球の生態系から離れたものをシルクスクリーンで、ベンヤミンが言うように、アウラなきものを表現した。シルクスクリーンで刷ったものをウォーホルと同じように、すごい革命論として俺たちは認識した。だから、絵のほうではポップアートを理解してないんじゃないかと思うよ。カウンター・カルチャーのポップアート論はこれから書かれるんじゃないかな。俺だったら徹底して書ける。一人ひとり取り上げていってね。それと漫画をそのまま拡大して描いた。この3人を明確にしていかなきゃいけない。
細谷:(ロイ・)リキテンスタインですね。
加藤:このすごさ。漫画という子どものもの、文学でも芸術でもないもの、ポピュラーの極限を取り上げているウォーホルたちの表現は、誰にも真似できない。天才的な最後の芸術論だと俺は見ている。そこのあたりのコンセプトを理解するには、やっぱりキメてない奴はダメだと思う。キメたこととポップアートはつながるんだ。
黒ダ:ウォーホルは比較的早くから日本の評論家が紹介していて、たとえば東野、石崎浩一郎、日向あき子、金坂、かなりいろんな人がかなり早くから日本語で紹介しているのですが、そのへんの人たちの紹介は充分ではなかったですか。
加藤: 何かが欠けてるな。
細谷:ドラッグ・カルチャーやLSDというものが芸術の……。
加藤:違う。意識を変えたの。変えてない人が書くのと、変わった人が新鮮な目で評価するのは違うの。日本の評論家はキメないで平気で書いてるわけよ。精神科の医者が実験のためにやる、あのレベルなの。そこのところにおいて、日本のポップアートをやった先例がない日本人の絵画論は、誰が何をやってもダメだと俺は見てるね。ダメじゃないかもしれないけど、一人としてピンとこないのはそういうことだと思う(笑)。そこのところの機微にふれてないウォーホル論でも(ロバート・)ラウシェンバーグでも版画論でも、ない。ベンヤミンを読んでないんだと思う。ベンヤミンという近代化された芸術論の基礎をやってないから、俺たちが読むと化けの皮が剥がれちゃうの。「ああ、見てないな」「こんなふうに素通りして平気なのがよく生きてるな」という感じが俺はする。
細谷:時間軸を戻します。1966、67年、メーデー会場でパフォーマンスをやりますね。このときに〈クロハタ〉の松江カクさんと、ダダカンさんが一緒だったんですけど、松江カクさんや〈クロハタ〉の人たちとの出会いやつながりは?
加藤:〈クロハタ〉とは因縁が深いんですよ。松江カクとは実は、新宿のゴールデン街でよく出会っていた。ゴールデン街で一人、女の人が死んだんだけど(詳細不明)、有名な酒場がある。
黒川:ナナですね。
加藤:そう、ナナ。ナナの壁画は全部松江が描いている。あそこでの出会いだろうね。
黒川:美術関係よりも、ゴールデン街で先に会っているんですか。
加藤:そうそう。そういう連中とのつながり。うちに一人、ゴールデン街に2回店をもった奴がいるんだよね。〈ゼロ次元〉のメンバーにいる。東北大で上條の同級生で、ブントのリーダーだった奴。つい半年前くらいに死んじゃったんだ。
黒川:永寿日郎(ひろう)さん?
加藤:そう、永寿。
黒ダ:店をもっていたんでしたっけ?
加藤:そう。渋谷で儀式。カメラの羽永(光利)が撮ってたからびっくりした。渋谷の店は岩田の店なんだよ。オーナーが岩田なの。因縁があるんですよ。新宿のゴールデン街では、あいつは4年間くらいやってる。
細谷:〈クロハタ〉のパフォーマンスを加藤さんはどういうふうに見ていたんでしょうか。
加藤:俺から見ると、あいつは美術パフォーマーのシャーマンなんだよ。
細谷:松江カクさんですか。
加藤:そう。大和の民衆を引き出す。
黒川:ある種のシャーマン。
加藤:そう。単独者だね。芸術とかとは一切関係ないね。でもあいつがいると締まるんだよね。だから、彼はシチュエーションのメディアだと俺は見てる。
細谷:シチュエーション? 状況?
加藤:状況劇場なんだよ(笑)。あいつがいると誤解されるというのもよくあるので困るんだけど、いないと締まらない。痛し痒しなんだよね。本当に強いんですよ。松江カクは、九州に帰っていったモダニストの風倉(匠)とそっくり。風倉をもっと古風にした、本格風倉だね。風倉のほうがモダンですよ。
細谷:糸井貫二さんはどうですか。
加藤:ダダカンはシャーマンであるのにモダンすぎるんだよね。演技がだよ。シャーマンのふりをしているのに、やっぱり演技者だと俺は見る。装置はものすごくシャーマンなのよ。ところが松江カクのようなシャーマンではない。シャーマニズムにいかないね。やっぱり近代表現だ。太郎の「殺すな」のフンドシを締めて(実際には締めていない)万博に行って、だんだん脱いでいって、最後にあれをパッと落とすなんてところは、絶対に計算し尽くした禅的ダダイズムだと俺は思う。
黒川:それが昨日おっしゃっていた、作品のつくり込みの部分ですか。
加藤:そう。そういうことで、糸井貫二は対談していても油断ができない。一番俺は緊張するよ。下手なことを言えない。ちゃんと直感で聞いてるのよ。
細谷:ちなみにメーデーのときは、どういうふうに糸井さんは来るんですか。連絡するんですか。
加藤:連絡するといつの間にかいるというだけ。
細谷:応答はないんですか。
加藤:応答はないね。
細谷:来るか来ないかわからないけど?
加藤:いつの間にか来て参加しているのよ。お見えになってる。いるのが全然邪魔くさくないわ、それでいて彼は全部を支配しちゃうわ。
細谷:天使みたいですね。
加藤:たまらないよ、この人は。松江の場合は、演技によって邪魔になることがある。でも糸井貫二は違う。読んでるの、空間を。それは風倉とそっくりだね。風倉も読む。
黒川:状況に対処できる。
加藤:うん。状況のポジションを知ってる。自分の踊る場をね。そういう意味では、自分を客観的に放置して演技できるアーティストだと俺は見るね。こういうアーティストはめったにいない。桜井とは正反対だ。桜井は集団主義なのよ。オルガナイザーのメッセージがあるのね。ところが、糸井貫二は状況のなかでいかに対処するか。空間論を知ってる作家だね。彼がもっと若かったら俺が組めたのに、そういつも思う身体パフォーマーの天才だね。
細谷:年齢的にも上ですね。
黒ダ:16歳上ですね。
加藤:親父なんだよね。
細谷:お兄さんというより親父ですね。
加藤:親父ですよ。親父に近いくせに、しゃべってると対等だよね。一番跳ねっ返りが正確。だから俺は一人でワーッとやるのよ。それに対して、ひと声でピャッと返ってくる。「ああ、聞いてるんだな」と思うよね。俺は人が聞こうが聞くまいが応答が無茶苦茶だからフリーでやれるんだけど、糸井貫二だけは違うの。
黒ダ:その二人の会話が記録されていないのが残念ですね。
黒川:メーデー会場でやることになった経緯は?
