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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

和泉達 オーラル・ヒストリー 第1回

2014年4月26日

ルノアール新橋汐留口前店にて

インタヴュアー:河合大介、渡辺くらら、宮田有香

書き起こし:渡辺くらら

公開日:2014年12月31日

インタビュー風景の写真
和泉達(いずみ・たつ 1940~)
美術家
ハイレッド・センターの4人目の正式メンバー。京都に生まれ、戦時中、島根に疎開。60年、東京芸術大学美術学部彫刻科に入学。3年次に裸婦像の課題でコッペパンを制作したが認められず、それを機に退学。63年7月に初個展、同年10月に第二回個展を内科画廊で開き、鑑賞者に自発的行為を促す独特な展示を行う。この個展をきっかけにハイレッド・センターに誘われ、その後メンバーとして活動。70年代以降はテレビコマーシャルの制作ディレクターとして活躍し、その後は、制作の対極に位置するマネ―ジメント業に徹した。1回目のインタヴューでは、幼少期から大学進学まで、2回目は、大学時代からハイレッド・センターでの活動を中心にお話しいただいた。2013-14年に開催された『ハイレッド・センター:「直接行動」の軌跡』展後に行われたこのインタヴューは、同展覧会図録を参照しながら読んでいただきたい。インタヴュアーは、東京文化財研究所で日本の現代美術について調査・研究を行っている河合大介、論文「赤瀬川原平の『反芸術』」で大学を卒業したばかりの渡辺くらら、当アーカイヴ・メンバーの宮田有香が務めた。

宮田:では、さっそくですが、お生まれからお伺いしたいのですが。1940年生まれ。

和泉:そうですね。10月の17日です。生まれた場所は、京都のですね、右京区、御室というところですね。

宮田:御室。御室の桜で有名なところですね。

和泉:御室、そうです。嵐山、ちょっと言えば嵐山に近いところですね。東映の撮影所だとかそういったところがあるところですね。だから私の氏神様は北野の天満宮という、ええ。

宮田:そうなんですね。じゃあ勉強の神様ですか。

和泉:菅原道真の、ということですね。そこで生まれて、ま、その後また疎開するんですけれども。中学校の頃でしたかね、あの、父に連れられて、一度だけその生まれたところにですね、行ったことがあるんですけれども。ええ。そんな感じです。

宮田:よくご家族から生まれた時のお話とかって聞かれました?どんな日だったとか。

和泉:そんなに、……(笑)。

宮田:こんな時に生まれたんだよ、とか、そういう。

和泉:その時代ですから、そのすぐ直後、第二次世界大戦にこう入っていくわけです。父はですね、…民芸品っていうかあの、工芸家だったんですよ。で、いずれ、おじいちゃんのですね、島根の田舎にいわゆる疎開で帰るわけですけれども、京都にはだから父がその修行(修業?)でですね、京都に出てきてたのですね。

宮田:お父様はお名前はなんておっしゃるのですか。

和泉:いわお、です。

宮田:どういう字ですか。

和泉:あの、山へんの。巖(がん)ですね。それでえっと、作家名はしゅうがくといって、あの、優秀の「秀」と、御岳(嶽)山の「岳」ですね、ガク。という名前を一応持ってたんですね。

河合:いわおさんの「お」は…

和泉:いや、一文字。巖。ガン。

宮田:へえ、かっこいいお名前ですね。

和泉:いや、結構ありますよ、巖って。いや、あのう…どういうあれで生まれたとかそういうことは聞いたことはないですけどね。

宮田:民芸家、工芸家ってどういうものを作られていたのですか。

和泉:えーっと修行(修業?)の時代はですね、京都にはいろんな工芸がありましてですね、京都の、欄間ですね。お寺だとか、欄間がありますね。そういった方が京都でたくさんいらっしゃって、そこに弟子入りをしてたみたいですね。だから、最後の頃は、比叡山の延暦寺の、その欄間の改修だとかなんか、そういったところにこう携わったと言って。大きくなってから連れて行って見せてくれましたけどね。

宮田:お父様は、島根からいつぐらいに京都に。幼い時というか、修行(修業?)というのはだいたい十代とかで?

和泉:十代だと思いますね。当時の旧制の中学校ですか、を卒業して、京都に来てますから。

宮田:京都にお知り合いがいて、とかいうわけではなくて。

和泉:いや、全然ない、だったんですよ。

宮田:苦労されたりして。

和泉:うん、そんな感じは、ええ。あまり言わなかったですけどね、たぶんそうだと思います、それは。

宮田:京都で、和泉さんのお母様と出会って、ご結婚されて。

和泉:いや、えーっとですね、田舎で結婚したみたいですよ。母は学校の教員をしてたみたいで。

宮田:島根の学校。

和泉:そうですね。

宮田:お母様のお名前を伺ってもよろしいですか。

和泉:美子(よしこ)ですね。美しい子の。代々おじいちゃんも教員をしてて、その田舎の学校のまあ校長みたいなところまでいったと。で、だからだいたいそういう比較的堅い(笑)、ただ、お父さんは、父は、次男坊だったんですね。だからそういったこともあって。長男は、父の長男(兄)は、やっぱり先生を、教師をしていたみたいです。

河合:先ほどの祖父というのは、父方のということですかね。

和泉:そうです。ええ、ええ。

宮田:お母様は何の先生だったんですか。

和泉:いや、小学校ですから、総合ですよ。ジェネラルですよ(笑)。

宮田:じゃあ島根でご両親が出会って、京都でお生まれになって、すぐに疎開をされたんですか?

和泉:えっと…ですからだんだん戦争が始まって、第二次世界大戦が始まって、えー、帰ったのは…だんだんだから、京都も、危ないというふうなことでですね。帰ってきたのはですね、3歳か4歳ぐらいだと思いますね。島根県の、益田市というところ。昔はだから市でなくてですね、古い町。たかぎちょうという、「高い」「お城」ですね。高いお城で高城。村、村です、昔はね。そこは、おじいちゃんがそこにいたものですから、はい、そこに帰ってきたという。

宮田:京都から島根に行く時のことって覚えていることは…。

和泉:覚えてない。全然覚えてないですよ(笑)。

宮田:そうですよね、3歳ですもんね(笑)。ご兄弟はおられたのですか?

和泉:ええ、あのー、兄二人いました。はい。

宮田:お兄様とは何歳違いですか。

和泉:えーっとね、結構離れてるんですよ。で、長男はまもなく召集というか、海軍兵学校ってご存知ですか。そこに行ってますから。もうただ、そこに入ったのもほとんどもう、最後ぐらいですね。と言いますのは、もう一年上の先輩はもう戦地に行ったとかですね。海軍ってのは例の人間魚雷だとかそういったことをしたわけですから。もう一つ二つ先輩はもうほとんどいないぐらいですね。そういう。だから、めぐり合わせという意味ではですね、何度も言ってましたけれどね。

宮田:二人目の、次男のお兄さまは、何歳くらい年が離れていたのですか。

和泉:えーっと、10歳くらいですかね。はい。

宮田:かなり年の差があるんですね。

和泉:そうですね、はい。

宮田:すごい可愛がられたんじゃないですか。

和泉:たぶんそうですね、まあ (笑)。

宮田:お父様とお母様が何歳の時のお生まれになるんですか…すみません(笑)。

和泉:いやちょっとそれは(笑)、 覚えてないんですよ、本当は覚えてないといけないんだろうけど。

宮田:はい、大丈夫です(笑)。 じゃあ、3歳で島根に移られると、それまではご家族5人暮らしから。

和泉:そうですね、はい。

宮田:皆さんで一旦は疎開されるんですか。

和泉:そうですね、はい。

宮田:じゃその、島根の高城村の、お父様方のおうちに。

和泉:そうですね、おじいちゃんですね。はい。

宮田:行かれて、その後その、おばあさまとおじいさまがおられたのですか。

和泉:そうですね。ただですね、おばあちゃんは比較的早く亡くなって、私もあまり記憶が実はないんですね。おじいちゃんの方は長生きをしまして。ずっと、しばらくは一緒に生活をしてましたけどね。

宮田:幼い頃はどんな遊びとかされてましたか。

和泉:いやもう田舎ですから、当時の遊びで言えば、えー、ビー玉だとかですねメンコだとかですね、あらゆる遊びはだからしてましたね、コマ遊びだとか。だから季節に応じていろいろこう変わってくるわけじゃないですか。で、夏なんかはもう、すぐ川がありますからね、川とか海があるから、そりゃもう。当時はあれですよ、あのー、お昼ごはんを、夏休みなんかはお昼ごはんを食べたらですね、すぐ泳ぐことなんですよ。

河合:ちなみに、疎開されてから終戦後も島根の方にいらっしゃったのですか。

和泉:そうですね。私は高等学校卒業までずっと島根にいましたから、はい。

宮田:高城村っていうのは、島根県の中でもどういう地域ですか。

和泉:えーっとですね、津和野ってご存知ですか。島根県のずっと西の方ですけどね。あそこにですね、津和野…そうですね、山陽線がありましてですね、山陽線の小郡から、山陰線の石見益田という駅がありまして、そこをずっと中国山脈を通って山口線というのがあるんですね。だから、横断してる線は日本の中ではさほどはないんですけども。それで山口線のですね、島根寄りのところ、一番山口に近いところに津和野というのがありましてですね。そこからは結構な人が出てまして、昔の、日本の哲学の祖と呼ばれる西周という人がいたりですね、その後では森鴎外。で、おばあちゃんがその森鴎外、本名、森林太郎というのですけれども、結構知ってまして、なんか、それはあくまでも本人から聞いたこと、伝えなんですけども、そのおばあちゃんは林さんのことを可愛がってて、林さん林さんとか何か言ってたというふうなことも聞いてるぐらいですからね。でその津和野からですね、さらに日本海よりに行ったところに石見益田という駅がありまして、そこが高城村なんですよ。

宮田:結構、山もあり海もありっていう感じですか。

和泉:いや、海はだから一駅、石見益田まで行って、そこが日本海のずっと山陰線が走ってるところですね。だからそう、山と川、でちょっとすぐ傍に日本海があるというふうな感じですね。もうだから本当の田舎です。

宮田:広がる風景としては、そのおうちのあるあたりっていうのは、どんな感じだったんですか。畑があったりとか。

和泉:いやもう、あの、田舎の、典型的な田舎ですよね。当時はだから田んぼがあってですね。ちょっと入ると中国山脈でずっと山があって。当時やっぱり山林が盛んでしてですね。そこも、石見横田っていう駅には、その中国山脈からずっとこう降りてきた材木がですね、あの頻繁にこう、その駅を通してこう配送されたみたいなことがありましたね。

宮田:たとえば、日照時間は長いというか、短いのか、山が迫ってる感じ…?

