畠山直哉 オーラル・ヒストリー 第1回
2016年3月6日
京都国立近代美術館にて
インタヴュアー:青山勝、牧口千夏
書き起こし:青山勝
公開日:2026年3月11日
写真家
1958年岩手県陸前高田市に生まれる。1984年筑波大学大学院芸術研究科修士課程修了。主に都市風景や自然風景を扱った作品で知られ、第22回木村伊兵衛写真賞、第42回毎日芸術賞、2011年度芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞。『LIME WORKS』『Underground』『BLAST』『陸前高田』などの写真集出版のほか、国内外の多数の個展・グループ展に参加。今回の聴き取りでは、生い立ちから大学進学へ至る経緯、映像ディレクターとしてヨーゼフ・ボイスの来日ドキュメントに関わった体験、写真家として美術館での発表を重ねていく経緯などを伺った。
青山:畠山さんは、1958年、岩手県陸前高田市のお生まれですね。『気仙川』(河出書房新社、2012年)や『陸前高田』(河出書房新社、2015年)には、畠山さんのご実家の周辺の写真もありますが、子どもの時からずっと、あそこのおうちですか。
畠山:はい。ずっと、あそこのおうち。仲町といわれているブロックがありまして、そこの川べりにあったんですよ。
青山:建て替えとかはなかったんですか。
畠山:(東日本大)震災の半年前に姉が自力で新しい家を建てたんですね。それ以前にあった家は、斜面に建っていた家で。つまり川の土手がありますよね。そこから街のほうにちょっと下がったところですね。その斜面の上に建っていたような格好で。だから(土手側からの)入り口は平屋だったんですけど、奥にいくとちょっと上がってる2階があって、その下に長屋があり、さらにその下に地下室がありましたね。地下室、長屋、ちょっと上がった2階。平屋部分が、長屋とちょっと上がった2階のちょうど間くらいにあるみたいな。だから、階段は5段くらいしかなかった。とんとんとんって2階に上がる。僕が子どもの頃に父親が、ちょっとうちは狭すぎるって、2階部分を増築して、長屋を延長して、下にもう1個長屋を作った。長屋っていうのは、あちらで言えば物置ですね。
青山:ナガヤ?
畠山:長い、家屋のオクって書くんですけど、あちらでは物置を長屋と言っていました。
牧口:お姉さんは?
畠山:姉は2人います。僕が3人きょうだいの末で、唯一の男性。
牧口:年齢的には、どれくらい?
畠山:すぐ上の姉とは1歳違いで、それからひとつ空いて上の姉ですから、上の姉はもう60超えてますよね。
牧口:じゃあ、ご家族は5人。
畠山:5人でした。祖父は糖尿の気があった人で、僕が生まれる前に亡くなってますね。祖母は僕の父を生んですぐ亡くなったんです。だからその後いた祖母というのは、後妻に入った方ですね。その方はたしか僕が物心つく前に亡くなってますね。
牧口:ご親戚の方々は近くに住んでらっしゃったんでしょうか。
畠山:気仙川の支流の矢作川っていうのがあって、そのずっと奥に矢作っていう地区があるんですけど、母はそこで生まれ育った人です。彼女も生まれてすぐ父親を亡くして、それで母親のほうは違う家に後妻に入って、それで預けられて暮らしたとか。だから尋常小学校しか出てない人でしたよ。昭和2年の生まれでしたけどね。父は気仙川の上流、横田っていう地区がありますけど、本家はその辺にある人でした。父の母親が高田町の人だったですね。高田町の人たちは、ちょっとあか抜けたセンスのある人たちで……。父は、父方の親戚とのつき合いはほとんどせずに、母方の親戚とのつき合いばかりしていました。高田町の人たちは話も面白くて陽気で、頭もよくて、ちょっと大人っていうんですか、都会的なセンスがある人が多かったからなのか、あまり横田のほうには行き来してませんでしたね。高田にばっかり行ってた。それで父の母も、父が生まれてすぐ亡くなったのかな、たぶん。たしかそうだ。後妻のほうの親戚とのつき合いはほとんどなかった。だから家は、文字どおり四角四面でつき合うっていうよりも、やっぱり優しくしてくれるほうとつき合う、っていうことがあって、それでだんだん縁が強くなったり弱くなったりってことはありますよね。それで父のほうは、僕が26の時に亡くなったんですね。心臓が悪かったから。高血圧だったし。
牧口:お父様はどういうお仕事を?
畠山:父は徴兵の時に病気してたんですよ。あの頃はもう日本中で結核がはやってて、若い人たちが結核にかかるって珍しいことじゃなかったんですね。ちょうど父が療養中に戦争になって、だから彼は戦争には行かなかったんですよ。それでずっと療養してて、手術も受けたんですね。背中に大きな傷があったのを覚えてます。肺の手術をしたんですね。自分はそんなに長く生きられないって、若い頃から思ってたようですけど。でも結婚ができて、それで子どもも生まれたので、とても幸せだったというふうに聞いてますよ。まさか子どもができるなんて、持てるなんて思わなかったって言ってたみたいですね。それで、若い頃は盛岡の工業学校に進学して、つまり地元を離れて盛岡で暮らしてたらしい。その後日立に勤めたりしていたらしい。でも体を悪くして帰ってきて、それで結婚するまでは、それほど大した仕事をしてなかったんじゃないかと思いますね。
僕が生まれた頃はもう、高田の親戚から勧められた仕事をしてました。それは新聞販売店なんですよ。親戚が高田町で新聞屋をやってたんですけど、気仙町にも新聞販売店作ればいいんじゃないかって父に勧めて、それで父は始めたんですね。僕が幼い頃っていうのは、新聞販売と同時に雑誌・書籍の販売もしてました。書籍といっても棚があるわけじゃなくて、雑誌も届いたらすぐ売っちゃうみたいな、書籍も注文で取り寄せて渡すみたいな、そういうやり方でしたね。つまり本屋さんみたいにびしっと棚に本が入ってるっていうんじゃなくて、一見何もないんですよ(笑)。ただ、月刊誌とかありますよね。婦人雑誌とか、それから漫画雑誌。当時昭和30年代っていうのは、週刊の少年雑誌とか漫画雑誌ですね、ああいうのが爆発的に生まれた時代でしたから、みんな買いに来るんですね。それで『少年サンデー』とか『少年マガジン』とか、そういうのが紙にくるまれて、ひもで縛られて、どさっと届くんですよ。それを開けて、店のカウンターにこうやって重ねておくんですね。そうすると子どもたちが来て、次から次に買っていくというふうな感じでした。あとは毎日、新聞がどさっと届くので、朝届くんで、それを新聞少年たちが朝わーっと来て、それで各地区に配る。でも、一つの新聞だけじゃなくて、すべてを扱わなくちゃいけないんですね。街の規模が小さいから。だから『読売(新聞)』、『毎日(新聞)』、『朝日(新聞)』、それから……
青山:地元の……
畠山:あとは地元の新聞。仙台の『河北新報』、それから盛岡で出してる『岩手日報』、それから大船渡で出してる『東海新報』とか、そういうのをもうすべて扱ってた。あとはスポーツ新聞ね。『報知(新聞)』、『スポーツニッポン』といったものですね。
牧口:子どもの頃から、そのあたりは日常の光景として目に触れて。
畠山:そうそう。僕自身も新聞配達をやってましたからね。中学校から高校にかけて。
青山:じゃあ、もうすごい朝早いですよね。
畠山:早いんだけど、あの時代は印刷はたぶん仙台あたりでやってたのかな。
青山:それが届くまでにちょっと……
畠山:一関まで鉄道で来るんですよね。一関から陸送で、トラックで来るんですよ。だから着くのはいつも6時前後でしたから、都会と比べるとちょっと遅いね。それから配るわけだから。父は長部地区っていって、気仙沼の境目あたりの地区で配ってましたけど、いつも新聞少年たちを何人か送り出すと、まず朝ご飯を食べて、それから出かけてた。それでお昼くらいに帰ってくるんですね。だから長部地区の人たちは、新聞が届けられるのが午前10時とか。そんな感じだったと思います(笑)。午前9時とか11時とか、そんな感じでしたね。それ毎日ですから、1年に3日くらいしか休みがなかった。正月、元旦号ってものすごく分厚いんですけど、それを済ますと、1月2日は休みなんですよ。だからその時は家族で一関の旅館にちょっと骨休みに行くみたいな、そういう時代が何年かありましたね。父が死んでから、母がちょっと引き継いでやろうと思ったんですけど、やっぱりきつくって、でもほかにやってくれる人もいないしって悩みながら一所懸命やってたんですけど、もうだめって。それで高田町の親戚に相談したら、じゃあって、本社からぶわーっと人が来て、ばばばばばって仕事して、あっという間に区分けして、それで大丈夫ですと。意外に引き継ぎは簡単だった。やっぱり上の人たちが動くと、もうそんな悩む必要もないくらい、あっという間に片づくって感じでした。だから仕事はその時点で終わって、それから姉の由美(ゆみ)が、岩手県内を転々としてたんですけど、何年かすると自分の生まれた地区、あるいは自分が本拠地にする地区の担任になりますから、それで由美と母が一緒に住み始めてって感じですね。
牧口:お姉様は、お仕事は何をされてるんですか。
畠山:姉の仕事は小学校教員でした。でも、震災後2、3年やったんですけど、引退しましたね。定年を前に引退しました。きつくって。
青山:そうやって毎日忙しいと、家族で旅行とかはあんまりされなかったですか。
畠山:家族旅行は、ですから年に1回。
青山:お正月だけ。
畠山:うん。あと僕が楽しみにしていたのは、父が気仙沼のスーパーのチラシの集金についていくのが楽しみでね。つまりチラシっていうのは、例えば週に3日とかスーパーからどさって届いて、それを新聞に入れて配達するんですけど、そのお金の集金に月1回気仙沼に行ってたんですよ。6歳とか7歳とか、そのくらいの時ですけど。気仙沼っていうのは、陸前高田から見たら、人が多くて活気があって、海の街ですから、大きい港があって、それで非常に活気のあるところなんですよ。だからスーパーの規模なんかも大きくて、街を歩くのが楽しかったですね。街を歩くのが楽しい、みたいな。
青山:畠山さんはいま「美術」とか「写真」とかっていうところで仕事をされているわけですけど、そういうものにふれる環境というのは、家庭内に何かありましたか。
畠山:父は大正10年の生まれですけど、戦前の高校生っていうのは、たぶんほとんどの人が旧制高校的な風土の中で生きていたはずなんです。だからいわゆるロマン主義的な文学の影響とか、それから哲学者の名前とか、そういったものを聞きながら、本当に読んだかどうかわかんないですよ。でも、そういうものに触れることが高校生の本分であるみたいな、そういう意識が強かったんですよね。だから彼はとても、一言で言えば芸術的な人でした。父のアルバムを見たことがありますけども、盛岡工業学校時代の級友のページがあるんですよ。3人の友達の写真があるんですけど、スタジオポートレートみたいな。そこに「三哲人」って書いてあるんですね。哲人っていうのは哲学の哲です。ですから、ものごとを深く考える私のよき友達っていう意味ですけど。3人の友人のポートレートが貼ってあったのを覚えてますね。哲学の哲っていう言葉は、今の人だったらちょっと使わないと思うんですよ。友達のポートレートの上に哲人って書くの。
青山・牧口:(笑)
畠山:ほとんどお笑いになっちゃうと思うんですね。でもあの時代はたぶん、素直にそういう言葉を使っていたということじゃないですか。だから、読書家でしたし、もともと頭の回転がよかった人なんですね。小学校時代から成績もよかったらしいし。それで、長部ってさっき出た地名ですけど、そこの人から、あとになってこんな話を聞いたことありますね。珍しく白人が、つまりヨーロッパかアメリカの人が、あの辺の地区にさまよい込んできて、あるいは何か用で来て、道に迷っていたと。そしたら、その人が言うには「あんたんとこの父さんが英語で会話して、その人に道を教えてた」っていう話を聞いて、僕はびっくりしました。
青山:そうですか(笑)。
畠山:あとで。父が亡くなってからそういう話を聞いたのかな。だから口数は少ない人だったけど、つまり、みんなそうだったかもしれないけど、自分の若い頃に関しての話ってあんまりしないですよね。自分の個人史を息子に、例えば書いて残すとか、そういったこともしませんし、学校を出て、何をして何をして、今こうしているなんて話を改めてすることもありませんしね。だから、日立に行ってたっていうのも母から聞いたんで、本人から聞いたわけじゃないんです。大船渡の小野田セメント(註:現在の太平洋セメント)に一時期勤めてたっていう話も、ちょっと聞いたことはありますけど。
青山:結構本とかお持ちだったんですか。
畠山:本はありましたね。当時はブームってこともあったんですけど、『世界美術全集』、ああいったものをそろえ、出版社が身近なものでしたから。つまり、自分が取引してるってこともあって、新しい美術全集が出るとカタログとか置くわけですよ。じゃあ一つ買ってみようかとか。それで、僕はそれを見ましたね。『日本美術全集』と『世界美術全集』。高階秀爾先生なんかが関わってた。
青山:こんなやつ。
畠山:いや、もうちょっとちっちゃめな。ヨーロッパ、海外のことなんかはそれで初めて見た。
牧口:何歳ぐらいから、そういったものに興味を持つようになったんですか。
畠山:12、3歳かな。
青山:何かその頃で特に覚えているというか……
牧口:好きだったとか……
畠山:やっぱり19世紀以降のフランス印象派の仕事と、それからその後のシュルレアリスムですね。やはりね。
青山:すでに。
牧口:やはり(笑)。
畠山:すでにっていうか……
一同:(笑)
畠山:14、5歳になっていたと思いますけど。
青山:なかなか面白い(笑)。あと、写真っていうものとは、どういうかかわりがありましたか。大学入るまでの期間で、自分で撮ったりとか、カメラを持ったりとかっていうのは。
畠山:父はカメラ好きでしたね。
青山:そうなんですか!
畠山:あのあたりの男たちの例に漏れず。最初使ってたのはミノルタのカメラだったと思うんですけど、ある日父が1日いなかったことがあって。で、翌日帰ってきて、何か大切そうに眺めてるものがあって、見たら、ぴかぴかのドイツのカメラなんですよ(笑)。それで、「それは?」って聞いたら、「東京に行って買ってきた」って言うんですね。たぶん日帰りは無理だから、車内泊かどうかわかんないけど、とにかく行って、すぐとんぼ返りで戻ってきたんですけど。銀座のカメラ屋でドイツの新しいカメラを買って帰ってきた。それだけのために東京行った(笑)。そのカメラは、ローライフレックスといいます。僕はそのカメラの価値に関してはあんまりわかってなかったですけど、僕が高校生の頃だったのかな、中学校、いや、高校か、わかんない。忘れちゃいましたけど、それで嬉しそうにしてましたね。時々使ってましたね。僕も使わせてもらったことあります。
青山:そうなんですね。
畠山:はい。大船渡の碁石海岸って有名な切り立った崖のある海岸があるんですけど、友達とそこに行く時に貸してもらって、持っていって撮った記憶がありますね。でも、駅前の写真屋さんに出して、このくらいのサービス判のスクエアフォーマット、それをこういう四角いちっちゃいプリントで見ても、たしかにきれいなんですけど、それほどすばらしいものかどうか、よくわかんなかった。ちっちゃいサービス判のプリントで見てても、あんまり差はわかんないですよね。ただ、(筑波)大学に入るってことになった時に、大辻(清司)先生が「何でもいいからやっぱりカメラが1人1台必要です」って言って、それでうちに帰った時に相談して「このカメラ貸してくれないか」って聞いたら、「持っていっていい」って言うから、持っていきました。それで大学1年の時かな、郊外に出て、いろいろ好きなものを撮るなんていう実習があった時、それを首から下げてたら、大辻先生が目を丸くして…… 「いいカメラ持ってるね」って言ってくれたのを覚えてますね。
青山:まさかこんな話が出てくるとは。
畠山:父はほかにオリンパスのM-1っていうカメラを持ってましたね。それは35ミリの一眼レフですけど、当時、世界で一番小さな35ミリ一眼レフっていうふうな謳い文句で出た。それから測光の方式、つまり露出を測るための測光の方式が、ダイレクト測光とかって、つまり露出中になおかつ測光するっていう、すごい新しいものだったんですよ。でもM-1っていう言葉が、ライカの製品と同じだっていうんで、その後OM-1って、O(オー)をつけたんですね。呼び方は変わったんですけど、父はその呼び方が変わる前のM-1っていうカメラを持ってましたね。
牧口:お父様は主に何を撮られてたんですか。
畠山:適当に(笑)…… 好きなものを。
牧口:ご自分でプリントも?
