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池田龍雄オーラル・ヒストリー 2009年2月19日

練馬区関町、池田龍雄自宅にて
インタヴュアー:西澤晴美、坂上しのぶ
書き起こし:坂上しのぶ
公開日:2009年6月1日
 

西澤:読売新聞の記事を持ってきました。ご存知ないかもしれないけれど……

池田:52年の読売新聞ですか。

西澤:そうです。実験工房なんかと一緒にNONについて書いてあります。

池田:アンデパンダンに出したときの記事ですね。岡本太郎の絵の事が書いてありますね。これは都庁に入れた作品の事ですね、《太陽のモザイク》(1952年)っていう作品です。1952年に都庁が建ったのかな。この頃、丹下健三、土門拳、勅使河原蒼風、亀倉雄策なんかが、みな太郎の仲間みたいな感じでしたよ。丹下健三が都庁を作ってますから、それで太郎は丹下から頼まれたんだと思います。
瀧口さんのコメントが書いてありますね。アンパンに「NON」が出した時です。相当あれは大きい作品でした。「制作の方法は面白いが結果は素材主義になった」って書いてありますね。

西澤:そこに書いてある素材主義というのはどういう事であったのでしょうか。

池田:これはわからないです。

西澤:作品は残っていないんですよね。

池田:もちろんです。あれは7人でお金を出し合って300号のキャンバスを買って、終わったらみんなでバラバラに切って、一人ずつ分けてしまった。300号って大きいですけどね。それを7人で分けたからそんな広い面積じゃないですね。僕はその古キャンバスに何を描いたか忘れちゃった。
そして更にその頃は、二重三重に絵を塗りつぶして、その上に絵を描いてっていう事をやってるからねえ。当時、油絵を描いていたけれど、置き場所も無いという事もあって。だから点数が非常に少ない。一番最初に《実験室》ってタイトルをつけて、「モダンアート展」という展覧会に出した作品も残っていないんです。それから多摩美で0点をもらった記念すべき作品、僕の頭の中にはどんな絵であったかもはっきり覚えているんですけど作品は残ってない。それもどこかの別の作品になってしまったんでしょうね。捨てた記憶はないですから。
この新聞は、僕たちの作品を瀧口さんに「どうですか」って、批評を請うたわけです。瀧口さんがぼそぼそと何か言っていたのは覚えているんですが、何を言ったのかは覚えていない。新聞には方法は面白いなと書いてありますね。印象には残ったんですね。一緒に書かれている実験工房の《ヴィトリーヌ》っていう、これは瀧口さんの命名です。実験工房という名前もそうです。
瀧口さんとの付き合いは49年のモダンアート展からです。アヴァンギャルド美術家クラブというのが出来て、そこには批評家としては植村鷹千代とか瀧口修造、江川和彦もいたと思います。そこの展覧会で知り合っている。瀧口さんの本はその前から、東京に来て間もなくの頃、アヴァンギャルドになった頃、49年の1月かその前か位ではっきりしないんですが、神田の古本屋に行ったっていう記述が日記の中にありまして、それが49年の冬です。その頃に『近代芸術』を買ったような気がするんですね。東京に来る前から、オザンファン・ジャンヌレ共著の『新しき芸術』という本を読んでいました。
僕は、芸術関係の本を読むというところから入っているんですよね。多摩美に入るのに、実技なんか殆ど勉強していないんです。その頃は受けた人は全員入るような状態だったから助かったんですけども。まともに石膏デッサンをやった事もないですね。水彩でよく風景のスケッチはしていました。それと油絵の勉強で自画像を描いた。そういう状態で試験を受けて、ほとんど全員入ったから僕も入ったって事なんですけどもね。だからまともに石膏デッサンしていなくて。学校に入ってからは一週間に一回の提出でした。一ヶ月か二ヶ月近くはまともに学校に通っていましたから、4月に始まって6月末くらいか7月のはじめくらいくらいまでですね。
日記の中に九州に帰る友人たちを見送った事が書いてあります。そしで僕だけ残る。アルバイトのために。夏休みに入るのが早かったんです。新学期、後期が9月の半ばからだから2ヶ月たっぷり夏休みがあるんです。その間石膏デッサンを何枚描いたかなあ。もちろん学校に提出してしまったので一枚も残っていません。
あとはお金の事ね。学校に入った頃は印象派的なものを描いていました。油絵も授業以外に描いていた。覚えているのは、近くに農家があってね、モネの睡蓮じゃないけど池に睡蓮が浮いていたんですよ、それもたくさんじゃなくて一輪か二輪浮いていたのを描いた記憶がありまして、それをお金に代えているんです。売ったんです。
ずっと後になって、その人の家に、10年近くたってからかな、行ったんです。買ってくれた人の家は永福町にありました。そしたらちゃんと壁にかけてありましてね。それを見て、自分でもそれなりにちゃんとしたものを描いていたなあって思いました。
その人は2点買ってくれていたんです。『夢・現・記』にも書いているけど、夏休みに僕はバイトもできない状態、病気になっちゃって。金がなくなった。少し稼いだアルバイトのお金も治療費にすべて使ってしまいました。行ったのは岡本かの子の実家の病院です。大貫病院。お金はすべて医療費にとられてしまい、その後もバイトをやったんだけど結局は病気は直らないまま、急性腸カタルが慢性になった状態になってしまって、仕事はほとんどできない状態になってしまったんです。それが8月の半ばだったと思います。その時叔父が永福町にいたんですよ。叔父が勤めていたのは生薬会社で、漢方の原料を輸入する小さな会社でしたが、そこの社宅に住んでいたんです。僕は東京に来た時その社宅に転がりこんで、一ヶ月くらい居候してました。叔父が住んでいる社宅の同じ敷地内に支店長の家がありましてね。その支店長に作品を買ってもらったんです。叔父からもお金を借りていたんですが、叔父が「絵を支店長に買ってもらったらどうだ」って言ってね。2点だけ買ってもらったんですが、そのうちの1点が睡蓮でした。8号かそこらの大きさでした。

西澤:その時その絵は一体どのくらいの値段で売れたんですか。

池田:よく覚えてないです。とにかく1月かそこら暮らせるくらいのお金か、それ以上位もらったと思いますよ。きっとね。それで切り抜けたわけです。けれどそれでは生活はもたないから、10月になってから新聞広告で知った東京デザイン会社っていうところに勤め始めました。会社は8畳くらいの部屋に机が並んでいて、3〜4人のデザイナーが働いていて、事務も含めて5〜6人の会社でした。そういう仕事をやって稼ぎました。
その時期の日記がね、10月頃からのが抜けているんです。その間にアヴァンギャルド研究会に入っているんですが。いつ、研究会に顔を出したのかは覚えてないんです。その後については大体は『夢・現・記』を読んでもらえばわかります。

