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仲里効オーラル・ヒストリー 1回目
2021年9月21日

沖縄県那覇市、ホテルアンテルーム那覇にて
インタヴュアー:池上裕子、野中祐美子、町田恵美
書き起こし:町田恵美
公開日:2022年3月30日
 

仲里効(なかざと・いさお 1947年〜)
評論家、写真家、編集者

1947年、沖縄の南大東島生まれ。フォトエッセイ集に『ラウンド・ボーダー』(2000年)、評論に『沖縄イメージの縁(エッジ)』(2007年)、『フォトネシア 眼の回帰線・沖縄』(2009年)、『悲しき亜言語帯』(2012年)、『遊撃とボーダー 沖縄・まつろわぬ群島の思想的地峡』(2020年)など。今回の聴き取りには沖縄のインディペンデント・キュレーター、町田恵氏にご協力いただいた。1回目は幼少期に経験した「標準語励行運動」や、高校時代に復帰運動に疑問を持つようになった経緯、そして上京後に携わった沖縄青年同盟の活動についてお話しいただいた。2回目は沖縄青年同盟による国会内での沖縄返還に反対するアクションや、帰沖後に携わった県立美術館建設のための運動や写真展などの活動について、またご自身の写真制作について語って下さった。3回目は主に評論家としての言論活動と、『EDGE』や『越境広場』などの雑誌を創刊した編集者としてのお仕事についてお話しいただいた。

池上:お生まれからお聞きできればと思うのですが、お生まれは1947年、南大東島ということで、幼少の記憶で、当時の南大東島はどういった雰囲気でしたか。

仲里:大東島は明治の後半、1900年に無人島を開拓してできた島なんですけど、僕らが小さい頃はまだ100年も経っていなくて。最初は八丈島から開拓者が、その後に、北は国頭から南は与那国まで、奄美大島を含めて沖縄の各地から出稼ぎの人たちが集まってできた島です。そういった意味で、移民地特有な出自も言葉も異なるさまざまな人たちが集まっている。大東島に渡ってくる人たちは、製糖工場の労働者とキビ刈り農家のサトウキビを伐採する労働者とか、そういう人たちです。先ほども言ったように、移民地特有の雰囲気があって、言葉も出身地も異なる人たちが集まってできた島というのが、島の特徴と言えば特徴です。

池上:仲里さんのお家は、ご両親がそこに移って来られたのが、南大東島に来られた最初になるのでしょうか。

仲里:両親は、沖縄本島北部の伊是名島から大東島に戦前に渡ってきている。ずっとそこで、僕は大東島に生まれ育った。

池上:それはやはりサトウキビの作業をする人として渡って来られたのでしょうか。

仲里:そうですね、沖縄からの出稼ぎや移住者はだいたいキビ刈りや製糖工場で。戦後はいろんな仕事をやっていて、僕らが物心ついた頃には、親父は大東島の気象台に勤めていて、その前は大工さんをやったり。その後に気象台で、島には水道がなかったので副業的に水タンクを造ったり、ウミンチュ(注:海人、漁師のこと)をまとめて網元みたいなこともやっていました。それが物心ついたときの記憶です。

池上:お母さまはお家にいらしたのでしょうか。

仲里:そうですね。

池上:言葉がいろんな人が移り住んで、また出て行ってということですが、仲里さんはどういう言葉を話されていたんですか。

仲里:南大東島で住んでいるところは、在所というところで、製糖工場があって人が集まっているところなんですけど、うちの周辺は伊是名島から来た人たちが結構いて、伊是名・伊平屋郷友会もあった。だから親たちの日常というのは、伊是名で使っている言葉が使われていました。

池上:それは、いわゆるウチナーグチというのとはだいぶ違うのでしょうか。

仲里:いえ、そんなに極端には違わないです。沖縄本島の北部の言葉ですよね。

池上:南大東島で小学校、中学校と過ごされて、普段は伊是名島の言葉なんだけども、ご本では小学校のときの「標準語励行運動」について書いておられたんですが、具体的にはどのようなことがあったのでしょうか。それは小学校で始まるのですか。(注:『悲しき亜言語帯』未來社、2012年所収の「翻訳的身体と境界の憂鬱」参照)

仲里:小学校のときから始まったように記憶しています。学校には当時、今もあるかどうか分かりませんけど、「今週の週訓」というのがありますよね。たとえば今週の週訓は、「共通語を使いましょう。共通語を励行しましょう。」ということに力を入れてやる。そういうかたちで共通語励行運動というのが学校の中で取り組まれていくというのがあります。子どもたちの日常というのは、沖縄(本島)から来た人たちは沖縄の言葉で、八丈島から来た人たちは八丈島の言葉。沖縄といっても宮古や八重山の人たち(の言葉)は、あんまりよくわからない。沖縄の中の共通語というのがあるとすると、沖縄本島の言葉(ウチナーグチ)です。

池上:沖縄本島の言葉でも学校で使うと、それは(日本全体の)共通語ではないとして、「標準語」を話すように指導されるということですか。

仲里:そうです。「共通語」は、「日本語」と言われている、「国語」と言われる言葉です。

池上:ウチナーグチという沖縄本島の共通語が実際あったんだけど、それにかぶせるようなかたちで本土の方で使われている「標準語」を新しい「共通語」として学ばせる。実際は島の言葉とか、仲里さんだったら伊是名島の、ご家庭で使われている言葉があるわけですけど、それが先生の前なんかに出てしまうとどう指導されるのでしょうか。

仲里:罰を与えられるわけですよね。罰の与え方もいろいろあると思うんですよね。沖縄の中でもいろいろあって、僕らが体験したのは廊下で跪かされるとか、掃除をやらせるとかがありました。

池上:当時としては、嫌だなと思われていましたか。

仲里:なんか変だなというふうな感じはありましたよね。自分たちが使っている言葉が、なぜ禁じられなければいけないかというのが素朴な疑問としてあるわけですよね。でもそんなに深くは考えない。そういうのが後々、トラウマって言いますかね、いろんな意味であの体験っていうのはなんだったのかと考えさせられるわけですよね。

池上:先生たちは南大東島出身の方たちだったんですかね。それとも沖縄本島でしょうか。

仲里:当時はほとんど沖縄本島から来てましたね。中には、八丈島出身でそのまま先生になった方もいたりして。小学校の時に一番厳しかった先生は、八丈島出身で東京の女学校に進学して、帰ってきて、僕らの家のすぐ隣だったんだけど、厳しい先生でした。

