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山崎つる子オーラル・ヒストリー 2009年1月16日

芦屋市、山崎つる子自宅にて
インタヴュアー:加藤瑞穂、池上裕子
書き起こし:上原真依
公開日:2011年6月12日
 
山崎つる子(やまざき・つるこ 1925年〜)
画家
1946年に芦屋市の美術講習会で吉原治良に出会い、指導を受けるようになる。具体美術協会(1954年〜1972年)結成時に会員となり、その後具体が解散するまで在籍した。ストライプを基調としたカラフルな抽象画や、ブリキや透明な支持体を使用した作品、野外具体美術展(1956年)で展示した観客が中に入れる形状の《赤》などが知られる。本インタヴューでは当時芦屋市立美術博物館の学芸員だった具体美術協会の専門家、加藤瑞穂を聞き手に迎えて、具体在籍時の活動と吉原治郎の人物像、具体解散以降の具象的な展開や現在までの活動を語っていただいた。

池上:今日はよろしくお願いいたします。

山崎:もう、なんにも代わり映えしない経歴なんですよ。

池上:そんなことはないと思います。お生まれから少しお聞きしていきたいんですが。

山崎:はい、どうぞ。

池上:先生は1925年に芦屋でお生まれということで、どのようなご家庭でお育ちになったかというのを、お聞きかせくださいますか。

山崎:あの、家族構成ですか。

池上:そうですね。

山崎:両親と、兄と姉と妹です。

池上:ご家族の中で特に美術と関わりがある方というのは、いらっしゃったでしょうか。

山崎:みんな、絵が上手かったんですよ。私はたいしたことなかったんです。兄や姉はすごく絵が上手かったですよ。でも進む道はね、兄はサラリーマンになりましたし、姉は普通に結婚しました。で、私が絵の(道に進みました)。

池上:絵がお上手でいらしたというのは、絵を描く教室に通われていたとか。

山崎:そういう教室なんかじゃなくて。絵描きさんに習うというのはありましたけどね。それは、22、3の頃から習ってました。

池上:そうですか。ご両親は、そういう美術の道に進まれるということを応援してくださったということですか。

山崎:どっちかっていったら、仕方なしに。私がもう(「進みたい」と)言いますんで、仕方なしにさせてたんです。女の子は早く普通に結婚させて、というのが(両親は)良かったんですけどね。

池上:先生がやはり美術の道に進まれることを強く希望されて。

山崎:ええ、油絵が習いたかったんですね。それで、たまたま吉原治良さんと道で、なんかお会いして。

池上:道でお会いになったんですか(笑)。

山崎:ええ、なんかの講習会みたいなんがありましてね。ヤングの講習会。そこで私の方が一目惚れしちゃって。「うわー、この先生に習う」言うて、家でダダこねて。それでやっと習えたの。

池上:それがおいくつくらいの時でいらっしゃいましたか。

山崎:24くらいでしたね。

池上:もう大学、いや学校を卒業されて。

山崎:はい。

池上:先生は聖心女子学院にお通いになってたんですよね。

山崎:それは(女学校の)上です。中学、昔で言うたら女学校っていうんですけどね、女学校は甲南女学校。

池上:あ、そうですか。

山崎:その上の英語専修科っていうのが、聖心でした。

池上:その中学・高校と、その上の聖心女学院に通われている時に、特に美術部に所属されていたとかは無くて?

山崎:ああ、それももう戦争の酷くなる時だったんですね。空襲もあって。聖心も2年で修了なのが、1年8ヶ月くらいで繰り上げ卒業みたいになってね。ちょっと慌ただしい時でした。

池上:美術なんて言っている時期では無かったわけですね。

山崎:そうですね。

池上:わかりました。では、先ほどおっしゃっていた、吉原治良先生との出会いについて、もう少しお聞きしていきたいんですが。

山崎:それはもう戦後でね。芦屋市が企画した「美術講習会」っていうのがありましてね。講師が吉原さんだったんです。それがどんな方かも知らないで、お友達と「面白そうだから行きましょう」と言って。それで吉原治良さんが、話と実習と一日ずつでしたか、なんかありまして、もうモダンアートの話ばっかりなので、他のヤングの方もだんだん数が減りましてね。実習の日になったらもう5人くらいになっていました。実習では石膏、ヴィーナスとかあんなのを描いたり、それから手洗いって教室の隅に、先生が手を洗うもの、それを描けって言われてね。なんか変なこと言われるなぁと思って、描いたんです。

池上:そのお話の中で特に感銘を受けられたというのは、どういうところだったのでしょうか。

山崎:私は家で、兄なんかが『みづゑ』っていう雑誌をとってましてね、それをパラパラって見るぐらいの程度で、なんにも知らなかったんです。そしたら、ピカソやマティスじゃなくて、モンドリアンの話を随分されまして、ああいう抽象絵画とか初めてで。それで、話題も面白かったし、吉原治良さんのこう異様な感じが(笑)、もう「めちゃくちゃこの先生がいい」っていうことに、自分で決めちゃったんですね。で、個人的に習うことになって。

池上:異様な感じというのは?

山崎:具体になってからは健康になられましたけどね、それまではもう本当に青黄色い(笑)、青ーいお顔でね、それで目がこうギョロッとして、クレイジー的な感じだったんですね。

池上:そういう非常に印象の強いような雰囲気を。

山崎:それでもね、そういうんじゃなくて、魅力がまたすばらしくありましたよ。話もお上手だったし、絵描きさんとしてすごく魅力がありましたね。

池上:じゃあ、具体にお入りになるあたりのところをお聞きしたいんですが。具体に関しては加藤さんの方がお詳しいので、加藤さんからご質問をしていただければと思うんですが。

山崎:私が普通にイーゼルたてて、油絵の具を持って行って、果物なんかをはじめ描いていたんですね。それが、だんだん先生が上手いこと誘導されて、ちょっと抽象のほうに入っていったら、私より前に吉原治良に見せている方がいる。それが嶋本昭三さんだったんですね。嶋本さんはもう、そういう絵描きとしてもちゃんとやる気になってらしてる、ということで。私よりも随分先を歩いている方だったんです。それで、今度グループ作るんで参加しないかって言われました。

池上:前に吉原先生に個人的に習いに行かれていたときは、本当に先生のお宅にお出かけになって習われていたんでしょうか。

山崎:ええ、私の方から二人ほどね。やはり、娘さんていうかお嬢さんですね。

加藤:先生は具体が結成される頃に、モダンアート協会展にも出されていたと思うんですけれど、それは嶋本さんのご紹介ですか。

山崎:嶋本さんは治良さんの前に、モダンアート協会というところに出してらしたんです。それも、ゲンビかなんかの紹介でね。それで私も嶋本さんに勧められて、いっぺんだけですがね、モダンアート展の関西展に(出しました)。