和泉:いや迫っては、高城村さほど……ええ、迫ってるところもありますよ。だけど私がいたところはさほどではなかったですね。だけども、ちょっとした山はもうすぐ、いわゆる裏山みたいな感じ。たけどそれは決して高くはないですね。

宮田:じゃあ裏山で遊んだりもされたんですか。

和泉:ありました。それはもう、いろんな木の実だとかそういったものは、はい。栗だとかですね、柿だとか。当時は所有者は実はいるのですけども、そんなのは関係ないんですよね(笑)。 行って…そうなんですよ(笑)。

宮田:みんなで収穫をして、食べると(笑)。じゃあ、おうち、おじい様のお手伝いとかもされたんですか。

和泉:いやもう、おじいちゃんは引退してましたから、ええ。隠居生活みたいなことはしてましたけどね。

宮田:おじい様も職人さんだったんですか。

和泉:そう…あ、先生ね。

宮田:あ、先生。学校の先生。

和泉:で、校長もしたという。はい。

宮田:ああそっか。すみません、勘違いしてました。

和泉:いや当時は、戦争とか何かに、たぶんあの徴兵とかあってですね、そのおじいちゃんが、一つのエピソードとしては、24歳くらいで校長になったっていうくらいの。

宮田:若い!

和泉:いやたぶんそれは優秀っていうんじゃなくて(笑)、 たぶん人がいないっていう、ええ。だからおじいちゃんはなんか戦争には行っていないみたいですけどね。

宮田:おうちには生徒さんとかが、慕われて、おうちに遊びに来たりととかそういうことは。

和泉:ええなんか、昔はしょっちゅうしてましたね。

宮田:じゃあ人の出入りの多いおうちだったんですね。お兄さま達はもうその時は戦争に行かれたりとか、島根にいたかということは?

和泉:いや、ですから、そこはぎりぎり戦争に行かなくて済んだんですよ。ええ。

宮田:お父様はその、島根の方では、職人さんとして暮らされてたのですか?

和泉:そうですね。ええ。父はですから、京都の…時かな、その後中国大陸にやっぱ行ってますからこれは、はい。戦争で。

宮田:お父様は、中国大陸に行かれて、戻ってこられたのって戦後ですか。

和泉:そうですね、たぶん。よく覚えてないんですけれども、ええ。

宮田:お兄様と遊んだりとかっていう記憶っていうのは。

和泉:それはありますね、年が離れてるからもう、対等というより、いろんなことを教えてもらうっていう方が多かったですね。遊びにしても。

宮田:たとえばどんなことを教えてもらったんですか。

和泉:やっぱり一番教わったのは水泳ですよね。ええ。海軍兵学校にいましたから、もう、絶対水泳はですね、泳遠(遠泳?)をさせられたとかそういう。たぶん厳しかったんですよね、「死んでも泳げ」みたいな(笑)。 だから、上手かったし、それを教えて……私もそこそこ泳ぐことに関しては、走るのは苦手ですけどね(笑)。 泳ぐのは結構、はい。その後、その地区の水泳大会とかなんか出たこともありますから。

宮田:幼い頃に親しいお友達とかおられましたか。

和泉:当時はみんな親しいんですよ(笑)。

宮田:隣にすぐおうちが、みなさんこう、集落っていう感じで集まって…わりとすぐ隣におうちがあるっていう感じですか?

和泉:そうですね、すぐ隣というよりは…(笑)。少しは離れてますけども、ええ。

宮田:みんな、わーっていう感じで集まって。

和泉:そうですね、ええ。もうだから、朝(学校へ)行く時もなんとなく集まって行ったりですね。帰ったらもうすぐ、遊びのことしかありませんから(笑)。

宮田:小学校はどういう、どんな学校でしたか?

和泉:いやもう、田舎の学校でですね。1クラスしかありませんでした。人数は覚えてないですけれども、どうなんだろう、40人前後だったと思いますけどね。

宮田:学校の先生というのもそんなに多くはなくて。

和泉:そうですね。みんな、各クラス、せいぜい1クラスですから。それと最初の頃は、そうですね、えっと…6年…そうですね、6年までですね。中学校も一緒の学校だったです。別に一貫校っていうんじゃなくて、小学校と中学校が一緒にある建物、みたいなことだったんです。

宮田:戦後すぐに小学校に入る感じですかね。

和泉:そうですね、はい。

宮田:印象に残っていることってありますか。その、何か、小学校に入るときに。

和泉:いや、別に、そんなのは…ええ。ごく普通(笑)。 ただ、あ、そうですね。えっと…あるとすればですね、私の時か一年前かですけれども、それまではカタカナだったんですよ、文字が。まず、それが、私の時かな、たぶん。ひらがなに変わったんですね。

渡辺:え、どういうことですか? カタカナですか?

和泉:それまではカタカナだったんです。

渡辺:え、普段書いてる文字が? 知らなかった。

和泉:そうなんです。学校で使う、まず、最初の初級? カタカナなのですよ。

渡辺:へえ。じゃあカタカナを小学校でまず習われるのですか。

和泉:いやですから、切り替わりましたから、ええ。だからそれまではなんとなくね、お袋が先生だったから、なんとなく文字は比較的早くこう教えられたんですよ。だからカタカナを当然ね、しばらく。そしたら、ひらがなになるっていうふうなことで。それはやっぱ、それが一番の印象ですね。それはもうご存知のように、アメリカの教育方針というか、それをね、日本に入れてきたひとつですよね。

宮田:他に、アメリカの影響を感じることってありましたか。

和泉:あのですね…先ほど言いました山口線が通ってるんですけれども、週1回くらいですかね、米軍の専用列車っていうのがこう通るんですよ。うん。もうそこには、たぶんいくつかこう基地があって、それを、交流だとか何かたぶんしてる列車なんですけども、それはなんかちょっと、いつも気持ちが悪かったですね。なぜか駅で止まったりすると、よくあったのは、アメだとかガムだとかですね、投げたりですね。配るのじゃなく投げるんですよね。だからそれがなんとなくこう、嫌な感じがしましたね。

宮田:それは、列車がわかるんですか。その、外から見ても色が違うとか。

和泉:全然違いますよそれは、ええ。国防色というか、列車が。アーミーの色がありましてね、いわゆる国防色みたいなね。ねずみ色。

宮田:普段の電車の色…列車ですね、列車の色は何色だったのか覚えていますか。普通の、アメリカ軍ではない、いつも走っている列車は。

和泉:それは、普通の客車ですから。当時は、ええ、褐色…でしたね。全体ね。当時はみんなSLですからね。

宮田:あ、SL。すみません、どっちかなって(笑)。電車ではないことは確かだけれど(笑)。

渡辺:そのアメリカの軍の人が、こう、投げてくれるアメとかガムとか、食べられました?

和泉:いやだから私は、ちょっとそれは嫌だったんですよ。

渡辺:他のお友達とかは。

和泉:いやそれはやっぱり、珍しいですからね、それは。それを通り越して……だってガムなんて珍しいじゃないですか当時。

宮田:そうですよね、食べてびっくりですよね。

渡辺:それがどういうものかっていうのは話に聞いて?

和泉:そうですね、ええ。…あの、チューインガムっていうのはあれですよ、(赤瀬川)原平さんの(本の)中にも、そのチューインガムのいきさつがいろいろ出てますけれども。やっぱりそのぐらい魅力的な、ね、うん。原平さんのはだってあれを、あの、こう、口に分け……(笑)。

渡辺:噛んだのをあれして(出して分け合う)……(笑)

和泉:そうそうそう(笑)、 やっぱそのくらい貴重っていうか。

渡辺:だからみんなその頃の子供達はガムとか食べたかったのかなと思ってたんですけど、そういうじゃなかったんですね。気持ち悪かったと。

宮田:その頃、一番怒られた事って記憶がありますか。

和泉:怒られたこと…は、ない…いやあまりないですね、記憶の中には。

宮田:今振り返ってご自分でどんなお子さんだったかなっていうのはありますか。おとなしかったとか、ちょっとシャイだったとか。

和泉:いやあの、どうなんでしょう。普通、普通ではないですかね、うん。まああの、小学校では大体あの、当時は級長と言ってたんですけども、クラス委員長。それは大体やってましたから(笑)。

宮田:あ、そうなんですね。普通じゃないじゃないですか(笑)。

和泉:だからそういう、プレッシャーみたいなのがあってですね。いい子ぶってたかもわかりませんよ、それは、なんとなく。

渡辺:先生だったお母様が厳しかったとかそういうわけでは?

