美術家
福島県いわき市出身。1998年に渡米、2000年にニューヨークのスクール・オブ・ヴィジュアル・アーツに入学、ファイン・アート学科にて現代美術を学び、パフォーマンス・アートを中心に活動を展開する。聞き手に大学時代から親交のある富井玲子氏を迎え、渡米前のピースボートでの経験、渡米後にクラブイベントをオーガナイズした経験、在学中から数々のパフォーマンスを内外で企画しニューヨークのアーティストとして活躍を始めた経緯、最近の作品などについて語っていただいた。作品に日本美術史の文脈を持ち込むアイデアや、パフォーマンスとオブジェ制作の両方で生計を立てていくことについても独自の意見を述べている。
富井:一応、定型に従って聞いていくので、生まれたところから聞いていくことになりますけれども、1977年に福島県生まれってことですよね。場所的に言うと、どこですか。
荒川:福島県の南のいわき市なんですけど、茨城県の県境から30分くらい、いや20分くらい。
富井:海の近く。
荒川:そうですね。海まで8キロですけどね。
富井:じゃ近いですね。で、ご両親はどのようなバックグラウンドの方でしたか。
荒川:二人とも教員免許を持ってて、父親は1991年に死んだんですけど。
富井:何なさってたの。
荒川:中学の数学ですね。母親は小学校の教員免許を持ってたと思うんですけど、結婚した後は児童館に20年くらい勤めてて、
富井:児童館っていうのは。
荒川:市のデイ・スクールの、学校の後で子供を預かる場所。そこに20年間くらい。その仕事の後、福祉センターへ勤めてて。ほんとはね、今日で退職なんですよ。
池上:あら、そうですか。
富井:定年ですか?
荒川:そう。64歳なんですけど、ちょっと延長して。いま、まだ次の人が見つからないっていうんで、ちょっと延長して働くみたいです。
富井:確かご兄弟は、お兄さんでしたっけ。
荒川:はい、そうです。兄です。兄はいろいろ転職をして、ここ何年くらいだろう、10年くらいになるのかな、日焼けサロンの経営ですね。
富井:他にご親族も含めて、美術とか芸術に関係のある人はいらっしゃいますか。
荒川:ちょっと僕の記憶ではないですね。音楽もないですね。
富井:じゃあ、どういう形で美術に入っていったのかを聞きたいのだけれど、例えば子供の時、お絵かきが得意だったとかっていうことはあるわけですか。
荒川:そうですね。はい、あります。母親が地元の絵画教室とかに通わせて、ピアノとかも通わせられたんですけれど、ピアノはあんまり目立たず、絵の方がまあ、そのまま……
富井:小学校の時から、じゃあ。
荒川:はい。確か小学校ですね。ちょっとあまり覚えてないんですけれど。
富井:で、中学とか高校になったら、美術クラブに入ってたとか。
荒川:そうですね。いや、そんなことないですね。中学は合唱だったんですけれど。
富井:ああ、クラブは。
荒川:中学1年の時に父親が死ぬんですけど、そのあたりまで結構内向的だったんです。美術は高校の時に空き時間に自分で勝手に描いてたんですけど、実際は演劇部の方に行ったりとか。
富井:演劇も高校の時やってたんだ。
荒川:そう。
富井:演劇って、何をやってたの。どんな劇をやってたわけ。
荒川:その頃は、なんだったかな…… なまずの芝居とかだったんですけど。
池上:なまずの芝居ってどういう芝居でしょうね。
富井:新喜劇風とか(笑)。
荒川:高校になると、芝居を東京に見に行ったりとかしてたんで。「NODA・MAP」とか、「3○○(さんじゅうまる)」の渡辺えりとか。あと三谷幸喜なんかもその頃「東京サンシャインボーイズ」というのをやってて。演劇でも80年代から90年代の過渡期の作品を見て、真似したりとかしていましたね。
富井:東京までだいたい何時間くらいかかったの。
荒川:2時間、まあ、2時間半くらい。
富井:じゃあ、遠いことはないんだ。
荒川:遠いことはないですね。でもまあ、17歳くらいから、すいどーばた美術研究所(注:池袋にある芸大・美大受験予備校)の夏期講習とかに行くようになって。
富井:それはやっぱり受験のため?
荒川:そうですね。
富井:そしたら、最初にアーティストになりたいとか、美術の学校へ行こうと思ったのはいつごろ?
荒川:そうですね…… でもなんか、こういうのちょっとやっぱり関係ないかもしれないけど、どんどんこう、回収していくんですか?
富井:うん? 回収って?
荒川:その、記録していく……
富井:というか、ひとつの目的は、人間がどうやってアーティストになるんだろうっていう興味が、私たちの方にあって。
荒川:ああ。
富井:だって、お絵かきが好きでも、アーティストにならない人もいるじゃない? だから、ご本人がどれくらい関係あるんだろうって思うことと、こちらが聞きたいことの擦り合わせみたいなのがあるから。もし、そんなことはしゃべりたくないっていうのがあれば、それはそういう風に言ってもらっていいんだけど、こちらとしては、もし差し支えなければ話していただけると(ありがたい)。だからお父さんお母さんのところから聞いてるわけ。
荒川:本当はね、逆算的に考えると、何が今パフォーマンスをやってるのに影響したかっていうと、ちょっと別のところにあるんですけど。その頃、油絵をやってたけど、それはあんまり関係ないなと思うんです、今となっては。美術研究所で講習を受けてて、その頃はぜんぜん現代美術っていう概念を知らなかったんですね。それで、最初に美術とか、絵描きで行った方がいいだろうって思ったのはイタリアだったんです。なぜか。それは高校の頃の考えだったんですけど。
富井:イタリアって言うと、未来派とかそういうこと?
荒川:いや、未来派とか知らないですね。たぶんミケランジェロとか。
富井:なるほど。そこまでイタリアでも遡ってるわけね。
池上:オールド・マスターを見に行かないといけないとか。
荒川:なんか、イタリア美術だろ、みたいな。
富井:なるほど。
荒川:なぜかイタリアだったんですよ。なんでだったんだろう、あれは。
富井:じゃあやっぱりルネッサンス?
荒川:そうかもしれないですよね。
富井:ダ・ヴィンチとか?
荒川:なんかこう、フランスじゃなくて、なぜかイタリアだったんですけどね。
富井:ルネサンスだけは、やっぱりイタリアでしょうね。近代美術とか言い出したら、フランスというのも大きいかもしれないけど。
荒川:なんでだったんでしょうね。なんか、何も知らなかったですね。
富井:うん、だから、そういう知らないところから、どうやって現代美術を知るようになるかとかいうのも、こちらは興味があってね。ミケランジェロみたいな絵を描いてたんじゃないでしょ。
荒川:いや、まあ、アカデミックな訓練みたいなのはしたんですけど……
富井:その美術研究所で。
荒川:はい。でも僕、藝大を受けた年に結構、静物は得意だったんですけど、その年の第一次試験が国技館でね、自画像だったんですね。その時、僕、あまり人物画うまくなくて、だめだったんですけどね。
富井:藝大って、東京の藝大。
荒川:そうです。
富井:他はどこを受けたの。
荒川:藝大だけだったです。
富井:じゃあ、通らなかったんだ。
荒川:そう。
富井:それで、浪人したの?
荒川:なんか、すいどーばたに戻って、浪人するのは嫌だなあと思って。その頃になったらもう東京に住んでたんですけど、ピースボートっていう、NGOの広告を見つけて。早稲田系の、船を借りて世界旅行する団体で、それのボランティア活動を始めるんですね。それが2年間くらいなんですけど、その間に、世界一周旅行に行くんです。参加者とね。で、その関係で……
富井:そのボランティアをした時は、お給料は出なかったんでしょう。
荒川:そのNGOのシステムは、毎週、その毎日、ポスター貼りとかポスターづくりとかがあって、違法なんですけど、電柱にポスターとか貼ってたんですよ。それで1時間に1,000円割引になって、それで150万くらいの旅費をディスカウントしてもらったんです。だからほとんどあまり払わずに。
富井:なるほど。じゃ、ラッキーだったね。
荒川:いや、みんなそういう風にして乗るんですけど、ほとんどの若者は。それで3ヶ月の船旅に出て、500人の日本人と一緒に。
富井:どこに行ったんですか。
荒川:20ヶ国くらいなんですけど。珍しいところで言うと、イースター島とか、キューバ、パレスチナ。あと、エジプトとか、いろんなとこですね。ヨーロッパも行ったし。
富井:それがだいたい、二十歳の頃。
荒川:そうですね。二十歳ですね。その関連で、友達がニューヨークでパフォーマンスというか、日本でいうモダンダンス、 ジャズダンスみたいな、ちょっとポップなダンスなんですけど、それを見にニューヨークに初めて来たのが、きっかけですね。
池上:ピースボートがニューヨークにも寄港したんですか。
荒川:していないです。その3ヶ月の後に、友達がニューヨークでダンスをやるっていうから、ちょっと来たんですよね。2週間か10日くらい。その時点でミュージカルを10個くらい見て。
富井:ニューヨークで。
荒川:そう。僕はね、照明にすごい興味があったんです、その頃は。
富井: ブロードウェイや、オフ・ブロードウェイとかを。
荒川:そう、どちらも。照明とか見たりして。でも、照明の勉強したいとは思ってたんですけど、どこで勉強できるか知らなくて。でも、ニューヨークがすごい気になって。それはね、人が冷たかったんですね。日本の社会と比べると。そこが気に入って……
池上:冷たい方が気に入るというのは、どういうことですか。
荒川:そうですね、僕はゲイなんですけど、たぶん二十歳の頃は、世間体という概念のせいか、日本の中での居心地が悪い、みたいに考えてたんですね。あと、日本の中の情報量の多さが、二十歳の頃は居心地が悪かったですね。それがニューヨークに来たら、みんなあんまり隣人を気にしないように思えて、それでニューヨークにもっと長く来たいなあ、と思って。それで半年くらいしたら、また戻ってくるんですね。その後ずっと長く……
富井:それはじゃあ、学校へ行こう、みたいな形でもどって来たの。
荒川:そう。
富井:それじゃあ、その時にもう、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツ(School of Visual Arts)だったんですか。
荒川:いや、そのときは語学学校なんですけど。たしかね、まだ何を勉強するかっていうのは定まってなくて、コンテンポラリー・アートもまだ知らなかったですね。来て1年半後に、大学に進むっていうことになって、最初はデザインとか、カートゥーン、漫画学科とかに、やってみようかな、と思って、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツに入った。
富井:最初入ったのはグラフィック・デザインだった?
