池上:オーラル・ヒストリーというプロジェクトをやっていまして、日本の美術にかかわってきたアーティスト、写真家、批評家、画商の方たちにお話を聞いて、その書き起こしをインターネットで公開するというプロジェクトをやっているんです。
平田:それは神戸に拠点を置いて。
池上:インターネットで公開するので、どこが拠点ということではないんですけど。10数名のメンバーがおりまして、2009年にインターネットでの公開を始めて、いまもう60人ぐらい書き起こしがアップされている状態です。平田さんのご活動もそこに、貴重な証言として加えさせていただきたいと思っています。
平田:記憶が、だんだん危なくなってきたもんで。もっと早く整理しなくちゃいけないと思っていたんですけれど。
池上:私ももっと早く伺えばよかったと。
平田:いやいや。とにかくいろんなことが欲張りなもんですから、なかなか整理がつかなくてね。細谷くんに手伝ってもらって整理をこれからやりますんで、そしたらまたいろんなことが出てくると思います。
池上:もう1回くらい来させていただきたいので、きょうお話を聞いて、また新しい資料が出てきたりしたら。
平田:私もね、もっと整理して、もう一段階自分の仕事をまとめたいと思っているんですよ、広範囲に。それは大事なもんだと思っとりますし。その後でハイレッド・センター、その前の具体の方だとか、そういうふうにしっかりとしたグループの方たちが、周辺にたくさんいるわけですよ、無名の方もね。そういう無名だった方たちが、ちょうどアメリカのアンダーグラウンドが始まった時に、東京やら大阪やらで、ほんとのアンダーグラウンドで活動してるんです。そういうものも、無名ですけど、これからまとめておく必要があるんじゃないかと。
池上:これから有名になるかもしれないですからね。
平田:その通り。そして、あの時期のアンダーグラウンドというものが、私は美術界にとって貴重だと思ってるんですよ。まとめる人もこれから出てくるんじゃないかと思うしね。私もずいぶん写真が散逸しちゃったんですけど、無名の方たちでも、相当やってるんですよね。アトリエにこもってタブローで個人の作品を発表するということとは、まったく違った意味でね。いろんな若い才能があったんですよ。それを、アンダーグラウンドという世界でまとめる必要があるんじゃないかと思っているんです。引っ越しばかりしているもんですから、無くなっちゃったものが多いんですよ。それで国会図書館に行っていろいろ資料調べたり。でも、日本の国会図書館はだめですね。そういう面での資料があんまりないんですよね。大宅壮一文庫も行ったんですけど、あそこも系統だってやってないんですよ、日本の現代美術に関してね。だから、日本じゃもったいないなあと思ってね。いろんな若い方がいたんだけど、それを周辺のマスコミだとかメディアがあまり気付かないから、惜しいなあと思うんですよね。
池上:今日はその証言だけでもまずはと思いますので、よろしくお願いいたします。まず早速なんですが、お生まれについてお聞きします。1930年に埼玉でお生まれということで。
平田:よく調べましたね(笑)。生まれたところは埼玉かな。私は板橋区だと思ってたんだけど。板橋本町じゃないかな。
細谷:板橋本町でした。
平田:たしかね。本籍は板橋本町になってるよね。
細谷:ごめんなさい、私が間違えました。
平田:埼玉ってのは母親のほうだ。
池上:じゃあ板橋のお生まれですね。お家なんですけれども、お父さまはどのような方でしたか。
平田:非常に複雑な家だったらしいんですよね。平田家の先祖は商人だったんですよ。板橋で菜種油の、なんていうかな。
池上:油問屋みたいな。
平田:そうそう、油問屋です。周辺の、埼玉や板橋にたくさんある農家の菜種油を集めて。江戸の頃は菜種油は生活の上で大変なものだったんで、板橋の平田油問屋で、埼玉県の農家から仕入れた油問屋をやっているという話はよく聞くんですよ。油問屋というのは産業の中心ですからね、景気良かったらしいんですよ(笑)。大きな屋敷があって、その屋敷跡が昭和になってから銀行になったんだけれども。その油問屋が潰れてしまう原因が、その息子たちが放蕩息子ばっかりで、油問屋が倒産しちゃったらしいんですね。私の父親は、その最後の放蕩息子の3人の男の子の3番目かな。で、その男の子3人が油問屋の資産を、放蕩息子だから、食いつぶしちゃったらしいんですよね。その私の父親ってのが、一番下だけど一生懸命苦労したらしくてね。女房が3人、次から次へとおりましてね。平田家の子どもたちは、私の上に、実の母親とその上の母親がふたりいたわけですよね。3番目の女性が、私の母親なんですよ。平田家の最後の奥さんですね。私が長男だったもんですから、あと下に3人兄弟おりましてね、放蕩息子の一番下の男が私の父親で、相当頑張って苦労したらしいんですけどね。びっくりしたのは、私が知っている時に父親の職業ってのがすごくころころ(変わった)。東京で青バスというバスの会社があった。青バスの運転手だったんです。なぜ運転手になったか聞いたら、金持ちの時に、お家に車があったらしいんですよ。それで運転は出来たから、すぐバスの運転手になっちゃったらしいんですよね。偉いですよ。ふたりの奥さんの子どもと私たちをひとりで育てたからね。頑張ったらしいんですよ。いま考えると、すごい男だったなと思うんだけどね。だから私の父は、上のふたりの兄貴の放埒なあり方をひとりでしょっちゃって、しかも前の奥さんの子どもも育てながら。だから私、姉をふたり知ってんですよ、ちがう母親の姉を。ふたりいましたね。それを全部面倒見てね。最後の奥さんが私の母親だった。だから(母は)相当若い。歳が違うんですよ。亡くなりましたけどね、その母も、苦労しながら。その長男が私なんです。私の小学校行く頃には、やっぱり家が落ちぶれたもんですから、和田小学校に行ったんだけどね。有名な杉並の小学校ですよね。そこに入った時に、親父が青バスの運転手だってことをよく知っていました。
細谷:ということは杉並にお住まいだったんですか。
平田:そう、和田本町に住んでたんです。
細谷:板橋から移って。
平田:だから板橋の時の状況は全然記憶ないんだけど、和田本町に移った時に私が4歳くらいかな、それは記憶あるんですよ。もうひとつの記憶があるんです。私がある時期に、母親が育てられなくて、私の祖父にあたる人のもとで育てられたのが恵比寿だったんです。私がまだ歩く前、その記憶はあるんですよ。私が歩いた時の記憶もね。それが恵比寿だったんです。
細谷:すごい記憶力ですね。
平田:その時よく母親が訪ねてきましてね。私にお乳を飲ませたのは記憶があるんですよ。
池上:一時的に恵比寿で。
平田:そうそう。母親の親が埼玉県出身で恵比寿に住んでたもんですから、そこに私を預けたんですよね。その時の状況が、幼児にとっても大変なものだったらしいんですよ。それがすごく記憶に残っちゃってるんですよね。父親と母親と、男と女のね、ある時期のいろんな状況だとかそういうのは子供心にかなり影響を受けてますね(笑)。それで和田小学校に入って、バスの運転手の息子ですから、通うことができたわけです。それで、和田小学校を卒業しましてね。
池上:小学校に入られてしばらくすると、日中戦争やアメリカとの戦争が始まると思うんですけれど。
平田:戦争が始まりました。最初は中国と日中戦争がありましてね、そして昭和何年だったかな、太平洋戦争始まったのがね、私が小学校6年生だったときですね。ハワイにいったでしょ。
細谷:真珠湾。
池上:そのあたりのことをお聞かせいただけますか。
平田:よく覚えてますね。小学校6年でね。軍国主義ですから、大変な軍国教育ですよね。これはよく覚えています。いやな思い出もずいぶん知ってますよ。将校みたいなのが学校に来てね、昔はシナと言っていたけれど、中国での自分の手柄話を生徒に聞かせるんですよ、軍国主義の学校で。いま考えるとほんとに驚くんだけどね。手柄話がひどいんですよ。日本の軍刀持って、「チャンコロ(注:主に日本の軍人が中国人を指して使用した言葉。侮蔑語であるが、当時の状況を鑑みてそのままとした。)を何人斬った」とか、みんなの前で言うんだよね。小学校5年くらいかな。軍国教育ですからね、子どもたちはみんなへーなんて驚いているんだけど、そのうちに6年の時に真珠湾のあれが始まりまして、突入してったわけですよね。戦争っていうのはこう、小学校の時にへんな、いやな教育を仕込まれてしまったんですね。そういう時代もありました。これは小学生の時代ですけどね。
池上:その時はでも子どもでいらっしゃるので、とくに疑わずにという感じですか。
平田:まったくね。子どもだからしょうがないよね。だけど、戦争から帰ってきた将校たちが教室に来てそういう話をするっていうのはね、いま考えたらこりゃ無茶なことだと思うんだよね。手柄話ですよ、中国の人たちを殺害した。こういうことを小学校でね、当時の文部省の。だから、いま考えると日本もめちゃくちゃだったと思うんだよね(笑)。そういうことで、アメリカとの戦争が始まっちゃったもんですからね、あとは皆さんと同じように、中学でもいろいろありましたけどね。その時は美術とかそういうものはまったく頭にはなかった。美術として捉えてはないんだけども、小さい頃から絵が好きだったんですよ、ものすごく。あの頃は小学校の教育もね、絵の先生なんてのは馬鹿だから、絵の教科書があるんですよ。その通り描きなさいってことなんだよね。それが嫌いで嫌いでね。うまいやつはいるんだよ、そっくり描いてね。気に食わなくてね。私は、絵が上手だったかは知らんけど、絵が好きでね。昔は蝋石ってありましてね。これで子どもたちが道路のコンクリートに絵を描くの。あれが私は一番得意でね。よく道路出ちゃバスの絵なんて描いた。すると大人がみんな集まってきて、うまいねなんて言って見てるんですよね(笑)。それが絵のはじめ、絵心のはじめですね。蝋石でコンクリートの道路に。
池上:戦争中もそういうふうに遊ぶっていうのは続けられたんですか。
平田:家の父親はバスの運転手だったから、バスを描くんですよね(笑)。乗せてもらったりしたもんだから。それが絵ということで話をするぐらいしか、そのぐらいのものしかないんですよ。絵の世界が好きだったのはたしかだけどね。ただ、当時の子供たちの絵の教育というのはまったくなってないですからね。ただ綺麗でお手本通り描かせるってことが、まあ和田小学校ではそういう先生しかいなかったのかも分かんないけどね。そういう美術教育。美術教育でもなんでもないんだな。そういう世界。ただ絵は好きだったんですね。
池上:展覧会があったりとか、そういう時代でもないですもんね、戦時中は。外からのそういった刺激は子供時代はあまりない。
平田:ないです。
池上:戦争が終わった時というのは、どういうふうに迎えられましたか。
平田:戦争が終わった時は、ちょうど私が疎開しましてね、山形県にいたんですよ。山中というところにいましてね。芋掘りやなんややっていたわけですよ、昔はね(笑)。で、芋掘りやってる時に、ラジオ放送があるってんで聞かされたんだけど、なにがなにやらさっぱり分からないんですよ。言語不明瞭でね。
細谷:玉音放送ですね。
平田:ただ、先生たちは戦争終わったんだとか、負けたんだとか言うけどね、友人たちもみんな気持ちの上でたいしてあんまりなかったですね。東京から疎開した生徒は多かったんだけど、早く東京に帰りたい一心ですよね。山形県はね、軍隊の飛行場があったんです、神町飛行場って。そこにグラマンが来てばばっとやったのだけが戦争の記憶で。ただね、私は疎開する前に高円寺にいたんですよ。その時、B29の空襲を受けた記憶があります。
細谷:高円寺にいらしたんですか。
平田:高円寺の蚕業試験場のそばにいましたもんでね。そこになんか爆弾落としたらしい、焼夷弾。すごい爆発音が轟いてね。私は防空壕に逃げ込んだ記憶あります。防空頭巾被ってね。それぐらいの記憶しかないですねえ。
池上:その後は疎開されて。じゃあ東京大空襲とかああいうものは経験されてない。
平田:ええ、ただ家がまるっきり燃えちゃった。5月の25日に。こういう話は東京から聞きましてね。あれどうしたんだろ、みんな。姉が残ってましたからね。親たちと。
細谷:疎開はおひとりですか。他のご兄弟は。
平田:弟がたしか来たけど。中学から小学生だったかな、中学1年だったかな。弟とふたりで山形市を歩いた記憶がありますよね。あと妹たちは小さいですから。
池上:お父様とお母様は東京に残っておられた。
平田:残ってた。
池上:空襲の時にはどうされたんでしょう。