西澤:前回のインタビューでは、54年の養精堂画廊の個展(1954年8月2日〜7日)の頃までをお伺いしました。今日は制作者懇談会の事から始めようかと思っています。

池田:制作者懇談会(1955年4月結成)というものを作った経緯というのは、まず個展が54年にあって、その前の年に青年美術家連合、つまり青美連というのを作ったんです。その頃だったと思うんですが熊谷光之っていうのと知り合うんです。彼は知り合った途端にうちにやってくるようになって仲良くなっていったんですけどね。「粕三平」と後になってそういうペンネームを使うようになりました。粕というのもわざと自虐的に、というか、自分を笑うように茶化すようにしてつけてるし、三平っていうのも何となくチンピラみたいな名前でしょう、わざとそういう名前をつけて、自分は粕の三平だって。ようするに偉ぶりたくないっていう、そういう逆な考えだったんです。
それが、阿部公房の芝居を……55年にやった『制服』を。彼と一緒にそれを見に行きました。場所は飛行館という新橋の近くにあったホール。そこを出てから、近くの喫茶店に入ってね、粕君が言い出したんですよ、「僕らもひとつ研究会をつくろうじゃないの」って。(注:『夢・現・記』では3月20日に『制服』を見に行ったあとにこの話が切り出されたとある。)総合的な研究会ということで、美術だけじゃなくて、そして最終的には「映画を作ろうじゃないか」と。だから映画部ですね。演劇、音楽、文学は井上成一郎って英文学をやってるその一人だけだったかな、そういうメンバーで。美術はそれぞれ僕が呼びかけてね。河原温や吉仲太造にも呼びかけました。吉仲は入ってこなかった。それから前田常作。それから前田君なんかと同じ頃に知った石橋和美、それから僕の個展のあとに2人展をやってる島村潔、石井茂雄を誘って。それから芥川紗織、数年前から付き合いがあった写真の奈良原一高、これも僕が声をかけて入ってもらった。そういう陣営でした。(注:美術〜石井茂雄、飯田善国、河原温、島村潔、芥川沙織、石橋和美、前田常作。写真:奈良原一高。映画:粕三平、羽仁進、佐藤忠男、吉原順平、神田貞三、藤久真彦、真杉龍彦、新藤兼次郎、山際永三。演劇〜田畑慶吉、吉沢京夫。文学:井上成一郎、色川大吉など。)それと中原佑介ね、その頃彼は東京に出てきていて。その前から会っていたから、制作者懇談会を作るからって言って、新宿の喫茶店で会ったんですが、その頃阿部公房たちは、花田清輝らと共に「記録芸術の会」っていうのを作っていて、そこには関根弘、勅使河原宏とか入っていましたからね、中原佑介は「そっちの方にいくよ」とか言って、制作者懇談会の方には入ってこなかったんです。

坂上:中原さんは他の評論家に比べると、あまり作家にコミットしない面がありますよね。

池田:そうですね、比較的距離を置く。まあ批評家っていうのはそうですよ。比較的距離を置く。作家と癒着してると思われても嫌だろうから。でも最初の頃は僕なんかとかなり親しい状態でしたよ。『美術批評』の懸賞論文の第一回目の54年は東野芳明が一席で、その翌年の二回目が中原佑介が一席です。それを読んで僕はたいへん感心してね。彼に会ってみようって思って大阪に行ったんです。もちろん他に用事もつくってね。彼の住所だけを頼りに探して。訪ねたらお母さんが出て来ましてね、「あら、昨日、東京に行きました」って言われて。すれ違ってしまった。

坂上:タケミヤ画廊やサトウ画廊には当時からよく顔を出されていたようですよね。

池田:その頃の彼は非常に岡本太郎に関心を持っていたんです。賞をもらった次の文章が岡本太郎論なんですよ。賞をもらった論文は「創造のための批評」。つまり、作品の批評を通して、芸術を変えるという観点です。変革するという意識、変えるための批評というか、そういう観点からの評論です。それで僕は会いに行ったのです。しかしそういう事ですれちがったんで、東京に出てきてからしばらくは頻繁に会う状態にあったんですよ。

西澤:制作者懇談会の活動なんですけど、最初のころは主に例会が中心だったようですね。講演会みたいなかんじか、もしくは報告者が何かを提議しその後に話し合いというような感じだったんですか。

池田:そうです。場所をいろんな所に移して。喫茶店でやる事もあったし、それからどこかちょっとした会場を借りたりね。だって全員集まると20人かそこらいましたからね。広い所が必要でした。その都度会場を変えて開いてました。とにかくすぐに実行できるのは先ず展覧会だということで、そして最終的に映画を作ろうという申し合わせはあったけど、実現はなかなか難しい。

西澤:展覧会にしても制作者懇談会の場合は面白いことに常に地方ですね。

池田:地方でやる事を申し合わせたんです。それは啓蒙という意識もちょっとあった。現代美術、いわゆるアヴァンギャルドといわれるものは殆ど一般の人には無縁な感じだったんです。わからないって敬遠されてるから、できるだけ訴えかける、そういう人達に訴えるつもりで、自分たちでお金を出しあって展覧会をやっていたんですよ。だって展覧会の場合は入場料を取らないわけですからね。芝居だったらドサまわりをやって入場料を取ることもできるけど、展覧会はとらないから作家負担。会場の交渉は熊谷君でした。
粕三平君は福岡の出身で小倉の図書館に彼はコネがあって、先ずはその図書館を借りましたね。会議室みたいなものだったと思うけれど、そういうところに並べたんです。数人が作品を小脇に抱えて持っていくんですよ。だから大きな作品は持ち込めないんですけどね、そういう形でやりました。
僕はそこへ行って、そのときに炭鉱の話を版画に描いた人と知り合いになったんです。上野英信の『せんぷりせんじが笑った!』っていう作品を版画の絵本にした炭坑の坑夫さん。名前は千田梅二っていうんです。坑夫で尚且つ版画をやっていて、その人が見に来てくれてね。それで彼が住んでいる炭鉱の納屋っていうんですけどね、工夫が住んでいる納屋に泊まった事があります。そのときね、僕が並べていた作品が《ボタ山》(1954年)っていう、人間の骨がボタ山になって積み重なっている絵。それを見て彼が言ったんです。「坑夫にはこういう風にはボタ山は見えませんよ」と。それはそうですね。しかしボタ山ってのは坑夫の血と汗を搾り取って出来上がったものだと僕は思ってたから。
坑夫である彼は素朴に、炭坑夫の姿を木版画で描いてるんです。要するに労働者画家っていうか、労働しながら、趣味で版画をしているわけじゃなくて、一生懸命描いてる。そういう当事者の眼で見るボタ山と、僕が見る、画家として見るボタ山とは全く違うんだっていうこと、両者の眼は一致しないということがわかった。この溝は埋まらない。仕方ないって。こっちは労働者の味方みたいな気持ちになっていても、労働者自体にはなれないんですからね。