畠山:(笑)
牧口:そこまでは……
畠山:駅前の和光堂というお店にフィルムを出してましたね。その頃は主にカラーフィルムで撮ってたかな。昔はもちろん白黒フィルムも撮ってたんですけど。カラーで撮って、それで写真屋さんでお茶を飲みながら無駄話をして、それで何か写真の話をして帰ってくるって感じじゃなかったんですかね。
青山:でも、家族の写真とか普通に撮ったりはされているんですよね。
畠山:記念写真みたいのはあんまり撮らなかったですね。
青山:では、作品写真というか……
畠山:いやいや、ハクチョウが来たからハクチョウ撮るとか、あと、知り合いの家の娘がお祭りの時にかわいかったから撮るとか、その程度ですよ。
青山:昔は家族アルバムって割とどこの家庭でも作ってたと思うんですけど、大きなアルバムに、ぺたぺた貼ってとかというのでもないんですよね。
畠山:そういうんでもないですね。
青山:何か額に入れて飾るとか。
畠山:いやいや。たしかに気に入ったものはアルバムに貼ってましたけど。でも、その頃は子どもたちはもう大きくなってますから。子どもたちがちっちゃい頃、例えば初めてクリスマスのお祝いをしましたとか、そういう時の白黒で撮られた写真は、僕いくつか記憶してますね。あと、僕自身ですね。近所のブタ小屋を見に行って、子豚にうっとりしてるとか。
一同:(笑)
畠山:父が撮って、僕はこんなちっちゃかったですけど、そういうのをアルバムにしたりとかね。物心ついてから、以前の自分を見るっていうことはしてましたね。あと、起き抜けでぼんやりしてるところをなんか撮られちゃった写真とか。
一同:(笑)
畠山:2歳とか3歳。そういうのを見てます。1枚ありますよ、ここにね。これ、父が撮ったかどうかわかんないんですけど、僕がどんな風情だったかってわかりますよ。
青山:なんか髪の毛が(笑)。
畠山:なんとなく僕でしょ。
青山:本当ですね。なんか難しい顔してますね。
牧口:すごい厳しい顔つきですね。
青山:どこか面影が……
牧口:あるような……
畠山:なにか……
牧口:しっかりしてますね。
畠山:瞬間と持続とか、そういうことを考えているような感じがしますよね。これを見てると(笑)。
牧口:それはずっと持ち歩いておられるんですか(笑)。
畠山:これはたまたま、うちに帰った時にどこかからぽろっとこぼれてきて。アルバムに貼ってなかったんですよ。もう切り方も、はさみでちょきちょきっと切ったみたいだし。こういうのを持っててもいいかなと思って、手帳に入れてしまったということなんですけどね。これ、もうちょっと広めに写ってれば、たぶん、家がどんな状況だったかわかると思うんですけど。これ家の前の道ですね。土の道です。舗装されてない。この向こうは川ですね。
牧口:そうなんですね。お父様がカメラ好きだったっていうのは、大変なエピソードですね。
畠山:カメラ好きっていっても、本格的じゃないんですよ。当時のおじさんたちだったら誰でもやってるくらいのレベルの話ですね。
青山:そうですかね(笑)。
畠山:そう。もっとすごいのなんて、やっぱり自宅に暗室をこしらえてなんていう話もよくあるでしょ。それで「父と一緒に白黒のプリントを焼いたことを覚えてます」とか、そういう人もいるからね。うちはそこまでじゃなかったから。
青山:でも、いいカメラをお持ちで(笑)。
畠山:いいカメラ。そのカメラ、今でも僕が持ってますし、時々使います。ローライフレックス。
青山:さすがですね(笑)。今でも問題ないと。
畠山:問題ない。あの時代のローライフレックスの完成度はすばらしいです。70年代の後半ですかね。75年前後ですね。
青山:『話す写真 見えないものに向かって』(小学館、2010年)の中だったでしょうか。高校の2年生か3年生の頃に、美術に目覚めたみたいなことを書かれていたんですけど、何かそのきっかけみたいなことはありましたか。つまり、大学に進学するにあたって、芸術系を選ぶっていう、何かこれというきっかけのようなものが。
畠山:何だったんでしょうね。僕、中学までは、自分で言うのもちょっと恥ずかしいんですけど、とても勉強が好きで、それで学校の教科書に書いてあることとか本当に好きで、参考書、学研の学習雑誌とか、ああいうものもよく読むような奴だったんですよ。その頃の中学校の先生たちのレベルっていうのは、戦後のどさくさで先生になった人とかずいぶんいたから、人によって本当まちまちだったんですね。ある人は雑談ばかりして、授業をさっぱりしない。だけど、定期的に市販のテストをばっと配って「やれ」と。ほかの子どもたちなんてなんにも習ってないから、答えを書けるわけないでしょ。理科の先生とかひどかったけど。でも僕は学習雑誌とか読んでいたから。
青山:できちゃったんですね。
畠山:もう解答が書けるわけ。そういうことも、ひどい時代だったなと思うんですけど。それで、高校に入るっていう時に、学力テストなんかの成績もよかったもんだから、父親が色気を出して、「おまえは盛岡の一高を受けろ」と。盛岡一高っていうのは、岩手県で一番レベルの高い進学校だって言われてるんですけど。でも、地元を離れて盛岡で暮らすなんて嫌だなって思ったし、あと受けろ、やれと言われると嫌だっていう(笑)。自動的な反応ですから、何か嫌だっていう。でも高田にある高校っていうのは、ちょっとね。
青山:何校ぐらいあったんですか。
畠山:陸前高田に高校はあったんですけど、でも少し色気のある、色気っていうか(笑)、野心のある子どもたちは、そこではなく越境して、気仙沼高校にいったり、それから大船渡高校にいったりしていたんです。じゃあ、僕も大船渡高校を受けたいってなんとなく決めて、それで受けたところ、トップで通っちゃったんですよ。1学年、新入生の中で一番点数がよかったの。それで、入学式の時に、代表して挨拶したんですよ。よろしくお願いしますって。みんなの注目浴びてたんですけど(笑)。でも、高校の勉強ってとっても難しくて、それでだんだん成績が落ちていっちゃったんですね。特に数学、物理、それから化学。そういう理系の勉強が本当に難しくって難しくって、もうだめと。気がつけばなんかぐーっと落ちていて。
牧口:1番ですからね(笑)。
青山:上がるとことないですからね(笑)。
畠山:クラブ活動は中学校から引き続きピンポンのクラブに入ってて、卓球部ですか。卓球ってはやってましたから、今でもはやってると思いますけど。それからあとは生徒会活動に2年生ぐらいから首を突っ込むようになって。
青山:ちょっと距離感はわかんないんですけど、小学校、中学は徒歩か自転車か。
畠山:小学校は徒歩ですね。で、中学校も徒歩。
青山:徒歩。高校は?
畠山:高校は汽車通といって。
青山:汽車通!
畠山:汽車通ですね(笑)。大船渡線で。
青山:小一時間ぐらいですか。
畠山:いえ。駅まで自転車で行って、駅にほったらかして、そこから40分くらいですか。盛(さかり)っていう駅で降りて。
青山:高校に入って、で、だんだんに成績が落ち、その流れで美術と出会うんですか。
畠山:成績が落ちたことと関係あるとは思わないですね。でも大船渡高校って一応なにか……
青山:進学校。
畠山:進学を目指すような高校で、だから、いわゆる情操系の科目、音楽、それから美術ってものは、ちょっと軽んじられていて、音楽はあったんですね。でも美術の科目がなかった。ゼロ。
青山:全くないんですか。
畠山:唯一芸術に触れたと思っていたのは、国語ですね。国語の中には文学が含まれていますから、あとは古文、漢文、ああいうものの中にも文学表現が含まれていますから、そういうものを通じてなんとなく芸術に触れてたって感じですかね。それから、若者特有の何かあるんじゃないですか。15、6だと。この世界っていったい何だ、自分っていったい何だみたいな疑問も生まれるでしょうしね。それで、家にあった美術全集のこともよく思い出してたし、試しに何か絵を描くってことを始めてみたんですね。そしたら、周りに何人かそういうことに共鳴してくれるような人がいて、学年の下の人とか。じゃあ、美術クラブを作りましょうよってことになって、それで部室をもらって。そうすると、放課後なんかに描いてると、例えば教頭先生なんかが、その人は数学の先生でしたけど、やっぱりあの世代っていうのは芸術に親しんでる男の人たちが多かったですから、多少話し相手になってくれたり、そういうことがありました。
青山:普通は芸術系の大学に行く人って、今でもそうですけど、そこそこ小さい時から絵が好きでっていうタイプの人が多いじゃないですか。普段から絵は描いておられたんですか。小学校とか中学校とかの時。
畠山:僕はそういう、ほかの芸術家が持ってるような何か人を納得させるようなストーリーって持ってないんですよ、子どもの頃は。例えば写真家でも、子どもの頃から写真少年でしたみたいな人とかいますけど、そういうの全然なくて、だから話をするとみんながっかりすると思うんですけど(笑)。…… 全然なかったんです。
青山:でも突然絵を描きだしたわけじゃないんですよね。
畠山:突然ですね。
牧口:すごい。逆にすごいです。
畠山:突然です。絵を描くっていっても、のべつ幕なしにノートに線を引いてるとか、そういうオブセッシヴなところは全然なくて、まずキャンヴァスかけて、そこに何を描こうか考えて、ちょっと絵具を塗ってみるって(笑)。
青山:そうですか。すごいですね(笑)。
牧口:普通こう、衝動が強い感じがするじゃないですか。絵を描くっていうのは。
畠山:今ならそうでしょうね。
牧口:特に小さい頃から絵が好きな人のタイプって、どっちかというと、考えずに手が動いてしまうタイプの人が多いと思うんですけど、畠山さんの場合は、自分で絵を描くぞって決めてから、絵を描くことに入っていくという感じだったっていう。
畠山:いや、ですから、なんでもないんだと思いますよ。つまり秘密のない何か。なんか試してみたいとか、そういう子どもっぽい衝動だったと思いますね。暇つぶし的な(笑)。
牧口:ギターを始める少年と何か近いような、やってみるみたいな(笑)。
畠山:そうかもしれないですね。あとは、その頃陸前高田にちょっとした美術ブームが生まれたんです。新制作協会の行木(なめき)さんっていう人がいて…… 行木正義さんっていったかな。パリで大成功してる抽象画家だったんですけど、その人、新制作協会のメンバーだったんですよね。彼がなにかで陸前高田に来て、「ここはブルターニュのように美しい」って言って…… 家を建てたんですね。その頃から新制作協会のメンバーがちょこちょこ講習会か何かをするようになって、夏なんかとても気持ちのいいところですから、メンバーたちが来て、それで街の中学校の美術教師とかが、俄然やる気を出し始めたんですよ。そういうのを見てましたから。あと僕より何歳か下の人で、とても絵の上手な青年、青年っていうか、その頃は少年か(笑)、と知り合ったりしてね。中学校の美術教師たちも、それがきっかけで新制作協会の公募展に応募するようになったり、それから駅前の薬屋さんの2階に、急ごしらえでギャラリーができたりと、そういう時代があったんですよ。大概は具象絵画で、風景とか描いてる人が多かったですけどね。あとはヌードデッサン会なんかもありましたよ。僕が高校3年とか浪人とか、その時代のことですね。
青山:1年浪人(生活を)されてるんですか。
畠山:1年浪人してるんです。というのは、本当に何も知らない田舎者ですから、国語とか英語とかは得意だったんですけど、理系がだめだって話したでしょ。でも自分はやっぱり高校終わってすぐ何か仕事をするっていうよりも、もうちょっといろんなこと知りたいなと思って、親も大学に行くもんだと思ってましたから、それで「どうすんだ」って言われて、美術の道にちょっと興味があるって話をして……
青山:どういう反応でしたか。
畠山:自分の好きなことで食べていける人間なんて、この世にはもう本当に数少ないんだっていうふうなこと言われましたけど、でもなんか僕の気持ちも凝り固まってて(笑)。で、結局美大を受験したいってことになって、その年は東京藝大を受けましたね。見事に……
青山:その現役の時に。
畠山:そうそう。わざわざ上野まで行って、デッサンの試験を受けて、当然落とされて。その頃は国立の1期、2期ってあって、2期のほうは宮城教育大ってとこを受験したんですよ。そこも美術の教師になるコースを受験したと思うんですけど、そこも落ちました。成績が悪くって。
青山:受験デッサンっていうのは一応やったんですね。
畠山:見よう見まね。
青山:見よう見まねって、本とかでってことですか。
畠山:あの当時、『アトリエ』っていう雑誌があって、それを見て。
青山:雑誌は取り寄せて。
畠山:そういうのは本屋で売っていましたから。画材屋さんも街にあったし。何しろ街は美術ブームになってますから。
青山:ブームですか(笑)。
畠山:文具屋さんで急にホルベインの油絵具ががーっと並んだり、そういうことがあったんですよ。たぶんこれは陸前高田だけじゃなくて、あの時代にちょっとしたブームがあったなと思いますよ。高度経済成長のあとで、そういう風潮がちょっとあったのかもしんないですけどね。
青山:じゃあ、特に先生についたとか、画塾に行ったとかじゃなくて
畠山:じゃなくて。
青山:自分でやっていたと。
畠山:うん。ただ…… 市内に住んでる中学校の美術教師を紹介されて、そこにわざわざ自転車で行って、いろいろ見せたり指導を受けたりってことはしてました。その人も大きな風景画とかを描く人でしたね。今生きてるかどうかはわからない。佐藤(実[さとう・みのり])さんという人だったけど。海岸の岩場の絵を描く画家もいたし、結構大きな本格的な油絵具の絵画に挑戦してる人が、市内に5、6人いた。それで、ある人はもう全然教育受けないで、それこそ見よう見まねで始めて、それで新制作に入選したりとか、そういう何か面白いことも起こってたんですよ。一種のフィーバーみたいなものがあったわけ(笑)。
牧口:ちょうどその時期が、進路を考える時期と重なっていたって感じなんですね。
畠山:そう。落っこって、東京藝大はもちろん落ちて。じゃあやっぱりって、うちの仕事手伝いながら、つまり朝新聞配達をし、それから旺文社のラジオ講座を毎日聞いて学科の勉強をして、それからあとはデッサンをしたりとか、非常に悶々とした時間を1年間過ごしました。
青山:筑波大学を選んだ理由は何かあったんですか。
畠山:実はこれは本当に恩を感じてる先生がいます。高校の先生ですね。吉田(精美)先生という人がいて、浪人中の僕に声をかけてくれたんです。千葉の流山に吉田先生の弟さんが暮らしてらっしゃる。ちっちゃい出版社をやっているんですよ。その弟に会いに行く機会があって、その近所に筑波大学ってのが、ほやほやのができたから、ちょっと様子を見に行かないかっていうふうに誘われたの。それで、一緒に行って、キャンパスを散歩して、芸術の学科の建物の中とかちょこちょこっと見たりして。あそこ、巨大な石膏デッサン室があります。当時、みんながすごいって言ってた石膏像の部屋があったんですね。例えばダヴィデの像あるでしょ。あれの正確な石膏像が、非常に天井の高い大空間の真ん中にどんと立ってる。非常に見事な石膏室だったんですよ。ああいうのを見て、かっこいいなと思って。ここはできてまだ2年で、2年っていうか芸術が2年目だったのかな。僕、3期目の時に志願をしたんですよね。それで試験を受けたら、数学が、マークシートで数学Iだったんですよ。つまり微積分以前の数学で、それで僕できたんですね。しかもマークシートだったから。マークシートで入試をやるっていうのは、当時実験的なことだったんですよ。筑波大学って、実験校だったからね。それで1次通って、2次にデッサンに行ったんですけども、周りを見たら僕とどっこいどっこいの人たちばっかりだったの。これはいけるかもと思って(笑)。そしたらもう幸運にも、幸運にもっていうかやっぱり、ちょっと期待はしてましたけど、通ったんですよ。それでよかったよかったってことで、2期のほうはもういいやって感じで。
青山:もうそこで決めようと(笑)。
畠山:2期校のほうは、まあいいやって感じで……
青山:そのまま決めたと。
畠山:そのまま決めた。だから幸運だったですよね。
青山:そこでもう引っ越しをしてっていうことですよね。
畠山:そう。それでその春から筑波大学の宿舎に引っ越しをして。
青山:そっか。宿舎があるんですね。
畠山:うん。寮ですね。そこに住み始めた。ですから、その頃は写真のことなんてあんまり考えてなかったし、自分は。当時版画ブームっていうのがあったでしょ。あったんですよ。
牧口:はい、70年代。
畠山:70年代の後半くらいかな。もう版画のスターがいっぱいいて、世の中には。有名なところだと池田満寿夫さんとか、あと野田哲也さんとか、当時の例えば『版画芸術』とか、ああいう雑誌を見たら、もう誰でも知ってるような名前がいっぱい出てくるんですよ。それがなんでだったのか僕はよくわかんないけど、版画専門のギャラリーとかもいっぱいあって、とにかく版画、版画だったんですよね。
牧口:ちょうど今『GQ』が手元にありますけど、70年代のこの辺とかですか。
畠山:『GQ』って何?
