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ジョージ・コーチ オーラル・ヒストリー 第1回
2010年9月25日

東京都渋谷区、ナンジョウオフィスにて
インタヴュアー:帆足亜紀、住友文彦
書き起こし:甲斐義明
公開日:2023年3月20日
 

ジョージ・コーチ (Georg Kochi, 1953年〜)
元アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)ディレクター、公益財団法人イサム・ノグチ日本財団理事

1953年に日系3世としてロサンゼルスに生まれる。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)でデザインを学び、1976年に「鼓童」(当時の名称は「鬼太鼓座」)のアメリカ公演を成功させる。1991年から2010年までACCのディレクターを務め、数多くの日本人アーティストのアメリカやアジアでの活動を支えた。ACCはアメリカとアジア諸国間の文化交流の支援をする目的で1963年にジョン・D・ロックフェラー三世によってニューヨークに設立され、1983年から日本オフィスが活動をおこなっている。過去のグランティーには草間彌生、横尾忠則、寺山修司、川俣正、村上隆などが名前を連ねている。
1回目のインタビューでは日系移民としての生い立ちと、写真や音楽、とりわけ民族音楽への関心をはじめ、若い頃の西海岸文化の記憶を伺い、2回目のインタビューでは日本に移り住み、ACCの幅広い分野をカバーするプログラムや経済的支援の仕組みがどのように変化したのかを語っていただいた。

住友:では、仕事の話、ACC(注:Asian Cultural Council)の話に入る前に、まずは、ジョージさんの生まれと、例えば生まれた場所、ご両親のことなどからお話をいただけますか。

コーチ:私は日系3世。ロサンゼルスに生まれ育って、大学までずっといました。日系3世というのは、おじいさんとおばあさんが日本から移住してきた。おじいさんの方が先にアメリカに来て、おばあちゃんが後から、写真結婚で来たんですね。1915年頃とか、けっこう早い時期です。両親はアメリカで生まれたんですね。戦争になって、特にお父さんのほうは収容キャンプに入った。高校生くらいの年で。母はアメリカ生まれだったんだけど、私のおばあちゃんが亡くなって、叔母さんが(母を)日本に連れて帰ったんですね。アメリカ国籍だったんですよ。で、岡山市庭瀬のほうにしばらくいた。ですから、戦争の時分は、お父さんは収容キャンプで、お母さんは(今は)アイビースクエアホテルになっている倉敷紡績で働いていた。高校生でパラシュート作っていたという話(を聞いた)。Americans had to work for the Japanese war. 日本の戦争のためにやっていました。

帆足:お母さんは高校の時に日本に戻ったんですか。

コーチ:She went to Japan. 2歳くらいの時。アメリカ生まれで日本に行って。私のおじさんとおばさんもいたんですね、(母は)アメリカ国籍。で(日本に)帰って、おばさんが亡くなった。おじさんは何をやっていたかわからない。母は戦後アメリカに戻ったんですね。

帆足:日本で青春を過ごした感じのお母さんと、戦争中relocation campにも収容されたお父さんという……。ドラフト(徴兵)はなかったんですか?

コーチ:日系人たちはみんな収容キャンプだったんですね。

帆足:でも、一部前線に出されて…… ボランティアで。私のシカゴの友達もちょうど中間ですね。戦中relocation campに入った組と、戦いに行った組があると伺いました。おじいさんはどちらの出身だったんですか。

コーチ:岡山です。両方とも岡山です。

帆足:あの辺が元々のルーツで。

コーチ:倉敷、岡山。庭瀬は、岡山と倉敷のちょうど真ん中ですね。

帆足:家庭のなかでは、日本語と英語? お父さんは特に英語ですよね。

コーチ:あまりよく覚えていないけど、小さい時、おばあちゃんの家にいたんですよ。おばあちゃんに育ててもらって。ですから、たぶん岡山弁をしゃべっていたと思う。

帆足:じゃあ女性のほうが日本語しゃべって、お父さんが英語ですか。

コーチ:そうです。お母さんは岡山弁をわかって少ししゃべるんだけど、日本語はあまり知らない。

帆足:お母さんよりおばあちゃんのほうが日本の文化を持っている。

コーチ:So it was bicultural, you know, especially for me.

住友:ロサンゼルスで生まれたんですよね。何年に生まれましたか。

コーチ:1953年に、ロサンゼルスで生まれました。

帆足:周りにも日系人がいるコミュニティですか? それとも住んでいたエリアは、白人が多いとか、カトリックが多いとか、プロテスタントが多いとか、ブラックアメリカンが多いとか。どういう雰囲気だったんですか?

コーチ:(It was )probably just a regular neighborhood. 今はもっとアジア人が多くなっているけど、以前はそれほど韓国人はいなかった。

住友:もっとmixedだったんですか。

コーチ:もっとmixed. Mostly whites. At high school there were a lot of blacks. Los Angeles High School.

帆足:そうですか。Public school?

コーチ:Public school. UCLA was, you know, all very mixed. 高校生ではmostly Asian friends. Growing up in high school in the seventies……. Black power. Brown Power. Civil rights movements.

帆足:小学生の頃はスクール・バスで行くと、segregation(人種による区別)はありました?

コーチ:いや、歩いて行ったので、そういうのはなかったですね。ほとんど白人の学校でしたね。

帆足:なるほど。まだ60年代くらいは、バス通学で、学区によって白人と黒人に分けていた時代があったから。私がいた70年代でもぎりぎりまだ、それが問題になっていた。あそこはバス通学でミックスするからとか、しないからとか。まあ選ぶほうとしては……。

住友:日系人としてそういう差別的な経験とかは受けたことあります?

コーチ:いや、直接はあまりなかったけど、まあやっぱりminorityだという意識はありましたね。

住友:それは学校で?

コーチ:学校でもあったし、日系人はお寺がひとつのcultural centerだったんですね。うちは日蓮宗。日本語学校もありましたね。毎週普通の学校に行って、(それから)Japanese schoolとboy scouts。これも日系人のお寺でボーイスカウトした記憶があって。あとお寺のSunday schoolに行ったんですよ。どちらかといえば、日系コミュニティーの中にいましたね。私たちの時代にはそういうところに所属しましたね。コミュニティーがいろんなところにあって。

住友:じゃあ自分だけ孤立しているというよりは、そういうコミュニティーの中に……。

コーチ:そう、その中に住んでいるんじゃなくて、そこに移動していくんですね。Boy scouts over here, Japanese schools over there, temple over there. Different groups of Japanese in the Japanese community.

帆足:たぶんボーイスカウトはアメリカに長い人が行くんだろうし、日本語学校は駐在員等の日系人が……。

コーチ:駐在員はその時分、あまりいなかったですね。60年代、70年代は。まあいたかもしれないけど、日系人とはあんまりmixしなかった……。

住友:ああ、そうですね。ご家族とか親戚の中に、芸術関係の仕事をしている方はいましたか。

コーチ:いや、ほとんどいないですね。日系人、特にアジア系のコミュニティーではscienceとかmath (への関心)が強くて。

帆足:engineeringとか?

コーチ:My father was an engineer。お父さんは技術者でした。数学者で、そっちの方面に受け継がれているわけですね。

住友:子供の頃に、自分がこういうものを見て、芸術関係のことで関心を持ったとか、そういうきっかけになるようなものはあったんですか。

コーチ:ありましたよ。子供時分ですか?

住友:そうです。

コーチ:まあ、junior high schoolくらいかな? Craftとか、そういう学校の授業もあったりね。やっぱり好きだったですね。お父さんは4人兄弟がいたんですね。My grandfather had a restaurant.ちゃんとしたrestaurantではなくて、dinerのような。My father is the second brother.

帆足:次男ね。

コーチ:Number one brother follows the restaurant. 私のお父さんは次男で、教育を受けて、(大学で)数学(科)に入って。三男は一番豊かなおじさんだった。He was a gardener. 日系二世の典型的な職業だったんですね。Chineseはlaundryで、Japaneseはgardenね。Horticultureとか。四男のおじさんは化学者、chemistだったんです。彼も学問にどっぷり行って。

帆足:研究者?

コーチ:Yeah, scientist. He was a chemist. Actually he was a very well-known chemist. Dr. Jay Kazuo Kochi. The University of Houston. 私のお父さんは大きい企業(に就職した)。ノース・アメリカンという会社から(同社を合併した)ロックウェルに移って。まあ(航空機会社には)ボーイングもあって。当時は冷戦の時代だったし、アジア人は特にengineeringの大きい部分を占めていたわけね。Upper middle-class, salaried man, working in the defense industryね。 McDonnell Douglas, Lockheed, North American, Hughes,TRW. The Cold War was very good for Southern California.

住友:そうすると、他の会社よりは収入はよかったほう?

コーチ:まあよかったと思いますね。

帆足:では何かお稽古事は? ピアノのレッスンってことはないだろうけど、なんかそういうお稽古事とか、ライブパフォーマンスとか見にいく機会とか?

コーチ:いや、あまりなかったですね。お母さんもアーツのほうは、ほとんど教育されなかったんですね。戦争で日本にいて、そういう時代だったから。母のほうは大学に行っていない。高校を出たくらいですから。Very practical, very good heart, very humble. もう亡くなりました。

Father was much more like…… He grew up as a discriminated American, he lost everything (because of the war). (So he was) very sensitive in wanting to be more American-like. もっとアメリカ人にならないといけなかった。My mother was much more just herself, very Japanese-like.

住友:コーチさんのご兄弟は?

コーチ:二人いる。弟が二人。One is three years younger, one is two years younger.

住友:弟さんたちは何をなさっているんですか。

コーチ:真ん中の弟は、サーフィンが好きだから、サーフィンを。

帆足:(笑)。

コーチ:彼は独身で自由に…… He studied military history. 漫画が好きで。G.I. Comic books. 彼はミリタリーグッズのコレクターだったのね。けっこうmilitary historyを勉強しているから、eBayが発展するといろんなものを……。

帆足:そういうオークションに。

コーチ:But he also teaches at high school. 一番下の弟は、grew up in Los Angeles, studied graphic design at UCLA. 私もグラフィック・デザイン出身。

住友:関心が重なるところがありますね。

コーチ:そう、彼は実際に商品を作っている。それで今自分のビジネスを持っている。ニューヨークで。

帆足:ああ、今はニューヨークにいらっしゃるんですね。

住友:では、ご両親にも親戚にも全然美術関係の人はいないけれど、三人の兄弟の中で二人が、デザインとかそっちに関心を持ったわけですね。それは何でだと思いますか。

コーチ:それはもう、お父さんに反発するためですね。私は大学に入るまでは化学を勉強したいと思っていたんですね。ChemistryでUCLAに入って。でも、完全にそれは合わないということがわかって。で、お父さんが写真をやっていたんですね。

帆足:カメラとか機械が好きなのね。

コーチ:Yeah. Mathematics, mechanics. 機械の修理も自分でやったり。それで、ずいぶん後でわかったんだけど、お父さんが政府のclassified workをやっていたんですね。私たちにもあまり知らせない……

帆足:秘密の。

コーチ:I guess it was a secret. They had to do with aeronautic navigation. 宇宙に行く(ための仕事)。10年くらい前にわかったんだけど、GPSのコア・アルゴリズムを書いた人なの。Research program in defense industry and internet.1960年代ね。He was basically doing research in GPS and space navigation.

帆足:インターネットなんかも。

コーチ:All technologies of war. Cold War and satellites.

住友:お父さんは家でそういう話はされましたか。

コーチ:いや、あんまり。しても分からなかったと思うし。

住友:では大人になってからそういうことは分かったんですね。いつ頃から芸術とかデザインに関心があると思い始めましたか。

コーチ:好きは好きだったんだけど、無理矢理させられたところもありましたね。バイオリンを勧められて。Junior high schoolのとき、学校で。だけど、ものを作るのは好きだったのね。当時はshop classがあったんですね。Metal shopとか、Wood shop classとか。

帆足:日本で言う「技術課程」。

コーチ:今はアメリカではもうそれはできないのね。予算の問題もあるけど、liability(責任)の問題があって。機械使うから。

帆足:怪我したりするから。それはパフォーマンスじゃなくて、どちらかという手仕事ですよね。

コーチ:ええ、craft. それで写真が好きになって始めた。サイエンスはすごく得意だったのね。高校まで。それが大学に入って、全然レベルが違う。(周りは)お医者さんになる(のを目指している)serious peopleね。大学をドロップアウトしそうになった。それで、(サイエンスコースの)トラックから外れるような感じで、デザインをやり始めた。最初のきっかけは写真で、大学に入って1年でサイエンスは職業としてはやっていきたくないことがわかった。で、お父さんから日本に行く機会を与えられて。

住友:その時は初めてですか。

コーチ:そう、初めて。お母さんもたまたま日本に行くことがあって。お母さんは十何年間も日本に行ってなかった。だから一緒に行ったでんすよ。

住友:それはいつのことですか。

コーチ:1971年。これはそうとう大きなショックでしたね。18歳の頃。誕生日のお金とか、貯まっているお金を全部持って行って、無茶苦茶カメラを買ったのね。1ドル360円。18歳で、so rich! 定食が1ドルだもんね。ニコンPhotomic FTN camera、アメリカではfive hundredとかa thousand dollars するものが、(日本では)200ドル(相当の金額)で買えたのね。。

住友:じゃあニコン。

コーチ:Nikon and Canonね。I bought three cameras. Nikonと、CanonのF1がちょうど出たとき。And I remember I bought a 6 x 6 camera. もうその世界に入って行こうと思ったのね。

帆足:その時カメラを買って写真を撮るっていうのは、自然を撮ったりとか、そういう写真?