加藤:《チョン》(1954年)という作品ですよね。

山崎:はいはい。

池上:こちら(『具体展 I・II・III』という資料集の180頁)に作品があると思うんですが。こちらの作品ではないでしょうか。

山崎:あ、それです。それと、これ(《斜め》、1954年)と、もう一点ブルーのがあったんですね。3点で。でもブルーはもう破っちゃった、破れちゃったんでだめに。

加藤:こちら(《チョン》)は、どういうところから発想されたんですか。

山崎:筆を使うのをもう止めようと思いましてね。それで、何かないかと思っていましたら、筆の後ろのところでね、こう(押して)するので。で、これは(《斜め》)もう切って貼るだけで。

池上:この(《チョン》の)丸は、筆の後ろのところなんですか。

山崎:はい、そうなんです。

加藤:こちらが『具体』の1号なんですけども、ここに掲載されていらっしゃる作品は、いつ頃の作品でしょうか。

山崎:それはどっちかな。(《チョン》と比べて)こちら(『具体』1号掲載作品)の方が先かもしれませんね。ちょっとこれ、後戻りみたいな感じですけどね。何かに出したんですけど。現代美術懇談会っていう……

加藤:ゲンビ展ですか。

山崎:はい。

加藤:そうですか。こちらを作られていた頃は、いろんな方が、後に退会される方もかなり入っていらっしゃいますが、そのときのメンバーの方々の……

山崎:名前ですか?

加藤:いえ、お名前はありますね。グループの雰囲気といいますか、例えばどこかにお集まりになられてお話をするとか、ということはあったのでしょうか。

山崎:うーん、無かったですけれども、本ができて、本をみんなでもらって分けたりするのは、私とこの家でしましたけれども。

加藤:そうしたら、これを作られる前に、何度か集まられて相談をされたりっていうことは、無かったんでしょうか。

山崎:嶋本さんがもうほとんど率先してやってくださっていて。嶋本さんの納屋で、古びた印刷機械をもらってきてそれでやったので。工場みたいにしてましたのでね。そこに載ってる東(貞美)さんとか、船井裕さんと、吉原英雄さんと。

加藤:こちらに名簿がございますけれども。そうしましたら、これが出る前は、それほどそれぞれの方とご交流があったわけではなかったんですか。

山崎:無かったんです。船井さんと吉原英雄さんは、「吉原先生には議論がない」って(笑)。やっぱり学校出たてのああいう人たちは、議論したいんですね、絵画の。それが、治良さんは議論嫌いなんですね。(二人は)議論がないので辞めちゃって。デモクラート(協会)っていうのを。

加藤:そうしましたら、例えば、上田民子さんとか、岡田博さんとか、伊勢谷圭さんとかは……」

山崎:岡田さんは東京に行っちゃったのよね。それで上田さんや伊勢谷さんは、だんだんしんどくなったんでしょうね。

加藤:後の具体のメンバーの方々の集まりと、当時のこのグループの集まりっていうのを比べると、(各自のつながりは)それほど密接ではなかったのですか。

山崎:密接ではなかったですね。これ(『具体』第1号)ができたとき、吉原治良さんの応接間で、その頃から、なんかあったらすぐそこに集まることになってて。それで、0会の4人と元永(定正)さんとが加わって、大分みんな元気になってきたんです。

加藤:こういう風に元からいらっしゃった方々が外に出られて、新しいゼロ会の方とか元永さんが加わられたことによって、グループはどのように変わりましたか。

山崎:もうみんな、0会とかわたしらとか、すぐに仲良くなってね。その中で派閥ができたりとか、そんなん全然なくって。

加藤:吉原先生は議論があんまりお好きではないということですが、メンバー同士では、かなりたくさんお話はされたんでしょうか。

山崎:0会は、議論ばっかりやってたグループなんですね。展覧会っていったら、こんな小っちゃいの出したりして。村上(三郎)さんは話ができるし、白髪(一雄)さんはどうだったのか…… 金山(明)さんは喋りますでしょ。喋る、議論、飲んで、お酒飲んでってグループだったんですね、0会っていうのは(笑)。そこに田中(敦子)さんがひっついてたんですね。それでも吉原(治良)さんをみんな好きになりましたからね。だから何も揉めずに。野外展(「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」)の頃はもう、なかなか和やかで面白かったですよ。第一回から。

加藤:野外展に出された、トタンをこういう四角形に切られて、それを繋げられた作品(《トタン板の鎖》)がございましたけれども、それはどこから発想されたんでしょうか。

山崎:何か、危ないブリキを切って……

加藤:あ、ブリキなんですね。

山崎:そう、あの頃はまだ町にブリキ屋さんっていうのがありましてね。今はもうブリキ屋さんなんてありませんでしょ。大きな大阪の会社にでも行かないと。(当時は)町にブリキ屋さんがありまして、そこでブリキ板買って、それでやったんですね。あれは、発想は何だったのかな…… ちょっと分からない、思い出せませんね。

加藤:金属を使われたのは、あのときが初めてでいらっしゃいますか。

山崎:そうですね。やっぱり金属の光沢っていうのか、反射して…… 布地やらなんかだと発色いうのか、反射が全然。金属板っていうのはシャープになるから、それを気に入って、それで金属板にしようと思ったんです。そしたら(ミシェル・)タピエ(Michel Tapié)に「日持ちしないから(駄目だ)」って言われて(笑)。

加藤: 先ほどのストライプの作品(《斜め》1954年)は、下絵がございましたけれども、あれも鏡をつけるって事を前提とされてああいう風に(ストライプ状に)、作られたんですか。

山崎:大きい方のストライプの作品(《作品》、1955年、第1回具体美術展出品、白黒ストライプ作品)ですね。白黒の。小っちゃいほう?

池上:こちら(《斜め》)ですかね。

山崎:このときはまだ、鏡を使ってないときです。アヴァンギャルド展ですね。その頃はまだ鏡を使っていません。

池上:こちらの作品(《作品》第1回具体美術展出品、穴を開けたトタン板に裏側から鏡をはめ込んだもの)になってから?

山崎:はい、具体第1回(第1回具体美術展、1955年)に。

池上:具体第1回に出されたときには、(鏡を)使われているわけですね。

山崎:はい、それが一番初めです。

加藤:この形の意外さというか、そういうところに注目されたのでしょうか。

山崎:まあ、大体ストライプっていうのが好きだったんですね。それでなんか引っ付けようと思って、それにしたんです。

加藤:第1回展の時には、今こちらにございます《ブリキ缶》(1955年)も出されて(いらっしゃる)。これはなぜブリキ缶を置こうと思われたんでしょうか。

山崎:まあ、金属の反射が好きだったっていう以外に、その頃大阪に住んでましてね、松屋町(注:まっちゃまち。大阪の有名な問屋街)ってありますでしょ、あそこを自転車で走っていたんですね。何か面白い、安くって面白いものはないかなと思って。それで、これ(ブリキ缶)が、進駐軍の缶詰の残りが店に。汚いおじいさんがやっているようなお店ね、そんなとこに出てたんです。それでいくつか、30か40か買ったんでしょうね。それでこの塗料、ニスを、普通の油絵の具やペンキじゃなくってこういう塗料にしたのは、やっぱり金属板の質を損なわないで、色(付き)にするために、塗料屋さんと相談しまして、教えてもらって(決めました)。

