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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

八田豊 オーラル・ヒストリー 第2回

2016年2月23日

福井県越前市、八田豊自宅にて

インタヴュアー:永宮勤士、鷲田めるろ

オブザーバー:島川泰広

書き起こし:牧山好海

公開日:2021年12月25日

インタビュー風景の写真

永宮:昨日は生い立ちから1970年代北美終了前後までのお話を聞かせて頂いたと思うんですけれども、それ以降ということでよろしくお願いします。流れとしては、1回制作のことを聞いて、その後、今立紙展から丹南アートという形でお話を聞くということでよろしいですかね。ではまず制作についてお伺いしますけれども、徐々に視力の方が悪くなっていったという状況が1970年代の後半ですかね。

八田:やっぱり誰しも、タケノコでも節があるように人間の生き方にもやっぱり節々があるんですよ。僕の場合、北美30年の終わりが一区切りになるんですが、それを率いてきた河合勇というのがなぜかその北美の終わり、土岡秀太郎さんが死んだ、奇しくも同じ月の1日か2日違いで、この世を去るんですよね。その時から新しい節が生まれるんです。それが今立紙展という、最初の実験展から紙展にしようといくんですね。

永宮:それはまた後ほどお伺いしますけれども、年表で言いますと、北美が1975年昭和50年に30周年記念展を行いまして、ここで北美が終了ということですかね。その頃はまだカーヴィングの制作をやっておられたんですよね。

八田:うん、もちろん。河合勇の遺作展をやるというのでアメリカに行って1週間も10日もいるという辺りから体調を崩して。それが目が具合が悪くなる初めなんですよね。僕の心の中では、河合勇に視力を取られた、あの奴、ちゃんと生きてればいいのにと、恨みがましいこと言っていたんですけど、それからどうにも仕事ができなくなっていくんですよ。でもそれはそれとして、そんなことと関係なく、体調を厭いながら仕事を続けていくっちゅうのが僕の場合ですね。

永宮:それが1980年で、その1月に河合勇さんが亡くなって。その後遺作展をやるということでアメリカに行かれたんですね。その時にこのエッセイ集『プラス・ハイウェイの夢』(注:河合勇エッセイ集編集委員会編、八ツ杉現代美術研究所、1983年)も同時に編集されたということで。

八田:河合くんが土岡先生の所へ送ってきた手記を抜粋したものを出版して、河合勇の死を労うというのがその年ですよ。

鷲田:アメリカに行かれたのは、アメリカに河合さんの作品があったからですね。

八田:そうです。アメリカにいたのが(河合勇の)弟で、弟や母親なんかと交渉して(遺作展を)するっていうから、1年経っても返事がないからどうなったんだということで出かけたんですけど会ってくれないという、まあ悲惨な目にあったのはどういう訳かわかりません。会うた頃には、何間も向こうにいて黙って。頭を下げたのかどうかもわからない中で。そして4、5年経って、県立美術館で、突然河合勇の作品が返ってきて、展覧会が始まるということになるんです。

鷲田:遺作展の準備のためにアメリカに行かれて、その遺作展は実現したんですか。

永宮:河合勇展の福井県立美術館のカタログ(1996年)を今見てますけども、年表によると、1979年11月に第1回現代美術今立紙展「紙の実験展」が始まってまして、その時に併設される形で80点の作品が展示される、と。このことですよね。

鷲田:ちょっと待って。河合さんが亡くなったのは1980年。

永宮:ああ、そうか。

八田:これは全然違うんです。彼が日本にいて描いた多くのデッサンというか版画というか、そういうものを並べたんで。

永宮:ご存命中の時に。

八田:その河合勇の作品展というのはちゃんとしたタブローなんです。彼の30代、40代というか、ニューヨーク滞在の時の作品を秋吉敏子がロスでいっぺん個展してから日本に送り返すと言ったというのでそれを信じていたけど返事もないので、押しかけていったけど会ってくれない。間もなく作品がドンと来て、我々の手を通さないうちに展覧会になっていった。後で悪く案じていくんですけど、河合勇の世話をしていた女性が「この作品はみんなお前にやる、って書いてあった」とかなんとかで揉めていたから、手を通さないで、清(河合勇の弟)は県立美術館と交渉して、直接、県立美術館でやるという仕事に出たんだと思うね。それは憶測しない方がいいと思う。

永宮:県立美術館のが1996年。

鷲田:16年後になるということですか。

八田:16年後ですか。そうでしょうきっと。我々がうっかり忘れていた頃に……

永宮:亡くなる直前の、今立紙展の時に特別展示をして、亡くなってからアメリカに作品を取りに行ったと。

八田:我々もね、交渉に行く、ちゃんとすると言ったことは空回しだったんですよ。お前らの世話になるかと言わんばかりの、河合さんの死んだ作品が歩いて県立美術館で展覧会すると…… 弟が非常に苦労したんだろうと思います。県立美術館でそれなりに苦労し、それから独特の河合勇のルートっていうのがあって、NHKの取材までちゃんと来て日曜美術館にまでのるというような、非常に大胆、不可思議な構造がちゃんとあるんですよ。誰かがちゃんとやっているんですよ。誰がやったのか、僕らにはわからない。未だにそれを知ろうとも思わないし。

鷲田:それをされたのが、弟の清さん。

八田:だろうと思う。それは河合さんのことですから、僕の構造とは直接関係ないかも。今度の仕事の中には出て来そうにないし、来なくてもいいと思う。NHK にちゃんとフィルムで残っています。日曜美術館に。

鷲田:話を戻すと、河合さんの作品を探しにアメリカに行かれた時に、視力が低下していったということですね。

八田:ほんとはね、交通事故で僕はその時死んだはずなんです。大変なことになってたのがかすり傷一つも受けないで無事に帰ってきたんですけど、向こうの車、横転したかもしれない。なんかよくわかってないんです。

鷲田:事故があったんですね。アメリカで。

永宮:その時に目が悪くなって、ほとんど、当時発表は出来なかったということですかね。作品の方は。

八田:いや、帰ってきて、半日か1日寝てると次の日は午前中は見えるという。針生一郎先生とも会うて話をしたら、「あれー不思議な目じゃなあ、目が見えたり見えなんだり」って冷やかされたこともあります。

永宮:その限られた中で、制作を何とか……

八田:うん、仕事はやっていった。だから今立紙展が始まった頃には、僕はパッとは行けなかった。もそもそと持続して、今までの仕事をやる。若い連中は紙だ、紙だ、紙だといって、今立の焼却所に山積みの紙を引っぱり出してきて、「これで何が出来るか」。河合さんも「あれで何かやってみい」って言って死んでいったから、焼却所の紙をみんなして引っぱり出してきて。今立の建物や八石分校でそういうものをみんなが互いに。山積みの紙ですからね。それは大部分が機械需給の残骸というか、残紙ですよ。

永宮:工場の。

八田:いや工場っていうのは手漉き紙の問題で。

永宮:紙の工場というか。

八田:いやいや、紙の工場から持ち込まれた損紙。破損の損に紙と書いて、損紙というんです。それを使って実験展を始め、色々と相談してリー(・ウーファン)さんと相談したら、大々的に紙つくってガーッと日本中の魅力を手中に収めていかないと成功しないと。その頃はやっぱり流行ってね、日本中にボツボツと紙の展覧会が始まったんですよ。それを一気に乗り込んでいくために、実験展から公募展に移っていくと。その頃島川(泰広)くんらが出てきて、どうやって宣伝していくかっていうと、『美術手帖』の後ろの広告に何回もドーンと載せて、日本にアピールしていくというやり方でいくんです。僕自身はまだ紙の中にのめり込んでいない。

永宮:制作としては、まだ……

八田:制作としては、見えないなりに自分のカーヴィングの仕事を続けていた。だけど若い衆は紙にのめり込んでいきました。その辺りは島川くんもよくわかってると思うね。第1回のポスターは島川くんが高校生だったのに原画を持ってきてみんなに散々叩かれて。僕もただ1人島川くんが素描を描いてきた時に「そんなボロクソ言うな、お前ら持ってきたか」ってことでまず格闘が始まるわけ。で、それなりに、今立紙展というポスターをつくり、別のデザインで今立紙展というのを『美術手帖』に発表していく。 リーさんから、「金なしでお前、作品出してるんか。賞金も積んでちゃんとしな(あかん)」ということで指導を受けたんですよ。それは「手漉き和紙」という今立が出しているパンフの中にリーさんのエッセイが載ってます。今立紙展はこうして出来あがった。何回か指導を受けたんですけどリーさんも忙しい忙しいと言うから、昨日の話なんやけど、リーさんが引っ込んで、辻(喜代治)さんとか金澤(毅)さんが(審査員として)出てくるんやね。それで今立紙展がぐーっと世に出てくる。だけど賞金を出さない、役所はね。僕は金を出さないと仕事をしないって言うのもちょっと言いましたけど、仕事をする時金を出さないとどうしても持続する力を…… なんというか盛り上がってこない。2人の大先輩見てても、金があったらもっといい仕事出来たはずなのになあという思いも。結局若い者の集団でアルバイトを始めて金をつくるということまで、やっていくんですよ。例えば田んぼの中に地下の川をつくるようなアルバイトをみんな出てきてやったりしましたよ。それでも足りん部分は僕がつくって。いよいよ第3回目から、公募展としていくんですよ。その頃は日本ではすでに下火になってしまってね。最後に、僕らが知っているのでは東海道の方で。愛知県かどっかで最後の紙展があって、それが終わって今立だけになったと思うんです。ところが別の所でまた、紙の公募展というのは始まったかもしれないね。

鷲田:第3回目とおっしゃいましたけど、それが年譜によると1983年なんですが、それまでの第1回、第2回の公募展ではなかった時は、八田先生は関わってはいらっしゃらなかったんですか。