コーチ:大学いた時分はホビーでやってて、たまたま友達が暗室の楽しみを教えてくれたの。Developing, printing... He taught me everything, and it became my obsession.

帆足:そのときはどれくらい日本にいたんですか。

コーチ:いや、そのときはまだ行っていなかったの。UCLA(で学び)始めて、嫌になって。その時に友達が写真を教えてくれて、そっちに夢中になって、日本に来たのが夏。

住友:一ヶ月くらいいたんですか。

コーチ:一ヶ月以上いましたね。3週間くらいパックツアーでまわったんですね。ひとりで。母はひとりで岡山にいた。私は東京でいっぱいカメラを買って、それでツアーでまわって、日本をレンズで見たのね。

帆足:それは北から南までですか。

コーチ:バスで東京から名古屋、岐阜とか、京都、大阪、最後に広島まで行って、母に岡山から迎えに来てもらって。宮島で会って、岡山で1週間、2週間くらい過ごしたんですね。

住友:そのときは日本語も特にコミュニケーションに不便しないくらいできましたか。

コーチ:Japanese school was very poor。もう昔ながらの。文字もそんなに読まないし。High schoolまでJapanese schoolに行ったんですけど、Saturday onlyでほとんど遊びのような。逆にそれがharms your Japanese possibility. It’s kind of like kids here (in Japan), trying to learn English. So it’s like a curse. 現在もそれが続いているのね。読み書きもそんなに好きじゃないし。苦手で。

住友:そのときはまだFaculty of Artsに行っていなかったということですね。戻って来てから……。

コーチ:入っていなかった。戻って来てから、カメラを下げて…… I was all into Japan. Japanese culture is so interesting, so different from California cultureね。

帆足:そういう情報は、今までロザンゼルスとか家庭内では、ある程度イメージはあったけど、見るのが初めてだった?

コーチ:日本に行くのが初めてだし、Growing up as a Nikkei sansei in Los Angeles in the 70s and the 60s is very distorted. Distorted perception of Japan. 例えば日蓮宗。ドンドンドンドン(木魚の音)。We have Japanese schoolのけっこう厳しい先生ね。A kind of unfavorable Japan. But, I had this image of Japan that was a kind of very romantic. それはもうおばあちゃんとかね、明治時代の日本を思い出して。たぶんJapanese filmsの影響がありますね。Visual imagery of Japan probably came to me mostly through films.

住友:どの映画だったとか、記憶ありますか。

コーチ:たぶんmostly B-movieだったと思うね。もちろんsamurai filmsも見ましたけど。

住友:小津とかそういうのじゃなくて。

コーチ:そういうのじゃなくて。

帆足:Samurai filmは例えばJapan centerみたいなところで?

コーチ:なかったですね。Japanese Film TheaterというのがLos Angelesにありまして。東宝とか大映とか松竹の映画の時代映画がありましたね。それがromanticized imageを作っていった。それとおばあちゃんのイメージがあって。岡山(のイメージ)もあって。(日本に行ったとき)京都にも4日間くらいいた。そんなに豪華なツアーじゃなかったんだけど、柊屋旅館に泊まったんですよ。お寺に行ったり、romanticized, picturesque image of Japanを求めていたというのはありますね。その時の写真スライドを見てもね。

住友:その後はアートの勉強をしようと?

コーチ:アート、フォトグラフィー、デザイン。まあデザインに行ったのは、アートは興味あったんだけど、私個人の性格では…… I have things I want to say, but not as an artist. An artist has to have something to say. They are never happy about that, and struggle to be themselves. I don't have that problem. I had the issue of cultural difference, a search for my identity. そういうのはあったけど、そんなに悩んでいたわけではなかった。UCLAはデザインに行った。ちょうどその頃にビデオが発明されたんですね。そこで面白い先生がひとりいたんです。たまたまこの人は2世だったんですよ。Mitsuru Kataoka。ビデオ(カメラ)が日本から(来たけど)、ソニーのPortapakはあんまり売れていなかったんですよ。(カタオカ先生は)デザインを教えていて、そういうメーカーたちとロサンゼルスで知り合いだった。(彼らは)マーケットを探していたんだけど、no market だから、カタオカ先生はそういう人から機材を借りて、1970年か71年頃、UCLA Dicksonの4階に、デザイン学部のDickson Video Labを作った。The first kind of thing. 隣がDepartment of Motion Picture and Television. プロのスタジオの大きいもの。35mm, 16mm, そういうサイズ。
デザイン学部ではそういうシステムはなかったの。アーカイヴの1/4 inch, black and white、全部大きいボックスね。それをデザイン学部のアーティストたちが使って実験していたの。僕もその中にいたのね。写真も好きだし、グラフィック・デザインも。あとちょうど時代が…… バックミンスター・フラーのドームがあったんですね。最初のBasic Designの授業で、デザイン外の人に、デザインの授業をやってもらうという。Rex Raymerという、ヒッピーみたいな…… He looked like a guruね。その人が「Non Design」というのを教えていた。私は2年生だった。日本から帰ってきたところでした。その授業の最初のパートが、「Design a ritual.」 Wow! What is the ritual!? The second part was the ‘Instant City’. 当時、(スペインの)イビサかどこかに建築家が何人か集まったんですね。Design students and architecture students came to this place, brought materials, and made this instant city. 僕らもall hippie. Long hair, smoking marijuana, Anti-war, 1971, 1972. Alternative culture, shelter, Marshall McLuhan. McLuhanは大きかったね。ビデオのほうではね。The Medium is the Message.バックミンスター・フラーは、私の前の授業でドームを作ったもんね。Three-eighths dome. それをいろんなところに持って行って、組み立てた。これもinstant cityの一つ。ロサンゼルスからサンディエゴまで場所を探した。家を建てる前の大きい開発地に——そういう場所があったのね——突然50人くらいの学生がいろんなもの運んで来てね。3、4日間キャンプのような状況。refugee campのような。

帆足:当時は50人くらいデザイン学科に?

コーチ:授業は30人くらい。(他のグループと)組みあわせて(50人くらいになった)。どこかそういうところに行って。Hippie groupというか、communeね。

住友:その頃はミュージアムとか、そういったものはリジェクトしていたのですか。

コーチ:まあ、establishment artよりも、alternative life style, utopian life style, McLuhanism, Public access media,ビデオもね。当時はDavid Ross、Everson Museum, Syracuse, Video Guerillas…… 僕もそういうのは全部あるからね。ちょうどケーブル・テレビが発生しているとき。ケーブル・テレビが発生するためには、どこかパブリック・アクセスのためのnode(結節点)を作ってあげないと。今のYouTubeの原型となる考え方ですね。You can be a publisher, you can get broadcasting. まあインターネットもその夢だったのね。Global-village mentality.

住友:大学時代のそういうまっただ中で、どちらかというとモダンなアートとか、そっちのほうにはあまり関心を持たなかったんですか。

コーチ:そうですね。そういうのはあまり関心がなかった。イン・スタジオのデザイナーもいましたし。UCLAのアートのキャンパスにすごくいいsculpture gardenがあるんですよ。Very high quality pieces. Barbara Hepworth, Henry Moore, Isamu Noguchi.ノグチさんのブロンズのZen gardenなんてのが。I hated it, you know.

帆足:(笑)

住友:あとでまた話しますけれど、イサム・ノグチのことを初めて知ったのはその頃ですかね。

コーチ:その頃ですね。まだもちろん生きてて。Modern art history. It’s like Brancusi, Noguchi. Not so interesting. 当時実際何が起こっていたかというと Pop Art, Minimalism, Earthworks, Michael Heizer, Bruce Nauman. Big show at LACMA.

住友:それは見ましたか。

コーチ:見ました。Ed Ruscha. California Artists. It’s kind of new art happening everywhere.

帆足:当時ロサンゼルスでデザインの学生をやっていると、エスタブリッシュされていたニューヨークは見ていたんですか。

コーチ:もう全然関心無かった。

住友:もうそこだけですごい面白いことがたくさん起きている感覚ですね。ヨーロッパなんてもう全然関心ない?

コーチ:No。すごくいい授業があったんですよ。Art history , history of design, Japanese art. そういうのをいっぱい取って。Graphic DesignはPeter Gould という人がイギリスから来ていた。ハリウッドのrecord industryとかそういう世界。UCLAはArt Departmentが強かったんだけど、非常に特殊な場所だったのね。CalArtsというのもありまして、あれは本当にコミューンのような、もうcrazy art, theoretical。The end of art みたいなところです。Art Center College of Designはプラクティカル。Make the portfolio, pay a lot of money, how to do your technique. UCLA was a kind of in the middle. 僕らはしょうがなくそこにいたんだけど、ずいぶんいばっていたのね。Not like them. We are very unique.

住友:その頃は将来デザイナーになろうと思っていましたか。

コーチ:そうですね。グラフィック・デザイナーも考えたし、photo journalismも(考えた)。Artists like Robert Heineken.けっこう有名なアーティストたちも何人か所属していたの。僕らのデザイン学部を出て今やっている人は、ハリウッドだったり…… メディアとか、Sony Picturesとかいろんなプロダクションのほうに(いる)。But, a very kind of utopian thinking.

帆足:まあ時代も時代ですもんね。

住友:その後、大学を出てから、research associateになりますよね。1974年に。関西学院大学に?

コーチ:戻りますけれど、chemistryはすごく成績が悪くて、デザインに入って良くなった。非常に良かったですね。4年間で必要な授業はそんなになかったです。だけど、たまたま好きなものばかりをとっていて、ちょっと足りなかったのね。それで、カタオカ先生がフルブライトで日本に行ってvideo laboratoryを作ったんだけど、(ラボは)大学院生たちにまかせて、ビデオ交流を始めたんですね。

帆足:カタオカ先生は元々UCLAのビデオの講師だったんですか?

コーチ:彼はフルブライトで日本に行って、たまたま関西学院のつながりがあって、コミュニケーション・センターを作る話になった。そこと神戸のカナディアン・アカデミーというインターナショナル・スクールに英語でしゃべる学生がいるから、ビデオでの交流を始めようということになった。私もUCLAからお手伝いをしていたんですね。何をやっていたかというと、ビデオテープを作る。アート的な、デザイン的な作品を作って、郵便で送って、日本と交換したんですね。日本ではICU(注:International Christian University、国際基督教大学)の方にVideo Art Centerっていう、手塚(一郎)さんとか中谷(芙二子)さんとかのグループがあったんですよ。

住友:吉祥寺にあった団体ですね。

コーチ:そうそう。ビデオショップがあったんですよ。

住友:そうですね。

コーチ:彼らもどちらかといえばalternativeなグループで、ICUとのつながりがあって。

住友:その後日本では「ビデオひろば」ってグループが、中谷さんとか小林はくどうさんとかが、ビデオを使ってコミュニーケションをしようと活動を始めます。

コーチ:1971年、1972年。僕はUCLAのカタオカ先生のつながりで、ICUの人や関西学院の人……American students in Japan taking about Japan and sending videos.

住友:神戸にはどのくらいいたんですか。

コーチ:その前に、交流のなかで僕はすごく忘れられないイメージがあるんですよ。舞踏を初めて見たんですよ。

住友:神戸で?

コーチ:いや、神戸じゃなくて、ビデオテープで。ビデオテープで来たものが真っ黒で、誰だかわからない。麿赤児か誰かのような感じがする。(田中)泯さんかもしれない。もうso shockingね。

帆足:それは日本の誰かが撮った?

コーチ:そうそう。吉祥寺の誰かが撮った。どこかアンダーグラウンドの。そういうテープも世田谷に寄贈しているという話を聞いています。そういう交流で、僕たちはロサンゼルスの生活を(撮影して送った)。車に乗ってハイウェイ(を進むところ)とか、若い人がhang outするところとか。

帆足:じゃあわりと日常の風景をお互いに。

コーチ:そうそう、cultural situations。もちろん、そういうのは日本からも来ました。学生たちも神戸から、学校にどういうふうにcommuteするかとか(を送ってきた)。Train, bicycle, how to commute in Kobe. So different from LA. そういう交流をしていたんですね。Very shocking images.

