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瀬木慎一オーラル・ヒストリー 2009年2月24日

ルノアール巣鴨店にて
インタヴュアー:宮田徹也、足立元
書き起こし:河村明希
公開日:2011年4月30日
 

宮田:今日は午前中に横須賀美術館の芥川沙織展に行ってきました。

瀬木:ああ、沙織。

宮田:先生はかなり、芥川さんをご存知ですよね。

瀬木:ええ。絵を描き始めた頃から知っていますよ。彼女が描き始めたのは54年か55年でしょ。それから也寸志と別れて、それで間所と一緒になって。経緯は全部知っていますよ。死んだ後も全部作品の収蔵先を探したよ。東京国立近代美術館やら、世田谷美術館やら、京都国立近代美術館やら、みんな入れました。

宮田:そうですか。一番大きい作品が世田谷にありますよね。作家が亡くなっても、そういう世話をするというのはいろいろ大変というか。

瀬木:まぁ評論家の仕事でもあるんだよ、そういうことは。発見と同時に、どこに収めるかっていうね。それは評論家の態度にもよるけれど。作家と密接な関係を持ってやっている人は、どうしてもそういうことをやることになりますよ。

足立:密接な関係というか、瀬木先生は評論家として50年代にデビューして、活躍しながら、国際アートクラブの事務局長をされていましたよね。

瀬木:いや、事務局長ではありません。書記長です。本当は画家の末松正樹だったのですけど、あの人がパリに行っちゃったので、どうしようもなくて。それで私が引き受けて。ちょうど私がものを書きだした頃にね、昨日も話したけれど、結核が治って山からおりてきて、それで会った一人に岡本太郎がいて。太郎が「お前良い時に帰ってきてくれた」って。人が足りなくて困っているんだって。アートクラブをどうも立ち上げたけれど、末松さんもパリへ行ってしまうしね。困ったことになったって。ちょうどいいじゃないかって。岡本さんに頼まれて引き受けたのですよ。それで2年から3年くらいやったでしょうか、一生懸命。それから絵描きの集団だからね、まとめ役を進んでする人がいなかったのですよ。もちろん評論家では瀧口修造さんがいたのですけど、太郎さんに「君は芸術運動の経験があるから」と言われて引き受けてね。やりましたよ。一番やった仕事は「世界・今日の美術」展(1956年11月)。それで、末松がパリに行った理由はね、自分が映画の仕事をしていましたから、その関係で行ったのですけど、同時に「世界・今日の美術展」の準備でもあった。当地でアヴァンギャルドの色々な作品を見て、それで末松さんはその折衝を兼ねて行ったのです。末松さんって人はのんびりした人でね。事務的じゃないんだよね。ちっとも進まないし。時々連絡はあるのだけれど、しょうがないから、私が末松さんと連絡とって、それで徐々にまとまってきたのですよ。出品作家さんを決めて、出品承諾書をやってね。一方新聞社は朝日、それで展覧会場は高島屋と決まって、それからが大変だった。決まった時期にやらなければいけないでしょ。そこまでは本当に一生懸命やりましたね。そして予定したとおりにできたのですけれど、大変でしたね。あの頃は船で運んでいたのですよ。船の時代ですよ。だからなかなか大変で。あれで私は展覧会のオーガニゼーションの仕方を覚えたみたいなものですね。それが役に立ったのですね。それからもうひとつは、それで作家たちとかその秘書とか接触しましたでしょ。そのおかげで、その翌年1957年に私がフランスに行った時に、とても輪に入りやすかったですね。その段階で「あの展覧会やった男はこれか」と誰もが知ってますから。だから誰にでも会えたというのが良かったですね。そういうメリットが私にはあったと思います。

足立:今では「世界・今日の美術」展というのは、アンフォルメルを日本に初めて本格的に紹介した展覧会として知られているわけですけれど、そういうアンフォルメルを紹介するという意図はあったのですか。

瀬木:いや、それは私は既に詳しく書いているけれども、偶然なのですよ。ちょうどね、その時に岡本太郎が二科会にまだ所属していて、二科会を改革しようというので、その昔二科会にあった九室会っていう、あそこへ吉原治良とか、斎藤義重とか、当時の前衛作家たちの作品を集めて、陳列して目立つようにしたのですよ。それが東郷青児という人のポリシーだったから。戦前のそれと同じことを太郎は戦後にやろうとして、また東郷さんも承知してやっていったのですよ。始めは良かったのですけどね。そのときね、フランスの批評家のミシェル・タピエ、要するにフランスのアンフォルメルの推進者と目されていたミシェル・タピエが、太郎とのあいだで、九室会にこれを並べようという話があって、そのことを計画して。ところがいざ来るとなったら、二科の連中がみんな反対しちゃったのですよ。というのは、その前に九室会がもう始まっていたのですよ。それで九室会には、さっき言った芥川沙織とか、吉仲太造だとか、そういう二科に出品してくる中から、太郎さんが自分の目で見て、いいと思う画家を抜擢して、それで並べたのですよ。それから、それまで二科に出していない人も、外部にも呼びかけて、出品させるために説得して。非常に目立って反響が良かったのですよ。その分だけ、二科の連中は皆ジェラシーがあって。それでね、1回目はそんな感じでしょ。2回目やった時あたりからね、二科の他の昔からの連中は、ぶっ壊しに行くからって。それに九室会は、一番初めは(東京都美術館に)9室あるうちの1室だったのが、2回目あたりに2室に広がっていたのですね。そしたら彼らが今度はもう出さなくなって、ぶち壊しを始めたわけです。それで拒否できない。太郎が自分で選べるという前提だから。そして、九室会を目立たないようにするために、バラバラにしちゃったのです。各部屋に分散するように。そういうことで、そこへまたアンフォルメルの絵をもってくるということになったら、いよいよもう太郎に二科展を乗っ取られてしまうと思って恐怖を感じたんだなぁ。それで結局来ることになったけれども、展示場所がなくなっちゃったわけですよ。それで、その時ちょうど「世界・今日の美術」展が軌道に乗っていたわけですよ。そこで「それじゃもう一緒にやってしまおう」って。というのは最終段階で決まったのですよ。そういう怪我の功名みたいな形でね、「世界・今日の美術」展の中にアンフォルメルの、厳選されたものが20点か30点入ってくるというね。私が見たら、その中の何人かはいろんな画集で知っていました。こういう言い方は太郎には面白くなかったかもしれませんが、太郎は、アド・ラインハート(Ad Reinhardt)と、彼の古くから付き合いのあるクルト・セリグマン(Kurt Seligmann)なんかを選んでいたみたい。ちょっとね、時代が古いんだよ、もう。私はそれを感じていたのですけれども、ちょうどいいなと思って。じゃあ入れましょうということで。それで全体の陳列計画を立てたときに、私が基本的に全部やったのだけれども。彼らを1、2室に、集中したのです。一気に。

足立:なるほど。

瀬木:こっちのほうが、よっぽどいいって。そういうやり方をしたらね、どうも大きな反響でしたね。今でも覚えているけれども、フォートリエ、デュビュッフェとかそういう風な順番で、その先になんにも描いていないような絵があって。それで(ジョルジュ・)マチウ(Georges Mathieu)の絵がくるという。そうしたら、当時の一番新しいヨーロッパの傾向になりましたね。そうすると結果的に、太郎さんと仲間たちが選んだ画家たちというのはね、くすんじゃったかもしれない。あの中にはアルプとかあったのですけどね。昔のアプストラクシオン・クレアシオン(注:Abstraction-Cre´ation、1931年にシュルレアリスムに対抗してパリで結成されたグループ)と、今の画家たちでしょ。もうあの時は新鮮じゃありませんから。ポスト・シュルレアリストとはいったけれども。そんなことで、偶然というのがあるのですよ。それで後からあれはアンフォルメルを紹介した美術展みたいになっているけれども、そうじゃないのですよ。一部にしかすぎない。ただ反響からいうと、アンフォルメルを紹介した展覧会になっちゃったのですよ。ただ時代がそういうふうになっていました。

