川添登 オーラル・ヒストリー 第2回

2009年4月3日

豊島区北大塚 川添登研究所にて
インタヴュアー:中谷礼仁、鷲田めるろ
書き起こし:戸田穣
公開日:2009年6月15日

鷲田:前回、新建築の編集長をされてた頃までお話しいただいたので、今回は、新建築社を辞められる頃から万博の頃までのお話までお伺いできればと思います。それでは、まず新建築を辞められることになったいきさつを(註:1957年川添編集長以下編集部総辞職。いわゆる「新建築問題」。1957年8月号「そごう」特集をきっかけに。)。

川添:昔は一番話しにくいところだったんですけど。結局、英語版(註:『Shinkentiku』。現在の『JA』誌とは別。1956年6月号から)を出したのが一番いけないんですよ。がらにもないことやっちゃいけないんですよ。がらでもないっていうのはさ、今でもそうだと思うんだけど、一般に売られている商業誌で英語版を出しているのはないんじゃない。ないっていうことは、売ることで商売しちゃだめだと思ったんですよ。どうするかっていうと、判型はそのまま、活字だけは変える。写真版や図版はそのまま使う。そうすると翻訳代と組み代だけなんですよ。そうすると製作費はものすごく安い。それでみんな海外には弱いからさ、みんな来るよって。そんなことは言わなくたって吉岡さんはわかりますね。「どのくらいかかるだろう」って言うから、ぼくは大日本印刷に聞いてるから、「だいたいこのくらい」と言ったら「調べてきたのか」と言って。「調査無くして発言権なし」みたいなもんですから(註:当時のマルクス主義運動のテーゼ)。

鷲田:英語版と新建築問題との繋がりは。

川添:英語版のために、スタッフを一人、宮内嘉久(註:1956年入社)を入れたんですよ。これが第二の失敗ね。英語版のことをなんにもやらない。さっきいった金額は、その分、広告で集めると。『新建築』で取ってる広告料の3割。その広告を川合健二(註:1913-1996 1950年代に浅田孝と出会い、東京都庁舎の設備担当に抜擢。以後丹下事務所の設備を多く担当する。日本初の吸収式冷凍機の設計や、トータル・エネルギー装置等の設計を手がける)が「ケラニー・ボイラー(註:詳細不明)から1000万くらい貰えるよ」と。ケラニー・ボイラーは親会社があって、答えがでるまで重役会議をやるわけ。そういうところは、日本でもちゃんとした会社なら重役会議の議題にはなるけど、ほとんど広告課長ですからね。丹下さんとか白井晟一とかに紹介してもらって、ここ以外にないなっていう感じは持ってましたよね。そこでケラニー・ボイラーで企画が通るのに半年かかるって言うから、浅田孝が、そんなのもう広告を入れちゃったらいい、っていう。それで、入れちゃったんだよね。だけど広告料がついに入らない。そりゃそうでしょ。部数が少ないんで、ぜんぜん海外に売れるあてないんだから。一応宣伝しなくちゃいけないから、一番買ってくれるのは世界中の建築科のある大学じゃないかと。経費がちゃんとでるところじゃないと買ってくれないんじゃないか。だけど海外でどれほど日本建築がブームだとか、なんとか言ったってね、それはねえ、あてにならないんじゃないかなっていう気がしたから、だから広告収入で稼ぐしかないよね。

中谷:当時すでに、日本建築はもうブランドに、ひとつの神話になってたんですか。

川添:電通で調査するとね、『新建築』に出す広告が、建築業界に限れば「朝日新聞」並みですよ。朝日新聞は一般紙だけど、こっちは材料屋さんとか設備屋さんとかあるでしょ。少なくとも電通調査ではそうなんですよ。電通だけじゃなくて博報堂とかも一応調べましたよ。

中谷:『新建築』の広告媒体としての能力が、「朝日新聞」と同じような力をもっていたということですよね。日本の現代建築を英語版で出すということは、すでにモダンのなかでもジャパニーズ・ブランドが外国にもあったと踏んだ。

川添:踏んだというのは、あくまでも仮説だから、あんまりあてにできない。

中谷:でも、すでにいくつか出てましたっけ。ノーマン・カーヴァー(Norman Carver)による『日本建築の形と空間』とか、外国人がとっているのありましたよね。あれはあの頃でしたよね。

川添:年刊としては『ジスイズジャパン』(This is Japan)。斎藤寅郎(註:建築家。斎藤建築研究所。1950年代に朝日新聞社ジスイズジャパン編集長。1960年から64年にかけて川添登・勝見勝とともに『朝日ジャーナル』の「文化ジャーナル・デザイン」欄を担当。)がやってた。英語版ですよ。斎藤寅郎がやってるからかなり建築が多いんですよ。まあ一割くらいだろうけど、全体でみれば多いですよ。

中谷:1956年に英語版を作るというと、丹下さんの広島平和祈念資料館が竣工した頃ですかね。丹下さんは50年代の後半にはもう外国で有名だったんですか。

川添:有名でしょ、それなりに。

中谷:彼がCIAM(Congr_s internationale de l’architecture contemporaine:国際近代建築会議)に行ったのは51年ですよね。先生が新建築の英語版を出した頃、丹下さんも海外に名を売り出しはじめていた。他に海外で有名になりはじめてた現代建築家は誰なんですか。

川添:誰だろうなあ。

中谷:じゃあ仮説で始めたんですね。

川添:仮説ですよ、完全な。はったりですよ。だけど、商売って、はったりだろうねえ、結局は。英語版の波及効果で、むしろ『新建築』の売れ行きが上がる、主だった建築家はだいたい押えられると思ってた。

鷲田:その頃から吉岡社長もかなり積極的に。

川添:吉岡社長の夢はやっぱり海外に売れることですよ。だからマネージャーの星野さんがね、吉岡社長に「川添君に海外に行ってこいって言われると思うよ」って言われたって言ってましたね。そんなことならないうちに辞めちゃったけど。吉岡さんは、ぼくが辞めてから自分で行ってましたね。そのときにどっかの雑誌にあたって、グラビア版で刷るとかいう話をしたら馬鹿にされたって言うんですよ。グラビア版ていうのは部数がたくさんじゃないと採算にあわないんです。それがすぐ分かった。だけど、うちは本誌が当時2万部は超してましたよね。それを言ったらむこうもびっくり仰天して。

中谷:2万部は多いですよね。

川添:多すぎですよ、考えて見ると。住宅特集をやると二割ぐらい増えますよ。ということは一般読者。ぼくが伝統論争なんかやったでしょ。そうするとね、「建築界の中だけならいいけど、いまの『新建築』は一般読者も読んでるからだめだ」とか丹下さんと芦原さんとか『新建築』に贔屓な連中でも言いましたよ。ぼくは「とんでもない、国民の全体の前で論争ってのはやらないといけない。内輪だけでやってなんになる」って言って。

中谷: 1955年の『新建築』の「戦後10年特集」(1955年8月号)。名編集だと思ってたんですが、あれは先生ですか。

川添:そうですよ。編集会議なんてないも同然なんですよ。吉岡社長のところに割付用紙と写真を持ってってね、こういうのでやってこうやりますって、割付をずっとやって、それだけなんです。そんなの編集会議でもなんでもありません。吉岡さんも任せっぱなしだった。編集顧問に清家さんとか何人かいたけども、そのときに編集顧問に浅田さん、芦原さんを入れるとか(註:宮嶋圀夫によれば当時の『新建築』編集顧問は清家清、渡辺力、芦原義信、浅田孝、編集協力者に大高正人、内田祥哉、温品鳳治、林昌二、三輪正弘、芦原初子など)。編集会議でやって、今月はどういうテーマで、どういうのやりますって。