池上:塗るのも全部ご自分で塗られたんですか。

山崎:そうです。

加藤:第1回展の時には、こちら(ストライプの《作品》、1955年)と、こちら(《ブリキ缶》)と、あとグリーンの鏡を使った作品(《作品》、1955年)も出されてる。

山崎:はい、(グリーンの作品は)あそこに(部屋の奥)置いていますけれども(笑)。これ(ストライプの《作品》)とこれ(《ブリキ缶》)と、こう並べました、第1回展の時。

加藤:吉原先生は、どのようにおっしゃっていましたか。

山崎:すごく褒めてくださいました。それで入った正面にバーンと飾ってね、こちら側が田中敦子さんのピンクのあれ(布の作品)だったんですね。

加藤:そうですね、お部屋のちょうど正面のところでしたね。

山崎:だから具体の1回展の時のが、今でも(海外の展覧会に)送るというとそれになる。それから色々やったのに(笑)。

加藤:それはおそらく、それを皆さんがよくご存じだからということで。少し後の作品はなかなか紹介される機会が少ないっていうことだと思います。

山崎:そうね、それと絵になってますからね。

加藤:わたしは、後に描かれた絵もすごくいいと思っています。

山崎:これがあの、ベルギーで(展示写真を見せながら)。田中敦子さんと私と、もう1人、草間(彌生)さんと3人で。(注:ベルギーでの3人展、“Rose is a Rose is a Rose” (Foundation De Elf Lijnen, Oudenburg, Belgium, December 12, 2008 ~ February 21, 2009)。山崎は《赤》、1956年を出品)。

池上:すごく綺麗な展示ですね。

加藤:第1回具体展の次の年に、野外(具体美術)展でこちらの作品(《赤》)と、《三面鏡ではない》(1956年)という作品が出ておりますけれども、これはどういうところから(発想して)、作品を出そうと思われましたか。

山崎:これですか。これはね、本当に不真面目なんですけどね、とにかく目立つもの、と思ったんです(笑)。松林で、茶色い木がいっぱいありますでしょ。普通のこんな作品だったら目立たないんですね。ですから松林で、遠くから見たってなんか目立つもん、って思ってね、それでやりました。それと、大きくしようと思いましたね。

加藤:これは実際どなたが作られたんでしょうか。

山崎:材木屋さんのお兄ちゃんがやってくれました。ですから、粗雑ですよ。途中でグチャッとなったりね。いろんなことがありましたけど。

加藤:三面鏡があそこに立つと、松林も映りこんで光が色々反射して、雰囲気が変わったでしょうね。

山崎:でもね、こないだの金沢の(注:金沢21世紀美術館『コレクション展T』での《三面鏡ではない》再展示。2007年4月28日〜2007年7月16日)。あんな綺麗には…… あれは本当に綺麗な出来です。もう(野外展では)素人がしたんですからね、材木屋さんと。色塗るのは私がバーッと塗りましたしね。だからもっと粗雑になって。まあ、形は一緒ですけど。

加藤:野外展の出品作については、他の具体の方にお聞きしても、野外で目立つものっていう風におっしゃっていました(笑)。

山崎:そうですか(笑)。

加藤:初め野外でやるとお聞きになった時、どう思われましたでしょうか。少し戻りますが、野外で展覧会をされるって吉原(治良)さんがおっしゃった時に、どういう風に思われましたか。

山崎:面白いと思いましたよ。ただ、大きいもんがいりますわね、野外だったら。安くって何をしようかなぁと(笑)。安くないとねぇ、高い材では無理ですし。みんなそうですわ。元永さんも、ビニールに赤い水で、安いですよね、あんなん。田中敦子さんが、ちょっと高く付きましたね(笑)。

池上:こちらの部屋の作品(《赤》)は、実際に訪れた方たちが沢山中に入っていらっしゃいましたか。

山崎:野外展の時は子どもが入ってねえ。夜になったら、またライトで行灯風になりますでしょ。

池上:影が映りますよね。

山崎:そんなんで、みんな遊んでいました。

池上:楽しまれていましたか。

山崎:そうですね。それで、夕立が来たら、ガッシャーンと落ちてしまって(笑)。それをまた、引き上げて、大工さんに行ってもらって、やり直して。

加藤:子どもさんが入ったりというようなことは、想定されていらっしゃいましたか。展示する前に。

山崎:いえいえ、ほとんどそんなことは思わなかったですね。それで、立て札が立ったのかなぁ…… でも子どもが入ってましたからね。

池上:最初から人に入ってもらうためにこういう作りにされたんではないんですか。

山崎:いえいえ、ただ見るだけのつもりだったんですけれども、子どもですからね、どうしても。

加藤:中にライトを入れるっていうのは、初めからのアイデアですか。

山崎:そうですね。野外で夜も、みな散歩の方が行きますので。                                                                                          

池上:少し前にこの作品が兵庫県立美術館の常設展で展示されていて、「中に入って、赤い空間を感じてみてください」というようなことが書かれていたんです。だから最初からそういうつもりでお作りになったのかと思ってしまっていたんですが、当初は違われたということですね。

山崎:ちょっと、どうですかね…… 「入ってください」と書いたかどうか……

池上:でも来たお客さんのほうで、勝手にというか。

山崎:そうですね、子どもは絶対に入りましたからね。それで下に、こうあったら正方形に影が(落ちて)。真っ赤な太陽、夏ですからね、強烈な太陽が、こう四角に赤い影が出るんですね。それが綺麗でね。みんな中に入って。

加藤:吉原(治良)先生は、何かおっしゃっていましたか。野外展の作品、《三面鏡ではない》、こちらの作品(《赤》)について。

山崎:「俺のが見えんようになった」って(笑)。

加藤:ああ、そうでしたね。

山崎:並んでいましたからね。私の方が北に並んでいたからね、「遠くから歩いてくる時に、山崎さんのがここに来たから、俺のが見えんようになった」て言うてはりました。

加藤:吉原先生は、こういう立体のお部屋みたいになっている作品で。

山崎:はい、通路みたいな。みんな自分のことしか考えませんから(笑)。

加藤:それが作家であるためには必要だと思います(笑)。この当時、平面では、支持体に金属板を使われて染料を流される作品を、その後ぐらいにされると思うんですけれども(注:『具体展 I・II・III』の182頁参照)。

山崎:そうですね。小原会館の時に出したんですけれども。その時はタピエがいましたかしらね。

加藤:はい。4回展(1957年)の時に、初めて正方形の作品を。

山崎:はい、このサイズで。でもタピエは、あの人は画商ですからね。「これはちょっと考えた方がいい、キャンヴァスに描いた方がいい」って言うてました。

加藤:染料を実際に金属の上に流される時、具体的にはどのようなメディウムを入れられるのでしょうか。

山崎:染料とシンナーとを溶いただけではサラサラですので、こうブリキ板がありましたら、クリアーでドロッとしたまんまで。始めは染料をチョンチョンとね。初めの頃は染料の粉をここにこう撒いたりしてね。そこにシンナーかけたりして、こういうのが出来たんですけどね。最近のはもっと、クリアーっていうのを使って、染料屋さんがよく染色するようなやり方でやっています。