牧口:『GQ』っていう雑誌ですね。それこそ版画家がいっぱい載っているような雑誌だったり、ちょうど今70年代の版画関係の本がここにあるんですけど。でも70年代後半のものはちょっとないかな。版画はたしかにたくさんいらっしゃいますよね。
畠山:そうなんです。あの当時、美術界ですごく読まれていたのは、例えば池田満寿夫の『私の調書』(註:1968年1月から12月にかけてメモ『美術手帖』で連載され、同年書籍化。1976年に美術選書『私の調書・私の技法』(美術出版社)が刊行された。)とか。池田満寿夫さんは自分で体験したことを非常に分析的に語れる頭のいい人でしたから、あれは、本当に面白い本だったんですよ。評論家なんかが書くものよりも。ひょっとしたら僕が美術関係の本、評論っていうかああいう本で、を最初に読んだのは、『私の調書』だったかもしれないですね。それから、グラフィックデザインがすごく勢いがあった。グラフィックデザイナーたちが美術家と組んで何かをやるなんてことも、頻繁に起き始めてましたね。粟津潔さんとか、横尾忠則さんとかですね。大きな画面の抽象絵画とか、そういうんじゃなくて、もう少し軽みのある動きの速いものに、みんなが注目してた時代だったんですよ、たぶんね。だから僕も大学に入ったら、そういうグラフィックデザインとか、それから版画とか、そういったものをしたいなぁなんて、ぼんやり思ってましたよ。
青山:その筑波の大学のシステムはよくわかんないんですけど、基本的にはどんと大きな括りで入るわけですか。学部として入るというか……
牧口:専攻には分かれてないんですね。
畠山:大まかにあるんです。あそこには例えば書の学科があるんですよ。書道。大概、寺の息子たちが来てるんですけど…… 書の学科のある学校って、あんまり他にないんじゃないかな。書は書で、団体展もたくさんあるし、目利きたちもたくさんいるでしょ。だから、それはそれで奥深い世界で、その学科があったんですよ。それからあとは美学芸術学系の学科があった。それからデザインがあって、それからファインアート系の学科があって。僕の頃は、1学年トータルで70人くらいだったと思いますけど。
青山:トータルで?
畠山:うん。
青山:じゃあ、少ないですね。
畠山:だから、全員の顔を覚えられるくらいの……
青山:密な感じ、先輩も含めて。しかも寮ですね(笑)。
畠山:おっしゃったように、最初は専攻を決めないで入るんですね。ただ、書で来た人間がデザインに移るってことは、あんまりないですよね。ほかは3年次から細かい専攻を決めてくんですけど、最初の年、1年次、2年次は満遍なく幅広くやるわけ。例えば写真なんてのは、これからは誰にとっても必須の教養になるだろうってことで、書の人間たちも写真の講座は受けてた。つまり70人全員が受けて。そういう実習の時間もありましたね。で、3年次から分かれていくんですけど、僕は1年次の頃にもう大辻さんのことに関心持ってましたからね。入る前はわかんなかったけど、父はカメラ雑誌とかを見てたから、「おまえの行ってる学校には大辻さんっていう有名な先生がいるんだな」みたいなことを言ってましたけどね。それで、あとは(ほかでも)よく書いたりしゃべったりしたことですけど、だんだん彼の魅力がわかってきて、それで彼の周りにいる人たちも、その時代の、同時代の、つまりコンテンポラリーな動きの中で生きてる人たちでしたから、話すことにいちいち非常にリアリティがあって。団体展とかハイアラーキーで凝り固まってる人たちと話してるのとはもう全然レベルが違うから。つまりリアリティのレベルが違うから。だからだんだんそっちのほうに行って……
青山:それはゼミみたいなかたちなんでしょうか。
畠山:ゼミっていうのは僕、経験したことないですよ。誰かの先生の研究室に出入りしてっていうことはなかったですね。大学院に入ってからかな。いまだにゼミって何ですかって、聞きたいくらいですよ。
牧口:大辻先生以外では、どういう方々がいらっしゃったんですか。
畠山:筑波大学は、その当時ちょっと話題になってたんですが、総合造形っていう新しいコースを作ったんですよ。で、これはその時代、ほかの学校、東京藝大にすらなかったような新しいコースで、英語に訳すとプラスティックアート・アンド・ミクストメディアって言ってましたね。プラスティックアートは造形芸術。それからミクスト・メディアは新しい技術も使ってってことですけれど。最初に教えてたのは、僕が入った頃はもうすでに山口勝弘先生がいたんだよね。それから、三田村畯右(しゅんすけ)先生っていう人がいて、その人は北欧でちょっと留学したり活動したりしてた人で、大型の面白い彫刻を作る人でした。ほかに誰かいたかな。2人だったか。それでちょっとたってから篠田守男さんが来たんですよ。現代彫刻の。で、大辻清司さんはグラフィックデザイン、視覚伝達デザイン、ビジュアルコミュニケーションデザインっていう名前でしたけど、そこの所属だったんですよ。ですから、総合造形の先生ではなかった。でも、もちろん山口勝弘さんとはもう旧友ですからね。それから学外からいろんなゲストを大辻さんが呼んでくれたし。それから山口さんも呼んでくれたし。その時代の前衛美術っていうんですか、そういう人たちが何人かゲストできたのを覚えてますね。例えば、順番はちょっとわかんないけど、写真家の石元泰博さん。それから、安齊重男さんも来たかな。安齊さんは篠田守男さんが呼んだんだと思うけど。ほかにも何人かいましたね。映像作家の非常に記号学的な、記号学に影響された映像、非常に難解な映像作品っていうのがあの時代ずいぶんあって。で、(東京)造形大なんかで教えてる中川邦彦さんとかがやっぱり作品見せに来ましたね。わけわかんなかったけど(笑)。そういうこともあったし。とにかく現代美術っていう言葉がその頃はもう使われるようになってましたけど、実際、現代美術の作家は世間にはいっぱいいたんですけど、学校としてそういうものを、作家を作るっていうふうな姿勢はどこも持ってなかったですよね。筑波大学にそういうのが最初に生まれて、で、大辻さんとは親しく話をするようになってたけど、学部の時代はやっぱり写真というよりもそういう現代的な美術の、つまり同時代の美術にもっともっと触れたいと思って、それで3年次に総合造形コースを選んだんです。そのコースには、僕を含めて3人くらいしかいなかったな。
青山:卒業制作もあるわけですよね。どういう作品でしたか。
畠山:それは、今から考えると本当にナイーヴなものなんですけど、非常に軽い布を用意しまして、それをミシンでつないで、7メートルくらいかな。正方形なんですよ。それで、四隅に支柱を立てて、糸でそれを張る。で、その下に換気扇用のファン、それが数個、5個くらいかな。床に置いてあるんですよ。その上に布がかかってる。そのファンがスイッチによってオン、オフ、オン、オフ繰り返して、全体的に布が動くと。風で膨れたり、それから落ちたりみたいな、ふわふわって。
青山:操作は自分でするんですか。
畠山:操作はセンサーか何かの技術を使って、それでスイッチが入るようにした記憶があります。
青山:現代美術ですね、完全に。
畠山:照明にはブラックライトを使いました。大きな写真スタジオがあったんで、そこで披露したんですね。卒業制作としてそこで披露した。だから今考えると何の芸もないものですけど、批評性もないし(笑)。本当にナイーヴな作品なんですけど。一種のキネティック・アートですね。それを作りました。
青山:評価というか、評判はいかがでしたか。
畠山:評判は、まあ批評性がないですから、まあ合格かな、みたいな感じじゃなかったんですかね(笑)。だって、自分でもなんとなく思ってましたからね。ほかの、例えば篠田守男さんの彫刻作品とかと比べると、あまりにも芸がない、みたいな。それらしい雰囲気はあるけど、何か中身がないなみたいな感じがちょっとありました。
青山:片方で写真は授業の課題というようなかたちでやりながら、卒業制作はそういう造形的な作品を作って……
畠山:ビジュアルコミュニケーションデザインで卒業したくなかった。いくら大辻さんがビジュアルコミュニケーションにいたといっても、ガチンコの写真表現で卒業する人はたぶんいなかった。というのは、大辻さん自身がグラフィックデザインの教師であるっていう自覚がすごく強かった人で、いわゆるタイポグラフィとか、それからポスターのデザインとか、本とか、そういったものにすごく関心の高い人だったんですよ。ですから、ビジュアルコミュニケーションデザインの一部として、写真のことも教えてたって感じ。本人はもちろん「コンポラ言説」を引っ張ってたような人ですから、だからそっちのほうに興味もあることは確かなんですけど。でも、学校の中ではもうちょっとフレキシブルな学生を育てたいっていうふうな意識があったんだと思いますね。だから、いつも写真写真した写真だけじゃなくて、グラフィックデザインとともに役に立つような写真のありようとか、そういうふうに考えている方でしたよ。だから、ビジュアルコミュニケーション全体の概論みたいな講座も持ってましたよね、写真史だけじゃなくて。
青山:そちらは選ばなかったと。
畠山:ほかの先生たちにあんまり関心がなかった、ビジュアルコミュニケーションのコースの先生たちに。
牧口:その総合造形の場合は指導教官って、どなたになるんですか。
畠山:総合造形の指導教官、誰だったのかな。3人で見てくれたのかな。
青山:共同で持つと。で、いろんな人に相談しながらっていうことですね。
畠山:うん、そういう感じだったような気がします。
青山:同じ学年で進学する人と、就職する人といろいろいたと思うんですけど、そのあたりはどうだったんですか。
畠山:1人はコンピュータグラフィックス系の会社にいきましたね。
青山:すぐに。
畠山:はい。何年か何かがあったかもしんないけど、気がついたらコンピューターグラフィックスの会社にいってて、それである日、フェラーリに乗せてもらったのを覚えてます。
牧口・青山:(笑)
畠山:びっくりしましたけど。もう1人はいまオブジェ作家になってますね。札幌にいます。彼はなかなか卒業できないで、留年を1年2年やった人ですけど。今でも連絡はあります。
青山:その方は進学はしなかったっていうことですね。
畠山:しなかったですね。
青山:では、畠山さんのように修士まで行ったっていう人は少数派ですか。
畠山:モラトリアムかもしんないですね。
青山:もう少し……
畠山:うん、もうちょっといたいみたいな。僕のすぐ上にやっぱり総合造形でいた人で、石原恒和さんって人がいまして、彼もたしか大学院に行ったのか行かなかったのか、ちょっとわかりません。その頃、ビデオ・アートが注目を浴びてまして、あの頃はもう、ビル・ヴィオラがソニーの招きで東京に滞在してた時期ですし。
青山:ああ、もう来てる時期ですね。
畠山:会いに行ったりしたこともあるし。その石原さんはやっぱりビデオ・アートの作品を自分で、セルフポートレートをテーマにして非常に面白い作品を作って、その頃MoMAのキュレーター、誰だっけ、バーバラ……
牧口:・ロンドン(Barbara London)。
畠山:ロンドンかな。日本にリサーチに来ていて。それを見て面白いって向こうの雑誌に載っけたっていうのがありますよね。その石原さん、今はポケモンの社長ですけど(笑)。株式会社ポケモンの社長ですね。彼がもう、すごいですよね。
一同:(笑)
青山:すごいですよね。
畠山:すごいです、もう本当。すごいマンションに住んでるみたいだけど。でも、石原さんには恩があるんです。…… っというのは、僕、学校出てすぐどうしようかって時に、うちにきて手伝うかって言ってくれたの、彼ですから。それで西武セゾングループ内の会社に一時期ちょこっといたんですから。SPNっていう会社でした。そこに石原さんが正社員でいて。僕はバイトでそこにいました。
青山:それはどんな仕事だったんですか。
畠山:映像制作ですね。
青山:石原さんのお手伝いっていう感じですか。
畠山:そうです。彼の下でいろいろ…… 大学院時代の話はまだしてませんけど。
青山:まだですね。いったんそちらに戻りましょう。
畠山:SPNは、大学院のあとの話ですから。
青山:修士課程はわりと自由ですよね。自分で自由に制作をしなさいという感じでしたか。
畠山:たぶん、大学4年の頃から写真の現代的な表現に対しての関心が高くなったんですね、大辻先生の影響もあって。それで、その頃の写真、もちろんスターたちもいっぱいいたし、外国からもいろんな変わった写真表現がリアルタイムで雑誌で紹介されてましたからね。あの時代は、例えば、ダイアン・アーバスなんてみんな夢中でしたよね。僕より上の世代もダイアン・アーバスの写真を見て、あ、これだっていうふうに思った写真家もずいぶんいますよね。それからいわゆるアメリカのコンテンポラリー・フォトグラファーズ、例えば、リー・フリードランダーとか、ああいう人たちの仕事もどんどん紹介されてたし。それから世の中は消費美術、広告美術真っ盛り。パルコ、西武、でしょ。それで、コピーライターとか、新しい職業ができて。で、なにか大きなポスターで表現をするってことにすごく魅力がある、そこから魅力があふれてるみたいな、そういう時代でしたから、インパクトのあるスペクタキュラーな写真とかはポスターの中でよく見てましたよね。実験的な写真表現もずいぶんポスターの中にあったし。
青山:よく見ていた雑誌っていうのはどういうものですか。
畠山:父が取ってたのが『カメラ毎日』ですね。『カメラ毎日』は山岸(章二)さんって人がずいぶん画期的ないろんな特集を組んでいましたから、とても面白かったですよ。一種のカルチャー誌、非常に先鋭なカルチャー誌の様相を呈してましたよね。今のカメラ雑誌なんかと比べるともう。今のはおじいさんたちの暇つぶし雑誌…… になってますよね、本当に。若い人の仕事が紹介されると、そこだけ……
青山:浮いてる。
畠山:浮いてる。ほかはもうサクラとか、奈良、京都、とかそんな感じですから。
一同:(笑)
牧口:当時はもっと違う先鋭的なものが紹介されていた。
畠山:いや、『アサヒカメラ』も今よりはもうちょっと時代に即したものだったんじゃないですかね。ただ、中でも『カメラ毎日』っていうのはほかの写真雑誌と比べても突出して、つまり、カッティングエッジ的なものを扱っていた。
牧口:お父様が取られてたっておっしゃいましたけど、それは大学時代に目に触れたものではなくて、大学のあとのお話ですか。それとも前?
