堀川紀夫(ほりかわ みちお)・美術家
前山氏は1944年、堀川氏は1946年生まれ。1967年に新潟で結成された「新潟現代美術家集団GUN」(1971年に「NIIGATA GUN」と改称)、通称GUNの中心メンバー。日本各地で現代美術家によるグループが相次いで結成された1960~70年代にかけて、「地方」を代表して活発に活動していたグループの一つがGUNである。GUNの最も良く知られている活動は1970年、雪で覆われた大地に農薬噴霧器を使ってペイントした「雪のイメージを変えるイベント」。作品展、シンポジウム、街頭ハプニング、発言紙『GUN』刊行と、当時考えられるあらゆるソースを使って活動を展開した。近年は越後妻有のギャラリー湯山(新潟県十日町市)で様々な展覧会を企画している。
今回のインタヴューではお二人が同席し交互にお話いただいた。1回目は幼少期からGUN結成、2,3回目は制作を中心にGUNの活動の変化や、教師として長く教育の現場に携われながら、作家活動を続けておられる背景を伺った。
インタヴュアーは当時、新潟県立近代美術館学芸員、2012年より新潟県立近代美術館学芸員で2015年にトルコで客死された高晟埈氏。高氏は2012年に開催された展覧会「GUN―新潟に前衛(アヴァンギャルド)があった頃」(新潟県立近代美術館)の原案を担当した。このインタヴューは展覧会の企画調査段階に実施された。
宮田:今回は2012年に新潟県立近代美術館で「新潟現代美術家集団GUN」の回顧展を企画されている学芸員の高さんとご一緒にインタヴューさせていただきます。お生まれについてお伺いしたいのですが。前山さんは1944年上越市生まれということですが、お教えいただけますでしょうか。
前山:ここの家に生まれたわけですよね。その当時は三和村(さんわむら)、その前は上杉村と言って。上下の上と杉の木の杉。合併があって三和村、それから合併して上越市に、今から6年前ですかね、入った(註:前山邸は新潟県立近代美術館から車で約1時間半、美しい水田地帯を抜けた先にある)。その当時は中頸城郡という郡があったわけですね。中頸城郡三和村大字ここは大(おお)ということで。ご覧のようにまわりは田んぼで、ここのあたりから山になっていって。(前山氏の後ろに窓があり、外の景色を差しながら。前山邸は水田からゆるやかに山裾に入る位置にある)田舎育ちの田舎暮らしですよね。一時期勤務の関係であちこち異動しても、だいたい基本的にはここで育ち、生活を維持しているということですよね。
高:ご両親といいますか、もうずっと代々こちらの方ですか?
前山:もともとはもちろん百姓だったわけですが、親父が農林省の方に入って、母は農業をやっていたということですから。家で牛を飼って、今のように耕耘機がない時代ですから、みんな牛が耕して、運搬もやっていましたね。私も牛の草刈りとかを手伝った記憶がありますけども。
宮田:幼い頃はどのようなことに興味があったのですか?
前山:そうですね……まぁ記憶にあるのは、4歳ぐらいからでしょうかね。それまではほとんど親から聞いてなんとなくイメージを描いているだけで。1944年というのは要するに昭和で言うと19年ですから。戦争末期というかね、敗戦前夜になるわけですよね。小学校時代は、父の弟にあたる人から送られてきた進駐軍的なジャンバーですかね。ああいうのを何年間も、小学校の写真を見ると1年も4年生も同じようなものを着ているんですよね。鼻汁で拭ったりでテカテカになるまで、ボロになるまで着ていたと思います。今のように物がある時代ではなかったからね。そういうので小学校時代を過ごしたわけですから。いわゆる高度成長期になるっていうのはやっぱりね、戦争経験を通して、昭和でいうと25年くらいから徐々に回復して30年頃から高度成長期ですよね。中学校頃にはかなりその恩恵に入ってきた。小学校時代はまぁ戦後の貧しい時代だったと記憶しています。一番興味があったのが漫画でいうと「赤胴鈴之助」とか「鉄腕アトム」が出てきた頃だと思いますけどね。冒険もの、とくに『冒険王』という雑誌もあったと記憶があるんですよ、小学校時代にね。父の妹にあたる人から、東京に嫁いでいた関係で年に一度送ってくれるんですよ。それを何十回と繰り返して見て、鉛筆か何かで藁半紙みたいなものの上に何度も真似をしてね。今の子どももそれは共通だと思いますけれども。一つのアイドルというものをそういうかたちで描いていたということがあって。漫画だけが一番今ね、ばっと残っている感じでしょうかね。絵が好きになったというのも小学校4、5年頃にそうやって漫画を引き写しているうちに自分も漫画を描きたくなったという時でしたね。
宮田:ご兄弟はおられたのですか?
前山:3人ね。6歳上の姉と2歳下の弟がいます。
宮田:漫画を一緒に読んだり、描かれた絵を見せ合ったりして一緒に遊ばれたりとか……
前山:そうですね。今の子どもも女の子は少女漫画を描いたり、そういうのは今の時代と同じなわけで。今のようなアニメーションはない時代でしたから、漫画が唯一の娯楽だったのではないでしょうか。映画は学校で観るのと、屋外に白いスクリーンを張って、裏からでも表からでもどっちからでも観れる状態でね。村中の人が駆けつけて観ていたのを覚えています。「鞍馬天狗」とか、だいたいああいうものですね。
宮田:当時のお家の数や人数は多かったのですか?
前山:そんなに人口的には減ってもいないけども、増えてもいないと思います。家は今よりは若干あったかも知れません。昔、稲木やなんかけっこうあったからね、風景はね、道はもっと曲がりくねっていたし、もっともっと田舎っぽかったかと思いますが。それからほとんど茅葺きの家だったですよね。
宮田:堀川さんにも同じ質問をしたいと思います。
堀川:出身は同じく中頸城郡清里村という、当時は新潟県では粟島浦村に続いて1番小さな村と言われていましたけれども、(昭和)30年くらいの合併に、小さな櫛池村と菅原村とが一緒になったところの今曽根という集落です。生まれは1946年の2月ですので、自分では数少ない世代の生まれと思っております。戦中戦後に渡る感じでね。別に戦後でもないし。戦争の記憶をそれなりに再構成して、物心ついた頃からそんな風なことを考えてきておりました。(子どもの数が)少ない年代です。私らの次の学年からは急に1.5倍から2倍くらいに増えるんですよね。これは戦後第一次ベビーブームですわ。私は男4人兄弟の末っ子でありまして、たまたま十歳上の長兄が同じ教育学部(後に出て来る新潟大学教育学部)なのですが、美術コースに入りまして、(自宅から大学があった)高田(市)の街まで約10キロか8キロか、その程度の範囲内でほとんど出たこともなかったし、都会を見たことがなかったです。本を読むのが好きだったわけでもないし、ほかに興味があることも特になかったのですが。一つはその兄弟が、その頃の十歳というと相当な開きでありまして、十歳と二十歳くらいですからね。小学校の高学年で少し物心がでてきた頃に、油絵具のセットを買って自分で絵を描いていたりしていましたので。それからちょうど中学校に入った頃に、若い美術の先生で新鮮な方がおられましてね。おのずと美術には関心がいきました。その他の教科であまりインパクトを与えられた記憶がないですね(笑)。なぜかそれはわかりませんけれども。美術では非常に面白い焼物をやったり、石膏とりをやったり。小学校の頃はたいしたこともせず、ボーとしていたタイプでしたわ。いつも上の兄弟を見て育ったもので、そんなに特別な記憶はないですね。中学に入る頃に体力もついて、家の手伝いをよくしてという記憶はありますけども、大半は集落や自分の家のまわりの100メートル四方くらいのところでだいたい過ごしてたんじゃないかなぁ(笑)。もともと(性格的に)粘る力がなくてね、本も良く読めないんですよ。特別たくさんのおもちゃを買ってもらったということもないし。貧しい家だったから。
たまにね、父親が教員をしていましたから『少年マガジン』じゃない、『少年時代』みたいなのがあったじゃないですか。そういうのをちょっと買ってもらったりして。少し雑誌を読んだ程度でした。
宮田:父親が教員というのは、どういう教科だったのですか?
堀川:小学校の教員ですね。特に強烈な刺激を受けたわけではないですし、のほほんと過ごしていました。
宮田:前山さんは堀川さんのように、ご家族やご親戚に美術に関わる方はおられたのですか?
