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2017年7月9日(日)
シンポジウム「戦後日本美術の群声」

会場:東京大学駒場キャンパス21KOMCEE East 地下1階K011

プログラム

開会の辞:池上裕子(神戸大学准教授、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ副代表)
発表:
「「戦後」と「美術」の残りものから 前衛美術会の声を拾う」足立元(二松学舎大学講師、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ)
「言葉にならないもの オーラル・ヒストリーと女性アーティスト」中嶋泉(首都大学東京准教授、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ)
「在日コリアン美術とオーラル・ヒストリー 四コマ漫画家全哲を中心に」白凛(東京大学大学院博士課程)
「作品《オーラル・ヒストリー》について」小泉明郎(アーティスト)
コメント
鈴木勝雄(東京国立近代美術館主任研究員)
ディスカッション
パネリスト:足立元、小泉明郎、中嶋泉、白凛、発表者、鈴木勝雄、加治屋健司(東京大学准教授、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ代表)
質疑応答
閉会の辞:加治屋健司

池上裕子:皆さん、こんにちは。お待たせしました。少し開始が遅れてしまい、申し訳ありません。13時35分になりましたので、始めさせていただきたいと思います。日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの池上裕子と申します。よろしくお願いいたします。今日ご来場いただいた方たちはご存知の方が多いかと思うのですが、この団体は美術の分野に携わってきた方々にロングインタヴューをおこなって、その書き起こしを公開するという活動をしています。2006年に組織としては発足しまして、2009年にはウェブサイトを立ち上げて、書き起こしの公開を始めました。ちょっと皆さんにご質問なんですけれど、そのサイトでインタヴューを読んだことがあるという方、どれくらいいらっしゃいますか。〔会場挙手〕ほぼ全員でしょうか。ウェブサイトを立ち上げて10年近くがたって、多くの方々から認知をいただけているのかなとありがたく思います。運営としては、石橋財団や科学研究費などの助成金を得てこの10年あまり活動してきました。シンポジウムとしては、2009年に「オーラル・アート・ヒストリーの可能性」、2010年に「オーラル・アート・ヒストリーの実践」と題して、大阪と東京でシンポジウムを過去におこなっています。どちらかというとそのときは、団体自体の周知を目的として、オーラル・ヒストリーというメソッドをどういうふうに美術の文脈で活かして活動していくのかをお知らせしていくことに重きを置いていました。ですが、この会場でも非常に多くの方が書き起こしを読んだことがあると手を挙げてくださって、ある程度認知がされているということをふまえて、また、現在公開できている書き起こしが90近くあるのですが、資料体としてもある程度の蓄積ができたところで、今回は「戦後日本美術の群声」というタイトルでシンポジウムを行うことにしました。「戦後」も「日本」も「美術」もそれぞれ括弧に入れて考えるべき非常に大きな、問題含みの概念です。実際、「戦後美術」と銘打ってしまっただけで、たちまちそこから見えなくなるもの、こぼれ落ちるものがたくさんあると思います。そういったところに目を向け、また耳を澄ますということを目的として、今回のシンポジウムを企画いたしました。アーカイヴのメンバーも発表しますし、外部からお招きした研究者やアーティストの方にもお話しをいただきます。本日の催しは後日書き起こしを公開することを前提に録音・録画しておりまして、報道・取材関係の方以外の録音や撮影はご遠慮いただいておりますので、どうぞご理解ください。それでは、本日の司会進行は日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのメンバーである辻泰岳さんにお願いしています。よろしくお願いいたします。

辻泰岳:ご来場ありがとうございます。お手元のプログラムにもありますが、まずは4名の方にご発表いただきます。プログラムに若干の誤りがあり、発表の順番は足立さん、中嶋さん、白さん、小泉さんの順でお願いさせていただきます。各発表の後には質問の時間を設けずに、最後の質疑のお時間のときに皆様にもご質問をいただければ幸いです。その後、休憩をはさみまして鈴木勝雄さんにコメントをいただきディスカッションをおこないます。最後に質疑として皆様にも議論に加わっていただきます。時間もおしていますので早速、発表に移りたいと思います。まずは「「戦後」と「美術」の残りものから 前衛美術会の声を拾う」、二松学舎大学、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの足立元さんにご発表をお願いします。よろしくお願いいたします。

足立元:足立です。「「戦後」と「美術」の残りものから 前衛美術会の声を拾う」という題でお話しします。今日は、私自身のうまくいかなかったオーラル・ヒストリーの話を中心にお話しします。このオーラル・ヒストリー・アーカイヴから創立時から関わっていながら、私自身はあまりインタヴューの技術が上手くないな、と反省するところしきりでして、ちょっとそうした失敗談、そうしたものの反省を中心にお話ししたいと思います。まずそもそもオーラル・ヒストリーは何かというところから、私の認識のところから話を始めて、次に具体的な、うまくいかなかったオーラル・ヒストリーについて話し、最後に失敗しても転んでもただでは起きないというようなこと、失敗したオーラル・ヒストリーから考えたこと。すなわちアーカイヴ不可能な闇に触れるということについてお話しして締めくくります。
 さて今日、美術関係のアーカイヴとしては、たとえば東京文化財研究所などに膨大な文字資料があります。ひとりでは一生かかっても読みきれないほどの膨大な量です。そのなかでオーラル・ヒストリーとは、文字で歴史を残さなかった人々にインタヴューをおこない、インタヴューと共同で自叙伝をつくる、すなわち半自叙伝のようなかたちで資料をつくるという研究方法です。その目的はもちろん既存の歴史には書かれなかった事柄を明らかにすることであるし、究極的には声なき弱者の立場に寄りそって、強者がつくってきた歴史を書き換えるということにあるでしょう。
 もっともそういうことがうまくいくとは限りません。たとえばこの日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴは実際のところ、既にさんざんインタヴューを受けている有名なアーティスト、言ってみれば強者のアーティストばかりをインタヴューをしています。そのなかでちょっとした知られていないことを明らかにすることもあります。過去の有名な出来事について、いろんな人の思い出を交差させることによって、新しい見え方が浮かび上がるということもあります。しかし、声なき弱者はどこに行ったのでしょうか。歴史学におけるオーラル・ヒストリー本来の目指しているものとは、美術においてはずいぶんずれてきてしまいます。そして、アーティストとしての弱者とは一体どういう存在でしょうか。それは失敗したアーティストなのでしょうか。もしそうだとしても、むしろ私たち歴史研究者がわざわざインタヴューする対象というのは、たとえば重要な運動に関わりながら、有名なアーティストの陰に隠れて見えなくなってしまった存在です。
 しかしオーラル・ヒストリーによって埋もれたアーティストにインタヴューするというのは、何ともアーティストに対して失礼なことではないでしょうか。事実、多くのアーティストは日陰者や弱者として見なされたくはありません。むしろそういう人々から声を引き出すときには、オーラル・ヒストリーという方法自体が障害になることさえあります。これは歴史と美術の間のジレンマと言ってもいいでしょう。歴史学のオーラル・ヒストリーでは、弱者の味方という立場が有効かもしれません。一方で、表現の価値判断の世界である美術には、そういった立場がかえって邪魔になることがあります。アーティストたちにはプライドがあります。自分が評価されなかったアーティストであり不遇の日陰者だと、私のような若輩者から見なされるのはそんなに心地よいことではないかもしれません。
 そうしたジレンマをうまく乗り越えて、公開までに至ったオーラル・ヒストリーもあります。このアーカイヴの宮田有香さんらがおこなった和泉達さんへのインタヴューで、彼はハイレッド・センターの四人目の参加者と言ってもいい人物ですが、これまでインタヴューらしいものはなかったし、書いているものもありませんでした。しかし戦後日本美術において注目すべきラジカルなコンセプチュアル・アートの作品をつくっていたこともある方です。その作品の内容を明らかにしたこともこのインタヴューの功績です。そしてやはり、そうした理論的なバックグラウンドがあればこそ、話し言葉においても非常に雄弁で内容のあるものでした。今後のハイレッド・センターを巡る60年代美術史研究はこの和泉オーラル・ヒストリーをふまえた上で、修正されて再構築されていくことでしょう。
 しかし今日は私自身が担当した、歴史と美術のジレンマをうまく乗り越えられなかったオーラル・ヒストリーについてお話ししたいと思います。何が原因でうまくいかなかったのかといえば、やはり私自身のインタヴュー技能の至らなさに他なりません。ただ和泉さんとは違って、そのインタヴュー対象者には理論的なバックグラウンドが欠けていたこと。また和泉さんよりもご高齢なために、インタヴュー自体が困難だったことが一因として挙げられます。とはいえ、うまくいかなかった過程から考えたことについてお話しすることは、今後のオーラル・ヒストリーや戦後美術史についてもいくらか有益なのではないかと思います。つまり美術史におけるオーラル・ヒストリーが抱えるジレンマだけではなく、その限界を見定めることで、美術史を裏側から支えるものは何かという根本的な議論にもつながるのではないかと期待しているからです。
 私がやって結局失敗してお蔵入りになったインタヴューは、島田澄也さんという、戦後直後、山下菊二のそばで活動していた画家です。島田さんは1927年に豊島区長崎に生まれ、東京美術学校工芸科を中退し、丸木位里・俊夫妻のアトリエで絵を学んで、1947年に前衛美術会の結成に参加しました。お見せしているのは1953年に第1回の日本展で撮影された集合写真で、島田さんは前列右から3番目ですが、若くてハンサムで気鋭の画家のひとりであったということがうかがえます。しかし1959年の第2回「アンデパンダン展」の後には、資料のなかで名前が見えなくなりました。それから彼は美術制作会社を設立して、映画とか博物館の下請けで成功と失敗を経験したそうです。私は2011年から複数回に渡ってインタヴューしていたのですが、うまくいかず、2016年に亡くなられました。その前年に原爆の図丸木美術館で回顧展が開催されたため、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。島田さんは美術史の視点から見れば、大きな星の陰に隠れてしまった画家のひとりです。
 友人だった山下菊二については、2011年に山下夫人が一括して徳島県立近代美術館に寄贈し、現在その詳細な調査が進められています。2015年には山下の代表作である《あけぼの村物語》を1億円で東京国立近代美術館が購入しました。50年代前半の社会派アーティストたちの望みは、このような評価によって既に成就したのかもしれません。とはいえ、山下菊二だけ掘り下げてみても、この時代のことはよく分からないのではないか。今までと同じ言説のくり返しにしかならないのではないかというのが、私の直感としてありました。そこで山下の周辺人物から搦め手のように前衛美術会を考えていくということが、そのとき私が考えていたことでした。
 前衛美術会というグループについて、簡単に説明します。戦後、福沢一郎率いる美術文化協会のなかで内紛が起こり、反発した左翼的な若者たちが脱退し、旧プロレタリア美術の人々と合流して、1947年に結成されたのがその始まりです。結成時の参加者には岩崎ちひろや丸木位里・俊もいましたが、岩崎や丸木夫妻はすぐに脱退します。ただ少数派になっても山下や高山良策らによる東宝争議への参加、そして1952年には安部公房の傍にいた美術家たち、「世紀」というグループが合流して、先鋭的な活動を続けていました。彼らの特質は、共産主義者でありながら、共産党が否定していたシュルレアリスムを追求していたところにあります。特にその世紀から加わっていた桂川寛が明らかにしたことですが、共産党のテロ活動と言ってもいい山村工作隊に前衛美術会の6人が加わって、極限状態の山のなかで制作活動や宣伝活動をしていたということは、戦後美術における社会闘争の歴史においてもっとも特筆すべき場面です。そのとき山下が制作したガリ版刷りの共同制作は板橋区立美術館に所蔵されています。この小河内山村工作隊について書かれたものには、桂川寛さんの『廃墟の前衛』という本がいちばん詳しいです。また私自身も晩年の、当時83歳くらいの桂川さんに何度かお目にかかってお話をうかがったのですが、やはりご高齢ということもあって、特に本に書いてある以上のことは知ることができませんでした。むしろ桂川さんの最近の活動や本に書かれなかったご家族のお話などがうかがえて、それはそれで勉強になりました。
 私は山村工作隊についてもっと知りたいと思い、まだ存命でいらっしゃった当時84歳の島田澄也さんを訪ねたわけです。ただし、既に遅かったかもしれません。遅かったというのは、戦後という時代が遠ざかったということです。人間は老いていきます。記憶は変化します。どんなに歴史的に貴重な体験でも、80歳代になって20歳代の記憶を正確に保ち続けていられる人間はほとんどいません。池田龍雄さんのような例外的な人もいらっしゃいますが。しかし島田さんとは、話す度に細部の内容が異なってきます。一度では話が十分に聞けなかったので、何度も通い詰め、ときにはご馳走になったりもしたのですが、結局十分な内容を聞くことができませんでした。
 しかしそれでも島田さんとのお話はとてもスリリングなものでした。一緒にインタヴューに同席してくださった方々が良かったというのもあります。島田さんとのお話を通じて、歴史的な出来事が立体的に浮かび上がってくるのです。たとえば王子村山村工作隊に参加したとき、言い出したのは自分だったと島田さんは語りました。他にも、自分の父親はアナキストだったということ、戦前に父親に連れられて築地小劇場で柳瀬正夢を見たというような話、戦後の丸木夫妻のアトリエがどのようなものだったのか、大塚睦や山下菊二の姿、山村工作隊のアジトなどについて教えてくれました。そうした話はおもしろいはずであり、貴重なはずの話なのだけれど、しかし語りの度に変化する細部の内容があり、やはりこれはそのまま資料として採用できないのではないかと思いました。また、事実として違うであろうということもあったからです。
 また並行して、かつて前衛美術会にいた中村宏さんにもお話をうかがいました。中村さんからは山下菊二を除く前衛美術会の人々に対する、彼一流の悪口も聞きました。詳しくは言いません。生きている人間同士は、ときに憎み合います。それもまた人間の歴史でしょう。もっとも、前衛美術会の古い人々からすれば裏切り者のような中村宏さんは、その頃アーティストとしての階段をどんどん上り詰めていました。2007年に東京都現代美術館で回顧展が開催され、2010年には練馬区美術館でも回顧展が開催されました。もちろん私も非常に高く評価しています。
 一方で、島田さんのほうは長い間、美術とは見なされませんでした。彼は60歳代頃から自らの自叙伝を絵と言葉で書いていらっしゃいました。A4くらいのサイズのキャンバスに回想画を描いていたのです。言葉は話し言葉も書き言葉もそれほど上手ではありませんが、絵にはまさに私が知りたかったようなことが数々多く描かれていました。そのなかには、山村工作隊の人々が拠点とした洞窟がどのようなものだったのかということも描かれています。島田さんはその絵と原稿を出版社に持ち込んで本にするつもりでしたが、しかしスター・アーティストならともかく、ほぼ誰も知らないアーティストには出版は難しい話でもありました。最後に亡くなる前に自費出版されたのは、これは本当に貴重な資料だと思います。彼の絵画には、ただ機械的で正確な記録とは異なる温かな味わいもありますし、不思議な克明さと記録への切実さというようなものもあります。特に戦後の池袋モンパルナスの有り様を描いた回想画は、そう遠くない将来、社会史的な価値も評価されることでしょう。しかしアーティストとしての島田澄也さんは私のような若い変な研究者の他、誰も認めてくれないというような無力感を感じていたのではないかとも推察しています。もちろんアーティストになるということは、そういう茨の道を歩むことです。社会的な評価を得られる人はほんの一握りで、大多数は社会のなかで埋もれてしまいます。
 実はその頃、2012年に東京国立近代美術館に島田澄也さんの作品が展示されたことがありました。「実験場1950s」展で小河内村山村工作隊の共同制作が出品されたのです。もしそれを意識のはっきりしている頃の島田さんが聞いたら、どんなに喜んだことでしょうか。ただ残念ながら東近美は島田さんに連絡をしなかったようです。島田さんには後で私が伝えたのですが、「あ、そう」というような感じでした。既に遅かった、とここでも思いました。それでも、それだからこそ、先述の2015年に丸木美術館が島田さんの個展を開催したということは、島田さんの作品を美術として認めて展示したことであり、本当に意義あることだったと思います。
 島田澄也さんのインタヴューを通じて考えたのは、年老いた人の誇張や不明瞭な話には興味深い内容もあるということだけではありません。むしろ美術史にはアーカイヴ不可能な闇があるということです。文字なり声なりの資料を掘り起こす歴史というのは、掘り起こされないより多くの部分に寄りかかっているゆえに、当然そういうものでしょう。少し格好をつけて言うと、アーカイヴ不可能なもの、目に見えない声や体温のようなものについて論じたリピット・水田堯さんの本『原子の光(影の光学)』という本にはこういう一節があります。「アーカイヴの外には守られた秘密の、秘められた歴史の場所があって、歴史たるものになる前に破壊された歴史以前の歴史、すなわちアーカイヴ不可能なものの宇宙があるのだ」。島田澄也さんのインタヴューのなかで私が垣間見たものは、まさに秘密の歴史でした。それは虚実が混じっていたこともあり、永遠に歴史化されることはないでしょう。
 ところで美術史というものには、あるいは美術館という場所には、綺羅星のようなスターが並ぶ所です。宇宙に喩えるならば、一等星や二等星ばかりが取り上げられるわけです。そのなかでたとえば五等星の星々ばかりを研究することは、闇を研究するようなことではないでしょうか。そうした闇の美術史研究を再び美術史研究になぞらえるならば、それはまさに暗黒物質、ダークマターの観測に喩えられるのではないかと私は考えています。
 では、美術史におけるダークマターとは一体何か。それは制度のように言語化や建築化されたものではありません。島田澄也さんのような、ほとんど誰にも評価されないまま制作し続けている無数のアーティストたちの、かすかな、掻き消されていく、語りえない、秘密の声の響きです。実はその秘密の響きこそが巨星を巨星たらしめているのだし、美術を美術たらしめているのだと思います。つまり美術史は、膨大な秘密とわずか数パーセントの事実から成り立っているのではないでしょうか。いかにアーカイヴが充実したとしても、それは本当に些細なものです。もちろんその膨大な秘密の闇を少しでも明らかにしていく地道な作業こそが研究というものです。しかし、どんなに探っても明らかになりようのない過去の闇に直に触れることの重要性を、ここでは強調したいと思います。その闇はとてつもなく大きいと認めることは、私たちが現在もっている美術史やそのアーカイヴがいかに矮小なものであるかを再認識すること。つまり、既につくられた権威や社会的な評価を再考することにもつながるのではないかと考えているからです。
 以上で私の話を終わりにします。ご清聴ありがとうございました。

