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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

磯崎新 オーラル・ヒストリー 第4回

2012年8月17日

軽井沢アスカ山荘(ASKA山荘)にて

インタヴュアー:辻泰岳、中森康文

書き起こし:成澤みずき

公開日:2017年10月1日

インタビュー風景の写真

中森:昨日は68年、69年頃のお話をお聞きしましたので、今日はその後のお話をお願いしたいと思います。

辻:それでは1971年ごろから始まる《群馬県立近代美術館》(1974年)のお話からうかがいます。この美術館の設計をご依頼された井上房一郎(1898-1993)や、他に関わった建築家やアーティストとの関係などをお伺いしようと思います。中平卓馬(1938-)、李禹煥(1936-)との対談などもありますが、この美術館ができた後にさまざまな方から反響があったかと思います(注:磯崎新、中平卓馬、李禹煥「群馬県立近代美術館について」『近代建築』29巻1号、1975年1月)。そういったお話からお願いいたします。

磯崎:60年代の終わり頃に、僕ははじめていろいろ海外とコンタクトを取ることができるようになりました。それで海外の面白そうな人間がどういう動き方をしているのかを見ていると、建築家で注目すべき人間が一国の首都に集まっているのはパリと東京だけで。ドイツもアメリカも各都市に分散しているんですね。とりわけドイツはバラバラになっていると思われるけども、イタリアだってミラノ、ローマ、それからフィレンツェ、ベニス、トリノというくらいに全部、各都市で動いていると。まあニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、ヒューストンでも建築家はみんなわれている、アメリカでも。なんで日本だけ東京にいなくちゃいけないのか考えて。それでたまたま福岡相互銀行の本店をやる(設計する)ことになったんで、それならアトリエを福岡に移そう、それでまあ(都市の人口が)百万を越えれば建築事務所が(経営していけるのではないか)、今だったら簡単に情報交換できるわけなんだけど、百万(人の規模の)都市だったら一応なんとかなるんじゃないかということで福岡、北九州で仕事をやろうっていうんで(1968年に)移ったんですよ。そうこうしているうちに万博(日本万国博覧会(大阪万博)、1970年3月14日~9月13日)も関わっていたから、東京にも連絡事務所みたいなかたちで置いてあって。メインは福岡相互銀行の仕事で福岡にいて、大阪の現場で3つの都市を行き来していると。これはニューヨーク、ボストン、イェールを見て、大学がらみでシアトルでも動いているという、そういう支社ですね。これがまあ(海外の)連中も普通だし、あり得るだろうと思ってやっていたんですね。そうすると70年の春に大阪(万博)が区切りがついて、秋までずっと続いたわけだけど、70年の秋で大阪万博の仕事は切れた(一段楽した)んですね。それでちょうどその頃に、僕は福岡にもっぱら寄っているかと思っていたら井上さんが。井上房一郎という人はもともと高崎で、観音様が遠くに見える高崎観音(高崎白衣大観音)という、これはコンクリートで井上工業っていう先代がつくったの。この井上工業の子どもがパリに1920年代に遊学していたと。そうして十年近くいたから「帰ってこい」と、「家を継げ」っていうふうに言われて、帰って来た途端にブルーノ・タウト(Bruno Taut, 1880-1938)が亡命をしてきたと。それで最初の半年くらいはいろいろ面倒みたりする人もいるけれど、半年くらい経つとみんな持て余してくるんですよ。(タウトは)職無しで、とりあえずトランク一個で逃げてきたわけだから、何も持っていないわけですよ。どうするかって。それで彼が頼った上野さんという人がいたんですけど(注:上野伊三郎、1892–1972)。この上野さんという人は、奥さんがウィーンのロース(Adolf Loos, 1870-1933)、ホフマン(Josef Hoffmann, 1870-1956)やら、装飾やら家具をやっていた連中がいる、それ(ウィーン工房)の人なんだよ(注:上野リチ、Felice Ueno-Rix, 1893–1967)。それでこの人と上野さんが結婚して京都にいたの。まあ国際的なコネクションというのはある程度あって、それで(日本インターナショナル建築会が)タウトに招待状を出しちゃったというのが(招聘と亡命の)手がかりなわけです。それでタウトは着の身着のままで、モスクワ経由でウラジオストックから敦賀に着いたと。それで上野さんの当時のコネでやっていたんですけど、単純に何日かの滞在はいいけれど、それ以上は無いわけですよ。久米事務所の久米権九郎(1895-1965)なんて人は世話をしていたんだけれど、もう限界だと。それで彼(タウト)は大学の籍さえあればいいからと。アメリカにグロピウス(Walter Adolph Georg Gropius, 1883-1969)なんかは行っていると。それで「俺も行きたい」って言ったけれど、アメリカはどこもタウトを引っ張ってくれないわけですよ。それでしょうがないから東大はどうですかと。それで岸田日出刀(1899-1966)は、集中講義ぐらいはちょっとやってもらってもいいけど、大学というところにポジションを与えるということは制度上、無理だって。それでレクチャーだけやっているわけですよ、東大で。それでそうこうしているうちに、しょうがないのでジャーナリスティックに桂離宮を論じるとか何とかということをやりはじめたわけなんだけど、定職が無いわけですよ。それでいる場所も無いわけですよ。それで井上工業の御曹司になった房一郎がうろうろしているのを捕まえて「お前が面倒みろ」って押し付けたわけですよ。彼はどうしても、だって自分の子どもですから、会社の親父の信用もあるわけですよ。お前遊んでいるだけだっていう、こういう人ですから。しょうがないんで(少林山)達磨寺というところに、タウトが住むようになった(注:少林山の洗心亭)。六畳と四畳半か、八畳と六畳か、それに竈のついた土間のキッチンとそれだけの部屋ですよ。だからそこらへんの小屋と同じだった。それがたまたまあるから、じゃあそこにでも居てもらうかと。それで本堂が片っぽにあって、本堂で飯はみんなで食っているんだから、その時にお呼びして食べましょう、差し上げましょうって。こういう居候のスタイルを組み立てたというのが井上さん。だからタウトはじゃあどうやって暮らせるかっていうときに、井上さんが県とわたり合って、県の研究所、工芸の研究所で地元産のクラフトを、こういうものを売り物にすると(注:タウトは群馬県工業試験場高崎分場の嘱託として勤務)。今で言うとミュージアム・ショップみたいなもので。これをつくってなんとか稼ごうということでやったというのが、タウトのいろんな物語に出て来るわけですね。それで銀座に小さな出店を建てて(注:雑貨店「ミラテス」)、そこでタウトにデザインさせた行灯であるとか、壷であるとか、お椀であるとか、飾り物をいろいろやらせたと。その陶芸の場所だとか、漆をどうするだとか、こういう日本のものを使わせて地元産の物品を作らせた。今の地方自治体と一緒ですよ。こういうのをやった、井上さんという人がいて。この井上さんという人はその時はまだ一人でうろうろしていて、そのうち公安部長をやっていた唐沢(唐沢俊樹、1891-1967)という、戦後になって代議士かなんかになったと思いますけどね、日本の公安の特攻の元締めみたいなものですよ。この人は趣味人で、墨絵なんかも集めることができる。井上房一郎さんもこの人から学びながら墨絵のコレクションを集めていて。この唐沢さんという人がそういう役なんだけど、通人のような人だったらしい。そしてタウトは墨絵の勉強のために、この唐沢さんのところへ行ったの。なぜなら唐沢さんの娘さんと結婚したから。こういう親戚関係。もともとタウトというのはモスクワに行って何もできなかったから。それで帰ってきたらヒトラーの(ナチス)政権が成立していて。そのパーティーに出た時に「お前ブラックリストに載ったよ」と囁かれて、タウトはその晩、家にも帰らずに夜汽車に乗ってスイスへ逃げたんですよ。そういうことから彼の亡命生活が始まるわけね。ですから一緒に来たのは奥さんじゃなくて、家族じゃなくて、エリカ(エリカ・ヴィティヒ)っていうセクレタリー(秘書)。それで結局、彼女はいろいろ口述筆記とかできる人だったんで、タウトは文章にするというのをやって。これでなんとか食いつないだというのが(タウトの)日本でのはじまりですね。その時にこの井上さんがなんかそういう具合に面倒をみていて。そしてタウトが日本を去ってから後に(井上は)レーモンド(Antonin Raymond, 1888-1976)とつきあいはじめたわけですよ。レーモンドは戦争前にいろいろあったけど、戦後に《リーダーズ・ダイジェスト》(1951年)なんかをやって(設計して)。これは前川さん(前川国男、1905-1986)がやってきた戦争中の木造のスタイルを戦後になって、レーモンドはレーモンド風の木造のスタイルをつくっていったんですよ。たしか吉村順三さん(1908-1997)は、レーモンドのところ(事務所)に戦争前にいたんじゃないかな。それでレーモンドがアメリカに帰った時に、彼も追っかけてアメリカにちょっと行っているんですね。そういうコネクションがあった。レーモンドが日本に戦後に戻ってきた時に、木造の建築物を設計するということが片っぽであったの。吉村さんはもう芸大(東京藝術大学)に戻っていたから、彼ら(吉村を含むレーモンド建築設計事務所で学んだ日本の建築家たち)は(レーモンドからすでに)独立して(独自の実践を)やっていたとなっているんですが(注:吉村順三は1945年に東京美術学校に着任)。レーモンドの戦後の木造(の建築物)というのは、なかなか僕はいいものだと思うんです、吉村さんなんかと違うところがあるんですよ。これはどういうところが違うかというと、レーモンドは磨き丸太とか、杉材を使うんです、ディテールが違う。軽井沢にあるけれど、木造の教会が(注:《聖パウロ教会》1935年)。これは今ではファッショナブルな結婚式場になっている。この木造のディテールをみればわかるように、アメリカの田舎の木造の建築物(バーン(小屋))のディテールなんですよ。(レーモンドは)戦後になって「和風」にみえるような素材を使っても、ディテールは舶来のものなんですね。例えば吉田五十八さん(1894-1974)とか、それから谷口吉郎さん(1904-1979)とか、村野さん(村野藤吾、1891-1984)。(吉田や谷口、村野の)木造(の建築物)は全部、日本の大工(宮大工あるいは数寄屋大工)がもっていた(技術で施行された)ディテール。レーモンドは系統が違うから、この違いが(木造のディテールの)微妙な表現になっていった。吉村順三さんはちょうど真ん中にいる。レーモンドの方法と、吉田や谷口、村野の方法の両方をやっている。また(吉村は)ロックフェラーなんかとつきあいはじめたというのがあるんですけど、これがドレクスラー(Arthur Drexler, 1925-1987)の演出みたいなものにつながるのですね(注:アーサー・ドレクスラーはニューヨーク近代美術館で戦後に「Japanese Exhibition House (Japanese House in the Garden)」展を企画し、吉村はそこで展示された松風荘を設計した)。こういういきさつがあって。この違いの中で、彼(井上)は自宅が今、哲学堂か何かになっているか忘れたけれど、高崎に自宅を作る時に、レーモンドの自宅兼アトリエ(《笄町の自邸・事務所》1951年)っていうのが東京にもまだある(現存している)のかな?無いのかな?もう無いか。それなの。それ(笄町の自邸・事務所)の写し(《旧井上房一郎邸》1952年)。(井上が)レーモンドに「やらせてくれ」って言って図面をもらってきて、それでそっくりっていうわけにはいかないから裏返して(居間や寝室、中庭の関係を反転させ)、残りは一緒ですよ。だから南側が北側になっているっていう。そういう感じのプラン(平面)で作ったのがあって。よくできていますよ、なかなか。だからもともとはレーモンドによる設計ということになっている。まあオリジナルはもうあるんだから、写しですよ。まあそういう関係で(井上は)レーモンドとつきあいはじめたと。そして高崎に音楽堂(注:《群馬音楽センター》1961年)というのを、公共建築なんだけど、建設業者が市長に働きかけて(レーモンドに)この設計をさせて、自分のところで落札して工事するっていう。まあこの日本的な(建設業の)スタイル。ことはそういういきさつで、レーモンドにコンサートホールをやらせた(設計させた)と。この次は美術館だというので、地元で美術館の建設運動というのをはじめたの。そして古いタイプの美術館っていうのは日本の地方自治体にはいちおういろいろあるんだけど「近代美術館」と名のつくものは(それまでは)鎌倉なんですよ。鎌倉の近代美術館、これはコンペで坂倉さん(坂倉準三、1901-1969)が通ったから坂倉さんが関わっているということにはなってはいるんですが、これをプロデュースしたのは土方定一(1904-1980)という、館長をやられていた方ですね。この土方定一という批評家は、これはなかなかの侍で。戦争中、中国の西国の墨絵を評価したり、いろいろ文学のサイドから頑張っていた人なんです。それでこの井上さんは土方定一と(群馬)県の美術館建設委員会みたいなものをつくったというのが次の段階。本人は業者として仕事をとらないといけないから、そうじゃないと出られない。それで土方さんを呼び出したわけだ。あとは河北倫明(1914-1995)とか、もう一人誰かいたかな、3、4人でその委員会を作って。それでその美術館をつくろうという運動をちょっとずつ高崎に誘致して、かたちになりはじめた。その時にじゃあ誰に建築(設計)を頼むかということになった時に、井上(房一郎)、土方(定一)、それに河北倫明、一人ずつが建築家を推薦するということをまずやったわけですよ。それで土方さんは大高正人さん(1923-2010)を推した。それから河北倫明は「彼は大高を推したんだから、私は槇文彦(1928-)を推す」。それで井上さんはいろいろ調査をやったわけ。調査のために東京画廊へ行って。それで斎藤義重さん(1904-2001)っていう画家がいるわけじゃない。彼がたまたま東京画廊にいて、ばったり会っていろいろ話している時に、どうも斎藤さんが「磯崎」って名前を言ってくれたという。僕は東京画廊のつきあいがいろいろとありましたから。