加藤:毎年メーデーに俺たちは参加していた。
黒川:パフォーマンスをやるわけではなくて?
加藤:違う。行列に。普通のメーデーの行列に毎年参加していたんですよ。このときは小屋を建てに行った。奇脳舌(きのした)サーカス(1967年5月1日、東京・代々木、メーデー会場における「奇脳舌サーカス小屋見世物大会」)で、100号くらいを40枚、木を組んで貼らないといけない。朝4時頃からやった。これは松江カクがひよ方という木を組める大工のアルバイトで商売をしていた。彼の工房の材木をトラックいっぱい組んで、小屋や舞台をつくった。そこにチンドン屋協会から30人のチンドン屋が入ってガチャガチャやり始めて、そこでストリップも始まった。会場が左手300m先にあって、同じ方向にいる。チンドン屋が朝からやるから、子どもや老人は全部こっちに来ていた。500人くらいだ。あっちは3,000人くらいやってたんだ。
細谷:それはメーデーの主催者や活動家と実際にやりとりをしているんですか。
加藤:してない。関係なくて、勝手にやってる。
黒川:事前に申請しないで、これだけのものを会場に持ち込んだんですか。
加藤:そう。つくっちゃう。「申請してキチッとやってる」と係に言うの。
黒川:実際にはしていない。
加藤:してない。そこであまり動かないから、主催者がポリを連れてきたりする。ポリと主催者に対して言い訳をするのはヨシダ・ヨシエなの。
細谷:そこでヨシダさんが活躍するわけですね。
加藤:ヨシダが2時間相手をしてくれる。「終わるまで頑張ってくれ」と言うと、あの人一人で頑張ってくれるんだよ。
黒川:メーデー会場でこれをやろうと思ったのはなぜですか。
加藤:メーデーだと、ついでで客はいるし舞台ができているから、ここでやらなきゃ後味悪いと俺は見てた。俺はメーデーが好きで、個人的に前から行ってるんだよね。調べてたの。
黒川:それは別に衣装をつけてというわけではなくて?
加藤:普通に参加してたのよ。だんだんと、4回目くらいから変なものをおんぶして参加するようになった。
黒川:学校を辞めて名古屋から上京したあとですか。
加藤:そう、東京です。これをやっとったの、毎年。
黒ダ:背負っているものがいくつかあって、たぶん写真が残っていますよね。
加藤:3回くらい撮ってあるんですよ。最後は人形を舞台に上げたりし始める。人形に火をつけたりするので、すごい闘争になるんだよね。人形をやったり尻蔵界をやったり、やりたい放題やるからね。次から次へと出し物を。お客は皆喜んで、手を叩いてくれたりする。
細谷:一方ではメーデーの大会をやってるわけですよね。
加藤:喧嘩もやってる。それも全部お芝居なのよ。これはすごい成功してるよね。ただフィルムは撮れないのよ。阻止されるの。知ってるんだね。カメラを持ってる奴をものすごく……。
細谷:主催者が阻止するんですね。
加藤:そう。主催者が本物だなと思った。一番映像が撮れなかった。あれだけの仕掛けと金をかけているのに。
黒ダ:小屋の写真と映像がないんですよね。
加藤:ないの。(小屋に設置した春画が)外されちゃうんだよね。外す奴とまた春画を貼りに行く奴とがいて、それもまた作品だったんだよ。
細谷:それをひっくるめて?
加藤:そう。サーカス小屋で3時間占拠するという、これは大きな勝負だった。
黒ダ:ちなみに、このメーデーのとき、かわなかのぶひろの〈8ジェネレーション〉が参加していますよね。映画上映もしたんですか。
細谷:かわなかさんとの最初の出会いは?
加藤:訪ねて来たんだよね。何をやってるか訊いたら、コックをやっていた。ものすごく過酷な労働条件のところで働いていて、夜になってやっと来て、週に2回ずつ10年間くらい来ていた。かわなかのやっている勉強は皆、俺の本棚から借りていくわけだから、そっくりそのままですよ。そういう意味では、一番〈ゼロ次元〉にサブとして貢献したのはかわなかだと思う。九州に行って〈九州派〉大会(万博破壊九州大会、1969年5月3日~5日)とか、俺が〈万博破壊共闘派〉をやっていたときはかわなかはスタッフだったから、ずっといるのよ。金坂のこともおおえのことも桜井のことも皆知っていた。
黒川:さっき1回話が出ましたけど、ベトナム戦争に対する加藤さんのスタンスをうかがっておきたいです。
加藤:ベトナム戦争のときに〈ベ平連〉とつながる。大阪では〈ヤングベ平連〉がものすごく世話してくれて、東京でも〈ベ平連〉の若い奴が世話してくれた。俺が衝撃を受けたのは、ベトナム(戦争)反対なのは常識だけどそのことじゃなくて、よく食い込んであっちこっちに若いので討議をやっていくと、ベトナム(に派遣されるアメリカ)兵を(1968年11月までに)17人、よその国へ日本から亡命させている。その組織をつくった奴がいる(〈ベ平連〉によるJATEC[Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs]=反戦脱走米兵援助日本技術委員会)。それに俺は感動したね。実際にやってるんだよ。表には出てこないですよ。でも紹介されて行ったりすると、本当にいた。それがあったときにカシアス・クレイだから、ピタッと合う。哲学者の鶴見俊輔と、世界を一人歩きしたという作家の小田実。この二人は地味で、運動としてはアナーキーじゃないから、俺としては〈ベ平連〉は好きじゃなかった。闘争としては、裏の亡命運動を知ってから〈ベ平連〉のラジカルさを知った。
細谷:共闘派のあたりはあとでまた聞きたいんですけど、その前に〈ゼロ次元〉のパフォーマンスで、建国記念日に仮面の行進をしていますね(1967年2月11日、銀座、二重橋、日比谷公園における「建国記念日『仮面の行進』」)。
加藤:二重橋でやった。
細谷:まず西洋人の仮面ですとか。
加藤:アグリッパだよ。
黒ダ:やっぱりアグリッパなんですね。この前調べたんですけど、あまり似てない気がして。
加藤:アグリッパに俺は絵具を塗っちゃうから。
黒ダ:上條さんがつくったんですか。
加藤:そうそう、上條が。
黒ダ:色は西洋人の金髪みたいなのと?
