池上:生い立ちからなんですけれど、先生は愛知県の名古屋市?
藤本:はい。生まれです。
池上:名古屋の?
藤本:市内です。昭和区というとどちらかというと一般的な住宅地。
池上:そのなかで引越しとかは?
藤本:ないですね、そのまま。
池上:ご家族はご両親と?
藤本:3つ上の姉と2人姉弟で、父親と母親という典型的な家庭だと思うんですけど。
池上:お父さんはいわゆるサラリーマンの方だったんですか?こちらのテキストだとガス関係の?
藤本:いくつか途中で自分で会社興したりもしてるんですけど、もともと父親の父親がガス会社をやっていて、その関連で仕事なんかしてたんです。父親はブロックの会社を興したりしていたみたいです。
池上:コンクリートブロックですか?
藤本:ええ。
池上:いわゆるエンジニア的な仕事をされていたのではなく、経営をされていたんですか。
藤本:父親は京大の物理学をでていて、成績書に湯川秀樹とか書いてあって、ブロックの会社をおこしたのも、製法とか特許かなんかに基づいて起こしたみたいです。経営は全然だめだったからうまくいかなかったみたいです。
鷲田:どちらかというとエンジニア肌なんですね。
藤本:そういう関係で、カメラとか時計とかメカニズムのものが好きだったみたいで、そういうものばっかり買ってたんです。
鷲田:それはそのときに売っていた最新の製品を?クラシックのというよりは。
藤本:写真がすごく好きだったみたいですけど、いわゆるプリントして制作するというよりも機械が好き。新しいカメラをどんどん買って、庭に暗室の部屋をつくっちゃったんですよね。自分のブロックで。コンクリートブロックの、今からいうと安藤忠雄みたいなものなんですけど。屋根も四角で全部ブロックで、窓があって。そういうのを庭に2つくらいつくって。その1つは全部暗室にしてたんですよね。もう1つを、自分の子ども部屋で僕が使ってたんで。子どものときそういう父親の部屋・・・庭をいったん出て、扉を開けて覗くと実験室だったのは記憶してます。
鷲田:そこでお父さんが引き伸ばしとかをされていたんですか。
藤本:やっていたみたいなんですが、記憶の中に父親が撮った写真という記憶がほとんどないんです。だから引き伸ばすところまではおもしろかったんじゃないかな。それから、あんまり実際やってるところを見たことがなかったんで、揃えるのが好きだったんですね。
池上:カメラというと、どちらかというと機械の構造というか。
藤本:ありとあらゆる種類のカメラがあって、スパイカメラみたいなものから。僕が幼稚園のときから6×6(ロクロク)っていうマミヤの、あれを自分でぶらさげて撮ってたんですよ。全部父親が買って使ってないものを使ってたんです。ありとあらゆるものを新しいものが出たら買ってたみたいです。それですぐ飽きてたみたいで。それがごろごろしてたから僕の遊び道具にそのままなってて。
池上:もうひとつのコンクリートブロックの子ども部屋で?
藤本:そこでやったり。家の中にあるから、それを触っても誰にも怒られないし、父親も興味なくしてるから。写真が撮れるんだったらフィルムを入れてもらって。小学校のときに引き伸ばしをやったような記憶があります。あと覚えているのが、ポラロイドカメラの引き抜いて液を塗るようなやつとかを自分でやったりとか。
池上:そういうやり方とかはお父さんに教えてもらったり?
藤本:いや父親はほとんど接触なかったんですよね。
池上:じゃあ勝手にご自身で調べたり?
藤本:だと思います。母親に教えてもらった記憶もないので。大体道具があればやってみるとなんとなくできる。あと8mmのフィルムカメラですね、それもあって。最初はゼンマイ式だったんですよ。動力の部分がゼンマイ式。2分くらいはフィルムがまわれる。それも幼稚園から触ってた記憶がある。そのときの一番の記憶は巻けないんですよね、子どもの強さでは。そのときにコマ撮りっていうポジションがあったんで、1コマ撮りをやってみて。姉の人形を動かして、縄跳び人形にさせているやつをつくったりとか、自分が屋根にいて、次に下に降りて、忍者みたいな特撮をやったりとか。それは小学校の始めの方。
池上:テープレコーダーは遊びのなかの一つだったんですか。
藤本:あと当時は、トランジスタラジオっていうのがソニーで出て。そういう新しいのをどんどん買っていたんで。トランジスタラジオみたいなのを触ると、番組なんかはわかんないから、ダイアルを回したときにチャンネルとチャンネルの間のシャーって言う音がおもしろくて触っていた。そのなかにすごく大きなオープンリールのテープレコーダーでアメリカのアンベックスっていう業務用のテープレコーダーがあって、それも父親が使っているところを一切見たことなくて、そればっかりは動かせないので、僕の部屋にいれてもらって。20kgか30kgくらいあったと思うんですよね。自分の部屋から一切出ずにそこでまたマイクロフォンとかをさして、見よう見真似で録音をやっていましたね。
鷲田:それも小学校の初めくらい?
藤本:くらいだと思いますよ。でもそれほど熱心だったとは思わないですけど。
池上:おもちゃのような感覚?
藤本:どっちかっていうとリールが回るのがおもしろかったりとか、早送りすると回転があったりとか、ほんとに乗り物のおもちゃ感覚で電車を運転してるみたいな感じで、レバーを引いたり。最初はそういう遊びみたいな感覚でやっていた。
鷲田:小学校のころはテレビは無かったんですか。
藤本:うちはわりと早くて幼稚園くらいのときから白黒のがあったんで普通に見てた。
鷲田;レコードとかも。
藤本:SPレコードっていう昔の蓄音機っていうのがあって、それからいわゆるデンチク、
電気蓄音機ていうレコードのプレーヤーはあったんですけど、おもしろいことにレコードはほとんどなかったんですよね。機械が興味あってもソフトはほとんど興味なかったんですね。音楽とか聴いてる姿は記憶にないです。
池上:あまり音楽とか美術とかいう関係のものはご家庭のなかでは。
藤本:特になかったですね。
池上:先生がビートルズですとか、あるいは文学でも美術でもいいですけれど、そういったことに興味を持たれ始めたのはいつですか。最初にビートルズを聴かれたのはいつくらいですか。
藤本:中学校1年くらいかな。ラジオをずっと聴いていて、ラジオの番組で外国のヒット曲が流れて、そういうのが最初だったんですけど。聴き出したころっていうのは、ほとんどアメリカのエルビス・プレスリーとか、ポップスというとアメリカのヒット曲ばかりで、最初はそういうのに馴染めなかった。もうちょっと上の人たちの音楽で、古いなという感覚でそんなにおもしろいと思ってなかったんですけど。中学校入った頃、ラジオを聴いていたら全然違う音色が聴こえてきて。それがリバプールサウンド、イギリスの。最初の和音自体がアメリカのはカラッとした響きなんですけど、イギリスのはちょっと湿っぽい。あっと思って。聴き出したのがちょうどビートルズが話題になった頃で、ブリティッシュサウンドっていうヒット曲ばかりをラジオで聴いていると自分の音楽のような感じがして。学校に行くと、好きな友達と情報交換するようになったのが、最初の音楽の興味だったかもしれないですね。自分が積極的に聴いた。
鷲田:その頃はラジオを録音したりとか。
藤本:まだオープンリールのテープレコーダーなんで、テープ自身すごく高かったんですよ。録音してストックするっていう感覚はなかったんで。その時間ずっと聴くっていう感じでしたね。録音しても、一回聴いて次に録音するときは消して録音する。とりあえずはラジオの毎週気に入りの番組をチェックして聴いて、次の日学校に行くと、あれかかっていたねって。もうひとつはレコード屋に行くんですけど、小遣いではLPなんてほとんど買うという人はいなかった、買えなかった。ドーナッツ盤っていうシングル盤が400円とか500円だったんで、それをなんとか。欲しいレコードを少し買う。あとはレコードのジャケットを見ながら、「あ、出てる出てる」て。
池上:そのころレコードのジャケットデザインにも興味は出ていたんですか。
藤本:ジャケットデザインは、ヒット曲のほうは決まりきったものだったんですけど。それはビートルズとかの話題は、学校でも全員じゃないけど好きな人とは話せるんです。もう一つ並行して聴いていたのは実は現代音楽だったんです。きっかけはテープレコーダーで録音して遊ぶときになにか録音するものないかなと思って、マイクで自分の声とか録音しても恥ずかしいから、なんか変えられないかなって速度を変えると、もこもこっとしたり、テープを入れ替えれると逆回しになると、全く聴いたこともない音が聴こえてびっくりして。そうやってトランジスタラジオでも曲と曲の間のシャーっていう音を録音して速度をかえたり、手でぐいっと回して結局スクラッチだったんですけど、ほんと音遊びですよね。聞いたことない音だったなと思っていたら、ラジオで同じような音が流れてきてびっくりしたら、NHKが日曜日の午後に現代音楽を紹介するような番組があって。そこから自分が部屋の中で遊んでたようなほとんど同じような音が聞こえてきて「いったいなんだろう」と思ったら「電子音楽です」って言っていて。ドイツでつくられたばっかりの。「音楽なんだ」って初めて知った。
鷲田:録音とかをいろいろ試していたのは、小学生くらい?
