足立:では2016年の6月21日、高濱和秀さんのご夫人、高濱那江子さんにインタヴューをさせていただきます。お生まれ、那江子さんのご実家というのは、先祖代々、渋谷なんですか。
高濱:いえ父の方はね、山形なんです。山形のあれですけれども、母の方は鹿児島なんです。ですから私の父が勉学のため東京に出てきまして、それで、そのまま東京ってことなんです。はっきりしたことはわからないんですけど、私が聞いたのでは、母の祖父の祖父までは島津家のね。
辻:ゆかりがある。
高濱:島津は(家紋が)十字ですからね。それの一つを取って、一というのをもらったというのを聞いているんですけど。
辻:そうですか。渋谷の昔の風景っていうのは、私は知らないんですけど、差し支えなければ、お生まれになった年はいつ頃になるんですか、那江子さんは。
高濱:昭和8年です。1933年です。その頃は家の二階から富士山がきれいに見えていました。
辻:戦争がすごく(はげしさを増していた)……。
高濱:戦争は集団疎開。
辻:ああ、そうですか。何歳の頃に。
高濱:9歳から10歳。小学校5年、6年と。
辻:というと、1942年とか3年ぐらい。
高濱:そうですね。
辻:疎開はどちらに。
高濱:はじめ集団疎開じゃなくて、縁故疎開で山形に参りました。それで、6年になりましてね、やっぱり学校はもとの学校がいいというので、集団疎開に変わりましたの。
辻:そうですか。
高濱:それが、浅間でいて。浅間温泉が危ないというので、今度は伊那の方へ、長野の伊那の方へ移りました。
辻:それでは、お父様、お母様、あるいはご兄弟の方は。
高濱:1年半、会いませんでした。
辻:そうですか。寂しかったんじゃないですか。
高濱:ええ。今の人たちで考えれば、考えられないことですよね。
辻:そうすると、終戦の1945年の8月は、伊那にいらっしゃった。
高濱:伊那におりました。東京の家は焼けでしまいました。学校はね、公民館向かいに伊那の学校があり一部を借りて授業をしたり、公民館で勉強をしたりいたしました。私、第一師範の附属でしたけれども、学年によって分宿先が、場所がありませんでしょ。それで、なんていうんでしょうね。私は弟がおりましたけれども、弟ともやっぱりずっと会えませんでしたけどね、ちょっと遠くで。6年生は全部一緒で、公民会館で暮らしました。
辻:公民館とか。
高濱:はい。そういうところに、雑魚寝で。ようするに、お手洗いは外ですしね。それから、顔を洗うのは、今で考えたら震え上がりますけど、前に川があるんですね。そこで、川に一列になって顔を洗い、口を洗ったんですよ。よく、まあ、ああいうことが。いくら水がきれいでもね、上の方の人が、口をゆすいでいるわけですよね。よく体を壊さないで、みんな(生きていました)。私は慢性下痢でね、栄養失調だったんでしょうね。私の小学校の先生が、30年後に、「私の最後の務めだ」とおしゃって、(大切に保管されていらした)。そのときにみんなが書きました綴方(注:生活綴方運動による作文のこと)を全部見て、抜き取って、ガリ版で刷って。このぐらいのを刷ってね、全部とじて、それを送ってくださったんですよ。でね、たった一人でしょうね。私たちだけだったと思うんです、そういうことをしてくださったのは。それを私、見まして、子どもに、イタリアと日本とは違うから、こういう生活をしたんだっていうことを、イタリアの友達に見せてあげたらいいって言ったんですね。
辻:それは素晴らしいですね。
高濱:そして読みましたらね、やっぱりあの頃の子どもっていうのは、お国のためっていう事がありますでしょう。ですからいい子、いい子でいようということが書いてあるわけですよね。苦しかったことは、私たちは見て、読んで、「ああだった、こうだった」って思い出すことはできるんですけど、苦しかったっていうことは書いてないんですよね、やっぱり。大変だったってことは書いてありますけれども。やった自身はね、それを見て、綴方じゃあやっぱり、本当のことですけれども、それ以上のことは書いてないんですよね。それでもやっぱり、今見てね、いいことだなと思って、私の孫ですけれど、その話を聞いてるんですね。で、自分の論文にしたいって言って。高等学校の卒業の時に、それを基にして論文を書いてね。やっぱり先生なんかも、なんていうんでしょうか。非常によかったといって、「これを教材で使ってもいいか」っていうことをおっしゃった。
辻:お孫さんはイタリアの学校に提出されたんですか。
高濱:そうなんです。よろしかったら、私、お送りします、それで紛失しないようにと全部入れたんです、コンピューターに。やはり貴重な資料だと思います。
辻:イタリアの学校というか、同じ戦争に負けた国で、戦争中は同盟の関係があって、どういうふうにそれが受け止められたのかというのは、また面白い話です。
高濱:子どもたちにそれが分かったかどうかは、わかりません。でも、先生は、やっぱりお年だったんでしょうね。ですから、非常によかったっておっしゃって。
足立:(そのお話は)また後でもお聞きするとして、那江子さんが建築の道に進まれる中学生、高校生あたりのことを。
高濱:そうですね。
辻:疎開から戻ってこられたのは、何年ぐらいなんですか。
高濱:中学に入る前です。ですから、小学校の最後です。帰ってきて卒業したわけです、小学校を。それから中学に入りました。終戦が(1945年)8月でしょう。ですから、その次の年に卒業しました。
足立:建築とか、あるいは文化への関心っていうのは、いつ頃からあったんですか。
高濱:その頃からはもう、全然そういうことは考えてませんでしたね。
足立:中学校や高校の時に目覚めたというわけではないんですか。
高濱:ええ、別に。
辻:ただ教育の制度が、大きく変わる時期ですよね。
高濱:そうでした。
辻:1947年に法律ができるので(注:学制の改革)。
高濱:そうです。ですから、私が、出た年に中学というのができて、それで高等学校になって、大学になった。女子大は正式に大学になったわけですから。
辻:高校は、どちらだったんですか。
高濱:中学、高等学校、女子大です。中学校も女子大の附属中学、付属高校、日本女子大です。
辻:そうですか。そのとき、キャンパスってどちらの。
高濱:目白です。目白の、今の泉山館ですか。それのうしろにね、木造の建物で。泉山館はまだなかったですから。
辻:では、渋谷から通われて。
高濱:はい。渋谷で、目白から学校のバスが出てましたのでね。
辻:高校は、3年間(ですね)。
高濱:中学3年間、高等学校3年間で、高等学校は西生田です。
辻:では、そのときは、いまは建築に関することのきっかけがあんまり「何だったかな」というかんじだと思うんですけど。
高濱:ええ。あそこは、何もないところでしたからね、焼けて。
足立:大学で専攻を決める時の、何かきっかけってあったんですか。
高濱:やっぱりデザインが好きだったんでしょうね。そのときに、藝大(東京芸術大学)の方に行こうか、女子大(日本女子大学)に行こうか迷ってて、藝大には、奥村まことさん(注:建築家)がいらしたでしょう。その方とお話ししたらね、「女の子じゃ」って。ものすごく歳上の方ですよ、もう。
辻:でも世代としては、そんなに離れてないですよね。奥村まことさんと那江子さんって。
高濱:主人(高濱和秀)よりちょっと上ぐらいでしょう、たぶん。
辻:そのときに、お知り合いだったんですか。
高濱:それはね、私のいとこが知っておりまして、お話ししたら「やっぱり女の子じゃね」とおっしゃられてね。奥様は、浜口ミホさんでしょ。じゃなかったかしら。
辻:いや、浜口隆一さんの奥様ですね。
高濱:ああ、そうですね。ちょっといま、ごっちゃになってるけれど。
辻:奥村まことさんは、この間、お亡くなりになったんですが、お二方ともに、藝大にゆかりがある建築家なんです。では大学で専門を選ぶというときに、ひとつの指針になったってことですか、那江子さんにとっては。奥村まことさんと話したことというのは、ひとつのきっかけにはなった。
高濱:そうですね、やっぱり。そちらのデザインの方でしたいなと思っていたもんですから、別に建築家になるとかね、何かはなくて。
足立:きっかけってあったんですか。しつこいようですけど、デザインに関心を持つきっかけって、その当時、どんなことがあったんでしょうか。
辻:おぼえている授業はありますか、高校生の時とか。
足立:あるいは当時、好きだった絵とか、デザインとか。
高濱:ないですね。そういう環境では、まだなかったですよね。
足立:たとえば上野の博物館や美術館に行くとか、そういったことは。
高濱:後ですね、行くようになったのは。
辻:渋谷から目白台までは、どのように通っていたんですか。
高濱:山手線で目白まで出て、目白からスクール・バスが出るか、あるいは歩くか。歩くと2、30分ありますよね、あそこは。
辻:多少、強引な話ですけれど、そのときって、いわゆる明治神宮のところに、大きな進駐軍の家族用の住宅ができている頃ではないですかね。
高濱:明治神宮。
辻:ワシントン・ハイツって。
高濱:あったと思いますね。でも、そっちの方には行かなかったから。
辻:電車から見えているわけではない?