和泉:いや、さほどね、厳しくはなかったと思います、うん。あの、いわゆる教育ママでは別になかったと思いますけどね、ええ。

宮田:小学生の時得意な科目って何でしたか。

和泉:得意な科目は…全部かな(笑)。

渡辺:言ってみたい! (笑)。

和泉:絵は好きでしたね。絵とか工作は、ええ。あの、夏休みなんかの宿題みたいなことがあったりとか、絵日記だったりとかですね、うん、それはすごく苦にせず、いろいろ楽しく作りましたね。

宮田:初めて絵を描いたのはいつぐらいかは。

和泉:ああ、それは覚えてないですね。

宮田:じゃあ小学生の時に、夏休みには毎年だいたい絵日記があったんですね。その絵日記の絵は、何で描くのですか。

和泉:えっと…クレヨンみたいだと思いましたけどね。何か一つだけ残しておいたものがありました、ええ。

宮田:宿題以外でも絵を描いたりとかされてたんですか。普段から。

和泉:いや、そこまではしなかったと思いますよ。

宮田:そういう時はお父様が、何か、こういうの描いたらとか、この辺もっとこう描いたらいいじゃないとか……。

和泉:いや、そういうことは言わなかったですね。

宮田:この頃に何かその、絵を描く以外ですごく自分にとっての芸術体験みたいな、何か、きっかけはあったかなというのは。

和泉:当時はない。ええ。それは後にも出てくるんですけれども…高等学校までほとんどないですね、そういうのは。ええ。あんまり。

渡辺:お父様のお仕事を見られたりはしてたのですか。

和泉:ああ、見てます。それは傍にいて、ええ。いろんな木のクズだとかですね、いわゆる木っ端っていうんですけども、そういったもので、なんとなくいろんなものを作ったりはしたことありますね。ただ、夏休みの宿題なんかはそういったものがありますから…比較的……(笑)。

宮田:どんなもの、どんなモチーフというか……。

和泉:いやだから、まあ、船だとかですね。乗り物だとか。…あとは、そうですね、田舎ですからあの、竹なんかはたくさん、そういう素材っていうのはいくらでも使えるわけですね。そういったものは結構作りましたよね。水鉄砲だとかそういったものですよね。

宮田:道具の使い方みたいなのはお父様から教わったんですか。

和泉:いや、教わりはしませんけども。ありますからね、いくらでも。そりゃあもうよく研いでありますから、切れ味のいいのが。だから小さい時、結構手を怪我しましたよ(笑)。

渡辺:じゃあ、木を切って、ボンドでくっつけて、水鉄砲?……。

和泉:ボンドっていうのはあれ、昔はですね、ボンドはまだなかったんですよ、最初の頃は。で、膠ってのがあるわけですけれども、動物の骨から作る材料なんですね。それが当時の接着剤です。

渡辺:小学生でも扱えるような?

和泉:いやそれは、あの、父のすぐ傍にありますから、うん。それをなんとなく(笑)、使うという。でしばらくしたらボンドみたいなのが開発されたんですね。

宮田:おうちの中はその木のにおいと、膠のにおいがしている感じですか。

和泉:そうですね。あのー、ちょっと、仕事場で…母屋があって…別棟のところにですね、その仕事場が、父の仕事場があったんですけども。うん。

宮田:覗いても、そんなに、こう緊張するわけでもなく。

和泉:それは全然、そんなことはないですよね。

宮田:幼い頃にお父さんから聞いた話とかで、よく覚えてることってありますか。

和泉:うーん……。いや別にあの、話とかではなくて、やっぱり、傍にそういったことがあって、まあそれを見たり、して…みたいなことですよね。言葉でああだこうだではなくって、うんうん。

宮田:木材とかはそういう、お父様ご自身で採りに行くっていうよりは、その業者の方に買い付けたりとかされたんですか。

和泉:そうですね、それは、ええ。あの、田舎に帰ってからはですね、伝統民芸っていうのではなくって、自分でですね、その田舎にあるいろんな昔話だとか、そういった、…語り伝えられているような話があるんですね。そういったものを、人形だとかそういったことにしてましたね。益田には、雪舟が来て、雪舟のお寺があるんですね。ですから雪舟さんだとかですね。あとは柿本人麻呂神社とかですね。まあそういった人達を人形にしたとか。あとは、私の方は昔の国で言うと石見国っていうんですね。島根県は二つありまして、いや三つなんですけれども。もうひとつは出雲国、出雲大社があってね。で、もうひとつは島根、隠岐の後醍醐天皇が騙され、流刑されたところですけどね。だから、出雲の方の、ヤマタノオロチだとかそういったものも作ってましたね、うん。

宮田:何かその、作られているものを発表されたりとかっていう機会もあったんですか、お父様が。

和泉:あ、してましたねえ。当然それぞれの田舎だとか島根県単位でそういう協会みたなことがありましたからね。そこの、だから、メンバーとか会員になってたりしてました。そういう場所はあるんですよ。あとは、時々あの、それぞれの県だとかいうのがデパートなんかで、やるではないですか、物産展みたいな。そういったところにも何回か東京なんかにも来たことがありましたね。昔は、八重洲口のところにですね、各県の物産館がずーっとあったんですよ。今の、新しくリニューアルする前ですね。で、今はもうアンテナショップみたいにばらばらにこう散らばっていますけどね。…あ、その、もうひとつですね。疎開したすぐ直後のこと、これは非常に印象が……1945年ですよね。あの、広島に、原爆が。新爆弾が落ちたのは。その時の印象ですけども、田舎でもそれの影響ってのはあったんですね。どういうことかって言うとですね、田舎で…山のある、村ですか。当時まだキジがたくさんいたんですよ。で、キジがですね、一斉に、あちらの山こちらの山からですね。私は川にいて遊んでたんですね。すると周辺の山からキジが鳴いたんです。キジは何か危険を察すると鳴くというふうなことがあって。で、その時はわからなかったですけれど、だけども、それを聞いて、母のところに。これ何かがあったんだというふうなことですね。でしばらくしたら、広島に、新爆弾が落ちたんだというふうなこと。それはやっぱり、強烈な印象で、残っていますねこれは。

宮田:一斉に鳴く、という感じだったのですか。

和泉:そうですね。はい。(爆弾の)音は聞こえなかったですね、私達には。だけど何かこれはあったんだというふうに。

渡辺:どんな声なんですか、そのキジ……。

和泉:いやもう、ケン、ケン、ケン、って鳴くんですよ。うん。キジの鳴き声ってのは。

渡辺:うるさい…みたいな。

和泉:いや、うるさいっていうか(笑)。広がってますからね。だけどただ、いろんな山からですね、それが聞こえたってのがですね、うん。これはもう、なんか異常事態だなっていう。

宮田:益田市には、空襲みたいなことが近くであったりとか、飛行機が飛んでくるっていうことは、ありましたか。

和泉:ありましたね、ええ。空襲はですね、益田にはたいした、もう、ちょっとした工場があって、そこで焼夷弾とか何かってのは聞きましたけど。あとはB29がやっぱり、頭の上を通るんですね。それは……。

(ウエイターが来て一時中断)

宮田:その飛行機を見るのは昼間、とか、夜ですか。

和泉:昼です、それは。すごい、だけど低空なんですよ、うん。

宮田:怖いですね。警報が鳴ったりもするのですか。

河合:空襲警報。

和泉:いや、もう、だってあの…終戦ですから。それはもう。占領した後に、ですから。それでですね、あの周辺で言えば、岩国、ですね。今の博多の板付っていう、その辺りは(米兵が)たくさんいましたから。それもいたからさっきの、専用列車もですね、山口線を使ってずっとこう、週1回くらいですよね、通ってたんですね。物資と人も含めてでしょうけどね。それはもう終わったと言えども怖かったですね、やっぱり、ええ。だから当然それなりの低空で飛ぶってのは、威嚇も含めて、意図してやってることだと思いますからね。

宮田:原爆が落ちて、終戦の日っていうのは何か覚えていらっしゃいますか。8月15日。何をしていたか。周りの大人達の……。

和泉:いや、そういうことはあまり覚えていないんですけどね。……あと、えー、しばらくして、かなぁ。うちのおじいちゃんが、当時の大統領の(フランクリン・)ルーズヴェルトが亡くなった時、終わって何年か調べないとわからないですけれども(注:1945年4月12日没)、その情報を聞いて何か隣近所にずっと…(笑) 走りながら何か。「ルーズヴェルトが亡くなったー」とか何か言ったみたいなことは、ええ。

渡辺:戦時中と戦争が終わってからっていうのは、何か変化というか、感じられてました?

和泉:いや、普通の生活では、田舎ですからね。さほどは感じなかったですね、うん。ただ、まああの、戦地から、出兵していた人が帰ってくるっていうのは、ありましたね。それと、家のすぐ前って言ったって少しは離れてるんですけど、なんていうか、ほとんど何もないから見えるんですけどね。やっぱり帰ってくると、当然、家族は駅に迎えに来たとかですね。そういうことはやっぱりありましたね、これはね。よく映画なんかのシーンであるじゃないですか。本当にああいうね。

宮田:その終戦の頃は、和泉さんのおうちでは全員揃われてたんですか?

