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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

ジョージ・コーチ オーラル・ヒストリー 第2回

2010年10月16日

新宿三丁目ルノワールにて

インタヴュアー:帆足亜紀、住友文彦

書き起こし:甲斐義明

公開日:2023年3月20日

インタビュー風景の写真

住友:10月16日、ジョージ・コーチさんのインタビュー、第二回目です。前回、メディア・リンク・システムの話を聞いていて、そこでコンピューター・テクノロジー・グループ(CTG)の槌谷治紀さんと、出会ったころの話を聞いていったんですね。それが1993年まででした。そのときACCの仕事と一部オーバーラップしていると聞いていたので、今日はACCのことをメインに話を聞いて行くということでいいですか?

コーチ:はい、いいです。

住友:ACCのディレクターの仕事は1991年からですか。

コーチ:1992年だと思います。What does it say in my resumé?

住友:1991年になっています。

コーチ:Should be “Representative” from 1992. It’s all vague now.

住友:わかりました。1991年には1年間準備の期間があったということですか。

コーチ:準備よりも、ロサンゼルスから引越して、自分でオフィスを立ち上げようとしてたんですね。Performing Arts ManagementをするWorld Windowsという会社。だけどそれがあんまりうまく行かなくて。というのは、自分でもそういうビジネスに向いてなかったというのがわかったんですね。だから小さなプロジェクトをconsultant basisでやってて、それで当時、ACCの前のディレクター、リチャード・エマート(Richard Emmert)という人がいたんですね。彼は日本ではお能の専門家だった。リック・エマー。彼も随分英語でお能をやったり。He’s a Noh theater specialist.彼がディレクターを辞めることになって、たまたまニューヨークのラルフ・サミュエルソンが、私がロサンゼルスから日本に移動したっていうのを知っていたんですよ。当時はまだ、ラルフ・サミュエルソンはAssociate directorだったんですよ。Restructuringが少しあって、Richard Emmertの仕事ってのはそんなに私にとって面白くなかったんで、一応断ったんですよ。

住友:それはどういう理由で。

コーチ:No initiative taken.ただアプリケーションを待つみたいな感じで。Normal program activity.

住友:それまでラルフもよく知っているし、ACCの方もよく知っていたと思うんですけど、あまりサポートの仕方が良いと思ってなかったのですか。

コーチ:いやサポートよりも、仕事自体がね、私にとってあんまり向いてないと思った。It wasn’t very active work, rather somewhat passive work. Waiting applications to come and for Americans to come to Japan. まあその時のプログラムによるんですけどね。I don’t know, it wasn’t so interesting.

住友:プログラムの内容については何か思ったことあります?

コーチ:It was a very strong fellowship program. Good artists were selected .私も当時はperforming artsの方を長くやっていて、日本の現代美術はそれほどフォローしてなかったんですね。それよりも、仕事の内容自体が時間的にも、内容的にもその時点ではあんまり興味なかったんですよ。それで断ったんですね。それで、その間に他の人に仕事がいって、アズビー・ブラウン。アズビーさんも東大で建築のdegreeをやっていた最中だったんですね。で、彼の前のアシスタントで女性の方で、ヒトミ・ワダって人がいまして、半々でオフィスをかかえていたような感じだったんですよ。これが何ヶ月か続いて、実際的にはあまりうまく行かなかったんですね。まあいろんな性格の問題もあったかと思うんですけど。そこで私もACCのこと興味持って、ラルフさんからも違うような形で何かやりましょうという話がきて、それでfundraisingをやろうというアイデアを提案したんですね。日本ではバブルが崩壊していた頃だったんだけど、東南アジアで日本企業はずいぶん活発に動いていたから、ACCとの関係で日本企業が東南アジアで活動しているところに面白いプログラムのアイデアを提案できないかな、ということを提案したんですね。正式なプロポーザルを出して何ヶ月か経って、まあ返事も来たんだけど、ACCも日本のプログラムではfundraisingはそんなにやってなかったんです。セゾン・グループのサポートで安定して、そんなに必要もなかったし、まあアイデアとしては一応受け取ってもらったんだけど。
何ヶ月間経ったか覚えてないけれど、半年か8ヶ月間くらい経って、ニューヨークのstructuringが変わったわけ、これは何かっていうと、ACCとロックフェラー兄弟基金というのが、アフィリエーションができたんですね。これはどういうことかというと、要するに、ACCプログラム自体がアメリカの国内で資金が足りなかったんです。それでRockefeller Brothers Fund、RBFという組織は、アジアのプログラムではなくて、環境問題、セキュリティー、New York City。エナジー。その4つぐらいの大きいところでプログラムを抱えていたんですね。まあ文化活動とかアーツとかそういうところはなかったし、ACCの理事の何人かはそこにも理事として立ち会っていたわけです。そこでRBFのほうがこのプログラムを受け取って、それで年間40万ドルとか、かなり大きい資金を出して、オフィスも一緒にしてもらってコストを下げて、ダブっているスタッフを減らしてできないかな、ということで変わったわけ。そこで、ラルフ・サミュエルソンがディレクターになったわけね。その前にもう一つ大きなことがあったのは、ACCのディレクターで、理事でもあったリチャード・ラニエ(Richard Lanier)がTrust for Mutual Understandingという財団のディレクターになった。それも設立されたわけ。I don’t remember the founding date(注:1984年設立). Richard Lanier was also beginning to change into another position. ACC needed more funds and so a consolidation and affiliation with RBF.

帆足:They needed to do some financial restructuring and therefore organizational restructuring?

コーチ:That’s right. 一番メインの理由は経済的なものであったわけですね。Reduce costs.

住友:ニューヨークでそういうことが起きたことと、日本が不況になってきたことで、fundraising をしなきゃいけないってふうに考えたのは、日本の中でもsustainableなシステムを作るべきだ、っていうふうに、つまりまだ日本の社会の中では、不況といってもまだ1992年くらいの時には、まだそこまで困ってなかった。でもそのときにfundraising しようと思ったのは、今後、経済的な波によって変化してしまうんじゃなくて、継続的な支援ができるようなほうがいいのではないか、ということも考えたということですか。

コーチ: From the beginning, Saison funding was the only support we received in Japan. So the public impression was maybe that we were a kind of Saison Foundation. But we—or I—started (seeking) a little more independence. We were a separate entity (from Saison), so we were going to raise money from outside. It wasn’t just Mr.Tsutsumi…… Mr. Tsutsumi was the first Asian trustee of ACC and the first major Asian donor. Around that time the ACC in New York started to think about how to include other non-Asians from Asia. So, the other two people that came on board in the 1990s were Kenneth Fung in Hong Kong. Mr. Fung came on in 1993 or ‘94. Also Ms. Josie Natori. She is a businesswoman from Manila, from the Cruz family, married a Sansei Japanese-American, Kenneth Natori. Established Natori, a lingerie line. Moved to New York.当時はwe had an ACC program in Manila.ナトリさんはニューヨークでビジネスやっているのね。

帆足:当時は堤さんの存在は大きいと感じていたということですね。

コーチ:もちろん。

帆足:人を選ぶ時とか、プログラムに影響があるとか、彼はそういう権力はあったんでしょうか? コミッティーとかで。

コーチ:No, never came. ACCの理事会には参加してなかったですね。

帆足:じゃあお金だけ?

コーチ:Yes. Space and office. First, we had a desk in the Sunshine Building within the Saison Museum. Some staff from Museum assisted us. Mr. Namba Hideo(難波英夫) was in our program. Mr. Kinokuni(紀国憲一) from Saison Museum. We had an advisory board of Yamaguchi Masao(山口昌男)for theater, Takemitsu Toru(武満徹) for music, Asakura Setsu(朝倉摂), Kinokuni san…… こういうアドヴァイザリー・グループでアプリケーションを(審査していた)。

住友:そうすると支援する対象の選考に関しては、インディペンデンスはあったんですか。

コーチ: インディペンデンスはありましたね。

住友:セゾンの影響を特に気にする必要はなかったわけですね。

コーチ:なかったです。

住友:経済的にも独立の必要があったということですか。

コーチ:Maybe. I don’t remember. We didn’t need to raise money. 日本プログラムですね、堤さんとセゾンの会社が2 million US dollars、円ではちょっと覚えていないけど、a lot of yen, because maybe 250 yen for one dollarね、当時。それを会社から集めて、堤さん本人からも出していると思うのね、それが国際交流基金に預けられて、免税措置が取られて、それでACCニューヨークに行って。一応donorとしてはJapan Foundationが入っているわけ。Japan Foundation acted as a conduit for the Saison funds which I believe were exempted from taxes.

帆足:いつ頃その仕組みが導入されましたか。複雑ですよね。

コーチ:No, I don’t know.

住友:1980年代にあったわけですね。

コーチ:I think it was new.これが後にメセナの税法にもなってくるし、法人法にも関係してくる。当時の2 millionは一番多かったですね。

住友:そうするとお金は十分にあったと。それでもfundraisingはもっとするべきだということで、どういうところにアプローチを?