高濱:見えてなかったと思いますよ。でも目白の駅から学校に行くまでの間っていうのは、焼け野原でしたから、まだ。ぽつっ、ぽつっとバラックがあるぐらいで。
辻:はい。あるいは駅前に学習院が。
高濱:学習院は残っておりましたけどね。
足立:日本女子大学に入学されたのが1951年、2年。有名な展覧会をごらんになったかどうかとか。
高濱:まだそういうのが出てきてない頃でした。
足立:当時、来日したイサム・ノグチのニュースにふれたとか。
高濱:まだね、美術館なぞというのが開いてない頃でしょう。ですから、せいぜいで、上野でしたら博物館。
辻:あるいは、デパートでよく展覧会、やっていたぐらいですか。
高濱:それも、ずいぶん後ですよ。ですから、私が知ってるのは(シャルロット・)ペリアンの展覧会が一番、最初じゃないでしょうか。
辻:1955年ですね(注:「芸術の綜合への提案 ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展」日本橋高島屋、1955年4月1日~10日)。
高濱:ええ。
辻:もう大学に行っている頃ですよね。
高濱:そうですね。それは見に行きました(笑)。
辻:先生からも「見に行きなさい」とか言われますもんね(笑)。
高濱:ええ。
足立:ペリアン(の展覧会)は、どうでした? 見た時の衝撃というか。
高濱:やっぱりきれいでしたよね。あの頃は、それからスカンジナビアの家具が入ってきた(日本の国内で見られるようになった)頃ですよね。ですからそういうものは、やっぱり見に行きましたね。
辻:レジェも一緒ですよね。ペリアンとレジェと。
高濱:高島屋だったと思います。コルビュジェと一緒です。それは、たしか(東京工業大学の)清家先生、清家研(清家清の研究室)でやったんですよね、展覧会の会場(注:「芸術の綜合への提案 ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展」の会場はシャルロット・ペリアンが設計した)。そのへんは、もう私もおぼえてない。私は不勉強ですからね、あまり出てこないかもしれません(笑)。
足立:われわれは本でしか知らないけど実際、見た方のお話って、すごい貴重なんです。
辻:日本女子大学でおぼえている先生とか授業とかって、ありましたか。
高濱:あの頃はね、柴谷邦さん。柴谷先生でしょ。それから、私は卒論(卒業論文)は木村幸一郎先生について、プラスチックの建材のことをしたんです。
辻:材料に関する。卒業のための制作ってありましたか。
高濱:制作はなかったですね。なかったと思うんで、卒論だけだった。
辻:へえ。そのあと、東京工業大学の研究生(になった)。
高濱:清家研(清家清の研究室)に研究生として入ったんです。
辻:その頃、どういう人たちが、研究室にはいらっしゃいましたか。
高濱:もう山田雅子さん(建築家)は、おいでになりませんでしたけどね。林昌二さん(建築家)と一緒に。そのときには、先輩の平原なをさん。
辻:はい、お名前だけ(知っています)。
高濱:私の2年上ですか。それとあとは宮坂(修吉)さん。篠原(一男)さん。みんなご一緒でした。
辻:和秀さんとお会いされたのも、研究室ですか。
高濱:研究室です。
辻:清家研究室に入ったのは、1956年だから、さっきのコルビュジェの展覧会のあとですよね。
高濱:ええ。
辻:当時、清家清の研究室は、研究生で女性の方が、林雅子さんもそうですけど、入ることが多かったんですけど、どういった経緯で(東京工業大学の)清家研に行ったんですか。
高濱:それはね、私の姉の友達が建築家で、清家先生の後輩に当たられた方なんですけれども。一緒に仕事をしていた方で(高村英也、後に武蔵野美術大学教授)、その方が「行かないか」っていうことで、そのままするするっと入っちゃったんですけど。
辻:清家先生とご相談して。
高濱:「いいよ」っていうことで(笑)。
足立:(研究生に)お給料は出ないんですか。
高濱:出ないです。下働きです。無給のお手伝いですね。
足立:それは当時、一般的だったんですか。
高濱:研究生として入ると、そういうことですね。
足立:研究生という制度は、一般的だったんですか。
高濱:だと思います。ですから、そのとき研究生として入っていたのが、4人ぐらいおりましたね。一人は藝大の方で、後藤さんっておっしゃる男の方で。それから、平原さんも、まだ職員にはなってらっしゃらなかった。それと助手だったのが主人(高濱和秀)と、それから、篠原さんと宮坂さん。あとは卒論の、清家先生について卒論をしてらっしゃる方たちが出たり入ったり。
辻:そのとき、那江子さんは学士(課程)での再入学だとか、あるいは、当時だとちょっと難しいと思うんですけど、大学院とか。
高濱:なかったです、まだ。やっとできた頃じゃないでしょうか。あの頃に、私たちのなか大学院に行ったっていう人は、いないんじゃないでしょうか。まず第一、大学に行ってる人数が少なかったですしね。
辻:そうですね。和秀さんは清家清さんの研究室ではなくて、藤岡通夫さんですよね(注:高濱和秀は当時、藤岡道夫の助手を務めていた。清家清「高濱和秀の若き日」『SD』206号、1981年11月、26頁)。
高濱:そうです。
辻:(高濱和秀さんは)建築史が専門だった。
高濱:卒論はそうですね。それでね、なんで清家研の方のお手伝いをしたかっていうと、なんなんでしょうね。なにかに書いてあったと思うんですけど、私もそのへんの事は……。主人は無口でしたから。
辻:(1957年に開催された)ミラノ・トリエンナーレだと書いてある。
足立:トリエンナーレの準備のために、清家研に出向すると書いてありますね。
高濱:ええ。それで、そのままずっと。デザインってことは、ほとんどしてなかったみたいです。
辻:和秀さんとはじめてお会いされた時のことって、おぼえてますか。大岡山で。
高濱:大岡山でね、私が一番、最初に行った時に、研究生とか、みんな見ているわけですよ。女の子が来たっていうんで。
辻:ああ、珍しいですもんね。
高濱:ええ(笑)。それで一番、最初に言った言葉がね、私がたくさんボタンのついている洋服を着てったんですよ。そしたら「ずいぶんたくさんボタンがついてるね」って(笑)。
辻:「なんだ、この人は」と。
高濱:言われたのはおぼえています。
足立:それは、何年ぐらいですか。
高濱:入った時ですから。
足立:1956年。
高濱:ええ。
辻:当時、前後してというか、清家清はアメリカにいますよね。ハーバード大学、TAC(The Architects Collaborative)って(ヴァルター・)グロピウスの(設立した事務所に)。
高濱:グロピウスに呼ばれて、いらっしゃいましたね。そして帰られた時に、私が入ったんです。
辻:そうですか。
高濱:ええ。ですから、ちょうど帰られたその年ですね。
辻:そうですよね。浜口隆一がグロピウスを清家清のところまで連れていって、グロピウスが「君、来ませんか」っていうことでアメリカに(行く)。(清家清が)帰ってきたのが1956年前後。では、研究室で、清家清さんともコミュニケーションはできたんですね。
高濱:はい、そうです。
辻:当時、谷口吉郎さんが教授で、清家清さんが助教授だったと思うんですけど、谷口吉郎さんとは会いましたか。
高濱:お目にかかったことありますけど、ほとんど接点がなかったですね、清家先生とは。研究室どうしの(交流)っていうのは、なかったみたいですね、あんまり。ほとんど谷口先生、おいでにならなかったと思いますよ、研究室にはね。
辻:清家清さんの研究室では、どういうお仕事をされたんですか、那江子さんは。
高濱:私はね、トレーサーですよ、ようするに。
辻:ドラフト(製図)。
高濱:そう。ドラフターですよね。
辻:どういう建築物のドラフトをしたか、おぼえていますか。
高濱:あのときは、なにしてましたかしらね。
辻:住宅?
高濱:住宅だったと思います。ですから、ちょっとしたあれをトレーサーするということで、まだ私も入ったばっかりですしね。
辻:お給料は出ない。
高濱:出ない。おしゃべりに行ってるみたいな、おあそびですよね、研究生といっても。
足立:楽しかったですか。
高濱:悪いことばっかり教わりましたね。私は女の子だから、これで済んでましたでしょ。口の悪いこと、びっくりするようなことを(笑)。それで、藤岡研と清家研っていうのはくっついてて、よく行き来をしてたんですよね(注:清家清、高濱和秀「住空間における動作の実験 すれ違いについて」『日本建築学会論文報告集』57号、1957年7月、69–72頁)。ですから、平井(聖)さんなんかもお友達でしたしね。
辻:有名な建築史の先生です。
高濱:ですから、みんなが終わるとね、みんなで集まって、こちらではなんて言ったかしら。福引きみたいなことをして、おまんじゅうとかなにかやって、みんなで騒いで(笑)。
辻:そうですか。いまでも平井聖先生とは、交流はありますか。
高濱:いま、ありませんね。前に帰りました時にね、みなさん集まってくださって、そのときはご一緒しましたけど。
辻:ではおおきく、ミラノというか、イタリアに行くきっかけになったミラノのトリエンナーレのお話を伺いたいと思うんですけど、それは和秀さんが(会場を設計する)現場の担当者として。
高濱:それで行きました。
辻:清家清は、デザインコミッティーのメンバーですよね、当時は。
高濱:そうです。
辻:那江子さんは、どういうかかわりをしたんですか、トリエンナーレについて。
高濱:かかわりありません。
辻:では和秀さんが現地に、イタリアまで行って、那江子さんはイタリアにはついていかなかった。
高濱:ついていきません。
足立:そのすこし後になりますけど、翌年に《NAEKO》というソファをつくられますね。
高濱:ええ。行く時にね、プロポーズをしていったんです(笑)。
辻:そうですか。場所はどこですか。飛行場じゃないですよね、船ですか。
高濱:いえ、そうじゃなくてね、むこうに行くということが決まって、私はそのときに一緒に仕事を、大学の先生でコジマ先生っておっしゃる、先生だったんですけどね。
辻:ご専門は、どういう。
高濱:化学だったと思います。その先生のご自宅をね、設計。で、一緒に設計の仕事をしてて、そして知り合って、行くことが決まったら、連れ出されて、口説かれたわけ(笑)。
辻:そうですか。では、イタリアに行く前に、プロポーズをした。
高濱:ええ。だから、清家先生がおっしゃるにはね、唾をつけてったっていう(笑)。
辻:ああ、まあまあ、そうでしょうね(笑)。
足立:和秀さんが最初にイタリアに行ったのは、何か月ぐらいだったんですか。
高濱:ようするにあの頃っていうのは、(海外へ)出るのがたいへん、難しかったわけですよね。出たからには、みんな見てきたいという、(また)行かれるかどうかわからないということで、1年の切符ですよね。あの頃は、1年はオープンだったわけですよね。で、1年間ということで出かけて。あとは、トリエンナーレが終わったあとはミラノで、どこに行ったか知りませんけど、建築家のところでドラフトマンぐらい。ようするに居る(滞在するための)費用を、生活費のためにね、ドラフトマンなんかをして。そして、その間に(ディーノ・)ガヴィーナ(Dino Gavina)が「来ないか」って。自分ではあんまり、ガヴィーナっていうのは変わってると思ってたらしいんですけど、そのトリエンナーレの期間に、毎日、やってきたんだそうです。パビリオンにね。そして、終わったらそれを買うって言ってずいぶん購入して、オガサワラソウフウの……
辻:勅使河原蒼風。
高濱:ええ。日本でなんて言うんでしょう。電気のこういうの。瀬戸で作った、碍子(がいし)っていうんですか。それを買って、それからずいぶん買い物をした。「変わったやつだ」って思ってたそうです。そうしたらね「俺はこれをしてるから、ボローニャに来ないか」というんで、お金もなくなったし「じゃあ、行ってみるか」ということで行ったら、「何かデザインしろ」って言われて、スケッチかなんかしたら気に入って。その間に出来るだけヨーロッパを見て帰ろうと、汽車でホテル代を節約し、一本でも多くフィルムを買おうと夜汽車を利用したそうです。今とは随分違いますね。
辻:資料では、その間にソファの作品で《NAEKO》という、お名前をそのまま作品に、1958年というクレジットがある。
高濱:それがね、間違ってるの。1957年か、58年かっていうことなんですけれども。
辻:ミラノのトリエンナーレのお仕事のあとの、1年の間ってことですよね。
高濱:ですから1957年だと思います、これは。
辻:これは、だから、ガヴィーナの下で(設計を担当したということ)になるんですか。
高濱:そうです。ガヴィーナのところへ行ってスケッチをしましたら、むこうのやり方は日本と違って、すぐに職人さんが来て、つくるらしいんですね。それによって「こうだ、ああだ」といって図面を書き起こすっていうことなんです。
辻:それが『domus』(ドムス)に掲載された。
高濱:はい。非常に評判になったらしいですね。これは、とにかくこの背と、この座と、これとこれとみんなばらばらになるわけです。ですから、だいたいにおいて、この座の二倍ぐらいの厚さの四角い箱で送れるわけなんです。それと、これが裏返しになって、これがベッドになるという。そういうことがイタリアではなかったわけですよね。それで非常に評判になって。
足立:このデザインに奥様の名前をつけたっていうことは、手紙とかで聞いていたんですか。
高濱:聞いていません。知らなかったんです、私は。それが出たっていうので、清家先生がなんておっしゃったかっていうと、尻に敷く。
辻:ごめんなさい、尻に敷く?