平田:それだけは心配だったんですよね。山形でもグラマンが来て飛行場を射撃するわけ、それだけが実際に見た戦争の記憶ですね。しかも向こうの飛行機はかっこいいんですよ(笑)。それから、ちょっと東京に帰った時に、ちょうどアメリカの航空母艦からB25という爆撃機が6、7機、東京を空襲したんですよ、初めて。(ジェイムズ・ハロルド・)ドーリットル(James Harold Doolittle)がたしか機長だったな。それが東京空襲を初めてやった。その時にね、まじまじと見てるんですよ。かっこいい飛行機でね、日本と違って。双尾翼で。新型爆撃機、これが低空でうわあっと来るんですよ。アメリカの操縦士の顔が見えるくらい。そして焼夷弾をばらばら落としましてね。慌てて防空壕に逃げ帰ったのが、唯一戦争を一番身近に感じた記憶です。その時にずいぶん友達が死にました。焼夷弾が落っこちてくるでしょ。校庭に落っこちてくるからね。そしてまた山形に帰ったら、5月25日の大空襲が東京であって、全部焼けちゃった。そんなわけで、戦争とか少年時代の記憶はほとんどね、話すような記憶はないですね。あの時代、戦争終わったもんですから、みんな大学行くとかなんとかで、少年たちはそれぞれの道を選んだわけですけどね。私も絵が好きだからね、子供の頃に藝大かなんか行きたかったんだよな(笑)。だがそんな状態じゃまったくありませんからね。とにかく大学進学は月謝が高いってんで、私はやはり絵のほうを勉強したかったんだけど、家庭の事情でどうしてもできないって。そのうちに、父親が、誰かから聞いたか知らないけど、国家からお金が出て勉強させてくれて、しかもそこでうまく成績がいいとね、国家公務員になれるっていうひとつのあれをもってきたんです。ぜひ入れって言うんだよね。入るったって試験はもちろんありますよ。けど私はそんなこと大嫌いなんだよね。公務員になるとか。こっちはやりたいことあるんだよ、絵描いたりなんかね。どうしようかと思ったけど、家が貧乏ですからね、とにかく受けてみろって、受けた。これが貴族院の速記者養成所という。まったくそんなことは頭にないですよ。そういうことはどうでもいいと思ってる。で、入るのやだからね、落っこちようと思ったんだけど、試験場に行ったら同じ年齢の仲間がもう必死になってやってるんだな。私は嫌だから、もう白紙で出そうかと思ったんだよ。もし入っても、自分で絵とかをなんとかやる方法はないかと思ってたものでね。そしたら周りの少年たちが必死になってやってるんだよ。見てると癪に障ったから答案に書いちゃったんだよな(笑)。そしたら受かっちゃった。親は大喜びですよ。でも、こっちは困っちゃってさ。国家公務員になれるんですよ、養成所ですからね。
池上:立派なお勤めですよね。
平田:やっぱり親たちは、公務員になるということが最大の望みだったらしいんだよな。こっちは自分でやりたいことたくさんあったんだよね、若いから。戦争が終わったでしょ、いろんな情報が来るんだよ、絵だとか、演劇だとかね。
細谷:文化的なものですよね。
平田:そうそう。そういう創作の方を、私はやりたかったんだよね。だけど受かっちゃったからお金ももらえんだよ。養成所に補助金が入るんだ。こりゃまた、親にとってはね。
池上:それはご両親は安心ですよね。
平田:学費は出さなくていいし、お金くれるし、それから教授たちがね、優秀な先生たちばっかり来てるんですよ。社会学とか、歴史とか、文学とかね。それが全部教えてくれる。しかも無料でしょ、かえって補助金くれるわけでしょ。
池上:いい話ですよね(笑)。
平田:いい話だけどね、こっちは嫌でいやで。公務員なんてなりたくないと思ってた。2年間勉強するんですよ。そして、また養成所の生徒たちがもう1回試験を受けて、受かると国会の速記者になれるんですよ。
細谷:15歳でまず終戦じゃないですか。それはその後すぐですか。
平田:中学を卒業しないうちに受けた。卒業の時期、4年生になった時期だったかな。そんなことあんまり興味なかったからね。自分で絵を描いたりなんだり、創作のことに夢中でいたもんですからね。でも結局、養成所に入っちゃった。そこに入ったらやっぱり、合格率が厳しかったらしいんだな。30人にひとりとかふたりとかね。選ばれたのが10人くらいかな。あの頃はまだ国会の中に建物がなかったから、国会議事堂の参議院の一番端っこの地下道のそばの部屋を教室にしましてね。そこでいろんな先生がいらっしゃってね。いい先生が来ましたよ、歴史の先生とかね、文学だとか。いま考えるとびっくりして、なぜあの時にもっと興味をもってなかったのかと思うぐらいね。英語の先生もよかった。あの頃ね、英語の先生でやっぱりいい先生だったもんですからね。あの時、童話かなにか持ってきて、『リップ・ヴァン・ウィンクル』という英語の童話みたいな。それを教科書に先生がしてくれてね。とってもいい先生だったね。で、英語をちらっとやったんだけど、こっちは身を入れて勉強してないんだよな(笑)。その頃、国からお小遣いもらえるから、ある分を親に渡して、残りで自分で画塾に行ってデッサン習ったり。それから若気の至りで、演劇の先生で有名な秋田雨雀さんが池袋に舞台芸術学院を作りましたんで、そこに、ちょっと首突っ込んだりしてね。国からもらう費用を割いて親にやって、残りでいろんな勉強ができたんです。それはありがたいと思うんだけどね。本当に悪いなと思うのは、国会の参議院の事務局に対してね。私はほんとにだめな人間だから、速記者の勉強しなかったり。だけど、速記者にはなった。
細谷:2回目の試験があったんですよね。
平田:1回目の試験で受かった。要するに、入る試験と、その次に卒業試験があって、卒業試験の中で優秀なやつが速記者として国会に入れるわけ。あとはみんな落っこっちゃうわけ。そうすると国家公務員になれないわけね。それも私は馬鹿だからね、落っこちることをしなかった。
池上:馬鹿だから受かった(笑)。
平田:受かっちゃった。ふたりだけ入ったんだよ。もうひとりは女の人で。議長賞かなんかくれたな。
池上:優秀でいらしたんですね。
池上:その速記者の試験に受かったのが17歳ぐらいとかですか。
平田:18歳かな。あ、初めての19歳の速記者とか言われた。19歳だった。
池上:じゃあ養成所では4年くらい勉強されたんですか。
平田:3年くらいだったな。2、3年だと思います。あんまりそういうことを私は好きじゃないからね、記憶が(笑)。
池上:19歳に速記者になって、国会に。
平田:親は喜んでたけどね、こっちはまるっきり違う。速記者になるなんてとんでもないと。けど、国会議事堂でやってるのに行くんですよ。で、ふたりで一組になるんですよ。速記のうまい年取った方が「親」になって、私は「子ども」なんですよ。ふたりで一組になって、国会議事堂の演壇の下に速記者席ありますね、あそこに4人座るんですよ。「親」と「子ども」がいて、そこに二組が座って、時間が来ると交代で書き始める。いまテレビ見ると4人いるのはね、2組入ってるんです。
細谷:そういうところをテレビで見てるんですね。
平田:その一組で私が「親」といっしょに書くわけよね。そのころの代議士ったらめちゃくちゃですよ。これは言うのいやだけどね。ひどいですよ。終わってから速記課に来ましてね、見せろっていうんですよ。
池上:記録を。
平田:そうそう、記録を。ほんとはそんなこといけないんですよ、いくら代議士が来たって。だけどその頃はね、速記課長か誰かが見せてあげなさいって。直せっていうんですよ、こんなことありますか、記録を直せって。それを若い時の私が怒り狂って見てるんですよ、このやろーって。
池上:これは言わなかったことにしろとか、こういうふうに言ってたことにしろとか。
平田:そんなことは、あっちゃいけないことですよ。これは若い速記者はいやだなあと思ってるんですよ。そういうこともありました。これはもう少し時代がたつと、ほんとのことを書く人もいるかも分からない。この当時の国会はこうだったと。私は言いたくないからね。それから、その時の大臣でおもしろいのがいてね。酔っぱらいの有名な大臣がいたでしょ、酒飲みの。これが酔っぱらってきてね、終わると女代議士に抱きつくんですよ(笑)。そういうの見ちゃってるんだから、こんのやろーと思ってね。
池上:女性代議士がいたんですか、その頃。
平田:いました。なんとかっていう、ほらひとり宗教的な女性いたでしょ。光って書く。
池上:金光教ですか。
平田:いや、天光光(園田天光光)とかいう女性代議士だ。
池上:ちょっと調べておきます。
平田:それがかっこいい若い女性だったもので。
池上:終戦で参政権は得たわけなので、代議士がいてもおかしくないですよね。
平田:そうなの。だからね、そういうふうな国会議事堂物語というのはあの頃は大変おもしろかった。
池上:国会議事堂物語(笑)。
細谷:語呂がいいですね(笑)。
平田:もう少したつとね、誰かがあの頃のことを書くんじゃないかと思うわけ。私はもういやだけど。大嫌いだったからね。
細谷:ちょっともどって、舞台芸術学院はだいたい何年くらい行かれたんですか。
平田:ほとんど出なかった。舞台芸術学院に申し込んだんだけども、他のこともやってたわけですよ、絵の先生のとこ行ったりね。だからそれもできなくて。ただね、村山知義さんが、鎌倉に鎌倉アカデミアを創って旗揚げしたんです、光明寺の境内を使って。それに私は応募したことあるんですよ。だけど、あまりにもいろいろやってて体を壊しちゃってね、鎌倉アカデミアには2、3回しか出席しなかったな。舞踊は、邦正美が舞踊家だった。もう錚々たる芸術家ばっかりが教授だったんですよ。村山知義さんが文学かなにかで(注:実際には演劇)。でも、遠いでしょ鎌倉って。お金もかかるし体も弱かったから、途中で諦めましてね。だからしょうがないから国会速記者で、3年やったのかな。体壊してほとんど国会出なかったね、休み多くて。公務員の中で希望退職者を選んで、退職金がもらえるってんでね。悪いから、すぐ応募して自分で退職願書いて、親に怒られちゃってね。その時の退職金は結構もらったんだよ、十数万円だったかな。それをいいことにして、絵を習いにいったり舞踊を習いにいったりさ。
細谷:そっちを続けたんですね。
平田:そっちのためにね、退職金を狙ったんです。でも、体壊しちゃって。体弱かったんだよ昔から。相当病院行ってましたね、慶応病院によく入院してて。お腹を二回ばかり手術したり。とにかく治そうと思って、健康になろうと思って、弱かったからね。欲張りだったんだよ。体は治そう、なにか勉強はしたいと、もうめちゃくちゃよ。
細谷:モダンダンスなんかもその退職金で。
平田:もちろん。先生は誰だったかな、有名な人なんだけど。それでモダンダンスをやるには、モダンバレエもしなくちゃいけないんだよ。バレエはね、日劇の有名な舞踊家の方が、クラシックバレエを教えてくれたね。それから民族舞踊は、朝鮮舞踊も習った。
池上:相当いろいろされてますね。
平田:だから体ぶっ壊しちゃってさ。創作方法を探してたんだよ、きっとなあ。家にお金がないから、自分でいいとこ見つけてやるしかないでしょ。体はずいぶん無理しちゃったんだよなあ。
池上:その時期に写真とも出会われたってことですか。
平田:それがね、おもしろいんですよ。国会にいる時に、先輩の家にちょっとお厄介になってたことがあるんですよね、結婚したんだけどアパート借りられなくて。そしたらね、その先輩の速記者が、これからは写真だとかコマーシャルだとかすごい世界が来るんだと、アメリカから。その頃はアメリカの『LIFE』という雑誌が相当にはやってた。そっちの方の世界がこれからすごいんだから、そっちの方の勉強したらって言われてね。それをきっかけに写真をと思ったらね、写真というのはすごい世界だと発見しちゃったんだよ。これは記録なんだけど、国会で自分が記録するのとはまったく違うわけですよ。アートなんだよ、これは。それにびっくりして。写真というのはその頃アートと思ってなかったからね。実際に、カメラを最初借りたんだな。アメリカの兵隊が持ってるものを借りたのかな。
細谷:あの蛇腹のものを。
平田:あの蛇腹のなんとかって。撮ったらね、よく撮れるんだよ。退職金を参議院からもらったからね。そのうちの5000円で、銀座の四丁目のリコーの会社のウィンドウにね、日本で初めての一眼レフを売りだしたってんで見にいったらね、弁当箱みたいなのがあって、ギアついててね。それを買ったんですよ、退職金でね。それで撮ったらよく撮れるんでびっくりしちゃってね。こりゃおもしろいなと思ったのがきっかけですね。
池上:現像も自分でされてたんですか。