足立:いわゆるアンフォルメル旋風みたいなものに対して、瀬木先生の、具体的にはタピエが来日したときに、フィーバーに対して、冷静な美術批評を『芸術新潮』(「アンフォルメルをめぐるスキャンダル」1958年2月)に書いてらっしゃいましたけれど。でも全体として、画家も評論家もみんなアンフォルメルに染まっていったといわれていますが、瀬木先生はそれを見ていて、どう思われたのでしょうか。

瀬木:いやもう、日本の画家が流行に飛びつくのは、いつもとりあえずそうですから。アートクラブのメンバーを含めてね、独立と美術文化とか自由美術とかに、特に前衛系の美術団体に、みんなマチウ系の絵を描きだしたのですよ。あれには驚いてね。そしてまたそれが広がっていって。そしてなんと、あなた、堂本印象や杉山寧まで広がったんだなぁ。洋画の岩崎鐸とか。皆そうですよ。あの広がり方は恐ろしいものでしたね。呆れたね、もう。そういうことでした。

足立:私の見方だと、57年くらい、瀬木先生がヨーロッパに行って、展覧会づくりをお仕事にされるようになったわけですけれども。そうなっていくなかで、同時代の美術運動から段々と距離を置くようになっていったような印象もあるのですが。

瀬木:それは違いますよ! 距離なんか置きませんよ。ありえない。

足立:いえ、そういう意味ではなくて。

瀬木:今話しますよ。

足立:はい。

瀬木:その翌年だよ。秋にね、私はヨーロッパに行ったわけですよ。書いたかもしれない。パリに着いてちょっとしたら、朝早い時間だったなぁ。まだ眠りたいのですよ。8時くらいだったかもしれない。電話が鳴ったから出たのですよ。そしたらね、フォートリエだったのですよ。会ったことないですよ。ただ行くことは私が手紙に書いていたから。フォートリエは会いたい人の一人だったから。それでね、突然電話がかかってきた。それでね、あの人は面白い人だね。何を言うかというと、「君、フランスから行ったサーカス見たか」って。「ええ、フランスからサーカスが来たのですか? 私はロシアから来たサーカスなら見ましたけど」と言ったら、それで大笑いされて。「あの一党たちだよ」という。ミシェル・タピエのことだったのですよ。サーカス屋さん。興行者。これではっと私は気がついたのですよ。ミシェル・タピエの作った『Un Art Autre(別の芸術)』という本の中心になっているのが、フォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルス(Wols)、ああいう人たちだったのですよ。だからまさかね、フランス・アンフォルメルの中心の人から「フランスから来たサーカス見たか」って言われるなんて、本当にびっくりしましてね。
 本当に驚いたのだけれども、パリにしばらくそれで腰を下ろして、いろいろな画家に会いに行っているうちにその意味が分かりました。要するに、フランスでいう、アプストラクション・リリック。リリック(叙情)というけれど、あれは要するにエクスプレシオンですよ。表現的抽象ですよ。フランスではね、エクスプレスという言葉をそういう風に使わないから、意味が違うのですよ。それがだから、アメリカでは、アブストラクトとエクスプレッショニズムとで抽象表現主義という言い方になって、ほとんど同じ意味ですよ。そのフランスにおける表現的抽象の先駆者だったのが、今言ったような画家たちですよね。ところが彼らは、もうね、「世界・今日の美術」展を催した、56年から57年、その時には彼らは完全に離れていたのですよ。というか、そういうグループがあったわけじゃなくて、ミシェル・タピエの一つのタクティックですよ。戦略でそういう大きなグループがあるように、仕立てたのがあの画集(注:『別の芸術』)だったわけですよね。私たちは皆あの通り受け取ったのですよ。
 ところがその言葉どおり、フォートリエ本人からミシェル・タピエがサーカスだって言われてしまってね。びっくりしちゃってね、その当時。結局だから、「世界・今日の美術」展に来たのは、タピエ周辺の画家たちだったのですよ。つまり、マチウをトップとした。マチウとか、サム・フランシスとかね。それでもちろんあの中では先駆者であるフォートリエやデュビュッフェやヴォルスもいましたけれど、その時はもう彼らは完全にタピエから離れていたということが分かったわけです。まぁマチウはタピエとずっと行動を共にしたと思いますけど、サムは完全にもう離れて、独自の活動を始めるのです。もう始めていたのかもしれません。そういうことで、タピエの本当にごく周辺の画家っていうのは非常に少ない。もうちょっと次の世代のもっと若い画家たちだった。あの画集に載っていないような人たちがむしろ多かった。それはすぐに分かりました。
 そういうことでね、「世界・今日の美術」展は確かに、先駆者の作品が何点かは並んではいますけれども、そういう意味では、いわゆるアンフォルメル運動っていうもののアウトラインは伝えたかもしれないですけれど、でも、あの画集の中に載っていた画家たちは、即タピエ・グループではなかった。というのはね、今度はフランスでいろいろな連中と会っているうちに、いわゆるアンフォルメルの始まりというのは、画家としてはやっぱりヴォルス、あとデュビュッフェで、それからフォートリエもそういう要素がありますけど、こういう人たちが先駆者でね。この先駆者を発見して、推しだしたのはタピエではないのですよ。むしろ他の批評家で、シャルル・エスティエンヌ(Charles Estienne)です。この人は、あんまり著作はないけど、この人が本当のフランスにおける推進者で。だからある時ね、私はパリのサンジェルマンのホテルにいたから、夜になるとドゥ・マゴに行くのですよ。サンジェルマン通りのカフェ。そしたら、そこで紹介されたのがシャルル・エスティエンヌだったのですよ。だから本当に毎晩のように会ってね、話しましたけれど。

宮田:シャルル・エスティエンヌが見出したということに先生は気づいていた。

瀬木:もう彼からも聞いたし、位置づけでも。だってフランスでは周知の事実だもの。それともう一人は、エドゥアール・ジャゲール(Edouard Jaguar)。これは「コブラ(CoBrA)」ってグループの指導者ですよ。要するに北欧系のドイツ系の表現主義、北方表現主義の専門の団体ね。それがあのコブラですよ。コブラがその頃はね、皆有名になっちゃってね。自立する人も多かったけど。あとでファーズ(Phases)というグループになっていて、それも『ファーズ』って雑誌に出していましたよ。それをやったのがジャゲール。おそらくいわばアンフォルメル運動というのを形作っていく批評家としてはこの2人でしょう。それからタピエも関わっていく。事実そうですよ。アンフォルメルの画家たちには北欧出身の人たちが随分多いですよ。(カレル・)アペル(Karel Appel)もそうだし、何人もいますよ。でね、ミシェル・タピエは、やや遅れてこれに関わるわけだけれども、このときはもう閉塞していたけれど、タピエが発見した画家というのももちろんいますよ。追随したというわけではなくて、時間的には少しずれて加わっていく。加わるというか、そういうグループがあったわけじゃないので、おかしいのだけれど。その彼の画家たちには、イタリアの画家とか、それからサム・フランシスのようなアメリカの画家、それから、カナダの(ジャン=ポール・)リオペル(Jean-Paul Riopelle)。その女房のジョアン・ミッチェル(Joan Mitchell)。ああいう系統がたぶんタピエの直系といえるかもしれませんね。そういう意味では、イタリアのある部分と、それからアメリカ。特にタピエはアメリカとイタリアのトリノが拠点だったの。だから具体や何かに彼が接触して、紹介するところは、勅使河原蒼風とか、あれはトリノですよ。パリももちろんです。スタドラー(Galerie Stadler)という画廊があって、それらがタピエのコモン・センターでしたけれど。このパリのスタドラーとトリノだった。この2つとニューヨークね。特にニューヨークとの接触は。フランス人はアメリカ嫌い、あの頃は本当にアメリカ嫌いだったけれども、タピエは本当にアメリカ文化が好きで、積極的にアメリカへ入っていったのですね。まぁそれが要するに、実際のパリの芸術の流れですよね。それを日本じゃもう、ミシェル・タピエが始めた運動だって。だってほら、フォートリエ、デュビュッフェなんてその頃は有名だから、盛んにタピエも文字にし、口にもしたけれども。実際には彼らは離れていたのですよ。それがあった。それで当時『芸術新潮』に書いたのですよ。実際にはこうであるというね。