和泉:えーっと、いや、父はだからしばらくしてたぶん帰ってきたと思うんですよ。それで兄も海兵に行ってまして、えー、だから終わった後に。ちょっとその後の、どういう処理があったかわかりませんけど、しばらくしたら、帰ってきましたからね。

宮田:じゃあ、やはりお父様が帰ってきた時はすごく嬉しかったですよね。

和泉:いや、よくね印象は…(笑)ないんですけどね。

宮田:まあちっちゃいとわからないですよね(笑)。 小学生高学年くらいになってきて、何か変化とかありましたか?

和泉:うん、あの、(事前に送付した質問リストの)あとで出てくるんですけどね。あの、初恋は私、小学校の時でね(笑)。

一同:(笑)

宮田:そうなんですね!大事な(笑)。

和泉:他愛無いことですよ(笑)、 あのーどういうことかと言いますとね、好きな子がいてですね、年賀状を出す出さないという(笑)。

宮田:かわいい!(笑)、 そっかあ(笑)。

和泉:うん…そうなんですよ(笑)。

宮田:それはおっきいですね、小学生にとって(笑)。

渡辺:そして出したんですか?

和泉:出しました。

宮田:どんな年賀状だったんですか?

和泉:いや、もう、だから、返事はだからその年は遅れて当然来るんですけどもね。何年だったか…4年、だから、4、5、6くらい、ですかね。うん。

宮田:一人の女の子に一途だったんですね(笑)、 三年間。

和泉:(笑)

宮田:だいたい一クラスの男女の割合っていうのは半々くらいですか。

和泉:そうでしたね。

宮田:近くの別の小学校とかっていうのは、もうかなり離れたところにあるんですか。

和泉:離れてました。それは後にですね、中学校になって、たまたまそれも私の代の時ですね、合併するんですよ。当時市町村合併っていうのがありまして、それで当然学校なんかもですね、どんどん統合していったんですけれどねえ。で、私が中学1年の時、隣村と統合したんですよ。

宮田:小学校まで歩いてどれくらいの距離だったんですか。

和泉:えーっとですね、一度同窓会で帰って歩きましたけどね、当時の子供の足でどんなものでしょうね…20分くらいですかね。

宮田:結構ありますね。通うまでの道のりは、まわりのおうちの中を通って行くっていう感じですか。

和泉:いや、おうちの中って…ぱら、ぱら、ぱら、とありますから。で、もうちょっと行くと一応、国道はあったんです。昔の国道を歩いて学校まで行ったのですけれども。まわりはもう田んぼだとかそういったところですね。

渡辺:おひとりでずっと行かれるんですか。それともお友達と通学されるんですか。

和泉:いや、だからずっとですね、歩いてくと、いるじゃないですか、同級生だとか先輩後輩も来る。それがだから一緒にこうなって、だんだん増えていくというそんな感じです。で、当時…荷物を運ぶあれで、馬車なんかもいたんですよ。だから時にはこういたずらで馬車に乗りながらね、途中まで乗せてってもらったとか。乗せる方も当時はのんびりしてましたからね。「乗れ乗れ」。材木を運ぶためにそういう、あれがあったんですけどね。この材木なんかが空の時は、ええ、「乗れよ」っていう感じで。

宮田:小学校の学校行事ってどんなものがありましたか。今と変わらないですか。

和泉:いや、学校行事はもうあれですよ、運動会だとか、そういったことですよね、ええ。

宮田:遠足みたいのもありましたか。

和泉:あ、遠足はありましたよ、それは、うん。

宮田:どういうところまで?

和泉:近くの、ちょっとした高い山だとかですね。あとは、えー、海の方ですかね。うん。

宮田:初恋を終えて中学校に上がって。中学校に入る時の記憶で印象的なことってありますか。

和泉:いや、ですから合併したのが一番大きなあれでしたね。

宮田:合併した時はその通われてた小学校中学校と同じところに。

和泉:じゃなかったんですよ。一緒になって、残った方はちょっと大きい村だったんですね。豊田村っていうんですけど。豊かな田んぼ、なんですけどね。そちらの方が人口も多くって、たとえば少ない銀行だとかですね郵便局とか、あった村だったんですからね。で、学校もそちらの方に統一して。

河合:豊田中学校とかそういう名前だったんですか。

和泉:いや、一緒にして横田中学。名称は。はい。神田小学校と豊田小学校がありまして、横田…で合併して横田中学校ですね。

河合:行ってらっしゃったのが神田小学校。

和泉:そうですね。

宮田:「かんだ」は普通の神田の「神田」?

和泉:そうです、ええ。東京の千代田区神田。

宮田:中学校の隣村のちょっと大きな町というか、は、おうちからどれくらいかかるんですか。

和泉:えっと家からそうですね、30分ぐらい、今度はかかりましたね。

河合:それも歩いて通われたんですか。

和泉:そうですね、もう、全部歩いて。…それであの、合併したでしょ。教室が3クラスになったんですけれども、それで…だからたぶん、えー、神田小学校が1クラスで、豊田小学校が2クラスあって、それで併せて中学校が3クラスぐらいできて。で、教室はところがないんです。だから当時ですね、講堂があったんですけれども、講堂を仕切って、そこに入れさせられたんですよ(笑)。

宮田:じゃあ同時に3クラスが授業を。

和泉:ええ、そうなんですよ。

宮田:すごいですね。和泉さんが中学校に通われている頃、お兄様達はもうお勤め……。

和泉:そうですね、ええ。兄はですね、兵学校から帰って、それから大学に行ったんですよ。九大、九州大学に。それで兄は、その後も、大学院…しばらくその九州大学で助手か何かをしてましたけどね。

河合:専門は何を勉強されていたんですか。

和泉:英文学です。

宮田:上のお兄様ですか。

和泉:そうです、長男。はい。

宮田:下のお兄様は。

和泉:えっとそれは、えー、鉄道マンをしてましたね。あの、地元のですね。

宮田:上のお兄様はもうおうちから出られて。

和泉:そうですね、はい。

宮田:下のお兄様は一緒に暮らされてたのですか。

和泉:ええ。(長男の方は)何回か、九州にだから一緒に、母と行ったことはありました。

宮田:それはいつぐらい…中学生ですか。

和泉:中学生ですね、はい。…でそれ以来私は、プロ野球は西鉄ライオンズが好きなんです(笑) 。今は西武ですけど。

宮田:お兄様も野球好きだったんですか。

和泉:結構好きでしたね。連れてってくれましたから、九州の平和台球場ってところがあるんですけども、ええ。

宮田:中学校では引き続き勉強は得意だったんですか。

和泉:そうですね、まあ(笑)、 生徒会とか副生徒会長みたいなことはしました。

宮田:なんかその中でもちょっとこういうのは苦手だなとか、そういうものとかなかったんですか。

和泉:あの、高校まではですね、私、理系の方なんですよ、うん。

宮田:中学校の中でも少しそういう文系と理系みたいな……。

和泉:いや、それはないです。中学校はそんなのはないですけれども。

宮田:理系のことが特に好きだった。

和泉:そうですね。それは結構。

宮田:特にどんなことが好きだったんですか。

和泉:いやだから、数学だとかそんな、そういった。

宮田:覚えたりっていうよりも、解くのが好きだったりとか。

和泉:そうですね。覚えるのは私あんまり好きじゃない(笑)。

宮田:わりと中学になると、先生も増えて、専門で教えられる先生とかもおられる感じですか。

和泉:そうですね。ええ、そうです。

宮田:なにか先生との出会いとか、面白い先生とか。

和泉:ひとつは、やっぱり、絵は好きでしたからね。その先生とはまあ、可愛がってもらったりはしましたね。あとはえー、担任の先生、二年間受け持たれた先生。だから今でもその人とは、交流があるんですけどね、うん。

宮田:長いですね。

和泉:ええ。だから、しかもその先生、学校のすぐ近くだったんですよ。先生が、ご夫婦で先生されてて、時々遊びに行ったりして、先生いない時にはなんか勝手に(家に)上がって遊んでたりとか。そんなことが(笑)。

宮田:担任の先生は何の先生だったんですか。

和泉:英語でしたね。

宮田:当時のカリキュラムっていうか、朝何時から中学校って始まったんですか。

和泉:何時でしたっけねえ。8時半くらいですかね。

宮田:…お昼は、お弁当。

和泉:そうですね、ええ。当時、当然あのーお弁当を持って行って、季節のいい頃は、本当に今でもそれは覚えているんですが、春になると暖かくなるでしょ、すると外でお弁当食べるのですよ。これは楽しかったです。

宮田:みんなでわいわいと。

和泉:すぐ、学校の傍にこう、田んぼがあってですね、土手みたいなところがあって。そこはもう当然、花はないんですけども花見同然の場所が。

宮田:午後は授業がまたあって、だいたい夕方までですか。

和泉:そうですね、ええ。

宮田:4時とか5時とかですか。そんなに遅くはないですか。

和泉:いや私はもっと早く終われば、何も部活には入っていませんでしたから。で当時は部活なんてそんなたくさんないんですよ。えーっとせいぜい、何でしょう…男子の野球とですね、女子のバレー、ソフトボールかな。そんなものですから。

宮田:早くおうちに帰られて、おうちで何をされてたのですか。

和泉:いやそれはもう、中学校の時にはですね、季節がいいと遊びました。勉強なんかしなくて(笑)、 最低限宿題ぐらいはせいぜいやって。だから中学校の時、夏休みになりますとですね、もうお昼すぎにはすぐ川に行って泳いでました。

宮田:中学校の美術の授業っていうのはどういう授業だったんですか。なにか絵を?