平田:その頃は、頼むのもありましたよ。土門拳が使ってた現像屋が四ツ谷にあったんですよ。そこを紹介してくれて、そこにみんな現像を頼むの。自分でもしなくちゃいけないってんで、伸ばし機買って、押し入れでやってたんだけど、うまくできなかったから。中村現像所っていうんだな、土門拳さんがよくいっていた、そこに頼んでね。そうしてやってたら、やっぱり写真ってのはすごくおもしろくなっちゃったんだな。これは記録としていうより、私にとっちゃ創作なんだよ。おもしろくてね。その頃、カメラ雑誌で『アサヒカメラ』ってのがはやってた。それによく応募して、月例で賞をもらったりしてね。
細谷:それが『國際寫眞サロン』ですかね。
平田:そうそう。『國際寫眞サロン』(1953年、朝日新聞社)にリコーフレックスで撮ったやつを1枚出したら、入っちゃったんだよな(笑)。
池上:白黒ですがこれですよね。
平田:懐かしい。これをリコフレで撮ってね。『國際寫眞サロン』ってのは、当時じゃ権威あるサロン、年に1回の朝日新聞社が出してる。そこにみんな有名な写真家が応募してね、公募をするんですよ。入選すると出してくれるわけ。こっちはアマチュアだし、リコフレで恥ずかしいんだけど、リコフレって書いて出したら入っちゃったんだよな。これがきっかけになって、良いのか悪いのかわからないけど、『アサヒカメラ』の編集長に呼ばれてね、少しやってみたらって言われてね。
池上:編集長に呼ばれるって、すごいですね。
平田:この写真のおかげですよ。
池上:子どもさんが金魚すくいをしている、すごくいい表情が撮れてますね。
平田:ここに写っている彼女の話もあるんですよ。これもまた不思議なんだけど、私は奥沢にあるアパートに住んでいたんですけど、奥沢の神社の境内の夜店なんですよ、これ。そこに子どもたちが集まってきてて、かわいい女の子がやってるから撮ったんだけど、彼女はなんと朝日新聞の天声人語の新垣秀雄さんのお嬢さんだったんですよ。知らなかったんだけど、数十年後に気がついた。
池上:おもしろいですね。まったくの偶然ですよね。
平田:偶然です。だからいま探してんですよ、彼女を。写真をあげようと思って。
細谷:これはタイトルが《縁日の夜 ”WATCH ME, CATCH HIM”》(1952年)。
平田:なかなかいい英語だよな。朝日の編集部でつけてくれた。私こんなうまい英語できないもん。
池上:こうやって写真を撮りはじめられた頃に、この写真家の仕事がすごく印象的だったとか、そういう方というのはいましたか。
平田:『アサヒカメラ』には有名な方ばっかり出てたけどね、土門拳さんとか、木村伊兵衛さんとか。みんながいいって言うんだけど、あんまりピンとこなかったね。私は他にいろいろ見てるんだよね、いろんな現状を。それとちょっと違うんだなあ。私は、写真っていうのはね、タブローとかとまた違ったアートだと思ってたわけよ。ところが、土門さんや木村さんはほんとに絵画の延長ですよね、自分の個人的な感性で。サロン写真ですよ、私に言わせれば。それがあんまり好きじゃなかった。それより私は、もっと直に自分の見た社会とかそういうものを記録したかった。それは、参議院の記録課にいたからっていうのもあったんじゃないかな。いろいろ記録するのに変な目にあったから。だからほんとの記録っていうものを。写真ってシャッターを切ると、もうすごいんだよ。考えなしにばあっと、ほんとのことが記録できちゃう。これにもね、すごい惹かれた。シャッター切ると嘘偽りないんですよ、カメラは。これはすごい世界だなと思って。しかもね、たくさん撮ればその中に、自分の思いも出てくると思って。たった一枚で、土門や木村がなんとかかんとか言ってるけども、そうじゃなくて私は、ひとつの社会全体っていうかな、自分の思想の記録としてやるにはね、自分の思いで一枚切って「良いな」なんて言いたくないんだよ。それよりこう、なんとか正確に捉えたいから、レンズをワイドにして、たくさん撮るようにしてね。よく決定的瞬間なんて言うやつがいるけど、馬鹿じゃないのかと。機械だったらどんどん撮って、人間の決定的瞬間なんてくだらないこと言うのはよせと自分では思っていたわけ。だってね、一枚撮った後にもっといいやつがあるはずよ。それなのに、決定的瞬間なんて神様じゃあるめえし、過去と現在と未来と撮れっこないじゃないかね。嫌いだったんです、そういう言い方が。
細谷:いまおっしゃった土門拳さんとか木村伊兵衛さんの他に、海外の写真家とかでも、平田さんが見ていた写真はありましたか。
平田:ひとりいたな。(ロベール・)ドアノー(Robert Doisneau)かな。ひとりいました、男性で。それから女性の絵描きでサラ・ムーン(Sarah Moon)。写真も撮ってた。彼女の写真が好きでね。感覚的な女性だけど、女性の感性ってすごいんだよな。だから写真っていう見方は、いまも私自身の見方できています。それのひとつのつながりが、前衛の皆さんがアトリエでタブローを描いてる世界から飛び出して、社会の中で自分の思想と感性を思うままにやったでしょ、これだと思ったんだよね。一緒になって楽しんじゃったから。ただピカソはさ、《ゲルニカ》(1937年)とかやった。あれはすごい作家だね。
池上:それでこちらの金魚すくいの写真でデビューされまして、その後に写真を撮って記者として働くっていう仕事につながっていくんですよね。
平田:フリーでね。フリーじゃなければ、自分の思いを出せないし。有名な写真家の皆さんとちょっと違った線で。あまり尊敬する写真家はいなかったんだけどね。ただ外国の何とかという方とムーンの写真だけはいいと思うんですよね。
池上:もうおひと方の名前が気になりますよね。また後で思い出せたらお聞きしたいです。
平田:決定的瞬間ということが、私は嫌いでね。これはあんまり書かないでね、また攻撃されるから(笑)。人間に決定的瞬間が捕まえられるかってんで、もっと世の中はね、すごい動きで動いてるんですよ。
細谷:動きですね。
平田:そうだよ、アクションだよ。
池上:それでお仕事としてはフリーランスで、健康の友社というところで。
平田:これもね、おもしろいんですよ。やっぱりフリーランスだと、写真家なんてその頃ほとんどいないし、稼ぐ場所ないですよね。やっぱりなにかしなくちゃいけないんだよ。いつも新聞の求人欄を見てるうちに、私は自由が丘にいましてね、結婚して先輩の家の2階に間借りしてたんだけど、やっぱり働かなくちゃいけないからね、アルバイトしようと思って、よく新聞の広告欄を見てたの。そしたら私が住んでるすぐ近くで、雑誌社が編集部員を募集って書いてあったんですよ。聞いたことのない小さな雑誌社ですよ。『健康の友』っていう健康雑誌。そこが試験やってるっていうんで、応募したんですよ。そしたら普通の民家にね、あんまりきれいな民家じゃないんだけど、そこに6人くらいの青年がたむろしてまして、文学青年ばかりがね。それが雑誌の編集者だったんです。編集長からみんなね。それで『健康の友』っていう新しい雑誌で、病院の紹介とかそういうんじゃなくて、青汁とかそういう世界の健康雑誌なんですよ。ある民間療法の有名な人がね、あの頃青汁をやってて、それが主体で、『健康の友』っていう月刊雑誌を立ち上げたんですよね。そこに集まった編集部員たちが、またこれがよかった、優秀な人ばっかりなんだよね、みんな貧乏人で。学生あがりが多かった。みんな太宰(治)さんの弟子なんですよ、有名な。堤重久さん(注:『健康の友』編集長)から池田正憲さんから。それで6人くらい集まって、文学青年たちが、やっぱりお金ないから、そしたら偶然に雑誌のこういう案で編集を頼まれて、ツツミさんが編集長になっていろいろ始めたわけですよね。私の担当になったのは池田さんで、これもやっぱり太宰さんの弟子。もうひとり有名な方がいたな。みんな太宰さんの弟子ですよ。色が染まった文学青年の集まりが、この当時雑誌を編集してたわけ。そこに入ったもんだから、私は居心地はよかったんだよ。他の雑誌とまったく違うわけよ、そういう連中だからね。しかも、みんないいところの出の若者だったから、有名な政治家とかなんとかつながりがあるんだよ。だから徳富蘇峰なんて取材がすぐできちゃう。それは実際に行ってるんですね。いろんな有名な俳優たちもすぐ会えるわけよ。それで『健康の友』をやってたんだけど、健康雑誌じゃまったく活躍する場がないんでうじうじしてたら、ひとりにね、またおもしろい新聞社ができたからそこに行ってみてはどうかと言われたんですよ。池田さんがそう言ってくれて、じゃあそこに行くかと思ったら、太宰の弟子仲間のひとりが、繊研新聞を出してるところ(注:日本繊維経済研究所)にいて、そこで日本で初めての服飾新聞かな、ファッション・オンリーの新聞を出した。
細谷:東京服飾新聞社。
平田:繊研新聞にいながら、服飾新聞というのを出したんですよ。繊研だから問屋さんがたくさんいるでしょ。広告が取れるもんだから、服飾新聞というファッション新聞を日本で初めて作ったの。それを作ったのが、また太宰系統の編集者。その中の副編集長は太宰系統じゃないんだけどさ、別の文学系統なんだ。水上勉なんだよな。
細谷:そこに水上勉さんが副編でいたと。
平田:編集長は、誰だったかな、太宰の系統じゃなくてね、宇野(浩二)さんの系統じゃなかったかな。そういう文学の集まりの連中が、お金ないもんだから、いろんな雑誌の企画作って売り込んで、編集部作ってたわけ。そのひとつが服飾新聞だった。繊研新聞だったけど、服飾新聞にしたわけ。それで募集をしたわけよ。私の履歴書に写真も撮れるわ、速記もできるわ、原稿も書けるわって書いてあるんで、すぐ受かっちゃったんだよな。で、水上勉と仲良くなってね。この話しちゃっていいかな。知ってる、水上勉との関係。
細谷:平田さんとの関係については特に。
池上:よろしければお聞きしたいですが。
平田:あんまり言わないでね。私は水上勉の義兄です。水上勉さんの奥さんの姉と、私は結婚をしたんです。だから彼は義理の弟になるんだ、年上の。彼が服飾新聞の副編集長をやってて、それから服飾新聞で『服飾』という月刊雑誌、ファッション雑誌を出した。それで水上勉は近所の問屋行ってずいぶん広告集めてね。その雑誌の副編で広告集めてる話が、違ったかたちで、なんか広告集めみたいな話がいろいろ出てるよね。
池上:じゃあそこで世界が広がっていくというか。
平田:広がることよりむしろね、いろんな意味で、ある言えないことがあったんですよ。ですから、なるたけ彼らの範疇とはね、違った行動をしてました。それはいけなかったんだけど、ほんとはもっと利口に振る舞えばよかったんだけども、ちょっと私は突っぱっちゃってたね。
細谷:それは思想的なことでしょうか。
平田:もっと違う。もっと深い、文学のテーマになるような、要するに人間の問題ですよね。しかも、男性と女性の問題ですよね。それは言えない部分だから。一番水上勉が知ってます、これはね。そんなこともあって、『服飾』というファッション雑誌で最初モデルになるんですよ。私がモデルをやったんですよ(笑)。男性モデル。日本で初めてじゃないかな。そんなこともあった。私は、取材ができて、写真も撮れる、速記もできる、文章も書けるもんですから、ひとりで行きましてね。なんとかという対談のコーナーがあって、芸能人と、ファッションデザイナーの有名な方だとか、政治家と対談するコーナーを私が任されましてね。ひとりでやってたんですよ。そのうちに、歌舞伎役者の、名前忘れたな、有名な方の対談を引受けましてね。彼はよく京都に行ってて、遊びに行っちゃって対談の相手が来てんのに帰ってこない。その時、京都から電話があって、代わりに私にやってくれっていうんだよ。話を代わりにやってあげて、それで彼の写真を切りあてはめて、作ったこともある(笑)。岩井半四郎です、そんなことを私に頼んだのは。
池上:じゃあ代役として対談されて(笑)。
平田:そう、彼の写真だけ撮って当てはめてね、対談の記事作ってね。
細谷:繊研っていわゆる左派じゃないですか。そういうのを意識したことはありましたか。
平田:私はあんまりね、左派・右派を意識してなかった。右派はもちろん、左派もあんまり意識してなかった。それより、もっと人間的な立場で付き合ってた、みんな。左派は多いですよ、友人たちに。だけど、そういう政治的な面での付き合いはいやだった。それよりかお互い創作という大事なことがあったからね、個々の男と女の問題だとか。そんな暇なかったよ。繊研は左翼が多かったけどさ。
池上:なぜ繊研というところに左翼系の方が集まってらしたんですか。
平田:それはやっぱり、自分たちの生活のために、なにかきっかけがあって飛びついたんでしょ、みんなが。書ける人たちがね。
池上:そもそも文学系の人が多いからというのもあるんでしょうか。