コーチ:プロジェクトを立ち上げたのが、Triangle Arts Projectというところだったんですね。 そこでダンスを一つ考えて。ACCは特にインドネシアのperforming artsとかダンスを支援していたんですね。そこで、アメリカ人、日本人、インドネシア人、これは単に一人に与えるフェローシップじゃなくて、グループに与えるフェローシップ。それでローテーションもあるのね。だから、三ヶ国回って行くプログラム。これはまたもう一つ複雑なのは、三つの層があって、一つの層は、artist-creator、dancer-choreographer。We had people like Nancy Stark Smith, Yamazaki Kota(山崎公太), Sukarji Sriman, he’s a dancer-choreographer.もう一つの層がfacilitatorかな。Lighting designer or Dance festival manager. Sato Norikazu who started JCDN(Japan Contemporary Dance Network).その前はACCでニューヨークに行っていて、僕らが誘ったのがちょうど、彼のDance Theater Fellowshipが終わるころで、ACCの新しいプログラムが始まるからそこに参加して。We also had a festival director, creators, facilitators, and interpreters.最後のinterpretersは批評家、writers。Dance documenters.

住友:そういう人たちも含めてサポートする必要があると感じたのは、どういう理由だったんですか。

コーチ:This was the idea I had from before. ロサンゼルスのときにもうアイデアがあって。友達もやっていたんですね。UCLA大学で。Only for artistsよりも、Artists also need to have interpreters who understand their creative process. They need to have a lighting designer. The managements understand how this all works, including touring.一つのプロジェクトを3か月インドネシアから日本に回ってくるような、very intensive fellowship. Group fellowship, rotating fellowship. It also had a kind of critical mass.日本に連れてきたら、結構ダンス界の人たちが集まって、fundersにも会ってもらっているし、Dance Presenters 劇場も見物したこともあるし、東京で批評家たちを呼んで、how to critique dance, how to understand the dance being created、クリエーション・プロセスを見ながら。日本であんまりなかったんですね。Dance creatorと批評家、全然別々なのね。It was a very kind of very unsympathetic understanding.そういうのをちょっと変えていきたいということで、こういうことを企画して、We found donors to support it.

住友:それは日本の企業ですか。

コーチ:We tried. 経団連とかそういうところに行ったんだけど結局だめで、セゾンがサポート。We had additional support from Japan Foundation, and we had little support from 東京都歴史文化財団。

住友:今だったらアート・コーディネーターとかクリティークをサポートするという考え方は理解されていると思うんだけど、その当時、こういうことを始めたいってときの周りのレスポンスはどうでしたか。

コーチ:まあちょっと分からないようなプロジェクトだったんですね。プロセスを支援する、結果的にno presentationというのが、一応中心だったんですね。No plan to show anything.だからアーティストたちもお互い紹介して、結局、作品を作るとか、作れるとかそういう状況よりも、一緒に回っていく。で、どっかで、日本のアーティストはアメリカではゲストね。でも日本ではホストになるから。Everybody had a kind of guesting and a hosting role.これは非常に複雑だったんですね。How to really interpret your culture while traveling. It was very complicated. Human dynamicsがちょっと大変だったんですね。もうけっこうpersonality issueいっぱいありましたしね。3か月一緒に回っていくのもこれ大変なのね。

帆足:3か月で何人大体いたんですか。

コーチ:It was usually just six persons. The creators and facilitators.というのは、批評家とかdance writerとかそういう人たちはローカルで接したんだけど、実際動いたのはだいたい6人だったんですね。

帆足:予算はどれくらいだったんですか。

コーチ:Maybe about 200,000 USとか250,000 USとか。それを最初1994年にやって、そこから参加したメンバーたちもいろんな形で展開して。ACCにとっては、私にとっては、セゾンと初めて一つのプログラムを実現できたんですね。以前は場所を借りて、まあ一応関係はあったんだけど、特にプログラムの関係はなかったんですね。だいたいセゾンはカンパニーを支援して、支援した後に、アーティスティック・ディレクターか誰かがACCで個人フェローシップを受けて、というのはたまにあったんだけど、一緒にACCとセゾンがお金を混ぜて、プログラムを実際にやるというのは初めてだったんです。

帆足:セゾン側は何人くらい関わったんですか?

コーチ:まあ久野敦子さんとかね。それはちょうど森下スタジオがオープンする年だったんですね。これはまっさら、ニューアイデアで、セゾンも新しいスペース支援っていうのを考えていたんですね。当時もvery important、初めてだったんですね。A performing artist basically needs space nearby. Visual artistsよりも必要なのね。特に稽古の現場が近くにあると、みんなアルバイトしているから、they can’t travel far. We have to be in town, close between all the parties. So, having a space in Morishita district was very important. This project was one of the Saison Foundation’s first projects. They opened in 1994, March or April.

帆足:それは滞在して、一緒に作って、意見交換して、お互いに慣れるっていうか、まあ成果としては別にプロダクションはないわけだから、三ヶ月間一緒にいることが目的なわけでしょう?

コーチ:そうですね。

帆足:ファンドレイジングは難しそうですね。

コーチ:このアイデアはファンドレイジングしようとしたんだけど、there were no corporate takers.

住友:その時にはアウトプットがないかもしれないけれども、その時に出会った人が何か将来、作品を作るとかいうのを意図しているわけですね。

コーチ:Yes. There were many outcomes from the program.

住友:何か自分にとって特別思い入れがあったりとか、うまくいったっていう例をあげていただけますか。

コーチ:We organized this program twice. In 1994 and 何年か経って、1997。もう一回やったんですね。In 1994 six people travelled from US to Indonesia to Japan. A lot of outcomes and results. We had a meeting to discuss retroactively in 1995 and 96.一年にみんな集めてね。ミーティングやったんですね。それで1996年にプランニングやって。1997にもう一度やったんですね。For the first time the ACC took on a proactive stance. 私もやりたいからニューヨークもやらせてもらったんだけど、ACCは以前までは、プロポーザルを受け取る立場を大事にしていたんですね。The ACC usually does not take the initiative. The artists bring to the foundation their ideas and proposals. In this project, we took the initiative, funded it, organized it and documented it. It changed our relationship with some of our funders, namely The Saison Foundation. We had local support in Indonesia. A foundation called the Kelola Foundation. Kelola is a foundation that first started with ACC’s support.

住友:トライアングル・プログラムがそれまでと大きく違うのは、アメリカ、日本、インドネシアがあったら、日本のアーティストがインドネシアに行くってことの経験も大きいわけですよね。その後、ACCはアジアの中の交流もサポートしますよね。そうすると、アメリカとはもう関係のない交流ってことも……。

コーチ:関係もありながら、まあ直接アーティストを交換してないことにもなってきたんですね。

住友:ロックフェラー財団のお金からスタートして、アメリカにとって例えば日本とか、台湾とかのアーティストの交流をすることで、お互いの文化を知るのは、何かベネフィットがはっきり見えるような気がするんだけど、アジアの中の交流とか、トライアングルのプログラムで、アメリカのベネフィットということを考えることからは独立して、プログラムを作れるようになってきたということなんですか。

コーチ:まあそれはあると思いますし、ACCも何年かかけていくつかのアーティストもそこに送って返しているわけですよね。結局ACCアーティストも自分の国、インドネシアにしても、タイランド、フィリピンとかアメリカに行ってね、素晴らしくリッチな体験して帰って来るわけね。一番大変なのは、自分の国に戻ってくる時、どれほど大変だというのがよく感じられて。よく帰国したアーティストからも話を聞くんですけどね。They became depressed, they can’t do anything. そこでACCも単なるone time onlyなgrantよりも、how to keep them engaged、そういう人たちも、各アジアの国に戻って来て、そういうネットワークを持っている人もいる、そこにもプロジェクトを回していくっていうのを、やりたかったと思いますね。It wasn’t our main motive. We also had these friends. We were kind of building an infrastructure of networks of people.そういう人たちも自分たちで組織を作る。そこでACCのつながりもある。時々アーティストも送り出す。こういうプロジェクトが立ち上がれば、そういうリソースにもなってもらえる、ということも考えたわけですね。

帆足:1998年くらいまでだと、ちょうどインドネシアはスハルト政権の最後だから、インドネシア、フィリピン、日本だと、すごく政治的なギャップがあったと思うんですよ。そういう難しさというのはあったんですか?

