文字サイズ : < <  
 

藤枝晃雄オーラル・ヒストリー 2010年1月30日

東京芸術大学美術学部にて
インタヴュアー:加治屋健司、足立元
書き起こし:武笠由以子
公開日:2013年6月30日
 
藤枝晃雄(ふじえだ・てるお 1936年〜 )
美術評論家
東京芸術大学芸術学科を卒業した後、京都大学大学院、ペンシルヴェニア大学大学院で学ぶ。1960年代後半から『美術手帖』を中心に美術批評を執筆し、フォーマリズムによる作品分析で知られる。ジャクソン・ポロックをはじめとするアメリカ現代美術、西洋近代美術の研究を行う。武蔵野美術大学名誉教授。インタヴューでは、住職の家系に生まれた生い立ち、詩人として活動しデュシャンで卒論を書いた学生時代、国内外での作家や研究者との出会い、評論家・研究者としての活動、クレメント・グリーンバーグの批評に対する考え、日本の批評界の問題などについてお話しいただいた。

加治屋:まず生い立ちから伺いたいと思います。1936年に福井県越前市でお生まれでいらっしゃいますが、どういったご家庭だったのでしょうか。

藤枝:昔は武生という名前で、越前になったのはごく最近です。実家は陽願寺という寺院で、そこで生まれて中学までいました。

加治屋:お父様は住職でいらっしゃったんですね。

藤枝:父は早稲田の政経を出て、大学院に行った。坊主をやりたくなかったんですが、親が死んでやらざるを得なくなった。父は坊主以外のことには寛大だったんですが、それでも継げ継げとうるさかった(笑)。それが人生の始まりで、世襲は悪習です。一昨年亡くなりました。

加治屋:長生きでいらっしゃった。

藤枝:捕虜になっていましたから、生に対する執着が強かったんですね(笑)。

加治屋:戦争で。

藤枝:ええ、ソ連の捕虜になったんです。5年ぐらいいたと思います。バイカル湖の近くにいたと言っていました。みんなそうですけれど、ソ連のことはあまり話さないんですね。最近は、捕虜のことを書いた思い出の本がいっぱい出ていますけれども。

加治屋:お父様は、中学の頃まで捕虜としてソ連におられたのでしょうか。

藤枝:小学校5年くらいの時に帰ってきました。

加治屋:先生の名刺には「藤枝照容(晃雄)」とあります。こちらが本名でいらっしゃいますか。

藤枝:ええ、照容(てるかた)というのが本名なんです。もともとは「晃雄」だったんですけれども、あまり貧乏なので、名前を変えた方がいいのではないかと言って(笑)。その時はまだ、後を継がないということではなかったので、お寺の息子で簡単に変えられたんです。「照」というのは、浄土真宗西本願寺派の人がよく使う名前なんです。「容」というのは、僕の母の系統の山内容堂から来ています。母の祖父、僕の曾祖父です。これを合わせると非常にいいということでしたがさっぱりでした。お袋は、東京に生まれて、東京で育って、両親が早く死んだものですから、田舎のお寺へ嫁がされたんですね。

加治屋:ご家族で美術と関わりがあった方はいらっしゃいましたか。

藤枝:祖母の大きな風景画が飾ってありました。

加治屋:高校は、都立戸山高校という名門高校ですよね。

藤枝:いい思い出は何もないです(笑)。

加治屋:そのときから美術に対する関心が出てきたんでしょうか。

藤枝:芸大を出た油絵科の先生が一人いましたが、何も教えないところがよかったです。よくほめてもらいました。絵をやる人もほとんどいませんから。ピアノもなかったのでは。高校時代に学内で音楽を聴いたことがなかったんです。歌も歌ったことがなかった。外に行けば映画を見たりしましたが、今考えると不思議な感覚です。その頃は母親の関係のところに下宿していました。

足立:ご実家のお寺の蔵書に美術の本はあったんでしょうか。

藤枝:いえ、ありませんでした。絵は、福井県出身の画家のものがいくつかありました。あちこちに飾ってありましたけど、買わされたか何かでしょうね。

加治屋:東京芸大の芸術学科に進まれたのは、どういった経緯だったんでしょうか。

藤枝:高校は、できの悪い不良たちが、高三くらいになると、しょっちゅう新宿の喫茶店に行っていたんですね。そこで、国立で入りやすいところはないかと相談して(笑)。芸大というのがあると知って受けたんです。防衛大学校と芸大の図案科を受けた友人がいましたが、もちろんともに落ちましたね。

加治屋:一年浪人して芸術学科にお入りになった。大学では、若干学年が違うかも知れませんが、篠原有司男、高松次郎、中西夏之、工藤哲巳といった作家たちと重なっていた時期があると思います。接点はおありだったんでしょうか。

藤枝:中西は何か会を作った時に話をしたと思います。あまり接触はなかったんです。篠原はほとんど知らない。高松は僕のことをよく知っていると言うんですが、僕はよく知らない。それから、もうご存じないかと思いますが、上級生に渡辺恂三とか針生鎮郎。新表現主義のグループの人たち。同期は大沼映夫。ご存じないでしょう? 東京芸大の油の教授になりました。若桑みどりさんは一年上かな。若桑さんは、あまり話したことがなかったけど、いい感じの人だなと思っていました。みんな嫌がるんですけれども(笑)。

加治屋:在学中は何か活動をなさっていたんですか。

藤枝:恥ずかしいのですが、次世代美術というグループを作って、作家が何人かそこにいました。鶴岡弘康という非常に早熟な油絵科の学生がいて、彼が中心になって作ったんです。鶴岡はすでに少し認められていて、そうなると、大学を出てからはもう馬鹿馬鹿しくなってやってられないんですね。あとは、木原慶子という女性がいました。一年上に北村由雄さんというのがいて、共同の美術記者になった人です。周辺に郡山市立美術館の館長をやっていた村田哲朗さんがいました。

加治屋:そこで藤枝先生はどういったことをなさっていたんですか。

藤枝:評論集のパンフレットを出したんですが、それにエッセイを書いただけです。あと森田恒之がいました。修復の専門家で後の民博の教授ですね。

加治屋:卒業論文はマルセル・デュシャンについてお書きになったと伺っていますが、それはどういった経緯だったんですか。

藤枝:僕は美学の某先生にひどく怒られたことがあった。三年のとき、その人の講義を取ったら、山本正男さんの書いた『美の思索』に非常に類似していたので、聞くことないなと思って、真面目に聞かなかった。みんなノートをとっていたけど、僕だけ何もとらなかった。そうしたら、ある飲み屋で一緒になって、罵倒、侮辱されたんですね。それはそれで一段落してから、論文を書いたんですが、最初、美術は終わったという考えがあったので、ウィリアム・モリスをやったんです。山口正城さん他デザイナーの人にいろいろ聞いた。白石(博三)さんという京都工繊の建築理論の先生とか、美学の河本敦夫先生にも教えてもらいました。そのうちに、アトピーになった。ステロイドも何もない時代ですから、白と茶色の薬を塗って、休学したんです。そのときに新規矩男先生に相談したら、「ウィリアム・モリスはつまらないから止めなさい」と、非常に適切な助言をいただいた。たまたま紀伊國屋書店にサヌイエ(Michel Sanouillet)のデュシャンの本が売っていまして、それを見たら「ビールの教授」という言葉がありまして。あの美学の人は酒飲みですから、これだなと(笑)。これは芸大を否定することをしなくてはいけないということで。そもそも芸術学科自体が澱んだアカデミズムみたいなところがありました。摩寿意善郎(ますいよしろう)さんというイタリア美術の先生がいらっしゃって、摩寿意さんについていればイタリアに行けるという考えの人も多かったですし、嫌な感じを持っていました。芸術学科批判ということで(笑)、マルセル・デュシャンにしたんです。

加治屋:新規矩男さんはたしかアメリカにいらっしゃったことがありましたね。

藤枝:そうですね。戦前にメトロポリタン美術館の研究員をされて。卒論はクールベだったんです。新先生は東大でそれを審査した先生が瀧精一で怒られたと言っていました。当時としては、クールベは非常に新しかったんですね。新先生はアメリカへ行って、メトロポリタンでエジプト美術を見たんでしょうか。

加治屋:在学中に北園克衛さんを知って、VOUに入られたんですよね。

藤枝:北園さんは中学の頃から好きだったんです。高校は文化とは無関係のところでしたので、『VOU』も読まなかったと思います。その後、何かの拍子でVOUのメンバーと会ったことがあって、グループに入らないかと言われたんです。VOUはいろいろと分裂していましたが、最終的にVOUに入ったんです。そのとき、清水俊彦さんという方が中心だったんですね。ただ、晩年剽窃をして残念なことです。