和泉:絵を描くっていうふうな、ええ。

宮田:絵が中心ですか、やっぱり。

和泉:そう…当時はやっぱりそうですよね。

河合:絵の、画材は何を使ってたんですか、中学校の時。

和泉:当時…小学校の時は何でしょう、えーっとやはりクレヨンか、水彩まで行ったかどうか…。高学年になりますとね、ちょっと記憶にないんだけども。行ったかもわからないですね。中学校は水彩ですね。

渡辺:どういったものを描くんですか。

和泉:いやあの、だいたい、外に行ってスケッチか、または静物写生ですよね、教室だと。寒い時期だと、ええ。あのよくある典型的な、あの、セザンヌの構図で(笑)。 あるいは高級な果物がないから野菜です(笑)。 野菜はよくあります。あとは、えー、人物ですよね。誰かモデルになって。ま、生徒がモデル、ある意味一番、その生徒が描けませんので先生がモデルになるだとか、そういった。

渡辺:絵も得意だったんですか、当時から。

和泉:絵は得意でしたよ(笑)。

宮田:学校の中でこう、賞を、学年ごとに絵の賞を、上手な人とか選ばれたりとかするようなことってありましたか。

和泉:夏休みなんかの休みの宿題があるではないですか。するとその後だから学校で展示しますよね。で、そこでだから、金賞銀賞だとかなんかそういったものを学校が作ってくれるわけですよね。だいたいもらってましたけどね(笑)。

渡辺:オールマイティで優秀な生徒だったのですね。

和泉:いやいやそんなことはないですよ(笑)。

宮田:その頃何か、お友達とかでこう今でも続いている方とか。先ほど先生の話が出てましたが。どんなお友達がまわりにいたんですか。

和泉:いやなんか、今年も、同窓会をやるとかいって。もう最後だろうと、見納めだろうとか言ってですけど(笑)。 ただ最近は、田舎周辺にいる人が多いので、どうしても場所が、島根県の益田市とかになるんですけど、すると、もう最近は行けないですよね。だから今度は東京でやると言ってるから。あとはだから、横浜に関しては私が、どこかあれば案内するよと、ガイドするよというふうな一応ことになってるんですよ。

宮田:さすが生徒会長(笑)。 中学生の高学年くらいになってきて、何か社会的な変化だったり、暮らしの変化みたいなのって感じられることってありましたか。

和泉:中学校まではですね、結構今私も思ってるんですけどね、本当に小学校の延長みたいなことで、ええ。勉強というよりは遊びの方が。遊びを楽しんでる方が多かったなという感じはしますけれどね。

宮田:町で車がたくさん増えてきたとか、何かその町の様子が変わって行くとかっていうのは、何か感じられることってありましたか。

和泉:いや田舎ですから、車はさほどではないんですよ。当時こう、先ほど言いましたけれども、市町村合併とか結構ありましてですね。そういう、村から町だとかなんか、そういう変化っていうのは結構ありましたね、ええ。で、その当時、最終的には益田市になったんですけどね。全国でも面積が一番ではなかったんですけど、相当広域な市町村合併みたい。面積ですよ、人口は全然(笑)。 人口はですね当時4万くらいで、今も4万でほとんどなんか変わってないそうです。

渡辺:その村から町に変わったりすることで何か、まわりは変わったりするんですか。

和泉:そういう生活面では具体的にはなかったと思いますけどね。

宮田:いよいよ高校進学の頃ですけど。

和泉:はい。はい。

宮田:高校は、何か、区で決められてたところに行くとか。そういう、何かあか。

和泉:いやそういったものはなくて。

宮田:自分で行きたい学校に行くっていう。

和泉:その益田市の中に、当時高校がいくつ…私立も含めて、えー、5校くらいあったんですかね、うん。だからごく普通の、普通科の高等学校に進学したんです。はい。

河合:それは何高校。

和泉:益田高校。はい。益田市の益田高校。

河合:の、普通科。

和泉:あとは、えー、益田産業高校とか工業高校だとかですね。えー、ま、うーん、女子校だとか何かそういうのはいくつか、だから5校くらい当時あったかなって感じはしますね。

宮田:ひとつの高校の中で科が分かれるっていうよりは、高校ごとになんとなくその、傾向というか、専門性が分かれていて。

和泉:そうですね、ええ。

宮田:その中で普通科に進まれる。高校に進学するにあたって何か、中学生で考えるかわからないですけど、考えたことってありましたか。

和泉:いや、ないです(笑)。

宮田:高校に入ってまわりが変わったなとか、まあその、思春期に入っていくと思うんですけど、何か自分の変化だったり、興味感心事が変わっていくとか、何かありましたか。

和泉:うんまあ当然、同学年の人達ってのは入った時にいろんなところから来てますからね、ええ。そういうあれは変化がありましたよね。

宮田:一クラス何人で、何クラスあったんですか。

和泉:えーっとですね、1クラス、40人ぐらいですかねやっぱり、40人くらいで。1、2…4、4クラスぐらいですかね、うん。そこではだからあの、大きくは、理系とか文系だとか、というふうにちょっとコースが、そこから分かれましたね。

宮田:入った時から。

和泉:ええ。

宮田:それは迷わず理系に。

和泉:そうですね、ええ。さほど迷わなかったですね。

宮田:その頃の美術の授業ってのは普通に全員受ける感じで……。

和泉:いや選択、選択ですね。ええ。美術と、えー音楽と、もう一種類あったんですね…習字というのがあったんですよ。

河合:今とそんなに変わらないですね。

和泉:変わらない。今でもだいたいそのぐらいの、うん。

渡辺:私もその3種類でした(註:2000年代半ば)。

宮田:で、美術を選択される。

和泉:ええ、そうですね。ええ。

宮田:毎週授業があったんですか。

和泉:ありましたね、ええ。

宮田:高校とかになると授業が長くなったり……。

和泉:ちょっと長かったと思います、はい。

宮田:美術の授業ではどんな制作とか……。

和泉:いやそこはですね、えーっと…ほとんど対象物は静物でしたね。ええ。

宮田:何で描かれるんですか。道具、素材……。

和泉:それは水彩。

河合:まだあんまり油彩とかは授業で使う感じではなかったんですか。

和泉:いや、ないですねそれは。ええ。

渡辺:工作とかもないんですか。何か物を作る。絵じゃなくて。

和泉:ないんです、それは。

宮田:おうちで工作をされていたのはずっと中学校の時も高校の時も、おうちでされたりする…。

和泉:高校はもうしませんでしたね。

宮田:中学生の時はまだおうちでも。

和泉:中学校の時はですね、えー、何か作ったことがあったかもと思います。

宮田:その頃、悩んだこととかってありますか。

和泉:うんまぁ、3年の最後の頃までになるんですけども、最初の頃はさほど別に悩まなかったんですけどね。で、本当はだから最初の頃は理系ってこともあって、船を造りたかったんですよ。本当はそういう、ええ。

宮田:設計ということですか。

和泉:うんそう、船の設計を。当時日本の産業って、こういう海に囲まれたというふうなこともありましてね、すごい船、船舶産業は盛んだったというふうなこともありましてですね。だけどああいうちょっと、タンカーだとかなんかそういう大型の船をこう、設計してみたいなというのはあったんですよね。

渡辺:地元の海でそういう船を見たりすることはあるですか。

和泉:いや地元は全然ないです。そんなのは。

渡辺:じゃ何かで見られて…本とかで見たりするんですか。

和泉:そうですね。あの、情報としてはもう、そういうことですよね。ええ。

渡辺:ご自分でわざわざ船の本を買って。

和泉:いや、そこまではしなかったんですけども。当時タンカーなんかどんどん積載量が大きくなっていくような時代だったんですよね。十万トン積めるようなタンカーだとか何かそういうのを新聞とか何かで見て。当時はあの、進水式とかがニュースになるわけですよ。うん。これは面白いなあとか言いながら、当時思いましたね。

宮田:新聞はわりとよく読まれてか。

和泉:新聞ですか。情報は少ないですからね。あの新聞と、当時はラジオですものね。

河合:ご実家では何新聞を取られてたかって覚えてますか。

和泉:えっと朝日です。うん。

宮田:当時は、よくテレビとかでもやるような、その、テレビがあるおうちにみんなで見に行くとかそういう感じですか。

和泉:いや、えーっとね。あのまわりでは私のとこが一番最初だったのかな。

河合:じゃあみんな家に、テレビ見に。

和泉:ええ、ええ。

宮田:それは、何歳ぐらいの時にテレビがおうちに来たんですか。

和泉:何歳でしたっけね、それは。…いや、もしかしたら、私は…高校の時はなかったのかな。どうなんですかね。ちょうどその境目ぐらいですもんね。

宮田:テレビはじゃあ高校生の頃そんなに見てた記憶はない。

和泉:いや、ありますよ、それは。うん。だってうん、高校…くらいですかねえ。あのー、当時はまだブラウン管が小さくてですね、画面も当然小さいから、その前に凸レンズみたいなものこう掛けて、画面を大きくですね。凸レンズを掛けたような形でこう見てましたもんね。