前山:特になかったと思いますね。ものをつくるのはね、あの当時は今のようにおもちゃが何でも揃っている時代ではなかったから、チャンバラごっこか何かをよくやってね、反りの良い直径2センチか3センチくらいの木を切って、桜あたりを、ノコギリと鉈を使って、自分の手を切った記憶もありますがね、自分で削って刀をつくったりするんですね。あとパチンコは股木に生ゴム、皮をつけて、そういうものはみんな自分でつくって遊んだというか。弓とか、それからめんことか。わかりますか?
宮田:はい、わかります。
前山:僕らの言葉だと「パチ」って言うのですよね。遠征に隣の集落に行ったりするんですよね(笑)。こうやってやって(手を振り上げて、めんこを打つ仕草をしながら)勝つと(みんなのめんこが)もらえてたまるんですよね。競い合ってそれが宝物になる。箱の中に入れて大事にしたというものもありますけどね。家の中で遊ぶよりもみんな明るいうちは外で駆けずり回っているという時代でしたね。
宮田:もう少し大きくなられて、高校生くらいになると大人達との付き合いも出始めると思うのですが、影響を受けた方とかおられますか?
前山:高校はいわゆる今でいう受験校でしたね。
高:高校はどちらですか。
前山:高田高校(註:高田市、現・上越市。新潟県上越地方で一番の名門進学校)でしたから。その当時上美(じょうび)中学校から進学したわけですが、ここ(自宅)から12、3キロあります。自転車で通うかバスで通うしかないのですが、バスも本数がないから自転車で通いました。1年目は。中学校の頃は部活動といっても特に決めたところには入らんかったので、高校では小学校の頃から美術が好きだったので美術部に入りたかったのですが、自転車通学で1時間は優にかかる。今のようにアスファルトではなくて砂利道ですから。とてもじゃないけど夕方暗くなるくらいにしか帰って来られないということで、入部が可能になったのは2年生の夏以降頃からだったと思います。結局今考えれば美術部の活動が一番印象的かなと思う。勉強はまぁ……、中学の同級生が3人入ったわけですがね。この地域のなかではエリート校になるから。入るだけですごいと言われた時代なんですけども、僕らは田舎から行ったからとてもじゃないけどはじめは戸惑いましたね。附属中学校とかからね、あの頃でいうと城南中学校とか大規模なところからどっと来ていますので。あの当時は50人クラスだったと思います。一番多い時でクラスに52人いましたから。
宮田:多いですね。
前山:その中の半分くらいが附属(中学)で、またその残ったうちの三分の一か半分くらいが大規模な学校という。田舎から行ったのはね、8クラスのうち一人ずつ、3人がバラバラにどこかに入るわけですよね。だから最初は借りてきた猫みたいにちぃーさくなって。授業はというと「ハイハイハイ!」とみんな手を挙げてじゃんじゃん活発に発言し、休み時間はとなれば仲間内でみんなコミュニケーションとるでしょ。僕はといえば見知らぬ人ばかりで、最初の1、2ヵ月は「大変だな」って、勉強についていくだけで精一杯。そんなのからだんだん慣れてきて、やっと学校の方もある程度余裕ができて(美術部に入れて)いったということだと思う。ただほとんど「勉強、勉強」って追われていて予習をしないと授業に出れない。授業に出るともう「ここは覚えてきたこと」になっていて授業が始まるというね。覚えていかないとチンプンカンプンで。教師もねトップクラスの優秀なのに力を入れて焦点を当てたというか。僕らみたいについて行くのがやっとという生徒には目もくれないという。だから勉強でいうと良いイメージを持っていない。優秀な子にね、なんというかな、えこひいきというわけではないのだけど、出来るのが当たり前という授業を展開されちゃう。そういうのにはすごく抵抗があった。
堀川:(記録用ビデオカメラを見ながら)映っているんだよね(笑)。
宮田・高:はい(笑)。
堀川:いやね、おまえの話は面白いなと思って(笑)。
前山:(笑)。いやでもね、あとになってもね、そういうことは心に残っているんですよね。だから例えば(創立)100周年とか大行事とかでね、先輩たちがどんどん出世しているから、お金の出資とかお願いが来るでしょう。さっき言ったように僕の場合は高校に良いイメージを持っていないから、何となく同窓会や同級会で団結しようとかあまりならない。だからその後の自分の人生はそこでねじ曲がったのかな?(笑) 反発バネが働いたのか。人を蹴落としてまでのし上がっていくとか、儲けていこうとかそういうことにはすごく抵抗があるのですよね。どこか裏街道まっしぐらというところがあってね(笑)。
宮田:高校時代の絵画部ではどのような絵を描かれていたのですか? 美術部ですね。
前山:油絵を初めて描いたのは2年生の秋頃だったと思います。ほんの8号か10号くらいの小さいカンバスでしたね。考えてみるとどういうわけか、具象ではなかったですね。竹やぶのイメージで描いていたのだけど、描いているうちに何を貼付けたのだったか? 石ころの小さい砕いたものを貼付けたり。見よう見真似で雑誌を見ながらやったのかも知れませんが。一番最初の油絵はすごく記憶に残っています。現物はここにもないのですが(お話を伺っている部屋・仏間の端に置いてある作品群を見ながら)、どこか抽象の方に興味があったのかな? と思いますね。「写実的にきれいに描こう」という気にはなれないというかね。中学校時代はどちらかというと小学校時代からの影響で、さきほどお話したように漫画の引き写しが多かったでしょう。だからグラビアとか風景の写真を全く同一に見えるくらい克明に描くことが得意だったわけさ。高校に行ってそれに反発したというのもあるのかも知れませんね。(美術)部というとデッサン、石膏デッサンに明け暮れてました。先輩の3年生は次の受験に備えて木炭デッサンに専念しているでしょう。僕らは(そういうのは)2年生の頃はしないで、3年生になってから少し始めたかな。授業の息苦しい環境からすれば唯一気楽に。女の子と話したのも初めてが部で(笑)。8クラスあったうちの1から6までが男子クラスで、7と8が女子クラスだったんですよね。
宮田:分かれていたのですね。
前山:幸か不幸か3年間女子クラスと一緒になることはなかったですね。3年の頃に混合になった時もあったかも知れないけれど。ただ入れ替わりで世界史の授業などでは(クラスを)解体して横断的に専攻する者が集まるから、美術部の女子なんかとも話すことができたけれど、それがなかったら本当に完全な灰色高校だったかも知れないですよね(笑)。
宮田:美術部では当時の美術雑誌を見るようなことはあったのですか? 同時代の動向などを知れるような。
前山:いやー何かあったのでしょうけど、記憶には残っていないですね。石膏デッサンの教本みたいなのは高校の時にありましたけどね。
高:例えば、『美術手帖』などを読み始めるといったのは大学に入ってからですか?
前山:大学に入ってからですね。高校時代は見ていないだろうなぁ。石膏デッサンの教本みたいなのは見ていたけど。
高:大学入試の時は実技は科目としてあったわけですか?
前山:ありましたね。
高:やはり石膏デッサンですか?
前山:石膏デッサンでしたね。それだけは実技できちっとしてないと。あと今みたいにね、スケッチだの現物を見て構想して新しい絵を描き上げるといったテストはなかったですから。ほんのペーパーと、教育学部でしたから教育法的な科目はありましたが、美術に関していえば、実技では石膏デッサンオンリーなんですよ。それだけは3年になってから必死こいてやりましたね。
宮田:堀川さんは、思春期というか大学に入る前までの様子は?