加治屋:入られたのは大学時代ですか。

藤枝:ええ、大学時代です。いわゆる悪しきモダニズムの代表的な詩の雑誌と言われていたんですよ(笑)。若い人たちの詩の中心は、大岡信とか飯島耕一たちだったんですが、それとは全く違っていた。北園さんはもっと年配で、草野心平だとかああいう人たちの詩を憎んでいました。「一杯飲み屋の連中はどうしようもない」ということをしょっちゅう言っていました。不遇といえば不遇だったんですけれども。日本は外国に認められていくといいですから。彼は(エズラ・)パウンド(Ezra Pound)の友だちだったし、チャールズ・オルソン(Charles Olson)の本でも書いているので、それで日本でも認められるようになった。全く無視ではなかった。僕のVOUの詩はまったくたいしたことありません(笑)。

加治屋:それは当時のものを見れば……

藤枝:はい。1、2点いいのがあるんですが。新宿に風月堂という喫茶店があって、美術家や音楽家がよく集まっていたんですが、そこで詩画展をやりました。僕と金子真珠郎という作家です。いい画家でした。金子さんが絵を描いて、僕が詩を書いた。それはいい詩なんです。いっぱい出しましたね。水尾比呂志さんも出したと後で聞きました。先ほどの渡辺恂三が絵を描いていました。その音頭を取ったのが寺山修司なんです。その詩画展の記録は、写真も何もありません。その詩が、たしか『机』という雑誌を紀伊國屋書店が出していて、北園さんが編集をやっていたんです。それに掲載されたことがあります。風月堂なんてご存じないですよね。

加治屋:名前だけですね。

藤枝:溜まり場で、そこしか行くところがないんですね。新宿の紀伊國屋の喫茶店とか後はガボというのがあって名前にひかれてよく行った。それで思い出したんですが、徳大寺公英という評論家がいたんです。中野の非常に狭いアパートに住んでいました。この方と知り合って、話を聞いたことがありました。徳大寺さんは、「美術だけではなくて、いろいろなものを若いときから勉強しなさい」と言われたのを憶えています。美術が分かっていたかどうかは別ですけれども。かなり左翼的な意見を持っていて、中野のモナミというレストランで、岡本太郎たちがやっていた会があって、そこにみんな集まっていたという話は聞きました。

加治屋:藤枝先生自身はそちらには。

藤枝:行ったことはありません。岡本太郎さんは芸大に話をしに来たことがあります。

加治屋:講演でしょうか。

藤枝:と思います。当時、講演やシンポジウムは大変活気がありました。安部公房さんとか末松正樹さんといういろんな分野の人が来ましたね。徳大寺さんも呼んだことがあります。徳大寺さんは「物わかりの徳さん」と言われていましたね(笑)。(1959年に)サンパウロ・ビエンナーレのコミッショナーになって行きましたね。ポップ・アートを見て美術がいやになったようでした。

加治屋:VOUに入られたのは、どのくらいの期間だったんですか。

藤枝: 3、4年だと思います。詩集を出せと言われて。詩が少しよかった時だったんです。北園さんは日本歯科大の図書館長をやっていて、中原實さんが理事をやっていたようです。館長室には美術や文学の洋書がいっぱいありました(笑)。

加治屋:藤枝先生は、芸大には4年間いらっしゃって……

藤枝:5年ですね。休学をしたので。

加治屋:5年間いらっしゃって、それから京都に移られるわけですね。

藤枝:ひとつは、アトピーの時に、たまたま京都に知り合いがいたので、京大病院で診てもらって、そこの医者に治してもらいました。もうひとつは、親父が後を継げとうるさく、勝手に願書を出したんです。新先生に相談したら、いろんな学校に行くことは良いことだと。アメリカはそうですよね。

加治屋:そうですね。

藤枝:それで、やむを得ず受けて(笑)、何となく入りました。それに、芸術学科は専攻科しかなかった。大学院はなかったんです。

加治屋:京都の同級生にはどんな方がいらっしゃいましたか。神林恒道先生はいらっしゃいましたか。

藤枝:神林さんは学部だったんですが、後で上になりました。僕と一緒に入ったのは、柏木隆夫という男です。ルネサンスをやっていて、関西大学の先生になりました。一年上に宮島久雄。修士課程の全学生は三名でした。

加治屋:非常に少なかったんですね。

藤枝:研究室には先輩がゴロゴロしてました。出ても就職がありませんし。

加治屋:少し話が戻りますが、学部を卒業して就職ではなく大学院に進まれたというのは、お父様が(願書を)お出しになったのもあるんでしょうけれども、ご自身でもご関心があったんでしょうか。

藤枝:やはり美術をやりたいということがありました。ただ、「マルセル・デュシャンを研究してはいけない、これはやらせない」と言われました。主任の井島勉教授はデュシャンをよく知らないんですね、後で分かったらしい。芸大を出る時に僕と同期だった石岡瑛子さんに論文の表紙を書いてもらった。井島教授がそれを絶賛しました。京大に入ったのは石岡さんのおかげかも知れないです(笑)。今は亡き石岡瑛子さんは、ご存知ですか。

足立:『地獄の黙示録』のポスターのアート・ディレクションをやっていますよね。

藤枝:コスチュームのデザインがありますね。「セザンヌをやれ」とか、「オーソドックスなものをやれ」と、これを聞いていればよかったんですけれども(笑)。みんなでぶつぶつ文句を言う場所となっていました。

加治屋:京大ではアメリカの現代美術について修士論文をお書きになったんでしたよね。

藤枝:いったんアメリカに行って帰ってきまして、論文を何にしようかと考えました。僕は「抽象表現主義をやりたい」と言ったら、教授が「あれはもう日本の評論家がやっておるから、ポップ・アートを中心にやりたまえ」と(笑)。言うことが違うじゃないかと(笑)。現代アメリカ美術というのは、ニューヨーク近代美術館の外国向けの部門がありますね。

加治屋:はい、国際部門がありますね。International Program。

藤枝:あそこがやった展覧会が日本に回ってきた時だったんです。東京と京都に行った。それで、ころっと変わったんですね。

加治屋:58年とか59年でしょうか。

藤枝:いえ、66年か67年くらいでしょうかね。悪い作品も来ていましたけれどもね。作家は、ラインハートとニーヴェルソンとローゼンクイスト。ジョーンズ。それから、評論家としてグリーンバーグ。グリーンバーグは情報部から金をもらったというので後に問題になりましたね。それとノーマン・ブルーム(Norman Bluhm)という人が来ましたが、一日か二日いて怒って帰りましたね。

加治屋:展覧会にあわせて作家が来た時に、藤枝先生は大学院を出られる頃ですよね。

藤枝:ええ、出たかも知れませんね。

加治屋:67年にお出になっています。

藤枝:では、まだいたと思います。66年にそれを見たんじゃないかなと思います。

加治屋:グリーンバーグの来日は66年ですが、講演はしているんでしょうか。針生一郎さんと対談はしていますが。

藤枝:『世界』誌でやってます。シンポジウムがありまして、東野芳明さんが司会をやったんです。みんなでグリーンバーグをやっつけていたようなシンポジウムですね。

加治屋:それは東京ですか。

藤枝:東京の朝日会館かどこかです。広い会場でした。それと、僕は三木多聞さんに「ちょっと出席してほしい」と呼ばれて、東京の近代美術館のグリーンバーグをかこむ会合に行きました。彼は、アン・トゥルーイット(Anne Truitt)と一緒にやってきて、少ししゃべりました。質問は大体、日本の美術や日本文化のことでした。ほんの短い話し合いでした。

加治屋:アン・トゥルーイットは、夫がワシントン・ポストの記者で日本にいたんですね。

藤枝:そうですね。ローゼンクイストとは『美術手帖』で篠原有司男、三木富雄と話をしたことがあります(注:藤枝晃雄「アメリカのポップ作家ローゼンクイストに聞く―現代アメリカ絵画展で来日を機会に」『美術手帖』276(1966年12月))。

加治屋:その頃、『美術手帖』にアーネスト・トローヴァ(Ernest Trova)という作家についてお書きになっています。一般的にはポップ・アートとされる作家ですね。