加藤:ここのところが茶髪で赤いのと、顔を黄色くした。
細谷:この西洋人のイメージは何か意識があったんですか。
加藤:これと電車のセレモニーで、電車の中で首を吊ってるのがある(「都電首つり蒲団チンチン送儀」、1967年3月21日、『肉体のアナーキズム』、p.10参照)。これとこれ(仮面をかぶった男二人)がキスしたりとか、いろんなところにアグリッパは出てくるんだよね。
黒ダ:特にこの前、森美術館(「MAMリサーチ001:グレイト・クレセント 1960年代のアートとアジテーション―日本、韓国、台湾」、パネルディスカッション「1960 年代:反芸術パフォーマンスとその背景―日本、韓国、台湾」、2015年6月20日)で見せようとしたとき、西洋人が日の丸を振っているのがすごく意味深な感じがしました。
加藤:意味深だよね。しかも二重橋の前でやってるからね。右翼がいてね、困った顔をしてるんだよね。俺たちはあいつらが来ると(日の丸の小旗を)パッと広げて「ホイ!ホイ!」とか変な声を出してね。
細谷:声を出すんですか。
加藤:うん。「バンザイ!バンザイ!」とは言わないけど、そういうふうに振ると二重橋に敬意を表しているようにしか見えないわけだ。
黒ダ:止めるわけにいかないわけですね。
加藤:いかない。
細谷:けれども西洋人がやっている。
加藤:西洋人が日の丸を振っていて、本当に日本人じゃないかもしれないし、困った顔をしてるのね。ポリと同じ顔をしてる、右翼が。そこが俺は成功したと見てる。
細谷:日の丸と西洋人について、意識的にやったということですね。
加藤:そう。俺の場合、日の丸というものが一種の皮肉なんだけど、どっちともとれるスレスレのものだ。これを持っている限り、二重橋で安全だと見てるわけ。パスポートのために使うんだよね。だいぶ日の丸の旗を利用してるよ。
細谷:旗も綱も、鉢巻もそうですね。
加藤:そうそう。
黒ダ:仮面について、なぜ西洋人の仮面だったのか。一人ひとりの顔をかぶせていくと……。
加藤:いや、ポップアートの作品のつもりなんだよ、俺は。こういうポップアート表現なの、俺の。そこに日の丸を出すとパフォーマンスになっただけで。
細谷:これは上條さんですよね。
加藤:そう。
細谷:上條さんについて聞きたいです。
加藤:上條はブントの相当ハードな闘争家だったんだよね。
細谷:東北大ですね?
加藤:そう。永寿と二人が。組長と副組長だからね。二人でブントを組織してた。かなりハードでやばい運動家で、学校からも相当注目されていた伝説の人たちだ。京都大学でやったときも、その流れのなかで京大の全学連の連中。〈万歳党〉の仲間たちの一部(詳細不明)。京都に(〈万博破壊共闘派〉として)俺が攻めて行ったとき(1969年6月10日~11日)についてきた。それで社員になった。
黒川:上條さんと永寿さんが?
加藤:いや、第二部。〈万博破壊共闘派〉のときから入れ替わってくるんだよ。
細谷:このあと、「人間と大地のまつり」(1971 年8月28日~29日、代々木公園)とか。
加藤:そう。あれはヨシダ・ヨシエがやるんだけど、そういうときはうちの若い共闘派の連中なの。京都の全学連の連中が入っていた。
細谷:上條さんや永寿さんが学生運動のメッセンジャーというか、つなぎ役になっていたんですか。
加藤:それはない。東北大まで行って2週間の儀式や講演会をやっているとき(1969年6月15日か)には、あの二人を誰も知らんのだよね。時代が変わったなと思った。二人を連れて行けばものすごく尊敬されるかと思ったけど、知らん人ばかりだった。二人とも戸惑っていたよね。
黒ダ:上條は東京で〈ゼロ次元〉に加わったときには、そういう活動はしていなかったんですか。
加藤:してない。やめて、東京へ来て絵描きになる修行をしていた。そのときに1年くらい、岩田が東京に出てきた(1958年)。俺も岩田を世話していたら、岩田が行っている美術研究会(御茶の水美術学院)で上條と出会って、それであいつが拾ってきたんだよ。うちは一軒家を借りていたから、いつも4~5人寝泊まりしている。その一人だった。岩田は高校3年生で肺結核になっちゃう。皆が阿佐ヶ谷に行くのに(旭丘高校の後輩である赤瀬川と荒川は武蔵野美術学校に入学し、阿佐ヶ谷に住んでいた)、岩田だけ取り残されちゃった。その2年後か3年後に来るんだけど、その前(実際には東京滞在後の1964年)に京都にいるんだね。あいつはなぜ京都に行ったか、わからない。俺は目標がはっきりしているんだけど、あいつの京都行きには「え?」と思った。
細谷:ちなみに、加藤さんは〈ハイレッド・センター〉をどう見ていましたか。
加藤:パフォーマンスとか何かの、オノ・ヨーコと一緒だよ。さっき言ったジョン・ケージのごっこをやってるだけだよ。でも、ああいうのが有名になるのよ。ついている評論家がモダニストだからね。俺についてるのは針生一郎で、それと喧嘩ばっかりやってるんだから(笑)。ただ俺はね、赤瀬川と荒川のパフォーマンスは一切認めないけど、絵としては一級品だと思ってる。赤瀬川が能力があるのは、物理学みたいなことのほうから入ってくる絵画論だ。数論をもってるんだよね。赤瀬川のおもしろさはそこに見る。哲学でも宇宙論でもない、図式のような天体学。そっちからのイメージで描く表現がおもしろい。一方、荒川は土着の作家なのね。縄文とか弥生とか、土をこねていくようなやつ。ただし荒川のほうがスケールが遥かにでかい。赤瀬川が箱庭療法みたいなことをやっているとすると、荒川は中国、大陸的だよね。阿佐ヶ谷時代、2年間一緒だった頃の感想だよ。
黒ダ:おもしろいですね。赤瀬川、荒川に関して、今みたいなことを言う人は絶対にいない。
加藤:そうかね。荒川はそういう意味ではメルロ=ポンティかぶれだからね。土着の泥をこねているような奴のくせに、コンセプチュアルな方向へ行った。