宮田:先生が向こうに行かれなかったらなかなかね。

瀬木:分からなかったですよ。やがて分かることになるわけだけれど。でも日本じゃもう、絶対的なアンフォルメル運動という単一グループがあって、タピエをその唯一の指導者というふうに見ていたのですよ。私はね、そういう見方は間違っているということを、書いたのですよ。またそれに便乗した日本の画家たちがいたわけですから。具体は別ですよ。具体はタピエに発見されて、そしてヨーロッパに紹介された。

足立:具体に関しては、瀬木先生はそれなりに評価されているのですか。

瀬木:ええ、だって第1回展の時から知っているもの。小原会館でちょうど会合をやっていたんだよ。そして同時にあの時、岡本太郎が青山に家を建てて、アトリエを建てて、それで現代芸術研究所を作って。私はまたアートクラブの方は、立ち上げて2、3年で、現代芸術研究所の方に専心しました。そして、小原会館が一番近いからね、あそこを会場に使わせてもらって、現代芸術の会っていうのをかなり盛んにやっていたのですよ。ちょうど具体の第1回展覧会というのは、小原会館で。3回目くらいまで小原会館じゃないですか。小原流というのは、拠点が関西でしょ。吉原治良と親しかったしね。吉原さんがそういうふうにしたのだと思います。だから第1回展は見ていますよ。それで早くからそれなりに評価されていた。それで第1回展かどうか分からないけど、美術雑誌に書いていますよ。それから間もなくして、というかその頃大阪が活発だったから、よく行きました。講演を頼まれたりね。それで彼らともね、自然に打ち解け合って。東京画廊における元永定正展というのは私がいたしましたね。東京画廊のほうから、前衛の画家たちをやろうという時に、私がアドバイザーになって、その時にやった第一群の画家ですよ。

宮田:先生は本当に作品を見て、評価してらっしゃったのですね。なかなか具体が評価がされなかったように書かれて今研究されていますけれど。

瀬木:いや東京では知られていなかったから。あの芦屋でやっている頃というのは、もとより無理なのですよ。それで東京でやるようになって、我々が認識したのですから。それは止むを得ないですよ。そして東京でよく知られるようになったのは、サンケイホールを使って、彼らのアクション、ハプニングみたいなものをやったからね。だから上手にやりましたよね、彼らはね。面白かった。あれで初めて東京の人間というか、全国的に認識したのですよ。そしてミシェル・タピエが、あれだけ熱心に紹介したから。ヨーロッパ、アメリカへ持って行ってね。それはタピエの功績ですよね。もう一人、一番得したのは、勅使河原蒼風という人。

足立:そうですね。

瀬木:蒼風が海外に知られたのは、全部ミシェル・タピエのおかげです。

足立:なるほど。

瀬木:外交ルートでやったものもあったかもしれないけれども、トリノをはじめとして国際的に、ニューヨークにまで展示した。あれはミシェル・タピエです。まぁお金を一番むしり取られたのも蒼風ですけれど、一番得したのも蒼風です(笑)。それと吉原治良です。もちろん吉原は金持ちですから。

足立:やっぱり具体もタピエの方にかなりのお金を払っていたのですか。

瀬木:それは、あるでしょ。だから紹介、講評をしろというね。

足立:ああ、なるほど。

瀬木:(だから)フォートリエはああ言ったのですよ。

宮田:何というか、戦略にかけてはものすごい上手かったというかね。

瀬木:上手でしたね。だからそういう点では、先駆者ですよ。マーケットというものに画家を入れることによって、日本の活動の基盤を固めたということは言えると思いますね。

宮田:現代美術でそうしたやり方をやっている人はいないですよね。

瀬木:いや、そんなことはないですよ。半分の批評家というのは、そういう仕事なのです。だから、日展とか二科会とかのことを書くのは違いますよ。批評家の社会的役割というのは、やっぱりマーケットをつくってあげるということですよ。

宮田:まさにそういうところも、瀬木先生が長いことやってこられたところですよね。

瀬木:そうですね。私はサトウ画廊でやってきたものですからね。頼まれたアルバイトですけど、あれで画廊ってものはどういうものであり、どうやるものなのかということを学んだのですよ。あの前から、養清堂画廊のアドバイザーを私はしていたのですよ。その後、サトウへ。並行しながら2つ、面倒を見ていたのですけれど。それで、それを見ていた東京画廊の山本孝がね、自分もやりたいと言い始めたの(笑)。彼もヨーロッパへ一回行って画廊を見てきてね。画商っていうものの役割を彼なりに考え直して、それで私に依頼してきて。それで一連の企画を3〜4年やりました。その後、一時期は随分と活発でした。その前に南画廊もやります。南画廊の志水楠男は東京画廊の共同経営者だったのですけれど、ある時から彼は独立して、南画廊を開いています。そして、彼は山本孝よりもっと鋭敏に、もっと広く画商の在り方というものを学びとって、知っていたわけですよね。そういうことで志水の南画廊のほうが、画家にただ会場を貸すんじゃなくて、自分が評価する画家のために、画廊というものを活動の場所として提供して、同時に彼らをマーケットに入れるということを一番早く実行したと思いますね。そしてまた20代だった山本孝がそれを見て、自分もこういうことをやろうという風に、一歩遅れてやったのだけどね。

足立:展覧会をつくるという仕事はやっぱり、マーケットをつくるという批評家としての役割と絡んでくるのですか。

瀬木:展覧会というのは、どういうふうな展覧会を考えているの。

足立:57年くらいから、シャガール展やピカソ展といった、いわゆるモダン・マスターの展覧会を作っているじゃないですか。

瀬木:そうね。シャガールは有名でも、日本で知っている方は少なかったと思いますよ。実際、シャガール展の歴史の中で、1963年に私がやったシャガール展が一番充実していると思いますよ。私がやったシャガール展が世界で作品を一番集めたものです。でもあの頃、(観客は)大して入らなかったですよ。1日1000人くらいしか入らなかったんじゃないかなぁ。2000〜3000人は入るんじゃないかと思っていたら、まだあの頃はね、だめだ。ゆとりとか何とか言っていた時代でしょ。