池上:シマ言葉が出るとビシっと指導される……

仲里:悪いことなんかしたりすると、ビンタを張られるとか、額にゲンコツが飛んでくるとか、鼻先をつままれるとか(笑)。

野中:ご両親はどういうふうに標準語の教育のことは考えていらしたんですか。

仲里:当時の親たちもそういう教育に対しては疑問を持ちながらも、子どもたちが良い学校に進んでいくためには、ある意味で当たり前かもしれないと思っていたかもしれないですね。

池上:子どもの頃によくされていた遊びや夢中になったものはありますか。

仲里:子どもの頃はいろんな遊びをしたんだけど、当時はメジロを獲ったり、砂浜はないんだけど、夏になれば、海に行って泳ぐ。あとは男の子の場合は野球をやったり。遊びというよりは、当時の大東島にあったサトウキビを運ぶ汽車に乗って港に行く、海岸に行くというのが楽しみのひとつでした。

池上:ご両親は、教育熱心な方たちだったのでしょうか。

仲里:いや、教育は熱心ではない(笑)。放任主義です。

池上:15歳で、高校進学で那覇に出られたということですが、当時の南大東島では普通のことだったのでしょうか。

仲里:当時の沖縄の進学率は、60%いってるか、いかないかですよね。正確な数字は分かりませんが。

池上:島を出て高校に行くのが当たり前というわけではなかったんですね。

仲里:高校は進学すべきだというのがあるんだろうけど、いろんな事情で中学卒業して働く同級生も結構いましたね。

池上:那覇に出られて、カルチャーショックはありましたか。

仲里:ありますよね。最初に那覇に来たのは小学校の6年生で、姉が那覇にいたもんだから夏休みを利用して沖縄本島に来たのが島から出た最初の経験なんですけど、あの当時は島が唯一の世界、何も知らない少年であったわけですけど、那覇に来て、やっぱりこれだけの建物や人間、密集度はショックですよね。ショックというか驚きでしたね。

池上:当時まだ占領期なわけですけども、米兵なんかも街で見られましたか。

仲里:南北大東島との往来は今は泊港ですけど、当時は馬天っていう南部の佐敷にあった港からだったんですけど、24時間一昼夜かかります。約400キロ、今は18〜20時間くらいですかね。馬天港から那覇に向かうとき、あの頃は知念にアメリカ軍の基地があって、アメリカ人を最初に見たときの驚きは大変なものでした。

池上:南大東島にはそういうのは全然、占領者、米軍関係の人は来なかったのでしょうか。

仲里:ほとんど来なかった。僕らの体験では、沖縄の帝王と言われた高等弁務官がいまして、高等弁務官が離島を視察するときがあるんですよね。高等弁務官が来るということで、事前に子どもたちは掃除をさせられたり、環境を整えたり。そのときに高等弁務官と随行したアメリカの軍人さんが来たりするわけです。あとは、急患が出た場合に米軍用機やヘリコプターが来る。そういうのとか、B円からドルに通貨を交換する1958年、米軍機が超低空でドル換算表の束をサトウキビ畑に落としていったとか、その程度ですが、島の日常にとっては大きなインパクトを与えました。

池上:芸術的なことに関する興味というのは、那覇に移り住んでから芽生えたのでしょうか。それとももっと早くからありましたか。

仲里:芸術的なものというのは、ほとんど島にはないですね(笑)。ただ、芸術というよりは当時年に何回か、沖縄の芝居が巡回して公演に来るわけですよね、島に。そのときのいわば祝祭的な雰囲気と言いますか、夜になるとみんな出かけていく。そのときの経験とか、たまに映画なんかが上映されるわけですよね、製糖工場の倉庫を使って。その程度のもので、芸術の匂いのあるものはないです。

町田:図書館とかも学校にあるくらいですか。

仲里:学校には図書館なんてないです(笑)。

池上:そのときに見た映画でこれがすごかったなって覚えている映画ってありますか。

仲里:赤道鈴之助ってご存知ですか。そういうものとかですよね。

池上:アメリカ映画は来なかったですか。

仲里:アメリカ映画は、映画というよりは当時は琉米親善センターっていうのがあって、それが巡回してたまに上映会をやる。アメリカの事情を紹介する、いってみれば宣伝映画のようなものですね。

池上:アメリカに対するイメージは、そういうものからもかなり受けましたか。

仲里:アメリカに対するイメージは先に言ったような程度で、大東島に入ってくる情報としてはラジオがありました。テレビもないし、大東島にテレビが入ったのはつい最近ですけどね。だから情報はラジオだけ、ラジオを通して、沖縄本島の情報とか、なにかあればアメリカの情報とかも入ってくるわけですよね。昼間は、琉球放送とかラジオ沖縄とか入るわけですけど、夜になるとなぜか電波事情が悪くなって、そこに北京放送とか台湾の放送とか乱れこんでくるというのがあったりしました。

池上:みなさんがもともと結構いろんな言葉を話されていたわけですが、ラジオも入るとさらに中国語だったり英語だったり、聞いても全然分からないような言葉が入ってくる。

仲里:北京放送は、日本語版というか、日本向けの放送というか、一種のプロパガンダということでしょうね。放送の最初に「東方紅(とうほうこう)」とか、中国語版インターナショナルが入っていたのを記憶しています。曲の名を知るのは後になってからですが。

池上:ご両親が戦前に伊是名島から渡ってきたということだったんですけど、沖縄戦は、ご家族は本島では体験していないということですか。

仲里:大東島にも結構、日本軍が入ってきたんです。約5000人近くの部隊が入ってきた。大東島には日本軍の飛行場と気象台があったし、地理的な位置からして、ひょっとするとアメリカ軍が上陸するかもしれないということがあったんでしょう、小さな島に多くの日本兵がやってきた。結局、アメリカ軍が上陸することはなかったんだけど、空爆や艦砲射撃というのはあったわけです。小さいときの体験として、砂浜はないんですけど、台風の後に、海の底から打ち上げられた中に砲弾の薬莢とかあったりして、子どもたちがいたずらして火薬に火を付けて遊んで、不発弾が爆発して亡くなるというのもありました。沖縄本島みたいな激戦はなくて、空爆と艦砲射撃。でも日本軍は結構入ってきた。

池上:ご両親はそのときの話はされましたか。

仲里:いや、僕らにはほとんどしませんね。戦争の話とか。ただ、昔の写真がわずかに残っていて、そこに現地招集の防衛隊だったんでしょうね、そんな集合写真は、小さい頃に見ました。