コーチ:そうですね。でもそのころから、あのチェメティ財団(注:元Cemeti Art Foundation/現Indonesian Visual Art Archive (IVAA))とかインドネシアのvisual artistsもコンタクトし、オープンになって……。

住友:アジアのアートシーンがアクティヴになったことも、このプログラムがそうなった理由でもあるんでしょうか。そうすると、ちょっと意地悪な質問だけど、アメリカってのはやっぱり、アジアのアーティストにとってはあこがれの場所で、みんな行きたいって思いはずっとあったと思うんですけど、だんだんプレゼンスとしてはアジアが徐々に上がって行きますよね。そのアメリカの求心力、アメリカがそういったセンターだということと、少しずつカルチュラル・マップが変わってきたということの実感は、ちょうどジョージがディレクターやっていた間に経験しましたか。

コーチ:いいことだと思いました。私はね。

住友:この変化は何か実感することはありましたか。

コーチ:今、あとで振り向けばずいぶん変わったなあ、と思いますね。というのは、ACCもそれほどアメリカ人をそんなに送り出してなかったんですね。今もそうですし。

住友:アメリカの人はあんまり行きたいと思わなかったということですか。

コーチ:というよりも、そのストラクチャーがなかったわけですね。ACCが送っても、じゃ誰にどうしてもらってね……。フェローシップも日本にオフィスがあるから、アメリカ人を日本に送ることができたわけね。香港に送る必要もなかったし、中国も当時そんなにオープンしてなかったし。主にAsian artistsをアメリカに呼ぶっていうのが、6割、7割くらいだったですね。

帆足:受け入れ先は、例えばアーカスですよね。

コーチ:でも、日本プログラムは always has been a bilateral program. We’ve always had an American artist presence in Japan. Not in the case with Hong Kong, or Taiwan.たまにアーティスト送ったんだけど。アーティストというか専門家ね。But they had their own system, they had their own connections. So, ACCはそんなに世話しなかったわけですね。But, as we started to send back our artists from Asia, they wanted to do things, too. They stayed in touch with us. We listened to them. We wanted to include them.もう一つ大きいことが起こったのは、フィリピンin 1995かな、1996、ACCの35周年のイベントがあったんですよ。これは私の提案で、もう少しこういうリソースを(活用できないかと)。How to involve them more, how to listen to them more. 僕がいつも思っていたのは、この前の時にも話したかもしれないけど、ジョン・D・ロックフェラー3世がスタートしたときには、there was no history, no legacy. There was the initial funds, they had the vision of what to do. Founding director, Porter McCray、実際、実力者ね。One person. Two people in office, maybe. But, no history nor legacy, only the Rockefeller name. So, in 1963, they started to meet people, and Mr. McCray gave grants to individuals over many years. Through time the foundation has built up a history. (それが)リソースになっているわけね。それで、at some point, this resource of so many excellent artists and arts workers becomes more valuable than just the money. これmy opinionね。My opinion to New York and Ralph was, hey! look at all these great artists. How do we engage this resource in new ways. In 1997 the ACC decided to plan and organize an anniversary conference in Manila. マニラにアジアからのトップの人を呼んで、ACCの理事もマニラに呼んで、そこでも理事会をやって合わせて、we had a conference. It was a very important conference.日本からはwe brought Fujieda Mamoru(藤枝守), Hasegawa Yuko(長谷川祐子), Okazaki Kenjiro(岡﨑乾二郎). We showed Miyajima Tatsuo(宮島達男)san’s work. We had an exhibition, a performance and roundtable, talks and discussions.

住友:その人たちはみんなACCがサポートした人だったんですか。

コーチ:そうです。みんな日本からね。We had artists from Hong Kong and Taiwan. 展覧会もやって、パフォーマンスもやったんですね、CCPで。Cultural Center of Philippines. で、今ACCのフィリピンのオフィスでプログラム担当してもらっている、Ms. Teresa Rances。彼女は当時CCPのProgram Directorやっていたんですよ。ACCにアプライして、受からなかったんですけど、フルブライトでアメリカに行って、帰国のときに、このプロジェクトのローカルなarrangementをやってもらうことになって。彼女はまたCCPに戻って、そこでだいたいACCが貸し切りのような感じでね。We used their theater, and produced a performance of grantees. Chinese video artist, Wu Wenguang。今度Tokyo Theater Festivalに来るんですけれど。We had dancers from the Cloud Gate Dance Theater of Taiwan. Martinus Miroto, dance artist from Indonesia. We had a visual arts exhibition curated by Ms. Rita Chang. リタ・チャンはACCのキュレーターだったんですね。

帆足:そうだったんですか。

コーチ:そう、フェロー。Ms. Chang after her US fellowship program became the curator of the show. Okazaki Kenjiro, Tatsuo Miyajimaさんも。We had a conference discussion with the ethnomusicologist, Dr. José Maceda. マセダ先生は亡くなったんですけど、University of the Philippinesの民族音楽の学者だったんです。彼はアジアのrenaissanceを夢に思っていたのね。それのテーマでアジアはどういうふうに変ってゆく…… We invited other artists such as Ong Keng Sen, funders from the Ford Foundation, from the Japan Foundation. 彼は 当時国際交流基金のアジア・センターの知的交流の部門にいました。

住友:そういう人たちをリソースとして、もっと活用してゆこうというアイデアは、例えばそういう人たちに継続的にアドヴァイザーになってもらうとか、具体的にはそういう部分に活かされていくのでしょうか?

コーチ:まあ、そうですね。それもあり、アーティスト組織もみんなかかえているし。画廊とか、Living Dance Studio in Beijing とか。みんなそこで、Arts Network in Asia (ANA)も始まったんですね。そこでオン・ケンセンとか、ジェニファー・リンジーもみんなそこに来て、アジア人同士でね。

帆足:ANAはそのときからでたプログラムなんですか。

コーチ:They started this new arts foundation because of the Manila event.

帆足:ANAのシステムが面白いと思ったのは、助成金を小さい団体や活動にも目を配って出していたことです。

コーチ:Yes, they made small grants. The ACC helped to start their organization. But, it was really an independent Asian idea and organization. Most projects had foreign foundation money, ACC, Ford Foundation, or Rockefeller from the West. It was basically Westerner’s money, Westerner’s vision. How do we get away from that? ANA should be more independent, more Asia-based. And they should make their choices among Asians.

帆足:それが1998年ですね。

コーチ:そうそう。で、そこで参加したメンバーたちがほとんど最初の理事になったわけね。Wu Wen Guang、Tersa Rances、Ong Keng Sen、だいたいそのメンバーでそこで決まって、Ford Foundation がまあ、200,000 (dollars)出して、three-year program.

住友:難しいことかもしれないけど、アジアの人たちが決めようってことになってからは、それ以前の選考の基準と、どういったところが変わったと思いますか。理事のメンバーもアジアの人たちがたくさん参加するようになって、ACC のサポート・プログラムの決め方っていうのは。あまり知られていない人がピックアップされるようになったとか、作品の傾向も変わったとか、あるいはそこまでobviousな変化はなかったか。

コーチ:そんなにobviousじゃないけど、Asians control their own creative destiny と言ってもいいかね。They wanted to be independent of the West. They would choose and select the artists even though their funding was Ford money or Rockefeller money.

帆足:国際交流基金のアジアセンターの事業で招聘されたタイのキュレーターが、日本がお金を出してアジアの美術事業をやるのは文化覇権、そして巧妙な搾取というようなことを言っていたことが思い出されます。

コーチ: Apinan Poshyananda was an ACC grantee.

帆足:はい。アピナン・ポーサヤーナンさんです。

コーチ:He did the Heri Dono exhibition, which was excellent.

帆足:Yes. アジアセンターの主催事業でしたが、日本人がアジアのアーティストを選ぶのではなくて、アジアのキューレーターがアジアのアーティストを選んだ展覧会を日本でやる、という事業でした。だから、そこらへんは同調していたと思うんですよ。気分というか、ムードというか。たぶんプレーヤーは、今聞くとオン・ケンセンとか、基金のアジアセンターの事業にも深くかかわった人たちですね。

コーチ:ミネギシさんね(注:当時の国際交流基金アジアセンターのパフォーミング・アーツ担当の峰岸由紀)。She needed a very strong Asian voice. ケンセンhad a strong Asian identity and conceptね。Asian-nessを主張している、ちょうどその当時のシンガポールだったしね。

帆足:プレーヤーは何か重なっていますね。それはPerforming Arts Programからマニラのカンファレンスまで、1994年から1998年まで、一つの山がありましたね。その間に日本から送り出している作家は村上隆さんとかですか?

住友:村上隆は1992年ですね。それはジョージが入っていちばん最初の頃?

コーチ:1993年かな?(注:村上隆がACCの助成を得てニューヨークに滞在したのは1994年から95年まで)

住友:こっち(の資料)では1992年になっているんですよ。村上隆のことは聞きたいと思うんですが、村上隆はその頃、まだ若いアーティストっていう立場で……。

コーチ:He did the ‘randoseru’ series、and the little plastic soldiers sticking out on the canvas……

住友:今と全然違うタイプの作品作っていましたけど。彼のキャリアにおいて、ACCのグラントってのは、どういう影響を与えたって印象はありますか?

コーチ:今まではスーパースター的な人は日本からはあまりなかったですね。以前ね、日本からの第一期生ね、武満徹とかそういう人はいっぱいいましたけど、最近の人ではあんまりいなかったと思う。

住友:蔡國強は?

コーチ:蔡さんはこの後くらいかな? この1年後くらいかな。

住友:蔡さんはその後か。その前のだと川俣(正)さんとか?