藤本:意識したのは中学校に入ってからだと思うんですけど、それまでは暇つぶしの遊びでやっていたのでいつから始めかていうのはほとんど覚えてないですけど。
鷲田:現代音楽の番組を聴かれたのは中学校?
藤本:ビートルズを聴いているころとほとんど同じかちょっと前だと思うんですが。電子音楽というのがあると知ったんですが、その番組内では一切聞くことができなくて、毎週やるわけでもないし。知りたいなと思うんですけど、どこへ行ったらいいのかとか本も分からなくて、レコード屋へ行って電子音楽売ってないかなと思って、クラシックのフロアに行くと、隅っこのほうに現代音楽とか書いてあるコーナーがわずかにあって、「あ、こういうところにあるんだ」と思って。クラシックの方はLPレコードなんですよね。当然買えないのでとりあえず名前だけをジャケットで、シュトックハウゼンとか、見ながら覚えていったりとか。そうやってこんな人がいるというのを音をほとんど聞かすに。ときたまラジオから、「あ、あのレコード屋でみたあの人の音楽か」とか思うんですけど。そのときおもしろかったのは、ジャケットのデザインがすごくおもしろくて、現代音楽の。後で知ったのが粟津潔とか、日本の若いグラフィックデザイナーが手がけていたんですよね。和田誠もやっていたり、あとは杉浦康平とか。クラシックは指揮者の写真に対して、(現代音楽は)グラフィックデザインがすごくおもしろかった。
池上:音楽とジャケットデザインと、すごいインパクトで。
藤本:ジャケットしか分からない。なかがどんな音楽か分からずに、でもなんか違うっていうのはね。クラシックのフロアに並んでますから、モーツアルトとかベートーベンとかストラヴィンスキーとか並んでいても、そのコーナーだけ全然違うんで、きっと全然違う音楽なんだろなあって。興味はあったんですけど、ラジオで時たま流れるくらいだし、もうひとつは学校に行っても、話す相手がいないんですよね。
鷲田:そのときラジオで聞いた音を、テープレコーダーでつくってみようとかそういうことはなかったんですか。
藤本:まさか自分でつくってみようという気もしなくて、こんなの音楽っていうんだとか、どちらかというとびっくりしてた。湯浅譲二っていう人が声を全部変調していて、それが流れてきたりとかこれも音楽なのか、これも音楽なのかって、ジャーっていう音がしてるだけなのが音楽と言われていたり。どんな新しいのが次は聴けるんだろうっていう興味。だからその音楽を自分がやってみようと思わず、いったい何が次にでてくるんだろうという興味があって。そのときはジョン・ケージっていうのはあまり結びつかなかったですね。ヨーロッパの電子音楽とかラジオで流れているのは興味があったけど。テレビのニュースでたまたま見ていたんですが、ステージの上にグランドピアノがあって、ジョン・ケージがいたと思うんです。弦の上に全身黒いタイツの女の人が寝そべってたんですよね。いったいなんだこれはって。あとでわかったのは草月でジョン・ケージが来て演奏やっていて、これも音楽だというのがニュースで流れていた。上に寝そべっていたのはオノ・ヨーコだったんですよね。あの当時は僕は音楽だと思わなかったですよね。
鷲田:中学2年生くらいのときですよね。
藤本:だからほんとにぎょっとする体験ばっかりですよね。
鷲田:小杉武久さんもこのころに?
藤本:いや、このときは全然知らなくて、それでだんだん日本の現代音楽の人をラジオで聴いて、だいたいどういう人がやっているというのがわかってきて。黛敏郎が東京オリンピックの電子音楽つくっていたりとか。その年代の人が最先端だったですよね。それで少しずつ興味を持って、60年代の終わりくらいに、その頃はなんとなく電子音楽っていうのがおもしろそうだって分かったんですけど、電子音楽っていうと個人ではできなくて、スタジオ借りてっていうイメージなんですよ。それも『美術手帖』か『みずゑ』かなんかだと思うんですけど、そこのなかに小杉さんのドローイングが載っていたんですよね。釣竿持って扇風機の絵が描いてあって、それを見たときにびっくりして。「こんな道具で音楽をつくってる人がいるんだ」って。そのときに小杉武久っていう名前を知って。
池上:それは大学に入る前ですか。
藤本:前だと思う。大学はいる頃には小杉さんの名前は知っていたと思う。
池上:高校生くらいのときに『美術手帖』とかをご覧になったんでしょうか。
藤本:『美術手帖』・・・どっちかっていうとアンダーグラウンドカルチャー、いわゆるアングラっていうのがあって・・・。ちょうど僕が高校に入ったくらいから、ヒッピー革命みたいなのがあって、社会自体が変わっていくときだったんで。高校に入った年に学校さぼっちゃったんですよね。家は一応学校行くフリして出るんですけど、物置で私服に着替えてさぼってて。昼間に街なかに行くと補導されるのは分かっていたんで、とりあえず午後まで時間をつぶすところはないかなと見つけたのが、美術館のロビーだったんですよ。愛知県立美術館ていうのがあるんで。そこだとタダでロビーに座って過ごせる。午後の2時とかそれくらいまでいて、それから街のなかにでて、そういう場所を見つけて。それまでいわゆる読書という習慣がなかったんですけど。美術館のロビーでぼーっとしていても、なんか時間過ごすことないかなって小説読んだら時間つぶせるだろうって。そのとき買ったのは芥川龍之介全集。とりあえず「あ」だったからだと思うんですけど(笑)。 一番安い文学全集で
池上:端から読んで?
藤本:たぶんそうとしか思えないですよね。なんで芥川にしたのかは。名前は知っていたと思うけど「坊ちゃん」とかクラス全員読んでいたけど、僕だけ読んでなかったくらいでしたから。それを持って美術館に行ったのが本を読み出すきっかけで、そうやってロビーで過ごしていると展覧会はタダで見れるというのがわかって。いわゆる県立美術館だから、団体展とかああいうのもやっているわけですよ。日宣美という日本宣伝美術の展覧会をやっていて。そこに入ったら現代音楽のジャケットのデザインの人のポスターがあって、横尾忠則とか宇野亜喜良とかものすごい極彩色で。この世界はいったいなんなんだろうと持って。今度は街のなかに出たときも、どこへ行っていいか分からないから、なんかそれらしい人に付いていくんですよね。一つは、黒いセーターで、黒いパンツでサングラスかけてペーパーバックみたいなのを持っているような人が入っていくお店があって、かっこいいからと入ってみたらモダンジャズ喫茶だったんですね。コルトレーンやアルバート・アイラーとかがかかっていて。お店のなかは真っ暗で、煙草の煙と、そういうなかに入るけれどどうしていいかわからなくて、入った人をどうしているか見たら、サングラスをかけて暗いなかで煙草をくわえている。それを見てかっこいいなあ、ジャズかっておもって。で、レコード店に行って探すと、フリージャズとかマイルス・デイビスとかジョン・コルトレーンとかの名前を知る。それをラジオで聴くと現代音楽と似ているんですよね。あと美術館を出たら、美術館の横の道のところにずらーっと画材道具とかを持った若い人たちが並んでいて。なんだろうって後ろに並んで入ったら草月の実験映画祭ってやつで。そこでジョナス・メカスとかスタン・ブラッケージとか全く分からずに見たら、フィルムが溶け出す映像とか、それをみたら非常にショックを受けて。また別の時に並んでいいる人達の裂に入ったら、今度はアニメーションフェスティバルで。そうやって新しく生まれてきた表現に興味をもった。貪欲だったのかもしれない。知りたいってそういう情報がどういうところに載ってるんだろうかと本屋で探すと、ちょっとアンダーグラウンド的なものしかおいていない奥の方の怪しげなコーナーになるんですよね。そこで見つけたのは『話の特集』って言う雑誌で。なんで見つけたかというと表紙を横尾忠則が書いていて、美術館で見たポスターと同じで。「いったいなんだろう」ってみたら、ものすごい当時としては尖った人ばかりですよね。執筆陣が。だんだん文学というか小説のことも知って。
池上:どういう方が書いているんですか
藤本:一番有名なのは『話の特集』に書き出したのは植草甚一っていうエッセイスト。小説は結構・・・誰だっけな。とりあえず僕は最初に目に留まったのは稲垣足穂っていう人だったんですよ。三島由紀夫とかも書いていたかもしれない。
鷲田:高校生くらいの頃だと、その雑誌を買って?