中森:南画廊ともありましたよね。

磯崎:その両方のつきあいの中で僕は出てきた人間。ところが残りの2人の美術批評家は建築(建築家業界)の人間を推しているわけです。まあそういうような組み合わせがあるわけだよ。それで土方さんは、井上さんが主役なんだから、井上さんが推した人に先にやらせようというので僕の仕事になったの。その前にこの3人でマスタープランみたいなものをつくったんですよ。これがちょうど僕が大阪万博の仕事が終わった時ぐらいの時期だったんです。それでほかの2人はメタボリ(メタボリズム)ですから。その3人でいちおうマスタープランみたいのをやって、僕が最初(に選ばれた)。その次が大高さん。大高さんはだから美術館の横に博物館をつくっているんです(大高正人《群馬県立歴史博物館》1980年)。そして槇さんは文学館をつくる。3人が同じところ(公園)で順にやる(設計する)と。ところが槇さんの分が回ってくる前に、そこの場所がいわば県の所有なんだけど、公園がもう満杯になっちゃって(この公園内に文学館は建設されなかった)(注:この後に槇は《京都国立近代美術館》を設計することになる)。槇さんがやったかどうかは覚えてないけど、前橋かどこかに文学館は移って、できたことはできたと思います。こういういきさつがあって僕は井上さんとのつきあいがあった。それで井上さんはその頃に哲学堂というものもつくりたいというのがあって。コンサートホールをやった後、美術館もいちおう竣工したと、それで次は哲学堂だというのが彼の考えだったんですよ。それでそのどうしようかっていうんでレーモンドに頼んで。レーモンドのおそらく最後のスケッチだと思うんですよ。それでちょっとした建物ができたんですが。スケッチがあったんだけど当然、お金、ファンド・レイジング(資金の調達)から、ゼロからやるわけですから。それでそのうちにレーモンドが亡くなっちゃったんですよ。それで僕が後を引き継いでくれって言われて、それで高崎に哲学堂のスケッチをちょっとだけ。この時に僕がやろうとしていたのは、水戸のタワー(注:《水戸芸術館》1990年)の骨組みを地上に組み立てる。あれがタワーになっているんだけど、その前にこういういろいろややこしくなっているというのが。今で言えばアルゴリズムの建築ですが、それをその時に提案したんだけど、まあもうかたちにも何もなる前にこの哲学堂も終わったと。まあプロジェクトは名前として残っているけれど、お金集めができないということで。まあこんないきさつですよ。井上さんはその後に東京でもいろいろバブルの頃の前ですけど、いろいろ不動産のことをやっていて。それでそのなかで劇場もつくりたいと。それで無名の(頃の)玉三郎(坂東玉三郎、1950-)の後援会長をやったり。僕は玉三郎をはじめて井上さんから紹介されたの。この人が最初のスポンサーだから。こういうこともやっていた人なんですよ。だから井上さんという人はヨーロッパのいろんな近代の関係を、美術として、建築として、日本に持ってきたと。高崎に持ってきたと同時に日本の歌舞伎や日本舞踊も自分で勉強していたの。そのスポンサー、パトロンになっていたの。それはどういう意味があるかというと(市川)団十郎のところとか、それから市川家とか、それからいくつかあるわけですよ名門が。そこから出てこないと歌舞伎役者にはなれないという。まあしきたりみたいなのがあるのに、この玉三郎は出自が悪いわけ。子どもの時に誰かの養子のような格好になっている。これは血が繋がっていないわけですね。繋がってなくて才能で出てきたといっても、後援会ができないわけですよ。それで彼がつくったという。こういう日本の中でものをどうやって組み立てていくかということがわかっている、地方にいたモダニズムの文化人という、こういう手の人。本人は特攻の元締めの人から墨絵を、墨絵のコレクションをやっている。たしか山種美術館の山種さん(山崎種二)と親戚でもある。それでむこうから寄付を美術館に持っていくとか。そしてその中に自分のコレクションを納めたわけですよ。そういう古いこともやったというような人で。だから一つの、戦前から戦後にかけて地方のこういう文化活動を組み立てていったキャラクターとして、なかなかの人なんですね。タウトがいてレーモンドがいて、そしてその末端にいて次にバトンタッチされたのが僕だったという。そういう責任がいちおう僕にはある。だけれども、そのまた孫くらいがバブルで失敗して、いま倒産して井上工業は消滅していますから。残りが無くなっちゃったんですけど。まあ僕としてみたらそういうふうな扱われ方になってきたというのが、この美術館のことなんです。それをやる(群馬県立近代美術館を設計する)頃に僕は何を考えたかというと、50年代の後半から丹下さん(丹下健三、1913-2005)の手伝いをずっとやってきて、メタボリ(メタボリズム)のプロジェクトとかずっとやってきたと。片っぽで、どっかに万博(大阪万博)があっても、どちらかというと僕は反万博の立場に立つべきなのに、いつの間にか東大が国家の仕組みの中に巻き込まれていって、日本の近代国家の建設の一部というような具合にいつの間にかなっていくという、この仕組みの中に自動的に入っていったわけなんですね。そして戦後の学生運動やら、思想運動やらというのはそういう体制の流れに対していかに反を言うか、非を言うか。まあ文化大革命のような、こういう視点が片っぽではあった。その後者にあたる部分を《エレクトリック・ラビリンス》(1968年)で、まあ表明していると。ところが対抗すべき国家的なイベントというようなシステムというのは、最初は万博がそうなるとは思ってなかった。ところがやってみて、ふと気がついたら、もう超国家的プロジェクトに格上げされていっているわけなんですよ。堺屋太一(1935-)が万博を思いついた時なんか、どこか産業博覧会程度ですよ。それが、通産(通商産業省)が企画をして全体をおさえようとしているうちに、元内務省ですね(注:通商産業省は農商務省が前身)。戦争中では内務省、国家的に考えればこれは、国防大臣がいるのは何省だ?ようするに(内務省が戦後に)自治省になった。自治省というのは、もともと内務省で一緒だったのが大蔵省とか、建設省とか。つまり国が国土計画、経済計画、国土的な経済計画、全部とりまとめるのが内務省にあったの。これが戦後に分解して、アメリカの政策で個別になったけれど、結局中ではつながっているんですよ。それで通産だけははずれているんですよ。そこがやり出した大阪万博を、この旧内務省(系)が吸い上げていくわけですよ。そこで事務総長の交代劇というのが出てくる。これはなんとかさんというデザインの、日本のデザイン・ポリシーを戦後に一生懸命やった人がですね、事務総長だったのに。

辻:新井さん(新井真一、1914-2012)。

磯崎:新井さんですね。彼がとばされて、鈴木都知事(鈴木俊一、1910-2010)が副知事の頃に事務総長になって。それで経団連(経済団体連合会)から石坂泰三(1886-1975)が来て。そこで国家、財界、全ての一貫した総動員態勢が、万博を徐々に組み立てている時にできあがっているんですね。だから最初のプランを作る時の頃の(開催より)5年前くらいの状態というのは、僕らが参加した時にはこんな大げさになるとは思ってもみなかった。もちろんモントリオール博(1967年)とかニューヨーク博(1964年)とか、その程度だという感じだったから。つまり(大阪万博は)国家的な祭典になっていた。これはある意味で言えば、オリンピックの時もちょっとそうだったんだけど、ヒトラーがオリンピックを国家的な祭典につくり替えたのと同じように、大阪万博で日本も近代国家というような、これを国家的な祭典におし上げたというのが実感であるわけ。だから当然、反万博の動きが出るわけですよ。思想的には僕はそちら側にいたはず。岡本太郎(1911-1996)もいたはずなんです。にもかかわらずどっちも引っ張りこまれていくという。こういう建築、都市、国家という、この三段階の一貫性というようなものが結局、出来上がったんだ、政治的にできあがったんだというように僕は思えたんですね。だから反対しながら賛成するという股裂き状態になっていたわけですよ。そのうちこれを、その中でせめて非国家的なものに近付けないかと考えたのが《お祭り広場》(1970年)の中の、こういうイベントなわけです。アヴァンギャルドというのはようするに、もともとナチス的でもスターリン的でもない、日本主義的でもない、もっとニュートラルな美術の動きだという理解があって。グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909-1994)なんていう人は30年代はトロツキストですから、それがカント的な近代の思考みたいなものにラディカルに理論化していったのがニューヨーク・アートの基本ですから。この中で組み立てられていった一種のアヴァンギャルドの、ヨーロッパ的なアヴァンギャルドではないアメリカ的な概念ですね。僕らはこれは非体制的、反体制的でもありうるものだと思っていたわけですよ。でも反社会的ではあったわけ、当時。ところが70年の前に気がついたら、こういうピラミッド型の構造の中に入ってしまったことに僕は気がついた。それでいくつか論文を書いて、挫折したということにした。僕はその時に何を考えたかというと、それがこの群馬(群馬県立近代美術館)のデザインとからんでいるわけなんですが、建築をやるとすぐ、それは都市と一体化する、これは丹下さんの理論ですよ。それで都市をやっているということは、日本の国家をやっているということと同じで。近代のテクノクラート(技術官僚)は、日本ではこの3つを一貫して考えているというのが思考の形式だという。これは建築家の仕事、都市計画家の仕事というようなものが議論されている時にははっきりしなかったけれど、これは単なる技術レベルの、エンジニアリングのレベルじゃなくて、これを社会化したテクノクラティックなレベルに組み立てて、ソーシャル・システムにはいっていく時に、こういう問題がだんだん見えるようになってくる(注:磯崎新「建築=都市=国家・合体装置(メガ・ストラクチャ)」『思想』(2011年5月)を参照)。それでまあなんとかこれに対する批判を作品化するというのが《エレクトリック・ラビリンス》だったのだけれど、これを万博にもってきたら、やっぱり収奪されたという実感を持ったわけ。それで僕は《お祭り広場》やっていたでしょう。《お祭り広場》をやった時に、岡本太郎が《太陽の塔》(1970年)をつくったわけですよ。太郎もだからそういう矛盾を全部抱えながら結局、縄文、土着の流れのものにむすびつけたというのが太郎の精一杯ですね。その揚げ句に、実は《お祭り広場》のイベントをやるにあたって、最初は皇太子が来ると思ってやった(設計した)んだよ。そしたら天皇まで来るっていうことになっちゃって、国家の事業計画だから。首相なんか軽いもんですよ、当時の出てくるというのは。それで玉座がいるわけだよ、ロイヤルシートが。そうすると玉座には光背がいると、飾りを考えろというのが僕のところに指令がくるわけですよ。いやこっちは天皇の席なんて考えてないですよ。場所はセンターのここだって、むこうがみんな、事務局が決めてくるわけですよ。それで後ろに立っている太郎(の《太陽の党》)がお尻向けている。それで太郎に「困った」っていう話をしたら、「ここ真っ白だからどうしようか」と言ったら、光背ですよ。太郎の黒い太陽のアイデアがまだ残っているんだよ。僕はその前からずっと太郎とつきあっていたから、太郎が何をやっているか、まあ手のうちは全部知っていたから。それでこれ、いただきということにしたわけ。太郎にとって、いわゆる太陽というものはある。それは核爆発を起こすような太陽なんですよ。それでそれの裏になる悪というか、悲惨さというようなものを象徴するのが黒い太陽。だから太郎は両方の対極というもので常に考えていたわけなんです。それで表向きの金の仮面はもう出たと。裏の黒い太陽というのは、だから密かにロイヤルボックスの方の背後にこの黒い太陽をつけるというのでやってください、というように僕は(言った)。それで太郎は「面白い」って。リテラルに説明したらつぶされるに決まっているから、にたーっと笑いながらやったというのが、この黒い太陽ですよ。未だについているからね。『黒い太陽』(美術出版社、1959年)という本とか、彼は書いている。彼の手持ちのアイデアではあるんですよ。もうひとつ僕は、ロボット(《デク》と《デメ》、いずれも1970年)の展示をした。あれは天井からの演出、照明なんだよね。舞台でスポットが当たると暖かくなるでしょう。だからあれをバババーっと天井の上から下げて、上からガンガンやって、寒かったからヒーターにしたんですよ。それだけぐらいのことですよ、やれたのは。別に天皇を、僕は反対しているわけじゃなくて、個人的にはどっちでもいいけど、近代国家である日本が利用した天皇制、制度にはいろいろと問題があった。こいつはもう壊せ、つぶせと。そのかわり天皇だけを残せ、というのが僕の意見なんですよ。それはようするに日本の統治、ガバナンスというものはマネジメントとして政府がやればいいんだと。だけど憲法では象徴みたいなものですから、何かようするに統治のシンボルがないとおさまらない国なんですよ、この国は。被災者も天皇が行けば福島でもみんな喜ぶんだけど、作業服を着て首相が行っても追い返されるだけですよ。そういうのが日本の仕組みなんだから。これに別に反対する必要はないと、結構だと。本人はそんな高座にいたいと思っていない人だということも知っているんですよ。まあしょうがないから置かれるわけですね。ということをずっと考えてみると、建築、都市、国家という一貫したコンセプトが、これは西欧から建築という概念が日本に入ってきた時に、近代になって成立したもの。それでいま世界で議論しているのも、この一貫性は、たとえばアルベルティ(Leon Battista Albelti, 1404-1472)の頃から、あるいはメトロポリス論が始まった頃からどうなったかというようなことが、未だに続いている議論ですから。この3つがあると。これは等符号、イコールで繋がっている。国家をやるためには最後には建築をやらなければならない、これはテクノクラートのロジックですよ。僕は、国家はちょっと議論しにくいけれど、建築、都市はやっていると、それでどうしようかということになる。それで僕は70年代になって「都市」から撤退したと批判をされるようになるわけです。それで「都市をやめた」(都市計画やアーバン・デザインに関わることをやめた)と言われるわけです。やめたというよりも、この3つの等符号で、切って横につなげているということは、垂直にある国家、都市、建築という構造を全部バラバラにして、建築は建築、都市は都市、国家は国家と分離したものとして理解する。だから都市を撤退したんじゃなくて、建築をやることは都市をやることだという60年代に僕が考えてきたロジックの中で「都市」をはずせと(注:ここで述べられている「都市」とは「国家」と等符号でむすびつけられる磯崎による概念規定を指す。磯崎新「手法としての《舞台》と《装置》」『手法論の射程 形式の自動生成(磯崎新建築論集3)』(日埜直彦編集協力、岩波書店、2013年)を参照)。俺は「建築」だけをやると。もともとアートだったんだからアートでしょう、というようにやってきたんだから。そういうふうに分けて、つまり建築プロパー。プロパーという言葉があの頃、流行ったんですよ。建築プロパー、都市プロパー、国家プロパーというように。プロパーにしてしまえと。ということをこの時に戦略的に考えた。でも理屈がつくのは後の話で、当時はそれしかないと思ったわけ。そして建築を建築としてやりはじめるということは、ある意味で言うと、建築を批評として考えるということ。都市も批評として考えるということ。批評を作家の仕事の中に入り込むという、そういう違う見方を考えた。考えてみたらこれはニュー・クリティシズムなんですよ、アメリカの文学。ニュー・クリティシズムというのは、ある意味でいうと社会性とか政治性というような、ディケンズ(Charles John Huffam Dickens, 1812-1870)なんかの時代からずっと言われてきたものの中から、文学の文学性みたいなものにことを絞り込んでいって、そしてそれを批評として組み立てて行くという視点が出ていて。これはアメリカでも60年代くらいですね。ニュー・クリティシズムはアカデミーの中でだーっと流行ったわけ。これはアメリカのベトナム戦争の傷であるとか、それから原爆をつくっちゃったということに対して。こういうものに対して文学者とか芸術家のアメリカへの批判で、最後は70年のドロップアウトとか、ああいう文化活動の中に流れていくのと近いわけですけど。そういうバックグラウンドがあってニュー・クリティシズムが出てくるわけですね。あとで考えてみたら、僕のやったことというのはそれに近付くことだったんだと(気づいた)。僕はすべてを批評として見る。建築を芸術として見る。都市をシステムとして見るという。そういうように建築と都市を別々にしてしまうっていう。まあ単純にそれだけのことですよ。それを考えていった時に、美術館という制度の問題、美術という制度。全部そういう具合に自律していく、それぞれ自律させていく可能性を持っているんじゃないかということを考えていて。作品があるから美術館という箱があるということではなくて、なにかわかんないけれど美術館という箱が先にあって、そこにアートが、オブジェクトがある。ポップであろうがなかろうがなんでもいいから入り込んでくるということが、美術館の中の展示が生み出す関係であるというように考えはじめたの。そのためにこの時に一番頼りにしたのは、おおきく言えばグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909-1994)だったと思うんです。グリーンバーグの翻訳は(当時は)無かったからね、日本に。誰も専門的にやってなかったんですよ。グリーンバーグ本人は67年か8年に、ちょっと呼ばれて長岡っていうところの美術館のシンポジウムに来ているんですよ。そのグリーンバーグの理論を当時、僕も理解していないし。なんとなしにもっと他の人のほうが流行っていたんですよ、日本で。アメリカの批評家で。東野(東野芳明、1930-2005)が翻訳した人のほうが流行っていたんですよ。このグリーンバーグは、近代というものが、芸術をサポートする基本の形式そのものになる、だから絵画は平面になり彫刻は立体になると。つまり抽象化、あるいは自律していく。美術という概念の中でそういう自律していく部分というのを内包できている作家だけを彼は評価する。こういう批評を50年代、60年代にはじめていって、ポロック(Jackson Pollock, 1912-1956)なんかを評価するわけですね。ポロックのどこを評価しているかといったら、ポロックというのは平面の上にただぶちまけているだけだと。でも(絵具を)ぶちまけている行為というものがあって、結果とか作品というものはないけれど、最後は平面という作品と彼のアクションという行為があった。これに(批評の対象を)全部絞り込んでいったという。それで彼の理論は評価された。僕は都市も建築もこれと同じだと思いはじめて、感覚的には最初からやっていたんだけれど、そういう人たちとつきあってたんだよ、ニューヨークのアーティストというのは。だけれども理論的にそれが自覚できたのがこの時です、70年代。