コーチ:川俣さんとか。He’s the first PS-1 artist from ACC. Around 1980sかな。

住友:PS1 がスタジオ・プログラムだったということが、やっぱり大きいですよね。ニューヨークの関係者と会うとかそういう意味ではね。その点においては、ACCのプログラムがやっぱり重要だっていう……。

コーチ:住友さんはPS1のヒストリーよく知っていますか。

住友:だいたいとしか言えないです。

コーチ:まあ僕もあんまりよくは知らないんですけどね。当時は木幡(和枝)さんもまだArtforumにもよく書いていましたし。Alanna Heissさんとも親しかったし。(田中)泯さんをよく連れて行っていたんですよね、ニューヨークに。劇場もやっていましたし。見たことありますよ。だからちょうどその頃、日本とも動き始めて、木幡さんが当時のACCにそれほど関係してなかったのも事実なんですね。というのは私が前からあったadvisory boardね、紀国さん、朝倉さんのold systemを変えたわけ。これはけっこう大きかったです。It was all kind of 建前、ここであんまり言っては失礼かもしれないけど。

住友:日本的なね(笑)。

帆足:A kind of endorsement.

コーチ:Yes. Big names and there were no interesting discussions. They didn’t have anything to say to us. At that point we had mostly visual artists. What I wanted to do was to change that.

住友:メンバーを変えたのですか。

コーチ:そうそう。We didn’t want to do that anymore. The initial group had members like Shinoda Tatsumi(篠田達美)とかね。I’m trying to remember. Tatehata Akira(建畠晢) was also a member. Koike Kazuko(小池一子) was also a member. Kobata Kazue was always on the panel.というのもKobata-san had a direct relationship with PS1. She was writing for Artforum. She was the de facto representative for PS1 in Japan. そういう関係あったんですね。She was always there. Who else? Okazaki Kenjiro. Fairly known arts people, but we never publicized it.

住友:そのことによって選ばれるアーティストが変ってきた?

コーチ:Yes. The advisory committee had interesting discussions. そんなにダンスとか音楽とか演劇はなかったから、we kept some of the advisors. So, I kept Takemitsu sensei as the music advisor. I kept Asakura-san for theater. For dance, I went to different experts. I forgot some of the early people’s names. あ、三浦雅士さんとかね。He was one of the advisors for dance.

住友:ACCの選考のプロセスは興味深いと思うんですね。というのは、たくさんのアーティストを送り込むというよりは、数は少ないけど、この人たちが今日本のアートのシーンの中でどういうポジションにあるのだろうとか、そういうところをとても丁寧に考えているような気がするんですよね。そのために、今のメンバーの人たちのディスカッションがきちんと行われるべきだっていうことだと思うし、それと、そのアーティストとかなり会って、どういう人かを知ろうとするプロセスがありますよね。それは他のサポートのプログラムだと、アプリケーションを受け取って、その人たちの経歴見て、どうしようってくらいで決めちゃう、後は、専門家たちが意見を言うくらいですけど。そういう丁寧にやるっているプロセスによって、どういうところを見ようとしているんですか。

コーチ: The person. We needed to get to know the real person.

住友:人柄。

コーチ:Yes. What is this person like? What will they do, and how will they be on the fellowship? Also, I wanted them to come back to Japan. Not every selected artists did。毎回は会っていないと思いますけどね。We found very interesting people. Some people I could not meet. 何よりもcreativityね。Are they able to add something to the creative environment in Japan? Also we looked for some aspect of leadership qualities. まあ、そういう条件ではなかったんですけどね。

帆足:その委員を変えたのは何年だったんですか?

コーチ:選考委員? I did it maybe one or two times. I started it in 1992, 1993, and maybe 1994.

住友:すると、蔡さんはメンバーを変えた結果だったんですか?

コーチ:Gee, I don’t remember. その辺のディスカッションはkind of blank.

住友:特にそのディスカッションに出た名前で決まりではなくて、その後直接その人たちに会ったり、そうした中で決定していくから、そこまでクリアではないかも……。

コーチ:まあ蔡さんはその頃もうP3でやっていたし、長谷川祐子さんも随分やっていたし、かなり出てきていた時分だったんですよ。だけど日本に滞在したのも2年とかね、少なかったわけ。だから日本人アーティストとしては預けられなかったんですよ。そこで一回断ったの、実は。それは覚えています。He didn’t qualify for the Japan program. それで二年後くらいに宮島(達男)さんが来て、けっこう強く、しつこく(蔡さんを薦めた)。宮島さんも守谷に住んでいたし、蔡さんと仲良しだったしね。

住友:中国のサポートっていうのは、当時ほとんどないわけですよね。だからACCがニューヨークに送ったことは最終的に、今の蔡さんのキャリアの中ではすごく大きかった。

コーチ:当時——I think 1997(注:蔡國強がACCで渡米したのは1995年)——はまだ香港が返還前で、ACCもそこまで中国では募集していなかったんです。Early 1990sね。Very kind of 香港中心。というのもHong Kong moneyだったんですね。香港人didn’t want to use money for Chinese artists.これ事実なんです。

住友:まだ中国に戻る前ですね?

コーチ:そうそう。戻った後から、もう態度変りましたけどね。Kenneth Fung in Hong Kong used money for Hong Kong artists. Michelle Vosper、my colleague、私のACCの代理はあんまり中国に行ってなかったんですね。We get two artists from China to Japan. もうひとりはWang Xinping (王新平)。

帆足:蔡さんの国籍は中国人だけど、日本のレジデントだから、いいだろうということで、eligibleにしたっていう経緯があるんですね。でもそこには宮島さんがすごい働きかけた結果という……。

コーチ:Cai-san was listed as a Chinese artist.

住友:あとは20年近いACCの仕事の中で、選ぶプロセスで、他に印象深い人は、挙げるとどういう人がいますか。

コーチ:Well, most of them were already on the cast. Some were under the radar.田中功起君とかね。今回の八木良太とか。Those are very good timingね. They were already working here and hitting bumps and struggling, so this (ACC grant) was like a push-out. For Cai, it was more political. It was a way to get out of Japan to come to America. He went to New York to go back to China.そんな感じがするわけね。He was not going stay in Japan. Japan was only a steppingstone. But, for him, to go back to China, he had to go to New York. His timing was perfect. もう本当に今考えたらね。All the other Chinese artists, like Ai Weiwei and all those……ニューヨークで苦労してね、でもno recognition.

住友:アイ・ウェイウェイがニューヨークに行ったのはもうちょっと前でしたよね。

コーチ:前だったと思うね。There were good Chinese artists, but they were not going anywhere. But Cai had everything. Trans Culture exhibition which Nanjo san organized in Venice. Cai received the Benesse Prize. Everything was boom, boom, boom! PS1, you know. Murakami also the same. His portfolio for ACCに応募したのは覚えているのね。The randoseru, tiger skin, leopard skin, zebra skin, that series. Soldiers, you know. Nothing about his nihonga early work. But, he had his first show at SCAI. DOBちゃんが出てきたのね。The first time DOB-chan came out. Shiraishi san had a show there, and I remember that. A kind of the new thing. Just so different from everything.

住友:村上さんも向こうに行く前に直接会って?

コーチ:会いました。

住友:この人がニューヨークに行ったら、どういうふうにキャリアに影響するか、そういうことを考えたわけですね?

コーチ:My impression was not so strong.

住友:ああ、そうなんですか。

コーチ:No English spoken. Never been abroad. To be honest, I wasn’t that impressed by his work.

住友:だけど、いろんな人たちの意見の中で、選ばれたってことだったんですね。

コーチ:Yes. ACC’s applicants got also screened by the PS1 panel.

住友:そのプロセスをたぶん一応説明されていると思うんですけど、一応、もう一度詳しく教えてもらってもいいですか。

コーチ:ACCがまずアプリケーションを受け取るわけですね。で、推薦状3人くらい。で、僕たちが選択したなかのトップをもっと細かく、we get reference letters、we translate them into English, we talk to them, we meet them, and we have interviews with the applicants. And then we have this top tier group, so we send this batch to New York office. Somebody from New York usually came to join our panel.

帆足:How many applications did you usually get?

コーチ:It’s hard to say. We maybe get anywhere from twenty to sixty applications on average. Mostly visual artists. Everyone is not gonna be top, but we can also tell by the推薦者。People that we know. Of course, someone like Mr. Nanjo is not going to recommend anybody. You have a sense of quality of the people who are writing the recommendation letters. We eventually arrive to a top group. We then screen them very carefully.で、Gradingね。住友さんも参加して。Grading はだいぶん後から、私が作ったプロセスなんです。最初のほうからなかったんですね。それはニューヨークのために作ったんですね。日本の基準で判断するクライテリアっていうのは、こういう人たちの活動が大事だというのを示す。

住友:なるほど、それはもっとクリアにちゃんと伝えるために。

コーチ:I wanted them to know how Japanese art critics evaluated the creativity of these applicants. That was very important.