畠山:高校、大学。高校の頃はちょっとわかんないですけど、大学時代はやっぱり彼が取ってましたよね。だから、国に帰るたんびにまとめてじっくり読むみたいな、そういうふうな感じで……
青山:修士課程の修了作品はどんな作品でしたか。
畠山:『等高線』につながるような表現を始めたのは、大学の4年頃なんですよね。そんな記憶があります。それで、大学院に入って1年くらいかな。自分でなんとなくこういうふうに撮ってたらとても面白いなっていう、何かつかめている感じ。よくわかんないけど。プラウベル・マキナっていうカメラを買ったのはいつだったかわかんないですけど、6×7(ろくなな)のフォーマットでね、それで撮るようになったんですよ。35ミリのカメラも持ってたんですけど、フィルムがちっちゃいなと思って。6×7で撮ると1コマが大きいんですよ。それでプリントを作ると、35ミリのプリントと比べると、見違えるほどきれいなんですね。もちろん腕も上がりましたけど。
一同:(笑)
畠山:35ミリで撮ってもすばらしいプリントを作るっていう人は世の中にいっぱいいるんですけど、でも僕はそうじゃなくて、6×7で撮り始めたら、「うわ、きれい」とか思うことが多くって。でも、そのカメラにしたら写真がこんな感じになってきたんですよ。たぶんフレームの周囲がはっきりしないってこともあると思うんですよね。のぞいた時にどっからどこまで写ってるかがちょっと判然としないし。透視式のファインダーですから、なんとなくアバウトになっちゃうんですね。だから大事なものを真ん中に置いて。大事なものをとにかくもう真ん中に置いて。いわゆる日の丸構図ですけど、そういう写真を撮るようになって。世間的には日の丸構図ってのは褒められたもんじゃないんですけど、僕に限って言えば、その頃大辻さんといろいろ話してたことにつながる何かがあるような気がして。それで撮ってったんですよ。それがまとまりつつあったのが大学院に入って1年目か2年目くらい。その頃ある程度の枚数になってたんで、それに関心を持ってくれた人たちが東京に何人か出てきて、それでツァイト・フォト・サロン(註:1978年に石原悦郎が創業した写真専門のギャラリー)で大学院にいる間に個展ができたんです。
青山:83年ですか。
畠山:83年。
青山:その時は何点ぐらい出されてるんですか。それはプリントですね。
畠山:白黒のプリントですよ。四つ切りの紙に焼いて。山崎博さんとか、それから、大辻清司さんもそうなんですけど、まあいいんじゃないかみたいな話を石原悦郎さんにしてくれたんですね。筑波に畠山っていうのがいるけど、いいんじゃないかと。それで推薦してくれたみたいで。石原さんは当時、僕の写真に対して判断することがちょっとできなかったような状態ですね。だけども、自分が信頼している人たちがいいんじゃないかって言ってくれたから。僕もああいうところで展覧会ができたらすばらしいと思ってたしね。それで展覧会開いてくれたんです。たぶん僕は26歳くらいの頃かな。25かな。僕も有頂天でしたから。だから、これで世の中に出てもやっていけるんじゃないかって思ったんですけど、そんなに甘くないでしょう。
一同:(笑)
青山:会期はどれくらいだったんですか。
畠山:会期は1カ月くらいあった感じですかね。
青山:その間は結構、詰めて……
畠山:でも、住んでるところが東京じゃなかったから。何回か行きましたけどね。
牧口:ツァイト・フォト・サロンでの展覧会とかよく見に行ったりしてらっしゃったんですか。
畠山:行きましたよ。やっぱり写真のギャラリーっていうのはあそこと、それからフォト・ギャラリー・インターナショナルっていうのが虎ノ門にあったんですけど、その二つくらいだったかな……。当時コンセプチュアルアートの世界で写真が使われるようになったっていうのはありますよね。それから、ランド・アートとかの人たちも、もう人に見せるためにはしょうがないっていう理由もあるかもしんないけど、写真をずいぶん重視するようになりましたよね。で、そういうものは美術館とかで見てましたけど、あとは現代美術のギャラリーで見てたけど、ツァイト・フォトやフォト・ギャラリー・インターナショナル(PGI)っていうのは、そういうものはあんまり見せない。でも、美術館で大きな白黒プリントを見るっていう体験は、当時からしていたわけですよ、つまりアートの作品としてね。で、その時に抱く、床があって、壁があって、フレームがあって、その中に白黒の写真がある。この体験を、だんだん親しいものとして、観客として感じ始めるわけですよね。それと同じようなものがツァイト・フォトとか、PGIにはあるわけ。もちろん、写真の中のエステティックとかは、全然違いますよ。でも、写真のありようとしてあるわけですよ。壁にかかったり、額に入ったり。だから、そういう壁にかける写真っというのが、とても新しく自分の時代とつながっているもののように見えてましたね。それまではあんまり世の中でもそういう習慣はなかったんじゃないですか。
青山:畠山さんご自身はどうだったんでしょうか。修士で少しずつ作品がたまっていく、プリントがたまっていくわけですが、それをどう人に見せるのかということに関して。個展を開くまでにはいろいろプロセスがあったかとは思うのですが。
畠山:僕ははっきり印刷物か額縁かっていうのを決めていた人間ではないんです。でも僕より上の世代の人たち、上の世代の上か、今70代の人たちは壁で写真を展示するなんてこと、あんまり興味ありませんでした。むしろ、「大事なのは印刷物です」っていうふうな言い方をする人たち、結構いるでしょ。僕はあんな感じではなかったですね。やっぱりその下の世代あたりから、ホワイトキューブで額に入れて写真を見せるみたいな、そういうものに親しみを感じる傾向が出てきて。で、僕もそうでしたから、だからプリントを焼いて、展示することに対しての関心っていうのは高かったですね。もちろん、それが印刷されるのはすばらしいことなんですけど。ただ、まず印刷物を作りたいからその材料として写真を撮ってるって感じじゃなかった。やっぱり壁にかけてそこの空間全体が充実するような、そういう写真を作っているっていう意識は高かったですね。これは時代的なものだと思うんですよ。つまりギャラリーが出てきた、それから美術館の空間で写真が展示されるようになってきた、写真専門の美術館ができてきたとか、そういう時代でしょ。そうすると自分が撮る写真も印刷物のための印刷用の原稿としてじゃなくて、まずこうやって掛けて、眺めてっていうふうな姿勢ですよね。それが強かったと思います。っていうか、それは僕よりちょっと上の世代がやっぱりそういう姿勢で写真を作り始めたんだと思いますね。
青山:その展示のあとに写真集にするっていう話が出たんですね。
畠山:どっちだったかな。写真集のほうが…… 先じゃない? その前に雑誌とかでちょこちょこ紹介されてた。あんまり目立たないような雑誌で。
青山:それもやっぱり先生方の紹介で。
畠山:あとは学校ですわ、先輩とかさ(笑)。新しく美術雑誌を自分の力だけで作っている人がいて、光成(みつなり)さんっていう人だったけど、その人が『Art View』とかいう大型のグラフ雑誌を自分ひとりで作りだして、それでそこに、ページをあげるから君の写真を載せてくれないかって言われたんですよね。それが最初だったような気がしますね。その時は『等高線』っていうタイトルじゃなかったような気がする。それから、あとは金子隆一さんたちが日本各地っていうか、主に関東エリアですけど、連続的に小規模な展覧会を自主企画でやってたんですね。それで筑波大学でもそういう展覧会をやりたいっていって、それで大辻さんと彼は知り合いでしたから、僕もそのグループショーに加えてもらって…… 学内で最初にやったのが島尾伸三、築地仁、畠山直哉の3人展だったんですよ。それ以外にいくつか、もうちょっと参加人数が多いグループ展があったかもしれないけど。で、その時に『等高線』のあれにつながる写真を展示したんですね。ちっちゃいパンフレットができて、そこから徐々に何人かの人が知るようになった。でも、もちろん大きなメディアに載るような仕事じゃないですから、関係者の中だけで畠山っていうのがちょっと今までにない、少し冷たくてクールな写真を撮るのが筑波に現れた、みたいな感じで(笑)。ただの数人、多くても10人とか15人とか、そのくらいの間でそういう情報が回ってたって感じじゃないですか。
牧口:ちなみに『等高線』は、発行はどちらですか。
畠山:あれは、「camera works tokyo」っていう、金子隆一さんたちがやってたグループがあるんですよ。主要メンバーは島尾伸三さん、築地仁さん、それから、谷口雅さんが出入りしてたかな。谷口さんというのは、この前まで日吉の綜合写専(註:東京綜合写真専門学校)の校長さんをやってましたけどね。それでグラフィックデザインを菊地信義さんがやってた。菊地さんっていうのは装丁っていうか、ブックデザインの大家ですね。
青山:ちょっとお金の話っていうか…… 写真の制作にもお金がかかると思うので、学生時代はいろいろバイトもされたと思うんですけど。
畠山:うん、バイトした。
青山:どういうお仕事が多かったですか。
畠山:バイトはレストランスタッフ。皿洗いとか。それから……
青山:それは修士の頃のことですね。
畠山:そう。あとは地元の写真屋さんの手伝い。地元の写真館があって、そこのお手伝いとか。出張して、何か撮影するとか。あとはものを運んだりとか。それから、ちょっと1週間とか集中してバイトにいくなんてのもありましたよ。オロナミンCのキャップの内部のパッキンあるでしょ、プラスティックの。あれがずれてないかどうか確かめるっていうバイトを千葉の石川っていうところで本当泊まり込みで1週間くらい連続でやったことがある。とても割のいい仕事でしたね。ただ、このくらいの幅のとこにキャップが裏っ返しになって、がーっと、何千個と流れてるの。それを……
青山:じーっと見て。
畠山:そう。こうやって見るわけ。で、ずれてんのがあったらはねる。そういうバイトでした。
青山:修士は2年間? 3年?
畠山:3年いました。たしか、親にも、「いやもう、日本橋のすごい有名な写真のギャラリーで展覧会ができるくらいだから」って、たぶん2年目の時に個展だったのかな。3年目だったのかな。ちょっと忘れたけど。
青山:83年が個展ですね。
畠山:うん。で、学校を出たのが……
青山:修了が84年ってなってます。
畠山:ああ、てことは。
青山:だから同じ学年かな。
畠山:そう、3年目。個展が決まってたから、もう1年いて、それでって感じだったのかな。虫のいい考えをしてたのかな。
青山:こちらは修了制作展っていうのもあったんですか。
畠山:修了制作展、あったのかな。
牧口・青山:(笑)
畠山:あったような気がする。
青山:それもこのシリーズってことになるんですか。
畠山:違います。修了制作はカラー写真だったの。「研究学園都市」っていうテーマで、カラー写真のプリントを作ってた。今思うとひどいですけど、思い出すとちょっと恥ずかしいですけどね(笑)。
青山:どういう写真ですか。
畠山:これ、何かいわくありげで含みの多いような写真に見えると同時に、非常にナイーヴな写真にも見えるでしょ。実はカラーでやったらそのナイーヴさだけが表に出てきちゃうようなものになったんですよ。だから、自分でもちょっとよくわかんない状態でやってたって感じですかね。ただ、カラー写真、やってみたかったんですよ。でも、カラー写真のプリントの設備がなくて、当時コダックの、ピールアパート方式のカラープリントがあってですね。
牧口:ピールアパート?
畠山:ピールアパートっていうのは、よくポラロイド写真なんかでありますけど、完全に面と面がくっついてて、それを引き剥がすと片っ方に絵が写ってるってやつ。ポラロイドフィルム、よく、ぺろって剥がしてるでしょ。あれと似たような方式のプリント方法があったんですよ。コダックから出てた。エクタカラーじゃないな。何ていったかな…… 何とかいってた。今ちょっと思い出せませんけど。それを使ってプリントを作ってましたね。学校にカラープリントのシステムがなかったんで、たしかそれを使ってやってましたよ。コダックの80年前後の製品ですね。82、3年とか。何ていう名前だったっけ…… プリントのシート、それであとで剥がすんです、こうやって。
牧口:大きさはどれぐらいの。
畠山:大きさ、僕が使ってたのは8×10かな。それから10×12かな。今でも取ってありますけどね、それ。
牧口:その作品が残っているんですね。
畠山:うん、僕のところにある。
畠山:エクタフレックスだったかな。ちょっと調べてみてください。エクタって、EKですよ。
青山:出てこないですね。
畠山:出てこない? たしかエクタフレックスっていったな。
青山:ないですね。(註:その後Kodak Ektaflexで間違いないことが判明した。)
畠山:一時期だけあったんですよ。あともう消滅しちゃいましたけど。
牧口:インスタントカメラ的なものではないんですよね。
畠山:カメラじゃなくて、プリンティングシステムなんですよ。修了制作は、ですから、カラー写真でした。
牧口:被写体はさっきの『等高線』のシリーズに似てるけれども、それがカラーでっていう。
畠山:場所を限って、研究学園都市で、筑波ですけど、その中だけで撮って、その土地のことをテーマに絞って。そこ、研究所とかがいっぱいあって、とても非人間的な雰囲気があるんですね。そういうものを面白がって扱ったっていう感じです。論文はもう目も当てられないものですね。何も書きたいことがなかったし。別に何か調べようと思ってたわけでもないし。自分の表現が画期的で、歴史の先端に登記できるようなものとも思ってなかったし。
牧口:それでじゃあ、大学を修了されて、そのあと東京に。
畠山:そう。それで個展ができたから、なにかその後、仕事につながるような話が生まれるかなと思ったんですけど、全くなくて。ああいう写真っていうのは仕事を頼みたくなるような写真ではありませんから。
一同:(笑)
畠山:仕事がくるタイプの写真っていうのは、もうちょっとメディアが喜んだりとか、広告制作さんが喜んだりするような表現っていうのは別にあるわけでね。こういったもので、すぐ食えるわけがない。プリントも売れませんでしたしね。1点かな。あとは石原さんがいくつか買ってくれたけど。石原さん、若い人の作品を買うんですね。1回やると。どうせ売れませんからね。買ってくれるんですよ。で、カメラマンになれるんじゃないかってなんとなく思ったんですけど、そんなこともなく、どうしようかな、もう春には学校から出ないといけないしなって石原さんに相談したら、じゃあうちにきて手伝うかって言われたわけ。SPNってとこ。
青山:それがSPN。
畠山:それが池袋のサンシャインビルの何階にあったのかな。事務所が、52階とかそのくらい、高いところにあったんですよね。で、東京に引っ越してからそこに毎日通ってました。地下鉄に乗ってた。
青山:その時はどちらに住んでおられたんですか。
畠山:その時は、新宿区の新小川町ってとこ。最寄り駅は飯田橋でした。
青山:すごいど真ん中ですね。
畠山:新小川町に同潤会アパート、江戸川アパートメントがあったんですね(註:1934年竣工)。そこの部屋にたまたま入ることができて、そこの5階とか6階とかに暮らしてました。
青山:そこから毎日のように通っている。
畠山:そこから1年間通いましたね。
青山:それで一応食べていけるぐらいの安定した収入が得られた。
畠山:はい。時間給計算でしたけどね。時給いくらみたいな感じで、かけ算でもらうみたいな。
青山:それ以外に、「作品」ではないかもしれませんが、写真の仕事もされていたと思うんですが。
畠山:最初の頃は、自分の写真にはこういうスタイルがあるっていうふうに思ってたんですよ。だから、こういう写真(『等高線』など)を人に見せてたんですね。でも、みんな困惑するばかりで、仕事を頼んでくる人はなかなかいなかったんですね。ただ、物好きな編集者とかがいて、例えば、宗教学者の植島啓司さんのエッセイの連載がざらざらした『求人タイムス』か何かにあって、それの挿絵に1枚ずつ使っていったとか。そういうことありました。1回使われて、1、2万円とかもらったり、そういうのはありましたね。あとは、ファッションデザインをやってる人がパリから来て、その人がたまたま僕の英国人の知り合いの知り合いで、カメラマンを探しているって頼まれて、その人のファッション作品を撮った、とか。そういう頼まれ仕事っていうのは、1カ月に1個くらいありましたよ。
青山:それは20代後半。
畠山:20代後半ですね。でも、それは食えるようなものじゃないですから。
青山:写真で食べられるようになったなというふうに思われたのはいつぐらいのことですか。
畠山:まず、1年間SPNに通って、その間ヨーゼフ・ボイスのドキュメンタリー(映像の制作)とかもやったりしてたんですけど。
青山:その仕事をするきっかけは。