辻:当時は、どの文献をみても「都市からの撤退」という言葉はなく、磯崎さん自身ではお話していないのではないでしょうか。

磯崎:話していません。ほかの奴らが言ったの。

辻:そうですね。むしろ磯崎さんに影響を受けた下の世代が(磯崎に対し)「都市からの撤退」と言っている。いわば初出の無い言葉で、それに対して磯崎さんが近年の研究成果をもとに、自身を振り返りながら新たに言及しています(注:たとえば磯崎新「孵化過程」磯崎新、土居義岳『対論 時間と建築』(岩波書店、2001)年など)。

磯崎:僕はそう言ったということになっているけど、まああいつが何を言ったか、どうやったかということはなくて、むしろその時にそうした都市の問題で言うならば「まちづくり」というようなものが主流になりはじめたんですよ、日本で。そのまちづくり論というのはずっと続いているわけですよ。僕はこれは『日本の都市空間』(彰国社、1963年)をやった時にちょろっとやったけれど、俺たちがやったのは、彼らがやっていること(まちづくり)とは違っていたんですよ。僕はそんなのにつきあっている暇はないと。もっぱら海外とのつきあいでいろいろやっているほうが忙しくて、つきあってられないよというので。70年代はむしろ「都市からの撤退」というのは一つのしゃべり方で、「都市」を語らないということ。それぞれ自律したコンセプトを組み立てていくんだと、こう考えていて。おおげさに言ったら、すべてのインスティテューション(制度=施設)ですね。社会的なインスティテューションをもとに、根源に戻していくというラディカリズム、まあ根源に戻すということはラディカルということですから、その視点にともかくいこうと。そうすると「まちづくり」がどうだ、社会的な運動がどうだ、それからメガロポリスがどうだ、田中角栄(1918-1993)がどうだということは関係ないと僕はずっと言ってきた。メタボリ(メタボリズム)は70年になってみんな転げはじめ、丹下さんもみんなそちらのほうに行って、それをこの間の八束たち(八束はじめ、1948-)の筋書き(注:「メタボリズムの未来都市」展(森美術館、2011年)のキュレーション)は、そちら(「都市」)にいくべきだったのに僕は脱落したという、そういう読み方になるわけだよね。僕は60年代半ばにそちらの筋だったわけですよ。そしてその上で今度は、それぞれの領域のインスティテューションのコンセプトを徹底的にゼロに還元する。そういう言い方をしはじめた。だから美術館はフレームであるということにしてしまえと。しかもこれは60年の丹下さん(の影響下)からどう離脱するかという時に、自分で考えたひとつの手がかりというのは、丹下さんっていうのはコルビュジエ(Le Corbusier, 1887-1965)のモデュロールに基づいて日本の木割(注:木造の建築物の各部材の寸法の割合、またそれを決める方式)で組み立てて、プロポーションの美しさというようなものをつくっていくわけですよ(注:ここでは、近代とよばれる時代よりも前から存在する木割という寸法に日本の建築の独自性とそれにもとづく評価を見出そうとする視座を指す)。それはそれでわかっていると。丹下さんのところでもっぱら僕が聞いたのはそのプロポーションの問題ですから。それでわかったことは「美しきもののみ機能的である」という丹下さんの台詞はプロポーション論、あるいは黄金比みたいなものとして(建築を)つくっていく。ある意味で言えばハンネス・マイヤー(Hannes Meyer, 1889-1954)が、彼はあそこ(バウハウス)の最後の学長になってグロピウス(Walter Gropius, 1883-1969)のコンセプトを壊しちゃったわけですよ。壊したときに何をやったかというと、これまでの(バウハウスの)人たちはコンポジションしかやっていない。それに対して建築は機能だとか生活は機能だとか何とかいろいろ言うけれども、結局はコンストラクションですよ。コンポジションに対するコンストラクションが建築家の仕事なんだと、というまあ単純な理屈に置き換えちゃったの。1930年を境目にしてこのロジックが非常にはっきり見えてくると。70年頃に同じようなことがなんで起こるかということを考えた時に、ゼロ還元するというのを思いついた。そしてそれをしていくと結局、一種のトートロジー(同語反復)になっていくんです。トートロジーになるということは、当時の言葉で言うとセルフレファレンス(自己言及性)。つまり芸術を語るのに芸術を言うと。都市を語るのに都市を言うと。そういうセルフレファレンシャルな。ということは都市を芸術として語るとか、建築を社会性として語るとかそういうロジックではなくて、単純にそれそのものを語るわけですよ。全ての論を絞り込んでしまう。そうするとトートロジーになると。それでトートロジーでいいっていうことを言ったのはウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889-1951)だったの。それでウィトゲンシュタインの紹介をいろいろ、その時に翻訳したのが『ウィトゲンシュタインの建築』(バーナード・レイナー著、磯崎新訳、青土社、1989年)ってやつですよ。なんかまあそういうのとつきあって、このへんで哲学や美学をやっている人たちとだんだん近くなってくるわけですね。一番遅れて知り合ったのが柄谷(柄谷行人、1941-)なんですけど。柄谷はやっぱりなんだかんだ政治的なことをいろいろ常に言うけれど、文学論や芸術論に関してはやっぱりニュー・クリシティシズムからはじまっているんですよ。それで最後になって、そうかやっぱりここらへんでどっかでつながっていたんだねっていうことがわかるのはその部分なんですね。この一種の自己言及性みたいなものは、別な意味で言うとメタ・クリティークなんですね。演劇についての演劇をやる。建築についての建築をやる。音楽についての音楽をやるという。これはつまり建築というものがずっと長い間に組み立てられてきた、いわば制度、システムなんだよ。これをもういっぺん批評する、批評の仕方が作品なんだと。だから美術館という制度を問題化するとしたら、あれは枠にしかすぎないんだからということを、枠としてみせるというのがいまの表現だというように僕は理解した。これは必ずしもジャッド(Donald Judd, 1928-1994)の理解とは違うけれど、表現としてはジャッドに近くなってきたと。そしてその時のことで、リヒター(Gerhard Richter, 1932-)が、つまり形態、かたちをもっているじゃないですか、こうやってかたちで、そういう制度そのものを完全にゼロにして無化してしまうという。このことをやっているのは片っぽでリヒターなんだというように思っているんですよ。だからジャッドとリヒターというのは、いつの時期かデュシャン(Marcel Duchamp, 1887-1968)を卒業できたかもしれない。それからポロックも卒業できたかもしれない。コルビュジエ、ミース(Mies van der Rohe, 1886-1969)、この2人はまだ残っているんですよ。その理由は、徹底して制度というものをゼロにしてしまう、持ち込もうとしている、そのロジックがあった人たちだから。それで昨日の話だっけ?ジャッドと高松次郎(1936-1998)。感覚として高松とか倉俣(倉俣史朗、1936-1998)は、そういう問題が60年代の終わり頃にわかった人たちなの。僕はまわりで見ていて、かなり数少ない奴だったんですよ。それでジャッドが来た時に高松が荒れたという(笑)。荒れたんじゃないな、あいつ酔っぱらって、悪酔いしてもう何言い出すかわからなくなってダウンしちゃったんだ。それぐらいのことなんですね。

中森:さきほどリヒターのお話が出ましたが、ゼロ還元としてリヒターをもちだすということは、リヒターのアプロプリエーションとかそういったことから、ゼロ還元のお話になるのでしょうか。