住友:いつぐらいからそれを。

コーチ:I did the application reviews about 18 times, so probably from 9 or 10 years ago. Every advisor is allowed one vote and we get to rank them. A kind of priority order. NY staff such as Sarah Bradley would join. They would listen, write comments and notes, and send them together. Usually, Sarah Bradley would share the comments of the Japan advisors with the New York panel. Sharing the comments of the Japanese panel was very important. 大分前はPS1がパネルを集めていたわけですね。そこでPS1とACCの代理が入って、順番をそこで決めて、トップにPS1の人が入るっていうのだったんですね。What changed after was the issues of 誰が一番ふさわしいか、っていうのが基準に入ったんですね。But before, the top artist got the PS1 prize. 3万5千ドルぐらいとかね。The biggest prize, and sometimes we also included support for their spouse. まあ時期が長いからね。結婚してれば夫婦で送っていたね。山出淳也さんとかね。

帆足:そのシステムはなかなか日本で取れないんだよね。

住友:当然、アメリカ側で選ぶアーティストと日本側で選ぶアーティストが違うってこともありますよね。どちらのイニシアティヴでそれを選ぶかっていうとことで、一番、間に入って大変な仕事をしたと思うんですけど。

コーチ:My memory is kind of thin there, but we didn’t have to argue too hard.

住友:同じ意見だったことのほうが多いですか。

コーチ:その場合もあったし、それか例えばね、I think in the case of Murakami, there were people in New York who knew about him already. Yanagi Yukinori is also the same. Yale University where he graduated knew his projects. They wanted him. There were also those factors.当時は私もそれにあまり対抗しなかったんですね。僕のNew York colleagueが来て、全部はかって、fair assessmentでニューヨーク・パネルで出してもらって、そこで選べられたのが非常によかったと思うんだけれど。

住友:そうするとニューヨークの人が日本のアートのことを昔のほうがよく知っていたということですか。

コーチ:いや、よく知っていたというよりも、パネルの意見をよく聞いてもらったんですね。

住友:日本のパネルの?

コーチ:Yes. We had an associate director named Sarah Bradley. She was from art history background, previously worked at Asia Society, knew a lot about the contemporary arts scene. And, she was very careful about listening, really listened to our panel discussions. People like Shinoda-san or Kobata-san, Koike-san, Shikata-san. そのopinions to the New York panel were well included.

住友:それは90年代のことですけど、それは2000年以降変化したりしましたか。それとも基本的には同じようなプロセス?

コーチ:だいたいプロセスは同じようにやっていたと思うんですけどね。Something did change.

住友:どういう変化ですか。

コーチ:Maybe 変化は、日本のパネルがbecame more vocal about their opinions. I think someone like Okazaki had a big thing to do with this.

住友:具体的には?

コーチ:He could be very opinionated in a good way. But he knows.

住友:そうですね。

コーチ:I think ACC respected his opinion highly. I respected his opinion highly. He knew the Japan artists, Western artists, but also as an educator, as a practitioner, as a critic. He had a very powerful view about how this artist could be.当時もSarah Bradleyも、彼とも親しかったんですね。So, his opinion was well regarded.

帆足:そうすると、他の人に比べて岡﨑さんの声が大きくなった傾向はありましたか。

コーチ:Well, no, Tatehata-san was in the process. Everybody had a voice. But, you know, Okazaki-san was very persuasive.説得力あるよね。

住友:ただ、今、帆足さんが言ったみたいな懸念というのは、僕が知っている限り、そのすごくフェアな会議の進行を心掛けているような感じがするので、その辺は……。

コーチ:住友さんのパネルは誰が入っていたんですか。岡﨑さん、オギワラさん? Rita Chang (ACC Taiwan) was in that panel.

住友:そうです、前の年はそうですね。日本の例えばそういう審査とかだと、やっぱりこうageとかpositionとか、そういうヒエラルキーで決まっていくことが多いけれど、いろいろな人の意見を反映させようとするプロセスがあるな、っていう印象がACCにはありますけど。

コーチ:We tried to listen to all, but also ACC often liked to support the underdog applicant, someone outside the mainstream.

住友:それは興味深いですね。どうしてですか。

コーチ:But of course, there was a year when we had an artist like Yanagi Miwa(やなぎみわ). She was very bright, just came back from Taipei Biennale. We can’t deny her. そういういうときもありますけどね。But at times, there were people we never knew about and someone would tell us about them. We had to look carefully at their work. And discover that this artist is very interesting, very different. It may have this kind of B zemi mentality. Not necessary to graduate from the art academy, or Geidai. But instead, outside the usual system.

帆足:だから、メインストリームではない、常にもらう人じゃない人にチャンスをあげたいという。

コーチ:Yeah. We wanted to be open to those applicants who had less credentials. But, it had to be of quality. Can’t be anyone.

帆足:今の話を聞いていると70年代に遡りますよね。ジョージさんの時代経験からきた、そのときの、主流であることの違和感もあるけど、主流じゃないことの意味を……。

コーチ:Non-mainstream.

住友:それは自分の個人的な体験と結びついているように思いますか。

コーチ:Oh, Gosh, maybe, or maybe not. I don’t know. What do you think?

住友:(笑)

コーチ:Our grant support is just a small amount. It’s not at the Bunkacho level support, which has lots of money, and grants often go in order of seniority ranking.

住友:他のファウンデーションの役割と、ACCの役割っていうのを考えているわけですね。

コーチ:Very different. We have to be different. No necessity to be the same.

帆足:ACCというアイデンティティをどう作っていくかっていうのが、すごく意識的だったかもしれないですね。

コーチ:It was the same as supporting Taiwanese artists. This was something ACC needed to. Taiwanese artists should have fellowships to go to Japan. And Japanese artists travel to Taiwan. The ACC should support that, especially if the governments cannot do that.

住友:他の機関との役割っていう意味では、ACCの役割っていうのが、20年間の間に、変ってきたと感じることはありますか。それとも、あるビジョンとして一定のものがあったと思いますか。

コーチ:Maybe. Mostly for the visual arts. We brought in a younger group of advisors who had more serious discussion, who know the creative environment Japan needs, and we wanted to support that.

住友:日本も例えばサポートのプログラムっていうのは、昔は十分じゃなかったかもしれないけど、少しずつ、先ほどのファシリテイターとか、そういう人たちにも少しずつ援助をしていこうとか、そういう役割が社会の中に必要だという認識をもってきたり、あるいは芸術文化への支援というものの、社会の中での理解っていうのは少しずつだけども増えてきていますよね。そういうことによって、ACC の役割が変わってきた、というのは感じることはないですか。

コーチ:Well, we did not do it for ourselves.だから日本のためには考えなかったんですね。私にとっては、it’s a new way of funding. Using limited resource of funds in a more dynamic way. We have multiple residencies at the same time. We gain a sort of critical mass, and can impact the field in a different way. フィールドにどういうインパクトを与えるかは、一人だけが来てフェローシップ活動やるよりも、一つの大きなプロジェクトが来るわけですよね。それでいろんな人に話し合う。It has a larger impact. I think that had good benefits. It had a kind of tangent effect. From here, it spins off. A new unexpected outcome results. Somebody translated a book on the history contact of improvisation. Or a Norikazu Sato starts a dance producing office JCDN, Japan Contemporary Dance Network, or Saison started doing more projects with Asian artists, or gives fellowships with Ong Keng Sen。Shirotama Hitsujiya (羊屋白玉)やYubiwa Hotel(指輪ホテル)。It opened the new possibilities. For us, it was a kind of an experiment that led to new outcomes, how we can be most effective. ACCがどのように少ない予算で、もっと効率的に使える方法ね。実験だったんですね。

帆足:その中で、external factorとして、例えばアメリカの環境の変化とか、日本の環境の変化とか、自分たちに関心があることってありますか。 I am just wondering if you were always focusing on the practitioner, which is a good thing. Were there any specific external factors that did affect you in having this perspective on Japan? What are the external factors that came into play in this formula?

コーチ:Also supporting those organizations on the ground. Like major dance festivals which never invited Asian artists in residency. We were having a lighting designer, a dance manger intern in such festivals. Or, as in Indonesia, having this group travel and see and meet more classical and traditional artists. Contemporary artists working and visiting traditional artists’ studios. We also gave something to these local organizations, because their local artists were participating in the ACC projects. It wasn’t just giving the participants a chance to go there. The project also intended to help the hosting side. We were supporting new organizations, with new ACC grantees going home to Indonesia, or back in Japan, wanting to do something new. There were benefits for all parties though we never thought about it that way nor planned for that.

住友:次はもうちょっと時代的に近いところの話をお伺いします。アーカスのプログラムにACCが関わったのはいつからですか。

コーチ:1994, the pre-program of ARCUS. Triangle Arts Programがちょうど日本に来て、メンバー連れていったんです。何にも変わってなくて、the first one is preprogram. Two artists, two women. I’ve forgotten their names.それでpreprogram見に行ったんですね。前からも国際交流基金で、南條さんも、スパイラルの尾崎宣之さんもみんな入ってきて、発表会何度もあったじゃないですか、スパイラルのほうで。そういうのも聞いていたし。日本の環境に興味があるというのは聞いていたんですね。そこでACCもずっとPS1やっていたし、アメリカの他のartist residency もサポートしていたんですね。Atlantic Center for the Arts in New Smyrna Beach、Headlands Arts Center (Headlands Center for the Arts), I don’t know if they are doing on the 18th Street Art Center.いくつかサポートはあって。The idea was how we can help with the new artist residency movement develop in Japan.