藤本:『話の特集』くらいだったら買えた。どういうところだったかというと三流雑誌というかアダルトみたいななかにあるんですよ。『話の特集』ていうタイトル自体がもともとそういうアダルト雑誌で、その会社が倒産したのを引き継いで、書籍コードの関係でまだ出せるからその名前で出したと書いてあったんですけど。いわゆる一般的な小説があるコーナーではなくて、ほんとサブカルチャー、そこからアンダーグラウンド映画の雑誌があったりとか。人に教えてもらったわけではなくて、本屋でこの隣にあるものは一体なんだろうって。その中で澁澤龍彦とか黒い本があって、黒魔術とか書いてあって、「こわいなあ」とか思いながら(笑)。そういうのを見つけていって。興味はあるのですが、高いし。大きな本屋行っても置いてないわけですよね、一般の。で、どこにあるかっていうと古本屋に行くとそういうものが置いてあるっていうのが分かって、次に古本屋めぐりみたいな。でも積極的に読むわけに行かないから、レコードのジャケットみるみたいに、澁澤龍彦が置いてあるコーナーに行くと、マルキ・ド・サドとかロートレアモンとか書いてあるわけです。背表紙だけ見ながら頭の中に入れていってというのが、本を読むきっかけだった。あ、『話の特集』は野坂昭如ですね。野坂昭如は読んでたんですよ、高校のときに。
鷲田:それと並行してビートルズとかロックも?
藤本:ビートルズはちょうど中学に入ったときから爆発的に。最初に聞いたのは《プリーズ・プリーズ・ミー》っていう2番目のシングルですから、日本とイギリスとほとんど同時期くらいなんですよね、大騒ぎしてたから。ブリティッシュサウンドということで、どんどんどんどん音楽も盛り上がっていったときなので、ずっと聞いてたんですね。
池上:日本に来たのは何年でしたっけ
藤本:66年とか。高校1年くらいのときだったんですけど。
池上:テレビで?
藤本:テレビで見ました。そのとき録音した覚えがある。30分。でももうそのころは、そのまえは映画が、ビートルズの《ハート・デイズ・ナイト》とか《ヘルプ!》ていう映画が来ると見に行ったりとかしてたんですけど。いわゆるアイドルの感じですよね。どんどん有名になって盛り上がるんだけど、反比例して高校に入ってからは興味がモダンジャズとかそっちの方をラジオで聴くようになりましたね。ビートルズは日本に来てそのあとからステージ活動をやめちゃったんですよね。スタジオにこもってとんでもないLPを出してったんですけど。すごさっていうのは相当後になってからじゃないと分からないですよね。すごい変な音楽になったっていうのは覚えてたんですけどね。その頃からテープ逆回しとかいろんなことをビートルズは作品でやりだしたんですね。僕は慣れてたから、ずっと聴いてて。
鷲田:ではご自身では友達とバンドしたりとかそういうことはなかったんですか。
藤本:エレキギターとかバンドやりたかったんですけど、1つ2つ上の人はバイトして揃えられたけど、中学校の始めだと楽器屋へ行って眺めるだけでしたね。買うとこまでは・・・。もうちょっと上の人たちはバンドやり始めていたんですけど。
池田:コンサートに出かけていったりとかは。
藤本:いくつか行きましたね。最初がいわゆるエレキブームのさきがけでアメリカのグループでアストロ・ノーツ、っていうインストゥルメンタルのグループだったんです。いわゆるエレキギターとベースとドラムで。その人たちのヒットが出て、彼らが日本にやってきて体育館でそれが初めてのライブ。いわゆるエレクトリックの。体育館の2階の一番安い切符を買ったと思うので、下の方のステージをいいなと見て、そのときの初めての経験は今でも忘れられないんですけど、どんな大きな音なんだろうと思っていたら、鳴ったら床が響いたんですね。足から振動が伝わってくるのは初めてだったんで、音楽ってからだに伝わるんだっていう。それからいくつか、向こうのグループが来たときは見に行きましたけど、特に自分でやってみたいとは思わなかったですね。演奏してみたいとかは。
鷲田:アストロ・ノーツのコンサートは高校生?
藤本:中学だと思いますね、友だちと行ったんだと思いますね。
池上:その頃から、実際にエレキのことを経験したりとかビートルズの曲も変わってきて、 電子音楽のことをずいぶん調べてだんだんつながってくるといいますか、
藤本:一つは大音量ということですね。電子音楽もこんな小さな部屋でスピーカーで聞いていたから。大きい音を味わうというのはおもしろいと思った。
鷲田:それは大学をどうしようとか、将来どうしようとかいうことは。
藤本:そのときはまだ。それは父親からの影響で、つくるという意識は一切なくて体験したいとかだけだったので、高校も理科系コースというところでやっていたので、ほとんど表現するところに行くつもりは全くなかった。当然理科系の大学に行くと思っていた。画家の息子と友達になって、その子が映画つくりたいから一緒にやってくれないかと手伝っているうちに「自由だな。何やってもいいのか」と興味を持つようになって、「つくるというのはおもしろいかもしれない」って。高校のときに電子音楽だったら理科系のところと、つくる自由さと両方やれそうだからおもしろそうだと思っていたんですよね。
鷲田:高校生のときに電子音楽つくるようなところに行きたいというふうに。
藤本:行きたいけれどどこへ行ったらいいか分からないんで。きちんと調べていなかったんで、大学は本当だったら普通に行っていたと思うんですけど、ちょうどみんながドロップアウトしだした時期だから、高校でバリケード築くような。そうするとみんな頭のいい子は学校を離れていっちゃったりして、僕もそういう子と一緒にいると勉強しなくなって、このままじゃ国立は無理ですよっていう話になってどうしようって。でもどんどん時代はドロップアウトの時代ですし、そうこう浪人しているうちにまさに加速度的に古本屋まわったりとか。そうすると知ったのが大学で電子音楽を専攻しているところがあるという。『美術手帖』の広告だったのかもしれないですね。
鷲田:浪人されているときっていうのは名古屋で予備校に通って?
藤本:ちょうど東大の安田講堂の頃だから、大学に行った友達は大学が1年か2年か無かったとかとそういう時代だから。
鷲田:予備校の先生におもしろい人とかはいたんですか。
藤本:いや予備校もほとんど行かなくなっちゃったですね。
池上:マルセル・デュシャンは今でも先生の作品に大きな影響があると思うんですけど、お知りになられたのはいつくらいですか。
藤本:最初はいつか分からないんですけれど、きっと古本屋で、澁澤龍彦とかあの辺りにあったと思うんですよ。どんな人かも分からなかったと思うんだけど。68年に死んでるんで・・・僕のマルセル・デュシャンの最初の記憶は、本に載ったオブジェなんですよね、レディメイドの。とりあえずかっこいいと思ったのは記憶しているんだけど、なんとなくだったような気がする。
池上:ちょうど大学に入られる直前くらいに、大阪万博があったりとか。大阪芸大を受験しようと決められていたころですかね。
藤本:そうですね。一つの選択はドロップアウトじゃないけど、大学とはぜんぜん関係なくとか考えていたんですけど。電子音楽というのは大阪万博のときに一番ピークだったんですよね。いろんなパビリオンが全部電子音楽をやっていて。これからは未来が電子音楽になるって言われてたとき。ものすごい未来の開かれている分野だというのはみんなそういっていたし、そう思っていたので。電子音楽だったら学校行って勉強ではないけど、やってもいいなと思っていた。それもあの時代だから。電子音楽はこれからすごい可能性があるとき。
池上:実際万博は見に行かなかったんですか
藤本:僕は実は反博だったんですね、反万博。あの当時は学生運動と一緒に絡まって、万博に関わったアーティストは体制的ということでものすごい糾弾されて。学生運動の中で反博運動というもの。友達もそういうところにいたので、僕は「ああいうものはだめだ」とかいって家族はみんな言っているんですけど僕だけ行かないって言ったり。だから一切見ていないんですよ。その万博が終わった次の年から大阪芸大に入学したんですよ。万博で音をやっていたのが先生だったんですよ。
鷲田:実際にデモに参加したりとかは?