中谷:あの頃、建築思想雑誌になってましたよね。建築も扱うけど、その背景の社会事情もきっちりと追って、建築家がきちんと書いて、なかなか論述も鋭くて。

川添:その編集会議で瓢箪から駒みたいに「10年の特集やろう」って言って。そのときはどういうわけか、社長が任せっぱなしになっていた頃で、そのときの編集会議で決まって、編集期間10日くらいしかなかった。

中谷:非常にアナーキックな状態の雑誌ですね。

川添:瓢箪から駒みたいなもんですよ。かえって勢いがある。

中谷:その当時の『建築文化』(註:彰国社発行の建築雑誌。1946年創刊、2004年休刊)も連動して読むと、かなり影響し合ってますよね。実際上の編集者の交流もたたくさん。

川添:ぼくが作ったんですよ。三三(サンサン)会ですよ。

中谷:別の雑誌にはペンネームで書いたり。

川添:平良敬一が葉山和夫。宮内が灰地啓。ぼくが岩田知夫。

鷲田:三三会というのは。

川添:『新建築』と『国際建築』(註:美術出版発行の建築雑誌。1925年創刊、1967年休刊)と『建築文化』。

中谷:読むとわかるけど、ほとんど談合状態ですよ。あきらかにこの人たちが状態を作ってる。仕掛け人になろうとしているっていう感じですね。

鷲田:『近代建築』(註:1946年創刊)は。

川添:まだ『建設情報』の時代ですね。宮嶋圀夫っていうがいてね、彼は『建設情報』からひっこぬいたんですよ。白井晟一を載せだしたのは『建設情報』のほうが早いんですよ。宮嶋のが最初でしょ。そういうこととかあって『建設情報』がちょっと変わってきたんだよね。それで「これはそれなりの編集者がいるな」と思って、それが宮嶋だった。それで一番最初にひっこぬいた(註:1953年入社)。平良(註:1954年入社)とか宮内(註:1956年入社)よりも先。白井晟一はぼくより前なんですよ。宮嶋圀夫はそれが唯一の自慢だって(註:宮嶋圀夫によれば、宮嶋は1954年に白井晟一を知り、同年秋に白井から川添登を紹介されて新建築社に入社している)。新建築社をクビになったときに、宮嶋に「古巣に帰れ」って、当時の『建設情報』の社長さんに一緒に頼みに行って。あれはねえ職人としては群を抜いて優秀でしたね。宮内が職人みたいなことをいうけど、これはもうぜんぜんだめ。ぼくも最近は平気で悪口言うようになったけどさ。

鷲田:新建築社を辞められたときはどのような。

川添:どんな感じっていうかねえ。それはもうわかってたね。編集後記でちゃんと書いてるよね(註:1957年10月号編集後記に吉岡保五郎の編集部員解雇した旨の告知、同11月号編集後記に川添・平良・宮内・宮嶋連名記事、同12月号に浜口隆一による吉岡社長および清家清編集長批判記事と、それに対する清家清の応答が掲載されている)。だけどもう忘れちゃってんだよ。あんまりいい気持ちの話ではないですからね、そういうのは忘れちゃいますよ。だけどね、そういう時に人間ていうものは分かったね。ほんとに分かりましたね。建築家でもなんでもみんなね。

中谷:じゃあ一点だけ、内情の話じゃなくて、村野さんのお話を。

川添:ぼくは、あれはかなりちゃんと書いてるよ。

中谷:以前、平良さんに聞いたら「あの後、丹下特集をやろうとしてた」って。だからちゃんとバランスを計って、まずは《そごう》をやって、その後《東京都庁》をやって、どちらも批判するつもりはなく、ちゃんと両方やるつもりだったんだけど、《そごう》のときにみんなアンケート(註:「アンケート:そごうをどう見るか?」 pp. 18-22)に厳しいこと書き過ぎたのが、ちょっと個人的には悪かったなと思うって平良さんがおっしゃってましたが。

川添:なんて言ったらいいのかなあ…。かなり詳しく書いているよ『近代建築』に。あそこに批評がどうだとか書いてるけど、ああいうこと書きながら、一番ちゃんと批評やってるのは神代(註:雄一郎 1922-2000 建築評論家。「現代建築の主題としての百貨店」pp. 11-17)さんなんだ、てのが抜けちゃってる。あれは傑作ですよ。

中谷:『新建築』のそごう特集の中の。

川添:そう。あれは今読んでも傑作だよ。日本のデパートっていうのは民衆の文化センターって言ってるんですよ。ヨーロッパのデパートっていうのは、大衆のためのマーケットですって言ってたけど、だいたい女の人たちが行く場所でさ。食堂なんて言うのは無いよね。せいぜい食品売り場のところにお茶でも飲めるところがあればいい方でさ。日本のデパートは劇場とかある文化センターなんですよ。「今日は帝劇、明日は三越」て言われたハイレベルだったけどさ。三越も江戸時代の呉服商でしょ。駿河屋の商法っていって有名だよね。大衆商法。日本橋のは高級な呉服の大衆路線をやったところなの。ヨーロッパのデパートとはまったく質が違うんですよ。そういうことをちゃんと後で『市政』(註:1980年1-4、全国市長会)っていう雑誌に書きましたけどね。レジャーセンターでもあるわけですよ、女の人っていうのは「銀ブラ」だってなんだって買い物が楽しみなんだよ。屋上には子供遊園ができてたりさ。高級レストランと大衆レストランがふたつあってさ。そういう日本のデパートをちゃんと書いたのは、ぼくが早いだろうと思ってたら、神代さんを忘れてた。あれは傑作ですよ。「村野藤吾が、あれと組んでるなんていうけどね、坂倉準三だってみんなあるじゃないか、村野藤吾だけの話じゃない」ってことまでちゃんと書いてある。

中谷:個人的には、そごうの特集を読んだ時に、なんでこれが問題になるんだって思うくらい、他の号の方がホットだったので、別にこの路線でくれば……。

川添:それは社長はさすがに気づいてましたよ。平山忠治(註 -2005 写真家)の責任もあるんだよ。外壁の写真ばっかりでさ。上下走行エスカレーターとか撮ってないんですよ。絵になるところしか撮ってないんですよ。だから半分は平山忠治の責任ですね。それはちゃんと言ってました。

中谷:上空からそごうが前にあって、東京都庁を後方にして、近代建築の正しい表現と間違った表現みたいになってましたけどね。それはひとつの見方としては成立するけど。

川添:それははじめからテーマとしてあったからね。

中谷:村野さんからは何かあったんですか。

川添:ぼくが社長に呼び出されたんです。病気で休んでたのに。「休み中とはいえ、編集長はお前なんだから、お詫びを書きなさい、失礼いたしましたっていうこと書きなさい」って社長に言われてね。それで書いて、村野さんからは気にしないから心配しないでよろしいなんていう返事をいただいたんですよ。

中谷:社長と村野さんの間でなんだこれって話もあったけど、一応仁義切ればいいって感じで収めるつもりは村野さんにもあったと。

川添:そんなことで決して自分の得にもならないもんね。村野さんていうのはそういうところ賢い人ですから。

中谷:ある意味恐い人ですね。しかし東京都庁特集号もみたかったですね。

鷲田:その後、建築批評家として活躍されるんですが、その頃から世界デザイン会議の話があったということでしょうか。1958年に浅田孝さんから協力依頼があったと。

川添:浅田さんに、ぼくが呼び出されて、これこれのことをやれって。一番大きな問題はJIDA(註:日本インダストリアル・デザイナー協会 Japan Industrial Desinger’s Association 1952年設立)が不参加声明を発して、ID(インダストリアル・デザイン)向けのデザイン会議がない。それに変わる組織を作れっていうのが一番ですよね。

鷲田:榮久庵さんとはいつからお知り合いなんですか。

川添:榮久庵とはね、1955年にコンラッド・ワックスマン(註:1901- スペース・フレームの提唱者。東京大学で3ヶ月間のゼミを行った)が来た時に、榮久庵もワックスマン・ゼミナールのメンバーだったんですよ。ワックスマンのお別れパーティーを国際文化会館でやったとき、みんなお別れの言葉とか言うんだけど、彼は、あそこのサロンにあぐらかいて座ってさ、暗闇のすすきの中を分け入って、とか言ってね。よかちんみたいなやつを……

中谷:よかちん?