藤枝:そうなんです。彼はたしかお医者さんで、手紙のやりとりをしたことがあります。最近フロリダのある美術館で回顧展をしていましたが、亡くなりました。僕がニューヨークにいた時は、ポップ・アートが全盛を少し過ぎたくらいでした。それに関係したような人も出てきました。人はフォーマリズムと簡単に言うけれど、そんなものは分かりません、当時は。やはり、目立つものとかちょっと面白いものに惹かれました。それがありますので、今の美術は違うんじゃないかという批判をしています。難しい美術にはあまり惹かれなかった。ただ、抽象表現主義が重要で、だからアメリカ美術が出てきたということは、常識的に皆知っていました。ポロックが何たるかが分からなくても、ポロックと言えば皆が受け入れるという状況だったんです。トローヴァは、日本で誰かがちょっと知っていたんでしょうけれども、頼まれて書いたものです。篠原たちには、あれは瀧口修造に対するちょっとしたオマージュだと言われて、冷やかされました。

加治屋:話は少し戻りますが、アメリカに行かれたのは京大の大学院にいらっしゃった時ですか。

藤枝:ええ、そうです。

加治屋:61年に大学院に入学なさって、63年にペンシルヴェニア大学に留学なさった。

藤枝:それは、また寺を継ぐことから逃れるためというのが一つあったんです。たまたま京都にイサム・ノグチがやってきて、彼が連れていた人がフィラデルフィアの紙会社の社長だったんです。ハワード・ウルフ(Howard A. Wolf)という人で、後で知ったんですけれども、フィラデルフィア美術館の評議員もやっていました。僕の田舎に越前和紙があるので、それを見たいと言うので、案内したことがあります。僕がデュシャンを卒論に書いたと言ったら、私の美術館にいっぱいあるんだと。何だろうと思った(笑)。「アレンズバーグ・コレクション」というカタログがあるんですね(注:The Louise and Walter Arensberg collection (Pennsylvania: Philadelphia Museum of Art, 1954))。フィラデルフィア美術館の出している本ですが、それにダーッと出ていました。それで、ペンシルヴェニア大学というのがあると知った。当時は、大学を選ぶも何もないんですね。そういう引受人がいればよかった。一人、(日系)二世の留学生がいて、今はニューヨーク大学の美術研究所が一番いいんだと言っていた。それで新先生に相談しましたら、「いや、ペンシルヴェニア大学もいいから、そういう人がいれば、そっちに行きなさい」と。新先生は、ニューヨーク大学美術研究所の目の前のメトロポリタン美術館に在籍していたわけですが。

加治屋:向こうで、フランク・オハラ(Frank O’Hara)をはじめ、いろいろな方に会われたそうですね。

藤枝:フィラデルフィアは、フレデリック・ハート(Frederick Hartt)という立派なルネサンス学者が主任でした。僕が教わったのは、ジョン・マクーブリィ(John McCoubrey)という人です。アメリカ美術の専門家です。数十年後、この教授とそこで版画を教えていた中里斉さんにはたいそう御世話になりました。ペンシルヴェニア大学がインスティチュート・オブ・コンテンポラリー・アートをつくって、ウォーホル、クリフォード・スティールをやったんですね。フィラデルフィアにいらっしゃったことはあります?

加治屋:はい。あります。

藤枝:街は面白くないですね。

加治屋:ええ、分かります(笑)。

藤枝:京都にゲーリー・スナイダー(Gary Snyder)という詩人がいまして、アメリカから「フィラデルフィアは刺激がない」と書いたら、「こういう人に会え」と、住所と電話番号が書いてある返事がきました。最初に会ったのが、リロイ・ジョーンズ(Leroi Jones)という黒人の劇作家です。そこへ訪ねていった。バワリー(Bowery)のすぐそばです。

加治屋:ストリートのバワリーですか。

藤枝:はい、汚いのは変わりありません? ヒービーズ(Phebe's)というバーができましたね。

加治屋:今は割ときれいになりました。

藤枝:バワリーという一角があって、その道を一つ隔たったところに元売春宿風の変な家があって、そこにリロイ・ジョーンズが住んでいた。近くに来て電話しますと、奥さんが上から鍵をバーッと落としてくれるんです(笑)。

加治屋:下で受け取るんですね。

藤枝:それも、早く受け取らないと危ないんです(笑)。それで開けて上がっていきました。

加治屋:なるほど。

藤枝:ジョーンズに最初に会ったその日にマリファナを吸いシーダー・バー(Cedar Tavern)に連れて行かれました。これもつぶれたんですね。

加治屋:ええ、今も一応ありますけれど、経営者が変わったようですね。

藤枝:そこに連れて行ってくれました。その時も、そこは以前の店ではないところでした。昔のところはポロックだとか、クラインだとかが来ていたんですけれども、その時は詩人がいっぱい来ていました。それから二流、三流の画家が来ていました。詩人はビートの人たちが多かった。フランク・オハラ(Frank O'Hara)がすぐ近くに住んでいましたので、その時にやって来て、そこで紹介されたんじゃないかなと思います。たしかフランク・オハラとロバート・ローゼンブラム(Robert Rosenblum)、キーナストン・マックシャイン(Kynaston McShine)が同じビルでした。それからもう一人、エイズで亡くなりましたけど、ジョージ・モンゴメリー(George Montgomery)という詩人。これは日本にもさっきの展覧会(「現代アメリカ絵画展」)の時に係で日本にやって来ました。そう言えば、彼とはよく飲みに行きましたね。篠原とか吉村とかと。それで、彼らがオカマ踊りをやるのでね。ジョージは悲しがって帰りました。オハラはジョー・モンゴメリーとニューヨーク近代美術館で同じ部署にいました。東野さんを非常によく知っていて。東野さんが言っていましたが、夜は汚いレインコートを着てバーに現れるんですね、昼間はスーツを着ていて。

加治屋:その頃はときどきニューヨークにも行かれて、人に会われたり、展覧会をご覧になったりしていたんですか。

藤枝:はい。

加治屋:印象に残っている展覧会はありますか。アメリカの戦後美術の展覧会とか。

藤枝:レオ・キャステリ(Leo Castelli Gallery)はアップタウンにありましたけれども、興味ある展示をしていました。他にマーサ・ジャクソン(Martha Jackson Gallery)にはよく行きました。抽象表現主義は、ポップ・アートのために静かになっていました。ポロックは美術館に行けばもちろんありました。たまたま当時知り合ったのに金光松美さんという二世の作家がいて、彼は抽象表現主義の第三の世代だと僕は言っていました。画廊もついていたんですけれども、ポップのために画廊もなくなり、貧しくなり奥さんが稼いで生活していました。リキテンスタインは、抽象表現主義の下手な絵を描いていたのですが、金光が彼を連れて画廊を回ったんだけれども、だめだったと言っていました。その後ポップになりました。リキテンスタインには金光のロフトで会ったことがあります。上にジョー・ステファナリー(Joe Stefanelli)というコロンビア大学の美術の先生が住んでいました。金光に言わせると、ニューヨーク・スクールで最低の作家だということでした(笑)。彼はいろいろな人を知っていました。金光の名前はすぐにリロイ・ジョーンズから聞いたんです。中華料理屋にテイクアウトに行って、二人で座っていたとき「金光って知っているか」と言うから、「知らない」と言ったら、「あれは悪い男だ」と(笑)。

加治屋:さきほど、一緒に画廊を回ったというのは、藤枝先生がということですか。

藤枝:いえ、金光がです。それから、金光のロフトの前がガラス張りで、ラリー・リヴァース(Larry Rivers)が絵を描いていました。チェルシーに滞在していて、そこに来て制作していました。金光はほとんど描かないで、ぶらぶらしていた。

加治屋:留学していた時、グリーンバーグの文章は読まれていましたか。

藤枝:「アヴァンギャルドとキッチュ」以外読んでいません。日本で瀬木慎一の翻訳がありましたね。高階秀爾と英訳のことで『SD』で論争して、それで、あの本は何となく信用がなくなってしまった。いいことが書いてあるのに、あまり読まれなくなってしまった。むしろ、東野さんが訳したハロルド・ローゼンバーグの『新しいものの伝統』の翻訳の方を読んでいました。グリーンバーグがすごいということには全然気づいていなかった。ただ、両者は仲が悪いということは、ニューヨークでは話題になっていましたけれども。グリーンバーグがいいなと思ったのはずっと後です。

加治屋:藤枝先生がグリーンバーグに最初にお触れになったのは67年の「抽象彫刻以後」という文章ではないかと思います。もしかしたら、その前からお触れになっているかもしれませんけれども、この文章でグリーンバーグの理論を紹介なさっています。