加藤:クリアーっていうのを、混ぜられるんですか。

山崎:はい、混ぜてますね。いや、そこにかける、と言うのかな。赤系統が残るんですね、最後まで。それで綺麗なグリーンとかブルーが一番はじめに飛んじゃうんです。

加藤:少し経ってから、今当館(芦屋市立美術博物館)に収蔵させていただいている、自由にドローイングをしたような作品(《作品》、1958年)とか、こういったタイプのものになるんですけど(注:『具体展 I・II・III』の184頁参照)。

山崎:ああ、タピエがこれ(ブリキが支持体の作品を)駄目って言いましたのでね、キャンヴァスに変えてね。これがその初めの作品ですわ。それからだんだんこういう風になったんです。

加藤:これは、例えばどういう風に描こうっていうのを、予め、ある程度考えていらっしゃったんでしょうか。

山崎:これ、チューブからこう出してますね、そのまんま。そんなんが面白いからやってて、でもそれだけでは駄目だから、ちょっと色の面も要るなあと思って…… お遊びみたいなもんで。それでちょっと、こういう変なもんも入れとこかなと思って入れたりして。

加藤:そうですね、このフニフニュっとした形がこの頃から(笑)。

山崎:ありますね(笑)。

加藤:そして描きながら、次はこうかなっていうような感じで、どんどん画面を埋めていくっていう感じですか。

山崎:そうですね、もうその感触だけで。始めからここにこんなもん入れようとは、思っていませんので。

加藤:こちらの方になると、少し描き方が変わるんですか(注:『具体展 I・II・III』の185頁参照)。

山崎:これなんかは、特にストライプをまず作りますわね。色が強烈で、色同士が対立しあっているみたいなのが、段々やりたくなって。ですから、芦屋に入っているのも、この頃のものですね(注:《作品》、1963年、『具体展 I・II・III』の186頁参照)。

加藤:はい、ストライプが地になっていて。その上に、本当にアトランダムなように見えるんですけど、すごくきちんと考えて描かれていらっしゃると思うんです。

山崎:そうですか(笑)。

加藤:はい。そのランダムに見えるっていうか、ランダムさっていうのがすごく分かる作品で。収まっていないというか、はみ出す形があったりとか、色が溢れるっていうのが、そういうことが見る人に伝わる、「ランダムというのはこういうことだ」っていうのが定着されている作品だと思います。

山崎:私は、ものすごく野放図に、意外性のあるのが一番(良いと)思っているんです。人と全然違う意外性のある絵を。それで、はじめはこうだったのに、段々どぎつくなっていったんですね。

池上:色がすごく鮮やかに強烈になっていくんですけれども、特にお好きな色とか、どういうふうに色を決めていかれるとかは、あるんでしょうか。

山崎:好きな色っていうよりか、色がそれぞれぶつかって、喧嘩しあっているみたいな、そういう感じが作りたかったんですね。

池上:特に色をお決めになる時に、どうされるというのは。

山崎:どの色も全部…… 緑があんまり入ってないように思いますけど、あとは一通り入っていると思います。

加藤:時代が少し戻りますが、舞台の発表(「舞台を使用する具体美術」、1957年)もございましたが。

山崎:あー、ありましたねぇ。

加藤:野外の後に舞台でしたが、「今度は舞台を使う」っていうことを聞かれたときは、どのように思われましたでしょうか。

山崎:あのとき私は、フィルム(作品)だったんですよ。どう思うって…… また違うのが(できるっていうので)みんな目の色が変わりますわね。「何をやろう」って(笑)。

加藤:フィルムの作品というのは、どのような作品だったのでしょう。

山崎:それがねぇ、もう置いてないんですけれども、三種類かなんかあって。(一つは)夜、車で走って夜景をざーっと映してね、それを逆に、本当に(上映)するときには逆撮りに見えるように、逆に編集したり。あと、家の中に電球をいっぱいぶら下げて、ブリキ板をこう置いて、それをぐぁーって動かして、光がわーってなるのを映したり。まあ幼稚なもんで(笑)。

加藤:すごく面白い発想ですね。それはカラーですか。

山崎:はい。

加藤:あぁ、カラー映像で。

池上:それは8ミリかなにかで、撮影されたんでしょうか。

山崎:ええ、コダックのフィルムがいい、言うんでね。ハワイに現像所があるんですね、コダックって。それでハワイに送って帰ってきたりしました。

加藤:ご自身で撮影されたんですか。

山崎:    そうです。

加藤:そうですか。当時そういう機材というのは、ある程度ポピュラーだったんでしょうか。

山崎:誰かにお借りしたと思います。誰か持ってらっしゃる人、妹のお友達とか、そういう人にお借りしたと思います。

加藤:また舞台で、『だいじょうぶ月はおちない』(『だいじょうぶ月はおちない 具体美術と森田モダンダンス、1962年11月6日、大阪、サンケイホール』)というのがあって、モダンダンスの方々と一緒の時は、実際に金属を使われて。あれは実際、何をどういう風にされていたんでしょうか。

山崎:その前はフィルムだったので、今度は舞台を使ってするのがやりたかったんですね。まあ、わたしは金属板ずっとやってましたから、これ叩いて、いろんな色のライト当てたら綺麗ちがうかなって。

加藤:叩いてらっしゃったのは森田のダンスの方々も入ってたんですか。

山崎:ダンスの方と一緒でした?あのとき。

加藤:はい、ダンスの方も時々具体の発表の時に、入っていらしたりしてたんですね。

山崎:いいえ、あのときは入ってなかったと思います。金山(明)さんとか、(具体の)あの人らがみんなやってくれました。

加藤:そうですか。

池上:結構、音のする作品だったということでしょうか。

山崎:まあ、叩く音は何もとるほどじゃなくって。ミュージックコンクレートを嶋本さんが作っていましたからね。

池上:それと併せて上演された。

山崎:でも(その金属板が)丸になっているからね、なかなか潰れないんですね。なんや5つほど、ハサミやとか使って。ダダダっと開けるやつ、ドリルが滑るんですわ。ぐしゃぐしゃになって潰れる前までと思ったんですけど、そこまでいかないで時間が来てしまって。最後に中から赤いきれがパーッと。中に浮田(要三)さんに入ってもらっててね。赤いきれを投げてもらうっていう。で、舞台がくるくる回ってますでしょ(笑)。だからどっちが正面か分からんようなる(笑)。だから「はじめ、こっちが正面ていうのを、天井で覚えんといかんと思ってした」って聞きました。

