元アートスペース虹オーナー
1940年宮城県に生まれ、3歳から疎開先の京都府亀岡市で過ごし、7歳の時に京都市内に移り住む。戦争で父を亡くし、家計を支えるために高校進学を諦め、友禅職人の道に進んだ。結婚後も子育てと仕事を両立しながらキャリアを重ねたが、自宅を現代美術画廊にすることを思い立ち、1981年にアートスペース虹を開廊。2017年末までの37年間、関西の美大生や若手アーティストの多くが個展会場として利用したほか、現代音楽家や建築家、美術批評家なども関わり独自の視点で企画展を開催、書籍を編纂するなど京都のアートシーンにおいて重要な役割を担った。
閉廊直後に実施した聞き取りでは、1日目に幼児期の戦争体験と、自身の美意識を育んだ幼少期の茶道や能との出会いから友禅職人時代まで、2日目は開廊から閉廊までのスケジュールをもとに、印象深い展覧会や作家たちとの交流について語っていただいた。熊谷にとっては生い立ちから閉廊までを語る初めての機会であり、「自分と同じような境遇の方を励ましたい」との思いから引き受けてくださった。インタビュアーにはアートプロデューサー、ライターとして関西を拠点に80年代以降のアートシーンに深く関わってきた原久子を迎え、聞き取りを行った。
伊村:旧アートスペース虹のスペースにて、熊谷寿美子さんのインタビューを始めさせていただきます。
熊谷:はい、よろしくお願いします。
伊村:まず、1940年に京都でお生まれと伺ったんですけれども、生まれた日はどんな日だったのか、お聞かせください。
熊谷:京都じゃなくて、宮城県の塩竈で生まれています。塩竈神社の氏子で、でも1ヶ月しかいませんでした。父の仕事の都合で、すぐに茨城県の波崎へ移動して、3歳までいて、それから疎開で京都府亀岡市紺屋町に疎開しました(注:熊谷の父は、養殖業を各地で起こし、フィッシュミール工場の設立に尽力した。詳細は後述。)。亀岡女学校付属幼稚園へ入りましたけれど、B29が毎日のように空を飛んでいて、大阪を爆撃に行くのに低空飛行して亀岡にもパツパツ、ちょっちょっと爆弾を落としながら行くので、すごい怖いですよね。3歳まで波崎だったので、怖いことを「おっかない」って言うんですけど、誰にも言葉は通じなくて。母が(幼稚園に)様子を見に来たら、桜の下で一人絵を描いてたんですって。みんなお教室にいるのにどうしてと聞くと、いやここの方がいいもんとか言っていたみたいです。
原:波崎っていうのは、茨城県のどのあたりですか。
熊谷:茨城県の利根川の河口で、銚子の向かい側なんです。橋でつながってたみたいですね、銚子と波崎。
原:じゃあもう海辺の町。
熊谷:そうです。だから、あの、話が飛んでも構いませんか(笑)。 (京都に来てからも)母と地元の人はずっと連絡を取り合ってたみたいで、(私が)二十歳の時、「あなたのお父さんの工場の跡が砂漠のようになってるから見に来ませんか」って言われて、見に行ったんです。昔のことですから、12時間かかるんですよ、波崎までね。2日ぐらい徹夜して。そしたら本当に見渡す限りのところでした。
原:3歳まで(いらした)ということで、波崎の記憶は、ほとんど・・・・・・例えば、景色とかで記憶に残っていらっしゃることはありますか。
熊谷:(幼い頃の記憶は)全くないんですよ。(二十歳の時は)遠くへ行くもんですから、1週間休むということにして、そこには6日間お世話になったのかな。で、帰りに1日東京へ寄って。何となく、その人とずっと連絡がつくようにしていればよかったと思うんですけど。 (父の事業というのは)それこそ漁師町の様子が一変するような仕事なんですね。東京が危ないのでそこ(波崎)を本拠地にするって決めて、地元の人達には、お世話になったんだと思うんですけど、最初は猛反対されて。個人で魚を採ってるのが、小学校ぐらいの規模でイワシを集めてそれを肥料にして加工する。だから反対の人もいて。漁師さんにそんな話しても(規模が大きすぎて)見当がつかないですよね。事務所にいたら出刃包丁が飛んできたり、母も町を歩いてて背中にイワシを投げ込まれたとか。いろんなことがあったようですけど、父は本当にみんなを幸せにしたくて、できた肥料をまくと豊作間違いなしっていう肥料で、「黄色いダイヤ」って呼ばれたんだそうです。 なので、一旦没落して手放した家の田畑を全部父が買い戻してるんですね。父は次男ですけど、それを長男が継いでっていう感じです。