川添:よかちんぽですよ(笑)(註:東京美術学校に受け継がれる踊り)。ま、よかちんとは違うけど、すすきのなかでさ、男と女が密会するようなことをやるんですよ。「わがデザイン界もこういう豪傑がいたのか」ってびっくり仰天したんですね(笑)。こういう奴ならできるだろって。でも、こういう奴はやっぱり驚さないとだめだって、浅田孝に言ってね、高級自動車、ハイヤーを雇って、GKの庭のなかに突っ込んで、そしたら誰か出てきたよね。「榮久庵先生に会いたい」って言ったら、出てきて、「おい乗れ」って乗っけて、目白駅前の田中屋とかいう下がパン屋かケーキ屋で二階が喫茶店のとこに連れてって、それで「国際デザイン会議をやる。おまえはJIDAに変わるIDの組織を作れ」って言ったんですよ。それが1958年。

中谷:55年にワックスマンが来た時は磯崎(新)さんもいたんですよね。いい意味で戦後の若い建築知性が結集する契機になったっと言われています。(註:主な参加者は、磯崎新、榮久庵憲司、奥村まこと、川口衛、佐々木宏等、21名。川添登の弟智利も参加した)

川添:『新建築』でワックスマンゼミの特集やったでしょ(註:『新建築』1956年2月号)。そのうちの大半を、すぐそこにあるぼくの親父のうちに8畳と6畳のくっついた部屋があって、ひっつけると広くなる。そこを一週間くらい貸してもらって、編集やらせてもらったんですよ。本人たちで。

中谷:現在でいうワークショップですね。

川添:意外にみんな喜ぶんだよね。

中谷:そういうところ行って、みんな仲良くなって。いいなあ。

鷲田:粟津潔(註:1929- グラフィックデザイナー)さんもこの頃に出会われています。どういう出会いだったんでしょうか。

川添:建築はいるでしょ。IDは榮久庵ですよ。そうするとグラフィックに誰をやるか。僕らと一緒になって核になってやってくれる仲間が欲しい。亀倉雄策(註:1915-1997 グラフィックデザイナー)さんちに行ったらね、「今日、山城隆一(註:1920-1997 アートディレクター)のうちで若いグラフィック・デザイナーの集まりがあるから、そこに行って誰か頼んでこい」っていうんですよ。それまでは田中一光(註:1930-2002 グラフィックデザイナー)が推薦されてたんですよ。でも田中一光っていうのは忙しいおじさんでね、座ってるともういなくなちゃって相談相手にならないんですよ。相談相手になるような、ディスカッション積み重ねられるような人が欲しいって言ったんですよ。とにかく山城隆一が若い人の兄貴分で、そこに集まってるから来いって。大森の山城隆一の家に行きましたよね。そこに行くのに大森の駅からけっこう歩くんだよ。黒川紀章と夜道をずいぶん歩いた記憶があるんですよ。その頃東京の町はずいぶん暗かったですからね。大森てのもなんかねえ。
そしたらほんとに集まってましたよね。10畳敷くらいのところに20人くらいかなあ。それで言ったらみんなしんと黙ってるのね。そしたら粟津潔だけが「ぼくやってもいいかなあ」とかなんとか言って。そしたら、亀倉雄策が「お、君やってくれるか」とかなんとか言って。「ちょっと仕事をやり過ぎたって感じがするから。この一年くらい考えようと思ってたんですよ」って。あいつえらいね。えらいやついるもんだなって。彼はグラフィック・デザインは、おおよそ勉強してないんですよ。ぜんぶ独学ですよ。《海を返せ》のポスター(註:1955年日宣美展応募作品。日宣美賞受賞)とか、ああいうのが彼のグラフィックデザインだった。それでデザイン界に入ってみたら、ちんぷんかんぷん。グラフィックデザインの用語があるでしょ。業界用語が。それがほとんどちんぷんかんぷん。それで、もう一回勉強しなくちゃいけないなって思ってたらしいんだね。それに、結構儲けちゃったって。「こんなの自分で儲けようと思わないけど入っちゃった。ほんとはどっか屋上行って撒いちゃってもいいんだけど、そうするのもちょっともったいないから、一年くらい休んで」って、こういうんですよ。それが粟津と会ったはじめてだね。その日、帰りにね、ぼくは黒川に雄弁だったのは覚えてるよ。「ほんとにいい人がみつかった。榮久庵もみつかったし、これで僕らの仕事は終わったようなもんだ」って。やはり、彼は相当な人物ですよ。これは榮久庵とはまったく反対だけどね(笑)
でも、ぼくが間違ったのは、浅田孝が、「これこれのことをやれ」って。これが浅田孝が「(自分が)事務局長を引き受ける条件だ」って言ったんですよ。だから、ぼくは浅田孝がそういう条件をつけて事務局長を引き受けた、だから「おまえやれ」(と言ったんだ)と思ってた。そうじゃないんだよ。後でだんだん分かってきた。丹下さんが浅田にそう言い置いていった。

中谷:やっぱり丹下さんですよね。

川添:浅田孝にそんなできませんよ。「アメリカに行った留守の間、川添にこれをやらせろ」っていって、浅田さんに言い置いていった。そのための黒川紀章を助手としてつけると。

中谷:昔から不思議に思ってたのは、こういうのやるとしたら、建築学会とか当然入ってくるのに、シャットアウトして、デザインという新しい領域でしょ。これはやっぱり丹下さんくらいの頭がないとできないもんですよね。無給ですか。そんなことないですよね。

川添:給料もらえると思ったら無給なんだよね。

中谷:ああ、それも丹下さんらしいですね。

川添:浅田孝が、集まった後毎晩のように、黒川と二人で銀座とか新橋のちっさな料理屋さんに連れてって、和食のそうとう高価なものを食べさせるんですよ。それで「おまえたちは紙くずだ。せいぜいお尻を拭くぐらいにしか使えない」とか何か知らないけど、いろんなことを言うんですよ。愚痴をこぼすんですよね。
黒川紀章は結婚したばっかりでさ。それだから、食べていかなくちゃならない。これも貧乏だっていって。ぼくも新建築やめたばっかりで鳴かず飛ばずで、これも貧乏なんですよ。貧乏だからそういうことできたみたいなもんだけどね。それでお金くれって言ったらだめだっていうんだよね。食べさしてやるからって。

中谷:『近代建築』誌でちょっと仕事をしながら、デザイン会議に余力を費やしてたという感じですか。

川添:まずぜんぜん様子がわかんないしね。建築界はわかってたけどねえ、他の世界はまったくわかりませんよ。それでいろんなことを言う人たちがいるんですよ。JIDAが早々と不参加声明をしたでしょ。その理由は何なんだろうって僕ら気になるよね。そうすると、当時アメリカの下請けデザインをずいぶんやってたんですよ。日本に輸出するやつは日本のデザイナーにやらすんだよね。それをアメリカで製品化して日本に売りつける。それがJIDAのかなり幹部クラスがやってる。それはJIDAだけじゃなくて。丹下さんがJIDAに変わる組織として言ったのは、まずデザイン教育者。小池岩太郎なんてそうだよね。各デザインの大学にはいるわけでしょ。家内(註:川添康子 旧姓:長江)は『リビングデザイン』(美術出版社)の編集長だったんだけど、彼女やなんかに聞くとね、デザインについていい原稿書いてくれる人は、やはり大学の先生。