八田:いやもう初めから全部関わっています。淡々としゃべってしまうとそういうことになりますけど、実際には土岡先生が亡くなって北美の30周年終わった段階で河合勇は歩けなくなってしまうんですよ、がんで。県立(病院)入った時にはもう、こんなもん治らんぞ、ということになったのか。僕らはあんまりそういう声は聞かなくて。「調子悪い、調子悪い」って言って病院にいたんです。八石分校の跡に住んでいた彼の面倒を見る、集まってくる人たちもだんだんまばらになる、火を焚く油もなくなってくるというので。八田豊は面倒見が悪いぞちゅうて、僕んとこが怒られて。ドラム缶で石油を送ったりなんかするんやけど、なにしろ大勢が来て火を焚いても後始末はしない、それから河合さんが病院通いするので交通事故を起こして、軽自動車が2台も損失してしまって、それを補填していく。紙の実験展が始まる、展覧会が始まるまでに河合勇のことで大変な目にあってるんだけど、それは大勢の人は知らないんですよ。身近にいた数人だけが河合勇のことは大変だ大変だと言うんで。雪の中歩いても行けないからって言うんで、僕が金出して軽自動車を買うんですけど、その軽自動車がその八石の坂を下りたり登ったりして分校へ行くのに坂で横転したり。また車買わなきゃあかん、という風なことを繰り返していくんですけど。

永宮:八石と言うのが拠点だったんですか。

八田:そうそう。

永宮:窯入れのスナップが(河合勇展図録、福井県立美術館、1996年、74頁)。

八田:それはなんかやらなあかんと言うので、焼き物を始めるんです。

永宮:八ツ杉と八石はどういう関係ですか。

八田:八石のてっぺんに八ツ杉という山があるんです。自然公園にしていこうというのが一つの地域の人の動きで、(もう一つが)八石分校という小学校が廃校になったんで、その拠点に河合勇を持っていくという、移動するという。僕の家に長いこといた彼は、八石へ動いていくという動きなんですよね。うちとしてはようよう、疲れ果ててしまって。一家族面倒見てるんですから。そういうことは一般には誰も知らないのよ。そんなこと言うべきことでもないし。

永宮:八石分校を改装したのが八ツ杉の現代美術研究所。

八田:主に何をやったかって言うと焼き物を始めたんですよ。

永宮:実験的な。かっこよく言えばアートスペースのような。実験場をつくろうとした。

八田:分校の跡ですからでかいですよ。下は運動場、上には教室が2つあって、3つあったんかな。それが八石の分校の実態です。

永宮:そこに多くの若者が……

八田:集まってきていたんですよね。

鷲田:「八ツ杉現代美術研究所」がそこの名前ですか。この『プラス・ハイウェイの夢』(注:河合勇エッセイ集編集委員会、1983年)の発行所がそこになっています。

八田:いや、正確に言うとね、そんなものはなんもないんです。僕のアトリエで始まったんですけど、そういう訳にもいかないので、そこに。だって河合勇は死んでしまったのに『プラス・ハイウェイの夢』が出来るはずもないんです。死んでから、人集めをして。本当は人集めして、公表すべきだったんでしょうけど、廃校ですから、そんなきれいでもありませんから、寿恵広の大広間で発刊をしてかなりの人が集まったんです。

鷲田:分校跡で焼き物をとおっしゃっていましたけど、焼き物をやっていたのはそこに集まっていた人たちで、八田先生自身は……

八田:僕はあんまり焼き物には関係を持たなかったね。河合勇は焼き物で人集めをして少しでも売れたらよかろうという腹があるし、僕が河合勇が我が家にいた後始末でほっとしている間に、彼は八石でそれなりの動きをしていたはずです。もちろん家を出てってから、ほっとしている訳じゃなくて、僕のとこで仕事をしていた若い衆も八石に行かずに自分で独立して文化活動を、絵画運動っていうか、造形運動を始めた人もいます。そこに戻ってきた人もいるし。おおよそは新しい人が集まったと思います。粘土をやるっちゅうんですから、絵を描いたり、ものをつくるのとは違うんですよね。土から、(パチ、パチと音。土をこねるような仕草。)こういうことで始めるんですから。

永宮:何もなかった所にはアートの熱気というのはないはずだと思うんですね。ですから……

八田:北美の運動や八田豊のアトリエに集ってる人たちやらバラバラのものが八石に集結したわけ。やるものは焼き物が中心に表だったんだけど、河合勇の独特の動きは、絵画運動じゃなくてパフォーマンスを中心にした動きがあるんですよ。「人間創造」という劇を、シナリオを書いて、河合勇が1年がかりで人集めをして発表した時には観客は土岡秀太郎と八田豊の2人だけだったの。ということも福井新聞に出てます。

永宮:そうだったんですか。

八田:悲惨な現状ですけど、河合勇はにこにこと「いや、これからが始まりやから、最初から大勢いたらたまらん」と言って笑ってたの。ニューヨークにおける造形運動の後に来るのがパフォーマンスという活動だったんだろうと思うんですね。それを助けていたのが、なんちゅうんやあれ、ニューヨークでそういう芸術運動を助ける人たちのことを。

鷲田:パトロンですか。

八田:パトロンじゃなくてね、一種のパトロンですけど、有名なんですよ、その人たちの運動は。秋吉敏子もそうだし、日本から行った大勢の人たちもその恩恵を被っているんですね。ユダヤ人の特殊な芸術運動を助ける資金団体があるんですよ。

永宮:戻りますけども、北美の30年の運動は1970年代の後半まであった。その所に若者たちも出品などで関わりを持っていて、北美終了後は新たな芸術運動の旗手というか中心的な担い手として、河合勇さんが期待されていたという理解でよろしいでしょうか。

八田:違うねえ。若者と河合勇は関係なく、北美運動をやった後に体調を崩して、僕の家にいたけどほとんど寝てるか、どっかうろうろと出てっては晩になって戻って来て、寝るくらいだったんですよ。その間彼は東京にも行ったし。河合勇の彼女は、日本の民族舞踊の研究者でもあったから、色んなことで東京にも出入りしてたし、そこの活動はあんまりよくわからない所もあるんです。僕もあんまりノータッチで。我が家で寝たり食ったりしてるだけで、彼の運動を束縛もしなかったし。ただ、最後の所で彼の故郷を訪ねたことがあるんです。八島か。八島の記録は、北美30周年運動の中から出ていく写真家とか若者が数人いて、河合勇と同行して1年、ひと夏を過ごしていく。次の年に(河合は)病院に入ってしまう。だからこういうのは、流れじゃなくて、こういうことがあった、こういうことがあった、で、ずたずたっと切れた中の動きが目まぐるしいという動きを示し、八島に我々が10人ほど行った記録は、写真家が後でつくった(武生)アールギャラリーで紹介していくんです。僕は1日か2日で途中で帰ってしまったけど、何人か残っていたと思うね。その後、八石に入って、八石の窯つくりから、新しい人を集めて河合勇を応援するけど、河合勇は何回か焼き物やって、2年、3年かなあ、たたんうちにこの世を去ってしまうんですよ。非常に目まぐるしい動きをしてるから、覚えている範囲でと質問をされてもよくわからない部分が。僕かって勤めあったしね。他の連中はそれなりに勤めあって夜は遊ばんのですから、自分の制作しないでそこへ行ってない。僕は僕の生活があり、そいつらはそいつらでやっている中でどうにもならん時に、「おーい、来い」という声がかかってくる。河合勇は非常に重体になってしまう。死に目に会ったのはなんと、女性2人と土岡秀一と、僕と、4人かなあ。もう1人いたんかなあ。もう目の前で、河合勇の死をまざまざと見て八石の幕を閉じ、というあっという間の4、5年の中の動きの中で紙の実験展というのが出てきて、それで今立紙展という所へ持っていくんです。窯に集った連中もいるし、北美の最後にちょこちょこといた連中も参加したけど、素人集団みたいな若い所へ年増の連中は入っていけない部分があって、北美の最後やった連中の大半は八石に集ってない。新しい連中やったんや。

永宮:河合さんのもとに集った、若者たち。

八田:そういう括り方されると非常に難しいんですよ。結果的には河合勇を中心に集まったということでもいいと思うんだよ。河合勇は僕に世話になったもんで八田豊の作品集をつくると言って、公会堂で集まって僕の所にあった作品も売って何某かの金を得たんだけど、彼はそれで「八田豊の版画集をつくる」って言ったけど、土岡さんが「河合くん、それはあなたには無理だよ」と言ったけど、「俺がやる」って言って。出来ないもんが。出来た金は食うのに精いっぱいだったんでしょ。

鷲田:2年ほど戻るんですけど、「北美資料室」をご自宅につくられたんですか。

八田:はい。

鷲田:これはどんなものですか。

八田:土岡先生が亡くなる前に…… ご自宅は土岡先生が住んでた家ですから、大勢が出入りしてわたわたとできる格好じゃないですから、僕のアトリエの一部で北美の資料を集めて、北美の資料室という看板で30年の資料を集めていこうとしたんですけど、僕が北美の後始末のことで精いっぱいで橿尾(正次)のようにきちんとメモ取って、そういうことは出来ていないんです。わたわたと大勢が来て、仕事をしたり飲んだり食ったり、わーわーとする、ことの方が多くて。

永宮:旧アトリエの……

八田:旧アトリエの南の細長い部屋にある多くの資料が…… それからブロックの塀集めたのは島川(泰広)くんらが整理しないで放りこんだのがああいう状態になったんですよ。あれは北美資料室じゃなくて、階段を上がった広い所の南側に資料室をつくり、左側のブロックのあれは紙展の残骸ですよ。今立紙展の残骸でもあり、後の丹南の公募展をやって作品を取ってかない、返してないというものの集まりがああいう残骸として残っていく。僕の仕事場なんかも、その下が仕事場だったけど、旧今宿のアトリエとアトリエの上の資料室や多くのスペースが、そういうことで使われていった。

永宮:河合勇さんのところに集った若者、あるいは北美に関わっていた若者たちが色々入り混じって、今立紙展という展覧会を開催することになっていくと思うんですけれども、この経緯を……

八田:簡単に言うと、河合勇が油絵具もキャンバスも買う力もないから、今立紙展の中で、手漉き和紙が売れないから機械需給をやろうとして、製品になり損なったものがうず高く残ったんです。それを使って「おい、もったいねえなあ。あれでなんかやろうじゃないか。お前らもやれや」と言って死んでいく。「あれで何ができるか」と言って実験展をやる。