宮田:どんな内容のものを見てたかっていうのは。

和泉:いや当時はNHKが主体ですから。バラエティもの。結構当時クイズだとかそういったものがありましたもんね。

宮田:アニメとかは記憶にありますか。

和泉:アニメ? いや、アニメは当時ももしかしたら、もう輸入物ですよね、ええ。

宮田:新聞の話が出ましたが、本とか漫画とか、当時、高校生になって読むっていうのは。

和泉:高校生は私あんまり本読んでないんですよ、ええ。で、中学校までは漫画ですよね。ええ。

宮田:戻っちゃいますけど、どんな漫画を読んでたんですか。

和泉:えー当時はですねえ、えー、『冒険王』(秋田書店、1949~83年)だとかそういうですね、あったんですよ。えー、漫画雑誌が。それこそあれですよ、あのー、みんな何人かでですね、別な、それぞれ買って、回し読みするんですよ(笑) 。

宮田:漫画をみんなから…その、同じように模写したりとか、自分で漫画を描いてみたりっていうことは。

和泉:それは、なかったですね、うん。

河合:その、お気に入りの作品とかっていうのはあったんですか。

和泉:覚えてないんですけどね、『イガグリくん』(福井英一、1952年3月号~54年8月号連載)っていうのがあって、柔道の話なんですけどね、ええ。当時あの、みんな、友達ももうそれが毎回、次どうなるか、みたいなことでですねえ。それはもうあのー楽しみましたよね。

宮田:『冒険王』は月刊ですかね。

和泉:うん。当時は月刊ですね。

宮田:じゃもう待ち遠しかったんじゃないですか、それは。高校生の時はそんなに……学校で図書室とかは普通にあったんですか。

和泉:いや、ありましたけど、あんまり私は通わなかったですね。

宮田:なんかその、美術の本を読むとか、雑誌を見るとかっていう機会は。

和泉:もう、なかったです。ええ。あの……。

渡辺:美術に限らず…… あ、(お話を遮って)すみません。

和泉:いえいえ。はい。

渡辺:雑誌は読まれたのかなと思って。

和泉:雑誌? いや雑誌はだから自分で買ったんではなくて、父が買ったりとかいったものを読むぐらいでしたよ。

渡辺:どういった?

和泉:当時は『文藝春秋』だとか何かそういったものですよね。

宮田:おうちに…本は結構あるおうちだったんですか。学校の先生……。

和泉:あのー、おじいちゃんがですね、本があって、で、漢詩をやってたんですよ。ええ。だからそれ系の本とか何かたくさんありましたけどね。

宮田:難しそう。

和泉:うん、私はよくわからない(笑)。

宮田:高校を、学年が上がっていって、その悩みが、悩む頃っていうのはどんな悩みだったんですか。

和泉:ですからまあ、大学に、どういったところに進もうかっていう…… だけどももう、絞ったのは私3年のですね、…なってからなんですよ。

河合:絞ったっていうのは、美術系に。3年になって。

和泉:いやだから美術系に行こうという選択、そうなんですよ。美術系の学校を受けるにはそれなりの準備をしなければいけないんですけども、そういった情報も極めてないわけじゃないですか。だから、…3年のですね夏休みに、初めて。益田市にはなくてですね、そのもう少し島根県の中央どころに浜田市というのがあって、そこはもう少し大きい市でですね、そこで夏休みだけ、絵画講習やってるということで。でいろいろ、担任の絵の先生に聞いたら、そこでですね、美術系に行くようなデッサン、「基礎デッサンみたいなことが夏休みの中であるよ」と。で、一度行ったらどうかというのが初めてです。だから3年の夏休みに初めて(笑) ええ、そういうところに行って。まあびっくりしましたけどね。

河合:その講習はどういう感じでしたか。

和泉:いやもうだから、そこでは当然その、過去にいろんな経験を持ってますから、進学先とかですね。だからだいたい、美系の入学(試験)ってのはあれでしょ、デッサンじゃないですか。それをやってたんですけどね。でそこで初めて木炭で、石膏像があって、それをデッサンするんだっていう。そういうの(笑)、初めてそれ知ったんです(笑)。

河合:そこには何人ぐらい講習には来ていましたか。

和泉:いや結構いましたね。ええ、いました。いやそれでその中でもですね、日本画はいません。ほとんど油絵なんですね。だから私みたいに最初っから彫刻(をしたい)みたいな者が、いなかったんですよ。だけど夏休みにしては結構やっぱり生徒さんがいましたね。

宮田:美大に行こうっていう、思い始めたきっかけはなんだったんですか。

和泉:いやま、いろいろあるにしても、比較的絵だとか工作だとか好きだったということもあるし、やっぱり父がそういう仕事してたっていうのは、大きいと思いますね。

河合:それは絵じゃなくて彫刻っていうのもたぶんその、お父様の影響で。

和泉:そうでしょうね、そうなんですね。

宮田:ご家族でこういう進路についてお話、相談とかもしたんですか。

和泉:うん、相談…しましたけども、うん。いや、いいんじゃない?っていうくらいですよね。

河合:理解のある(笑)。

和泉:そうですね。

宮田:特に反対されず。

和泉:うん、反対はだから、全然しませんでしたけども。

宮田:好きなことをやったら、と。

和泉:好きというより、大変だよというふうには。

宮田:(笑)。その、高校の時の美術の先生っていうのは、何かその、団体に所属されているとか、何かどこか出られている方とか、そういうのはありましたか。

和泉:ええ、全国的な団体ではないと思うんですけども、…島根県だとか何かそういったところのだったと思いますけどね。

宮田:絵を専門にされている先生が。

和泉:そうですね。

河合:お名前って覚えてますか。先生の。

和泉:えーっと、下の名前までは……コイソ、という。小さい磯ですね。

宮田:夏休みの絵画教室の先生っていうのは、何人かおられたんですか。

和泉:講習の? そこは、浜田の方はですね、えーっとですね……上野でも団体展をやってそこに出してるような。講師は、そういう先生だった。学校の先生ではなくてですね。

河合:それは夏休みの時期に東京の方から島根に来て。

和泉:いや、浜田(市)に在住してて。でそこでそういうふうな、団体展に出してるような人だったんですね。えーっとですね、えーっと、光風会っていう。

河合:ああ、光る風の。

和泉:ありますよね、光風会。

宮田:それは日展。

和泉:日展系のあれなんですかね。なんかそういう。光る風、ええ。

宮田:ステーションギャラリーで展覧会やってますよね。光風会の歴史、的な(注:「光風会100回展記念 洋画家たちの青春―白馬会から光風会へ」東京ステーションギャラリー、2014年3月21日-5月6日)。その絵画教室で、いきなり木炭って戸惑われたと思うんですけど、その時の戸惑いは。

和泉:うん、戸惑いましたね。だけどこれはあの。

宮田:やらなきゃっていう。

和泉:入試でそれがあるんだっていうふうな、ことも含めて。

宮田:朝から晩までっていう感じだったんですか。

和泉:えーっとですね。時間帯はどうだったかな…いやたぶん…午前午後分かれてたのかもわからないですね。

宮田:だいたい何週間くらい通われたですか。

和泉:一週間単位だったと思いましたね。だからそれで終わりで、もういきなり本番ですから(笑)。

渡辺:それまでに、入試までにご自分で勉強されてたとか?

和泉:いやだってできないですよ、それは。

渡辺:じゃあそれで、すごいですね(笑)、そうなんですか。

和泉:そうなんですよ。だから後から出ますけども、それで本番に行って、えー、あっこんなことまであるんだっていうふうことが初めてだから、知ったぐらいですからね。

宮田:美大に行こうって思った時に、どこのエリアのとか、どこの何ていう大学とかっていうのって、具体的にイメージがあったんですか。

和泉:うん、あのそれは一応情報としてはですね、調べてましてね。だけどもう、国立公立系で言えば、藝大と京都美大(京都市立美術大学、現・京都市立芸術大学)ぐらいですもんね。それであとは、東京で、多摩美と武蔵美、当時はですね、そんなには選択肢っていうか数しかなかったですね。うん。で、だけども。えー、大胆にですね、京都も全然受けようとしませんでしたね。ええ。もう、藝大だけで。

宮田:藝大一本って感じだったですか。その時藝大へのイメージってありましたか。何か、憧れとか。

和泉:いやまあ、それは、憧れは…それは、当時はそれなりのものがやっぱりありましたよね。うん。

宮田:受けるのにあたってまわりにそういう、知り合いの方とかで藝大に行った人がいるとか、そういう……。

和泉:いやだから、いなかったんですよ。うん。とにかくあの、高校3年の時は、そういう情報ってのが極めて少なくて。求めようとしても、見当たらないくらいで。

河合:学校の美術の先生はどちら出身とかあるんですか。

和泉:ああちょっと知らなかったですね。

河合:ただ藝大の情報とかは。

和泉:いや、藝大ではたぶんなかった、それで美術系の学校を卒業してるかどうかもちょっと、わからなかったですけもどね。

河合:ああ、そうなんですね。

宮田:絵画教室でお友達になった方とかも……。

和泉:どこで?

宮田:絵画教室、夏休みの絵画教室で、お友達に……。

和泉:あ、田舎の時の? それはいないです、ええ。

宮田:そこで、皆さんその藝大を目指すっていう感じなんですか。

和泉:そう、いや……そこはだから、彫刻科はたぶんいなかったと思うんですね。それで油で、藝大もいたし、たぶん京都の方もいたと思うんですね。そこの浜田の、すごい浜田高校っていうのがあるんですけれども、そこではそういう藝大のOB達も何人か輩出してるんですよね、うん。私のとこではですね、先輩が一人いたとかいないとかいう、ちょっと定かではないですけども、そのぐらいのことしかなかったものですからね。だから高校の中でも全然情報は取れなかったということでしたね。

宮田:じゃあ(夏休み)が終わってもう、藝大一本という気持ちで、勉強もされて。

和泉:勉強しなかった、だから……(笑)。

宮田:すごいですね(笑)。

渡辺:筆記試験とかはないですか。

和泉:いや筆記試験はありますよ、それは。

渡辺:それのお勉強はされずに?