加藤:私、それははじめて知りました。写真で拝見すると、赤い何かが写っているので、何が写っているのかなと思っていました。

山崎:赤いきれです、大きな。それが、「終わり」っていう目安になるんです。

加藤:先生ご自身は出演されなかったんですか。

山崎:出演していましたよ。みんな黒い変なん着て。                                                                        

加藤:じゃあ、先生も舞台に立っておられたんですね。

山崎:はい、やってましたよ。

加藤:先生ご自身は、例えば白髪さんとか村上さんとか嶋本さんのように、実際にアクションをしてパフォーマンスをされるというようなことは考えましたか。

山崎:いいえ。ただ金槌でこうやる、とかそんなんだけでしたよ。あの方たちはやっぱり…… 村上さんは役者ですよね。上手かったですよ。紙をこう舞台で、こっちお客さんで、舞台がありますでしょ、そしたらここにハトロン紙をたてましてね、はじめ、ハトロン紙をこう触って確かめるみたいな仕草で。それから今度は棒を持ってきていきなりバーンとやったりね。そのへん、上手かったですよ。

加藤:白髪さんの《超現代三番叟》(1957年)はいかがでしたか。

山崎:私、あれはあまり好きじゃなかったんですね。和風だしね。それでも、あれがイタリーの美術館で具体展(1990年)したときに、イタリーの美術館に属している劇団の方があれに入って、美術館の本当に入り口に白髪さんの《三番叟》がこうあるんですね。そん中に(劇団の方が)入ってるんですけど、身動きもしないんですね。時々こう、シュッて動くんですね。それが上手いことしてね。そしたらお客さんが、「うわー中に入ってたんや」と思ってね、そんなのを劇団の方がやってて「やっぱり上手いことするなぁ」と思って、感心しました。それと、バイクと組み合わせてね。白髪さんの《三番叟》の前に、バイクが10台かなんか、ブルンブルンて音だけ出して、それが音楽になってて。やっぱりダイナミックな演出しますね、外国の方は。

加藤:ちょうどその第1回の舞台の頃に、タピエや(ジョルジュ・)マチウ(Georges Mathieu)がやって来るわけですけれども、タピエ、マチウの印象はいかがでしたか。

山崎:タピエ……。まあ、アメリカ人しか知らなかったんですよ、その頃。戦後だしね、来るっていうとアメリカ人で。だから「フランス人ってこんなんや」って(笑)。

加藤:アメリカ人と違いましたか。

山崎:言葉がね(笑)。こうヴヴヴって言うのが可笑しくて(笑)。まあ、本当見とれましたね。

加藤:何か直接お話をされたりはございましたか。

山崎:まあ、一人ずつ、「あなたの絵はこう思う」とかね。それは聞きましたけどね。

加藤:それでやはり、「支持体はキャンヴァスの方がいい」と。

山崎:はい、そんなことをね。私の絵はね、「コンフュージョン」。それは、「混雑っていう事じゃなくて、複雑で面白いってことです」って後で通訳の方から説明されました。

加藤:いろんな要素が共存しているということだと思うんですけれど。

山崎:はい、そういうことね。

加藤:タピエが来て以降、サインを作品に書かれるとき、日本語で書かれていらっしゃったりするのは、それはタピエの指示ですか。

山崎:それは吉原治良の指示かな。日本語の方が面白いって。大体、日本語ってみんな自分の名前なんか上手に書きますでしょ。だから下手な英語書くよりはずっと綺麗ですわね。

加藤:62年にグタイピナコテカができるんですけれども、ピナコテカができて以降というのは、具体全体の活動は変わりましたでしょうか。

山崎:忙しくなりましたよ。毎月、出し物を変えてしないといけないでしょ。そして部屋が3つありましたしね。あそこはオープニングの時に嶋本さんが個展してね。それから次々と、白髪さんがやって、毎月違うんですからね。それで「私は遅いからだめだめ」って言うても、やっぱり7月頃やりましたからね。あれ何月でした?

加藤:えっと、先生の個展は何月だったか……

山崎:いや、私の個展は7月だったと思いますけども、オープンが。夏ですかね。

加藤:あ、オープンは62年の10月くらい。

山崎:10月くらいですね。だから半年くらいは、白髪、嶋本、向井(修二)、田中敦子に先にやってもらって、私は7月にしました。

加藤:それは(吉原)先生からのご指名という感じなんですか。

山崎:まあ、嶋本さんは「おまえは一番初め」って言われましたよ。後はもう沢山(作品を)持ってる人からね。嶋本さんの次は白髪さんでしたよね。

加藤:そうですね、おそらくそうだったと思います。

山崎:で、元永さんは結局しなかったんですよね。

加藤:はい。実はこの前、元永さんにお話を伺った時に、元永さんがグタイピナコテカではされなかったので、そのことについて伺いましたら、「やるか」みたいなお話だったけれども、結局なんか話が決まらなくってやらなかった、ということでした。

山崎:元永さんは東京画廊と契約して、2年にいっぺんくらいしなくちゃいけなくって。なるべく具体(での個展)を引き延ばしていたんでしょうね。

加藤:ちょうどお忙しい時期だったみたいで。

山崎:それで、アメリカ行ったのはその後ですね。

加藤:はい。ピナコテカには沢山の外国の方が来られたと思うんですけれども、そのような方とは何か特にご交流されたってことはありましたか。

山崎:(クリスト・)クッツェ(Christo Coetzee)って人がね、留学生で東京に来たんですけれども、具体を見て大阪に滞在することにして、それで吉原治良さんの家があって、そこに住んでたんですね。そのクッツェが大阪にずっと居るというので、英語を習いましたね、みんなで。

加藤:あ、クッツェに。

山崎:クッツェは、お世話になったお礼にタダで英語を教える言うて、それで英語をみんなで週にいっぺん、習いましたよ。

加藤:そうですか。あ、それは白髪さんが以前おっしゃってました。

山崎:そうですか。もう、可笑しい(笑)。もうみんな英語苦手な人らで、みんな座らされてね。

池上:当たりたくなかったっておっしゃっていました(笑)。

山崎:誰がです? 白髪さん?

池上:白髪さんが。当てられたくなかったっておっしゃってました(笑)。

山崎:でしょ(笑)。白髪さんところのご夫婦、ほんとにおかしな発音だったんです(笑)。それでも、白髪さんは(英語が)苦手だけども来る。みんなが面白いから引っ張ってくるでしょ。それで「ディス イズ ア クション!(This is a ction!)」て(笑)。それほんと(笑)。

加藤:面白い思い出ですね。

山崎:本当、面白かったです(笑)。

加藤:60年代に入りましたら、具体の展覧会も多いですけども、ほかのグループ展、国際展も沢山あるようになって、大きな展覧会もあって、雰囲気というか、何か変わってきたことはございましたでしょうか。

山崎:国際展? どの頃だったかしら。

加藤:60年代の半ばで、グタイピナコテカができてしばらくして。全員が行くというよりも、どなたか一人が、海外の展覧会に出品したりとか。吉原先生もそうですけれども。

山崎:そんなんありましたか。

加藤:はい、白髪さんが行ったりとか、元永さんが作品を出されたりとか。

山崎:白髪さんは、月にいっぺん送ってましたでしょ。それをタピエが向こうで売ってましたわね。元永さんもそれからまたアメリカのロックフェラーかなんかのあれで、一年間行ってね。それで?