藤本:それもほんのちょっとつきあいくらい。そこまでのめりこんでいなくて、そっちも冷ややかに見ていたんですね。内ゲバみたいなので頭わられてきた子とか、いろんな子がいたけど、それもやってどうなるんだろうというような気持ちだったから、あんまり参加するということはなかった。ますます自分だけのどうしたらいいんだろうと思っていて、ほとんどどれもこれも未来がないなと思っていたなかで、電子音楽だけは小さいときからおもしろいと思っていたし、これからだと言われていたから、唯一だったかもしれませんね。
池上:大阪芸大に大きなスタジオができたのはいつくらいだったんですか。
藤本:僕は3期生だったんで、71年に入学したのが3期生なんですよ。だから69年が1期生だと思うんですけど、その年にあわせてできて。電子音楽スタジオはNHKの電子音楽スタジオと全く同じものをつくって。当時ドイツのシュトックハウゼンが始めたケルンの放送局が有名な電子音楽スタジオをつくったんですよね。そこに合わせて日本のNHKも50年代に電子音楽スタジオをつくって、当時の新しい作曲がつくられたから、わりと世界でもスタートが早い。それとまったく同じ設備を大阪芸大でもつくって、音楽工学っていう、エンジニアのコースの専攻を立ち上げたんですけど、そのときにNHKの電子音楽スタジオで技術のディレクターをやっていた人を先生に呼んで、もう一つはプロデューサーですね、NHKの現代音楽の人も教授に呼んで。どちらが専任で来るかという話で、とりあえず技術の方が主任教授として、もう一人のプロデューサーの方は月に1回、1日か2日、集中講義で来るという体制で大阪芸大のコースがつくられたんですね。
鷲田:その技術の先生が塩谷宏先生ですね。それでプロデューサーの方は・・・。
藤本:上浪渡。その上浪渡という人がラジオでしていた番組を聴いていた、その人だったんですね。
池上:当時の授業の内容とかは。
藤本:それがびっくりしたのは・・・、そういうところを受けるのにどんな科目があるのかも知らずに。音楽学科の中の音楽工学という専攻なので、聴音、ソルフェージュという、譜面を唄ったり、採譜したり、楽器の試験とかあるんであわてて勉強しなきゃとか思ってもどうやって勉強していいかわからず、必死にピアノを1曲だけ覚えたりとか。一番簡単な。母親とかやっていたんで。それで入って、音楽工学の専攻の授業は電子音楽の使い方とか、教えてもらえるのだろうと思っていたんですよ。そしたら一切教えてくれなくてびっくりして。
鷲田:音楽工学っていうコースは何人くらいいたんですか。
藤本:僕のときで4人でした。
鷲田:音楽学科全体では1学年に100人とかいるような感じだったんですか。
藤本:音楽学科というのは音楽学ていうミュジコロジーと、作曲と音楽工学と。学年で30名くらいだったと思います。
池上:いわゆる器楽とか声楽とかは。
藤本:演奏学科というのがあるんですね。そっちはピアノ学科とか。本来は楽理科に近いかもしれないですね。学問と作曲とに合わせて。
鷲田:大学全体では、芸術大学ですから、絵をやってる人とか。
藤本:写真から映像から、僕のときで10くらいはありましたね。建築学科から。いわゆる総合芸術大学ですね。ただ同じキャンパスに全部あるっていうのは珍しかったみたいですね。
鷲田:先ほどおっしゃっていた3期生っていうのは。
藤本:音楽工学の専攻の3期生。大阪芸大自体は60何年かに出来ているのでは。1期生から全部集まっても20人足らずという。全員男だったんです。僕も音楽はできないっていうコンプレクスで入ったら、ほとんどそういう人が入ってきていて。医学部中退してきたりとか、理工学部を卒業して入ってきた人たちだから、おもしろかったですね。
池上:授業だと集まったところが何も教えてくれない?
藤本:むしろ、電子楽器とか電気ものだったら、物理とか数学とか計算だったらまだ理工系志望だったから、そっちのほうだったらなんとか大丈夫だと思ったので、周波数はどうのとか、数学的な音の理論とか教えてもらえると思っていたんですけど、具体的な音のつくり方とか、基礎にあたるものは一切教えてくれない。いきなり「録音に行くからこれ持ちなさい」ってテープレコーダーを渡されて、淀屋橋のほうのホールまで持たされる。20kgくらいあるんですけど、地下鉄で持たされて。スタジオでもいわゆる授業で使い方を教えてもらうんじゃなくて、実際に先生とか上の学年の人がやっているところにいって、何か持っていったりとか、やれっていわれたことをやるだけで、あとはその辺にいろっていわれるんですよね。それで全く分からなくて、他の学生の人たちもどうしようって感じで。そしたら塩谷宏先生に「使い方なんてのは覚えてもしょうがない」と言われて。「使い方は見て覚えろ」と。とりあえず録音とかあったら「行って手伝いをしろ」っていう。
池上:スタジオに入った新人みたいな感じですね。
藤本:昔の職人の世界と一緒なんじゃないかな。とりあえず親方のやるのを見ていて。そのときは全く分からなかったけれど、あとになって先生のやり方はすばらしかったってわかった。70年代に入ってから、小型のシンセサイザーが登場してきて、個人でもシンセサイザーがお金出せば持てるようになったんですよね。70年代半ばになったら学生でも買えるようになっちゃったから、使い方なんて覚えていてもせいぜい2,3年しか持たなかったし、完全に時代に取り残されてしまうから、そんなのやってても全く意味なかったんですよね。それよりも、今から考えるとコンセプトのことを教えられていたんですけど。機械の発信機とアンプを繋いだらこう音が出るっていうような、いわゆる具体的なことじゃなくて、ファンクションの図面を書けっていうんですよね。どういうことかというと、普通は、実際の配線図みたいなもので我々やるんで、テープレコーダーを3台、ミキサーに通して、もう1個のテープレコーダー録音してスピーカーで聞いてとか、そうじゃなくてテープレコーダーってのは一体何のために使うのか。それは記憶するために使うのか、音を出すために使うのかで、同じテープレコーダーでも機能が違う。そういう図面を書かなきゃだめだって言われて。
鷲田:図面としては繋がっているんですよね。
藤本:ブラックボックスで線を繋いで、繋がるんですけど、それまで僕たちは機材の名前を書いちゃうわけですよね。そうではなく、何の機能を果たすのか。
鷲田:音をだすとかそういう書き方をする?
藤本:音を出すよりももっと具体的なんですよね。記憶とか、再生とかですね。そういう考え方でって言われたけど、ついていけないですよね。
池上:最終的には図面全体で何をするかっていう非常にコンセプチュアルな・・・。
藤本:そう、自分のための整理のことなんですよね。それを相手に渡したって、何の役にも立たない。それで機材が繋げるわけじゃないから。一体こんなことやって何になるんだろうって思ってたんですよね。
鷲田:こういう図面を書くときというのはどういうときなんですか。録音するときに書くのか。
藤本:録音するときにも要りますね。どのマイクロフォン持っていくとか。あと電子音楽つくるときに、基本的に楽器っていう感じでセットされていないんで、スタジオに機械がラックに並んでるだけですから。どの機械とどの機械を結んで、例えばスピーカーはいくつ出すとか、配線図みたいなのですね。実際にジャックの穴があって、そこを線で繋ぎますから、実際に具体的な図面が頭のなかに入ってないとスタジオでの操作ができないんですよね。
鷲田:録音の授業とかそういうものもあるんですか。
藤本:録音の授業はなく、「音楽工学Ⅰ」とかそういう名前で。実際はつくっているところを手伝っているだけで。もう一つは、講義みたいなものもあるんですけど、それがいきなり式を書くんですけど偏微分方程式という、高校の微分積分くらいの初期ならわかるんだけど、偏微分とかという式を書かれても全く分からないですよね。位相ってフェイズのことですが、位相の問題がどうのとか、そういう言葉が飛び交うけど、まったく分からずに。講義はそういう感じなので、終わっても一体何の話だったんだろうってみんなにきいても分からず。実際のスタジオの操作も分からない。煙に巻かれたような感じで。もう一つびっくりしたのは、4月に入学した途端に課題が出されて、「大阪の四天王寺というところで4月20日頃に雅楽を演奏するお祭りがあるからそこへいって録音して、見てレポート書いて来い」って言われて。こっちは最先端の音楽とかを勉強に来たつもりだったのに、いきなり古典、お祭りとか行けって意味も分からず。でもそういう課題ばかり出るんですよ。今度京都のお祭りへいってレポート書いて来いとか。毎年の宿題だったのが、除夜の鐘をきいてレポートとか。東大寺のお水とりにいって録音してレポートとか。それもまた意味が分からなかったですね。
鷲田:毎回その大きなテープレコーダー持って。
藤本:そうです。全員で行って録音して大学に帰ってくる。
池上:みんなで聴くんですか?