中谷:デザイン会議の概要は。

鷲田:先生の『思い出の記』の年譜には「1960年5月11日から16日まで東京大手町産経会館で開催」とあります。この時は、丹下さんも帰ってこられて出席された。

(世界デザイン会議のプログラムを探しながら)

中谷:昔、八束(はじめ 1948- 建築家・評論家)さんなんかがメタボリズムのでっかい本(註:『メタボリズム 1960年代 日本の建築アヴァンギャルド』1997。吉松秀樹と共著)書いてましたけど。あれには載ってないんですか。

川添:あれね、「そろそろメタボリズムの本出したらいいんじゃない」って誰かが言ったんだよ。みんな集まってた時に。そのときに、ぼくが「INAXなら出すんじゃない」って言ったんだよ。そしたらね、粟津君が「ああ、そしたらぼくが話しときます」って言ったんだよね。「君INAX知ってるんだろ、話しといてよ」「ああ、ぼく話しときます」って。そしたら、ちゃんと話してないわけだよ。メタボリズムの本を出したらいいですよってだけで、それで八束のところに行ったんだよ。彼も「八束がこんな本出したよ」って言ったら、まずい顔してたよ。よかったけどね。

(世界デザイン会議のプログラムを見ながら)

中谷:これが世界デザイン会議のプログラムですね。これはかなり重要な。かっこいいですねえ。

鷲田:この世界デザイン会議の内容についても浅田孝さんのチームが、誰を呼ぶかとか。

川添:ぼくは会議内容委員会を作りなさいっていわれたわけよね。でも、ここに出てこないんですよ。浅田さんが、こういうメンバーで作りなさい、と。当然、浅田さん事務局長でしょ。事務局長が言ったんだから、これは、正式だろうって。それで丹下さんからのあれだって言うからね、でも、まったく入ってない。だから私的な機関なんですよ。だから給料なんて出るはずがない。

中谷:そういうことだったんですか。いわゆる公的な部分と同時進行していて、アヴァンギャルドの部分を浅田孝さんが。

川添:そう。「アヴァンギャルドをやるのに川添にやらせろ」って言っただけですよ。

中谷:世界デザイン会議を企画して準備したのはまた別の。

川添:それは実行委員会だよ。だから会議内容委員会じゃないんだよ。実行委員会しかない。

中谷:プログラムのコンテンツは。どっちが考えたんですか。

川添:合同会議をやったんですよ。会議内容委員会と実行委員会で。坂倉さんが委員長でやったんですよ。原案をこっちが出して、それを討議して。

鷲田:坂倉さんは実行委員会の方の委員長。

中谷:川添さんどこに出てくるんですか。

川添:だから入ってませんよ。そういう委員の中には入ってないんですよ。

中谷:それでコンチクショーっていってメタボリズムの本を作ったんですね。

川添:そんなつもりはまったく。ぼくら堂々と入ると思ってたよ。そういうこときちんと浅田孝が言わないんだよ。

中谷:なかなかの策士なのか、へたっぴなのか、よくわからない。あ、ほんとだ、ぜんぜん入ってない。

鷲田:実質的におもしろい最先端のグループを作ろうというのを丹下さん、浅田さんが考えて。会議内容委員会の考えていることに丹下さんは口出しはしなかったんですか。

川添:いなかったからね。

鷲田:世界デザイン会議の時に丹下さんも帰ってこられて。そのときにメタボリズムの本をご覧になったんですね。

川添:丹下さんが帰って来た頃には、ぼくらのやること無くなっちゃってたんですよ。世界デザイン会議の事務局は国際文化会館の中にはじめ置かれてたんですよ。そこは狭いですから、そこをそのまま借りたまま、坂倉さんの自宅の庭に、家を建ててる間に使ってたプレハブの事務所があったんですよ。そこを作業所として使ってましたね。
ぼくは瀬底(恒 編集者)さんから、『び』(註:『び Nature and Thought in Japanese Design』1960)という本を作る編集に、ぼくと伊藤ていじ(1922- 建築史家・建築・デザイン評論家)と二人でやってくれって言われたんですよ。

中谷:伊藤ていじのデザイン会議で作られたパンフレット。あれ、すばらしいですね。日本の図書館を片っ端から調べてみたら二冊しか現存してなくて。伊藤ていじも持ってない。むちゃくちゃいいんですよ。これで伊藤ていじはその後アメリカに呼ばれたんですよね。

川添:それを断りに行ったのかな。「『び』をやるのにとても忙しいから、ぼくは無理だから、それに一人でやった方がいいよ」って、断りに行ったんですよ。そしたら、坂倉事務所の作業所は戦場みたいにみんな忙しくやってましたよね。出たり入ったりしてね。そしたら、その真中にね、一人だけ座ってなにもしないできちんと座ってるのがいるんですよ。菊竹清訓(1928- 建築家)。菊竹さんもその話を噂で聞いて、これはぼくも行かなきゃいけないと思って行ったんだけど、みんなが忙しいから、どうしていいからわかんないから、じーっとして待ってたんですよ。

中谷:菊竹さんらしいですね。

川添:らしいんだよね。そのときは「あら、菊竹がいるな」ってくらいだけど、すぐに文化会館の方に戻らなくちゃいけないって戻った。戻りながらね、「そうだ、菊竹君がやったような、《塔状都市》とか、《海上都市》とか。ああいうので集めて未来都市の提案グループを黒川と榮久庵なんかと作ろう」って。そのときに思いついたんですよね。だからものすごい速さでできたんですよ。

中谷:それは、どのくらいの時期なんですか。もう会議直前。

川添:1カ月じゃ『び』はできないから、2カ月くらい前かな。

中谷:2カ月くらい。(カタログを見ながら)この頃のデザインいいですよね。この3種類(世界デザイン会議カタログ、『び』、『メタボリズム 1960』を見ながら)、みんな統一感とれてていいデザイン。デザイン会議パンフレットはぼく見たことなかった。火事場の馬鹿力みたいな形でこういうのが、ばんばんできていった。伊藤ていじも力ありますよね。

川添:伊藤ていじもそうだけど、瀬底さんがすごい。瀬底さんのやった『The Rice Cycle』(1974)って本知らない?これはぜんぜん後だけど。

中谷:これを貰った外国の人が喜んで、伊藤、伊藤っていって、伊藤ていじはその後アメリカに行っちゃうんですよね。
それで、坂倉事務所で、菊竹さんがぼーっとしてるのをみて、国際文化会館に戻る途中で「そうだ!」。それが2カ月くらい前。

鷲田:それがメタボリズム・グループの結成というわけになるんですね。

中谷:結成というか妄想のはじまり。

鷲田:『思い出の記』の年譜では59年に結成となってますけど、もう少し遅く60年のはじめくらいかもしれないと。

中谷:奥様が『メタボリズム』のパンフレットをデザインされた。星雲からはじまるんですよね。かっこいいんだ。

鷲田:これをもちろん丹下さんもご覧になったと思うんですけど。

川添:みんなに配ってくれるって言うから、「じゃあ、丹下さんその本買って下さい」って言って5冊くらい買ってもらって。

中谷:何部くらい刷ったんですか。

川添:あんまり刷ってないよね。1000部刷ったかなあ。500部限定なんてのかもしれないなあ。ぼくの家内が大下さんにずいぶんかわいがられてたんですよ。それで大下さんに頼んで。
その頃、出張校正っていうのがあったんですよ。印刷会社まで行ってね、出張校正室っていうのがあってさ、最終稿をそこでやるんですよ(註:凸版印刷板橋工場)。それで菊竹さんや槙さんなんかと夜遅く行ったら、美術出版社の大下正夫さんがケーキかなんか買ってね、陣中見舞いに来てくれた。

鷲田:7月15日に初版ですね。

川添:ほんとうは、こういうの会場で売っちゃいけない規則になってるんですよ。それで大下さんは気を回してね、国際文化会館のほとんど真ん前にちっさな本屋さんがあって、その本屋さんに卸してた。ぼくらが卸してたんじゃないんだ。初日に間に合うようにしてくれた。

中谷:ほとんど完売ですか?