住友:それが、一年間くらい続くわけですね。

コーチ:そうですね。僕のjunior, senior year. 僕もその頃アルバイトで……。UCLAにすごくいい版画コレクションがあるんですよ。Grunwald Graphic Art Center.そこで、バイトでexhibition preparation. これは Mr. Grunwald という人(John A. Grunwald)がコレクターで、ピラネージ、デューラー、レンブラント(のコレクションがあって)、それに、広重、北斎のフランク・ロイド・ライトのコレクションの半分がUCLAに入ったんですよ。そのexhibition のpreparationをやっていたんですね、バイトで。授業の合間に1時間2ドルとかで、誰かが作った道具でマットを切るとか。それが私の最初のコレクションとかミュージアムとの出会いですね。

住友:その後、また仕事が大阪で?

コーチ:カタオカ先生のあとにまたもう一人誰かが日本に行って、エクスチェンジを続けて、直接ロサンゼルスに帰って来た。ビデオをどうやって教育システムの中に普及させるか、Irvineで、スクールシステムの中で一つプロジェクトを取り入れる(ことになった)。UC Irvineとは関係なく、Irvine Cityの中のschool district. そこでCanadian Academyとか関西学院大学との交流を続けようとなって、そのプロジェクトを私がフォローする(ことになった)。まだ卒業していなかったんだけど、私はすごく行きたくて。

住友:ビデオのプロジェクトのために神戸に?

コーチ:ひとつの理由だったのね。もちろんうちから出たくて。親父は “What’s design? You can’t eat by design.” “I want do design, good-bye.” 西宮に行って、学生寮から出て小さなアパートを借りたり、英語を教えたり。そのときあまり収入はなかったですよ。ゼロぐらい。でも日本にいたかったから来た。音楽も好きで。バイオリンは嫌いだったんだけど、ボーイスカウトでDrum and bugle corps(鼓笛隊)をやっていたんですね。UCLAでethnomusicology(民族音楽学)というのがあって、デザインをやっている最中にはfilm historyも好きでやっていたし、art history, danceもやっていた。全然わからなくてね。

住友:かなり関心が幅広いですよね。

コーチ:まあ関心があってね。無茶苦茶、いろんなことをやろうと思ったから。そこ(ethnomusicologyの授業)にインドネシアの宮廷舞踊があって、すごく大きな影響を受けました。民族音楽(の授業)ではフルートやった。Western Flute. 音楽が好きで、自分で自己流にやっていた。面白い日本人の友達がUCLAに来ていたの。彼は広島からアメリカに来てアートをやって、ランドスケープでUCLAに来た。私より8年上だったんですよ。彼が面白い笛があると言った。尺八だったんですよ。それをくれた。(西洋のフルートのような)メカニカルなものよりもreposefulだからすごく興味があって、それでUCLAでJapanese Music(を学び)始めた。琴古流の尺八を始めたんですよ。

帆足:そういうのを教える人がいたわけですか。

コーチ:いました。日本人の。上手な人でした。奥さんも琴をやっていたんですね。宮城流、生田流の琴。UCLAは民族音楽で有名なんですよ。Dr. Mantle Hoodという人が60年代に民族音楽のInstitute(Institute for Ethnomusicology)をUCLAに作ったんですね。日本も大きかった。というのは、1959年、宮内庁の雅楽が初めてアメリカに来たんです。その後で、Mantle Hoodが東儀系の雅楽奏者を呼んで、雅楽を教えたんです。僕も音楽に興味があって、最初尺八(の授業)が取れなかったから、雅楽をやったんです。東儀李信(すえのぶ)先生っていう先生が来てね。

住友:幅広いけど、後の仕事につながっているんですね。

コーチ:I hated gagaku.だけど後で役に立った。それから尺八を初めて、日本に来た時も尺八を持ってきたんです。関西学院大学に邦楽クラブがあって、そこに琴古流の先生がいて尺八を続けました。

帆足:尺八は何年かやっていたんですか。

コーチ:そうなんです。けっこう夢中だった。写真とか、visual imageやvisual designに興味があったんだけど、音楽的には尺八。祭囃子とかそういうの。

帆足:UCLA でコースを変えたことがすごく大きかったんですね。それまでchemistryが中心の人生だったところが、移った途端に世界が広がる。アメリカの大学のその可能性は素晴らしいですね。キャンパスを変えただけで、それだけのリソースがあるわけでしょう。ビデオをやっている先生がいて、雅楽をやっている先生がいて、求めれば全部先生がいるわけだから。

コーチ:僕はイメージ的なセンスのほうが強いのね。Very bad musical sense. Especially自分でやるミュージックは。だけど好きは好きなんですね。visual history もJapanese filmとかAsian filmとか……。

帆足:当時は先生方の刺激を受けるきっかけもあったし、クラスメイトもみなそういうことにすごく……

コーチ:いや、クラスメイトはみなヒッピーで、ギターでした。ひとりはバックミンスター・フラーに夢中になってね。いろんな研究をしてSynergeticsを書いたりしていました。他にはデザインに入った人がいました。あまり勉強しなかったのは事実なのね。授業はちゃんと受けて成績も良かったんだけど、間でプレーするような機会がいっぱいあったのね。グループでどこかで古い家を借りる。知り合いの両親の持っている、こわす予定の家に半年くらいただで住んでいいいとかね。そこにみんなコミューンのように住んだ。学生たちでね。中はみんなアート・インスタレーションみたいにしちゃうのね。パーティー、ワイン、ポットラック、マリファナ、ミュージック。四角っぽい家で、6人で住んで、食事を作りながら。ダークルーム(写真の暗室)は作れなかったから、その時だけ両親の家に帰って、夜にベッドルームを暗室にして、一晩中(現像を)やった。で、Volkswagon を持っていた。

帆足:当時はそういうコミューンやりながら、アートスクールにいると、政治的なissueに巻き込まれるというのはなかったんですか。The Vietnam Warとか。

コーチ:もちろん(政治的な)意識はありましたけど、アートのメンバーの友達は、ちょっとその辺は無意識だった。逆にutopian societyね。バックミンスター・フラーイズム。シェルターブーム。『シェルター』(1973年)って本、ご存知ですか。Lloyd Kahnという人(が書いた)。それがいま藤森(照信)先生につながっているわけね。Hashigeさんっていう人がいて、非常に面白くて、広島の大島出身(注:大島は愛媛県の島)なんだけど、ボートが好きだったのね。ランドスケープを勉強していて、自分の船を作ったのね。ビーチで濡れている砂を形にして作った。お母さんのガレージで組み立てた。日本人で面白い人で、僕も手伝った。僕より年上でした。少しずつボートを拡大したの。5つのソール(sole)があった。真ん中がホールで、4つ横にあって、けっこう大きなものができた。上から見ればこういう感じでね…… ここでサイフォンを作るんですね。横からだったらこういう感じで。ドームが好きだから、ドームを作ったんです。初めてのドームをね。けっこう大きかった。人間が立ってもこれくらいの高さ。これ全部do it yourselfセンターの材料で作った。ベニア板で形をつくって、FRPをかけて、マリーナに置いて、みんなそこに集まった。ギターやワインを持って行って泊まったりした。けっこう大きい、20人くらいが泊まれるヒッピーたちのスペースだったのね。あまり海には行かなくて、本当にハウスという感じだった。すごく話題になったのね。だからこのコミュニティー・グループで何か物を作って、一緒にドームの下にいるというのが、何かあの時代の一つの…… A way to be utopian.

住友:その後もう、できれば大学を出ないでずっとそういうことやっていたかった?

コーチ:何やろうかっていうのはありましたね、お金を稼ぎたくないってのがあってね。やっぱりお父さんがAnti-war. As a Japanese American losing everything to the government because of the war. He had nothing in camp. (戦後の生活では家に)何でもあったんだけど、必ずものを作ることがお父さんにあったんです。家を買って、自分で改造したりしていました。

住友:お父さんは、ジョージさんが日本に行くことになったときに、自分も行こうということはなかったんですか。

コーチ:いや、なかったですね。UCLAの一年ですごく(I was) lost in the academia. それをお父さんも分かっていて、お母さんと一緒に(過ごす)日本での体験を私だけにくれたのね。次男も三男もそういうチャンスはなかった。僕はちょうど18歳で、高校出たのが早かったのね。2年半で出て。High school mentality, UCLA mentality, あともう一つは、Asian American mentality.というのは、日系3世で、アジアや日本に興味を持っている人ってほとんどいないんですよ。帆足さんはよく知っているけど、日本語をしゃべる人もほとんどいない。日本人と結婚する人もほとんどいない。僕、従姉妹のなかで唯一人なんですよ。日本人と結婚したのは。僕の従姉妹たちはみんな白人とかハーフとか(と結婚した)。

帆足:私の友達の3世でも、大学で一回留学を経験すると、そこで人生が変わることがある。それまであまり日本語はできないけど……。

コーチ:グループもすごく分かれる。日系3世で日本に関心を持っている(人もいる)。特にgrand parents(に関心を持つ). 僕が大学に行っていた時分にいろんなrights movement, civil rights movementがあった。Black, Spanish, Asian American movementがあって、UCLAで最初のAsian American Studiesの授業があったんです。

帆足:Asian American Studiesって、何を勉強するんですか。

コーチ:About Asian American histories. UCLAも先頭だったんですね。Asian Americans in Americaって授業が初めてUCLAであって、僕も受けたんですね。(受講者は)ほとんどAsian American(だった)。Chinese American, Japanese American…… けっこう大きいグループなのね。Video communicationsというセンターでフィルムを作っていた人も入っていたし、ロサンゼルスにYellow Power, Asian American PowerでGIDRAという雑誌があったんですが、そのメンバーたちも入っていた。A very unusual group of people. その中に和太鼓で有名になったKenny Endoも入っていた。和太鼓アーティスト。Asian American Cultureに興味があってね。ちょうどAsian American Centerもできた時分だった。何が一番日系人の中で大きかったかというと、収容キャンプに入った人のRedress(補償)問題(と運動)があった。レーガンの時代になってから、解決があったんです。(注:リドレス運動とは、第二次世界大戦中に日系アメリカ人が強制収容されたことに対して、アメリカ政府から公民権の返還、謝罪、金銭的補償を得るための一連の努力と政治運動のことを指す。この運動は1960年代から70年代にかけて本格化し、1988年にレーガン大統領が署名した「市民の自由法」で一つの決着を見た)

帆足:レーガンが知事のとき?

コーチ:大統領のとき。確かね。(1970年代は)それ(Redress Movement)が動き始めた時分だったんですね。日系3世たちにはそれは大きい問題だったんですね。Parents, grandparentsは物から財産から全部取られて、収容所に3年くらい入った。(それに対して)アメリカ政府からの謝罪があった。それがAsian American movementの中のポイントだったんですね。Minority’s movements。ゲイやWomen’s movementはまだそんなに行っていなかったんだけど、people of colorの動きが、free speech movement, Vietnam War(反対運動), Black students union(結成へと展開した)。Asian, Latinoは順番に力が与えられて、identity cultureで何をする(のかを考えた)。今僕も考えながら喋っているんだけど、振り返れば、日本に向かわせたのは、私のAsian American identityを主張するpowerだった。何度も考えていることなんだけど。Alex Haleyの『ROOTS』(1976年)という本も出た時代だった。

帆足:そうですね。

住友:日系人の人たちは、さっきジョージさんが言ったみたいに、あまり日本に向かわなかった人が多かった?

コーチ:多いですね。収容キャンプの問題とかね。

住友:それは他のエスニシティの人と比べて何が違ったんですかね?

コーチ:中国系アメリカ人にしても、中国に戻るわけではなかった。だいたいみんな香港でしょう。

住友:ロサンゼルスでAsian American Studiesが始まったら、みんなそこに関心を持って自分の……。

コーチ:いや、祖国にはあまり関心なかった。それはlocal history…….

帆足:アメリカン・ヒストリーとしての。

コーチ:そう。Chinese working on the railroad. Japanese American coolieとかrelocation campsとか。そういうことを掘り出すなり、誇りに持つなり(するのがAsian American Studiesである)。

帆足:アメリカ人としてのアイデンティティのあり方だけど、それがアジアというアイデンティティによって主張できるという。

コーチ:その意味では、私はvery unusualだった。自分としては、cultural melting potというのはあり得ないわけです。But, you have to bring something to the pot. You cannot bring your Asian American-ness, You cannot bring French American-ness, Spanish-American-ness. You have to bring your all the country-ness. と私は思ったのね。で、自分にとっては、それがAmerican identityを主張することだと(思うようになった)。それが、その頃から作り始めたidentityの柱になったんですね。Very core. It’s getting like a psychotherapy for me(笑)。

住友:鼓童をアメリカに持って来る仕事もされていますよね。それがそういう仕事につながっていくことになるんですよね?