磯崎:アプロプリエーションというのは僕もいろいろやったけれど、極端に言うとなんだっていいじゃないかと、問題はゼロ還元なんだから、たまたまどっかそこらへんにあるものをもってきて、やってみせろと。アプロプリエーションというかいろんな引用。引用のトランスフォームしたもの。こういうもので、同じものを同じように見えるけど、実は手が込んでいて裏返しにしているよというようなことが、どっかで透けてみえないと面白くないわけだ。そういうのはシュルレアリスムもある程度はやってきたけども、ちょっと違うフェーズだと思いますね。僕はだからアプロプリエーションとかが(議論として)出てきたのは、ある意味ではシュルレアリスムがやった次の段階のものだと思うんですよ。それどういうことかというと、シュルレアリスムというのは最初、僕は瀧口修造さん(1903-1979)から習ったんですよ。それで修造さんの理解というのは、アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896-1966)がこう言ったとかマルセル・デュシャンがどうだとかというのは、(瀧口の)解説ですからなんとも言えないんだけれども、修造さんの面白いところはこれを日本風な、幻想をやる人も込みでシュルレアリストに組み込んじゃっているわけですよ。日本にはそんなのしか無かったというのもありますね。僕はそれを「四畳半シュルレアリスム」と名付けたんです。それでこれをアレクサンドラ(・モンロー)が聞きつけて「それを言え」と、カタログに書かされそうになったんだけれど、これはさすがに言えない(笑)(注:Isozaki Arata, “As Witness to Postwar Japanese Art,” Alexandra Munroe, Japanese Art after 1945: Scream Against the Sky, New York : H.N. Abrams, 1994)。彼女はそれを知っているわけですけど、四畳半シュルレアリスムを。これはね、幻想絵画とシュルレアリスムというのが1920年頃に、両方ともロマン派の残党みたいな感じで出てきたわけですよ。幻想絵画というのは単に幻想でいいんですよ。ところがシュルレアリスムというのはもうちょっとロジカルなんですね。僕の理解では、シュルレアリスムというものは言語のアンビギュイティ、言語が持っているアンビギュイティを取り扱うのがシュルレアリスムだと、僕は思っているんですよ。これはどういうことかというと、例えばマン・レイ(Man Ray, 1890-1976)の《ペシャージュ》(1972年)という桃が水平線の上に浮いている、まあマグリット(René Magritte, 1898-1967)なんかはそれをもっぱら使っているわけなんですね、桃の絵が。桃というのはマン・レイにとってみたら女のヒップ、お尻なんですよ。そういうものと桃というものと。しかもペシャージュ(Pêchage)とペーシュ(pêche)というのは、ペザージュというのは風景、それでペーシュというのは桃のことですから。これを重ね合わせて、言葉のしりとりや言葉尻合わせみたいなものですね。それと同時にそういうビジュアルなものでの言葉遊び。それをやっと理論化できたのは、フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の『これはパイプではない』(1973年)というマグリット論があって。これが見ることとものと、その表象と。この間の分裂というようなものが出てくる。これが議論の背後に、19世紀末から続いているわけなんですけど、フランスでは。シニフィアンとシニフィエ。シニファイングとシニファイトか。そうするとシニファイングしていることというのは、シニファイトされる物体のどの面がどういうように読まれているかというのは、これは複数以上あると。違う解釈が成立する。それを哲学で言えば、解釈学そのものですよ。解釈学というのは同じ一つの理論を違う解釈で見ていく。このことで。それはシュルレアリスムで言うとアンビギュイティなんですよ。それで『建築の解体』の時に、僕はヴェンチューリ(Robert Venturi, 1925-)の『建築の複合と対立(建築の多様性と対立性)』を、(ウィリアム・)エンプソンという人の『曖昧の七つの型』というのがあるんですけど、(ヴェンチューリの文章を)この『曖昧の七つの型』に組み合わせて整理をするという、そういう仕事をしたんですけど(注:磯崎新「《建築の解体》症候群(下)」『美術手帖』373号、1973年11月。『建築の解体』(美術出版社、1975年)に所収。ようするにシニファイングというものはアンビギュイティ。だからいくらでも勝手な解釈、勝手な見方ができるんだと。合理主義というのはこれにぴたっと合っているはずだということだから、ヨーロッパの言語学のロジックが、すべての哲学のロジックがあったんだと。これが分裂していったということは、これは世の中で記号が浮遊しているとふうに言われてきたことと、同じことなんですね。その部分を論じてみると結局、決定的に合理的な解釈ができる説明はあり得ないと。そう思いはじめたから、僕はポストモダニズムにべったりしはじめた。近代がもっていた単純な仕組みが、建築、都市、国家を分離してもいいというのは一つの例で、すべての物体の原初に対して、アートならアートにしても、アート・オブジェクトとアート作品はどう違うか。このへんの問題を全部バラバラ、もういっぺん整理、組み立て直すにはどうしたらいいのかというのがわからない。それで結局、僕のジェネレーションの面白い作家というのは、一つ上のジェネレーションはケージ(John Cage, 1912-1992)やポロックみたいに自分の行為そのもの、制作の過程そのもの。だから映画で言うと作品よりメイキング、この部分がより面白いという、そういう見方になっている。僕なんかの時代になってくると面白い奴というのは、その芸術の理屈が全部わかった上で、演劇を批評するという演劇、メタですね。建築を批評する建築。そういうメタをセルフ・レファレンシャルにやれた人が、僕の感じで言うと70年代、80年代、この20年に出てきてやれた人間だと。これは90年代以降のメディアのネットワークの時代になってくると状況は変わるから。これは、僕は次のフェーズになってくると思うんですけど。この中間の期間の20年、ポストモダニズムと言われた時代を生き延びられたアーティストっていうのは、無意識的にやれていた建築家もそうだ、アーティストもそうだとみえるようになった。そうすると70年は区切りがあるんですよ。つまりそのモダニズムの持っている単純なロジックが、そこでいっぺん崩壊したという。僕はそれを自分では、挫折させられたと思っているわけですよ。

辻:「歴史の宙吊り」という(磯崎の)言葉ですね。

磯崎:宙吊りですね。だからヘーゲル的な歴史は動いていないという。そういう時代というのは、まあ20年間あった。その状況が変わったのは、とりわけもう最近ですよね。90年代になってから、もういっぺんリアルというものが見えはじめたという気はするんですけど。

辻:一方で建築、都市、国家の一貫性を背景として、「都市からの撤退」という言葉が先ほどのお話にもありましたが、その時に指す「都市」とは都市計画やまちづくり、社会性などとむすびついたすごく狭い意味の言葉ですよね。今から考えてみるとですけど。

磯崎:まあ都市というのは敵がたくさんいるんですよ。いまあらためて都市を提示し直そうという動きも出ています。例えば都市はポリスなのか、キビタスといってギリシャ語のものなのか。それからウルグスというアーバンの始まり、アーバンのはじまりかポリスのはじまりか。さらにはこれに対してギリシャ語で言うとオイコス。これは家、一族、一家という集合体の成立という、そういうような意味ですから。様々な問題を整理しながら、そういうものがいま再び議論されているという状態ですから。一般的に、単純に僕も言えないし。僕はこれまで、そういう整理が最初からあってやったというよりは、だいたい十年、二十年経って、あの時に盲滅法でやっていたものがいまこう説明できる、こう言っているだけですから。

辻:振り返ってみるとか、もしくは展覧会で再制作をしながら、そのような作業をしたということですか。

磯崎:まあ、というよりも、物事が最初にデザインされる時というのは、もうこれは直感的。アーティストはみんなそうですよ、ただ描いているだけですから。ただ決めているだけですから、デザインにしても。何を手がかりにどういうデザインしたかというのは、建築家は言えない、アーティストも言えない。あとは批評家が説明するけど、わかっている奴はいないというのがその時期ですよ。ところが十年経つと、この位置付けというのが見当ついてくる。それでこれをやったらしい、というのがわかってくる。それぐらいのものなんですよ。

辻:先ほどお話が出た「《群馬県立近代美術館》について」という座談会は中平卓馬さんと李禹煥さんとの対談なんですけれど、フレームとしての美術館という群馬の美術館に対して、当時の日本を拠点とするアーティストの反響や反論みたいなものというのはありましたか。あるいはそれからつながる関係はありましたか。

磯崎:アーティストからは誰もいなかったように思う。むしろ僕がつきあった中では、この2人はお客というか、同僚みたいな感じでお互いに一緒にやっていたけど、批評家としてつきあったのは宮川淳(1933-1977)。

中森:先ほどのリヒターですけど、リヒターはセルフ・レファレンシャルな作家ですよね。いろんな近代のスタイルの絵を真似ては、それを自分のスタイルにしています。メタな作家ですね。

磯崎:この人はメタな作家ですね。しかもそれは一体、なんで写真が出てきているのか、なんで都市の何かが出てきているのか。だけど考えてみたら色のサンプルなんか描くわけですよ。色のサンプルをああやってリヒターが描いたのは、赤瀬川原平(1937-2014)が千円札を描いたのと同じことだとは思うんですよ。だけどあいつの方がもうちょっと手が込んでると思いますね。

中森:モダニズムの絵画に対してこれまで使われてきた価値だとか、そういうものをすべて壊してしまうのがリヒターのような気がします。

磯崎:それはわかんない。なんかそうみえないにも関わらず、あとでやったら結構、破壊的だということがわかる。そういう意味で例えばアングラ演劇でいうと、寺山(寺山修二、1935-1983)、鈴木(鈴木忠志、1939-)、唐十郎(1940-)。唐十郎というのは土方巽(1928-1986)と似ていて、メタじゃないんですよ、この人はあんまり。一番メタなのは寺山だったんですね、僕が見ていて。そのうち鈴木が身体論をやりはじめて、寺山のモダニズムの破壊と似たかたちで日本的な演劇の仕組みを、演劇的なものを壊そうとしはじめた。彼はそれを演劇的なものと表現していて。それがきっかけで僕はずっとつきあいはじめた。それで寺山ともだいぶ60年代にはつきあったんですけど。この人はとことん癖があった人だから。それは街頭演劇だと言う。街頭演劇というのはゴダール(Jean-Luc Godard, 1930-)か誰かもやっていたものですから。これもある意味で言うとパロディできているわけですよ。だからセルフレファレンシャルということはパロディでもあるわけだ。アプロプリエーションもパロディ。

中森:そのあとはもう、いわゆるポストモダンの性質をみせてきていますよね。

磯崎:そう、その感じだった。多分、萌芽的に60年代にみんなが感じていたものを、70年以降にそれぞれ自らの方法にしたジェネレーションというか。いま70代ぐらいの世界的(に著名)な連中ですね、それに対してもう10年下の世代というのは、例えば伊東くん(伊東豊雄、1941~)が震災(注:東日本大震災、2011年3月11日)が起こってから震災がどうのっていろいろ言っているけど、震災の直前の2月頃に(伊東豊雄の)事務所が40周年でどうだというのをやって、シンポジウムに出さされたんですけど(注:座・高円寺、2011年2月11日)。この時に彼らが一様に言うのは僕の仕事なんですよ。これが出てきた時に建築が変わったという、俺たちの世代はそういうことがあったと、彼はその時に言っていました。ああそうかと。まあ僕もこれを取り上げて下さいよと言ったけれど、もうその前の(磯崎が設計した1960年代の)コンクリートの仕事というのはもう昔のものですというのを、彼らははっきりと言うんですね。妹島さん(妹島和世、1956-)もそういう言い方をしますね。それで僕の感じは、妹島さんと組んでいる西沢くん(西沢立衛、1966-)は、妹島さんの影響を受けているというか。理論的にはBow-Wow(アトリエ・ワン)とかそこらへんはまちづくり派ですよ。(僕は「都市」から)撤退した側から入っていったんですね。伊東君たちはこれからはじまった人、というように僕には思いますね。

辻:午前中の最後の質問になります。この頃は海外との接点であったり、人のネットワークが広がっていく時期にあたるのですが、1972年1月号の『a+u』の特集で、中村敏男(1931-2016)さんの編集で「なぜマニエラ(手法)なのか」という論文を発表されます。これは広く海外で受容されたと思いますが、その後につながるようなお仕事のお話を聞かせて下さい。

磯崎:これは裏話を言うと、中村敏男が『a+u』(の編集)を始めたんだけど、1年経ってあまりにも売れないからつぶせ(廃刊にする)ということになって。あれは新建築(社)から出していたんですけど、もう危機状態になっていたんですよ。そしてなんとか挽回するのに、外国人の特集をしようと、外国人(海外の情報)だけを集めていたのが『a+u』で。日本人を新建築の本誌(『新建築』)に載せた。外(海外)の情報が『a+u』。こういう組み合わせだったのをもう破るからつきあえということになって。それで実は、この号の目次の大部分は僕が書いたんです。そして中村ももちろんコラムを書いたんだけど。出版の間際になって、まああいつは編集者で、執筆者は僕しかいなかったから「雑誌にならない」と。雑誌というのは5人か6人、その数以上の執筆者がいないと、雑誌として世の中に認められないという。それでなんでこんなことやったんだと、またあいつに新建築(社)から圧力がかかったんですよ。それで彼はしょうがないから、たくさん仮名をつくろうとしたの。もう完全にでっち上げの執筆者名をだーっとたくさん書いたんですよ。

辻:「一人の建築家の特集号というもので編集したおぼえは無い」と中村さんが「刊行にあたって」という文章で書かれています。

磯崎:それをやったら会社がつぶす(『a+u』を廃刊にする)ということになったんですよ。それで彼は「そういうおぼえは無い」というふうに言わざるを得ないわけなんですよ。それで実際は僕だけが執筆したんです。もう危機状態だったんだね。僕自身はその時は僕の事務所の奴ら(所員)がマリファナで警察から追っかけられて。僕はその前にロス(ロサンゼルス)に行っているわけだから。ロスから持って帰った種をアトリエで栽培させていたらしいというストーリーが世の中でできあがって。片っぽで群馬のプロジェクト(《群馬県立近代美術館》)が動いている。そして《福岡相互銀行》ができあがりつつある。その時に僕はアトリエにいれなくて姿を消したんですよ。福岡にいるのか東京にいるのかわかんないっていう。そして考えてみたら、この雑誌でもむちゃくちゃ書いていたというのがこの時の状態ですね。これはあんまり今までしゃべったこと無いけれど(笑)。それでもっと悪いことが起こって。そうやって追っかけられた時に、アトリエにガサが入ったんですよ、福岡に。こういうところで大麻を栽培していたという、証拠品を取られちゃったの。それで当時はちょっと大変だったんですよ。だからいっぺんそれで僕のアトリエは解体したんですよ。それで致し方なくこの特集をやって、群馬の方のコンセプトと実施設計ができあがり、やらなくてはならないところまできたので、東京に戻って密かにはじめたという。この時にこれで週刊誌に追っかけられている、逃げまくっていたわけで。もしこいつに捕まっていたら、どれかの週刊誌の特集で出ているから、もう群馬もキャンセルだろうし、社長がどうするかって。アトリエもしょうがないから、警察で証拠品があがっているから。これのオープニングの日に地方のラジオで「大麻で捕まった。その設計者はこの銀行の設計者」。もうずーっと毎日、毎時間ですよ。地方のラジオ放送が。銀行ですから、福岡の中心のメディアは取り下げてもらったけど、そういう下劣なメディアというのは全部。だからまあ面白いですよ。完全に映画にできる状態にいたんですよ。それで片っぽで『a+u』がつぶれそうだというのにつきあっていた。そこで考えたのは、そうやって見たら国家もへったくれもないじゃないですか。全部を解体してゼロにするということ以外。行き着く先は無いというような。行け、というようなものですよ。