藤枝:「モダニズムの絵画」も、当時は非常に読みが浅かったので、よく分かりませんでした。マイケル・フリードというのが出てきていて、グリーンバーグと同じようなことを言っているという感じがしました。キィ・タームは同じですね。「シアター」も「リテラル」もグリーンバーグが使っていました。

加治屋:グリーンバーグやフリードの文章は、日本に戻られた時に雑誌で読まれていたんですか。

藤枝:あまりよく読んではいなかったですね。『ポロック』を書いた頃からなんです。日本の評論家というのは、セザンヌだとかマティスだとかキュビスムだとか、いわゆるモダニズムの評論家はいたんですけれども、本当に感想評論ですね。これが一方にいあって、針生、東野、中原たちはそれに反発して出て来たんです。でも、これまた美術を論じませんから、何か変なものになってしまう。瀧口さんはある時期はアルフレッド・バーなんかを参照されていたみたいです。

加治屋:瀧口さんがアルフレッド・バーを読んでいらっしゃったんですか。

藤枝:と思います。岡本太郎もバーの高名な図表を使っています。とにかく美術をちゃんと論じる人はほとんどいなかったんです。僕がアメリカに行くときに、新先生から、作品の見方のための、非常に細かい項目を立てたものを頂戴したんです。だけど、その時はよく理解できなかったですね。新さんはアメリカの文学や美術の分析の方法を御存知だったはずです。実践批評、ニュー・クリティシズムで代表されるものです。京都では、京大の新田博衛さんが、むしろ文学の方でそういうのをなさっていましたが、ファン・アイクの構造分析を発表したことがあります。それは非常にためになりました。

足立:最初の批評というのはどういうものですか。

藤枝:批評家はなろうと思ってなるものじゃない。頼まれて書くんです。『美術手帖』に、その当時の現代作家を何人も紹介するものがあって、中原佑介が序文みたいな、前書きみたいなものを書いて、でその時、僕はポップ・アートを担当して書いたんです。それを田中信太郎が読んで、日本の今までの評論家とは違うやつがいる、ということで。彼に言わせると、篠原が言ったというんですけれども、それでネオダダの連中と親しくなったんです。ネオダダの連中は、まあ篠原は古い美術もちゃんと見ている作家ですが、いわゆるシュルレアリスムの流れが嫌だったんでしょうね。日本の美術批評界を覆っていた。

加治屋:少し話が戻りますけれども、京大の修士論文は「現代アメリカ美術研究」というタイトルでお書きになったと伺っていますが、これはどういった作家を取り上げられたんでしょうか。

藤枝:ウォーホル、リキテンスタインとローゼンクイストを取り上げました。アメリカ美術の一般的な、アメリカ美術の悪しき側面についても書きました(笑)。また、抽象表現主義があって、それで美術は終わりというようなこと。それでポップ・アートはそれを概念化、可視化しながら、うまく表現したという。ただ今、リキテンスタインの初期の有名な作品、ニューヨーク近代美術館にあります、ボールを上げている……

加治屋:ありますね。少女のやつが。

藤枝:あれなんかいま見るに堪えないですね。やはり、反芸術の限界として(笑)。少し前のローシェンバーグのも展示してありますけれども、これも見るに堪えないですね。電球が何ワットか調べるくらいしかないような作品もあります(笑)。ウォーホルなんかもそうで。反芸術の命運というか。

加治屋:60年代後半は、ローゼンクイストやリキテンスタインの作品は評価なさっていた?

藤枝:ええ、そういう傾向の中では評価していました。やはり今までの情念的なものがなく、からりとしていて、ドライで。そこは今までなかったことですね。だからある意味で、芸術の状況の反映を巧みに表したと思います。とにかく、「芸術の終わり」は、ダントーで一般化しましたけど、その雰囲気はずっと前から流れていますし。芸術なんかもうどうでもいいんだという感じを芸術家自身が持っていたのです。だから抽象表現主義の二流、三流という人たちはセンチメンタルだという見方が皆にありましたし。今はもうそういうのはあまりないでしょう。もう芸術はだめだなというのは。我々は団体展と芸大を通して感じたというか(笑)。

加治屋:「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」はご覧になりましたか。

藤枝:いえ、見ていません。あれはカリフォルニアでやったんです。

加治屋:LAでやったんですよね。

藤枝:はい。

加治屋:その頃だと、展覧会としてはMoMAでハンス・ホフマン展が63年に。

藤枝:あれは見ました。ハンス・ホフマンはたいした作家じゃなくて、教師としてアメリカに寄与した作家で、アメリカ人は褒めすぎですね。いわゆる画壇的な作家になっています。彼は力を誇示するようなところがあり、いいとは思わない。ただカタログは今でも非常に役に立っています。ジョゼフ・ラヴ(Joseph Love)さんという上智大学の先生が、修士論文をコロンビア大学で書き、ハンス・ホフマンを基にしたエッセイを翻訳したことがあります。

加治屋:『SD』にジョセフ・ラヴさんが書いたものを、藤枝先生が翻訳なさって。

藤枝:はいそうです。ラヴさんは日本現代美術に貢献した人で、作家と芸術的に関わっていました。

加治屋:日本の作家を?

藤枝:はい、若い作家たちと。それと李禹煥やもの派に先行する郭仁植を評価してました。また本人も絵を描いていましたけれども。

加治屋:そうなんですか。

藤枝:南画廊で何度か個展を。

加治屋:ところで、「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」の図録をお持ちなんですね。

藤枝:これは、講談社の畑野文夫さんにいただいた貴重なものです。貴重な図録だけど、質の低い作家も多くまじっています。Jewish Museumは、ケネス・ノーランドの個展をやったり、その前はローシェンバーグとジョーンズでしたね。

加治屋:そうですね。当時、ちょっと名前が出てこないんですが、現代のことをやるキュレーターがいらっしゃいましたよね(注:アラン・ソロモン(Alan Solomon))。

藤枝:ええ、ウォーホルの「ブリロ」が、あれは展覧会を見たんですけれども、200ドルとかだったんです。マディソン街をぶらぶら歩いていたら、イサム・ノグチさんがやって来て、笑っていました。草間彌生さんも個展をやっていたはずです。

加治屋:草間さんはアメリカで活躍なさっていましたね。

藤枝:評価は定着していませんでした。初期の頃にジャッドが「スペシフィック・オブジェクツ」に書いていました。

加治屋:書いていましたね。

藤枝:近代美術館の池に飛び込むパフォーマンスをやりましたが、僕は高く評価しています。草間さんには会ったこともないんですけれども。なぜか僕にやさしいんです。

加治屋:当時ニューヨークにはジャドソン・チャーチ(Judson Church)があって、いろんなパフォーマンスが行われていたかと思いますが、ご覧になりましたか。

藤枝:ええ。カプローのを見たことがあります。カプローがハンモックの上に寝転がっていました。

加治屋:オルデンバーグは?

藤枝:オルデンバーグは見ていないんです。それから、だいぶ落ちますけれども、アル・ハンセン(Al Hansen)というハプナーがいまして、その汚らしいロフトで見たことがあります。何か物が置いてあって、風船のようなものが飛んでいるんですよね。くだらないから、こちらが蹴っても何も言わない。そういうハプニングをやって。ジャドソン・チャーチではカプローとちょっと話したことを思い出した。日本へ来たいと言っていました。

加治屋:実際にカプローは日本に来たんでしょうか。

藤枝:来たのでしょうか。ペンシルヴェニア大学にいたときに、テンプル大学が郊外にあって、そこにカプローが講演に来るというので、僕ははるばる行ったことがありました。満員でした。

加治屋:MoMAが日本家屋を造った展覧会がありましたね(注:Japanese Exhibition House、1954年・1955年)。

藤枝:それはもちろん見ていません。ジョン・キャナディー(John Canaday)というのが、コテンパンに書いたという。ウィリアム・リーバーマン(William Lieberman)が日本へ来て、「現代美術の墓場」とか正しい批判をしたんです(笑)。MoMAの倉庫に行かれたことあります?