足立:シャガールをちゃんと見ることで、同時代の美術の理解が深まるといった意図はあったのですか。

瀬木:いや、シャガールを見ようというよりは、シャガールが分からないのですよ。「ジャガールさん」なんて言う人がいたのだから。

宮田:まずは知らしめる。

瀬木:もちろんそうですよ。それは日本ではもっと早く紹介されるべき。それは雑誌とかには載っていましたよ。でも実際の作品は皆無に等しかったわけですから。私の本に書いてあるけれども、マチスやブラックだの、ピカソだの来たけれども、シャガールは来ていなかったから。あれは私の仕事だった。それで西洋美術館が来てくれたのですけれども。当時の富永惣一館長が是非やろうと言って。実行したらうまくいったのですけれど。それからもう1つはピカソですけれどもね。64年に近代美術館でピカソの大きい展覧会があって。それまでにピカソは小さい展覧会がいくつかあった。《ゲルニカ》の全シリーズを持ってきてやったのは西洋美術館ですね。「ピカソ・ゲルニカ」展って。今はマドリッドに所在の壁画は持ってこられなかったですよ。傷んでいたから。あれ以外は全シリーズですよ。あれは62年頃にしているんじゃないかな、シャガールの前に。63年にシャガール。64年にピカソの大回顧展。ピカソはその前にやられているのだけれども、小さすぎてね。学生時代に見て、こんな小さい展覧会じゃピカソは分からないやというね。焼き物や版画が多かったしね。私は本格的にやろうと。それで、ピカソをかなり世界中から集めてきましたよ。特にシャガールとピカソはあの頃の鉄の扉をあけて、あなた、ソビエトまで行って引き出したのですから。どうしてできたのか未だにわからない。あのすごく頑なな、排他主義的、そして官僚主義のコチコチのどうしようもないところからよく借りられたですね。奇跡的でした。

足立:ソビエトに入国するだけでも結構大変な頃ですか。

瀬木:いや、入国は難なくできましたけどね。

宮田:今ね、そうやってピカソが一番スタンダードだというのは、やはり瀬木先生のお力があるのでしょうね。

瀬木:いやいや、そんなことはない。私の力ではない。それは世界の存在ですよ。私個人ではありません。ただ最初に大きな展覧会をしたというだけで。私がしましたけれども。あの人達の存在の大きさですよ。

宮田:そうですよね。

瀬木:それからさっきの質問。展覧会とマーケットとどう関係するか、それはだって観る方も多種多様ですから。これを見て買いたいって言う人が出る、これを扱ってみたいという画商が出るかもしれないですから。それは結果です。あくまでも鑑賞者に届けたいと思いますね。そういうことをしただけです。私は。

足立:それと瀬木先生のお仕事は、どんどん多様化していくと言ったらいいですか、最初は文章を書くだけの人から始まって、オーガナイズしていく人、そして展覧会をつくる人、マーケットをつくる人、というふうにどんどんお仕事の幅が広がっていくように見えます。

瀬木:それは欧米でみたら、殆どの批評家はそれをしているのだから。そうでないのはアカデミシャンですよ。それは批評家じゃないのですよ、そんなもの。大学に勤めたり、美術館に勤めている人ですね。ただ彼らだって、展覧会を自分でオーガナイズするというのが仕事ですし、それがまた評価されるという大きな材料になりました。展覧会をオーガナイズするくらいの力がなかったら駄目ですよ。その作品との関係において、またコレクターを動かすとかね、これは職業です。あとは文学的な、そういうタイプの批評家もいますけれども。これはまた詩人みたいな状態ですよね。詩人で物書き的な、中には優れたひともいて、それはそれで立派ですけれども。大部分の批評家はみんな展覧会をオーガナイズします。マーケットとの接触はよく分かりません。それは人によりますから。積極的にタピエみたいに入っていく人もいるから。たまたま結果としてそうなる、というほうがむしろ多いかもしれないよね。というのは、マーケットというのはやっぱりディーラーとコレクターがつくっているんだよ。あの人たちの力というのは、これは強いですから。特にディーラーというのは知的な職業の最高位です。そう言っちゃ悪いけど、日本の画商さんとは違いますよ。第一に知識が違いますよ。それから欧米の画商さんは絵を売っても頭なんか下げませんから。「ありがとう」と言うだけです。物を売るほうが逆に構えていますよ、ちゃんと。この人はどれどけ知識があるか、ないか。そして、相手に買わせていくのです。だから買うほうも力がないと駄目ですよ。いいものを見せてくれない。それはもう19世紀末のアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard)以来そうですよ。あるいは、ピカソの最初の画商だった(ダニエル=ヘンリー・)カーンワイラー(Daniel-Henry Kahnweiler)ですよ。ああいう人たちを私は「学商」と言っているのですよ。学商が大体ヨーロッパの画商なんですよ。水準の高い美術商だと思いますね。聞いたことあるでしょ、これは有名な話だけれども、「居眠りのヴォラール」って有名で。人が来たって、ちょっと話しているうちにこっくり、こっくりしちゃうのですよ。本当に居眠りしたのか分かりませんけど。それでセザンヌを一気にあの人が発見して、全部持ってきちゃったから、お客さんが「何か見たい、見せてくれ」って言って、もちろん画廊には飾ってあるけどね。「それ以外にもっと見せてくれ」と言うと、風景からとか、りんごからとか、一番大したものじゃないものから出してくるわけですよ。だからそれで飛びつくようだったら、もうそれっきりですよね。「いやもっといいのはないか」とか、そういう火遊びが終わって、「またもっと何か見せてくれないか」って。あれはアメリカのバーンズ(Barnes)が来た時に、粘りに粘って、やっと大作を手にいれますよ。それで、その時にいよいよ支払いになったら、現金だったからね、秘書か何かにトランクに札を入れて持ってこさせたわけですよ。そしてあなた、バーンズに数えさせたのですから。自分で数えないでね。それぐらい大ディーラーだった。

宮田:いや、本当に考えが違いますね。

瀬木:違いますよ。というか、普通の取引だと、「これを買ってくれ」とかいうけどね、そんなことやりませんよ。自分の方が黙って見ていますよ。それでもちろん、説明や解説には丁寧にやりますけど、ただ、それだけですよ。なかなかそれ以上のことはあまりしない。

足立:そういうことを考えると、確かに日本の画商さんでそこに近かった方はいらっしゃらないですか。

瀬木:日本なら商売になりませんよ。

足立:それは国民性の違いとか、そういうことですか。

瀬木:ただ骨董商や、日本画商にはいましたよ。

足立:そうですね。

瀬木:だけど、さっき言った南画廊の志水なんていうのは、彼は優しい丁寧な人だったけど、やっぱり客を見て、判断していたのですよね、たぶん。「これ買ってください」というようなことはない。だから彼は大原さんに気に入られて、あれだけ美術館との接触があった。それから新しいのは堤清二さんですよ。やっぱり志水も、今言った堤さんも、知的な信頼ですよね。そういう例はいくらかありますよ。要は、その若い世代のディーラーの中には、そういうことが分かっていて、そうあろうとしてきた人もいて、成果も生んでると私は思いますけどね。ただ、それじゃ日本だとお客を掴めないですね。日本の客は不勉強で、傲慢ですよ。だいたいあなた、画廊には来ないのだから。それであなた、社室に持ち込ませてさ、それで買うのですから。そんな怠け者は駄目ですよ。バーンズみたいに、ロックフェラーなんかもそうですけど、たった50ドルかなんかのちょっとしたものを買うのに、2回も3回も画廊に見に来たなんていう。自分から画廊へ行く、アトリエへ行く。日本ではそんな風にして買う人はそんなにいないでしょ。そして(アメリカでは)皆、大金持ちだけど、けちんぼで。イザベラ・ガードナー(Isabella Gardner)なんかひどいよね。女中さん1人を置いて生活したのかな。それで毎日、「林檎を1つ買ってきなさい」って言って買うのです。だって林檎なんか、我々は3つや4ついっぺんに買うでしょ。「林檎1個買ってきなさい」って、そういう慎ましい生活を送っていた。

宮田:もっと豪奢なイメージですからね。

瀬木:こんな話ばかりで良いのかな。

足立:いえ、とんでもないです。では、オーラル・ヒストリー共通の質問の一つなのですけれど、瀬木先生はご結婚されているのですか。

瀬木:もちろん。子供も二人います。

足立:失礼しました。いつ頃ご結婚されたのですか。

瀬木:何年だっけな。今は上の息子が40半ばになってきたのかな。下のやつは40ちょっと過ぎでしょう。

足立:その、美術関係とかではなくて?