辻:この『a+u』というのは英文、英語で海外にも出版されています。

磯崎:それでしばらくして中村はなんとか持ち直して、それで徐々に、例えばニューヨーク・ファイブ(注:『Five Architects』(1972年)によってグループとして扱われることになった5人の建築家を指す。マイケル・グレイブス、リチャード・マイヤー、ピーター・アイゼンマン、ジョン・ヘイダック、チャールズ・グワスミー)だとかを紹介するようになってきて。僕はこれをやっている最中は、「解体」(注:「建築の解体」『美術手帖』(1969年12月~1973年11月)に掲載)の執筆の最中だった、連載中だったの。それで『美術手帖』に連載で、2ヶ月くらい(掲載されている号が)とんでいる時があるんですよ。これはこの事件の渦中で執筆不能だったというのが、『美術手帖』の連載の途切れた理由ですよ。

中森:余談ですがこの大麻を育てていた方というのは、そのあと刑事犯として訴えられてどうなったのですか。

磯崎:うちのアトリエのスタッフは呼び出されたんじゃないかな。僕は知らなかったことになっているわけだけど。まあ事実、福岡と東京できりきり舞いしていたからなんですけど。一人二人は、そのうちの1人は、当時、砂漠に、アメリカにドロップアウトした奴がいるじゃないですか、たくさん。コミュニティがあって。ああいうものが沖縄の離島とかにもあったんですよ。それに流れて行った。そして5年後くらいにやっと登場する。1人はなんかもうしょうがない、俺が裁判所に出るっていったやつがいて。こいつはそのまま黙っていますけど、禁固何年とかいって。

辻:後のアイゼンマン(Peter Eisenman, 1932-)との対談で、この特集でアイゼンマンは「われわれが見たはじめての日本人の建築家だ」と話しています。

磯崎:僕はまあ「解体」(「建築の解体」)の連載やっていたから、いろいろコンタクトしたけど。アイゼンマンは作品が無い(設計した建築物が少ない)から、単純にチョムスキー(Avram Noam Chomsky, 1928-)とつないだ理論をやっているっていうことくらいしかわかんなかったんですよ。それで「ニューヨーク・ファイブ」が出た頃か出る前か、白(ホワイト)とグレーとか何とかを中村がやっている(雑誌『a+u』で取り上げている)話がある頃ですけど。丸山(洋志)というのが、なぜかクーパー・ヒューイットに行ったんですよ。そしてアイゼンマンのインスティテュート(Institute for Architecture and Urban Studies、建築・都市研究所、略称はIAUS)に行ったのかなあ。インスティテュートじゃなくてどっかの大学ですよ。アイゼンマンが教えに来て、それでこれを持っていたらしくて。この号をアイゼンマンに見せたら「面白い」と。そしてなんか理屈をいっている(建築理論の研究をしている)らしいと。日本は新建築(社)が、あれは『a+u』じゃなくてジャパン・アーキテクト(『JA』)。これは丹下さんの頃(1950年代)から海外に日本(の情報)を持って行ってるから。僕なんか『新建築』だから(『新建築』に掲載されるから)、(情報が海外に)何も出ないわけですよ。そしてこれをアイゼンマンが見て、彼がそう言ったのはずいぶん後ですよ、十年経ってから言っているだけで。それで丸山に「何書いてあるんだ」っていろいろ喋らせたんだよ。翻訳させたというけど、本当にしたかというとちゃんとわからないというようなレベルですよ。だけどもまあ建築の場合というのは、ビジュアルが面白くなければまず取っつかないわけだから。いちおうこういうので見つかったと。そして73、4年から僕はニューヨークに時々行くようになった。これはどういうきっかけかというと、クーパー・ヒューイット・ミュージアム(Smithsonian Cooper-Hewitt, National Design Museum)というのがあって。このミュージアムはもともとデコラティブ・アートの美術館として、スミソニアン(博物館)になっていたんですよ。アンドリュー・カーネギー・メロン(Andrew Carnegie, 1835-1919)の家を、カーネギーの家かなにかがあって。これをヒュー・ハーディ(Hugh Hardy, 1932-2017)が改修して美術館にすると。そしてこれを世界ではじめてデザイン博物館と称するということにして。このデザイン博物館として、立ち上がり(開館)を変わった展覧会で組もう(企画しよう)というのがあって。この時にハンス・ホライン(Hans Hollein, 1934-2014)が呼ばれたの。それで結局、やったのは「マン・トランスフォーム」という展覧会(注:「Man Transforms: Aspects of Design」展、クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館、1976年10月7日~1977年2月7日)。それでハンス・ホラインが、あいつも理屈言う男だから、まあ68年以降ほとんど毎年、会っていたの。(ホラインが)理屈を言って「俺はディレクターでもキュレーターでもない。コンセプチャライザー」。コンセプチャライザーという名前をあいつが付けたのか、博物館が付けたのかわかりませんけれど、このごろでも時々使うけれど、その妙な肩書きで彼ははじめるということにして。スポンサーは、まあようするに謳い文句は世界のデザイン、新しいデザインを一堂に集めると。そしてこれがアメリカのデザイン博物館のはじまりだと。こういうことで、コレクションを実際に見せようとしたんですよ。そしたらそれがミュージアムの意図だったのに、ホラインがまず電話かけてきたのが僕で。その次にエットレ・ソットサス(Ettore Sottsass, Jr. 1917-2007)に電話かけて。この3人がガヤガヤ言っているうちに「それなら普通の展覧会をやめる」と言い出して。それでコンセプトの展覧会だったらいいということになって。コンセプチャライザーと言っているんだからコンセプトだと。それでそういう展覧会になっちゃったんですよ。それで戦略的に、最後はバックミンスター・フラー(Richard Buckminster Fuller, 1895-1983)の部屋が一部屋。それから僕は2部屋か。それからアメリカからジョージ・ネルソン(George Nelson, 1908-1986)とか、そういう人は入ったわけですけど。イームズ(Charles and Ray Eames)は大家すぎて(展覧会から)はずせということになって。そうした我々のつきあいでマイヤー(Richard Meier, 1934-)がいた。マイヤーが一番、コンセプトがつまらなかった。それにイランのナーデル・アダラン(Nader Ardalan, 1939-)。こいつはハーバードかどこかで教えていた奴ですね。モスクの研究なんかもやっていて。これは10年くらい前まで時々つきあいがあったんですけど。こういう奴らが。あとは誰がいたかなあ。

辻:あとはO.M.ウンガース(Oswald Mathias Ungers, 1926-2007)が入っています。

磯崎:ウンガースが入っていますか。

中森:ニューヨーク近代美術館ではまだドレクスラーさん(Arthur Drexler)が70年後半でしたらいらしたんでしょうけど、ニューヨーク近代美術館の建築・デザイン部の展覧会に相対して、クーパー・ヒューイットが出てくるわけですね。

磯崎:スミソニアンっていうのは国立じゃないですか。それに対してMoMAというのはアメリカの民間の、とりわけロックフェラーがつくった美術館ですから、かなり違うんですよ。それであの時は、いま思い出すと僕がニューヨークに呼ばれて行った時に、なぜかちょっとしたドリンクをやりましょうと。それで最初に現れたのがフィリップ・ジョンソン(Philip Johnson, 1906-2005)だったの。ジョンソンは気にしているわけですよ、MoMAの戦略とここが一体どう違うか。(フィリップ・ジョンソンは)大先生ですから、ホラインも僕も「ジョンソン先生」ってなっているわけよ。本人はそういう点でとっても気にしているわけ、その動きを。そしてあれはドレクスラーの時(ドレクスラーがキュレーターだった時)か何かに、ポストモダンのはじまりみたいな展覧会をMoMAでやりました。その時に3人に最後の部屋をくれて、グレイブス(Michael Graves, 1934-2015)とジェームス・スターリング(James Frazer Stirling, 1926-1992)と僕と、この3人を最後の部屋に入れたんですよ。この3人がおしまいの部屋なんですが、どうもジョンソンの差し金、戦略的な配置だろうと。

辻:それは何年くらいの展覧会ですか。

磯崎:僕はゴルフ場のクエスチョンマーク(注:《富士見カントリークラブ クラブハウス》1974年)がフューチャーされていたから、あれができた直後くらい(注:「Transformations in Modern Architecture」展、ニューヨーク近代美術館、1979年2月21日~4月24日)。

辻:「マン・トランスフォームズ」展は1976年です。

磯崎:「マン・トランスフォームズ」はかなりむちゃくちゃなものをやったんですよ。もうコンセプチュアル(・アート)というのは美術でも出てきた時期ですから、そういうものというような感じで動いた。エットレ・ソットサスは野外のインスタレーションの写真があったし、僕は橋っていう、向こうにコレクションが、バードゲージがたくさんあるからそれを展示してくれって言われて、わかったって(注:磯崎新《エンジェル・ケージ》1976-77年)。それでデコラティブなやつとか、虫かごとかも全部入れて展示するんだけど、その背後にコーヒーだけの写真を1枚ずつ置いていって。アメリカの立体格子のスカイスクレイパーのインテリアだから、鳥が外を見ている、鳥かごに入れられた人間が外を見ているのと同じ光景だというのをやったんですよ。そしてもう一つはケージ。ケージということはようするにシカゴ派(注:1871年のシカゴ大火後の都市再開発を背景に建設された鉄骨造の高層建築物に関する動向)、ギーディオン(Sigfried Giedion, 1888-1968)なんかは読んでいるので、ケージだと。超高層の立体フレームというのは籠だと。僕はミースのことを書いた時に、ミースというのはケージの超高層をつくった人ですから。それはなぜかといったら、平面で住むところは無いわけなんだから、ドイツで。エレベーターがあるから、ただ(床面を)積み上げたと。いわゆるレイクショアドライブ(アパートメント)みたいなプラン(平面)。ミースは、われわれの提供できる住居というのはこんな鳥かごしか無いと。われわれというのは都市、われわれの社会。だけどエレベーターがあるよと。こういう台詞を言ったであろうということを書いている。メトロポリスというのはそういう感じで、僕にとってみたらケージ、鳥かごの問題をフレームとして取り出そうとして、マリリン・モンローのカーブをした鳥かごを作って。それでフラ・アンジェリコのエンジェルの翼を実物大でその中に入れたという、こういうものをやったのがこの展覧会だったんですね。それでまああれこれ(話が)重なっているけど、ようするに鳥かごに住まわざるをえないんだという、それだけの話ですよ。同じことで、エットレ・ソットサスは自然の森の中に行って、人間はポールを一本立てた、二本立てた、三本立てたと。それにテントはったと。その写真を順に撮っていって、ただそれだけを展示した。自然の中で人間が住めたのは、柱一本を野っ原に立てて、その次に二本立てて、上からシートをかぶせて。それで日の当たる側にいるやつか、影に住むかっていうくらいのことからはじまっているという。これは、僕はエットレのプロジェクトとしては猛烈評価しているんですけど。まあこれは去年か一昨年かISSEY(三宅一生)の展覧会の時に、ちょっとしゃべる時があって。まあわれわれは70年代の半ばくらいというのは、そのへんのことをやっていた。これが「解体」(『建築の解体』に掲載した建築家)の世代がニューヨークに進出をしたきっかけみたいなものですよ、この展覧会は。

辻:この展覧会と前後してMoMAでは多木浩二(1928-2011)さんとヘンリー・スミスさん、ピーター・グラックさんが企画した「新宿」展があります(「Shinjuku: The Phenomenal City」展、ニューヨーク近代美術館、1975年12月17日~1976年2月15日)。

磯崎:はい。これはどちらかというとコロンビアの彼(ヘンリー・スミス)がやった。彼が新宿に来ている頃に、僕は『朝日ジャーナル』で対談というか、座談会みたいのを多木とスミスさんと3人か何かで、座談会をどっかのロビーか何かで(注:多木浩二「あいまいさの空間」『朝日ジャーナル』1975年4月)。

辻:お電話で、展覧会についてご助言されたとお書きになっています。

磯崎:それはもう他が忙しいから、もう俺はこの展覧会は多木さんがつきあえばいいというんで。多木さんはニューヨークまで(設営に)行ったと思うのですけれども。もともと僕は、この人(多木)は都市社会学の人だから。(磯崎は)都市と社会とか、建築と政治とかいうのを切ろう(切り離して考えよう)としていた時期だから。新宿の面白さというのは、60年代の面白さについてはよく喋ったけれど、これをどうするんだと。まあ新宿計画とか何かを(磯崎自身が)やったからしょうがないんですけれど。もう70年になってこれを切ろうとしていた時期だから。

中森:これは本当に小さな展覧会で、資料もほとんど美術館に残っていないんですよ。

磯崎:あんまりぱっとした内容じゃなかったんですよ。東京論としても、新宿はもうこのレベルはもう遥かに超えているんだよ、というくらいの感覚でわれわれはいたから。そんなものだと思いますよ。

中森:同じ頃に今度はアイゼンマンの今度はインビテーションで、インスティテュート(IAUS)でお話されます。

磯崎:アイゼンマンがなんとかジャパンというレクチャー・シリーズを編成して。バークレー、ライス、シカゴのファンデーションとか、4つや5つを回す(巡回する)というレクチャー・シリーズがあって。

辻:「ニュー・ウェーブ・オブ・ジャパニーズ・アーキテクチャー」という展覧会があるんですが(注:「A New Wave of Japanese Architecture」展(建築・都市研究所、1978年9月25日~11月14日)。展覧会は相田武文(1937-)、藤井博巳(1933-)、竹山実(1934-)、原広司(1936-)。あとは磯崎さんが出展している。

磯崎:伊東(豊雄)とか安藤(安藤忠雄、1941-)とか、レクチャーで回っているかな?