加治屋:ないです(注:その後行った)。

藤枝:そうですか。あそこへ行きますと、いっぱいありますよ、日本人のジャンクが。

加治屋: MoMAにいらっしゃったときがあるんですね。武蔵美に勤められてからでしょうか。

藤枝:そうです。75年でしょうか、確か。

加治屋:75年ですね。それは、ちょっと先の話になりますが、フェローシップをお貰いになって。

藤枝:ACLS。アメリカン・カウンシル・オヴ・ラーニド・ソサエティーズ(American Council of Learned Societies)。加治屋さんは、スミソニアンでしたね。あれはいいですね(笑)。

加治屋:ありがとうございます。

藤枝:指定されて、MoMAに在籍しました。東北の三井滉さんという方が最初にそれで行かれた。MoMAといっても何も、ただとあそこで売っている本やグッズが50パーセント引きで買えるとか、そんな程度です。図書、倉庫のアメリカ美術を見せてもらえるという利点がありましたけれども。もう何にもしないんです、MoMAの連中は。人のために(笑)。

加治屋:少し話が戻りますが、ペンシルヴァニア大学に行かれたとき、デュシャンに手紙を書かれたと伺っているのですが。

藤枝:あれはそれ以前ノグチさんが日本へ来たときに、デュシャンを卒論にしたと言いましたら、彼は僕の友達で、スペインのカダケス(Cadaqués)によくいるから、何か言いたいことがあったら、質問したいことがあったら、手紙を渡すって言ってね。それで確かイサム・ノグチに渡したと思うんですけれども、一応フランス語で書いて。しばらくしたらデュシャンから返事が来ました。やはりカダケスから来ましたね。

加治屋:手紙はどういう内容でしょうか。

藤枝:今のハプニングをどう思っているのかと書いた。(デュシャンは)「あれは単なるハプニングに過ぎない」、「我々が大体もうやってしまった」と。1961年にMoMAがアッサンブラージュ展(The Art of Assemblage)をやった後だったので、それについても尋ねたら、「あれも我々のやったことをやっているだけだ」と書いていました。僕はデュシャンの家に二度行ったんですが、卒業論文をわざわざ持ってデュシャンの家に行った。それを渡せばよかったんですけれども。十何丁目を西に入ったところに住んでいまして、その近くから電話して、「会いたい」と言ったら「今来い」と言われました。気楽なもんですね。彼は現代美術にはうんざりしていました。

加治屋:桑山忠明さんに会われたのは、その頃ですか。

藤枝:最初に行った時に、何人か日本人と知り合ったんです。イサム・ノグチが遊びに来いって言うので行った。ニューヨークの上の方にアトリエがありまして、そこで助手をしていた日本人がいたんです。それが近藤竜男さんです。彼が日本人作家たちを紹介してくれた。よく『美術手帖』にニューヨーク便りを書いていた。

加治屋:お書きになっていましたね。

藤枝:それで桑山ですけれども、その当時、彼らはしょっちゅう会っていたんですね。寂しいものですから。桑山もそこに最初は来ていたのですが、時代とともにみんなバラバラになりましたけど、そこで知り合いました。

加治屋:篠原さんがいらっしゃる前ですか。

藤枝:ええ、前です。60何年か、詳しい年は忘れましたけれども、コーンブリ(Kornblee Gallery)という画廊がありまして、そこで桑山が展覧会やったのを見に行ったんです(注:64年)。補色対比の作品で、非常に良かったですね。その頃からちょっとポップは違うなという感じでした。桑山は元々はグリーン画廊にいましたね。あそこにいた作家で彼はコーンブリに行った。東京画廊が桑山展をやるということで、僕に序文を頼んできたんです。桑山にも会ったら、「あんた、何書くの」って偉そうにね。でも、書いたものが良いということで、それから親しくなった。彼は日本の美術を非常に批判して、アメリカの美術の視覚的な芸術を評価してたんですけれども、彼の言う視覚性というのはグリーンバーグとは違います。僕が1975年にニューヨークに滞在したとき、桑山がフランス系の画廊で個展をしました。

加治屋:ソナベント?

藤枝:ドニーズ・ルネ画廊(Galerie Denise René)です。フランスでは有名な画廊だったんですが。そこへ彼が入って、その時に僕が『アーツ・マガジン(Arts Magazine)』に文章を書いたことがあります。そのときに桑山の作品をよく見たんですけれども、アメリカ美術ではないんですね。アメリカの抽象表現主義を中心とする空間性は、やはりないですね。そのことは桑山にも言ったんです。フランク・ステラとも親しかったんですけれども、ステラとも違うんですよね。ステラというのは、アメリカの美術空間を自然に取り入れながら、ああいう作品を作っていた人ですので。桑山だけ孤立するということになったと思います。

加治屋:抽象表現主義の後のケネス・ノーランドとか、モーリス・ルイスとか、そういう作家の作品は、アメリカにいらっしゃった時にご覧になったんでしょうか。

藤枝:ポップと一緒にそういうものが展示されていました。ルイス、ノーランド、ヘレン・フランケンサーラーはそういうこともあって、文章を書いたことがあるんですけれども、素晴らしいですが、書くのは非常に難しいです。

加治屋:モーリス・ルイスの絵について書くのが難しかった?

藤枝:ええ、やっぱり芸術について書くのは。

加治屋:「最後の絵」という批評の中でお書きになった。

藤枝:ええ、それは日本の美術評論界が、絵画については何も書いていない。分かっていない連中が論じていてもどうも違うなあ、という感じがしていました。扱う対象は広く反芸術というものですが、その大方は、概念が分かれば単なるヴァリエーションに過ぎなくなります。モダニズムの無視です。もっともこの用語は、ポストモダニズムが出てきてから言い始めたんですね。

加治屋:当時はそんなにモダニズムという言葉は使われていなかったんでしょうか。

藤枝:グリーンバーグだけのモダニズムという感じがしましたね。ポストモダニズムというのは、建築の方が先に言い出したんです。建築にはそれなりの意味がありますから。

加治屋:藤枝先生はフルブライトでケース・ウエスタン・リザーヴ大学というクリーヴランド(の大学)に行かれたんですね。

藤枝:はい。それは悲惨なものでした。フルブライトに入りますとね、英語の試験を2回やるんですが、だんだん悪くなっていく。今はTOEFLの点数を上げるような本も一杯出ていると思いますが、何も勉強しないと、どんどんスピーカーから流れてくるやつが……。行くの止めようかと。フルブライトの係の女性が偉そうに言うものだから。今にして思えば、抽象表現主義の研究はあそこはかなり充実しつつあったんですね。それから、ニューヨークに行きますとね、アメリカ人の友人は「何でクリーヴランドに行くんだ」って馬鹿にするんですね。クリーヴランドって聞いただけで。

加治屋:それは1年間?

藤枝:1年間じゃなくて半年くらい。マックス・コズロフ(Max Kozloff)という人が評論のセミナーをやるというので、そちらへ移ったんです。

加治屋:コズロフはそこで教えていたんですか。

藤枝:アメリカ美術連盟から金をもらってセミナーをやっていました。こっちに来いということで。その当時、『美術手帖』に何かを書かされていた。僕と東野芳明さんと、宮川淳さんと3人が現代作家のシリーズをずっとやっていました。

加治屋:「現代美術の巨匠」っていうシリーズですよね。

藤枝:そうです。そちらの資料集めで本当に時間を取られてしまいまして、何のために行ったのか分からない。各作家の展覧会評とかそういうのをずっと調べたんです。マイクロフィルムをクルクルと回して大変だったんです。あれは無駄ではなかったけれども、ジャーナリズムの犠牲になった。

加治屋:その時はアメリカにいらっしゃって、寄稿の連絡があって。

藤枝:書いていたんですね。カタログも日本には多くありませんから、送らないといけない場合もありました。アメリカが非常に悪くなっていく時代です、60年代の後半からは。時代がとびますが、ポストモダンは、都市の再生を図ろうとした時代ですね。西洋が生き延びるためのプロジェクトだったように思います。磯崎新さんというのは、パラディアムというニューヨークのディスコをデザインして、壁に当時流行ったニュー・ペインティングを飾って、話題になったんですね。

加治屋:パラディアム?

藤枝:ええ、パラディアム。麻薬を吸ったり、乱交したりしている時代ですね。それでエイズが出てきたので、おとなしくなってしまった(笑)。加治屋さんは、最初は何年に行かれたんですか?

加治屋:98年です。もうジュリアーニ市長が街を整備して、ジェントリフィケーションが非常に進んでいた時期です。

藤枝:タイムズ・スクエアもきれいになりつつあった?