コーチ:それも、ロサンゼルスで尺八をやって、祭囃子も見る(ことをしていたからです)。日系3世に二つのグループがあったのね。サンフランシスコとロサンゼルス、仏教界と日蓮仏教界。そこで若い人が太鼓をしていた。Seiichi Tanaka(田中誠一)という人で、諏訪太鼓をしている人で、サンフランシスコ太鼓道場を作ったんですね。これはアメリカで唯一の太鼓グループです。後で話はつながるんですけど、彼はいろんな人に太鼓を教えていた。cultural prideを持つ時代だったんですね。Black Americans, Jamaican Americans, Latin Americans. Music was a very strong identity. 僕も、もしかしたそれで尺八に向かっていったのかもしれない。和太鼓にも興味を持った。祭太鼓はよくロサンゼルスで(やっていた)。その二つのグループをよく知っていたんですね。日本に来て、関西学院大学で邦楽クラブで尺八をやったり。京都に明暗寺ってお寺があるんだけど、これが尺八寺なんですね、そこにも行ったりした。いろんな先生につながりがあった。たまたまそこ(ロサンゼルス)にvery good performer of shakuhachiが来たのね。(ライリー・)リー(Riley Lee)っていう人で、彼が当時の鬼太鼓座(おんでこざ)で唯一のアメリカ人だったんです。

住友:日本で佐渡に住んでいたんですよね。

コーチ:(彼は)佐渡に住んでいたんです。彼はハワイ出身、half Chinese, half白人で、went to Japan. 僕のように、ヒッピーみたいにいろんなことやりながら、音楽に出会って、尺八を勉強して、神戸で竹峰流の先生についた。都山流派のアーティストだったんですね。すごく上手だったんです。それで佐渡島の鬼太鼓座に出会って、スカウトされて、プログラムに入った。僕も知っていたのね、この人がいるというのを。1974年か75年頃かな、11月3日、文化の日に、明暗寺で尺八の会があった。尺八を作る人も、虚無僧のような感じでそこに来ていた。もう出家僧なんですよ、禅の世界だから。僕ら、so crazy about the stuff like this. もうひとりちょっとstrangeな白人の人がいるんだよね。彼はウェズリアン大学のマスターで勉強して、鎌倉から京都に来ていたんですね。ラルフ・サミュエルソン(注:Ralph Samuelson。その後アジアン・カルチュラル・カウンシルでディレクターを務める)。

帆足:あぁ、そうなんだ。

コーチ:彼も琴古流。彼も後で出会うんですね。ウェズリアン大学で民族音楽で尺八をやっている学生だったのね。日本に来て、尺八の先生のもとで勉強して、明暗寺の有名な会に(来た)。尺八をやっている人はここがメッカなのね。普通は演奏会でしか聞けない先生が集まっている。当時は関西に外国語新聞があったんですね。写真家としてバイトで佐渡に行く予定だったんです。ここで、変な団体のコミューンに住んで、ボストンマラソンで走って帰って来たという人の話を取材しに行く予定だったんですね。で、その前にリー君と会った。彼はボストンに行って、マネジメントとかそういうのが嫌で、僕みたいに日本で尺八をしていたんですね。で、たまたまその夜、(彼は)京都にいたんだけど、泊まるところがなくて、西宮まで呼んで、泊めてあげたんですね。いろんな話をして、佐渡に行く予定だったんだけど、それが別になって。で、自分で行くようになって。たぶん12月に。ちょうど僕も関西学院でプロジェクトをやっていた。ビデオテープ交流とか。朝日新聞で、ちょうど1976年に向かって、(建国)200年記念の大きいプロジェクトがあって、そこでバイトをした。これも面白い話で、シートン動物記ってあるじゃないですか。彼は英国人だったんだけど、北米に移民したvery famous zoologistですね。Wrote about狼の話とか。彼はボーイスカウトを作った人なんですね。200年記念で朝日新聞で大きなプロジェクトをやった。これもまた別の話になるんだけど、僕の母の関係で、日蓮宗の先祖で宝塚歌劇団の人がいたんですね。その人が宝塚の隣の仁川にいた。福居義隆っていう朝日新聞の編集者で、彼は「こころのページ」という文化の話題のコラムを書いていたのね。この人と出会ったのが僕にとってはすごく大きかったのね。これは個人的な話になるんだけど、彼もちょうど同い年か一つ上くらいに上智大学に行っている息子がいて、(共通の話題がなくて)話せないんです。彼は私の文化的な世界をよく理解してくれた。尺八とか。私は陶芸にも興味があって、彼も陶芸のこともよく知っていたし、写真もよく知っていて、取材に連れて行ってくれたんです。バイトで撮影した。京都の仏師のところに行って、写真を白黒で撮ったりした。

住友:その人のいろいろなネットワークで見られたものも……

コーチ:見たというか、話(をした)。自分にはなかった日本の家族で、文化的なことに理解がある人と出会った。僕のビデオも認めてくれて、わかってくれた。すごく大きな存在なのね。

住友:今もお元気なんですか。

コーチ:いや、もう亡くなりました。娘はよく知っているし、息子とも(つき合いがあった)。今は朝日放送に行っているんだけどね。福居潤という人。けっこう話題になった人です。で、内海(重典)さんにも随分大きく影響されたんですよ。内海さんは日本の祭の大きいプロダクションを毎年東京でやっていたんです。宝塚のプロデューサーです。何系列のテレビかわからないけど、神宮前かどこかで日本の祭を集めて(放映したことがありました)。祭囃子をやっていて、僕はそのビデオテープを見たんです。これも、鬼太鼓座、鼓童に繋がっているんです。日本の文化、特に日本の民族芸能、民族音楽と。

住友:戻るけれど、朝日新聞のシートン動物記に関する展覧会もリサーチャーとして(関わっておられた)。これは美術展とは違う……

コーチ:博物(誌)的な展覧会。宝塚ファミリーランドで展覧会をやる計画があって、朝日新聞が乗って、そのプロジェクトのコーディネーター(を務めた)。アメリカ側の。アメリカのボーイスカウト連盟の人たちを呼んだりした。シートンがどういうふうに動物記を作って、アメリカのボーイスカウト運動をどういうふうに発展させたかという、大きい展覧会だった。企画チームのメンバーだった。

帆足:それは朝日新聞の福居さんの紹介?

コーチ:紹介ですね。福居さんがやったわけではなくて。(展覧会を企画したのは)Cultural Planning Department(文化事業部)だったのね。ちょうどその時、初めての大きな韓国美術展をやったんですね。古典美術の。

帆足:当時日本で見たものは、わりと伝統芸能で、工芸とか古典的なものが多かったんですか。

コーチ:そうです。

住友:コンテンポラリーで、具体美術協会とかそういうのは見なかった?

コーチ:見なかった。興味なかった。まあ舞踏は見たけどね。コンテンポラリーは、ほとんどその時代は何も見なかったですね。もう一つ大きかったのは、関西学院の邦楽クラブの中で、男性ですごく尺八に夢中だった人がひとりいたのね。大学を辞めて、尺八を作る先生になった。小林(一城)君というです。すごく有名な職人さんになって、トップの音楽家たちの尺八を作っている。彼のところに毎週のように行って、尺八を作る記録を写真で撮ったの。全部まだ持っていますよ。竹をどういうふうに準備するかとか。そういうプロジェクトが、何か自分のフェローシップとか大学院につながるかなあと思っていた。

住友:その頃は、大学に戻って勉強しようと考えていたということですね。

コーチ:Bachelors(学士課程)がまだ終わっていなかったんです。

住友:そうですね。だけど、いろいろ紹介されて、コーディネーションする仕事が少しずつ入ってきたっていう。

コーチ:で、何とか日本にいられないかなと。仕事も必要で、英語も教えていたんですね。わずかな収入でも。

住友:朝日新聞の仕事の次が、鼓童のゼネラル・マネージャーの仕事なのかな。1976年。

コーチ:鼓童と出会って、アメリカでの2回目のツアーをやりましたね。1976年。朝日放送かどこかがドキュメントを作るからって取材班をつけた。200年記念でアメリカのいろいろな場所で太鼓を叩いた。

住友:肩書きがゼネラル・マネージャーということは、ジョージさんがかなりコーディネーションも……。

コーチ:随分後のことだったのね、ゼネラル・マネージャーは。最初はいろんな手伝いをした。写真から通訳、車の運転、照明のセッティング、何でもやりましたよ。ゼネラル・マネージャーは、後にロサンゼルスに会社を設立して、アメリカでツアーしてプロダクションするために(つくった役職です)。私はヨーロッパも少し手伝って、マネジメント、booking(出演契約)をやっていたの。I didn’t know anything about this. Just do it.

住友:すごく来てほしい場所がたくさんあって……。

コーチ:何というかね、僕も佐渡に行って、そのライフスタイルとか、a very kind of communalな何かに惹かれたわけね。そのミッションがあって、太鼓を持って世界中に行った。田耕(でん・たがやす)というちょっと変っている人がいて、彼が設立者なんだけど、世界に伝えて行くっていう(考えを持っていた)。アメリカやヨーロッパで実現しようとプロダクションを手伝った。車も運転しながら、マネジメントから(何から手伝った)。We did everything.

帆足:鼓童のグループはどのくらいの規模だったんですか。

コーチ:当時は二十何人かな、二十三人くらいかな。

帆足:海外公演をすると、「受ける」というと変な言い方だけど、とてもwelcomingなオーディエンスが……

コーチ:誰もあまり知らなかったし、まあ1976年はbicentennial yearでモントリオール・オリンピックもあったんですね。(鼓童の人たちは)マラソン、ランニングがカンパニーのベースだっていう主張をしていて、everybody had to run.

帆足:え、鼓童の人たち?

コーチ:そう。当時は鬼太鼓座(おんでこざ)って呼んでいたんだけど、僕もマラソンを走ったのね。3時間10分くらいで。彼は面白い人で、ビル・ロジャース(Bill Rodgers)を呼んだのね。1975年当時(アメリカの)トップ記録を持っていた人です。佐渡に連れてきて、マラソンを走らせたら新記録だったんですよ。正式のコースではなかったから、新記録にならなかったんだけど。1976年はbicentennial yearで、このディレクターから、アメリカに行って、アメリカの自由の女神とか、フィラデルフィアのリバティー・ベルとか、ワシントン・モニュメントとかね、そういうところの前で太鼓を叩くのを取材したいって言われて撮影したわけね。フィルム・クルーを連れて。ボストン・マラソンも走る。それで、小澤征爾さんとボストン・シンフォニーと、石井眞木さんで曲を作ったのね、和太鼓とシンフォニー・オーケストラで。田耕という面白い奴がさせたわけね。

住友:それはsuccessfulな公演だったんですか。

コーチ:successfulというか劇的だった。

帆足:それは何年ですか。

コーチ:1976年。それがツアーのすべてだったの。撮影班が来て、ドキュメントを作る。アメリカの200th anniversary ね。I didn’t know anything. We went to America, we wanted to do this, played taiko here, did this and that, and filmed it. In New York, in Chase Manhattan, above the Isamu Noguchi pool (Sunken Garden at the Chase Manhattan Plaza). Japanese Culture Centerがあったのね。そこで和太鼓を叩いて、tall ships coming up at the harbor. After that we went to Tanglewood Music Festival. その後にwe went toモントリオールとメンフィス。ビル・ロジャースが走るマラソンで、マラソン・ランナーの一番の壁がある20マイルの地点で、ビル・ロジャースを応援するために太鼓を叩いたわけね。

住友:面白いねえ(笑)。

コーチ:撮影班も撮ってね。だけど、ビル・ロジャースはだめだったんだよね(笑)。

帆足:その時代に行くと、経費がそれなりにかかっていると思うんだけど、それが大太鼓America INC.が……

コーチ:そのときの大太鼓Americaはno money, no incomeで。

帆足:non-profit organizationのような感じで。

コーチ:そうそう。ただ、Tシャツやレコードをロサンゼルスで作って、そのビジネス・システムはあったのね。ロサンゼルスで公演もプロデュースしました。1976年か1977年。

帆足:そのときはグラントを取ろうとかは?

コーチ:No. 日本からお金が流れて来た。

住友:朝日放送のサポートは?

コーチ:たぶんあったんだと思う。レコードやTシャツの収入はあったけど、ロサンゼルスの公演の収入はほとんどなかった。でも、日本で収入があって、それをロサンゼルスに流した。ロサンゼルスの公演はちゃんとプロデュースした。劇場を借りて、宣伝して、チケットを売って。

帆足:その時、売るっていうのは、一般のアメリカ人に広く?

コーチ:dumbだからcrazyなのね。

帆足:知らなければ何でもできますよね。(笑)

コーチ:本当にそうなんですよ。マラソンもそうなんですよ。The first marathon, you don’t know.

住友:今まではデザイナーになろうとしていて、初めてプロデュースをやった。それは自分にとってやはりエキサイティングなことだったんですか。

コーチ:もちろん。日本の何かを向こうでぶつけることね。もうcultural pride. Japanese music and Japanese art are a very kind of passive in America. Very quiet. 琴とか。(それに比べると)太鼓は、これはもうpowerful as the black people. Drumsとかね。アップビート、ラテンビート。そこに対抗するような和太鼓だったのね。

帆足:何かempowerされるような高揚感があるということですよね。

コーチ:ロサンゼルスの公演は何度もやりましたし、すごく大きな影響力があって、アメリカの和太鼓ブームを起こしたんですね。鬼太鼓座、鼓童が一番大きな影響力だったね。今では150以上のグループがあるんですよ。いろんなところを回って、種をまいたような感じです。いろんなところに行って、最初お金がなかったからホテルに泊まれない。ホームステイするなり、ワークショップするなりして、食べさせてもらったりした。Very nomadic.