高濱:尻に敷く。「高濱はね、奥さんを尻に敷く」って(笑)。
辻:そういう冗談を(笑)。『domus』に掲載されたのは、和秀さんがイタリアにいらっしゃる時だったんですか。
足立:日本に帰ってきてから。
高濱:はい。ですから、主人は、出はじめは知りません、たぶん。帰ってきてから、新聞の写真か何かを送ってきましたけれど。
辻:和秀さんが現場を担当したミラノ・トリエンナーレの会場の設計の前に、ミラノ・トリエンナーレが1957年の7月、その前に、同じ1957年の2月に、国立近代美術館で「20世紀のデザイン」展っていう展覧会があって。
高濱:はい、ありました。
辻:そこで会場の設計を、清家清がやっているんですね。それは、おぼえていますか。
高濱:展覧会は、見に行きました。でも、それにはかかわっておりません、私は。
辻:どういった展覧会だったか、おぼえていますか。
高濱:やっぱりね、非常に多かったのは、スカンジナビアの家具が多かったと思うんです。
辻:その展覧会は、アーサー・ドレクスラー(Arther Drexler)というニューヨークのキュレーターが企画した展覧会で、MoMAのコレクションを借りて開催した展覧会ですけれど、その中に北欧のデザインのものもあったのかもしれないですね。
高濱:ええ。私はそれはあんまりおぼえていませんね。ですから、あまり熱心じゃなかったっていう。
辻:お写真を出してみましょうか。ちょっと待ってください。
高濱:それでね、イタリアに行って、すぐにミシンを買ったんです。「20世紀のデザイン」に出ていた(展示されていた)んですよね。「どうしても買う」と言って買ったのは、おぼえてます(笑)。
辻:そうですか。いや、すごく大事です。
高濱:ですから、その頃はやっぱり、家具っていうものに、あまり関心がなかったのかもしれませんね。
辻:(画像を確認しながら)これがちょっと小さくて、いま大きくしますけど「20世紀のデザイン」展の写真なんです。先ほどの《NAEKO》と同じぐらいの高さで、一般的な展覧会と比べると(展示の台が)かなり低い位置なんです。そこにケトルだったり、あるいはフラスコだったり、用途だとか機能がそのままかたちに直結するようなものを見せたり。椅子をこういうふうに、外から連続的に置いて見せる展覧会をやっていて、この会場の設計を清家清がやってたんです。
高濱:そうなんですか。
辻:そのままその展覧会が、MoMAに巡回していくんです。
足立:ひょっとすると、スカンジナビア、ニューヨーク、高濱さんを通じてローマへ、ボローニャへという国際的な共時性が(あったのかもしれませんね)。
高濱:おぼえているのは、ミシンと、ちょうどこのぐらいのコップでしたけれど、ブルーのものすごくきれいなものがあったのは覚えてるんです。つまらないことだけしか覚えてないですけど(笑)。
辻:実際に手に取って、使いたいと思って、後で購入されたんですね。
高濱:それは買いました、2つとも。
足立:それは、ご主人が「欲しい」と。それとも那江子さんが。
高濱:いいえ、私が(笑)。ですから主人は、その頃はまだ家具なんてことは全然考えてなかったんでしょうね。「やれ、やれ」って言われてスケッチしたら、すぐその場でされた(事が進んでいった)っていうのが、はじまりなんです。
辻:1年間のご滞在のあとに、たぶん……。
高濱:すこし延ばしてね、1年3か月、いたと思うんです。
辻:そうですか。じゃあ、1958年とか59年頃に。
高濱:58年のね、夏の終わりに帰ってきたんでしょうか。もっと後でしたかしら。そのくらいに熊本に帰ってきて。
辻:そのあとすぐでしょうか。
高濱:すぐです。というのは、行く前にね、パスポートを取るのに、大学の助教授かなんかの方がいいだろうということで(笑)。助手よりね、助教授の方がいいだろうと。それは入っちゃうわね(笑)。そして、熊本から呼ばれて、熊本の非常勤の講師かな。助教授ではなかったと思うんですけど、でもその前は熊大(熊本大学)には行っておりません。帰ってきてすぐに、熊大へ。
足立:帰ってきてから、ご結婚されたのは熊本で。
高濱:ええ。もう熊本に勤めておりました。結婚式は東京でやりましたけれど。
辻:那江子さんも、東京から熊本へ移られる。それはいつぐらいですか、お引っ越しというのは。
高濱:59年です。
辻:では、58年の夏に帰ってこられて。
高濱:59年の1月に結婚しましてね、そして新婚旅行をして、そのまま熊本へ参りました。
辻:そうですか。それまで、疎開とかはありましたけど、ずっと東京だったわけじゃないですか。
高濱:そうですね。
辻:ご結婚されたとはいえ、熊本での生活って、ちょっと……。
高濱:大変でしたね。本当に外国へ行ったよう(でした)。まず言葉がわかりませんしね。それから、男女の差っていうのが非常にひどいところで、洗濯物は、女物は下に、男物は上に、たらいは違えなきゃいけないとかね。もう洗濯機がある頃ですから、うちはそんなことありませんでしたけど。並んで歩いちゃいけないとか。それから、行きましたらもうね、どこを出て、どういうことをしてきた奥さんかというのが、ちゃんとみんなに知られているんです。それには、びっくりしましたね。そしてお魚を買いに行きまして、東京だと、みんな作ってくれますでしょう。塩焼きにするようにとかね。そのつもりで行って、鰯のとってもきれいなのがあったんです。東京ではないんですよね、一匹漬けにするようなものは。熊本にあったんで、私もあまりものを知らない人間でしたから、作ってくれって言ったんですよね。そうしたら、(魚屋さんが)「大学出の奥さんだったら、すぐできますよ」って言われてね、それから一年、そこの店へ行かなかったの(笑)。 悪気で言ったわけじゃないんですよね。でも、やっぱりかちんと来てね。そして「あら、奥さんと二人で並んで歩いてる」とか言われましたね(笑)。
足立:その頃、ガヴィーナから「来い、来い」と催促が、招聘というんですかね。
高濱:しばらくしてからですね。(和秀はカヴィーナのところに)荷物を全部置いてきちゃったんです。ガヴィーナにね、「これを全部まとめて送ってくれ」って言って、帰ってきたんです。(日本に)荷物が着いて、開けたら、物がなくなってたり、洗濯物はそのまま入っていたし(笑)。 それからしばらくしてから、交流ですか。(カヴィーナから)よく手紙が来ましてね。主人は、すこしずつ椅子のデザインなんかをして、それの模型をつくりまして送ったりしてたんですけれど、そのうちに「どうしても来い、来い」と何度も言われまして、決心がつかないままにいて、あまりにも言われるので、「それじゃあ、行こうか」ということになったわけです。
辻:熊本の時代に、私が探した和秀さんの論文で1960年の2月に、熊本大学の講師をやっておられる時に、(レオン・バッティスタ)アルベルティ(Leon Battista Alberti)って建築家がいますよね。
高濱:ええ。
辻:アルベルティの理論について研究をされていたみたいで(注:高濱和秀「アルベルティの建築理念についての考察」『日本建築学会論文報告集』66号、1960年10月、657–660頁)。あるいは熊本の時代がもうすこし長くあったようで、1962年か、熊本市内の調査を、和秀さんはやっていたみたいなんですね(注:高濱和秀「商店併用住居の実態調査 熊本市下通の場合」『日本建築学会九州支部研究報告』11号、1962年2月、99–106頁)。
高濱:私はそれは知りません。何をしてたのか(笑)。設計なんかはね、ときどき手伝うというより、やってましたけども、なにを研究してるかは知りませんでした。それは言いませんでしたから。
辻:アルベルティの研究、建築の歴史や理論に関する研究を進める一方で、もともと和秀さんは建築史を学ばれたんですけど、清家清先生と交流があったこともあって、清家清が当時、テーマにしていたような研究も。
高濱:一緒の(共同の)研究があったようなことを、私も後で聞きましたけれども、そのへんのことはぜんぜん、私はわからないんです。知らないんです。
辻:熊本ではどういうことをやっていたのかなと。和秀さんご自身がまとめられた資料では、ミラノ・トリエンナーレでの交流があって、ガヴィーナに呼ばれて、すぐにイタリアに戻ったというお話があったんですけど、熊本にいらっしゃったのは何年?