瀬木:上のやつは、私が一番好まないのだけれど、なんか美術史みたいなことをしているんだよ。

足立:そうなのですか。

瀬木:アポリネールを研究してるから。その周辺のことを。

足立:お2人とも……

瀬木:下はミュージシャンなのですけど。瀬木貴将といって世界中を飛び回っているのがいるじゃない。

足立:そうなのですか。知りませんでした。

瀬木:彼のディスク、ありますよ。CD屋には彼の棚もできているかもしれない。これも私の悪いところをひいているせいで、自分の創った曲しか演奏しないのですよ。それはサービスにね、スタンダードな人のものもやるかもしれないけれども。ほとんど自分の曲。

足立:共通の質問事項がまだ幾つかあるのですけれど。瀬木先生の普段の仕事の仕方、日常についてお伺いしたいと思います。77年に事務所をつくられて、総合美術研究所、最初は東美研究所をつくられて、ご自身の活動を法人化されます。ご自身の執筆を含めて、そういうことを事務所の仕事としてアシスタントさんと一緒にやる、というふうに変わったのでしょうか。

瀬木:そうしないとできないもの、そんなことは。個人の範囲じゃないからさ。一番はじめの動機としては、東京美術倶楽部が間もなく創立70年になるというので。日本のこの業界にはサザビーズやクリスティーズみたいな、マーケットのデータを集めているようなところがないのですよ。その前から私は、個人的にたくさんマーケットについての本を書いていますから、私に是非そういうことをやってくれないかと言うから、引き受けたのですよ。それで明治以後の、つまり東京美術倶楽部が明治40年代の終わりごろにできますよね。あの頃からの資料が、完璧ではないけれどかなりあそこへ集まっていたから、これを使ってやってくれないかと言われて。そしてそれをまとめて、『東京美術市場史』(東美研究所編、東京美術倶楽部、1979年)という本にしたわけですよ。それからまた30年経っちゃって、この間100周年でまた別の人たちで作りました(『美術商の百年 東京美術倶楽部百年史』東京美術倶楽部百年史編纂委員会編、株式会社東京美術倶楽部・東京美術商協同組合刊、2006年)。

足立:そうですね。

瀬木:『東京美術市場史』を後続するようなかたちになったわけですね。これがね、マーケットの総括、包括的なデータはこれしかないのですよ。他は誰もやっていないから。そうでしょ。東京文化財研究所にしろ、大学にしろ。この頃は大学でもやる人はでてきたようだけれど。これをやってみてね、いやー大変な仕事でしたね。私はもう少し軽くできるかと思っていたけれど。やるといったって、個々の売買の記録というのは、買った人か売った人が何かを残してない限り、ないわけでしょ。みんなこれは、個人的なものであり、散発的なものですね。それが非常に少ないのですよ。欧米の画商みたいに売ったものをちゃんと記録しているという、台帳のようなものはないですよ。だから買った人も、いつ買ってきたのか分からない、というようなことだね。すごいことだね。美術倶楽部は、要するにあそこは売り立て所で、入札所ですよ。だから入札目録がかなりあるので、引き受けてみたのですよ。でも、どれを見たって値段が書いていないのですよ。これには参ってね。値段がなければ殆ど意味がないでしょ。

足立:そうですね。

瀬木:それでね、どうしたらいいのかなって思ってね。考えたら、中に手書きで、その時の落ち値を書きこんでいるようなものがいくらかあったのですよ。この中から、じゃあ古くからの美術商に相談すれば分かるかもしれないな、と。接触してみたら、何箇所かにはかなりあったのですよ。それから当時、戦前までですけれど、そういう業界が一時期あったのですよ。美術倶楽部の落札値を報じる、そういうことをするような。そういう雑誌みたいなものがあったのですね。しかしそれもほんの一部なのですよ。それでこれでは駄目、とても話にならない。東京のその業界、日本の業界というのは、五都会というね、会を組織しているというような、今でも続いているのですけど。

宮田:5都ですね。都の。

瀬木:東京、大阪、京都、それから名古屋、それから金沢です。それで名古屋は入らないのですけど、この頃は名古屋も加えて、それと福岡なんかを入れて七都というような言い方もありましたけど。ともかく五都にみんなそれぞれの美術倶楽部があったわけですよ。それぞれのところに接触したら、落ち値が入っているものがかなり見つかったのですね。それからもう一つ意外だったのは、あれは何というのですか、大阪の逸翁美術館があるところ、小林一三のことですよ、逸翁というのは。小林一三の逸翁美術館にかなりあったのですね。それは小林一三自身が落札に参加していたから、秘書かなんかに、いちいちつけさせていたのでしょうね。あそこは本当に有難かったですけどね。あと永青文庫とか、財閥系の美術館も。八方手を尽くしましたよ。そして値段を把握したのですよ。それでね、100円以上にしたのですよ。それより安くては仕方ない。カードを何枚作ったかなあ、11万件だと思いますよ。大変ですよ。それだって値段のついているのは目録の1割もないですよ。明治40年代から、すごい件数ですからね、何百万というのですから。あの頃はやっとコンピュータが始まったばっかりだから、民間なんかにはないですよ。でもどっちみち本をつくらなきゃいけないから、凸版印刷に相談したらね、凸版印刷に大きなアメリカかドイツかから輸入したばかりの機械があって、そこへ入力するということをした。それにしたって、カード1枚1枚違ったように作っていくわけだから。十何人のスタッフを集めて。そして手書きでしていったのですよ。まぁ大変な仕事でしたね。
 それからもう、どこぞに、金沢の美術倶楽部に10冊あったとか何とかというと、そこへ派遣して書き写してくる。何日も泊まったりして。そんなことをしていたのですよね。そうしてやっと11万件。それと困っちゃうのはね、手書きでしょ。読めない、それから虫食いしているのもあるのですよ。それから目録を見ると100円と書いてあるのがね、90円だったりしてね。さぁどっちが本当か分からないというね。いっぱい問題点もありましたけれども。ともかく大体これで間違いないだろうっていう11万件。そのうちの高額なものが2万件かな。本にしたのですよ。関東市場の美術市場、あのインデックスを見てね。これは東京美術倶楽部でやった売買のあったものを含めてなのですけれど。同時に大阪でやったり、京都でやったものでも、東京でもう1回、その後とか前にやることがあるのですよ。2か所、3か所で同じものを。そして最終的に、値段の高いものに落ちてくる。だから大阪の売りたても東京でやったものは全部、京都のものも金沢のものも、東京で売ったものは全部対象にしていたのですよ。そうしないと数にはならないし。やっと11万件。そして2万件をデータベースに入れたのですね。
 それでね、あれはもう1979年でしょ。この前、『100年史』をつくるというときに、データベースでどうなっているかということが問題になって。そして凸版に聞いたのですよ。そしたら、あの時のディスクなんてものは全然駄目です。劣化しちゃって使えないです。ああいうものは本当に使えませんね。今だって同じだと思いますよ。どれだけデジタルになったって、必ず劣化するから消えます。特にカラーのものなんていうのはどう考えてももたないです。5年以上経ったら劣化し、もう10年以上経ったら使えなくなっているのじゃないでしょうか。それはね、アナログでもデジタルでも同じだと思いますよ。