辻:足立さん、どうもありがとうございました。本日は足立さんが実施した島田澄也さんのインタヴューを中心にお話をいただきました。歴史研究におけるオーラル・ヒストリーは、現時点では政治史的な方向と社会史的な方向があると言われますが、社会史的な観点から見落とされてきた声を拾うという点は足立さんがおっしゃったように重要だと思います。ただ足立さんご自身も言及されるように、何をもって成功したインタヴューか、あるいは何をもって失敗したインタヴューとみなされるのかという点も重要です。なぜならそれによって現在の美術史研究、あるいは美術の実践と言ってもいいかもしれませんけれども、それを後ろから支えている制度が見えてくるからです。とても印象的なお話でした。
 それでは続いて、中嶋泉さんに発表を願います。「言葉にならないもの オーラル・ヒストリーと女性アーティスト」。お願いいたします。

中嶋泉:中嶋泉と申します。大学で美術史の授業などをしています。女性アーティストと美術史についてしばらく勉強しています。日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴには2009年から参加していますが、当時、博士論文のための調査中だった私は、女性アーティストに関する資料があまりにも少ないということから、これまで発言の機会が少なかった女性アーティストの声を集めて、歴史記述の改善につなげたいというふうに考えていました。私にとってオーラル・ヒストリーとはそういうものでした。
 しかし、今日皆さんにお伝えするのは、ちょっと足立さんと似ているんですけれども、そうした私自身の意図がオーラル・ヒストリーにとって、そう簡単にはうまくいかなかったという話です。限られた経験からではありますけれども、女性のアーティストは男性のアーティストに比べると、オーラル・ヒストリー、あるいは自分の話がそのまま記録され公開されることへの抵抗が強いことがあるのではないかと感じています。一概には言えませんが、このことを考えるときにいつも思い出すのが、キャロリン・ハイルブランの女性による自伝の研究が指摘していること。すなわち言語と意識の関係において、父権的文化のなかで女性作家が経験する分裂のことです。オーラル・ヒストリーは生身の声を採取することによって、こうした支配的言語の構造上の偏りから離れるための方法とされていると思います。しかしそのことが必ずしも語る主体、そして聞く主体を歴史から解放するわけではないこともまた事実です。
 今日、例に取り上げる、今写真を掲載していますけれども、田部光子さんというアーティストは、お話は聞けたものの、公開までに非常に時間がかかった方でした。この聞き取りを例に挙げて、女性アーティストのオーラル・ヒストリーをおこなったときに直面する問題について、具体的に考えたいと思います。
 田部光子さんは1933年に台湾で生まれ、1946年に引き揚げて福岡で育ちました。高校卒業後、おもに独学で美術を学び、福岡の前衛美術グループ、九州派の旗揚げのメンバーにもなっています。今でも精力的に作家活動を続けていて、今月も個展をされたばかりです。戦後の前衛美術には女性作家の存在が顕著であることは知られていると思いますが、九州派には他に大黒愛子さんや長頼子さんなど女性の作家がいました。
 聞き取り調査は2010年の11月28日と29日の2日間にわたっておこなわれ、インタヴュアーには、大阪大学の張紋絹さん、北原恵さん、そして栃木県立美術館学芸員だった小勝禮子さん(当時)にお願いしました。聞き取りの目的は大きく分けて2つあって、1日目に植民地台湾での生活や経験について尋ね、2日目に田部さんの作品、特に《人工胎盤》という作品——この作品は小勝さんが2005年の女性アーティストの展覧会で取り上げたものなんですが——という作品についておうかがいすることでした。まず《人工胎盤》について、ちょっと詳しくお話ししておきます。
 この作品は、こちらですね、1961年の作品です。三体のマネキンの臀部に、粘土、アスファルト・ピッチを付着させ、釘を打ちつけたものです。切り取られた開口部には真空管やピンポン球が配され、女性の体内——タイトルからいうと胎盤ということになりますが——の身体組織を表現しているように見えるものです。その様子は現在、写真からしか知ることができませんが、美しいと言えるものではなく、女性の身体の幻想を拒絶しているようでもあります。ご覧のとおり、右側にあるように、この作品はオリジナルが1961年に制作されましたが、それが破棄されてしまったので2004年に再制作がおこなわれました。
 1961年に最初に制作されたこの作品は、これまでも指摘があるように、性や生殖活動に関わる女性の身体をあらわす作品として、先駆的なものでありました。たとえばジュディ・シカゴによるフェミニズムの記念碑的な作品《ディナー・パーティー》、これは著名な女性のポートレートを女性器を模した花のようなイメージであらわした作品ですが、これに10年ほど先立ちます。この《人工胎盤》という作品は、当時28歳で妊娠をした体をもちながら制作をしていた田部さんが、妊娠から解放されない限り女性の自由はないという思いからつくられたものと説明されています。
 しかしながら、このように画期的な作品であるにもかかわらず、彼女自身はこの作品について、それまでの出版物やインタヴューにおいてあまり、というか、ほとんど語っていませんでした。そして2004年に熊本市現代美術館館長の故・南嶌宏さんより、フェミニズムの重要な作品として再制作をという依頼を受け、作家が新たにこれをつくり直したときはかなり印象の異なるものになっていました。右側の写真です。再制作された《人工胎盤》は、オリジナルにはない様式化と、綿やピンクの塗料などの新素材が用いられ、ぬいぐるみのような可愛らしさを具えています。事前の打ち合わせで、この再制作における変更の意図は何なのかということも詳しく聞こうということになっていました。
 さらに、お話を聞く以前の田部さんの印象なんですけれども、いくつも田部さんは著作があるんですね。その著作からもわかるように、文章がとても上手で、ご自身の活動についてかなり巧みに語ることができるというのが、私がもっていた印象でした。これらの著作ではフェミニズム美術家としての立場も明確にされており、先駆的なフェミニスト・アーティストとしての話が聞くことができるというふうに考えていました。しかし結果から述べると、この予想はあまり当たりませんでした。今考えると、このことがフェミニストの立場からオーラル・ヒストリーをおこなう場合に生じる問題と関係するものだったと考えられます。
 それでは内容に入ります。まず《人工胎盤》をつくった当時について尋ねたときの、ここからインタヴューを少しずつ引用することによってお話ししますが、そのときの田部さんの返答です。これはホームページをスクリーンショットしたものなので、ウェブサイトでいつでも確認していただけるんですけれども。田部さんの返答というのは予想と異なっていて、彼女のこの作品に対する抵抗感のようなものをあらわしているように見えました。インタヴューを引用します。部分的に読みますね。
 どうしてこのとき、どのようないきさつでつくったのかという質問に対して、田部さんは「人工胎盤があったら、自分がこんなに大きなお腹をかかえて苦しまんでもよかろう、とか、そういう短絡的な考え方をする馬鹿ですよ、私は」と言っています。それをまた重ねて聞くと、その次に「でもやっぱり、悪阻は苦しいから。安定期に入ったらなんてことないんですよね。だから人工胎盤があったら楽だなとか思った、軽薄な」などと言っています。これは文書の最後なんですけれども、やはりちょっと気になるお話のしかたなんですよね。文字起こしされたものだけから受け取ることができるものには限界があること、前後の文脈から取り出してお見せすることが危険であることは十分考慮した上でも、田部さんがこの作品の制作について、控えめに言っても穏やかならぬ気持ちを持っていたように見えます。この会話の前は、田部さんが自分の制作があまり思想的に掘り下げられたものではなかったということを批判的に語っていました。ですが、彼女の作品のなかでも今では特に重視され、再制作の依頼も受けて十分に評価されている作品に対して、これらの発言はあまりにも否定的であるように聞こえました。
 この印象は再制作の話へと続いていきました。田部さんはこの作品の再制作はもともと絶対にしないつもりだったと思っていたことを述べつつ、再制作時の心境についてこんなふうに述べていました。その前に、ちょっとあまりにもその作品がグロテスクだったから、そのものを制作することは不可能だということを前提にしながら再制作を引き受けたということを語っていました。このインタヴューでもオリジナルとの違いについて話していまいた。私が「1回目と2回目につくったときの心境は違うんですか」と尋ねたときに、「だいぶ違いますね」とお答えになって、「ちょっとばかり可愛いものにしよう、という意識は働いています。あんまりグロテスクだとね、かわいそうだし。こんな所に入ってる子供もかわいそうだしね。生まれてきたら分かりますよね」と話が進んでいきます。
 先ほど写真でお見せしたように、オリジナルの作品がもっていた強烈な姿から見ると、可愛くポップに変化した再制作の《人工胎盤》は一見、こう言ってよければ、フェミニスト的意識が軟化したものかのように思えます。田部さんはこの後、この会話の後ですね、妊娠と出産の経験について語り、以前の考えは間違っていた、そして妊娠から解放されなければ女性の解放はないという当初の考えを今はもっていない、とも語っています。
 この一連の流れから《人工胎盤》という作品がこの作家にとって、あまり触れられたくない過去であり、再制作はある意味でその過去をつくり変え、語り直す機会になっていたということが予測できます。つまり、妊娠、出産、子育てを経て考えが変わったというわけです。しかしながら、時間や経験を経て主題に対する考えや表現が変わったという話は筋は通っているものの、当初のフェミニズム的先鋭性がなぜこうも当人から否定されなければならないのか。この変化はフェミニスト的な後退なのかという問いが、インタヴューをしている間思い浮かびました。しかしこのときは満足な話を引き出すことはできませんでした。そしておそらく、このインタヴューの文字起こしをインターネットで読んだ人もこの辺りが中途半端で終わっていると感じられると思います。
 しかし今回の聞き取りを読み直すと、田部さんの発言のまとまりの悪さや、一見した矛盾こそが重要だったのではないかと考えるようになりました。というのも、いくつかの断片的な会話のなかに、田部さんの意識の変化の複雑な面を説明しそうな揺れのようなものが見てとれるように思えたからです。
 たとえば1つめに、この話の流れのなかで田部さんが参加していた九州派の作家たちがこの作品についてどのような感想をもったのかということを聞いたときの話です。田部さんはグループのメンバーからは批評や感想はなかったと言いつつ、ひとつの思い出を語ってくれました。こんな話です。「みんなの家を廻るのよ。桜井さんと米倉徳とか、何人連れかが来るのよ。それで私の作ってるこれを見てね、「あんたこんな作品つくりよったら、変な子ができるばい」とかいわれました。憶えてるよ」。北原さんが「そういうのを創るなってことですか」という質問に対して、「そんなのを創ったら、変な子が産まれるっていうわけよ。でもね、それが若さだって思うのよ、私は。今ならすぐに止めますよ」というふうに続きました。後略します。
 この話は、私の印象ではとても何気ないかたちで話されたので、田部さんが制作や発表を共にしている人々の反応をどの程度受け止めていたのかということは会話のなかでは分かりませんでした。しかしこの話からは、《人工胎盤》の制作と発表の経緯における、一様ではない作家の心理的局面が暗示されているように見えます。つまり作品と作者の身体を同一視する周囲の見解——この《人工胎盤》と田部さんの身体ですね——を同一視する周囲の見解を受けるなかで、妊娠から女性を解放するという当初のフェミニスト的な意識と、妊娠出産をする女性としての田部さんの自己の間に、ギャップが抱えられたというふうに考えられます。妊娠からの解放を唱える《人工胎盤》は、当初、妊娠する身体を自己の外側に位置づける試みだったと考えられます。しかし女性が身体表現をおこなうとよくあるように、彼女がその身体を自己と同一化することを迫る周囲の声は、フェミニスト的批評の地盤というものを奪い、作家のフェミニストとしての自己と女性としての自己の間に矛盾を生じさせたのではないでしょうか。
 また2つめに、本当にかすかな言及も今回の読み返しで注意を引きました。ちょっと前後の文脈が説明できませんが、引用します。「やはり子宮じゃないんですよ、胎盤だから。妊娠するというのは、胎盤がないとできないんですよ。子宮に胎盤がくっつんですよね」。これは田部さんの作品が、子宮ではなくて胎盤であるのはなぜかという質問に対する答えです。このように続けています。「だから、胎盤とはどんなものかということも知らないのに、真空管は男性性器に見立てて、いっぱいの電気コードは血管ですよね、アスファルト・ピッチにパテを……」というふうに続いていきます。お読みになるとわかるように、会話を書き起こすだけだととても分かりづらいんですね。ただ書き起こすとこのように会話はこのように続いていきました。くり返しになりますが、この会話の前半は《人工胎盤》という対象が子宮や女性器という記号化されていた女性性とは異なる表現を目指していたのではないかということを確認するものだったのですが、続けて言及されていた真空管や電気コード、アスファルト・ピッチという素材と、それを使う手順についての具体的な話というのが今になっては注意を引きます。というのも、これらの素材というのは、日本の戦後前衛美術の文脈から見れば、きわめて1960年代初頭に特徴的なものだったからです。
 《人工胎盤》が制作された1961年は赤瀬川原平が有名な《ヴァギナのシーツ》を、第13回「読売アンデパンダン」展で発表した年でした。この頃、工藤哲巳、荒川修作らも身体的な彫刻を次々と発表し、当時ボディアートと呼ばれていたオブジェが氾濫していたときでした。赤瀬川は女性器を模したこの作品をもって怪物的肉体や有機的機械を表現しようとしたと言われています。よく知られているように、この《ヴァギナのシーツ》は1994年に再制作されています。この頃、田部さんは「読売アンデパンダン」展に連続して出展しており、周囲の動向を知っていました。田部さんの《人工胎盤》はこの「読売アンデパンダン」展の半年後に銀座の画廊で発表されいるのですが、時間的な近接性以外に、この二つの作品の間には女性の身体の一部を取り出し、率直であると同時に象徴的な表現をしているということ。同じように現代的な素材を用いて、審美的な表現を避けていることにおいて共通しています。こうした類似と、類似ががあるからこそ際立つ二つの作品の違いというものが、田部さんの《人工胎盤》が少なくともある一部ではこの作品に応答するものだったということを物語っています。
 この背景から鑑みれば、当時の田部光子のフェミニズム的批判性は、男性作家による女性の身体の収奪に対置するかたちで立ち上がるはずのものでしたが、当時も現在もそのような関係を見る批評はありません。そしてインタヴューの最中もそのような会話にはなりませんでした。赤瀬川の《ヴァギナのシーツ》が歴史的作品になる一方で、田部光子の《人工胎盤がそうならないこと、また1994年に再制作された《ヴァギナのシーツ》がオリジナルにほぼ忠実であったのに対し、《人工胎盤》の再制作が大きく変更されたことも、明確にフェミニズム的問題だと考えられます。
 しかし聞き手である私は、田部さんを取り巻く同時代の問題をほとんど無視しています。つまり、女性による女性の身体の表現の先駆性を期待する聞き手のフェミニズム的想定が、日本の1960年代のアーティストである田部さんの一面に十分な注意を払わず、結果的にフェミニズム美術家と前衛美術家を分けてしまうという、女性作家をしばしば悩ませるもうひとつの分裂に加担しているということになります。
 もう一度整理しておくと、田部さんのオーラル・ヒストリーのなかでは、彼女のフェミニスト美術家としての自己と女性としての自己、60年代の前衛アーティストのしての自己が矛盾としてあらわれており、この3つはほぼ解消されず、オーラル・ヒストリーのなかに断片的な語りとしてのみあらわれていたというふうに言うことができると思います。
 こうした点から見ると、再制作の《人工胎盤》は単純なフェミニスト的な変更ではなくて、これらの複雑に矛盾する自己を整理し、語り直すものであったと見ることができます。再制作の作品では《人工胎盤》の基本的な構造は変化しないものの、60年代美術の文脈や価値を物語るはずのアスファルト・ピッチや釘などの素材、激しくラディカルな表現というものが拭い去られています。つまりこの作品において作家は60年代当時の前衛アーティストとしての自己を放棄することで、矛盾していた女性の自己とフェミニスト美術家としての自己、その結びつきを優先的に取り戻していると言えるかもしれません。
 その際、再制作について発せられた「妊娠から解放されるべきだともはや思っていない」という言葉は、母性を切り捨てずに発展していった1980年代の日本のウーマン・リブ特有の思想とも関連を見出すべきところだったかもしれません。つまり再制作における変更というのは、フェミニスト的後退として見られる前に、妊娠出産した自己を肯定しつつ、いくつもあるフェミニズムの思想のなかから、あるひとつの立場を選択しておこなわれたのだということを認識する必要があったのです。
 まとめます。田部さんはこのオーラル・ヒストリーを長い間、公開したがりませんでした。その間に何回も電話での会話があり、何回も訪ねに行きました。その理由というのはいつも判然としませんでした。ただ聞き取りの書き起こしというものが、会話としてあまりにも無自覚だったりスポンテイニアスだったりするために、これを自分の発言として公開するのには抵抗があるということはくり返し述べられました。しかし今回ふりかえってみて、結果的に公開はしてしまったわけですけれども、田部さんのオーラル・ヒストリーの最大の成果のひとつは、このようなうまく語られなかったことにもあったのではないかと考えています。田部さんの《人工胎盤》についての聞き取りからは、自身が公言したフェミニストであり、明確にフェミニズム的作品について語る場合であっても、女性が自身の作品について語る道筋にはいくつもの矛盾をつくり出すトラップというものが横たわっており、統一した語りが阻まれていることが理解されると思います。ですが、ある事柄に言及することへの抵抗や、矛盾する発言、避けられる話題といった、文字どおり言葉にならないもの自体が語ることは少なくありません。断片的な発言がそのまま記録されるオーラル・ヒストリーにおいて、意識は言語化されないかたちでも表明されうるということがここから見えてきたのでないかと思います。
 その反面で私自身のオーラル・ヒストリー的目的、つまり冒頭で述べたような歴史的に見えにくい女性アーティストの証言や、本人しか知りえない事実の収集という目的が、もしかしたら可能だったかもしれない語りや言葉を阻んでいたかもしれないということも十分反省として意識されました。
 田部さんの《人工胎盤》についてのオーラル・ヒストリーは、生身の作品や生身の言葉はそれ自体で理解可能な物語をつむぐわけではないということを示しながら、語り手が抱える矛盾というのは、聞き手が想定している範囲の限界を明らかにし、聞き手の問題として再検討を迫っているというふうに考えます。
 これで発表を終わりにします。ご清聴をどうもありがとうございました。