高濱:3年です。最後の頃には、熊大の(キャンパスの建築物の)改修を一緒にやって、模型は作っておりました。
辻:そうですか。その頃にはガヴィーナからよくお手紙が来ていて、きっかけはどういうことだったんですか。
高濱:行くという決心をしたということですか。っていうのはね、やっぱり熊本にはいたくなかったんですよね。
辻:和秀さんが。
高濱:ええ。っていうのは、自分の仕事ができないというんですか。学校の雑用に追われることが多いわけですよね。建築(設計)の仕事は、熊本におりました時には、整形外科病院とその住宅を設計しましたし、天草の病院の何かをしておりましたけれど、まだ建築家にものを頼む(依頼をする)というような時期ではなかったわけです。特に熊本あたりでは、そういうことはないわけですよね。ですからやっぱり、なんか鬱々してたんだろうと思うんです。
足立:和秀さんも、もともとのお生まれが九州の宮崎県。
高濱:はい。それで「熊本へ行ったら」っていうことになったんです(笑)。
足立:延岡市で、1930年4月1日のお生まれで、歯医者さんのおうちだという。
高濱:そうです。義理の父は歯医者です。私の父も歯科医ですけれど。
足立:手先が器用だったというのが(ありましたか)。
高濱:器用だったでしょうね、きっと。絵を描いてたみたいですけど、それも、ほとんどしてませんでしたけどね、後は。ですから、工大(東京工業大学)に行った時も、建築にすぐに入ったわけじゃないんです。電気(の学科)に入ったらしいですね。それで、嫌だと言って、建築に変わったらしいです。ですから、主人のクラスは若い人、ちょうど戦後の復員された方とかね、篠原(一男)さんもご一緒だったわけです。彼は数学を出てらっしゃるんですね。年齢はまちまちで主人は一番年下だったそうです。
辻:そうですね。
高濱:それから、林昌二さんが一緒でしょう。それから山口泰治さん。ドイツにいらっしゃる。「花の28年」って言われたっていうんですね。森京介さん、みんな同学年なんです。あのときには旧制と新制とが同時にクラスがあったわけですね。主人は旧制で。
辻:熊本の時代は、よく建築物の設計をやっておられて、建築家として(設計の)お仕事がしたかった。
高濱:もちろん。最後まで「俺は建築家」と。ところが、やっぱりイタリアでは、建築家としては認められないわけですよね。建築をしても、誰かのサインを、知ってる人にサインをしてもらうとかでなければ、もちろん名前は出ても、自分のサインはできないんですけれどね。ですから、やったのは、シモンの工場ですね(1976年に竣工)。あれはいま、重要文化財にしたいと言われているんですけど、それもどうなりますか。これね。
辻:ありがとうございます。では熊本からイタリアへ行くって決めて、それをはじめに那江子さんに言われた時って。
高濱:私もね、よくもまあ、いまになってですよ。よくついてったもんだと思いますね。イタリアっていうのを知りませんし、主人は何か月かでしょ、彼を知ったのは。よく行ったと思って。そしてそのときに熊本の先生方が、みなさん「全部籍を置いていけ」と。なにかあった時には帰ってくれば籍があるから「辞めて行くのはやめろ」ってずいぶん言われたんですけど、主人はそういうことは嫌。行くんなら、全部きれいにしていくと。そこにも書いてありますけど、「鉛筆一本持っていけば、食べていければいいよね」って言うもんですから、のこのこついていったわけ(笑)。
足立:子どもを連れて。
高濱:そう。10ヵ月の子どもを連れて。
足立:最初は、永住する気はなかったんですよね。
高濱:ないですね。それも主人がね、決めるのも、行くと言えば私はついていくしかないですから。いまと違って、私なんか、結婚したらもう(笑)。 自分の親に聞かないで、私の父に聞きに。
辻:そうですよね。一回、東京に、また戻ってきて。
高濱:ええ。そうしたら父が、そういう機会があるんなら、行ってもいいんじゃないかと。ただ子どもが大きくなる、小学校に上がるぐらいにはと、それは日本人の考えですよね。そのまま行くことに決めて「何とかなるよ」ということで。とにかく、お金は持って行けませんでしたからね。送ることもできませんしね、日本から。
足立:再びボローニャへ行ったのは、何年になりますか。
高濱:63年です。63年の4月に行きましたね。
辻:那江子さんにとっては、はじめての海外ですよね。
高濱:はじめてです。
足立:当時のルートって、どうやって行くんですか、飛行機で。
高濱:そのときにはね、主人は一番、最初にイタリアに行った時は、35時間かかったそうです。というのは南回り。私が行きました時には、ちょうど南極回りが出た時で、スカンジナビアの。それでコペンハーゲンまで行って、コペンハーゲンからミラノに着いたんです。
辻:いまとほとんど変わらないですね。
高濱:ええ。そのときは、3か月ぐらいたってからスカンジナビアの空港の人がうちまで訪ねてきまして、ボローニャの。そして、こんな賞状みたいな。「何月何日何時に南極を通りました」という証明書かなんか持ってきて。
辻:なるほど。一応、念のために、すこし戻るんですけど。熊本の時代、清家清も深く関わって、和秀さんとかかわりがあることとして、1960年の5月に、東京で世界デザイン会議という大きな会議があるんですけど、和秀さんはぜんぜん関わらなかったんですか。まあ東京と熊本なので。欧米を中心とした、グラフィックだとか、あるいはインダストリアル・デザインにかかわるような人が結構、来ていて。
高濱:かかわっておりませんね。その前に、ですから磯崎新さんとかなんかで、まだ私が研究室に入る前だったと思うんです。ゼミか何かで。タニテツオさんっておっしゃる方、いらっしゃるでしょ。
辻:ちょっと私は存じ上げないですね。
高濱:評論家だったと思うんですけど、よくおぼえてないんですけど、その方たちとゼミナールをしてたことは(ありました)。
辻:それって、1950年代のことですか。
高濱:そうです。それはね、ごらんになるとわかるかなと思うんですけど、高濱和秀というのをインターネットでごらんになって、タニテツオさんっておっしゃる方が書いてらっしゃるんですけど、何のゼミだったかは私もおぼえてないんです。
辻:場所はどこでやっていたんですか。
高濱:東大だったと思うんですよ、たぶん。東大の研究室かどこかじゃないかな。
辻:タニテツオさんがピンとこないんですけど、他はどういう方がいたか、おぼえていますか。あるいは、どういった内容のゼミナール。
高濱:アメリカの何かだったと思う、私。
辻:アメリカに関するような。
高濱:ええ。タニテツオさんというのは、出てきますか。そのときに記憶したと思っても、全部もう忘れてしまうんですけど。たしかね、どこかの美術館の設計をしてらしたと思ったんだけど。
辻:他にメンバーがいれば。
高濱:私は、磯崎新さんだけは覚えていますけれど、あと、どなたがいらしたかは。
辻:わかりました。私は他で聞き取りをしていたんですけど、ワックスマン・ゼミナールですね。
高濱:そう、ワックスマン。そうです(笑)。ワックスマン・ゼミナール。
辻:高濱和秀さんはワックスマン・ゼミナールの、そうか。評論家は誰のことをおっしゃって(いたのかな)、たぶんそれはご記憶の間違いかもしれないんですけど、他のメンバーでも、高濱和秀さんが唯一の、東工大の出席で。
高濱:だったと思います。
辻:他は、早稲田は、たとえば平田晴子さんという方がいるんですけど、いまふりかえると、そうそうたる人たちが出ているんです。
高濱:ええ。それで私はね、何かで見てて、タニテツオさんが「高濱はイタリア行って帰ってこなくなったし」っていうことを談話に入れてらしたのを。
辻:なるほど。というか、私が聞き取りをした内容ですね、それは(注:松本哲夫オーラル・ヒストリー)。いま自分で忘れていたんですけど、私が松本哲夫さんに聞いた時に、そのお話を(していました)。私が忘れていました。松本哲夫さんっていう、同じくインダストリアル・デザインに関わった方がいて。
足立:剣持勇のアシスタントだったんです。
高濱:ああ、そうですか。
辻:そうです、そうです。その方が「高濱は、行ったっきり帰ってこないしさ」と言っているから。私がこれをお聞きした時は、いろんな方がいろいろなことをそのあとやっておられるっておっしゃるなかで聞いたので(高濱和秀が)どこに行ったきり帰ってこないかっていうのが、わからなかったわけです。
高濱:ああ。
足立:つながった。
高濱:(笑)。
辻:つながったというか、忘れていた(笑)。同じ(日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの)インタヴューで聞いた。
高濱:ああ、そうですか。そう、ワックスマンです。
足立:那江子さんも、ワックスマン・ゼミナールにはかかわってたんですか。
高濱:いえ、かかわっておりません。ぜんぜんかかわっておりません。ですから、私は、ほとんど建築の方には関わっておりません。卒業してすぐですし、生意気な年ですよね、女の子で23っていうと。そのときに清家研に入って、私たちの世代はみんなそうですけども、永久就職か、キャリアを求めるか、どっちかだということだったわけですね。ようするに、結婚するのは永久就職と言っていたわけです。
足立:最初からそのつもりだったわけではないですよね。
高濱:ええ。ですから、もしも建築(の仕事)をするんなら、結婚しないで、男の人と同じに認めてくれるんなら、っていうことですよね。ようするに、女の子だからお茶を出すとか、勝手なことを言うわけです、そのときは。そういうことがなくて、男の人と同じにかかわりがあるんなら、やっていくと。そうでなければ「やっぱり女の子だね」とかね。「やっぱり女の子」っていうのは、他に男の人たちよりやることがあるわけですよ。やることっていうんですか、お茶出されて、男の方に出されるよりは女の人から出されたほうがいいとかね、ありますでしょ。だけど、結婚して、奥さん稼業が半分、子どもの育児が半分、仕事が半分、みんなそれぞれ分散されるんならね、仕事にならないっていうわけ。「だから女の子はだめなんだ」って言われるんだったら、同じ才能があっても損だっていうわけ。損と得とであれしたら。それなら、きっぱりやめたほうがいいと。
辻:それは、那江子さんがそう思われたんですか。
高濱:思ったわけ。結婚するなら、私は、それにはやりませんと。
辻:それは、和秀さんにもそうお伝えされたんですか。
高濱:しましたね。絶対に口出しをしないと。聞かれたら返事をするけれど、仕事に対して、見てて、これはああだ、こうだっていうことは絶対、言わないということを約束したわけです。
辻:そういうパートナーシップのありかたというか。
高濱:ええ。ですから、聞かれれば私の意見を言うけれど、そうでなければ、言わないということに私はしていたわけです。高濱だから、ようするにデザインなんかでも、こうだけど、どっちがいいかねという場合には、私の意見を言うと。ですから、私はいつまでも、「こういうものをやりたいんだけども、布(きれ)がないよ。なにか探してきてくれない」って言う時は、私が布を探しに行くとか。
辻:アシスタントとして。
高濱:そうそう。ですから職人ですよね。下の職人としてやってこれたのはよかったなと、やっぱり思いますね。っていうのは、知ってましたから、どんな仕事かということが。どういうことをやりたいなってことがわかるわけですから、その点は、私が関わってきたことはよかったなと思います。切ったり、つないだり、縫い合わせたり。
辻:先ほどちらっと、東工大に行った時に、林昌二さんのパートナーの林雅子さんのお名前が出ましたが、たとえば林雅子さんだとか、あるいは女性の建築家のグループが、当時はあったりしたんですけど、そういう方とお知り合いになることはありましたか。
高濱:関わりありませんでした。
辻:いちおう存在としては、知ってはいる。
高濱:はい、はい。知っておりました。
辻:それは、先ほどの那江子さんのお言葉を借りれば、永久就職である結婚ではなくて、男性と同じように(捉えていらっしゃった)。
高濱:山田さんの場合はね、林雅子さん(として活動していらっしゃった)。
辻:お仕事をされている方のように、那江子さんからは見えたということですよね。
高濱:そうですね。とにかく(日本で)最初の女性の建築家でしたからね、彼女は。お子さんがいらっしゃらなかったし、そのときには、本当に頑張っていらしたんだろうと思いますものね。だから、やっぱり性格的にね、かなりきつくなければ、とても女の人で現場をやっていくというのは、大変だったと思うんですよ。
辻:そういうものにうち勝っていかないといけないわけですからね。
高濱:そうそう。
足立:当時の女性の建築家の理想というのは、誰だったんですか。男と対等にやっていたのは。
高濱:いらっしゃらなかったでしょう。林さんぐらいしか私、知らないから。
足立:浜口ミホさんなんかは。
高濱:浜口ミホさんは、それほどじゃないんじゃない?