堀川:中学校のときの先生で北条明義という先生がおられて。美術に興味を持ったというのは兄弟が美術の大学生だったということもあったのですが、その北条先生が担任になって来られて。3年間とも美術の(先生が)担任だったのですよ。最初の1年生の時は武蔵美を出てはじめてか二校目の青木という先生で、それで楽焼とかをやったんですね。当時は珍しかったですね。それで2年目に二校目の北条先生が。厳しかったけれど。等身大の塑造・粘土でつくるのを、僕らの同級生をモデルに夏休みに作るんですよ、学校で。戸をこうやって(扉を開ける手振りをしながら)ちょっと開けてのぞくと、同級生がポーズとっている。それが日展に入るとかっていうニュースが入るの。あの時の感覚だと「すげー先生だな」と思ったりしたんですわ。私も高田高校に進むんですけども、66人中3人くらい進んだんですよね。その時に北条先生の同級生である、村山陽という日展に出されていた先生が一校目か二校目くらいで転任されてくるんです。
前山:二校目だね。小出高校から。
堀川:うん。それでね、それからクラブ活動の勧誘会があって、すぐに美術クラブに入るんですけども。その時多分(前山さんと)一緒に入ったんですよ。彼は2年生の時から入ったんで。
宮田:同時期に。
堀川:かといってそんなに美術で何かやろうかとかそうではなくて、美術クラブで遊んでいたようなものだから。僕は高校時代にたいした勉強もしなかったけれども、分相応にやっていたので(笑)、別に苦労したとか嫌な思いもした記憶はないんですよ。学年としても(人数が)少ないからまとまっていたし。随分とのんびりと幸せな時代だったのかなと思うんですよ。僕の次の学年からまた面白い奴がいて物議をかもし出す事件を起こすのですけども。
高校時代は楽しくて、クラブに行ってデッサンして。ほら(木炭デッサンで)パンを使って消すじゃないですか。腹が減ったらそれを食べたりして(笑)。
遊んでましたね3年間。ただ色々先輩を見よう見真似でね、クラブ活動では夏場にスケッチ登山というのがあって、そういうことも楽しかったですね。
スケッチ登山に行った時に前山君がスケッチしているような写真も(笑)、残っています。
一同:笑
堀川:前山さん(の印象)もね、たまたま(前山さんが住んでいる)隣の集落に私の叔母が嫁に来ていまして、「前山さんって三和村のすげぇいい家の子どもだ」というイメージが最初から入っていましたね。何と言うかね、切っても切れない(関係)で来てしまったというか。死ぬまでこんな感じなんだと思いますけど(笑)。
高:お二人が初めてお会いになったのはその高田高校なのですね?
前山・堀川:そうですね。もちろんそうですね。
前山:私が2年、彼が1年の時でしたね。(堀川さんに向かって)話が途中だけど話していい?
堀川:どうぞどうぞ、しゃべりたいことがあるのでしょう(笑)。
前山:さっき話したように、小中高と美術は好きであったけど、別にそれでどうこういうというわけではなくてね。中学校の時の担任の先生は彼と違って(美術の)専門の先生ではなかったし。もう故人になられたので構わないと思うけれど、社会科の先生でした。美術の授業では「外の風景描いていなさい」とか自由で、特に何かを教えられた記憶はないのですが。それがかえってその分良かったということはあるかも知れないけれど、専門的なことは習わなかった気がするんです。高校に行って2年のとき、あれは5月のはじめ頃だと思うのですが、今で言うと親のPTAみたいなのがあって、いわゆる個人面談みたいなのがあって。親父が担任のところに行ったら、担任は数学の教師だったのですが、こう成績表を見てね。だいたい三百何人いたなかで真ん中あたりで低迷していたわけで(笑)、時たま少し前の方に行くくらいで、平均的な高校生だったと思いますわ。(担任の先生が)「どれを見ても取り柄のない子だね。美術だけは良いじゃないですか」とね。まぁ90点台だったのでしょうね。親父は自分はさっき言ったように公務員だったから、息子がもう農家では食っていけない時代になるから(と考えていて)。一応農業的には山田(やまだ、註:山の田んぼの意味)が多かったのですが、一町歩(いっちょうぶ、註:1ha)の山田は作り手がなくなっていくのですけども。だからそうなると、平場にはほんの6反弱(註:6000㎡弱)しかなく農業では食っていけなくなるので小学校の教員にでもしたかったらいしいのですね。僕はもう全然教員になるイメージはもちろん高校の時はなかったのですけども。たださっき言った個人面談で担任に「美術以外は小学校の教員も難しいのではないですか」と言われたんじゃないかと思うんですよね。それで帰ってきたらね、絶対反対していた美術部に、「入りたい入りたい」って1年生の時にお願いして許してもらえなかった倶楽部を、急にね「おまえ美術部入って良い」と(一同笑)。
堀川:その話はじめて聞いたぞ(笑)。
前山:俺もはじめてした(笑)。その場面だけ良く覚えているんだけどね。自転車で帰って来ると7時すぎになるでしょ。だいたいその頃は放課後になると4時近くなんですよ。掃除なんかしていると3時半くらいで学活が終わるのかな。だから4時頃から6時くらいまで部活やっても、家に帰ったら7時過ぎでしょう。真っ暗になるから。それで結局ねだってね、バイクを買ってもらうんですね。原付きだったと思いますけどね。それで高校生活の後半は、2年生の後半から3年生にかけてはバイクで通ったと。バイクだとほとんど30分かからんで行けちゃうでしょ。随分と通学が楽になって部活ものびのびできるようになったわけですよ。だからそれで、まぁなんというか美術の教師になろうとその時に思った訳でもないのですけど。ただ3年になってからだんだんとね、先輩が進路のことで追われてそれぞれ決めていくな、というので、自分も3年になってからやっぱり美術以外取り柄がないから、美術でやろうかと。美術教師ということになればね、親父の望みも半分は叶えられるかなと。美術の教師にさせたくはないにしてもね。そういう気持ちもあったでしょうし、そういうの(部活動からの影響)からすると、先輩の流れの中で自分も新大(新潟大学)の芸能科を、家から通えるということで、受験するのを意識するようになったというか。親も遠くにはもうやらないと、長男でしたから。田舎の長男というのは家を継がなきゃいけないというわけで。受験も今の新大の、高田に芸能科はありましたからその絵画科と、信州大の教育学部かな、その2カ校だけ。あの当時(試験)は一期二期だったから。幸いに信州大は二期だったから。両方落ちたら、まぁ農業を継ぐということで(笑)、東京の方の美術系はいっさい初めっから受けさせてもらえなかったですね。それでどういうわけか、いちおう芸能科の絵画科に引っかかったので、そちらに4年間通うことができたということですね。
宮田:(堀川さんは)お兄様が美術を専攻されたということで、家で美術の雑誌や情報を得るということはありましたか?
堀川:美術の情報で一番身近にあったのは『美術史』『日本彫刻史』みたいなもの。写真が小さいのですよね。(中学校の時の)修学旅行で奈良・京都へ行った時に、それがだいぶ手がかりになって。一番最初に本格的な美術作品を観たとすれば、奈良・京都の仏像、神社や仏閣の類ですよね。あの中のもので。一番最初に覚えたのは奈良の三月堂の月光・日光菩薩や不空羂索観音とか、そんな手のものですよね。あの時は薬師寺は行かなかったのかな? 東大寺に行ったのは記憶にありましてね。だいたいあの頃に、日本の仏教彫刻のピークとも言われたような一つの時期のことは中学校の時に少しインプットされましたね。あとはただ、本当にすげぇ大きさの作品を観るのは少なかったですね。
えーっといくつの時かな? 兄貴が大学を卒業する時に、えー私は幾つだや? 二十五と十五ですから高校に入った頃かな。ちょっとでっかいM100号くらいのね、かなり良い作品を描きましてね。自分は美術に興味を持ったのだけど、こんな写実的な絵は描けないなと思ったのですね。ある時にもともとの自分の感覚タイプというものを自覚した時があったのですけども、そういうクリアというか写実的主義な作風には最初からあまり関心を示さなかった、感動できなかったですね。だから村山先生の初期頃の作品はかなり良いですけども、恩師に対してね作品が良いとか悪いとか言っちゃ失礼ですけども、今の作品よりも遥かに私は優れている部分だと思って。あの頃、学校の廊下に無造作に絵が立て掛けてあるのですよ。日展に入ったり、一水会に入ったような作品がね。それでもね、そんなに感動もしなかったので。ただ美術は面白そうだなと思いまして(笑)。彫刻に行こうかなぁと思ったり。彫刻は中学校の時に既に石膏(の型)取りをしたり、高校の時に北条先生が全身像の石膏とりをするのを手伝うんですよ。だから石膏とりのノウハウというのはそこでかなり大きな仕事を手伝うわけですから、身体で覚えちゃったみたいなものですよ。でも彫刻だと先生になるのは大変だと聞いたりして、絵画の方に行ったのですけども。うーん、なんで(科目のなかで)美術だけになっちゃったかというと、ほかの能力とかではなく、感動しなかったということなんですよね。一生懸命熱心に勉強するのがだめなんですよ、私、子どもの頃は。高校の時ちょっと頑張ったら東大に行ったたような連中を学科で点数が上回る時があって、「俺もけっこうやれそうかな」と思ったこともあったのだけど(笑)。(兄弟の)上3人がまだ大学卒業したてとかの頃で、近くの大学でなきゃだめだなとはなから分かっていたので、遠くの大学なんてとてもじゃないけど発想の緒にもつかなかったということですよね。高校のクラブに入った時の3年生が7、8人大勢大挙して美術科に入るんですよ。美術科とか美術教師になるための芸能科コースっていうのがあって。前山さん達の学年も4人か5人入ったよね?