西澤:小倉の次に大分県に行って……

池田:それは僕の個展(55年4月)のことですね。僕の個展を大分の木村成敏という人が―、彼は僕の54年の最初の個展を見て、作品を買ってくれているんです。その時に、彼から、うちで展覧会をやってくれっていう話がすでに出てきていたんです。その約束があったので、僕は田舎へ帰ったとき(55年3月〜4月にかけて)に、伊万里から大分に行きました。同じ九州の中で10数時間もかけて旅をして。その時、大分駅に迎えにきていたのが吉村益信です。後でネオダダの中心人物というか篠原有司男と二人でネオダダをオルガナイザーした人ですね。彼は武蔵美を卒業したばかりで、大分に帰って来ていたんです。だから4月です(4月4日)。桜が咲いていたのを覚えてます。何か話をしてくれと木村成敏に言われて行ったんです。
その後、東京に帰ってから制作者懇談会の話があったと思いますよ。制作者懇談会を作る話がね。

西澤:制作者懇談会は55年からですね。

池田:東京へ帰って間もなくの頃にね、安部公房の芝居を見て、制作者懇談会を作ろうじゃないかって話になったんですよ。たしか6月には最初の会報みたいなのを出してます。

西澤:例会の日程は55年の5月っていうのが一番早いようです。

池田:ですから4月10日前にはもう東京に帰ってるんです。

西澤:制作者懇談会には地方の啓蒙っていう意図があったとおっしゃってますが、地方のグループとの交流もかなりありますね。大阪に「極」ってグループがあってそことも合同展をしてますね(56年10月)。

池田:阪急デパートの画廊ですね。それから57年が最後で富山でやってます。たしか、いけばな関係のグループで、前田常作君の友達がいて、それと一緒にやってます。

西澤:「極」とはその以前から交流があったんですか

池田:多分あったはずです。それがないと。いきなりじゃあ。

坂上:1956年の京都での第二回アンデパンダンに東京から制作者懇談会が作品を出してきていて、極なんかも出してますからその時に結構関西のグループと交流を持たれたのではないですか?

池田:たぶんそうです。その京都のアンデパンダンに僕は目玉をたくさん描いた《巨人》という題名の絵を出したんです。それがね、そんな大きな絵じゃなかったのに、展覧会終了後ふたつに折って送り返してきたから驚いちゃってね。その後一生懸命折り目を直したけど、折り目って一度ついたら直らないですよ。なんたることだと思いました。

坂上:たしか「極」が村松画廊あたりで展覧会を一回やってます。その時池田さんが見にこられて話をした記憶があるということを極の久保晃さんから聞きました。

池田:極は片山明弘、久保晃、河野芳夫、小林二郎ですね。車を運転するようになった63年か64年だったと思いますが、大阪まで車で行った事があります。行きは松本俊夫なんかも一緒に行ったんです。そしてその帰りに極の久保さんのところに泊まった。いや、泊まらないや、泊まらないで帰ったんだ、夜中に。「これから帰る」って僕が言い出したら、「ここは銀座じゃないんだよ」って久保さんが言ったのを覚えてますよ。ですからもうたしか12時過ぎでね。しかも飲んでいたはずですよ。もう一人、僕と一緒に。僕が車の運転を習ったベテランが一緒にいたんです。僕と女房と松本俊夫と彼と。そういう状態で大阪に行きました。彼は西原っていうんですけど、以前自動車練習所の指導員をやっていて、僕はそこに習いに行って、彼と仲良くなっていたもんですから、大阪に行くって言って、彼と僕とで交替で運転をしたんです。だからその時は彼が運転をしたんです。そうだ。夜中ずっと走っていてね。ようやく名古屋辺りで夜が明けた気がするな。
何度か久保さんも東京に出てきたときがあって、そんな時はいつも会っていたけど、しかし随分会ってないですね。片山昭弘とか小林二郎とか、比較的最近、それも7〜8年前かな、会ったっきりですけどね。

西澤:ということは関西との交流が結構あったってことですね。

池田:そうです。しかし、「極」のメンバーとだけ。それと新潟。新潟はその時期、佐藤忠男がいたんです。新発田に。たしか彼のつてで場所を借りました。

西澤:小名浜はどうやったんですか。

池田:新藤兼っていうのが小名浜に。今のいわき市ですね。あの頃は新藤兼次郎って名のっていたけど、その後、新藤謙になった。彼もずっと最初から映画批評みたいな事をやっていて、その彼が小名浜の方で郵便局につとめていたのかな。浜辺にね、小さな漁港に猟師の組合みたいな集会所みたいなのが波止場のすぐそばにあって、そこでやりました。下駄をぬいで。床があってね、木の床でしたね。そのまわりに木の壁があって、そこに並べた記憶があります。なお、新藤謙君とは、彼の著書の装丁なんかで、現在も交友が続いています。
地方でやる展覧会に常に僕は行っています。全員は行ってないけど数人で皆の作品を持っていった。

坂上:池田さん、河原温さんはよくいっていたようですね。

池田:そうですね。河原温は大体来てましたね。彼は実家が金持ちですからね。ゆとりがあったのでしょう。名古屋です。

坂上:ちなみに赤瀬川さんも名古屋ですね。

池田:彼はお父さんの都合で転々としてるんですね。大分で僕が個展をやったとき、「新世紀群グループ」の木村成敏が画材屋兼喫茶店をやっていて、みんなでそこに研究会みたいにして、ヌードデッサンなんかをしていたらしくて、そこにちょいちょい彼は遊びにきていたみたいです。
その後彼は風倉なんかと同じ頃に、武蔵美に入るんです。それで赤瀬川君は体を壊すんです。胃潰瘍か何かかな。その時は名古屋にいたらしいんですね。吉村益信は大分の頃の赤瀬川君を知ってるし、吉村も武蔵美ですからね、一緒にやろうって言ってネオダダに彼が勧誘したそうですよ。

坂上:ちなみに荒川修作さんも名古屋ですね。

池田:それがおかしなことに河原温と出身地が近いんですよ。刈谷。荒川修作も刈谷で、非常に似てますね。気質と言うか性格というか。生き方。非常に計画的に生きてるってところが……
反対に九州は大雑把なんです。かなりパッショネートですけどね。
それから作品を発表する戦略もあるらしくて、僕が彼(河原温)のところに行った時、制作中だった。それで僕がそれを見て「これはアンデパンダンに出すの」って聞いたらね、「いや、これはアンデパンダンじゃなくて何とかって言う展覧会。そっちに出すんだ」って。ちゃんと絵を出す場所も効果も考えていたようです。