辻:なかなかおこたえが難しいんですけれども、たとえば『日本住宅の封建性』と言う書籍を出しておられて(浜口ミホは)ひろい意味での建築家としてのご活動というのは、たぶんされておられたと思うんです。
高濱:かなりされてらっしゃいましたよね。でも(浜口ミホに対する)憧れっていうのはなかったみたい、私には。
足立:いま、このお話をなんで伺っているかというと、今日の女性の建築家と、高濱さんの頃の女性の建築家と、すごいひらきがあって。
高濱:いまはね、男の人と同じに勉強ができるわけでしょう。私たちの時には、やっぱりそうではなかったんですよね。特に日本女子大学では、教育というより、女の人の、なんていうんでしょうね。難しいでしょう(笑)。
(休憩)
足立:では、イタリアの時代(在住をはじめたころ)の話を聞かせてください。
高濱:はい。
足立:1963年に、ボローニャに居を構えたわけですか。
高濱:そうなんです。
足立:すごくいい場所に居を構えたという。
高濱:そうですね。たぶんミラノとかローマに行っていたら、(日本に)帰ったんじゃないかなとも思いますね。
足立:どの通りでしたか、最初のおうちは。
高濱:最初はサント・ステファノ(通り)。そのときには、着きましたらね、誰かが迎えに来てるだろうと、ミラノにね。そうしたら誰もいないんですよ。お話ししましたでしょう。着きましたら誰もいないんですよ。飛行機がすこし遅れたんですね。しばらく待ったけど、どうにもならなくて、もう夕方でしたから、主人がインフォメーション(案内所)に行って、どこか宿を探してきたんですよね。それで宿に行ったんですけど、すこし待っていても何にもないので「これは困った」というわけですよね。
足立:小さい子(の面倒)をみながら。
高濱:子どもがいますし、荷物はありますし。そうしましたら、次の日の朝早く、8時頃ですけど、電話がかかってきて、「今、迎えに行くから」と。(アキッレ・)カスティリオーニ(Achille Castiglioni)が迎えに来て下さったんです。ええ。「どうしてわかったんだ」と言ったら、かれらは40人ぐらいで迎えにいらしてたんですって。それで飛行機が遅れたので、みんなバーに行ってしゃべりまくってて、ふっと気がついたらね、飛行機がもう着いちゃった。イタリア人らしいでしょ(笑)。
辻:らしいけど、本当ですかね(笑)。
高濱:それでね、ミラノの適当なホテルをぜんぶに電話したらしいです。そして見つけて、そのまま迎えに来て、そのまままっすぐ、ボローニャに連れていって下さったんですけどね。カルロ・スカルパ(Carlo Scarpa)設計のボローニャのお店でした。ミラノではみんな大騒ぎで、お祝いをしようと、ガヴィーナのお店で用意をしていてくだっさったとの事でした。
辻:出国される時は不安だったんですけど、文字どおり、招聘されたってことですよね。
高濱:そう。それでなければ国でパスポートを出してくれませんでしたから。ですからあのとき誰も来てなくてやっぱり、主人はびっくりしただろうと思うんですよ。
辻:「こんなはずではない」ということですよね(笑)。
高濱:そう(笑)。
足立:でも、その1963年に《PLURI》《DADA》の2つを制作されたってことになってますけど、これはもう、馬車馬のように働いたわけですか。
高濱:そうですね。よく働いてましたね、イタリア人も。土日は、もちろん仕事してましたしね。いまとぜんぜん違いますね。やろうと言ったらすぐに職人が来て、試作をするんです。非常にはやい試作をして、つくりはじめるんですけどね。ですから、日本のやりかたとはぜんぜん違う。日本では全部、図面もひき終わって、そのままをつくるわけですよね。ところがむこうはスケッチをして、大体の寸法をして(確認して)つくって、それから図面をおこすわけです。非常にやりかたが違うんですね。
足立:デザイナーという立場に対する尊敬というか、扱いの良さというのは、あったんですか。日本における立場と。
高濱:ぜんぜん違います。というのは、もちろん尊敬するとか、そういうことはありましたけれど、日本のように威張ることはなかったですね。「俺の言うこと聞け」というような、そういうあれはないみたいですね、イタリアではあんまり。
辻:ガヴィーナはそのときは、一部の資料には書いてあったんですが、和秀さんのいわばパトロンのような立場だった。ちょっと難しいですけど、表現が。
高濱:パトロンというのは、たしかかもしれませんね。というのは、(カルロ・)スカルパでも、それから(マルセル・)ブロイヤーはもともとやっていたんですけど、そういう連中は、みんなガヴィーナがひきだして。
辻:ひきだすというか、ひきぬくというか。
高濱:ええ。
辻:当時は彼もボローニャにいたんですか。
高濱:彼はボローニャの人で、彼の生い立ちっていうのはおもしろいんですけれども、小学校しか出てないのね。そして、むこうは兵役がありますでしょう。兵役に行ったら、その上の人たちがね「こいつは、偉者(えらもの)になるか、あるいは乞食になるか、どっちかだ」と言われたっていうぐらいの人間。いつから芸術のあれ(関心)が出てきたのかは、それはわからないんですけれども、トリエンナーレの時にかかわった人たちですね。カスティリオーニとか(ルーチョ・)フォンタナ(Lucio Fontana)とか、そういう人たちとかかわり合ったのが、爆発的に頭に入ったんじゃないかと。いまでは、あのときのイタリアン・デザインのパトロンだった、彼がひきだしたということで有名になってますけれどね。その他にも、絵画ね。非常に豊かな人でね。
辻:いわゆるファイン・アートにかかわるような人々も、彼のもとには集まったということですか。
高濱:集まりましたね、やっぱり。ですから、うちの主人は、ジム、パレスラ? 日本では何と言うんですか。ジムですか。パレストラ。
足立:体育館ですか。
高濱:そうそう。体育館みたいな、ガヴィーナのパレストラだと。ずいぶんそれで助かったと、いろいろなことを勉強させてもらったと言っていますけれどね、主人は。
足立:パレストラって、体育館ではなくて、なんでしたっけ。屋敷でしたっけ。
高濱:パレストラというのはね、こちらで言えばスポーツのジム。体育所と言うんでしょうか。
足立:はい。お給料は、ガヴィーナ社からは出ていたんですか。
高濱:そうです。はじめのうちはね。しばらくしてから、あの。
足立:1967年までが、ガヴィーナで働いたというか、専属のデザイン。
高濱:ええ。ほとんど専属ですね。ですからガヴィーナのものは88%、90%ぐらいは主人の作品ですからね。
辻:そのとき、ボローニャでの生活で、先ほどフォンタナの名前が出ましたけど、他にお知り合いになった作家はいらっしゃるんですか。
高濱:ですからブロイヤーでしょう。それから、フォンタナ。それから(マルセル・)デュシャン(Marcel Duchamp)、マン・ライ(Man Ray)。
辻:それを作品名にも、されていますよね。
高濱:というのはね、《MARCEL》というのがあります。それは、なにかに似てたのかどうか知りませんけれども、それに捧げるというような。この作品をパリで発表した時に、マルセルとか、みなさん見えたんですよ。そのときに、お目にかかったんですけどね。
足立:その後、マルセル・デュシャンがボローニャに来た時に、高濱さんのおうちに来たんですか。
高濱:デュシャンはみえなかった。フォンタナはみえましたね。それから、マン・ライも見えたし。
足立:イタリアでは「マン・ライ」って言うんですか。
高濱:「マン・レイ」ですか。
足立:日本では「マン・レイ」ですけどね。
高濱:マン・ライは、おもしろいところに住んでらしてね、パリで。なんていうんでしょうか、ドームみたいな、倉庫みたいなところでね、そこで寝起きして、片方ではいっぱいいろんなものが置いてあるようなところで、奥様と住んでらっしゃったんですよ。
辻:その当時は、那江子さんもパリに行って。
高濱:ええ。この発表会の時には、パリに行きました。
辻:移動は鉄道ですよね、そのときは。
高濱:そうです。夜行でね。
辻: 1960年代のボローニャって、先ほどミラノの話が出ていますけどミラノのトリエンナーレがありますよね。あとはベニスにはビエンナーレがありますよね。ボローニャって、ベニスとミラノの途中ではないですけど、すこし南に行ったところ……
高濱:ボローニャはね、非常に便利なところで、ローマまで3時間、フィレンツェまで1時間。それからヴェネチアまで1時間半ぐらい。いまミラノまで1時間半ぐらいで行けますからね。
辻:結節点みたいなところですよね。
高濱:そうなんです。いまはやっとミラノの領事館を使えますけれど、しばらく前までは、ローマまで私たちは行かなきゃいけなかったんです。
辻:そうでしたか。
足立:ガヴィーナの時代のことをもうすこし聞きたいんですけど、ガヴィーナの時代に会った、いわゆるファイン・アートの人たちは、フォンタナとマルセル・デュシャンとマン・レイといった方々で、その頃、日本から来たアーティストたちには、どんな方がいましたか。建築家の方は、その頃はいらっしゃらなかったんですか。
高濱:(人のつながりが)きれてました、日本人。私たちが行った時にはね、ミラノは8人。たったの8人、全部で。いまはもう、どのくらい(笑)。
辻:たくさんいます。
高濱:ほとんど、ですから、日本人と没交渉でしたね。ミラノは、吾妻兼治郎さん。彫刻の。非常に有名な方ですが、彼が同じ時期だったんです。それから、宮島春樹さん。彼がミラノで。ですから、3人はだいたい同時期にいて、ずっとおつきあいをしてたんですけどね。あとはもう、ボローニャは日本人はほとんどいらっしゃらなくて、学生さんでいらっしゃる方はあったんですけど、そうじゃない方は、ほとんど存じ上げないですね。ガヴィーナの所へは、清家研から川原肇子さんが確かではありませんけれど2、3年ほど、(シモン・ガヴィーナ・ジャパンの)津川悠之さんが6年ほど、(建築家の)関修二さんが1年ぐらい、滞在されました。
足立:ガヴィーナの時代の作品についてですけど《MARCEL》がマルセル・デュシャンに捧げるっていうのはわかるんですけど、具体的にどこがどうマルセル・デュシャンなのか。
高濱:いや、私もわからないです。勝手に(名前を)つけたんじゃないかと思うんです、主人じゃなくて。もうね、名前をつけるのが嫌いで「勝手にせい」って言うわけです、うちの主人が。そして勝手につけるわけです。ですから、よくわかりません。
足立:では《SUSANNE》は、誰か近い人にスザンヌさんが。
高濱:それも知らないですね。これは森英恵さんがお好きで、ずいぶん使っていらしたんですよね。明治通りじゃなくて、原宿の表参道のところのビルを建てられたんですけど、あのときに、これをずいぶん使われて。