加藤:色んな具体の発表だけではなくて、他の展覧会にも出されるようになったようなんですけれども。

山崎:そうですか、日本の他の展覧会?

加藤:日本の他のもありますし、海外の展覧会も何個かあったんですけども。

山崎:そりゃあったでしょうねぇ、人によっては。

加藤:それで、具体グループも、当時また新しい人もかなり入ってきて。

山崎:ああ、そうでしたね。

加藤:グループ内の雰囲気っていうのは、大分変わりましたでしょうか。

山崎:段々悪くなりましたね。始め人数が少ない頃はもう、みんな親しくなって、上手くいってたんですけどね。多いときには50人くらいになったんですよね。そんなになったら、もうほとんど(の人を)知らないですわね。「あんた誰?」いう感じで。その頃からもう、駄目ですわね。

加藤:吉原先生も少し変わられましたか。

山崎:吉原製油の社長さんになってからね、やっぱし、今まで「先生」、「おっさん」言うてたのが、秘書が付いて社長でしょう?

加藤:作品を見たときの感想とかアドヴァイス、あんまりお話にならない方だとは思いますけれど、そういう言葉も変わられたりしましたか。吉原先生のお言葉は。

山崎:はじめからまあ同じですわね。口数は少ないですけど、怖かったですね。一回ぼろくそに言われたことありますわ。絵に嫌気がさして、自分でも分かっているんですけど、いい絵が出来ないままに持って行ったんですよね。そしたら、「ちょっと来い」とお庭に呼ばれて。お庭にはこう石があってね、そこに治良さんが座ってて、「庭に来い」て言うから行ったら、「あんたの絵、何や。何のために生きてんねん。」て言われてね。それでその後、ちょっと頑張ったんです。だから、いいきっかけを作っていただいたと(思います)。

池上:吉原先生の厳しさっていうのは、もう男女を問わず、女性だからといって遠慮されることはなかったんでしょうか。

山崎:かえってね、泣かすのが趣味だったんです。

池上:そうですか(笑)。

加藤:確かに初めは女性の方が多かったと思うんですけれども、本当にどんどん辞められるというか。

山崎:うーん、田中(敦子)さんは特にタピエが絡んでましたからね。具体を通さずにタピエに絵をあげたり売ったりなさったんですね。小さなこんなもんだったら、「どうぞ持って帰ってください」って言いますわね。そんなのを、具体を通さずに。

加藤:(60年代を経て)70年頃というのは、具体の雰囲気というのは本当に変わってしまっていたんですね。万博の頃には。

山崎:万博の頃は、もう、人数が多いときですしね。

加藤:山崎先生は万博の時は、どのようなことをご担当されていましたか。

山崎:    あんまりあの頃にはいい作品が無いんですけどね。やっぱし透明、こんなんの固いやつね。

加藤:アクリル板みたいな。

山崎:外側のこんなんに描いてました。染料っていうのかな。そんなんを2、3枚重ねて。(画面が)ダブりますでしょ。それをケースに入れていました。

加藤:その頃の作品っていうのは、残っていますか。

山崎:無いですねぇ。なんかあの、落とされたり、ロクな事なかったです。「絶対これは新しい接着の何かだから落ちません」って言うんでそれ使ったらね、あくる日行ったら落ちてるんです(笑)。そんな面白くないことがありましたね、随分。

加藤:吉原先生が72年にお亡くなりになりますけれども、その時、お亡くなりになったっていうのをお聞きになって、どう感じられましたか。

山崎:面白い質問です(笑)。

加藤:どう感じられましたかっていうのは、変かもしれませんが。

山崎:くも膜下出血でしょ。それでもう芦屋病院にすぐ入院なさって、それから1週間かそこらですねぇ。1週間か2週間で(亡くなられて)。お見舞いに行っても、ベッドの端っこの方、やっと先生のお顔が見えるかどうかのところまでしかね、入り口ドアのそばくらいにしか入れなかったり。

加藤:具体が解散された時は、どのようなお気持ちでしたか。

山崎:もう、当たり前やねぇ。もともともう壊れてましたからね。だから、かえって先生が亡くなった時、すぐ解散しましたね。

加藤:その頃もう、嶋本さんとか元永さんとか、村上さんは最後まではいらっしゃらなかったと思うので。

山崎:そうですね、嶋本さんが初めかな、そしたら村上さんが「俺も辞めますわ」って言うて辞めて。元永さんも前から「辞めたい、辞めたい」言うてたから辞めて。

加藤:吉原先生としては、寂しかったと思うんですが。

山崎:でもねぇ、キツい性質の人ばっかりが一緒に行動をともにしたんですから、決裂すんのが当たり前ですもんねぇ。

加藤:そう考えると非常に長く続いたっていう方が、私は驚きだなと思います。

山崎:そうですねぇ。普通グループって言ったらせいぜい5年と続かないですね、2、3年で。

加藤:やはりそれだけ吉原先生の魅力というか、カリスマ性っていうのがあった。

山崎:それと、やはり自分の作品が、グループにいたために爆発的に良いように出来るようになりましたからね。いたらいいと思ったんでしょうね、みんな。

加藤:やはり1人で描いているよりは、色々ライバルっていうか、お互い意識し合いながらやるっていう環境が良かったと。

山崎:良かったんでしょうね。それと治良さんがアドヴァイスをなさいますしね。

池上:もう1つお聞きしたいのが、吉原先生からアドヴァイスをもらえて具体にいることがよかったというお話だったんですけども、お1人の作家としての吉原先生のことはどういう風に見てらっしゃいましたか。

山崎:始めは、若いもんの爆発力で、先生はもう本当に苦しまれたんですね。自分だけ置いてけぼりみたいな感じでね。だけども「円」を、良い作品ができだしてからはご機嫌でした(笑)。「俺はやっぱし」って。

池上:先ほど、吉原先生は男女問わずお厳しい方だったということでしたが、具体のグループの中では、女性のメンバーの方がやはり少ないことは少なかったと思うんです。女性のメンバーだから、こういう事があったとかいうことは、特にございましたか。

山崎:ああ、あの、あれですか。あの、何とかいう…

加藤:セクハラですか。

山崎:そう、セクハラ(笑)。

池上:その単語が適当かは分からないんですけれど。

山崎:田中さんなんかあったって言いますねぇ、大分。それは、タピエが絡んでいたからねぇ。

加藤:多分田中さんの場合は、いわゆる一般のセクハラという言葉が意味するものとは違うものも含めておっしゃっているんだと思うんですけれど。簡単に言えばいじめっていうか、そんなことも含めておっしゃってたんだと思います。

山崎:一般に言うセクハラって、何です? 性的な?