坂上:タイミングや周りの状況もかなり神経を使って見ていらしたようですね。

池田:実に卒のないやりかたをやると、そのとき、そう思った。
彼は53年のニッポン展(6月22日〜7月4日)というところに、《浴室》シリーズを24点出しますね。鉛筆画です。それを24点だったか担ぎ込んで来て、これで1点だと言い張ったっていうんです。(注:実際の《浴室》シリーズは全28点。このニッポン展には16点出品との記録もある。)その時の出品料は一点がたしか300円だったと思います。そして一点増すごとに100円追加っていう規定だったと思います。
これは受付から後で聞いた話ですがね。受付は女性に頼んでいて。そこへ河原温が24点持ち込んで、これはシリーズだから一点だって言い張る。受付の女の子は困ってね、桂川寛に言ったっていうんですね。それで交渉になって。最後に河原温が折れまして、一点追加で二点分。でもいくらなんでも24点並べると、それで10人分くらいの壁面を占めてしまうんですからね。それを一点追加ということで二点分で収めてしまって。そこまで喧々諤々で押し問答して、やっと折れたっていうんですよ。そういう場合でも、断じて自分の考えを曲げようとはしない。他にもいっぱいありますよ。それに類することは。でも、そういうエピソードの方が面白いでしょう。表舞台には隠されている部分ですからね。

西澤:制作者懇談会に話を戻しますと、映画を製作したいという気持ちは……

池田:そうです。ずっとありました。

西澤:でもやはりお金がなくて……

池田:そうです。実現しなかったということで。(注:ただし、67年に一部のメンバーで映画『怨霊伝』を制作。)そのうち演劇部の田畑慶吉君がね、集団劇場というのをつくりましたね。

西澤:それで池田さんと河原温さんと石井茂雄さんが舞台美術を……

池田:最初は石井茂雄がやってますね。「けつまづいてもころんでも」っていうのを最初にやったんですよ。

西澤:河原温さんは舞台美術に興味がおありだったようですが、石井茂雄さんもそうだったんですか?

池田:石井君、彼は文学青年でしてね。河原温と同じ年か一つ若いか位ですが、ものすごくませていて、ジャン・ジュネを読んでいて、「ジュネがこう言っている」なんて良く話してました。それと、ニヒルな感じがあってね。冷たく、斜めに人を見る感じで。小児喘息で時々咳をしながらね。

西澤:割と早く亡くなってしまってますね。

池田:28歳かな。もっと前かな。独身のままですよ。童貞のまま死んだんじゃないかって皆言ってましたね。かわいそうです。彼も豊かな家でね、高円寺の立派な家でしたよ。喘息だから薬を飲んだりしているんだけど、風邪をひいていて風邪薬飲んでいて、寝て、いつまでたっても起きてこないから、寝室は二階にあって。そしたらベッドの上で死んでいたって話です。前の晩は遅くまで彼は仕事をしてたらしいんですよ。それで薬を飲んで寝て。それが原因か、喘息の発作か。お母さんが知らないうちに。彼も助けを求められる状態じゃないままで死んだんでしょうね。お母さんが起こしに行ったらベッドの中で死んでいたって。だから本人も死んだって事を知らないんじゃないかな。死に方としては七転八倒して死んだんじゃないからいいかもしれないですけどね。
彼はエッチングをやり始めていて、それも体には悪かったんじゃないかな。有毒ガスが出るでしょう、硝酸を使うから、かなり刺激的なガスが出る。喘息の上にそれだから余計悪かったかもしれないですね。彼は芝居の脚本も書いてるんだってそんな事も言っていました。ラジオドラマの脚本を書いているって。文学青年ですよ。だけどどういう脚本か知らないまま、ついに……

西澤:やっぱり制作者懇談会は映画の人もいるし、そういう方向に興味のある人が多かったんですね。

池田:ジャンルをまたがっているという考え方においてもね、かなりいました。

西澤:集団劇場というのは公演はそんなに多くやっていないようですが。

池田:やってないです。田畑君はそんなに。たしか人間座はそのうちに江田和雄君がつくったんです。彼は制作者懇談会に出入りしてたんです。人間座の旗揚げの舞台装置を河原温がしています。ものすごく手の込んだ装置をつくってますよ。

西澤:『からす』っていう。

池田:そう、『からす』っていう。その前にね、彼は家出をして、アパートに入るんですよね。赤坂の何とかアパートっていう怪しげな。

西澤:土方巽が住んでいたという。

池田:そう。でも、住んでいたのではなくて、そこにいる金森馨のところに、ちょいちょい遊びに来ていたようです。表の壁は緑色が塗ってあって中はピンク色。変なアパートで、聞くところによると、少し前まで進駐軍が連れ込み宿に使っていたって。

西澤:赤い絨毯が敷いてあったとか。

池田:赤い絨毯は敷いてなかったと思うけど、あやしげなアパートでした。そこへ河原温は越してきたわけです。さっき言ったように彼はアトリエを持っていたでしょう。だから家出です。ある時、「池田さん、家出するにはどうしたらいいですかねえ」なんて言うので、僕は「布団を担いで出るしかないでしょう」って言ったらほんとに家出した。

西澤:河原さんも舞台の仕事していて。河原さんが装置をつくった『日本の幽霊』を寺山修司さんが見て、おもしろかったっていうことでしたよね。

池田:そうそう。丹念に作ってました。ピラミッド状の角錐を一面にはりつけて。全体がグレーの色でね。ものすごく手の込んだ装置です。

西澤:寺山修司さんと河原温さんは友達だったみたいですね。

池田:僕も寺山修司とは交流がありましたよ。

西澤:そうですね。人間座の『吸血鬼の研究』(草月ホール、1965年)というのは寺山さんの作品です。

池田:あれは僕が(舞台美術を)やってます。

西澤:いつ頃お知り合いになられたのですか?