前山:そう、だね。
堀川:だからね、高田高校の美術クラブはもうすぐ隣の、300メートルくらいしか離れていないところに行くという。(笑)なんとなくさぁーと入っちゃったんですね(笑)。 まぁそんなところですね。
宮田:さきほどカメラを使うお話が出ましたが。
堀川:カメラの話?
宮田:はい。高校生の頃からカメラを撮られていたのですか?
堀川:カメラは父親が関心があって、兄貴たちが大学に入った頃にオリンパスだったかコニカだったかね、新しく買ってもらったのですよ。それで家にカメラがあったんですね。私が操作をするようになるのはもうちょっと後ですけども、写真は好きでしたね。家で写真を撮る習慣があったものですから。
宮田:いま大学に進むところまで伺ったのですが、「芸能科」というのはとても珍しい。私は今回インタヴューするにあたって初めて「芸能科」というものを知ったのですが、どういう学科、コースだったのでしょうか。
前山:今は「芸能科」っていうと本当に珍しいのですが。その当時もね、もちろん全国的に珍しかったと思いますけど。簡単な言葉でいうと「総合芸術学科」みたいな、そういうイメージで描いてもらうと分かりやすいと思うんですよ。
なかにはね彫塑科、日本画、西洋画、これいわゆる油ですね。それから、えーと保体(保健体育)、音楽、これで全部?
堀川:違う違う、書道科があったでしょう。
前山:書道科ね。書道科はね、その当時全国で2つしかないって言われていたかな。
堀川:2つか3つですよね。
前山:だから珍しいというので北海道あたりから入学して来る学生がいましたよね。そんなことで1、2年の頃は基礎的なことから、デザインから日本画、彫塑、俺は油だからそれだけ描いていれば良いというわけにはいかなかったので。基礎デッサンから改めてみんな含めて学習するのですよね。3、4年になるとかなり自分が専攻した油の方で、一週間に午後を、3講4講目の時間に午後1時から4時くらいが実習になるのですよね。西洋画実習っていう。そういうのは授業があるかというとそういうわけではなくて、大きな部屋に一人が数メーター、少なくとも3メーターくらいはスペースを与えられて、その場所が自分のまぁ畑代わりになるわけですね。で隣には別の人が皆いるというわけですから。そこで常時、キャンバスに向かって制作ができたわけですね。それで部屋はがらんとして壁面を主に、壁側を使いますから、床の方には色々な物が置いてあったり、真ん中に集まって、冬であればストーブを囲んだり、飯も食えたわけですから、そこでね。授業という感じよりも、そうですねぇ、自分達が自主的にどんどん制作していると。教師はたまーにちょこっと覗いては帰る程度で。僕らがいない時に評価をしていたのかもわかりませんが。特別こういう作品を提出しなさいとか、課題ですよってふうなことは、西洋画については全くなかったですね。それで僕は西洋画ね、さっき言った油でしたから、(教授は)鳥取敏(とっとりびん)さんって言ってね、その当時は二紀会の会員だったわけですわ。二紀会は二科会から分離したと思うのですね。宮本三郎とかと一緒に、創設メンバーだったわけですね。その当時でもね、ほとんど戦争のせいで作品はみな燃えて残っていないって言われていて。僕らもね、写真で見た記憶はあるけど、ほとんど自分の教授の作品を見たことがないですし、その当時は足も悪くて、キャンバスに向かっている先生の姿を見ていないし、制作をされていなかったし、研究室に行っても実物はなかったように思うので。まぁ授業といっても講義型のきちっとした黒板を使うようなものはほとんどなくって、ちょっとテーブルを囲んでね。教授の部屋でディスカッションなんかはちょっとときたましたことは記憶にありますね。今残っている記憶では、洞窟壁画ですね、アルタミラとかラスコーとかああいう壁画に絵画的な制作意図というかね、そういうものが、「意図的なものがあるかどうか、ないと思うか」という問いかけをしてね。そうすると学生の僕らが、同期が8名くらいいたかな。やっぱり半々くらいに分かれてて、「俺はある」「ない」って両方で主張したのですけども。その場面だけがちょっと今残っているのでね。自分はどちらかというとね……。うーん、意図があるというか、偶然的に描いているうちにああいう構図的とかデフォルメとか色んなものがあったというのは、「やっぱり絵画的なセンスがないと絶対にできない仕事だ」という風に主張したような記憶がありますね。
そんなわけで学校自身は非常にあの頃は、さっき言った1968年からすると、ちょうど数年前ですから、まぁどちらかというと開放的な時代。社会は高度経済成長ですし、若者の考え方や行動もね、大目に見られた時代ですから。僕らはまだ大学闘争ははじまっていなかったけれども、色んな要求とかね、大学との交渉の場面はありましたしね。自治会がおこなった交渉の場面に出たこともありますが、まぁけっこうのんびりとやってたし、僕らの西洋画の部屋は夜10時まで開放でしたね。4年生にもなると講義型の授業はほとんどなくて、そこに入り浸りっていうかね。朝9時だろうが10時だろうが夜10時までそこでずうっと制作できたと。非常にね、解放区みたいな感じでしたね。(制作が)間にあわなければ、3、4年になると公募団体に出したいと、そういうときに「間に合わないので徹夜させてくれ」って言えば徹夜させてもらったこともありますわ。まだ自由が効いていた時代だったんですね。
宮田:1年違いで堀川さんが入られますけども、学科の名前が「美術科」に変わっていますが、同じ? 同じ学科……
堀川:うん、おかしいのですよ。教育課程の変更があったのだと思うのですね。私は芸能学科というのでイメージしているのは、誰が言ったかはちょっと記憶にないのですけども、「裏日本の芸大」(笑)みたいな言い方があったのですよね。確かに当時ユニークな存在だったのですけども、まぁ違った社会的な要請というかね、そういうことで僕らの学年から、願書の時には「芸能科西洋画コース」だったのに、合格して行ったら「中学校美術科甲乙」になっているんですね(笑)。甲が要するに教育美術系で。
前山:中学校美術科。
堀川:そう、中学校美術科の甲乙なんですね。そこだけが突然、僕らの学年だけがそういうふうな名称というかね、組織立てになっちゃったんですね。
宮田:大学に入ったらかなり自由な雰囲気のなかで……
堀川:それぞれの学年に特色があったのでしょうけど、あまりほかの学年への関心はなかったですけども。僕の時の西洋画コースは男が2人で女の子が3人だったかな? みんなだいたい美術がすごい(できる)じゃなくて、学力で入ってきたような感じなんでね。私もデッサンとか上手じゃなかったから(笑)。でも学力点だけはかなり良かったってね。実際に自分でテスト受けたらわかりますからね。1年生の時は先生(教職の授業)のはかなりまじめに普通の授業を受けていましたけど。ほかの同じ美術科の仲間達が面白い連中で。まじめなのもいましたけど。どちらかというとねアナーキーっていうかな。やっぱりまともに物事を見ないようなタイプの仲間がいて(笑)。むしろそういう連中から、話が上手だったりね、いろいろと自分が知らない面白い世界を知っていたりとかして、学ぶべきことが多かったですね。まともな勉強方法とか、何て言うかな、明確な目的意識というのは希薄でしたので。2年生のあたりから少し、いろいろな価値の違う世界について意識を呼び覚まされるようなことがいくつかあって、変わっていくのですけども。それまではほとんどほら、外の世界を見ないで。何かにも書いていますけども(手元の資料見ながら)(註:堀川さんはGUN発足以前からの詳細な活動年表を作成されており、時おりその活動年表を見て時期を確認しながらお話くださった)。大学に入った5月に、その年が東京オリンピックの年で、ミロのヴィーナスが西洋美術館に来るのですよね。それで初めて夜行(列車)に乗って4時間か5時間かけてね(笑)。あの時一緒に行ったのだっけ? 前山さんも。
前山:うーん。一緒だったと思うけどもね。9時半に乗ってね、明け方の4時半くらいに着くの。数時間かかったんだよね(笑)。
堀川:とにかくね、夜行に乗って行ったの(笑)。科学博物館まで、こういうふうに長方形型にぐるーっと並ぶんですよ。ちょうど一周くらいしてまわって入った記憶あります。