足立:そうですね。

瀬木:いや、まぁそんな重要な仕事をやってみて、これらは良い勉強になりましたね。それであらゆる種類の美術品、あるいは骨董から装飾品まで、実際に触れましたからね。良い勉強になりましたね。それから、いろいろな画家や職人の名前が、随分頭の中に入りましたね。

足立:基礎中の基礎がそこにあったわけですね。

瀬木:ええ。私にとってプラスだった。ただ不幸はね、その東京美術倶楽部が、あれを基礎にして、あそこにデータ室を作るということになっていた。ちょうどあの時に建て替え問題が起きたのですよ。なかなか良い建物でね。明治か大正の建物でしょ。色は良いし、それから視界もよく開かれていて、とっても良い建物だったのですけれど。もう古くなったというようなことをね、建設会社におだてられて。それに高層化して、半分か3分の2くらい貸せばね、家賃が上がって、経営が楽になるというようなことをそそのかされて、今の高層ビルになったのですよ。そしたらそのために、ものすごい借金を背負っちゃったわけですよ。今でもまだ残っていると思いますよ。あれでね、美術倶楽部の活動というのは衰えた。というのは私に25坪かな、50坪かな、そのくらいの一室をくれて、それでそこで続けてもらいたい、指導してもらいたいと言ってたんだけど、結局それで借金を背負ったので実現しませんでした。というのでしょうがないから、私はこの仕事は自分でやっぱり続けていかなくてはいけないと思い、それで自立したのですよ。それで東京美術研究所ですね。まぁそういうことです。

足立:総合美術研究所の名前の由来も教えてください。

瀬木:いやだから、美術倶楽部でやった時は、東京美術倶楽部だから「東京美術研究所」だったのですけど。

足立:「総合」に込めた意図というのは。

瀬木:いや特に意味はありませんけど。ええ。特にありません。

足立:事務所をもたれるようになって、仕事のやり方は変わりましたか。

瀬木:いや、そんな。要するにね、日本の市場ももちろんだけれど、美術館に何があるかなんていっても、何もなかったのだから。今はみんなやるようになったけれど。美術館自体でもやるし。やっぱり大学なんかでもね。それから文化財研究所なんかもやっているのですかね。何も知りませんけど、まぁ私のあの仕事が刺激にはなったとは思いますよ。

足立:そうですね。

瀬木:こんなの1か所でできっこないのですよ。無理ですよ。いろいろなところでやらなきゃいけないし、そうして集まったものをまた総合化していかないと。そんなデータベースは短期にはできなくて。私は私でね、やり始めました。私は世界のマーケットを把握するというのを目的にしていました。そこを重点において、この30年間やってきてますよね。

足立:瀬木先生の今日のお話にも出てきたように、単なる書き手からオーガナイザーとしての展覧会づくり、そしてマーケットに関わっていく、いろいろに事業を広めていく、その展開の必然性というのは今日のお話を聞いていて分かってきました。ただ、不思議に思うのは、実際にそれだけの仕事をする時に、もとになるモチベーションとか体力とは何なのでしょう。これは全然アカデミックな質問ではないので、恐縮なのですけれども、そういったエネルギーの源といいますか、仕事の仕方のコツといいますか、そういったところを教えていただけないでしょうか。

瀬木:(笑)。

足立:これも抽象的な質問ですけれども。

瀬木:そうね。どういうふうにお話ししたらいいか分かりませんけれども。最初の質問にも多少答えながら、話しますけど。私は、自分はどういう人間かというのは考えてみると、「民」なのですよ。「官」ではないです。「民」なの。それからね、いろいろ芸術運動には関わりましたけど、私は集団的な行動を好まないのですよ。ただ戦後の一種の啓蒙期みたいな時には、さっき言ったようにアートクラブに協力したりとか、それから現代芸術研究所ですね。実際的な推進もしました。あの現代芸術研究所というとね、現代芸術の会というのを2〜3年やって、あそこから随分といろいろな人が出てきたのですよ。池田満寿夫なんかもその聴講者の1人ですけどね。意味はあったかもしれない。ただもう、啓蒙活動っていうのはすごい時間と労力と金がいるのですよ。例えば会員が500人なら500人できるでしょ。集会をやっているぶんならまだいいのですよ。案内状を出す。機関誌を薄っぺらいのをつくりましたとか、いろんな処理をするっていうとお金。今はパソコンみたいなものがあるからね。宛名なんて、すぐプリントできて貼ればいいのかもしれないけど。みんな手書きでしょ。何百人いたか知らないけどね。もっといたかもしれない。大変ですよ。月1回それを出すの。あの岡本太郎までも見ていられなくなっちゃってさ。封筒を貼っちゃって。みんな必死になっているからさ。手伝うというかもう、太郎さんも太郎さんで、こういう仕事は大嫌いだしね。もうあれ見ているうちに嫌でした。あの随分熱心な啓蒙家が、自分からやりたいと言い出して始めたのですよ。大衆、大衆って。あの人は大衆が好きで、集団が好きですから。それでも彼も参っちゃって。それから金なのですよね。会費なんてものは、こんなに集まらないものないですよ。未だにそうでしょ。例えば同人雑誌を出したって、会費が集まらない。学会費だって集まらない。今も学会に関わっているけれど。皆払わないものですよ、お金なんてものは。そしたら、どんどん累積していくわけ。太郎さんも、稼いでも稼いでも、もう馬鹿馬鹿しくなってくるわけですよ。あれだけ埋め合わせなきゃならないわけだから。それでね、2年から3年やったなぁ。一生懸命にやって、みんな無料奉仕ですよ、そりゃ。丹下健三から南博(社会心理学者)から、そういう人たちがみんな友情で来てくれたわけですから。石田一良先生(注:歴史学者)とかもそうだ。それでもあなた、すごい赤字になっていくわけだよ。スポンサーもできる限り見つけたけどね、たまらなくなって。あの啓蒙家の太郎が、「おいもう止めろ」って(笑)。「啓蒙はやだ」って言いだして。
 それで現代芸術研究所は、制作の方に重点を置くようになったのですね。あの頃、当時はいろいろつくったけれど。公園の椅子なんてそうですよ。それから色々なグッズですかね。クラフトのようなもの。あるでしょ飛行船とか、それから玩具みたいなものをひたすらつくった。丹下さんは太郎さんから、いろいろ設計を頼まれたりね。あの人も、よその制作もね、もちろん他のアーティストも一緒に何かやっていたのですけれど。それをやっているうちに《太陽の塔》ができたのですよ。そしてあの大仕事に取り組んで。それで初めは評判が悪くてね、ところがあれで、太郎さんももう腐っちゃってさ。みんながボロクソに言うのだもの。グロテスクな変なものを造ったなんて言ってね。ところがあそこへお賽銭があがることと、子供がみんな大喜びするってね。ああ、ガキとジジィ、ババァだけだなんてね(笑)。と言ううちに、ばーっと広がったのですよ。結局《太陽の塔》で万博を成功させた。まぁ丹下健三にしてはちょっと面目がなくなっちゃったかもしれないけれど。あの屋根だけじゃとても人気が湧かなかったでしょうね。ただ太郎さんにとってあれは大きな転機ですね。今度はもう、モニュメントというと岡本太郎ですよ。全国にこんなに、モニュメントがある人なんていないじゃないですか。あれ以来、佐藤忠良、朝倉響子、それから流政之たちも随分、野外彫刻の時代を作ったし、相当数もあるけど、太郎ほど大きなものであんなに全国にある人、ちょっと珍しいのではないでしょうか。
 そんなことで、現代芸術研究所というのはそういうふうな。それでちょうど、あの時期ですよ。つまり70年代のあの時期は啓蒙期。日本全体がね、啓蒙家が本当に創造していく時代になっていくのですね。大きな転換点だと思いますけれど。それまでに、安保が2回ありまして。反米闘争っていうのが続いた。反米はずっと戦争中もあったけど、今度は一斉にみんな親米に転換していくのです。当時の反米の先頭に立った連中もみんな、社会主義陣営になると普通になって親米になる。本当に目覚ましく転向する人も出てきて。そして日本の社会も変わっていくわけですよね。他方にはソビエトに対する失望もあったと思いますけれど。結局日本はね、アメリカへの輸出で経済発展してきたということは間違いないですよ。それは遡れば朝鮮戦争です。あれが日本経済を立ち上がらせたのですよ。昨日話したように、我々が塗炭の苦しみをしていた、あの状況ができたのは1950〜51年ですから。朝鮮戦争が終わると、みんなアメリカ軍が引き揚げて撤退してくるでしょ。だからいっぱいポンコツがあったのですよ。いろいろな。そういうものをみんな日本の方へ運んで。アメリカまで持っていくことはないから。日本に持ってきてスクラップにして、スクラップを素材にして、日本の生産が発展していくのですよ。それを今度日本で自ら作れるようにできてきたし、それから小型自動車と、ソニーのような小型電機、そして小型コンピュータね。そういうもので今度アメリカに対する輸出がどんどん増えていって。アメリカのお金で、皮肉なことですけど、日本の経済というものは発展していく。
 それと共に、日本人の大多数の思想、思想というかものの考え方というもの、大きく変わっていくわけですね。だから、大体70年くらいで「戦後」は終わったというように私は考えています。それは文化の面でも私はそうだと思うのですけど、美術の方でいえば、さっき出たけど、アンフォルメルというのは60年代の2~3年後には、まだ数年続いたと思うが、急に消えちゃうのですよ。もうあの頃はどこの画家のところに行っても、アンフォルメルというのはああだ、こうだと言っていたのが。後はなんだかね。写実みたいなものに戻ったりなんかしてね。アンフォルメルをやっていたのが馬鹿みたいになるのですよね。そして、あの頃アンフォルメルをやっていた人たちはみんな、その絵、捨てるか消しちゃったりしていますよ。アンフォルメル時代の絵というのは、わずか数年間くらいで、今度は恥みたいになっていきますね。
 そこへ入ってきたのがポップ・アートですよ。それから、キネティック・アート。それからすぐ別の方向へ行って。そういうふうな大きく転換した。だからポップ・アートというのは、ちょうどアンフォルメルをやっていた連中の中の1番若い部分。それがちょうど60年の安保の時ですよ。ネオダダやっていた連中、あのとき反対運動のデモに参加しながら、安保反対じゃなくて「アンフォ反対」って叫んでたっていうけどね(笑)。実際にアメリカにおけるポップ・アートは、イギリスから始まって広まるのですけど、(ジャスパー・)ジョーンズ(Jasper Johns)や、(ロバート・)ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)、彼らが台頭してくるのが60年代の初めですから。あの頃まではパリへ行くと、その前の50年代のパリっていうのは、アメリカ人がたくさんいたのだけどね。それがみんなアメリカの画家で、アメリカでは評価されない人間がパリに来て、サロン・ド・メとか、個展をすることで、アメリカで評価を得たわけですよ。私はサムと会ったのもパリだったよね。あと、ジョーンズ達にも会ってますよ。パリに滞在していた。