永宮:八ツ杉に集った若者たちとのやり取りの中で、何か面白いこと出来ないか、ということで紙に目をつけたという流れがあったわけなんですね。

八田:紙の実験展は若者ばっかりじゃなくて、かなりおっさんも入ってますよ。だけどおっさんは若い衆についていけない、若い衆は集まってきたけど金がない、という中で、町に言ったけどあんまり金を出さない、というので、河合勇の版画やら持ち物、僕の物やらを売って資金をつくって紙展を強引に押しまくっていくという。その内に町も出さざるを得なくなり、みんなもアルバイトをしたり働いたりして金をつくって今立紙展がぐっぐっと動き出す。でもどうしても金が足りない。

永宮:それまでは陶芸をつくったり色々されていたと思うんですけれども、展覧会にしようという発想はどなたが考えたんですか。

八田:実験展をやる中で「おい実験展じゃなくて、ちゃんとした公募展にしよう」とかなんとか言ってるうちに…… リー(・ウーファン)さんがね。僕ら呼んだわけでもなんでもないの。僕は作品をつくったら展覧会に発表していくっていう、その中で下村(良之介)さんが「いっぺんやらんか」と言ったのが京都の紅画廊の第1回展なんです。北美30周年が終わってから、その動きの中に紅画廊での発表会があるんだと思うんです。少しズレが修正できないままにいるんだけど。だと思うんですね。

永宮:第1回目の実験展は、とりあえず広いスペースの中で紙を使って何かやろうといったことで行われたと言いますか。河合さんの意志を受け継ぐ……

八田:継いだわけですよ。「展覧会、よーしやってみよう」と。河合くんの一声に対して呼応してできたのが実験展です。

永宮:展覧会という形で応えたと。

八田:河合勇もそれを見てないし、見ないで報告を聞いたまま死んだのか、ちょっと時間のズレがあるのは、秋に実験展をやったけど、明けて正月にはもう世を去って行くんですよ。

永宮:実験展をやった直後にお亡くなりになるんですね。

八田:そうそう。新聞もかなり取り上げてくれたけど、実験展そのものが取り上げるにも取り上げにくい。現代美術だってまとまったものじゃなく、勝手なことをやっているから。例えば僕なんか河合勇が死んだから、2回目に残してった軽トラックを持ってって、天井から吊るんですよ。紙のロープで。そしたら町の人たちが「おい、危ねえぞそりゃあ」って。紙の真ん中に鉄のロープを入れて、紙で巻いて、いかにも紙は強いんだぞって、見せかける。イミテーションというか、そういうのをやって。紙の強さ、紙の柔らかさ、色々なものを表現した実験展をやる。

永宮:展覧会をやることは、河合さんは身体が悪くなりつつもご存じだったんですか。

八田:展覧会になるかどうかも分からないうちに、「いっぺんやってみたら」ということで死んでいった。

永宮:アドバイスをしたと。

八田:みんなが面白がったから、「おい、もっとやろう、もっとやろう」と言ううちに、「外からの刺激がほしいから公募展と言う形に盛り上げたら」とリーさんがたまたま言って。京都に話をした時、京都にココという画廊があって。なぜかみんなギャラリー16へ(行っていたけれど、ギャラリー16は)ちょっと調子が合わないので、ココへ行ったらココに変な絵があって。「これ誰」って言ったら「リー・ウーファン」って。「ほお、聞いたことあるなあ」って言うんで、みんな買えって言うんで有り金はたいて何枚か買って帰ったんです。そしたらリーさん、金がなかったもんで、月々、「売れたか、売れたか」、って言う中で、「いや、売れた」と。俺(八田豊)があんな絵を買うて行った、「あれは何者や」と。「八田豊や」と。「訪ねていってどんな男か、会いたい」と。「ところで金がないから、旅費も全部出せ」と言うので「よし、出してやる。来い」と言って。初めてリーさんが僕の家に来て泊まるんですよ。明くる朝起きて、寒い冬の日だったんです。松の木にかかる雪ががさーっと音を立てて落ちていく音を聞いて目が覚めたと言う。障子開けて、「えー、雪景色ってこんなに美しいのか。すごいなあ」という話を、ゆっくりとコーヒー飲みながら学校行くのも忘れて話したことを覚えてますね。僕の家に知らん人が泊まったのはリーさんが初めてで、その後いろんな人たちが泊まるということになって。河合さんも抜けたら、初めての外人ですよ。ポーランド人とか、いろんな人が泊まる。だけど、だんだんうちの女房に負担がかかりすぎて。ということで、寿恵広と言う料亭ができる、赤星というホテルができるということで、僕の環境は良くなってきて、人の往来ができやすくなっていくんですね。今立紙展を13回でなぜ出てったかっていうところは、役場が金を出すって言わないし、僕ら一生懸命になって資金づくりや八田豊のなけなしのボーナスやうちの女房の爪に火をつけるような倹約ぶりの中から資金をつくっていくだけではたまりかねたし、町も、今立の紙を使った以外のものは入選させないようにしろっていうだけで、「知らん、そんなもん自由な公募展にならない」という戦いの中で、どうもならんから僕らは出たんです。ところが今立に残された連中は、俺らが振って出たという悪い感情だけが残ってる。ところが僕らはそうではなくて、「いずれ手を組んでやらなあかんなあ。でもそれまでがんばれよ」と言って丹南アート初回を迎える。それが1993年かな。

永宮:ちょっと戻りまして、リー・ウーファンさんとの出会いが京都であった。

八田:京都でなくて我が家へ来るんです。会ったのは作品と僕ですよ。

永宮:リーさんが八田先生を知って訪ねてくる。その時紙展はちょうど……

八田:実験展を何回か終えたあたりかね。「そんなもん実験展と言わずちゃんと展覧会にした方がいい」と言うので、「ほうか」と言って。

永宮:そのアドバイスをしたのがリーさん。

八田:そうそう。

鷲田:その時は河合さんは亡くなった後。

八田:とっくに亡くなってしまいました。とっくとも言えないですよ。何年かですね。

鷲田:1980年から83年の間ということですか。

八田:そうですね。(河合勇が)亡くなる、実験展が始まる、2回やる、リーさんがやって来る、ちゃんとした展覧会にしなきゃいけないぞ、そうかー、金つくらないかん、役場行ったら「金は出さない」って言うんで、もうガチャガチャな中で今立紙展と言うのは…… ここに島川(泰広)という高校生が現れて、ぼそぼそぼそぼそとサポートしていく。今立紙展の重要なメンバーになっていくんですよ。十何歳が。今考えるとね、島川がいなかったら、あれは誰もやってくれなかった仕事です。あとで北美の30周年を手伝った連中はもっと来たりしてたけど、全然だめだった。もう疲れ果てていた。

永宮:リーさんが「展覧会にしたら」と言うアドバイスをして、なおかつ自分も審査に参加して……

八田:そうそう審査に参加した。「よし俺が言った」と言って。

永宮:言いだしっぺと言うことで加わったということですね。

八田:あの頃は金こそなかったけど華々しいもので、本当に金がなかった。食事が悪いと怒るしねえ。「こんなとこ泊めて」って。あいつら気位が高いから。だけど、そういうことが我々を磨き上げて、ブラッシングしてくれたと思いました。谷(新)さんなんかも笑って、「リーさん何が気に食わんの」、「こんなもん食えるかー」って。それは本当に食えないんじゃなくて、八田豊をもっと高い所へ、頂上をちゃんと見据えろという、今思うとアドバイスだったんだろうなあと思いますよ。ワイン1本だってね、「こんな安もん飲んだってどこがうまいんだ」と言うので。

永宮:一流と言うのを見せつけられたと。

八田:そうそう、なんでも一流。なんでも、高嶺の花でないと美しくないって。なんかね、金絡むと人に旅費を出させるくせに、言うことってね。でもそれはだんだん分かってくるんですよ。リーさんが何を狙って、八田豊に叩きこもうとしていたのか。だから何回か訪ねて若い衆を連れて行っても寛大な接待ぶりに変わっていきます。金がないって言うのに、どえらいことやってるなあって。

永宮:ちょうどその頃だと思うんですけど、年表を見ますと武生市内にアールギャラリーを開設という……

八田:北美の残った連中の中で画廊つくろうっていう動きもまた……

永宮:発表の場をつくろうとしたんですね。

八田:始めるんです。金のない中で、人も雇わないとお留守番もいないというんで、余分なことをやったと思うけど、結果的にそれらもプラスになっていくんですね。

永宮:武生の駅前にギャラリーを開設したんですね。それは1980年代にされているということですね。

鷲田:その設立にあたって八田先生は中心的な役割を……

八田:いや、僕はそれ嫌だったんですけどね、家主が八田先生が中心となってやらないなら家を貸さないということになったんでしぶしぶ、仕方ないから。表だけの看板で。

永宮:保証人というような感じで。

鷲田:実動部隊は若い世代の……

八田:そうですね。

永宮:先ほども出た、ヤングアートに集う若者とかですか。

八田:いや、動きってなると、ほこりもいいものもみんな風がぐるぐる巻き出すとね、あらゆるものが集まってくるんですよ。

鷲田:1978年に福井県立美術館が開館しますが、福井県立美術館との関わりとか、どのようにご覧になっていたかっていうのは。

八田:僕らの展覧会が始まる頃の話ですか。

鷲田:1983年に開館5周年記念として「土岡秀太郎と北荘・北美と現代美術」という展覧会をやっていますが、美術館ができる時に関わりがあったのかとか……

八田:何もないですけど、何かやらないといけないということで土岡秀太郎の運動を展覧会に持っていったんでしょうね、県立美術館は。その話もなくて運営しているというのは僕らと疎遠だったと思います。ところが人間っていうのは変なもんで「北美だ、北美だ」と言うてくれると「あ、ほうかほうか」ということで動き出したと思います。で、一緒になって動いていく。そこに学芸課長らが「おい、いっぺん飲もう」とか言って、お互いに思いの底を手探りの中で、芸術とは何か、新しい運動とは何かって、ぽそっ、ぽそっと出てきたと思います。その中で今の3人展が個展の形で出てる。

永宮:それはもっと後の話ですよね。

鷲田:その時の学芸課長は。

八田:松村(忠祀)さん。後に福井市美術館の館長になる人です。この大将はよかったですねえ。市や行政の方では、どうもこうもならなんだという噂も聞きますけど、あの人の動きがなかったら僕らもこういう具合に自由に動けなかった。松村さんが島川を呼んで「おい、親分に展覧会やれって言えー」って言うんで始まったのが、丹南の動きの中で、「素材と表現」という展覧会です。