細谷:さっきアグリッパや、小道具の話が出たので、そこを聞きたいです。布団や、もっと西欧的なコルセットやスーツ、ゲートルとか。
加藤:ゲートルとコルセットを巻いて、俺は実は内科画廊に自動オナニー機を出品してる(1964年7月6日~11日、「コレガゼロ次元だ!! ゼロ次元シリーズ第2週 加藤好弘展」)。新橋の地下鉄の階段とかに、布団を7枚くらい敷いちゃうのよ。その途中にオナニー機械を設置して、そこで5人が「イク、イク、気持ちいい、やめてくれ」とか、ちっともいかないのにやってる。こういうのを持ってくんだよね。しかもモーター仕掛けにしてある。
黒ダ:いい写真が全然ないんですけど。
加藤:これに跨がってやるんですよ。布団が敷いてあるから、渡っていく奴もいるけど、布団はなかなか渡れないみたいでね。地下鉄の階段を封鎖してるの。布団は動きがとれないようにするためにビチッと敷いてある。そういう効果なんだよ。2枚ずつ敷くわけ。渡ると50cmくらいしかないんだよね。どうしても行きたい人は壁沿いを渡るし、布団(の上)を行く奴もいる。でもとにかく来るほうも行くほうも、皆止まっちゃう。そうして係員が来る寸前までやって、全部畳んで電車に乗って逃げる。逃げて偶然降りたところの階段でまたやる。1日に5回か6回やってるんだよね。
細谷:布団みたいな土着的なものを使う一方で、スーツやコルセットなどキチッとしたものをもう一方で使うじゃないですか。
加藤:スーツを着て銭湯に入っていっちゃうわけだな。あれはちょっと見え透いた計算なんだよね。スーツで土着のなかに入る。ウォーホルのポップアートみたいにかっこいいコンセプトはないわけだから、何か泥くさくなることを狙ってる。だから日の丸なんてわざと使う。日の丸なんて出す奴はいないからね。日本人の作家たちは、自分は近代だと思ってる奴ばかりだ。あれを見ると「加藤はまた幼稚だ」とわざわざ俺を非難しに来る。すると「ああ、また日の丸に引っかかったな」と思うわけだ。
黒ダ:昔だから言われないとわからないですけど、こんなダークスーツを着ている人は街にいなくて、つまりこれは燕尾服ですよね。
加藤:そうです。
黒ダ:当時の一般のサラリーマンと比べて、明らかに時代がかっていますよね。
加藤:これで透明なビニールに裸の女を抱えて山手線に乗っていくわけだから。
黒ダ:これは最近見つかった写真です。これは男性ですか。
加藤:男性。男と女を交互に抱えたよ。山手線に乗るんですよ。これはやっぱり緊迫するね。裸だからね。それをビニールに入れてある。
細谷:裸で緊迫するというのは、高度経済成長でどんどん生活も変わってくるなかで、裸に対する人の意識みたいなものにも変化があったんでしょうか。
加藤:肉をぶつけて街をギョッとさせてるね。赤瀬川たちと決定的に違うのは、いかにもつまらないことを芸術としてやってるんじゃなくて、コンクリートで埋められたものをバッと引き出していく。インパクトが全然違うんですよ。街を掃除するとかいうのと。
黒ダ:馬鹿馬鹿しいことを平気でやると言えば、やっぱりこれかなと思うんです(『肉体のアナーキズム』、p.198参照)。
加藤:女のパンツを履いて銀座を歩いとった。これは松屋の屋上に行ってるよね。
黒ダ:歩くときより、女物のパンツを買うときのほうが恥ずかしかったと(笑)。
加藤:(笑)。変な柄パンでおかしな刺繍をしてあるとね、それ履いて銀座歩くと本当に皆びっくりするよね。
細谷:チンチン電車とかバスとか、交通機関、乗り物に乗りますよね。
加藤:電車は貸し切りなのよ。目黒駅から新橋まで行って帰ってくる。4時間くらい貸し切りをやってる。その脇でかわなかが撮影をやってる。電車を外から撮るわけだ。
細谷:乗り物を使うのは何か意識があったんですか。
加藤:あった。電車を使いたかった。もっと言うと、これは客のいるところを撮れと言うんだけど、客は入口のところまで3人は乗るけど、あとの人は降りちゃうんだよね。これはしまったと思った。入口もちょっと空けておけばよかったと思ったね。
黒ダ:普通に停留所で停まって?
加藤:そう。そこから乗れるわけですよ。
黒ダ:お金を払うようになっていたんですか。
加藤:それは知らんのだけど、切符を持って入ってくるのに、入口から脅しすぎちゃったので次で全員が降りちゃう。一駅は乗るけれど、三人いくと詰まっちゃって、下から見て「何か変らしい」と乗ってこない。これが失敗だった。
黒ダ:本当は乗ってもらいたかったんですね。
加藤:乗ってもらって、一人降ろしてまた乗って、とくり返されるのを写せと言ってあった。
黒川:外から見ると「貸し切り」と書いてあって乗れないんじゃなくて、普通に乗ってもいいようになっていたんですね。
加藤:ということが条件だと言われた。「貸してもいいけど、客が来るのが条件ですよ」と言われたわけ。
細谷:記録という話が出ました。映像も写真も膨大な量です。記録にかなりこだわっていますね。
加藤:うん。俺の論理はマクルーハンからだけど、生よりも写真のほうがリアリティのある時代にきた。だから生を見せてもしょうがない。映像がすべて。しかも映像は部数がなければ作品じゃないから、50,000部以上じゃないといけない。普通の作家が個展をやっても、1週間で500人も入らないでしょう。俺は一発やって50,000人に届ける。50,000人以下では取材を拒否する。だから〈ゼロ次元〉を撮りに来るのはアーティストのカメラマンじゃないんだよ。すべて雑誌社なんだよね。
細谷:あとフリーのカメラマンとかですね。
加藤:そうそう。
黒川:動画よりも写真のほうがいいですか。
加藤:やっぱりグラビア写真だね。動画は記録だと見てるの、俺は。
黒ダ:当時、街でやったやつでテレビに出たのはあまりないですね。
加藤:ないね。当時俺は「11PM」のレギュラーでもあった。
黒ダ:スタジオだったらあるけど、街でやるやつを当時のテレビ用の機材では無理ですよね。