荒川:そうです。でも入って1年目は、年間同じ勉強するんですけど、そこにブラック・マウンテン・カレッジを卒業した先生に会うんですね。その先生が、僕にファイン・アートに行けと説得するんです。
富井:何ていう先生だったっけ。
荒川:ピーター・ハイネマン(Peter Heinemann)って言って、ジョン…… 何でしたっけ。
富井:ジョセフ・アルバースね(注:Joseph Albers、ドイツ出身の美術家。バウハウスの閉鎖後、ブラック・マウンテンで教鞭を執った)。
荒川:彼の教え子みたいなかんじの人で。まだたぶんご存命だと思うんですけど。
富井:なんでファイン・アートに変われって言われたの。
荒川:僕、商業の、いわゆるカートゥーンとかデザインに行こうと思ったのを、何かしら見出してくれて。コマーシャルよりファイン・アート行った方がいいみたいな(ことを言ってくれた)。それが1年生のときですね。
富井:そのときもうコンテンポラリー・アートとかはだいぶ見るようになってたの。
荒川:ちょっとね、思い出せないんですけど、多分まだだった。2年くらいになって、ジャン・アブギコス(Jan Avgikos)っていう人が、たしか印象派あたりからをポップとかソーシャルな視点で解説してくれるというクラスがあって。それは必須だったんですけど、その人のアートの読み方がすごく現代的で、社会的な動向とリンクさせて、昔の作品とかも読み解く、みたいな話ですごい面白かったです。
富井:いわゆるリヴィジョニズム的な方向ね。
池上:うんうん。
荒川:そうかもしれないですね。彼女はレズビアンだったんですけど、ヒストリーをもう一回こう、アウトサイドから見ていく、みたいな感じはあったですね。それが2年生のときだったんですけど、その先生にいろいろ、ギャラリーを見てこいとか言われて、それでギャラリーに行ったり、あと、そのくらいのときに、Diaでボランティアをするんです。Diaのブックストアで。その頃に、アメリカの若手の作家と同じ環境で、現代美術に触れるんです。結構Diaも活発だったし、その頃は(注:Dia Art Foundationは1987年から2004年までチェルシーのスペースで展覧会をしていた。現在は不定期に行っている)。
富井:本屋があるときって言うと、Diaがまだ開いてた、展覧会かけてたときですよね。そしたら、一応チェルシー行ったら、みんな来て、その後画廊回りするとか、そういうノリですよね。
荒川:それで2年生のときに、週10個とか20個とか、ギャラリーを見にいかされるんですね、学生は。
富井:それでレポートしたりするわけ。
荒川:そう。そういうので、どんどん土地勘をつかんでいくんですね。
池上:ちょっと確認なんですけど、スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツに入ったのが何年になるのかな。
荒川:2000年かな。2000年か2001年ですね(注:2000年入学、2004年卒業)。
池上:そのピーター・ハイネマンさんは、まだ現代美術を知らない医君の中に何を見たんだと思いますか。
荒川:いや、単純に、作品が面白かったんだと思うんですけど。雰囲気があったのかも。
富井:じゃあ、グラフィックでやってる課題の提出物とかっていうもの。
荒川:そう。漫画的なナラティブみたいなのもちょっとあったし、ちょっと考え込んでるような雰囲気もあったし、美術教育的なドローイングのスキルも結構よかったんですね。
富井:それはやっぱり、すいどーばたで練習してたし。
荒川:ああ、まあね。そうですね。
富井:そうでもない?
荒川:昔からね、漫画は結構書いてたんで。
富井:あ、そうなんだ。
荒川:そういうのでね、ドローイングはすごい好きだったんです。鉛筆の方が、ペインティングよりもすごい扱いやすいんですよね、自分的には。もう今はやってないですけど。
富井:その時はどのあたりに住んでたんだっけ。
荒川:その時はね、リッジウッドですね。
富井:クイーンズだね、じゃあ。
荒川:クイーンズとブルックリンの境くらい。(地下鉄の)L線とM線のずっと奥。
富井:じゃあその頃は、ほとんど日本人とは付き合わないで、学校の人達と付き合ってたわけですか。
荒川:それはそうなんですけど、日本人がね、あまりファイン・アートに行かないんですね。その頃の唯一の日本人がね、麻生晋佑君なんですよ。ここからちょっと面白いですけど、麻生君は白川昌生さんの教え子なんです。彼、群馬なんですけど、白川さんが日本のダダの本をつくったじゃないですか(注:『日本のダダ:1920-1970』風の薔薇、1988年。増補新版は水声社、2005年)。その本をね、麻生君が、大学2年か3年の時に見せてくれて、結構ビックリするんですよね。それが、僕の中での、日本の前衛とのきっかけ、みたいなかんじで。
富井:ずいぶん写真資料がたくさん入っている本ですよね。
荒川:そう。それをね、丸ごとコピーしてずっと持ってたんです、最近再版されるまでは。あれたしか、実験工房についてはあまり書いてないんですけど、
富井:そう、ダダからどっちかって言うとマヴォとか、そういうところに。
荒川:そう、マヴォから具体とかにいっちゃうんですよね。でもね、その白川昌生さんが、「日本の前衛美術のうねり」みたいなエッセイを書いてて、それが今でもすごく印象に残っている。日本の前衛がうねりのように現れてはまた消えていく中で、そのつなぎ、コンティニュイティを認識するみたいなのが重要だ、とか書いてあって。その考えは今も影響受けてます。
富井:その本を見たのが、じゃあ日本のいわゆる前衛美術って言うか、現代美術を知った最初になるわけですか。
荒川:そう…… かもしれない。
富井:だって、すいどーばたではそんなこと教えないでしょう。
荒川:教えない。そう。
富井:じゃ、それから興味を持って自分でも調べだした、みたいなところはあったわけ。
荒川:いや、ないです。その本だけは結構ずっと読んでたんですけど、3年生になって、ユタ・クータ(Jutta Koether)っていう美術家と出あって…… 先生だったんですけど、その先生のクラスでBマイナスを取って。絵画のクラスだったんですけど、必須で。ちょっとね、なまけてて、他のクラスでつくった作品を見せてね、何とかやりすごそうみたいな、あれがあったんですけど、
富井:怠け者根性やね(笑)。
荒川:そうそう。それでね、Bマイナスをもらったんです。それで僕は結構いつもAをもらってたんですけど、ちょっとショックで、次のセメスターはちょっとがんばらなきゃ、みたいな感じで。彼女はペインターで、かつパフォーマンスもやる人で、音楽とか文章書きもやるんですけど。それで彼女のクラスで、僕がパフォーマンスをやるんですよ。その時、美術の中でパフォーマンスをやるのが初めてだったんですけど、そこからね、結構パフォーマンスをやるようになるんです。彼女がすごくいい、みたいな風に言ってくれて。
富井:それまで、いわゆる美術のパフォーマンスって見てたの。画廊回りとかしてるとき。
荒川:見てない。いや、見てたのかもしれないですけど、あんまり自分とは関係ないな、みたいな。でも、そんなにパフォーマンスをその頃見る機会はなかったですね。自分の中で美術とパフォーマンスが結びつかなかったのはあるんですけど。でも、ちょっと話を遡ると、中学1年で父親が死んだ時に、なぜか精神的に、何かこうやらなきゃいけないみたいな、プレッシャーというか、なんか使命感ができてしまって、父親が亡くなったことで。父親は過労だったんですけど、そういう側面も周りの反応も含めて、僕に影響したんだと思うんです。
富井:それまではすごく内向的だったって……
荒川:そう、内向的だったと思うんですよ。でもその死んだ年に800人の生徒の前で、何かの旅行の感想文を発表しなければいけないっていうのがあって(笑)。
池上:それはみんなやるんですか。
荒川:いやいや、それはちょっと優等生だったんですけど、僕が。
富井:ああ、なるほど。じゃあ、学校代表、みたいなかんじで。
荒川:そうそう。それはすごくあがったんですけど、そのイベントがなんか、スイッチだったんですよね。そのスイッチが押されてしまって、なんかその800人の全校生徒の前でしゃべるっていうのが、すごくプレジャー(pleasure、快楽)があって、その年の中学2年のときに、生徒会長に立候補するんですね。そこからパブリック・パーソンみたいな自分をどんどん展開していくんですね。学校の応援団を自分でつくったりとか。
富井:ええ(笑)。ハチマキ巻いて、学ラン着て?
池上:へえ。ないのにつくっちゃったんだ。
荒川:そうそう。生徒会長やって、応援団長やって、しかも、生徒会企画の「ロミオとジュリエット」でジュリエットやったりとか。
富井、池上:(爆笑)。
富井:男子校じゃないでしょ。
荒川:いや、違うんです。中学校ですけどね。そう。結構ね、すごいパブリックになっちゃうんですよ。
池上:それはお父さまが亡くなったっていうのがきっかけで、自分がもっと表に出て何かやっていかねばっていうような使命感になっちゃったんですか。
荒川:結果的にはそういうことですね。
三人:(笑)。
富井:その「ロミオとジュリエット」って、文化祭でやるとかそうじゃなくて。
荒川:あ、そうですね。
富井:あ、文化祭とかで。
荒川:送別会とかで。卒業していく3年生ために。
富井:あ、なるほど。
荒川:高校も、僕、母親の影響でその頃できた自分でクレジットつくれる学校、単位制の、初めての1期生なんですね(注:福島県立いわき光洋高等学校)。だから自分たちの前に何も学校のヒストリーがなくて。
富井:自己カリキュラムみたいなかんじ。
荒川:そうそう。自分で演劇部つくったり、また生徒会やったりとか、結構アクティヴにオーガナイズして。空き時間をいっぱいつくって、数学とか理科を全然とらずに、空き時間に絵を描いててもいいとこだったんです。私服だったんですけど、福島はそのころ、そういう高校はなかったんですね。すごく自由な。
富井:日本でも珍しい。
池上:珍しいと思いますね。
荒川:そう、そう。
富井:でも、数学とか理科とかスキップしてたら、大学受験のとき困らなかったの。
荒川:なんでだろう。藝大にあまり必要なかったんですよね、たしか。
池上:センター試験は受けなくていいのかな。どうなんだろう。
荒川:センター試験もね、なんかね…… なんかうまくやってたんです。
富井、池上:(笑)。
富井:うまくやってたんだ。
池上:苦手なものはこうちょっと回避して。
荒川:そうそう。でも結構思い切りありますよね。そういう、数学とかとらないで。
富井:そう、だから聞いたんだけどね。
荒川:まあそれで、その頃からずっとパブリックな自分みたいな状況がどんどん平気になってくるんですけど。ピースボートの船の上でも、3ヶ月、自分たちで自主企画をいろいろやるんですね。それで、パフォーマンスをいっぱいやってたんですよ。
富井:演劇的な。
荒川:エンターテイメント。船上ウルトラクイズとか、エンターテイメントではないけど、中田統一さんっていうクィア映画監督を呼んだりとか、あと、ユーミンダンスもしました。僕はそれまで7、8年くらい、ユーミン、松任谷由実のファンクラブで、コンサート会場に、すごく出入りしてたんですよね。1年に10回以上、コンサートを見に行って、それでいろいろそういう空間に慣れてくるんですね。で、ニューヨークに行って、最初の仕事がクラブでね、ゲイクラブなんですけど、コートチェックの仕事を2年くらいやるんですけど、そこでね、慣れた頃に、パフォーマンスとかしだすんですよね。それで、日本人イベントみたいのをやって、なんか踊りやったりとか……
富井:なんの踊りしたの。
荒川:えっとね、モーニング娘。をやったんですよ。
富井・池上:(爆笑)。
荒川:それはまあ、おちゃらけだったんですけど、もうひとつはね、ウルフルズと、日本のポップ・ミュージックと、ドラゴンクエストの音楽に合わせて踊る、みたいな。曲の間にバレーボールとかをやったりとかして。バレーボールはね、「3○○」っていう、渡辺えりの(劇団の)真似だったんですけど。その頃のビデオを、大学4年生くらいの時に見せたりするんです。
富井:じゃ、クラスで。
荒川:学校付属のギャラリースペースとかですね。ニューヨークのクラブで不定期にパフォーマンスしてて、コートチェック自体は1998年から2000年くらいまでやってて、大学始まったら週末朝5時まで働くのはちょっときついからやめちゃうんですけど。早い時間に踊り場を暖めるというか、遊びに来だした客を盛り上げてくのが好きで、大分好きな空間だったんですけど。大学入って2年くらいになったときに、そのクラブでね、「サンデー・ニュー・ジャンル」っていうのをやるんですね。それはいろんなジャンルのアーティストを呼んで一緒にみせちゃうみたいな、寄せ鍋的な、ヤミ鍋的なあれがあるんですけど、そのイベントを5週間やったんですね。毎週日曜日かなんかに。
富井:君が企画したの。
荒川:そう。その企画がすごい大変だったんですよ。集客しないと、キャンセルするぞって言われてたし。そこでね、オーガナイズを養うスキルみたいなのが、リミットが外れて、そこでまた成長したような感じがあったりして。
富井:すごいね。
荒川:死ぬかと思った。
富井:それ大学何年のとき。
荒川:そう。大学2年くらいかな。2002年なんですけど。その頃に何人かコンテンポラリー・アーティストとかもDia関係で呼んだり、あとNYUの学科でニューメディア系のITP(注:Tisch School of the ArtsのInteractive Telecommunication Program)の人を呼んだり、出演の交渉をいっぱいやらないといけなかった。そのごちゃまぜのイベントをやったってのも、今よく考えれば、パフォーマンスの素養になってたな。
富井:すごいよね。今聞いて、非常に感動してますけれど、私は。
池上:最初に、クラスでやって誉められたっていう、そのパフォーマンスはどういうことをやったんですか。
荒川:それはね、セス・プライス(Seth Price)っていう作家がいるんですけど、彼がつくったCDで、80年代のゲームミュージックをダウンロードした海賊CDみたいのをDiaで買って、そのCDを一曲つかって、エモーショナルなゲームサウンドなんですけど、それが流れているときに、会場では人工の滝のビデオが映ってるんですが、そこに、僕がね、スプリング・ウオーターみたいのを持って、現れるんですよ。でね、水をついでね、観客に渡すんですね、水を。観客はね、それを飲むんですよ、差し出されたから。でも、その水がすごいしょっぱいんですね。
富井、池上:うふふふ(笑)。
富井:お塩入れてあるの?