永宮:福井市美術館を会場に。

八田:そうです。それですべてを動かしていくのが、なんと20歳そこそこの島川くんで、先輩に冷やかされながら動いていく。松村さんが非常に気に入って「あいつ、いいな」って言うんで。そのうち丹南の主だった者まで「おい、こっち来るか」と。彼も鯖江で事務所を持ち出したりして。自分の仕事の事務所にも構えられたのかね。それが後になって島川くんの重荷になったりするんだけど、それは島川くんの問題です。僕らとしては結果的には面倒くさいことやりやがったなという感じなんですけど、非常にプラスになっていくんですよね。プラスにもマイナスにもなっていく。だいたい仕事ってそういうもんですよ。いつも順調でうまくいくばっかりが仕事とは言えない。面倒くさいこともいっぱいあるけど、広がりとしては大事な一つのエポックだったと思うんです。

永宮:今立紙展は企画という形で関わったのは10回くらいまで。

八田:いや13回まで。その時のメンバーもね、銀座の4丁目の日産自動車の展示場の2階にフランス料理のレストランがあってそこへ集まったんです。宇都宮にいた谷(新)さんを呼んで、別派行動をすると。谷さんも随分黙って考えて。「やるんならやれ。できるだけのことは支援するぞ」となったんです。もちろんリーさんも忙しくて、3回か4回手伝ったきり辻(喜代治)さんに代わってリーさんも顔出さないし。彼もだんだん自分の経済状態も良くなって忙しくて。

永宮:その一方で今立紙展はかなり大きなものに成長していったと。

八田:紙展は大きくなったりせんよ、場所もないのに。小屋住まいをしながら、展覧会になるととんでもないことをやってるから。僕らもハラハラして。こんなに大きくなったし金はないし。所帯が大きくなっても朝飯も食わせられないという状況ってよくあるでしょう、青年団活動や若者の活動の中では。ヤングアートなんかもそうですよ。どんどん大きくなってどうにもこうにもならんし。周りからあれはつぶされていったんやけどね。忙しい中で、いつ生まれたと聞かれてもちょっとわからないくらい渦が巻くと、そこへ、ほこりもごちそうもみんな巻き込まれてくるというのが運動の特徴だと思うんです。だからヤングアートもその後いろんな運動が起きてくるし、仲間同士でケンカしたり泣いたりわめいたりしながら別のグループができる。ヤングアートから「あばれん望」というグループができたりね。遂には丹南の中に吸収されていくとか、不思議な動きをやっていって、今日23回、24回というところにくるんですよ。

永宮:今立紙展が全国的にも注目されることになっていくと思うんですけど、1988年、昭和63年にイタリアに「紙と現代美術」展で招待出品されていますけれども、これも海外から目をつけられたということですか。

八田:パルマに日本人の画家がいるんですよ、紙の造形をやった。それにハッパかけられて動いてきたのが、ジュゼッペ・ニッコリという、イタリアでかなり幅の効かせた画廊の親父で、今立紙展を見に来ると。そこで(山本)圭吾さんの作品展をわざわざ企画したけどニッコリはあんまり興味示さなかったですよ。「紙と現代美術」というイタリアでの展覧会はイタリアの主だった国会議員まで来て大変な騒ぎだったけど、何の発展もしなかった。画廊を動かすっていうのはそういうところがあるんですよ。我々は無造作に動くもんだから、ちらちらと気になって人を巻き込んでいく運動体というものは不思議なもんですよ。「アパルトヘイト否!」なんかも武生を通過するときに、「武生を通過したら八田豊にやられるぞ。声かけて行けや」と言われたというくらい、内心はそのぐらい、今立紙展か丹南かどっちか忘れたけど、それなりに我々の動きは彼らも見過ごしてはいけなかったんだろうと思うんですよ。

永宮:全国的にいろいろな人の耳に入っていたということですね。そういった中で紙展10回を数えて、組織が分裂したんですよね。

八田:分裂したんでないって。主催側がね、あまりにも大きくなると、ぎゅっとぞうきんを絞りこむようなことをしたもんだから。絞られてたまるかっていうんで僕らは出さざるを得なかった。分裂と言う言葉は核融合でないけどカーッとお互いに摩擦が出てくるのが分裂なんですよ。そうじゃなくて、結局我々はいたたまれなくというか。

永宮:今立を出ると。

八田:結果的には分裂と言うことになるんだろうけど、「おい、がんばれな。その内に迎えに来るからな」ってなとこですよ。だけど残された方はそうはいかない。出てくのは勢い余って「出てけ」と。残った方は「何言ってんだ」っていうところはあったんかなあと思う。

島川:委員会に今立町という存在があるんです。町とは色々絡みが出てくるんです。その中には入らなんだと。会が分裂したんでなくて、町との絡みの中できた……

鷲田:今立町と言うことですか、当時の。

八田:やっぱり紙の産地でしょ。今立から出て紙をやれるかって。だから僕ら紙の「か」の字も使わない。「丹南アート」という名前を付けて第1回をやるんです。「丹南アートってなんや」って言ったら、近くにものすごい大きいサンドームという建物ができたの(注:福井県産業振興施設、通称「サンドーム福井」。1995年に開業)。県がつくった。県はそこでね、アイスショーとか色々やって。だから「いずれあそこで俺らも展覧会やるぞ」って言うんでその建物狙って、そのドームの名前を借りて丹南アートというものをつくった。実際はね、展覧会が出来るような建物じゃないんですよ。でかくてでかくてやりにくい。観覧席つきのね。

永宮:それが1993年ということですけれども、この丹南という呼び方、丹南と言うのはどういう時に使われる……

八田:ドームの名前だって。丹南ドームって呼ぶんですよ、地元は。

永宮:ドームの名前だったんですね。

八田:ドームの名前から引っ張り出しただけで。「丹南」って、西の方は丹生郡なんです。それでこの辺を南越地方と言ったんです。

永宮:丹生郡と、南越地方。

八田:それを一緒にして「丹南」というドームがあったんです。県もそういう頭があったし、いずれ俺らもあそこで展覧会やるんだぞという一つの目標を持ってたし。それほど器がなかったんですよ。第1回展は体育館でやったんですよ。体育館で十分、シート敷いてやったのに、パネルの足を動かしたのなんだの、小言を言われて追い出されてしまったの。菊人形のテントの中でやるっていうのが第2回かな。

島川:菊人形のテントは1回目からです。丹南はテントの中で。

八田:1回目から。なんで、あこ(体育館)でいっぺんやったがの。あれは審査だけか。

島川:審査だけです。展覧会はテントの中で。

八田:第1回から容れ物がないからテントの中で。アートフェアかなんか商品、見本品みたいな旗立てて。ああ、旗はないか。ほんとにね、漫画みたいな。島川くんがポスターに丹南ドームを描いたの。旗こそ立ってなかったけど、立てたら本当にアートフェアみたいなもん。でも25回、建物がないから。100万か200万かかるんやってね、テント立てるのに。

島川:かかりますね。

鷲田:丹南から紙展の話に戻るんですが、紙展はカタログなどの印刷物はつくられたんですか。

八田:それも中央サイドとのかなり…… それから会員とのチャンバラの始まりなんですよ。何でそんなもんつくらなあかんのやって。

永宮:それが町側の意見なんですね。

八田:町からも、みんなの中からも。だって今では150万位でパンフレット作れるけど、あの頃300万近くかかったんですよ。印刷が高かったし、テンキーにこうやって打ってる時代でしょう。ワープロなんて時代でないがね。コンピュータの時代ですよ、今。すごく力も結集して渦巻くような運動の中にいたけど、実際には何から何まで金のかかる世の中だった。動きのにぶい。タイプ打ってるようなもんでしょ、印刷だって。

鷲田:紙展が始まった頃に八田先生が出品されていた作品はカーヴィングの……

八田:ではないんです。今立紙展て言うんですから紙を出さないかんわけです。

永宮:紙展の方には紙の物を出していた。作家としても今立紙展に出品するようになっていったと。

八田:だけど紙の作品なんてつくってないもん。紙にカーヴィングっていうのも…… パルプボードって紙だと言えばかなり無理がありますよね。谷さんはイタリアにおける「紙と現代美術」の中で、八田豊は紙みたいなものにカーヴィングした作品として出品していきました。けど僕としては「こんなもんで展覧会通過したらたまらんなあ」と思ってました。その時に出したのは、こんなね、新聞紙を巻いた大きな筒があるでしょ。あれを3本立てて、その紙になぜか色がついているんですよ。真っ白と、なんかと、茶色と。それを組み合わせて、ガーッと引っ張って次のロールに巻く時に、色の変化が起きる。あれ、なんで途中でこんな色に変わったんやろう、という不思議さをつくったのが、数学におけるなんやっけあれ……

永宮:メビウスの……

八田:そう、そのねじれの現象、その考え方を持ち込んだんです。それは谷(新)さんは理解してたけど、金澤(毅)さんは「なんか訳が分からんなあ、こんなん落とせ」って僕の目の前で。「おい、みんな見てよ、黙ってよ」、1時間かかって辻(喜代治)さんらも、さあ、この作品落とすか落とさんかって、わーわか言ってて。結局は落とされなんだんけ。

島川:ええ(笑)

八田:後で、「あの作品誰のだったの」っていうわけで。知らーん。メビウスの環っていうのはくるくる回っていくうちに、こういったのがこうならなあかんのに、違うんですよ、ちょっとねじれてくと。メビウスの環っていうのは数学でいうねじれ現象のことなんだけど、斎藤義重の数の本かな、読んでた人の本の中に(あった)、不思議な数の話だったんかな。それを持ち込んだんです。だけど、どうしても視覚的要素がだんだん強くなったし、もっと精神的なものって若い人に話しても理屈が多すぎるって感じが強かったのかな。紙展の中にものが入りすぎたのかな、鉄とか石膏とか。もっと紙本来の造形が出てこないかなっていう思いと、市が金を出さないということと、今立紙以外の作品がものがえらい(多い)なっていくといういくつかの思いが絡んで、僕には非常に障害になってきたのかな。