加藤:NHKの有名な中年のおじさんが、風呂場(渋谷の日本超音波温泉)では司会をやっていた。
黒ダ:高橋圭三じゃないですか。
加藤:そう、高橋圭三。番組になったよね(1967年9月29日、TBS「圭三訪問 0次元の会」か)。映像のほうが主体というのか、生(なま)を生と思ってない。メディアというのは、生よりもテレビやグラビアに出ることのほうがリアリティであって、実在がそっちにある。そういうことは途中でマクルーハンから学ぶんだけど、直感でそうわかってたんだよな。マクルーハンが手放せないのはそこなんですよ。奴が保証したから。そういうことを保証する美術評論家なんて、日本にはほとんど存在しない。だいたいポップアートがわからない奴が美術評論をやってる時代だからね。
細谷:時代は万博のほうに。1969年はもう万博の論争になっています。記録が残っている万博に対する加藤さんの発言が、『デザイン批評』8号(1969年1月)に載っている建築の人たちとの討論会です(「共同討議 われらは不可能に挑戦する」、加藤好弘、成田克彦ほか、原広司、服部岑生、早田保博、志賀幹央、及部克人、有村桂子)。
加藤:やってる、やってる。あれはけっこうハードに激しくしゃべれた。
細谷:昨日、岡本太郎の話がありましたけど、反博に向かう経緯をもう1回お願いします。
黒ダ:〈万博破壊共闘派〉がどういうふうに生まれたか。
加藤:結局ね、万博に突っ込もうということを俺がひらめいて、いろいろ誘っても乗ってこなかった。だから〈万博破壊共闘派〉という(グループで)儀式をけっこう仕組んでやったの。旗を立てたりね。「今こういうふうにやっていて、お前たちがパフォーマンスをやらないと遅れるぞ」という脅しをかけたりして引き込んだ。
黒ダ:誰にですか。
加藤:その当時、いろんな奴が〈ゼロ次元〉に送ってくるんですよ、「地方でこんなことをやった」とか。資料がいっぱいあるので、それに手紙を書いたり電話をかけたり。
細谷:「参加せよ」と?
加藤:そう。だけど皆尻込んじゃう。半年くらいはそうだった。それからだんだん来たのね。なぜか一挙に来るようになった。何が証拠かというと、佐藤重臣のところで俺が〈万博破壊共闘派〉の宣言をしたとき(佐藤が編集していた『映画評論』1969年5月号に掲載された「加藤好弘(アンチ万博狂気見本市協会)万博破壊活動第一宣言」)からだね。あれが大きいよ。
細谷:あれが出たのは大きかったですか。
加藤:あれは大きいよ。決定的だと言ってもいい。パフォーマンスが学生運動と同じレベルの革命論だというふうに俺がしゃべることに乗ったということだな。「学生はやっているのに、アダルトがピクッともしないのはおかしい」という言い方で俺は脅していた。今でもそうなのよ。アジアンタリズムというのは、竹下通りで16~17歳(の少女に見られるようなもの)なのね。その子たちは夜間の高校か、高校を辞めさせられている。不良少女たちで。そうすると就職も結婚も子育ても一切なくなる。その娘たちが行く職場はキャバクラか風俗しかない。日本の娘たちは一人前に扱われないから、男のために化粧をしたり勉強したりする。ところが彼女たちは、相手になったり一緒に家族をつくったりすることを拒否されたことを知っている。としたら、16~17歳前後の4~5年が勝負で、自分のために着飾って自分のために化粧をする。今までの「誰かにもらってもらうため」というのと根本的に違う美学に、世界の娘たちが同調した。それが「カワイイ」だよ。となると俺は、あれを京都で毎年発生したええじゃないか行進のメタファーじゃないかと見ている。あのくらいのパフォーマンスの無償の行為、あれが一遍上人とつながるんだよね。踊って化粧して、男は女の恰好、女は男の恰好というふうに入れ違う。変身願望の強烈な世直し論を竹下通りの娘たちに見るんだ。どうして竹下通りを知っているかというと、竹の子族というのが竹下通りの前の代々木公園ではやったの(1980年代前半)。ものすごい人が集まっとって、いつも俺は娘二人を連れて行ったのよ。するとそこで竹の子族が面倒見てくれて踊ってくれるのを、俺は毎週散歩ついでに連れて行って見ていた。その頃の娘は小学生だったのに、それを囲んでいるのは高校生みたいな子たちだった。よく見ていると、全般的な衣装のデザインに俺はものすごく韓国を感じた。京都に通っていたときに、嵐山とかに集団で花見に来ていて、全員が踊るのね。名古屋や東京・上野では踊らないらしいけど、京都はほとんど踊ってるの。全部、在日なの。ものすごく色が鮮やかで、太鼓をバンバン叩いて、あれに俺は教員のときに出会って一種感動した。ええじゃないか行進がこんなかたちで残っているのかって。それと子どもを連れて行ったときの衣装がそっくりだったの。もちろん花見は大人が中心で、竹の子族は子どもが中心なんだけど、あの色使いのケバさは日本人の感性じゃないのよ。それに皆、同調していた。竹下通りはコスプレになっちゃうから違うんだけど、ああいう異次元の文化が入ってくるということにおいて竹下通りはものすごく革命だ。しかも、あれに啓発されて同調するアダルトがいないし、理解もしていないけれど、「ああ、あれは俺だな」と思う。〈ゼロ次元〉とそっくりだ。ナルシスに徹して、そして相手がいないから自己表現に徹すること。そのメタファーとしての竹下通りに、子どもを連れて行ったところからつながった。
細谷:ちょっと話を戻しますね。若者たちに呼びかけるわけですね?
加藤:そう。そういうときにアダルトがメタファーもなければ何もない。「表現は闘争だ」という北川民次が蘇ってくるんだよね。あの当時、北川民次はあまり好きじゃなかったんだけど、彼の文章をあとから理解していって、「ああ、ああいう人だったか」ということで、彼の言ったことが初めて理解できた。
細谷:あとは名古屋時代の共産党、闘う思想がここでまた出てくる?