和泉:いやそれは普通の勉強をしていました。

渡辺:科目は。

和泉:あの、藝大少ないんですよ。3科目か4科目か。

河合:ああ、当時からそう。

和泉:ええ、あの、国立とは言っても。

渡辺:美術史とかではないんですか。

和泉:ないんです。それは、うん。そんな専門的…一般の、学科ですね。えーっと、国英歴ぐらいなもんじゃないですかね。国語。日本…だから選択、日本史・世界史選択できて日本史を専攻して。あとは英語。たぶん3科目くらい、筆記はですね。

河合:実技のデッサンがあるという感じですよね。

和泉:そうです。だからそれをパスしないとその実技にいけませんから、はい。

河合:ああなるほど。1次で筆記があって、2次が。

和泉:そうですね、ええ。

渡辺:じゃあ筆記試験はもう余裕でパスという感じですか。

和泉:いや余裕って(笑)、 たぶんあの、よく偏差値で言うとそんな高くないと思いますから、これは。名前が書ければいいかもわらかない(笑)。

渡辺:いやそれは(笑)。

宮田:何か難しかったなっていうのもなく筆記はクリア?

和泉:いやそれは、うん、別に難しい…いや何点取れたかはわかりませんけども、ええ。

宮田:じゃあ一日目とか、その、日も違うんですか。

和泉:そうですね、違いますね。

宮田:何日間の試験、とか。

和泉:いや筆記はたぶん一日だと思います。ただそこをパスしないと次にいけない。

宮田:その、東京まで受けに行くんですか。

和泉:もちろんです。はい。

宮田:じゃあその、それまで東京とかその、関西もそうですけど、島根から出られることっていうのは。九州にお兄様を訪ねるとかありますよね。

和泉:ええ、あとはだから父が、あの前に言いましたけど、京都にこう連れて来てくれたりとかいったことですね。あとは東京まで、いやえっと、いとこが東京に実はいたものですから、えー、東京旅行、はしてますけどね。それはせいぜい1回くらいですから、うん。

宮田:その東京旅行をされたのはいつぐらいですか。初めての。

和泉:えっと中学校の時ですね。はい。

宮田:じゃあびっくりされました?

和泉:そりゃしましたよ(笑)、もうすべてびっくり。

渡辺:やっぱり全然違うものなんですか。ご実家と東京。

和泉:それは(笑)。

宮田:なんかこう、すごく印象深かったことって。

和泉:いや全部だから、ええ。印象、全部印象深くて。

宮田:あの、電車で当時はどれくらいかかって…電車じゃなくて列車。

和泉:えーっとですね、二つルートがありまして。えーずっと山陰線、あの出雲号って今でもあるんですけども、それに乗って、えーそうですね…田舎を10時ぐらいに、出雲号は、出雲が始発ですからそこまでまず、あの鈍行で行かなければならない(笑)。それで、出雲が夕方に出て翌日の朝東京に着くぐらい。ですから、22時間くらいですかね。

宮田:上野に降り立つっていう。

河合:えっと、夕方に出て翌日の朝ですか。

和泉:そう。あ、いやいや、田舎はだから10時くらいに出てる。

河合:朝の10時ですか。なるほど。

和泉:そうです。うん。それで東京に、たぶん8時かそのくらい、朝のね。…静岡あたりでこう、白んでくるみたいな感じがありましたからね。ええ。で、今私横浜にいるんで。横浜あたりに来るとですね、山の上、上まで家が立ってるんですよ、当時ね。もう、もう。いやあすごいなーと思う。何だろうと(笑)。

宮田:で、上野で降りて……。

和泉:それがルート一つですね。であとはもう一つ、山口線で、山陽の方に。山陽線に出て、小郡というところまで、で、そこから、九州から来てるやっぱり寝台特急だとか何本かあるんですね。それに乗って、東京までずっと。「あさかぜ」とか「はやぶさ」だとかそういう名前の寝台特急があったんですよね。それもほぼ同じぐらいの時間かかりましたね。うん。

渡辺:じゃあ主にどちらのルートを使われてたんですか。

和泉:いえね、あの、チケットがなかなか取れないんですよ。だから取れる方を、取って。田舎から乗るの、なかなか取れないんですよ。

宮田:初めての東京滞在はどれくらいだったんですか。

和泉:せいぜい3日くらい、ですかね。

宮田:そのいとこさん達はどの辺にお住まいだったんですか。

和泉:葛飾、当時ですね、葛飾にいまして、その後文京区の方に来ましたね。

宮田:それは、父方、母方のどっちのご親戚……。

和泉:えっと、父方です。はい。

宮田:わりとご親戚の方は東京に出られてる方が多かったんですか。

和泉:いや、一人だけでしたね。ただその後、そのいとこの姪の方が、いとこの同僚の人と結婚したみたいなことがあって、二人になりましたけどね。はい。

宮田:じゃあほかの親戚の皆さんは島根の方に。

和泉:いやあのー、島根、山口だとかですね和歌山だとかですね、いたんですけどね。だからいとこは東京へ来て国税局にいたものですから、はい。

宮田:じゃあ二回目の試験を受けに行く上京の時は、どっちのルートだったんですか。

和泉:えーとですね、えーと、その時は…たぶん、出雲号の方だったと思います。はい。

宮田:緊張して乗った記憶とかありますか。

和泉:いやそれはないんですけどね。だからその、受験に来た時、宿泊はそのいとこのとこに泊まらせてもらったんですね。その時はもう文京区の方でしたから、はい。

宮田:何月くらいですか、年明けてとか?

和泉:何月でしたっけ。2月くらい、試験は…ですよね。

河合:2月。

和泉:当時試験会場は藝大ではなくてですね、比較的、文京区のとこに中央大学の(後楽園)キャンパスが。たぶん今でもあのキャンパスあると思います。そこが試験会場だったんですよ。と言いますのは、藝大の中では結構受験者数は多いと思いますからね、収容する場所がないんですよ。教室が、ええ。後でまあ入ってわかったんですけども、200人くらい入れる、ちょっとした大きな教室が1個しかないんですよ。もう今なくなってますけど。

宮田:じゃあ、筆記があって、筆記の結果が出てから実技があるんですか。

和泉:そうです、はい。そうです。

宮田:じゃその間が、一回島根に帰るっていうほどの間ではなく?

和泉:えっとどうでしょ…うん、少しはあいてましたね、たぶん。

宮田:じゃあ試験結果が発表になるのを見に行くですか。

和泉:それは見に行きます。ええ。

宮田:それは藝大に。

和泉:そうです。はい。

宮田:じゃあ、まず受かったというのを確認して、次に実技。実技はどこで。

和泉:実技はもうあの……。

宮田:藝大ですか。

和泉:ええ、藝大、はい。

宮田:どんな試験だったんですか、実技は。

和泉:いやもうですから、実技2回あるんですよ。実技が、1次2次が。それも実技の1次を通らないと2次にいけない。だから彫刻は、石膏デッサンですよね。

宮田:1次が石膏デッサン。

和泉:はい。で、2次が、粘土で立体を作るという。

宮田:石膏デッサンはどういう、いくつもある中で好きなものを選ぶっていうよりは一つ……。

和泉:それはもう1個しかないですね。ですからあのー、その前に浪人の時間、期間があるんですけども、そこで塾に通った、半年くらい通ったんですけれどね。そこで要は、来年何が、だいたいギリシア彫刻だとかそういったものが対象になるんですけどね、何の像だっていうのがこう受験生のですね、話題なんですよ。

河合:浪人はされているっていうことですね。一回目の試験では合格できずに、浪人もされていたということですか。

和泉:そうです。はい。

河合:浪人は、島根と東京のどちらにいましたか。

和泉:ええ、それでですね、落ちましたよね。それでまず最初にですね、京都に私出たんですよ。ていうのは次男(兄)が京都にいたもんですから。そこの近くにちょっとアパート借りて、で京都にはそういうのありますか。画学校というかそういう。で、そこにですね、落ちて、4月の後半くらいですからね、夏まで京都にいました。結構短期間ですけども。それで今度夏にですね、東京の方で講習会、受験のための講習会の絵画教室があるっていうことで。生徒、夏休みを対象にしたので、そこに行ったんですね。それで、夏の講習を受けて、そしたら、藝大、西洋(画)の、絵画塾があるということで。すいどーばた研究所(洋画会、現・すいどーばた美術学院)というのが―たぶんネットで出てくるでしょ―今はもう随分大きくなったそうですけれどね。そこに行ったんですね。でそこは、どうしてかっていうと、そこの塾長とかですね、そこに来てる講師の人が、油画のコースと彫刻科のコースもあるっていう結構当時珍しい、だったんですね(1959年4月に彫刻科を新設)。で、そこに入りました。だからもう、夏休みを過ぎていましたけどね。

河合:秋からそちらで準備をしていたという。

和泉:うん。そうですね、はい。だから結果そこからはもう随分入ってます。同期で。油にもたくさん入りましたし、彫刻にも、ええ。彫刻で…彫刻に行ったので…私なんかの時は、定員数20名なんですけども19名しか入らなかったんですけども、そこから何人かな…5人くらい入ったんですよ。ええ。

宮田:5人入られた同級生はどなたとかって覚えておられますか。5人一緒に入った方って例えばどなたかっていうのは。

和泉:あの、一番あのーそこにですね、そこで一緒になって、また別れてしばらくした後で出会ったんですけども、えー、久保田成子。

宮田:あっ、そうですか!