足立:つながりがあったんですか、森英恵さんと。
高濱:いえ、ありません。それはないですね。
足立:では、森英恵さんが買われたっていうことを、人づてに聞いたという。
高濱:いえ、私がね、ちょうど帰ってきた時に、あそこを通って見つけたんです。
足立:ああ。あとは《RAYMOND》というソファも、じゃあ、別に。
高濱:別に名前とは、誰とも関係…… ほとんど関係ないですね。勝手につけてますね。
足立:ああ。とはいえ、息子さんの名前とかは。
高濱:ええ。ですから、そのときにはね、ぜんぶ自分で名前「何か、何か」っていうと、「それじゃあ、カズキにつけようじゃないか」ってガヴィーナが言うわけです。「じゃあ、KAZUKI、これはこれ」っていって、つけたわけです。《SAORI》はね、見てもわかるように、フォンタナの絵に似てますでしょう。フォンタナに捧げるって言ってますけど、それは後の話で、彼のイメージでつくったわけではない。でき上がったら、そういうことになったという(笑)。そのときに、サオリがちょうど生まれたもんですからね、名前をつけたわけです。
足立:ご子息のお名前は、カズキさんと。
高濱:サオリとカオリ。もうそれで終わりで(笑)。
足立:でも、フォンタナやマルセル・デュシャンと関係はないとおっしゃいましたけど、好きな作家というか、和秀さんが尊敬していた方っていうのは、いらっしゃるんですか。
高濱:ライトね。
辻:フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)。ああ、そうですか。
高濱:好きでしたね。
辻:これまでの話では、どう接点を考えていいのか難しい建築家の名前ですね。アメリカに留学をしていたわけでもないですよね。
高濱:ええ。
辻:東京工業大学で勉強していた時も当然、ライトの名前は知っているとは思うんですけど、一人の建築家として、強くひかれるものがあったんですかね。
高濱:あったんでしょうね。好きでしたね。
足立:なんか意外な。作風もぜんぜん違うし。
高濱:ええ。あんまり物を言わない人間でしたから、ちょこちょこっと、そういうあれで、私が考えるだけで。
足立:ライトの他には、どんな方の名前が挙がっていましたか。
高濱:あんまり言いませんでしたね。でも、やっぱりスペインなんかに行った時には……。
足立:(アントニ・)ガウディ(Antoni Gaudi´)ですか。
高濱:ガウディ。「気違いだけれども、これはやっぱり、彼じゃなきゃできなかっただろう」というようなことを言ってましたけれどね。もうあれは、建築家じゃないですからね。
足立:高濱和秀さんの作品を見ていると、どっちかっていうとインターナショナルなものを目指してるように見えて、あんまり民族的なもの、ライトやガウディにひかれていた高濱さんというのは、ちょっと想像つかなかった。
高濱:想像つかなかったですか。
辻:そうですね。すごく意外なかんじがします。丁寧におっていくとわかるんだと思うんですけどね。でも先ほど《NAEKO》という作品が『domus』に掲載されたっていう。『Casabella Continuita`』(カサベラ・コンティヌイタ)っていう建築の雑誌があるのは、ご存じですか。
高濱:カサベラ、ええ。
辻:あるいは当時の、イタリアといっても各都市で性格が異なることは前提として、1960年代、70年代にかけて、いろいろな芸術運動がありますよね。
高濱:ええ。
辻:たとえば、ほとんど関係がないことを承知のうえで伺うんですけど、いまでも注目されているのが、1960年代の後半からアルテ・ポーヴェラっていう運動が、ジェノバを中心にあったり。あるいはミラノのトリエンナーレも1960年代の後半には学生の運動や、トリエンナーレの評価に対する異議の申し立てがあったりするんですけど、そういったものには、和秀さんはぜんぜんかかわられてない。
高濱:かかわらないです。全然、かかわりはなかったですね。
辻:いままで聞いているお話をふまえると、ご興味がなさそうですよね。あったんですかね。同時代的に、そんなにイタリアの国内でも、みんな知ってるというような状態のものではないですよね。いま、私が言ったようなトピックスは。
高濱:あんまりそういうことには関係してなかったみたいですね。ガヴィーナも関係してないですし、それから……、そうですね。
辻:あるいは、世界的に普及した運動で言えば、たとえばエットレ・ソットサス(Ettore Sottsass)がいますよね。メンフィスという芸術運動は、たとえば日本人の作家でも、先ほどの磯崎新さんとか数人、かかわるようなことがあると思うんです。ソットサスとの接点って、和秀さんはあったんですか。
高濱:好きではありませんでした。
辻:嫌いでした?
高濱:はい。
辻:おもしろいお話ですね。それは、どういった観点で。
高濱:作品より物を言う。
辻:ああ、なるほど。言葉が多い。
高濱:そうそう。作品も、それほどよくないと。それなのに、物を言う(笑)。
辻:まあ、運動ですもんね。
高濱:運動。ええ。それに主人は反対でしたからね。運動なんていうことは、まったく。
辻:一方で、和秀さんも作品をつくるわけですよね。それは、どのように発表をしていたんですか。
高濱:発表しませんでした。誰かがしない限り。
辻:こうやって雑誌の企画になるとか。
高濱:ならない限り。
辻:先ほどの、作品名にもあんまり執着をされないのかもしれないですけども一応、名前をつけていくわけですよね。
高濱:ええ。それは「つけろ」と言われるから、つけていくわけでね。ですから、いいものをつくりたいってことは、もちろんそうなんですけれども、それについて制限があるのは嫌だと。
辻:しばられたくない。
高濱:一人でやってきましたからね。何人かはいらっしゃるんですけども「一緒にやらせてくれ」って。「嫌だ」と言うわけです。というのは、自分で嫌なものは嫌だと。「これはできないな」というのはお断りする。人を雇うと、それができなくなる。
辻:うーん。だからおひとりで。
高濱:ひとりでやっていくということを貫いてきましたから。
辻:当時、1960年代の後半からは、ガヴィーナとの契約の状況も、変わると思うんですが。
高濱:っていうことはね、ひとつは、なんていうんでしょう。収入の関係っていうんですか。ようするに、それだけ(仕事を)やっていれば、ロイヤリティーでくるわけですよね。そうすると、なにかしておかないと、税金とか(の問題)があるわけですね。
辻:そうですよね。生業として。
高濱:うん。それでそれまでは、まだ事務所というものがつくれなかったたわけですが、その後事務所をつくったらどうだと言われて、事務所をつくったわけです。STUDIO TAKAHAMAという。STUDIO(ストゥーディオ)という。そして離れたわけですけれども、ガヴィーナとの義務っていうより義理ですよね。ですから他から言われても、先にガヴィーナにその作品をっていうんですかデザインを見せて、ガヴィーナがしなければよそへやろうというような気質があったわけ。義理だと。
辻:お仕事としての共同の関係っていうのは、その後も続いたということですよね。
高濱:もちろんそうです。最後まで。
足立:SUDIO TAKAHAMAは、1967年ですか。
高濱:はい。そのときに、とにかくイタリアにいるためには、どこかの会社のあれ(仕事)をしてなきゃいけないわけですよね。
辻:そうですよね。ビザとか。
高濱:だから最低の給料でして、それは全部、ロイヤリティーから差し引きということでやってたわけです。ですからガヴィーナと最後まで(仕事を)やっていたのは、うちの主人ですね。
足立:シモン・インターナショナルというのは、いつできたんですか。
高濱:何年でしたかしらね。
足立:それより前からあったんですか。
高濱:いえ。ガヴィーナとしてやってて、それをKnoll(ノル)ですか、Knollに売ったわけですね。それを売ったあとに、自分の名前を使うことができないので、一緒にやってた人(シモンチーニ・マリア)と、シモンというのを作ったわけです。名前はふせてあったわけですけど、ガヴィーナがおもにやっていたわけです。
足立:では、1967年を境に立場が変わった、あるいはガヴィーナとの関係が変わったということも、ないですか。
高濱:なにもないです。ずっとつながっていました。ですから、スカルパもずっと一緒だったわけですけどね。
足立:転換点となったと言われているのが、1973年の《SAORI》という照明のデザインだという文章を読んだんですけど。照明のデザインを手掛けるようになってから、またひとつ違う展開を見せるようになったと。
高濱:そうなんです。それもね、照明器具をやっている方で、ガヴィーナと懇意のノーリスが(シーラ社経営者)ガヴィナに相談を持ちかけ、なにか切れ目があったんでしょうね。どうしたらいいかっていうようなときに、高濱にやらせたらいいだろうといって出たのが《SAORI》なんです。やっぱりそれもヒットしたらしくて、新しい計画でね、布(きれ)を。そのときに、その布を探すのは、私がやらされたんですけどね(笑)。
足立:《SAORI》と《KAZUKI》が、それぞれ子どもの名前。
高濱:ええ、そうです。
足立:《KAORI》も。
高濱:ええ。
足立:照明のデザインを手がけるようになったきっかけは、照明の会社からの依頼だったんですか。
高濱:日本でも照明の器具をやりましてね、何かコンテストに出して入った(入選した)ことはあるんです。それは物になりませんでしたけど、日本では。ですから、幾らか興味はあったんでしょうね。
足立:ご自身から「照明に行こう」ってしたわけじゃなくて。
高濱:じゃない、はい。そうじゃないです。
足立:依頼があって。
高濱:それが出てきてから、ベニスのガラスのほうからも言われて(注文があって)、それでやったのが《Tiki》ですね。吹きガラス。出てませんか(掲載されていませんか)。
足立:ここには出てないかな。
高濱:まだ出てなかったかな。ああ出てないですね、まだ。ずいぶん照明器具はやってるんです。インターネットでは出てますけれど。
辻:1960年代に拠点をボローニャに移されて、日本に帰国されたのって、はじめてだといつになるんですか。
高濱:7年目です。1972年です。
辻:じゃあ、もう大阪万博(日本万国博覧会)は終わっている。
高濱:はい。72年に帰りました。
辻:それまで、ずっと。
高濱:ずっと。それもね、おもしろい話なんですけど、子どもがいますでしょ。それで、あの頃の飛行機代っていうのは大変なもんですよね。ですから、私たちのあれじゃ出ない(費用を捻出できない)でしょ。そしたらね、家具を見るツアーかなんかの方がボローニャにみえて、そのツアーをしてる社長さんっていうのが「いったい何年、帰ってないの」とおっしゃるんで、7年だって言ったら「それはだめ」って言うんですよ。だめっていったって、そうはうまくはいかないですよね。