加藤:左翼だね。共産党なんて生やさしいものじゃなくなる。レッドパージの地下に潜った連中のエネルギーみたいなもの。それは徳田球一だと思うけどね。
黒ダ:『映画評論』の「万博破壊第一宣言」は69年5月号だから出たのが4月。
加藤:としたら、組織ができてるね。
黒ダ:それがすごく大きかったとのことですが、そこでどういう人たちが応えてきましたか。
加藤:今出てるメンバーですよ。特に〈告陰〉が新しく出たね、末永(蒼生)が(実際には『映画評論』の記事が出る前に〈告陰〉はすでに反万博イベントに参加している)。末永はあの当時のヒッピー・カルチャーだと思う。そのなかにガリバーがいるんだけど、ガリバーは徹底して風俗なのよ。そのくせあとで会うと、コンセプチュアル・アーティストのふりをしちゃって。俺はものすごくガリバーを擁護しとったんだよ。
黒ダ:末永さんについては、当時と今と一貫性がありますか。
加藤:一貫性がある。つまり、あの頃やったことを否定していない。今は商売が変わったからとか、そういうことを言ってるんじゃない。
黒ダ:末永さんのどういうところに共闘できると思いましたか。思想性みたいなことなのか、活動や、あるいはパフォーマンスですか。
加藤:パフォーマンスはダサいけど。〈九州派〉の桜井と変わらない。でも、あいつの表現は全部闘いに通じているから、俺は支持する。思想として現代社会にアンチテーゼなんですよ。歯向かってる。末永は浅利式色彩論をやって、絵の色から心理を読む専団に属していた。
細谷:〈ビタミン・アート〉の小山哲男(のち哲生)さんは?
加藤:これはすごいですよ。アナキストなの。新宿で鶏を30羽、腰に巻いてきて、ハサミで切っていくんだよね(1966年11月23日にちだ・ういとコマ劇場前で行なった「第1回デーティング・ショー」)。
黒川:それはちだ・ういと?
加藤:あいつはちだ・ういと共闘なんだよね。最後は大きな劇場で生きてる牛を解体したりとかね(1969年5月7日、東芝ホールにおける「ビタミン・ショー」)。行為そのものは受け入れるけど、俺は生でそれをやることは大嫌いなんだよ。だから小山はほめて否定する。激しいアナキストはいいけれど、物理的にやらないと気が済まないということで、俺は信頼がない。それはアートだと俺は思ってないから。そこが田舎くさい。
細谷:思想というか、アナーキーなところが小山さんは強いと思いますか。
加藤:すごく強い。それを闘争にはぶつけているわけだからいいんだけど、演技がダサい。
細谷:思想というか、精神か。
黒川:あまり論理的な人ではないから。
加藤:だからそういうことを平気でやれると思う。思想としてのイメージ表象がなくて、生でいきなりぶつけてくるから。
黒ダ:二人で(黒ダ、黒川)小山さんに生前にインタビューをしたときに、訊かなくてもよかったんだけど一応「共闘派に参加したのは政治的な意思があったんですか」と訊いたら、小山さんは「全然」と言っていました(笑)。
加藤:何かおもしろいだけなんだよね。そのへんが上條たちとは違う。上條たちは思想をもってるんだよ。小山は身体的直感のアーティストで、数寄屋橋で畑の防腐剤(実際には消臭剤)を背負ってまき散らすハプニング(1968年1月1日の「ビタミン・ショー」)には感動したけど。
黒川:資質的なものは買っているわけですか。
加藤:そうそう。それを思想とか何かにつなげていかないといけない。俺は違うかたちで本人に言うの。本人は知ってますよ。俺が嫌ってる理由も知っていて、というのは周辺が悪いの。直接行動フェティシズムのあの人もまた、そっちのほうのボスなのよ。
黒川:さっきの土方的なロジックで言うと、小山さんにシャーマンの要素はないんですか。
加藤:ある。あるからおもしろい。ものすごく強いんですよ。それが生のほうにいっちゃうから。皆ズタ切りにするような。土方はやっぱり哲学をもってるんだよね。俺の〈万博破壊共闘派〉の論文(前出『映画評論』の「万博破壊第一宣言」およびその続編か)を読んで、一番評価したのは土方だからね。「加藤、お前の話より文章はいいね!」と言われてびっくりした。土方がほめるなんて全然思ってなかったから。
黒ダ:土方は間接的に万博に参加したわけですよね。
加藤:だから俺とはまずい感じなんだ。でも文章はほめてるの。「文章はすごいよ」って。
黒ダ:共闘派の話だったら、水上旬さんについて。
加藤:水上は俺の高校時代の後輩なのね。水上は岩田の友達。京大でしょう。弁護士のような家柄で全然違う人なんだよ。岩田の派と俺と合う奴は全然違う。岩田の派のなかで一番インテリなのが水上ですよ。ただ彼自身のやっているパフォーマンスは、俺から言わせると小山と同じだ。あんなものは(ロープから地面に)落ちるに決まってるじゃん(1969年6月10日、京都大学でのパフォーマンス)。だったら一回練習してこいよって(実際には練習していた)。
細谷:70年代以後になると、水上さんもそうですが、松澤宥さん周辺、首くくり栲像(古沢宅)さんなど、「人間と大地のまつり」で一緒になっているんですけど、こういった行為者を加藤さんはどう見ていましたか。
加藤:彼の場合はスレスレなんですよ。小山とか水上よりもうまい。本当の首をくくらない。演技でやっているという点で、こっちよりレベルが高いと思うよ。つまり尻尾を出さない人だよね。
細谷:松澤宥とはつながりがなかったですか。観念芸術。
加藤:全然。あれはハナから……。体質が違う。オノ・ヨーコや赤瀬川がやっているコンセプトを、もっと日本的に神格化している。
黒ダ:加藤さんが松澤に宛てた手紙があるんです。封筒など全部とってある。
加藤:松澤から返事は来ないんだよね。あとで聞いたけど、松澤と俺が一晩付き合っていた日があるんだよ。岐阜でやった何とかいう大会があって、〈ゼロ次元〉が岐阜の河原にテントを……。
細谷:岐阜アンパン(1965年8月9日~19日に岐阜市民センター、金公園、長良川河畔で開かれた「アンデパンダン・アート・フェスティバル」=通称「岐阜アンデパンダン展」)ですね。
加藤:岐阜アンパンで岩田と小岩と俺で殴り合ったときに、ずっと一人のおじさんが黙って見ていた。普通はツーッと行くのに、一人だけ黙って見ていた。あとで、あれが松澤だと聞いたことがある。
黒ダ:その場にいてずっと見ていたんですか。
加藤:ハナから最後まで。普通は出て行っちゃうのよ。
黒川:何を言うでもなく見ていたんですか。
加藤:何も言わずに最後まで。その頃、俺は松澤を知らんわけだ。そのときには手紙を送ってないと思う。あれ以後だと思う。あんな見者はただ者ではないという印象が残っているね。