池田:その頃です。寺山修司の仕事(短歌)は、もっと前から知っていたけど。

西澤:『ひかりごけ』の装置は河原温さんの絵を見て金森さんが作ったって聞きました。河原温の浴室シリーズに着想を得たという事を。

池田:そうかもしれない。あれは市松模様みたいな奥行きのある感じでしたね。彼が赤坂のところにいったのは、その前から知っていたのかな。とにかく金森と河原は赤坂で同じアパートだったんですよ。僕もよく金森なんかの部屋に行ったりね。金森の部屋で土方巽と知り合ったのかもしれないですね。

西澤:『吸血鬼の研究』は、寺山氏からこういうふうにしてくれとか要望はあったですか。

池田:仮面劇にしたいっていうのは打ち合わせのときに聞いてます。仮面劇にしたいから仮面つくってくれって。仮面劇にしたのは寺山の意向です。舞台は草月会館ですから狭いしね、装置らしい装置はできないですよ。幅はそれなりにあるけど奥行きは5メートルくらいだったしね。袖もほとんどないですから。

西澤:草月会館の事少しお伺いしたいですが、安部公房もたびたびやったりしてますし。

池田:勅使河原宏と親しかったから当然です。草月会館が出来る前は草月の教場は三田の普通の瓦屋根の家で、いけばな草月の編集部もそこにあって、楢崎さんっていう女性が編集者で。編集長は勅使河原宏になってましたけどね。僕もそこに頼まれてカットとか描いたりしていたので、何度か行ってますね。
その時、僕の記憶では蒼風さんが、「近いうちに草月会館を青山に建てるから、そこの壁画をやってくれないですか」と言われてね。僕はその頃お金がないから、壁画をやれば少しは金になるだろうと思って。大いに期待してたんです。そしたら草月会館が建った頃にアンフォルメルがワーッとでてきてね。56年11月の「世界・今日の美術展」に、そのあたまがちょっと出てきた感じで、サム・フランシス(Sam Francis)とかフォートリエ(Jean Fautrier)とか。フォートリエもアンフォルメルに入ってるんですけどね。作品がとっても衝撃的だったのを覚えてます。サム・フランシスが真っ白のキャンバスのままで、何も描いてないじゃないかと思ったのを覚えている。こういうのがアンフォルメルだって聞いて、それが56年11月で、それから翌年57年になるとアンフォルメル攻勢というか、タピエ(Mitchel Tapie)、マチュー(Georges Mathieu)がやってきてね。マチューが白木屋かな、日本橋のね、赤瀬川原平とか篠原有司男も見に行っている。僕は写真で見たけど、マチューが襷がけで、ゆかたを着て、ショーウィンドーの中で、バケツの中に絵具をといて、ばっばっばーってねえ。それがアンフォルメルなんですね。2時間くらいで巨大な作品を仕上げてしまう。だって溶かした絵具をぶちまけてるんですからね、簡単にできるでしょう。その一点が草月会館に左側かな、右側がサム・フランシス。つまり蒼風さん、僕なんかに壁画うんぬんということを言いながら、2〜3年後にアンフォルメルが出てくると、あっさりそっちに切り替えてしまった。
僕のところにはね、「草月会館のパンフレットをつくるから、その中にイラストを描いてくれ」って。漫画風なイラストを描く仕事をもらいました。

西澤:では『吸血鬼の研究』の出来る前から草月との交流はあったんですね。

池田:そうです。宏さんと安部公房とは、「世紀の会」に宏さんが入ってきた頃からです。彼が入ってきたのは、50年の2月にアンデパンダンがあって、その少し前かあとです。「世紀の会」っていうのは49年5月に発足したわけですね。50年の2月くらいに勅使河原宏は入ってくる。僕は50年5月にやめたといって抜けだしてね。勅使河原宏が入って3ヶ月くらいしかたってないころに辞めてます。それで勅使河原宏は残ったし桂川寛も残ったんです。
その後一年、安部公房が人民芸術集団つくったから入らないかということで僕が入って、また再び阿部公房らと付き合いがはじまるんですね。勅使河原宏はその頃結婚したばかりで西荻に家があってね、スピッツがいました。キャンキャン吼える犬でしたね(笑)。そこでよく会合をしました。
人民芸術集団って芸術運動じゃなかった。ブタペストで世界平和友好祭っていうのが開かれるから、その代表を送ろうというような運動だった。結局代表は送れないままだったんですが。そういう形で安部公房と勅使河原宏とは仲が良かった。勅使河原は草月の御曹司で、映画も撮り始める。そして安部公房の小説の映画化をやります。安部公房作品の映画化はほとんどが勅使河原でしょう。そういう関係ですよ。
勅使河原はすでに「青美連」の頃、『北斎』っていう映画をつくってるんですよ。彼のその一員であった「青年プロダクション」で。

西澤:そのとき瀧口修造ともめました。

池田:瀧口さんが用意していたシナリオをそのまま事後承諾の形でつかったから、瀧口さんが怒って。その時瀧口さんと親しくなっていた武満徹が『美術批評』に攻撃的にその映画について書いてましたね、非難した文章を。
その後では、勅使河原の映画に武満さんが音楽をつけてます。『おとし穴』です。中々いい映画で。おそらく、もうその時期には和解してたんでしょう、瀧口さんとは。

西澤:草月会館ですとそういった…安部公房もそうですし武満徹も入ったり、中原佑介も企画したりして、当時の「ジャンルを超えた総合的な文化の場みたいな形であった」と、今はそういう風に言われてますけど、池田さんの感想としてはどうですか。草月の舞台はよく見に行かれたりされてましたか。

池田:草月はよく見に行ってますね。

西澤:どういった印象をお持ちでしたか。

池田:草月会館はひとつの場所。いろんな芸術のジャンルが交流する場所として非常に重要な役割を果たしてますね。舞台そのものは、ホールといっても300人位しか入らないから小さいけれど、実験的な、大劇場では採算があわないような催しをそこでやっていたわけですから。実験映画もそこでたくさんやってますね。僕が最初に『戦艦ポチョムキン』を見たのもそこじゃないかな。幻の映画で、中身も知ってましたけどね。それからアニメーション3人の会の上映などもそこで。僕は草月ホールで発行している『SACジャーナル』に何回も文章を書いてます。

西澤:その中で印象的だったのが「空想劇場」という文章です。機械仕掛けの舞台装置が舞台の主役になって動き回る、というような内容でした。

池田:そういう構想を考えたんですよ。「舞台実験室」っていうのを金森の提唱でつくるでしょ。研究会をやっていて、そういう中で僕が考えたことを『SACジャーナル』に「空想劇場」ということで書いたんですね。空想してたんですよ。実現は不可能だから、たとえば椅子が勝手に動きだしたりね。要するに「もの」が人間の代わりに主役になって舞台装置そのものが主役になるんです。舞台装置って役者の演技を支えるための補助的な役割をはたしていて、挿絵的な役割を果たしている。そうではなくってね、装置そのものが主役である舞台ね、たとえば椅子が動き回ったりいろんなドラマを装置そのものが演じる、そういう舞台。これは空想でしかないですよね。今だったら金をかければ、またはロボットの技術も発達しているから、実現可能かもしれないけれど、当時はそのような空想的技術の観念的舞台装置を考えていて。(注:この考えは、後年、1999年に『三面狂』(戸村孝子企画・池田龍雄・加藤義郎参加)と題した美術の舞台で、まがりなりにも実現した。)

西澤:非常に面白いと思ったのは、具体の吉原治良というリーダーの人も舞台美術をしてたんですが、彼も文章の中で、舞台美術っていうのは非常に演劇に従属的なものだけれども、舞台美術が主役の舞台をやりたいって書いていて。
具体のそのものもパフォーマンスを57年と58年に「舞台を使用する具体美術」というのを大阪でやって、東京でも57年にサンケイホールでやっていて、そういう意識があったんだなって。

池田:実験工房も『月に憑かれたピエロ』っていう、舞台に使う美術っていうか、意識としては、舞台を主役にするという考えではなかったと思いますけど、でもあれはやはり舞台装置でしょうね。
あくまでも僕が考えたのは、舞台そのものが、――人間は登場しなくて、装置そのものが舞台であるという考えがあったんです。もちろん実現は不可能という事で空想しているだけだったんですよ。実はそれは、64年に読書新聞に連載した「迷宮建築」の発想にもつながっているんですが。

西澤:いろんな舞台を見る機会があって、逆に池田さんご自身が舞台に出たいという気持ちはわかなかったですか?