荒川:そう。だからね、こう、べーっ、みたいなかんじになるんですけど。たしか、それで終わりだったですね。
富井:何人くらいに飲ませたの。
荒川:3、4人です。クラスがね、10人か15人くらい。
池上:クラスメートに飲ませたわけですね。
荒川:そうそう。
富井:しょっぱいから、思わず吐き出しちゃう、みたいな。
荒川:そうそう。あのね、それをやったらね、すごい受けたんです。受けたって笑いだけじゃなくてね、なんかその、観客と自分の間にトラストがあるけど、それを裏切る、みたいな。それをやった数ヶ月後に、ユタがキム・ゴードン(Kim Gordon)と一緒にやった展覧会があって。ケニー・スチャクター・コンテンポラリー(Kenny Schachter ConTEMPorary)っていう、ヴィト・アコンチ(Vito Acconci)がつくったギャラリー・スペースがウエストサイドにあって、そこでパフォーマンスをやってくれってユタに言われてやるんですよ。僕はその頃、短いのを何回かやりたくて、そこでまた5週間、5つくらい違うのやらせてくれって言って、やるんですね。そこで5つくらいやるんですけど、それがね、レジメの結構最初の……
富井:2003年ね。
荒川:そうです。その時にやったパフォーマンスが、現代美術の最初のパフォーマンスなんですけど、オーディエンスの中にダン・グラハム(Dan Graham)とかいて、ダン・グラハムや観客にパフォーマンス中に観客に傘をつきつけるみたいな、オウム真理教みたいな、公衆の場所で傘をいじっている人がいる、みたいなパフォーマンスをやってね、ダン・グラハムがいたのが感銘ですけどね。
池上:何か言われましたか。
荒川:早口でサッと何か言われたんだけども、その頃の僕の聞き取り力が弱くて。
富井:ケニー・スチャクター・コンテンポラリーは、我が家のクリストファー・ストリートの先にあったところなので、君から教えてもらって、一回、拝見しましたね。じゃあ、ケニー・スチャクターのところで5週間やったのをきっかけに、認められるようになったのかな。それが次のステップになっていくわけ?
荒川:いや、あんまり、そこではまだね、パフォーマティブなかんじで。でもその頃、ジェイ・サンダースとかに会ったりとか、ニューヨークの友達とかと知り合うようになるんですけど、Diaを通して。でもね、ブレイクスルー(breakthrough、飛躍)みたいなのは、2004年の卒業制作の時かな。玲子さんの話もしてないですけど、
富井:いいのよ、別に。する必要がなければ(笑)。
荒川:リーナ・スポーリングス・ギャラリー(Reena Spaulings Fine Art)っていうのが2003年の終わりにできて、2004年の春に、僕が卒業する頃に、パフォーマンスやってって頼まれるんです。
富井:それは、卒業制作するからあそこに頼んだわけじゃなくて、たまたまその時に向こうから話があったってこと。
荒川:そうそう。
富井:君、創設メンバーだった?
荒川:いや、違いますよ。
富井:でも、最初からずっとつきあってたんじゃなかった?
荒川:結構早い方ですよね。たぶん、できて3ヶ月後くらい。そこで、《Mid-Yuming as Reconstruction Mood》(2004年)っていうパフォーマンスをやるんですけど、3日間。それが成功というか、記事もちょっと出たりして、それからいろいろパフォーマンスをどんどんしていくようになるんですよ。
富井:その前に、さっき、パフォーマンスとファイン・アートが自分の中であんまりつながっていなかったって、言ってたじゃない。この時にじゃあ、つながったわけ。
荒川:いや、もう。ただ、ユタのクラスのときに、ペインティングのクラスなのに、パフォーマンスやっていいんだ、っていうのが大きかったですけど。あとまあ、これ玲子さんがいらっしゃるから、わざとというわけじゃないんですけど、3年生のときに4年生のクラスに侵入して、ドクメンタ11のカタログを読むっていうクラスに参加するんです。これはさっき言ったジャン・アブギコスっていう先生のクラスなんですけど、そこのクラスでもまた、読む量がすごく多くて、僕のその頃の英語読解力で、オクウィ・エンヴェゾー(注、Okwui Enwezo、ドクメンタ11のディレクター)の……
池上:あの難解な。
荒川:読むのはすごく大変だったんですけど、でもね、すごく面白かったです。ポスト・コロニアルのスピリッツみたいなのを読んでいくっていうのは、すごく面白くて、その影響でね、たまたまグローバル・コンセプチュアリズムのクイーンズのカタログ(注:Global Conceptualism: Points of Origin, Queens Museum of Art, New York, 1999)で、富井さんを見つけるんです。
富井:そう。オクウィがアフリカやってるでしょ、あの本では。
荒川:そう。それで3年生の時に、インディペンデント・スタディ・プログラムを…… やったのは、4年生の時ですか。
富井:4年の時だと思うよ。
荒川:4年生の時に、自分でね、学校の外から誰か講師を呼んで個人授業をする、みたいなので富井さんを呼んだんですね。スクール・オブ・ヴィジュアル・アーツに、日本の現代美術の専門家がいなくて、ちょっとこれはいかんだろう、みたいなかんじで、一緒に勉強させていただきました。その時、富井さんのやったのって、オノ・ヨーコと河原温とあと赤瀬川……
富井:草間やったでしょ。
荒川:草間もやりましたね。それで、白川昌生さんの本と、富井さんの授業と、ポスト・コロニアルって考え方と、あとユタのやってきた文脈っていうのは、(マーティン・)キッペンベルガー(Martin Kippenberger)のケルンの文脈なんですね。システムの中でどうパフォーマンスするか、アーティストのパフォーマンスみたいな考えがあって、たぶんそのあたりで、パフォーマンスっていうのをちゃんと考えられるようになったんですね。4年生くらいで。
富井:それでユーミンになるんだ。
荒川:そう。自分の過去を再構築しよう、みたいなかんじで、ユーミンのコンサートにずっと10年くらい通ってて、そのスペースはすごくフェミニンなんですね。ファンベースが。その雰囲気っていうのがすごく面白いというか心地よかったし、よく調べると、ユーミンのプロダクション・デザイナーが、イギリスのプロダクション・デザイナーで。グローバル・ロック・カルチャーみたいな、経済的なつながりを見ていってもなんか面白いなと思って、30分でユーミンのステージを作って壊すっていうパフォーマンスを8人組くらいでやるんですね。僕以外は全員女性なんですけど。
富井:その30分っていうのは、スーパーボウルのインターミッションっていうか、ゲームの間のエンタメの時間が30分だったよね。
荒川:いや、スーパーボウルでは5分でつくるんですけど、コマーシャルの間に。それで12分ハーフタイム・ショーをやって、5分でまた解体する、という構成です。そのパフォーマンスのせいで、荒川医っていうと、当時は作って壊すパフォーマンスみたいなイメージになるんですけど、テンポラル・アーキテクチャーみたいなのをグループでつくるのが、すごくその頃からどんどん多くなっていくんですね。
富井:あのときは、どういう女性を集めたんだっけ。
荒川:あのときは、ほとんど僕の友達なんですけど。でもあまり面識のない人も入ってて、ほとんどは日本人で、一人だけロシア系アメリカ人だったんですけど。イミグレーション・ステイタスみたいなのをシェアできる人達。
富井:私、あれを見たときに、結構ビックリしたけどね(笑)。
荒川:そうそう。そういえば、来てくれましたね。一回ね。
富井:一回ね。一回だけ来て下さいって言われて。ケニー・スチャクターのところでも、何だかよく分からないものだと思ったけれど。ちょこちょこ走り回っているから。君はいつも結構、ちょこちょこ走り回ってますよね。パフォーマンスの中で。
荒川:そうね。どのくらい走り回れるのかしら(笑)。
富井:ユーミンのときも、随分走り回ってたよね。
荒川:そうですね。あそこはまあ、小さかったですから。
富井:でもその後の、《河原温のエスペラント(On Kawara’s Esperanto)》(2004年)も結構、作って壊すみたいなとこありましたよね。
荒川:そうですね。
富井:あのときも、アート・スチューデント系の人が集まってますよね、確か。
荒川:そう。そう。
富井:だから、さっきから話を聞いてると、そういうイベントを企画したりとか、人呼んできたりとかっていうことで、コラボレーションして一緒に仕事をする、というのがひとつの方法論になってますよね。
荒川:うん。作品の作り方というか、プロセスが、アウトプットしながらつくる、という感じなんですね。だから、「プロデューシング・アズ・プロダクション」みたいな。で、ニューヨークだと、パフォーマンスの利点がイミディエイト(immediate、すぐ)に、どんどん作用してくっていうのがあって、大学在学中にどんどん学校の外でも活動が広がって行くんですね。2004年からビザの関係もあってバードの大学院に行くんですけど(Bard College)、それも平行しながら、どんどん作品を発表してくんですね。でもそのころのグループの作り方っていうのは、自分も関われるソーシャル・グループみたいなのをつくって、それで共同でつくっていくっていうのが多いんですね。
富井:《メトロポリス》(2005年)もそうだよね。
荒川:そう。ビザをとるのにダンス学校に9ヶ月行って、そこにいるフォーリン・スチューデントと一緒にやったりとか、
富井:あのダンスはバレエも入ってたよね。バレエとモダン・ダンスと両方でしたっけ?