住友:日本にもアーカスが出来た頃はそういうアーティスト・イン・レジデンスは少なかったですけど、まあ少しずつ増えてきましたよね。だからアメリカのアーティストが日本に来た時に、活動する場所は増えてきたっていう印象がありますけど。アメリカのアーティストの日本への関心っていうのはどういうものなんですかね?

コーチ:今もね、遊工房でヒスパニック・アーティストが来ているんですよ。たまたま彼はロサンゼルスで僕出会って、彼はMoCAのエデュケーターなのね。As we were taking a tour to MoCA two years ago, 彼は今度20日にオープンする芸大のイヴェントがあるじゃないですか、そこにも出るんですよ。He’s a Chicano, Latino artist. 関心すごくありますよ。彼はアジアに来たこともないし、でも、エル・パソ、テキサスからロサンゼルス来て、CalArtsに行って、非常にラティーノ系な作品作っている人で、メキシコではEl Día de los Muertos、day of the dead, まあお盆みたいなものがあって、they have a very similar ceremony like obon.

帆足:仮面をしてね。

コーチ:You know the skull figure.お盆の時に来て、郡上八幡から東北の方ずっと回って。作品も今度日本で発表されるんですけど。関心はいっぱいあると思います。

住友:でも少しずつ中国のほうに関心が大きくなったりとか。

コーチ:まあもちろん関心はあると思うけどね。でも中国はIt’s very hard to approach the countryと思いませんか。

住友:でも2000年以降はだいぶ変わったわけですよね。

コーチ:変わったと思いますけどね。But, I think –this is my opinion- American is a continental culture, China is also a continental culture. There are a lot of challenges there when they come into contact with each other. For Americans the tiny island culture of Japan feels so micro-cosmic. It is a kind of receptive/ receiving kind of culture, societyね。Such as not found in America. Chinese culture also feels continental、whether its contemporary, video art, it feels very Americanized. They don’t need to come to America. Cage was there. They talked about Zen going to America. John Cage and his work was a kind of creating a new music mentality in Japan, bringing Zen back to Japan. And, in fact, allowed Japanese artists to appropriate their own culture. A kind of complementarity. To me, it doesn’t seem to work this way with Chinese artists. Feels to be more of a kind of head-to-head encounter.

帆足:ヨーロッパはどうですか。アメリカ人の関心は。

コーチ:I don’t know much about European contemporary art. I look at it, but, I can’t speak to it. But, I think, Sumitomo-san, still there is great interest in Japan. She is a cultural country that is close historically to America. But, also lost in the war. America has always had a superior stance. それ当然でしょ。The big brother, right? Americans come here from a stance of superiority. China is very much unknown.

住友:まあ大きな枠だと、今90年代に一番最初にACCの仕事を始めたときには、ある種restructure する必要性を感じて、いろいろジョージがやったことがありますよね。で今もうtwo decades経って、ACCの役割の中で、本当はこうしたほうがいい、restructureしたほうがいい、と思うところは一応今の役割ってものを継続していけるんじゃないか、と思っていますか。

コーチ:I have some critical comments about this. At this time 2010, ACC needs to raise additional funds. The 2008 recession had depressed the US markets which in turn, produced less stock from which to draw down operating funds. At this time, the early generation staff and board members seem to be changing out. ACC originated with a sole donor, Rockefeller wealth. It had vision, and a mission, and the board and staff worked to realize it. Now it has become a larger organization and needs requires a larger operating budget. It feels less about the program these days. これがmy biggest complaint. New leadership and I don’t know where this is headed. I don’t mind saying this. Some of the senior staff retired originally came to work for the ACC because of their excellent program. Seeking and raising funds was not necessary in the beginning. Today, ACC looks toward China, because that’s where the money is. There was no more money in US after the 2008 recession. There seems to be limited money in Japan as well. ACC needs to seek funds in order to give funds today. 組織として生き残るために新しい支援が必要だったら、they have to go where new money is. One of the new outcomes of ACC activity is possibly to demonstrate what arts philanthropy can be in China and to encourage local efforts. これがメイン・ミッションじゃないんですけどね。Rockefeller, philanthropy, American charitable non-profit organization、それのレガシー見ればね、people gravitated toward Rockefeller-related companies, organizations, because it has a history and a brand name. The key point might be, not about supporting a new program, new artist, but more about this notion of cultural philanthropy. The newly emerging Chinese wealth class may find this kind of philanthropy viable in their own society.

帆足:私が別の人から聞いたのは、マイクロソフトのゲイツ・ファウンデーションができたときに、ビジネスで成功して莫大なお金を手に入れた人がファウンデーションを運営するときにマネージメントがすごくしっかりしているということです。何と言うのか、フィランソロピーなんだけど、新しいお金による新しい支援の方法、それがドライヴになっていると。マイクロソフトの元幹部社員がファウンデーション(注:ジョン・ウッド氏設立の「ルーム・トゥ・リード」)やったりとか。今そういうsocial entrepreneurshipの本が結構出ていますよね。ビジネススクールでもビジネス倫理の問題がすごく重要視されている動きがあるようで、社会企業への関心の高い学生が増えているとか。そもそもファウンデーションという組織のミッションに期待されるものとか、期待したいものが、アメリカの中で変化、この10年の間に変化しているのを感じて、元々それはゲイツ・ファウンデーションがすごく大きな変化のファクターの一つじゃないか。

コーチ:You have to also think about the Rockefeller Foundation, the Carnegie Foundation, Ford Foundation. When they began, they started with large family money.

帆足:For decades, they were the leading examples. And, today people such as Bill Gates started a different model. Many social entrepreneurs are now following this new model. 彼らの成功の要因はスケールメリットの活用と説明責任の取り方なんですよね。

コーチWow! Triple the money for a night!

帆足:スケールがないと社会的インパクトが与えられないという前提でメソドロジーを取り入れた感じもありますが、スケールっていうのはやっぱり、投資に対して明確に応えられるっていうか、accountabilityを明示するっていう、ノウハウ本を読むと、そういうことがよく書かれています。

コーチ:ACCは、本当は何かartisanal、職人的な財団だと思うのね。これは私のオピニオンなんですね。だいたいartsが好きな人が集まって、no management experience, no fundraising experience, like making artisanal breadね、本当に限定されて職人が作れる範囲内で、一日分で、もうね。We can’t be artisanal anymore. そこでcareとかhandlingとか、one-to-one relationshipとか、これがずっと続けられて、スタッフも切り替えなかったんですね。I was with ACC for 18 years, Ralph was thirty somewhat years. これが今、徐々にwe have new management, new leadership. We have new needs. More funding for operations. Staff salaries, insurance benefits New York rent all costs more today.

住友:帆足さんの話と総合すると、それはACCだけじゃなくて、もっと大きな変化の影響が今のACC、特に本部のほうにありますよね。今までの良さ、職人的な良さって言うのは、これはもう、やっぱりなくなっていくというふうに感じていますか。

コーチ:だと思いますね。Take time. We have to be more efficient with our timeね。We are doing more grants. We can’t spend much time. Before we used to do everything. Time was not a factor. Quality was. Here again, programの基準と、fundraising、efficiencyの基準ね。More artisanal like work, hand done for each particular individual needs, more program-based, spend much time to make quality experience, quality fellowships allowed the artists come back and create quality creativity. Quality contributions back to their home society
これは事実今やっているところなんですよ。We hired this new fundraising staff. On consultancy basis. High energy. Bringing that know-how to Hong Kong, to Japan. She just recently went to Taiwan. Each country is a different model, different cultures, different societies, different meaning of philanthropy. But, outside experts try to globalize approach. Same with the new director. Before this time, each field office, Hong Kong Japan, Taiwan each had their unique and individual differences of culture, approach and the prior director enjoyed the differences.違いが好きな人がいたんですよ、実はね。でももう通用しないんですね、もうnew realityに。

住友:今年に入ってジョージが辞めたっていうのは、そのニューヨークのオフィスのほうの経済的な事情とかそういうところがやはり大きい?

コーチ:Yes.