伊村:お父様のお名前、後でお母様についてもお話ください。
熊谷:父の名前は瀬戸峰太郎で、ミネさんミネさんって言って親しまれて、愛される人だったと聞きました。父の十三回忌の時に、日置っていう父の生家へ帰ったんですけど、村の人が駆けよって来て、お父さんにそっくりって言って、「あなたのお父さんはね」って懸命に話してくれた(笑)。泳ぎが達者で、本当に食糧に詳しくて、人に愛されて、正義漢の人だったって言って下さいましたね。
宮田:その日置のお家はどこにあるんですか。
熊谷:宮津、天橋立から30分位、昔は汽船で行ったんですけどね、船着場があって、今はバスですね。で、海沿いにあるので、裏庭が海なんです。そこに昔は船小屋があって、いつも3艘位の船があって、ほとんど漁はしてなかったみたいですけどね。父がいた頃は、これ(両手をひろげたサイズ)を「ひと尋」って言うんですけど、十尋の網があって、父にしか打てない(注:網で漁をする事を「網をうつ」と言う。大きな網を広げるには、力と技術を要する)とか、そういう何かエピソードが多い。 そんな話をしてると、横へ逸れていってしまうので(笑)。
原:そういうお話はどなたから聞かれたんですか。
熊谷:それは母と父の実家に。父はそれだけのことをしてるわけですから、母がそこ(父の実家)にいれば粗末にはされないと思っていたと思うんです。ところが(母は)鍬なんか持てるような人じゃなかったので、出ちゃったんですね。 母は瀬戸恒子、元は山手恒子って言って、結婚して瀬戸恒子になってます。祖父は舞鶴出身ですから、軍港、船のドックで働いていて、とにかく二言目には士族の娘だからっていうのをつっかえ棒にして、娘達を叱る時にはいつも「士族の娘だからそんなことではいけない」みたいなことを言ってるけど、それもカラのつっかえ棒ですよね(笑)。士族は全員失業したんですから、明治の時にね、何の値打ちも無いわけで。祖父はいろんなことをしてたらしいんですけど、詳しくは知らないですね。最後はそんなことでしたね。舞鶴は軍港でしたから。 母は父の悪口は言わなかったです。私に兄弟がいて、芸子さんに生ませた子どもがいたんだそうですけど(笑)、近所の人が、「あれはミネさんの子ですよ」みたいなことを言っても、「あらそう」で終わってたって。でも、そのお兄さん、2つ上だって聞いててね、そんな人いたらいいなと思いましたけど、亡くなったみたいです、小さい時に。
宮田:お母様から、お父様のお話だけではなくて、お生まれの時どんな様子だったか聞いたことがありますか。
熊谷:うーん、ほんとは上にも男の子がいたんですけど、それは死産だったらしくて、私が生まれたことをすごく父は喜んでくれて。鬼瓦のような子どもが生まれてきたって捨てに行こうかって言って。冗談だと思いますけどね(笑)。
宮田:冗談ですそれは(笑)。
熊谷:そう言ったそうですけど、私はすごいお父さん子で。そういう仕事をしているから出張が多いんですよね。お父さんが帰ってきてここに寝るっていうお布団を敷いてないと寝ないぐらいのお父さん子だったって聞いてますね。
伊村:幼少期を過ごされた地域というのは、その亀岡っていうことになるんでしょうかね。
熊谷:そうですね。
伊村:印象に残っていることは。