畠山:それは、非常に話せる上司(註:泉英樹さん)がいて、それで僕は若かったけど、何かを持ってるやつかもしれないっていうふうに思ってくれたんじゃないですかね。それで面白がってくれたのかもしれないです。ですから、経験もない僕に、「今度ボイスが来るんだけど、誰がディレクターやるか、いろいろ話し合ってるんだけど、あなた学校出たばっかりであれかもしんないけど、やってみる?」って言われて。それでびっくりしたけど、「はい」って返事をして。だって、その時東京に出てきて数カ月ですよ。それで周りは「ええー」とかいう顔をしてた(笑)。
青山:どういうことですか。
畠山:つまり撮影のスタッフっていうのは、ソニーPCLっていう非常に伝統のある撮影会社があるんですけど、そこの人たちなんですね。音声、カメラ、それからあとはビデオエンジニア。
青山:それはビデオ撮影。
畠山:そうそう。本格的な人たちが、もう百戦錬磨の人たちが集合してるわけですよ。そこに何も知らないやつがディレクターでございますとかってくるわけですから、たぶんばかにされてるような気がしたのかもしれませんけど(笑)。
青山:ディレクターっていう仕事なんですね。
畠山:ディレクターです。
牧口・青山:(笑)
畠山:ドキュメンタリーフィルムのディレクター。
青山:それは何分ぐらいのものですか。
畠山:『ヨーゼフ・ボイス・イン・ジャパン』っていう1時間40分くらいかな。忘れちゃった。
青山:見てみたいですね。
牧口:それって……
畠山:ありますよ。
牧口:そのあと公開されたりしてるんでしょうか。
畠山:それは、当時、もうすでにボイスの作品を持っていたペヨトル工房の今野(裕一)さんがボイスが来るっていうんで、スタッフに加えてくれってすごく言って。僕の上司も今野さんのこと知ってたから。それで、今野さん、撮影中そばにずーっといたんですよ。ビデオのパッケージができた時に出版物にしたいって彼が言って。権利関係はクリアするのが本当に大変だったけど、カセットブックっていうことで、ヨーゼフ・ボイスの講演集の全記録、文字で(註:『ドキュメント・ヨーゼフ・ボイス』240ページ)。プラス『ヨーゼフ・ボイス・イン・ジャパン』のVHSカセット(註:60分)。
青山:VHSカセット、そうですよね。
畠山:それを二つ、1個の箱に入れて、ミルキィイソベ・デザインで作ったんですよ。それは市販されました(註:1984年)。
牧口:ヨーゼフ・ボイスについてはその当時、どういう。畠山さんも当然ご存じでもう日本でも……
畠山:その時はすごかったですね。
牧口:盛り上がってたっていう感じだったんですか。
畠山:フィーバーでしたよ。ちょっとミステリアスなところがありましたよね。それまでそれほど情報はなかった。アメリカのアーティストたち、例えば、アンディ・ウォーホルなんかの存在はもちろんみんな知っていましたけど。でも、ドイツのボイスっていうのはあまり情報なかったですよ。同じようなフルクサスの活動の中にいたけれど。やっぱり東野芳明さんとかの、あの時代でカッティングエッジな美術の表現の動向を知らせる人たちっていうのは、地域的には偏りがあったかもしれないですね。だから、ニューヨークのことはよく伝わってきてた。ニューヨークに日本人のアーティストが何人かもうすでにいたと思うし。だけど、ドイツの状況っていうのはどうだったのかな。知ってる人だけ知ってるって感じじゃないですか。ただ、来るってことがわかって、みんなが彼について学び始めたら、これはとんでもない人間だということで、一気にフィーバーが起こったんですね。たぶん、それまでボイスの作品がすばらしいとか言ってた人、そんなにいないと思う。でも今野さんは、かんらん舎で大谷芳久さんがボイス展をやった時にががーんときて作品を買っちゃったくらいの人ですから(笑)。だから、もうぜひって感じで来てたんですね。全く何やってんだこいつは、みたいな目でその時は見られてましたけど。
一同:(笑)
畠山:僕はなんかもう、うろうろしてただけですから。ぼーっとして……
牧口:まだ20代後半ぐらいですね。
畠山:26ぐらい。
牧口:それで、ディレクター。
畠山:そうです。
青山:ボイスは1週間ぐらいいたんですか。
畠山:そのくらいいた。4、5日じゃない。
青山:その間のドキュメンタリーを撮影して……
畠山:そう、空港に迎えに行って、空港から送り出すまで撮ってた、ずーっと。
青山:写真の撮影はしなかったんですか。
畠山:僕はカメラ下げてた時もちょっとありますけど。でも、実際ビデオのクルーって4、5人いるわけですから、それで一所懸命撮ってるわけ。それで、草月のパフォーマンスの時なんてカメラが3、4台あったのかな。それでスイッチングで記録していくような状況でしたから、結構熱の入った撮影だったわけ。で、そういう時にディレクターがぼーって。
牧口・青山:(笑)
畠山:マキナ67とかでカシャッとかやってたら、ちょっと場の雰囲気が悪くなるでしょ。だからやめてました。ただ、小石川植物園に散歩に行った時、1枚撮った。その写真は時々使われる。ボイスがこうやって、木の葉に手を伸ばしてる写真。僕はとっても好きな写真なんですけど。発表しても誰も何も言ってくれない、みたいな。
一同:(笑)
畠山:ボイス自身があれから2年後にもう亡くなっちゃって。本当に神話的な存在のままでしょ。彼の作品の意義に対して、今どれだけの人が何を考えてるのか、どういうふうに価値づけてるのかとかってよくわかんないよね、正直言って。
青山:1週間弱ずっと一緒に同行されて、その時の印象で思い出に残ってることはありますか。
畠山:いやもう、ありありと。だって、その後、ビデオの編集で1人編集室にこもって1週間近くがちゃがちゃ絵をつないでいたわけですから、もうありありといろんなことを覚えてますよ。映像も混ざってますけど。
青山:なかでも特に強く印象に残ったことってありますか。
畠山:あれだけカリスマ的なアーティスト、今の世の中で探すことは難しいっていうの、まずはありますよね。でも、わけのわからない部分もいっぱいあるんですよ。つまり僕らの生活世界からああいう人間がもし生まれてきたとしたら、変人扱いされてしまうような、そういう部分もいっぱいある。でも、何か確たる理由がなければ、あれだけ大量の仕事を残せるわけがないんでね。そこはすべての人が完全に理解できるものではないと思います。はっきり言って、わかりやすいアートではありません。それから彼自身の主張にしたって、アートのことを言いながら、実は社会の変革のほうに力点が置かれていたり、つまりソーシャルエンゲージメントの部分とアートの持ってるメタファーの部分をどうやってくっつけていくかってとこはなかなか理解が難しいんですよ。彼は自分で自信を持ってやってますから、みんな説得されてますけど、じゃあ彼が持ってるメタファーの部分と、社会の部分をどうにかしようとしてるっていうのはわかるんだけど、実際どこがどうなって、樫の木が社会にどういうふうな影響を与えるかっていうことに対する分析っていうのはなかなか歯が立たないですよね、きっと。でも、圧倒されて彼についていって、何かがちょっと動いたみたいな、そういう感覚はあの時誰でも持ったんじゃないですか。あと、メタファーの用い方があまりにも独特で…… つまり、やっぱり仕事がわかりやすくないんだよ。でも、見ると記憶には残りますよね、一挙手一投足含めて。それから、奇妙な作品のありよう。例えば、油の固まりとか、ベルトとか、あと、銅の板とか、それから岩石とか。そういうものを大規模に一部屋がーんと作ったりするでしょ。見てもこれが何を意味して、これが何を意味してっていうのは、いちいち解説はされても、はたして……? って首を傾げるところが多いですよね。だから、わかりやすいメタファーではないと思うんです。誰も納得できるようなわかりやすいメタファーではないんですけれども、何か忘れられない部分っていうのはたしかにある。そこら辺を細かくわかりやすく説明してくれる人がどこにいるんだろうっていう感じはちょっとありますけど。それと比べたらナム・ジュン・パイクの仕事なんかのほうが、よっぽど、がっちゃんって嵌まる感じがありますよね。でも、彼のもとから出たアーティストなんかも、もちろん難解な仕事してるけど、そういうものをこっちも頭痛くしながら一所懸命見てると今のアートなんか、もうあまりにも軽くてわかりやすくて、これでいいのかって思っちゃうとこありますね、悪いけど(笑)。
(休憩)
牧口:では、続きをお願いします。
青山:この年譜にちゃんと書いてありました。「ヨーゼフ・ボイスの滞在記録ビデオのディレクターを務める」、これが84年です。やっとここまできました(笑)。翌年の1985年に「石灰石鉱山の撮影を開始」ということになっています。その辺りのエピソードは前にも伺ったんですけど、なんか東京はごみごみしていて、ちょっと広々としたところに行きたいというようなこともあって撮影を始めた、というような、そういうことだったと思うんですけど、最初の撮影場所はどちらでしたか。
畠山:地元ですよね。やっぱり陸前高田、大船渡、あのあたりです。
青山:それは、ふっとそういうアイデアが。
畠山:なにか荒々しい地形とかに惹かれて、光線とか気象とか、そういったものも交ぜて風景写真を撮ってみたいなというふうに思ってたんですね。非常にナイーヴですけど。例えば夕方低い角度からオレンジ色の光が差したりしてると、うっとりしますでしょ。僕は、ああいうものの写真を撮りたいなってずっと思ってるんですね。その頃から思ってるし、今でも思ってますね。そういうものを大々的に撮り始めた人たちがやっぱり70年代のアメリカにいて、彼らが撮った風景写真っていうのは、それまでのカラー写真とか、それから風景写真、いわゆる写真の歴史の中で見たら、やっぱりちょっと新しかったんですよね。もちろん絵画の中には、そういう美しい光線を扱った風景画っていうのはもう山のようにあるんですけど、写真の世界でああいう古典的な風景画をまねたような質のカラー写真が出てきたっていうのは、やっぱり新しかったと思いますよ。
牧口:具体的に作家名としては?
畠山:わかりやすいとこで言うと、リチャード・ミズラック(Richard Misrach)ですね。僕、最近ヒューストンで会うことができましたけど。西海岸の作家です。
牧口:そういった作家の作品って、どこで目にする機会があったんですか。雑誌とかですか。
畠山:雑誌はもちろんそうだし、あと80年代になると、西海岸の写真を専門で扱ってるMIN(ミン)っていうギャラリーが東京にできました。そのオーナーが西海岸で暮らした経験のある人だから、だからアメリカ西海岸の作家を紹介することが多かったですね。カタログも出版してましたしね。
青山:そういうものを見て、カラー写真に、という感じですか。
畠山:僕にはとても新しく見えました。だからそういうことを僕もやってみたいと思った。
青山:で、地元で撮影を開始した。
畠山:一応大学院の修了制作の時もカラー写真は撮ってましたけど、なにかもうちょっとテーマを決めて、もっとやってみたいなと思っていて、それで石灰石鉱山に、事務所を訪ねて中に入れてもらって、それでお水とか岩とかを撮り始めた時に、もうちょっと続けてみようっていう気持ちが生まれましたね。
青山:それから長く、ずっと続く(笑)。
畠山:長くやった(笑)。
青山:その作品の話をずっと伺ってると今日はとても時間が足らないので、ちょっと乱暴に前に進めていきますね。年譜で見ますと、88年、89年にチュニジアで撮影って書いてあるんですが…… その話を伺う前に、この時期までに海外の経験とか、ヨーロッパとかやアメリカとかに旅行とか、そういうことされた経験はありますか。
畠山:学生時代は一切ありません。それから飛行機に乗った経験もなかったです。初めて飛行機乗ったのは、東京に出てきて、SPNの仕事であちこち取材っていうか撮影、ビデオの撮影、あそこは映像制作をやってましたから、沖縄に行ったりとか、それから北海道に行ったりとか、そういう時に初めて飛行機に乗せてもらって、すばらしくなにか胸が震えたのを覚えてます。
一同:(笑)
畠山:初めての飛行機。
青山:飛行機、どきどきしますね(笑)。
畠山:それで会社を辞めて最初の年に、海外に初めて行きましたね。どこかっていうと、パプアニューギニア。僕の初めての海外っていうのは、パプアニューギニアです。
青山:なぜそこを選んだんですか。
畠山:それは実は、大学の時に、大学院の時か、アルバイトで地元の写真屋さんを手伝ってたって話をしましたよね。そこの女性が、女性が主人だったんですけど、彼女のおじさんで三重県の尾鷲(おわし)、「おわせ」ともいいますけど、そこで営業写真館を営んでる人がいると。彼が事あるごとに自分が終戦の時にパプアニューギニアに置いてきた写真、一切合切ね、のことを口にすると。あれどうなってんのかなっていつも言ってるのよという話を聞いてて、で、僕会いに行きました。会いに行ってその話を聞いたら、どうも撮影して現像してないフィルムも埋めてきたってわけよ。つまり穴を掘って埋めたって言うんですよ。その三重県尾鷲から軍艦に乗って、南方のほうに移動しながら写真撮影をし、現像をして、プリントまでやってたんですけど、インドネシアからニューギニア方面に行き、そこでその軍が膠着状態になっちゃったんですね。で、島の中にキャンプを張って、建物まで建てて数カ月そこにいたって言うんです。それで終戦になっちゃったんですね。もうオーストラリアから兵隊たちが来る、自分たちは降参しなければいけない。そういう時に上官から、おまえの撮ってきた写真は機密に属するものだから、処分しなければいけない、敵軍の手に渡ってはならない、ということで、彼は「わかりました」って言って、海に捨てに行ったんですけども、捨てきれなくて引き返し、穴を掘って、油紙に一切合切を包んで、その中に入れ、また土をかけて、上にヤシの実を1個置いたって言うんですよ(笑)。中には撮影したけれども未現像のフィルムもあったと。ほかにプリントとかネガフィルムとか、それから薬品関係も何かあったのかもしれないですけど。その話を聞いて、僕はこれは掘りに行くべきだと思ったわけ。で、富士フイルムに電話をして、そういう未現像のフィルムがあるってちょっと言って。それから40年くらい経ってるけど…… ひょっとしたら現像したら像が出てくるかもしれないと。もし像が出てきたとしたら大変なことだと。そしたら富士フイルムのその担当の人がちょっと身を乗り出して、もし無事に持って帰ってこれたら、なんとかしましょうと言ってくれたの。でも実際掘りに行くっていても、どうしよう、自分一人の力で探検隊を組むのもちょっとなと思って、テレビ局に企画書を書きました。それは当時『中村敦夫の地球発22時』っていう番組があって、ドキュメンタリーの番組なんですけど、中村敦夫さんっていう『木枯し紋次郎』の紋次郎役で一世を風靡した役者さんがいて、彼はとても社会派の人間で、彼がレポートしながらいろんなところに行くっていう番組があったんです。その枠で企画がとおって、で、そのプロデューサー、電通だったな。それからプロデューサーと、プロデューサーは制作会社の人だった。会議にはもちろん電通が来てたけど。あとカメラ、それから構成作家などと、それからもちろん三重県尾鷲の写真家の方と、その人、早川さんっていう人ですけど、行きました。みんなで。それで向こうの国立博物館から博物館員も1人参加して、それでブーゲンビル島っていうところに行ったんですね。ブインっていう街から車で延々移動して、日本軍のキャンプ、旧日本軍のキャンプの跡、建物が残ってました。それから海岸に機銃の台座が残って、さびた機銃がそのままあったりして、とても印象的な光景でしたね。で、キャンプの場所はわかったと。それで彼自身が、この辺のはずだっていうところを、それから掘りまくる作業ですね(笑)。2、3日続いたかな。
青山:大変ですね(笑)。
畠山:でも地形は変わってるでしょ、40年たってるから。それから植物だってもちろんそうですよ。わかりませんよ。それで結局わかんなかったの。早川さんも糖尿病の気があるから、なんかインスリンとかで大変だったです。それで、博物館員はおまえらはなんてチャイルディッシュなんだってぶつくさ言うし(笑)。金属探知機ぐらい持ってこいよ、みたいな。なんで博物館員がいたかっていうと、一応そこはパプアニューギニアの国土ですから、掘って何かを持ち出すっていうのは、やっぱり国の法律に触れるわけですよ。だからちゃんとした人間が監督してないとだめだっていうんで1人ついてましたね。その人はオックスフォード(大学)を出たすごい人でした。ニューギニアの人でしたけど。それで、非常にあきれられました(笑)。中村敦夫さんは数日間いてすぐぱっと帰っちゃって、それで残りの僕たちはよれよれの早川さんを介抱しながら、でも最後はその村の人たちに頼んで、ちょっと盛大なお祭りをやってもらって、で、それを早川さんが一所懸命写真に撮るっていうシーンを撮影して、なんとか番組そのものは……
牧口:それは、実際放送された番組なんですか。
畠山:放送された。
牧口:うわ、それはすごい(笑)。畠山さん、それどういうクレジットだったんですか、その番組。
畠山:アシスタントディレクターですね。そういうことがありましたね。それが僕の最初の海外旅行です。
青山:最初の海外旅行…… 旅行ではない(笑)。
畠山:海外体験。
青山:さて、チュニジアなんですけど、これは撮影をしに行った?