高・宮田:すごい。
堀川:それであの時、オリンピックへ向けての建築ラッシュがありましたね。工事中の高速道路とか見てね、すげぇなと思ったりしてね。そんな記憶がある。
それ以降、年に数回から、10回も行ったことはないですけども、少しずつ回数が増えていくのですね。
宮田:東京に行かれる回数が。
堀川:そうですね。
宮田:その頃、団体公募展ではない所属せず作品を発表するという作家が現われていたと思うのですけども影響はありますか。
堀川:うん、僕は3年生くらいからですかね。前山さんの動きなどが一つのメルクマールというか、標柱となっているのですよ。それがなければ銀座の画廊などもみることがなかったので。前山さんこれからしゃべると思いますけども。私が1年生の後半くらいに前山さんあたりが2年生で抽象画をいっぱい描くのですよ。僕は2年生になってからね、抽象的な表現をはじめるのですけども。そんなに根本的、必然的な何かきっかけがあったわけではないのですけど。ただあまり写実的なふつうの絵はそもそもやる気がしなかった。
宮田:展覧会など作品を展示する機会というのはあったのですか。
前山:1年生の時にね、上越市展っていうのがあってね。
堀川:そっか、あったね。(笑)
前山:はじめて展覧会に、展覧会と言われているものにはその時初めて出したんじゃないかな? そこで奨励賞(をもらって)。50号くらいのベニア板に壁派的な工場地帯みたいなの、こうなんとなく泥臭い工場の壁面を思わせるような絵を描いていたと思うのですが。そういう連作をある程度1年から2年生にかけてやっていたと思います。2年生になってもうちょっと抽象化はしているのはあったとしても、基本的には半具象の範囲内だったと思いますけど。
彼が言っていたように東京に2年生頃からかなり頻繁に行くようになったのかな。それで情報が、美術手帖ももちろんその当時読みはじめていたと思いますが、現実に画廊をあちこちとまわったり公募団体を見たりというなかで、かなり自分たちの視野が広がるのですよね。自分の視野が。大学の中っていうのは今まで自分の先輩とか教授の一つの西洋画の雰囲気とか、制作の傾向っていうのがもう99パーセントをしめていたものが、全体からみたら何割にしかならない小さいのだと逆に思っちゃったところがあったのかな。だから本とかから学ぶよりも、現物の絵とか、それから画廊へ行ってそこにいる作家と話たり、評論家と出会って話しているうちに、そこから吸収するのがすごく自分では多かったと思いますね。もちろんどれほどわかっていたのかと問われるとね、ほとんどわかっていなくてね(笑)、話をしていたと思うのですが。ものすごく背伸びをして、相手の言うことを聞き取って、「俺はこうだ」といろいろ質問したり自分の意見を言ったりしていたと思うんですよ。その無理が、無理ではなくなってだんだん自分の方に定着してきたのだと思いますけども。何か絵について「ここをこうしなさい、ああしなさい」と指導を受けて、授業とか先輩との関係で自分の制作が進んだというよりも、東京との行き来で吸収したもので自分の絵を進めていったのが自分の場合は大きかったのではないかと今にしてみればそう思います。
それで1年生と2年生までは、僕らの先輩もみんな教授が二紀会だったから、二紀会に出していた。例外的にぽつぽつと別のところに出していても、ほとんどが二紀会でした。だから私も1、2年は疑うことなく二紀会に出して。
高:東京都美術館での……
前山:ええ。1年も2年も入選はしたと思います。あの当時2段がけか3段がけのところに、「ああ俺の絵が何百枚という絵のなかにある」といった見方しかできなかったわけですけどね。でもそれがだんだんと飽き足らなくなるというかね。半具象的なものから抽象の方が画廊には溢れていて。若い人たちやその当時の前衛、僕らより一世代上の人たち、僕らが今60代とすると70代の世代にあたる人たちが、その当時たぶん30代の一番はりきった部分(時期)ですが。篠原有司男(1932-)とか荒川修作(1936-2010)とか、いろいろな人たちがもうどんどん発表している時代でしたよね。そういうのを見て僕らもすごく影響を受けて「抽象画」っていうところに行って。だからは私は2年生の終わり頃から3年にかけてガラっと抽象画に完全に転向したみたいなね。油だけじゃなくてね、粘土か何かで原形をつくって、いわゆる塑像のような。漆を塗ってみたり型紙みたいなオブジェをつくったり、レリーフつくってみたり3年生あたりでやっていましたね。
東京をまわっている時に、3年生の時かな? ルナミ画廊がその頃一番自分が好きな傾向の絵があったのかな。自分も発表したくなったのでしょうね。背伸びをしたのだと思いますが、(画廊を借りるのに)資格や経歴がいるのかと言ったら、いや全然いらないのだと聞いたので。学生でもいいのですかって聞いたらね、いいとね。それならと思い切って4年の春に。あの当時大学生で個展をやるって普通は考えなかったと思います。自分も無理してやったのでしょうね。その時はどちらかというとアンフォルメル傾向の油絵を中心に展示したのですよね。
ただそのなかにもう平面と立体にまたがる作品とか、それから実像と虚像みたいなね、そういうかなりコンセプチュアルなところにね展示している時に行っちゃっているものがあって。今思い出すと、例えばガラス瓶を、薬品を入れるようなボトルみたいなのを4本か5本並べておいて、バックは鏡の箱で。1本目は半分まで赤いインクか何かを入れて、次の瓶は外側を半分赤色に塗ってあると。同じ高さで。もう一つは手前の側、二分の一、180度分塗ってあって裏は何も塗っていない。その次のは裏側(を塗って)だったのかな? とにかく種類を変えたのを置いて、前から見るとどれでも全部半分赤く入っているように見える(仕掛けの)作品。それは油からもう完全に離れちゃって、その当時の最新作だったと思うのですが、展示の時にだんだんとそっちの方に興味がいったんだなという記憶がある。
それで4年の後半は制作もどんどんコンセプチュアルな方にいったと思いますし、さっき言った(インタヴューの前に2012年に新潟県立近代美術館で予定している展覧会の出品作品について打ち合わせがあり、話題となった)プラスチックの透明の板に裏から人型や人の顔を、バックを青色なら青色に塗って、人体や顔を部分は塗らないと透明ですから素通しになるわけ。壁に抜ける部分と手前に色が見える部分が同一表面上に現れると。シンプルなシルエットになるとかなりポップアートに近いのですが、そういう作品をけっこう制作するようになって。たぶん4年の夏頃だと思いますが、さっき言った自分たちが自由に使える実習室に手洗い場があるんですよね。そこにほんの30していセンチくらいの鏡があって、そこで毎日もちろん何年間も見ていたのですが、ある時ふっと淵が腐食しているのに気が付いたのですね。(手元の紙を使って)これが鏡とすると、(紙の角を差しながら)ここら辺がぐちゃぐちゃになっていて箔が抜け落ちてバックの壁が見えていたわけ。こう留め金があって淵以外は普通の鏡。それを見て不思議な感じになったんですね。自分が映っている世界とそれから壁が同時に見えるのが。鏡の表面で(二つの場面が)同一世界に立ち現われるということが、ある時一瞬に「ぶわぁっ」と自分の制作とすごくだぶってきたというか。プラスチックで透明なところに色を塗って二段階にするより、鏡の部分というのは映るだけじゃなくて向こうに抜けて行く、空間にずうっと入り込める世界ですから、「プラスチックなんかよりはるか何倍もの強力なスケールの違和感がある空間を同一平面上に出現させ得る!」みたいな、そういう直感が働いたのかな(笑)。それ以来鏡に取り憑かれて鏡を裏から削るのですが。最初はなかなか上手くいかなくてだんだんと慣れてきて。今のいわゆるカッターなんてないですから、安全剃刀ってひげ剃りのフェザーというドイツ製のすごい切れ味のいいのがあってね、それをペンチで5ミリくらいに裂いて割り箸に挟んで糸で絡めて自家製の(カッター)を作って。それで鏡の裏を削ることでガラスになる部分と鏡のままの部分をつくって。その後数年間はそれ(その作業)にくらっときて鏡に(没頭して)いく感じでしたね。
高:ちょっと戻るのですけど、「上越市展」は当時「高田市展」ですよね?