加治屋:はい。もうきれいになっています。いかがわしいものがなくなっていましたね、僕が行った時期は。

藤枝:エイズは80年代ですね。ちょっと余計な話をすると、ニューヨークで円形脱毛症になったんですよ。医者に行って。ビルの中にいろんな事務所もあったりして。医者がくれたシャンプーとリンスの箱を持ってエレベーターの前で待っていたら、一緒に乗ろうとしていた黒人女性が飛び退いて(笑)、乗らないんですよね。彼は皮膚免疫学の大家だったんですけれども。ちょうどエイズが出始めた頃です。気持ち悪かったです、当時のニューヨークは。ドアにも触りたくないというか。

加治屋:潔癖症だと伺ったのですが、その頃に始まったのでしょうか。

藤枝:いや、それは昔からです。余計潔癖症になりましたね。美術館に行っても、冬はコートを掛けないといけないのが嫌だったですね。

加治屋:わりと頻繁にアメリカにいらっしゃって。

藤枝:80年からよく行きました。長くいたのは……

加治屋:ニューヨーク大学のインスティチュート・オヴ・ファイン・アーツですね。

藤枝:はい。ディレクターがギリシャ美術が専門のマクリディー(James R. McCredie)でした。

加治屋:僕がいたときもいらっしゃいました。

藤枝:非常にいい方だった。パスをもらって、中に入って図書館を使った。奥にコーヒーがあって。

加治屋:今はないですね。

藤枝:これはどんどん飲んでもいいと。図書館なんかに行っても女性ばっかり。多いですね。

加治屋:多いですね。僕の時も9割くらいが女性でしたね。

加治屋:モダンアートはローゼンブラムが教えていたんですかね。

藤枝:そうです。あの人はあそこの専任だったんですね。それからウィリアム・ルービン(William Rubin)も教えていましたね。

加治屋:そうですね。カーク・ヴァーネドー(Kirk Varnedoe)は?

藤枝:いたんじゃないでしょうか。僕は夜起きて昼寝ていますから、生活を変えるためにニューヨーク近美の人から「ルービンの講義を取ったらどうだ」と言われたことがあるんですけれど、定期的に行くと大変ですから行かなかったんです。あれ以来、評判悪くなりましたが、立派な学者にして学芸員です。

加治屋:あれというのは、プリミティヴィズム……(注:1984年から85年にかけてニューヨーク近代美術館で開かれた「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」展のこと)

藤枝:プリミティヴィズム以来(笑)。

加治屋:70年代初期も、藤枝先生は、アメリカの同時代の動向をきちんと分析なさっている文章を書かれていますけれども、この時はずっと日本にいらっしゃったんですか。

藤枝:ええ、日本におりましたが、春、夏の学校が休みのときはちょくちょく行きました。

加治屋:雑誌や展覧会カタログもご覧になっていた。

藤枝:雑誌はかつては『アートフォーラム』とか『アーツ・マガジン』が充実していましたし、カタログは、主要なものを何とかして集めていました。日本は、中原佑介の「人間と物質」展みたいなものに沿って出てきたような作家が多くなっていましたね。今考えてみますと、不毛の70年代だったという結論に至ります(笑)。積極的なものは何も生み出さなかった。これはしょうがないですけれども。とにかく絵を描いたりすると、非常に馬鹿にされた時代です。先にも言いましたが、これはちょっとおかしいと思った。モーリス・ルイスを書いたのはそういうことだったんです。

加治屋:なるほど。

藤枝:これは何度も言っているんですけれども、ある飲み屋で編集者と中原佑介と、東野芳明さんもいたと思いますけれども、「フランク・ステラは多角形のものはいい」ということを言ったら、「あれは絵だからだめだ」ということを中原佑介が言った。あれは『芸術新潮』だったですね、編集者たちもみんな中原に賛同して。『芸新』が何を言うんだと言って、それから『芸新』から注文がなくなりました(笑)。そういう状況でした。東野さんは、非常に曖昧に「ジャスパー・ジョーンズも絵だけれども、ジョーンズで終わっとるよ」というような話をしていたと思いますけれども。中原みたいなことは言わなかったですね。しかし、後に中原はステラの本を書いたんですよね(注:中原佑介監修『フランク・ステラ』新潮社、1991年)。「我が親友」なんとかって。いい加減なものですよ(笑)。

加治屋: 60年代、かなりアメリカにいらっしゃったと思いますけれども、日本にいらっしゃった時は、日本の展覧会はいかがだったでしょうか。例えば、学生時代の話になりますけれども、読売アンデパンダン展がありました。

藤枝:学生時代は、サトウ画廊、櫟画廊、村松画廊、あまり行かなかったけれども、秋山画廊、そういう画廊が中心だったんですね。それで京都に行きまして、京都では東京の展覧会を見ていないんです。アンパンはほとんど見ていない。どちらかというと、アンパン前の美術をよく見ていたんです。サトウ画廊では川原温が黒人の絵を描いたりしていました。小山田二郎とか、もう知らないでしょう。村松は2階にありましたけれども、それも意欲的な展示をしていた。みんな貸画廊ですけれども。後は団体展は日展系以外は見ておりました。京都に行きますと画廊があまりありませんし。ああ、京都もよい画廊があった。16、他に1、2軒ありました。

加治屋:ギャラリー16。

藤枝:とにかく画廊は遊びに行くのか、酒飲みに行くのか、作品見に行くのか、訳の分からない時代です。

加治屋:東京ビエンナーレの時は東京にいらっしゃいましたか。

藤枝:はい。東京ビエンナーレの前に、それこそニューヨークでそういう傾向があるということを聞いていましたし、桑山が属していたグリーン画廊を開いたディック・ベラミー(Richard Bellamy)が、名前はちょっと忘れましたけれども、ある画廊で同様の先駆的な企画をやっていたんですね。そこへ桑山と行った時に、それこそ作品とは思えないようなものがありました。「人間と物質」展なんかのずっと前ですね。前からそういうのは知っていました。それから、イタリアからジェルマーノ・チェラント(Germano Celant)の『アルテ・ポーヴェラ』という厚い写真集が入ってきて、みんな必死に見ていました、田村画廊で。だから李禹煥もそういうのを見ていたはずです。李禹煥はそっくりのものを作りました。ヤニス・クネリス(Jannis Kounellis)という人のものと。チェラントの『アルテ・ポーヴェラ』はご存じですか。そこに収められていた作家もずいぶん「人間と物質」展に出ました。あれは会場に則して何かを作っていたんですね。木を植えたり、ちょっと格好をつけた、ありきたりのことをやっていましたね。カール・アンドレはどうしています? 「山師アンドレ」なんですけれども(笑)。日本は「人間と物質」展がエポックメイキングだという言い方をしますけれども、たいしたことはない。過大に評価されすぎですね。あの展覧会の企画中、アンケートが来て、どういう作家を選んだらいいかといってきた。僕はフランク・ステラとか、そういう人たちの名前を挙げた。これはもう全然入りませんでした。そういうのを抜きにしてあそこに行ってしまったんですね、

加治屋:「アンチ・イリュージョン」展がニューヨークのホイットニーでありましたね。

藤枝:あれは見ていないんです。あれについて書きましたけれども(笑)。カタログによってです。ミニマルがあって、それを崩していく美術ですよね。非常にいいカタログですね。音楽もスティーヴ・ライヒなんか出ていましたですね。

加治屋:出ていましたね。

藤枝:あれなんかも完全なミニマル・ミュージックですもんね。

加治屋:先ほど、中原さんとか編集者と飲んだというお話がありましたけれども、評論家の間のつきあいはおありだったんですか。

藤枝:当時は貧しい時代ですから、今よりも現代美術をやっている人たちはよく一緒になるんですね。同志感というようなものが自然とあった。中でけんかはしますけれども、何となく集まる場所がいくつかあったんです。銀座に飲み屋があったし、新宿は新宿であった。宮川淳さんはあまり酒は飲まないけど、そういうところにときどき顔を出していた。特に晩年はそうですね。中原さんはボンボン飲んでいますから(笑)。主要な展覧会の後とか何かの時に、その帰りに集まって飲んだ。四谷には「ダリ」というバーがありました。そこへよく集まっていました。ローゼンクイストと篠原と3人で行ったことがあります。東野さんが座っていて、すると篠原が「彼はもう古いから」などと言ってね(笑)。カウンターがあると、必ず篠原と吉村益信がはだか踊りをする。もとはと言えば芸大の伝統ですけどね。

加治屋:それでは、ネオダダの作家の方とはいろいろなところでお会いになって。

藤枝:はい。飲む方が多かったんですけれども。今はもう、田中信太郎ぐらいしか認めませんので、向こうは怒っていると思います。ニューヨークへ75年に行った頃は、篠原の所に行ったんですけれども。フランケンサーラーは問題外と篠原が言うのでけんかしたことがあります。僕は桑山と親しかったので、それで離れていったということもあります。篠原はお金がないので、大変でした。とにかく金がないのに、みんな飲んでいましたね、毎日のように。

加治屋:中原さんとか東野さんといった少し上の世代の方たちとも、交流がおありになった。針生さんも?