辻:どうもありがとうございました。田部光子さんへの聞き取りを中心に、女性のアーティストに聞き取りを行う際の問題点と難しさについてお話しいただきました。端的にまとめられるか分かりませんが、文字になっていない、文字資料にないものを拾うというお話は、足立さんのご発表のなかにもありましたけども、ひとりの歴史家にとっては聞き取りを残して新たな事実あるいは確証を得るということによって、歴史をいわば正しく書くことが求められることとも関連します。ただ田部さんへの聞き取りのなかで、中嶋さんにとっては聞き取りをおこなった当初は満足した内容が聞き出せなかったんですけれども、まとまりの悪さのなかに「フェミニズム美術家」や「前衛美術家」としての自己の揺らぎのようなものが断片的にあらわれている、そうしたことを記録できたというお話がありました。論文等とは異なる、話すことで歴史を叙述するという方法に、「正しく」書かれた歴史とそれによって生まれるこれまでの作品の評価にはない新しい視座を提供できる可能性がオーラル・ヒストリーにはあるのかもしれないと、私自身は感じました。
 続いてまいります。「在日コリアン美術とオーラル・ヒストリー 四コマ漫画家全哲を中心に」、東京大学大学院の白凛さんに発表いただきます。よろしくお願いいたします。

白凛:こんにちは。白凛(ペク・ルン)と申します。今回は、どの発表よりも緊張しております。それはこの発表の準備が、私の研究が一体何なのかを真剣に自分自身に問う作業だったからです。私はこれまで在日朝鮮人の美術について研究してきたのですが、これは何のために研究し、何のために聞き取りをおこなってきたのだろうか、しまいには、これを続けてきた私自身がそもそも何者なのかという究極な問いまで浮かんできて、非常に緊張感のある張りつめた時間でした。今回、在日朝鮮人の美術について聞き取りをおこないながらお話しいたします。上手に意義ある内容を話せるかどうか心配ですけれども、よろしくお願いいたします。
 まず今回の題名は「在日コリアン美術とオーラル・ヒストリー 四コマ漫画家全哲を中心に」としましたが、私としては「コリアン」をあまり使いたくないんですね。私の本心としては、これは「在日朝鮮人」の美術です。なぜ私がこの自身の本心に背いてここで「コリアン」を使ったのかというと、単純にちょっと気を遣いました。パンフレットに「朝鮮」と書いたらどうなるだろうかなとちょっと思いました。やはり今の日本は全体的に朝鮮という言葉に対してあまりいい印象がない。それで私は避けたんですけれども、こういう態度は朝鮮関係の厳格な方からお叱りを受けるかもしれません。けれども、それを甘んじて受け止めることにします。私には来月4歳になる息子がいて、在日朝鮮人4世になります。彼が大人になる頃にはこういう風潮はなくなってほしいなと思います。
 ちなみに、私は何人かと問われると、在日朝鮮人です(と答えます)。在日韓国人だとか在日コリアンだと自分自身を紹介する日は来ないと思います。パスポートに表記されるか否かの問題ではなく、私自身は在日朝鮮人であり、自身が在日朝鮮人であるということで何とも言えない納得があります。この「自分は在日朝鮮人である」という共通の認識をもち、その共通の認識を大前提として語り合い、将来を真剣に考えている人たちがこの日本社会のなかに、少数ではありますが存在します。私はこのような在日朝鮮人の家族、そして友人知人に囲まれて日本で過ごしてきました。今回、この漫画家、全哲(ヂョン・チョル)さんについてお話ししますけれども、この漫画はこのような在日朝鮮人のなかで主に親しまれてきました。
 私は今、東京大学で勉強していますが、東大に入る前に私は東京芸大にいました。東京芸大に入る前はずっと朝鮮学校に、小・中・高・大学まで通っていましたので、今お話ししましたように在日朝鮮人であるという共通の認識で語れる人々や、その共通の認識で将来を真剣に考えている人たちに囲まれてきました。しかし東京芸大に入ることで初めて日本人に囲まれました。そうすると、これは海外への留学経験者もこのような体験をしたことがあると聞くんですが、初めて真剣に自分とは何者かと考えるようになりました。芸大に入ったときはもう年がけっこう離れて、6歳くらい離れた仲間も同期でいたんですけれども、本当に何も飾らずに「白って一体何者なの」というふうに聞いてくるんです。私はそのとき本当に考えました。私って一体何者なのだろう。同時に私が大事にしている美術って一体何なんだろう。この2つです。自分自身へのルーツへの疑問と美術への疑問を同時に追求できるということで、研究を始めた当初は単純にわくわくして嬉しかったですし、本当に猛勉強の末に東京芸大に入ったので、そういう記憶があります。
 ところで、私自身が在日朝鮮人ということにずっと関心をもち続ける理由ですが、(スクリーンを指して)ここに「在日朝鮮人という出自」と書いておきました。今申し上げたような、自分自身のルーツに対する関心があると同時に、日本で自分の出自を隠しながら生きざるをえない在日朝鮮人が多くいます。彼ら彼女らがいつになったら、どういうかたちなら、日本で朝鮮人らしく生きられるものだろうかという問いは解決されていません。横行するヘイトスピーチと同時に、しばしば聞いてきた「私たち朝鮮人なんて」という否定的な言葉、これに対する疑問が拭えない。そういう気持ちが在日朝鮮人を研究し続ける動機の一つとしてあります。
 美術に対しても同じことが言えます。美術で食べていけるのか。絵を描いて何になるのか。学校の科目からも消えていくから教師にもなれない。こういう価値観に直面してきました。特に在日朝鮮人と美術となると、そもそも在日朝鮮人は社会の底辺にいる存在で、金もない。何が美術なんだ。在日朝鮮人の一世で美術ができた、絵が描けたなんてただのお金持ちか、日本人に迎合しただけの人だったのではないかという意見がありました。本当にそうなのだろうか。このような価値観はどこからくるのか。そもそも美術とは一体何なのかという疑問が研究のモチベーションの一つです。
 さらに今回、四コマ漫画家全哲さんに触れるわけですが、研究し始めの頃は、漫画の研究ということで、そのような言葉の次に、鼻で笑われました。やはりこれも蔑まれているんですね。油絵ならなんだか高尚で麗しく、まさに芸術といった感じで、漫画はその対極にあるものと思われがちです。しかし人間の営みに上下があるのだろうか。大事な文化とそうでない文化、中心の文化と周縁の文化があるのだろうか。
 このような疑問を抱いている頃に、在日朝鮮人一世の美術家の白玲(ペク・リョン)さんの作品が遺族から母校に——私は朝鮮大学校を出ているんです、国分寺にある——寄贈されたという連絡がありました。これが白玲さんの作品です。白玲さんは、ちょっと私と名前が似ているんですが、何の血のつながりもなくて、本名は朴栄煥(パ・ヨンハン)という方です。1926年に今の韓国で生まれて——そのときは韓国という国はないですけれども——、1997年に日本で亡くなられました。在日朝鮮人一世の美術家です。この方は1953年に結成された日本青年美術家連合に結成時から参加されています。こんな作品が大量にあったのだと感激すると同時に、油絵が美術の主流だけれども、四コマ漫画のほうが圧倒的に知名度が高いんですね。それなのになぜ漫画が格下に見られるのか。本当に漫画はくだらないものなのだろうかという気持ちがふつふつと湧いてきました。そこでやはりちょっと自分が納得いくまで調べてみようということで、小学生の頃に親しんでいた四コマ漫画、そしてその作者の全哲さんについて調べてみました。
 (スクリーンを指して)この写真で左下の点線の丸で囲ったのが金昌徳(キム・チョンドク)さんという方です。金昌徳さんは1910年に今の韓国で生まれて、1982年に日本で亡くなられています。在日朝鮮人一世の美術家で、作品も、そんなにたくさんでもないですが、残っています。この方の遺族に聞き取り調査をしたときに、この写真をいただきました。白い線のなかの人物が四コマ漫画家全哲さんです。1934年に江東区深川白河で生まれまして、2005年に日本で亡くなられています。あとここに写っている全哲さんの右隣が先ほどの油絵の作品をお見せした白玲さんです。その白玲さんの隣りの方がツ良奎(チョウ・リャンギュ)さんです。この写真を見たときに私は、これまで点でしか存在していないと思われていた在日朝鮮人の美術家が線でつながるなと確信しました。この時代の美術家について総体として何かが言えるのではないか。これを追求しようと思いました。それで今は1945年から60年代に焦点を当てて、だいたい20人くらいの在日朝鮮人美術家を研究しております。
 さて、そのなかの全哲さんについて調べた結果、四コマ漫画だけで約4,800点ありました。活動の期間は、上にも書きましたけれども、1952年から亡くなられる2005年までです。連載のタイトルは20くらいありました。そこから本当に4,800点から選ぶのはすごく難しかったんですけれども、代表作4つをご紹介いたします。
 まず「トルトリ」です。こちらに準備したのはデビュー作でして、1952年9月6日付の新聞に掲載されたものです。日本で発行されていた解放新聞に掲載されていました。ハングルで書いてあるんですけれども、トルトリは「利口な子」ぐらいの意味です。連載年は1952年から1961年でした。これがトルトリです。陥没した頭が特徴です。
 次に代表作2番、「オンドル・リョンガム」を挙げました。こちらは1957年の9月6日付の新聞に掲載されたものです。こちらにハングルで「オンドル・リョンガム」と書いてあります。オンドルは「床暖房」の意味です。リョンガムは「おじさん」です。連載年は1956年から1957年です。この矢印がオンドル・リョンガムで、大きな鼻が特徴です。これはご覧いただいたらわかるように、吹き出しがないんですね。こういうサイレント漫画もたくさんあります。
 次に代表作「イプニ」です。こちらは1985年4月4日付の新聞に掲載されたものをもってきました。こちらが「イプニ」とハングルで書いてあります。イプニは「可愛らしい子」ぐらいの意味です。連載年は1973年から1987年まで、すごく長い期間、14年ぐらいあったんですね。この矢印で差した子がイプニで、耳の高さで外巻きにカールした髪と、頭の上の大きなリボンが特徴です。
 次に代表作4、こちらはちょっとごめんなさい、ぼやけてしまったかもしれないんですけれども「ハンギョレ・ソンセン」です。こちらは1988年4月1日付の新聞に掲載されたものを持ってきました。ハンギョレというのは「一つの血がつながった同胞、仲間」ぐらいの意味です。ソンセンというのは「先生」ですね。連載年は1988年から1995年までです。間に2年くらい脳卒中で倒れられた時期があって、静養期間が2年くらいあるんですけれども、これも比較的長い連載です。主人公のハンギョレ・ソンセンは病院の先生なんですね。これがハンギョレ・ソンセンです。額のところの眼帯鏡がトレードマークでした。
 キャラクターも設定も凝っていますし、半世紀もの間の全作品を通して一貫しているのは、在日朝鮮人の生活を描き出すことと、内容の面で朝鮮半島の情勢に敏感に対応していたということです。彼は四コマ漫画だけではなく、短いエッセイや、漫画を描く方法みたいな説明文も書いていましたし、手塚治虫やちばてつやなど日本の漫画家との接点もあり、鼻で笑って過ごせるような文化ではないと思いました。これら関連資料を丹念に読み込むだけでも論文が書けてしまうくらい、十分な資料が確保できたと思いました。
 しかしながら、私のなかに、生の声を抜きにして無責任に全哲さんについて記述してもよいのだろうかという思いがありました。そのようなときに全哲さんのご遺族とつながることができました。ご遺族に直接お話が聞けるということで、本当に嬉しかったです。
 私の研究は生の声を聞いてこそだと直感していました。というのも、私が初めて聞き取り調査——調査とまではいきませんが、聞き取りをしたのがいつくらいだったかなと思えば、小学生の頃でした。学校の夏休みの宿題で「祖父母に昔の話を聞いて作文を書いてくること」みたいなものがあったんです。私の同世代はだいたい在日三世なので、在日一世に話を聞いてこい、つまり朝鮮半島からこっちに渡ってきた人たちの話を聞いて作文を書いてこいという宿題がありました。それがあって夏休みの終わり頃に祖母の家に行って直接、「おばあちゃん、昔ってどうやったん?」みたいな感じで聞いたんです。そしたらなんだか想像以上にいろいろ話してくれて、祖母が泣くから私も泣けてきました。祖母が、手を開いて見つめながら「本当に寒くて寒くて手がかじかんでな」と回想している姿は今でも鮮明に覚えています。祖母にとっては母語でない日本語で話さなければならない現実の生々しさ、その経験の重み、彼女と共有した空気。「かじかむ」という日本語は、祖母にとっては、つらい経験の表現としての「かじかむ」だったのですが、当時の私にとってはどこかきらきらしたものに感じ、言葉が、日本語が、体内に染みわたる感覚を覚えました。自分自身のルーツについて先代に話を聞くということの魅力が、この十代の頃に芽生えたんだと思います。
 全哲さんの話に戻りますが、遺族から話を聞くと、まさに文字になっていない内容がどんどん出てきました。(スクリーンを指して)これが全哲さんです。深川白河で全哲先生のご両親が定食屋さんをやっていたんですね。後ろの建物がその定食屋さんです。またこういう生い立ちも聞きましたし、また全哲さんの本名が全源哲(チョン・ウォンチョル)であることも分かりました。これはどの資料にも載っていないんです。聞き取りを通して全哲さんが高校の何期生なのかということも分かりました。全哲さんのご家族の話を聞くと、日本の植民地政策の影響がこの家族にも及んでいたという事実や、その後の朝鮮戦争と冷戦が家族の生きる方向に大きな影響を与えていたということが分かりました。妹さんが2人いらっしゃいまして、そのうちの1人には全哲さんとやりとりをした手紙も提供していただきました。またこういうスケッチも提供していただきました。漫画しか描かないわけではないんですが、基本的に漫画家というふうに認識されています。けれども、こういう力強い線のスケッチを見ることができて、全哲さんの違う一面を見れたと思いました。
 手紙は、全哲さんが脳卒中で倒れられた後のもので、文字も少し書きづらそうなのですが、全哲さんの漫画作品に出てくる線に似た部分もあり、内容もそうですけれども、生きた資料としてこれからも大事にしていこうと思っております。
 ここまで私の研究に対する動機や、四コマ漫画家全哲先生の生涯と作品に関して、また私の聞き取りの経験についてお話ししました。私の研究歴はとても短いのですが、このようにふりかえってみて思うことは以下の4点です。
 (スクリーンを指して)こちらに「周縁のものに対して口述は大きな力を発揮する」と書きました。在日朝鮮人や漫画のような周縁と思われているものに目を向けてこそ、その時代の真の姿が見えてくるのではないかと私は思っており、その際に口述のもつ力は大きいと思っています。また口述はこのように周縁、低俗と言われているものに新たな価値を置くので、美術史を再構成する可能性もあると思っています。時代を見つめてきたのは、文字を書けたあるいは文字を書く時間のあった一部の人だけではなかったということを提示できる口述は、既存の価値観に対して大きな力をもつと思います。
もう1つ、「聞き手と語り手の両方に影響をあたえる」と書きました。聞き取りが聞き手と語り手に何らかの変化をもたらすと思っています。全哲さんの遺族に限って申し上げますと、私も本当に聞き取り調査を通じて人生観や価値観、いろんなことを学ばせていただきましたが、私が聞き取りをした後に、ご遺族が全哲先生を忍んで姉妹旅行をされたと聞きました。聞き取りが聞き手と語り手に、聞き取りのテーマについての新たな歴史を生む。そういう力があると思いました。
 私は40回ほど聞き取りをやってきましたが、当事者に聞き取るということが間に合わなくて、当事者に聞けたのは2人くらいなんです。在日朝鮮人一世が2、3人くらいです。アーカイヴする(収集する)ことが目的ではなくて、どちらかというと質問を準備して挑んだというよりは、対話しながら聞いたもので、結果として聞き取り調査と言えるものをやってきたにすぎないのかなという思いもあります。
 この聞き取りによる研究の意味ですが、ひとつには、10代の頃の祖母とのやりとりで感じたことに正直でいつづけたいということがあります。もうひとつは、現代史研究における生の声の欠如に対して、警鐘を鳴らすまではいかないですけれども、どれくらい資料を読み込んでいるか、文字資料を読み込んでいるかが重視されることに対して、私自身はとても違和感があります。特に在日朝鮮人三世で、ある意味、戦後の当事者として違和感がありまして、これを問題視しながら生の声を聞き取っているという側面があるのかなと、ふりかえれば思います。今後は後の世代にどのように続けているのかを考えながら、研究を進めていこうと思っております。以上です。ありがとうございました。

辻:白さん、どうもありがとうございました。白さんご自身の出自、あるいは聞き手としての経験にもとづいて、全哲を中心に在日朝鮮人の美術、あるいは美術における漫画、それらを蔑むものは何かというお話をいただきました。端的に言えばそれはナショナル・ヒストリー、あるいは日本という単一国家としての美術の変遷が、それらを抑圧しているのかもしれないんですけれども、そもそも戦後日本美術はそのように抑圧するような誰しもが共有する中心や時代像をもっているのかどうか、あるいはもつ必要があるのかということを、たいへん考えさせられました。
 これまでは歴史あるいは歴史家の話が続きましたが、次のご発表をお願いしたいと思います。小泉明郎さんで「作品《オーラル・ヒストリー》について」です。セッティングにお時間をいただきますので、少々お待ち下さい。