池上:お父様もご苦労をされて、戦後生活を築き直された…… 仲里さんは長じて、芸術や写真に関わるのですが、ご家族の中で芸術関係に関わりのある方はいらっしゃらなかった感じでしょうか。

仲里:ほとんどいませんね。小さい頃の体験で、親父が勤めていた気象台に、若い職員が転勤で来たりするんです。彼らの中に写真青年がいたりして、その彼に親父が頼んで家族の写真を撮ってもらうとか、気象台に遊びに行ったときに、中に暗室があって、写真が並べられていて、それを見たときの不思議な感じはありました。

池上:現像されているところもご覧になったのでしょうか。

仲里:うん。若いカメラ好きの職員だったんでしょうね。

池上:仲里さんがカメラで実際に撮るようになったのはいつ頃からでしょうか。

仲里:中学二年のときに、大東島で初めての修学旅行があったんです。僕らが初めての試みで。そのときに沖縄本島のあちこちまわるんですけど、当時泊まっていた宿屋が那覇市の国際通りの裏側だったんですけど、そこからは桜坂も近くで、当時はパウンショップ (pawn shop)というか、米軍から流れてくる物を扱う質屋がたくさんあったんです。その中にカメラとか売られていて、ショーケースの中のカメラが魔法のように思えて、修学旅行の小遣いをはたいて買ったというのがあります。

池上:ちなみにおいくらくらいでしたか。

仲里:何ドルでしたかね。そんなに高いものじゃないですけど。

池上:お小遣い全部はたけば買えるくらい?

仲里:そうそう。そんなに立派じゃなくて。子どもが買える程度の。

野中:それはその前までもカメラが欲しいなと思っていたのか、それを見てカメラがあるから買おうと思ったのか(どちらでしょうか)。

仲里:先ほど言った、若い職員に親父が頼んで、家族の写真を撮らせるとか、気象台に行ったときの経験とかあって、憧れるんですね。そういう経験があって、衝動的に基地からの質流れを買ってしまった、というような。

池上:島に帰って、島の風景とかご家族とか(を撮った)。

仲里:それが大きな挫折の始まりで(笑)。フィルムを買って、写真をバチバチ、自慢げに写すわけですよ。写して、気象台の暗室の中で見た現像液、定着液を僕は水だと思っていて、写したやつをみんな集めて今から出すからってバケツの水に浸してみるけど、なかなか出てこない。現像液、定着液があることを知らないわけ。水だと思っていた。それは大きな挫折の始まりで、それ以来……

池上:では最初に撮ったものは写真にならなかった? フィルムはだめになっちゃった。

仲里:そうです。水に漬けて……

池上:そのあと、どなたかに教えてもらったりされなかったんですか。

仲里:島に一軒写真屋があったんですけど、そこの先輩に聞くわけにはいかないですよね。大きな失敗なので。でもそういう写真屋さんでやってるって聞いて、わかって。

池上:それで自分でも現像するように(なっていくんですか)。

仲里:それ以来、写真というのはほとんどない。

池上:辞めちゃったんですか。

仲里:そう(笑)。

池上:教えてもらって始めたんではなく、しょげちゃったんですね。そのカメラは仕舞われたままというか…… 切ない話ですね。

仲里:笑い話ですけど(笑)。

池上:中学の頃は、部活などはされてましたか。

仲里:中学の頃は、部活というよりは、少年たちの遊びというのは野球、それからテニスをちょっとやったり。そういうのをみんなで集まってやるくらい。

池上:特に何部とかそういう感じではない?

仲里:ないです。

町田:一学年あたりの人数は少なかったんですか。

仲里:ちょうど僕らがベビーブームの一番最初、団塊の世代の走り。僕らの一つ先輩はクラスでも30名いたか40名いないかです。僕らから2クラス、80名近くになったりした。

池上:それで那覇の方に高校で出られるわけですけども、高校は那覇高校ですか。

仲里:高校は、当時は那覇には進学校が二つあったんです。那覇高と首里高があって、もう一つ新しく進学校をつくろうということで今の小禄高校、那覇高校と首里高校以外に新しい進学校ができた。そこの一期生として。当時は首里、那覇、小禄というのが那覇での進学校として知られていた。那覇高や首里高は戦前から伝統ある学校ですよね。ちなみに新参の小禄高校の出身者には、映画監督の高嶺剛が一期後輩で、石川真生が四期くらい後輩です。

池上:一期生というとわりと自由な感じだったのでしょうか、学校の雰囲気としては。先輩もいなくて。

仲里:先輩もいなくて、その代わりまだでき立ての学校なので、たとえばグラウンドを整備する作業に駆り出されたり、そういうのがあったりしました。一期生ということで自由ではありました。

池上:高校時代は部活とか、すごくのめり込んでたというのは何かありましたか。

仲里:高校時代はぼんやりしてて…… 3年ある内の1年半、那覇市の開南に部屋を借りていたんですけど、そのときは結構映画を見たりしました。

池上:那覇ではどういう映画館によく行かれましたか。

仲里:あの頃は、今もある桜坂琉映がありますよね。グランドオリオンがあって、国映館があったりして、当時は映画が盛んな頃です。那覇でも結構な映画館がありました。若松国映とか、この近くにもありました。

池上:どういう映画を好んで見ておられましたか。

仲里:桜坂オリオンがあって、そこは洋画。イタリアやフランスの映画もたまにやりました。グランドオリオンや国映館はアメリカの西部劇とか。それから俳優でいえば石原裕次郎はじめ小林旭、赤木圭一郎などがいましたね。

池上:このジャンルが好き、この監督が好きというのはありましたか。

仲里:ジャンルとか監督というよりは、映画一般ですね。でも高校時代にフェデリコ・フェリーニの『道』という映画を見たときは非常に衝撃を受けました。

池上:どういうところに?

仲里:旅芸人の生きざま、主人公のザンパノがパフォーマンスをやるところとか、ジェルソミーナがトランペットを吹いたり、太鼓を叩いたりしながら旅をしていく。その旅芸人の生きざまを見て、高校生なりに、人間の影の部分というか、男と女のすれ違いとかを感じ取ったところがあったんじゃないかと思います。

池上:早熟な高校生ですね。

仲里:確かに衝撃を受けた映画ではあります。

町田:当時映画っていくらくらいなんですか。

仲里:あの頃は、25セントかそれくらいか。はっきり覚えてないんだけど。

池上:当時は安いんじゃないですか。テレビを家で見る時代じゃなくて、みんなが映画に行く時代ですよね。15歳で那覇に出てきて、一人暮らしというのは自由そうな反面、大変なことも(あったのではないでしょうか)。ご家族も恋しいだろうし、一人暮らしするにはまだ早い年齢かと思うんですけど、その辺りのご苦労は?