川添:完売なんかしませんよ。

中谷:欲しかったなあ。古本屋でみたことないから。500部じゃねえ、なかなか出ない。
そういう関係性のなかでメタボリズムが生まれたんですね。

鷲田:その後、丹下さんがメタボリズムに対して、置き換わっていく部分と置き換わらない部分の関係を固定してしまうと批判された、と先生の本(註:「文明の変身」『現代のデザイン』所収、1966年)に書かれていましたが、丹下さんとメタボリズムの関係は。

川添:丹下さんは、奥さんが変わるまでは、ぼくのことをすごく信用してくれてたと思いますよ。あんまり調子が合わない時もありましたけどね。

中谷:奥さんが変わると入れ知恵するわけですか。あいつはダメかもしれないとか。

川添:入れ知恵するでしょ。広島計画3部作。問題は、一番左の講堂なんですよ。講堂は多目的ホールで、まわりにホテルがあって。その当時、これ丹下さんの設計じゃなかったんですよ(註:1955年に《広島市公会堂》として建設。当初西隣に新広島ホテルも建設された)。ようするに公会堂でしょ。他は広島だけのものだけど、公会堂はどこの都市にも必要なものだから、広島市だけ特別扱いするわけにはいかないっていって予算が出なかった。だから地元でお金集めた。たぶん一番の金主は東洋工業じゃないかと思うんだけどね。そこのお出入り建築家がやった。これ早稲田だよなあ。早稲田の明石(信道)さんの同級生だった。「おれが言ってやる」とかなんとかいって明石さんがはりきってたのにね、その後、「「手を出すな」って今(和次郎)さんに言われたから止めた」って言って。

鷲田:デザイン会議の後の1962年に《未来の都市》展(註:1962年10月 池袋西武百貨店 企画:菊竹清訓・川添登 展示:粟津潔 菊竹、大高正人、黒川紀章、丹下健三、大谷幸夫、磯崎新の模型・図面、粟津、真鍋博のイラストを展示)が行われていますが。

川添:菊竹さんが西武関係の仕事をやってたんだよね。堤さんのお兄さん(註:堤清二 1927- 実業家。また辻井喬として詩人・小説家)が社長だった頃。たとえば銀座の西洋ホテルも菊竹さんだから。やっぱり堤さん。

中谷:池袋パルコのファサードも菊竹さんなんですよね。ずっと菊竹さん。

鷲田:展覧会はよく行われていたんですか。

川添:菊竹さんが、それをとってきたんだろうと思うんですけどね。月例展覧会みたいなのを堤さんが企画したやつとして、菊竹さんか言ったか堤さんが言ったかわかんないけど、「メタボリズム:未来の都市」展ていうのをやったらどうかって。

鷲田:たとえば、1966年の銀座松屋の「空間から環境へ」という展覧会(註:「エンバイラメントの会」によって主催。建築からは磯崎新が参加。他に粟津潔、瀧口修造、靉嘔、高松次郎、泉真也、奈良原一高、大辻清、一柳慧らが参加)は関わってらっしゃらないですか。

川添:ぼくはかかわってない。

中谷:環境だったら浅田さんですよね。

川添:浅田さんやったかなあ。

中谷:基本的に環境という言葉を最初に意図的に使ったのは浅田さんですよね。
磯崎さんがメタボリズム展に出した《孵化過程》について川添さんから文句を言われたって書いてたけど。「メタボリズムは未来をまじめに考えるんであって、未来は廃墟であるとはなにごとか」って怒られたって書いてあるんですけど、ご記憶にありますか。

川添:言ったかもしれないねえ。

中谷:それが「メタボリズム:未来の都市」展ですかね。もし川添さんと磯崎さんが出会うとすれば。

川添:どっかで書いてるかもしれない。ぼくはほんとにおっちょこちょいで。足をすべらすこといっぱいあるから。

中谷:磯崎さんが出した展覧会と、先ほどの「未来の都市」展ていうのは同じ。

川添:同じだと思いますよ。

中谷:やっぱりそこですね、合流点はね。

川添:菊竹さんが「やっぱり磯崎さんは頭いいですね」って言ってた。一番困ったのは画家の真鍋博。

中谷:困った。

川添:困ったですよ。線描きのあれでしょ。それはきちっとした方がいいんです。彼の描くものをね大きなのでやったら見られたもんじゃないですよ。

中谷:真鍋さん基本的には細密画ですからね。

川添:それで粟津くんがね、きちっとやったら怒ってね。「メタボリズムの会員と差別するのか」って。しょっちゅう相手がなくなったらぼくんところ来てね「何かないですか」って言う。

中谷:よく川添さんの論文には真鍋さんのカット使われてましたよね。

川添:わりあい仲よかったんですよね。

鷲田:その後『デザイン批評』(註:風土社発行の雑誌。粟津潔、針生一郎、川添登、泉真也らが編集にあたる)が1966年からはじまって、そこに参加されていくんですが、これはどういうきっかけで。針生さんからですか。

川添:針生くんはそういう能力はまったくありません。

中谷:ぼくはむしろ1962年の「未来の都市」展の頃にそれまで面識のなかった政治学者松下圭一(註:1929- 政治学者 シビルミニマムの概念を提唱した『シビル・ミニマムの思想』1971)に誘われて「自治体研究会に参加」云々ていう話に興味があります。高度経済成長期の日本の状況にあって、メタボリズムが、ひとつのヴィジョンとして、国際デザイン会議の後に受入れられていった。とくに上層部というか、そういうところのコミットメントというか、経緯があったら教えて欲しいんですが。

川添:「シビルミニマム」なんていうのは松下圭一の言葉だよね。ところが松下圭一は自治体の仕事しかしない。国家の仕事はしない。横浜は、鳴海正泰がしょっちゅう講演なんか行ってたりしてたんだから。(でも松下圭一は)「あんな大都市でそんなのができるはずがない」って。だから完全なコミュニティー主義者なんですよ。だから三鷹かどっかの仕事しかしない。スモール・タウンくらいの。そういう点では一番筋が通ってるよ。ぼくみたいないい加減じゃない。

中谷:メタボリズムはもう少し考えてることが大きいですよね。

川添:だけど、ぼくのことは何だか知らないけど買ってくれてた。当時の横浜市長、飛鳥田一雄さんはかわいがってくれた。

中谷:「新しい東京の会」(註:1963年、小田実、菊竹清訓、篠原一、関根弘、松下圭一、真鍋博らと結成)のメンバーをみてると面白いですね。小田実(1932-2007 作家・平和運動家)が入ってるんですね。『なんでもみてやろう』(1968年)の小田実ですね。