小泉明郎:皆さん、こんにちは。小泉明郎と申します。今日はこのような機会をくださってありがとうございます。私は皆様とちょっと立場が違うかもしれませんが、なるべくこのあたえられた時間を有益な、いい時間にできればと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
 私は映像をつくっている美術作家です。今日は、《オーラル・ヒストリー》という、2012年からつくっている作品があるんですけれども、その作品についての発表をさせていただきます。
 この《オーラル・ヒストリー》はそもそもどういうときに始まったかというと、2012年、r:ead、レジデンス・東アジア・ダイアローグという、相馬千秋さん——当時は「フェスティバル/トーキョー」というフェスティバルをやっていましたけれども——相馬さんが始めたプログラムがあったんです。日本、韓国、台湾、中国のそれぞれの国から1人ずつアーティストを呼んできて、東京で2週間滞在し、それぞれの国に戻ってまた2週間滞在して、その滞在の間に各々いろんなリサーチをしてたくさんダイアローグをするというものでした。時代的には2012年で、すごく印象的に憶えています。ちょうど総選挙があった頃なんです。12月に総選挙があって、民主党の政権が終わり安倍政権ができるという時期でした。あと都知事選もあったので、皆で都知事選の街頭演説を見に行ったりしました。そんな印象的な時間だったんですが、その際に私はこのプロジェクトを立ち上げました。それが1回目です。これはアーカイヴとしていて、どんどん撮り溜めていっているもので、もう1回、2015年に韓国のソウル市美術館で「微妙な三角関係」(2015年3月10日〜5月10日)という、今度もまた中国と日本と韓国のそれぞれの国から1人ずつアーティストが呼ばれて、そこで3人展をやるという展覧会があったんですが、その際に呼ばれたときも向こうの韓国の主催者の方が予算をつけてくださいまして、そこでさらに撮り溜めることができました。だから2回機会があってつくっているんです。
 では実際に何をしたかということなんですけれども、町中で、日本の町中で——今のところ日本ですね——老若男女、誰でもいいです。若い人からお年寄り、女性から男性、関係なく、道行く人にカメラとマイクで街頭インタヴューをしたんです。質問というのが、「1900年から1945年までの間、日本を含むアジアで何がありましたか。できるだけ詳細に語ってみてください」、こういう質問を投げかけるんですね。それに対して答えられても答えられなくてもいいんですけど、とりあえず口だけを撮影しますよ。間違って恥ずかしかったりとかするでしょうから、口だけを撮影させていただきますので、できるだけ語ってみてくださいと(伝えます)。場所としては、東京ですと新橋、東京タワー、上野、本郷、銀座。人がいっぱいたくさん集まっていそうな場所。あと鎌倉でも。もうちょっと年輩の方にインタヴューしたいと思ったので鎌倉に行きました。最初は東京だけでやっていたんですけれども、メンバーで、リサーチを手伝ってくれる人が大阪に行くというので、大阪でも梅田、心斎橋、鶴橋、三宮と。いろんなところで予算の続く限り撮りました。なるべく多く撮ったほうがいいだろうということで、最初の2012年には70人のサンプルがとれて、2015年にまた130人くらいとれました。だから今のところ全部で200人くらいの方から、同じ質問をして、その質問に対して答えていただきました。それがプロジェクトの概要です。
 展示は、2015年の「微妙な三角関係」展で1度展示しています。あと去年、東京都現代美術館で「キセイノセイキ」(2016年3月5日〜5月29日)という展覧会があったんですが、そこでも展示しています。また去年、オランダのロッテルダム・フィルム・フェスティバルに伴った展覧会がありまして、そこでも展示しているので、今のところ3回展示しているんですが、私としてはこれはまだ完成したわけではなく、アーカイヴとしてはたぶんやればやるほどおもしろいようなものだと思うんです。とりあえず今は200あって、その状態で1つのタイムラインに乗せています。そのタイムラインに乗せているものもお見せできるんですが、とりあえずタイムラインに乗る前の姿というのを今、もちろん全部は見せられないですけども、駆け足でちょっとお見せしたいと思います。
 このプロジェクトの前提として、私の感覚でもあり、たぶん一般的な考えだと思うんですけれども、我々——日本人かな——日本で普通に教育を受けた者で個々に暮らしている日本人というのは、あまり歴史に対して詳しくないだろうと。特にアジアの歴史に対してはたぶん詳しくないだろうと。では、どれくらい詳しくないのか、どれくらい知らないのかというのを調べてみましょうというプロジェクトです。たとえばこんな感じですね。
 (映像を再生させる)音が出ないですね。編集プログラムを使うと、編集プログラムのなかの音は出してくれないみたいですね。そしたらですね…… 焦るな。焦らないように。他のところから引っ張りだします。用意はしていないので、適当に流しますね。
 (映像再生)音を小さくしてください。すいません。

映像:「アジアで? 何だろう。何だろう。たとえばどんな?」「たとえば満州事変とか」「ああ。そっか。ちょっとあんまり歴史に詳しくないです」「何かないですか。ナントカ事件とか」「そういう……。ナントカ事件?」

 こういう感じで、こちらから語りかけないと…… その枠自体も何か理解されないようなときは、こちらからヒントを出してどうにか何かを引き出そうという試みがありました。

映像:「難しい?」「そうですね」

 こういうサンプルが…… おもしろいのをこっち(PC内の別ファイル)に出しておいたんですけれども、こんな感じです。イメージしてもらえればと思うんですが、答えられる人もいれば答えられない人もいて、若い人から年を取った人までいろんな答え方がありますけれども、そのままアーカイヴとして見ていただくのが、将来的にはいちばんおもしろいと思うんですね。いちばんいろんな反応が見れますので。だからもっと撮り溜めてそういうふうに見せるというのがひとつのゴールだなと思いつつも、でもやっぱり私としては何か1つのタイムラインに乗せたくなるというんですかね。すべてを見ることは難しいです。今200ですけど、200でも見るのが大変です。けれども、そのなかで私なりに、客観性は失われますが、主観的に、こういう傾向があるなとか、もしかしたらこういうところをよりフォーカスさせたほうが、このプロジェクトから見えたほうがおもしろいんじゃないかなというポイントが見えてきます。どうしてもこれを何か1つのタイムラインに乗せて、正史じゃないですけれども、私なりのオーラル・ヒストリー、このプロジェクトのものをつくってみたいなという欲求が生まれてきます。そういう欲求に対して、最初にやったものは……時間がなくなってきますが……これで音が出るかな。

映像:「歴史はまったく分からないです」
映像:「俺は生まれてないけど、生まれてないんで全然分からないんですけど」

 これは、人々が口にしたものを、普通のタイムラインで時系列順に並べていったらどういうふうになるかなというのを編集していってみたものです。最初にこれをやってみたんです。これだけぱっと見せても分かりづらいとは思うんですけど、それをやってしまうと「分からない」というものが抜けてしまうというか、皆の知識が積み重なっていってひとつのぼやんとした歴史というのがちゃんとでき上がっていくんです。けれども、それが本当のおもしろいところじゃないなと思って。もっと人々の「分からない」という姿を見せなければいけないんじゃないかと思いまして、また別の方法で編集したものがこれです。今多くの場合、展示していたり見せているのはこれです。

映像:「あんまり思い出されへん」
映像:「一九〇何年じゃなかった?」
映像:「口しか写らないんですか」
映像:「わかんないっす」
映像:「何だろう。ああと、あの」
映像:「わかんない。何だろう。ええ、わかんない、わかんない」
映像:「第一次世界大戦、と第二次? 他にも? あれ、バブル? 高度……経済成長? 他に何ある?
映像:「戦争? 戦争がありました。え、あと何だろう。ええ。オイルショック」
映像:「え、何がある? 全然わかんない。なんか電車爆破したりしてなかった? 列車? 何だっけな。列車ですよね。マジおぼえてない。ほんとね、ナントカ車が爆破されて、日本が怒って」
映像:「満州事変。えっと、なんか、日本軍がわざと満州のなんか鉄道に爆弾を仕掛けて、なんか敵が襲ってきたとか言って、日本が戦いに行くっていう。あと……」
映像:「七三一部隊」
映像:「東京大空襲、とか原爆とか」

 この編集は、すいちばん若いのが小学校6年生なんですけど、小学校6年生から若い子…… 皆、年を聞いてるわけではないので正確ではないですけれども、だんだん年順に並べていきます。

映像:「……戦争が終わって日本が勝って、その後にヒトラーがドイツで負けて、ヒトラーが悔しくて、ヒトラーが悔しくて、ヒトラーがそうやって自分の政党をつくってやって、で、ヒトラーがポーランド侵攻したときに第二次が始まって……」

 こういう感じで、若い子ですと答えられない。また歴史の授業でやってないとか、歴史の授業でこういうことを習ったとか。だんだん受験生になっていくと、よく答えられるようになるんですよね。受験で習っていることをよく答えられるようになって。今度、大学生になると受験から2、3年たっているので「ああ、歴史、もう忘れちゃった」という、そういう意見が…… 想像するとおりですけど。なかにはすごく歴史が上手で、歴史のことをダーッと言える子がいたりとか。というので、一応、学校で、教育で習っている歴史というものを強く意識させられる。そういうことが多いです。だんだん年を取って今度、大人はどういう反応をするかという感じです。

映像:「そうですね。うん、事件っていうと、あんまり覚えてはいないんですけれども、そうですね」
映像:「何だろう」
映像:「アヘン戦争かベトナム戦争しか出てこないんですけど」
映像:「思い出せるのは、45年の原爆投下。その前に何が起こったかというのが、ぱっと出てこない」
映像:「ええと、日本の終戦まで。終戦まで? 分かりません」
映像:「やっぱりパール・ハーバー、真珠湾ですよね。あれが歴史的な日本人の大勝利だと思いますので」

 この人(上記と下記)はアメ横のミリタリーショップの前でインタヴューした人です。

映像:「大航海時代以降、欧米諸列強に、ずっとアメリカに植民地にされてて、日本がやっぱりその、あの大東亜戦争で、最終的に負けはしたんですけど、あの、これは僕の個人的な考えですけど、負けはしたんですけど、あれで有色人種も白人に逆らっていいんだってことが皆わかって勇気づけられて。で、戦後、45年以降、次々に欧米列強の植民地からどんどん独立していって、自分たちの力で国をつくっていったっていう」
映像:「やっぱり世の中には話し合いの通じない相手がいますから、それには力には力で対抗しないと僕はだめだと思うんです。なので日本もきちんと核兵器を保有して……」
映像:「中国にはひどいことはしたと思います」
映像:「言われているほど悪いことはしてないんじゃないかなと思いますけどね」
映像:「実際調べてみたらそうでもないのかなっていう。公的には何もなってないですよね。ええ、ええ。実際のところどう……」
映像:「ちょっと分からない」

 このように、大人になると質問に対してごまかすというかね。ちょっと答えられないことに、周りを埋めていく、ごまかすような巧さが大人には出てきたり。あと、よく知っている人は右翼的というか、右翼的によく勉強している人というのがなかにはいらっしゃいまして。逆に右翼的でない人でよく知っている人が案外少ないというか、そういうオピニオンをもっていた人は、思っていた以上に少ない、私たちがやった範囲では少なかったというのが正直なところです。もっと年になると、自分の親の経験とか自分自身の経験というのを語り出します。ちょっとそこをちらっとだけ。

映像:「弾が入ってましたよ」
映像:「韓国とかは、要するに、その歴史のなかの、悲しい出来事の部分というのは、何ていうかな、これからの、次の世代の子どもたちに教育していくという、出来事を教えていくということに対しては、やっぱりちゃんと」
映像:「肉親の戦死とか、やっぱり」
映像:「うちの父は軍人だったんですけど。弾が入ってましたよ。鉄砲の弾が。体に。鉛」
映像:「知らん。分からへん。もう忘れてもうた。記憶にございません」
映像:「生まれてないから、まだ。47年生まれやから」
映像:「皆がたくさんひどい目に遭った。殺されたということでしょう。空襲でやられたということでしょう」

 きりがないのですいません。こんな感じで、だんだん自分たちの記憶の語りになっていくんです。最初に言った、ニュートラルでないということですけど、もちろん編集する上でだんだんやっぱり私の視点というのが必ず入ってきます、オーラル・ヒストリーと言っているので客観性はある程度なければいけないんでしょうけれども、どうしても私自身の考えというか、私自身の主観的なものが入ってこざるをえない。このなかで、私がすべてやった200のインタヴューのなかで、いちばん気持ち悪い——こういうことをさせていただいて気持ち悪いなんて言ったら失礼なんですけれども——私自身がこの人は嫌いというか、私の立場から考えると問題があるなと思う人はいます。だけどこのような作品なのでそういう人も入っています。

映像:「やっぱり当時、海軍のパイロットの人の手記で、南京陥落3日後に休暇で南京城内に入ったと。で、激戦地で有名な光華門という所があるんです。光華門を通って城内に入った。3日ですから片付けができてない。門の外には死体があったと。門が崩れている状態で城内に入ったという話。城内に入ると平常を取り戻していて、カフェが開いていて映画館が営業していたと。もちろん中国人の女性がカフェの女給さんとして働いていらっしゃる。南京大虐殺の話、ないんですよ、これが。朝鮮半島に関しては、統治を始めてから終戦時、手放すまでの間、黒字になったことは一回もないです。ずっと赤字です。まあ、失礼な話やけど、収奪できるものがあればいいですけど、ないですから。韓国の方にとってすごく気に入らんお話やと思いますけども、日本が朝鮮半島を必要とした理由はたったひとつ、満州の確保です。みんなが間違っています。アメリカももちろん大間違いです。フランスもそうですし、イギリスもそうです。責める資格のある人たち、誰もいません。だから正義の側に立って悪を糾弾するという姿勢はすごく間違っています。特に韓国の方に言いたい。正義の側にあなた方はいない。あなた方、日本人だった。日本人として日本の軍隊に参加した。あなた方は大日本帝国の国民だった。本当に反省するなら、あなた方も悪の一員であったということで反省しなさい」

 こういう人なんです。こういうものをタイムラインに入れないかといったら、やっぱりここは私は入れる必要があるというか、今の姿を見せる意味では入れる必要があると思いました。でもやっぱり、今の映像はソウル市美術館で問題になったんですね。これを見せられるか見せられないか、非常に問題になりまして、実際、主催者としては、ここはひどすぎる、この言葉はやっぱり暴力性がありすぎて入れられないでしょうという判断が展覧会当日にありました。で、キュレーターと話し合いまして、最終的に我々はこれに黒いバーを入れたんですね。彼の口は動いているけれども、サブタイトルには黒いバーが入っているという状態です。だから何かしらの判断でその言葉を伝えることはできなかった。でも、「何かしらの判断が下ったということ自体は可視化していいですか」ということに対しては、主催者は「それはいいですよ」ということでしたので、それをした。でもその展覧会自体が問題になったのは——ここがボンと出ていればもっと問題になったのかもしれないですけど——特攻の、別の作品です。特攻の作品のときを巡ってのものです。ただ今回はそれを話す場ではないので。そこで問題もあったんですけど、これに関してはそういう判断が下されました。
 作品はこれだけをパッと見せるというものではなくて——私のなかではやっぱり嫌だな、主観的にやっぱりよくないと思う面があって——今の人とは対照というか、逆の意味で突出したインタヴューというのがありまして、それが実はこの作品の最後の15分くらいの、このおばあさんの話なんですね。

映像:「だったらどないすんねんて言うけど、そんなんやないねん。おれへんたったらおれへんでも、な、自分がしっかりしたらええでって、こんな感じです」

 このおばあさんは鶴橋で会った在日朝鮮人のおばあさんです。

映像:「当時、ご両親と住まなくなったのはやっぱり戦争が理由?」「はい。もうばらばら。ええ、そうですよ。あのね、私らのときはいちばんあかんと思います。そやけど、自分がそういう恵まれへん年に生まれたなって、諦めてますね。はい」「なるほど。でもそれは、終わったら元に戻るんじゃないですか」「いやいやいやいや。元に戻るまで長いんです。うん」「戻るというのは一緒に住む……」「はい。はい」「というのも……」「長いですね。そんなんで、はい。ああやこうやしてても、いまだに生きとりますね。83になったけど」「食べ物とかはどうしてたんですか」「なるようになるんですよ。うん。ほんと。人間ってな、寿命さえあったらね、何でもなるもんになります。はい、ほんとに」

 このおばあさんは83歳のおばあさんです。

映像:「そやから自分は、誰を恨むっていうことはできません。うん。お母ちゃんはお母ちゃんで可哀想やったしな。子供と住まれへんなんでな。そうでしょう」「時代がちょうどそんな時代やったからね」「時代。時代です。やからいまだに……」

 本当に涙ながらに。自分が8歳のときから仕事をしています、と。学校に行きたかったんだけれども行けませんでした、8歳のときから仕事してます、ずっと親と別れて生活してきました、と。こういう人の語りというのは、いろんな語りがありましたけど、同じように見ていられないというか、何て言うんでしょうね、見ながらすごくもっていかれてしまいますし、気持ち的に、編集しながら何度もこちらも涙してしまうというか、それくらいのパワーがあるんですね。このおばあさん自体にものすごいパワーがあります。だから他の人たちの語りとはまったく別の質の何かがここでは撮られていて、それをやはり見せるプロジェクトなのかな、編集なのかなと思って、このタイムラインの半分くらいがこのおばあさんの語りででき上がっています。後でみなさんにちゃんと見ていただけるようにできればいいなと思っています。
 今はこういう場ですのでまとめますね。なぜこういうことを私なりにやっているのかというと、さっき言いましたけれども、いかに知らないかということを可視化してみようというプロジェクトというのが1つです。今までの発表者の皆さんと同じように私も、この作品と同時に他の作品でも、いろんな方にインタヴューをしながら映像を撮らせてもらって作品をつくっていますが、やっぱり大文字の歴史には回収されない個のストーリーというのがそれぞれの方にはあって。それぞれの人には口癖があったりとか、言い間違いがあったりとか、いろんな身体的な……。たとえばあるおばあさんにインタヴューして、8時間ノンストップでダーッと話すんですよね。8時間ノンストップで話して「お水飲まなくて大丈夫ですか」「大丈夫です」と言って、8時間ノンストップで話すおばあさんがいたんです。その8時間の間に何度も何度も同じ箇所に戻ってくるんですよね。何度も戻ってくると、ああ、それはそういう話だったのかと。そしてまた違う話にダーッといって、また戻ってくると、ああそういう話だったのかと。それによって8時間後に、そのおばあさんがなんとなくこういうことを伝えたいんだなということがようやく分かるというか。それが実際のインタヴューの場だと思うんですよね。人の語りとか証言というのは本当にあやふやなものです。さっきみなさんの葛藤をお聞かせいただきましたけど、私はその葛藤の部分が作品になると思っています。そういうものをこうやって拾って、人間というのはこれだけあやふやで、証言というのはこれだけ間違いがあって、でも間違いがあること自体が人間なので、その部分をどうにかしてこういう作品で見えるものにしたいというのがあります。あともう1つ、ファーストハンドって言うんですか。人と人が会ってものを聞くという体験はトランスレートできないんですよね、他のメディアには。やっぱりこの体験というのはすごいパワフルなものです。視線もありますし、声もありますし、体もありますし、一対一というか、こういう場で生の空気のなかで人と接していると、やっぱりそれを超える体験というのはなかなかできないと思うんですね。人間というのはそれだけ優れているインターフェースというか。ただ、それだけ可能性のあるインターフェースでありながら、同時にやっぱり身体的に——皆さん、たとえば戦争の語りですとご高齢になって亡くなられてしまうというわけですから、やっぱりそこに限界があるわけです。じゃあその限界にどう対峙していくか。私はアーティストとして、映像とそれを見る人という、またここで一対一の関係がありますが——この関係とは先ほどの関係とは違いますけれども——ここでまた特別な関係をつくりえるし、まだまだ可能性はいくらでもあると思うんですね。それを2つ重ね合わせるというんですかね。そこに何か、アイロニカルではなく美術が機能するというか、ちょっとおこがましいですけど、美術に昇華するところがあると思うんです。人間のはかなさとかあやふやさとか間違いとか、そういうものを何か結晶として取り出してまた別の体験にしていくという、そういうところには美術の可能性があるのではないかなと思っています。以上で終わりにします。ありがとうございます。