仲里:そうですね。あの頃は、僕らの同級生というか、島から出た連中は、似たような生活をしていたわけですよね。そんなに大変さっていうのはあまり感じなかったです。食事も自分でつくって食べるというか。(最初の)1年半は豆腐屋で下宿していた。

町田:親戚がやっていたのですか。

仲里:親戚ではなくて、いとこが琉大(琉球大学)にいて、彼のところで一緒に二人で部屋を借りて。それが開南。あとの1年半は一人で、小禄の高良というところで一人で生活していました。

池上:それは仕送りをもらって。やり繰りして。自炊もされて。

仲里:自炊というよりは、朝食食べずにそのまま学校に行って、昼は進学校だったからかもしれませんが、校則が厳しくて、(生徒を)外に出さない。みんな弁当を持ってくる。見かねた友達が弁当を分けてくれるとか、夜に初めて下宿の近くの食堂に行って、味噌汁を食べるとか。あとはパンで間に合わすとか。そういう生活でした。

池上:育ち盛りなのに(笑)。

野中:ご兄弟はいらっしゃったんですか。

仲里:6名、男4名で女ふたり。僕はちょうど3番目です。

野中:ご兄弟のなかでは高校に行かれた方はいらっしゃるんですか。

仲里:僕以外に、僕のすぐの兄貴が首里高校、妹も高校に出ています。一番下の弟は、身体が悪くてそのまま島に残っています。

池上:みなさん、ご優秀なご兄弟ですね。那覇の進学校に。

仲里:そうでもないですね、普通です。

野中:お兄さんが高校に行かれてた時期と仲里さんが行かれてた期間はかぶってないということですか。

仲里:かぶってないです。兄貴とは、その間に姉がいて、兄貴とは何歳違いですかね、高校はかぶらないですね。

池上:小禄高校から法政大学に進学されて、1967年でいいですか、上京されるのは。法政大学に行こうと思われた経緯をお聞かせいただけますか。

仲里:法政大学が高校生なりのイメージとしては、東京の大学の中では、活発な社会的な大学かなと。ちょっと不良ぽい大学かなというのがあったりしますよね。

池上:高校の頃はこの分野が得意だから法政大学に進学したらそれを勉強しようかなというのは既におありだったのでしょうか。

仲里:得意というよりは、高校に入ってからの体験と言いますか、通学の途中に那覇軍港がありますね。ちょうどベトナム戦争が本格化していく時期とも重なるんですよね。沖縄はアメリカに占領され、基地の島なんですけど、ベトナム戦争が本格化していくにしたがって、軍事色というか、風景を変えていくわけです。那覇の開南からバスで高校に向うときの那覇軍港には、潜水艦とか何隻も停泊しているし、ベトナムに運ぶ物資が金網の向こうに見えるんです。後半、部屋を借りた場所も、すぐ近くにアメリカの空軍基地があった。金網が張られていて、そういった状況に対する高校生なりのちょっとおかしいと感じる、沖縄の社会自体に対する意識が芽生えてくる。そういうところから社会的な状況に目が向いていくというのがあったのではないでしょうか。

池上:当時、復帰運動なんかもあったと思いますが、高校生の頃はそういうことに関わったりとか、そういうことはありましたか。

仲里:関わりのある友人もいたんだけど、僕はむしろ復帰運動に対して疑問というか、反発を抱いていたところがありましたよね。1965年に日本の総理大臣として初めて佐藤栄作が沖縄を訪問した。そのとき夏でしたけど、沖縄中、総理大臣が来るということで歓迎一色に変わっていくわけですけども、そういうのにそっぽを向いて島に帰ったりということがありました。

池上:復帰運動への疑問というのは、具体的にどういうことを考えておられたんですか。

仲里:非常に漠然としたかたちではあります。たとえば僕らが小学校のときに、先ほど話した沖縄の言葉を禁じて共通語を使わせ、日本国民として、良き日本人になっていこうというのが大きな流れとしてあったわけで、復帰運動の流れもそういうかたちで、日本を祖国と見なして、過度に幻想していくというのがありました。そういうことへの「そうじゃないんじゃないか」っていう疑問がありました。それが明確になっていくのは大学に入ってからですけど、(すでに)漠然とありました。

池上:そういう疑問を話せる友達とか、共感を持って聞いてくれる友達はいましたか。

仲里:当時はそういうことはあんまりなかったです。

池上:疑問を持っているけど、人にはあまり言わない感じですか。全体的には復帰運動の方が力があった時代だったと思うので。

仲里:そうですね。あのときは復帰運動一色の時代ですよね。1960年に沖縄県祖国復帰協議会ができて、復帰熱が高まっていく時期ですよね。高校の先生方も復帰運動を公然とやっていましたから。

池上:そこに疑問を持つというのは、言葉にするのは勇気がいることだと思うんですけど、あえてあまり言わなかったということですか。

仲里:理屈を立てて、おかしいというところまではいかないですよね。

町田:漠然と違和感を感じているということですね。

池上:そういうことと法政大に進まれたことは関係があったんですか。

仲里:関係があったかもしれませんね。たぶん。

池上:法政大学では学生運動も盛んだったと思うんですけど、そういう動きが活発なように見えたから入学された? ちなみに何学部、何専攻ですか。

仲里:社会学部です。大学はほとんど行ってません。何もやってないです(笑)。

池上:実際に進まれて、学生運動にも関わることになったのでしょうか。

仲里:はい。小禄高校の第一期生を中心にして東京に行った連中が集まって、最初沖縄問題研究会というのをつくる、それが研究会レベルにとどまらずに実践的になっていく。それから沖縄青年委員会というのを結成するところにいく。沖縄青年委員会というのは、進学や集団就職で東京に来た沖縄の学生や若者たちを集めた組織です。政治的な闘争、そういうところまで踏み込んでいきます。沖縄青年委員会は後に沖縄青年同盟になっていくわけですけど、今、ちょうど来年の4月に向けて、沖縄青年同盟の資料集を発行していこうということで準備しているところです。沖縄青年委員会や、青年同盟が発行したビラや報告書やあるいは論文とか、そういうのを集めて全体で800頁近くの資料集になる。沖縄の若者たちが何を考えてどういうことをやったのかが、この資料集の中から見えてくるのではないでしょうか。