前山:そうですね。まだ高田市でしたね。
高:はい。確か1965年くらいまで「糸魚川市展」(糸魚川市、新潟県西部)に作品を出品されていたというのがあったと。糸魚川市展が当時芸能科の学生のなかで評判になる、普通の市展とは違うとか、そういうことはあったのでしょうか?
前山:そうですよね。高田市展というのはどちらかというと、現在どこの市でもやっているような色んな(絵を扱う)、抽象画もそれはあったかも知れないけど基本的には具象的な作品が中心の展覧会でしたね。ところが糸魚川というのは、その当時、糸魚川高校の岡田……なにさんだったかね?
堀川:岡田たけお、です。
前山:強剛の剛という字と…それから……
堀川:夫です。
前山:夫かな……
堀川:岡田剛夫さん自体というよりは、特色が際立っていたのは審査員を外部から呼んできていることですね。私が記憶しているなかでは江見絹子(1923-)さん、行動展のね、とか安井賞を取った高橋秀(1930-)。
前山:うん、
堀川:この話は僕が高校時代に聞いたことです。このインタヴューのなかで僕にとって重要なので。前山君にとっては重要ではないかも知れませんよ。前山君が自信が持てたのは(糸魚川市展)で大岡信(1931-)に評価されたということが大きかったと僕は思っている。そうでなければ前山君が銀座で個展をするというようなモチベーションを持ち得なかったと思うのですよね。僕の考え方だからね。
前山:うん(笑)。
堀川:彼は彼なりに論理的な必然性があるかも知れないけども、僕はそう思って見ているのですよ。うん。今というか僕なんか50(歳)すぎてようやく少しね、メンタルな意味で自立した美術に対する考え方ができるようになったのですけども。何かに対するものとか、何かの影響とか、そういうふうなものをどうしても意識せざるを得ないじゃないですか。そういうものを超えてユニークなすごくクリエィテブな作家っていうのは神話化されてさぁ、(影響を受けた)そこのところを触れられない作家以外何人いるかと思うところがあるじゃないですか。文化遺産とかいろいろな学習とか、そういうものから吸収してはじめて、そこにそれなりの面白味を出せるというか、それなりの角度、意味説明がなされるような作品が出来ると思うのですよね。自分の来し方をみるようになって、今そういう言葉を言うようになったのですけども。まぁ昔はね、相対化、自分自身を対象化できないという部分でなかなか上手く整理できなかったということですね。今は自分がどういうことをしてきたかってことは自分なりにしっかりと見える感じですね。
前山:糸魚川市展は今話が出たように、その当時でいうといわゆる地方になりますけどね。東京から審査員を呼んできて審査をすると。
堀川:その当時最先端のね、先端ブーム。
前山:大岡信はね、俺3年のときだったのですよ。彼まぁ……。3年の時だったよね?
堀川:つまり公開審査というかたちだったのですよ。上越市展……あっ、高田市展、そういうことじゃなくてね。大学の先生系列でコネのあるような人たちを連れてきて、裏では先生が采配を握っているようなニュアンスが(市展には)あるんですよ。ところが糸魚川市展は公開審査で、その審査をしているところを見せてね、コメントを言うのですよ。そういうところでね。初めて大岡信さんを見に行って。その場で10点くらい出したんじゃないの?
前山:いや7点かな。
堀川:7点か。
前山:50号とか……
堀川:50号とか60号のかなり大きめのがずらっと並んでね。僕もなんか小さいもの2、3点ばかし出したんですけどね(笑)……
前山:パネルのコーナーを自分で1箇所もらえてね……
堀川:大きいのがばーんっとあるのでね。「この旺盛さに可能性を見つけた」みたいな(前山さんの作品について)非常に良いコメントで言ってくれて。
宮田:刺激的ですね。なかなかそういう言葉で自分の作品を、学校の先生以外の方たちに評価されるというか意見してもらうというのはなかなかない経験ですよね。
前山・堀川:そうですね。
堀川:こういう作風でもきちっと評価する人がいるんだと。もちろんそうですよね、大岡信といえば、サム・フランシス(1923-1994)みたいな人と一緒に暮すような生活をしてきていて、十分現場を見ているわけだから。アンフォルメル系というかアクションペインティング系というか本当の本場のものをばっちり見ているような人なわけですからね。後から知りましたけど、すごい人なんですよね。
前山:今彼が言ったように確かに、いろいろな中の一つとして、自分にとっても、その時に大岡信に市長賞をもらったのかな?
堀川:うん、市長賞、最高賞をもらったの。
前山:それで自信をつけたのはこれは間違いない。東京でも個展やろうかという一つの大きなきっかけになったのは間違いないと思いますわ。
堀川:だけどそこまでぽっと(東京に)行くあたりが、その間の2、3年間の彼の行動力というか、東京からの摂取力というか何というのかね(笑)。
前山:いややっぱりね、作品をね。画廊があの頃すごい乱立していた時で。現代美術系のものを中心に行く時はまわっていたと思うのですよね。それまではね『美術手帖』か何かでね、こんな小さな(図版)ね、しかも白黒写真もけっこうあったでしょう。そういうのを見てこれいいなとか悪いなとか言ってもね、実物を見ると全然違うわけですよね。実物に圧倒されてこういうのはいいなと。
堀川:あと同時展開的にみていかなくてはならないのは、長岡現代美術館なんですよね。1964年に開館していて、私が最初にその現場を見るのはたぶん2回目の高松次郎(1936-1998)かな? そこらへんから見に行くのですよ。僕は東京はまだそんなに。銀座をまわるのは、前山さんが僕が3年の時の春に個展をしたのでそこらへんからかなり。その前にも少し見たかも知れないけども。だいたい上野止まりというか。都美術館ででっかい展覧会があると、西洋美術館とかいくつか見て。向こうで泊まるなんていうことはなかなかできないんで。また夜行で帰るから、実質5、6時間のあいだで見れるものを見て帰るという感じでしたよね。でも、実証的なすごい大掛かりな作品を長岡で見れたということが第二の美術の価値観をつくるきっかけとなった。美術の考え方というか違う世界を観るというね。
高:いま高松次郎という名前が出ましたけど、当時やっぱり長岡現代美術館で印象に残っている作家といったらほかにどのような方が一番?
堀川:名前としてですか?
高:はい。
堀川:でもほら高松次郎がなぜかというと、その少し前に、やっぱりあの……。今日持ってきたのですけども……(資料を出しながら)。
前山:シェル美術賞……
堀川:シェル美術賞とか……ああいった公募展にみんな落選するけど、僕は出さなかったですけど挑戦するのですよ、先輩たちが。といってもね、前山さんたちの学年だけだね、俺の記憶では。シェル美術賞に応募するのだけども、それは当然入選しないというかね。グラビアで(受賞作品が)ぱっと出るじゃない。ああいうので(高松さんを知っていま)したね。
宮田:カラーで載ったりしていましたものね。
堀川:これ(『美術手帖』1963年10月号増刊 227号)は1963年に出ているのですよね。こういうのを見て「新しい」と。(4人で堀川さんの手元の雑誌を覗き込みながら)
宮田:1963年「アンフォルメル以後」特集。
前山:見た記憶あるよね。
堀川:アンフォルメル以後とか。それからこの少し前にね『芸術新潮』か何かでマチューが来た時のグラビアは見たことがあるんだな。『芸術新潮』だと思うね。白装束みたいなのを着て(笑)。
宮田:はい、ぴゃっとやっているような(笑)。
堀川:飛び跳ねているようなね、あの写真があってね(笑)。時系列はあまりはっきりしないのだけども。ああいう作家が来ていて、こういうことになっているんだな、とか。後に知るのだけども「不在の部屋」とかね。
宮田:内科画廊ですね。
堀川:内科画廊の2年間というか、みんなそういったことが終わっているんですよね。大学入った時には。
宮田:(内科画廊が閉廊したのは)1967年です(註:閉廊宣言を出したのが1967年だが、実際の画廊活動が確認できるのは現時点では1965年まで)。
堀川:みんな大事なムーブメントは終わっていて、めでたく東京オリッピクから始まるというか。ミロのヴィーナスみたいなところから。でもあの時にね「毎日現代美術展」を見ているんですね。それはなぜかというと、前田常作(1926-2007)のオリンピックのマークを見ているから。あれはオリンピックの年ですからね、間違いなく。
宮田:今日ちょうど『美術手帖』の1967年の画廊のマップをコピーして来たのですけど。
前山:ええ。
宮田:(画廊マップを前山さんと堀川さんに差出しながら)文字が小さいのですが、よく行かれていた画廊を具体的に教えていただけると……
前山:銀座……
堀川:ルナミか……村松、川島さんのところね。
宮田:ぜひ書き入れてください。印を……村松画廊……
前山:まずはルナミ画廊は2丁目だね。丸で囲んでいいの? まる。
宮田:はい、どうぞ。まずはルナミ画廊から……
前山:それから夢土画廊この辺? あ、ここにある。まる。
堀川:あっ、夢土画廊行ったね。
前山:村松画廊は4丁目か5丁目くらいじゃなかった?