住友:それぞれのブランチに代表する人がきちんといるってことが、それぞれの立場をちゃんと発言する人がいる仕組みだと思いますけど、今、やっぱり効率的に進めようと思ったら、ニューヨークがコントロールするってほうがたぶん組織として効率的な運営の仕方だと思うんですけども、それはやはり時代に逆行しているような気もしますよね。多文化主義的な今、傾向が、失われていくのかな、っていう懸念はあるなかなと……。

コーチ:それはそうですよね。Localismを守れなくなっちゃうっていうのもあるし。Local qualities about each of these cultures.日本のこれは非常にユニークなphilanthropy support systemがあったんですね。ACCの私の十何年間の間に、we raised about 1.2 million dollars.僕ひとりではないけどね。Blanchette H. Rockefeller died in 1992. それでロックフェラー夫妻を知っていた第一期生ね、すごくみんなall in the high positions wanted to give something back.恩返ししたわけね。Never in the foundation’s history, did we ever have all these grantees who wanted to give money back to ACC. Very Japaneseね and very moving。これでBlanchette Rockefeller Memorial Fundを作ったんですね。これがまあ自動的にできたの。衛藤駿先生ね。一期生の一柳慧さんとか。朝倉摂さんとか、小谷野匡子さんとかね、みんなすごく親切されて忘れないわけね。何かを返したい。みんな集まって募金活動やってくれたの。

住友:いつですか、それは。

コーチ:1994 or 95. I should have brought the catalogue.これ大きかったですね。ジョン・D・ロックフェラー三世基金の中で初めて起こったことなのね。他の財団の中でも初めてだと思うのね。フォード財団、カーネギー財団、メロン財団、ロックフェラー・ファウンデーションね。もらった人たちが30年後に何かお返ししたいっていうのは。何を返したい。次の世代の若い人を支援したい、募金活動を手伝ったり。僕もちょっとびっくりしたんだけどね、組織で募金活動やって、they raised maybe 150,000 US dollars.キャッシュでね。ちょうどバブルの時だったのね。その時にも村上さんとかね、みんな作品を寄付してくれた。

住友:ローカリズムを体現するために、ニューヨークですべて効率的にやるんではなくて、日本のサポートをそうやって日本の人たちが助けながら、継続させていくっていう運営は可能なんですかね。

コーチ:可能だと思いますよ。

帆足:台湾は結局そういうことですよね。

コーチ:まあモデルとして、ニューヨークができたのはロックフェラーのマネー、big patron、それでスタートして、後で支援を求めるわけね。他の財団からも、政府からも、個人からも。ジャパンも似ている。そのニューヨーク・モデルをフォローしてできたわけね。堤清二、セゾン・グループ、big patron、基金を作って、基金がperformするわけね。Hong Kong program was a very different system. 香港はno endowment fund. サポーター会ができて、Friends of Hong Kong, ACC Hong Kong, they would have events, raise the money. Yo-yo Ma performs at a big dinner, and that would support the next year’s grant. これが毎回繰り返して。Taiwan is very similar to Hong Kong. Find the donors, find corporations, work. They don’t have endowment fund which performs (increases in value). So, for the longest time, ACC Japan was doing very well. The stock market was steady and upward trend. We didn’t need to raise program money. So, when the endowment’s market funds crashed in 2008. The corporations and businesses have money, what can you do for us? We give you this much money, do something interesting for the artists. British American Tobacco company BAT all these companies had public relations budgets. Citibank, had a program for Hong Kong office. I think it’s going to a dance program, music school. These were the sponsored programs. This was the rise of donor –related named programs. Hong Kong, Taiwan, and the Philippines are very much on the same model.

帆足:日本はdonor programに変化する可能性はあるんですか。

コーチ:In the meantime, ACC has this “Blanchette Rockefeller” former grantee support. 募金活動でgranteeたちからね。They gave money. We had two big auctions. Actually, five auctions, but two very large ones. People such the artist, Hiroshi Senju gave us a work. People who believed in the Rockefellers.日本画家。People who knew the Rockefellers personally, Mr. and Mrs. ACC wanted to raise money not for ourselves but for the future generations. The last big auction was at Mori Art Museum around 2004?

帆足:今、そういうふうに変わると、アメリカに送り出している日本人の作家のセレクションのプロセスも、ゆくゆくは変わってくるんでしょうか。

コーチ:ACC always separated the donation part and the artist selection part. Hong Kong sometimes lets the donor give the money directly to the selected artist. As kind of a PR event.紹介するわけ、特にHong Kong donorはプレスに載りたい。They really pitch this opportunity to publicize and have a press conference, creating an exclusive event for just it. The Japan program never did that. They preferred a more quiet manner. Donors did not wish to donate money to get publicity in the press. Hong Kong donors love it, Taiwanese as well. In the Philippines they had a trophy named the ACC CUP at the Manila Jockey Club to be given to the winner of a horse derby. ジョッキー・クラブのオーナーの息子がACC のサポートに入っているのね。ACC Cup. その利益がACCに入ったのね。Or, they would raise money for 「フラワー・ドラム・ソング」 a Broadway musical、 Lea Salonga, a Philippine actress based in New York。ACC Philippinesを支えている何人かね、Josie Natori、Ernest Escaler、they are big donors. They like to invest big money in Broadway productions. They would invest in 「フラワー・ドラム・ソング」 a musical in Broadway, New York.それを使って、They raise money in New York among the Filipino community in NYC who would have wealth. 全然違うような仕組みなのね。For us in Japan, we organized art auctions. But, ACCがオークションやったんじゃなくて、実行委員会があったんですよ。一歩離れているdifferent organization. They solicited the donations among former grantees and friends. They received the artwork and sold them through a silent bid auction or a live auction. They then passed these funds from the sale to the Japan Foundation, and they gave the money to ACC formally. And, they also gave the 免税措置 to every artist. 非常に大変な仕組みだったんですね。But, we had many friends who helped, we had accountants. 全部細かく、we had to do everything very carefully. Japan Foundationすごく細かいのね。もう大変だったのね。About 85 percent of the sale price went to the ACC programs. 15 percent went to transportation, storage cost, insurance cost, framing cost. だいたい80-85 percent was accounted as the tax free exemption to the donor. It’s wonderful. Before they used to do it this way in America. For example, in the beginning a Jasper Johns gives an artwork of his to MoMA. Maybe the value is two millions dollars, and he personally gets a tax exemption on his income for that amount. But, US tax agency does not allow that any more. Only thing that works now is the cost of the material is allowed to be tax-exempt. For example, a Richard Serra gives his big steel piece to MoMA, just the cost of the material is exempted for him. And not its appraised market value. That’s all.

住友:本当?

コーチ:Yeah.

住友:それ作品と関係ないじゃないねえ(笑)。

コーチ:Jasper John’s paint, his studio time, maybe, his brushes. Now no art donation from the artist can get the full appraised values. But in Japan, it’s still ok if you use certain accounting procedures.

住友:ACCの仕事を通じてたぶんいろんな日本の美術関係者と知り合ったと思う。すごい幅広いネットワークを築いたと思うんですけど、仕事上ではなくて個人的に親しくしてきた人の名前を挙げることはできますか。

コーチ:美術館関係ですか。People I got to know, 長谷川祐子さん、one of our grantees, advisors. 南條(史生)さんalso, you know. I respect his work very highly.

住友:プライベートのお付き合いっていうのはけっこうあるんですか。

コーチ:Myself? いや、no.

住友:基本的には仕事ということですね。

コーチ:したくないよりも、It just never happened. And, also with the artists, too.

住友:アーティストとも、なるほど。

コーチ:I knew several of the artists very well.

住友:そういう個人的なことも聞きたいんですけど、元々、シアターのことをアメリカでやってきて、イサム・ノグチのこともとてもよく知っていて、日本に来てからACCの仕事とは別に、自分の関心とかあるいはどういうものを見に行ったりとか、90年以降、日本に住み続けてからはどういうことをされてきたんですか。

コーチ:あんまりしてないですね。

住友:仕事ばっかり?

コーチ:だから日本でも僕のsocial circleは仕事関係ばっかりだったんですよ。だけどit was formalね。日本ではof course, eat and drink with them very friendly, but not much real personal interactions. そんなに個人的じゃないのね。I would say most of my real friends are outside Japan. Like in Taiwan.

住友:じゃあ一所懸命仕事している以外の時期は日本を離れて、インドネシアに行ったり、アメリカに行ったりということがやはり多い。

コーチ:そうですね。まあACCでよくインドネシアに行っていたけどね。I would say that’s very strange. 僕も日系人であり、日本もよく知っている、日本語もしゃべれて。Japan is a very proper kind of societyなのね。And, I find making real friends is not very easy. I think I’m kind of a friendly person.

住友:そう思いますよ。

コーチ:でもあんまり親しくなれないところを私は感じます。アジアで一番親しい友達は台湾の友達。

住友:今も台湾に行って、茶室のプロジェクトなんかを。

コーチ:そうそう。

住友:それは今時間ができたってこともあると思いますけど。

コーチ:それはこないだ帰ってきた話ね。話したかもしれないけど、台湾が日本をどういうふうに見るか、how the Taiwanese look at Japan. たまたま私の知り合いもみんな美術関係の人で、私が最初日本を見ていたような見方を持ってくれる人なのね。It’s like how I fell in love with Japan’ s beauty, and culture. The closest I feel all the Taiwanese have this. そう感じるのね。

帆足:ジョージさんは日本での生活が長くなるにあたって、日系3世として最初始まって、まあアメリカ人で、日本に初めて18のときに来てというのに比べて、今はもう日本の中にどっぷり生活できる関係になって、奥さんも日本人だったりするなかで日本の見方というのは変わりましたか。

コーチ:すごく変わりましたね。

帆足:変わった中で、まだ台湾に一番親しく感じるのは、やっぱりまだそこに原点があるんですよね。

コーチ:日本をすごくフレッシュな、私が見るような見方で同じように見えるというのはすごく共通しているのね。例えば、家内にしても藤森照信さんとかノグチさんの作品にしても、違うような視点で見ているのね。We don’t appreciate it in the same way, Or other Japanese, I think. But, someone Asian, non-Japanese Asian like the Taiwanese people who have an affinity for Japanね。Taiwanese have a great affinity for Japan. I don’t know why, but it’s wonderful。

帆足:でも、ありますね。

コーチ:It’s like unbelievable ね。This kind of empathy, appreciation. A kind of subtle understanding, but also very different. They are not continental China, they are not mainland, they are an islander culture and society. Maybe because they are islanders。ちょっとわかんないですけどね。Taiwanese culture and society reminds me of my first love of Japan.