藤本:いつも全員で動かないと。一番下の学年だとほんと分からないので。わからないとつまんなくなるわけですよね。そのうちに1年とか2年先輩の人に、「これはどうしてるんですか」とか「この機械は何するんですか」とか聞くわけです。そうすると「これはこうするんだ」とか教えてくれて。それとかここに挿してるなとか眼で見て覚えて、終わった後、スタジオで記憶をもとに実際に挿してみて、やってみる。それで初めてスピーカーから音が出てきたときは感動しましたね。ほんとに使い方は自分で覚えた。
鷲田:録音してきたものをあとで聴いたりもしたんですか。それとも録音すること自体が目的だったんですか。お祭りの音とか。
藤本:それがいろいろでしたね。頼まれてやったのもあったし、再現性がちゃんとしてるかスタジオでモニターで聴いて、奥行き感があるかとかをやってるんですけど、ただ別に説明してくれるわけじゃなく。「もうちょっとそっちのフェーダーを上げて」とか聴いてるだけで。それを聴いてるとあそこを触ると音が変わるんだなとかなんとなく覚えてくるんですよね。あとでまたまねをするという。
池上:そうやって手探りでいろんな機械を使っていくというのは、小さい頃にされていたことと・・・
藤本:基本的に同じだったんですけど不安でしたね。ほんとにわけ分からないし。結局自分でやらなきゃいけないんだって分かってからは、それはだめっていわれないわけですよね。ある程度スタジオで分かってきたら、ずーっとスタジオに入り浸りになって、もう課題とかほとんど関係なく、自分のやりたいことをやっていた。
鷲田:一方で、曲をつくったりというようなこともされていたんですか。
藤本:曲をつくるというのも、総合芸術大学というのもよかったんですけど。音楽関係の学科だとほとんど女性ばかりなんですよね。いわゆるクラシックで育ってきた人ばかりだから、ポップスなんてのはもってのほか。あんまり話題がなくて、教室とかいたたまれないから、結局食堂でぼーっとしてると各学科でいたたまれない連中がたまってる場所で。そういう人たちと友達になると、映像やってる子とか、建築やってる子とか、美術やってる子がいて。友達になると、映像やってる子が映画をつくってる。見せてもらうと、昔見た実験映画祭のような変なのをつくっている。そういうのを作っている学生から音をつけてくれないかといわれて、つけたりとか。そうこうしているうちに知り合った友達で、当時マルチメディアていうか、映像とか複合したのやりたいなと企画して、大学の中で丸2日間、映像とかいろいろな催しをやって、全く授業と関係なく。
鷲田:1回生のころから?
藤本:1回生のころからだんだん友達になって。いわゆる学年関係ないですから。全共闘崩れみたいなのが来てるんですよね。青山学院中退してきてるとか相当やり手のやつとかいるんですよね。こんなことしたいなというと、政治力があって。大学の中で丸2日間、外で映像写したり、パフォーマンスしたりとかできるかなっていったら、そしたら学祭の委員長になったらいいんだって。全部支配できるから。彼が委員長に立候補するんですよね。ポスターとか全部白塗りしてすごいポスターつくって貼るから、話題になって委員長になっちゃって。好きなバンド呼んできて演奏させたりとか。そういうのを見てると、学生でもできるんだって刺激がありました。わりと美術とか映像とか写真とかそういう人たちとばかり一緒に学生時代を過ごしていたので、自分は音楽のジャンルでという考えは最初からなかったと思いますね。なにか一緒にやるからオーディオ、ヴィジュアル、どっちがどうとか関係なく。そういう人が芝居したりとか。美術の人がバンドしてたりとか。
鷲田:それは音楽工学の学生にわりとみんな共有されていたんですか。
藤本:音楽工学の中では僕だけですね。
鷲田:必ずしもみんながそうだということは。
藤本:違いますね。僕だけだと思いますね。
池上:当時一緒にされていた仲間の方で、アートの活動をその後されている方はいますか。
藤本:大阪芸大で・・・誰がいたかな。
池上:今でも交流があったりとかそういうことは。
藤本:交流があるというと・・・建築学科にいた男で食堂で会って、ものすごい貫禄があったんですけど、彼と友達になったら、おもしろかったのが「うちの兄貴がアメリカから帰ってきたから会いに行かないか」ていわれて、京都の九条山に行って会ったのがヨシダミノルだったんです。弟だったんです、吉田年伸という。ぼくが大学に入る前から大学に入っていて、ぼくが卒業してから合計8年くらいかかって大学出てますけど。彼が、お兄さんの関係もあってアートの関係の人とか知り合いで、彼がいろんなところに連れて行ってくれた。
鷲田:先ほどおっしゃっていた学園祭のなかで、小杉武久さんも呼ばれたんですか。
藤本:それは別で。大学のときにアルバイトでいわゆるPAというか音響のアルバイトをしていたんですけれど、それをしていた会社が昔のプレイガイドジャーナルという会社で。そこに出入りしてる関係で、アンダーグラウンドカルチャーの人もその現場にいたんですけど。そこの会社でそういう音のあるバイトをしていることがあって、あるときそこでプロデュースしている人が、「現代音楽のコンサートを大阪で1個やろうと思うんだけど、誰か呼びたい人いる」て言われたんで、「小杉武久っていう人がいるんでぜひ呼んでほしい」って。74年か75年じゃなかったかな。東京の能楽堂で「マノ・ダルマ・コンサート」っていう小杉武久のコンサートをやって。ポスターとかは粟津潔で。連絡してくれて、それと同じのを大阪でもやるというので、大阪のコンサートで僕はスタッフだったんで、そのときに初めて小杉武久に会ったんですよね。
鷲田:そのときは《キャッチ・ウェイブ》?
藤本:《キャッチ・ウェイブ》です。そのときにはもうスターだったんですよね。タージマハル・トラベラーズていうロックの世界でカリスマ的な。フリージャズの人からも、現代音楽の人たちからも、ロックの人たちからも注目されていたという不思議なバンドをやっていて、それが終わってソロで活動されていたころで。現代音楽の狭い世界の人って感じじゃない人ですよね。
池上:当時小杉さんの活動の拠点は。
藤本:東京。それで初めて会ってコンサートの手伝いしたのがきっかけとなって、関西で演奏するときとかはだいたい見に行って、終わったあとお酒の席でずっと一緒にいたりとか。ほぼ追っかけみたいなものでしたね。
池上:あとそのころに知り合われた方は。
藤本:知り合ったのは、ヨシダミノルの弟の関係で、京大の西部講堂で、自治組織っていうか、大学とは関係なく、西部講堂での催しとかでいろいろやっていて。いろいろ有名な人とかいたと思うんですけど、当時はまだ分からないです、いろんな人が出入りしていて。
池上:演劇とか有名ですよね。維新派の方とかは面識があったんですよね。
藤本:いろんなところに出入りをしていると、そこでフリーミュージックで知り合った人とかフリーの音楽をやっている人でも、当時電子音楽をやってみたいなと思っても、個人ではできない。人づてにきいていると、僕だと大学の設備があるからっていうんで繋がったりとかしていたから。なんかの関係で維新派は見てはいたんですよね。それでフリーミュージックの一員として維新派の公演に参加したことがありました。
鷲田:大学時代というのは美術館に行ったりとかは。
藤本:当時はまだコンテンポラリーの展覧会は美術館ではという時代ですから、画廊の方が強い。で結局美術の学生の友達のアトリエに遊びに行ったりすると、「今度うちの先生がオープニングあるから行かないか」とか言われて、泉茂さんとか教授で、津高和一さんとか。そういうのでギャラリーに一緒についていって。もう一つは映像の学生と・・・村岡三郎の甥っ子が映像学科の学生だったんですよ。彼から電子音を仕事でつくってくれって言われて。森口宏一さんが個展をするときの音の作品をつくってほしいというので、僕のところへきて、「こういうのつくれるか」と言われてつくったんですけど。図面に線がずーっとずれているような図面で。いろんなかたちにしたり、いろんなパターンに考えてみる。音にできないかっていうんで、電子音をつくって。どんな展覧会かと思って見に行ったり、信濃橋画廊だったと思うんですよね。それでそういう関係で、友達の学生が個展をするとか言って、ギャラリーに行くオープニングの流れで当時は必ず飲みに行く。ボトルキープというのが流行っていて。そういうところで関西のアートのことを知っていった。美術の学生って先生のことを尊敬はしているんだろうけど「もうあの人は古い」とか、「僕のほうがいいと思う」とか、平気で言っている感じがおもしろくて。
池上:村岡さんとか森口さんとか、画廊ではインスタレーションをご覧になってたんですか。
藤本:そうですね。当時は村岡さんはいろいろやられていたと思うんです。盛んだったのは京都アンデパンダンでしたね。ああいうときはみんな一生懸命で。あとは誰だったかな・・・
池上:河口龍夫さんとか?
藤本:覚えているのは柏原えつとむさんとかが結構話題だったのを覚えていますね。植松奎二さんとか写真の作品。逆に具体というのは全く。(具体が)ちょうど終わったあとで大阪に来たんで、まったく興味もなかったし、1つも70年代の具体作家のを見ていない可能性もあるんですよ。
鷲田:大学くらいになるとジョン・ケージのこととか、マルセル・デュシャンのことかもかなり関心をもって見られたと?