和泉:は、同じ塾だったんです。で、彼女はだから、藝大失敗して、(東京)教育大(現・筑波大学)に入っています。ええ。で、しばらくだからそういうことで音信不通だったんですけど、またなんか、結果同じようなところにいて(笑)、出会って。しかもナム・ジュン・パイク(白南準、Nam June Paik)さんと結婚したみたいな(笑)。

宮田:ちょっと話戻っちゃいますけど、京都の塾に通われた頃って京都のどの辺にお住まいだったんですか。

和泉:えっとそれはですね、右京区でした。はい。

宮田:その特も京芸とか、京都芸大のこととかまったく考えずに、もう。

和泉:そうですね。考えなかったですね。ええ。

宮田:その頃京都でもいろいろ美術展、展覧会だったりっていうのが、あとグループもあったと思うんですけど、見に行く機会ってあったんですか。

和泉:いやえっと、行ったのは美術館くらいしかないですね。

宮田:岡崎(公園)の(京都市)美術館ですか。

和泉:そうですね、はい。

宮田:何か、どんな展覧会だったか……。

和泉:いや、あんまり覚えてない。

宮田:初めて美術館に行ったのはその時ですか。

和泉:えっと、美術館…どうだろうな……あっいや、東京に来た時ですね、いとこのとこに来た時たぶん連れてってもらったと思います。博物館だとか美術館だとか。

宮田:上野に。何か、特にそんなに記憶には。

和泉:いやま、あの、スケールがでかかった(笑)。

宮田:中学生の時に体験したという。

和泉:ええ。

宮田:一回目受からなかった後も、その後また、美術への気持ちって強くなっていきましたか。

和泉:それはなりましたね。ええ。

宮田:何かその、もっと作りたいとか描きたいっていう……。

和泉:いや、まずはだって、受験をクリアしなければならないという。だからもう、そこはそれだけでしたね。

宮田:結構その後積極的にすごく動かれて。京都とか東京に出て浪人生活というか、絵の勉強をされるとかっていう人って、そんなには周りには。

和泉:うん、それはあまり。

宮田:多くなかったんですね。ご両親も応援されてという形で。

和泉:そうですね、ええ。あんまりああだこうだ言わないで、一応見守ってくれてたという感じがしました。

宮田:受かった時の話に戻りますけど、1次が石膏デッサンで、2次の粘土の制作っていうのはどんなものを。

和泉:ピーマンでした。

宮田:ピーマン。

和泉:ピーマン。

渡辺:何か課題があるんですか。

和泉:いやだから、ピーマン。

渡辺:ピーマンが課題で?

宮田:(渡辺さんに向かって)ピーマンが、置いてあって。

渡辺:あ、ああ。

和泉:これを表現しろと。

宮田:複数、どっさり盛ってあるとかいう感じですか。

和泉:2、3個だった、ですかね。

渡辺:それで1個作るんですか。

和泉:いやそれはだから、当然もう、任せてたわけですよ、作る側に。1個にするのか、表現するのか。それを見てるわけですから。

渡辺:で、どうされたんですか。

和泉:えっと、1個作ったと思いますね。だから与えられた粘土を最大限大きく活かして、というふうな感じだったと。

宮田:その時にまだ受かる前の。その試験終わった時、うまくいったという感じだったんですか。それとも、こう、いろいろ勉強してきたがためにいろんな先入観があって、ちょっとうまくいかなかったなとか、そういう気持ちとしてはいかがでしたか。

和泉:いや、まあ、一浪した後は、情報だとかですね。その講師も、彫刻科のコースの講師は、…藝大の助手をやって、そこから離れたのかな。それにしてもそれなりの情報をこう持っていて、提供してくれましたからね。ええ。さほど……。

宮田:じゃあ傾向と対策はばっちり?

和泉:は、まぁ、あんまりなかったんですよ。うん。

河合:その粘土で作るっていうのは、その、実際に受けてみて初めて知ったんですか。

和泉:そうなんですよ、そうなんですよ。あ、最初の時は、それもあるんだという情報だけであって、あの、最初の一年(目)ではね。実技の2次がそうなんだということであって。

宮田:びっくりですね、そんなの。

和泉:そうなんですよ。いや、そこまでいけなかったんですよ、私は。

河合:一回目はじゃあ、デッサンで。

和泉:そうそうそう。いやあその時、デッサンは自信満々だったんですけど(笑)、やっぱ実際全然ダメでしたね。それで実際浪人してみて、そこで習ったことをね、合格するためのあるでしょ、テクニックみたいなことで言えば、全然ダメでしたね(笑)。

河合:振り返ってみれば。

和泉:そうそう(笑)。

渡辺:その粘土を作る勉強も、東京でされたんですか。

和泉:いや、してません。

渡辺:え、じゃあ、その場で初めて。

和泉:うん、うん。いや、だけど粘土は出るよというふうなことは当然講師の…先生から情報は聞いてるわけですよ。

渡辺:それに向けての対策とかなしに初めてそこで触ったんですか。

和泉:そうですね。それは、そうでしたね。

宮田:一緒に試験を受けた最後のメンバーの中で、記憶にある方っていうのは。2次を通ってみんなで受けてる時に、大学に入ってからこう親しくなった人って、記憶にありますか。同級生。

和泉:あのー、あまりその後、何人かはいますけどね。…今でもまだ、作家活動してる人も何人か、いますね。ええ。あのー油の方ではですね、櫃田伸也、彼はだから、結構親しく。で、辞めた後も当時は情報を交換みたいなのもしてまして、あのー、シェルター計画なんかの時は案内状を私も出しましたし、彼も来てくれたみたいなことがありましたね。名古屋の時案内状(「ハイレッド・センター 「直接行動」の軌跡展」名古屋市美術館、2013年11月9日−12月23日)を出したんですけど、なんか体調がよくないとかなんとかで、たぶんあまり、来たかどうか定かでなかったですけど。

宮田:じゃあ、藝大に入った時、受かったってわかった時は、それはすごく……。

和泉:そりゃ嬉しかったですよ。

宮田:周りのご家族とかの反応はいかがでしたか。

和泉:周りの家族って。

宮田:ご両親とか。

和泉:そりゃ喜びました。それは、ええ。

宮田:じゃあもう、試験で一回、試験のために東京に長く住まれてますけど、受かった時は一旦島根に帰って。

和泉:もちろん。帰りました。

宮田:帰って、いよいよ東京で暮らすという時。その部屋探しなどはどうされたんですか。どの辺に……。

和泉:部屋探しはですね。うーんと…その時…塾の、講師の人経由で、ちょっと学校の近くにどこかないですかみたいなことでですね、紹介してもらって。実際には谷中のすぐ墓地の隣のとこにですね、しばらく、下宿したんですけどね。…そこの、たまたま下宿した先にですね、同じ年齢の男の子がいまして、それは今でも付き合っていて。この前(「ハイレッド・センター 「直接行動」の軌跡展」松濤美術館、2014年2月11日−3月23日)もあのオープニングの時来てくれたんですけども。はい。

宮田:それは同じ藝大生ではなく。

和泉:ええ、全然違います。だけど、退職した後ですね、何かやけに目覚めて、今、版画とかやってましてですね。(西)日暮里にですね、昔から太平洋美術(会)という何か研究所が、近くだから。あそこのメンバーになってるんですって。今でもそこで何かやってるみたいで、美術館か何かで時々年一回くらい発表会。今年は(国立)新美術館の方で何かやったとか、何周年記念で、と言ってましたけれど(「第110回記念 太平洋展」国立新美術館、2014年5月14日-26日)。

宮田:2時間くらい経ってしまったんですが。この後大学での授業だったり、どんな制作をされていたのかっていうのを、次回に伺いたいと思います。

和泉:そうですね、はい。

宮田:どうもありがとうございました。幼い頃の話ってなかなか聞けず、大人になるほど興味深いというか、直接的ではなくともこう、後ろの風景みたいなものとして見えてくるので。

和泉:いやあの、私も、こういった形で話だとかしたことはあまりないですね。やっぱりクエッションがないとですね、なかなか。全部自分から口述みたいなこともできないし。よかったですよ、これは。本当に。

宮田:よかったです。なんかやっぱり少し、いろいろ聞いてしまうので、嫌な、ちょっと話したくないなというのもあると思うんですけど…でも聞かせてください(笑)。

和泉:私は今の生き方っていうのは、あの、まああの、普通でありたいとかですね、あの、普段通りとか、なんかそういう形で今生きようとしてますからね。別に過去のこともですね、あの、さほどこう隠そうともあまり思わないし。だから今回一回目ですから、また次回の時ですね、また質問についても、ええ、いろいろ突っ込んでもらってかまいませんので。

宮田:どうでしょう、もう少し具体的な…バーっと箇条書きでしたけれど、もうちょっと詳しい質問があった方が話しやすいですか、事前に。

和泉:それはもう、されても別に。記憶にないとかですね、もうあのこの歳ですからね、どうだったかなというのはしばしばあるかと思いますけどね(笑)。 思い出せるものについてはできるだけ、あの、脳の活性化にもなる(笑) 努力してみますから。突っ込んでもらって結構ですから。

河合:助かります。