帆足:70年代、日本人がそういうものを持ってくると、まだエキゾチックですよね。

コーチ:太鼓は誰も知らなかったんです。ボストン・シンフォニーと一緒に舞台をやってもbig shockだったんですね。石井眞木さんのComposition(作曲)に《モノクローム》(1976年)というのがあって、《モノプリズム》(1976年)と一緒にやった。鼓童独自の《モノクローム》は、すごく美しい曲なのね。自然のリズム感があふれるような曲なんです。4種類の太鼓を使った。音楽界も大きく影響されたと私は思いますね。

帆足:Tanglewood(タングルウッド音楽祭。音楽監督は小澤征爾)に話を持っていったとき、小澤さんは日本人で縁もあって、まず話をぶつけていったんですね。

コーチ:私じゃなくて、ディレクターが(話をもっていった)。ディレクターが石井さんを知っていたので作曲を頼んだ。Fine, beautiful, Boston City Orchestra, elegant Ozawa-san. そこに鬼太鼓座ね。Taiko like pistons of steam locomotiveみたいな感じで、これがぶつかっちゃうわけね。Very interesting.

住友:鼓童の後だと、レークプラシッド・オリンピック(1980年)のナショナル・ファインアーツ・コミッティー。パフォーミング・アーツのプログラムを作る仕事をしていたんですか。

コーチ:そう、これも鬼太鼓座、鼓童と関連があってね、ディレクターがマーク・ロス(Mark Ross)という人で、Pilobolus Dance Theaterのディレクターだったんです。Pilobolusというのは面白いダンス・グループで、男性4人で、みな小さなアイビーリーグの大学のアスリートだったんですね。すごく面白いダンスをやる。男性4人で振り付けるような感じです。鬼太鼓座がヨーロッパでツアーしたときにピエール・カルダンが関係していたのね。最初パリに行ったときホテルに泊まれないから、ピエール・カルダンの劇場に泊まっていたのね。マーク・ロスっていうPilobolusのメンバーはマラソン・ランナーだった。鼓童の人たちもみんなマラソンを走るから、興味を持って。コネチカットのホームベースに遊びに行って、尺八やる人と太鼓とダンスのプログラムを作ったわけね。マークさんはその後Pilobolusを辞めた後に、レークプラシッド冬季オリンピックでartists’ presentation、visual arts programの associate directorに依頼されて。Pilobolusもperforming arts programをやることになった。Long Wharf Theater Company, Los Angeles Chamber Music, Storytellers, Gioia Timpanelli, 有名なジャズアーティストが出た。オリンピックの開催中にアート・イベントがあったんですね。大変でした。

帆足:オリンピックの競技をしているときに、ヴィレッジ(選手村)のイベントとして(パフォーミング・アーツのイベントがあった)。

コーチ:もう一つの部分がビジュアル・アーツ。それはアウトドアに設置しているものなんです。これもかんかんに寒いのね。秋から前もって準備していたんだけど、冬になったらもうEverybody spoke about sports. No time to look at art.競技場から帰って来て、eat, drink, and go to sleep. No one comes here to go to a concert. So it was a disaster(笑). でも面白かったね。

帆足:ナショナル・ファインアーツ・コミッティーというのは、国の予算?

コーチ:そうです。From the US Olympic Committee.

住友:それまで鼓童みたいに自分たちでセルフ・マネジメントでやってきたのとは大分違いますよね。プロフェッショナルな経験としてはこれが初めて?

コーチ:初めてくらいかな。お金をもらいましたからね。前は鼓童でお金がなかったからね。

帆足:この間、鼓童はお休みしていたんですか。

コーチ:だいたい辞めてました。レイクプラシッドに行って、うろうろしていたような感じです。

帆足:2年間くらいは佐渡にいたんですよね?

コーチ:そうですね。でも、佐渡にいる間にロサンゼルスにも住んでいました。公演会場の準備でいろいろ飛び回っていました。Nothing but just arrange something.

住友:そうすると年に数回、往復している感じですか。

コーチ:何度も往復しましたね。Say, two or three times? あんまり覚えていないです。だけど、ツアーで回ったときも、stage managementとかlightingを担当して、面白かったです。勉強になったし。舞台裏の制作から何から教えてもらった。鼓童を辞めた後にレイクプラシッドに行って全部で8ヶ月(いた)。辞めて1年も経たないうちに、日本に行く機会があったんです。鼓童ヴィレッジを佐渡に作るという。それと、UCLAでポスターを作ったんだけど、その頃UCLAが日本の古典アーティスト、能、狂言、日本舞踊の世界の人、花柳千代さんとか、野村萬作さんとか、三味線、雅楽の人を呼んで、プロジェクトを作ったんですね。やっている人が友人だったんです。僕も何かしようと思っていたら、そうしたら鼓童から依頼があって、鼓童で佐渡にヴィレッジを作るという。島崎デザイン事務所の島崎信(まこと)という人がいた。武蔵美でインテリア、家具が専門の先生で、もう引退されています。島崎先生とは最初の鬼太鼓座公演で出会って、佐渡の開発とか(の話をした)。宮本常一さんが鬼太鼓座、鼓童に大きな影響を与えています。佐渡島をどういうふうに考え直すかというので、鬼太鼓座の若い人が大学を辞めて集まって、カンパニーができたのね。宮本先生には僕も何度も会って話も聞いています。佐渡で牡蠣などの新しい産業、農産業を考えるとか、文化をどういうふうに作るかという話。特に民俗文化ですね。宮本先生から、「TEM」というものを(学んだ)。「TEM」というのは「Technology, Environment, Man」。今、真島俊一さんが調布に研究所を持っています。彼は日本の民家とか先祖の研究をやっているのね。日本のいろいろなことを調査している。建築関係では、図面を引いて民家の形を調べたり、それが民博の模型になっているんだよね。それから姫田先生という人がいて、この人も非常に面白い人で……。

住友:姫田忠義ですか?

コーチ:そうそう。アイヌの通過儀礼を研究していた。この人も宮本先生に弟子入りして、鼓童につながっているわけね。

住友:ここ(履歴)にはDesign Research Project Planningと書いてありますけど、実際に、島崎デザイン事務所に所属して仕事をしていたということですか。

コーチ:お金は鼓童からもらって、島崎さんの事務所と、あともう一つ音楽プロダクションの事務所でバイトをしたような感じでした。島崎先生のところでは、鼓童が佐渡にヴィレッジを作るためにopen air museumを研究したんです。ヨーロッパでよく民家が置かれているミュージアムがありますが、日本にもいくつかありました。資料を集めて研究した。それが一つのプロジェクトでした。彼は家具デザインが専門なのね。それで稼ぎながら、鼓童のプロジェクトを立ち上げた。それと同時に、お金があったプロジェクトがUCLAのプロジェクトです。『グラフィック・デザイン』という雑誌があったんですが、住友さん覚えていますか。80年代になくなったんだけど。『グラフィック・デザイン』の勝見勝先生。勝見先生との出会いがあったんですね。UCLAに五十嵐威暢というデザイナーがいて、日本のデザイナーを呼ぶというプロジェクトをやった。で、勝見先生と是非会って下さいと言われて。勝見先生と会って、(プロジェクトの)ポスターを作るという話になったのね。日本の古典芸能についてUCLAで授業をやって、ロサンゼルス、ニューヨーク、ワシントンを回すことになり、その話がだんだん勝見先生のほうで拡大して、じゃあ日本のデザイナーたちに雅楽、日本舞踊、祭囃子、能、狂言のイメージを出してもらったどうですかと提案したら、じゃあやりましょうということになった。勝見先生が凸版印刷と竹尾に紹介してくれて、紙を回してもらった。私がプロデューサーのような役割で、いろんな先生のところを回っていった。田中一光さんとか。日本舞踊の先生を選んだのね……。

住友:それは本当にポスターとして使ったんですか。

コーチ:有名になったんです。ポスターは12枚作りました。松屋銀座のデザイン画廊で展示したんですね。日本のグラフィックデザイナー達12名を初めてsuite(連作)で、一つのプロジェクトとして出したのがこれで、すごく誇りに思っている。田中一光さんも参加しました。彼のレパートリーで四角っぽい日本舞踊の顔があるのですが、田中先生にそれを作ってもらった。彼のデザインをずいぶん変化させたプロジェクトだった。横尾忠則さんは、oil paintingを出した。粟津さんも出たし、中村誠さんも、亀倉雄策さんはすごく銀を使った。These are great posters. 福田繁雄さんは狂言を選んだのね。ユーモアで、足で渦巻のようなクエスチョン・マークを描いたものを作った。足袋を履いている。これは彼の作品の中でもよく出しているものです。浅葉(克己)さんは写真を使った。
杉浦(康平)さんも呼んだんだけど、断られたんですね。選び方が間違っているって。彼は僕がすごく尊敬していた先生なんだけど、どうして雅楽やお囃子がこういうふうにならなければならないんだという理屈がすごくあって、こういうのには参加できないと(言われた)。だけど、12人の有名なデザイナーが参加したポスター展を作って、このプロジェクトをアメリカで回して、ロサンゼルスからケネディ・センターに回して、そして、アジア・ソサエティーの新しい建物で講演をやって、展覧会もやったんですね。

住友:それに関わられていたときは、プロジェクト・ベースで2年毎に続いていく感じだったんですね。プロジェクト・マネージャーをしていますね。

コーチ:迷いながら、日本に住んだり、アメリカに帰ったり、どうしようかなと思いながらでした。ロサンゼルスに帰ったら、違う何かにひっかかっちゃうわけね。このポスター展をロサンゼルスに持ってきたときに、ちょうどロサンゼルスでは日系人が作るcultural centerができるところだったんです。今まで日本のカルチャーを代表させるところがジャパン・ソサエティーしかなかったのね。Japan Society in New York and Boston. ロサンゼルスでは、Japan America協会(日米協会)はあったんだけど、建物はなかった。たまたまここで、イサム・ノグチさんが80年代、80何歳かで、プラザ(広場)の設計が可能になってきたのね。
ロサンゼルスのほうも日米文化会館というcultural centerができた。いろいろなアーツをスタジオで抱えるような組織です。日本の政府は、牛場(信彦)さんという元大使が協力して、日本のいろんな企業からお金をいっぱいもらったのね。6 million dollars. それで日本からの大きな寄付で初めて大きな劇場が建てられた。ロサンゼルスのリトルトーキョー。ノグチさんは、プラザを設計する前に彫刻を予定していたんですね。全体の敷地は大きいプラザではなかったんですね。ノグチさんは石を置きたい、周りがもっと広いところで石が見たい。So he pushed the theater into the corner.それで1エーカーくらい空けたわけ。それがロサンゼルスのJapanese American Community and Cultural Center Plaza.

住友:それはジョージさん立ち上げから?

コーチ:僕はプラザにはあまり関係してなかったね。

住友:シアターのところだけ?

コーチ:いや、ですから、ポスター展覧会をそこでやったとき、ちょうどcultural centerが立ち上がるところだったのね。たまたまそこで僕と同い年の人が、キュレーターで一人いて、彼がそこの最初の職員だったんです。彼はハワイ出身で、ロサンゼルスで勉強して、Space Galleryで仕事していた。Space Galleryはテラオカ・マサミ(寺岡政美)が出身者なのね。In the new building, no plaza, no theater, the theater is just getting finishedね。まだ予定がなくて。画廊スペースはけっこうvast spaceね。僕は、そのポスター・プロジェクトがあって彼と出会って、手伝ってあげていた。それがきっかけで、ノグチさんとも非常にいい友達になった。彼が劇場をオープンするとき、鼓童とか、制作の経験がある人が劇場のディレクターになったらどうですかと提案してくれた。それがlong storyで……

住友:鼓童のプログラムもやるし、基本的には日本のシアター・プログラムを紹介するっていう。

コーチ:日本のものと現代アートをやりました。MoCA(Museum of Contemporary Art、ロサンゼルス現代美術館)がちょうどできあがるところだったんです。Julie Lazarの仕事でperforming artsが日本から来て、オフィスが隣にあったんです。最初、Contemporary(ロサンゼルス現代美術館)はリトルトーキョーの警察の車のガレージだったのね。Frank Gehryがそれを改造したのが最初のMoCAだったんです。MoCAはちゃんとした劇場がないから、Japan America Theaterと組んで、コンテンポラリー(の舞台芸術)をそこでやろうとなった。私と、ジュリーさんと、 California Institute of the Artsがかんで、三者で、new contemporary artists を紹介したのね。

住友:面白そうですね。

コーチ:Molissa Fenleyとか、Squat Theaterとか、メレディス・モンクとか。

住友:日本のものだけでなく、その時はいろんなプログラムがやっていたんですね。

コーチ:僕も非常に良い勉強になった。同時に、鼓童とか古典のものとか、能とか歌舞伎とか。劇場のオープニングに中村勘九郎が来て、何回もやったんですよ。彼はまだニューフェイスだったのね、歌舞伎の。1982年。

住友:これは1983年から88年までだから、日本がだんだん経済的にすごくよくなっていく時期で、そういうサポートもあったんですかね。

コーチ:時代もすごくよかったし、景気もよかったし、企業もお金があってサポートしてくれた。Cultural centerが必要だったのね。No cultural center in Little Tokyo, in Nikkei community. これは日系人のハートも(関係していた)。Japanese cultureをどういうふうに見るか、Japanese American Cultureをどういうふうに考えるか。日本の企業はどこにお金を出して、Japanese プロジェクトをPRするか(考えていた)。ハリウッドの映画産業か。アート界では、Where can you see real Noh? Where can you see real Kabuki?(と言われていた。)三つくらいのマーケット、というかコミュニティーが交差しそうなところだけど、(結局は)お互い交差しなかったのね。アーティスト、芸術、日本の企業とスポンサー、日系人。義務でやっているような感じで、(そうして)コミュニティー・センターができた。

帆足:コミュニティー・センターというのは、ノンプロフィット・センターと一緒で、企業などがお金を出して運営していたっていう……。

コーチ:やっていましたね。

住友:どういう企業からお金もらっていましたか。

コーチ:マツダ、トヨタ、Japanese Business Association, JBAもいっぱいお金があった。Kabukiはいっぱい切符(チケット)も売れる。Ladiesもサポートするし。Japanese pride.