池上:一般の学生の学生運動というよりは、沖縄出身の学生たちは沖縄問題とか復帰に関する問題にフォーカスした運動をやっていた。

仲里:そうですね、そういったのが中心になっていくわけです。当時の学生を取り巻く全体の状況としては、1967年のジッパチ(10.8)と言われた羽田闘争があります。あれをきっかけに新左翼が登場してくる。新左翼運動と大学の中の全共闘運動、東大全共闘と日大全共闘が代表的ですが、日本の各地の大学まで波及し、全共闘ができる。そういうムーブメントとなって、大きなひろがりを見せていく。1960年代の後半から70年代にかけて、ニューレフトと言われた世代の新しい運動が、日本の戦後のそれまでのさまざまな価値を問い直し、批判し、新しい主体をつくっていくというムーブメントだったと思うんです。そういう運動とシンクロしながら、僕らの場合は沖縄における日本復帰は本当にこれでいいのか、批判的に問い直しながら、沖縄の新しい主体と、新しい実践というか方向性みたいなものを模索していくことになった。

池上:当時、沖縄出身の男子学生が住んでいた「南灯寮」にお住まいだったそうですが。

仲里:南灯寮は住んでいたわけではなく、そこはよく行っていただけですね。

池上:住んでいたのではないんですね。

仲里:住んでいたのは別のところなんですけど、南灯寮へはいわゆるオルグ活動とか何とか言って、出しゃばったことをしに行ってたわけです(笑)。

池上:そこに住んでいる学生たちと一緒に、いまおっしゃっていた運動や研究会をされていたのでしょうか。

仲里:小禄高校第一期生がつくった沖縄問題研究会と、南灯寮にも同じような研究会があって、それが合体して、沖縄青年委員会ができていく。

池上:当時の南灯寮は、「論争の南灯寮」と呼ばれていたとお読みしたのですが、どういう雰囲気でしたか。(注:『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』、未来社、2007年、第5章「反乱する皮膚」参照。)

仲里:あの当時は、学生の中にも復帰を含む沖縄のあり方をめぐっていろんな考えがあって、大きく二つに分かれた。まず、沖縄県学生会というのがあって、これは日本復帰運動を支持していく、いわゆる日本共産党系の学生組織です。それに対して、沖縄の復帰運動を批判しながらそうではない新しい沖縄のあり方を考えていこう、作っていこうという、大きく分けて2つのグループがあったわけです。その中には新左翼の党派に入っている連中もいて、沖縄論もさらに細分化していったということはありますが。

池上:どちらのほうが主流と言いますか、力があったのでしょうか。

仲里:それまでは復帰運動を支持する沖縄県学生会的なものが主流だったんですけれども、先ほども触れたように、1960年代後半から70年代にかけての新左翼運動という大きな波があったりして、旧来の考えを凌駕していくということが起こりつつあったわけですよね。当時、僕らが大きく影響を受けたというか、考えの基本になったのは、新川明さんや川満信一さんなどが『現代の眼』とか『朝日ジャーナル』とか『中央公論』とか『展望』とか、そういう雑誌に書いている論考を読んで大いに啓発されました。新川さんの論考は後に『反国家の兇区』(現代評論社、1971年)という一冊の本にまとめられる。新川明さんや、川満信一さん、ふたりとも琉大文学出身で沖縄タイムスの記者だった。彼らが1970年前後の沖縄の状況と格闘しながら導き出した考え方が沖縄の学生にも大きなインパクトを与えた。それを要約すれば「反復帰」、「沖縄の自立の思想」ということになります。あと一つ、我々自身が気づいたのは、沖縄出身者の一つの実存性として「在日」というあり方。「在日沖縄人」として自らを位置づけていく。そういう考えと主体性から出発していた。

池上:1970年にコザ暴動が起きますけども、そのときはまだ東京にいたのでしょうか。

仲里:ちょうど南灯寮にいました。南灯寮で、議論してそのまま雑魚寝していた。翌朝、寮生が騒いでいる。「沖縄で革命が起こった!」って。革命がコザ暴動だったと後で知る、忘れられない記憶の一つです。

池上:結局、沖縄の本土復帰というのは、共産党復帰を支持していた学生にとっても、新しい沖縄の主体を考えようとしていたどちらかというと批判的だった学生たちにとっても、とても満足いくとは言えないかたちになったわけですけども、本土復帰のときは東京にまだいらしたのでしょうか。

仲里:そうです。僕が沖縄に帰ったのは1972年の暮れです。「復帰」は5月15日ですから、まだ東京でした。

池上:復帰はどういう気持ちで迎えましたか。

仲里:やっぱり虚脱感のようなもの…… メディアでは沖縄の「復帰」が実現したということで祝賀ムードですよね。でも僕らの考え、やってきたことからすると、「復帰」というのは敗北ではないか、という意識があった。沖縄の中でも言われたことですけど、1972年の「復帰」というのは、「復帰」という名の「第三の琉球処分」だと。琉球処分というのは、沖縄の意志を無視して国家が強制的に組み込んでいくこと。1972年も沖縄の意志が無視された、だから第三の琉球処分と言われた。我々も「復帰」という名の日本の国家による沖縄の併合である、という捉え方をしていました。

池上:いわゆる明治政府に強制的に併合されたのが第一の琉球処分(1872〜79年)で、第二の琉球処分が1952年に日本は主権回復したけど沖縄は占領下に留まったこと。そして1972年の本土復帰が第三の琉球処分ということですよね。これまで対立していた復帰を支持していた側の人も、同じような敗北感、虚しさは感じておられたんでしょうか。

仲里:沖縄では1960年代に復帰運動が高揚していくわけですが、その高揚期の1969年11月に佐藤・ニクソン会談で日米共同声明が発表されて、そこで1972年の沖縄返還が決まっていくことになる。しかしながら、日米共同声明路線というのは、沖縄の日米の共同管理体制への移行でしかない。米軍基地にしてもそうだし、その後自衛隊が沖縄に入り込んでくるというのもあるし…… そういう日米共同声明路線に対して、当時の復帰運動を担っていた側からも疑問が出されていく。そういう中から「第三の琉球処分」という言葉も現実味をもってくるというのがありますが、結局復帰運動は日米共同管理路線を下から補完する役割を果たしたに過ぎない。