辻:当時の若手の方々(磯崎、藤井、竹山、原、相田)が各都市を回ってます。

磯崎:回ったのとは違うんだ。展覧会は展覧会なんだよね(注:展覧会はアメリカの10都市を巡回)。

辻:(当時の)若手の方々は、アメリカの各都市でレクチャーをしています。

磯崎:この写真か。

辻:(資料を見ながら)これはIAUSから出版された展覧会のカタログです。

磯崎:これは槇さん(槇文彦、1928-)か。

辻:はい、そうです。

磯崎:伊東はどれだ?

辻:これですね。

磯崎:それからこれは毛綱(毅曠)だ。これは相田?

辻:竹山さんです。

磯崎:竹山か。まあようするにその後、このへんをネタにして、ジェンクス(Charles Jencks, 1939-)が『ポスト・モダニズムの建築言語』(1977年、邦訳1978年)というのを書いたから。(ポストモダンという言葉の)もとはジェンクス(によるもの)だと哲学の連中は言うんだけれど、われわれからみたらジェンクスというのは最後にきた人で、おしまいから(後から)まとめたにすぎないとみんな思っていたから。彼の言語論みたいなものというのは、当時のヨーロッパのソシュールの解釈からうまれてきた。とりわけウンベルト・エーコ(Umberto Eco, 1932-2016)とかあいつらの方が本当は本格的なんだけど、それを整理したのが彼のあの本だと思いますね。見取り図があるものだから、みんな他の世界(分野の人々)はわかりやすいからそうみている。あいつは、そういう解説の能力はある。

辻:(「A New Wave of Japanese Architecture」展の)このカタログの序文はケネス・フランプトン(Kenneth Frampton, 1930-)が書いていますね。磯崎さんがこの時に出展したのは(何ですか)。

磯崎:俺、覚えていない。どこか僕がまとめた本には載っていると思う。この時のレクチャーで、最初に行ったのがバークレーなんだよ。バークレーでマリリン・モンロー・カーブの説明をやりはじめたら、とつぜん女が立ち上がって「女性を侮辱している」と言って、怒りはじめたことがあるわけ。何か言っているらしいけど、俺英語わかんないふりして、まあまあまあと言ってなんとか事なきを得たんだけど。考えてみたらバークレーというのはフェミニズムの牙城だったわけよ、その当時。マリリン・モンローのカーブを切り抜いたわけだから。切り抜いてこれに天皇を座らせましたと言ったわけですよ。そしたら女性に対する侮辱だというので、もうこれは剣幕すごかったですよ。それで主催者がみんな青くなった。それ以来やっとアメリカのフェミニストが何かというのが理解できて(笑)。

中森:大変だったんですね。

磯崎:これはどっかに書いた記憶があると思います。あとはどんなことをお聞きしたいですか。

辻:あとは80年ですね。

磯崎:ニューヨークの話ですね。

中森:ずいぶんまだあります。アイゼンマンとの関係だとか、ヴェネチア・ビエンナーレ(建築展)のお話。

辻:あとは『文化の現在』の岩波(書店)の勉強会だったりとか。

磯崎:70年代で何かちょっと言い残したことはありますか。

中森:「間」の展覧会、企画の話ですね。伊藤ていじさん(1922-2010)との関係ですとか、そのあたりが最後の質問として残っています。ですからこれだけお願い致します。

磯崎:「間」展だけしゃべりましょうか。フランスというのは文化大臣というのがいて文化政策の発言をするわけですけど。アンドレ・マルロー(André Malraux, 1901-1976)というのがド・ゴール(Charles de Gaulle, 1890-1970)の(大統領の)時に、彼がかなり派手にやったから。文化大臣というのは重要なポジションなんですよ。アンドレ・マルローの後に、ジスカール・デスタン(Valéry Giscard d’Estaing, 1926-)(が大統領)の時に文化大臣をやったミシェル・ギイ(Michel Guy, 1927-1990)というのがいて。これがいろいろ、自分がいる頃につくったんだな。それで彼が辞めて、内閣が変わったから。彼はフェスティバル・ドートンヌの責任者みたいになっていた時があって。これが70年代ですね。それで80年代になってからミッテラン(François Mitterrand, 1916-1996)(が大統領)になってからはジャック・ラング(Jack Lang, 1939-)。これは演劇が専門の人です。このミシェル・ギイという人は、もともと音楽の人なんですね。そしてその時に、日本のフェスティバルの年にするというのを決めて。それを決めた理由はロラン・バルト(Roland Barthes, 1915-1980)が『エンパイア・ド・シーニュ(L’Empire des signes)』という、記号の帝国(注:ロラン・バルト『表徴の帝国』宗左近訳、新潮社、原著1970年、邦訳1974年)というのを書いて、フランスでベストセラーになった。ロラン・バルトに相談して、日本でもやりたいと、ついてはどうしたらいいかということで。日本でバックアップするのは(国際)交流基金しかないんだけれども、まずこちらから調査団を、まあ2人しか来なかったけど日本に派遣して、いろんな領域での動き(動向)を調べてくれと。そして本人が日本に来て、これで行くと決めるという、そういう仕組みをやって。これを持ち上げたというのは『エンパイア・ド・シーニュ』みたいなコンセプトでいくならば、日本の国がやっている交流基金やなんやらが考えるところとコンタクトしたらダメと。何も出てこないよと。やるならば直に、何人かの日本では信用されいてないレベルの連中を取り出す以外は無い、ということにしたらしい。それで3人の名前が出たんですよ。ひとりは大島渚(1932-2013)さん。ひとりは武満徹で、もうひとりが僕だったんですよ。それで大島はなんかいろいろ仕事を当時、抱えていたんでそう簡単にできないということで結局、無理だということになったんだけど。まあその後も大島はフランスのプロデューサーと制作なんかしたりしているんで、別に逃げていたわけではないんですね。それで音楽は武満がいいと。それでデザイン、美術に僕があたったというのがいきさつですね。それでその大島は断る理由で、これは僕は、いまだに大島はなかなか面白いと思っているのはですね、ドキュメンタリーを撮りたいと。そのドキュメンタリーはどういうものかと言うと、彼はもう完全にメジャーから外されて、そしてテレビで韓国系の犯罪者が死刑になる、死刑囚というドキュメンタリーをやったんですよ(注:「絞死刑」1968年)。彼はそういう60年代の新宿ラジカルの時代から、なんかもうちょっと文化ラジカルに変わろうとしていた時期なんですね。それでその提案は、天皇陵というのが発掘されてノータッチになっているんですよ、天皇陵の盗掘ドキュメンタリーをつくりたいと本気で言っているわけ(笑)。僕はこれは面白いと思って。日本は戦後になってですね、日本は騎馬民族に征服された国家であると、騎馬民族説というのが50年代にあって、江上さん(江上波夫、1906-2002)という人がいて、この人がだいぶいろいろやった、今は考古学的に否定されてますけど。ようするに僕は意外にあれで、モンゴルの騎馬民族が半島を通って、百済とか政権をつくりながら、高麗とか新羅とか。これで日本に侵入して、土着の縄文的なものをつくっていた連中を征服して弥生文化を作ったというのが、まあ僕の勝手な理解なんですよ。その時に韓国から侵略してきたというのがこの騎馬民族だと。その証拠が天皇陵に入っているはず。天皇陵を発掘したら、この証拠が全部出るからやれって言うけど、宮内庁はやらないということで明治時代からきていると。こういう状況があるわけよ。これの盗掘をやれというのが大島で。これは面白いからやれやれと言っていたんだけど、まあとうてい成り立つ筋書きではなくてつぶれた。だから彼は無いんですよ。そして武満は当時、60年代に現代音楽をやりながら、この中に日本の古代楽器、太棹三味線と長唄ですね、それと尺八を入れた、まあ彼の代表作みたいなものができた時で。ようするに日本的な音楽、つくられ方と、ヨーロッパ的なものと、かつそれをヨーロッパ的なものを壊している現代のアヴァンギャルド。これを絡めた上でプログラムつくろうと。若い作曲家の演奏会シリーズのプログラムつくった。これはまあ、さほど難しくはないと思う。坊さんの諸妙からはじまってこうだという、そういうアイデアだったわけですね。僕はじゃあどうしようかと思って考えているうちに、日本が海外にこれまで売り物にして、岡倉天心(1863-1913)以来いろいろ展覧会をやって、戦争中に大観(横山大観、1868-1958)をやったりした。北斎(葛飾北斎、1760-1849)が出れば当たるとかね、一切これをやめようと。そしてこれがデコンストラクションだとは僕は思ってなかったんですよ。僕はこう考えたんですよ。カント(Immanuel Kant, 1724-1804)は三批判書(『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』)を書く時に、2つの概念を批判の対象にする必要がないとしてよけている。これが空間と時間という、タイムとスペースなんですね。そしてあの批判書をみるとわかるけど、建築のことは何にも書いてないけど、建築というコンセプトで後半は全部、書いているんですよ。僕の推定は、ギーディオンがこのカントの3つの概念を取り出した。そして20世紀の始め頃に時空間という、これはミンコフスキー(Hermann Minkowski, 1864-1909)とかそういう人たちがタイム、スペースというように言い出した。それでマルセル・デュシャンなんてのは、その作品化をやってきたということぐらいは予備知識があったので。時間、空間というのがあると。それからその上に、建築というのもそのうちのひとつだと思いはじめたんです。この時は手がかりがなかったので。時間と空間を、じゃあ東洋はどうしていたかというと(そのような)概念が無かったんですよ。時間というのはクロノスなんですよ、日本では。時なんですね。時間、時計の刻みたいなものでクロノスですよ。それから空間というのは虚とかボイドなんですね。そうすると日本で誰が訳したのかわかんないけど。時間、これはクロノス・プラス・間なんですよ。それから空間というのはボイド・プラス・間なんですよ。時間、空間になっちゃうわけ。そして今の中国も韓国も、まあ建築も同じなんですけど、同じ用語なんですよ。漢字系の文化というのは、日本が翻訳したこれできている(用いられている)ということは、時間、空間というのは、われわれは昔から全世界的にあったと思っているけれど、単純にこれはヨーロッパのギリシャ以降の哲学というか。基本的な概念としてはできあがっていたけど、東洋のインド由来、中国由来の哲学の議論なんか、そんなに関係無かったんだと。アラブも関係無い、イスラムも。こういうことがわかったんですよ。それで時間と空間が無かった日本で、時間と空間を言おうとしたら、これは両方、概念が入っているだろうというので「間」という展覧会にしようと。それで絶対に「間」という一字でやってくれというので、シナリオをまあ僕がつくったというのがその頃で(注:「日本の時空間 間」展(パリ装飾美術館、1978年5月~10月)。クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館やヒューストン現代美術館、シカゴ現代美術館、ストックホルム文化会館、ヘルシンキ市立美術館に巡回)。それはそれでいいということになったんだけど、じゃあこれをどう説明するか。それで結局わかったことは、僕のそれまでの海外との非常に短い時間でのやりとり、つきあいというので、まあ何はともあれお前は何かあるとすぐに日本(的なもの)に逃げこんでしまうと。「日本を持ち出したりして迷惑だ」というのが西洋、ヨーロッパ、アメリカの連中の批判なわけですよ。それに対して「それならお前たちのしたいようにするよ」というのが、この「間」展の、つまり成立根拠を揺すればいいんじゃないかと。その後、僕がデリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)に関心を持ったのは、彼はそういうやり方をデコンストラクションと言っていたというのがわかってきたので、つきあいをはじめたわけですけど。だから日本で「間」展を、その後にフランスと日本のシンポジウムがあって、日仏サミットとかいうやつで(注:日仏文化サミット(1984年~)を指す。朝日新聞社編『文化の将来:日仏文化サミット』(朝日新聞社、1984年)を参照)。それで僕は壇上に出て、みんなフランス人がみんな「間」のことを喋る。日本の代表者は何にもわかんないわけ。なんでフランス人が「間」なんて言うんだって。それで僕も説明がつかない(説明できない)うちに、デリダはこの次のパネラーだったんだ。会場にいて。それで彼は立ち上がって、滔々と、フランス語で言うとn’est ce pas moiと訳されている、ディスタンスでもある、ギャップでもある。こういうすべては彼のDifféranceの概念(規定)だけれど、これを時間と空間の中で展開すると、こうこうこうなんだというようなことを滔々としゃべって。また全員わかんなくなったんだよ。わかんなくなったんだけど、助け舟を出してくれたという、こういういきさつが80年代のはじめ頃ですね、あったんですが。そのはじまりがその「間」展なわけですよ。その「間」展の時に僕は、間そのものを論じても日本人はみんなわかっているんだから、日本人に説明する必要は無いと。ところが何を説明してもヨーロッパ人には伝わらないと。じゃあこれをどうしたらいいかということで、間に関わるような一つの事象をヨーロッパのロジックで説明する。だから翻訳。日本語の説明ではなくて、翻訳された説明だけにしぼるために書いたのが「間」展の文章なんです。だから僕のスタイルじゃないんですよ。というかヨーロッパのロジックでひたすら日本のそういうものを分析している、説明して書いていった。その中に例えば「橋」があるとか「闇」とか。それから「うつろい」とか、どんどんどんどんみんなわかんなくなる。これがなんで「間」かと言うけれど、時間と空間が入っているわけですよ。