荒川:まあ、なんちゃってバレエなんですけど(笑)。僕とかは、ビザをすごく安く確保できるから、バレエ学校に9ヶ月行くんですけど、今までバレエ経験なんてないのに、そういう…… フランスの踊り、西洋の踊りをビザをとるためにやるみたいなのが面白いな、と思って。
池上:確かに。
荒川:みんな、日本人とか、ラテン・アメリカ人とか、その……
池上:バレエの本場じゃないようなところの人が。
荒川:そうそう。そういう人達を集めて、パフォーマンスをPS1でやるんですけど、「グレーター・ニューヨーク」(2005 年)っていうエキシビションなんですけど、ニューヨークという都市のリプリゼンテーションと謳った展覧会。そこでやったパフォーマンスのモデルは村上三郎の紙を破るパフォーマンスなんですけど、いくつかのフレームを用意して、フレームにね、手塚治虫の『メトロポリス』っていう漫画を大きくプリントしたものを貼って貼って。ドイツ映画の「メトロポリス」の手塚治虫版なんですけど、そのいわゆるシンボリックな都市を、フォーリン・スチューデントが破り、壊す、みたいな。
池上:それがバレエの……
富井:ジュテみたいなかんじでねぇ。
池上:グラン・ジュテで、破る(笑)。
荒川:そう。それで、破った瞬間にそのフォームが崩れるみたいのが、ポイントのパフォーマンスなんですけどね。しかも、下が砂利道で。
池上:PS1だもんね。
富井:あれでも、結構広くてよかったよね。それとあと、みんなでダンスっていうか、ダンスの練習みたいな場面もあったんじゃなかった?
荒川:そうですね。美術館的な広さでは、初めてのパフォーマンスですね。いや、結構しゃべり続けるの、大変ですね。
富井:ちょっと休憩する?
(しばし休憩)
荒川:うちの近くにね、五浦(いづら)美術館があるんです。横山大観がある。
富井:五浦(いづら)、こないだ津波で流されたところね。日本にいるときに行ったりしてた?
荒川:美術を知ってから、行ったことはあります。
富井:じゃ、高校のときとか?
荒川:いやいや、現代美術知ってから。日本の前衛を知ってから、行ったことはあります。僕は作品を作るときに、「アイデンティフィケーション」と「ディスアイデンティフィケーション」というのがあって、いくつかカテゴリーみたいなのがあるんですね。で、そのカテゴリーが…… ちょっと考えてみますけど、まず、パフォーマンス・アート、あと日本…… ジャパン?
富井、池上:(笑)
荒川:あと、ゲイ、あとなんだろう……
池上:いま、日本とジャパンは別カテゴリーでいいんですか?
荒川:いやいや、同じです。あとノン・ウエスト、マイグレーション、そんな感じなのかな。あとまあ、アーティストというカテゴリーももしかしたらあるのかもしんないですけど。毎回パフォーマンスを作っていくので、今回はこういった入れ物について考えてみる、みたいなのがあって、次のパフォーマンスのときには別の物を考える、みたいな。「アイデンティティ=建築物」みたいな感じもあって、こういったいろんなカテゴリーをどんどん交互に解体したり、再構築していくことで、僕の作家としてのリプレゼンテーションを、なんていうか、曖昧っていうと、なんかネガティヴなんですけど……
富井:ゆるやかに。
荒川:そうですね。あんまりディファイン(define、定義)されないように、毎回あるカテゴリーから回避していく運動みたいなのをどんどん積み重ねようとしているところはあるんですね。それでもうすぐ10年になるんですけど(笑)。で、このインタヴューは終わり(笑)。
富井:でも今のカテゴリーだと、例えば、マイグレーションだとか、ノン・ウエストだとか、ジャパンだとかいうのはよく分かるんだけど、例えばゲイっていうのはどういう形で機能してるかっていうのが、あまり見えてこないんだけど。
荒川:最近やってないんですけど、数年前に《ライオット・ザ・バー(RIOT THE BAR)》(2005年)っていう……
富井:バードでやったやつね、最初。
荒川:日本からニューヨークに来たときに、オフィシャル・ゲイ・カルチャーっていうのがショックでもあったし、ちょっと呆れたりもしたんですよ、すごいコマーシャルで。僕の世代のゲイ・カルチャーっていうのは、コマーシャルなんですね。ポスト・エイズ・クライシスの後は。それに対してちょっとコメントするようなパフォーマンスをやるんですけど…… これはやっぱり、ひとつひとつ説明した方がいいんですか。
富井:うん、これでだいたい1時間なんですよね。君のパフォーマンスはあまり具体的に分からないことが多いから、もしも説明してもらえるんだったら、別に全部する必要はないのでいくつか君が重要だと思うものをね。《RIOT THE BAR》は、私はそういう意味では重要だなぁって思ってたので、もし説明してもらえたら。あと時間の余裕のある範囲で、君がしゃべれる形でいくつか作品選んでね、例えばミシガン大学でやった《M for Mavoists (and so on …)》(2010年)は池上さんも私も見てるので興味があるし、あるいは河原温とかもあるだろうし、それから最近の絵画を使った作品がありますよね。具体使ったものがあるし、それから、今テートに出てるやつも絵画を使った作品ですよね。
荒川:そうですね。あれは全部ビデオ作品ですけど。
富井:ビデオ作品。でも絵画を使ったパフォーマンスがもとになってるので、絵画との関わりみたいなこともあるだろうし、具体的にそういう作品を軸にしゃべってもらえると記録にもなる。それからパフォーマンスってその場にいても何が起こったのか分からないこともあるし、ペインティングと違って鑑賞して後からそれがまた分かるっていうものでもないから、パフォーマー、あるいはプロデューサーの立場で少ししゃべってもらうのも、この際いい機会じゃないかと思って。
荒川:そうですね。はい。まあ、男性的な歴史観とか、男性的なアーティストの…… コンストラクション? ちょっと英語混じりになっちゃいますけど。
富井、池上:全然大丈夫です。
荒川:アーティスト・アイデンティティをコンストラクトするってときに、男性的な考え方っていうより、そうではない考え方にアイデンティファイするんですけど、フェミニンだったり、クィアだったり、ライオット・バーっていうのも、基本的に一週間バーを経営するパフォーマンスで、フィジカルにストラクチャーはあるんですけど、バーを経営しつつ、最初のバージョンでは、利益があがるごとにバーのストラクチャーがどんどん大きくなっていくっていうシステムで。毎晩いろんなイベントがバードのMFAの人達によって開催されるんですけど、ソーシャルなイベントも起こりつつ、資本主義的なビジネス拡張みたいなのもアイロニカルに同時に進行するんですけど、最終的にそのバーを壊して、壊しつつ次の人にバーの権利を移すっていうパフォーマンスをするんです。そのパフォーマンスの中で、ひとつ考えたかったのが、1969年のゲイ市民権運動の発端のね、クリストファー・ストリートのライオット。それが今、すごく観光化されて、キャピタライズされて、空洞化してるんですけど、それはどうかっていうことで、その暴動に参加した参加者を一人呼んでね、その人の話を聞くっていうイベントをして、その人がトーマス・ラニガン・シュミット(Thomas Lanigan-Schmidt)っていうアーティストなんですけど、実際何があったのかっていうのを想像するパフォーマンスでもありました。
富井:一応解説しておくと、この暴動があったのはストーンウォールっていうバーなんですよね。(注:この事件は、1968年6月28日、ストーンウォール・インというゲイバーに警察が踏み込んだことから暴動が起こり、そこからゲイの権利獲得運動につながった。)
池上:あの有名な。
荒川:そう。ニューヨーク行ったとき、ニューヨークのゲイ・シーンの行動の早さみたいなのにビックリしたんですけど。無許可でデモを起こしたりとかね。
富井:アクト・アップがやってる時には、君はいなかったのね。その後やね。(注:ACT UPは、エイズ危機に際して政治的行動を取るために1987年に設立された団体。現在も活動を続ける。)
荒川:そう。最近になってようやく、そのころの映画とか制作されだして、僕らの世代はじかにエイズっていうのを知らないから、すごく興味がありますけどね。来年ニューヨークで作品を発表する機会があって、そのときにはゲイ的な何かをやりたいなぁと思ってるんですけど。
富井:そういうときに、どういう形でどういう人と一緒にコラボレーションするかっていうのも、作品の内容と関わって決まってくるわけ?