黒川:人物評の流れで、あさいますおさんについてもうかがいたいです。
加藤:あれは天才だね。不遇の天才という感じがするね。まず中学校の家出の女を集めるだけで、俺は衝撃だ。しかも昔の陶窯の穴蔵で飯を食わせているわけでしょう。帰りたいときに帰って、来たいときは1週間そこに泊まらせる。あれだけで、俺はあさいますおは天才だと見たね。あれごとパフォーマンスと見る。その子たちをチンチン電車で参加させたとき(「日本超芸術見本市」、愛知県文化会館美術館、1964年8月30日~9月5日)はものすごい衝撃だった。ますお大好きだね、僕は。俺のアイドルという感じがする。延々としゃべっていて、あれだけ知的な返事をしてくる若者はめったにいない。ものすごい読書家ですよ。そういう意味では、初めてパフォーマンスの人でインテリに会ったという感じがする。
黒ダ:学習の努力をものすごくしていたんですかね。
加藤:奴はすごい。そういう男は対話が延々と続けられる。普通は一方的に俺がしゃべって終わるんだけど、あいつは問いが鋭い。そういう点では末永だよね。末永がそうですよ。
黒ダ:末永とあさいを再発見した感じです。
加藤:ああいう若い奴は今ほとんどいない。細谷なんかにも言ってるのよ、「勉強せい」って(笑)。
細谷:この10年やってきましたけど(笑)。
加藤:だからこれからなんだよ。やっぱり一生続けないとダメなんだよ。これだけやって卒業なんて大間違いだ。それはきっかけにすぎないから。それで自己のアイデンティティを自分の学習のなかから育ててほしい。でないと退屈だよね。人間の一番の罪は、相手が退屈だってことよ。だから俺の相手は変なふうで、全国にいるのはそのためですよ。無名の坊主までそうだよ。この前、インドに一緒に行ってキメた相手(詳細不明)が70歳になって福井で坊主になって会いにきて、そういう奴とお互いに4時間話せるんだから。当時と変わらないですよ。20年後の話だけど。そういうのがいっぱいいる。女はいないね。女は自分のことで終わっちゃうから(笑)。やっぱり退屈しない人に延々となってもらいたいのが願いだね。儀式とかこういうものに寄ることをきっかけとして、それが人間関係として続くには学習に比例すると思う。同じテキストをやれと言っているんじゃなくて、何でもいいからやってきて、対話できるかどうか。これが男同士のエロスだと思う。アウフヘーベンしたオカマのエロスがある。
細谷:〈ゼロ次元〉メンバーとして、北出幸男(トンボ)さんについて聞かせてください。
加藤:トンボは俺が学校の先生をしていたときに、兀下(巌)の生徒だった。兀下は俺の同級生で、愛知県で先生をやっていて、トンボを紹介してきた。あれ(トンボ)が(加藤が)東京に来たときに来ちゃったの。俺の名古屋の弟子が二人(松葉正男、永田智)ついてきた。そのままずっと習性として〈ゼロ次元〉を撮り続けたというわけだ。
黒川:もともと写真をやっていたわけではない?
加藤:写真家ですよ。写真のマニアというのか、カメラマンになりたい奴だった。
黒川:アマチュアとして名古屋で撮っていたんですか。
加藤:そうそう。アマチュア作家だった。ただ彼の経歴が、これは言っていいかわからないんだけど、日本に日本人だけのヒッピー部落があるんですよ。
細谷:〈部族〉?
加藤:そう、〈部族〉。あそこに2年間くらい入っていた。ああいうヒッピーの感性があるんじゃないかな。
細谷:〈万歳党〉もそうだし、60年代から70年代に面子が替わります。新しい若者や70年代以降の日本のヒッピー・ムーブメントを、加藤さんはどういうふうに移行していきましたか。
加藤:骨がなくて、やってるだけという感じで、魂が抜けてるね。ふりでやってる。ちょっと薄い人になっちゃったね。人間が目先だけになっちゃったよね。一貫性がないのよね。その場その場なんだ。マリファナの解放の新聞をつくるとか、そういうことではちゃんとしてるんだけど、松江カクとか末永みたいに延々とやる奴はいない。そういう意味で薄まっちゃってる。だから時期がポンと終わっちゃうよ。
細谷:60年代から70年代にかなり変化があるわけですね。
加藤:極端な変化だね。それで終わっちゃう。終わっちゃうから、俺は女を仕込み始めるわけだ。
黒川:その変化の背景は何だと思いますか。
加藤:社会に対するものを曖昧に受け取っちゃえる奴だから。あんな程度の幸せを幸せと受け取ってしまう、という感じがするよね。結局ね、豊かになってもいないのに、豊かなふりをするとかね。俺は欠落しているものをどんどん感じるけど、「あれでいいんだ? 本当か?」と思うよ。今はその延長だと思うよ。だから俺はあれから男と付き合ってない。男を全部切った。女のほうがマシだ。女であるだけで、この国にはひどい差別があるからね。だから俺の言うことややることに共感をもってくれる。男はオバケみたいな感じがするよね。透明なクラゲみたいな感じがする。エロスがないね。それと、俺は60年代にニューサイエンスの物理学があった。物理学は近代の先端でしょう。近代をつくった大元ですよ。一番の論理としての近代である物理学者、カプランやデヴィッド・ボームとか、あのへんのニューサイエンスの奴が東洋の老子のタオの思想を、ドロップアウトせよと言っているネガティブな思想を、成功の波に一切乗らないほうが人間は幸せだと言い切った老子を支持するアメリカ人の感性のすごさに打たれた。俺たちはあれを叩き込まれたのに、日本であれを評価している奴は明治から誰もいない。それを思うと、ニューサイエンスのパワーを忘れてはいけないと思う。ウォーホルのやったことよりも、もっと衝撃を受けたのはあれだ。あっちのほうが芸術論なんだよ、俺にとって。それを論理で言い切ったのが「メディアはメッセージ」で、内容じゃなくて装置そのもので人間がダメになるということ。テレビを見るとして、レベルの高いテレビを見ていたら人間は利口になるなんて馬鹿を一切受けつけないマクルーハンの、メディアのリテラシーに対するものすごく用心深い思想と比べると、ニューサイエンスが東洋思想そのものであることを指摘してきたカプランのすごさ。この二つに挟まれて、本当はアメリカに住むとよくわかるんだけど、白人以外を人間と思ってない。食堂とか一級品の店に入るとよくわかる。俺たちの席は決まっているんだよ。空いていても空いていなくても決まってる。バスにも便所にもある差別がニューヨークで堂々とまかり通っている。1年や2年いただけではダメですよ。5年目くらいからわかる。