平田:繊維界のある方と知り合って、そこで日本ではこれからファッションが盛んになってくるから雑誌やなんかもいいんじゃないかということで、グループを作っていったんでしょうね。だから思想的な問題はまったく感じられなかった、私は。
池上:じゃあ逆に右派系の新聞はどういうところになったのかなと。
平田:右派はまったく嫌いで、ほとんど友人にはいないです。まったくいない。ひとりだけ、双葉社の永田くんだけが右派だけどね。
池上:じゃあご自分の生活には関わってこない感じですか。
平田:そう。ただ、写真っていう世界は、私にとっては大変新しい場だったね。みんなが言ってる以上に、私にとっては新しい場でしたね。すごくおもしろいし、まだまだそこで私自身の世界が展開できるんじゃないかとは思いました。興味はありました。
池上:じゃあ取材で写真を撮るのも、すごく楽しんでしておられたんですね。繊研新聞の時に、「タンス拝見」という取材をされてたと聞いたのですが、それはどのようなものだったのですか。
平田:芸能人、役者たちのファッションをやるというコーナーです。そのお家に行って、洋服ダンスから好きなものを出させて着せて、それで写真を撮ってお話を聞くというふうなコーナーです。いろんな女優さんに会いましたよ、いい写真もあったし。みんな綺麗でした。昔の女優はね、みんな大人でした。いまはみんなガキみたいなのばっかりでしょ(笑)。
細谷:大人だった。
平田:大人の魅力ですよ。だから楽しみでね。一番美人だったのは、山本富士子ですよ、これはびっくりした。いろんな方とお会いしてるけどね。たしか京都だったんだよ、彼女のお家が。京都の料亭のとこに行ってお会いしたらね、実物を見たら写真以上に綺麗なんだよ。これはたまげたね。いつも写真より綺麗じゃないんだけど、他の人はね。彼女だけはびっくりしたね。こんなに綺麗な人がいるかと思ったよなあ。それでお話聞いてたらね、それはよかったんだけど、全部終わって帰る時握手しました。これがまたびっくりした。私よりごつごつした手で握られてね。はあと思ってね。こんな美人がこんなごつごつした手だと思ったらまたね、次なる驚きですよ(笑)。みんな黙ってるけどね。
池上:しっかりした手をされてたんですね。
平田:もうすごいの。それからもうひとりね、好きな女優がいたんですよ。名前なんだっけな。月丘夢路、そういう女優がいましてね。姉妹なんですよ、月丘千秋と夢路と。姉さんのほうが表に出てましてね。洗足に彼女たちふたりのお屋敷があったんだよ。そこに、「タンス拝見」で行ったんですよ。姉さんのほう、夢路のほうが私は好きだからね。
池上:好みで取材対象も選んじゃって(笑)。
平田:編集部なんて関係ないですよ、私が決めたんだからね(笑)。
池上:いい仕事ですね。
平田:そう、楽しかった。それで、行ったらすごい立派なお家でね、見越しの松みたいのがあったりしてね、執事みたいのに案内されて、下の応接間で待ってたんですよ、どきどきしながら。やっぱり自分のあこがれの女優だからね(笑)。そしたら、上から下りてきたんです。なんとね、あの頃はやったなんとかドールというネグリジェ、こんな短い。
池上:ベビードール。
平田:そう、ベビードール。それ着てね、美しい彼女が下りてくるじゃないですか。(どきどきした、というジェスチャーをしながら)もうこんななっちゃってさ(笑)。
池上:なんでそんな誘惑的な格好で下りてくるんでしょうね(笑)。
平田:ひとりで下りてくる。あれは若い編集者が取材に来たって聞いて、いじめてやろうと思ったんじゃないかな。
池上:ちょっとからかっちゃおうかなと。
平田:そうそう、そんな感じよ。
細谷:大人の魅力(笑)。
平田:こっちはそれどころじゃないんだから。あこがれだったから、どっきんどっきんしちゃってさ。しどろもどろよ。写真撮って書いて、帰ろうと思ったらね、誰かが見てんですよ。視線感じるんすよ、私は敏感だから。彼女が2階戻ったから、誰が見てるのかなと思ってふっと振り向いたら、窓の向こうに植木屋の職人が、こうやって剪定しながら見てたんだよ(笑)。なんか始まんじゃねーかと思って見てんだろ(笑)。そういうこともありましたよ。
池上:じゃあそのベビードール姿の月丘夢路さんを写真に撮ったんですか。
平田:そうそう、出しました。「タンス拝見」でね。
池上:それを選んで着てくるってのがすごい。
平田:あれはきっといじめてやろうと思って。執事かなんかが言って、へなちょこな新米記者みたいなの来たよって言ったんじゃないかな(笑)。
池上:それは、おもしろいお話を聞いてしまいました。
細谷:三國連太郎とか上原謙も「タンス拝見」で。
平田:そう。上原謙夫妻はよかったですね、いい夫妻だった。小桜葉子さんという方が奥さんで、かわいい方でね。そのふたりがね、わざわざふたりそろって出てきてくれたの。お家に行ったんですよ、茅ヶ崎かなにかの実家にね。息子を呼ぶっていってたんだけど、加山雄三は大学行ってて出られなかった。おふたりだけ取材してね、雄三もいたらおもしろかったんだけどね。ただ加山雄三の妹さんのなんとかって方が後から出てきてね、写真を撮った。雄三の妹は女優さんにはならなかったと思うんだけど、その子は撮った。それからおもしろかったのは、歌手の近江俊郎さんのご家庭。とってもいいご家庭でね、奥さんと娘ふたりとそして彼に出てもらってね。家族で写真を撮った。とても近江俊郎さんがいいお父さんでね、フラフープやってくれてね、家族といっしょに。それを写真撮ったよ(笑)。
池上:かわいらしいですね。
平田:それから彼女も撮ったな、岸恵子。岸恵子さんはね、最初結婚する前に撮った記憶があるんだけど、それは紛失しちゃって。結婚して、麻衣子ちゃんかな、娘とふたりで取材に行って、撮ったことあるんですよ。まだイヴ・シャンピ(Yves Ciampi)と結婚してた時だな。その娘がね、麻衣子ちゃんといって、かわいい子でね。そんな芸能人も撮ったことあるんですよ。その時にはもうね、現代美術のギュウちゃん(篠原有司男)だとか赤瀬川(原平)さんだとか知り合いが始まったんだけど、その後でしたね。
池上:篠原有司男さんなんですけど、お聞きしたところによると『スターズ・アンド・ストライプス』という駐日米軍の雑誌で、篠原さんを取材に行かれたと聞いたんですけども。そのお仕事は紹介かなにかで回ってきたんですか。
平田:その時は、私が全然雑誌記者とは関係なく新聞を見てて、取材に行こうと思ってた矢先に、その雑誌の編集者、日系三世の女性通訳で、素晴らしい方がいてね、もちろん日本語はぺらぺらだし、いろいろな技術の方も知ってらっしゃる。私は、いろんなものを彼女と一緒に取材に行ってたんですよ。彼女は英語で原稿書いてね、東京の状況だとか、(ジョージ・)チャキリス(George Chakiris)が映画を撮りにきて一緒に京都に行って取材したりね。そういう情報を、アメリカの兵隊のためのガイドブックに出していた。その矢先にね、新聞にギュウちゃんがモヒカン刈りで活動してたと記事があって、ボクシングのこともちょっと出てたのかな、写真はなかったけどね。その記事を読んで、彼女にこういうおもしろい芸術家がいま売り出し中で有名になりかけてると言ったら、取材しましょうということで、ふたりでギュウちゃんの取材に行ったんだ。それがきっかけなんですよね。
池上:そのころギュウちゃんは荻窪ですよね。
平田:小さなアパートでね。
池上:電電公社の横かなにかの。
平田:アパートでね、そこに取材に行ったら、やりましょうやりましょうってギュウちゃんが乗り気になっちゃって、アパートの前にコンクリートの壁がずっとあった。
池上:写真にも残ってますよね。
平田:そこにギュウちゃんがね、これみんなお金出してやったんだな、新聞社の方で。画用紙みたいなのいっぱい買ってきて貼りつけて、グローブみたいなのが欲しいっていうんだけど、グローブを買うお金がないんで雑巾を巻きつけてね、それでバケツに墨汁入れて薄めて、突っ込んで、ばんばんやってもらったのが初めて、ギュウちゃんとは。
池上:それは何年ぐらいのことか覚えてらっしゃいますか。
平田:正確に覚えてないんだけどね、あれが1959年頃かな。60年になる前だと思ったな。60年になってからウィリアム・クライン(William Klein)かなにかが来て、一年後に取材したんですよ、私が撮ってからね。
細谷:クラインが61年なんですよ。
平田:あ、そうか。じゃあ59年か60年、どっちかだ。たしかその前だったんだよ。そして、『スターズ・アンド・ストライプス』のやつは新聞にも出たんだ、雑誌だけじゃなくて。それをずいぶん皆さんが、ニューヨークでも騒いだらしいんだよな。
池上:その記事をぜひ発見しなくてはと思っていて。
平田:発見したいですね。探してるんですよ。その頃、東京の状況を、いろんな遊びだとか芸能人の話だとかを、その通訳のすばらしい方と一緒に取材して、彼女は原稿を書いて、私は写真撮ってね。
池上:ギュウちゃんのボクシング・ペインティングの初めての写真かもしれないので、ぜひ発見したいですね。
平田:そうなんです。私もそれ見たいので、とっとけばよかったんだけどね。
池上:探してみたいと思います。
平田:あの頃ね、ネガってのは返ってこないんですよ、どこの出版社もそうだったけどね。アメリカも返ってこなくて、だからニューヨークの方に持ってっちゃったんじゃないかと思うんだけどね。
池上:記事の写真として使われていればね、誌面を確認するだけでも。
平田:それを調べてもらったんだけど、わからないという返事が来ましてね。このくらいの囲み記事ですよ、写真があってね、記事は英語で。あの時ずいぶん写真撮って、もっと才覚あれば、ネガをたくさん他にとっておけばよかったんだけどね。それがギュウちゃんと仲良くなるきっかけだと思う。そしたらすぐギュウちゃんが、新宿百人町の彼を。
池上:吉村益信さん。
平田:彼を紹介してくれて。私はホワイトハウスのすぐそばのアパートにいたもんだから、しょっちゅう遊びにいってね。いい2階建てのホワイトハウスを作っちゃってさ、その下が吉村さんの妹さんがバレリーナだったから、バレエの稽古場になってた。そこにみんな相集まって、ギュウちゃんはじめそういう連中が騒いだ。そこを散々写真撮ったんだ。それが出てこないんだ、まるっきり。
池上:さっき資料でちょっとありましたよね。
細谷:もうそのころはネオ・ダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)というグループがあった。
平田:そう、ネオ・ダダはそっから始まったんだ。
池上:1960年ですもんね、あれがね。
細谷:これは平田さんの写真ではないですけど、当時の週刊誌の。
平田:だからあやしいんですよ、私の写真かも分からないんだよなあ。
細谷:ちょっと分からないんですよね、ネガがないから。
平田:ずいぶん上から撮ったんだ。ちょうど2階が手すりになってて、そこからね。みんなで大騒ぎやって。
池上:平田さんはその時は写真を撮る方に徹して、一緒に騒いだりっていうのはないんですね。
平田:うん、しない。撮るのもやっぱり大変だから。
池上:それに集中しないと。ギュウちゃんや吉村益信さん、ネオ・ダダの人はどういうふうにご覧になってましたか。
平田:私はそれまでいろんな絵描きやなんやら、ファインアートのタブロー描いてる方とお会いしてたけどね、私としては吹っ切れないものがあった。だけど、彼らに会ったらこれだと思って。もっとやれ、という感じね。
池上:この人たちは吹っ切れてると。
平田:やってくれという感じね。なにかあるとすぐ私のとこに電話くれたんだよ、みんながね。赤瀬川さんもそうだし、高松(次郎)さんもそうだしね。映画研究所を作ってたでしょ。
細谷:ヴァン(映画科学研究所)ですね。
平田:あそこ、きたねえアパートだけど、あそこにみんな集まってたもんだからね。そこに行くと、みんなこれからやることを話してくれたんだよ、こういうことをしたいんだとか、これからやるんだとかね。
池上:だからそれを写真に撮っといて欲しいという。
平田:来てくれってね。必ず私のところに電話来るんです、なんかやりたい男がいたらね。
細谷:赤瀬川さんとはネオ・ダダの時に会いましたか。
平田:飲み屋でギュウちゃんに紹介されて、阿佐ヶ谷のよく行く飲み屋かなにかで。
細谷:この間に平田さんから聞いた話では「赤ちゃん」で飲んでたって。
平田:「赤ちゃん」もあって。そこでいろいろ会ったりしてたのね。とにかく彼は、ちょっと違うんだよな、みんなとね。原稿がうまいんだよ。ものすごく文章がうまくて、びっくりしちゃってさ。ちょっと見せてもらったんだな、バーのカウンターで。私はほら、太宰さんの連中と付きあってて文学好きだから、そういう文章に興味あるからね、見たらすごいんだよ。この人、文学作家じゃねえかなと思ったよ。それから見方が変わったの。