藤本:マルセル・デュシャンなんかもその前から古本屋で、こういうのはちょっと背伸びして。マルセル・デュシャンのことを読んでたりして、いきがってただけだと思うんですけど。70年代初めのころはかっこいいなあと思ってたくらいなんです。すごく意識しだしたのは70年代半ば過ぎからですね。もう大学卒業してから、研究室に残っていたんで、そのまま環境が一緒だったんです。電子音楽スタジオで、数年経つとやることなくなってきちゃって、なにかつくる方法でって森口宏一さんのやつを思い出したのかもしれないけれど、なにかの方法で音に直してゆくという。そのときにマルセル・デュシャンのメモを音に置き直していけないかなって考えて。『表象の美学』というデュシャンのメモの本が出たんですよね。それを買っていわゆるグリーンボックスとか、全部書いてあって。それがおもしろかったのはちょっと理科系のメモなんですよね。それを見たときに「こっちだったら分かるかも」って。ビジュアルの方はなかなか見ただけでは分からないけれど、メモを読んでいると1mの紐を1mの高さから落とすとか。やっていることがすごく分かる。「あ、この人の書いているのってすごく自分にとって合うかも」って気になったやつを全部コピーして、スクラップブックをつくったんですね。音に直せるかもしれないっていう項目だけ。そうしていたら、だんだんデュシャンがどうやってつくっているかがおもしろくなってきて、本格的にデュシャンに興味持ったのはそこからですね。
池上:大学で?
藤本:大学で副手の時代ですね
鷲田:4年間で卒業して。
藤本:4年間で卒業して、大学院がなくて、専攻科というのが2年あって、「専攻科行きます」って言ったら学科長が「専攻科はお金かかるよ。副手に残ったらお金いらないけど』って言われて、副手は非常勤。授業は持たずに、スタジオの実習の管理とか、機材の貸し出しとか、すごい天国のような。3年経ったら「助手にならないか」って言われて。助手から常勤なんですよ。ほんとにここにまだいられるんだったらってすごい気楽な感じで。だから自分が興味持つこととかできたと思うんですけど。
池上:そのころはノーマル・ブレインていう・・・
藤本:それはそのあとですね。で、結局70年くらいまで電子音楽ってすごいっていわれてたんですけど、年が経つにつれてどんどん電子音楽なんてのはシンセサイザーで一般化しちゃうし、スタジオなんかなくてもできちゃうし、70年代半ばになったら存在意義事態がなくなって、どんどんやることなくなって、未来がないなあと思っていたんですよね。
池上:ちょうど卒業されるころですかね。
藤本:卒業してちょっとしてから。音楽自体も電子音を使った音楽っていうのがなくなってきて。日本ではいわゆるそのあたりからミニマルミュージックとか紹介されていって。日本の作曲でも電子音楽をつくっていた人が、ミニマルなライヒみたいな音楽つくったりとか。時代に完全に取り残されちゃって。あとで聞くと、電子音楽は万博時代がピークであとは下り坂。でも僕は大学にいたんでそこまで危機感はなかったんですけど。でも自分なりの方法で何かつくる方法はないかなと思っていたときに、美術の人たちがやっていたような、そういう方法で音をできないかと考えていたんですよ。
池上:それは70年代の終わりくらい?
藤本:中盤から終わりにかけてはそういうことをしていて、オーソドックスな電子音楽をつくるというのは興味がなかった。77、8年ごろにまたレコードを聴いて、ビートルズを聴いていて以来いいなと思ったのは、一つはクラフト・ワーク。知ってはいたんですけど、すごい単純でおもちゃみたいなつくり方ができるんだって思ったんです。それと同時期に聴いたのはセックス・ピストルズ。いわゆるパンクロック。1コードだけで、構築しなくても音楽がつくれるという。それまで構築していかないと音楽ってつくれないと思っていたので、こんな単純なことでもいいんだし、1つのことだけで音楽をつくっていいってすごい気楽になって。もう一つ、決定的だったのはブライアン・イーノというミュージシャンとデヴィット・ボウイ。その人たちは70年くらいのデビューしたころから好きだったんですけど、デヴィット・ボウイがドイツでレコーディングして出したレコードで、《Low》っていうブライアン・イーノと組んで出したLP。聴いたらデモみたいなレコードで。全然つくってないんです。イントロだけで終わっちゃうとか。またこんなシンプルな単純なことをしてる人がいるって。その辺から楽器屋で売ってるシンセサイザーはおもちゃみたいなものだと思ってたけど「こういうのでつくってみれるんじゃないか」と思って、またちょっと音楽をしようっていうのが70年代後半だったんです。
鷲田:ちょっと戻ってしまうかもしれないいんですけど、塩見さんとかの作品はエンジニアとして。
藤本:あれも結局誰かつくってくれないかということで、設備があって編集とかそういうのができるというとなかなかいないんで。塩見さんの場合はこういう素材でテープをつくってほしいって言われたんで、自分でアイディアを出して、こういうのでどうでしょうみたいなことなんですけど。それでおもしろかったのは大学のスタジオでつくっていたんですよね。ループなんですけど、テープでいっぱい混ぜて声の断片が聞こえてくるような。それって説明できないんですよ。どんな音かっていうのをスタジオのなかの電話で大学から塩見さんの家にかけて、スタジオに流して「こういう音です」って言ったら「あ、いいわね」って感じで。
池上:サウンドエンジニア的な、ちょっとアレンジっていうのは。
藤本:めったになかったですけど。
池上:塩見さんのときはそのように音づくりに関わって。
藤本:それとかコンサートでもピアノとテープの作品とかあるわけですよね。譜面のなかのピアノのパートの途中にテープのパートがスタートとか。ここで止めて徐々に出てくるとか、普通のエンジニアの人はできないですよね。だけど演奏者だと全く操作もできない。そういうときに時々譜面見ながらテープここで出すとかやったり。それでもほとんどしょっちゅうあるわけじゃなかったですよ。
池上:もうちょっと戻ってしまいますけど、上浪渡さんていうもう一人の先生の授業は。
藤本:それがまたすごいんですけど、だいたい毎月1日、2日、朝から晩までなんですけど、毎回数枚のLPレコードを持ってくるだけなんですよ。それで何もいわずにレコードかけるだけなんですよ。書くとしたらレコードの作曲家とタイトルだけ。A面終わったら別のレコードをかけて、またかけて。それが1日。ほとんど解説ってなしなんです。これはこういう音楽でこうっていうのが。そんなのばっかり、4年間。
鷲田:それはいろんなジャンルとか時代とか、どんな種類の音楽ですか。
藤本:最初はそういうこと分からなくて。「とりあえず聴け」ですから。それは何かっていうと、当時NHKに世界各国から送られてくる一番新しいレコードを持ってきてくれてるんですよね。ラジオでも流れていない。その音を聴かせるだけ。その上浪渡の考え方は理解する前にまず聴かなきゃ始まらない。とりあえず聴くことが大事だから、今音楽がどういうところで生まれているかをまず聴かなきゃだめ。そういう考え方だったんですよね。あるときにいきなり、かけたらピアノがものすごい速さで鳴ってるレコードがあって、そのときは昼休みを挟んで、「これはどうやって演奏しているか考えてみなさい」って言われて。なんか動物を弦の上にのせてるんじゃないかとか。あとで聞いたらそれは自動ピアノで作曲したレコードだと聞いたりとか。ほんとに当時日本でもほとんど聴くことができなかったようなレコードを聴かせてくれたんですね。あれはすごいやはり刺激だったですね。
池上:4年間まるまるそれだとすごい量ですよね。
藤本:量はあるけど記憶にほとんど残らないわけですよ、現代音楽はそのときだけ。それもほとんど新しいやつだから、ほとんど聴いたことのない。ただ音楽の範囲ってこんなに広いんだってわかるってのはすごかったですね。そのころ聞いていた音楽が今の若い人たちのレアな音楽なんですよね。ラ・モンテ・ヤングとか。
鷲田:そうすると、大阪芸術大学にいらっしゃったのはいくつくらいまででしたか。
藤本:結局71年に入って4年間学生で、そのあと3年間副手、そのあと3年間助手、そのあと専任講師、そのとき89年で、結局20年弱大学にずっといちゃったっていう。
鷲田:そうするとノーマル・ブレインの活動っていうのは。
藤本:70年代の終わりですね。その前にいわゆるクラフト・ワークとかロックの方でシンプルな音楽がでてきて、おもしろいなと思って、そういうのをつくってみようかなと興味があった。それは大学の設備を使わなくても楽器を買って家でもできる。そうすると、他の人たちと、今度は楽器を持ってけばライブでできるようになると、何人かと一緒にセッションみたいな感じで、ライブハウスみたいなところで演奏したりとか、島之内教会というところを借りきってやったりとか、お客さんが5人くらいしかいなかったりとか。そんなことでやったりして。
鷲田:基本的なことで申し訳ないんですけどノーマル・ブレインっていう活動自体はどういうものなんでしょう。
藤本:大阪に阿木譲っていうパンクロックを紹介した人がいて、彼が『ロックマガジン』っていう雑誌を出してて、そこは最先端のロックを全部紹介してたんです。そのなかで現代音楽も紹介しだしてきてて。
鷲田:この方は編集者?