荒川:そうですね。外部からこういう人とやってくれ、みたいな話はほとんどないんですが、だいたいは知り合いとオーガニックに始まることが多いですね。例えば、《Grand Openings》(2005年)の場合は、キュレーターのジェイ・サンダース(Jay Sanders)が、僕と、ユタ・クータとエミリー・サンドブラッド(Emily Sandbrad)にパフォーマンスやってくれって頼むんですね。結果的に、三人別々にパフォーマンスやるより、みんなでつなぎ目がないような感じで、いろんなパフォーマンスが同時進行する形にしようってことで、グランド・オープニングスができる。キュレーターもそのパフォーマンスの一部として機能する、みたいな。
富井:アンソロジーの映画館でやったやつね。あれも実は、何が起こっているかよく分からなかったけど。
荒川:そう。
富井:ライアン・ホームバーグ(Ryan Holmberg、美術史家)も朗読したりしたでしょ、あのパフォーマンス。
荒川:そう。あのときは河原温の昔の映画批評を、ドイツ語と日本語と英語で読んでたのかな。
池上:何が起きているか観客には分からないこともあるんだけれど、やっている本人はある程度把握しているんですか。
荒川:そうです。一応狙いみたいなのはあるんですけど、パフォーマンスでは、何かメッセージを伝えるっていうよりは、ある状態を作り出すみたいなのがあって。グランド・オープニングスなんかは特に、いろんなテーマにそって、5人の違ったポジションを持っているアーティストがいろんな行為を提案したり、いろんなリファレンスを持ってきたりして、ある行為同士が作用するような場をつくる、みたいなのが多いんですけど。コミュニケーションの質が、シンボルを提示するっていうよりかは、状態をつくってその中に観客を巻き込むみたいなのが多いですね。
富井:例えば、アンソロジーでやったグランド・オープニングスは、本人の目から見ると成功していたの。
荒川:そうですね……
富井:こういう聞き方も変なんだけど。
池上:でも私もそれを聞きたいと思いますね。やっぱりある程度狙いがあって、今回はうまくいったな、というときと、今回はいまいちだったな、っていうときってあるんではないかなあと思って。
荒川:そうですね…… 最近ね、アムステルダムで、わりと簡単な気持ちでパフォーマンスをやったんですね(注:Japan Syndrome-Amsterdam versionのイベントの一部、《Yum Yum Vibe & Lost Love》、Studium Generale Rietveld Academie, Amsterdam, 2013)。それは、福島県産の切り干し大根をスープに入れてね、そのスープを観客に渡してね。
富井:(笑)。
荒川:まあ、食べるかどうか決めてくれ、みたいなかんじだったんですけど、アクティヴィストの連中が結構いて、すごく反対されたっていうか、僕のステージ・プレゼンスみたいなのがすごく批判を受けたんですね。僕のプレゼンスがすごくフレンドリーで、福島の食べものを食べてもいいっていうのをノーマライズするっていうのが問題だ、みたいなかんじでね。
富井:そのアクティヴィストの人っていうのは、アムステルダムの人、日本人じゃなくって?
荒川:日本人もいたんですけど、アメリカをベースにしてる日本人と、ロンドンベースのアーティストで。すごく批判を受けたんですけど、それはよかったのか悪かったのか、ちょっと分からないですね。
池上:パフォーマンスの出来として?
荒川:そうそう。
富井:だって普通、君自身のプレゼンスはそれほど強調されないパフォーマンスが多いわけですよね。このあいだのアート・フォーラムの記事でも書かれてるし、全体的には私もそうなんじゃないかなと思うけど(注:Cathrine Wood, “Out of Body,” Artforum 51, no. 6 (February 2013), pp. 172–181)。さっき言ってたしょっぱいお水を飲ませてっていうのは、君がその人たちとの関係をもとにしてやるわけだけど、切り干し大根のスープを食べてもらうっていうのも、ちょっとそれに似たところがあるんじゃないかなと思ってね。
荒川:ああ、そうかもしれないですね。スープは僕が作ってたんじゃなくて、ステファン・チェレプニン(Stefan Tcherepnin)とハナ・トーンナッド(Hanna Törnudd)っていう友人が作ってたんですけど。でも確かに、ケニー・スチャクターでやったときに、僕一人に視点があたってしまうというのは、あまり好ましくないっていうか、できれば黒子的な役割で、しかも同時に現代美術の共通認識みたいなのに関わるみたいな、荒川医っていうソロの名前と、複数の名前で自己を曖昧にしてくみたいな作業を同時にするみたいなのは興味がありますね。
池上:そういう構造の方が、なんとなくうまくいったのが多いかんじですか。
荒川:そう。その方がフリーというか、あまりキャリア・プレッシャーみたいなものを感じないですね。
富井:自分の名前でやると、キャリア・プレッシャーを感じます?
荒川:いやその、自分一人で何かやるっていうのは、パフォーマンスのタイミング的なものがあるんですね。たまにソロの個展をやってくれって言われるときがあるんですけど、それをやった方がいいときとやらない方がいいときみたいなのがあって……
富井:いま、福島の話がでたけども、もうひとつグループで言うと、ユナイテッド・ブラザーズ(UNITED BROTHERS)っていうのがあるでしょ、あれはご自分のお兄さんと直接関係したグルーピングの発想ですよね、最初は。
荒川:そうですね。原発の問題があったときに、ニューヨークでは僕、アートのインサイダーだと思うんですけど、ニューヨークでアートをやってる自分と福島の状況が乖離していて、それでウチの兄を誘ったというか。本人はアートのことはまったく知らなかったけど、刺激的なことを探してるんで。このグループを構成したのは、ニューヨークと福島を自分の中で同じ地平線にしたい、みたいなのがあって、それで始めたんです。ユナイテッド・ブラザーズは元々兄の税理関係のための会社の名前で、それをそのまま使ったんですね。
富井:そうだったの。あの、日焼けサロンのお店の名前ね?
荒川:いや。日焼けサロンを経営する会社の名前。
富井:日焼けサロンを使ったパフォーマンスもしてますよね。
荒川:そう。してます。
池上:それはどういうものですか。
荒川:ユナイテッド・ブラザーズをやるときは、ドイツのダス・インスティテュート(DAS INSTITUT)っていうデュオ作家とコラボレーションするのが常なんですけど。日本人の作家だけで福島のサブジェクトで何かやるっていうよりは、日本人以外もいれて外部の視点みたいなのもうまく取り入れてやりたいんですけど。そのときは、ダス・インスティテュートと一緒に日焼けマシーンを原発のモチーフとして捉えて、それを使ってインスタレーションを作ったりするんですけど。今ちょっと迷っているのが、今までのユナイテッド・ブラザーズのアウトプットが、結構フランボワイアント(flamboyant、派手)っていうか、わりとね、シリアスな風じゃないんですね。
富井:グリーン・ナフタリ(Greene Naftali Gallery)で見せてたビデオも、わりとフランボワイアントな感じよね。
荒川:そうですね。今のところね、ウチの兄の個性で、フランボワイアントな福島のイメージみたいなのが出てきてるんですけど、今後続けていくときに、この前のアクティヴィストの批判もちょっと考えてて、このままでいいのかなみたいなのもありますけどね。
池上:アクティヴィストの人達の批判のポイントが、私はまだちょっとピンときていないんですけど。
荒井:脱原発の人にすると、僕らが何をしようとしているのかよく分からないみたいなのがあって……
富井:福島でとれた、あるいは作った食べ物を食べますよ、安全ですよという立場もありますよね、日本の中で見てると。
荒川:安全だって言ってたっていうよりかは、現状どういう選択肢を持って生活してるのかっていうのと、あと、地元のいわき踊りっていうのを、パフォーマンスに取り入れたりしてるんですけど。その狙いがまだ、すごくはっきりしてるっていう訳じゃないんですね。僕の家族は被害もそんな大きいわけじゃないし。ただね、福島の中に居るけれど日常的にはあんまり危機感が感じられてないっていうある現実が僕としてはすごく重要で、それをなんとかプロダクティブにパフォーマンスとしてできないかなと思っているんですけど。だからチャリティー的なイベントとは違ってきちゃってて。そういう中で、日本の中ではどっちかって言うと社会的に役割がはっきりした原発とか震災のアートがどんどん出てきてて、日本の外では、原発そのものは忘れさられていくか、それか逆にどっちかって言うとすごく怖いものとして取り上げられるっていうのがあって……
富井:まあ、反原発みたいな。
荒川:そうそう、反原発でも状況をすごくペシミスティックなだけじゃくて、大げさにに見る見方があって、その両方がちょっとね、どうにかねぇ…… うまく判定できないでいる中で、今後どうしようかっていうのがあるんですね。
池上:じゃあその…… 何て言うんだろう、医くんがやったことの、そういう問題をリプリゼントしてるんだけど、どういう立場でリプリゼントしてるのかが曖昧な訳ですよね。その曖昧さが、アクティヴィストの人達には批判しないといけないものに見えちゃったっていうことなのかな。
荒川:そうかもしれない。ていうか、それを批判しないことには今度自分たちの立場が危うい、みたいな。
池上:どっちにも読めることをやったわけですよね。安全かも知れないし、危険かもしれないしっていう。彼らはやっぱり、その立場を取れないってことですよね。
荒川:もしかしたら、ユナイテッド・ブラザーズは、そういうのをもうちょっと、エステティックス(aesthetics、美学)の中でどんどん創造していって、原発に対するアートが単純にコミュニケーションとして消費されないようなやり方、みたいなのができたらいいんですけどね。それはまだ続いてるんですけど。スパリゾート・ハワイアンズっていうのが、いわきにあるんですけど。
池上:あのフラ・ガールで有名なとこだよね。
富井:フラダンス?
荒川:1960年代に、エネルギーが変わっていくときに、石炭のビジネスを今度温泉地に変えてフラ・ガールを作ろうみたいなことがあって。その人達とちょっとコラボレーションというか、コミュニケーションをしたりしてて、今。
池上:それは面白そうですね。
荒川:そう。で、こんな本とかあるんですけど。
富井:あ、なるほど。フラ(笑)。
荒川:うーん…… でも、インタヴューこんな感じでいいんですか(笑)。
富井:全然構わない(笑)。
池上:いいです。今のお話、とっても面白かった。
荒川:日本美術について語らなくていいんですか(笑)。
池上:いや、語っているよ。
富井:だから、君の考え方というか、どういう形でパフォーマンスに取り組んでるかっていうのがね。日本語であまりしゃべらないんじゃないんですか。
荒川:そうかもしれないですね。
富井:英語では、ほらたぶん、他の人とコラボレートしたりするときにしゃべらなきゃいけないんじゃないかと思うんだけど。
荒川:そうですね。
富井:日本語でしゃべることは、たぶんないんじゃないかと思から、そういう意味でも、一生懸命考えながら、しゃべっていただいてるみたいで。
荒川:そうですね。はい。
富井:こちらとしては、それが目的なので(笑)。あんまりスラスラしゃべられても困りますから(笑)。
荒川:あ、そうですか。
富井:日本美術のことについてしゃべりたかったら、マヴォイストのパフォーマンス(《M for Mavoists (and so on…)》)、ミシガン大学でやったやつなんかは、面白いんじゃないかと思いますけど。
池上:さっきちょっとお聞きしたかったのは、自分が黒子みたいな役にまわって、複数の人を使って状況をつくるみたいなもののほうがなんとなくうまくいくんじゃないかっていうことで。マヴォイストのあれは、まさにそういう感じのものだったのかなと思いつつ、観客としては私は非常にぽかんとしてしまって、目の前で何が起きているのかっていうのをなかなかその場に居ながらつかめなかったので……
荒川:あんまりね、観客という概念がなくて、観客も含めてある状況をつくる、みたいなのが多いんですよね。
池上:「私はどのような状況に参加させられているのでしょうか」、っていうのが分からないんですよ。
荒川:あ、そうそう。
池上:それが狙いですか?