池田:それはありましたよ。

西澤:もっと後ですが、梵天の塔のようなパフォーマンスをやるじゃないですか。そのパフォーマンスが少し演劇的というか、お芝居をみているような感じも受けたので、もしかしたら池田さん自身がそういうふうに演技をやりたいという気持ちがあったのかなと。

池田:僕はずっと映画監督になりたいという、絵じゃなくてドラマなどにずっと興味を持っていたんですね。それは小さいときからそうでした。一方で物理なんかに関心を持つんだけど。
考えて見ると、僕は作り話が好きだというところがあって、小学校の頃、僕の弟達に童話みたいなものを即興的に作って、話した事を覚えてます。作り話をして面白がってました。
芝居を一番最初にやったのは4年生でした。僕はクラスの級長をやってたせいか。先生が、学芸会は一切お前に任せるから、自分で芝居を考えて自分で演出をやれっていってね。まかされたんです。その時僕は、かなりふざけた、滑稽な、つまり何とか村の山賊退治というのをやったんです。僕自身が村長になるんですけどね。演出・出演・簡単な筋書きを書いて、できるだけたくさん、その時同級生が37人だったんですが、「あと10人で四十七士だな」って言っていたの覚えてますから。全員出演です、学芸会だからね。山賊が出るんです。一網打尽っていうか山賊を全部退治してしまう筋書き、ヤマタノオロチみたいなもので、山賊がやってくると、お酒飲ませてどうぞどうぞっていってね、子供たちが飲むマネをしてよっぱらって寝たりとかして、皆ふん縛る、というそんな滑稽なのをやってたんですよ、台詞も適当でしたよ。お芝居的なものも好きだったんですね。もともと。
本当は映画も作りたかったけど金がないからつくれない。百仮面のシリーズをやってますよね。あの頃僕はアニメーションを作りたかったんですよ。何もない白い空間に、仮面がワーッと現れるというような。アニメって1秒24駒必要ですからね。手元にアニメ台がないと、とても実現は不可能と思ってあきらめました。
ところがある時、松本俊夫が…… 僕がここ(練馬)に移ってきた翌年だから、69年。彼は以前、百仮面を映画にしたいって言ってたんですよ、『薔薇の葬列』という映画で百仮面を使いたいと言うからどうぞって言って貸したんです。そのとき僕にも出演してくれって言われて、最初は断ったけど、シナリオにもう書き込んであるから逃れられないぞといわれて。それで仕方ないから髭を生やし始めてね。だけど髭を生やしはじめて間もなくのとき、みっともない無精ひげ状態のときにですよ、撮影だっていうんです。
 観世栄夫っているでしょう。彼とは学生のときからの付き合いです。学生のときから彼は、「能を前衛にするんだ」って言っていたんですよ。「伝統に縛られていて駄目なんだ」って言っていて。学生だからそう考えるんですかね。

西澤:50年代くらいですか。

池田:50年代の半ばですね。はっきり彼と初めて話したのが池袋の喫茶店だったことを覚えてますよ。その場所まで。

西澤:どうしてお会いになったんですか。

池田:それが経緯は良く覚えていないですけど、――そうだ、熊谷君と一緒でした。そういうことがあって、池袋の喫茶店で会おうといって会って話したとき、彼はまだ学生だったと思います。

西澤:栄夫さんの兄の観世寿夫さんは、実験工房の参加した『月に憑かれたピエロ』に出ていますね。

池田:その前です。

西澤:それが55年です。

池田:あるいはそのちょっとあとかな。覚えてない。(今、この部屋で使っている)このストーブ、このストーブを買ったのが60年頃だったと思います。その前に彼の家に行ったとき、彼はこのストーブを使ってたんですよ。アメリカ製のパーフェクションっていうのでね。

西澤:寿夫さんがお兄さんですね。

池田:寿夫さんは福島秀子さんと一時期一緒だったんです。実はそのストーブも僕がもらった。福島秀子さんが観世寿夫さんと一緒に暮らしていた青山の方のアパートにいましてね、その後別れたんですね。みんなが「でこちゃん」って言ってましたけど、その秀子さんが、ストーブが要らなくなるからどうですかっていうので、もらったわけです。

西澤:福島秀子さんは実験工房のメンバーで「プボワール」の頃から交流があったんですね。

池田:そうです。「世紀の会」から彼女はいたんです。山口さん、北代さんと友達だった。

西澤:彼女が寿夫さんと結婚して暮らしていたんですか。

池田:そう、一時期です。栄夫さんの奥さんが有名な誰かですね。谷崎潤一郎の娘かな。軽井沢なんかでも会った事ありますよ。そのとき音楽祭かなんかだったと思いますけど、水上勉や観世さんと、なにか話した記憶があります。
中上健次が70年代の終わり頃、朝日ジャーナルに『木の国・根の国物語』って連載をやってるんですよ。それのイラストを僕が担当してね、半年以上やりましたけどね、つきあったんですが、てこずりました。本当に小説家って時間を守らなくてね。原稿締め切りを守らなくて往生しました。とばっちりがこっちにくる。いつも原稿を読んでから、僕が割付もやらなければならない、ページ数が決まっているんですよ。見開き6ページ分だったか。その中でスペースを自分で決めないといけないんです。それには原稿の字数を数えないといけない。だから原稿をあらかじめもらわないとそれができない。
けれどそれが可能だったのは最初の頃の2回分だけですよ。最初の2回は活字になっていてね、原稿じゃなくて活字になった段階でレイアウトして。2回はそうだったけど、次から生の原稿を持ってくるんです。活字に組んでる暇がなくて、翌日一日でやってくれてって来るんです。そのうちに、その日のうちに、夕方までに間にあわさないと輪転機が間に合わないって状態なのに、こないんですよ。原稿がこないとこっちは何もできないでじっと待ってる。どんな用事があろうとこっちは待ってる。ところが新聞社からの電話で、まだ原稿ができてないってくるんです。ひどい時は中上氏が捕まらないと言ってくる、今、和歌山県の田辺にいることがわかりましたって電話が来る。今、原稿書いてるところだっていうんです。ところが今はファックスがあるけど、その頃は、原稿を電話で聞きながら写しとらなければならない。ところが地名とか人名は聞いただけではわからない。文字の書き方を教わりながら書き取るので時間がかかるんです。徹夜です。それで翌日の朝バイクの青年が来るんです。生原稿を持ってくる。僕は字を数えて割付をしてその日の夕方までに描いて渡さなければならない。無茶です。ついに2回は間に合わなかった。
ついに終わったんで打ち上げをやろうといって飲み屋に行ったときに水上勉がいたんです。その後も何度か。水上勉とはそういうお付き合いです。