池上:復帰の少し前に、1972年の2月にいわゆる「ウチナーグチ裁判」と呼ばれた裁判を傍聴しておられたというのを読ませていただいたんですが、これについてはどういう経緯かお聞きしていいでしょうか。(注:『オキナワ、イメージの縁(エッジ)』第3章「言葉が法廷に立つとき」参照。)

仲里:傍聴というよりは、あれは私も所属した沖縄青年同盟がやったわけです。言ってみれば私も仮装被告の一人ということになりましょうか。沖縄青年同盟がやったことはいろいろありますけど、1971年の10月19日に「沖縄国会」と言われた衆議院の臨時本会議で、1969年の日米共同声明の沖縄の返還協定を批准していくことになった。沖縄にとっては許せない内容だったわけで、その国会自体もいわば「処分国会」として位置づけられた。その国会に、沖縄青年同盟の行動隊の三人が入り込んで、爆竹を鳴らしてビラを撒き、沖縄返還粉砕、日本が沖縄を裁くことはできないんだという行動に出たわけです。その行動は日本の国会の歴史のなかでは初めてのできごとだった。逮捕された三人の、第1回公判の冒頭で沖縄の言葉で陳述していくことを試みることになる。

池上:これは最初から戦略というか、その言葉で話すんだと決めておられた。青年同盟全体の作戦と言いますか。

仲里:そうです。組織の。

池上:仲里さんもその作戦を決める場におられたのですね。

仲里:いたわけですね。

池上:シマ言葉で言ってやれと。仲里さんのアイディアですか。

仲里:アイディアはある特定のメンバーで決めました。

池上:本島の方と、宮古の方と、八重山の方と、出身がバラバラな方が3名行ったというのは、これも作戦なんでしょうか。

仲里:これは偶然なんです。偶然なんだけど、結果として沖縄の多様性というか、宮古、八重山、沖縄本島ということで、重層的な沖縄が裁判によって明らかにされていくことになりました。

池上:三人のうち、一人は女性というのは、意図的に女性も入れたということなんでしょうか。

仲里:意図的というよりは結果としてそうなったということです。

池上:沖縄青年同盟というのは、女性のメンバーも結構いらしたんですか。

仲里:いましたね。

池上:それは大学におられたり、集団就職して。就職のほうが多いくらいですか。

仲里:就職者も多かったですが、学生が主流でした。

池上:やっぱりまだ、女性が沖縄から東京の大学にそんなに簡単に行かせてもらえる時代ではなかったのかなと思いますが。

仲里:それがあったかは分かりませんが、集団就職で来た人が多かったのも事実です。

池上:そういう人たちも、東京で暮らす中で政治的な意識に目覚めていくというのがあったのでしょうか。

仲里:具体的に言えば、集団就職で来た人たちは、受け入れ先の職場や工場に散っていくことになりますけど、そのときにパスポートを強制的に管理される。持っているパスポートを強制的に社長というか会社の経営者が預かるわけです。それがどういうことを意味するかと言えば、職場を自由に離れることができない。管理されていく。そして沖縄で採用されるときの話と全然違う仕事の内容。それから言葉の問題、いろんな矛盾を抱えるわけで、その中から自分のこと、沖縄のことを考えていく。

池上:今の(外国から来る)技能実習生と同じですね。構造が全然変わってないですね。

仲里:当時はそうですよね。非常に不幸な事件が、大阪で起こった。集団就職で宮古島から働きに来た青年が、そういう目に遭って社長宅に火をつけ奥さんが死亡した事件がありました。

池上:学生としての経験は、集団就職の方とは違うところもあったと思うのですが、やはり同じようなご苦労は経験されましたか。

仲里:集団就職の場合、非常に具体的ですよね。学生の場合は集団就職の青年たちに比べれば、それほど強い縛りはなかったんだけど、ほぼ同じ時期に、1967年の第一次羽田闘争で沖縄出身の国費留学生が逮捕されて、起訴される。そのときに国費留学生の身分を剥奪されるというのがあったりして。その支援運動(「与那覇君を守る会」)から沖縄出身の国費留学生が中心になって沖縄闘争学生委員会をつくっていく。彼らがやったことは、渡航制限(の撤廃運動)。例えば、下船するときに税関の手続きを無視して強行上陸していくとか、パスポートを焼き捨てる取り組みをしていく。そういうことは、先ほど言った集団就職の若者たちが直面している問題と構造的に同じようなことだと思いますね。

池上:仲里さんご本人はなにかそういうことで、経験されたことはありますか。

仲里:特にそういう具体的なことはなかったんですけどね。

池上:周りを見るとそういうことがみんなに起きていた…… 裁判に話を戻しますと、傍聴しておられたのは仲里さんだけではなく、沖縄青年同盟の方たちが傍聴されていたのでしょうか。

仲里:東京地裁の小法廷で、傍聴席はどれくらいですかね。20名くらいでしたかね、正確には分かりませんけど。傍聴する人はもちろん沖縄青年同盟員、それから取材のためのマスコミ関係者もいました。

池上:その裁判は一般的に注目を集めていたのでしょうか。

仲里:沖縄では注目を浴びましたね。

池上:傍聴したい人が席数を超えていると並んだりしますよね。並ばれたんですか。

仲里:そういうのもありますし、私服刑事と言いますか、意図的に何名か送りこんでくる場合もある。それが発覚し、トラブルになったりしたこともあります。

池上:裁判は黙って聞いておられたんですか。それとも介入……

仲里:いろいろ介入していきますね(笑)。

池上:よろしければ、どのような介入だったかをぜひ知りたいですけど。

仲里:結局、裁判官が強制的に、要するに沖縄の言葉で陳述しようとしたら、「日本語を使いなさい」ということで命令するわけですよ。そのことに対して、傍聴席からそうじゃないんだということを全体で抗議していく。

池上:いわゆる野次ですか。

仲里:野次を含めて、抗議すると、強制的に退廷させられる。何日か拘置される場合もある。結局は誰もいないところで、検事と裁判官だけになったこともある。

池上:介入というか、野次をしたことによってみなさん退廷させられて、それ以上の介入ができなかった。その野次もシマ言葉でされたんですか。

仲里:そうです。

池上:「日本語で話しなさい」というのは予想されてた反応かもしれませんが、実際聞いてどのように思われましたか。

仲里:法廷空間というのが、沖縄と日本の構造的なものを非常に凝縮した感じで現れたということになりますよね。「日本語で話しなさい」というのは、近代に入っての沖縄における言語政策で、植民地において共通に見られる体験ですよね。台湾や朝鮮でも同じような言語政策をしていくわけです。そういう沖縄の言葉、台湾の言葉、朝鮮語を禁止し、国語を強制していく、そのことによって、良き日本国民を育てていくということが、近代の教育政策の基本にあったということになりますよね。日本が植民地をもった近代の象徴、典型であったわけで、その終わっていない植民地主義が1971年に再現されたということになります。法廷の空間で、象徴的に演じられたというのはあったような気がします。