永宮:それで紙に取り組んでみようと。

八田:いや、だから紙展から出てしまうんです、逆に。何年か経って。13年やね。

永宮:制作の話に戻りますけど、1970年代に入っても見えないながらカーヴィングの作品を続けていた。

八田:カーヴィングはカーヴィングでやってきたんですよ。

永宮:それと並行してと言うか、アクリルでドローイングを描いていく時期が1980年代後半だと思うんですけれども。

八田:(増田)頼保らがスペインから帰ってきて、なんか自分でせなあかんて言うで、2人いた中に福井の金津かな、森田かどっかあっちの方、九頭竜川の堤防に絵を描くという運動を持ち込んできたんで、僕らも参加せなあかんし、1人にテントを1枚ずつ配ってやるという中で、「俺描けって言われても嫌や」って言うたけど、「なんでもいいが」ってことでできたのが、この2階の河原の上からにシートに絵具をガーッとあけていくということで、もういいということで参加していく。紙展と関係なく自分の仕事が、カーヴィングがやりにくくなってきた中で、「よっしゃ、いっそのことキャンバスの上にでも流せ」っていうことで、ごそごそーと絵の具を流すという仕事が始まっていくんやね。

鷲田:スペインとおっしゃったのは……

八田:頼保。頼保っていうのは…… こんなやつに少し勉強させようっていうんで、河合勇が世界漫遊の旅に出てきた、アフリカからスペインに1回行って来いと。そんで役場から飛び出して行くんですよ。25日にはみんな持ち寄って僕のアトリエで、それを売りあがったものを彼らに送ってやろうと。ところが責任を持った人たちがその金送ってくれてなかったらしいです。彼らが3年か4年か忘れたんですけど帰ってくる。食えないからいろんなパフォーマンスをやりだすんですね。僕らも嫌々させられて、その中のはずみとして絵の具をかけていく。その頃にはその絵がアメリカから入ってくるマチウとか、アンフォルメルの人たちが……

永宮:アクション・ペインティング。

八田:アクション・ペインティングの要素を日本に持ち込んでくるけど、アクションというのは確認ができない。目が見えるものはね、見えるからあれだけど、僕は見えないから。静かにそういうことをやって。乾いたら触って。えー、面白いのかなあって。いうことで、だんだんだんだん、静かに1人で、大勢も巻き込むんでなくて自分なりにキャンバスの上に絵の具を。キャンバスにって言ってもいわゆる油絵のキャンバスでなくて。絵の具を流していくという仕事の中で。絵の具が流れる音と、向こう側へ受け皿にしとくとポチョンポチョンて音を聞きながらドローイングしていくという。

永宮:自分自身がこれまで取り組んできた平面の中で何ができるかという……

八田:いや、そこで平面とか立体という言葉はないんです。無茶苦茶やる中で、僕がもう1回紙をつくり始めて、それに染めてく、それに絵の具を流し込む、あるいはドボンと浸けてみるという仕事があるんですよ。あまり言葉になってないし、みんなは知らない部分があるんですけど。目が見えなくなって確認をどうしてするんだっていうので、多くの人たちが僕のやりざまを非難するというか、「どこで確認できているの」と言う。アンフォルメルの人たちがやるようなアクションじゃなくて、もっと静かに音を聞いたり。

永宮:あるいは触ったりもしたんですか、確認のために。

八田:確認は必ずやってる。あれ、こんなになった、これでいいのかなっていう確認を。否応なしに、いじわるみたいに「確認どうやってやるんや。自分で納得できてるんか。そうでなかったら芸術と呼べないんじゃないか」とやらしいことをいっぱい聞くから。乾いてから。この色は誰が選んだっていうことになると、自分で限定していけば分かるじゃないですか。1番上の棚には青、次の所には黒、その次には黄色、白、4色か5色だったら聞かなくったってできます。後はどうやって流していく、乾いてから触る。ペイントというのはつるつるですよ。キャンバスはざらざら。つるつる、ざらざらで確認をしていく。結果は触って確認していくんです。途中はどうするかって言うと、音ですよ。この辺でいっぺん、どこまで行くか。音が出ないっていうのは、どろーっとしてるのきっと。1日経ってもあんまり乾いてない。もっと水加えて、流れ良くしていかないとあかんとか、そういう模索が始まるんですよ。ドロドロつるつる、もたーっとか粘着の度合いの確認です。音を聞きながら楽しんでいって、だんだん流れていく。これは面白い、と。だからあんまり色数増やすんじゃなくて長いほどいい、100号くらいの長さを流していく。それで何年も何年も変わっていくうちに…… だけどあくまでもドローイングに過ぎない。もっと即座にその場で確認できる方法っていうのは楮。自分で貼っていく。確認していく。ということで楮を貼るということに変わっていくんです。その間に出てくるのがペイントを流す。音。流れる音っていうのは実際には皆さんは知らないんで、僕だけがわかってる。だから寝てても自分の心臓の音がペイントの流れていく音に聞こえて、はっと起きて、「なんでこんな所で絵を描いて。ああ寝てるんや、なんだこれ」。自分の心臓や血液の流れる音が、流れる絵の具の音と勘違いして夢の中に混ざっていくんですね。今でもそういう悪い癖があって時々変な夢見て。絵の具の流れる夢を見て。何でこんな夢と思ったら、暖房消して寒かったんで、寒いということと、かつて絵具を流してた頃の残像がひょこんと出てくるというわけ。

永宮:その音が残ってるんですね。

鷲田:1980年代の中頃ということですか、それは。

八田:でしょうね。

鷲田:ここのカタログ(アートハウス 吉田富久一編『沃土 -八田豊と福井の現代アート』現代芸術研究会、1995年)には1990年に入ってからの《流れる93-15》(1993年)はあるんですけど1980年代のものはあまり図版になく……

八田:あんまり公表してないし、みんなに意地悪く「お前どうやって確認するんやこんなベタベタ」って言われて非常に家にこもって制作している段階が。展覧会にもあんまり出してないし。確かに、目が見えてね、流れてく、止めるとか、ドローイングやったらここ絵の具つける、こうやる、ここは筆を使わないというような操作が出来ない。そこをどうしたかというところを人は「どうやって確認するんや」っていじわるに。いじわるなんかはどうでもいい、自分が楽しけりゃいいだろうっていうものはなかなか、どうぞ、とは言えなかった。自分の作品と、出来あがるものとの関係で距離があったりなんかして。苦悩の10年間ていうのが、誰も理解できないところだと思うねえ。

鷲田:1980年代からの紙展には、紙の作品を出しておられたんですか。

永宮:カーヴィングの……

八田:今立紙展にカーヴィングの作品出したことはないな。

鷲田:紙の作品を出されていた。

永宮:紙展に出品したのは後半の頃なんじゃないですか、作家として出品したのは。

八田:見えないなりにカーヴィングを細々とやっていたし、そこにいわゆる数学の遊びみたいなものを導入して人と話していくんですけど、噛み合わないんです。

永宮:《メビウス》とかあの辺りでようやく作家として出品。

八田:つくらないんじゃなくて、つくったんですけどインスタレーションなんですよ。展覧会終わったらバラバラと、1個の紙の巻きにどんどんと別々になっていく、それを組み合わせて一つの作品にしていく。

島川:実験展の頃には出品されていました。軽トラを吊るした作品、あれは八田先生なので。

永宮:あ、そうなんですね。

島川:以降は、僕も先生のを紙展で見たのは1回か2回くらいやと思います。

八田:実際に僕も紙を漉いてみた。夏の暑い日に。紙溶かして、流してね。あれはパルプの原料だった、それを水にドボンと浸けておくとね、1㎝くらいの紙が5㎝くらいにばーっと膨れるんですよ。パルプだから。それをタイルの上において、踏んで、下に簀子の模様をプリントして。乾いたらその上、鉄板の丸、中島の会社のを並べて、組み立てて。

永宮:それがこれ(《流れ92-10-A》)なんですね。パルプを用いたのも……

八田:それから、パルプは紙じゃない、パルプは紙の原料だという認識を自分の中できちんとしていってパルプをやめる。パルプを出して紙展って、そんな浅はかなことではだめだと。厳密に、紙は紙、素材として。そこで紙の仲間たちと業者が今の紙にはパルプが混ざってるとかなんとかかんとかって言葉が飛び出して来るんですけど。そこでパルプなんてあんなもんあかんぞ、っていうんじゃなくて、なぜか混ぜて、というか加えて使いやすい紙をつくるっていうのが業者の仕事なんですよ。パルプ混ぜてね、安くしてね、悪く言うのは使う方の勝手で。そういう紙をつくれと要求しておきながら小言言ってるなんていう使う方の勝手なんですよね。パルプ混ぜると、どうしても表につやが出てこない、ぼかしが出てこない、滲まない。重さを要求する作家だっているんですよ、何グラムであげろって。パルプ加えないと楮だけでこれだけの重み出せって言ったって無理ですよ。だからある紙屋さんなんかは、コットンと砂と土ですよね。白土って白い土を加えて紙に重みをつけていく。ほとんど和紙という言葉はないんですよ。紙ですよ。外国に輸出していくプリント用の紙。例えば2、300年前から日本の紙がオランダに出ていったという、ごく最近のあれで。レンブラントが使ったんじゃないかという。それらは暗中模索の中に白土が入ったり、いろいろしていくわけです。その中で今立にプリント用の紙をつくる福井紙と言うのが出てきたり、茂八のMと沖のOをつけてMO紙と言うものが出てきて。主に日本では、石版の紙として出ていく。福井紙というのも完全にリトグラフの紙として今立の中にもぼこぼこと出ていく。そんなものは何百年の歴史の中の日本の和紙として出てくるもんではない。要求によって、プリント、アートという関係の紙が出てくるんです。日本で出てきた以上、和紙と言えないこともないと思う。リーさんはそれを取り上げていくんやけど、どうしても福井の紙は使いにくいと。石版には使えない。それで彼は東洋の紙を非常に高く評価しながら、自分自身はMO紙を使わない、日本の紙を使わない、韓国の紙を使わない。ドイツとかイタリアの紙を使うんですよ。それは何かって言うと、パルプとコットンですね。木綿。布団綿。それを徹底的に微分化してほこりのように浮いている紙と、パルプと、その他。我々の知らないものを混ぜて重量化して厚みをつけ、プリントという圧をかけても紙がちぎれない、伸び縮みがしにくいという紙をつくっていくんです。今僕は紙業界の話をする必要もないんです。だけど今立の紙の中では実験展をやり紙展をやる以上、それを無視して通るわけにはいかない。13回で結局やめるのは、素材としての紙というものを重要視していこう、僕の中では。紙展という言葉の中から出たいのはそういうこともあったんです。押し出されるとかじゃなくて、もっと精神的な、紙というものの、心の中に刻んでいく行い、日本で生まれるものは和紙だし。西洋で言うペーパーっていうものとはちょっと違うんです。だけどちょっと似たところが出てきているのは事実です。基本的には水に浮かしたものを中心に和紙。すくい上げて水が落ちるのを待っているという溜め漉きというのも、今立にある以上は和紙として知っておかなあかんし。話すっていうものが出てきたら受けて立たなあかんし。大事な一つの要素なんです、紙としては。一部であっても。大事にしていかなあかん。これからは4代目(岩野平三郎)がオランダやベルギーに、100万も200万も紙を持って行って、その中で手漉き和紙が使われていく以上、昔はコットンなんか入れたプリンターとしての紙が出てくけど、今は本当に手漉き和紙が出ていく時代に変わっていくんかなと思ってます。この辺りが非常に大事なことやと思うけどね。