足立:50年代ですか。

瀬木:うん。フランスの画廊の中でも、そういうふうにアメリカの画家にも目を向ける者が出てきた。そして今度はアメリカの画商自体が、パリに進出してくる。まぁそういう時代で。今度はアメリカの画家が今度はパリで、威張ってくるのですよね。俺はアメリカの画家だというふうに。開き直るみたいな。それが60年代の後半から70年代にかけてかな。そしてフランス人もそれまでは、反アメリカで、ともかくアメリカ的なものを嫌ったのですけれど、あの頃から大きく変わってきましたね。それで、我々批評家の世界にはね、「パリ・ニューヨーク」という論争があった。私が寄稿した『シメーズ』なんか、そこに第三の極としてミラノとか東京というものがあると。あの頃は本当にね、日本が、これはミシェル・タピエなんかを先頭にして、日本に来て、それから具体なんかを持ってくる。なんかそういう、人の足がかりが出来上がってきていたのですよ。日本恐るべきというような。そういうこと。
 特にパリにいる日本の画家の中にも、菅井汲とか田渕安一とか、それからあと向井修二なんかも入るかもしれないけれど、何人かは活躍したでしょ。日本の進出というのは、やっぱり強く見えたと思いますよ。だから日本を第3の極とするということで、あの頃のフランスの画家は盛んに日本で展覧会をやらせてくれというのが多くてね。困ったですよ、頼まれてね。だから東京画廊や南画廊が何人かやってますけど。特に南画廊がね。アメリカの画家のいい展覧会をやりましたけど。だからあの時は日本が非常に強く印象付けられた。ちょうど70年代になると、今度逆に日本の消滅、ということが言われるようになりましたね。委縮していくのですよ。そしてポップ系の連中はね、今度はニューヨークですよ。学生もだんだんパリに行かなくなって、ニューヨークへ行く者が増えてきて。結局だから、ニューヨークの方がある程度レベルを上げて、圧倒的に若いアーティストはニューヨークへ行くことが多くなってね。アメリカの比重が非常に大きくなっていますね。パリに行くのがだんだん少なくなったというのは、フランス自体がもう沈没しているのですよ。今、フランスの画家として誰かいますか。

足立:あんまり思いつかないですね。

瀬木:だからあの頃の60年代の始めくらいまでですよ。フランスはね。ニューヨーク何者だというくらい。あの当時会ったピエール・レスタニーもね、ヌーヴォー・レアリスム(Nouveau Re´alisme)を推進することで、アメリカのポップ・アートと対決したわけですよ。一番きちんと向き合っていたよね。あのヌーヴォー・レアリストの中で早くに死んだイヴ・クライン(Yves Klein)、この間死んだアルマン(Arman)、セザール(Ce´sar)、(ジャン・)ティンゲリー(Jean Tinguely)、あと誰だろう、まぁ数人ですよ。そのくらいが、フランスの最後じゃないでしょうか。それからもちろん出てますけどね。パリの地位というものは、世界の美術マップの中で本当に減退していると思いますね。だから皆が日本の画家に今度は魅力を感じなくなるわけですよ。うまくいって、サロン・ド・メとかサロン・ドートンヌとか出している。しかし、そんなものは今やローカルな現象でしかないですから。だからフランスの衰退とまたそれに巻き込まれた日本の後退というのは、ちょうど70年前後ですよ。そういうことは。