川添:松下圭一と小田実と鶴見俊輔(1922- 評論家・思想家)と、そういうメンバーが筑摩書房の『展望』(1946-51年と1964-78年刊行)ていう雑誌の、編集委員というか私的な委員かなんかでね、二カ月にいっぺんくらい神田の安料理屋さんの二階で「なんでも言ってやろう」て、なんでもべらべら喋る、思ったことをなんでもかまわず喋るていう会があった。それを『展望』の編集者達が聞いてて、これは雑誌のアイディアになるなと思ったらとか、だから使えるか使えないかわかんないけど、とにかく自由に横断化していく。それで小田実から相談された松下圭一が、ぼくをその仲間に呼んでくれたんですよ。

中谷:小田実さんや松下圭一さんはどちらかといえば草の根派ということになるんですが、でも基本的にメタボリズムは草の根派というよりは、メガストラクチャーどんと作っていう、もっと大きな体制派っていったら変だけど…。

川添:まあ、つながりやすいですよね。

中谷:その他にも、そういう人たちからのアプローチはいっぱいあったと思うんですけど。政策立案とか。

川添:それはいっぱいありますよ。CDI(註:コミュニケーション・デザイン研究所 代表取締役所長は加藤秀俊、川添は代表取締役に就任)ですね。大阪万博やったでしょ。ぼくはその前から梅棹忠夫(1920- 民族学者)とか多田道太郎(1924-2007 仏文学者)は知ってましたけど、その時に東京の建築家・デザイナーと関西の知識文化人とが会ったわけですよ。共同作業をやったわけだよね。話し合ったり。大阪で万博の会議をやるでしょ。その後ほとんど必ず、京都に行って二次会をやるわけですよ。テーマ委員会とかさ。サブ・テーマ委員会とか。いろいろあるでしょ。それの流れで1970年10月CDI設立。

中谷:万博のサブ・テーマは1966年くらいですよね。ここらへんから、もっと大きなデザイン、空間的にもっと政治的なデザインに組み込まれていくと。CDIはどういうものなんですか。

川添:コミュニティー・デザイン・インスティトュート。京都信用金庫(註:当時、榊田喜四夫理事長)に金を出させて、京都信用金庫の店舗をやる。それだけじゃなくて、そこが自治体からいろいろ仕事をとったんですよ。たとえばさっきの丹下さんの広島の講堂を、ずっと後になって作り替えるんですよ(註:前述の講堂=広島市公会堂および新広島ホテルを取壊しの上建て替え、1989年、丹下健三設計の広島国際会議場が建設される。また丹下は2002年にも広島平和記念公園内に国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を設計している)。その一番先に構想計画の段階で、丹下さんの事務所とCDIが協働でやってくれってもらったんですよ。日比谷の市政会館の中にある会議室でね、広島市長(註:当時は荒木武 1916-1994、1975-1991年広島市長)か助役が来て、最初だから市長が来たのかな、CDIとURTEC(丹下健三・都市・建築設計研究所 1961年設立)が集まって会議を開くことになってた。そしたら、丹下さんとこのが、いつまでたっても来ない。そのうち誰かがやってきて、丹下さんのメッセージが読み上げたんですよ。「構想の段階から完成までを一貫してやるのが建築家で、CDIなんて聞いたこともない」とかそういうの。それでさっと帰っていっちゃった。とにかくどうしようもないから、その場はそのまま帰ったんだよね。加藤秀俊(1930- 社会学者)がこれは「やるとやばいんじゃない?」ぼくに言うんですよ。丹下さんの「醜の御楯」になる恐れがあるんじゃないって。そんなの別に大したことないって思ってたけどね「ちょうどいい。じゃあ、やめちゃおう」ってぼくがいったんですよ。それで「CDIは引かせていただきます」って電話した。そしたら市長がびっくりしてね、「とにかく明日上京するからまた来てくれないか」って。「いいですよお会いします」って。「どういう理由か」って聞くんですよ。「仕事の重要さをCDIはわかってない」。「とんでもございません、日本国内だけでなく世界的にもこれはたいへん重要な仕事だと思ってます」。「それがわかってるのになんで断った」って。「それはCDIのために、広島市と丹下さんの具合が悪くなったら申し訳ないから、それで引かせていただきますって申し上げたんです」。そしたら市長さんが、これは筋が通ってるって逆に感心されちゃったんですよ。「それは責任もってやれるようにするから、そのときはやってくれ」って言われて。そのときの誰か法務大臣がまた市長に電話して、今度上京する時に、そのときに出入りに寄りなさいって。そしたら丹下夫人がいて。

中谷:恐いですねえ。

川添:恐いですよ。それで、結局、丹下さんとこが折れた。仲直りして一緒にやった。「丹下さんCDIと組んだ方がいいんですよ、悪いことは全部CDIのせいにしてもらったらいいんですから」つって。そしたら「いやあ、それは、分かりました、分かりました」て。

中谷:とても面白いと思ってお話を伺いました。丹下さんとCDIのやり方の根本的な違いってありそうですね。

川添:丹下さんは自分のやりたいことをやる。こちらはお客さんのやりたいことをより面白くやるっていう。

中谷:複数でやる。

川添:複数ってぼく一人の場合もあるよ。CDIの代表として出て下さいとか、無いわけではない。

中谷:公共とか行政がどっちに仕事に頼みやすいかっていうと、民意を得やすのはCDIですよね。

川添:あきらかにCDIですよ。黒川と磯崎がつるんでた時期があるんですよ。一方が審査長になって、一方が指名コンペですよ。そうすると実際に実施案になったようなやつが、いいかどうか危ないなっていうのは自治体でも分かるところは分かるわけ。それを実施に移す場合に、どういうことを注意したらいいか、CDIがやる。関西関係ほとんどCDIですよ。だから面白かったですよ。磯崎と黒川、どういうふうにつるんでるか。だけど、面白がって見てるだけだから、覚えてないねえ。もっとメモでもとっとけばよかった。

中谷:ようするにそういうときにはCDIはお目付け機関なんですね。

川添:それと国土庁の事務次官だった下河辺(註:淳 1923- 都市計画家・建設官僚。1977年国土事務次官。1979年退官し総合研究開発機構(NIRA)理事長就任)さんが非常に強く押してくれた。

中谷:メタボリズム、複数性、といった問題と、国家行政の繋がり方がいかにマッチしてたかっていう。まさにメタボリズムですね。

川添:マッチしてたんでしょうね。だからねえ、ぼくみたいに悪い奴はいないと、思ってる奴もいるんじゃないかと思うね。

中谷:CDIすごい儲かったんでしょうね。

川添:儲かりましたよ。

中谷:話聞くだけで儲かりますよね。ぼくも乗りたかったな。

川添:もうひとつね、大阪万博でぼくら空中テーマ館やったでしょ。空中テーマ館は「未来」だから、何もないんですよ。いま書きかけてたんだけどさ。丹下さんも何のアイディアもない。地下テーマ館は過去ですからね、これはなんでもあるわけですよ。だから、岡本太郎(1911-1996)や小松左京(註:1931- サブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデューサーとして岡本と《太陽の塔》内部展示のDNA巨大模型や、地下スペースの石毛直道ら蒐集の世界の神像・仮面展示を手がけた)が好きなようにやればいいんですよ。そして空間もあるんですよ、地下がそのままなんですから。全部ふさがってるんだから、こんな展示やりやすいこともない。ところがさ、スペースフレームは60度の角度と水平の骨組みだけで、垂直の柱が一本もないんだよね。そうするとカプセルしかないんですよ。それで、それはまあ黒川に任してなんとかやれると思った。それでもね大屋根っていうのは金食い虫でね、もうどんどんどんどんコストが上がっちゃうんですよ。「万博単価」なんかも値上がりするしね。それからあれを上げるジャッキがさ、アメリカにしかないからさ。丹下さんと長島正充がわざわざ行くとかね。これをアメリカにこっちから頼みにいって、これも「万博単価」なんだから。それで飾るものが何も無いわけでしょ。デザイン料っていって制作費がでるけどさ、ソフトになんてでないですからね。どうやって安くて仕上げるか。