中森:あのカタログのグラフィック・デザインは、いまおっしゃったように面白いのですが、あちらの方と磯崎さんとの間でコンセプトとデザインを出したんですね。

磯崎:これは最初から杉浦康平に頼んだんですよ。杉浦康平がやったのは、まだこっちも説明が曖昧だし。この「間」展というのはパリで、おおげさに言うと戦後最大のヒットした展覧会だったんですよ。それでフランスのインテレクチュアル(知識人)の間で「「間」展を見たか」というのが挨拶の言葉だったんです。

中森:キーワードだったんですね。

磯崎:そのくらい流行ったんですね、その時は。当たったというか。ポンピドゥーのいずれ館長になった「大地の魔術師」展(Magiciens de la terre, Centre Pompidou, 1989年5月18日~8月14日)あれのプロデュースをやった人なんだけど(注:ジャン=ユベール・マルタン(Jean-Hubert Martin, 1944-))。彼なんかは自転車でポンピドゥーから毎日、ミュージアム・デコラティブ(Les Arts Decolatifs, パリ装飾美術館)まで通ったんだよと言っているくらい、みんな関心を持って取り上げてくれたんですけど。日本はこんなの普通だからいいよって。だから日本には(当時はこの展覧会を)持って帰らなかったんですよ。それでアメリカに行った(巡回した)わけ。それでジャパン・ソサエティが段取りするからって。それならもういっぺんきちんとつくってくれというようにして、英語版を作ったのがあの時のカタログ。これが残っている。これはなんか未だにアメリカからちょいちょい問い合わせが来ますね。論文に使いたいとか、ドクター論文(博士論文)がどうだとかとかどんどん(問い合わせが)くるんだけど。そういうのがあると。そしてこの時に僕はどういうかたちでやったかと言うと、つまり直接説明できないから関連の事例で、例えば神籬(ひもろぎ)というのは完全なボイドなんだけど、そこに神が降臨するという、そういう場になっていると。それを4本のポールで注連縄を張ってあれば(場は)できるんだと。こういうことを説明するために、単純に神籬だけを会場でつくると。それでまあバック(背景)が無いといけないから、長谷川等伯(1539-1610)の《松林図屏風》をバックに使えとか、そういうレベルで組み合わせてやった。そしてこの時のアーティストは誰にしたかな。つまり一人ずつ現代アーティストに作品を頼んだんですよ。

中森:三宅さん(三宅一生、1938-)もたしか入っていましたよね。

磯崎:理一(三宅理一, 1887-1979)がちょうど留学している最中。彼がコーディネーションをやってくれたんですよ。フランス語がこちら(日本側の関係者)で喋れるというのは誰もいないから、理一が全部、コーディネーションをやった。

辻:この神籬とか項目に分ける方法は、もちろん手法論などの影響もありますが『日本の都市空間』から続いているやりかたですね。

磯崎:そこから説明上、続きみたいなことはありますね。あとは作家が何をやってくれるかということで、今度は現代美術の日本的な部分というものを。だけど表現は日本的に見えちゃいけない。メタ批評をやるということを具体的に考えていくと結局、ここに行き着く。いわゆるコンセプトのデコン(ストラクション)。そんないきさつがあって、70年代で関わっていることはいろいろとつながってますけどね。

辻:80年代以降のお話についてですが、1979年に《つくばセンタービル》の設計がはじまります(1983年に竣工)。また1980年には《ロサンゼルス現代美術館》の設計が始まりますが(1986年に竣工)、アトリエも(神楽坂から乃木坂へ)移転された時期だと思います。当時のお話をお願いいたします。