住友:奥さんと娘さんがいらっしゃる?娘さんお一人?

コーチ:ひとり。

住友:奥さんと娘さんは基本的にずっと一緒に日本に住んでいたんですか。

コーチ:Yes.

住友:娘さんはずっと日本の学校?

コーチ:Elementary schoolね。High schoolはインターナショナル・スクール。

住友:そういう感覚っていうのは、娘さんの場合は普通の日本人の人と同じでしょうか。

コーチ:No, 違うね。 今はもうZineにすごい興味もって自分で出版しているし、何かalternative cultureね。Volunteer for Greenpeace in Japan。Doing translation/interpretation workですね。 Interested in the 70s subculture in America. 僕もちょうど17歳、18歳、大学時代のカルチャーにすごく興味持っているんだよね。

住友:それは何なんでしょうね。

コーチ:I don’t know.

住友:ルーツに関心があるってことなんでしょうかね。

コーチ:Certainly僕のせいだと思うんですけどね。でも私がそういうふうに伝えたってわけじゃないし、今do-it-yourself culture. それはすごくdo it yourselfとかOrganicとか、それがすごく適しているわけね。It fits her sensibility. Kind of style, and earthiness. Very recycle, home-spun. She can make her own clothes.今でも自分で作っているしね。She likes doing things like that. And, it fits her sensibilities.

住友:娘さんともそういうことを一緒にやれる時間ができたと思うんですけど、ACC を辞めて、こういうことをやろうと思っている、という話を聞かせてもらってもいいですか。

コーチ:自分でやったんじゃなくて、人を雇ってね、もちろん。I did everything. 屋根もやり直して、下水も問題あったから。白アリ? My two months there, I was like a contractor…… Now I come back, I am sort of in limbo right now. Now I’m reading Marcel Duchamp. Étant donnés. is interesting really. パブロ・ネルーダ。Poetry is wonderful. Maybe it’s my time for reading and writing poetry now.

住友:ACCの仕事に何か関わっているとか、連絡し合うとかそういうことは今はないんですか。

コーチ:私は自分で判断したんだけど、they wanted me to be an advisor, keep consultancy, but I can’t do that. I am leaving for particular reasons. Usually when I’ve done in the past, I usually just would leave the organization, a clean cut. Former director, Ralph Samuelson is coming here in Japan next week. He’s a good friend. 彼はまだコンサルタントでいろんなお手伝いしているんですよ。But, I think for me right now the new ACC needs to find on its own self. もちろん、その終わりの前にもI go to write a report, and made recommendations. Although I made suggestions, and they have to do what they have to do. They have to do it in a new way. So, it’s better that I leave them and let them do it.

帆足:サジェスションの中で特にこれはでも言っておきたかった、っていうのはサジェスションあったんですか。そのbig reportの中に。If I may ask.

コーチ:There is nothing confidential. Most of it is each culture in Asia is different. I should have brought it with me. I should have talked about it. The thing I wanted to tell New York was differences are what make art art. The difference is what makes Asia Asia. This is a kind of Asia looking at the West. Maybe the French or Spanish people are similar, Europeans, but totally different. Italians, Dutch, British, you know. But, we call them Europeans. Americans, East Coast, West Coast. We know the difference, right? Japanese and Koreans. Chinese, Japanese. So different. Taiwanese and Hong-Kongers, so different. The new New York office is trying to centralize ACC operationally, making it more efficient. They have to understand the differences first. And that understanding is lacking now in the new leadership.

住友:そのことがちゃんと伝わって、今までのmutualな関係が続くといいですね。

コーチ:Artmaking for the Japanese seems different from artmaking for the Chinese, I think. Art means different things in each of these cultures traditionally. 昔から違うのね。How does the work embody the tradition? Also, contemporary Indonesian art. My feeling is that when an organization like ACC becomes less program-centric, then something large is lost. The specialists who allowed the variety of programs now, in order to keep the organization going has to have more fundraising skills, managerial skills, more PR experience. That changes the nature of the organization.

帆足: I heard in Britain there was a movement among the artists who protested against the government who was set on cutting the funding of British Council’s collection and the touring exhibition…… The artists found British Council’s overseas touring exhibitions every valuable for their careers. That’s very important, I think, for practitioners to now raise their voice, to advocate what they thought as to their benefit.

コーチ:You know, a thing about ACC, which I hope they do not fail to understand, is that the support to give means to Asian artists, it’s ultimately for the benefit of the whole country. Their fellowship experience enhances the creative environments that the artist returns to. They must return to that. That’s really the ‘return’ journey of the artist grantee. And that ultimately helps to benefit America. We have a selection of people, we think about how best to get a good artist to come to the US, New York, be good for their exhibition or performance, be helpful to the university.

帆足:中間支援組織は何と何をつなぐかを考えるのが難しいですね。For me, (when I was working for Arcus) having ACC grant was one thing. The other (from Arcus’s point of view) really important thing was to engage with t the community. So, we had to consider inviting artists who could benefit the local community, in addition to those artists who could benefit from our program. It was also necessary for organizations like ACC or the Japan Foundation program, to organize programs that benefit the artists themselves. So, we need to find an actor. One who could engage with the local, one who would be the in-between……

コーチ:I think ACC and the residencies could do those things, all of them, but not all at the same time.

帆足:アーティストの本来の活動を支援する中間支援がなくなり始めているかも、と思ったんですね。国際基金のJENESYSプログラムなどではそれができるんだと思ったんです。ただ、あれも期限のあるブログラムだし、本来の目的は青年交流でアーティストがかかわるプログラムはほんの一部だったので、アートが目的のものではなかった。中間支援の仕事って広くいろんな人が関わらないと成り立たないじゃないですか。ACCは中間支援をしっかりやってたんだな、と今日の話を聞いて思いました。

コーチ:I think ACC’s role、役割、It is a kind of outside player, not mainstream, not following the American government, nor the Japanese government, it was sort of very autonomousね。Independent minded, all different opinions, and basically very careful, I think.それはI’m very proud that I was part of that. But, there is no real ACC kind of mandateね。指示はなかったのね。Unlike the Rockefeller Foundation, I think, or Ford Foundation. Those are a kind of top-down mission. ACC was much more kind of receptive, kind of mission building. Maybe allowing the artist’s mission became our mission. It did more as artist-oriented. As you say, when more donors come in, it changed the flavor. The donors wish to have a voice to select the artists. 色つけるわけですよね。It’s always been about certain donors. Japan was always Saison, Seibu, Tsutsumi. They never asked ACC for anything in particular. They allowed ACC to be unique and itself. If you want, I will share with you some of my recommendations that I sent to New York. ニューヨークのためにレポート書いたのね。

住友:それは辞める時にですか。

コーチ:My final report.

住友:それはジョージの考え方がよくわかるものですか。

コーチ:Yeah, just might be useful.

住友:もしよければ見たいですね。

コーチ:This can mean something to other people. I don’t know in the New York office is reading it.

コーチ:私が聞きたいのは、What do you think ACC’s impact has been.

住友: 一つはさっき言ったみたいに、長くやってきたことや、川俣さんや村上さんや小沢剛さんとかそういう人たちが行ったプログラムだということで、アーティストの側にはすごくインパクトのあるプログラムになっているんだけれども、もう一つはやっぱり丁寧なセレクション・プロセスはアーティストにとってすごくcomfortableなことだと思ったんですね。何で選ばれたか、つまり、どうやって自分たちが認められたか、っていうプロセスが他のいろんな審査とか参加したものの中では、とても丁寧だっていうところは、とてもインパクトのあることだと思いますよ。

コーチ:ちょっと乱暴だと私思っていたんですけどね。

住友:僕も参加するまでは、実は乱暴だと思っていた。何故かと言うと、ジョージ・コーチっていう人がずっと長くやっているから(笑)。でも、それは、分からなかったから。でも、関わってみてわかったのは、いや、そうじゃなくて、他の日本のいろいろな助成のプロセスと比べるとむしろ丁寧だなと思いましたけどね。それはとても関心持ちましたよ。

コーチ:You think the selection has been good?

住友:とても早い段階で、村上さんとかがそうやって送られてきたのは、丁寧なセレクションのプロセスがあったんだろうと思いますね。

コーチ:Someone like Nara-sanもACCに応募したのね。でも、ちょうど帰ってきたばっかりで、ドイツから。His work is interesting, very Japanese maybe. But we told him to apply again. 蔡さんね。Too early. Two years later, never did.

住友:そういうところでもメインストリームじゃなくて、いつも同じ人ばっかりにしてやる必要はないとも思ったんですね、きっと。

コーチ:Sure.

住友:君はヨーロッパに行ったんだったら、他の人にチャンスをあげよう、と。