熊谷:妙に覚えててね。何でもあげちゃう子どもだったんですよ。近所の子どもさんとドールハウスを持ちだして、おままごとしてて、白いベンチをあげちゃって、母にこっぴどく叱られました。でも懲りずにお雛さんの道具を持ちだして。私のお雛さん、御殿雛で、牛車も駕籠も付いてて、台所道具が付いてたんです。小さいコンロ(かまど)とかお釜とか、それを持ちだして、ご飯を炊いてね、近所の子どもと。それでお雛さんの道具によそってね、食べようとしたんですけどね。そこが子どもだから、お米を洗うってことを知らないで(笑)。食べようと思ったら炊けたんですけど、すっごい糠臭くて、食べれなかった。ってこんな話してていいのかしら。それはそんなに怒られませんでした。
それでね、そんな田舎でも戦争中は(幼稚園で)軍歌でお遊戯を踊らされてたんですけど。その頃はみんなが幼稚園に行ってるわけじゃないんです。家へ帰っても近所の子どもにね、教えるわけ。そしたらね、母が泣くんですよ。つまり、「ここはお国の何百里」って、「離れて遠い、この赤い夕陽に照らされて、友は野末の石の下」とかいって、ほんとに死んだ真似とかね(笑)。お遊戯ってそういうふうになってるので、それを見て、母がポロポロ泣くので、あ、これはダメなんだなと思って。今度はね、戦争が済んでも、そんなこと子どもはわからないから同じようにしてるでしょ。今度はMP(Military police)が連れに来るよ(と歌って)、「そんな歌歌ってはいけない」って言われたり。
幼稚園ってすごいところだなあと思うんですけど、この(A4サイズの紙を持って)、これぐらいの紙にね、おリンゴが描いてあって、「はい、塗り絵しなさい」って言われて、裏返すとAって書いてあって、「はい、塗り絵しなさい」「はい、ABCアップル」って言って、習ったんですよ。それ以外覚えてませんけれど、よくやってくれたなと思いますね(笑)、ほんとに。まあそんな田舎にもジープが走りまくってて、みんなチョコレートとかガムとかもらってね。でも、母は「いわれなく物を貰うな」と父に言われてて、私に同じように言うので、ああ貰っちゃいけないんだなと思って。で、丸麦を噛むとグルテンがガムみたいになるの。それやりすぎておたふく風邪になったりね、肩凝らして(笑)。
原:何を噛むと、ですか。
熊谷:丸麦。
原:丸麦を噛むと。
宮田:ガムのように。
熊谷:なるの。グルテンですよね。食べても大丈夫なガム。田舎だから丸麦があったんですよね。まあそんなことなどがありました。
宮田:ちょっと戻ってしまうんですけど、事前にも(質問リストの回答としてメールで)教えていただいてるんですが、お父様のお仕事について、詳しく教えていただいてもいいですか。
熊谷:母の話ですけど、元々、鮎川義介(1880-1967)という人の秘書をしてたというんですけどね。鞄持ちって秘書のことだと思うんですけど、住み込んでたと思いますね。おそらくはね。まだ十九、二十歳ですから、誰かがその鮎川義介に紹介したんじゃないかと思うんですけどね、そのあたりのことは全くわからないです。鮎川義介は日産コンツェルンっていう企業体なので、みんなそこから企業を立ち上げていくんですよね。(父は)「僕は海をやる」って言って。とにかく「みんなに幸せになって欲しい」と思う人のような気がします。養殖漁業を考えたり、そうやってフィッシュミールを作る工場を全国に建てていったというんです。沖縄から北海道までね。さっき言ったように、小学校規模の2階建てぐらいにイワシがよく採れたんですね。採ってそれを加工して、油はゲンブ石鹸とか、何かに使ってたみたいで、その絞りかすをフィッシュミールっていう肥料にして。その頃のことを知ってる人からチラチラと聞くと、ほんとにそれを撒くと豊作になったそうです。油カスですよね。 母が結婚する時に、父は母に何かプレゼント攻撃したらしくて、「自分は若いけど工場でちゃんと仕事をしてるところを見に来なさい」って言われて、亀岡から見に行くんですね。亀岡に大叔母がいたんです。それで見に行ったら、本当に朝礼台に立って訓示をしてたと。それで結局もう父は母を帰さなくて、そのまま(笑)。なかなか強い人だったみたい、いろんな意味で。