帆足:現代と伝統系では、伝統系の方が7割とか?

コーチ:現代も後でやったんだけど、スタートは古典だったね。歌舞伎、文楽、能の世界。雅楽ね。1984, Olympics Year. Los Angeles Olympics Arts Festival。ここに笹川良一さんが春日大社にお金をいっぱい積んで、新しい装束を作ったのね。ロサンゼルスがボストン美術館の小川盛弘、the famous Japanese curatorと組んで。この前、サムライ展をやった人です。当時(のボストン美術館)はJan Fonteinがディレクターでした。それで雅楽の新しい装束を作った。だから古典のオリジナルなものと、新しいものと、2セットできた。ボストン美術館と組んで、人間国宝のクラフトとか陶芸(の展覧会を行う)と同時に、笹川さんの支援で春日大社から新しい装束と、完全に新しい打太鼓を二つ持ってきて、1984年のオリンピックに合わせた。Lots of moneyね。

帆足:当時のロサンゼルスのパフォーミング・アーツ・シーンの中ではそれなりのプレゼンスを?

コーチ:これだけです。JACCC was the newest and the hottest thing. The first new theater in downtown Los Angeles in 25 years. Downtown Los Angeles was also in revitalization. New Los Angeles. Community Redevelopment Agency. Let’s build Noguchi Plaza, let’s bring this theater here. Architecture was no good, but Noguchi Plaza is great, Japanese garden is there. New Theater from Japan. Kabuki, all flash! And, LACMA. This is when “Against Nature” show was coming from Japan. Wow! Such a big showね。もう、really a stereotype show of Japanese art.

帆足:ロサンゼルスは、日系人も日本の駐在の人たちのオーディエンスもいます。日本応援の機会があったんですか。

コーチ:そう。This is the heyday of Japan. “Japan as Number One.”(注:社会学者のエズラ・ヴォーゲルが1979年に出版した著書名) Japan was like China today. Eat up America. Toyota everywhere. Japan bashing everywhere. Let’s promote Nissan. Let’s promote Toyota. 僕もそこでニューヨークに移る予定で。

住友:そこでやっていたプログラムの中で、伝統的なものじゃなくて、コンテンポラリーの文化に部分に関して、すごくこれは影響を与えたなとか、注目されたな、という印象に残っているものは何ですか。

コーチ:We did SCOT(Suzuki Company of Toga)。鈴木忠志さんね。ちょうどオリンピックに最初来て、圧倒的だったのね。ピナ・バウシュ。 All of them came in 1984.Robert Fitzpatrick、director of LA Olympics Arts Festival. I invited Ota Shogo of 転形劇場。僕もその時分日本によく来ていたのね。I got married in 1985.My wife was here. Move back and forth.キュレーションで今度何を呼ぼうということになって。

住友:いちばん斬新なものも呼ぶくらいの勢いで。

コーチ:国際交流基金とも話していたし、いろいろなアーティストをよく見ていた。舞踏も予定していた。一柳慧さんとか。

住友:「Against Nature」展はどうでした? 当時の向こうでの反応とか。

コーチ:あんまり覚えてないのね。カタログしか知らない。I was in Los Angeles when that happened, but I don’t really remember. It was a groundbreaking show, though.

住友:その頃のロサンゼルスは、マイク・ケリーとかもいましたよね。「ヘルター・スケルター」展は何年でしたっけ。(注:“Helter Skelter: L.A. Art in the 1990s”展、ロサンゼルス現代美術館、1992年)日本の現代アートとはだいぶ違うものもあった。

コーチ:村上(隆)さんが(ニューヨークに)行ったのは1994、1995年。彼が見たのはDamien Hirst, Jeff Koonsとかthat kind of stuff. He said, “If they can do it, I can do it.” 彼には大きかったのね。それこそMoCAにも来たのね。

住友:ジョージさんはその前の、Japan America Theaterで1990年まで働いているんですね?

コーチ:そうですね。

住友:1990年までdirector of performing artsをやっているので、その中でさっきのSCOTとか太田(省吾)さんのプログラムをやったと。

コーチ:そうです。We even did a musical named Utamaro. いずみたくが作った劇団、イッツフォーリーズ。六本木のほうのグループなのね。知らない? He’s a very famous guy, a kind of pop idolね。Asakura Setsu did the design. Izumu Taku did the music. Musical about Utamaro. The first Japanese musical. Song and Dance. We toured that. We also toured Sonezaki Shinjū with Yoshida Minosuke and members. Tamasaburo came to do Sagimusume. JACCCの劇場は日本的なものを主催するから、所作台を作ったのね。所作舞台。Shosa butai is the most important thing in the Japanese theater.日本舞踊、歌舞伎。何故かというのは、楽器なのね、舞台は。The way shosadai is made makes sounds. Underneath the Noh stage is like the guitar sound box. Shosadai is like this ……(注:図を描く) The board is kind of floating and make sounds. JACCC has the only shosadai in America.

帆足:このころJACCっていうのは、スタッフはどれくらいの規模の……

コーチ:Maybe about 20. The gallery stuff, performing arts stuff, management.

住友:全部で20人?

コーチ:Yeah. It’s a non-profit community center.

住友:とてもsuccessfulな。

コーチ:It was.ちょうどそのタイミングに乗ったわけね。Japan boom, economy boom. Everything just fit. All that period changed. Then, they kind of came to the West Coast to new lives and a kind of new vision out there. Japanese Americans were there. The West Coast business, Japanese企業ね。

帆足:JACCCって今でもあるんだ?

コーチ:今でも。But, it is very bad. Money, vision, no purpose anymore. Something has changed. (JACCCの)所作台はすごく大きくてね。When Tamasaburo came to New York, at Japan Society, he was gonna dance for the 75th anniversary for MET. All big guys came. He was going to do twelve-minute Sagimusume. But, before that, he had to do a performance at Japan Society. Shosadai was made out of plywood. Plywood was not good. Under the heat of the light, it warped. Terrible! Tamasaburo then came to Los Angeles and did a great performance. He did very well. Then, he had to go back to MET. But, 所作台がなかった。What are they gonna do? Let’s bring one from Los Angeles. Overnight, we brought 2 tons of shosadai by Federal Express. All the way to New York. It cost something like 50,000 thousand dollars, for 12 minutes at MET.

帆足:それがaffordできる時代だったんですね。

コーチ:Yeah.

帆足:所作台の設計はジョージさんが考えた?

コーチ:No, no.それはロサンゼルスの日米文化会館にも花柳流、藤間流、いろんな流派の先生がいるわけですね。そういう先生が教室を持つセンターでもあり、盆栽クラブとか…… A sort of a cultural center.

住友:ニューヨークよりもロスのほうが圧倒的に日本人コミュニティーがあって、そういうことをちゃんと分かっている人たちもいたってことですよね。

帆足:だから例えば、その所作台ってものを最初から設計するっていうのはすごく……。

コーチ:very visionaryね。Shochiku didn’t want to bring a shosadai to New York from Tokyo.

帆足:当時そういう知識とかヴィジョンもあったし、それを作るお金もあったし、それをサポートするシステムもあったから、すごく何というか一つの文化の時代というか……。

住友:1990年までディレクターをやったけど、辞めてしまいますよね。それはどういうきっかけで。

コーチ:まあ時代も変わってきたり、私が計画してきたプログラムもあまりにハードでね。They didn’t want to do things like Kishida Rio(岸田理生). Rakutendan group. Actually she did a New York project. She did a piece called Itojigoku (糸地獄). Very tough piece, a very beautiful piece. I was going to bring Butoh. I had a very dark series. But, it was basically a time for me to leave Los Angeles.8年間もそこにいて。My wife, Michiko Akao wanted to move back Japan. She did her own piece. She did a piece. 大岡信が台本書いて、石井眞木さんが曲作って。New piece that my wife was commissioned. For the Olympics, JACCC was presenting new work. Commissioned work by Akao Michiko, Ooka Makoto, music by Ishii Maki, writing by Ishii Sumio. We did it in Japan, in LA, in Japan Society.

住友:奥さんのこと聞いていいですか? どういうきっかけでお会いして、どういうバックグラウンドの方かっていうのを。

コーチ:赤尾三千子。 She’s very well known in a very narrow分野。邦楽だけど、現代邦楽。彼女は国立(音楽大学)に行ってピアノやっていたんですね。ピアノで演奏家を目指していた人だったのね。そこで限界までぶつかって。どこかで横笛を始めて、日本の能楽とか雅楽とか祭囃子とか、そういうところの先生になって。だけどそれも限界があるんだね。女性でそういう楽器を自分で取り上げるっていうのは。お囃子に入れないわけね。女性は吹かないわけ。それだったら自分で音楽を作るしかないってわけで、楽器で、いろいろな作曲家に曲を頼んで、レパートリーを作ったりして、参入したわけね。普通の編成から楽器を出して、木管と打楽器とか。(彼女の)Mentorは石井眞木さんだったんですね。彼女は五線譜は読める人なのね。ピアノやっていたから。五線譜でやって横笛を吹ける人はそんなにいないのね。で、石井さんが呼んでサンフランシスコ・オーケストラで、conducted by Seiji Ozawa。彼女しかなくて。

住友:元々日本で育った方で、その時に……。

コーチ:その時にアメリカに初めて行ったんですね。まあ現代音楽の世界をのぞいて、今でもそういったことを。

住友:ジョージさんとはどういうきっかけで?

コーチ:きっかけはですね、私が鬼太鼓座、鼓童の公演をロサンゼルスでやったときに、ライリー・リーというアメリカ人が運転して、本当ノーマネーで宣伝するのね。ミュージック・センターで公演前で、ちらし配るとき、みんなデモンストレーションやるのね。僕が連れていく予定だったんだけど、リー君が行くことになって、彼が事故起こしたのね。僕の車つぶして、何人か怪我して。まあともかくロサンゼルスのほうの公演は成功したのね。そのあと彼が辞めたわけ。逃げたわけ。僕も裁判かけられて大変だったのね。それは、保険もなくて、相手の人も怪我して、弁護士同士で話して、結局裁判されたの。I don’t know really. (There was) some guest inside the car. ICUに入ってて。それでlawsuit. But we had to open a performance in London. The artistic director said, what am I gonna do? We wanna main artists. So we had to find a new person. Then she (Michiko) came on tour for a year. So I did all year driving, doing the stage management, lighting, interpretation. So I got to know her. And, years later we got married.

帆足:彼女はその時は英語はしゃべれたんですか。

コーチ:Not too much.

住友:その時ロサンゼルスに住み続けたんですか。

コーチ:彼女は終わって(帰った)。その後、私が日本に行って(アメリカに)戻ってきて。1982,3年に(彼女は)公演で来たの。Japan Foundation sponsored tour, she came to Los Angeles, performing in the new center、そこでまた会って。She came to Los Angeles for five years.

帆足:その5年間の間も彼女はプロフェッショナルの……。

コーチ:Not much music work. She’d go back to Japan to perform. And the LA Olympics had this new piece.そこで石井さんと大岡さんを呼んで。

帆足:やっぱりパフォーマンス方面の、いろいろな人との出会いが……。

コーチ:Music world, people like Ishii Maki, contemporary music, Japanese instrument, wadaiko. Cultural encounter. That’s basically what I am all about. Like Isamu Noguchi. It’s about US-Japan duality.