辻:ありがとうございました。だいぶ時間もおしていますので、そのまま休憩のご案内をさせていだこうと思います、すみません。機材のトラブルで開始も遅れて、あとは少しご発表が長くなったということもありまして、休憩の時間を15分とっていたんですけれども、今が15時20分なので、休憩を15時半までとさせてください。15時半から鈴木さんにコメントをいただこうと思います。ご入場されたときにレジュメを受け取れなかった方、増刷をしましたので、もしよろしければ入口でお引き取り下さい。よろしくお願いします。

(休憩)

辻:それでは後半を始めたいと思います。お時間がおしておりますので、プログラムの修正をさせてください。これから15分、鈴木勝雄さんにコメントをいただきます。その後、15時45分からディスカッション、16時45分頃から質疑応答とさせていただきます。冒頭でもお願いさせていただいたんですけれども、本日の催しは書き起こしをわたしたちのウェブサイトで公開する予定ですので、先にご申請をいただいた方を除きまして、お写真や映像のをとることは、本日はお控えいただければ幸いです
 では早速、それぞれのご発表者の方に対して、東京国立近代美術館の鈴木勝雄さんにコメントをいただこうと思います。よろしくお願いいたします。

鈴木勝雄:どうも皆さん、こんにちは。東京国立近代美術館の鈴木です。よろしくお願いいたします。まず僕の理解では、今日のこの集まりというのは、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴが10周年を迎える記念イベントなのだろうと勝手に思ってまいりました。最近、アーカイヴについて論じる場所に参加する機会が増えるなかで、私自身は日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのこの実践をとてもプラスに評価をしています。というのも、いわゆるアーカイヴというものがなかなか日本のなかで進展しないなかで、この日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴは10年活動を続けてきた。そして80件を超えるインタヴューをアップし、そして今後も続けていくであろうという、その持続可能なシステムをつくったということに対して、今日もたぶんお集まりいただいている関係者の皆さんには敬意を表したいと思っています。その10年という節目の年のなかで、僕自身はユーザーという立場で今日この場に立っていますけれども、じゃあオーラル・ヒストリーのメソッドというものが、今日のテーマである戦後日本美術というものの群声なり、あるいは書き換えというものに対して、どんな可能性を秘めているのかということを、今日皆さんの発表をお聞きしながら考えた次第です。そのことを簡単に私なりに、図などを使いながらお話ししていきたいと思います。
 まず今日のこのシンポジウムを、足立さんの発表を受けてざっくりと図示すると、こんなふうになるのかな。

戦後美術史の「正史?」。括弧、そしてクエスチョンマークを付けています。これは強者の歴史であって美術館なりがそういうものを強化しているという見方ができるかもしれません。そのクエスチョンマーク付きの「正史」というものからこぼれ落ちてしまう様々な声を拾っていこうというのが、オーラル・ヒストリーの目的でもある。今日の発表で言うと、足立さんは弱者たるアーティスト、中嶋さんは女性作家、白さんは在日朝鮮人作家ということで、その周縁部の声を拾うという実践を今日はお話しいただきました。小泉さんはオーラル・ヒストリーをちょっとメタなレベルから見立てて、僕の理解では、白さんの周辺にある不可視のアジアというものを浮かび上がらせるお仕事ではないかと考える次第です。そうすると、問題は僕の立ち位置なんです。ちょっとションボリマークを付けていますが、私はこの正史なるものを編んでいく美術館という側に立って、今日はあえてお話をしてみてもいいのかなというふうにも考えております。
 足立さんのご発表のなかで、足立さんはあえて強者と弱者という二分法を設けて、その弱者たるアーティストの声を拾い集めることをもっと押し進めていかなければいけないと語っていらっしゃいました。でもこの弱者と強者というカテゴリーを設定することで、この中央の括弧付きの正史を解体、再構成できるのだろうかという疑問を発したいと思います。つまりこの緑部分の周縁部分がどんどん豊かになることによって、その真ん中の部分は書き換えられるのだろうか。私はむしろ、強者の歴史のなかにもいくらでも異物があるんじゃないかと思うんですね。(スライドの中では)バクテリオファージ(のイラスト)で図示していますけれども、

それを手がかりに正史を内側から変容させることだってできるはずだ。そこにオーラル・ヒストリーの可能性があるのではないかと私は考えています。実際に今のオーラル・ヒストリー・アーカイヴの80数件あるインタヴューのなかで、たとえば画廊主が2件あったり、評論家は13件ととても多いんですよね。写真、工芸、音楽、建築と、私が見るに周縁部分を拾っていく、あるいは美術との接点を探っていくという試みは、これまでも意識的にやられていたと私は理解していました。こういう目的を達成するためには、もう一回オーラル・ヒストリーの資料的な価値を再確認したほうがよさそうだと、私は今日みなさんのお話を聞いて感じました。
 オーラル・ヒストリーの価値はどこにあるのかというのを簡単に図示してみました。

下手くそな図なので分かりにくいかもしれませんが、このオーラル・ヒストリーというのはまさにインタヴュアーとインタヴュイーの出会いによって、その対話によって紡ぎ出される語りであると。語り手はインタヴュアーの問いかけに答えるように過去を想起し、そして個人の物語を再構成していくわけですね。じゃあそういう語りはどんな価値があるのか。2つの極端な見方があると思います。構築主義的な立場に立てば、いまここの語りそのものが意味と事実性を構築するのであって、歴史的な「真実」の探求とは無関係なのだというものです。これは極端な立場かもしれませんが、ひとつそれはありうると思います。もうひとつは歴史実証主義の立場に立てばですね、ややライフストーリーの資料的信憑性は低いと、歴史研究としては使えないという見方も一方ではあるかもしれません。私自身がオーラル・ヒストリー・アーカイヴの一ユーザーとしてそのインタヴューを見ていくなかで、この1と2の間なのではないかというふうに考えています。つまり歴史的な過去のリアリティもその発言のなかには含まれているが、しかしやはりそれは、いまここの現在の地点から再構成された語り、物語にほかならないと。でもそのことがある意味を生産していくのだ、そのプロセスをいま、われわれは読んでいると考えています。つまり「いま、ここ」のリアリティと「あのとき、あそこ」のリアリティの両方がオーラル・ヒストリーのなかには含まれていて、それが資料的な価値を担っているという図式です。当然、個人の語りというものが、個人の語りのなかで終わってしまっては意味がなくてですね。それを束ねていくことで、マクロな構造や集合的なカテゴリーというものと関わって、マクロとミクロが行き来するような叙述に展開していくことが求められていくわけです。そういう意味でもオーラル・ヒストリーの集積というものはいろんなかたちで貢献するのではないかと考えています。
 この見取り図を見ていただいた上で、今日の4名の方たちにそれぞれコメントと質問をまとめてみました。時間がないので書いていることだけを読み上げます。
 足立さんへのコメント。1. 構築主義の立場に立てば、島田澄也の語りもオーラル・ヒストリーとして採用すべきではないか。細部において誤りや齟齬があるのは当然のこと。それを差し引いても、彼が実感をもって語った歴史的な過去のリアリティは記録に値するものではないだろうか。部外者である私はそういうふうに感じています。さらに参照すべきは、島田澄也の回想画という稀有な作品資料があるということです。つまり回想画が現在から過去を想起してイメージを定着させたものだとすれば、彼のオーラル・ヒストリーも同種の表現と見なすことができなかったのか。足立さんは資料として採用できないと判断されてしまうわけですけれども、採択と不採択の基準はどこにあるのだろうか。これを足立さんへの投げかけ、そしてオーラル・ヒストリーに関わっている皆さんへの投げかけということで挙げてみたいと思います。
 次、中嶋さんへのコメントです。田部光子さんのオーラル・ヒストリーも構築主義の立場に立つとそのリアリティの所在が分かりやすく見えてくるというふうに考えています。彼女の作品をラディカルなフェミニズム・アートの先例と価値づけたい研究者と、その価値づけを認めつつ居心地の悪さを感じている作家による、緊張をはらんだ意味生成の過程そのものと私は読みました。まさにいまここのリアリティがそこにはあるということですね。したがって、私自身は1961年制作の《人工胎盤》がラディカルなフェミニズム・アートの先駆的な作例か否かを確定する証言ではないと考えています。むしろこの60年代の仕事が2000年代に入ってからの再制作の機会を得て、比較的近年に言説の働きによって再生したことが明らかになっているとみました。この《人工胎盤》だけが前後の文脈から切り離されて独り歩きしているような印象を私は受けています。赤瀬川の《ヴァギナのシーツ》への応答というよりは、1961年の九州派内部における菊畑(茂久馬)やオチ(オサム)などの男性作家による女性器の形象化との関係のほうが、より密接に関わっているのではないかと私は想像しています。このオーラル・ヒストリーを様々な矛盾を調停する作家のモノローグとして中嶋さんは解釈されるんですけれども、私はむしろ研究者、評論家と作家の対話のプロセスとして捉えたいと思います。作家中心主義的な美術史を相対化して、新たな叙述のスタイルを展開できないだろうかとこのオーラル・ヒストリーに私は期待をかけています。
 次、白さんへのコメントです。より大衆的な表現である漫画が圧倒的な人気を博して、国民的ないしは民族的なアイデンティティの創出に貢献するという事例は他国にも存在します。今日は黒田(雷児)さんがいらっしゃっていますけれども、黒田さんが文章を書かれていますね(注:黒田雷児「マンガが形成した国民国家 フィリピンのコチン」『終わりなき近代 アジア美術を歩く2009-2014』Grambooks、2014年、131-133頁)。フィリピンの漫画家フランシスコ・コチンが、フィリピンの美術史家パトリック・フローレスによって、国民的な芸術家として再評価されたことは記憶に新しいことです(注:Patrick D. Flores ed., The Life and Art of Francisco Coching, Quezon City: Francisco V. Coching Foundation, 2010)。視覚的表現が果たした役割を社会的な文脈にもとづいて検討することで、美術の領域を再定義することができるのではないでしょうか。ただ、私は白さんのご発表を何度か拝聴しているんですけれども、白さんの研究における在日朝鮮人作家というカテゴリーの境界が必ずしも明らかにされていないように思っています。白さん自身の帰属の問題ではなく、美術史を形成する歴史的なカテゴリーとして、在日朝鮮人作家というものがどのような集団を指しているのか、具体的に教えていただきたいと思っています。李禹煥のオーラル・ヒストリーで語られているように、在日朝鮮人のなかでもイデオロギーが異なる複数の集団が存在していたはずです。白玲やツ良奎の活躍によって、1950年代においては在日朝鮮人作家と日本人作家、評論家との交流は盛んであったと言えるのではないか。在日朝鮮人コミュニティの内部で完結するのではなく、日本の美術界との相互交流の実態が知りたいと思います。最後、在日朝鮮人作家と朝鮮半島の美術界に交流があったのか。また李禹煥さんの例を挙げますけれども、日本と韓国を行き来した、そして双方において多大な影響をあたえた彼のような例もあるわけですから、朝鮮半島の美術界との交流というのも気になるところです。
 最後、小泉さんへのコメントです。映像に記録されたオーラル・ヒストリーにおいては、話者の表情とか身ぶりも重要な要素だと考えられてきました。これに対して、この口だけを切り出した映像の不気味さというものは、匿名であることによって誘発される暴力性を示すばかりでなく、しばしば文字に還元されてしまうオーラル・ヒストリーの歪さも暗示しているように感じました。オーラル・ヒストリーとは文献に残ることのない個人の経験を口述の記録としてまとめていくことなわけですけれども、「1900年から1945年の日本を含むアジアで起こった出来事は何がありますか」という問いに対して、実体験をもって語る世代が退場しつつあることを痛感しました。1960年代、70年代に同様の質問を投げかけたら、その反応は大きく異なったのではないでしょうか。70年代以降、膨大な数が刊行された旧日本兵の体験記などが思い起こされます。そして、その集合的な記憶が忘却されつつあることを痛感します。ただ、日本とアジアの関係を歴史的に考えようとすると、なぜ1900年から1945年という時代区分が設定されるのでしょうか。それが重要だということはもちろん了解した上で、あえて言っているわけですけれども、それに比較して日本とアジア関係の戦後が問われることは非常に少ないような気がしています。最後に、実際には200というサンプルを集めていらっしゃるわけですけれども、限られたサンプル数のオーラル・ヒストリーによって、ある特定の集団が表象されてしまうことの危険性というものをこの映像を通して感じました。
 以上が私からのコメントです。やっぱりカテゴリーの罠とでも言いましょうか。いくつかのカテゴリーを設定することによって非常にクリアに物事が見えてくるんだけれども、でもそのカテゴリーのなかで完結してしまうと、いろんな相互作用が見えなくなってしまう。そこにやはり注目していくということもこのオーラル・ヒストリーの重要な部分ではないかということで、私のコメントを終わらせていただきたいと思います。

辻:どうもありがとうございます。それぞれのご発表者に対して、的確なコメントとご質問をいただけたと思います。それではまず、発表者の方々にそのご返答をいただく前にですね、これまでの発表と今の鈴木さんのコメントに対して、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴから加治屋さんに…… この順番でいいですかね?

加治屋健司:先に発表者の方に……。

辻:失礼いたしました。では先に、いまいただきました鈴木さんのコメントやご質問に対して、まずはそれぞれ発表者の方からご返答をいただきたいと思います。まず足立さんから。

足立:どうも、鈴木さんのコメント、ありがとうございました。あえて東近美(東京国立近代美術館)を挑発してみたんですが、はい。まず(鈴木の質問の)1、2、3をまとめて回答したいと思います。なぜ島田澄也さんのインタヴューをお蔵入りにさせたかというと、先ほど白さんのお話のなかで、話者とインタヴューの聞き手と語り手が相互に影響をあたえ合うということがあると白さんがおっしゃいましたけど、私もまさにそういうことを体験していました。最初、島田さんにお会いしたときはよく分からない若い研究者だなと…… その何度目かに会ったとき、私が『前衛の遺伝子』(ブリュッケ、2012年)という本を出した後、島田さんに送った後、島田さんの私への態度というものがちょっと変わりはじめました。だんだん私を研究者として認めてくれるようになったということであるんですけれど、それは良かったんですが、だんだん彼自身の業績といいますか、彼自身がアーティストとしていかに優れているかというのを、話を盛るようになってきたんですね。
 (鈴木さんが述べるような構築主義的な立場として採用する)そういう可能性がゼロではありませんけれど、この方のインタヴューを続けるのは難しいなと思いました。たださっき申し上げたように、島田さんとの話し合い、語りというのは、非常にエキサイティングなものでした。自分が未決囚として5ヶ月間牢屋にいたとか、そういう話は本当に桂川さんの本にもなかったことで、それは良かったと思います。ただそうやって話をどんどん盛っていくということ、それはですね、たぶん小泉さんの作品だったらこれは絶対に作品になると思うんですけど、でも歴史家としてこのままそれを採択はできないなと。〔スクリーンに関する指示として〕ちょっと1つ前のスライドに戻っていただけますか。構造について。もう1つ前ですね、それです。戦後日本美術史の「正史」が強者の歴史という、私は、そう思うんですけれども、強者といっても結局それは、さっき私は宇宙の喩えをしましたけれども、宇宙の星々の星にすぎなくて、もっと大きな広がりがあると。その宇宙全体の大きさに比べれば、強者たる、注目されている、並んでいる星々というものは非常に小さなものであるということを、私は先ほど申し上げたつもりです。そしてその星々を並べて鑑賞するのがアートなり美術館だというのもわかっています。私もそれが大好きではあるんですが、私自身はその宇宙の闇を観測するようなことに最近は関心があります。星々ではなくてむしろ見えないもの。宇宙全体を、宇宙全体と言うとおかしな人ですけれど、美術史研究を宇宙研究に例えるならば、という話なんですが、個々の作家を含めたもっと大きなもの、それを私は考えて、社会史と自分で言っているんですけれど、自分は最近は美術史家じゃなくて社会史研究者、視覚社会史の研究者というふうに最近自称しています。そんなことをこの図に対するコメントとして、反論というか、自分はこう思っていますということで述べさせていただきます。ありがとうございました。

辻:ではそのまま中嶋さん……。(足立に向けて)今のお話だと、島田さんの誇張に「表現」は見出せなかったということですか。

足立:いや、すごい表現でしたよ。それはもう表現です。もし私がアーティストだったら絶対それを表現として使います。ただ歴史家としては、それをそのままオーラル・ヒストリーとして出すことは、島田さんに対しても良くないことだと思いますし…… うん、やっぱりそこはとどまるべきではないかと思ったわけです。

鈴木:編集はできないんですか。それはルールとしてやらないということなんですか。

足立:うーん…… ちょっと、編集をすべきかどうかということも考えたんですけれど、うーん…… 難しいなと思ったんです。

鈴木:分かりました。

辻:では中嶋さん、お願いします。

中嶋:ご意見とご質問をどうもありがとうございました。とてもたくさん内容があったのでうまくお答えできるようにまったく思えないんですけれども、最後のほうからお話しすると、モノローグではなく作家中心主義を批判することができるのではないかというご意見に対して、まったくそのとおりなんですけれども、少なくとも当時の私の意識では、女性のアーティストの場合は作家中心的にあまりなっていないと思っておりまして、今ここで言葉にしようとするとすごく傲慢なかたちになってしまうんですけれども、好きなように語ってほしいというふうに思っていたわけですよね。でも結果的にそれは、今日はインタヴューを一緒にしてくださった北原さんと小勝さんも(会場に)いらっしゃるので、これは私自身の印象としてお伝えしますが、あまりうまくいかなかったな思ったですね。そのうまくいかなさ加減というのが、鈴木さんのお言葉を借りると、緊張関係の間にあるということになるのかもしれないんですけれども、オーラル・ヒストリーを公開するまでに問題や苦労があって、結果的に公開したけれども、そこでは意味ができ上がらなかったな考えたんですね。なので今日この話をしながら、私自身がオーラル・ヒストリーというものをもう一度語り直したくて話をしているのだと感じるに至ったわけですけれども。これがオーラル・ヒストリーとして苦労したものであって、うまくいったと思えないものなのであるということを、オーラル・ヒストリーの外側で伝えないとうまく機能しないんじゃないかと思ったことと、あとはそれをどう読むかということに多様な例がないとまずいのではないかと思いました。これを読んだ限りではやはり、フェミニスト・アーティストである田部光子について聞きたいという態度が前面に出て、他のことが落とされてしまうという気がしたんですね。それなのでいちばん最初のご提議に戻りますと、資料的な価値としてはインタヴュアーの手を離れてからはほとんどコントロールが利かないわけですけれども、オーラル・ヒストリー(聞き取り)をした後でいくら何回も議論が重ねられないと、資料としては危険なものにならざるをえないとは考えています。その危機感というのはそうそう拭えない。他方でそういうものを感じないインタヴューもあるんですね。たとえば写真家の石内都さんにお話を聞いたときは、石内さんはとても理論的に完成したものをご自分のなかでもっていらっしゃる方なので、お話を聞くと響くものが返ってくるのですけれども、そうでないものの場合にどうしたらいいのかというのは、いつまでたっても後味の悪さのように残っています。今日は足立さんと私がオーラル・ヒストリー・アーカイヴのなかでは発表者だったんですけれども、共通点があるとすればやはり、外側にいる人たちに話を聞きたいというのが私たち2人の共通点だと思うんですね。他の方のインタヴューがそうではないわけではないんですけれども、どうして他の人はしれっとできている感じがするんだろうという気持ちがありました。それなので、この発表をしなければお話しできなかったこともあるのでこれはありがたいと思いつつ、やり方としては考えていかなければならないというふうに思っています。