荒川:あんまり、そこらへんは…… 親切にこういうことになりますからお願いしますというよりかは、巻き込んじゃうみたいなのが多いですね。パフォーマンス・アーティストが観客にサービスするっていうよりかは……
富井:私たちが、君にサービスしてたみたいな気がするんですけど(笑)。
池上:してた、してた(笑)。
荒川:あれはどっちもどっちな感じがあって。日本美術のためでもあるんだから、みたいな。
富井:あれはいろんな準備があったと思いますよ。ステージ設定としては、一応椅子があって、最初みんな座らしてもらってて、ただ、ポンポンは持たされたので、振ってたらいいのかと思って、受け身に。非常に最初は受け身に参加してたんですけどもね。
荒川:そうですね。
富井:そしたら急にある地点から、一緒に歩いて回るみたいな形で。
荒川:そう。日本美術のうねりを応援しなければいけなかったんですね。
富井:そうだったんですか(笑)。
池上:《M for Mavoists (and so on….)》をああいう構想にしようっていうのは、こういう話が来たから、こういう順番であの構想を考えていったっていうのを、ちょっと言ってもらっていいですか。
荒川:えーと、ミシガン大学?
池上:ですよね。
荒川:きっかけはもちろんこのイベントがポンジャ(注:ポンジャ現懇、Post-1945 Japanese Art Discussion Group、戦後日本美術に関するオンラインのディスカッション・グループ)のためのイベントだったからだと思うんです。観客の大部分は日本の近代美術史家だった。同時に(ミシガン大学の)ロゴっていうのがすごい強烈なんですね。アメフトのせいで。アメフトじゃない? アメフトでしたっけ?
富井、池上:アメフトですね。
荒川:アメフトのせいで。で、それを…… 日本美術って、ヴァナキュラー・カルチャーですか?
富井:ヴァナキュラーではないでしょう、「日本美術」っていうのはね。
荒川:まあ、でも、アメリカにしたら?
池上:まあ、そうですね。
富井:そうですね。そう。
荒川:で、我々が、こう、オキュパイするみたいなかんじですね。そのシンボルを。
池上:ふーん。乗っ取る。
荒川:そう。で、どうやって乗っ取るかって言ったときに、Mで始まるキーワードをどんどん探して……
富井:マヴォ、とかね。
荒川:そう。それを応援するツールみたいなのをどんどん用意して、とりあえず、訳が分かんらないけど、いる人みんなで応援しよう、みたいな。
池上:みんな、喜んで応援してましたね(笑)。
富井:あれ、随分いろんなMがありましたよね。
荒川:そうですね。
池上:でも、インド系の学生達が踊りをしてたりとか、ちょっと違う要素もあったよね。あれはどういうこと?
荒川:あれは、もともと大学内に存在する活動なんですけど、自分の中では、バングラっていう踊りも、ノン・ウエストというか、そこにポスト・コロニアルのスピリッツっていうか、アイデンティティ・ポリティクス的なものがあって。一緒に踊ってたモダン・ダンサーも、フェミニニティだったり、ちょっとそういった、あるセントラルなパワーに抵抗する存在やコンディションをどんどん入れていこうみたいな感じで、ああいう風になったんですね。毎回、状況を作るときに、その状況がそのカテゴリーだけで閉じないように、ある意味ちょっとオープンな形で状態を作り出すみたいな。パフォーマンスの前日にスチューデント・ダンス・フェスティバルにいったら、ああいう踊りの団体がいたんで、ちょっとお願いしますって言って。だから、グループの設定とか範囲は、わざとタイトにしない部分があるんですよね。
富井:その割には、ほら、小道具なんかはかなり念入りに考えてるでしょ? あの黒とオレンジとのポンポンをあれだけ用意するっていうのは、ある程度計画性がないと、一晩で用意できるもんじゃないんだろうし。あと……
池上:看板みたいなのを、みんな持ったりね。
富井:あのときの看板も、それなりに準備して、ポンジャからも随分アイデアを公募してたし。
荒川:たぶんね、人が出てくる部分はすごいオープンなんだと思う。人間が関わる部分は。
富井:だからそういう意味では、即興性強いところもありますよね。
荒川:うん。
富井:MoMA(The Museum of Modern Art)でやった《Grand Openings Return of the Blogs》のときにも、その朝来て、今日はこうしたいから、こうしてもらえますか、みたいなのもある訳ですよね?
荒川:そう。でも、そこまでにもう、ストラクチャーがあるんですよね。即興するのが可能なストラクチャーがあって、MoMAの場合は、巨大なカレンダーだったんですけど、そういうのがあるんです。最近ね、具体展で、アーティストが僕も入れて5人くらいで、(展覧会を見る)ツアーをつくるっていうのがあって(注:「Gutai: Splendid Playground」展、グッゲンハイム美術館、2013年2月15日~5月8日)。それも僕はね、その5人を選んだのは僕なんですけど、他の4人がどういう観点で具体展を見るかはあんまり知らなくて、ただ、勘を頼りに彼らを招待して、その連中といろんなアイデアを実行するというのをやりました。たぶん、河原温のときからなんですけど、《河原温のエスペラント》っていうパフォーマンスを2004年にやって、その頃からアーティストにしかできない美術史の関わり方っていうのがあって、しかもパフォーマンスの歴史っていうときに、パフォーマンスっていうそのものをやらないと分からないことみたいなのがあるような気がしてて。パフォーマンスに関して文で書くだけの人が、それを実際にやっていく。美術史家の人にも一緒にパフォーマンスに参加してもらうっていうのが、すごく、ある意味自分で勉強になったんですね。美術史家もアカデミックなしがらみとか、いろいろあるような気がしてて、傍目から見ると。でもそういうのにあまりとらわれない場所でやってもらうのも面白いなって思ったんですね。そういう視点の獲得というか。それで、美術史家の人と一緒にパフォーマンスをしてもらうっていうのがあるんですけど。どっちかって言うとその、この美術史家がこういうことやるのに興味がある、みたいな、自分が観客になるようなかんじでホストして、それを見る、みたいなモチベーションなんですけど。
池上:富井さんとやった白髪一夫の《泥に挑む》とかもそのような一例ですか(注:MoMAの《Grand Openings Return of the Blogs》で、富井が《泥に挑む》について講義しながら実際にパフォーマンスを再演したプログラム)。
荒川:そう。
富井:あれが最初始まったときはそういう風には私は感じていませんでしたが。
池上:どう感じていたんですか。
富井:あれは割と美術史家と一緒にお仕事する最初の頃? そうでもない?
荒川:どうだろう。
富井:ていうか、最初のノリはだって、水着で、泥の中に入る気分で来て下さいっていう、それだけのインヴィテーションだったからね。
荒川:なんかね、ポンジャに呼ばれて、最初はスクリーニング(映像作品の上映)とかするんですけど。
富井:オン・カワラの作品ね?
池上:イェール大学でやったやつですよね。
荒川:そう。それでちょっと物足りなかったんですね。で、どうせポンジャで、観客もどうせポンジャ関係だし……
池上:どうせ(笑)。
富井:知ってるわけだし。
荒川:そうそう。もうちょっとなんかこう、参加型というか、アクティヴなプレゼンをって考えたら、マヴォイストだったんですけど。マヴォイストのつながりの後、富井さんがMoMAで白髪をやったのはなんででしたっけね。
富井:あれはなんとなく、この日は来れるの? はい、来れます。じゃあこういうのしませんか、って言って、なんか泥は一応考えてるからみたいな感じで、じゃあどういう風にするんだろうねって、Eメールで随分やりとりがあったよね。
荒川:白髪さんにすごく、なんかマッチョっていう批判があって、《Grand Openings Return of the Blogs》で二週間パフォーマンスやったときに、MoMAっていう巨大な機械の中にも、強烈な女性の(存在があった)…… 女性のキュレーターがすごく多くて、キュレーター・トークみたいなのもやったりして、そういう人が彼女たちなりのMoMAの思いみたいなのをどんどんしゃべったりするんですけど。それに関係するような感じで、富井さんは白髪とかのことをずっと書いてるけど、実際に自分の体で白髪を体現すると、ちょっとそこに違った何かがあるんじゃないかっていうのがあったのかもしれないですね。
富井:あったよね。って言うのも変だけど。
荒川:ミン(注:Ming Tiampo、具体研究者で、具体展のキュレーションを手がけた)とかね、あと(手塚)美和子さん(注:Japan Society Galleryのディレクター)とかもそうなんですけど。西澤晴美さん(注:神奈川県立近代美術館学芸員)とか。よく自分も含めてアーティストが昔の作品をリファランスして何かやるけれども、今回はプロで研究している人達がいるんだし、「任せよう」みたいな(笑)。
池上:じゃ、次は(篠原有司男の)ボクシング・ペインティングやらなきゃ。
富井:そうやね、随分見てるから(笑)。いやでもね、あれは非常に面白い体験でね、私も。おかげさまで。
荒川:思ったよりね、それもサプライズでした。
富井:うん?
荒川:いやその、富井さん自身がすごく…… 感動されてしまった(笑)。
富井:(パフォーマンスを)一生懸命やったから?
荒川:いやいや、その後も、いろいろご自分で書いて、インターナライズされて、すごく面白かったです、あれは。(注:このパフォーマンスに関する富井のテキストは、以下のURLに掲載されている。http://www.aaa-a.org/2011/09/06/i-challenged-mud-after/)
富井:だからそれは、ああいう機会でもないと。普通に考えると、パフォーマンスの再演なんていうのはどうしてもやっぱり、アーティストにしてもらおうっていうことが多くて。
荒川:そうそう。そこでね、ゴールとしては、コラボレーションした人も、自分の立ち位置でなんかこうアウトプットするとか……
池上:何かそこで感じたり学べたりするような。
荒川:そうそう。自分では手に負えないところで何か起こってるっていうのが、すごくオープンでいいんですよ。自分でやったことに責任を持って、結果がそこにあるみたいなのは、あんまり興味ないっていうか、さっきも言ったように、黒子的にステージを構成する手伝いをして、結果がそれぞれ残るみたいな。
池上:そういう意味言うと、マヴォイストのあれは割と納得がいく感じでしたか。
荒川:そうですね。ちょっとあれはね、ポンジャ自体をそのまんま踊りにしたらああいうものなのかな、みたいな(笑)。
三人:(爆笑)。
富井:いやでも、ポンジャ自体は基本的には、日本の現代美術っていうか戦後美術を研究している人の集まりだから……
池上:応援していますからね。
富井:そう。
池上:応援団だから。
富井:そういう意味では、日本の現代美術の応援団みたいなものなので。でも、実際に応援するって言っても、普通私たちのアウトレットっていうのは、論文書くとか、研究発表するとかで、別に実際に応援団するわけじゃないからね。
荒川:そうですね。
富井:学ラン着てやるわけじゃないからさ。あれは別に学ランは着てなかったけど、ポンポン振りながら、ほとんどそのノリだった。
荒川:ちょっとまあ、なんかこう自分を応援するみたいな部分もあって(笑)。
富井:そうそう。だって応援団って、基本的には自分たちの学校とか自分たちのチームを応援してるということは、アイデンティティとしては共同体の応援になってるわけですよね。そういう意味ではポンジャも日本の現代美術の一部だから。(注:このパフォーマンスは、2010年にミシガン大学付属美術館で開催された「Art, Anti-Art, Non-Art」展に関連してポンジャ現懇と共同企画された、戦後日本美術史の国際シンポジウムの連携プログラムだった)。
荒川:そう。あと、あえてああいう風に形にするのも、ちょっとなんかこう、厄落としみたいな感じでね。
池上:うん。
荒川:なんかちょっと面白かったですけどね。でも、達成度と言ったら、まあ、そうですね、他に何かあると思いますけどね。でも、その作品はその作品で終わりじゃなくて、つながっていくんですね。次の作品に。そうやってどんどんこういうスペースを構築していくのが結構重要なんですね。
富井:そうすると例えば、具体のペインティングを使ったパフォーマンスがあるよね(注:《See Weeds》、Musée Les Abattoirs, Toulouse, 2011年)。あれヨーロッパでやったやつだったっけ。
荒川:そう。フランスで。
富井:うん、フランスでね。だからああいう風にもつながっているわけ。あのパフォーマンス、ちょっと説明してもらえる?