藤枝:僕は針生とはしゃべったことがないんです。一言、二言しか。僕が一生懸命オランダ語の分かる人の所へ行って、オランダでやった「四角い杭に丸い穴(Op Losse Schroeven)」という展覧会の解説を書いたことがあるんです。針生が別のところで同じようなことを書いているのです。それ以来、あまりしゃべらない。東野さんとは非常に親しくて。中原さんはまあまあだったんですけれども。一番親切だったのは東野さんですね。非常に愉快な人でした。

加治屋:多木浩二さんとはどういった関わりが?

藤枝:多木さんは、楠本正明という作家の紹介が始まりです。

加治屋:楠本さんというのは?

藤枝:桑山の友達で、やはりニューヨークにいた人です。その人の展覧会をアメリカ文化センターでやった時に、僕が序文を書いた。そこへ多木さんがなぜか来た。和光大の関係かな。楠本は和光大に非常勤で行っていましたから。確かその関係で多木さんが。だから多木さんとは個人的にはあまり。何かの会合とかそういうところで(会うだけだった)。

加治屋:当時60年代末から70年代初頭くらいに『美術手帖』は福住(治夫)さんがいらっしゃった。

藤枝:福住さんは、その「エピソード」を書いているときの担当の編集者だったんです。

加治屋:何か編集者とのお付き合いの中で印象深かったことはありますか。

藤枝:当時は編集者とよく会ったり、話をするところから何かが出てくるということがありましたね。それから一つ書くと、それについてどうだこうだ、いい悪いというようなことをお互いに言う時代でした。中原佑介が僕のを読んでいいと言っているとか、悪いと言っているとか。特に作家がそれをやっていましたね。ネオダダの連中がそうですよね。すごかったです。

加治屋:それは文章を読んで。

藤枝:ええ、みんな『美術手帖』は一応読んでいましたので。誰のがよくないとか面白いとか、そういう論議はしょっちゅうやっていました。篠原たちと飲んでいて、篠原が看板を壊して捕まったことがあります、渋谷署に(笑)。芸術家なんて、警察の人は知らないんですが、担当が美校の日本画を出たとか言っていたな。それで親切にしてくれた。

加治屋:先ほど、ウィリアム・リーバーマンが日本に来たときのお話がありましたけれども、その時は。

藤枝:僕は全然知らないんです。作家の所をまわったそうですね。その時ずっとノートをとってまわったのが珍しかったようで、日本人でそんなことをする奴はいないんだと言っていました。だけど、展覧会に行くと、向こうは、学生もそうですけれども、みんなメモしていますよね。あれが日本人には不思議らしいですけれども。日本はむしろ書くと守衛の人が怒りますよね。

加治屋:ええ、そうですね。ペンを使っちゃいけないとか。

藤枝:はい。

加治屋:グッゲンハイムにいたエドワード・フライ(Edward F. Fry)は、おつきあいはありましたか。

藤枝:グッゲンハイムで日本人展を組織しましたね(注:Contemporary Japanese Art: Fifth Japan Art Festival Exhibition、1970年)。

加治屋:はい。

藤枝:その時、まだ京大にいました。彼が日本に来た時に東京画廊に来て、「誰か京都で案内してくれる奴はいないか」ということで、京都ホテルへ訪ねた時が最初です。二度くらい来ているんじゃないでしょうか。その時に会って、それからニューヨークで世話になりましたし、美術館やめてから……。ハンス・ハーケ展で(グッゲンハイム美術館を)辞めてしまったんですね。

加治屋:そうですね。ハーケ展でしたね。

藤枝:ずっと定職がなかったですね。非常勤で各大学で教えていた。ハーヴァードでも教えたりしていましたけれども。晩年、僕が金がない時に彼の家に居候していました。フィラデルフィアの郊外の家に。それから一年後ぐらいに亡くなりました。ポストモダンの時代ですね。リオタールの話とかいろいろな話をしました。フィラデルフィアにはリチャード・バーンスタイン(Richard J. Bernstein)というハーバーマスの研究者がいて、フライもちょっとそれに感化されていて、ドイツのフランクフルト学派の批判理論に関心をもっていました。

加治屋:先の話になりますけれども、92年にグリーンバーグが来日した時、藤枝先生とバート・ウィンザー=タマキ(Bert Winther-Tamaki)さんを交えてお話になっていますね(C・グリンバーグ「私はなにもしたわけではない」(聞き手:藤枝晃雄、バート・ウィンザー)『へるめす』44(1993年7月))。

藤枝:あのシンポジウム(注:シンポジウム「クレメント・グリンバーグの批評理論をめぐって」1992年12月、東京都美術館講堂。司会:藤枝晃雄、パネリスト:グリーンバーグ、谷川渥、川田都樹子ほか)は失敗でした。パネラーを多く入れ過ぎました。バート・ウィンザーさんは、反グリーンバーグ的なものへ傾いていっていますよね。あのときの若い人はみんなそうだった。あれはなかなか面白かったですね。

加治屋:都美術館でやったんですよね。

藤枝:はい。人は一杯来たんですけれども、僕は咳がすごく出て、しゃべれなくなった。グリーンバーグは、彼を訪ねてくる人は大勢いるんですけれども、当時、批判がすごかったですね。キャロライン・ジョーンズ(Caroline Jones)の本には加治屋さんの文献も挙がっていますけれども。ご存じなんですか。

加治屋:ええ、あの本が出る前に連絡をもらって、「どういう研究をしているの」と聞かれたんです。

藤枝:なかなか包括的な感じでいい本だし、図版もいいですね。ですから、彼女が最後の締めという感じじゃないでしょうか。それまでは、ごちゃごちゃとみんなに批判されて、「もう俺のことはもう言ってくれるな」というようなことを言っていましたし、カレン・ウィルキン(Karen Wilkin)、彼女だけが昔からの支持者でしたね。フリードは反抗しているし、クラウスはもちろんそうだし、それで「日本へどうですか」ということで呼んだんです。(66年に)最初に来たときの方がずっとよかった。60年代は、まだ日本はさみしい街だった。人もあんまりいませんしね。90年代の時は人がいっぱいいて、ごちゃごちゃしていましたから。

加治屋:66年に、グリーンバーグは来日したときは、日本は反芸術が強い時代だったんですけれども、その反芸術とモダニズムの違いは、そんなに意識されなかったんでしょうか。

藤枝:全然されなかったですね。彼は日本の美術は団体展を見たくらいじゃないでしょうか。それから美術館というより博物館、東博に行ったと思いますし、名古屋で宗達を見たんでしょうか。宗達はすばらしいと書いていますよね。それからインドへ確か行ったと思います。

加治屋:はい、日本の後にインドへ行っていますね。

藤枝:インドの方がいいようなことを言っていました。興味深い美術があると。

加治屋:66年に来た時は、長岡現代美術館でシンポジウムがあったと思うんですが。

藤枝:そうですか。それは全然知らない。アメリカ文化センターに上林澄雄さんという方がおられて、ジャズの翻訳をされています。リロイ・ジョーンズのBlues People(邦題『ブルースの魂』)を翻訳した方です。グリーンバーグはこの人に非常に世話になったので、92年のときにも是非会いたいと言っていたんですけれども、上林さんはもう動けなくなっていて、会えなかったんです。

加治屋:グリーンバーグの手紙は、今はアメリカ美術アーカイヴとゲッティー研究所にあるんですけれども、上林さんの手紙はゲッティーで見たことがあります。

藤枝:そうですか。グリーンバーグの作品のコレクションは、ポートランド美術館にあるんですね。

加治屋:そうですね。

藤枝:グリーンバーグが亡くなった後ですけど、あれは日本に売りたいと奥さんが言っていました。グリーンバーグは叩かれていましたし。フジテレビ・ギャラリーの山本進さんのところに(夫人が売りたいと)言ってきて、それで僕のところに話があり、日本の美術館にいくつか当たったんですけれども、グリーンバーグを知らない館長や学芸員だらけですから、売れなくて、ついにポートランドが買いました。ノーランドやカロなど、いいのがありますね。ポロックは、誕生日の祝いで送ってきたのが便所にずっと掛かってあったのが入ってます。