磯崎:つくばっていうのは、もともとこれは提案コンペでやっていたもので、今でいうと公立系をやるためのプロポーザル(注:国や地方の自治体が設置する役所や学校、病院、美術館など、いわゆる公共建築の設計者を選定する方法)と同じですが、つくばっていう都市は戦後の日本が、戦前も含めて近代の日本がつくった都市だ、というのは僕も理解をしていて。そしてそれはどういうことかというと、巨大な団地はたくさんできたんですけど、街ごとつくるというのは(日本国内で)もう(ほとんど)ここだけなんですね。日本の都市計画に関して、調査研究のレポートがもう膨大な数が、委員会としてつくられたといういきさつがあって。そして大学(東京教育大学)の移転なども含めて、つくばのできあがり方というのは、いうならば近代国家としての日本が都市をつくる能力があったか無いかという、この基準だと理解をしていた。つくばは槇(文彦)さんがかなりやって(設計して)いる。それからつくばの手がかりになっているタワーがあるんですが、これは菊竹清訓(1928-2011)がやったとか(注:《松見公演展望塔》1976年)、まあいろいろな人がやっていて。そして最後に、この都心のセンタービルというのをどうつくるかというのになったんですね。もう何人か覚えていないんだけど「提案をしろ」と言われて。丹下(健三)さんが基本的につくばの(計画)プロセスから外されていたわけですから、僕もつきあわなかった。東大でいうと高山さん(高山英華、1910-1999)の研究室と吉武さん(吉武泰水、1916-2003)の研究室の、計画系の2つ(の研究室)が中心になって動かしてきた。ですからマスタープランなんかも高山研でやった(計画した)はずです。それから大学移転のことから大学のデザインなどはだいたい吉武さんのところ(研究室)が中心になっていて、それでかつ建築家としては槇さんが選ばれているという、こういう仕組みになっている。それでじゃあ今度、そのセンターをどうするかって提案をする時に、僕は日本の近代都市に欠けている、近代都市の抽象的な、欠けている要素というのを拾い上げて。だから全部、批判ですよ、そのつくばセンターを計画している(日本)住宅公団、都市開発公団(注:住宅・都市整備公団。現在の都市再生機構)ですね。ここの連中に、彼らがやってきたことを丸ごと批判する文章を出したんですよ。そうしたら連中も本当はよくよく考えてみて、うまくいっていないということだけはわかっていて。どうしていいかわかんないっていうのが本音ではあった。その時はそんなこと知らないですから。他の人(プロポーザル)はみんな、つくば(の都市計画)はよくできたからこうしなさいというレポートだったんだけど、僕だけ裏をかいちゃったんです。それでじゃあこいつ(磯崎)にやらせるかと、こういう事態になったと聞いているんですね(注:日本住宅公団との取仕切りは鳥栖那智夫らが行う)。ですからもともと近代都市を批判するということは、ある意味で言うと日本の近代社会としてできあがってきた、日本のつくられた方そのものに、都市の(デザイン)というか、建築のデザインについてどういう疑問を投げかけるかという、その問いかけがデザインになるべきだと僕は考えたんですよ。それはどういうことかというと、70年代の半ばに戻るんですが、僕は「建築の解体」ということを言ってきたというのがありますが、解体というのは何を解体したかというと、建築という概念を解体しようとしている、その動きが世界でどうなっているのかということをやっていた(紹介した)だけで。決して「都市」を壊せと言っていたわけではないというのは、まあわかっているわけですけど。この「解体」の最後に、まとめになる文章を書いて。これはどういうことかというと、主題が不在になってしまった現在、「主題が不在である」ということを主題にすべきである。だから何か仕事をする、建築の設計をする、思考をする、都市をつくるというのは、主体がなにかやるわけですから。その主体が20世紀の段階ではユートピア、近代の社会の理想型というものを目指していた。だけどこれは、目指したというこのこと自体がいま、目標が消えてしまっているのではないか。にもかかわらず建築家は設計をしなくてはいけない、都市はつくられなくてはいけない。人間が住む場所というのは最低でも必要だからつくらないといけない。だけどそれをやるために組み立てた日本、近代というものの基本、構造が挫折、無くなっている。それが終わったのは70年というように考えているわけですけど、そのピークは別にあったということですね。言い換えると、大阪万博というのは「未来都市のモデル」という謳い文句できたんですよ。そしてこの万博ができあがって大成功したということは、つまり未来都市がもうできちゃったんだから、未来は終わったんだというように見るべきなのに、みんなああいうかたちで未来、未来と言って日本列島改造をやっている最中でしたから。逆に水かけて、もう終わった未来を今更つくる必要は無い。しかもそこ(つくば)で目指した目標というものが全部消えてしまっている。その中で、極端に言うと空っぽのつくばの状態ができあがって、つくばのセンターにはじゃあ何をつくったらいいのか。こういうパラドキシカルな問いかけが必要だと思って、批判をしたということが言えるわけなんですね。つくばセンター(ビル)をつくるにあたって主題が無い、何も誰も目標が見つからなくなったこういう社会の状況の中で、何かをやると何かがかたちとして出てくる。そしてそれは歴史的に日本の近代をみていると、こういう空白の状態になった時に、言うならば括弧付きの「日本」というものが出てくるんですよ。まあ国家的なプロジェクトの、小さくても中心ですから、この国家のプロジェクトの中に「日本」というものが浮かんで来たら、これは戦争中にみんな日本主義にはしった時に挫折したから誰もできなかったけど、これがもしかしたらできるかもしれない。しかしこれはつくるということが、言うならば妙な怪物を、「日本」というものをこの中に引っ張り出すつまらない結果になるのではないか。これをずっと60年代に批判しようとしていた。いろんなアングラも含めた動きの中で、今更なんだと思っていたことは確か。ところが建築という、都市とかいうものの構造を見ると、形式を通じて、なにか滲み出てくるものがあるんですよ。デザインの主体にこれまでなってきたものであったわけなんで、こいつを出てこないように消してしまうという。この形式が自ら生み出していくある種の主題に当たるようなものを封鎖するというか、閉鎖するというか、出てこないように蓋をするためには一切、日本的なものが匂わないようにしようというのが僕の戦略だったんですよ。これはある意味でいうと、その後の流行の中でリプレゼンテーションというものが、表象というものがでてくる。まあデモクラシーというのもリプレゼンテーション(代表)のシステムでもあるわけなんですけど。原理的な表象。表象文化論、東大の表象(文化論研究室)なんていうのはみんなそれにひっかかって出てきた類いのもので、表象っていうのが必ずあると。これを一体どう理解すべきかという時に、この表象の、リプレゼントするということの意味をもういっぺん問いかけるという。これが前に話をした自己言及的な問いかけの、僕にとってのメタ、メタクリティックのポイントだったんですね。そしてこの当時はもう一つ、これは文学や美術で議論されていたであろうと思うんですけれど、インターテクスチュアリティーというものがあったと思います。これはようするに、日本では間テクスト性と訳されているんですが、簡単に言うと世の中にはかつて書かれたり語られたり物語られたりするものにいくつかの原型がある。それはテキストとして存在しているわけだけど、テキストがオリジナルであると誰も証明できない。簡単に言えば、世にオリジナルなんて無い。何かをやると、かつてのテキストの一部を反復しているんですよ。つまり歴史がはじまって以来、ごくごく歴史になってきたというのかな。例えば『オデュッセイア』が書けたと。そしたら仮にジョイス(James Joyce, 1882-1941)が書いたものは全く違うテーマで、一日ダブリンの中でうろうろしている物語なんだけれど(『ユリシーズ』)、これは結局、書き方で、あれだけ文章を凝りに凝って書いても『オデュッセイア』の読み替えに過ぎないと。すべてがそういうようになっている。それで近代建築の議論の中でこれを無意識的にやっていた、コーリン・ロウの論文がありますね(注:Colin Rowe, “The Mathematics of the Ideal Villa,” Architectural Review, 1947.「理想的ヴィラの数学」『マニエリスムと近代建築』(伊東豊雄、松永安光訳、彰国社、原著1976年、邦訳1981年)に所収)。この時期に注目を浴びた理由は、単純に構造(への)意識があったわけですが、コルビュジエが頑張って1920年代にたくさん住宅をオリジナルとしてつくったかのごとくに見えても全部、パラーディオ(Andrea Palladio, 1508-1580)がつくっていた。(コルビュジエは)それの読み替え、つくり替えだというのが、彼(コーリン・ロウ)のあの時の「理想的ヴィラの数学」のポイント(論点)ですから。これはある意味で言うとインターテクスチュアリティーの一つの事例だったわけですね。これを歴史上のすべてにおいて、もしそういうふうにして起こる現象だとしたら、オリジナリティそのものを芸術家の評価の基準にすること自体がおかしくなってくる。つまり基準、根拠にすべき基準がもうそこに無いんだと。そうすると単純に、それはまあ直感として、われわれは50年代には、モダニズムに対して遅れてきたと思っていましたから。モダニズムを否定するか、どうするかと思っていた時に、その中で何人かがモダニズムの中で、モダニズムというスタイルをつくろうとせずに、自分の行為だけを作品の表現として、表現の結果を問わずに行為だけを評価することがアーティストの仕事だとポロックやケージが言っていたことに、僕は一番影響を受けたんです。テキストのオリジナリティやその表現の良し悪しじゃなくて「やっている」ということ、それを手法と僕はその時に言おうとしたわけですよ。手法論を書いた理由はこれだったんだ(注:磯崎新『手法が』美術出版社、1979年)。その時に僕はインターテクスチュアリティーっていう言葉は知らなかったんですよ。そういうものを見ていて、さっきちょっと名前が出た宮川淳は無意識的にインターテクスチュアリティーを考えながら、装置とか、機械とか、こういう種類のメタファーとして(磯崎は)仕事をしているという捉え方を、彼がはじめて僕のもの(設計した建築物)を見て言ってくれて(注:宮川淳「〈手法論〉の余白に」(『Même』(春号、1975年)が初出。『宮川淳著作集1』(美術出版社、1980年)に所収)。これが彼の群馬論だったわけなんですね。そういうのがあったと。だから70年頃に僕は、そういう主題の不在ということが言えるようになった背景には、宮川淳とそういういろんなやりとりをずっとやってきたからといういきさつがあるんですよ。さてそれで、ここで出てきたものを、「間」展もやったけれど、「間」展の他に具体的な作品、設計でどうするのかという時に、まあおおげさに言うと日本以外のすべてを引用すると。こういうやりかたを考えはじめたのが、ちょうどこの《つくばセンタービル》のはじまりみたいなものなんですよ。《つくばセンタービル》はだからそういう意味で僕にとってみると、日本的なもの、あるいは日本という近代国家の象徴を組み立てていく大きな主体を一切消したときに形式だけが残る、その形式というものも実は、かつてあった形式を単純にギリシャであろうが、ルネッサンスであろうが、そういうところからディスプレイスメントする(置き換える)ことによって集めたに過ぎないと。それだけでこの(敷地の)面積で、必要な機能で、必要なものを形式として組み立てればいいじゃないかと。これはある意味で言うと、もっと長い目で見たら、社会主義リアリズムの一種の主題主義、サブジェクトイズムみたいなものなんですよ、社会的に、民衆のために、それから未来のためにという。この主題というものを一切消して、自動的に形式が集まってきて、自動的に作動している。この仕組みをどうやったらつくれるかというのがむしろ、近代が失敗した後の僕らが唯一やれる見込み、方法じゃないか。その一つの事例としてつくばを引用だけで組み立てる。引用というのはさっき話に出た美術のアプロプリエーションとほとんど同じなわけですよ。具体的に言えば例えば《草上の昼食》の分析なんてみんなやるわけですよ。マネ(Édouard Manet, 1832-1883)もピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)もそれを描くわけですね。その前にプッサン(Nicolas Poussin, 1594-1664)かなんだかというのを歴史的に、この格好してるポーズは誰からどこからきてるとか、全部あるわけです。こういうのを単純にああいうスキャンダラスな絵にするというのは、これは絵画そのものというより、絵画のもうすこし別の次元の捉え方。これはつくばというセンターにものができるということと同じことだというように僕は理解した。そしてそういう理論的な背景を組み立てようとしながら、基本的に日本的な社会が望んでいるいわゆるシンボリックな一体感を持った建築様式というようなものを、どうやって消すかという目標で取り組んだのがあのデザインで。結果としてどうなったかは別なんですが、いろんな人がいろんなことを言ったわけなんですよ。それは『建築のパフォーマンス』(Parco出版、1985年)という本に出ているんですけど。まあ外国での意見は、グレイブス(Michael Graves, 1934-2015)は「どうして日本の国のこういうところで、日本的なものがなぜ無いのか」という批判をするわけです。消しているんだから、僕からしてみれば彼の批判はこのことを評価してくれているという、こういうぐらいのことですよ。そんなこんなでいろいろやっているうちに、世の中はポストモダニズムという、ヒストリシズム(歴史主義)としてのポストモダニズムというものが出はじめたと。たまたま引用元が全世界に散らばっていたから、これをヒストリシズムとして見られる(理解される)恐れがあったんですけど、実際にそういうふうに読んだ人が多いわけ。日本でも藤森(照信)も鈴木(博之)も結局、みんなそう読もうとしていたというのがあの時の状況だと思いますね。それで僕にしてみると、極端に言うと僕がリヒターを評価する理由というのは検討つくだろうと思いますけれど、リヒターというのはそういうかたちでなにかを膨大なエネルギーをかけてやっているけれど結局、何も表現していないという。そして何も表現していなかったということが表現できている、非常にすくない(稀有な)作家であると僕は思うんですよ。それが僕が評価している一番のポイントです。僕のつくばの時の方法論を読み替えたら、そういうふうに読んでくれる人もあってほしいと思うんだけれど、いままで無いですから(笑)。まあそうなっていると。いったんこういうスケールの事件を起こすと、いろんな種類の派生的な意見というのが出てくるから、なんとも一本調子で説明ができるものではないのですが、まあこうなったと。その揚げ句にですね、結果的にみると僕は批判するように考えたつもりなんだけど、これは中央、センターと言っている。センターということは都市の、あるいは国家の一つの体制の中心であるという。典型的な例がカンピドーリオ(Piazza del Campidoglio)だと。それでカンピドーリオでミケランジェロ(Michelangelo di Buonarroti, 1475-1564)のああいう楕円形のかたちがある。これはつまりローマが世界の中心ということを示そうという、ローマ時代のコンセプトの反復的な再現だと理解できるわけですね。楕円が凸面鏡になっているんですよ、あれは。凸面鏡の真ん中にたまたま当時掘り出されたアウレリウスという、ああいう像がここに出て来るわけですね。だからここは世界の中心。ローマを超えているようなもの。中心というものはこれなんだと理解した場合に、同じ名前でセンターという名前がついているわけですから、そこでこいつを全部裏返したわけですよ。白黒を逆転して、そして一番高い所を一番低いロビーにして。水が全部そこに流れ込んで終わりということにして。そのマルクス・アウレリウスのようなああいう騎馬像は地中に消えて、水がぼこぼこ出ているだけだという、こういう仕掛けにしておいたというのがこのセンターのデザインですよ。それでみんなが批評したことは、ミケランジェロをコピーしたにすぎないと、こういう批評なんですよ。下敷きにはしてあるわけ。下敷きにはしているけれど、それをそういうように反転させてディスプレイスメントしてかつリバースして、そして実を虚に置き換えたというつもりでいたんですが。その頃に浅田彰(1957-)というニューアカ(ニュー・アカデミズム)の人が登場して、彼は「そう言うのはもっともなんだけど、結局これは日本の天皇制という、天皇がネガティブに存続して、これが統治の一つの仕組みを組み立てているのと同じなんだから、これは天皇制を表現している」と彼は言い切ったわけですよ。それからずっと彼とつきあいが始まったのは、そこまで読むやつが日本に他にいなかったんですよ、まあはっきり言うと。建築の業界は未だにそんなことには無関心ですから。そのことが起こった時に、まあ話はどんどん先に行っちゃうんですけど、発表したんですよメディアに。建築の雑誌とか。そしたらあれはクーパー・ユニオンかな。クーパー・ユニオンであそこに講堂があるじゃない、リンカーンが演説した。バルコニーがアイアン(鉄製)っぽくて。あそこの壇上に10人くらい当時のアメリカの批評家(がいた)。そしたらあの時いたイギリス人で、この人はなかなか立派な人で、コーリン・ロウみたいな、建築家で、建築論をやっていた人です(ロバート・マクスウェル(Robert Maxwell))。まあ彼とかイギリス系が三分の一くらいいて、それであとはニューヨークが三分の一、残り三分の一はアメリカの近くから。シンポジウムでは僕もパネラーになったわけです(注:講演「つくばシビックセンター」クーパー・ユニオン、1983年10月20日。主催はアーキテクチュラル・リーグ)。この《つくばセンタービル》だけであの大講堂が(聴衆で)満杯になっていて、ということはアメリカに建築的なトピックスが何も無かったということでもあるわけですよ。そしてこういう発言がおこった。だからポストモダニズムうんぬんというようなことがどうも東京を中心に動いていたということもあるけれど、その時代の一番の関心を、いろんな美学とか思想のレベルの問題に置き換えることはおもしろい、こういうことをやりたい奴らを集めた(注:司会はC・レイ・スミス、他の登壇者はケネス・フランプトン、ダグラス・デイヴィス、マーティン・フィラー他)。それであれやこれやと批判されたけど、もういっぺんきちんと説明しろよというようなことを僕は言われたわけですね。それで僕がその時に言ったのは、たまたまミシェル・フーコーの『言葉と物』(原著1966年、邦訳1974年)の《ラス=メニーナス》の読解を、日本=天皇に置き換えて説明しようとしたのだれど、おそらくこの説明は伝わらなかったでしょうね。不在の王を描きながら不在の王がいた絵画という、こういう解釈をした。そして日本(的なもの)を取りあげたくないために、日本というものをどこかに沈めてしまう。そして侍女たちや犬やら何やらをずーっと周りで見ているじゃないですか《ラス=メニーナス》は。その見ているということと同じような取り組み方を(《つくばセンタービル》では)実は引用の集積でやっている、という説明をその時にして(注:磯崎新「不在者としての王の位置」『SD』(1984年1月)『建築のパフォーマンス』(PARCO出版局、1986年)に所収)。それでその前に都市、国家、建築、「都市、国家、様式を問う」という、言うならばごく常識的な、都市から撤退した僕が都市をどう批判するかという、建築の伝統を整理した文章を書いたの(注:磯崎新「都市、国家、そして<様式>を問う」(『新建築』1983年11月)『建築のパフォーマンス』(PARCO出版局、1986年)に所収)。建物ができてシンポジウムがある。この時に書いたやつを足して、それで今の論理にしたというのがいきさつなんですね。そしてちょうどその建物ができた直後くらいに槇・磯崎二人展というやつを、まず東京で立ち上げたんだ(注:「槇・磯崎アーキテクチュラル・フィールド・レポート:《つくばセンタービル》シノラマ、模型、青図」展、アクシスギャラリー、1983年10月14日~25日)。そしてニューヨークに行ったんですよ(注:「New Public Architecture: Recent Projects by Fumihiko Maki and Arata Isozaki」展、Japan House Gallery、New York、1985年5月21日~6月30日、キュレーターはアレクサンドラ・モンロー)。ですからその時はいずれにせよこういうかたちであったんですね。槇さんは真面目にちゃんといろんな自分の作品を整理して展覧会を組んで。僕はまたそういう事態でいくら(そのようなことを)やったところで、ことが(観客に)通じないというのがわかっていて、展覧会の形式をとらずに、会場に2つ、ものを置いたんですよ。ひとつは《つくばセンタービル》の工事現場で使った図面。石の割付(の現場図面)もあるし、パイプの実尺とか。これは普通、(工事)現場で使うものなんですよ。まあそれを見ながら現場をやっているわけです。この図面はできあがったら(建築物が竣工したら)廃棄します。これがちょうど終わった時だから、全部集めてきて会場に図面を(設置した)。それと前にジョン・ソーンのバンク・オブ・イングランド(イングランド銀行)の廃墟をこの《つくばセンタービル》に読み替えたものを描いたんですよ。これを日本から持って行ったのかアメリカでやったのか。何はともあれ当時、インクジェットのプリントがやっと出た、これくらいの。これにこの大きさくらいに廃墟の図面をプリントして、壁にかけた。片っぽは工事図面、この2つで。これは川俣(川俣正、1953-)が新聞を並べたとか、最近いろいろあるじゃないですか、この手のインスタレーションのような状態だったんですね。相変わらずニューヨークでも受けないし日本でも受けないし。でもみんな議論だけはするわけです。それは結局、現代思想に対する問いかけみたいなのがあったということだけが残ったというのが《つくばセンタービル》ですね。それが《つくばセンタービル》の話で、日本では単純に人騒がせな事件だと。クーパー・ユニオンの講堂では真面目に議論された。というのは風土として、日本じゃこの手の議論は誰もやっていなかった。アメリカでは『オポジションズ』や『オクトーバー』のような(建築理論や批評のための)議論の場があるためでしょうかね。クーパー・ユニオンで開催されたのは(ジョン・)ヘイダック(John Hejduk, 1929-2000)がもしかしたら関係しているかもしれない。

中森:坂(茂)さんが行かれる前ですよね。坂さんはクーパー・ユニオンで、ヘイダックの学生ですね。

磯崎:坂は帰ってきてうちに来たのが80年代の終わりくらい。これは(80年代の)はじめですね。まあそういうのが最初の質問ですね。次の質問は?

辻:本日聞こうとしていたのはロスの現代美術館、あとはヴェネチア・ビエンナーレの(建築の)第1回展。

磯崎:これは80年代のことですね。

辻:そうです。あとはメンフィスの結成。あとはアイゼンマンの「P3」(建築家会議)のお話だったり、パラディアムの話。

磯崎:ああ、シャーロッツヴィルですね。

辻:はい。また日を変えてお聞きする機会を。

磯崎:それはもう、たとえばニューヨークの裏話をするなら山とあるので。

辻:どこかでお話いただければと思います。本日はこれで終わらせていただきます。ありがとうございました。