人間と思ってない。広島でも200,000人、300,000人やって、一番すごいのは沖縄なのね。防空壕に逃げていった庶民に対して、10m飛ぶ火炎放射器で焼く。一瞬にして三善道のなかに放り込むのを何とも思っていない、奴らの悪魔性みたいなものの差別感は根強く今も生きている。しかもそれが一神教の信仰として当たり前だと思っている。東洋やアジアは常に相手や自分を相対的に見るけど、奴らは神を背負っているから、絶対的に決めつけてもいいと思っている。この思想的体系において、物理学者が道教という船の思想をもってきた。さっき言った馬の思想じゃなくて、船の思想、稲作であり、川は上から流れて海になるという、ヒエラルキーではないそういう女性原理を支持したことを、60年代のカウンター・カルチャーのコンセプトと俺は見ている。もっと言うと、60年代のコンセプトを勉強することが未来だと俺は見る。今そういう思想家もコンセプトも宗教も感性も一切ない。つまり未来がない。根が伝承しないわけだから、砂漠に都市ができる。ディズニーランドみたいになっていく危なさに対して、後ろを向いて引っかけるとしたら、道教を支持した物理学者の切実な知恵にすごい衝撃を受ける。俺たちもアジアや東洋と言いながら、こっちにすごい宝があるのに勉強もしなければ気がつきもしない。そして、カウンター・カルチャーがなかったら、俺はタオに帰れなかった。華厳をやっていたけど、学生時代のことがこんなに重要な膨大な未来なコンセプトだと思っていなかった。それが今帰ってきているので、アジアンタリズムはこれからの表現だと思っている。一神教で絶対者を置いてやっているのは、マルキスト(マルクス主義者)も北朝鮮もそう。崇拝者を置いたら、それ以外は何をやってもいいということでしょう。だから共産党のソ連も資本主義のアメリカもほとんど一緒だと見ている。あいつらは一神教だ。神なき一神教に対して、東洋は相手があって考えていく。相対論の論理という船の思想に帰れということ。女性原理のなかに未来を見るとすると、未来のコンセプトは60年代の思想からもう一回やり直さないと危ない。そういう意味でカウンター・カルチャーをノスタルジーにしたくなくて、むしろ未来の俺たちの行くべき道なんだ。だからタオ、道です。ということを俺は最後の結論にしたいし、むしろそれをアジアへ行って、中国でも香港でもしゃべってメッセージにしたいという願いがある。だからぜひ、無名の〈ゼロ次元〉の新人だけど、世界に「よろしゅう!」ってデビューしようと思ってるくらいだ。普通はこれくらいの歳で仕事が終わっちゃってるんだよ。それで古い話ばかりやってる。でも俺は違うの。古い話じゃなくて、今やってる60年代のカウンター・カルチャーこそ俺たちの未来だ。未来に行くべき思想がそこにいっぱいあって、まだ手をつけていない。それをもう一回やってみようぜというところに、カルチャーのレボリューションがあると思う。まだ革命されていないんだ、日本は。そのあたりがひとつオチでございます。
黒ダ:この「日本美術オーラル・ヒストリー」で最後に訊く質問が定石としてあるんです。「当時を振り返ってどうですか」「今何をしていますか」「これから何をしたいですか」という定石の最後の質問なんです。訊いてないのに全部言っていただいてありがとうございます(笑)。
細谷:アジテートで締めていただいて(笑)。
加藤:(笑)。俺はそれを言うために朝鮮にも行きたいんだもんね。
黒川:すごくいい締めでしたね。
黒ダ:最後に盛り上がって締まったんじゃないですかね。個人的に訊きたかったのは、アジアンタリズムはけっこう中国大陸やタオイズムの話にいくんですけど、その前に、〈ゼロ次元〉のすぐあとに男を見限って女性にフォーカスして、そこでタントラ研究でインドに毎年のように行かれますよね。そのときのタントラ研究やインド体験が今おっしゃっているようなアジアンタリズムとつながっているのか、それとも一神教に対する多神教みたいなことなのか。
加藤:そういうことじゃない。俺が生徒に教えたのがきっかけなんだけど、無意識を人間のなかに掘り出すことを、〈ゼロ次元〉のときは無意識的にやっていて、意識的にやっていなかったと気がついた。身体が反応していただけなんだよね。これだと伝承できない。俺で終わってしまうんだよ。だから〈ゼロ次元〉をやれと言っているんじゃなくて、無意識的に巻き込まれた集合無意識の民族のカルチャーを巻き戻す行為としての無意識の学習。それと俺たちの未来というのは、2,000年、3,000年前の中国のカルチャーを、現代にコンテンポラリーとしてバイリンガルすることにおける表現ね。そのまま骨董品を持ってこいと言っているんじゃなくて、バイリンガルすること。だから2,000年、3,000年の中国のカルチャーのコンセプトをこの現代にもってくることと、60年代の思想的な装置がイコールなの。60年代に学んだコンセプトを井戸掘りの機械のような道具として使って、中国の2,000年、3,000年前、隋、唐までさかのぼる。宋まではいらない。日本で言うと室町まで。奈良時代から室町時代のメタファーとしての中国史のなかに、シルクロードをさかのぼることによって、あれをコンテンポラリーとしてここへ意識化すること。骨董好きで骨董品を持ってきて商売する奴がいっぱい出てきてるけど、そういうことじゃなくて、我々の血のなかに蘇らせることこそ、地球というものをもう一度再生する接点につながる、カルチャーをも越えるテーマだと思う。(同じ民族の古代と現代の文化が)似ているゆえに、それがアジアンタリズムなの。それは西洋には一切ない。あそこには欠片も残っていないと俺は見ている。もう終わった。終わったら、こっちを続けるために、俺たちの潜在意識のなかに未来がある。そういうところに今やっと立った。僕はいつも無名の新人なんだよ(笑)。退屈しないでいいでしょう。まだ死ねるかという感じがするよ。俺の春はこれからだ(笑)。そういう意味で、このメンバーでひとつ行こうぜって言ってるの。いろんなことをやらないか。こういう4~5人がアジアを革命したりする。長州の松下村塾みたいなことから始めないといけないと思うんだよ。吉田松陰の塾の革命家がああいうところから始まっているように、5~6人の輪がものすごいパワーになる。そこに足を踏み入れたアートというカルチャーをもっていきたい。じゃあ作品はどうするか。そんなものは俺は知らんのだ。見たこともないって言うよ。でも出てくるような気がするよ。
細谷:ありがとうございました。
加藤:またアジっちゃってごめんね(笑)。