荒川:あれは、インスタレーションとパフォーマンスがあって、インスタレーションはあまりよくなかったんですよ、今思えば。
富井:それも具体のペインティングを使ったインスタレーション?
荒川:それは具体のペインティングと同じサイズのアクリルの容器を用意して、その中に寒天を使って、固まらないペインティングの物体みたいなのをつくったんですけど。腐ってしまったし、あんまりいまいちで、結果として弱かったですけど。でも、それとは別に、たまたまね、具体のコレクションを実際に使っていいっていう許可が下りて、ストラクチャーもちゃんと作ってくれて……
富井:そうですね。あれ、白木の木枠の台みたいなのがあって、その上にペイティングかけたんですか。
荒川:そうです。その上にスクリューかなんかして。あれはイメージとしてね、すごく強くて。
富井:そうですね。
荒川:パフォーマンス自体も、具体の資料集を基に、具体のアーティスト・トークを使って、それをペインティングそのものにしゃべらせるみたいなものだったんですけど。
池上:これって2011年のパリでやったやつですか。
荒川:《See Weeds》(2011年)。
池上:じゃあ、トゥールーズの方ですか。
荒川:そうそう。それで、でも本当は、具体に関わるっていうのは、ラブ・アンド・ヘイトみたいな関係があって、ちょっとなんか具体ってすごい…… あれ、なんだったかな…… 最近ね、あのイメージがちょっと先行してしまって、
富井:あのパフォーマンスの……
荒川:いや。日本美術を代表する具体となんかやる、みたいな。ちょっとそれは…… また解体していかないとだめだなぁって感じはするんですけど。
富井:あれ、写真映りいいですよね。
荒川:そう。僕、コンポーザー、特にサージ・チェレプニン(Sergei Tcherepnin)と、よくコラボレーションするんですけど、音楽…… 音っていう素材を視覚化したり、物質として扱うみたいなのにすごい興味があって。それはパフォーマンス・アーティストが、ギャラリーとか美術館のシステムの中でやっていくときに、すごく共通の問題が多くて、そういった考えでペインティングをパフォーマンスという状態に持って行くっていう考えが、すごい面白いんですけど。そういった意味でね、具体だけじゃなくて、ほんとはね実験工房とか、もっと関係できたらなって思うんですけど。ちょっとうまく言えないんですけどね。
富井:でも実験工房だったら、あまり作品がないっていうか。
荒川:でもね、実験工房は、逆にそんなに知らない部分が多くて、アーティストとして実験工房に関わるときに、自分の中ではファンタジーとしてうまく投影できるなぁ、みたいな部分があって。それは美術史家にはたぶんそういうことはできないんですけど。ただ、パフォーマンス・アートがここ10年くらいですごくインスティテューショナライズされてて、そういうときに、過去のモデルを見ると、実験工房の美術と音楽みたいなのがすごく有効なモデルに見えたんですよね。ちょっと飛ぶんですけど、やっぱり過去のパフォーマンスっていうのをうまく自分の中でとらえておきたくて、そういった意味で、日本の過去のパフォーマンスをどんどん再定義してく、みたいなのがありますね。
富井:その場合、他の国のパフォーマンスなんかには興味がないんですか。
荒川:えっと…… どうなんでしょうね。ある程度はあるのかもしれない。さっきも言ったストーンウォールのライオットなんかも、パフォーマンスとして見ている。でもなんか、定義が難しいですね。
富井:そういうときに、例えばコラボレーションしてると、今度ヴェニスでやるサージともう一人、グルジアのアーティストの人ですか、彼らは自分たちの文化を持ってくるわけですよね。そうすると、君がそれにインターアクトできるっていうコンテクストができますよね。
荒川:うん。グルジア共和国のばあいは、全然共通点がないところが、最初すごく自由だったんですね。文脈を考えて、作品を作るみたいな考え方にほころびみたいなのができて、グルジア共和国には全然関係ないけど、そこと関わっていくっていうのも逆説的にすごくよかったんですね。ただ、コラボレーションしているサージ・チェレプニンっていう人は、おじいちゃんがね、グルジア共和国の音楽の歴史にすごい関わってて。彼のおじいちゃんは日本にも1930年代に来てて、東京藝大の音楽家の伊福部昭を発見したとか、日本の現代音楽のある一派にもすごい関わってるんですね。そういった何か歴史の流れを認識するみたいなのは、すごくやってて面白みはあるんですけど。
富井:何かもう少し聞いておきたいことある? 池上さん。
池上:そうですね。じゃあね、作品に対する具体的な質問ではないんですけど、年齢的にはまだまだ若手の作家さんという扱いになると思うんだけど、非常にいろんなところに呼ばれて、『アート・フォーラム』で記事も出たりして、すごく活躍してると思うのですが、自分ではそういう状況をどういう風に見てるのかなっていうのがちょっと聞きたかったんですけども。
荒川:あー。
池上:本人自然体にされてるような感じでお話も聞いてるんだけど、レジュメを見るとすごいですよね。自分では、こういう風にトントントンときちゃったのをどういう風に見てますか。
荒川:僕ね、すごい文脈という考えが強くて…… 自分がどこから来て、どういう関係でこういうことが起こって、ということを結構把握してるんですね。で、ニューヨークのアートの、さっきも言ったように、インサイダーっていう部分がすごくあって、そういうインサイダーの定義みたいなのを自分で把握した上で、どういう風にそこから回避するかみたいな、いつもそのバランスを考えていて。2008年くらいから、日本のアート界でわりと仕事するようになってくるんですけど、2008年に日本で活動したときに日本の文脈みたいなのが全然分からなくて、何していいか分かんなかったんですね。で、ユーミンのニューヨークでやったパフォーマンスの別バージョンみたいなのをとりあえずやるんですけど、そのあたりからギャラリーもついて日本でも個人的な人を知るようになって、他の作家の人達と知り合ったり。例えば、木村友紀ちゃんっていう作家がいて、彼女も……
池上:写真家の方ですよね。
荒川:写真をつかったインスタレーションなんですけど、彼女も京芸…… 京芸でしたっけ? ダムタイプは?
富井:京芸(注:京都市立芸術大学)。
荒川:彼女が部分的にも体験したダムタイプの文脈から、ガールズ・フォトみたいな文脈とかいろいろあって、すごく日本の中にも文脈みたいなのが存在してるんだなっていうのを、身体的にね、感じられるようになってきてて。で、他の人ともコラボレーションするんですけど、南川史門君という作家がいて、ペインターなんですけど、彼はBゼミとか岡﨑乾二郎とかのサークルから出てきたりとかしてて、それは大分前の話だけども、そういう日本の文脈をうまく把握した上で関われるようになってきてるんですね。そういう考え方で見ると、そんなに…… ちょっと質問の意味が分かんなくなっちゃってるんですけど。
池上:単純に、ぱっと普通にみたら成功しているように見えるわけで、自分ではそれをどういう風に感じてるのかなっていう、割と単純な質問のつもりなんですが。
荒川:そう。でもね、結構ね…… 特に…… 割とね…… あの…… おかげさまで(笑)。
三人:(爆笑)。
富井:なんや、えらいとこにいってしまって。
荒川:富井さんは大学の頃から作品を見てますからね。でも、あんまりね、商業的に儲かってるわけじゃないし。
池上:まあ、パフォーマンスだからね。
荒川:うん。そんなに大したことじゃないと思うんですけどね。なんかニューヨークでずっと、特に『アート・フォーラム』とかはニューヨークの雑誌だし、ここ数十年は、雑誌の発言力ももう強いわけではない。結構抵抗力がついてきてて。『アート・フォーラム』に10頁書いてもらったっていうのは、すごいうれしいけれども、それで何かが突然変わるわけじゃないという状況も結構あって。ニューヨークで土地勘を持ってると、どんどんついてくるんですね。だからあんまりその、なにかこう自分のやり方じゃないようにならないように、アーティストのパフォーマンスっていう概念はすごくいつも気にしてますね。
富井:いや、今聞いてて面白かったのは、日本での自分の位置をそういう形で割と客観的に位置づけてるっていうか、見てるっていうのは面白いなと思って。
荒川:日本でのどの位置ですか。僕の?
富井:その、人間関係とか、文脈を自分の体でだんだん感じられるようになってきたみたいな言い方があって。それって、このあいだもほら、これは聞いた話だけど、《Concrete Escort I. II. III. IV.》(2013年)をグッゲンハイムでやったときに、1回目と2回目と順番変わったんだってね。2回目は私たちも呼ばれて、新聞紙の中で《泥に挑む》やったりとか。ああいう、状況を見ながら判断していくっていうのが、さっきもストラクチャーがあるからその中で即興できるって言ってたけれど、それと同じ感覚で、今あなたが日本の状況の中で自分の位置を見てるなって思ってね。別に日本で仕事する自体がパフォーマンスって言ってる訳じゃないんだけど、今日聞いてた話の中では、最初から割とモチーフとしてオーガナイザーがあって。状況の中で仕事をしながら、なおかつ作品として状況を作るみたいなね。
荒川:そうですね。結構、広範囲で何かやるっていうよりかは、割とその、ある文脈を理解して、その中で関わりたいなっていうのがあって、その方がオートノミー(autonomy、自律性)、自分にとってのオートノミーをキープしやすい、みたいなのがあるんですね。で、最近美術館でパフォーマンスが多いんですけど、テートなんかは客がすごくパブリックっていうか、もう、スーパーマーケットみたいなかんじで。
富井・池上:(笑)
荒川:あんまり、ニューヨークのどういう文脈でやってきたかとか、関係がないんですね、観客には。そういう場所でね、MoMAもそうなんですけど、どうやって自分の文脈みたいなのを続けていくかということもそうだし、パブリックな作品の関わり方みたいなのも、ちょっと考えなきゃいけないっていう感じですけどね。だから、ポンジャにはポンジャ的な作品の作り方があったけど、今度それよりもっと開かれた場所でやったときにどうバランスとるか、みたいな。それはちょっと福島の状況とニューヨークの状況みたいなものと似てるんですけど。パフォーマンスはね、小さいコミュニティーだったら、まだいろいろ立ち回れるんですけどね。これからどういう風にやっていくかっていうのは。
池上:ですよね。本当にパブリック性が強くなると、観客を完全に置き去りにしたり、完全に巻き込んだりすることもなかなか難しくなっていくのかなっていう。
荒川:そう。なんかこう、「インターナショナル・アーティスト」みたいなカテゴリーがあったとして、ちょっとなんか、実際にはどういうことだろうって思いますけどね。なんか例えば、リクリット・ティラヴァーニャ(Rirkrit Tiravanija)とか、全然知らない場所で展示をやるじゃないですか。でも有名で、それで何かやるけれども、はたしてそれは…… うまく、自分にとって意味のあることをやりつつも、パフォーマンスという(形でそれをやる)のが、常にこう、クエスチョン・マイセルフですけどね。
池上:それはよく分かります。もう一つ、全然関係ない即物的な質問なんですけど、やっぱり、パフォーマンスは今おっしゃったように、なかなか分かりやすい形で売れる形態のものではないわけで、生活というのはどうされているのですか。
荒川:そうですね。僕の場合はね、今、パフォーマンスをやらない人とコラボレーションするのが多いんですね。そんな頻繁じゃないですけど、作品としてオブジェクトがある場合があって、それがたまに売れますね。で、パフォーマンスをやるときに、だいたい3000ドルくらいがすごくいい方なんですね。1回のパフォーマンスで。
富井・池上:それは、パフォーマンス・フィー?