帆足:日本以外のアジアとか、アメリカ以外の西洋とかじゃなくて、日米がやっぱり集中して……。

コーチ:そうですね。

帆足:やっぱり自分のグラウンドとして、人生のテーマになっているような感じですよね。

コーチ:But also I was very close to Indonesia. Also to (Indonesian) arts, to a person who first reminded me of the music program at UCLA. She’s a girl friend of mine. She performed classical Javanese dance.ジャワ宮廷舞踊。When I was taking a lot of contemporary dance class, the first time I saw it.

帆足:すでにそういうインドネシアの音楽がアメリカの大学であったわけですね。

コーチ:UCLA had it. And also CALArts had a very strong ethno-musicology. Very strong African music, Indonesian music, and Latin Music department. すごく面白い学部でしたね。僕もよくCALArtsに行って、ガムランをしていました。もちろんUCLAもガムランの歴史があって。ジャワニーズ……。

帆足:アメリカの中でインドネシアってそんなにコミュニティーは……。

コーチ:でもいますよね。ガムランも随分普及しましたよね。日本の和太鼓のように。

住友:ヒッピーの中ではガムラン・ミュージックって大きいですよね。

コーチ:そうですね。

帆足:90年代に東京に来るっていうのは、これは奥さんの仕事の関係とか、生活を変えるっていうのも?

住友:仕事の内容はデザイン・リサーチになるわけですね? Media Link Systemsっていうのがあって。

コーチ:はい。

住友:それまでとはちょっと違う仕事ですよね。オンライン・システムズ、デジタル・ブック・リーダーズ……。

コーチ:ロサンゼルスにいる間に、Volkswagonを2台、3台持っていて、firstマッキントッシュが出てきたときに、それ売ってマッキントッシュを買ったわけ。最初のものを。僕もコンピュータに興味があったし。オンラインやe-mailの前の時期だった。で、いろいろ、ベーシックとかCPMとかにちょっと触ったり、たまたまUCLA関係の先生にもジョン・ニューハート(John Neuhart)がいて。イームズ・スタジオで仕事やっていた人で、これもすごく長い話になるんだけど、イームズもいろいろなexhibitionをデザインしたわけね。IBMのコンピューター・ヒストリーの展覧会ね、アメリカを回っています。ロサンゼルスでMathematicaって展覧会があったのね。これは有名なscience museumで開かれたんだけど、チャールズ・アンド・レイ・イームズがやっていて、ジョン・ニューハートも関係していた。彼もちょうどIBMのPCが1982年頃に出始めた時に、グラフィック・デザインで、マニュアルをどういうふうに考えるかっていうのに関わっていた。How to teach how to use a computer.彼は展覧会のデザイナーなんだけど、コンピューターの消費者サイドに関わっていた。でもマッキントッシュが出たら、こういうことは一切必要なくなったわけね。Just one of computers. Mac changed that.僕もスティーヴ・ジョブズをフォローしていて、ずっとマックで。日本に来るときも、オンラインが始まったときね。Gopherオンラインシステムズ、download modem。ちょうどそのとき、僕もcrazy about interesting stuff. 日本で何やろうかってことで、multi mediaに興味を持った。Hyper card, CD-ROMsとかね。それをやっていた人が日本にいて、メディアム(?聞き取れず)というところで。誰かの紹介で。

住友:これは会社の名前ですか。

コーチ:そういうカンパニーがあったんですね。Dr Haruki Tsuchiya(槌屋治紀)。東大の人で、engineer, a very interesting man. Research system persistence technology。東大出身で、UNでいろいろな調査する人でした。彼はエネルギー問題にも関わっていた。早かったね、本当に。ソニーがデジタルブックを出す前だったんですね。槌谷先生がNECに知っている人がいて、莫大な予算を与えられて、Let’s research this in US. USでもオンライン・パブリケーションね。みんなelectronic booksを買ってたのね。1990sね。Tsuchiya-san was already thinking about it. We were talking about it. Online readers go to a station. Just plug it in and download newspaper, take it like Kindle. We wanted this. But, hardware was not there, network was not there, infrastructure was not there, but the idea was there. Tsuchiya-san said, “How much energy (was used) to print papers.” Killing trees, move trees, make papers, make printing, move papers to sell papers, to dispose paper, and to get dirty hands.彼はもう計算していたのね、エネルギー・コスト。He had a kind of secret contract with NEC. He wanted people like me to research the stuff.

住友:シアターの仕事では出会ってなかったわけですね。

コーチ:No, no.

住友:どういうきっかけで?

コーチ:それもね、面白い話で、私がvery interestedだった人がいるのね。島崎事務所に、大竹誠という面白い人がいたのね。彼は東京造形大学に行っていて。柏木博さんとか、コンピューター・デザインの幸村真佐男さんとか。日本でコンピューター・デザインの最初のグループ、CTG(Computer technique Group)があったじゃないですか。槌谷さんもグループのメンバーだったの。

住友:ああ、その槌谷さんですか!

コーチ:槌谷治紀。大竹さんも入っていたし、幸村さんも入っていた。

住友:なるほど。日本で最初に1967年にコンピューターを……。

コーチ:Very groundbreaking. I came back from LA. What am I going to do? All the Kodo research. I remember Otake san, went to a Kodo performance, and he said he’s doing some research for this guy, Tsuchiya-san was his friend. Kind of talking about online stuff. I was interested in graphics. He’s talking about new computers, Steve Jobs, digital books. There was some online service like BIX. 『BYTE Magazine』というテクノロジーの雑誌があって。We were talking all this, new media. The first conference of the new ……

住友:それは日本ではなくてロサンゼルスで?

コーチ:いや、東京で。ACCが始まる前にね、What am going to do in Japan? No salary, no income. I was doing some research for Kodo and for this new project, Otake san, Tsuchiya san……

帆足:日本にいながらにして、アメリカの状況を日本のために調べるという立場?

コーチ:そうですね。

住友:CTG、コンピューター・テクノロジー・グループ?

コーチ:そうですね。

住友:そんなところにもつながっているとは思わなかったな。

コーチ:Design. I understand Tsuchiya-san is an engineer. Otake-san is the design (person) ね。I am talking to design. Otake-san’s friend, Majima ShuichiってのがTEMのほうね。民家の調査ね。民家の図面とかね。Also wa-sen(Japanese wooden boats) research. They had a kind of incredible photo archives. I remember there was also another guy about life design, anthropologist, designer, that type of person. I forgot the name.

住友:古い人? 今の人?

コーチ:いやもう古い人ね。

住友:今和次郎?

コーチ:No. The whole kind of movement toward design life style. This is also very interesting. The other person that I knew very well was Akioka Yoshio sensei. He was an industrial designer in Sendai. 鼓童の袢纏があるのね。三角の波の模様の。He did that design. He did industrial designs like Suzuki motorcycle designs, he had a store in Meguro. He is the one who started モノ・モノ(注:秋岡芳夫が1971年、東京都中野区に創設した工業デザインの拠点). His studio was Mokko-Juku.

住友:秋岡芳夫さん。

コーチ:丸善にクラフト・センター・ジャパンがあったのね。秋岡先生が始めるだいぶ前から。1970年代、日本の職人さん、特に漆とか陶芸家とか、織物やっている人とか、every craftsman had a problem, no market for the quality craft. They need to design for contemporary life style. Akioka sensei said, “OK, I’m going to design for contemporary life style.” He brought new designs for the shokunin. He helped start Japan Craft Center. Nakano had this place, Mono mono. It’s like the……何て言うの、今日本の政府がやっている、池袋にあるようなJapan Craft Center (now in Aoymama)…… Akioka sensei likes to go to, live in Japan in 1980s. 鼓童の関係で。Producing 木工塾。How to make things.特にwood craft.

住友: 1990年にそれを始めたけれども、すぐもう、ACCの仕事が始まるんですね。

コーチ:リサーチのほうはずっと続くんですね。ACCをやりながら。川口のほうでオフィス借りて、そこで私は事務所をやっていたのね。

住友:個人の?

コーチ:World Windows. Planning research company. 個人のオフィス。

住友:ACCはもともとアメリカのプログラムがあったわけですよね。で、ジョージはそれまで全然関わってなかった。

コーチ:ACCをよく知っていたのは、ラルフ・サミュエルソン(Ralph Samuelson)を知っていたから。昔会って、関係をつづけて。、UCLAのインドネシアの方もACCの支援もらっていたから。Judy Mitomaさんって人なんだけど、この人がインドネシアのperforming arts, especially dancersをUCLAに呼んだ時にACCが支援したんですね。うちもロサンゼルスのパフォーマンスやっていたんだけど、ACCの支援をもらえなかったんですね。But, I knew his program. He knew me. Then, he heard that I left and I went to Japan, ちょうどその時に、アズビー・ブラウンって人が東大の建築でね、ガード下の論文を書いていたとこだったの。ちょうどその前にリチャード・エマート(Richard Emmert)という人がいたのね。以前ACCでお能で、まだ日本でやっているけど、English Nohをよくやっている人なのね。武蔵野女子大学(現武蔵野大学)で教えて、お能を翻訳したり、すごく重要な人物なのね。彼は私も劇場でお能をやったときに彼が日本から来て、そこで最初に会ったの。だからいろんな面でACC と関係してて。Rick left and they needed a new person. So, “Georg, you want to do this?” ちょうど日本に来て。The work didn’t look so interesting. だからRalphには一応断ったのね。I had more interesting things that I wanted to do at that time. World Windows. I started this company to manage Japanese performing arts. Company to manage contemporary performers and tour them to US. それを一年間やりながら、デザインリサーチもやりながら、 still looking for a work. それでアスビー・ブラウンがリック・エマートの後についたのね。僕が断ったから。

住友:ああ、そうだったんだ。

コーチ:アズビーが一年間ぐらいちょっとやったんだけど、あんまりうまくいかなかったんですね。Azby is a kind of like artist.

住友:そうだね。

コーチ:Very interesting and intelligent guy. Good friends with Okazaki Kenjiro-san. Very close friend with Kazuko Koike.彼の最近の本見ました? 『Just Enough』。江戸時代のSustainable green technology. Very good book. 彼は金沢の方に行ってね。

住友:横浜と行き来しながら。

コーチ:当時Ralph Samuelson became the new director of ACC. “Georg, do you want to try a new director?” They changed the salary, and I told Ralph, “I didn’t want to be passive in the office.” Let’s do something. Ok, what do you want to do? So, I proposed and initiated a project called the “Triangle Art Program.”

帆足:トライアングルが最初?

コーチ:You know the program, right? We worked in Indonesia, Japan and USA. It’s a kind of cultural exchange program. Different from the usual ACC one-to-one program.ビッグ・プロジェクトだった。それを何年かやったのね。

住友:ジョージがディレクターになるまでは、日本とアメリカの間で人を送るというプログラムなんだけど、アジアの中での交流が生まれたのはその頃だったのね。

コーチ:あんまりなかったの。というのは、アズビーさんもそんなに時間がなくて仕事しなかったんだよね。Half time or less. When Ralph suggested I take over the position, a different relationship (started).

帆足:そうすると東京のACC Officeはいつからあったんですか?

コーチ:1983年から。

帆足:そんなに昔からあったんだ。

コーチ:It started in 1983. It started at the office in Sunshine Bldg, Ikebukuro with a person named Bert Winther-Tamaki. Bert Winther now teaches art history at the University of California at Irvine.

住友:はい。

コーチ:これも面白い話で、Bert was here as a graduate student. セゾン美術館がACCと関係を持って、セゾンのオフィスの中にいたのね。そこにバート・ウィンターが週に1回か2回行って、セゾンがアプリケーションを全部もらって、バートさんがニュヨークに送る。

帆足:なんでその時はセゾンが?

コーチ:堤(清二)さんが。堤さんのtwo million dollar donation started Japan office. ACC Japan programあったんだけど、no office presence in Japan. The first presence was because of Tsutsumi-san. それが83年頃ですね。

帆足:だからやっぱり日本にお金がある時代ですよね。

コーチ: Tsutsumi-san put together 2 million dollars from his Saison companies, Saison Credit, etc. At that time, it was the largest amount of Japanese support to an American cultural institution.

住友:堤さんとの関係性を作った人というのは誰なんですか、ACCの中で。

コーチ:それは朝倉さんじゃないかな。朝倉摂。

帆足:そうなんですか。

コーチ:朝倉さんは堤さんと昔から親しい人だし、彼女はACCでアメリカに行って、ずいぶん勉強した。1987年くらいね。Already pretty senior. 安斎重男さんも入るんじゃないかな。ジョン・D・ロックフェラー三世基金で。堤さんも、私が聞いていた話だけど、ロックフェラー財団みたいな組織を作りたかったんですね。

帆足:当時はいろいろな企業家の人が80年代の文化事業をどうしたらいいかっていう……。

コーチ:How to do cultural business? それがテーマだったのね。ポーター・マックレイ、ジョン・D・ロックフェラー財団の最初のディレクターがいろいろな人と知り合っていたのね。土方(巽)さんも呼んでた。瀧口(修造)さんも親しかった。摂さんにも会って、I had a great impression, すぐ呼んだのね。当時はもうACC would just go around and invited good artists to come to America. それがプログラムだったのね。John D. Rockefeller III Fund. No name, No history. Porter McCray was a head of the International Department at MoMA. MoMA is also kind of like a Rockefeller institutionね。John D. Rockefeller III was also a trustee. Porter McCray was named to be a director of the new organization called Asian Cultural Programs of the John D. Rockefeller III Fund.