畠山:これも昨日のシンポジウム(註:「写真の複数の〈原点〉―複写・複製・写し」2016年3月5日、京都国立近代美術館)でもちょっと話した石原悦郎さんですね。石原悦郎さんは当時オリエンタリズム絵画の収集に熱心でした。オリエンタリズム絵画というのは、あの時代は特にキッチュと思われてたんですね。もちろん何人かの例外はいますよ。ドラクロワとか。でもほかの人たちのはとても退屈で、ちょっと悪趣味なものだっていうふうに思われて、美術の歴史のメインストリームからちょっと除外されてたものですよ。そこに石原悦郎さんは目をつけて、盛んにオリエンタリズムの絵画を集め始めた。そのコレクションがずいぶんたまってた頃なのかな、現代のオリエンタリズムとは何かっていうすごいテーマを作って、日本の写真家を、ヨーロッパから見たオリエンタリズム地域に派遣するっていうプロジェクトを何年かやったんですよ。すごいでしょ(笑)。
青山:壮大ですね。
畠山:それで「オリエンタリズムの絵画と写真」っていう展覧会を組織したんですよ(註:1989−90年開催。世界デザイン博・ホワイトミュージアム(名古屋)、ひろしま美術館、大丸・大阪心斎橋店、栃木県立美術館、北海道立函館美術館、滋賀県立近代美術館、渋谷区立松濤美術館、静岡県立美術館を巡回)。たしか、その時に現代日本の写真家の仕事もいくつか見せたはずですね。それに参加したのが柴田敏雄さんとか、服部冬樹さんとか。僕もいたし、あと松江泰治くんなんかも入っていたかもしれないですね。それで、旅費とちょびっとお金もらって…… 最初声をかけてもらった時はうれしかったですね。「畠山くん、こういう考えがあるんだけど、いわゆるオリエント、アジア人である僕らがオリエントって言うのも変な話だけど、そういう地域に行って、写真を撮るっていうのに興味はないか」って言われたから、「あります」と答えて、それで行った。で、1回じゃ足りなかったからもう1回行った。
青山:2回行かれたんですね。
畠山:実は3回行った。3回目は知り合いのSPNのプロデューサーがなんか行きたいって言うから、一緒に行って案内した。ガイドみたいな感じで。
青山:ヨーロッパ経由ですか。
畠山:パリから行きましたね。パリ、チュニジアっていうのはもう、すぐ着きますから。
青山:その時にもうヨーロッパに寄っておられるんですね。
畠山:そう。その頃はもうコリーヌ・カンタン(Corinne Quentin/註:畠山直哉のパートナー)も一緒だったからね。コリーヌ・カンタンも一緒にチュニジアへ行ってますから、3回。
青山:コリーヌさんとは、いつごろ知り合われたんですか。
畠山:そういうのもしゃべんなくちゃいけないの? 友人の紹介でした(笑)。友人のフランス人の紹介で、その人の家で会った。彼女もオートバイに乗ってたし、今でも乗ってるけど、僕もその頃オートバイ乗ってたから、だからバイク話で盛り上がったりして。
青山:いつぐらいの話ですか。
畠山:僕は28くらい。
青山:じゃあ、この直前ぐらいですね。
畠山:そう。25、26の頃はあの人と仲はよかったですけど(笑)、その人と別れ、その後あの人と仲よくなって、それもだめになり、そうこうしてるうちにカンタンさんに会ったっていう。
青山:その後、チュニジアに3回一緒に撮影も行っていると。
畠山:チュニジアは行ってますね。3回行ってる。喧嘩しながらね。2人で遠いとこ行って旅行したりすると、必ず喧嘩しますね。
青山:必ずしますね。
畠山:うん、する。どんな仲いいカップルでも、必ずけんかする。やっぱりいろんな意味で疲れが出るんです。それで喧嘩したりしながらやってましたね。
牧口:チュニジアでは、作品として写真を撮っていたわけですね。
畠山:そう。どこに行きたいですかって石原さんに聞かれて、チュニジアですって言ったのには訳があって。それ以前にビル・ヴィオラの《チョット・エル=ジェリド Chott el-Djerid (A Portrait in Light and Heat)》っていうビデオ作品を見て気になっていたからですね。
青山:じっとひたすら歩くやつですね。
畠山:陽炎がもわーっと。「チョット・エル=ジェリド」っていうのは何かっていうと、巨大な塩湖なんですよ。干上がった平らな湖で、上を歩けるんですね。土みたいにガチガチになってて。掘るとちょっとじわって水が出てくるんですけど、塩分濃度がむちゃくちゃ高いところですよ。掘ると水が上がってきて、それでだんだん周りに塩が結晶していくんですよ。そういうところがある。
青山:その場所が気になって行った。
畠山:その場所に行きたかった。それはチュニジアの南部なんで、そこまでレンタカーを借りて。
牧口:そこで撮られたのは写真ですか。
畠山:写真です。
牧口:ビデオとか映像ではなく。
畠山:写真。
青山:その写真を展示をしたわけですね。
畠山:しました。しましたが、その「オリエンタリズムの絵画と写真」っていうのは、非常に規模の大きなもので、しかもメインがフランスの絵画でしたから、だから僕は4点ぐらいしか展示できなかったのかな。でもたくさん写真があったから、ちょっともったいないよねって。それで、アラブ世界研究所ってあるじゃないですか。そこにプレゼンテーションしたらどうだろうって考えて、それでコリーヌさんに手伝ってもらって、手紙を書いて、資料をつけて送ったんですね。そしたら湾岸戦争前だったから、結構景気がよかった。金があった。で、展覧会やりましょうって話になって、それが実現したのは何年だっけ…… 90年前後じゃない?
青山:あの研究所もできたばかりぐらいですよね。
畠山:できたてほやほや。ジャン・ヌーヴェルのなんかすごい話題になった建築。
牧口:個展ですか。
畠山:うん。90年前後じゃない? 91年とか。
牧口:90年ですね。「A travers la Tunisie」。これでは……
畠山:チュニジアの写真でやったんですよ。展覧会。
青山:その後日本では。
畠山:全然展示してません。
青山:この時だけなんですね。
畠山:この時だけです。
牧口:知り合いの学芸員がいたわけでもなく。
畠山:ないです。
牧口:プレゼンテーションというか、資料を送って。
畠山:そう。こういう資料、こういう写真があります、展覧会をしたらいいと思いますって送ったら、じゃあ、やりましょうって感じで。
青山:そういう意味ではコリーヌさんの役割も非常に大きいですね。
畠山:はい、助けられてます。プリントは日本で作って、筒に入れて持っていってます。向こうの額縁屋さんで額作ってもらって。結構大きなプリントなんですよ。それを30点以上あったかな。なんかずいぶんありましたね。
牧口:ではそれがパリっていうか海外での発表の……
畠山:海外での発表、最初は〈等高線〉ですね。
牧口:そうなんですね。
畠山:はい。あの白黒写真を気に入ってくれる人って、フランスにも少しいて、それでナント・アルトテック(Artothèque de Nantes)ってところで、〈等高線〉の展示をやったんですよ。
牧口:89年ですね。
畠山:そう。劇場付属のアートスペースとかね。ノルマンディーのカーンですね。そういうのも、例えばたまたま東京に来たそういう関係者が、コリーヌ・カンタンさんのところに来て、それで僕の写真を見て、あ、これだったらやりたいなっていうふうな感じで話が進んだってことはあります。
牧口:コリーヌ・カンタンさんは、どういうお仕事されている方なんですか。
畠山:コリーヌ・カンタンさんは、著作権の仲介業をやってます。主に出版関係ですね。
青山:もともと日本に留学かなにかで来られたんですか。
畠山:もともと冒険で来た。あの当時は太鼓に夢中だった。和太鼓。そもそもは合気道の勉強に来た。トゥールーズで合気道に触れ、夢中になり、本場の道場で稽古をしたいと。
青山:そして出会い(笑)。
牧口:美術に関係するようなお仕事に、その当時就かれていたわけではない。
畠山:じゃないですね。文化関係の人って、田舎は特にそうなんですけど、フィールドが広いんですよ。文学、哲学、美術っていうふうに。なんとなく文化関係のことだったら、例えば小規模なカルチャーセンター、カルチャーセンターっていうか……
青山:サントル・キュルチュレール(centre culturel)。カルチャーセンターとは、ちょっと違いますね。
牧口:文化センターと言ったほうがいいかもしれないですね。
畠山:文化センター関係の仕事をしている人たちとかいるわけですよね。そういう人たちがほかの用事で来て、それで僕の写真を見て、ああ、あそこならっていうふうに何か連想をすることがあるわけですよ。で、話をして、じゃあやりましょう、みたいなこと、つまり人間関係で展覧会ができるってことあるんですよ。特に若い頃とか無名な頃っていうのはそうですよね。それが50、60まで人間関係だけでやってるのはちょっと、つらいんですけれど(笑)。
牧口:いやいや(笑)。
畠山:そういう人もよくいるから。
青山:そういう人もいますからね。
畠山:本当に。
牧口:そう考えたらフランスで、最初に続けて発表されてるんですね、割と早い段階で。海外での発表をそういうふうにされてるのと、チュニジアとかに行かれてるのって同時期。
畠山:ほぼ同時ですね。あと海外で発表といっても、そんなすごく名のある美術館とかそういうんじゃなくて、街の文化センターレベルですからね。見る人の数も限られてるわけです。
牧口:でもそこから何か、それこそ人間関係が広がっていったりしたことっていうのは。
畠山:あまりしません。
牧口:あんまりしないんですね。
畠山:はい。だってノルマンディーのなんか田舎街で展覧会やったって、人間関係なんて広がらないでしょ(笑)。
牧口:でもそこにいた人が、今度パリのほうにみたいな。
畠山:それはよっぽど特徴のある仕事だったら、それは起こるかもしんないですね。
青山:レイコックでの展覧会が94年。『Lime Works』の出版が……
畠山:『Lime Works』の出版が96年ですよね。
青山:はい。作品がだいぶたまってきて、発表もいくつか。
畠山:そう。でもその頃は同時に雑誌のカメラマンもやってましたからね。だから仕事の量っていうのは本当にもうゆっくりっていうか。量じゃないね、スピードね、ゆっくりだったし、ほかの雑誌の仕事とかも、編集者の知り合いができてライターの知り合いもできたりして、いわゆる取材で、例えばどっかのお店の取材をするとかいうことも、ずいぶんやるようになってましたね。つまり写真で仕事をして、それでギャラをもらって、それで生活できるっていう感じになってきてた。
青山:もうその時にはそこそこ……
畠山:そこそこ。暮らせるくらいは。
牧口:フリーランスの。
畠山:フリーランスです。
牧口:映像制作の会社を辞められて。
畠山:うん。そのあと映像編集の仕事もしてましたけどね。何本か。例えば昆虫の生態とか。
一同:(笑)
畠山:そういうのの有名な昆虫撮影家がいるんですよ。日本に何人か。写真も撮ってたんですけど、その頃ビデオカメラを出版社がどんと与えて、ビデオ撮影をするっていうのがずいぶんあって、でも彼ら撮りっぱなしだから、それをばさっとまとめて。
牧口:映像の編集の技術っていうのはどこで学ばれたんですか。
畠山:それはボイスの頃からですね。最初教わって、その頃はテープですから、こうやってガチャガチャ。
青山:Uマチックですか。
畠山:そうそう。1本こっちに送りのテープがあって、こっちに受けのテープがあって、送りのテープを取っ換え引っ換えして、いいとこだけつないで。
牧口:では、もう会社に入られてから映像制作、編集の仕事を。
畠山:学生時代にちょっとはやってましたけど、でも会社に入ってから使うのはもう本当にプロフェッショナルな機材ばっかりですから、そういうものに慣れるにはやっぱりいいですよね。
牧口:その中でビル・ヴィオラとかを意識してみたりというようなことも。
畠山:ビル・ヴィオラは学生の頃からもう大ファンだったから。
牧口:日本でもそうですよね。もう当時から紹介されてる。
畠山:そうそう。そうですね。今みたいになる前ですから、もうちょっとプロジェクション・ピースっぽい作品でしたけどね。インスタレーションとかあんまりしてなかった。《リフレクティング・プール》とかね。学生時代に見て、あれはやっぱりびっくりしたね。トリックとしては簡単なんですけど、でもそのナラティヴの作り方がやっぱり、それまでの商業映画なんかにはちょっとないものですから。トリックは商業映画にもあるけど、でも明らかに、見ていてこれは映画ではないなっていう実感がありましたからね。映画ではない別の何かだって思ったから…… 実験映画ともなにか違った。
青山:違いますね。次なんですけれども、年譜では……
畠山:『俵屋の不思議』の話とかも(笑)。
牧口:はい、それも聞きたいんですけど、やったらもう終わらないですよ。今日帰れなくなっちゃうような気がするので(笑)。IMI(アイ・エム・アイ/註:インターメディウム研究所・IMI「大学院」講座。1996年大阪で設立された教育機関)のこととかちょっと聞きたい気もしますけど。関西なので。IMIで教えておられたんですよね。
畠山:そうそう。
青山:関西との縁がそこで。勝又(公仁彦)さんとか。96年ですね。ということは……
牧口:IMIができた頃。
畠山:うん、しょっぱなからいた。僕と港千尋さんと。
青山:これはきっかけというか、どなたから声がかかったんでしょうか。
畠山:これは今野裕一さんだね。たぶんね。僕は最初はリストに入ってなかったのかもしんないけど、今野さんが立ち上げの時に結構有力なメンバーとして中にいて。それで1年ですぐ抜けちゃったけど。あの時進めてたのはまず畑(祥雄)さんっていう人と、それから伊藤俊治さん、それからもう1人くらい誰かいたのかもしれないけど、彼らがメインでいろいろ人選してて、港さんも入ってたんじゃない? あと桂英史くんとかも入ってるし。それで今野さんが写真のコースやるから、畠山さんもぜひって言ってくれたんだと思います。それで話し合ってるうちに、じゃあ僕と港さんで写真のコースをやりましょうってことになって。
青山:どれくらいの頻度で来られていましたか。
畠山:月2回くらいだったと思いますよ。
青山:月2回ぐらい。ということは2週間に1回ぐらい、隔週で来られていたということですよね。もうその日はべったり授業すると。
畠山:そうそう。
青山:授業の進め方はどんな感じだったんですか。
畠山:レクチャーだけの日、レクチャーっていうか、僕だけがずっと話をするって時もあったし、あとは自発的に撮影をしてる人もいたから、その人たちの写真を見ながら、みんなでディスカッションするとか、あとはテーマを決めて、例えばワークショップを学生たちが作ると。で、それでやりながら何か、つまりあとで公で発表するわけだけども、その時に向かって準備するとか、その手伝いをするとかそんな感じだったです。
青山:教えるという仕事はその時が初めてですか。大学で写真の手ほどきをするみたいなことは。
畠山:その頃は何か写真術の原理的なものに対する関心がやたら高かった時期で、例えば多摩美とか東京造形大学でカメラの原理に関して非常勤の立場で1学期間持つとか、そういうのやっていましたね。
青山:それは講義?
畠山:講義ですね。デモンストレーションを交えながら、学生にもカメラを作らせちゃうみたいな、そういう講座でしたね。
青山:そういう経験もあって、で、IMIでもいろいろと教育にあたると。
畠山:でも月2回で、しかも毎月じゃなかったですから、どうなんですかね。
青山:手ごたえはどうでしたか。
畠山:その頃の学生がよかったんじゃないんですか。だって今だって関係がもう全然途切れてないですからね。僕が何かしゃべるって言うと来るし、それからまだ写真を撮ってる人もいますし。勝又さんとかを除いたらみんなほかの仕事してるけど。でもまじめですね、元木(環)さんなんか見てると。別のフィールドのことやってるけど、でも本当真剣でしょ。それはいいなと思うね。
青山:それ何年ぐらいでしたか。数年ぐらい?
畠山:数年やってましたよ。3、4年やってたんじゃない?
青山:96年にLIMEが始まり、『光のマケット』、それから写真集『Lime Works』が97年……
畠山:97年だった? 96年だと思う。
牧口:『Lime Works』を出版したのは96年。
青山:そうですね。96年ですね。
牧口:木村伊兵衛賞の受賞が97年っていうことですね。その前後でやっぱり変化はありましたか。
畠山:賞を取ったっていう時には、あんまり変わりなかったですよね。
青山・牧口:そうですか(笑)。
畠山:そう。逆に仕事が来なくなったってことあるのかな。なんかあるね、そういうのね。頼まれ仕事の数は減った。
青山:頼みにくくなった。
畠山:そういうのがあったかもしれない。ていうか、その頃からもうだんだんしなくなっちゃったかな。何か依頼があっても、いろいろ理由をつけて何かちょっと断っちゃったりとか、あったかもしれません。
牧口:その時期、その石灰鉱山に行かれる頻度ってどれぐらいだったんですか。出版する前ですけど、いろいろと複数のことが同時進行に進んでしてる時期ですよね、90年代前半は。
畠山:そうですね。〈Blast〉は岩手と、それから沖縄で撮ることが多かったですね。でもそんなに頻繁かっていうと、ネガの日づけを見ればわかりますけど、そんなしょっちゅう行ってたっていう記憶もあんまりないですね。
牧口:行って撮って、何日間かかけて撮るみたいな感じなんですか。
畠山:うん、泊まりがけで行きますよ、やっぱり。覚えてますよ。泊まりがけで行ったところの定食屋のテレビで、宮沢りえと貴乃花の婚約の発表が、えーって、びっくりしながら見ていたのをちょっと(笑)。
牧口:そんな時代ですね(笑)。それで、じゃあその当時は撮って帰ってきて、現像もご自分でされてたんですか。
畠山:当時は、カラーフィルムの現像は僕、基本的にしません。それよりもラボに預けるのが、ラボっていうのは毎日現像やってますから、質も安定してるんですね。そういうとこでやってもらったほうが確実なんです。
牧口:そのラボっていうのは、ここっていうのがあって、同じところをずっと使われる感じなんですか。
畠山:クリエイトっていう、富士が経営してるプロラボがありましたね。今ではちっちゃくなってしまいましたけど。あとはフジカラーサービスの大工場が東京の郊外のどっかにあって、そこは今でもよく使ってます。今は自分のところでコンタクトプリントを作ったり、プルーフプリントを焼いたりしてますけども、木村伊兵衛賞受賞当時ってのは、まだそういう設備を自分で持ってなかった。だからラボの人にプリントを作ってもらってましたね。
牧口:具体的な、色の調整のやり取りとかっていうのは。
畠山:それはラボに通って技師の人と話をしながら、透明な袋に入れたプリントに書くわけです。もうちょっと色をこうとか。
牧口:畠山さんの作品って、色がすごく重要な要素なので、どういうプロセスなのかなっていうのは、ちょっと興味がありますね。どれぐらいやり取りが……
畠山:秘密はありません。
一同:(笑)
牧口:やり取りを何度もやらなきゃいけないのか、それともこう……
畠山:昔は実を言えば、お店に出すじゃないですか。そうすると小さいプリントに焼いてもらってたでしょ。それをアルバムに貼ってって、コンタクトプリント代わりにしてたんです。それはもうあらかじめ色の調整が機械的に行われたプリントですから、コンタクトプリントの色とはちょっと違うんですね。例えばコンタクトプリントだと、昼間撮ったものと夕方撮ったものでは、実際は色が違うんですよ。かなり違うんです。コンタクトプリントにすると、それがよくわかる。例えば昼間の色の基準で、それで日が沈んだあとに撮ったものとか、同じ露光をかけてやると、こっちのほうが真っ青になってたりするわけ。お店で一枚ずつ焼いてもらうと、真っ青じゃなくって、青が取れてたりするってことあるんですよ。そういうのを見てますから。だから厳密には、誰かがあらかじめ色をコントロールしたものを見て選んで、それで技師とそこから始めるっていう感じだったの。でも今は自分のコンタクトプリント作って、自分でプルーフプリントを焼いて、それを見本にして、それにしたがって作ってもらうって感じですね。
牧口:そういうふうにし始めたのって、いつぐらいからなんですか。
畠山:情けない話なんですけど、2000年前後からです。
牧口:では〈Lime Works〉の頃は。
畠山:〈Lime Works〉の頃は、お店プリントで(笑)。お店プリントから、ラボの技術者と一緒にやってたんですね。
青山:今のあのアトリエを整備されたのはいつぐらいでしたか。
畠山:今の場所は(東日本大)震災の年ですね。それ以前は、どこかのマンションの4階のちっちゃい部屋とか、そういうとこですね。
青山:そこでやってたっていうことですね。
畠山:来たことはない?