藤本:もともとはラジオのDJ.。ラジオでいろんな音楽を紹介してきた人で。その70年代に『ロックマガジン』ていう季刊か月刊を出したんですよね。編集長としてレコード評とかやっていた人。その人が友達伝いにぼくに会いたいって言ってきて。現代音楽も取り上げていきたいからということで。そのとき『ロックマガジン』にはソノシートの付録を付けていた。そこで「曲を付録で出すから」っていうのを言われてノーマル・ブレインってつけたのが最初かな。当時個人でやる人はいなくて、バンドの時代なんです。当然の如く、ライブの情報だと出演者ということでバンド名がいるんでどうしようというときに僕はノーマル・ブレインってつけた。とりあえず名前がいるっていうんでつけたの。
鷲田:ソロなんだけどもソロのバンドの名前というかたちで?
藤本:バンドっていうのは、いっぱい見てるけど、だいたい解散するわけですよ。だいたい人間関係だとかで。大変だなあと思っていて。ユニット名にしといたら、別に誰がやっても関係なく、名前さえつけていれば一人でもノーマル・ブレインって名乗れるし、複数でもいいし、全く僕と関係ない人がノーマル・ブレインて名乗ってもいいということができるんじゃないかと。そうすると解散がないわけですよね、正式メンバーがいないから。そういう意味でつけたんですよね。その当時はバンド名としてしか扱われていなかった。僕のなかでは「解散がない」という意味で。あとは音楽やらなくても、映像作品つくってもノーマル・ブレインって名前つけとけば何やっても便利だなと。そうやっているうちに『ロックマガジン』で、シートを出すことになって、ノーマル・ブレインて名前がつくんで当時のほかのロックとかのバンドの一つになった。
池上:ソノシートを出されたのが80年。
藤本:80年かもしれないね、つくったのは79年。
池上:そのあとLP盤・・・あれは80年?
藤本:あれはできてたんですよ、最終的に喧嘩別れみたいになっちゃって、ずっと出てなくて、ぽつんと出て、出たのは80年。79年につくっちゃっていたんですけど。
池上:ノーマル・ブレインという名前で活動されていたのは77、8年。
藤本:東京の西武百貨店にあったスタジオとか、いろんなところでやるときもノーマル・ブレインていうふうにしてたんです。
鷲田:このとき一緒にセッションされてた人たちっていうのは大学で一緒だった人ですか。
藤本:いろいろでしたね。毎回違ってたりとか。
池上:あとは写真家の高嶋清俊さんとか。
藤本:よかったのは一緒になんかやろうというときにその名前でやればスッとできちゃう。特に個人名は出さなくていいから気楽にやってもらったりとかしてて。
鷲田:高嶋さんとは写真というのはどういう?
藤本:高嶋清俊さんというのは昔からの写真家の友達なんですけど、70年代のころ。高嶋さんは『ロックマガジン』で写真を撮ってた人じゃないかな。高嶋さんもちょっと構造的な写真を撮るというか、わりとコンセプチュアルな写真を撮っていく人だったんで、お互いこんなことしてみようかって。写真集を高嶋さんがつくってみたいっていったんで、僕がどういうものをつくるか考えるって言って、普通写真っていうのは写真があってこれは何が写ってるて言い方だけど、例えばこの器を写真に撮っても、必ずテーブルとかこういうものが一緒に撮れるから、こういうのだけ撮れるのかという話になって。最初に撮る被写体を決めて、それを撮るっていう考え方でできないかといって。僕はアルファベットのAからZまで単語を付けて、それに従ってその写真を高嶋さんが撮るっていうふうにして。これは「APPLE」なんですけど、これがもともとあってりんごを撮るってのはどういうことかって。商品撮影みたいに。これは「BOOK」の章なんですけど。そうやって言葉から出てくるっていう。こういうので全部つくって本にして、結局コラボレーションという言い方も当時あまりされていなかったので、ノーマル・ブレインでつくればそれらしくなる。別に音楽つくろうとか美術作品つくろうとかじゃなくやってた。
池上:映像もあったんですか。
鷲田:映像はどんな?
池上:コマ撮りしてた映像なんですよね。
藤本:70年代は8mmフィルムでつくってる人が多かったんですけど、70年代終わりくらいからビデオ、VHSやベータが使えるんで。これを僕は映像化したんですけど、どうやって撮ろうかなって。
池上:あ、大阪の現美センター?ビデオアンデパンダン?
藤本:その頃高嶋さんがべータのビデオカメラを持ってて、初めて借りたんです。撮影してみて、いろいろ試していておもしろかったのは、当時のビデオってコマ撮りの機能がなくて、コマ撮りみたいなことできるかなってスタート/ストップで、一瞬でパパっとやってみたら微妙なんですけど、時々何フレームか取れるんです。文字の写真を5秒とか10秒で撮っておいて、次にその映像の写真を一瞬で撮る、そして次の「BOOK」の文字に変わる。それをずっと続けて。モニターを見ると一瞬この映像をぱっと写って次に切り替わる。自分で撮影しているんだけど、絶対26個見れないんです。必ずまぶた閉じちゃって。毎回見れるときと見れないときがあって。それもまたビデオアンデパンダンっていう大阪の府立の現代美術センターが80年代にやってたんですけど。それに出して。
池上:同じ年くらいなんですけど、「確認から未確認へ」というクリス・バーデンがパフォーマンスしたり、嶋本昭三さんとか。こういう展覧会に出された記憶は。
鷲田:映像を出されているというのはありますか。
藤本:高嶋さんが嶋本さんとこのアートスペースで展覧会とかしてたんですよね。その関係で出したのかな。僕は記憶にないですね。結局ノーマル・ブレインとかすると、友達が勝手にノーマル・ブレインといって出してても全く問題ないので。僕は関わっていないのもあるはずなんですね。
鷲田:ノーマル・ブレインとして出しているかもしれないんですね。
藤本:かもしれないし。
池上:80年の12月のビデオアンパンのときはこの映像作品で、このときは確かノーマル・ブレインのクレジットですよね。
藤本:そうです、これは僕が出したやつです。心斎橋のソニータワーの上のフロアが昔は展覧会をやってて、このときに友達が企画してたのかな。グループ展で「インスタント・アート展」ていうのをやるから出さないかって。当時コピーアートっていうか、ゼロックスのコピー使ったり、ポラロイドは普通だったんですけど、そういうのを流行っていたんで。そういうのを総称して「インスタント・アート」。僕にも声がかかって。ほかの音でやってる人はカセットに録音したのを出品していた。でもそんなのつまんないなと思って、音楽をインスタントにつくれないかなって思って、レコードをインスタントにつくるにはパックしたらいいんじゃないかと、レコード盤をパックして離したら薄い溝が簡単にできるから、それをテーブルに並べてだした。
鷲田:それは化粧品のパックなんですか。
藤本:もともとはレコードを掃除するためのものがあって。前は埃を取るために使っていたんです。本来は剥がしたら捨てるものなんです。剥がしておいといたら乾燥してきれいに光って。これはレコードだと思って。自分が持ってるLPで30枚くらい選んで、コピーしてつくって。
鷲田:その溝が反転しているから音は出るんでしょうか。
藤本:最初は音が出なくて。プレーヤーの上に載せて。そのままだとふにゃふにゃなんで、普通のLPレコードをおいた上に置いて。かけてみたら針がはじかれちゃって、やっぱり無理かなと思ってしばらくしてから気づいて。コピーじゃないんですよね、螺旋の方向が逆。だったら真ん中から外へ向けてということに気づいたんで、改めて真ん中のところに下ろしたら、溝に入って音が出てびっくりしたんです。逆回しみたいな。そのころにテレビを置いてたのは何かというと、セッションで小さいシンセサイザーとかカセットとか小さいスピーカーとか出てきてた時代なんで、カシオとかから。そういう音の出る機械を買って家でいろいろ組み合わせていたときに、音をそのまま演奏するのが面倒くさくなっていて、オートメーションで音ができないかなっていうときに、ボコーダーという楽器があって、人間の声が電子音になる。普通はそれを歌いながらとか演奏しながら使うんですけど。人間が生で歌う代わりに人間の声だったらなんでもいいんじゃないかと思って、そこにテレビのニュース番組の音を差し込んでみたら、ニュースをアナウンサーがしゃべってる音にメロディがつくんですよね。それがすごいおもしろくて。放っといたら番組が変わると、また変わるんですよね。こっちのほうがおもしろいなって。変に自分で考えて音を出すより、繋ぎっぱなしで。ライブで見せちゃうのがいいなと思ったから、実際にテレビとかボコーダーとか機械を置いて、生のテレビ放送で出るようにしたんです。ほんとにインスタレーションの最初かもしれない。
池上:まわりにパックを?