永宮:パルプをやめて、楮を貼りつけていくという……

八田:ああ、僕の。

永宮:はい、これは紙になる状態の前のものですか。

八田:そうだね、紙になる状態の前というより、言葉としては紙の原料と言ってほしいんです。その場でばーっと叩いて、水張って、ドボンとやればもう紙になるんです。

永宮:楮の繊維を画面に貼りつけていく。

八田:楮そのものを。楮の繊維を…… うーん、どっちでもいいです。

鷲田:それが始まったのが1995年頃ですか。

永宮:丹南アートが始まってる時期ですね。

八田:やっと俺がもっと自由に、闊達に動けるかなあというのが、丹南の始まり。審査員と戦う中で、丹南アートっていう言葉の中で出てくるのね。全国公募で何十点も何百点も出てくる中で、3分の1から半分以上ドローイングが入ってくるんですよ。審査員たちは「良質なものは落とすな」と。谷(新)さんともよく口げんかをするのは、ドローイングはやめてほしいと。いや、良質なものは取っていこうと。

永宮:丹南アートフェスティバルの目指している公募展としての基準と言うか……

八田:中身ですね。

永宮:審査員と、運営する地元の……

八田:企画側と審査する人間との関係でやっぱりね。良質なものを取っていこうという気持ちはよく分かりますよ。だけどその中に、伝統という名のもとに、古めかしい垢がいっぱい詰まっているということも事実なんです。どこで谷さんが折れてしまうかっていうと、そういう作品を取りたくないというのじゃなくて、別のことで谷さんは丹南から降りちゃうんですよ。韓国の5、60人か、30人かな、丹南と別にね、日韓交流展というのをやったんですよ。その中で韓国の作家たちが谷さんの講演会に、紙のつぶてを投げたと。足でドンドコドンドコやって、やめろーって。それで谷さん怒って。「あんな連中つくんなら俺は来ないぞ」って。いうことで、谷さんがこの土地を蹴っていったの。谷さんも「今話し中だ、最後まで聞け」って言っていくべきだったんだろうと思う。そうしたら韓国人たちも、うん、やりすぎたかなって反省したと思うんです。僕らも韓国の連中はそれで帰ってしまうんかと思ったら、作品は送れ、送り賃はお前らで払っておけって。韓国に帰ったらちゃんと払うからって。でも実際には払ってくれません。「なら、展覧会に呼んだんだから送り返す。立て替えろ」って言うんで、「着いたらじゃあ」って。それで向こうの展覧会も招待してくれた。それも韓国の招待の始まりで嫌々。谷さんの講演が気に入らん。丹南とは関係ないんですよ、日韓交流展という特別な交流展を組んだんですよ。
それともう一つはわたなべ(ひろこ)さんという人と今立紙展でケンカを始めるんです。その出てきた紙の作品が実は絹だったの。絹に染めたかなんかの紙が、送り返したとき紛失したんですよ。日本通運がその仕事を担当してたから謝りに30万持って行った時に向こうの大学の先生(注:わたなべひろこは多摩美術大学教授)のテキスタイルが、「こんなもん突き返せ、なんじゃ30万くらいで。原反だけでも4、50万する」って返してきたから。日通さんもこれから仕事手を引かせてもらうって。それで日本通運潰れたんですからね、武生は。それでわたなべさんに何やってんやと。あんた学校の大先生ともあろうもんが何ぼけたことやってんやと。なんで絹を紙展に出したの。1回本人に聞いてみい。これはいくらで売るか。無くなった時に保証として値段を書けっていう欄があると。本人に聞いてくれって言った。本人はそれを見たの。30万持っていかしたのに。多摩美の染めの主任さんが蹴っ飛ばしてそんなんだめだーって。何を言ってるんやって大ゲンカして。ついにそこで、そうか、わかったと。それで21世紀の画廊を11年間タダで貸してくれたんですよ、新橋の。

永宮:ギャラリースペース21。1992年から福井の和紙を使った展覧会が始まったんですね。もともとは今立紙展でやり始めたのがケンカをやって初めてお互いに理解し合う頂点に立って、あんな新橋のいい画廊をタダで。11年間使う羽目になったというか、幸運になったというか。実際の構造の中で生まれたことでしょうね。

鷲田:基本的な質問ですが、丹南アートフェスティバルは公募展だったわけですよね。

永宮:公募展として始まったわけですね。

鷲田:出てきた作品を、審査員が審査するという形だったんですよね。その審査員は毎回1人だったんですか。

八田:2人です、3人の時もあったね。

鷲田:谷新さんは審査員を継続されたんですか。

八田:それがね、日韓交流展の中で韓国人とケンカしてこんなもんと付き合うんなら俺はもう来ん、と自分が言い張ったもんだから呼ぶわけにもいかんし、来んちゅうもんしょうがないなあと。

鷲田:それまではされていた。

八田:日韓合流展ちゅうのは丹南と別なんですけどなぜか丹南の中に韓国の作家いるもんだから。こんなもんと付き合うなら俺は来んと言うから。

鷲田:1995年の日韓合流展のことをおっしゃっているのでしょうか。

八田:そうですね。

鷲田:それまでは谷さんは来られていたけれど、その後は来られなくなって。あとは建畠晢さん。

永宮:建畠さんは初回からずっとですね。建畠さんと谷さんとあともう1人。土岡秀一さん。

八田:土岡さんとか金澤くんが時折出たり入ったり。

永宮:それで紙展を出て、武生と言うか、この土地で現代美術をやるとしたらどういう形で出来るかっていうのを模索したのがこの5つの素材ということですか。

鷲田:丹南アートフェスティバルのテーマとして、5つの素材を設定したということですね。

八田:丹南アートの創立宣言っていうのはあったなあ、1992年。

永宮:先ほど言っていた丹生郡と南越地区を指す言葉である「丹南」、そこの産業。

八田:いや産業なんか関係ないです。あのドームで展覧会をしたいから名前を取っただけで。中身はどういう具合にいくかって言うと、できるだけ素材、そこに出てくる素材っていうのは鉄・土・木・布・紙かな。これを素材に使ったものを目指していこう。掛け声ですよ。初回からそれは言ってた。だけど審査員はもっと良質なドローイングをとっていったんです。面白くないなあって。だんだんそれが無くなっていって。特に「素材と表現」という、後で福井市美術館で精選した展覧会やると、お互いにぐーっと影響が出てきて、ドローイングは落ちていく。どの辺で公募展やめてもたんやっけな。

永宮:1997年ぐらいですか。

鷲田:それまでが公募展ですか。

永宮:もともと「丹南」という呼び名はあったんですね。その地域の素材で現代美術をやろうと言うのがこの企画の……

八田:そう言われれば、「宣言」いっぺん見ておかなあかんね。「丹南」て名前はなぜ付けたのか、見ておかなあかんね。「南条地方」、「南越地方」って言葉もあるの。南越地方ってこのくらいです。南条、越前ってこの辺のことを言うの。ところが丹南はもうちょっと西を囲んで。武生中学校の歌の中に杣山城が出てくるんですよ、歌にね。武生中学校っていうのはこの越前の才のあるものを学校に集めたの。それ見ていくとね、丹生郡の南越地方入れると、丹南という言葉になる。その後サンドームにもつけられたと。そやけど年数でいうとそれより前から噂があって基礎工事はあったんですよ。

永宮:紙だけでなく複数の素材を用いた現代美術に可能性というか、そういうのにかけて始まった公募展ということでよろしいんでしょうか。

八田:そうですね、結局紙だけになると非常に制約が大きいし、老いてきた連中から言うと「何やってんや」っていうことがなんとなく聞こえるし。だから整理して、その中で素材というものをはっきりしていこうと。例えば、鉄、土ってなぜ入れたかっていうと、鉄は越前打刃物ですよ。土は越前焼。布っていうのは石川県から福井の辺りは絹が、織物が盛んで。そんな状況を含めて布ですよ。木はね、木を取ったら住めない。木があって住宅が出来て、たんすが出来て。日本古来のものですよ。

鷲田:丹南アートフェスティバルは、かなり長く続いていますけれど、その間の変化について教えてください。

八田:原因の一つは台風でテントがふっとばされて、相当な赤字を被ってしまったので、ちょっとそこを制約していくためにドローイングを排除していくと。ドローイングだと100号でも1000号でも描いてくるから。もっと凝縮した素材を使っていくと使いやすいし扱いやすいというところで、絞っていく。それなんかは24年間の歩みの中で絞り上げた、片方で「素材と表現」という福井の展覧会を抱えながら、ぎゅっと絞って、それを丹南に跳ね返していくというのもあるんです。

鷲田:テントが飛んだというのはいつのことですか。

八田:商工会議所でテントをつくって、物産館みたいなものをつくってた時代があるんです。目的は菊人形ですけど、それを支えてものを売って、収入を上げていくという武生市の方向があるんです。それを僕たちが1か月前に貸してもらおうということで使ったんですけど台風で。2回目か3回目ですよ。