荒川:そう。最近、5000ドルでパフォーマンスをやったことがあって、それはちょっと、すごくいいんですけど。
富井:その場合、3000ドルでも5000ドルでもどちらでもいいんですけど、その場合、いろいろ小道具とか、機材とか……
池上:経費込みですか。
荒川:全然別で。
富井:それはやっぱり、美術館とかアートセンターとかが用意してくれる。
荒川:横トリは3000ドルで、予算が200万くらいだった。
池上:へえ。
富井:全体の?
荒川:そう。
池上:それは、結構いいですね。
富井:その場合、ユーミン、じゃなくて松任谷さんとか、ギャラをお支払いできたりするわけ。
荒川:えーと、松任谷さんにはもちろん払ってないですけど。インタヴューなんで。
富井:ああ、そっか。
荒川:でもね、音楽を使った著作権を10万円くらい払ったり、ちょっと劇団みたいなかんじでコラボレーターを接待したり、いろいろですね。でもね、1ヶ月に一つパフォーマンスやって3000ドルだといいんですけど、そんなに…… たぶん1ヶ月に新作を一つやるのは大変なんですね。
池上:うん。
荒川:いま、そういう仕事の受入れをちょっと整理してるんですけど。ちょっと、あんまり持続性や将来性がないっていうか、いまのやり方だと多分、あんまり長くやれないなっていうのがあって。ギャラリーのシステムもいいんですけど、ちょっとどうしようとか思いますけどね。
富井:このあいだタカ・イシイがアートフェアで持ってきてた作品がありますよね。音の出る(注:サージ・チェレプニンとの共作、《Looking at Listening》、2011年)。
池上:東京のタカ・イシイで見ました。
富井:ああいうのは、パフォーマンスも使ったけれど、ああいうオブジェクトとして自立した作品になるわけでしょ。
荒川:そう。あれ結構売れたんですけど、まあ、あれはでも、プロジェクトごとに違った作品を作ってて。でも、オーラル・ヒストリーした人で、アメリカに住んでる美術家でね、60歳以降の保険とかどうしてんだろ?
富井:60歳以降というか、65歳以上だとメディケア(注:連邦政府による高齢者健康保険)があるでしょ?
荒川:じゃあそれまでずっと、税金を払ってて。でも、メディケアってそんなにもらえないですよね?
富井:それは、いろいろあると思うけど、みなさんアルバイトしてらしたりとか、例えば画家の人でも、ペインティングが売れるから生活できてるかどうかというと、まあそれぞれで。
荒川:今の生活水準で、たまに作品が売れて、アーティスト・フィーをもらえて、生活はできるんですけど、貯金ができないですね。今度引っ越そうと思ってるんですけど、もうちょっと上の生活って言うと、なかなか変えられないんですよね。そういう中で、ニューヨークの画家の友達はアパート買ったりしてるんですよ。
富井:ブツは売れるからね。
荒川:だからパフォーマンスはそんなに、お金はそんなにもらえない、キャピタル(capital、資産)はうまくできないっていうのがあるから。社会的なキャピタルは別だけど。だから、僕の世代のパフォーマンス・アーティストのモデルみたいなのを自分なりに考えたいですけどね。コラボレーションでオブジェクトを作って、みたいなのは、今のところサポートにはなってるんですけど。でも、パフォーマンスとして、忙しいときは海外やいろんな場所に3週間にいっぺん行ってたんですね。それだと教職もとれないし、ちょっと難しいですよね。(しばし沈黙の後、池上に)日本の中では、ペインターでも結構大変ですか。
池上:うーん、人によると思いますが、基本は大変だと思いますけどね。特に30代半ばから40歳にかけては、割とみなさん正念場じゃないのかなという印象を私は持っています。
富井:だからブツのマーケットとしては、アメリカやヨーロッパの方が確立しているので、それこそ君が言うようにニューヨークの画家の友達がアパート買えるぐらいのところにはいくだろうと思う。日本でそれが出来るかどうかっていうのは、ちょっと私には分からないですけどね。でも確かに、アメリカでは特に、ペインティングしている人たちは、生活はある時期に軌道にのるみたいですね。
池上:あと、そういうペインターのアシスタントをしているだけで生活はできるっていう人もいますよね。自分はまた別の表現活動をしてるんだけど。
富井:だから、エコシステムとしては、一応、ペインティングとあとスカルプチャー、ブツ系は一応回ってるみたいよね。
荒川:この前ね、シモーヌ・フォルティ(Simone Forti)と一緒にパフォーマンスをして、70歳以降もパフォーマンスできるヴィジョンみたいなのができたんですね。
富井、池上:うん。(笑)
荒川:彼女はもちろん、その毎日体づくりみたいなのをすごくしてると思うんですけど。
富井:彼女は自分でパフォーマンスする人でしょ? 君のようにオーガナイズしてっていうんではなくて、彼女の体の動きとか存在感というのがひとつの作品になっている人ですよね。
荒川:そう。でも、彼女は、ずっとパフォーマンスをやり続けていくのに、そういう整備をいろいろしてるんです。僕も見習いたい。
池上:自分なりに(笑)
荒川:ちょっとずつなんです。今年はグリーンカードを出して。あのね、《Paris & Wizard》(2013年)っていう作品は、結構アプローチとしては新しかったんですよ、自分の中では。
富井:うん、あれは新しいでしょ。
池上:じゃあ、その話を聞いて締めくくりにしましょう。今年MoMAでやった《Paris & Wizard》ですね。
荒川:《Paris & Wizard》は、なんかちょっと制約のない演劇団体みたいな感じで、あのモデルはまたやりたいんですけど。
富井:あれだと、割と何回も出来るし。
池上:私は見てないんで、ちょっと説明していただけると。
荒川:基本はミュージカルなんですけど、バーバラ・ロンドン(Barbara London)が日本を始めて訪れたときのエピソードをいろいろ調べて。一応、登場人物は初期ビデオ・アーティストなんですね、日本の。(注:バーバラ・ロンドンはニューヨーク近代美術館の元キュレーター。メディアとパフォーマンス部門に1971年から2013年まで務め、日本と中国のビデオ・アーティストを積極的にアメリカに紹介した。)
富井:だから、出光真子さんとか、中谷芙二子さん、あともう一人どなただったっけ。
荒川:えーと、シゲ……
富井:久保田さん。久保田成子さん。
池上:なぜか女性が。
富井:そう、女性陣で。
荒川:僕は一応、山口勝弘さんの役でした。で、曲作りから始まるんですけど。一応ね、リサーチはある程度してて、曲作りを2、3週間でして。
富井:それは、サージと?
荒川:あ、いや、ステファンですね。サージのお兄ちゃんなんですけど。歌詞を考えて、メロディーをステファンと一緒に作って。2週間で曲を作って、3週間めでもう、レコーディングしちゃうんです。
池上:すごいスピード(笑)。
荒川:すごいスピードなんですけど、僕的には結構、時間かけてるんですよ。ミュージカルは、すごい短い時間でできちゃうっていうこと。3週間めにキャストの人たちでレコーディングをして、本番は歌入れのレコーディングを口パクで歌うんですけど、ちゃんとその口パクのプロンプターも設置されてて、観客はそれが見えたりするんですけど。だから別の場所に行ったときもそのプロンプターがあれば、基本的に口パクでまた同じパフォーマンスができるんです。今回は照明も入れて、シアターっていう中で、ちゃんとやれたんですけど。演劇に近いんです、形態としては。でもすごいテンポラリーなグループで、5週間くらいでできたから、そんな感じで、もうちょっと時間をかけたミュージカルみたいなのをまたやりたいんですけど。
池上:それは面白そうですね。
富井:何か赤テントとか、そういう雰囲気がありましたよね。気分的に言うとね。
荒川:そうですね。まあどっちかっていうと、ウースター・グループ(注:Wooster Group。舞台、ダンス、メディアの作品を作る1970年代発足の劇団)とか、ニューヨーク系のシアターとかの影響とか大きいんですけど。でもその中で、美術史をミュージカルにするみたいなのがすごく楽しかったんです。
池上:それはいかにも面白そうです。
富井:それとやっぱり、見てる方からすると、何回か反復できるから、あれ何べんも見た人もきっといるでしょ?
荒川:そうですね。
富井:一応ストラクチャーがはっきり決まってるので、座って見ていて分かりやすいというか、鑑賞性は高かったよね。
荒川:パフォーマンスをギャラリー・スペースでやっても、逆にある程度フォーマットが出てきちゃう時がある。それをあえて今度ああいうシアターの中でちょっとやるっていうのは、前からちょっとやりたいというか、ファンタジーとしてあったんですけど。だから出来たのはよかったです。あれはね、予算がいくらだったろう、忘れた。20万、いや、20万じゃない(笑)。
富井:2万ドルくらい?
荒川:200万(円)くらいかな。
富井:あれはちょっと意外性が強くて面白かった。
荒川:自分の中で新鮮で…… そう、よかった。
富井:あれだと割と再演がきくでしょ。
荒川:再演したいんですよ。
池上:それがこれからの新しい展開につながっていきそうな感じですね。
荒川:そうですね。
富井:あれだと、ちゃんとビデオに撮れば、それで一つの作品になるでしょ?
荒川:そう。今ね、ちょっと編集してるんですよ。でね、MoMAが買ってくれるかも。(注:結果的に、MoMAコレクションへの寄贈が決定した。)
富井:だからそういう形にも持って行けると思うのよね。あれは結構ストラクチャーがはっきりしてるから。
荒川:ちょっと見てみます?
池上:あ、見たいです。じゃあここで一回終わらせていただいて。
池上・富井:ありがとうございました。