池上:最初からうまかったんですね。
平田:そのうちにお父さんが亡くなった作品(注:尾辻克彦という名前で発表した『父が消えた 五つの短篇小説』、1981年、文藝春秋)を書かれてね、芥川賞をもらっちゃった。その前から、相当書いてたね。
池上:じゃあ他の方とは違う感じで、一目置かれてたという感じですか。
平田:みんなにとっても、他の芸術家にとっても、そういう見方をしてたんじゃないかな。いい企画会はほとんど赤瀬川さんが出してたね。それと清掃なんかの時にはほんとに自分が先頭に立ってやってたりしたんですよ、銀座のね。彼がほうきで掃いてる写真。
池上:「クリーニング・イヴェント」の時の(注:《BE CLEAN! 首都圏清掃整理促進運動》、1964年10月16日、銀座)。
平田:ただね、赤瀬川さんは、表にはあんまり出たがらないのよ。だからマスコミが来てもいつも引っ込んじゃって、あまり出てこないのよ。
池上:こういうことがあるから写真撮りにきてよって言われますよね、その時って撮影料みたいなものは。
平田:全然、そんなものはないですよ。
池上:仕事としてやるわけではないという。
平田:全然違う。私は友達として、楽しかったし、見たかったし、楽しんで見ててね。なにをやるかと見てると、やっぱりすごいことやるんだよなあ。これが楽しくてね。しかもね、これを写真に撮るってことがまた楽しくて。見るだけじゃなくて、写真ってのはどんどん記録していくわけよ、これがまたね、想像できない世界がどんどん始まるわけですよ。これが写真の楽しみだと思うんだよね、私としては。それで、楽しみました。楽しませてもらいました。だから電話来るともうすっ飛んじゃったんだよ。なにやってくれんのかなと思ってね。
池上:みんなはやるほうを楽しんで、平田さんは撮る方を楽しんで。
平田:御茶ノ水の落下の写真(《ドロッピング》、「ドロッピング・ショー」、1964年10月10日、御茶ノ水 池坊会館 屋上・搭屋)あったでしょう、物を落とすの。あの時もそうでしたよ。すぐ飛んでいって撮るんだけど、これが楽しいんだなあ。ただ落とすんじゃなくてね、私は写真家だから落ちる瞬間も撮るし、それから着地して変形した物の形も撮るしね。それで走り回ったんだよ。上に登んなくちゃいけないでしょ。ばーっと投げると、撮ってすぐ下に降りてね、落っこちた状況の写真を撮ったり、撮ってるうちにまた落っこちてきたりね。おもしろかった、すごく。落下っていうのもね、皆さん落下してる写真だけ見てると思うけど、落下自体にいろんな要素がこもってるから楽しいんだよ。落下した瞬間に落っこちてくる状況なんて、ものすごくフォトジェニックですよ。それからばーっと落っこちてしまった後の、こんななってるでしょ。あれもまたおもしろいんだよね。彼らと一緒に付きあってると楽しみが多いんだよ。写真を撮るということの中の、そういう楽しみがね。私にとってはそういう写真が新しい写真なんですよ。今までは土門さんや木村さんが、自分の思いで好きに撮るでしょ。あれは個人の思いだけじゃないですか。まあそういっちゃいけないけどさ。だけど、個人の思惑以外にどんどん、どんどん状況は変化していくんですよ、全部の状況が。風景から時間から。これは写真じゃなきゃ撮れない。映画だって撮れますけどね。写真だと撮れるんですよ、それが。しかも、撮ってる自分がおもしろいんですよ。私は構図を作るとかそういうことが大嫌いなんですよね。そうじゃなくて無意識に、かっこいい場面を切ってるんだよね。
池上:ほんとにそう思います、写真を拝見して。
平田:これがまた楽しいんだよね。そういう新しい世界なんだよ、写真ってのは。
池上:アーティストがいて、平田さんがいて、社会の中でそれを動きごと撮るという。
平田:しかもそれを一枚の写真にしてプリントできるわけでしょ。それでみんなが見てくれるわけ。私は、大衆の方にもっともっと芸術を見せてやりたいという気持ちもあるしね。有名な作家で高価な作品を美術館で見るのもいいけどさ。そうじゃなくて、みんなが実際にそういうものを楽しめるわけよね。
池上:そうやって残してくださらないと、私たちはいま見られないですからね。
平田:私にとってはね、写真っていうのは切ってもきれない存在になっちゃったわけね。
池上:写真を拝見しながらお話しましょう。
平田:これを今度、もっともっと多く入れて作りましょうね。
池上:ぜひやっていただきたいです。「ドロッピング・ショー」ですが、この落ちるものによって落ち方が違うのもよく撮られてますよね。
平田:それなんですよ。ふわーっと落っこちてくるのもあるし、すごい勢いで落っこちてくるのもあるしね。
池上: 1963年ですかね、中西夏之さんのアトリエにモデルを連れていかれて撮影をされた(《輝く洗濯バサミ》、1963年、中西夏之宅アトリエ)というのがありましたよね。このアルミの洗濯バサミをいっぱいくっつけて。
平田:私は、自分が使ったモデルを連れてったんですよ。少しお金あげたけどね。あまり洗濯バサミひっつけるなんて言えないから、現場でね。
池上:この男性は、中西さんじゃなくてモデルさんですか。
平田:これは中西さん。
池上:ですよね。じゃあモデルというのは。
平田:これ。
池上:あー、女性の方ですね。
平田:彼は最初素肌につけようとしたんだけど、ちょっと痛がるから、彼の家は金物屋でアルミ箔がたくさんあるからね、それを巻きつけてね。彼も、自分に巻きつけてからやったんだよ。じゃないと痛いからね。
池上:そうですよね。このモデルさんは私どうして頭に洗濯バサミをというのは。
平田:まったく知らない、なんにも分からない。
池上:ただ仕事として我慢したという。
細谷:どういうふうに連れてきたんですか。
平田:他にもいろいろ使ってるからさ。すごく有名な芸術家がいるんだと、その方がいろいろやるからとにかく言う通りにしてくれってね。3千円かなにか払ったのかな。ギュウちゃんの場合もそうだった。あの、絵具をひっかけたのも(《アクション・ペインティング》、1963年、田中信太郎アトリエ)。
池上:あの墨汁を。こちらですね。
平田:そうそう、これも連れてったモデルですよ。こんなにされるとは、彼女は思ってなかった。あとで怒られた。
池上:でしょうね。
平田:「いまに有名なすごい方になるんだよ」って言ってね。
池上:それは嘘ではなかったですからね(笑)。じゃあ平田さんの方で、ある意味で仕掛けたといいますか。
平田:仕掛けた時は、彼らも話すとすぐおもしろいって乗ってきてくれたからね。同時にやったようなもんですよね。
池上:これは発表するところが決まってたわけではなかったんですか。
平田:決まってなかったです、ほとんどね。そういう雑誌もなかったしね。ただ、私は友達がいろんな雑誌に編集長として分散してたからね、みんなこういう世界をしらないけれど、私が写真を持ってって、出せと言ってね。みんな編集長くらいになってるから、グラビアに出せって言ったら、出すよと。その代わり、雑誌社編集部独自の原稿の書き方をする。私は彼らの芸術行為として出そうとするけれど、そういうタイプの雑誌じゃないから、それは編集長が「こっちで勝手にやるけどいいか」と言うから、「いいですよ」と言ってね。ずいぶんおかしなタイトルも付けられたけどね、見せることが必要だからね。
池上:写真は検閲されないですけど、文字の方はあちらが決めて。
平田:そういうのは多かった。だからそういう時は私も自分の名前じゃなくて、仮名をずいぶん使いました。
池上:それは、このテキストは本来の自分のスタイルと違うからということで。
平田:こっちも自分の名前で出せばいいんだけど、そうすると載せる雑誌社がみつからなくなっちゃうということもあるしね。あるいは、例えば新聞社系統の人たちはそういうのを見ていやがるだろうしね。いろいろあるんですよ、この世界にはね。右やら左やら、ずいぶんそういった意味で頭をしぼりました、出し方についてはね。友人が小さな雑誌の編集長をやっていたからやりやすかった。「出せ出せ、これはすごい芸術なんだぞ」と言ってね。
池上:そうやって発表して反響というのは感じましたか。
平田:ずいぶん反響はありましたよ。新しい芸術として扱ってもらったからね、反響はずいぶんあった。ただね、新聞社の連中がスキャンダルとかそういうふうに書くやつが多かったからね。私は馬鹿だなと思ってたけど。本質を書かないで、なんかスキャンダル的に。
池上:センセーショナルにしたほうがみんな見てくれるという。
平田:だけど、それもひとつの手だしね。そういったことによって多くの人に見られれば、それはそれで効果があるし。ギュウちゃんなんてそうですよ、こういうモヒカン刈りやったりね。
池上:メディア戦略ですよね。
平田:メディアを使うことが、いまの時代は主流になっているわけですよね。必要なんですよ、そういうところに知恵を働かせることもね。私は知恵を働かせたつもりです。だからおもしろい写真もありますよ。相手をだまくらかしたような写真もね。
池上:ギュウちゃんなんかは、当時作品が売れるような時代じゃないからせめてメディアに載りたい、というのがあったわけですけど、そこに平田さんはコラボレーションというか、共謀者のようなかたちで関わっていたんですよね。
平田:ええ。秋山祐徳太子なんて、私は共謀者ですよ。
池上:メディアと前衛の方たちをつないだという役割がありますね。
平田:アートとメディアっていうのはね、この時代になって初めて価値が出てきたんですよね。だからメディアをね、私としてはこういう言い方はいやだけど、利用しなくちゃならない。利用することによって、彼らも読者を得るし、あとで説明すればいいんだよね。分かる人は見ただけで分かってくれるからね。
池上:アクションとかパフォーマンスとかじゃなくても当時の作品は残ってないので、だから余計にこういう写真の重要性が大きいですよね。
平田:そういう意味で正しい写真の立場だと思うんです。いい友人に会えてよかったなあと思いますよ。素晴らしい人たちばっかりですよ、頭もいいしね。言葉を使わないけど、分かり合えるんですね。だから楽しかったですよ。電話が来ると、今日はなにが始まるのかなと思ってね。
細谷:中西さんとはどのように知り合ったか覚えていますか。
平田:中西さんとはどこだったかなあ。
細谷:ネオ・ダダではないでしょう。
平田:違いますね。中西さんは誰かの紹介だったな、赤瀬川さんかな。とにかく中西さん、赤瀬川さん、高松さんだけは、最初から違った付き合いをしました。やっぱり、中西さんは赤瀬川さんの紹介かな。
池上:ハイレッド・センターの前から、彼らは付き合ってたからということですか。
平田:そうそう。ハイレッド・センターのことは、ヴァンの時いろいろ話してた、なんかしようぜって。その中の3人が立ち上げたんだよね。
細谷:ヴァンのほうで映画監督や映画作家と接触することは、平田さんご自身はなかったですか。
平田:まったくなかった。私はそこまで行かなかったからね。美術家のみんなの方の話が楽しかったから。
池上:オノ・ヨーコさんについてお聞きしようと思ってたのが、これなんかは「曲目はストリップ」というタイトルで。
平田:これなんの雑誌だった。
細谷:これは『週刊大衆』(1964年9月10日号)です。
平田:『週刊大衆』の編集長がつけたんだよ、きっとな。
池上:オノ・ヨーコさんの《カット・ピース》(小野洋子さよなら演奏会「ストリップ・ショー」、1964年8月11日、草月会館ホール)の貴重な写真だと思うんですけど。
平田:これは他にいい写真をたくさん撮ったんだけど、ネガが出てこないんだよ。
池上:それ見たいですねえ。
平田:こっちで撮った写真が、外国の雑誌でなにか外国の方のお名前で出ているのを見たことがあるんだ。これは私の写真じゃないかなと思ったら、外国の方のクレジットがついてたな。
池上:他にその時に写真家がいたんですかね。
平田:いなかった。
池上:じゃあちょっと誤解が。
平田:ニューヨークでもやったらしいんだよ、彼女はね。
池上:やってます。日本でやったのが1964年ですよね。アメリカでは1965年に、カーネギー・ホールでやってますね。これは写真を撮っておられたわけですが、見ていてどういうふうにお感じになりましたか。
平田:どの辺まで進むのかという期待感もあったし。ただ、客がカットしに出てこないんですよ。観客がなかなか上がってこないの。
池上:怖気づいちゃうというか、気後れというか?