前山:村松は……探す
堀川:村松画廊はね、モデルに来た子が村松画廊が面白いって言って。
宮田:大学に来られたデッサンのモデルさんが?
堀川:うん。
宮田:ふーん、そういう方からの情報もあったのですね……
堀川:大村連さんにも会ったんだな?
前山:シロタも(見つから)ないな……この近くにあったと思うんだけどな……
堀川:良く見て、こういうふうに見なさいよ(マップ向きを確認しながら)……
前山:逆に見ちゃうよ。
堀川:あ、これでいいのか、これが上か。あはは(笑)。
前山:ふぅーん、村松が(見つから)ないな。
堀川:村松さは、この辺じゃないの?
宮田:そっちは日本橋……ですかね。
堀川:日本橋か。じゃあこっちだ(日本橋と逆の方向を指しながら)。
前山:ね、こっちでしょ。南天子も行った記憶もあるな。
堀川:村松はありますよ。村松がないなんてことはないよ、このときに。
前山:東京湾があるのはこっちだもん……。
堀川:虫眼鏡がないと見つからないよ(笑)。
宮田:すみません(笑)。拡大してくればよかった。
前山:7丁目ぐらいかな?
宮田:村松とシロタ画廊……今はぱっと見つからないですが、
前山:うん、今見つからないね。
宮田:そこ以外は?
堀川:あとは、おぎくぼ画廊。
前山:おぎくぼは少し場所が違いますが。
宮田:ずっと歩き回って?
堀川:歩き回るほど歩き回ってないけど(笑)。
前山:あとまぁ神田あたりもね。その後になりますがけっこう行くようになって。秋山画廊とか。秋山画廊は古いよね。
高:あとGUNの第一回展の後でギャラリー新宿でやられているじゃないですか。
前山:ええ。(堀川さんは話を聞きながら画廊マップの確認)
高:李禹煥さん(1936-)などのインタヴューを聞いていますと、ちょうど李さんが朝鮮奨学会の建物でアルバイトしていて、その新宿ビルのところでだんだんと色んな評論家が集まって来て、作家たちが集まってきてという。当時のギャラリー新宿というのは? まずなぜそこでGUNの東京展をやろうとしたのか? やっぱりそのへんは石子(順造、1928-1977)さんの影響だったのでしょうかね?
前山:そうですね、紹介だったと思います。その前に長岡現代美術館のあったその3階で展覧会をやり、シンポジウムをやったわけですね。それはここの写真に載っていますよね。それを経てその12月に連続してギャラリー新宿でやったわけですよね。その時も会場の交渉などは全部、石子さんのお勧めでやったと思います。あの頃は確かできたてのほやほやだったんだよね。
堀川:(村松画廊が)あったあった!
宮田:ありがとうございます!
前山:7丁目あたりだったでしょう。
高:(話が戻って)ギャラリー新宿は1966年じゃなかったかなと思います。(註:このインタヴューの後に高さんが実施された朝鮮奨学会へのインタヴューで、実際は1967年であることが判明した)
前山:ああ、できてね。じゃぁ2年目……
堀川:いや早い早い。できて間もない。
前山:1年くらいたってからだね。それから、さきほど質問があった長岡現代美術館賞ね。あれは64年から68年くらいでしたかね。わずかでしたけども。僕がいた芸能科の絵画科のなかに、さきほど言った8名いたなかで女性が半分、男性が半分だったのですが、その中に早熟な玉田君という仲間がいてね。彼から一番最初にその情報を聞いたのだけど。長岡でこんなのやるよと。それで、第一回展が岡本信治郎(1933-)とかね。《十人のインディアン》ですかね。
高:そうですね。
前山:それは見た記憶がありますしね。その後はポップアート、アメリカと日本との同時開催みたいなのであったし。VS的なかたちでね、イタリア、次はイギリスだとかね。世界の最先端の作品をね、目の当たりにできたという意味ではすごく刺激になった。将来はそこで展示したいという夢もあったのでしょうけども、実現しないうちなくなっちゃったし。さっき言ったように3階でGUNの旗揚げするのがせいぜいだったということですかね。
宮田:そろそろ終わりの時間が迫ってきたのですけども、GUN結成までの部分を今日お伺いしたいと思うのですが。東京に行かれていた時に沢山アトリエ訪問をされていたというふうなインタヴュー記事があったのですけども、GUNとつながる方たちとの出会い、GUNを結成するにあたって影響を受けた評論家なり作家さんたちとの出会いというところをお聞かせ願いたいのですが。
前山:抽象系に行ったのがだいたい大学の3年頃ですから、年代的で言うと1965年くらいからですかね。さっき言ったように画廊の中で作家や評論家と特別待ち合わせなくてもその場所に居合わせて、誰かもわからないうちに「この作品はどうだこうだ」と言い合ったり、話をしているうちに「私はこういう者ですが、あなたはどなたですか」となったり、画廊主から紹介してもらったりとかね。昔の評論家って今と違ってまだのんびりしてたから。毎日のように来て、あの当時はウィスキーかな? ぐいぐい飲んでいましたね。それが目当てだったのかわかりませんけどね(笑)。私が大学4年の時に個展をやったルナミ画廊では、赤塚行雄氏(1930-)とか、石子順造氏あたりと出会ったわけです。赤塚さんは特にGUNの結成前夜みたいなところでの関わりが非常に強くて。僕らが4年のときは、さきほど彼も触れましたが、僕らの学年だけがちょっと特異な存在で、その前までは二紀会オンリーで全部、卒業してもずっとその流れで行っている人が多かったのですが、僕らの時に、さっきも言った早熟なのもいて……えー
堀川:早熟なの(笑)。
前山:男3人くらいが「よし、やってやろう」という感じだった。
堀川:いや本当にね理屈っぽいというか。みなさんまだ元気でおられるのですけども。その生き方みても、一年上のみなさんはかなり自分の論理というか理屈というか屁理屈というか。まぁ一所懸命ね屁理屈を言い合って、こんな議論するのが楽しいのか? と思うような議論やってましたね。
前山:ふふふ(笑)。情報知りの玉田のもとにガチャガチャやってましたね。
堀川:そういう点では本当に面白い学年だったと思いますね。
前山:赤塚さんから来てもらって、僕ら新大の学生を中心に、とくに現代美術系のが結集して、まぁ10人くらいで何かできないかと。
堀川:私が3年の年じゃないな? 2年の年の終わりか。彼が……
前山:4年?……3年か。
堀川:え? どっち? あれ個展の後でしょう。
前山:個展の後だから……
堀川:個展の後だからね。
前山:やっぱり俺が3年だ。
堀川:ああ3年の時か。
前山:おまえが2年。
堀川:え? ……違うわ。おまえが4年、4年の10月くらいか。9月か? 11月? ……ちょっと待って、あれ見た方がいいな(笑)。
前山:年表見よう。
堀川:(年表を出し、ページをめくりながら)それから次の年だからね。
前山:(該当箇所を探しながら)前のが書いていないかな? ……赤塚さん……
堀川:ほらほらここにある。
前山:5人展が11月だね。66年か。
堀川:66年だ。6年ということは、あなたが4年じゃない。
前山:うん、4年だね。うん。
堀川:4年生の時で、この時からですよ。春の個展で人脈をすごくつくるというか、いろいろな人たちと個展を通して知り合うんですよね、僕は。ここに写真があるのよ(資料ファイルに手を置きながら)。1回だけ作家訪問に付いて行っただけなので。
宮田:どなたの……?(註:山下菊二と前田常作の2回の訪問と後日確認)
堀川:あと5、6回は単独で彼がやっているわけで。そこのところの細かいことは僕も聞いたことがないのですよ。なので僕も非常に興味があるところなんです。赤塚さんがたまたま隣の長野の松代(まつしろ)の出身ということもあったのでしょうね。たぶんね。通い馴れた信越線だから。来てくれたんで。彼(前山さん)の家に泊まっていったんだよね? あの時。
前山:そうだね。あの当時『現代美術』という雑誌があって、1号から10号まで出て、10で廃刊になっちゃったのですが。太田三吉さんが出版したのですが。
堀川:そういうものに5、6ページの作家論を書く人が来るっていうので、僕たちも関心を持ちましたね。具体的に人に会うということが3つ目くらいの要素になりますね。
前山:で……、赤塚さんから2回くらい来てもらった記憶がありますが、田舎から東京を繋ぐひとつの表現の軸と言いますかね、そういうものをもっと広めていこうということで新潟でも東京でも同時に展覧会をGUNでもやっていくことになるのですけども。僕らの先輩はだいたい就職を東京などでした人たちは、公募団体やあるいは公募団体でなくて個人であっても戻ってくる人はほとんどいないのですね。僕らははじめから田舎で生きていくしかない、長男だったせいもあって。不便であっても東京に出て行こうという気にはならんかったですね。ここはここでやろうと。東京には東京へ打って出てやろうという。両方の視点は欠かせられないという意識ですね。
高:高田での拠点はやっぱり大嶋画廊ですか?