加藤:はい。

山崎:それじゃないですわね、田中さんの場合。治良さんを素通りして、タピエと居たのが、吉原治良にしたらもう、許せないんですね。そんなこと、もうちょっと見逃してあげたら良かったのに。

池上:山崎先生の場合は特にそういうことは?

山崎:いえ、私はタピエに何にも好かれてませんから(笑)。

池上:グループ内で、どうこうということも特にございませんでしたか。

山崎:無いですねぇ。

池上:メンバー同士、割とやはり……

山崎:みんな男の方とそれぞれ普通に仲良かったですしね。

池上:では、具体の解散の以後と以前というので、先生の制作活動に大きく変わるところがありましたでしょうか。

山崎:もうおしまいの方は、あんまり…… まあ、ちょっと(制作は)ましになってたのかな。東京のなんとか美術館(注:東京セントラル美術館で第19回具体展が開催されたことを指す)の頃は、ちょっとましになってたんですよね。それでも治良さんが亡くなって解散してから、みんなもう、ほぅっとして。突っ張ってたんが、つっかえ棒が取れましたでしょ。だからもう、何にもしなかったですね。

池上:やっぱりガクッとくるというか、虚脱状態のような感じになって。

山崎:そうですね、虚脱状態で。で、そんな時でもやっていたのが元永さんですね。田中さんはその前に辞めていらしたから、(治良の死後も)ずっと続いていましたけれども。私がよくお付き合いしてたのは、嶋本さんと村上さんと浮田さんなんですけどもね、(3人は)全然描いてなかったですよ。

池上:嶋本先生や村上先生も描いてらっしゃらなかったと。

山崎:全然描いてなかった。

池上:それだけ、具体であれ、吉原先生であれ、存在がとても大きかったということでしょうか。

山崎:というよりはもう、ほっとするんですね。そこから自分で、自分の作品をちゃんと作ろうと思うまで、ちょっと空白期間がどうしてもあって。私は一年くらい何にもしなかったです。

池上:その後、ちょっとこちら(注:『リフレクション:山崎つる子』展図録、2004年、芦屋市立美術博物館)にも作品が出てるかと思うんですが、70年代の半ばになってくると、こういう、ガラッとスタイルを変えられて。具象的なんですけど、ちょっとコンセプチュアルなものが入った作風になるんですけれども。このスタイルを始められたきっかけというのは。

山崎:嶋本さんのお家が、個展会場にもなるような造りだったんですね。それでみんな代わりばんこに使わせてもらってたんですね。その時に…… あの、私、ガラッと変わるの得意なんです(笑)。そんで、今度はこれ、っていうので、出したんです。

池上:こちらの作品(《TITLE》、1976年)なんかは、タイトルが『吉原治良と具体のその後』という風に、なっているんですけれども。

山崎:あぁ、それは展覧会の名前です(注:『吉原治良と具体のその後』展、兵庫県立近代美術館、1979年1月5日〜28日)。

池上:あ、そういうことですか。タイトルは《TITLE》ですよね、失礼しました。

加藤:それは、皆さんご覧になってどのような反応でしたか。

山崎:みんな白い目です。「具象やないか」ってね。具象じゃなかったんですよね。もうちょっと捻ってあったんですけども、「具象やんか」って言われました。

加藤:嶋本さんは面白いっておっしゃってたんですよね。

山崎:ええ、嶋本さんは面白いって言うてくれたんです。

池上:あとは、こちらのイメージを二つ描かれるようなもの(《TITLE》、1980年)も、よくお描きになっていたようなんですけれども。

山崎:ええ、少しコンセプチュアルを入れて。

加藤:このゴリラは、何とも言えずチャーミングな顔をしているんですが(笑)、これはもとはゴリラの写真か何かがあったんですか。

山崎:絵はがきね、アメリカの。私アメリカに住んでいたこともあるんですよ、その間ね。ちょっとアメリカ人と親しくなっちゃって(笑)。一緒にアメリカとかハワイで住んでいた時期があるんですね、短い期間ですが。ですから、アメリカの文房具屋さん、っていうのがちょっと面白いでしょ。絵はがきが特に面白かったんですね。それで色々、動物の絵はがきなんか買い込んで。もちろんこれだけで普通の色付きなんですよ。ゴリラの写実なんですけども。すごく絵はがきとして綺麗だったんでね。「それ使える」て思って。

池上:アメリカにお住まいになっていたというのは、この70年代の後半のあたりにいらっしゃったんでしょうか。

山崎:そうですね、何年くらいだったかしら。

加藤:ニューヨークとかですか。

山崎:ワシントンですかね。

池上:ワシントンDCの方ですか。

山崎:そう、DCですね。

池上:いらしていたというのは、存じ上げなかったので……

山崎:いやもう、本当にちょっとで。

池上:アメリカにいらしていた時に、アメリカで見た美術で、何か印象に残ったものはありますか。

山崎:もう、行っている間は、何にもアートは思わなかったですね。

池上:その後、具体美術協会に対する評価のようなものが、日本でも外国でも80年代の半ば以降に、再評価っていうのがかなり進むと思うんですけれども。それこそヴェニスに行かれたりとか。

山崎:ええ、ヴェニスやら色んなイタリーの美術館のあれ(展覧会)がありましたからね。

池上:そういう再評価の流れというのは、先生はどのようにご覧になっていましたか。

山崎:あれ、何年後ですか。40年経たんと、本当にわからないって言いますでしょ。具体が50年くらいとしたら、あれ何年かな……

加藤:(具体が)解散したのですか。

山崎:いや、イタリーで、美術館に行って。

加藤:イタリア、ローマ展(『前衛の日本 1910-1970』、ローマ国立近代美術館、1990年12月6日〜2月28日)ですか。

山崎:はい、ローマ展とか。

加藤:ダルムシュタット展(『具体―日本の前衛1954-1965』、ダルムシュタット市立マチルデンヘーエ美術館、1991年3月24日〜5月5日)とかですかね。それは1990年、91年ですね。

山崎:40年経ってますか?

加藤:はい、ほぼ。結成された時から考えると。

池上:ヴェニスが93年とすると(第45回ヴェネツィアビエンナーレ、1993年6月13日〜10月10日)、本当にちょうど40年くらいですね。

山崎:うん、40年くらい経たないと、本当のあれ(評価)は出ないって言いますからねぇ。

池上:40年経ってようやく理解された、というような(感じでしょうか)。

山崎:方々で具体展いうのがありましたねぇ。ヴェニス、イタリー(ローマ)とドイツ(ダルムシュタット)と、それからアメリカでやりましたね。私は、アメリカはお呼びじゃなかったけど。

加藤:アメリカは、具体展というのではなかったので。(アレクサンドラ・)モンロー(Alexandra Munroe)さんがされた展覧会ですね。『戦後日本の前衛美術』ですね。