平田:彼女は相当待ってましたね。この写真はアメリカ人の観客が真っ先にカットした時のものですよ。それで、切りはじめたら、日本の人はほとんど出てこなかったなあ。やっぱりああいうとこだと怖気づいちゃって上がってこないんだなあ。これは外国の方ですよ、アメリカ人ですよ。
池上:この写真では割りと切りすすんでますよね。
平田:日本人はあまり来てないです。
池上:これは最終的にはどの辺まで進んだんでしょうか。アメリカでやった時の映像だと、下着の肩紐も切られちゃったりとか。
平田:肩紐くらい切ったけど、そんなに大胆に肌まで行ってないです。
池上:オノ・ヨーコさんは表情を変えたりですとか。
平田:ほとんどないです。彼女もいらいらしてたんじゃないかな、なかなか観客が上がらないから。
池上:これは切られすぎてもハラハラするし、でも切られないと作品として意味が無いので、切られなくても困るわけですよね(笑)。
平田:私は後ろから早く上がんないかなと思っていたんだよね。長い望遠レンズ使って、待ってたんですよね。
細谷:けっこう距離があったんですか。これ草月会館のホールですよね。
平田:そう、道の一番下で望遠レンズをつけてね。
細谷:じゃあ席の後ろに。
平田:そうそう。
池上:当時オノ・ヨーコさんというのは、ハイレッド・センターともネオ・ダダの人たちとも付き合いはあったと思うんですけど。
平田:あったけど、あんまりないです。彼女はひとりでという面が多いですね。皆さん仲はいいけど、一緒になってなにかやるということは、私は彼女がひとりでやったものしか見てないです。海岸の写真を見てますか。これがまたおもしろいんですよ。
細谷:《ボトル・ピース》(1964年)。これ(《カット・ピース》)が1964年でね、さよならコンサート(小野洋子さよなら演奏会「ストリップ・ショー」)となっているんですけど。
平田:この時、ボトルをテーマでやってた写真ですね。これは茅ヶ崎で、彼女の実家のお屋敷の近所ですけどね。その前に、半年くらい前かな、渋谷の金王マンションというマンションがあってその屋上なんですよ(《バッグ・ピース》、1964年、渋谷の住居アパート屋上)。彼(アンソニー・コックス(Anthony Cox)と一緒になってた頃ね。キョーコちゃんはもう1歳だった。3人でこのマンションに住んでたの。この何階かな。私が行った時に、この袋のイヴェントは他の舞台でやったことを聞いてたんですよ。私は行かれなかったけど残念なことをしたなと言ったら、じゃあ上でやりましょうよと言ってくれたの。そして、彼とふたりでやってくれたの。私しか撮ってないんだよ、これはね。下でキョーコちゃんは待っててね。これは最初全部袋の中入っちゃってもごもご動いて、ぱっと出てくる。これは特別にそこにあった花を持ってきたわけです。おもしろいでしょ。
細谷:これ、カラー写真なんですよね。
平田:そう。地表に出てきたんですよ、暗黒の世界から。
池上:そういうシンボリックな意味もある。
平田:あの頃は、ちょうど屋上にテレビのアンテナがばーっとできかけてた頃で。ちょうどそういう時代だったね。
池上:1964年ですから、そうですよね。オリンピック(東京オリンピック、1964年10月10日-10月24日)があって。
平田:オリンピックの時代だったなあ。あの、おもしろい、オリンピックの選手の写真があるでしょ。三宅義信さんだ(注:重量挙げで金メダルを取った選手)。
細谷:北海道新聞社の支局前で撮られた写真ですね。(注:《BE CLEAN! 首都圏清掃整理促進運動》の関連写真)。
平田:あそこにぜんぶ掲示してあったんですよ、オリンピックで優勝したチャンピオンの写真が。たしか三宅選手も。
池上:そういうのを見ながらクリーニングをやった。じゃあこのイヴェントは、オリンピックが終わった後だったんですかね、それとも真っ最中に。
平田:そう、期間中。わざわざ新しく白衣を買ったんだよ。金があったんだなあ。
池上:オノさんのことをもう少しお聞きすると、ギュウちゃんやハイレッド・センターの方たちとは仲間のようにされていて、オノ・ヨーコさんは当時のものを読んだりしても、ちょっと孤立しているというか、ものによっては悪口書かれているものもあったりします。でも平田さんからは、彼女のやっていることはおもしろいから記録したいという。
平田:彼女はひとりでやることに、すごい重要な姿勢をもってました。ひとりですごいなと思ってね。他の方はみんな違った意味でやることによって、作品になったんだけど。彼女は、まったくひとりでやることに意味があったんですね。だから強い女だなと思って見てましたよ。意思の強い人だなあと思ってね。わがままな人ですからね、大金持ちの娘で。
池上:それで孤立というか、ちょっと悪く言われているところもあったり。
平田:ただ金持ちだからみんな離れたくないんだよね(笑)。
細谷:この《ボトル・ピース》の写真で、なにかお話があるんですよね。
平田:そうなんですよ。これね、海の彼方に投げたでしょ。それで聞いたんだよね。私はあんまりテーマを聞くとか説明を求めるのは嫌いなんだけど、状況で楽しんでたからね。投げたから聞いたんだよ、どうして投げたんですかって、私の記憶では、たしか「トゥ・トーキョー」と言った記憶があるんだよ。だから私は、東京で勘当された親への手紙かと思ってたんだよな(笑)。
池上:そのボトルの中に親御さんへの手紙を入れて。
平田:そう言ったような気がしたんだよな。だから彼女にとっては、瓶を投げたりするのは瓶そのものじゃなくて、その中になにか込めたんじゃないかな。それをあちこちで投げたのを、私としては楽しんだわけ。砂に埋めた写真もあったでしょ。これも地球の大自然の中に、彼女のメッセージを埋めたんじゃないかと思ったの(《ボトル・ピース》、1964年、湘南海岸砂浜)。というふうに勝手にこっちで、楽しんで見てね。いちいち聞くの嫌いだから、こういうのに対して「どういう意味ですか」なんてそんな馬鹿なこと聞くのいやだからね。
池上:彼女の作品は、そういう最後のピースはあなたが埋めてねというとこがありますからね。
平田:これはやっぱり、ひとつのタブローを見せるという世界とまったく違うんですよね。そこにやっぱり魅力感じたなあ。
池上:平田さんのような理解者がいたことが、オノさんにとってもよかったんじゃないかなと思いますね。
細谷:立会人のような。
平田:いま彼女は、恵まれない子どもたちのために世界中回ってますね。すごいね。こないだひとりでニューヨークで展覧会をやりましたね。
細谷:MoMA(「Yoko Ono: One Woman Show, 1960–1971」、2015年5月17日-9月7日)でね。この写真(注:《カット・ピース》、1964年8月11日、草月会館ホールの写真)は草月じゃないですか。オノさんは比較的グループ・音楽とか音楽の方に近いですよね。小杉(武久)さんとか刀根(康尚)さんとか、音楽の人たちとの関わりというのも。
平田:あると思います。草月にいろいろ聞きにいったこともあるんだけど、ほとんど整理してないんだね。
細谷:それから、これは何の写真かというと、マース・カニングハム(Merce Cunningham)のダンス・カンパニーが日本に来た時のものです。
池上:ダンス・ワークショップ(「Modern Dance Workshop―Merce Cunningham Dance Company 来日公演にちなみ日米ダンスアーティストの舞台交歓」、1964年11月20日、草月会館ホール)みたいな。それに高松さんとか中西さんも参加されたんですね。
平田:全員(注:当時、平田自身が関わった芸術家を指す)出たんですよ。これは思いつきで出たんじゃねえかな。やることないから、ただぼそっと立ってたからね。
細谷:小杉さんも出ていたんですよね。
池上:他に土方(巽)さんとか。
平田:土方さんはいなかった。(注:実際には、土方巽も参加。)
池上:そうでしたか。他にはどういう方が参加されてましたか。
平田:うーん、今だとあまり記憶がないなあ。
細谷:この写真でなにをやっていたかは。
平田:ただぼそっと立ってるだけ。彼らもね、なにやっていいか分からなかったと思うよ。時間があるから出ちゃえっていう感じで。それもおもしろいんだよね、ただぼさっと立ってるのも。それで写真撮って。
池上:これはアメリカのダンサーと日本のパフォーマーとの、ワークショップだったみたいなんですけど。
平田:あまり一緒には、合同的な作品には出なかったね。勝手にやってた。
池上:アメリカの人たちはアメリカの人たちで上演されて。その写真は撮られなかったんですか。
平田:ありますよ。あるけど、どこかに。みんな撮りました。
池上:それもぜひ見たいですけども。
平田:たしかタカ・イシイギャラリーに入ってるはず。
細谷:ちょっと見てみます。
平田:カニングハムの舞踊家たち、時々写真見ながら、これは誰だったかなあ、なんて考えることがあるんですよ。そういう舞踊家が出てます、何人か。
池上:たしかこれは、カニングハム本人は参加してなかったみたいで。(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)とか、彼と仲のいいダンサーたちが参加したんですよね。
平田:ただ単にカニングハムの系統の踊りじゃなくてね、勝手になにかやってました。
池上:ラウシェンバーグはその頃すでにカニングハムとは路線が違ってたみたいで、それはお聞きになったりしましたか。
平田:いや聞かなかったけどね、これよりかは皆さんの方ばかり興味があったからね。カニングハムのことはね、昔から、友人がこんなのに行ったこともあったけど、私はあまり興味をもたなかったな。たしか札幌にもずいぶん来てたんだよ。それで友人が習いにいっててね。
池上:また他の写真も、これについては拝見できればと思います。
細谷:あと草月だと、やっぱりナム・ジュン・パイク(Nam June Paik 、白南準)。
池上:大事ですね。
平田:彼はね、おもしろかったなあ。韓国の金持ちの御曹司ですね、彼は。だから音楽を非常に贅沢にやっててね。ピアノを一台ぶっ壊したんですよ、この時に舞台の上で。それも撮ったはずなんだけど、出てこないんですよ。ピアノを倒して鍵盤引きちぎって、客席に投げたんだよ。それ撮ったはずなんだけど、出てこないんだよなあ。
細谷:客席に投げて、その後これを被ったんですか(《洗浄》、「白南準作品発表会」、1964年5月29日、草月会館ホール)。
平田:いや、洗剤の入った液体を被った後で、ピアノぶっ壊したんだ。ここにピアノあるでしょ。これ全部ぶっ壊しちゃったんですよ、この後に。小道具からハンマー持ってきてね。どかーっと倒してかーっと鍵盤を引きちぎって、客席にぽんぽん投げた。
池上:草月会館の方としては大損害というか。
平田:これ彼のピアノだから。
池上:あ、持ち込みですか。
細谷:他になにか草月で印象に残っているものとかありましたか。
平田:いや草月では。ずいぶん行ったはずなんだけど、残ってないんだよ、写真がなあ。どうしてだろう。
池上:観客として行くのが多くて、自分が撮るというのはあまりされなかった。
平田:そうなんです。
細谷:ちなみに、草月でやる時は公演じゃないですか。公演と銘打ってやるわけだけど、撮影に入る時はなにか、プレスみたいなので行くんですか。
平田:招待状も来てるからね。それを持って。
細谷:じゃあ写真家として撮るわけですね。
平田:もちろん。それと、観客としても楽しみにしてね。
池上:草月系で写真をよく撮られてたのって、関谷正昭さんとか吉岡康弘さんの写真をよく見るんですけど。
平田:名前は聞いております。
池上:彼らとはとくにお付き合いは。
平田:ないです。写真家とはほとんど付き合いないです。
池上:みんな一匹狼で。
平田:そう、みんなそれぞれ違った路線でやってるし。私は、あまり彼らの路線に興味もってないし。あんまり興味もってなかった。
池上:他に1960年代に活動しておられた東松(照明)さんだったり、森山大道さんだったり、もうちょっと時代が後だとプロヴォークの方たちだったり、そういう方たちともとくにはお付き合いなかったですか。
平田:全くありません。
池上:路線が違うといえばちがいますよね。
平田:ちょっと違うんだなあ、皆さんの写真に対する考え方とね。根本的な線で違うからね、どうしても一緒にお話するって気持ちになれなかった。
池上:ハイレッド・センターについてお聞きしましょうか。先程は、中西さんのお話を少し聞きましたけども、「第5次ミキサー計画」(1963年5月7日-12日、新宿第一画廊)あたりが最初に撮られたハイレッド・センターの。