辻:それは、日本の方ですよね。
高濱:日本人の方。その頃、はじめてだったんですよ、やっぱり。外(海外)に出られるという、そういうツアーっていうのができたのがね。それで、ちょうどいいから乗せてってあげるからね「来ないか」って言われて、無理やりに乗せられて。ちょうどお二方がね、ミラノで降りて自由行動で帰られるから、席が2つ余ったから、それに乗せてあげるって。それで帰った。
足立:お子さんを置いていったんですか。
高濱:いや、連れていきましたよ。私と2人、子どもを連れて、コペンハーゲン回りでそのとき帰って、母がびっくりしましてね。いきなりでしょ。「子ども連れて帰る」と言ったら、離婚されたんだと(笑)。
辻:(笑) 東京はずいぶん変わっていましたか。
高濱:変わっていましたよ、オリンピックで。とにかく「私のうちはどこでしょう」っていうようでしたね、あの変わりようは。
辻:この本で三輪正弘さんが、たぶん東京工業大学の頃の、和秀さんとのおつきあいだと思うんですけど。
高濱:そうです。先輩ですね。
辻:はい。あと、三輪さんだけではないのかな。他の方も書いておられるんですけど、もう1972年の時点では大阪万博は終わっているんですけど、日本の国内で行われた国際的な大きな催物というかイベントで、次に1975年に海洋博っていう催しが沖縄であるんです(沖縄国際海洋博覧会)。そのお仕事で、和秀さんと(仕事の)お話が進みそうになったんだけれども、途中で止まってしまったっていうことをふれておられるんですけれども、和秀さんも久々に日本に帰ってこられて、昔のお知り合いの方だったり、あるいは先生だったりとかお会いされたと思うんです。その際に東京や、日本でのお仕事っていうのは、新しくお話しされたんですか。
高濱:清家先生と北海道のプリンスホテル(注:のちのヒルトンニセコビレッジ、竣工は1986年、高濱は食堂、ホール、客室等の設計を担当した)。それと、水上のプリンスホテルを(注:水上高原プリンスホテル、竣工は1984年)設計しました。
辻:西武のお仕事。
高濱:西武のです。それの室内なんかを、すこしお手伝い。それだけですね、日本で仕事をしたのは。もうひとつ高濱の鹿児島時代のお友達の別荘(湯之元の家-1988年)があります。
辻:1972年のご帰国以降は、行ったり来たりはできる。
高濱:ええ。ようするに北海道の(プリンスホテルの設計)を始めてから、その期間は1年に1度か…… なんか行って(帰国して)。私は行きませんでしたけれど。
辻:それからは、へんな言いかたになるかもしれないですが、日本でのお仕事も、和秀さんの中ではすこし増えてきたというか。
高濱:いえ、それだけです。
辻:では、基本的にはボローニャでのお仕事がメインで。
高濱:そうですね。まったくそういう活動はしませんでしたから。
足立:海洋博の時《TULU》という椅子を、ここにあるんですけれども。
辻:林昌二さんと一緒に。
高濱:ええ。
足立:《TULU》は、日本でも評判がよかったんでしょうか。
高濱:よかったらしいですね。主人の作品っていうのは、おもしろいので、まずポリエステルの壁面、家具ですね。つや出しの、ちょうど漆の様な。最初につくったのは主人なんです。それとポリウレタンをそのまま使った椅子というのも非常に、最初につくったもんですから、みんな真似られましてね。それから、スチールの細いつるも、主人がはじめてやったという。
辻:なかなか難しいお話ですよね、オリジナリティーというか、特許かもしれないですけど。
高濱:そうなの。そういうことにはまったくわからなくてね、特許ということをどなたかがおっしゃられたんですけど、全然わからないわけですよ。アメリカからも特許って言われて《SAGHI》がMoMAに入ってますでしょう。永久保存(コレクション)でね。あの頃にやっぱり特許っていうのが(特許を得るべきだということが)言われてきたんですけど、よくわからないで、そのまんまになってる(笑)。 ポリエステルのつや出しのあれは、あのあとずいぶん出はじめましたからね。
辻:もうすこし時代が近くなりますと、このあいだいただいた『イタリアの7人』という(注:守田均編『イタリアの7人』アール・プランニング、1998年)。
高濱:はい。それ私、持ってきております。さしあげましょう。はい(笑)。
辻:ありがとうございます(笑)。さきほどソットサスやメンフィスが好きじゃなかったというお話ありましたけど、そうはいっても和秀さんのお仕事、あるいは1970年以降のイタリアのデザインに対して、日本の国内ではすごく注目が集まるようになると思うんです。
高濱:ええ。
辻:こういった展覧会、あるいは日本での評価みたいなものに、和秀さんはどういうふうに反応されておられたんですか。「協力はするよ」というかんじ?
高濱:ええ。言われれば協力はするけれども、自分から「本に出してくれ」とか、そういうことは一切、言わない人でしたね。いずれ本は出したいということは言っておりましたけれど、それもそのままになって。
辻:同じメンフィスのメンバーで倉俣史朗さんとか、あるいはそちらに拠点を移られた時には日本の人がものすごく少なかったという先ほどのお話ですけど、だんだん、日本との接点とか交流みたいなものもできてくるのかなと思うんですけど、お会いされることはなかった。
高濱:倉俣さんは、たしかおいでになったと思う、うちへ。それから松村勝男さんも、建築家では、高濱の工大の先輩、後輩、それから坂さんね。坂茂さんは、アメリカの留学を終えた時にうちにみえて、それからずっとおつきあい(があります)。
辻:そうですか。1980年代とか1990年代のお話ですか、それは。
高濱:そうですね。1970年代だと思いますよ。うちに最初に見えたのは。
足立:このあいだ「高濱旅館って言われた」とおっしゃっていましたけど、そういうふうに日本人がいっぱいいらっしゃるようになるのは、70年代ですか。
高濱:70年より前ですね。ですから60年代から70年代のはじめ頃までですね。
辻:そんな時代があったんですか。高濱旅館の時代が。
高濱:そうですよ。というのは、みなさん、それほど裕福で…… 来られなかったでしょ。ですから、いくらかでも。それに知る人がいない、知ってる人が。言葉ですよ、問題はね。
辻:そうですよね。イタリアといえば高濱和秀っていうことが、日本の国内にいた人たちには、あったのかもしれないです。
高濱:ええ。工大(東京工業大学)からの一緒に学生さんなんかが見えて5、6人一緒に泊まられたりね。
足立:丹下健三さんもいらっしゃったんですよね。
高濱:いらっしゃいましたね。お泊まりになったわけじゃないけれど。非常に腰の低い方ですよね、丹下健三さんというのは。あれはもう70年代でしょう。ボローニャのフィエラのあれをデザインなさった時ですからね(注:ボローニャの北部にあるフィエラを開発する計画)。
足立:丹下さんについて、高濱さんは何かおっしゃっていましたか。そんなに好きではない?
高濱:好きではない。嫌いっていうほどではないですけども、オリジナリティーがないって。
辻:お仕事の規模が、その頃では、ちょっと違いますよね。
高濱:ええ。
足立:清家清先生もいらっしゃったんですか、ボローニャに。
高濱:いらっしゃいました。お泊まりになりました。
足立:他はどんな方が、日本人ではいらっしゃいましたか。
高濱:ヤマシタカズヒデさん。それから、ムラグチさん。ちょうどヨーロッパにヤマグチさん。ドイツとスイスと、私どもと一緒に山に行ったりね。楽しい時代でしたけれども(笑)。由良(滋)さん、篠原(一男)さん、茶谷(正洋)さん、高村(英也)さん等々。
辻:お2人のお子さまは、イタリアでお生まれになって、育って、学校もむこうですか。
高濱:学校もそうです。一番上だけが(日本で)生まれて、連れていったんですが、あとの2人はボローニャの出身です。
辻:お仕事も、ヨーロッパでやっておられるんですか。
高濱:そうです。誰も建築(の仕事)はしておりません。親を見てれば、やりたくないって。
辻:和秀さんがお亡くなりになってからは、何年ぐらいたつでしょうか。
高濱:もう6年ですね。2010年に亡くなりました。
辻:なんてうかがったらいいのか難しいですけれど、(高濱和秀を)アルファベットで検索をすると情報がたくさん、アクセスができる。
高濱:それは、私の姪がそう言ってました。
辻:そうですよね。漢字だと……
高濱:漢字だと2つあるわけです、ハマがね。日本ではほとんど出ておりませんね。一時、シモン・ジャパンから出ておりましたけれど。
辻:はい。ちょっと性格は違うかもしれない。
高濱:いまは、ですからカッシーナで、すこし出しておりますけれどね。
辻:これはちょっと私の考えなのかもしれませんけど、熊本の大学で先生をやっておられた頃から建築家としての職能、職能というのはいわゆる設計料をいただて仕事をするというありかたがなかなか難しくてイタリアを考える、イタリアに移住する、むこうに行くひとつのきっかけになったんじゃないのかというお話がありましたね。
高濱:別にそう…… きっかけ、そうですね。やっぱり熊本にいたくなかったということなんでしょうね。というのは3年いて、鬱積してたんだろうと思うんですけどね。で、あまりにもしつこく、何度も「来い、来い」と言われて、っていうことなんだと思います。
辻:一方では、ボローニャに移られてからは、なんていうんでしょう。
高濱:帰ろうかっていうことがあったかということですか。
辻:いえ、そういうことではなくてですね、どちらかというと、建築の設計を含む、広い意味でのデザインのありかたというか、それはどういうものであるということを、言葉で表現をするということについては、あまりご関心がなかったという。
高濱:書くことはあまり好きではありませんでしたから。
辻:そうですよね。
高濱:自分が考えていても。ですから書いても、ほんのすこしで終わってしまうわけです。
辻:あとは「これで判断をしてください」という。
高濱:ええ。ですから、これをつくって、どういうつもりでつくったかなんていうことは、言わないわけです。そういうあれはないということですね。何かをつくろうといったとき、イメージがわけば、なにからイメージが出たかっていうことは、それは自分ではわからない。ですから夜でも目が覚めて、何か出ると、スケッチしてました。
辻:ああ。芸術運動として「デザイナーとしては、かくあるべしだ」という職能、自分の職能はこういうものだというようなPRも、あまりなされなかったということですね。