辻:ありがとうございます。フェミニズム・アートとして位置づかない、それに居心地の悪さを感じるリアリティや、うまく聞き出せないことに意味を見出したいと思って私自身も聞き取りをするんですけれども、一方でそれが実証的な資料の価値があるのかどうかというのもかなり気にかかってしまうので、これは足立さんのご返答と中嶋さんのご返答に共通していることかもしれません。そのまま議論を進めたいと思います。
 1点、短く、(鈴木さんから)中嶋さんへの3番のご質問というかご指摘に関して、戦後日本美術に関する問題ですけれども、何かお返事はありますか。

中嶋: 3番はかなり具体的でしたね。これは本当にそのとおりだと思います。赤瀬川原平との関連というのは、田部さんがお話しされているわけでもないですし、まったく確証はないです。ただ、九州派の内部での関わりというのはもちろん考えたんですけれども、それよりもさらに広い文脈に開くことができるのではないかという私の解釈であって、これを言説の働きと考えるのであれば、そのことの是非というのはまた問われなければならないというふうには思いますけれども、そういう解釈の広さの可能性というものを示したいと考えました。ありがとうございます。

辻:のちほど会場からもご質問をお願いしたいと思います。では白さん、お願いできますか。

白:鈴木さん、ありがとうございます。私の帰属意識とは別に在日朝鮮人美術家というのをどう括るかというところなんですが、本当に難しいです。本当に難しくてですね。私が去年の11月に、プロフィールにも書いたんですけれども、一般社団法人在日コリアン美術作品保存協会というのを立てまして、私が代表理事をしています。とにかく子育てで何も研究ができない、でもとにかく何か動きたいというときに、協会をつくろうじゃないかという他の方の意見がありまして、じゃあとにかく設立をしようということで設立したんですね。で、今年のゴールデンウィークに作品を整理して、写真を撮って、寸法を測って、リストを作成しました。今、所蔵の作品としていいのではないかというものが、だいたい300点弱くらいあります。でも、これも所蔵作品にしようとか、この作品はどうするのか、作家に返すのか、これは(作者が)誰だか分からないから(所蔵者に)返すしかないのか、でもこれはサインが入っているし残そうかとか……。そういうことでとにかく作業が進まないんですね。自分は在日朝鮮人だと自称する美術家の作品を、私自身も研究の対象としています。やはり難しいなと思うのは、私は朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮で聞き取り調査をしました。1948年に日本に密航してきて、それで日本にだいたい14年くらい住んだ後に帰国船に乗って北朝鮮に行った。そういう人の美術作品もこの協会の作品として入れています。でももう、その方は日本にいらっしゃらない。遺族は日本にいらっしゃるので、その方への聞き取り調査は日本でできるんです。それでも、会えないこともあります。私の周辺でも「いやもう私、在日朝鮮人なんて言わないで。国籍も変えたから」みたいな。だからいつ何が起こるか分からない。アイデンティティって流動的で、現実的にはカテゴリーとしてはとっても難しいというのが現状です。
 もう1点、1960年代の日本人美術家との交流、相互交流の話ですが、私はここにすごく興味があります。先ほど話しましたけど、全哲さんが手塚治虫さんと交流があった。これは事実なんです。ちばてつやさんもそうです。他にも『アンパンマン』のやなせたかしさんとか。そういう交流がありました。が、「日本アンデパンダン」展に朝鮮人美術家がたくさん出品しております。1950年代、60年代初期くらいまでですけれども。今日はお話しできなかったんですけれども、そうした交流がありました。今追っている最中です。
 朝鮮半島と日本を行き来した作家がいるかという点ですが、李禹煥さんのような作家さんはいました。北朝鮮との行き来というのはやっぱり難しいんですけれども、韓国との行き来はあったし、先ほどお見せした集団の写真のなかでも韓国に行って大統領賞をもらったという美術家もいましたので、行き来はあったと思います。
 私は足立さんの先ほどのお話にすごく共感できるんです。今まで見えていなかったものに個人的には興味があります。研究されきっている感じがする作家さんに対して私があえて研究をまたするのかというのは、あまり…… そんなこと言ってはいけないんですかね。私は掘り起こしたいという気持ちがどうしてもあります。

辻:そのまま小泉さん、お願いします。

小泉:先ほども言わせていただきましたけど、まだ自分のなかでこの作品が完成しているとは思っていませんでした。ちょっとサイドに置かれている感じはしていたので、このようなかたちでコメントをいただくことによって、こうすればいいとか、もっとこう発展できるなというヒントをいただいているような感じがしまして、非常にありがたい気持ちです。
 文字に還元されてしまうオーラル・ヒストリーの歪さ。口のグロテスクさというんですか。普段人とこういうふうに会話をしないです。ここに目を置いて会話しないです。そういう意味で非日常的な、クロースアップが必要ない部位にクロースアップするわけですよ。そこでのグロテスクさがストーリーを語ってくれるんじゃないかなという期待があってこれをはじめたんです。それを文字に還元してしまうオーラル・ヒストリーの歪さというものにつなげていただくというのは、非常におもしろい指摘だなと思いました。
 次は兵士の語りですね。私も興味がありまして、特に加害の歴史には興味があって。でも現状を見ると、加害の歴史がどれだけ受け継がれているのかというと、本当に弱いというか、どんどん弱くなっていっているのが現状ではないかと思います。これはそこらへんにしておきましょう。他の作品でその部分は扱っていますので。
 もう1つ、時代区分のことですが、非常におもしろい指摘です。私も最初は……第一次世界大戦が終わったのは……そこから第二次世界大戦が始まる前までかなと思って、そういう質問を実はしています。実際のフッテージを見ればそういう質問を投げかけているんですけど、そうではなくて、最終的にはいちばん質問しやすい1900年から1945年という時代にしました。時代的に分かりやすいのかなと思います。年号というのはおもしろいというか、年号を区切ることによって、年号を区切った外のことが強調され始めるんですよね。1945年までと言うと、高度経済成長という言葉がおもしろくなるんですよね。それでああ、間違っている、というふうになるんです。産業革命と言う人とか、高度経済成長とか、阪神優勝とかね。若い子の時代感覚ってそんなものなんですよ。多くの若者じゃないですけど、そういう時代感覚で生きている方もいまして、そういうのはおもしろい。今言われて気づいたことですけど、年号を区切ることによって、年号から外に出ていくものが強調されるというおもしろさが出てくるんじゃないかなと思いました。特定の集団が表象されてしまうというご指摘ですが、これは本当に難しいところで、今200ですけど200でも全然足りないわけで。たとえば500とか1,000とかあった状態でひとつのアーカイヴとしてあって、それが私の編集だけじゃなくて、私バージョン、他の人バージョン、オープンソースじゃないですけど、いろんな人がそのマテリアルにアクセスできて、その人たちがそれぞれいろんな別のかたちで作品をつくるみたいなことにしたら、たぶん特定の集団が表象されてしまうという問題が排除される。その危険性がどんどん排除されていくのかなと思いますけど、今はまだそこまでいけていない。ご指摘いただいて難しいところかなと思いました。あと、さっきの右翼的な人ですとか、在日朝鮮人のおばあさんでもいいですけど、ひとつのタイムラインに並んでいて美術館にバンと展示されていると、45分の間で、ちょうどおばあさんが語っているところにぱっと入って見る人は「こういう作品なのね」と出ていく人もいますし、でもちょうどあの変な——変なと言っちゃいけない——あの男性が喋っているところに入っていったら「うわ、何だこの作品」と思われてしまう危険性というのはもちろんあるわけで、そこの難しさというのがある。こういう作品をつくっていると、たとえば従軍慰安婦という言葉、南京大虐殺という言葉がどうしても出てくるんですね。でもよくあるのは、パブリック(観客)を気にする主催者側が——たとえばソウルで見せたときはコリアン・ファウンデーションが主催者だったんですが(注:「微妙な三角関係」展の主催はソウル市美術館と韓国国際交流財団)——言葉がバンと出てきたときに、そういうものに対してすごく敏感だというか、すごく気にされることが多いと思うんですよね。だからやっぱり言葉狩りじゃないですが、その言葉が出てきたとき、そういう言葉があるだけでそれを排除したいという——排除じゃない、そこを危惧されているのは分かるんですけれども、それがないと作品にならないというのが作家として葛藤があります。だからあの気持ち悪い人も入れたいですし、おばあさんも入れたいです。そうですね、そこがうまくいってないのか。でも、そういうことを感じました。

辻:どうもありがとうございます。それでは発表者間のご質問等に移る前に、加治屋さんからお願いいたします。

加治屋:日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの加治屋と申します。今日は皆さん、ご来場いただきありがとうございました。私は発表者でもコメンテーターでもなく、ディスカッションでアーカイヴとしての考えを中心にお話しできればと思って参加しております。まず鈴木さんのコメントに関していくつか、私のほうから言わせていただければと思います。アーカイヴの活動を、持続可能なシステムをつくっているということでプラスに評価していただいて、非常にうれしく思っております。実際の運営はなかなか難しいところもあるんですが、今後もこうした活動を続けていきたいと思っております。
 鈴木さんのご指摘にもありましたように、今回このシンポジウムは、日本美術史のなかでマジョリティではない存在に注目をして、そうした方々の聞き取りをおこなっている人にご発表いただいたんですね。それはたしかに、正史に対して正史でないものに注目しているように見えます。もちろんこうしたマジョリティでない人の声を拾うということがオーラル・ヒストリーの大きな可能性のひとつだと思いますので、今回こうしたご発表をしていただいたんですが、実際はいわゆる括弧付きの「正史」と言われている側の人たち、メジャーなアーティストたちにもお話をうかがっています。これはまったく鈴木さんと同じ意見なんですが、当然括弧付きの「強者」のアーティストのなかにも様々な——鈴木さんは異物という言葉を使われていましたが——従来の言説では捉えられていない側面もあります。そうしたことはオーラル・ヒストリーの聞き取りを通して明らかになってくるものと思います。ただ私自身は、正史という言い方には違和感ももっています。その違和感はたぶん鈴木さんも共有していらっしゃると思うんですが、正史は決して特定の美術館、特定の評論家、特定の研究者がつくるものではないと思います。複数の様々な団体なり個人なりが描いていく歴史のなかで、共通して認識される歴史というものが出てくると思います。やはりこの正史か正史でないかという言い方はなるべく避けたいなというふうに思っております。
 今回、足立さん、中嶋さんにアーカイヴからご発表いただきました。やはりどうしてもアーカイヴの活動をしていくと運営上の問題について話すことが多くて、なかなか実際のインタヴューを研究者としてどのように捉えているかという話を聞く機会がなかったので、今日は非常にいいお話がうかがえたと思っています。特にうまくいっていないインタヴューというのは、やはりそれ自体がひとつの事実として存在するもので、そこにやはり何らかの価値があると私は思いますので、まさにそれを実際にご発表のなかで示していただけたものと思っています。
 また今回、白さんにもお話しいただきました。白さんに対して在日朝鮮人作家のカテゴリーについて鈴木さんからご質問がありましたけれども、私たちも日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴというのを名乗っているので、じゃあ日本美術とは何なのか、日本とは何なのかという問いを投げかけられることがあります。前々回のシンポジウムでそうしたご指摘がありました。私たちは緩やかに日本美術という概念を考えています。実際、李禹煥さん、在日韓国人の作家にもインタヴューしていますし、アメリカで活動している作家たちにも話をうかがっています。したがって日本美術というカテゴリーは、活動の対象を制限するためのカテゴリーというよりは、むしろ聞き取りを促進するためのひとつのきっかけというか契機になるものではないかと思うんですね。何らかのカテゴリーを設定しないと実際の活動はしにくいところがあります。したがって白さんのご発表を非常に興味深く聞かせていただいたんですが、実際に白さんのなさっているようなことも、私たちのアーカイヴのなかでも扱うこともできるんじゃないかというふうに思いました。
 小泉さんは、特に《オーラル・ヒストリー》という作品をつくられているので、非常に興味をもって今回お招きしたんですけれども、ひとつおもしろいなと思ったのは、オーラル・ヒストリーの語りというのはある種ワンテイクで録るものですよね。つまり「録音を始めます」「撮影を始めます」と言って、ずっと語っていただくわけで、基本的には編集はしない方針です。もちろん多少の調整というのはどうしても必要なんですけれども、編集はしない。そうすると、語っていくなかで、やはりそれまで語ったことをふまえて次の話を出てくるので、語りがワンテイクであることがもつある種の縛りというのが生じるんですよね。それに対して小泉さんのお話のなかで、何回も話が戻っていく方がいらっしゃいました。つまりある種、直線的なワンテイクの語りに対して循環的な語りというのが示されていて、それはもしかしたら別の語り、別のオーラル・ヒストリーの可能性があるんじゃないかなと思いました。私自身は小泉さんの、口に焦点を当てたところは、匿名の語りの暴力性というよりはむしろ、個人の身体がもつ不定形なものの魅力と危うさみたいな、アンビヴァレントな価値を伝えるものだと思っています。それはたしかにオーラル・ヒストリーが活字になっていくことで見えなくなっていくんですけれども、ただそこには、循環的な語りによるオーラル・ヒストリーの可能性は残されているんじゃないかなと思いました。
 ひとまず私からは以上です。

辻:ありがとうございました。これまでの発表者の方のお返事や、あるいは今の加治屋さんのコメントを受けて、鈴木さんからも、それぞれにということではないんですが、コメントをいただければ幸いです。

鈴木:ある程度想像していたご返答をそれぞれの方からいただいたと思うんですけれども、足立さんがおっしゃったように、実際の局面においてはなかなかそう簡単にいかない部分があるのだと、実際に展開されていく表現としての語りのなかから、どのような資料的な価値を見出すかというところでいろいろ迷われているんだなということがよく分かりました。そう単純に表現として片付けるわけにはいかないんだなと。

足立:表現として捉えるならば、本当におもしろかったです。

鈴木:そういう語りのなかにもいくつかのリアリティがありましたよね。柳瀬正夢の話であるとか築地小劇場であるとか。その語りは結局ボツになってしまうことによって、我々はアクセスすることができなくなってしまう。

足立:一応、回想画にはなっています。

鈴木:うん。なので、回想画というものと彼自身の語りというものが並走していくというか、両者が関わり合いながら。それはいわゆるファクトではないかもしれないけれども、彼の主観的な過去のリアリティということで、何とか掬い上げることができないのかなというふうにやっぱり僕は思うんですね。ただその際に、編集なしでそのまま出せますかと言われると、現状のルールではたしかに難しい部分もあるんじゃないかなと思いますが、でもその原理主義的に編集は一切しないということで、こういう盛った語りが消えていくということもちょっと残念な気もするんですけれども、ちょっとしつこいようですが。

足立:私自身も本当に残念なんです。その残念なもどかしさを共有できたらなという思いもあって。その残念な語りというのが、実は島田さんだけじゃなくて、もっといっぱいあるはずで、そうしたもっといっぱいあるだろう残念な話の総体を考えると、いやもう、くり返しになりますけど、わかっていることはどれだけ小さいんだろうと。

鈴木:そういうオーラル・ヒストリーを集めていくなかで、足立さんはある種の作家の序列のようなものを今日の発表のなかでおっしゃいましたよね。でもやっぱりこれはアーカイヴ。ミュージアムじゃなくてアーカイヴなんだから、僕はそこに作家の序列というものは設けなくていいんじゃないか。逆にこれはアーカイヴですから皆同じように扱いますよ、それぞれの話を聞く、それぞれの歴史を聞く、というスタンスでいけるんじゃないかと思うんですけど、どうですか。

足立:ここには美術という言葉がついているのが問題になるんです。日本アーカイヴとか日本造形アーカイヴとかだったらいいのかもしれないですけど、美術だとやっぱりそこに取り上げる人は、李禹煥に並ぶのだとか、そういうことをちょっと思ってしまうのかもしれません。

加治屋:ちょっと僕のほうから介入しますと、たしかに現時点では資料と作品、あるいは資料と表現の区別というのがあって、美術館ではこの区別というのは重要だと思うんですけれども、ただ長期的には、この区別というのはそれほど大きな意味をもたなくなっていくだろうという予想はあります。実際、オーラル・ヒストリーの語りというのが歴史のなかで文字となって登場したのは、まだそんなに歴史がないわけで、ただこれも長期的にはひとつの表現として捉えられて、そこではもはや盛った話であろうとそうでなかろうと、区別がそれほど重要でなくなっていく可能性はあります。現時点ではたしかに様々な困難があるにしても、私たちが皆死んだ後かもしれませんが、重要な表現あるいは資料として、活用される可能性もあるとは思いますね。

鈴木:僕はこれ1点でけっこうです。

辻:他の方々からコメントや、これまでの加冶屋さんのご発言、鈴木さんのご発言に対して何かございますか。もしなければ私から。鈴木さんから、アーカイヴとして網羅していろいろな方々に聞いていくという点では序列はないというお話もありましたが、そうは言っても抑圧的な、という言葉は適当かどうかよく分からないですけど、支配的な言説や今の戦後日本美術において重要な作家と見なされている人たちはなんとなく想像され、それに対して活動しているという面があると思います。あまり鈴木さんにばかりお話をふっていてもよくないですけれど、「正史」を内側から変えることができるんじゃないかというご発言もありました。仮にですけど、鈴木さんにとって戦後日本美術という「正史」を解体するテーマや作家というのはあるのでしょうか。あるいは、それを聞き取りという方法で「正史」を内側から変えるということは可能なのでしょうか。