平田:あれは何年だったかな。
細谷:1963年です。
池上:高松さんがこの紐の作品をされたり、赤瀬川さんの千円の作品も出てますよね。
平田:場所は、内科画廊だっけ。
池上:新宿第一画廊です。これも今度こういう、展覧会と言っていいのか、展示やるから撮りにきなよということですか。
平田:もちろん。その都度来てるから、通例ということでね。いつも必ず行ってました。
池上:これはオープニングの日とかではないんですか。
平田:いや、その記憶はないですねえ。
池上:お客さんも入っていて。
平田:普通の客だと思いますよ。その方が私にとっちゃ、写真的に情景になるんですけどね。
池上:作品だけを撮るんじゃなくて、作品を見る人がいるという。
平田:時の状況っていうか。見てる人のファッションとか見てると、すぐ分かりますしね。とてつもない場違いな人がよく来てて、その方がおもしろいしね。この人たちが果たして現代美術を知ってるかしりませんけどね。それはいいんだけれど、一般の人のファッションをしてるところが私はおもしろいなと思うしね。
池上:この(展示を見ている若い女性達の)鞄と靴がすごく可愛らしかったり、そういうところにすごく惹かれます。
平田:関係ないような方たちが、美術品をものすごく熱心に見ちゃってるのもね。かなり長時間見てましたよ。
池上:この大きな千円札を見る若い女性(笑)。
平田:そばでぐうっと見たりね。「これ描いたんですか」なんて言ってね。だから普通の美術館に行ったりするような中でも、これからもっと違った情景を見られるんじゃないかと思ってるんですよね。やっぱりおもしろいですよ、見る人の感じと周辺の情景ね。これはやっぱり写真じゃないと記録できないですよ。
池上:これなんかは梱包された椅子に岡本太郎が座っているという貴重な写真(《梱包作品・椅子を楽しむ岡本太郎》、1963年)ですけど、岡本さんはどんな反応でしたか。
平田:おもしろいですよ。彼はね、この時に自分の個展やってたんです。《座ることを拒否する椅子》(1963年)というテーマでやってたんですよ。それで来たもんで、椅子のとこに来てどうするのかと思ってたら、楽しんじゃってさ。座って動かねえんだよな(笑)。これはおもしろいと思ってね。
池上:この若者たちは見どころがあると思ったんでしょうかね。
平田:きっとね。彼はかれで、座ることを拒否する陶器かなにかの椅子を作ってね、個展をやってました。
池上:それはこの近所で。
平田:かも分からないですね。
細谷:1963年で同じ時期ですね。
池上:これなんか花のバッジみたいなのをつけていて。
平田:画廊から招待されたんだ。
池上:じゃあやっぱりこれはオープニングなのかな。
細谷:あとハイレッド・センターはけっこう招待状に凝るじゃないですか。毎回届くわけですよね。
平田:あれはとっとけばよかったなあ(笑)。
細谷:あれもある種の作品ですからね。
平田:これおもしろいでしょ。これは赤瀬川さんの千円札ですよ。
池上:千円札と、それに包まれちゃってる女性と(《梱包・女体を包む》、1963年、中西夏之宅アトリエ)。
平田:赤瀬川さんはきっと、彼のとこで作ってたのかなあ。
細谷:平田さんがモデルを連れていったんですか。
平田:そうそう。
細谷:千円札と紐と梱包と。
平田:これは中西さんとこのお店の倉庫ですよ。
池上:あの金物屋さんの。
平田:中西さんのとこで赤瀬川さんはこれ作ったのかなあ。ここにあるわけないんだよね。
池上:それか持っていったかですかね。
細谷:梱包作品を入れた感じですかね。
平田:展覧会場じゃないんですよ、これはね。中西さんの金物屋さんのアトリエ。
池上:こういう時も女性を連れていって仕掛けてみるということをされてるんですね。
平田:モデルを連れてくと素材にできるから、喜ぶんですよね。彼らは素材としか考えないからね。
池上:この3人が一緒になってたということは、他の方たちとは。
平田:ちょっと違ったね。あの3人はほんとにね、いいセンスと頭をもってたね。ちょっと違ってました、他のグループとは。
池上:ちょっとコンセプチュアルというか。
平田:とくに赤瀬川さんはあまり発言しないんだけど、主導権を握っていた気がします。
池上:大事なアイデアを出してたという。
細谷:高松さんとはそんなに付き合いがなかった。
平田:そう、彼はあまり話もしないし。ただ、ずいぶん周りにファンがいましてね(笑)。
池上:おモテになったというのを聞きますけども。
平田:女性の方にね。
池上:やっぱりハンサムでいらした。
平田:そうですよ。それでね、いつもきちっとした背広着てくんですよ。みんな他の人は背広なんか着たことねえんだよね。彼だけがね、背広着てくんだよ。ギュウちゃんなんかは、背広なんか着たことねえんだよ。
池上:ないでしょうね、当時は(笑)。ミキサー計画の後だと、内科画廊の「大パノラマ展」(1963年5月12日-16日)という、画廊を閉めちゃうあれですね。ここに写真がありますね。
平田:あれもいい会だったな。
池上:これがやっぱりね、彼らのコンセプチュアルなところってよく出てますよね。
平田:みんな真剣になって待ってるでしょ。これおもしろいんだ、待ってる人の表情が。これ誰だか知ってますか。
池上:このひげの方。これは瀧口修造さんですよね。
平田:彼も有名な方ですね。
細谷:これはジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns)。
平田:誰が彼に言ったのかな。剥がす人にしたのかな。
池上:せっかく海外からお客さんが来てるからということで、代表して。
平田:彼は嬉々として。
池上:これ喜んでますよね(笑)。
平田:俺が剥がすんだってね。
池上:彼もこういう知的なアイデアが好きな人だから、喜んだんだと思いますね。
細谷:この時はオノ・ヨーコさんも来ていますし。サム・フランシス(Sam Francis)と大岡信さんもいますね。
平田:あの頃、大岡さんはよく来てくれたと思うね。
細谷:大岡さんは、この頃よく美術の方に出入りがあったんですよね。
池上:よく批評的なものも書かれてましたよね。順番で行くと、さっきお聞きした「ドロッピング・ショー」の時は、平田さんと羽永(光利)さんも撮影されてたんでしたっけ。
平田:私はね、あんまり記憶にない。私はほとんどひとりで撮影してて、ただ新聞社の連中がひとりいたような気がするんで、あと記憶ないんだよね。
細谷:羽永さんもいました。
平田:どこいたんだろうなあ。
池上:また違う写真が撮れてるみたいですけどね。
細谷:これさっきの情景ですね、落ちた後とか。
池上:すごいポエティックというか、素敵に見えますよね。
平田:落っこちたばかりの時はこう立ち上がってるでしょ、しばらくしたらぐしゃぐしゃっと崩れるんですよね。
池上:そういうところもおもしろいですよね。
平田:それから、危険を感じたこともあるんですよ。頭の上にがーっと来たからね。あの写真は出てない、どこにもね。和泉(達)さんのすぐそばに落っこちてきた写真。私は避けたけどね。
細谷:これには載ってないですね。平田さんの写真の紐が。
平田:そうなんですよ、カメラの紐が。慌てて撮ったから。あれで私に当たったらおもしろかったんだけどね。
池上:いやいや、危ないですから。
平田:これ誰の絵だろ。赤瀬川さんじゃないだろうなあ。
池上:ちょっと抽象的な水墨風のなにか。
平田:彼が元気だったら聞こうと思ってたんだけど、とうとう病院に行けなかったから。
池上:残念でしたね。
細谷:風倉(匠)さんが頻繁に登場しますね。なにか印象に残っていることとかありますか。
平田:彼は1人だけ九州から来て参加したもんでね。布もよくやったよ、星条旗じゃないけど、ここで広げてね。その写真どっかにあるはずなんだけどね。それから小島(信明)さんの写真が全然なくてね。ずいぶん撮ったんですけど。
池上:それはなにを撮られたんですか。
平田:あの、ワンコが壁に向かって。
池上:あれは坪内一忠さんの作品。ヴィクターの犬がカンヴァスに向かっている(《ラブペデラストまたはウールニング》、1964年)。
平田:そう、坪内さんだ。間違えました。あれもずいぶん撮ったんですよ。
池上:それ見たいですねえ。あれは「レフトフック」という展覧会に出されたんですよね。
平田:それで、あの米国旗を広げてんのは。
池上:それが小島さんです。
平田:そうだった。それも撮ったんだ。どっかにあるんだけど、出てこねえんだなあ。ずいぶん撮ったんだ、あん時。
池上:その小島さんの作品や坪内さんの作品をどういうふうにご覧になりましたか。
平田:そんなに強烈に残ってないけどね、おもしろいなあと思ってた、アイデア的にね。
池上:小島さんの旗を被ってるのなんかは、やっぱりアメリカに対するなにかというふうに思われましたか。
平田:それもちょっと出したなと思ってね。意識的にやったなと思って見てましたね。そういう方法で作品作ってるのはほとんど他にいなかったから、彼は目についてね。
池上:立体でああいう樹脂を使ってというのも当時は珍しいですよね。
平田:ずいぶんあの頃撮ったんですよ。ちょうど同じ掘っ立て小屋の中でやってたんですよ、荻窪の田んぼの中の。誰が作ったんだったかな、あの掘っ立て小屋。
池上:荻窪の田んぼに掘っ立て小屋を作った人が。
平田:作ったんじゃなくて、買ったんだ。工事人かなにかが田んぼの中に小屋を作って仕事してるのを、要らなくなったのを全部彼が買って、それをギャラリーにしたんだ。それでギュウちゃんがあそこでいろいろやったし。
池上:ギュウちゃんに聞いたら、多分お名前分かりますね。
平田:小島さんに聞いても分かるはず。小島さんも、中でずいぶんやったからね。それから彼、いま千葉にいる、ピアノかなにかを作品にする、彼がよくあの小屋のアトリエを使ったんだ。
細谷:これではなくてですか。
平田:これです、掘っ立て小屋。
細谷:田中信太郎さんですか。
平田:田中さんだ。田中さんは他に作品何を作ったっけ。その小屋でやってたよ。
池上:そういえばギュウちゃんが言ってたような気もするな。
平田:これは田中さんのアトリエなんですよ。田中さんが、またここでおもしろいことをやって、私が撮ってんだよ。あの時、坪内さんと、もうひとり小島さんと、なにやったんだったかな。小島さんはまだ元気だから、今度会った時に。
池上:ちょっとお聞きしてみます。あとはハイレッド・センターの写真としては清掃の、「クリーニング・イヴェント」に。
細谷:その直前に、刀根さんの「インヴェスティゲーション・イヴェント」(1964 年10月12日-16日、内科画廊)、「刀根賞」ですね。
平田:あれはおもしろかった。
池上:これもハイレッド・センターの活動の一部ということになるんですかね。
細谷:別なんですけど、ハイレッド・センターの作品も入れたと(「BE CLEAN! 清掃中」の看板を応募、出品)。
平田:いろんな作品があるわけですよ。
池上:刀根さんの企画に、ハイレッド・センターが参加したっていう。
平田:これね(注:「インヴェスティゲーション・イヴェント」の関連写真に写る展示作品)、私これを探してんのよ、この作者を。手をただぱんって飾っただけなんだよね。それからパンティの出品者。誰だったかなあ。
細谷:ハイレッド・センターのカタログ(「ハイレッド・センター:『直接行動』の軌跡」展、名古屋市美術館、2013年11月9日-12月23日、渋谷区立松濤美術館、2014年2月11日-3月23日)に参加者が書いてありますね。
平田:ちょっと見て。
細谷:この頃の刀根さんの印象はどうですか。
平田:ほんとに好青年ですよ、温和なね。優しくて、にこにこしてて、おぼっちゃん。
池上:それでこの刀根さんのイヴェントに「クリーニング・イヴェント」の看板を出して。
平田:そうそう、それ誰かが買ったんですよ。
細谷:わかりませんが、それでもそれはこのずっと後でしょう。
平田:そう、ずっと後。だから誰かが持ってんじゃねえかな。私がもらっときゃよかったんだよ、これなあ。
池上:この看板がここにあるということは、「クリーニング・イヴェント」の前なんですか。
細谷:前です。ここで、いわゆる参加者募集を。
池上:あ、そういうことか。こういうのをやるからみんな参加してねというので「インヴェスティゲーション・イヴェント」で集めて、最後の日になるんですね、16日に、「首都圏清掃整理促進運動」というかたちでやったと。これはハイレッド・センターの3人以外にも、和泉さん、川仁(宏)さん、谷川(晃一)さん、もちろん刀根さんも、風倉さんも入っていて。