永宮:1993年から丹南アートフェスティバルの公募で通った作品の発表場所として中央公園というのがあるんですけど。普段は菊人形という、年に1回の大きなイベントの時に使われる大きなテントを立てたスペースがあるんですけど、そこを展示会場として使っていたんですね。

鷲田:1995年くらいまで。

永宮:で、あるとき台風で飛ばされちゃったということなんですかね。

鷲田:それ以降は作品をちょっと絞って。

八田:絞ったわけではないんですけど、会場を変えたもんですから。絞らざるを得ない。大きなドローイングなんかは…… 素材主義で、絞ろう。ドローイングがだめっていうんじゃなくて、目標を立ててそれに集中していこう。

永宮:丹南アートフェスティバルが目指す方針ですかね。

八田:そうやね、方向やね。方向の中で素材を重視していこう、何を世に表現していくかをもっと絞っていこうと。初回から頭にあったんですけど、審査員は数が少ないからまあ往々にやってたんだけど、だんだん数が多くなると素材で絞っていこうと。

永宮:コンペとして数が多くなってきた時に、素材で絞っていこうと厳選していくかっていうことで、審査員と運営側との協議で育まれてきた。あとそのテントのことと、公募展ですから費用が結構。賞金とかですね。色々かさんで。

八田:賞金がね、300万円なんですよ。初めはね、1,000万近くの。

永宮:そういうことで公募展はやめて。これまで培ってきたその丹南とか全国、あるいは世界の作家と共に継続してきたのが……

八田:今日。今の状態ですね。

永宮:継続している礎となったというか。

鷲田:テントを借りていたのが中央公園で、その後は。

永宮:市民ホールですね。武生の。

八田:市民ホールというこじんまりしたところに入っちゃんたんですよ。

鷲田:わかりました。会場が1995年まで中央公園で1996年から市民ホールになっているので。

永宮:その辺りですね。

八田:市民ホールはそんなに古くはないんですよ。初めは学習センターがあって、横にホールがくっついてたの。あんなもん50年も経つ前に叩き壊すって言うから。反対運動やろうかなと思うのに、みんなはさよならなんとかかんとかって。面白くないとこ来てるなあ。僕だけでも出てしまおうかなって。

永宮:市民ホールに移ってからも2回か3回は公募展をやってると思うんですね。で、やはり資金難とか色々あって、作家の繋がり。福井からの発信という。

八田:何年から公募展やめたとなってますか。

永宮:1997年とか1998年。

八田:その辺やね。その辺まで金つくってきたんですよ、一生懸命。視力もすり減ったけど身体の一部どっかないんじゃないってくらい。

鷲田:それ以降は公募はなくなって、作品を選ぶ。

八田:いや選ぶっていうか勝手に来てるんですよ、どんどこどんどこ。減ったり増えたり。

永宮:招待出品という形で……

八田:いや招待ではないんですよ。みんな寄って集まって。

永宮:作家に呼びかけて。

島川:そうですね、基本的には日本人の作家は会費制で、海外の作家は招待出品という形は……

八田:言葉としてはね、「招待出品」というのは。会費取るんだから。「招待」という言葉は僕は嫌ってた。「賞金はないけど展覧会やろうじゃないか」っていう意気込みで。それが少なかったのに70くらいに。4、50くらいがいいとこだと思うんですけど、ぶっ壊されたから。いっぺんやめるかなあと思って。というのはひとつには市の行政の出費というのは180万位あるんですけど、一切飲み食いに使えないんです。僕はやっぱり飲み食いに使って、元気をつけさせないと行動はできないと。今立紙展を見ていてどんどん新陳代謝していくのに働いてきたもの牛乳一杯もやってくれないんですよ。だから僕が「出せ」というと、「どっから出るんや」というから。クソ、面白くないなあと。福井新聞なんかがなんとか文化賞というのをくれて、「八田はん嘆くな、これで一杯飲め」って、100万くれたのに。

鷲田:八田先生の作家としての制作の話に戻りますけれども、1995年くらいから紙の原料を貼っていく作品がありますが、そういった作品を丹南アートフェスティバルにも出していったんですか。

八田:公募の時は出していません。

永宮:公募の時は出していなくて。特別展。

八田:特別展というのはしていないなあ。

鷲田:作家に呼びかけて、参加費を払って参加してもらうという時に、ご自身も作家として《流れ》の作品を。

八田:「どうやって確認するの」ってもう言われなくなったんですよ。アイディアをどうやってつくるんだと。アイディアなんてあるもんか。素材が歌ってくれるんだ、一緒に歌っていくんだと、大胆にもそういうことを言って。今日に至っているんですけど。

永宮:それが丹南アート始まって3、4年経った頃の1996年とか1997年辺りから、紙を漉く前の、繊維を砕いた楮ではなくて楮の繊維がそのまま残っている状態というか、皮ですよね。

八田:もともと紙に使っていくんですよっていうものは使っていない。ちょっと白い物使った時代があるかもしれない。韓国の人たちこんなことしたらかわいそうじゃないかっていうんで、よし、そのまま使おうって。(楮の)鬼皮落ちないように焚いてくれっていうことでいよいよ自分の発言力をしっかりと素材にぶちまけて。柔らかくちぎれないように。ちぎれてもいいから鬼皮落とさないようにということになっていくんです。

鷲田:2008年の作品ではすでに鬼皮を使った。

永宮:あと1997年ですね。

八田:まさに2016年ですか。岐路に立っているんです。楮を始末してくれないの。みんな寒いの嫌だから。まだ夢ですよ。1枚15万円の紙に堀尾(貞治)さんが戦ってるなら俺もやってみようかなという状態です。どうやって運営するかはまだまだ……

永宮:模索中ですね。今、堀尾さんという言葉が出ましたけど、丹南アートフェスティバルとかそうした活動を通じて他県の作家との交流もたくさんあったと思うんですけれども。堀尾さんとか具体美術協会の作家との繋がりのエピソードとか、もしありましたら教えてください。

八田:エピソードなんか何にもないんで。公募展、丹南アートフェスティバルの中で募集してきて残ったのが現在ですよ。堀尾さんに関しては今立の若い連中が展覧会をやってるとき彼はやって来てはちょっかいをかけるというか、「おい、もっと展覧会やれや、遊びにこいや」って言うんで、行く。すると神戸の連中…… 自動車の展示場、明日からここでやれ、この通路も使えるぞ。国際見本市の廊下でもこの場所使える、使えって。10日も20日もやって。ビール瓶持ってって並べたりしても平気でやってるっていう展覧会が始まるんですよ。

永宮:どこでですか。

八田:堀尾さん、神戸。神戸は何べんも行ったよな。

永宮:それは今立紙展の頃ですか。

八田:いや、紙展を外れて。堀尾さんは今立に来てたけど、丹南にももちろん来てたけど。

島川:「あばれん望」と堀尾さんもまた関係があったりとか。

八田:「あばれん望」という若い衆と堀尾さんの関係がくっつくんですよ。それが半トンの鉄板引っくり返して平成大紙の上に倒した、ドドーン、なんやあれ。NHKがつくったんやな、番組を。30分の。それはタイトルがね、あばれん望と。

島川:おお、鉄板のね。有名な。

永宮:そもそも堀尾さんが今立に来るきっかけになったのは。どういうきっかけですか。

八田:いや、それは堀尾さんに聞いてきてくれ。

永宮:わかりました(笑)

八田:やっぱり丹南にひょこひょこ顔を出して、紙展にも顔出してという。やっぱりあばれん望や、あばれん望……

島川:鉄板ですよ。鉄板の時に八田先生が。その前にアールギャラリーでお付き合いがあったんで。

八田:そうやそうや。

島川:今立の大きな紙に……

八田:今立にね、日本で初めてでっかい紙をつくるっていうんで、今立紙祭っていうのを町長がやったんですよ。実際は会場はなんか体育館やったんですけど。美術館になることを喜んでたらとんでもない嘘つきで。そん時の紙が、クソむかついて堀尾さんの所行かなんだで。「おいあれ、鉄板をやろう」と言ったら佐々木哲夫が「おい、紙の余ったのあるぞ」と言って世界一いい手漉き和紙を持ってきたんやけど、紙業界たちは、あんなもん和紙でない、紙でない。なんやって言ったら、「がみ」やって。そんなもんどうでもいい、使う側は平気で使ったのは「あばれん望とその仲間たち」というテレビ番組ができたの。どういうのかって言うとね、墨をバケツ一杯入れて子袋に分けてダーッと紙の上並べて置いただけ。それを半トンの鉄板をバシャ―と倒したら、NHKのテレビが言うには鉄板が倒れた時には墨汁のものはなんも潰れてないんですよ。鉄板がバンカバンカ(と音を立てて)数秒間浮いてて。それから後にブシャーッと出てって、紙の上に墨が放出される。鉄板はまたつまんで、ヒューとのける。と、その後にとんでもない絵が出来たというんです。それを全国版で放送したんやな。

島川:はい、最初は地方で。それが全国にもっぺん再放送になって。

永宮:丹南アートフェスティバルが始まってからも、堀尾さんはオープニングパフォーマンスをする関係ではあるんですよね。

島川:そうです。

永宮:それもその頃からの付き合いというか。

八田:辻(喜代治)さんがね、「堀尾貞治とパフォーマンス」というこんな半ピラの紙をばらまいたんです。見たら、砂漠へ水筒かついで、トコトコトコトコと。後姿が出てきたりね。ほんだけですよ。砂丘を歩いていくだけ。なんやこれ。その時は『美術手帖』の中で、モーニングっていうことで、歯を磨いて出てってしまう。しばらくすると顔を洗っていく。それだけや。なんやなあ、短編映画が出来てたがね。『美術手帖』じゃなくて、岩波なんかの短編に出てくるんかな。いわゆるパフォーマンスというそれはニューヨークで起きたパフォーマンスが日本に入ってきたんですよ。堀尾さんも面白いっていうんでやりだしたっていうのが、堀尾さん自身が具体の中でつまはじきというか、あまり寛大に受け入れられないの。なんで、面白くないから彼は勝手に動き出していたの。今となれば堀尾さんの方が。具体の連中老化してったし、死んだ連中も多くなったし。今や堀尾さんが具体の代表みたいになってしまってるけど、実際は堀尾さんは具体でもなんでもないんだよ。堀尾貞治1人舞台ですよ。