鈴木 ちょっと最近調べたことがあって、いわゆるルポルタージュ絵画というもののカテゴリーがどう歴史的につくられたかということを辿ってみたんですね。今僕らは何の気なしにルポルタージュ絵画ということでその代表的なタブローを皆思い浮かべることができますけれども、50年代当時の言説を見ていきますと、タブローと直結するカテゴリーではなかったはずなんですね。ルポルタージュ絵画運動というふうに当時は使われていましたけれども。そうするとそこでは、足立さんのご発表でもありました、プロレタリア美術の流れを汲む人たちが行なっていた様々な版画運動であったり、あるいはある種の量的に美術を拡散していくような手法をとったりというように、タブロー以外の試みがたくさんなされていた。それがいつしかルポルタージュ絵画というカテゴリーが立ち上がるなかで、そういう要素がどんどんどんどん削ぎ落とされて、いくつかのタブローだけが、まさに「正史」のなかで扱われるようになったというところが見えてきました。つまり今の話で言うと、ルポルタージュ絵画運動が当初もっていた様々な多様性というか広がりを、たとえばオーラル・ヒストリーというかたちで回復することによって、従来のタブロー主義のルポルタージュ絵画の見方を修正することができるんじゃないかと、最近考えています。

辻:非常におもしろい論点ですね。足立さんもありますか。

足立:そのとおりだなと思います。僕は50年代の版画運動というのは 池上善彦さんという方とか、そこ(会場)にいるジャスティン(・ジェスティ)さんが(研究を)やっていらっしゃいますが、ルポルタージュというのは、それをルポルタージュ絵画というものにしたのは、誰がそうしたのか私は分からないんですけど、中村宏さんと話していて印象的だったのは「ルポルタージュ絵画なんて実はないんだ」と彼は言っていたことです。「本当のルポルタージュ絵画はない。それはこれからできるんだ」と、そんなことを彼は言っていて。じゃあ今までのは、50年代のは何だったんだと私は思ったんですけど、でも非常にうまい言い方だなと思ったんですね。ルポルタージュ絵画というものが当時、議論されてそういう合意があったわけではなかったし、そのように見捨てられたもの、美術と見なされなかったものがたくさんあります。まさにそこは同感です。

辻:また違った角度から、まったく違う質問でも構いませんのでいただいてよいですか。はい、中嶋さん、お願いします。

中嶋:今のお話に関連することだと思うんですけども、当時の事実はどうだったかということをオーラル・ヒストリーだから聞き取れるわけではないですよね。質問する方ももちろんそうなんですけども、話す方もこれまで確立されてきた言説のなかで制限されている。それを意識しているかしていないかにかかわらず。話さなかったんだからなかったということになりかねないという意味で、オーラル・ヒストリーは万能ではないと感じます。印象としては、女性作家にそれが多いのではないかと思えるんですね。女性だからだとは言えませんが、歴史や主流の言説の外に置かれ続けてきた人々にその傾向があったとしても無理はなくて、それを引き出すためのやり方としてオーラル・ヒストリーがどこまで可能性をもっているかというのは、また別の問題としてあると思います。

辻:それと関連するか曖昧ですけれども、私も日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴのメンバーなので自己言及的な質問になりがちですが、小泉さんにうかがいます。本日はこういう雰囲気で、作品のフォーマットではなくてこの催しのお時間のなかで作品についてお話いただきました。また鈴木さんの見取り図でもオーラル・ヒストリーを高次の観点から扱ったというお話もありました。小泉さんから率直に今日の催しについて、あるいは日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴはどのように見えるのでしょうか。

小泉:私は個人で普段活動しているので、これだけの大人数で何日もかけて作家のところに行って聞き取りをしているということ、そしてそれが継続されていること自体がすごいなと。個人の力ではやっぱりできなくて、相当な組織力があって、あとたぶん時間と労力がかかっていると思うんですよね。そういうものをかけているから、あるパッションがかかっていることなんだなと思って、すごいなと率直に思っています。質問は「外から見てどう見えるか」?

辻:はい。われわれが企画したときは、歴史研究の実践と美術の実践を分けないことを念頭において進めたんです。

小泉:たぶん聞き取りをされている皆さんはこういうことは経験していることだと思うんですけれども、アーティストの立場としてお話しさせていただくと、昔のことを聞かれるって家族に言ったら、嫌だな、また昔のこと喋ってるよ、と思われるでしょう。でも自分の武勇伝はやっぱり語りたいものでしょうし、そういうものを聞きに来てくれる、何日もかけて聞きに来てくれるということは、もしかしたら普段まったくやったことがないことで、それをまさにさっき言った「語ってみる行為」、中嶋さんが言った「語ってみる行為」によって自分でも発見があるというか。記憶というのは語るたびにつくり変えられるということは本とかで読みますけれども、まさにそういう作業が常に起こっているんだろうなと思うので、やっぱり聞きに行って言語化して、その語るという行為を経ないと意識されないこともありますし、自分でもたぶん作家さんもご自身の発見というものがあるでしょう。そういうことがすごく豊かだなと思う。あと白さんが発表のときに、聞き手と語り手の両方に影響があるとおっしゃったじゃないですか。それはすごく素敵だなというか、素敵って言うとちょっとロマンティックですけれども、でも私はそれをすごく信じています。実際に語るほうも、既に事実があってビデオカメラにレコードされているものを語るわけではなくて、語りのなかで、人間関係のなかで語っていくわけなので、人が違えばまったく違う語りになるでしょうし、また違う方でしたら大正天皇のことはもしかしたら言わなかったかもしれない。この若者は優しそうだからこういうことを言ってもいいかな、とかね。そういう関係性がたぶんあると思うんですよね。それによって出てくる言葉って全然変わっていくんですよね。よく語りのなか、兵士の証言とかで、いろんな場面でいろんな語りがありますけれども、やっぱり違うんですよね、毎回語りが。微妙に違って、これってなぜ違うかというと、違うのはある意味当たり前なんですよね。それがまったくビデオカメラのようにプレイされるというのは幻想であって、違うことが本当の姿で、ビデオカメラやビデオレコーディングのようにまったく同じ言葉を言ってしまったらかえって怪しい。それが本当の姿だと思うんです。作家だとこういうふわっとした感じで止められるんですけど、学者さんだとさらに客観的な事実というところにいかなくてはいけないので、それは難しいんだろうなということを今感じましたね。

辻:たとえばそういった観点からご覧いただいた、(ウェブサイトに)あがっているインタヴューのなかでおもしろい方っていらっしゃいましたか。

小泉:語りが? 私の作品?

辻:日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴにあがっている(ウェブサイトで公開されている)聞き取りのなかで。

小泉:私はまだちょっと……。探してみます。すみません、不勉強で。

辻:ぜひご覧いただければ幸いです(笑)。インタヴューをわたしたちと共同していただいている方もいらっしゃいますので、ちょっと早いですけれども会場からご質問をいただこうと思います。くり返しで恐縮なんですけれども、この催しの内容は書き起こしをしようと思っているので、もし差し支えがなければお名前やご所属等もおっしゃっていただけると幸いです。これまでのご発表や今の議論に関して、ご質問をいただける方はいらっしゃいますでしょうか。

由本みどり:今回は帰国中にこのようなシンポジウムが聞けて、大変幸運に思っております。ニューヨーク在住の、オーラル・ヒストリー・アーカイヴにもインタヴュアーとして何回か参加させていただいております由本みどりです。中嶋さんや足立さんの発表を聞いて特に感じたのは、何て言うのかな、もちろん私たちがヒストリアンとしてある程度の期待をもってインタヴューに行かせてもらうと思うんですけれども、やっぱりその反応が、そこから逸脱したからといって、それを判断するのはそのインタヴュアーの役目なのか、それが今日気になったところだったので、そのへんをオーラル・ヒストリーのプロジェクトをまとめていらっしゃいます加治屋さんと池上さん、みなさんがどういうふうにルールとして考えていらっしゃるのかなと気になりました。私も鈴木さんのおっしゃったように、それがボツになってそのままなくなっちゃうというのが、すごく残念に思います。

加治屋:実際にインタヴューをおこなって、まったく話が続かなくなってしまうとか、ご本人にお話をうかがいに行ったのに周りの方が話されてインタヴューがうまくいかないということがあるんですね。だから現実的に、これは公開できないだろうというインタヴューは存在します。これはもうインタヴュアーが誰であろうとそう判断する以外にないというものです。先ほど、難しいインタヴューであっても、長期的にはそれほど問題なくなるのではないかと申し上げましたが、現時点でたとえばご家族の方とか、あるいはそこで言及されている人たちの評判に関わることであるといった問題が生じるので、やはりそこでどうしても(ウェブサイトでの公開を)判断せざるをえないということはあります。アーカイヴのなかでは、公開できるかできないかということに関してはある程度、共通の理解があると思っています。ただ、そのインタヴューがうまくいったかどうかというのは、特にアーカイヴのメンバーで話すことはそれほど多くないんですね。アーカイヴのなかでは運営上の問題、どういう人にインタヴューすればいいのか、どういうメンバーでそのインタヴューに臨むかという話がやはり中心になるので、今回こうした話を2人から聞けたことは非常に良かったです。ただ、これは基本的にそれぞれのインタヴュアー自身の考えであって、特にアーカイヴとしてそういう判断をインタヴュアーに委ねようと考えているわけではないです。

辻:他にご質問がある方、いらっしゃいますか。

小勝禮子:小勝禮子と申します。中嶋さんのご発表に関してですけれども、当時、(私は)栃木県立美術館の学芸員でして、一緒に田部光子さんにインタヴューをした立場で、ちょっと今日のご発表には違和感があります。と申しますのは、中嶋さんはこのオーラル・ヒストリー・アーカイヴのメンバーとして公開をするまでに田部光子さんとの交渉にたしか3、4年くらいかかったんでしたっけ。たしかにその間にいろいろやりとりがあって、うまくいかなかったという感じをおもちだと思うんですけれども、一緒にインタヴューに参加した私としては、非常におもしろいインタヴューで、特にここで《人工胎盤》に対する不可解な否定とおっしゃっておられましたけれども、これはもういかにも田部さんらしいといいますか、私が想像するに、1961年の段階で田部さんは自分がフェミニストであると自覚し、フェミニズム的な意識をもってあの作品を制作はしていなかったんだと思うんです。それを2004年に再制作を依頼された熊本現代美術館の南嶌さんから、フェミニズムの先駆者だ、あなたの作品はすばらしいと言われて、それでご本人も喜んで再制作されたわけですけれども、それを後になって「自分はフェミニズムの先駆者だったんですよ」みたいに話すことはもちろんできないだろうし、それでこの「軽薄」だとか「馬鹿です」だとか、そういうのは照れでおっしゃっていると思うんですね。それはいかにも田部さんらしいと私は聞いておりましたので、私もその《人工胎盤》だけが田部光子というアーティストの代表作だと思いませんし、田部さん自身もそれだけでは自分の作品だとは思っていない。現代に生きるアーティストですので、最新作が自分にとっての代表作というのは当然だと思います。そういう意味でちょっと違和感を覚えました。ここにこのように採録されているとちょっと変に思われるかもしれませんが、これも含めてオーラル・ヒストリーの書き起こしというのは全部、素材であろうと私は思いますので、その素材をどのように読んだ人が解釈するかは委ねられるのではないかと思いました。感想として申し上げます。

中嶋:ご意見をどうもありがとうございます。この発表にあたって《人工胎盤》の話だけを取り上げるのも、問題があることだとは承知していましたし、何度も強調してもしすぎることはないのはこれは私が得た印象なので、小勝さんがおっしゃるとおり、その後の田部さんとのやりとりのなかで私自身がそういう印象を強めてしまったということは大いにあると思います。オーラル・ヒストリーが素材でしかなくて、それぞれのインタヴュアーが判断することではないという先ほどの由本さんのご意見にも同意します。その上で、このオーラル・ヒストリーを資料として見たときに、田部さんのお話の特徴をどう解釈できるのかを考えたいと思いました。ただ、ここでインタヴュアーが発表してしまうことによって、ひとつの当事者の意見がついたという形になればそれは問題かもしれないと思います。

北原恵:大阪大学の北原と申します。同じく中嶋さんの田部光子さんへのインタヴューに同行させていただきました。インタヴュアーはさっきの小勝さんと中嶋さんと、もう一人、うちの当時の院生で、台湾出身の張紋絹さんがいたんですけれども、私が植民地とか戦時期に外で生まれた、外地で生まれた人の経験に非常に関心をもっておりまして、特に戦時期、植民地期の日本の文化、あるいは植民地の台湾の文化に詳しい張紋絹さんに同行していただいたために、1日目はその話ばかりになってしまったんですね。肝心の作品の話が2日目になってしまって時間がなくて。さっき中嶋さんの話では出なかったんですけれども、私はインタヴューはすごくおもしろくって、失敗だったとは思っていません。

中嶋:私も失敗だったとは思っていません。

北原:ごめんなさい。中嶋さんは大変だったと思うんですけども、そのなかで削除した部分で大きな部分がありました。田部さんのお話のなかで1976年から77年の作品で《ああ昭和天皇》というのと、それから1997年の《ああ三島由紀夫》という作品が出てきました。ご自宅に持っていらっしゃったんでそれを見せていただいて。特に76、77年というと、山下菊二の天皇制をめぐる作品はよく知られていますけれども、全然違う発想からつくられたものがあるということに私は衝撃を受けまして、非常に喜んでですね、その話をまた長々と聞いてしまったんです。インタヴューのなかにそれがかなり入ってしまい、あと社会評論社から「アトミックサンシャイン」展の論集が出たときも、私は田部さんに写真を使うということもお断りして、その紹介も入れました(注:沖縄県立美術館検閲抗議の会編『アート・検閲、そして天皇:「アトミックサンシャイン」in沖縄展が隠蔽したもの』社会評論社、2011年)。ところがそれを読んだ方がまた田部さんにその作品を使わせてくれと、美術と天皇に関する本のなかに入れようとしたら「絶対にそれはやめてくれ」とおっしゃって、このオーラル・ヒストリーのアーカイヴ(のウェブサイト)からも削除されたんですね。それはご本人の要望ですし当然のことだと思うんですけれども、しかし重要なお話で、資料に残すにふさわしい、という言い方は嫌いですけれども、そういうものだったというふうに思っています。当事者が生きておられるときに、こういうタブーに挑戦した、タブーを扱った作品を語るというのは、すごく難しいと思うんですけれども、それをどう回復する手立てがあるのか。たとえば縁起が悪い話かもしれないけど、死後にその部分をもう1回入れるということも可能なのか。そういったことも考えていらっしゃるのかをおうかがいしたいというのが1個と、それから中嶋さんは私たち3人のなかでは特に若かったので、田部さんが直接的に自分の今とかそういうのを言いやすい人になってしまって(田部との応答が)かなり集中してしまったのが申し訳なかったなと思っています。同じようにインタヴューした3人とも、見ているところとか感じたところとか全然違っていて、今日の中嶋さんの話の、女性の作家にインタヴューするとき、作家と作品が身体で同一視されてしまうということ、女性の作家の身体と作品が同一視されて見られるということはオーラル・ヒストリーだけに関わらない問題であると思うので、すごく重要なことをおっしゃったと思いました。以上です。

中嶋:ありがとうございます。

加治屋:ご質問の、削除されてしまった部分をどういうふうに回復していくかということは、非常に重要な問題だと思っています。実際、私が関わった聞き取りのなかでもそういった問題は生じています。ただ現在、現時点では作家との間で同意書というのを交わして、法的に有効な書類をつくっており、そこでカットする権利を語り手の側にあたえていますので、現時点では難しいのではないかなと思います。ただ、そうですね、たとえばご家族との交渉というのがもしありうるとしたら、そういったかたちでネゴシエートしていくとか、あるいは海外のアーカイヴに行くと、作家が本当に許可したのかと思えるようなオーラル・ヒストリーが残っていることもあるので、法的な部分を再検討する必要があるのかもしれませんね。ただ、そこまで現時点では考えておりません。

小泉:ちょっといいですか、一言。加害の歴史の証言を集めてみると、生きているうちは、その元兵士のおじいさんたちが罪の意識から言いますのでいいですけれども、かえって亡くなった後のほうが難しいという話を聞いたことがあります。亡くなった後のほうがご家族の方が守りたくて、それは(表に)出さないでくれというので、その言葉が使えなくなってしまったとか、そういう話があるみたいですね。

辻:池上さん、手を挙げておられます。

池上:日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの池上です。今の議論の流れから発展させた小泉さんへの質問なんですけれど、私たちもインタヴューを集めていて、それが素材になってというところと、小泉さんも街頭でインタヴューをして、それを素材に作品をつくるというところで、共通点があるかなと。実際に作品は都現美で拝見して、すごく興味深いと思いました。でもひとつの違いとしては、先ほど加治屋さんからも説明があったように、私たちは語り手と同意書を交わして、聞き取りの書き起こしをして、その方との何回にもわたるやりとりを経て、相手が同意したもの、これだったら公開してもいいという状態になったものを公開しているというということです。小泉さんの場合は街頭インタヴューで、「作品に使わせてもらいます」という許可なんかはもちろん取っていらっしゃると思うんだけれども、その後の語り手との関係というのはあるのか、それとも一期一会的な感じで終わってしまうのか。でき上がった作品は完成形ではないとはいえ、あそこで語っていた人たちは、その「語る自分」というのを見る機会があるのか。この点をちょっとお聞きしたいです。

小泉:正直に申しますと、語った人に作品を見てもらうというのはないですね。最初にやったときは内々の発表のためだったので、「こういうコンテクストのなかで、こうこうするんだけれども、撮らせてもらっていいですか」というのでやらせていただいて。次やるときはソウルだったので、「韓国でこういう展覧会があります。ここで発表する作品なんですけれども、こうこうこうで撮らせてもらっていいですか」と。というのは、同意してもらった人たちがあそこで出ているというかたちになっていますので、この作品に関してはでき上がった作品を見ていただくと。今そうおっしゃっていただいたことは、将来的にたとえばウェブページをつくるとか、そういうことをするとその人に返っていくので、それはそれでおもしろいかなとか思いました。

池上:語り手の連絡先ですとか、そういうものは?