青山:そこはないですね。
畠山:ないよね。2000年あたりから、そこを使ってたんですけど。
青山:やはり近所ですか。
畠山:近所ですよ。千川の駅のそば。
青山:今のご自宅はいつぐらいから住まれているんですか。
畠山:おうちはもうずいぶんになりますよね。30年近くには…… いや、ちょっと待ってよ。江戸川アパートに7年住んで、そのあとあそこ行ったんですよ。だから…… 東京に出てきたのが84年でしょ。で、7年住んで……
青山:91年。
畠山:91年。その頃からじゃないですか。
青山:そうなんですか。長いですね。
畠山:長いよ、本当に長い。
青山:ずっとあそこで。
畠山:ずっとあそこ。
青山:で、10年ぐらいたった2000年頃に自分のスタジオを持ち……
畠山:あんまり人に自慢できるような、そういうことじゃないですよ(笑)。もう恥ずかしいなあ、本当にもう。
一同:(笑)
牧口:いえいえ。
畠山:だって、木村伊兵衛賞もらった頃でも自分の暗室はなかったんだから。人の暗室借りてましたからね。例えば瀬戸正人さんのとこに行って、ちょっと使わしてもらったり(笑)。あとは知り合いのコマーシャルの仕事やってた中根さんって人のとこ行って、「ちょっとすいません」って……
青山・牧口:(笑)
畠山:その人カラープロセッサー持ってたから、それでカラー写真のプリントしたりとか。〈Underground〉のプリントなんてそこでやってましたよね。「すいません、すいません」って言って…… 夜中ね。
青山:夜中に(笑)。
畠山:そう。彼が仕事終わって、じゃあ俺帰るからっていうところから始める、みたいな。
青山:ではそろそろ(この聴きとりも)終結に向けて(笑)。そういうスタジオでの、アトリエでの活動があると思うんですけど、最近の普段のスケジュールといいますか、特に何もない場合、1日の流れはどんな感じでしょうか。その中で写真に割いてる時間っていうのは、大体どれくらいでしょうか。
畠山:朝、ご飯を食べて彼女が会社に行くでしょう。そうすると僕もアトリエに行って、アトリエに行くとなんかやることがあるわけですよ、いっぱいあるわけ(笑)。それをやるって感じ。例えば明日は朝から行って、メキシコで撮ったネガのコンタクトプリントを作るとか。いくらやっても終わりませんから。翌日また続きやるみたいな感じ。
青山:アトリエに朝着いて、作業始められて、で、夕方までずっと?
畠山:ずっとやってる。途中なんかぼんやりしたり、Eメールチェックしたりとか、そういうことはありますよ。
青山:何か取材があったり。
畠山:ああ、そうですね。
牧口:人と会ったり。
畠山:はい。
青山:で、夕方になって帰られると。
畠山:彼女に電話して、うち帰ったりとか、どっか行ってなんか外食したりとか、そんな感じ。つまらない(笑)。
青山:仕事が終わると?
畠山:こんなつまらない話をしてどうなるの。
青山:すごい面白いですけど(笑)。
牧口:実際、撮影に長旅で出かけるっていうのを、〈Lime Works〉や〈Blast〉の頃、2000年代ぐらいまでされてた。シリーズの作品を精力的にされてたのは90年代から2000年代?
畠山:あとはフランスでまとめて、滞在してやったりってこともありましたね。震災後は陸前高田の写真がメインになってて、でもこの前久しぶりにメキシコでまとめて撮影しましたよね。
青山:それはちょっと楽しみです(笑)。
畠山:どうなるか、どういうものになるかわかんないけど、なんかアイデアがあって始めたものじゃなくって、非常に場当たり的な撮影ですから、どうなるのかちょっとわかんないけど。魅力的な画面にはなってるはずですけどね。
青山:その作業も明日からまたコンタクトを焼いて……
畠山:そう。画面の魅力だけで写真を成立させていいものかって自問しながらやってますけどね。今、世の中みんななんかポリティカルなネイチャーとかランドスケープとかそんな感じですから。ポリティカル・ネイチャーなんて。トーマス・シュトゥルート、知ってると思うけど。ポリティカル・ネイチャー(註:“Nature & Politics”)という新作。
牧口:新作、出てましたね。タイトル見てびっくりしましたけど。
畠山:若々しいなあと思って。若手みてえと思って。
牧口:シュトルートと畠山さんって大体同じぐらいの世代なんですか。
畠山:彼のほうがちょっと上かな。
青山:上じゃないですか。
畠山:億万長者の(アンドレアス・)グルスキーは僕と同い年かも。
一同:(笑)
畠山:僕より1個上とか。でも僕の身辺がにぎやかになったのはやっぱり、ドイツのフランクフルトのギャラリストと出会ったことが大きいですよ。今はちょっといろいろ問題があって、金の話とかで膠着状態になったりして、もう没交渉になってしまいましたけど。
青山:あららら……
畠山:ローター・アルブレヒト(Lothar Albrecht)っていうギャラリストと会ったんですよ。2000年前後かな。それで彼は僕の仕事に興味を持ってくれて、それでドイツで紹介し始めてくれたんですね。ハノーバーとかニュルンベルグとかで連続で個展やってるでしょう。それは彼が紹介してくれたおかげなのね。
青山:そういえばタカ・イシイ(註:石井孝之が1994年に開廊)はどのあたりから。
畠山:タカ・イシイさんは、2000年をちょっと超えたあたりかな。〈Underground〉の発表の頃に他のギャラリーとやっぱり金の払いの問題で膠着状態…… だった時に、白馬の王子様みたいな感じで石井さんが現れて、僕と仕事しましょうっていって。
青山:すばらしい(笑)。
青山:では、どんどん先に進みます。これまでの写真家としての活動の中で、一番よかった出来事は何でしょうか。あるいは逆でも結構です。思い出したくない最悪の出来事は何だったでしょうか。
畠山:最悪の出来事だったらありますよ(笑)。2004年か3年くらいかな。ドイツのアーレンっていう小さな村に呼ばれて、それで解体される炭鉱施設の撮影をさせてもらった。爆薬を使ってその建物を崩すので、そこの僕を呼んでくれた人が〈Blast〉の写真をもうすでに知ってたから、興味を持つだろうと思って誘ってくれたんですけどね。それ実は建物を片側ずつ崩すっていう、あまりにも巨大な建物だからいっぺんに崩すんじゃなくて、片っぽを崩して、それで何日か後に改めてもう片っぽを崩すと。これは無線機を使って遠いとこからカメラを動かしてるわけなんですけど、1回目は撮れたんですけど、2回目わざわざ撮りに行って、機械が動かなかった。だけど、すべてはもう全部整ってて、それでじゃあカメラマンが何かぎゃあぎゃあ言ってるけど、しょうがないと。「はい」ってスイッチが入ってドーンって崩れて……(笑)。
青山:間に合わなかった(笑)。
畠山:僕はカメラがぜんぜん動かないから、「ああ」とか言ってせっかくこれを撮りにここまで来たのにって思って(笑)。つまり1枚も撮影できなかったの。わざわざ飛行機に乗っていって、写真が撮れなかったんです。それが僕、日記に大きく書いてありますよ。「わが写真人生最悪の日」って。
一同:(笑)
畠山:その時のことはよく覚えてる。手ぶらで帰ってきちゃったんですよ。それが一番最悪といえば最悪ですね。前日のテストはうまくいったんですよ。でも言ってみたら、慣れた撮影というか、何度も撮影のシステム自体は今までやってきたシステム、新しいことを試みたわけではなく、たぶんトランスミッターとカメラとの距離が、ちょっと遠かったせいもあるんですね。あと風向きもあったと思うんだけど。
牧口:このシリーズですか。(註:〈Zeche Westfalen I/II Ahlen〉2003-4年撮影、写真集は2006年出版)

© Naoya Hatakeyama
畠山:そうそう。1回目の撮影がこれ(『畠山直哉展 Natural Storiesナチュラル・ストーリーズ』(東京都写真美術館、2011年)を見ながら指差す。『Natural Stories』pp. 70-71/ 『Zeche Westfalen I/II Ahlen』 pp. 60-61)。

© Naoya Hatakeyama
牧口:これが1回目の片側だけが崩れたバージョン(『Natural Stories』p.72/『Zeche Westfalen I/II Ahlen』p.69)。
畠山:だからここは残るわけですよ。これを改めて崩すっていう時に、1カ月後くらいに呼ばれてまた行ったんです。その時はもう全く、だめで。
牧口:じゃあこのあたりは、どういう状態なんですか。
畠山:この発破の翌日ですよね。(『Natural Stories』p.72/『Zeche Westfalen I/II Ahlen』p.69)。

© Naoya Hatakeyama
青山:残ってますね。
牧口:これはまだ残ってるんですか。
畠山:これは逆側から撮ってるんですよ。で、これは2回目、僕の撮影ができなかった発破のあとの写真なんですよ(『Natural Stories』pp.76-77/『Zeche Westfalen I/II Ahlen』p.72)。それは4×5のカメラで撮ったんです。

© Naoya Hatakeyama
牧口:別のカメラで撮った。
畠山:そうそう。だから爆発のプロセスは撮れてないです。でも翌日の作業とかは撮ってるわけ、やっぱり。こういうの。
牧口:それで作品として(笑)。
青山:写真を撮れたと。
牧口:でも一応ちゃんと作品として、まとまっているんですね。
畠山:見れますけど(笑)。
牧口:そのエピソードを知らなかったら、わからないですけどね。2回に分けて発破していたとかいうのは、聞かないと知らないですよね。
畠山:そう、聞かないとわかんない。この爆薬を仕掛けてる技師は、旧東ドイツの人でしたね。共産主義時代の建物はずいぶんこういう方法で壊されてるんですよ。壊されていた、当時。
牧口:アーレンっていうのは、どちら側なんですか、東、西。
畠山:アーレンっていうのは、ルール工業地帯ですから……
牧口:西。
畠山:もちろんです。
牧口:東西ドイツの統一後の話ですもんね。
畠山:もちろんです。だって2003年だもん。2003年から04年。
青山:でもこれ、呼ばれたっていうことは〈Blast〉の写真を呼んだ側の人も知っていて。こういう写真を撮ってほしいと。
畠山:いや、彼だったら何かやってくれるだろう、みたいな感じですよね。2002年にドイツで展覧会があった時に、Hatje Cantz(ハッチェカンツ)っていう出版社からカタログが出たんですよ。それが売れ行きがよくって、重版したりして。だからその頃、ちょびっとの人が僕の名前を知るようになったんですね。
牧口:質問はあと二つぐらいにしましょうか。
青山:はい、二つですね。今後のご予定ですが、一つはさきほどのお話にもあったメキシコの写真の手入れみたいなこともあると思うんですけど、それ以外で、これからどういう仕事をしたいと、しようと思っておられますか。
畠山:わかりません。
青山:(笑)
畠山:とりあえず陸前高田の土地の変貌に関しては、これからも継続的に記録していきたいなと思っています。あとは今年の秋11月くらいから、せんだいメディアテークで展覧会を作るっていうのがあって、それは僕の作品を見せると同時に、何か、僕がいろんなものを集めて、例えば風景をテーマにした面白い展示もできないかっていうふうに、僕がキュレーターとは名乗りませんけど、キュレーターと協力しながら、何かしらのディレクションによって風景芸術、さっき話した僕の高校時代の周辺にいた、例えば中学の美術教師が持っていた風景芸術に対する情熱とかあるでしょ。ああいうのを現代的なかたちにリサイクルできないかって思ってんの(笑)。で、そういうことテーマに、ちょっと展示が作れればなと思ってますね。
青山:それはいつぐらいの予定でしたか。
畠山:2016年11月オープン。だから時間ないですね。(註:「畠山直哉写真展 まっぷたつの風景」せんだいメディアテーク、2016年11月3日-2017年1月8日)
青山:じゃあもうかなり迫った企画ってことですね。
畠山:これ(2011年東京都写真美術館で開催された「Natural Stories ナチュラル・ストーリーズ」展のカタログ)、なかなか端正できれいなカタログですね(笑)。
青山:ええ。
畠山:ちょっと写真がちっちゃいかな。周辺の資料が大きすぎるかもしんないですね。例えばこれなんか。もうちょっと。もう一回り大きくしたほうがいいんじゃないかな、これね。どうなんだろ。
青山:他人事のような…… これ面白いですね。
牧口:この編集には関わっておられないんですか。
畠山:いや、関わってますけど。デザイナー、岩手の人だったな。もう一回り大きくてもよかったな。白が多いから。
青山:判型の話ですか。
畠山:印象はいいけど。いや、ここのリプロダクションのここのとこ。
青山:ですね、もうちょっと大きくできる。
牧口:たしかに。
畠山:はがき並にちっちゃいもん。ちょっとちっちゃい。変化つけますかとか言ってたけど、はあ、みたいな……
青山:(笑)
畠山:何よりこのフィリップ・フォレスト(Philippe Forest)のエッセイは最高ですね。やっぱね。
青山:フィリップ・フォレストさんとは古くからのおつき合いですか。
畠山:そんなでもないですね。彼がヴィラ九条山にいた時(註:1999年)に東京に来てコリーヌさんに名前を聞いて……
青山:では、コリーヌさんのお仕事の関係でお知り合いになったという。
畠山:フランスから作家が来て、それで普段京都にいるけど東京に来た時は、じゃあコリーヌさんとちょっと会って情報交換して酒でも飲むか、みたいな感じになるわけですよ。それで僕のとこに来たんで、《Underground》とかの仕事を見せたら気に入ってくれて、それからですね。でもフォレストに関しては荒木(経惟)についてのとっても優れた本もありますよ(註:『荒木経惟 つひのはてに』白水社、2009年)。あれは荒木さんはとても喜んだみたいですね。荒木さんに関する日本人の著書もあるけど、どうなんですかね。
青山:どうなんでしょうか。
畠山:荒木さんはわが意を得たりって感じで、ずいぶん喜んだみたい、あの本に関しては。
牧口:では春からのことを……
畠山:春。
青山:先生になられるということですけれども……
畠山:不安でいっぱいです。
一同:(笑)
青山:それを決心された理由は。
畠山:それはある世代の体験とか理解したものとか、こういう思い出話でもいいんですけど、やっぱりしまったままにしないで、後世の人々に聞かせるというのは大事なことだと思うようになりました。なぜならば、僕のちょっと上の世代の人たちは、そのことに対してはあまり熱心ではないように思えるからです。彼らもつらいんだと思いますよ。そんな一所懸命やったけど芽が出ないまま70になったりとかしてるわけよ。ひどいこと言いますけど(笑)、これはオフレコですけど、発言のチャンスが与えられないまま年を取ってしまうってことももちろんあるんですね。でもそれにしても、斜(はす)に構えた人が多すぎる、悪いけど。だからもうちょっと、何かしゃべってもいいのになって思いますね。特に写真の世界では、僕より10歳くらい上の人たちってのは、何だろうね。特に写真家たち。発言が少なすぎると思いますよ。70超えてる人たちは饒舌ですけど。
一同:(笑)
畠山:スターたちも多いしね。だからポスト・ウォー・フォトグラフィーに関しては、非常にもう言説っていうのはちゃんと蓄えられてるって感じがするんですけど、最近亡くなられた方も含めてね。でもそれからあとの、いわゆる「コンポラ世代」ってのが、このまんまだとちょっと。あの時代って何だったのってことがわかんないまま、たぶん何か消えてくような気がしてちょっと残念ですね。そうならないように、58年生まれの僕は、今のような体験を経た者として、それで自分の中である程度形作った何か価値づけみたいなね。自分なりの価値づけの傾向ってあるわけですよ。あるものに対していいねっていう。この感覚を理解してもらうことがやっぱり必要だと思うんですよ。押しつける気持ちはないんですけど、今の若い人たちは僕がいいなって思うものに対して、いいって思うとは限りませんからね。彼らは彼らなりの価値づけのための基準っていうかな。そういうものを持ってるはずだから。あるいはそんなもの要らないって思ってるのか、それはわかんないですけど、ただ、なんで70年代80年代90年代に、こうだったかっていうのを、ある程度細かく分析的に語らないと、たぶん伝わらない。例えば20世紀芸術が持っていた冷たい感じ。それから戦後文学が持っていた何かどうしようもなさを楽しむみたいな感じとか、ああいうものが一つの魅力としてみんなに共有されて、それから追求されてもいた。今見るとちょっとどうかなって思うところも、あるにはあります。でも多くの人がそういうものに惹かれていたってことは、あと何年かたつと全然理解できないものになりそうな気がするわけよ(笑)。世代が変わるとね。例えば演劇で言ったら別役実とかさ、あの時代のもの。それから宙づりとか判断保留とか、それから価値づけができないこととか、茫然としてしまうこととか。戦後文学も芸術も、ああいうものをずいぶん扱ってきたよね。価値の両義性とか、はっきりしないものがいいとか。そういうものを見てすごく内省的になったり、瞑想的になったり、あとはもうそれ自体を楽しんじゃうとかさ。そういう表現ってずいぶんあったと思うんですよ。今、あの感じはもう必要とされてないのかもしれないし、こんな忙しくて緊急の時代に、それはちょっとね。そんなゆっくりしてる場合じゃないみたいな感じ、ちょっとありますよね。一口に言えば旗色が悪いんだけど、でもその旗色の悪い芸術をみんな楽しんでいたはずなのに、なんか忘れたような感じ、忘れたふりしてるのかどうかわかんないけど、なんかもうね。あんまり話題にしないじゃないですか。どう思います?