中谷:万博の委員会の中枢にはおられたんですか。

川添:空中テーマ館担当のサブ・テーマ委員ですよ。「人類の進歩と調和」っていうのを作ったのはテーマ委員なんですよ。その下に4箇条くらい付け足したんですよ(註:「宇宙」「人間」「世界」「生活」)。《矛盾の壁》(註:「世界」の展示の一つ)とか。それがサブ・テーマ委員で。それに未来学会を作った林雄二郎とか梅棹忠夫とか小松左京とか入っていて。

中谷:そのサブ・テーマ委員の方向に則って、さまざまな展示が決められた。

川添:それを実行に移すのは、協会の機関ですよ。メイン・テーマは全体がやるんだけど、サブ・テーマになると、今度はそれぞれの企業で勝手にやりますからね。自由に選んでなんでも理屈つけてやればいいんだから。それをちゃんと実行しなくちゃいけないのが、展示なんですよ。

中谷:その展示委員は、誰に任せるとか誰にデザインさせるとかいう権限は川添さんが持っていた。

川添:いやテーマ委員の岡本太郎ですよ。ぼくは丹下さんに頼まれて。

中谷:サブ・テーマ委員はじゃあ言葉だけを決める。

川添:言葉を決めたのはサブ・テーマ委員でこれは協会から頼まれた。丹下さんは協会から頼まれている。ぼくは丹下さんのところから全部引き受けてる。展示の方は岡本太郎が引き受けたから、現代芸術研究所がぜんぶ引き受けてます。給料やなんかは、丹下さんとか岡本さんのところにいって、そっから回ってくるわけですよ。それでなんにもナッシングのところから展示をやらなきゃいけない。

鷲田:岡本太郎が展示プロデューサーで、その下にサブ・プロデューサーが何人かいたということですね。

川添:ぼくはここ(万博プログラム)には名前が入ってないね。正式な機関じゃないんだ。丹下さんから頼まれただけであって。

中谷:木村恒久(1928-2008 グラフィックデザイナー)さんを採用したのは川添先生。そういうセンスがあるんですね。

川添:それは《矛盾の壁》。そういうのはみんな奥さんに聞けばわかる。木村恒久って古武士みたいな感じで。面白いねあいつね。本屋で立ち読みして買おうか買うまいかで結局買わなかったんだけど、木村恒久がどっかの雑誌で「万博します」っていうようなことを書いてんだよね。万博展示なんてやったからどういうハメに陥ったか、なんてことを書いてる。

中谷:たいへんなことですもんね、木村さんの原爆展示なんて。木村恒久さんなんかどちらかというと反万博かと思ってたら、この頃、川添さんに引き抜かれて万博やったんですね。なかなか複雑な。(註:空中テーマ館に展示された木村恒久のフォトモンタージュ《矛盾の壁》、とくにその中の原爆展示に対して、政府・主催者から否定的な意見がでたが結局そのまま展示された)

鷲田:反万博との関わりはどうだったのですか。『デザイン批評』も針生さんの反万博の立場で終わっていきますけど、そういうところで議論はあったんでしょうか。

川添:万博をやって、いろいろ大変だった。何のためだったか忘れたけど粟津君のパーティーかなんかでね、ぼくが「ぼくは万博やって事業起こして、そのとき粟津君に助けてもらった」なんていう挨拶をしたんだよね。その次が針生だかなんかで、その時にさ「だから万博なんかやるんじゃない」って、「ぼくが言ったのはそういうことだったんだ」ってね。あれは人の批判しかできないんじゃないかっていつも思ってるんだけど。

中谷:ここまでで、川添先生の未来的な部分と国家とのつながりはかなり明瞭にわかりました。

鷲田:ここで歴史的な部分、伊勢についてお聞きします。伊勢神宮に関心をもたれたのは、丹下さんからの勧めだったということでしょうか。行かれたのが1959年。

川添:丹下さんがぼくらの仲人なんだよね。それで丹下さんが新婚旅行は伊勢に行けって。それまで伊勢行ってないんだよ。音楽家だったら楽譜をみればメロディーとかハーモニーとか浮かんでくるはずなんですよ。だから「建築も図面を見ただけでその建物のイメージが湧かないようなのは建築批評なんてできない」なんて僕は言ったんだよ。丹下さんはそこが気に入って、「この人は見ないで書く批評家だ」なんてみんなに宣伝するんだよ。

中谷:イデア的なものはわかるってことですよね。

川添:ところがさ、ある日突然ね、「川添君やっぱり建築は見なくちゃわからないねえ」って。それが今、どうにかして証拠を見つけようと思ってるんだけど見付からないんだけどイサム・ノグチ(1904-1988 彫刻家)がね、東京、日本に来て、最初の来日じゃないんだけど、伊勢神宮に行ったんだよね(註:1951年の来日時か?)。当時はまだ占領下でしょ。だから占領軍の将兵がね、宇治橋をジープでブーンて渡って、砂利をパーッとはねつきながら砂利道をズーっとやってね、車は降りるにしても、平気で中まで入っていっちゃった。それを日本の神官でも止められなかったんだよね。占領下ですから。イサム・ノグチは見るからにアメリカ人だから、それで中まで入ってばちばち撮ってきた。今にして思うと遷宮の前なんだよね。それで戦争があったもんだからね、遷宮が4年遅れてるんですよ。例えばブルーノ・タウト(1880-1938 建築家 1933-1936年日本亡命)なんて外宮の方がいいって言ってるでしょ。ひとつには外宮っていうのは、平土間に建ってるとはいえ森林がまわりにあって、森がこう迫ってきているだけにね、腐りが速いんですよ。それでぼくはじめて行ったときびっくりしたんですよ。それで、(『建築と伝統』掲載の「アズテック・コアトリクエの像」の図版を指して)このメキシコのおどろおどろしいでしょ。これを思い出したんですよちょうど。
一番最初に岩波書店の『文学』に書いたんですね。この道を向こうに行くと、ちょっと忘れたけど、文京区と豊島区のあいだくらいの高台みたいなところに建設省のアパートがあって。そのアパートの一室に伊藤ていじが住んでたんですよ。ぼくが新建築にいる頃。夏なんかね、夜になると食後に下駄履きで遊びに来てたんですよ。ぼくも遊びにいったりしてた。そのアパートの隣に岩波の『文学』の編集者の熊谷さんとかいったかな、がいて、そこで伊藤ていじと建築について3本くらいで小特集みたいなのやりたいからって言って、伊藤ていじと相談して、ぼくと宮内の3人が書くことになって書いたんですよ。その時、『文学』に「伝統論の出発と終結 伊勢神宮の造形について」を書いて(1959年6月号)。これが建築雑誌以外に書いた最初じゃないかな。これが桑原武夫(1904-1988 仏文学者)さんからたいへん褒められたんだよね。それで『大学ゼミナール双書』の「芸術論集」ていう巻のなかに入った(河出書房新社、1961年)。それで、それなりに有名なっちゃったんですよ。伊勢神宮は清楚にできてると思ってるでしょ。そのまったく逆を書いたから驚くに決まってるんだ。それなりに理屈つけて書いた。それを何で思いついたかっていうと、イサム・ノグチの写真なんだよね。それは『アサヒカメラ』かなんかに載ったのを家内がみつけてきたのかな。それで縄文的なるものってやってましたからね。