小泉:もらってないです、はい。

池上:私は今回、小泉さんをお招きする側の人間なので、こういうことを言うのは失礼かと思うのですが、都現美(東京都現代美術館)であの作品を見て、すごく感銘を受けると同時に、何と言うか、「やっぱりこの作家って苦手だわ、私」と思ったんです。正直に言いますけど。

会場:(笑)

池上:〔会場の笑い声を受けて〕なんでこんなにウケるの。すみません。今日ははじめてお会いするんですけど、過去に小泉さんの作品を、全部ではないんですけど、わりと拝見していて、その度に少し違和感を感じていて。でも、おもしろくなければ無関心で終わるだけだと思うので、ここまで強い違和を私に起こさせるこの人は何なんだろうという興味を以前から抱いていて。《オーラル・ヒストリー》に関しては、自分がこの活動をやっているから余計にカチンときたというのがあると思うんです。でもそれは、やっぱり痛いところを突かれているからなんですよ。私がそのときカチンときたのは、すごく単純な言葉で言うと、あれだけいい話をしているおばあさんもこれだけ気持ちの悪い発言をしている男性も、同じただのマテリアルとして等価に扱われることへの暴力のようなものをやっぱり感じたからなんですね。その裏側には、私たちオーラル・ヒストリー・アーカイヴはちゃんと語り手を尊重してやっていますという、根拠があるのかないのか分からない自負のようなものがあって。でも今日いろんなお話しを聞いたり議論してきたなかで明らかになってきたのは、本当に本質的な違いがそこにあるんですか、ということだと思うんですよ。他者の語りを素材化するという意味で。なので、これは感想というか、私からのコメントになってしまうんですが、私がカチンときたのは、実は小泉さんと私たちは同じことをやっているに過ぎないのかもしれない、というところを突かれたからなのかなという気も…… 本当に同じだと言ってしまうのはまた乱暴なんですけれど、少なくともその要素はあるということを指摘されたように感じたからだと思いました。

小泉:ありがとうございます。何か言ったほうがいいですか。

辻:ぜひ。

池上:言ってください。俺もお前が嫌いだ、とか(笑)。

小泉:いやいや、そんな。もちろんまったくありません。でもそのように強く反応していただくというのは、たぶん同じようなことをやっていたら葛藤があると思うんです。たとえば今日、中嶋さんの発表も、足立さんの発表もそうですが、やっぱり公開の緊張感というか、それを公開するための苦労というか、そこのすごくセンシティヴな部分があると思うんですね。それを公開して、本人が聞かれたくないことも出せるのかとかね。すごくプライヴェートな部分に入ってくることなので。私は、以前からある程度意識してやってきているんですけれども、その映像の暴力性——というんですかね、映像というのは写ってほしくないものもどんどん写してしまいますので——その暴力性自体を作品の構図に入れるというか、そういう作品をつくってきました。暴力性自体を作品にすることもあります。ですので、そこに関してはすごくよくわかるというか、やればやるほどセンシティヴになっていくというか、すごく気をつけるようになっていくというか。それで結局は自分が線引きをしないといけないわけです。私は同意書を書かないです。基本的には書かないでやっています。過去やったことに対して私は後悔することはあります。作品をつくったときはいいんです。それを発表したときもいいし、しばらくはいいかもしれないけど、どこかで自分のなかでちょっと罪悪感を感じていることが作品のなかであったりするんですね。私なりにルールというか、どうしたらそこをちゃんとネゴシエートできるのかなというのは相当私なりに考えてやってきています。やっぱり自分ではない他者を、カメラを持って撮影するというスタイルはずっと同じですので、その暴力性に自分のなかでどう決着をつけるか、どこで線引きするかというのは、作家としてはいちばん大事なところだと思っています。そこをどうするかというとやっぱり、搾取はしょうがないんですね。搾取してしまう、作品のために利用するという、すごく言葉は悪いですけれども、そこの部分はしょうがないというか、そこはそういうものであるというところから出発するんです。最近私が考えるのは、私は利用するけれども、むこうも私を利用してほしいと。この《オーラル・ヒストリー》に関しては、私が利用しているだけだからもしかしたらカチンとくるところがあるかもしれないんですけれども、少なくとも個々のつながりでつくる作品に関しては、向こうの人にとってもベネフィットになる部分が起こるというんですかね。私を使ってそれが起こるような関係のなかでしか私はつくるべきではないなという気がしています。必ずしもそのルールがすべて当てはまるわけじゃないですけど、その意識というのは、やっていけばやっていくほど募っていくというか。それはあります。ちょっと関係あるかどうか分からないですけれども。

池上:よく分かりました。《オーラル・ヒストリー》に関しても、作品という状態だったり、素材という状態だったり、様々なレベルがありますよね。今後も続けられて、それをアーカイヴ化していくということであれば、そこからまた搾取には終わらないかたちでの意味生成も出てくるように思うので、今後の展開を見ていきたいです。ありがとうございました。

宮田徹也:宮田と申します。時間が超過しているので端的にお話しさせていただきます。僕は足立さんと一緒に今泉(省彦)さんと瀬木(慎一)さんだっけ、のインタヴューをお手伝いいたしました。それでその後もこの会の動向をときどき見ているんですけれども、インタヴューをいろいろ見てて、なんかおもしろいなと思う反面、いやこんな当たり前のこと誰でも知っているのになんで聞いてるんだろう、ちょっと勉強不足じゃないかと感じたりするときもときどきあります。しかし今日の足立さんと中嶋さんの話をうかがっていて、こういう観点、立場からこう聞いているのはかなりおもしろいし、すごい発見があるんですね。なのでやっぱり、インタヴューの前後(の事情)なんかを補足したらおもしろいのではないか。自分がこの人になんでどういう立場で聞いたのかなんてことがついていたりすると、すごい分かりやすいと思うんですね。たとえば僕はちょっと前に『図書新聞』に戸井十月という人の『戸井十月 全仕事』という本の批評を書いたんですけれども、1,000ページくらいあって、6センチか何センチか忘れたけど、戸井十月という人はどこかで、フィリピンかどこかで見つかった日本兵だとか、それから植木等だとかモハメド・アリなんかにインタヴューするんですよね。それでもうなりきっちゃうんですよ。自分がアリになりきっちゃって、自分がアリだみたいな感じで、これがインタヴューなのかというのを、僕は読んでいてすげえなと思って。日本画のいま九十なんぼの、ちょっと今名前が出てこない、内海信彦のあの…… そういう人に対するインタヴューもこのオーラル・ヒストリーのなかにはあっていいんじゃないかなと。まさに正史じゃなくて、その人がその人に聞くということがおもしろいんじゃないかなと思ったんですね。だから僕は特に今日は中嶋さんのお話を聞いていて、そういう立場でうかがっているんだったらこれはおもしろいと感じたんです。それで、そのように感じたところで鈴木さんにおうかがいしたいんですけれども、さっき白凛さんに、在日の立場というところから離れて研究をしたらいかがでしょうかということをコメントのところでお話しなさっていたと思ったんですけれども、そのようなそれぞれの立場を重要視しちゃだめですかね。

鈴木:それは誤解です。たぶんそれは私の言ったことが伝わっていなかったと思います。私はそんなことはまったく申し上げていません。単純に、彼女が在日朝鮮人というカテゴリーを使って歴史研究をする場合に、そのカテゴリーはどのように歴史的に構築されたものなのか、それが今の白凛さん自身の立場を表明しているのか、そうではなくて、あくまで1945年からたとえば60年における在日朝鮮人というカテゴリーがどういう意味をもっていたかということを歴史的に探求されているのか。それがあまり僕ははっきりと見えなかったので、それを明らかにしてほしいという意味です。

宮田:分かりました。すいません、私もちゃんと聞けていなかったところがありましたので、とても勉強になりました。どうもありがとうございます。

辻:最後にお願いします。

黒田雷児:黒田雷児と申します。どちらの「くろだらいじ」か(黒田雷児か黒ダライ児か)は質問の内容で判断してください。ちょっと質問のタイミングを失しまして、北原さんが質問した後にすれば流れが良かったんですが。前に戻っちゃうんですけれども、私は足立さんがいろいろ突っ込まれていた島田インタヴューがお蔵入りになったことだとか、あるいは田部インタヴューでいろんな削除や変更があるかとか、私は実はあまり気にしていなくて、とりあえずそういうインタヴューがあったということや、そういう削除とか変更されたということは、今日、仮にネットに公開されていなくても、今日これだけの人が聞いているわけですから、もう皆知っていて忘れることはないと思いますし、そういう事実は残ると思うので、その心配はしていません。私がもっと心配しているのは、これは中嶋さんが言った女性のアーティストの一種の抑制というか抑圧に関わることだと思うんですけども、私の経験でいろいろ60年代のアーティストにインタヴューしたときに、あるいはインタヴューしようとしたときに、これは聞けないなとか、これ以上は聞いちゃまずいなということ、聞いても答えてくれないなということは、たまにですけれども確実にあります。実はそうやって聞けなかった部分というのが、実はものすごく大事だったんじゃないかなと後になって思って、そうこうしているうちにそういう人が亡くなってしまうわけですけど。だからたとえば(田部光子)三島由紀夫じゃなくて、昭和天皇のほう(の作品)ですね。昭和天皇の作品について、たぶんこれは、これ以上は聞けないなということがあると思うし、あと家族とか現存する人との関係で聞けないこと、それからたとえば恋愛とか性に関することで聞けないこと、さらには自分のアイデンティティについて聞けないことがある。白さんの話で、在日コリアンであるということを自分で表明している人、自称している人が在日朝鮮人であると言いましたけど、そういうことを自分で言ってない人はいっぱいいるわけですよね。アーティストにも絶対いますよね。でもそれは聞けないですよね。どなたに対してという質問じゃないんですけど、身に覚えがある人、一人二人でいいんですが…… 何かを語ってほしいのに語ってくれなかった人の抑圧というか抑制というかを、どのようにしてそれを取り払うべきか、あるいは取り払うのをやめるべきか。私は研究者としてよりはひとりの人間として、これは気の毒で聞けなかったなというのがあって後悔するんです。研究者としては非情に徹してその抑圧を取り払うべきだと思うんですよね。でなければ永遠に、その人が亡くなったら永遠に誰も聞けないですよね。もうどうしようもないですよね。そういう経験、皆さん、ある方とか、こうすればいいという何かご意見がある人が……。

足立:私はいろいろ突っ込まれたこともまとめてお答えしたいんですけど、削除とかお蔵入りとか、そういったこと自体がやっぱり議論すべきことなのかもしれません。語られなかったというよりも隠されたこと。黒田さんが今おっしゃったのは自己検閲的な部分かもしれませんが、そういったことって公開されたインタヴューにもあって、さっき加冶屋さんがおっしゃっていましたけど、公開されたインタヴューのなかで、後で話者が「ここは削ってくれ」と言って削っためちゃくちゃおもしろい部分、すごく重要な部分もあります。ただ黒田さんがおっしゃるように、それを研究者としてどんどん明らかにすることが研究者の仕事であるんですが、もうひとつおっしゃったように人間としてできない部分もあって、人間としてできないというだけじゃなくて、これは研究だけじゃなくて、研究者だけの問題じゃなくて、たとえばですよ、東京国立近代美術館だって戦争画を全部並べるようなことはしていないですよね。隠しているといっても過言ではないと思います。隠されたものというのは実は世の中にいっぱいあって、そのことに私たちはあまり気づいていないんじゃないか。その隠されているということ自体も隠されていることが実は多いんじゃないかなと思います。それをどうにかしなきゃいけないというのが…… しなきゃいけないという人もいっぱいいると思いますけど、でもそれはけっこう仕方のないことで、たとえば江戸時代から明治、大正、昭和、ずっと歴史をふりかえるならば、隠されたことは無数にあると思っています。隠されたことが無数にあると考えた上で歴史を考えていくということが、隠されたことがなくて明らかになっていることだけで歴史を見ていくことと、見方が違ってくるのではないかと思います。

黒田:ちょっと私の聞き方が…… 足立さんが言った、アーカイヴとすることが不可能な美術の闇と言うときに、その言葉を聞いて私もずっとそういうことを思っているんですけど、でも今のお答えでも言っていることは違うんですよね。足立さんが言っているのは既に、たとえば戦争画でも、こういうものがあると分かっている。別の証拠でこういうものがあると分かってながら実は表に出せないものということであって。僕が言っているのは、そもそも何かがありそうだという、本当はもっと語ってほしいものがありそうなのに語ってくれなかった場合のことを言っています。それが本当の闇で、それはひょっとして、あまり言うとあれなので言いませんけど、個人のアイデンティティに関わることとかそういう非常に個人的なこととか、そういうものを本当は無理やり非情に冷酷にとりあえず暴き立ててしまって記録はしておいて、ただそれは50年100年お蔵入りしてもいいと思うんですけどね。僕はまず研究者としては、ひょっとして誰も知らなかったし、その人しか知らない事実というのを聞き出すということをするべきじゃないのかなと。すみません、質問だか何だか分からなくなって。時間が超過しているのにすみません。これ以上コメントは要りませんので。

小泉:1点いいですか。たとえばセッションで1日だけ来た人に対してどこまで打ち明けるかというのもたぶんあると思うんですよね。その人に会って、どこから来たのか分からないような若造が来て話を聞くわけですけど、1日だけのセッションのなかでどこまで打ち明けて語ってくれるのかということもあるので。今聞いていて思ったんですけど、もしそこに行きたかったら、作家としても入っていくべきだと思うんですが、やっぱり何回も会って関係をつくったりですとか、そういうことの上でなされることなのかなと私は思いました。

黒田:私はそういう何回も会っているアーティストでもついに聞けなかったということが結構あるんですよ。それであえて言わせていただきました。

白:今のご質問で、私もやっぱり聞き出せない部分ってあると思います。でも私自身は、私の出自と語り手の出自とが重なることが多くて、「私はこういう者です」、もうそれ以外に説明があまり必要なくて、けっこう最初からスムーズにいくというか、誰かがつなげてくれて、はい、もうすぐに聞き取り、と(いうことになる)。そんなにあまり苦労してないんです。それでもやはり聞き出せない場合も多くて。やはりそこは本当に対話で、ずっとお話をして詳細を聞いた。そういう経験もやっぱりあります。在日朝鮮人というのは、先ほども申し上げたように、アイデンティティがすごく揺らいでしまって、時代的な限界というのはやっぱりつきまとっていて。先ほど宮田さんからお話があったんですけれども、私自身が今なぜこんなにも一生懸命、在日朝鮮人のこと、美術をやっているのか。先ほど鈴木さんがおっしゃったように、自己の表明のためにこれをやっているのかと、つまり今を問うために私はこれをやっているのか、あるいは純粋に研究として1945年から1960年代を純粋に問いたくてこれをやっているのか、どちらかと言われたらやっぱりちょっと難しいところがありまして。そういう点から見ると、私は日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ自体も、なぜこれを立ち上げようとして、何を目的としていて、このスタートの時点での何があったのかなというのは、ホームページを見ながらいろいろと考えました。以上です。

辻:中嶋さんもありますか。

中嶋:聞けなかった部分があるインタヴューというのはたくさんあります。インタヴューの形にまとめられなかったものもたくさんあります。抑制があるような内容を聞くべきかどうかは、判断として難しいというよりも、その方法が分からないことのように思えます。聞けば抑圧を取り払って聞いたことになるのかというと、それで答えてもらえるわけでもないので。現時点では、白さんがお話しになったとおり、聞き手とインタヴューを受けている側が対話をしながら関係をつくっていくというところを大切にしたいとは思っています。

加冶屋:ちょっといいですか。黒田さんからのご指摘は非常に興味深いと思いました。今、私たちは美術という文脈で聞き取りをしていますが、当然、他の分野でも聞き取りはおこなわれていて、同じように、聞けないようなことにいかに切り込むかということが議論になるという話を聞きました。政治史の分野では、インタヴュアーの構成のなかで、長年の関係があるがゆえにかえって切り込めないという場合もあるので、その場合はむしろ関係が薄い人にそうした質問を投げかけてもらうということもなされていると聞きました。たぶん私たちは活動を始めて11年目ということで、まだまだ蓄積が十分でない、インタヴューのノウハウの蓄積が十分でないのかもしれません。もしかしたら、たとえば美術館の学芸員という立場で聞く場合と、また違う聞き方を私たちはできるのかもしれません。もう少し私たちのほうでもいろんな聞き取りを重ねていくなかで、もしかしたら黒田さんの考えていらっしゃるようなことに触れることができるのかもしれないと思いました。

辻:いたずらに議論を収束させるのではなくおわりをむかえたいと思います。お時間が超過しているので、最後に加治屋さんからそのままお話をいただいて、閉会とさせていただきたいと思います。

加治屋:本日は長時間にわたりこのシンポジウムを聞いてくださり、ありがとうございました。先ほど鈴木さんから10周年のイベントなんじゃないかとありましたが、実は10周年は昨年で、1年ちょうどずれてしまったんです。でもこれまでの聞き取りの成果をふまえて足立さん、中嶋さんにご発表いただき、それから外部から白さん、小泉さん、そしてコメンテーターの鈴木さんに来ていただいて、私たちの活動をふりかえって考える非常に良い機会になったんじゃないかと思います。今回は「戦後日本美術の群声」ということで、戦後日本美術の多様な声を拾う活動に焦点を当てましたが、先ほども言いましたように、必ずしも周辺だけに注目しているわけではなくて、様々なアーティスト、評論家、美術関係者に話をうかがっていまして、そうした複数の声を聞くことで、より豊かな美術の状況が見えてくるんじゃないかと思っています。これは以前のシンポジウムでも申し上げたんですけれども、決して日本美術のオーラル・ヒストリーを集めるのは私たちだけの専売特許ではありませんので、ぜひ皆様方のなかにもこうした活動に興味がある方は、個人でも団体でもこうした聞き取り調査を進めていただければと思いますし、もしそのためのノウハウ、方法というのが必要であれば、私たちは喜んで提供したいと考えております。今回は地方という視点が抜けてしまったんですけど、実は私たちは地方のアーティストたちにも話を聞くように努めております。それぞれの地方には、詳しい方がいらっしゃいますので、特に美術館の方にこうした活動をそれぞれの地域でやっていただけると、私はうれしく思います。
 私たちはここ数年、国会図書館とか東京国立近代美術館のライブラリーとか東京都現代美術館の美術図書室にこのオーラル・ヒストリーの書き起こしを印刷したものを収めることにして、オーラル・ヒストリーをウェブサイト上だけではないかたちで残していくようにしております。
ただ、私たちの団体だけではなくて、様々な個人や団体がオーラル・ヒストリーを集める活動をすることによって、その声がより残っていくのではないかとも思っております。今回、オーラル・ヒストリーが抱える問題点も見えてまいりましたので、それをふまえて私たちもより充実した聞き取りをおこなっていきたいと考えております。本日は長時間……。

粟田大輔:一点だけ、補足させてください。「ボツ」になった発言に対するアクセス不可能性の指摘がありましたが、アーカイヴでは(インタヴューに際し)動画と音声を取って(保管して)います。また、公開に向けてなされた校正のやりとりも残っています。

加治屋:そうですね、私たちのオーラル・ヒストリーのインタヴューの録り方をちゃんと説明したほうが良かったですね。音声だけでなく動画も撮っております。音声と動画、両方で聞き取りをおこなっていまして、先ほど書き起こしを公開する際に削除する部分があるという話をしましたが、実際、削除している部分がなるべく分かるように公開をしています。それから、書き起こしたものに朱(加筆や修正)を入れていただいています。それは記録として保存していますので、書き起こしの編集のなかでその要素がすべて消えてしまうことはないということですね。では本日は長時間ありがとうございました。登壇者の皆さんに拍手をお願いします。