一同:(笑)
畠山:映画とかでもそうじゃん。つまりアンチロマン的なものとかヌーヴォーロマン的なものが、なんか全然必要とされてないの、今、世の中的に。もうちょっときちっと結論出してほしいみたいな。何すればいいんですか、行動しましょう、みたいなこととかね。写真の議論も本質から機能へっていうふうにだんだん移ってきてますしね。本質を追っかけるみたいな態度で写真を撮るよりも、それはそれでいいけど一応済んだこととして、なんかもうちょっと写真を実際に使って、その機能をあらゆる場面で、その時その時にふさわしい方法で発揮させてったほうがよいのではというふうな感じになってきてますね。写真だけでもないでしょう、きっと。芸術そのものがそうかもしれない。芸術の本質みたいな議論するよりも、芸術の機能、芸術を使って、じゃあ社会とどう切り結ぶかとか、あとは人間存在とどう切り結ぶかみたいな、そんな感じになってきてるよね。建築もそうかもしんないし。
牧口:そういう状況に対して提言というか発言をするために大学に関わるわけですよね。
畠山:というか、僕自身がそういうことを考えたいんですね。今、世の中、例えばフェミニズムとか、それから人権とか、あとは社会ね。ソーシャルエンゲージメントとか一色だから、はっきり言って世界的にそうだから。でも僕の今話したような高校から大学、それから30代くらいに自己形成した時にあった芸術とは、それは全然種類が違うわけ。で、そういう変化が起きているのに、のうのうと前の世代が、前の世代の価値観を若い人たちに押しつけるわけにはいかないけれども、一応僕たちにとってはこういうものだったっていう話はする必要はある。なぜならばそれが、今の美術館なり、アートギャラリーのああいうのをすべて始めた時にそれがあったわけだから。だから若い人だって美術館に来るしさ。アートギャラリーだって行くじゃない。そういうものが始まった時期に、そういうアートがあったんだとしたら、それを見ないで今のアートを語るのはちょっとね。あとは僕自身も、自分が夢中になってたそういう立ちすくむ系のアート(笑)、恍惚として立ちすくんじゃうようなアートの将来が気になる。このまま消えるのか。ボヘミアンアーティストはだんだんいなくなってきてるよね、本当に。周りから消えてきてるでしょ。自暴自棄的なタイプのアーティスト像なんてのはもうやっぱり、最近では誰も連想しなくなったよね。昔はいたんだけど。だからああいうロマン主義がベースにある20世紀型の芸術、それから芸術家の将来がどうなるか、僕も知りたい。だからそのためには若い人とディスカッションして、本当に筋のいい、柔らかい若い人だったら、僕に教えてくれることがあるかもしれないね。彼らの発言とか行動をもって教えてくれるものがあるかもしれないから。だから学生にちょっと期待してるんですけどね。というか、いい学生が来てくれないと困るなあと(笑)。
青山:畠山さんは、高校の時から割と印象派以降みたいな好みがあったということですが、それ以前のアートといいますか、ご旅行でもいろんなものをご覧になっていると思うんですけど、そのあたりにはあんまり触手は動かないですか。やっぱり、いわゆるモダニズムのアート、あるいはロマン主義以降のアート、そういうものに惹かれるというか、関心の中心があるっていう感じでしょうか。
畠山:絵画芸術としてはそうですよ。でも平泉の中尊寺金色堂を見た時はやっぱりびっくりしたし、そういう普通の感覚はありますよ。
青山:いわゆるモダニズムのアートの行き詰まりっていうことがよく語られますが、例えばトルボットの場合でもそうですが、「アート」っていっても、今言っているモダニズム的なアートじゃなくって、もうちょっと伸びやかな、「技術」っていうような、そういう言葉遣いじゃないですか。ルネッサンスぐらいまで遡ってみるとか、それくらいのスケールで見ると、また違って見えるものもあるのかなと思ったり……
畠山:そのためには、巷にあるアートっていうぼんやりしたものを変えていく必要があると思いますよ。例えば僕が言ってるアートっていうのはボードレール型のアートですよね、完全に。そうじゃなくて、じゃあトルボット型のアート、もっと広い、技術まで含めたものとして、いろんなものを見直してみようっていうことになると、美術館の収蔵品、コレクションの自体ががらりと変わる可能性があるわけよ。
青山:そうですね。ていうか美術館に収まらない可能性が(笑)。
牧口:今の価値観だと、美術っていうジャンルを越えていくってことですよね、明らかにね。
畠山:そうそう。それで文化勲章型のアーティストって、全部ごみ箱にいく危険があるじゃないですか(笑)。
青山:そうですね。
畠山:さよなら、みたいな(笑)。もうちょっと巷にある布切れとか道具とか、そういったものが美術館に入ってきて、日本画の先生のあれとかは、どっか質屋のほうにいくみたいな(笑)。そういうことだって起こるわけでしょ。そうなるとうれしいっていうか、楽しいかもしれないですけど、どうなんですか、実際(笑)。つまりボードレール型のアートが19世紀以来本当に人々の心を捉えて、それで学校も生み、美術館も生みっていうことだったわけですけど、21世紀に入って、いや、もうボードレール型のアートだけじゃちょっとっていうふうな空気が出てきてますよね。ここから先はアートスクールとかミュージアムは、じゃあそういう社会、もう社会そのものが変わってますから、どうやって自分自身をモディファイしていくかっていう挑戦の時期ですよね。いろんなインスティテューションは、その実験をもう始めてますよ。例えばポール・スミスの展覧会をやるミュージアムとかあるじゃないですか(笑)。
牧口:そうですよ(註:「ポール・スミス展 Hello, My Name Is Paul Smith」は2016年、京都国立近代美術館ほかで開催。インタビューを行った当時、美術館の学芸室に同展のポスターが掲示されていた)。
畠山:だってMoMAでビョークが展示やったって(註:2015年にニューヨーク近代美術館でアイスランド出身のミュージシャン、ビョークの回顧展が開催された)。美術館の人たちも、やっぱりいろいろ考えてるんだなって思いますよ。ひょっとしてMoMAも文化センター型のミュージアムになろうと思っているのかもしんないですよ。京都MoMA(国立近代美術館)だってポール・スミスとかやったら、だんだん文化センター型になっていきますよ。今回だってテキスタイルの(註:インタビュー当日に同館で開催されていた「志村ふくみ展」)も、どっちかっていうとボードレール型アートっていうよりは、ちょっと文化センター型の企画じゃないですか。
牧口:いやいや。だから歴史を物語るっていう機能を美術館が本来は備えていた、そういう装置だったはずが、その部分を若干放棄しているっていう状況があって。それこそMoMAが典型だと思うんですけど。ここ5年10年ぐらい顕著に出てきていて、それがだんだんブームみたいなところがありますよね。いろんな背景があると思うんですけど、たぶん大きな要因は経済的な問題だと思うんですけど……
畠山:お金の問題は大きいみたいね。
牧口:大きいと思いますけど、でもそれ以上に美術館自身がなんとなくモダニズムから逃走しようとしているみたいな。それは自分も含めてですけど、若干欲望みたいなのがある気がしますよね。
畠山:うん。あと気になるのは、米国なんかでも日本の戦後アヴァンギャルドが立て続けに企画されて、もの派だの具体だの。じゃあ今何かないのっていうと、向こうのニューヨークの在住の日本人とかに聞くと、ムーブメントは今ないねえとか言ったりするわけ。本当にないかどうかはわかんないよ、それは。その人にとってないだけかもしれないけど、でもそれ聞くと、アンディ・ウォーホルが生きてた頃を知ってる僕、ピカソが生きてた頃を知ってる僕からしたら、なんて世の中は小粒になったんだろうって思うんですよ。ムーブメントがない、それから巨匠がいない。あと、いや、本当どうしようって感じですよね。すべてが小粒化してるでしょ。文学でもそうだし。
青山:哲学だってそうなんでしょうね。
畠山:そうだよね。そりゃ村上春樹みたいな人はいるけど、あの人、なんか巨匠って感じじゃないもんね、いつまでたってもね。
青山:ないですね。
牧口:ノーベル賞を取らないで、ずっといるという。
畠山:もしノーベル賞取ったとしても巨匠っぽくならないでしょ。スタイルが巨匠っぽくないもん。
牧口:その世代ですよね、きっと。巨匠的な振る舞いとか権威を拒絶するような世代っていうか。
畠山:偉くないの。なんか大成功してる人でも、偉い人にならないんですよ。
牧口:だからみんながロストっていうか、ある意味(笑)。
畠山:ロストなのかもね。だって大江健三郎なんて村上春樹に比べると全然売れないんですよ。出す本出す本ことごとく売れないんだけど、でも偉い文学者って感じでしょ。たぶん最後のそういう人かもしんないけど、日本じゃ。
牧口:でも一方でポピュリズムっていうかは、そういうのを求めるっていうのもありますよね。なにか簡単に、使い捨てで消費されている感じはしますよね。逆にそういうポップスターみたいなのがぽんって出てきて、もてはやされて、それがすぐにだめになって、ていう……
畠山:え? 村上春樹だめにならないよ。
牧口:ならないんですけど(笑)。村上春樹は偉くならないけど、でもずっとこう。
畠山:なんか偉くならないのが特徴かも、これからの。で、この時代偉いですって言ってる人はばかに見えるじゃない、完全に(笑)。自分が偉い人間であるって振る舞ってる人は、本当に愚鈍っていうかな。なんか愚かな人間に見えるよね。
牧口:うん、そういう時代ですよね。
畠山:そういう時代。だから本当に偉くて本当に偉そうに振る舞ってる人は、なんか神のように見えますね、今。誰がいるのかっていうのは、わかんないけど(笑)。
青山:誰なんでしょう。でもたしかにそうですね。巨匠とかいう言葉が似合うような、映画監督でももう……
青山:ヌーヴェル・ヴァーグあたりで止まっちゃうっていう感じがしますもんね。
畠山:そうだね。米国の監督、クエンティン・タランティーノとか本当に面白いと思うけど……
牧口:偉い感じはしない。
畠山:全然偉くないじゃん、あんなの。
牧口:それがかっこいい。
畠山:いつまでもなんか坊主っていうか、ガキみたいな……
牧口:やんちゃなガキみたいな。
畠山:感じじゃない。
牧口:まさに世代な気がしますけど、それは。それがかっこいい条件じゃないですかね。先生、どんな先生になられるんでしょうか、先生は(笑)。
青山:ね? 偉い先生で怖い先生。(入試の)面接は終わったんですね。
畠山:面接は終わりましたよ。
青山:楽しみですか、4月から。
畠山:わかんない。
青山:週2ぐらいですか。
畠山:いえ、4月に2週間連続で特別講義っていうのをやって、手を動かしながらやるやつですね。で、桂(英史)教授からはカメラに関しての実技を含めた講義を作ってくれって言われて、今いろいろ考えているとこです。
青山:じゃあ集中的にある時期詰めて授業するっていうかたちなんですね。
畠山:うん、あとは(授業形態は)交渉ですね。まず大学院生ですから、自分でテーマを持って入ってくる人がほとんどなんで、写真は1人だけですけどね。写真を撮って発表したいって人が1人だけ混ざっています、15人の中に。ほかはみんな映像、インスタレーションに関する……
青山:インスタレーションも指導できると思いますよ(笑)。
畠山:わかりません。周りの先生も佐藤雅彦先生とか、そういう映像系の人が多いんで、ただ高山明さんとかは演劇の人ですからね。どちらかというと、ものを発想して仕上げていくプロセスなんかでのアドバイスは得意だと思うんですけど、どうしようかなあって言ってましたね、彼もね(笑)。
牧口:学部としては何学部。
畠山:映像研究科メディア映像専攻ですね。
牧口:先生のお話ってはどういう経緯で。
畠山:桂さんが。実はそこに名物教授がいたんですね、藤幡正樹さん。で、事情があって去年、彼が抜けちゃったんです。それで穴が空いた。そこを埋める人を探して、僕と高山さんに声をかけた。高山さんは都内の別の大学に行っていたんですけど、そこよりはちょっと時間的に楽だったこともあって。それなりの学部を作ったらしいんですけど、アートの話をするのはなかなか難しい。やっぱりマンモス校だとね。出席を気にしてる学生たちは出てくるわけですよ。目の前、大教室で100人とかいるとするでしょ。ことごとく寝てるんだって。そういう中でブレヒトなんかの話をするのは本当につらいって(笑)。
青山:痛いほどよくわかります(笑)。
畠山:そういう話を聞くとやっぱり、大学って要る要らないの議論を今やっていますけど、本当に要らないんじゃないかなって思う。だってやる気がない人が学びにくるってこと自体がおかしいもん。学ぶ気のない人が学び舎に来てるっていうのは、やっぱおかしい。
青山:今や半分ですから、大学生は、日本人の。
畠山:ああ、そっか。それで子どもがいっぱいいた時代にできた大学の数は、そのまま残ってるでしょ、ほとんど。
青山:増えてるぐらいなんですよね、だから大学自体は。少子化少子化といって、結局そんなに減ってないんですよ、大学生自体は。
畠山:ああ、そっか。
牧口:みんなが大学に行くからということですね。
畠山:俺も大学院生の入試っていうから、どんだけすげえやつがくるかと思ったら、うん? 学部の1、2年くらいの感じの人たちなんだね、みんなね、なんか。
青山:そうかもしれないですね。
畠山:高校出たてって感じじゃないですよ、もちろんね。大学4年過ごしてるから。でも話してみるとなんか、大人っぽくないなあっていう気がちょっとしました。すいません。あなたは毎日そういう人々と会っているんでしょうけど。
青山:はい。にこにこしながら、人生相談をしながら。こないだも……長くなるので、これは一回締めましょうか(笑)。どうもありがとうございました。