足立:その大きな転換にあって、瀬木先生の指針といいますか、戦後は終わったというその時代にあって、瀬木先生の拠り所というのは何だったのでしょうか。

瀬木:いや私はさっきから言っているように、私は「民」の人間であり、集団が好きではない。必要ならばある程度は関わるけど、本来なら自立派ですよね。だからいろいろね、活動の広がりというのと、大学もいくつも教えてきているし、例えば官に関わる選考とかもしますしね、それからもちろんジャーナリズムの仕事も長いことずっと基盤ですから。それからまた放送というか、テレビの仕事も多少は関わっている。まぁいろいろありますけど、でも私は自分は物書きだと思っています。そして、集団というのはもともと好きではなかったし。本当に集団というのは、私は合わないですよね。もっと自然な生き方が合うと思うのですね。岡本太郎とはずっと親しかったけれど、ともかくあの人は集団好き、お祭り好きで。私はお祭りなんか子供の頃から好きではありませんよ。騒々しい。子供の時にはお神輿かついだりしたこともあったけれど、何か祭りの時はいつも孤独な感じがしちゃいましたね。眺めているだけで。なんか集団というのは駄目だ。
 だから戦争中の苦しさといったらなかったですね。学徒動員されてね、そして軍需工場の中に放りこまれて、そして、なんかもう、日本全体が集団化した、あの時代が今でも一番嫌な時代だと思いますね。それで国家というものがね、形骸にしか感じられない。何か圧力をかける時のひとつの道具であってね。だって東京中が焼け野原になっている時に、あの日本最大の軍需工場の中で、ともかく男らしい男はいないのですよ。みんな戦線に引っ張られちゃってるでしょ。それで指導しているのはね、帰ってきた負傷兵みたいのが指導していて。あとは学生なのですよ。あと女の人ね、東京に残った。そして、我々と女子供と、負傷兵しかいない。そしてあなた、学生、幼い中学2年か3年であった中学生や女学生まで動員して。そして最大の軍需工場で我々は何をしたかというと、もちろん工場の中でもね、もう製造的なことはできないです。技術がないから。輸送だったのですけれど、いつもトラックに運んでいるのは、火薬ばかりなのですよ。どうしてあんなにたくさん火薬が余っていたかというと、弾を作る鉄がないのですよ。どこか地方の小さな軍需工場みたいなところに、あるいは疎開したところにあったのかもしれません。ともかく火薬以外何も見たことないですね。もう作らないのですよ、武器を。そして毎日のように空襲でしょ。それから「勝った勝った」とか、「滅私奉公しろ」とかね。もうとてもじゃない。不可解だった。こんなので勝てるとは思えなかったですね。一切もう空虚なものでした。これが日本最大の軍需工場だというと、いくら幼い中学生でもこれはおかしいと思いますよ。弾が作れてないのだから。
 実際ね、戦争が終わってみたら今度は、我々を指導していた、時々殴ったりするあの連中がね、一夜にして泥棒になった。倉庫の中に残っていたもの、みんな持ち出しちゃうのですよ。もう実にアナーキーな状態。彼らが真っ先に姿を消しましたね、終戦になって。まだそう考えたら、4、5日、1週間くらいは工場に通ったのじゃないかな。どうしていいか、指示が来ないのだから。あいつらも、消えちゃったんですね。何なのでしょうね。これを見てね、日本という国は、国家というものは、こんなにインチキなものはないのじゃないかと思ったですね。そんなことで、集団というものは、私にとっては信じがたいものでありましたよ。それで、終戦後もちろん民主主義の普及といいますか、今度は国をあげて民主主義の教育が行われたわけで。実際そういう方向にいったと思うのですけれど、なかなかやっぱり戦争中にあれだけ国家の虚妄さを体験すると、容易には国家を信じる気持ちにはならなかったですね。
 昨日話した昭和15年以前の日本というのは、非常にリベラルで、平和なゆとりのある社会だった。それなりのものでしょ。右翼というか、国家主義というのは明治からずっとありますよ。ただ、それは直ちに軍国主義ではないのですよ。軍の力が強くなって、そして政治まで支配するようになって、それがミリタリズムですよね。それは国家主義のひとつの極端な例かもしれないけれど。しかしそうじゃない国家主義思想というのがあったし、明治維新後ずっとあった。それ自体はね、大部分の日本人が感化されたのは、不思議ではないと思いますね。だから戦後、民主主義の時代になって、国家主義的な人間が一番戸惑ったのだと思うのですよね。この考え方ね。国家に裏切られたという。そういう中から共産党に飛び込む極端な連中が非常に多かったですよ。共産党に入った人間、初期の人間にはそれがとても多いですよ。当然ね、増えていくのですけれど。私の同時代の先輩で、よく安部公房の話をしたけれど、あの人は国家主義ではなくて、もともとリベラルな人間だったのだけれど、彼が共産党に入ったのは、また別の動機だと思うけどね。
 私は三島由紀夫が、そういう国家主義の思想というのを意固地なまでに継承した人だと思いますよ。そういう点では戦後では例外かもしれないけれども。あれは明治以後の近代日本人の多数を代表しているのではないかなと。まぁ三島さんとは親しくはしなかったけれど、若いときには何度も接触しましたし。なかなかね、尊敬すべき、優れた人だと思います。一度ね、今でも覚えているけど、彼が初めてヨーロッパへ旅行した時かな。どこかのヨーロッパの港でね、船がたくさん停泊しているでしょ。その中に日本の船がいて、日の丸がひらめいているのを見たのね。そしたら感激して、涙を流したって書いてありますよ。あぁ三島さんだなぁと思ってね。私は日の丸なんか見向きもしませんしね。見たって別にね、日本の漁船かなんかいるのだな、という程度ですから。三島さんは、日の丸を見て感激したというので、あぁこれが大きな、根本的な違いかなという思いもしましたんですね。ただ、このような世代が終わってもどうでしょうかね。日の丸に感激する人っているのですか。

足立:そうですね。

瀬木:ただそれを国家が奨励している面もあって。

足立:ありますね。

瀬木:君が代を歌わないと学校の先生がクビになっちゃうとかね。さぁ、日本は一体どこへ向かうのでしょうね。貿易立国できたし、その上に今度はファンド立国になりましたね。投資立国。今は国家自体が行方を失っていると思いますね。

足立:そうですね。

瀬木:中国の台頭とアメリカの狭間で。両方に頼らないと日本は経済的にやっていけない。それよりも思想的に自立すべき何かを忘れてきているのではないでしょうか。

足立:確かにそうですね。

瀬木:ただ、ある技術の世界では、日本は優れているでしょう。今でもいろいろな生産物とかね。それからやはり、芸術や文化の世界で、優れているのは建築家です。日本の建築家がこれだけ世界的に活躍しているということは。それからもうひとつは音楽家。作曲家を含めて、演奏家たちが、世界中で目覚ましく活躍していますよ。それを考えると、さて今日本の現代文化を代表しているのは、この人たちかなと。まぁ美術家の中にも、活躍している人もいますけどね。尊敬すべきだと思いますけど。ちょっと一国としては少なすぎるね。ヨーロッパなんかどんな国でも、デンマークだとかハンガリアでも何でもいいけど、たいがいこの100年間の間に、巨匠と呼ばれる人がでてきてますよ。

宮田:そうですね。

瀬木:日本はちょっと少なすぎるわね。特に絵画がね。

宮田:これだけ人がいるにもかかわらず、そうなのですよね。

瀬木:絵画が弱い国ですね。

足立:瀬木先生がそうおっしゃると重いですね。

瀬木:いえいえ、そんな。この50数年そんな考えをしてきただけで。もうちょっとなんとか(ならないかと)。やっぱり自立欲がまだ弱いのだと思いますね。大体団体展なんて、こんなにもあってまた国立新美術館をつくって、また団体を増やした。今でさえ多すぎた団体が、また聞いたこともない、中身のないあんな団体をどんどん増やすことを国家が助長しているなんていうのは、考えられないですよ。最近の国家の役割で一番良くないのは、国立新美術館、あれだ。270億もかけ、図らずも黒川紀章の最後の仕事になったあの建物があんなに高い。

宮田:時代と逆行していますよね。

瀬木:残念ですね。

足立:お時間も過ぎたので、このあたりで。今日は本当にありがとうございました。