池上:退廷をさせられて、何日間か拘束をされたんですか。

仲里:その場で排除されていくし、拘束・拘置という場合は、三日もあるし、一週間も、長い場合は一ヶ月もある。

池上:仲里さんもことのときだけじゃなくて何回か拘束もされたことがあるのでしょうか。

仲里:拘束、退廷は何回かありますけどね。別のところで逮捕されてますけどね(笑)。

池上:そうですか。そのお話もお聞かせいただけますか。どのようなことをされたのでしょうか。

仲里:逮捕歴ですか……

池上:差し支えない範囲でお聞かせいただけたらと思います。

仲里:1969年の日米共同声明が発表される前に、佐藤首相が訪米しますよね。その訪米を阻止するために取り組まれた闘争のときです。泊まり込みで阻止闘争をやったけど、結局は逮捕された。

池上:それに類するようなことを他にもされていたということですか。

仲里:うん。

池上:法政大学自体はいつ卒業されるんですか。

仲里:卒業したのは何年だったかな。1971年か。

池上:それはちゃんと4年間で卒業されるんですね。

仲里:不思議とですね、あのときは学校に出なくても先生も単位をあげていた(笑)。

池上:早く出て行ってほしかったのかもしれませんね(笑)。では、卒業されてからもしばらく東京におられたということですか。

仲里:そうです。僕が大学の3年の頃に、東京にある沖縄資料センターというところでアルバイトをしていました。中野好夫さんという英文学者で、シェークスピアやジョサン・スウィフトやサマセット・モームや『アラビアのロレンス』の翻訳などした方で、日本ではシェークスピアの代表的な訳者のひとりで、岩波書店からほとんど出ています。その中野さんが中心になって沖縄の資料を一か所に集めてセンターをつくるということで、沖縄資料センターが設立された。まだ沖縄に関する情報が少ないころです。そこで僕はアルバイトをやっていた。沖縄資料センターの資料は1972年に法政大学の沖縄文化研究所に移管されるわけです。移管の手伝いもさせられ、結局、沖縄に帰るまではそこにいたことになります。

池上:学生の間は、ご実家からの仕送りで基本的には生活をされていたのでしょうか。

仲里:アルバイトをやったりしていました。

池上:どういうバイトをされていましたか。

仲里:資料センターがありますよね。それ以前は大学食堂の皿洗いをやったり、工事現場のペンキ塗りをやったり……

池上:苦学生ですね。

仲里:いろんなことをやりました。

池上:こういう運動にコミットされているのは、ご両親はご存じだったのでしょうか。

仲里:両親が知るのは、東京の警視庁の刑事がわざわざ大東島まで来たときですよ。

池上:仲里さんの件を伝えるためにですか。

仲里:伝えるのか、調べるのか分かりませんけど。それで親が知るわけです。

野中:それは大学何年生のときですか。

仲里:大学の3年か4年の頃ですかね。

池上:怒られましたか。

仲里:親父は逆に、近所のおじさんやおばさんたちがひそひそと「ヒデキチャー(注:仲里家の屋号)の三男が……」と噂し合っているところに乗り込んで行って「俺の息子はそんなことやらん」って。やったことは正しいとまでは言わないにしても、テーブルひっくり返したというのを、後で、ひっくり返されたおじさんから聞かされた(笑)。

池上:東京から戻られたのが1972年の暮れとおっしゃっていましたけども、沖縄に戻ろうと思われたのは何かきっかけがあったのでしょうか。

仲里:最初から沖縄には帰るということは決めていたんです。1972年という、僕らにとっては「復帰」という名の敗北を東京で体験させられたわけで、沖縄に帰ってできることはないかと、漠然と考えて帰ってきた。

池上:復帰の挫折というか、敗北と表現されましたけど、心のショックは大きかったと思いますが、どういうふうにそれを抱えて帰ってきたのでしょうか。

仲里:それまでは日常的に政治闘争というか、運動をやっていたわけで、ちょうど沖縄返還の年の2月に連合赤軍事件が起こりますよね。新左翼運動がある意味で極限までいったということが言えるかもしれません。同じ仲間たちをリンチで殺してという非常にショッキングな事件。あのことも当時の我々にとっては大きく考えさせられる事件だったわけです。彼らとは勿論路線は違ったわけですけど、同世代の青年が行くところまで行って、リンチ殺人事件になったというのは、これはとことん考えなければいけないということがあったし、同時に沖縄は「日本復帰」という名の併合で、実質的に敗北したことも重なったりして。そういういくつかの問題を抱えながら帰ったということになります。

池上:帰ってなにをしようというのも、最初は白紙の状態ですか。

仲里:そうですね。

池上:沖縄に戻られて最初にされたお仕事というのは。

仲里:最初は塾で教えたり。

池上:それはいわゆる進学塾ですか。

仲里:そうですね。あとは工事現場でアルバイトしたり、那覇市の歴史編纂室に嘱託でいたり。沖大(沖縄大学)に行くまで、そこで働いてました。

池上:沖縄大学にお勤めになるのはどういう経緯でしょうか。

仲里:経緯はですね、新崎盛暉さんってご存知ですか。沖縄現代史の研究者では第一人者でもあり、彼は東京都に勤めながら中野好夫さんの下で沖縄資料センターを中心的に補佐していたわけです。

池上:中野好夫さんも沖縄の方なんですか。

仲里:中野さんは違いますね。

池上:彼が沖縄の資料を集めていたのはどうしてでしょうか。

仲里:中野さんの先輩に島田叡(あきら)という沖縄戦直前に赴任した最後の沖縄県知事がいました。いま『生きろ』という映画をやっていますけど、その島田叡が高校のときの野球部の先輩だったらしいです。そんな個人的な関係や、当時の沖縄の問題というのが(背景にあった)。資料センターが立ち上げられたのが1960年代の初めだったと思いますが、あの当時は沖縄に対する情報とかそんなになかったわけですよね。中野さんなりの、彼は明治生まれの英文学者ですけど、沖縄に対する贖罪意識が原点にあって、そのことが沖縄資料センターを、私費を投じてスタートさせたということです。