永宮:その他、丹南の繋がりで出てきた関係で、群馬に行かれたり、高知県に行かれたりされていますけども。

八田:それは谷(新)さんが高知の紙展にも関わってきたし。「八田先生一緒に行きましょうよ」って、東京の予備校の女たちがいっぱい来たんやなあ。それが呼び込んだのがここへたまたま角(喜代則)を中心にして1回か2回、野外展のメンバーが絡んだんやな。それで高知に2回、3回と出かけて行くという。そこで、なぜ、どこでって聞かれてもわからないの。紙展がもたらす効果っていうのは、風が吹いて木の花粉が飛ぶように、毒気もいいこともみんな散らしていく。福井の中で。匂いも香りも、ごみも花粉も、くしゃみもみんな混ざって動いていくんです。春が来たってなもんで。

鷲田:群馬はこのノイエス朝日のやつですか。1998年。

永宮:そうですね。これは吉田富久一さんという、丹南アートフェスティバルに出品されてきた作家さんが群馬の前衛美術運動を研究されたりしてまして。

八田:なかなかいい仕事してたのにね。

永宮:福井の動きも関心を持って調べられたりとか。

八田:彼の動きもなかなか重要なんですよ。

鷲田:「場所群馬」という活動をされていた……

永宮:NOMOグループとも関係が。

島川:八田先生の言ってるのは多分アートハウスやね。

永宮:そこにも招待されたりして。

八田:そう、吉田富久一さんが本をつくった時の金澤(毅)さんの講演会に。誰もえんから(いないから)1番前で中島(清)と、「おーい誰もえんな」って聞いてたら、後から行ったらいっぱいやった。

島川:吉田さんも丹南アートで出品してきて。

永宮:そうですね、それをきっかけに始まった。

八田:それがイスラエルの招待の展覧会2回ほどあって、1回目はレゲブ(・レヴィヴァ)だし、一つはドロン(・エリア)ちゃんらのグループがイスラエルに招待されてるよね。

鷲田:公募展を通じて出来てきた繋がりですね。金沢と繋がりはあったんですか。

永宮:それはあの、日本海造形会議の。

八田:日本海造形から引っ張り込んだんですけども、あんまり。いっぺんはちゃんとしたんですけど。金沢の人っていうのはあんまりなじみはなかったですね。残ったのは学長になった久世(建二)先生と、藤井肇さんと、もう1人富山にもいたんですけど、「金沢の連中気に入らん」って。「そんなこと言わんと」って言ったんやけど。彼は1人でロスで個展をやって。何回かやって死んでしまった。岩城信義という石の作家で。石屋さんだったんだろうね。あの人も自分で自分を削るような生き方をして、結局死んでしまったけど。

永宮:イスラエルの話が出ましたけど、海外で言えば韓国の作家との交流が多かったと。

八田:韓国の交流は1番多いね。やっぱり近いし、紙という素材がお互いに、乗り越えられない枠の中、紙という土壌にいるからね。

永宮:韓国とのつながりもやはり丹南アートフェスティバルの中で出てきたものですか。

八田:そうですよ、その中から出てきたものですよ。第1回の招待作家の中にキム・キョンハンという若いのが出てくるし、ワン・シンペイという中国の作家とウィ・モンマン・カンタシャワナってタイの女性と3人が招待になって。第2回やね。

島川:アジアの3人の作家っていう。

八田:谷さんがね、誰かに頼まれて出てきた3人ですよ。ワン・シンペイも1回来たんやけど、あんまりもうちょっと。それから、ウィ・モンマン・カンタシャワナなんかも、タイで言うと優等生の優等生だったもんで。帰ったら東大の先生みたいな所に座っててもうこっち来てない。

永宮:その中でやはり、海外の韓国の作家がこの丹南地域のやってるアートに関心を持つようになって……

八田:まあ一つにはね、キム・キョンハンていうのは非常に若い人に人気があってね。彼はソウルにいたのにプサンに行って、結婚したこともあって。ソウルの若い衆が入ってきたんですよ。

永宮:キム・キョンハンさんらの繋がりもあって、韓国の人たちが福井の丹南のことに関心を持つようになっていったと。それから交流が始まっていったと。

八田:交流は始まるけど、キム・キョンハンだけが来るっていうか。どうしても。我々は親類みたいになってくけど。他のはあまり、入ってくれないというか。結局キムさんがプサンを去ってしまって、いるとこなくなってしまうんですよ。それでニューヨークに住むんです。ところがニューヨークでその日が食えないのわかって。兵野(豊子)さんにいっぺん誰か金持ってニューヨーク行かんかなって言ったら、あいつは行ってくれたの。75万か、100万はどうにもできなかったの。キムさん、どうにかやってくから心配しないでとなって、1年も経たないうちに八田豊、ニューヨークでやるって言いだして。ちょっと待て。僕はやっぱりそれは受けてはならんと思う。やっと彼は食えるようになったからって言ってね、そんな。大げさにやると失敗するんだもん。気持ちだけを買っておかなきゃいけないのに、兵野さんら、「わーよかったねえ」ってすぐ手を上げるのね。まだまだニューヨークに10年も20年もいてもちゃんとできないのに、キムさんにそんな。というのもね、韓国のファンドがね、キムさんの展覧会をさせようとしたんですね。それで、キムさんは嫌って。「僕の前にしたいことがある」って。出てきたのが八田豊展だったんです。

永宮:先ほどの日韓合流展もそうですけれども、韓国の作家が大勢出品されていますけれども。

八田:2、30人来たんやな。

永宮:それが後の、通常の展覧会にも若い作家を中心に来るようになったんですね。

八田:若い作家来るようになったけど、キムさんは、あの若い衆、呼んじゃいけないと言う。でもキムさん、そんなこと言うなよ。実際には若いグループ。子連れで来るんだからね。だからホテルには泊められないので、武生市の研究施設があるんですよ。非常に安くて1,000円か2,000円で泊まれる。そこへ韓国の若い衆を入れようと。

永宮:やはりその、福井のおもてなしに皆さん満足されて。

八田:そうそう。

永宮:やはりその素材を使った作品が多く出品される展覧会なわけですけど、韓国の作家の中でもやはりそういう、向こうでは韓紙と言うのかもしれませんけども、そういう素材を使った作家さんが結構多くいらっしゃると言うことなんですかね。

八田:いるいる。

永宮:そういった国際交流の中で、韓国に行って、八田先生が自分の作品を、白い和紙を使った作品を見せて白すぎると言われて。それが和紙の作品が変化していくきっかけになったんですか。

八田:いやなんも。継続と言うか。僕は変化と言う言葉はよくわからないけど、やっていくうちに並べてみると変化はあると思う。LADS(ギャラリー)さんら「よう10年も一緒なことやってきたわ」と言う。そんならなんで展覧会やるんやって文句言いたいところやけど。それはおしなべて言う言葉であって、やっぱりよく見ると違っていたから展覧会やらせてくれているんだと思うんですよ。

永宮:この鬼皮つきの荒々しい表情をしている楮の作品……

八田:僕自身は荒々しいとは思わないけどね。まあ遠くで見るとムシロか畳みたいなもんだなあと。

永宮:やっぱり触っていく感じは…… どういう感じがするんですか。

八田:あなたが触ってごらん。それなりにもの言ってますよ。畳とかだと何の抵抗もないけど、あれやと手が切れる時もあるし。おお、生きてるなあって。

永宮:視覚的に見ると、素材の生々しさとか、荒々しい印象を受けるんですけども、実際に制作している現場というかその……

八田:もっと柔らかいんですよ。もっと濡れてっていうか、生乾きになってもっと優しいもんですよ。乾いてしまうとね、なんかいやらしいとげとげしいのは、僕の気持ちとしては面白くない。

永宮:じゃあ濡れた状態で貼りつけていると。

八田:そうじゃないけど、まるで濡れているように。それを復活するために、出来あがったものにワニスを塗って、もうちょっと柔らかい雰囲気を出していかなあかんかなと思うんだけど、それをちゃんと塗ってくれる人がいない。額縁で頼んでも。例えば人の前にさらしてどう変わるかっていうんで、芦原温泉の一級旅館の玄関へ、2点寄付して並べて置くんやけど、秀一さんが「何であんなもんやるんや」と。「いや、僕の気持ちはね、現代美術のある町、芦原っていうくらいにしたいんや」って言うとみんな笑うけどね。そんなことはないですよ。

永宮:作品寄贈されたんですか。

八田:うん、福井新聞に載ったよ。何で寄付しただけでそんなもん載せてくれるんやって。灰屋って一級旅館よ。

鷲田:八田先生が作品を韓国で展示された時に、使われている和紙が白すぎると言われたことがあったんですか。

八田:はい。

鷲田:それはいつ頃。

八田:第1回の個展ですから2000年より前かな。

永宮:1997年のソウル市チョンノ画廊。

八田:それです。

鷲田:その時出品された作品はこの鬼皮の作品だったんですか。

島川:それじゃないですね。

鷲田:1995年の頃の作品はもっと白かった。

八田:ああ、鬼皮ついてないですね。そうそう、白すぎるんですね。だから鬼皮を取るな、鬼皮を付けていこうということで。

鷲田:それがきっかけになって、それから鬼皮をつけたままにしようと。

永宮:今もう1回アクリルからの流れを見ていますけども。《流れ》というタイトルはずっと、素材が変わってもこのタイトルが。

八田:《流れ》と言う素材はね、目が見えなくなってね、布の上、キャンバスの上に絵具を流すっていう時に、はあ、流れなんだなあ俺の。人生の流れの中にいるんだなあと。だから、いつの間にか流れという題を大事にしていこうと。一種の僕の心得なんですよ。作品と何も関係ないんです。まだまだそういう気持ち。心の支えが流れだという。結局は心の通いですよ。だから流れなんです。流れの中にいるんだなあ。

永宮:なるほど。

八田:今度の展覧会で八田豊のコレクション展とやるのは実は古九谷やそんなもんはどうでもいいんで。韓国の作家の何人かの大きい作品をベタベタ貼って。もしあなたたちの作ってくれる映像か言葉が流されるとしたら、それなんですよ。私の気持ちが流れていく。それが丹南の中に初々しくも生きていたらうれしいということです。感傷的になったなあ。

永宮:ありがとうございます。

鷲田:長くお話聞かせて頂いたのでこれで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。