加治屋:グリーンバーグのご自宅にも行かれているんですね。

藤枝:はい。2、3度行ったことがあります。斉藤規矩夫さんという作家がいまして、ケネス・ノーランドの助手や、フランケンサーラーの手伝いをやっていた人なんですね。その人がグリーンバーグと親しかった。僕が彼を知ったのは、70年代にエマリック(André Emmerich Gallery)でグループ展があって、こういう画家がいるんだなと。その後、今はもう存在しないと思いますけれども、サランダーオライリー(Salander-O’Reilly)という画廊で展覧会をやっていました。連続してやっていました。僕は今でも覚えていますけれど、83年にその個展に行きました。アップタウンの70何丁目かにあったんです。この作家に会いたいと言ったら、「あいつは難しい男だから、私が行くときに連れて行く」とサランダーから言われた。後で斉藤にその話をしたら、「とんでもない」と言っていた(笑)。美術学校ではラリー・プーンズ(Larry Poons)に習ったそうです。ケネス・ノーランドが日本に来たことがあるんです。ノーランドが佐谷画廊でちょっとした展覧会をやった。その時僕は斉藤と面識がなかったんですが、彼から突然電話があって、ノーランドに会いませんかということで会ったんです。ホテル・オークラに泊まっていて、部屋で何か飲みながら話を聞いたことがあります。まだケネス・ノーランドは元気だったですけれども、それが斉藤規矩夫さんと会った最初ですね。近年斉藤さんはジャスパー・ジョーンズふうの文字を使うようになっていますね、絵の中に。僕は止めた方がいいと言うんですが、言うことを聞かない(笑)。彼が最初にグリーンバーグを紹介してくれたんです。彼の奥さんはダンスをやっていて、イバ・マイヤー(Eva Maier)という人ですけれども、グリーンバーグは非常にかわいがっていたんです。彼女と3人で行ったことがあって、それが最初なんです。翻訳だとかそういう時は、別に一人で行ったりもしました。

加治屋:最初に行かれたのは70年代でしょうか。

藤枝:80年代の終わりだと思いますね。娘と遊びに行ったこともあります。親切にしてもらいました。僕はむずかしい話はほとんどしなかったんです。フォーマリズムというと、細かく分析するように思っていますけど、彼はそれには関心がないんですね。やはり芸術が問題であって、彼が特にそういうのを嫌うのは50年代あたりの教科書ふうの分析が嫌いなんですね。ジョゼフ・アルバース(Josef Albers)のような流れとか、フォーマル・アナリシスというのはあまり好まない。そこは僕と違っていて、やはり日本の場合はそういうものが必要なんじゃないかという考えがあります。日本にはあまりにもなかったから。グリーンバーグもそういうことをちょこちょことやってはいるんですけれども、そういうものに傾斜するということはしたくなかったようです。

加治屋:たしかにグリーンバーグは、個々の作品分析はあまりないですね。

藤枝:そういうものを安易にフォーマリズムとは言わないというか。彼は、ロシアのフォルマリスムとの区別をしなくてはいけないと言っているんですけれども、やっぱりロシアには似ていますよね。形式と内容を対立させることには反対ですね。ロシアはとくにそうなんですね。川端香男里さんが「ロシアと日本は形式が嫌いだが、形式は「基本的に重要なこと」を意味し、形=形相は質料(内容)を決定する」と述べています。また谷川渥さんもグリーンバーグにおける形相と質料の対比、連関について興味ある言及をされています。グリーンバーグがそういうことを意識していたかどうかは分かりませんが。

加治屋:『Homemade Esthetics』のセミナーでその問題を論じていますね。

藤枝:ロシアとの違いはもう少し詳しく議論しておけばよかったんですね。アメリカの人たちはロシア・フォルマリズムを勉強して知っているんでしょうか。もうとっくに過ぎたことだと思っているんでしょうかね。

加治屋:調べてみないと分からないですけれども、日本は翻訳が充実している印象があるんですが、英語でロシア・フォルマリズム関連の文献は少ないかもしれないですね。

藤枝:一時ちょっと出たことがあると思うんですけれども、シクロフスキとかそんなものはあるんでしょうかね。

加治屋:一冊何かありましたね(注:John E. Bowlt, ed., Russian Art of the Avant-Garde: Theory and Criticism 1902-1934 (1976))。

藤枝:ロシア・フォルマリズムの文学に関する邦訳は随分と出ていました。グリーンバーグもロシア系ですから、興味を持っていたんだろうと思います。マイヤー・シャピロ(Meyer Schapiro)もそちらの方ですね。

加治屋:シャピロもグリーンバーグもリトアニア系です。

藤枝:リトアニアですね。それから、レオ・スタインバーグ(Leo Steinberg)もそこら辺ですね。

加治屋:お会いになったことはありますか。

藤枝:いえ、ないんですけれども、書いているものを読むと(笑)。不思議な男ですね。

加治屋:藤枝先生がいらっしゃった後にフィラデルフィアに行ったんですよね(注:スタインバーグは1975年から91年までペンシルヴェニア大学教授を務めた)。

藤枝:だいぶ後ですね。

加治屋:藤枝先生は東京芸大で1979年から89年まで西洋美術史の授業をなさっています。その時に、後に作家や学芸員になる学生ともお会いになっていると思いますが、何か印象深い思い出とか、印象深い方はおありでしょうか。

藤枝:当時は現代美術にアカデミックな人たちが関心を持ってきていて、論文を書こうという人もいました。作家もそうですね。ニュー・ペインティングと日本で言われるものが出てくる前の人たちですね。小西信之とか長谷川祐子が最初でしょうか。石井太、山村仁志、上田高弘たちもいました。その時に川俣(正)とか佐川晃司とか何人かいましたね。中村一美はもう助手をやっていたか。

加治屋:川俣さんは『みづゑ』で対談なさっていますよね。

藤枝:ああいう連載は、人がいなくなっちゃうんです。誰か見つけないといけないので、川俣の個展の案内状を見て企画したんですね。彼の場合、サイト・スペシフィックですから、作品がないということで、模型を見に彼の立川のアトリエに行ったことがあります。本物を見ていないと言っていちゃもんをつけたのが千葉成夫と『読売新聞』です。自分がいいと思ったら、作品をどんどん取り上げればいいんですけどね。今でも新人を見つけたいと思っているんですけれども、難しいですね。画廊をしょっちゅうまわっていないといけないし。芸大は現代美術をやりたいという意欲のある人がいたから、やりやすかったというか、快適だったですね。もっと内容を深めればよかったと思っていますけれども。僕は、授業の用意はほとんどしたことがないんです。即興ですから、書いていないと深いことが言えない時があるんですね。

足立:具体的には、どのような内容の授業だったんですか。

藤枝:スライドはある程度用意しますけれども、現状が多かったですね。一つはアメリカ美術が中心の近現代美術です。あまりマネとかについてはしゃべりませんでしたが、モダニズムがいいとか悪いとかうるさくなってきてから、より意識してマネについて話すようになりました。メトロポリタンでいいマネの展覧会をやっていました。非常に大規模な展覧会でした(注:Manet, 1832–1883. New York: The Metropolitan Museum of Art, 1983)。

加治屋:ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)なんかの作品もご覧になりましたか。

藤枝:ジェフ・クーンズは、本当に場末というか、ソーホーの外れに展示場があって、掃除機と、たばこの広告を飾っていました。それが最初じゃないでしょうか。70年代の終わりです。明快な作品でした。あんなに出てくるとは思わなかったですけれども。あれはよく覚えています。ジェフ・クーンズと分からずに写真を撮りました。ボロフスキー(Jonathan Borofsky)もそういうところでやっていて、壁に絵と文字をかいていた。

加治屋:それも授業でお見せになったんですか。

藤枝:見せました。

加治屋:武蔵美の方も西洋美術の通史を教えられていたんですか。

藤枝:ちょっとやったことがあったんですけれども。それは後任が来たのでやめました。通史というものはある程度は勉強になりますね。もちろん、それだけでは満足しませんけども。

加治屋:現代のことを教えてらっしゃったんですか。

藤枝:そちらが中心でした。数がすごく多かったんですけれども、だんだん減ってきました。ニュー・ペインティングと言われるものを批判して以来。

加治屋・足立:今日は本当に長い間ありがとうございました。