西澤:交流が広いですね、びっくりしました。

池田:広くなってたんです、いつのまにか。あの頃はきっと新しい事をやろうっていうので、ジャンルを横断する形で付き合いがあった。

西澤:50年代60年代にかけてっていうのはそういう感じですね。

池田:特に僕が関わったアヴァンギャルド芸術研究会は文学者がたくさんいたからですよ。関根弘を通じて詩人との付き合いも。

西澤:『詩とショウの結婚式』(紀伊国屋ホール、1961年)というのもありました。

池田:『詩とショウの結婚式』は、関根弘が企画して、僕がチラシのデザインを担当しています。同じ頃『ジャズの窓』っていうのを木島始が企画構成してね。それも61年。木島始はね、戦後詩運動の「列島」の一員です。つくったのは関根弘。僕は『列島』のカットを描いたりしています。関根弘がそのあとで『現代詩』という詩の雑誌を出すんですけど、その創刊号の表紙と中の絵も僕がやりました。そういった形で「列島」の集まりなんかに、僕は絵描きで会員じゃないけど、顔を出したりしていたんです。それでいろんな人達と知り合ったんです。木島始もそこにいて、その連中が詩画展を、2回か3回やりましたね。一回目は木島始と組んでやってます。タケミヤ画廊で。そういうことで木島始がね、彼は英文学です、法政の英文学の先生をやっていて、彼が訳したジャズの歌詞、アームストロング、彼はサッチモっていったか、その「マック・ザ・ナイフ」とか。
そういう「ジャズ」を木島始の構成で、大阪のフェスティバルホールでやったんです。労音の主催っていうか企画っていうか、ジャズを歌ったり演奏したり、アクションもついてましたね。その装置を朝倉摂がやっている。
そのフェスティバルホールの舞台で、背景にマルチで重ねながらスライドを映すんです。宇野亜喜良と僕とが原画を描きました。

坂上:それでは最後にひとつだけ。1964年アンパンですが、この文章(パンフレットに掲載されたもの)、これはどなたが書いたものか分かりますか。(注:読売アンデパンダンが廃止になったため、針生一郎と池田龍雄などが組織して「アンデパンダン’64年展」を東京都美術館で開催。)

池田:これは針生一郎です。僕じゃないです。64年アンデパンダンの時のもので、僕も他のところで引用しているはずですが。

坂上:それと翌年の岐阜の長良川アンパン(アンデパンダン・アート・フェスティバル)で、私の手元に残されている出品者リストには、池田さんのお名前はリスト中に入っていないのです。けれど池田さんは、準備段階から岐阜にいかれていたようで、シンポジウムもあわせ、発言がかなり多いのですが…この時どういう作品を出品されてたんいたのでしょうか。

池田:岐阜のアンパンについて言えば、まず64アンパンは一回限りにしようという申し合わせで、実際にその通りになったんです。そしてその次に場所を変えてやろうということになって、その時に、次の65年はどこでするかというときに、その席上で岐阜の連中が、岐阜でしようと言ってくれたんですよ。VAVAというグループですよ。西尾一三という人が中心になって。彼はお医者さんですね。それで実際、翌年になって準備がはじまるときに、僕は準備の段階から岐阜へ行って、64アンパンの経験を踏まえて色々意見を述べました。最初から深いかかわりを持っていたんです。

坂上:シンポジウムでの発言、準備委員会での発言もしっかり残っているんですが、出品目録にだけ名前が入っていなかったんです。

池田:落ちてるんですね。僕はアンデパンダンが始まる前に一度岐阜へ行って、それから期間中のシンポジウムもやっていて、そこでは東野芳明を皮肉るような形で…… というのは東野芳明が九州の方の講演会で、「これから手仕事というものはなくなるだろう」というようなことを言っているんです。筆を使って絵具を塗るような事は将来はなくなるだろう、と。僕は、それを受けて、そんな馬鹿な事はないと。人間は手を使うようになってはじめて人間になって、その人間が芸術活動をやっているんだから。だから将来も手を使わないわけはないと。そう言ったんです。

坂上:『現代美術』の1965年7月号にも「手仕事についてのある考察」と題したテキストも残されていますね。

池田:それはあらかじめ巻紙に全部の文章を書いておいて、それを読みあげたわけです。それを中原氏が別のところで、池田が巻紙を読んだ、みたいな事を書いていましたけどね。そのアンデパンダンについては、「長良川の夏の陣」と題して『アヴァンギャルドの背中』に書いてます。
そういえば、東野氏はその朝、長良川で泳いでいましたよ。彼はぬかりなく海水パンツを持ってきていたらしい。

坂上:ちょうど国体の年でしたね。

池田:そうですね。僕は岐阜まで車で行きました。岐阜アンパンに出すために、あるパネルをちゃんと作って持っていったんです。その作品の写真は『アヴァンギャルドの背中』に載っています。それはね、河原にパネルを置いただけの作品なんです。《点》という題名をつけてね。「私は石そっくりの作品を作った」と。「しかしそれは河原に紛れこんでしまったから、どうか石をひとつずつ叩いてみてくれ。うつろな音がすればそれが私の作品だ」っていう、そういう文章ですけどね。実際は石の作品はつくっていないんですが。ただコンセプチュアルにやったんです。つまり長良川の河原の石を全部僕の作品かもしれないという形にしてしまった。だから全部を叩いてみなければわからないです。その河原の石を積み上げて、それにパネルを立てかける形でつくったんですよ。
僕はそういう作品で参加して、その時のシンポジウムでは松沢宥さんが、「この中に宇宙人が交じってます」なんて、人を驚かすような変わった発言をしたのを覚えています。

坂上:松沢さんとはその頃に知りあってるんですか?