池上:その関係で、沖縄大学にも職を得られたということでしょうか。

仲里:中野さんのところにいた新崎さんが沖縄大学に赴任する。新崎さんは東京生まれで東京育ちの沖縄二世なんだけど、彼が図書館長をやっているとき、「おまえ来ないか」と声がかかった。1975年のことです。

池上:それは図書館の職員ということでしょうか。

仲里:そうですね。

池上:1972 年の暮れに戻られて、1975年までいろんなことをする期間があって、図書館に勤められた。図書館にはどれくらいいらしたのですか。

仲里:図書館は長かったですよ。沖大辞めたのが1991年でしたかね。ちょうど15年いました。そのほとんどは図書館でした。最後は企画広報というところで3年くらい。

池上:沖縄に戻って来られてから奥様ともお知り合いになったんでしょうか。ご結婚されて。沖縄大学にお勤めの頃ですか。沖縄大学の学生だった方?

仲里:卒業して、図書館にアルバイトで来ていたんです。

池上:沖縄大学でミニシアターを設立したとお聞きしていますが、これはどういう経緯だったんでしょうか。

仲里:大学に新校舎をつくることになり、そのために建設委員会というのが大学内部にできるわけですが、その建設委員会の委員の一人に美術の教員だった豊平ヨシオさんがいて、彼とは結構話したり飲んだりする仲でしたので、今度できるあたらしい校舎が、単なる箱物だとおもしろくない、何かユニークな、大学の中にあって大学ではないような空間ができないかということになり、豊平さんのアイディアを建設委員会で提案して承認されていくわけです。実際に企画運営に携わるのは、仲里がやってくれっていうことになる。やりましょうということで、あの空間(ミニシアター)ができるわけです。

池上:そのプログラムというか何をやるというのを考えていかれる。どういうことをされたんですか、具体的に。

仲里:オープニングは高嶺剛が『ウンタマギルー』をつくった後だったんで、高嶺さんに声を掛けて、上映とトークを最初にやりました。そのあとも映画に限らず、いろんな講師を呼んで、話したり上映したりをしましたけどね。

池上:展覧会もされていたようですけど、それは同じ場所ではないのでしょうか。

仲里:展覧会というのは、豊平ヨシオさんが中心になって、沖大市民ギャラリーをつくるんですね。それは別の場所です。そこでやったのは能勢考二郎さんという彫刻家や平敷兼七の写真展とか、TOM MAX(真喜志勉)もやっていましたね。当時としてはおもしろい展示だったんじゃないですかね。これは豊平さんの力のおかげですね。

池上:大学の中から芸術活動を活発にしてこられた経験から、その後の評論活動でしたり、写真展の「フォトネシア」だったり、そういう方向に(なっていった)。沖縄に帰って次なにやろうという時期があって、沖大に勤めていく過程でそっちの方向にやるべきことを見つけて行った感じなんでしょうか。

仲里:必ずしもそうとは限りませんね。あそこでの体験というのは、豊平さんとの付き合いの中で得たものは小さくない。大学を辞めた、その延長というわけではない、まったく切れているのかというとそうでもないし、そういった意味では、体験というのが活かされる方向というのがつくられたかもしれませんね。

池上:お辞めになるのはどういったご決断だったのでしょうか。

仲里:最初から長くは大学には勤めないと考えていました。15年もいたことが不思議。もっと早く辞められた(笑)。

池上:辞めてこれをやるんだというのが決まっていたわけではなく、辞めようと。大きな流れでいくと政治から芸術にシフトがあるように見えるんですけども、別に意識してそうしたわけではないのでしょうか。

仲里:意識と言うか、半分はあったかもしれないけど。

池上:やっぱりもとから写真も映画も好きでいらしたというのが、原点としてはあるのでしょうか。

仲里:そうかもしれないですね。

町田:その頃には第二のカメラを手にする時期がどこかにあったのではないでしょうか。(沖大を)辞められた後にフォトエッセイをまとめられているので。

仲里:写真はもともと好きなほうではあったわけですけど、実際写していくのは沖大時代、企画広報課にいたときに仕事上やらざるを得ないという事情からです。必要に駆られて、仕事柄カメラを持ったということになりますね。辞めた後に、1991年から沖縄タイムスで復帰20年の、1992年が復帰20周年にあたるわけですけど、それに向けて沖縄タイムスが中心になって、沖縄県や那覇市と共催して、琉球王国時代の琉球から中国に進貢使節が行きますよね。中国からは冊封使が来たりと…… 福建省の福州を拠点として北京まで3000キロの進貢使ルートを沖縄の青年たちが2ヶ月かけて歩こうという企画があって、それに準備段階も含めて約3年近く関わっていきます。実際やったのは1992年の8月からですけど。中国大陸3000キロを2ヶ月かけて歩いていく全記録を任されたわけです。1日に36枚撮りのフィルムが、多いときに1日十何本撮ったりしました。

池上:実際に一緒に歩かれて2ヶ月間、毎日記録を撮られた。それですごい量の写真を毎日撮って、写真を撮る自分を形成する経験となったのでしょうか。

仲里:1日多いときは十何本撮ったり、たんなる量じゃなくてその過程で写真の持つ魅力と言いますか、そういうところも改めて認識していくことはあったかもしれません。

池上:そのときの写真というのは記録集になっているのでしょうか。

仲里:帰ってきてから記録集が出まして、写真だけじゃなくて文字も含めて、編集を担当させられた。沖縄タイムス内の中国大陸3000キロ踏査実行委員会から出されました。

池上:それはなんというタイトルですか。

仲里:『道をひらく』。中国大陸3000キロ……

野中:テキストも毎日書かれていたのでしょうか。

仲里:2ヶ月間の気温、天候含めて日誌のように書いていました。様子全般にわたって。記録集に掲載されたのは一部ですけど。

池上:掲載されなかった文章や写真はどこかにお持ちなんですか。

仲里:写真は実は僕のところに帰ってきました。沖縄タイムスの社員で踏査行の代表者であった方から「これはもう、あんたのものだ」と。中国がちょうど改革開放路線を取ってダイナミックに動いていく初期段階の風景の一端を垣間見ることができる、今の中国から見たら貴重な写真になってるかもしれませんね。

池上:では第二のカメラを発見したところで、明日につなげましょう。

野中:ありがとうございました。