藤本:並べて、テレビがあって、NHKが流れてて、スピーカーからはメロディのついたテレビの放送が出る。
池上:このときは具体的にはどういう関係のお友達の方だったんですか。
藤本:永原さんもいたんじゃないかな。
池本:永原康史さん?
藤本:あとこのときお会いしていたのが、香櫨園倶楽部の会員ナンバー1番の方。
池上:山部泰司さん?
藤本:そう、彼はまだ京都芸大でコンセプチャルな作品をつくっていた。京都芸大とか大阪のデザイン専門学校を出た、ああいう20代の学生とか(学校)出たてとか、若い人たちが集まってなんかやろうという感じで初めて。アートだけじゃなくてデザイナーとかいろんな人たちが参加してたんです。
池上:「スピリチュアル・ポップ」というのは。
藤本:それは山部さんが深く関わっていたと思うんですよ。
池上:ご出品は?
藤本:しました。会場でライブの演奏ですよね。府立の現代美術センター、中ノ島ビルの上のときに。そこのギャラリーのど真ん中に、テーブルを2つ向き合わせて、3mくらい離れたところに僕ともう一人いてもらって、僕がこっちに座って、操作をするんです。相手はブランデーのグラスの縁を指でこするとワーンて音しますよね。それだけがおいてあって、展覧会中に音を出してもらうんです。傍らでワイヤレスマイクで拾って、向かい側にいる僕のところにとって、カセットのテープレコーダーで録音するんです、エンドレステープで。2,3分録音したら、それを速度を落として再生する。低い音になる。会場に流れて、生のグラスの音と混じったのがマイクロフォンに入ってきて、それを録音して、さらに低くして。会場の中で、どんどん音程が下がったものと、いろんなパターンがあって、つくっている過程を見せた。
池上:会期中ずっと?
藤本:1日とか2日。会期中の。
鷲田:この当時パフォーマンスというようなことはされていたんですか。
藤本:むしろそっちだったんですよ。そのテーブルでやるのもそうだったんですけど、大きなスタジオでやることができなくなって、おもちゃみたいなシンセサイザーとか小さいスピーカーを使えば、電子音楽は自分でつくれる。家でやってみたらテーブルの上で全部おさまっちゃうんですよね。楽器からスピーカーまで。カシオの小さいキーボードとかウォークマンが出て、録音の機械も電池で動くし、それを鳴らすスピーカーも電池で、もとの楽器も電池で、並べるとテーブルの上でできちゃうから、これならどこでもできるなって音楽をライブでできる。どこでやろうかなって思ったときに、まずやったのは友達の展覧会のオープニング。ギャラリーのテーブルに家から持っていって並べて、ちょっと演奏してまたパーティに戻るっていうやり方をまず始めて。そしたらバックに全部持ってって、その場でセッティングして終わったら片付けていけるからどこでもできるっていうんでまずそういうパフォーマンスをやりだしたんですね。
鷲田:それは70年の終わり?
藤本:ですね。
池上:それはノーマル・ブレインのセッションとかと並行して?
藤本:それはオープニングでやるっていうのは情報誌に載るわけもないんですよね。気軽にやるから、名乗る必要もないからすごい気楽にできるようになって。
池本:フラッシュライトと、ラジオがあったものが藤本由紀夫さんのパフォーマンスの作品として知られていますけどそれ以前にそういう・・・。
藤本:いっぱいやってたんですよ、いろんなところで。状況にあわせていろいろ試していたから記録に残す意識は全くなかったし、一人で行ってやってるから、終わったら何にもないわけで。どこでもできるし。廊下でもできるし。こんなに簡単に演奏ができるんだっていう。
鷲田:最終的にはスピーカーから音が出るような感じの?
藤本:そうです、それしか考えていなかったんで。でもそれをやってるうちに僕がいなくても成り立つんだなって。勝手にテレビの音とか。「あ、眺めとくだけでいいんだ」って感じになったのがひとつ今やってることに繋がったと思うんですけど。あと一個一個は形としておもしろいんですけど、配線するとケーブルが汚い。これは嫌だと思ったのと、意外と電池代がかかるんです。切れるかもしれないから毎回新しいのに買える。そうすると電池トータルで何十個とかなると、これはもったいないなと思って。ケーブルがないといいのにと、電池がないといいのにと思ったのが、このオルゴールに繋がっていったと思うんですけどね。
池上:パフォーマンスのご自身の作品としての意識は。
藤本:パフォーマンスのころは、作品というよりも演奏という意識ですよね。ものの意識はなくて。その場の雰囲気がぱっと変わるのがおもしろくて。セッティングが5分くらいでできちゃうというのがすごくおもしろくて。
池上:コンパクトといえば電卓を演奏された、あれはいつころから?もう少し後ですかね。
藤本:あれは・・・電卓はだいぶ前に買ってあったんですよ、メロディ電卓ていうのをカシオが売り出して。それで何ができるかなってのは買ってから考えて。最初はどこでやったか記憶にないくらいですね。80年代には違いないですけど。
鷲田:演奏というときくほうもその場に集まってきてきくというような。終わったらまたパーティに戻るということですね。
藤本:それも70年代に場所でやるときに違和感を感じていたのは、ステージ側とオーディエンス側で別れちゃうんですよね。やってる側は自分のやってることが見えないし、見られてるということを意識しちゃうから、妙だなと思って。スタジオとか家でやってるときは誰かに見せてるとかいうつもりなく、自分も傍観者でいてつくってるから、同じようになったらいいのにと思っていたときにパーティでテーブの上でやれば、自分は演奏してるけど、傍観者でもある。テーブルのなかに入れないわけだから、演奏者と観客に両方なれてというのがおもしろく、自分にはあってたと思うんです。
鷲田:セッティングを行って、スイッチを入れて、最後に離れるという。
藤本:そうですね。演奏してるときも観客になってるんですよね。自分の周りにあるわけじゃないから、離れてすると。パフォーマンスのやり方も変わってきて。自分の内面も出さなくてよくて、それこそ動かしてくだけで積み木みたいな感じで。それでやったらどうなるかって。そこで何か起きるかをやってけばいいていうのをできるようになって、そっちのほうが逆に自分がスリリングだし、初めて見る人も何だろう、ってほとんど同じ気持ちで眺められるというのが小さい楽器で、テーブルでやって発見したことですね。
(インタビュー後に)
藤本:わりとみんな、70年代の若い人は反体制的なんですね。僕なんかからみると白々しい感じがしていた。攻撃的な名前をつけてるけど、ほんとに危ない名前って何だろうと考えてたんです。フランケンシュタインの物語というのは、フランケンシュタイン博士が助手の人に、「研究室に行って脳のホルマリン漬けを盗んで来い」っていう。文字が読めない人だから「normal brain」と書いてあるメモを渡されて、「これが書いてあるビンを盗んで来い」と言われて使用人は忍び込む。それで「normal brain」ていうホルマリン漬けのビンがあるんですね。「あ、これだ」って思った途端に、後ろで骨格標本かなんかが動いて、びっくりして落としちゃうんですよね。「しまった、どうしよう」って言っていたら、横に「abnormal brain」て書いてあって、「「normal brain」と似ているから、こっちでいいや」て持って帰って怪物のなかに入れた。それで結局ああいうふうになったというストーリーなんですよね。そのとき僕がおかしいなと思ったのは「アブノーマル」というのは分かる。「アブノーマル」な脳というのは。「ノーマル」な脳というのは一体何をもって「ノーマル」な脳と断定をするのか。それは逆にできないんじゃないか。「アブノーマル」なほうがわかりやすいけど「ノーマル」って名乗るのは絶対ノーマルじゃない。こっちのほうがすごい恐いと思って。それで「ノーマル・ブレイン」て名前がいいなと思ってやったら、案の定、当時『ロックマガジン』の編集長に「僕だったら「アブノーマル・ブレイン」だよ」って言われて。やっぱりほとんど理解されなかった。「なんでこんなおとなしい名前付けてるんだ」って言われて。
鷲田:そうですね。そちらのほうが危うい感じがしますね。
藤本:「アイ アム アブノーマル」と言う人のほうが「この人アブノーマルなんだ」ってわかるけど、「アイ アム ノーマル」と言われたら「あ、ノーマルなんだ」と思えないですよね、その人は。