中谷:伊勢神宮は伝統論争のなかからすれば、縄文的なるもの中のひとつの原型として位置づけられたっていうことですよね。

川添:そのうち、そのノグチ・イサムの写真もこれも幻想じゃないかと思って。分からないんですよ。
丹下さん自身が、文化人の特別な人を招待して見せる機会が二度ほどあるんですよね。そういう話を丹下さんに聞いてたんですよ。それより写真なんだけどね。新殿が建てられて、すぐには撤去されないわけです。しばらく置いてあるのね。中世以前は立ち腐れるままずっと建ってた。とにかく24年放置されてた。20年でも相当に荒れるのに、しかも戦時中でしょ。だから管理もうまく行き届いてなかったと思うんだよね。それをイサム・ノグチが興奮して写真にとってた。
ただ、ぼくの記憶にあるのはね、当時のビルマ(註:現ミャンマー)。わりあいに日本人が入りやすいところだったんですよ。いまは軍事政権になってダメですけどね。ビルマっていうのはものすごいジャングル地帯があってさ、日本軍はものすごい苦労したわけでしょ。そこを撮った写真が、これこそほんとに縄文時代の昔の日本の大木で作ったようなね、巨木で作った民家をね写真撮ってんですよ、その写真にはびっくりして。ビルマのそっちの民家の方も、さっき言ったみたいになにもそれを裏付ける資料もないから。

中谷:1959年くらいから、伝統論争その後くらいから、伝統には興味をおもちで、自分で伊勢を発端として書きはじめるっていうことですよね。先生の構想の跳び方って非常に物語性豊かではないですか。それには前史としての童話作家っていう影響はある。

川添:それは、あるでしょうね。宮沢賢治の童話なんていうのはね、今度、伊勢神宮について書いた本(註:『伊勢神宮 森と平和の神殿』2007)にね、ほんとは挿し絵なんかで入れたいなって思うんだけど、宮沢賢治の描いた絵で、《日輪と山》ていうのがあるんですよ。伊勢神宮の東にある朝熊ケ岳は、伊勢神宮から見て、その向こうから太陽が昇ってくる。ぼくのそれのイメージは宮沢賢治の日輪なんですよ。そういうことほんとはいろいろ書きたいんですよね。だから今度この第二巻「建築としての伊勢神宮」ていうのを『近代建築』で連載しようと思ってて、そこではそういうこと書こうと思ってる。

中谷:ちょっと話が飛びますが、渡辺保忠(1922-2000 建築史家)さんがぼくの先生の先生なんですが『伊勢と出雲』(1964 写真:渡辺義雄)を書きましたよね。川添さんと似てるところがあると思うんですが。建築史的な書き方はしてますけども、あれは読まれている?

川添:読んでますよ。早稲田のところを歩いてたらね、渡辺保忠に会ってね。だいたい伊勢神宮は、古代史やってる建築家のなかでは誰も手を触れようとしない花園だった。そこに川添登というよそ者が侵入して荒らしていった。「おまえは同じ早稲田なんだから、建築史家としての伊勢神宮論を書け」って太田博太郎(1912-2007 建築史家)さんに言われたんだって。その時、保忠さんが言ってたのは、「法隆寺再建論・非再建論」(註:1900年前後に始まる関野貞・喜田貞吉を中心とした論争)ね。だからなにかテーマをみつけて、おまえ反対だ、こっちはとか言ってね。そういう論争を仕込もうじゃないかって、太田博太郎が。ところが、これは証拠がないから、論争が成り立たないと。それじゃあダメだって言うんでやめになった。ぼくは「そんなバカな話はない。そういうのに決着をつけるのが歴史家じゃないのか」って言ったの憶えてますね。それで保忠さんにも、太田さん本人にも言いましたよ。ぼくはずけずけ言うから太田さんにずいぶん可愛がられましたよ。ぼくは東大の先生からずいぶんかわいがられましたよ。吉武泰水とかすごくかわいがられた。

中谷:やっぱり伊勢論は一石を投じたんですよね、歴史家にとっても。この福山(敏雄 1905-1995 建築史家)さんみたいにとりあえず文書だけ記録しておこうって言うのじゃなくて。

川添:いやあ福山さんえらいよ。

中谷:よく、がまんしてますよね。

川添:いや、がまんていうか、丸山(茂 1948- 建築史家)くんだって批判してるよね。丸山くんの批判はぜんぜんあたってないけどさ、そういう連中からみたら、がまんしてないんじゃないの。

中谷:そうかな。丸山さんもある意味がまんしてないですけどね。

川添:あの人は。だけど、ああいう細かいところをやる人。ぼくは割合好きなんだよ。

中谷:丸山さんは、神社建築論では、福山さん、川添さんの世代から20年後、30年後に出てきた世代ですよね。

川添:専門の歴史家でもね、ちゃんと文献読んでないのが多いんだよね。

中谷:そうですね、すいません、とかいって。そうですか?

川添:ちゃんとやってる連中っていうのはだいたい言語学者よ。

中谷:伊藤ていじさんからおもしろいこと聞いた。どうせおれが読んでも間違えちゃうから、古文書を借りてきたら全部東大の図書館で読んでもらって、すぐに返すんですって。それを使って書いてるって。へーさすが、頭のいい人だなあと。
万博とかやりながら、伊勢とか伝統論をずっと書かれてますよね。それは先生のなかでどういう意味があったんですか。バランスですか。

川添:ぼくの意識では、同じっていうとおかしいけど、たとえば、空中テーマ館で4つのカプセルつくってね、object、subject、project、ejectというコンセプトで考えたのですが、そういうのを新建築で考えたりするのと同じレベルですよ、論理的にはね。どっちも建築だし、デザインなんだから。それほど違いはないですよ。

中谷:万博のなかで考えられる川添さんの国造りのイメージというか、メタボリズムのなかで考えられる国造りのイメージと、伊勢に代表されるような初期建国のイメージとはだいぶダブるところがあるということでしょうか。

川添:ダブりますよ。ものすごい進歩してるけどね、逆にいうとまだまだ進歩がたりないんじゃないかっていうね。

中谷:出雲大社が16丈とかすごい高いなんていうのは、迫力で言えば万博よりすごいかもしれませんもんね。

川添:出雲大社の復元の10分の1の模型が、槇(文彦 1928- 建築家)君がやった出雲博物館(註:《島根県立古代出雲歴史博物館》 2007)のなかへ展示してある。その前に東京で模型のオープン展示があって、それが新宿プラザホテルのロビー。偶然に行ったら。10分の1だから5m。でっかいなーと思って。そしたらね、柱が上から下まで同じ太さなのね。それで『伊勢』の続編に「こういうのは、だめなんだよ」って。「こんなのは素人でもわかんなくちゃいけない」って書くつもりなんだけど。考古学者のなかでも、太田さんが唯一「この人しかいない」っていう宮本(註:長二郎(ながじろう) 1939-  奈文研・文化庁・東文研を経て東北芸術工科大学教授)さんていう人がいて、発掘調査やなんかが全部そこに集まるんですよ。宮本さんはそれをわかって復元やってる。やっぱり太田さんが目をつけるような学者はやっぱり違うよ。

中谷:やっぱり建築の素養というか、構造とかわかってないと絵に描いた餅。

川添:いや、建築が分からなくたって、そんな素人でも分かることが分からなくちゃだめだということですよ。

中谷:ちゃんとした人なら絵に描いた餅にならないけど……

川添:いや、この人。福山さん(笑)

中谷:(笑)。あまり深入りしないようにしよう。