高濱:しませんでしたね。ですから、教えるものじゃないと。
辻:うん。すごく強引にいま私、まとめているので、乱暴であることは承知のうえでというか、ひとつ考えたいんですけど、熊本あるいは日本で建築家として考えていたやりかたというのは、ひらたく言ってしまうと、ヨーロッパのように尊敬されるというか、設計料をいただいてそれに対してプロダクトで応えるってことに憧れた。それは和秀さんに限らず、その時期の日本で活動していた建築家の人たちにとっての、理想であったとは思うんです。
高濱:ええ、ええ。
辻:一方で、和秀さんがボローニャで活動していたありかたというのは、殊更に建築家の職能のようなものがあまり強調されなかったような…… 何回も繰り返し同じことを聞いていますけど、すごくその点で彼が何を考えていたのかということが気になるところですよね。
高濱:彼はね、最後まで建築家である、と。自分は建築家だと。だけども、特にイタリアは、建築っていうことは難しいですよね。新しいうち(住宅)を建てるのは、郊外になるわけ。全部、古い家をなおすと。ですから内装の工事ですよね。そういうことが多いわけ、建築家としては。
辻:レスタウロ(修復)っていうことですか。
高濱:修復です。ですから非常にうるさくて、特に市内の古い家は、改造するのにね、この柱はいじっちゃいけない、階段はいじっちゃいけない。特にフレスコなんてあったら全然、いじれないですしね。そういう仕事が、ほとんどの建築家の仕事なんですよね。ですから新しい家を建てるっていうのは、よほどの規模を持ってなければできない。ですから私の主人がした大きな仕事といったら、先ほどの工場と、ボローニャの空港ですよね(注:ボローニャ・グリエルモ・マルコーニ Aeroporto Guglielmo Marconi におけるファザードのデザイン、VIPラウンジなどの改修、2000年)。
足立:空港も。それは知らなかったです。
高濱:(日本語のインターネットに)出てませんでしょ。その写真は、今は持ってきてないんですよね(注:ページ冒頭の写真)。
足立:それは何年の。
高濱:それはね、2000年です。
足立:2000年に、ボローニャの空港を手がけた。内装を。
高濱:ええ。もちろん建物があって、それの外装と内装を請け負ったんです。
辻:空港の全体の、マスター・プランっていうよりも……
高濱:外観を全部。
足立:それは結構、大きい仕事ですね。
高濱:ええ。
足立:辻さんの話に続けて聞きたいんですけど、高濱さんのイタリアというか、人生を通してのデザイナーとしての評価というのは、どんなふうに見えるんだろうと。奥様からは大きく、あるいは小さく言ってしまうのかもしれないけれど、重要な仕事をしていたと思うんですね。その重要な部分を、もうすこし知りたいです。
高濱:あとは、大きい仕事っていうのは、ボローニャのバス停。町中のバス停を全部したんですけどね、それはかなり…… その写真は私、持っておりませんけれども、そのうちにお送りしましょうか。一応、写真をお送りします。
足立:最終的に、空港を手がけられたということは、アーキテクトとして評価されたということだと思うんですけど、ボローニャというかイタリア、あるいはヨーロッパでの高濱さんの評価ってどうだったんでしょう。日本だと、やっぱりみえないんですよ。
高濱:ええ、そうですね。ですから日本より、外地で知られているという。
足立:評価のポイントみたいなものは、どこにあったんでしょうね。日本人だからということではないと思うんですけれども。
高濱:じゃないでしょうね、やっぱり。やっぱりデザインがね、斬新だったっていうのかしら。ものすごくシンプルで、そしてきちっとしたつくりをしていてたわけですね。ですからイタリアのデザインとはやっぱり違うと。主人は言っておりましたけど、これがもしもね、ヨーロッパじゃなくてアジアの匂いがするといったら、これはもう自分の血のあれで「どうにもならん」と言っていましたけれどね。ですから、椅子の《KAZUKI》とか、ああいうきちっとした感覚のものというのは、イタリアにはなかったわけですね。
足立:それは、メンフィスとかとは違うものとして、あるいはメンフィスへのカウンターとして評価されていたとみていいんでしょうか。
高濱:ものすごくシンプルで、っていう感覚があったんでしょうね。清潔というんでしょうか。高濱の作品は詩的だと言われています。
足立:なるほど。
辻:ご質問というよりも、今日の感想みたいなことになってしまうのかもしれないです。先ほどの日本の国内での受容のお話を、足立さんも僕もしていたんです。高濱和秀さんにとっては片仮名の「デザイン」っていうことばが、新築の建築物を主とした仕事を含むものなのでしょうか。ちょっと(説明の仕方が)難しいな。
高濱:難しいですよ。難しいですよ(笑)。
辻:先ほど、イタリアの建築物あるいは建築家としての仕事が、修復が中心になるというお話をおっしゃっていたじゃないですか。ただ一方でこれまで、あるいは戦後という長い時間の中で、すくなくとも日本の国内では、新築の建築物を中心に設計の仕事をしている人を「建築家」と呼んでいるわけですよね。
高濱:ええ。
辻:でも和秀さんがやってきたことは、ぜんぜんそれには当てはまらない。それは、日本とイタリアとはフィールドが違うし条件が違うんですけれども、すくなくともこれからは東京や日本であっても、古い建築物がそのまま使われ続けていくだろうし、新築の建築物を設計する機会は、こと「建築家」においても減っていくと思うんですね。なので私が感じたことなんですけど、和秀さんが「自分は最後まで建築家だ」というふうにおっしゃっていたというのは、新しい像というか、片仮名のデザインという業界と建築という業界をことさら分けなかった(ということでもある)。それがおもしろいと思います。
高濱:日本と違うのはね、日本は建築家、それから家具デザイナー、何とかデザイナーと、みんな分かれますよね。
辻:どんどん細分化していますね。
高濱:ところがイタリアは、今までの段階ではね、建築家がそれを全部、してたわけ。デザインの関係は全部、建築家がしてたんですよ。ですから、そのへんが日本と違うところなの。
足立:実際は、アーキテクトと名乗ってらっしゃったんですか。それともデザイナーと名乗ってらっしゃったんですか。
高濱:アルキテット。アルキテット・デザイナーという。
辻:だから「デザイン」および「デザイナー」という片仮名の、固有のフィールドが本当に存在しうるのかどうかということは、私もずっと考えています。
足立:鉛筆一本あれば(本当はデザイナーになれる)。
高濱:いえいえ。でも昔はデザイナーっていうのは、洋服のデザイナーぐらいでしたよね(笑)。
辻:和秀さんは、それを女子どもの仕事として分ける記述も、すこしありましたね。この文章で(注:高濱和秀「ある仮想の対話」『SD』206号、1981年11月、24–25頁)。
高濱:あったでしょう。ですからデザイナーと言われるのは、あんまり好きではなかったでしょうね、きっと。でも、それしかないわけですからね。
足立:鉛筆一本で日本からイタリアへ渡って。
高濱:とにかく、何とか食べていかれましたからね(笑)。
足立:先駆け的な日本人だったと思うんです。
高濱:ええ。ですから3年目ぐらいですかね。工大(東京工業大学)から「帰ってこい、帰ってこい」って。
辻:イタリアに行ってからですか。
高濱:ええ、行ってから。北大(北海道大学)の先生とか、金沢とか九州に帰ってこないかと。大学に。ずいぶん言われたんですけれどね。結局、帰らずに。
足立:かっこいいですね。
高濱:かえってね、ようするに仕事ができない、自分の好きな仕事ができないだろうと。「帰ろうか」って言ってきたんですね。私は帰るんなら帰りましょうと。帰ってからね、「帰らなきゃよかったね」って言うんだったら嫌だと。そのときちょうど母親が1人になって、九州に帰るんなら話は別だけれど、ここにいようとどこにいようとも、いまの時代はどこに行っても同じだし。
辻:おもしろい。そうですね。
高濱:「自分の仕事のできるところにいたほうがいいでしょう」って言ったんですけどね。そしたら「ガヴィーナが同じこと言った」って言って。
辻:先ほどの鉛筆一本で渡航したというお話と、この時代のファイン・アートの画家の絵筆一本でいくっていうのとは、どうなんですかね、一緒のこともあれば、違うこともある。
高濱:それは、料理人の話でしょ、最初のはね。包丁一本持って行けばっていうの。それをね、天草の病院の先生がメス一本っておっしゃった。「じゃあ、俺は鉛筆一本」って。そういうことなんですよ(笑)。 その頃は、だって、鉛筆だけですからね。今みたいに……
辻:もちろんものの例えですけどね(笑)。
高濱:(笑)。 ですから、そんなことをして、やりたいこともいっぱいあったでしょうけれどね、でも、それで自分でしたいことを…… したいことって、本当にしたいことだったかどうかわかりませんけれども、とにかくそれで満足してるんじゃないかと思うんですよ。
辻:長々とありがとうございました。
高濱:いや、何も、つまらない話でごめんなさいね、どうも。
足立:すごく勉強になりました。
辻:すごく考えさせられる聞き取りでした。
高濱:ずいぶん昔の人間ですからね(笑)。
足立:記憶がはっきりとされておられる。高濱さんは一番、好きなご主人の作品って、どれですか。
高濱:私はやっぱり《KAZUKI》。椅子の《KAZUKI》。
辻:ボローニャのお宅では、そのまま利用されてるんですか。
高濱:あります。一度いらしてください。
足立:行きたいです。
高濱:製品がね、できあがってるものじゃなくて、試しのものがいっぱいあるので(笑)。
辻:なるほど。すごく大事ですね。プロトタイプ。
高濱:そうです。どんなものが必要かおっしゃってくだされば、お送りしますけれど。
辻:ありがとうございます。やっぱりソットサスは嫌いなのか。たぶんそうだろうなとは思いました(笑)。
高濱:(笑)。好きではありませんでした。評価してなかったみたいですね。ガヴィーナは変わってますから。
辻:イタリアとかかわりのある建築家も、同時代にけっこういますよね。たとえば、(リチャード・)ロジャース(Richard Rogers)とかアルド・ロッシ(Aldo Rossi)とか。ちょっと都市が、場所が違うのかな。あるいはレンゾ・ピアノ(Renzo Piano)。
高濱:彼のところにはね、主人の後輩が行っているんです。
辻:そうですか。日本人もけっこう、修行しに行ったり。
高濱:彼とたぶん一緒に仕事をしてると思うんです。最初のパートナーで、石田さんとおっしゃるんですけどね。石田俊二さんっておっしゃるんです。
足立:ありがとうございました。
辻:ありがとうございました。