山崎:あのとき立て続けに次々ありましたね。

加藤:あれも94年だから、ヴェニスの次の年ですね。

池上:山崎先生はヴェニスには行かれたんですよね。

山崎:はい、行きました。

池上:そこで、昔のメンバーの方々と再会というか……

山崎:ああ、それはもちろん。でもそれは、こちらにいるときでも仲良かったですよ。嶋本さんと村上さんと。

池上:初期のメンバーの方々同士では、ずっと仲は良かったわけなんですね。

山崎:まあ、白髪さんとか、田中敦子、金山のへんは、普段は会わなかったですよね。ああいう時にだけ会いましたけど。

池上:最後に、最近の作品についてもお聞かせいただきたいんですけれども。2000年以降、ブリキと染料を使われているような作品もまた始められているかと思うんですが。

山崎:2000年言うたら、いつでしょう。

池上:こちらに出ている作品では(ないでしょうか)。このあたりのものを拝見していたんですけれども(注:『リフレクション:山崎つる子』展図録、25頁参照)。

山崎:はいはい、それが2000年(《作品》、2000年)ね。 それは何でやったんかな…… 個展するので作ったんだと思いますわ。

池上:一度タピエに言われて、キャンヴァスに行かれたこともあったんですが。

山崎:キャンヴァスに変えたけれども、やっぱり金属的な艶いうのが、私は本当に好きなもんで、それでやりたくなったんやと思います。

池上:これ(山崎の部屋にかけられている作品。写真の背景に写っている)にしても、やはりカンヴァスには無い、金属の良さというか、それがあるなあと私も拝見したんですが。

山崎:これはもう、大昔ですけど、それはこんなんと同じ頃です。どこにももう出してないんです。ちょっと簡単すぎて。これと同じ頃やと思います。

池上:耐久性に問題があるからとのタピエの指摘だったんですが、実際はどうなんでしょうか。その最近の作品に関しては。

山崎:これはタピエに見せた頃で、材料が悪かったんです。シンナーとかそういうもんの使い方が……

池上:いえ、綺麗に残っているようにお見受けしますが。

山崎:それは、かえって面白くなったんです。ですが本当は、こういう風(2000年以降のブリキ支持体作品)なんが、作った時の感じなんです。それが段々錆びたりしまして、こうなったんです。

池上:面白い効果が出ているように思います。

山崎:それで、今度のように、こんなのも、みんなこの時期なんですね。そしたら、外国人ていうのは、古いもので、色が変わっていても平気なんですね。その辺が日本人と違いますね。

池上:それが作品の味という風に取られるんでしょうね。

山崎:かえって面白い、という評価ですね。

池上:大分長い間お話を聞かせていただいて、ありがとうございました。

山崎:申し訳ありません。ぱっとしなくって。

池上:とんでもないです。最後にお聞きしたいのが、本当にずっと、2000年に入っても活動を続けてこられていて、長い間作家として活動されていると思うんですけれども、その中で一番大事にされてこられたことっていうのは、何でしょう。

山崎:あ、それは難しい(笑)。…… 描きたい絵を描くっていう、評価とかそういうこととは無関係に、気ままにやりたいっていうだけですね。もっと何かないかな。

加藤:嫌になったときはどうされるんですか。例えばそのもうちょっと(やるのは嫌だ)……

山崎:「あぁ、しんどい」ていう時はあります。今もしんどい時です。個展が6月にあるんですけどもね、なかなかしんどくって。

池上:個展はどちらでされるのですか。

山崎:ラッズ画廊(LADS GALLERY)って西の方なんですね。国立国際って美術館がありますでしょ。あれからちょっと歩いたところです、5分か10分ほど。

池上:今制作を準備されている、ちょっとしんどいという時期で。

加藤:それでも長く続けてこられたってことは、例えばちょっとしんどいと思ったら少し忘れるとか、そしてまたやりたくなったら、やるという。

山崎:その方がいいですね。ダラダラ気が乗らないのにやってるいうのは駄目です。パッと切り替えないと。なんかその、きっかけがいるんですね、それがなかなか難しいんですけど。

池上:すみません、最後にもうひとつだけ。先ほどお聞きし忘れてしまったんですが。絵画教室をずっとされていたとお聞きしたんですが、いつ頃からされていたんでしょうか。

山崎:随分前ですよ。私が45歳くらい、40歳位かなぁ。それまで(親の)臑齧りだったんですね。でも「こんなことではいかん」と思って、自分で少しでも稼ごうと思って。それが40歳かなぁ。40歳からこないだまでだから、40何年。

池上:随分長い間ずっと。この芦屋で、教室を開かれていた。

山崎:自宅ですわ。どっか公民館とかね、そういうのはあまり好きじゃないから、自宅でやります。

池上:学生さんはどういう方だったんですか。

山崎:小学生。幼稚園と、小学生の低学年ですね。

池上:具体の作家の方たちは、割と子どもに教えられる方が多かったように思いますが、子どもの造形から何か触発される、というようなこともございましたか。

山崎:いや、子どもから何かもらうということは、ちょっと筋が違うと思うんですね。子どもの想像力というのか、逞しさというのは、本当にびっくりして尊敬していますけども、ちょっと私の場合は(子どもからは)もらわないです。よく、子どもの絵の写真を写して、それを自分のアイデアに使うという方もありますけれども、私はあんまりそれを思わないんです。ただ、子どもが調子に乗ってきたら、その辺のもん何でも、教室の中から取って勝手に持ってきてこれをこうして、くっつけてこれでって。そんなんが好きなんですね。子どもはそんなんはもう天才ですから。

池上:最近までその教室をされていたのですね。

山崎: 7月までやったんですけどね、ちょっと心臓が悪くなりましてね、それで3、4年の男の子って結構体力もあるし賢いですから、あれもこれもって、全部要求してきて。

加藤:段々要求が大きくなっていって。

山崎:それで、「受験だから塾行かんとあかんのでしょ」って言ったら「塾も行ってる」って言うんですね。「でもお絵かきの日にはお絵かきだけする」って。それで、来たらその日は6時7時くらいまで居ますからね。それであらゆる材料を出して(笑)。後片付けは大変やしね、それで「もう、ちょっとかなわん」と思って辞めたんです。

池上:加藤さん、最後に何かございますか。

加藤:えっと、そうですね…… 作品作りの時に、常に意外性のあるものとか、形からいかに離れるか、形のまとまったものからいかに離れるかっていうのを、いつも心がけていらっしゃるって、前におっしゃってたと思うんですけれども、これからもそうなんでしょうか。

山崎:そこから、もっと形のないもんと思ってね。これ(2000年代のブリキが支持体の作品)はまあ、一番シンプルですよね、それ以降が出てこないんですわ。もっと形の無いように、そのころはしたかったんですね。それで今も展覧会のために、100号描いてたんですけど、それも形大アリです(笑)。見てください、加藤さん。それお見せしますから、ちゃんと思った通りに言うてくださいね。

加藤:あ、是非。もちろん、お世辞とかそんなことは(言いません)。

山崎:面白いですとか言わんでいいから。

加藤:はい(笑)。わかりました。ありがとうございます。

池上:本日はありがとうございました。

山崎:失礼いたしました。もういい加減なことで。

池上:とんでもないです。ありがとうございました。