前山:そうですね。このあたりで発表するとなると大嶋画廊が中心だったし、あとさっき言ったように長岡の現代美術館の3階ですよね。文化会館ホールか。
高:大嶋画廊の画廊主さんの企画で何かするという?
堀川:ははは、そういうのじゃない(笑)。
前山:そういうことはないですね。貸画廊ですね。
堀川:画廊という名がつくのが大嶋画廊しかないということだけで(笑)、普通の貸画廊ですよ。
高:会場がそこであったという。
堀川:二階に会場があるというだけです。現代美術がわかるわからんというタイプでももともとないし。画材屋さんなので。今の社長もそうです。
宮田:でも、今でも在る画廊なんですね。
堀川:いくつかね企画展みたいなことはありましたけど、そんな(現代美術の)企画をやるようなところではない。
前山:GUNの一番核になったのは新大の僕らの学年で、卒業と同時に……
堀川:僕らの学年? あなた、だよ、あなた自身だよ。
高・宮田:(笑)
前山:就職で散っちゃったんですよね。一人は東京、一人は新潟市の方に行っちゃって。それで私はひとつのアミューズをつくって、とにかく発信したんですね。さっき言ったように糸魚川にグループがあり、それから……新発田(しばた、註:新発田市、新潟県北部)とか、長岡、あちこちに点在して作家がいましたね。
堀川:十日町にもいたんですよね。
前山:十日町には朔風会(さくふうかい)っていうね。
宮田:朔風会。
堀川:今はみんな仕事が忙しくなったり、仕事に就いたりして作家活動していません。それから十日町の人たちは、まぁ批判するわけではないんですけども、彼らに織物バブルが来るんですよね。直後に。そうするとデザインの仕事で忙しくて、あんな現代美術なんてやってられないわ、ということになるんです。活動は70年の最初くらいまでかな?
前山:GUNとほぼ似たような時期にね、一緒に活動していました。
堀川:面白いことやっていたのですよ。変な古くさい小さい部屋みたいな画廊を借りて実験的なことをやっていたり、写真は残っていないだろうけどもハプニングみたいなこともやっていたと聞いているんですわ。GUNには加わらなかったんだよね。だいぶ誘った感じなんですけどね。
前山:それでさっき言ったように僕の学年3人が核でしたし、そこから発信して糸魚川(新潟県西部)、新発田(北部)、新潟市(北東部)といろいろ、さっきちょっと名前が出てきた市橋(哲夫、1935-)さんや鈴木さんを中心に最初は十数名集まったと思うのですが。それでもってGUNの旗揚げをしたと。その当時では赤塚さんから石子さんに少しシフトしたというかね、石子さんの方が結成にはすごく意欲的だったというか、火を点けたというか。「幻触」というグループが、
高:静岡の、
前山:僕らより1年前にできているのですね。彼は仕事の関係で静岡に長くいたから。石子さんには「新潟でも骨のあるやつはいないのか!」という感じで僕たちもよく叱咤激励されて、「いやいや私ばかりでなく二人います」って言って。いざ展覧会を企画してね、それにシンポジウムをくっつけてやりましょう! というようなことから、いよいよGUNのあれが浮上してきて。長岡現代美術館の入口に茶店があったのですよ。ほんの5、6人が座るとスタンドがいっぱいになっちゃうようなね。あそこに僕らときたま集まっては、県下のグループや(僕たちが)個人に働きかけた人たちが小さな作品を持って来てね、「俺はこうだ、おまえはこうだ」と相互批評をやって。半年くらいかけてだんだんとGUNの骨格をつくっていくわけですよね。旗揚は実際は12月なんですけども。そういう流れで県下に点在したのをある種やっとグループ化したというか、それがGUNになるわけで。東京には東京で卒業してから行った人や東京で大学を出た人はそのままそっちで前衛美術をやっていて。例えば中澤潮など大先輩でいるのですけども、繋げて何かやるという風にはなかなかなっていなかったですね。
高:そもそも石子さんとの最初の出会いっていうのはどういう時だったのですか。
前山:やっぱりさっき言ったルナミ画廊が初対面でしたね。
堀川:66年でしょう。
前山:66年だね。
堀川:(メンバーのうち)何人か後輩で、もう亡くなった小栗(強司、つよし)君とかね、いるのですけども。(前山さんの)同級生で二人? だいたいほら、現代美術みたいな抽象的な表現とか、そういうものに関心を持っていたからなのだろうね。前山さんが、
前山:僕らの学年と……
堀川:こう(東京へ)行って新しい情報みたいな話が、「ああいう人に会った」とか、「いやこの雑誌に載っているこいつだ」とか(聞いて)関心を持つわけですよね。そういう人たちの話に聞いた作品の実物を長岡に行けば見れるし、それから糸魚川にも行くと、年に一度、前田先生も来たんだし、岡田隆彦(1939-1997)でしょ、大岡信……大岡信は二度来るんですよ。二度ともね……二度ともだっけ?
前山:いや前田常作の時にもう一度「市長賞」とるの。
堀川:前田常作の時に「市長賞」をもらって。実際それなりの名の通った方が評価を下したものが見れたということと。長岡では長岡の尺度で、非常に全国的でいきなり東京を越して作品を見れるということがあったのですよね。彼は東京に行って戻ってきて面白いことしよう! って僕らに振って(笑)。
前山:ハプニングやろう!とかね(笑)。
堀川:オルグられるわけですよ、簡単に言うと。実際に赤塚さん達が来たりすると、あの頃からね、前山はもともとリーダー性があったけど「何か面白そうだな」という風に思って。それから世の中の価値が、少しね、幻想なのだろうけど、地方ということに対してまた新しい観点で見直すみたいな動きがあったのだと思うのですよね。その後すぐにお釈迦になるのですけども。長岡がその時に現代美術の中心地であったというちょっとしたね、誇りみたいというか。そこで作品を展示できればいいなという思いがどうしたってあったと思うのですよね。さもなければ、みんな長岡には集まらなかったと思うのですよね。数年間の時代の夢であるし、自分達の夢でもあったみたいな。大光相互銀行(註:長岡現代美術館を設立)の夢でもあったのですけどね(笑)。それがじき、だめになるという、そういう歴史の歩みをするわけですね。
宮田:今日は時間がなくなってしまいましたので、GUN結成までというところで。明日またGUN結成後のお話を伺わせてください。