平田:谷川さんはまだ元気だからね。ただ、奥さんが亡くなっちゃって、残念だねえ。
細谷:ちなみにこの日のことをもし思い出せたらお聞きしたいんですけど、この日、「首都圏清掃整理促進運動」は朝からですか。
平田:午前中かなあ。昼近い午前中かも分かんないねえ。相当長時間私は付きあってたからね、夕方までいたから。
細谷:平田さんは1回抜けて、夜にまた戻ってきたんですよね。
池上:じゃあ一日中皆さんこの格好で掃除してらしたんですか。
平田:掃除だけ続けてるんじゃなくて、私もどっか休みにいっちゃってたりするから、その間彼らもどっかで休んでんじゃないかな。警官がおもしろかったんだ。これこれ。
池上:これすばらしいですね。
平田:これね、ふたりで来たんだよ。もうひとりのやつは先に帰っちゃったけどね、この人だけがね。不思議でしょうがねえんだよな。
細谷:じゃあしばらくいたんですか。
平田:しばらくいた。聞きたいんだけどなんて聞けばいいか分かんないみたいな、彼がね。誰か話してたよ。その人と話せば内容がもっと分かる。私は、彼が帰る時ぼそぼそつぶやいて、「ご苦労さん」なんて言った気がするんだよ(笑)。だから彼らはもっとよく知ってる、会話を。
池上:不審なんだけど、別に誰かを傷つけてるわけでもないしという。
平田:困っちゃってるの、警官は。
池上:理解ができないということですよね。
平田:警官を呼んだのは街の人らしいんだよね。「変な白いのが来てるよ」ってね。慌ててふたり来たんですよ。
池上:呼ばれたから来たけれど、なにが悪いか分からない。
平田:彼らは全然分かんないんだよね(笑)。なんか街綺麗にしてんだって。都で清掃運動週間やってたから、その延長だと思ってるらしいんだよな。
細谷:東京都でも、東京の清掃を促進させようというのをキャンペーンでやったわけなんですよね。
平田:だからね、警官もその一部と思っちゃってるんだよね。
池上:オリンピックのための美化運動だったわけですよね。だから真っ最中にやってるというのが、すごく皮肉が効いてる。
平田:またわざとらしくやってないから、真剣にやってるからおもしろいんだよね。雑巾掛けしちゃうんだもん。
池上:そんなに長時間してたというのは知らなかったです。
細谷:この時に平田さんの写真に川仁さんが登場するんですよね。印象に残っていることはありますか。
平田:いや全然残ってない(笑)。彼はほんとに黙ってる人でね、静かな人なんですよね。みんな印象に残らない人ばっかりだけど、前から知ってるからね。川仁さんはとくに沈黙の人でね。
池上:でもハイレッド・センターの影のブレーンというふうに言われてますよね。
平田:そうなんです。ハイレッド・センターの人はみんな頭がよくてね。それで無口が多くてね。スマートですよ、ほんとに。
池上:ギュウちゃんとかネオ・ダダの方たちとは、ちょっと違うタイプなんですね。
平田:全く違う。的確に企画を立てて、粛々とやっちゃうんだよな(笑)。
池上:この「クリーニング・イヴェント」、オリンピックの期間中だったということで、オリンピックについてはなにか印象的なことってありますか。
平田:オリンピックは、言っちゃいけないんだけど、私は嫌いだったの。あんなのに金かけるなんておかしいと思って。ほとんどオリンピック取材してないです。
細谷:平田さん、車に乗らないキャンペーンみたいなのやりましたよね。あれはこの時ですか、この後ですか。
平田:忘れちゃったなあ。
池上:なんですかそのキャンペーンは。
細谷:車に乗らないぞっていう。
池上:平田さんが個人的にされたキャンペーンなんですか?
平田:もちろん。私は、教習所に行ったんだけど免許を取らなかった(笑)。
池上:もったいないじゃないですか。それは、なんでしょう。
平田:やっぱり、ちょっとおかしいんだよね。もっとずるく社会の中で生活できるようにしておけばよかったんだけど、ちょっと看板あげちゃうとその通りやっちゃう馬鹿なところがあるんだよな。
池上:それは近代化していったり、車社会になっていくことへの抵抗というか。
平田:東京の車社会というのが、私はほんとにいけないと思ってた。だけど車がないと仕事ができないのね。しょうがないから教習所行ったんだけど、2、3回行ってやめちゃった(笑)。恥ずかしくてね、あいつ車反対運動やってるよなんて言われると。
池上:まさにオリンピックを契機に首都高もできたわけですし、一気に変わっていったわけですよね。
平田:オリンピック自体がね、そんなにお金使うのに賛成できなかったんだよな。万博(日本万国博覧会、1970年3月14日-9月13日)もそうです。だけど、岡本太郎さんの作品は評価してます。
池上:太陽の塔。
平田:そう。だから私は、太陽の塔の前で彼(糸井貫二)が駆けってる写真撮りたかったの。だけど連絡してくれなかったんだよね。彼はひとりでやっちゃうんだよ。待ってたんだよ、連絡。それを絶対撮りたかった。岡本太郎の塔が見守るなかで、彼が駆けってくれるのを写真撮ろうと思ったら。こっちは準備してたんだよ。
池上:さすがの平田さんも撮れないものもあったと。
平田:なんにも言ってくれないんだもん。
池上:教えてくれないと行かれないですよね。
平田:あの世界をね、私は新しい写真の世界にしたいんです。カメラを全部捨ててもらって、カメラ会社に怒られちゃうけどね、ケイタイで高齢者の方は楽しみましょうと。
池上:いいアイデアだと思います。
平田:そうじゃないとね、ほんとは私腹立つんだよ、広告費をばんばんあんなに使ってやってるでしょ。その代わりに、高齢者たちはお金もそんなにないしね、しかも写真撮りたい人多いんだよなあ。だから、なんとかもう一度元気になったら、みんなと一緒にやりたいなあと思ってる。今のところ、もう少し頑張って治してからね。
池上:今日はあとひとつだけお聞きしたいと思います。オリンピックがらみというか、1964年の関係で、観光芸術研究所のこういう写真(《路上歩行展》、1964年4月、東京駅八重洲口)、これも素晴らしい写真だと思うんですけれど。
平田:これもおもしろいですよ、本当に。このふたりはよかった。だけど可哀想だった、疲れきっちゃってね。
池上:これは東京駅の前で集合して。
平田:いつも電話くれますからね。今日は東京駅の前でやるって言うからね。
細谷:電話をくれるっていうのは中村(宏)さん、それとも立石(紘一)さんですか。
平田:どっちかな。立石さんのほうかな。どっちか忘れちゃった。
細谷:おふたりとも結構仲良くされていましたか。
平田:そう。とにかく絵が大きい。これ200号あるかな。重たいんだよね。
池上:それをふたりとも頭上に掲げて。
平田:だから相当疲れちゃったんだ。ほんとはもっと歩くつもりだったらしいんだけど。私も途中までで引き返してきて待ってた。
細谷:結構歩いたんですか。
平田:駅の前の道路がありますね。八重洲。その横断歩道を渡ってもう少し行ったところで、私は疲れちゃって先に待ってるからねって帰っちゃったんですよ。この前に道路があって、彼らは先に行ったから大丈夫かなと思って待ってたの。そしたらね、そんなに大した時間かからないうちに帰ってきてね(笑)。
池上:これをずうっと掲げつづけるというのはかなり大変ですよね。じゃあこれは意外と時間はあまりかけてない撮影ですか。
平田:彼らもいろいろ歩き回ろうと思ったんじゃないかな。ところがそうは問屋が卸さないんだよね。もうガクガクになって帰ってきてさ。
池上:重いだけじゃなくて、この形状も持ちにくいですしね。
平田:それで下ろした時の写真、ここに出てないか、あるんですよ。
細谷:これですね。ちょうど新幹線が開通して。
池上:じゃあこの時はもう疲れてるんだ。
平田:疲労困憊の時ですよね。
池上:開始してここに至るまでには、時間的にはどれくらいですか。
平田: 30分ぐらいだと思いますね。
池上:これ10分掲げつづけるだけでも結構大変そうですよね。
平田:最初はそういうこと考えてなかったんじゃねえかな。やっぱり観客がたくさんいると、簡単に引き下がれなくなっちゃったんじゃねえかな。
池上:その道行く人たちが、どういうふうに反応してたかは分かりましたか。
平田:そんなに大きな反応はないけど、みんななんか呆気にとられちゃって。
池上:何やってんだろうっていう。
平田:ほんとに訳の分からない状態でね。おまけにこれ通勤時間ですからね。
池上:朝なんですね。それでサラリーマンの方たちがたくさん。じゃあ朝日か、これは。
平田:サラリーマンの通勤時間なんですよ。それを狙ったんじゃないかな、ふたりともね。人がたくさんいるからね。これはほんとに楽しかった。これもやっぱりね、写真に撮っとかないと意味がないんですよ。ただみんなに見せたというだけじゃ、まったく分からないんだよね。だから写真ってのはこういうとこがすごいなと思うしね。私自身も、みんなの反応も全部シャッター切れるってのがおもしろくてね。
池上:こういう周りの方の雰囲気も全部写し込まれているというのが。
平田:しかも前からの演出じゃないしね。ほんとのハプニング的な行動ですからね。これは写真の機械が捉えるしかないんだよね。
池上:本人たちには決して記録できないですもんね。この観光芸術研究所のアイデアというか、彼らは何を考えていたのかというようなことは、説明はされたりしましたか。
平田:彼らに、直にそういうふうなことは聞かないことにしてて。来る時やってることを、最初から受け入れちゃおうと思ってね。みんながやってることに対して、説明を聞かないようにして。
池上:この新幹線というモチーフですとか、東京ということにこだわりをもって。
平田:とにかく「観光芸術」という名前だけれども、やっぱりこういう状況を一般の市民に見せるというのが私はすごいと思う。ひとつの芸術なんですよ、全体を含めて。その意味で、このふたりのやったことは、私はとても評価してた。彼らもね、全部意識して、演出してこうなるとは思ってなかったと思うんだよね。何が起こるか分からないんだよ。そこがまたおもしろいんだよね。
池上:こうやって写真が残ってるから、写真も込みで作品になってるというのがありますよね。
平田:写真撮るってことはすごく楽しいなと思ったの。写真ってこういうものかなと思ってね。しかも印刷して残るでしょ、これもいいなと思ったの。ただ一枚を見るんじゃなくて、みんながこう見返して、なにかを感じてくれるしね。写真っていう世界はそこだと思うんだよね。ただタブローを、アトリエの中で理解ある人たちに鑑賞させんじゃなくて、それよりかもっと美術を知らない人たちが、アートってすげえなって思ってくれるのが嬉しいんだよな。
細谷:そういう意味で雑誌メディアに載せて、大衆に観てもらうという。
平田:私にとっちゃ、ひとつの新しい表現の世界だったわけよ。他にもいろいろしたいことあったんだよ、演劇だとか、舞踊だとかね。だけど、やっぱり写真にとり憑かれちゃったね。
細谷:マスメディアを利用するというのもあるけれども、平田さんの表現というのは発表も含めてだと思うんですよ。
平田:もちろん。発表しないと、みんなの目に触れないとだめなんですよ。だめというか、私はそこに価値を見てるからね。みんなの目に触れることによって、みんなのためのアートであるという世界ですよね。ただギャラリーで、ああいいな、なんていう世界より、もっと楽しい世界だと思うんですよね。
細谷:あくまでも複製物というか、雑誌メディアで伝わっていくのが。
平田:雑誌メディアっていいですよ。すごい部数を発行して、庶民の前で展開するでしょ。こっちはお金かけないで、編集長だまくらかしてできるんだからさ。いまできないけど、友人がみんな死んじゃったから。
細谷:雑誌自体も変わりつつありますよね。
平田:あの時代は友人たちも協力してくれました。きっと経営者に怒られてると思うんだ、後でね。『週刊ポスト』なんかはそうですよ、企業の線とはまったく反対のことをやっちゃったからね。きっと編集長は後で、やられてると思うんだよな。
池上:今日はだいぶ長くなってしまったので、また次回、来させていただきたいと思います。ほんとにありがとうございました。
平田:私が元気なうちはやりますからね。やりたいことたくさんあるんですよ。今度はそういう話もしましょう。
細谷:この聞き取り自体もある種の整理というのがあるかなと思いますので。
池上:今日はたくさん個人的な発見もあって、勉強になりました。ありがとうございました。
平田:まあこんな状況でね、死ぬまでは生きますから(笑)。