帆足:そうか、元々そういう名前だったのね。ファンドの中のアジアのカルチャーの……

コーチ:Two programs. Art education FundとAsian Cultural Programs、ACPの二つに分かれている。現在まで、今のACCはno art education. それはart education programでやっているから。

帆足:するとすでに1983年からACCはあったけれども、1991年にジョージさんが入って、ラルフ・サミュエルソンさんもディレクターになったから、やっぱりそれまでとは違うプログラミングをやろうという……。

コーチ:そうですね、ほんとに窓口くらいな感じだったんですね。以前もアジアにアーティスト送っていたんだけど、日本は特に重点を置いていたのね。堤さんのお金があって、バート・ウィンザーもいて、Rick Emmert, bi-lateral program。The first program was Japan–US, and US to-Asian. 香港プログラムも1987年だけど、no reason for going to Hong Kong. China was still closed. What do you learn in Hong Kong? Cantonese culture? Hong Kong artists were always coming to America. Hong Kong Contemporary Art. Taipei is probably a little different.

帆足:台北はいつから?

コーチ:Taipei program is from 1995 or 1996.

住友:1985年が香港で、95年が台湾、2000年がフィリピン。

コーチ:The first program was the Japan program.ニューヨークみたいに日本にデザインされていたのね。The patrons, Rockefeller, Tsutsumi, fundraising, with large endowmentで渡して、投資の利益でサポートするわけね。We gave about 250-300 (grants) annually だから、すごいお金集めてくれたのね。ドルにして2 millionだから。

住友:日本人のアーティストがニューヨークに行く時は、PS1のインターナショナル・スタジオ・プログラムが大きかったんですよね。そこにスタジオがあって、いろいろ重要な人たちがそこでヴィジットしてくれて、という。それはどういう経緯で決まったんですか。

コーチ:スタートはあまりよく知らないんですね。

帆足:最初からあったプログラムなんですか。

コーチ:いや、ちょっとわからないです。

住友:川俣さんはすでにPS1でやっているから……。

コーチ:1984、1985?

住友:そうですね。

コーチ:PS1 had no money. ACCが日本からアーティストを呼ぶというのは、ようするにplaceね、studioのスペース(を提供する)。当時はPS1はどこにあったのかな。クイーンズかな。

住友:場所は同じじゃないですか。小学校のところで。

コーチ:Park Avenue にちょっとある時期に戻って。

住友:ああそうですね。

コーチ:They were looking for money, and ACC had money. Japan was a good time, making it easy. Japanese contemporary art making it in the world. Japan’s number 1, Japanese businesses are great……Japan was top.

住友:日本人のアーティストにとって、アメリカに行くというのはやはりすごいステータスでもあったと思うんですよ。昔はフランスだったかもしれないけど、戦後はやはりアメリカですよね。だから、ニューヨークに行って、やっぱり自分のアーティストとしての仕事ができるっていうのはすごい憧れだったと思います。例えば80年代に日本がすごく自信を持ち始めて、日本人のアーティストにとって、アメリカに行きたいっていう気持ちが、ジョージさんがディレクターになった頃から変わって来ているっていう印象あります?

コーチ:難しいね……。まあもちろん後は変わってきましたね。1990sでもまだ行っていた人は少なかったと思うのね。でも、最初は60年代ですからね。People like Takemitsu Toruとか。衛藤駿先生とか、高階秀爾先生とか、No dollar currency, no way to get there. Air tickets were so expensive. No English ability. Going to America was difficult for Japanese artists. John D. Rockefeller III would meet the artists. Porter McCray would take care of them. 最初の人たちはみんなロックフェラー夫妻のところで食事していたし、直接、面倒を見てもらっていた。

住友:ラルフ・サミュエルソンのインタビューがウェブサイトにあがっているんですよ(https://performingarts.jpf.go.jp/E/pre_interview/0807/1.html)。でもやっぱり、インスティテューションとしてあるわけじゃないじゃないですか、ACCっていうのは。ミュージアムがあるわけじゃない。その代わり人としてアーティストとか研究者とかを知って、どうやってこの人に適切なプログラムを提供できるのかっていうのを、すごく丁寧なフォローアップが重要だってことを、一番最初の頃から、60年代の頃からずっと続けてきている。

コーチ:It was a kind of foundation that started from some people who loved the arts. John D. Rockefeller III, Porter McCray most of the staff, no arts management training, no business training, just arts lovers, ethno-musicologist, art historians, folklorist. It’s all people who loved the art. アメリカでも、当時のarts management、ほとんどみんなそうだったのね。Everybody just loved the arts. They didn’t know PR, they didn’t know management. Terrible, you know, but they loved the arts. They had passion for the arts carried it. So, JDR III Fund and ACC are a sort of that old model. そのold model basically is changing.

住友:いつくらいからchangingなんですか。

コーチ:People like me, Ralph……. New director. No fundraising concern. Then, no money in America, no money in Asia, and no money in China. No money in India. So, the weight of where the money comes from is no longer from the Rockefeller pockets. Family members世代交代ね。お金も少なくなる 企業も、アジア関係もだんだん変わってくる。Japanese business ok, great boom, then the bubble. So, now businesses booming in China. But Japan went down. America went down. Stock market went down. Who is going save the ACC. Michelle Vosper used to be the director of Hong Kong program. Now the director of China program. だけどElizabeth McCormack、ACCの現在のチェアマン、もう87歳くらいかな、said, “ACC goes to where money is.” 本当に。Money was here in Japan in the 1980s.

帆足:わかりやすいね。

住友:ロックフェラー財団のお金が割合として、すごく小さくなったのはいつくらい? 80年代の始めくらいですか。

コーチ:それはいろんな面で変わりましたね。ブランシェット・ロックフェラーが亡くなった後かな。ジョン、ブランシェットがACCにとって第一世代ね。ぼんとお金くれた。毎年何千万円もね。Giving gets less. 理事は関係しているけれど、there are more Rockefellersね。Rockefeller family fund, Rockefeller cousin’s fund とか。人数も増えるけど、giftはスモールね。

住友:日本のプログラムが始まったときには、堤さんのお金が一番大きかったけれども、フォード財団とスター財団とメロン財団もお金出していたんですよね?

コーチ:そうですね。堤さんはかなり大きいですね。

住友:アメリカの財団もあるけれど、ほとんど堤さんと思っていい?

コーチ:いや、香港も長年続けて、トータルでは同じくらいかな? Two million plus. スター財団はAIG moneyです。それも部分的には貸しているわけね。Endowment作って、何年か経ってまた、endowment moneyをいただくわけなんですね。それは現金でこのくらいの額をもらって、ダムに入れて、これがまた使うお金が、stock market has to perform in order to use that endowment gift. Endowment giftだったら直接もらえないわけですね。

帆足:基金だから、基金を運用しないといけない。

コーチ:Endowment performance in the ACC history is basically good. But, toward the late 80s, 2008.

住友:じゃあジョージさんがディレクターだった頃はまだ予算は十分に。

コーチ:まあバブルは破綻していたね、1990sはね。But, we didn’t have to raise money. それが私のラッキーていうかね、Ralph is going to say, “Georg, you don’t have to worry about money, you are very lucky.” ニューヨークもそんなにお金集める必要なかったです。Stock market is steady upward, everybody is ok. In Hong Kong, you can’t save money, but you can go find money.

帆足:台湾は台湾で独自の予算を持っていたんですか。台湾は形が違うんですか。

コーチ:台湾も香港の形で、fundraise the money, and then give grants. それで独立していくところまでやってください。今ももう勝手に。No support.

住友:原則ACCはそれぞれのローカルなところでファンドレイズをするっていう感覚なんですか。

コーチ:そうですね。Fundraise, put the money into New York stock market portfolioそれで運用して……

帆足:そうすると東京オフィスと台湾オフィスと香港オフィスは、ニューヨークから見るとそれぞれ違うっていうか。関係性とか、マネージメントのコントロールか、そういうのはやはり違うんですか。

コーチ:It is different.本当に違いますね。どういうふうに言ったらいいかな。ACC Japanはニューヨーク・モデルに非常に近いのね。香港はraise moneyでgive that money.もちろんニューヨークがリードしますね。いろんな支援もするけど。香港で探して来いという。台湾もリードするけど、スタッフも雇って事務所も開くけどFind your funds. Japan always had the endowment fund base.

帆足:それはやっぱり堤さんのおかげでかなり……。

コーチ:Yes。それがベースになっているんだけど、it grew. 2 million in 1983 grew to high of 5 or 6 million dollars.その後にオフィスが始まったのね。それは私の時代でやって、これはもう一応、ACCで作品下さって、いろんなオフィスをやって、これも$1.2 million dollars作って、それを全部endowmentに入れたわけ。Endowmentで、ACC Japanが長年強くなって、モデルとしては切り替えしたところで、endowment systemがダウンしたわけね。以前は弱かった香港、台湾が今はnew modelね。Active corporate fundraising.これがnew modelで、これがニューヨークを変えていきます。だからThe old model started in New York, went to Japan. OK for a long time. But Hong Kong (model) started. No money, go find money. That’s another good model. That’s corporate foundation model. 逆に時代が変わって、that’s the new model. 台湾でnew model、フィリピンでnew model. ACC New York has to change. We are old model in Japan.

住友:でもスタイルは全然違いますよね。その二つはね。つまり、corporate moneyを利用すると、彼らは名前をどこに出すかとか、そういうのがすごく重要になってくるじゃないですか。

帆足:(レジデンスプログラムの)ARCUSをやってるとき、ACCの台湾から人を呼んで、ニューヨークのお金をもらってたんですが、ちょっと違ったんですよね。運用のシステムが。同じ公募だったんだけど、台湾は台湾でアーティスト送りますって感じで、ちょっとシステムが違ったので、その時すごく感じたんです。やっぱり台湾と日本は全然違うって。

コーチ:もう一つは、ニューヨークはファウンデーションだけど、ACC日本のオフィスは法律的に独立していないんです。Like a branch office.香港で始める前には、設立する必要があったのね。現地法人ね。そこでfundraiseした資金はtax deduction(が得られる). 台湾も同じように二つ作ったわけね。ACC Programもあるけど, Taiwan Asian Cultural Foundation. それはただACCをサポートするためだけに出来たファンデーションなのね。台湾法に基づいて出来て、台湾税法で免税をする。

帆足:例えば国際交流基金も基金で、政府だけれども、人物交流みたいな面で似たようなことを一部やっています。フェローもやっている。後は、3カ国とか4カ国とか、オン・ケンセンが入って、共同で各地で制作している。ああいうことは、90年代にJapan Foundation がしましたけど、やっぱり90年代、ACCのTriangle Arts Programもそうですし、ただ人が行ったり来たりではなくて、そういう可能性が出てきた、そういう同時代性みたいなものが……。

コーチ:それはね、やはり、日本がこの時点でアジアに企業進出していたし、Southeast Asiaのbacklashがあったじゃないですか。企業が行って、sex toursとかね、really bad backlash in Southeast Asiaね。基金もそれに対応するために、アジア文化センターを作って、focused on Asia, the Southeast Asian countriesね。ACCもね、Triangle Arts Programは実際はfundraisingのアイデアで、僕がラルフさんに提案したの。ACCとどういう関連できて、私も自由に仕事できるか、っていうのを考え出して、企業からfundraising、特にSoutheast Asiaで企業やっているところに、アピールするプロジェクトがあれば、fundraisingできるんじゃないか、ってアイデアで。Triangle Arts Programも事実それだったのね。

帆足:そうなんですね。

コーチ:Fundraising, first. Find a project that American presence in Southeast Asiaね。Not the Japanese onlyね。今も韓国も、中国ね、very difficult, right? Echoes of WWII memories are still very strong. Here you have American presence, Japanese presence in Southeast Asia. It’s a three-way relationship. Here’s a way for us to gain support from Japanese corporates.

帆足:日本のコーポレーションから新しい角度でアジアにアプロ―チしませんか、っていうのを……。

コーチ:Support ACC in Japan. Also supports Southeast Asia. A new kind of relationships.

帆足:それはやっぱり日本の企業には受けました?

コーチ:No.

帆足:(笑)

住友:ちょっと早かったかな?

コーチ:もうだめだったのね。

住友:企業自体のマインドが、もう……。

コーチ:1992年、バブルが崩壊して、それどころじゃなかったのね。Things were just falling apart. It’s a great idea, but it was not the right time.

住友:今日はいったん終わりにします。もう一回やらないといけないですね(笑)。