池田:ずっと前です。60年に入った時期から、松沢さんがアートクラブに入ってくるんですよ。その頃のアートクラブがグループ分けをして画廊なんかで連鎖展をやっていた。その連鎖展のひとつ、1962年5月(5月1日〜6日)に新宿第一画廊ってところでやるんです。アートクラブのグループ連鎖展は55年かな、サトウ画廊ができたので、そこでまず最初に僕らも河原温等と組んでやってます(1955年4月22日〜28日、池田龍雄、加藤正、河原温、吉仲太造)。それとなびす画廊って画材店が銀座1丁目にあってそこでもやってます。(1957年1月25日〜2月3日)それからその後で新宿第一画廊でやるようになる。その時期に、松沢さんなんかが入ってきて、そのメンバー達と一緒にグループで第一画廊でやった。はっきり覚えているのは、松沢さんはその頃から《プサイの函》っていう真っ赤な布、絨毯じゃない、布を床に敷いて、古い箱を置いてある。なにやら妖しげな祭壇みたいに見える。箱の中には、いろんなものが入ってる。新聞のコラージュとかね、いろいろ。女のお尻じゃないけど、お尻のように見える写真の部分をコラージュしたりして、かなりエロチックなんですよね。「女の○○○○の何とか」、って書いてあって、かなりエロチックな感じ。その辺りで知り合っています。
松沢さんはその年にアンデパンダンをやるんですよ。64年アンパンの後、12月に、「荒野におけるアンデパンダン」展で、僕のところに出品要請が来たんです。それに応じました。出品したのは星なんです。オリオン座のペテルギウスとさそり座のアンタレスかな。『12月9日夜12時に於けるオリオン座のα星ペテルギュウスを見ること。同時に、サソリ座のα星アンタレスを透視すること』っていうもので、二つの星、というより、僕のコンセプトは距離です。地球をはさんだ二つの星の間にある、とてつもない距離。その時の松沢さんからの出品要請に答えたのは、東京からは僕と瀧口さんだけだったと後で松沢さんが言ってました。あれの主催は虚空間状況探知センターでしてね。虚空間です。その主催で「荒野におけるアンデパンダン」。
その後で、岐阜のアンデパンダンが、翌年の8月に開催されたんです。
一時期、松沢さんがニルヴァーナ・コミューンっていうのを作って。それは諏訪の辺りを中心にね、何人かの人、たとえば、名古屋の水上旬さんとかたくさん集まってきて「音会」っていうのをやってるんです。松沢さんの山の落葉松林に集まって、落葉松4本を断ち切って小屋をつくり、そこでやったんですよ。
その後「ニルヴァーナ・コミューン」として、展覧会もやるんです。僕は浅間で種まきをやりますよね。ニルバーナ・コミューンの展覧会は青山のドイツ文化センター。草月会館の後ろあたりでにあったんですが、そこでやりました。その時僕は「梵天の塔」を延々と三時間あまりやり続けていてね。そのドイツ文化センターは建物がコの字型で、中庭に芝生があってそこでやりましたね。ニルヴァーナ・コミューンは青山のピナール画廊でもやってます。それから京都で、京都市美術館。それがきっかけになって僕は《BRAHMAN》てシリーズを描きはじめるんです。浅間のオリーブの種まきに続いて《梵天の塔》をやりはじめるんです。京都の町を歩きながら松沢さんが、「池田さんは世界に類のない壮大な事をやっているんだから、もう絵なんか描く事ないじゃないですか」って言ったんです。彼の主義ですけどね、それは。オブジェを追放するってことは。「絵なんか描く事ないじゃないですか」って言われて、それで僕の中の天の邪鬼がムクムク頭をもたげてきて、「じゃあ絵を描いてやろう」ってなったんですよ。それまで僕はしばらく絵を描く気がなくなっていた。行き詰っていた感じです。

坂上:松沢さんとの交流でコンセプチュアルの仕事をしていたけれども、そういう中で手仕事とのギャップみたいなものがあったのでしょうか。

池田:それは、絵というものは、実は全てやりつくされた、という風にその頃思っていたんです。いろんな事を絵では、もうやりつくされている、試し尽くされているって。これからどうなるだろう、新しい絵の可能性はどうなんだろうっていう風に考えていたから。だからボツボツ絵は描いていたけれども、浅間の種まきをやったり梵天の塔をやりはじめたら、絵の未来が見えない状態になってたんですよ。どんな事をやっていても新しい事ではない、もうすべてはやりつくされたって感じで。どうしたらいいか良く見えてこない状態になっていた、その時に、松沢さんが「絵を描くことない」って外から言われたので反発して、よし、描いてやろう、って。それで、梵天にちなむ「ブラフマン」というタイトルをつけた。
ブラフマンは天地創造のヒンズーの神様なんです。それで僕なりの創世記、天地創造の物語を絵で展開して行こうと考えたんです。中国語に訳されて「梵天」となる。それが日本に入ってからは、日本の土俗信仰と結びつき、「梵天さま」となって、男根を意味するようになっている。僕は、記録映画作家の野田真吉が東北地方の「梵天まつり」を撮った映画を見たことがあります。
絵の長編連作としての《BRAHMAN》は、要するに宇宙の生命が誕生して、それが段々分化していって、様々なものが生まれてきたっていう、そういう想定です。最初はシンボリックに男根を描いて、次に女陰を描く。それもいろんな形で、いくつも描いて、合体の状態があって分裂がはじまる。宇宙卵があって、それが分裂し、いろんなものが出来てくるという。これをはじめたのが73年でしたかね。京都のニルヴァーナ展の後ですよ。
僕はその頃は60歳くらいが僕の寿命だろうと思っていたんですね。だからあと10数年、いってみれば僕のライフワークになるだろうと考えた。一章から始めて、一回個展をやるごとに進んでって、十章まできたんです。20世紀(池田二十世紀美術館)でやったとき(1985年9月1日〜11月30日)が第8章だった。残りの二章はユマニテ(画廊)でやってます。それで終わったのが88年です。
その後は万有引力とか、そういうタイトルで。《BRAHMAN》シリーズは、長い間宇宙空間を遊泳していたような状態だった。地平線が念頭になくて、無重力状態で浮遊している状態でね。でも第10章あたりから地平線を描いているんですよ。そういうのが出てきて、再び地上に舞い降りたって感じがする。それがどうしようもなく舞い降りてきたなって感じで。《万有引力》(1999年〜)というタイトルをつけた。その後が《場の位相》(2004年〜)です。場っていう概念を取り入れているんです。ずっとその辺りから僕の中に、物理学的な、天文学的な概念があって、それをテーマに描いているんですね。でも、場っていうのは人間社会と深く繋がっているわけで、場は地上の場でもあるんですね。相場とか職場とか現場だとかいう場、本来「場」というのは物理学的にいうと、宇宙はすべて場なんです。その中に場の「かたまり」か「しわ」みたいなのが、あるいはエネルギーの塊みたいなのが、粒子で物質になっている。本当はエネルギーなんですけどね、すべて。エネルギーが波打ち、踊る、そこを「場」というんです。磁場とか。重力場とか、力が働く場。目下のところ、ぼくはそういう「場」にしっかりとらわれています。

坂上:どうもありがとうございました。