朝訓示をして、床が油で滑るからみんなに「気をつけるように」って言ってたらしいんですけど、誰か油壷に落ちたというんですよ。(父は)自ら飛び出して、それをみんなで(助けて)、でも全身火傷なので冷たくならないように、父と母が両側から温めたというんですよね。それまでは(地元の方で)「お父さんがもうこんなところに勤めたばっかりに」と言ってすごい怒っていた人が、「いや、弟もここで働かせてやってくれ」みたいなことをおっしゃるぐらいに、人をすごく大事にしたって聞いてるんですけどね。それは見ていません。そんなエピソードを(母は)よく話してましたね。
宮田:お父様とお母様の出会いは。
熊谷:何だったんでしょうね。私もよくわからないですけど。何だったんでしょうね、ほんとに、と思うんですけど。
宮田:あんまりお母様はそういう出会いとか、お話は特にされなかった。
熊谷:そうですね、特にはしませんでしたね。
伊村:あらためてになりますけど、熊谷さんご自身の家族構成について、ごきょうだいはいらっしゃいましたか。
熊谷:ひとりっ子ですね。父が亡くなりましたので。ただ、母のきょうだいが、母を入れて6人ですね。ほんとは12人生まれたそうですけど、男の子は6人亡くなってるんですよ、もう小さい時に。それで、女性が5人と男が1人残ったわけですよね。叔父が何とはなしに父親替わりをしてくれましたね。本を買ってくれたり、こんな個人的なつまらない話をしていいのかどうか、時間もったいないですけど、少しだけね(笑)。動くおもちゃが大好きだったんです。すごい聞き分けのいい子だったんだけど、「福助さん」ってね、水でS字型にこうクーッと出て、福助さんの背中に水車が付いてて太鼓を叩く人形があったんです。それは見てるだけで仕掛けがわかって、買ってとは言わなかったんですけど、バネ計りがあったんです、ブリキの。この針がどうして動くのか、興味が尽きなくて、どうしてもそれが欲しくて、それでその時は地べたに寝っ転がって。高かったんです、多分ね。で買ってもらって帰るやいなや、ブリキの爪を剥がして見ようとしたら、中からピョーンとバネが飛び出して、おもちゃは壊れるわ、バラバラになるわ、原因はわからないわ、それで怒られるわ(笑)。泣いてたら叔父が帰ってきて、アイロンを持ち出して、コードに差してね、「熱くなるだろ」って。「どうして熱くなるか見たくないかい?」って。(私が)「見たい」って言ったら、「じゃあこれでバラしてみろ」と。アイロンを分解させてくれて、中の雲母を見せてくれて、通電させて、「こうなってんだよ」って言って「また組み立ててみろ」といって。小学1年生か2年生ぐらいでしたね。それは叔父には感謝しましたね。もう二度とああいうことはやめようと思って(笑)。
伊村:好奇心旺盛なお子さんですね。
熊谷:好奇心旺盛ですね。
伊村:小学校の頃について少しお伺いしたいんですけれども、どの小学校にいらして、どんなクラスだったのか、ご記憶にあることがあれば教えて下さい。
熊谷:はい。亀岡小学校、ちょうど私達の時から戦後の教育になるんです。だから私達は小学校と言ってますけど、新制小学校ですね。全部上に新制って付くんです。田中(恒子)さん(注:住居学・教育学者、アートコレクター)も森本紀久子さん(美術家)も同じ年なんです。この年から自由とか自主性とか、そういうことに言及するようになるんですね。教材もここでガラッと変わるんです。やんちゃですよ、結構この年代は(笑)(注:京都府亀岡市立亀岡小学校公式ウェブサイト「学校沿革史」によれば、亀岡尋常高等小学校から亀岡国民学校に改称したのは昭和16(1941)年4月。亀岡小学校と改称したのは昭和22(1947)年4月。<http://www.el.city.kameoka.kyoto.jp/kameoka/item.html>参照2021年1月17日。昭和16年には『国民学校令』が、昭和22年には『教育基本法』『学校教育法』が公布された)。
伊村:教科書のことでもしご記憶に残っていることがあれば教えてください。
熊谷:教科書で、「お花を飾るみんないい子」って、「みんな」っていう言葉が(印象的でした)。それまでは、鳩、花、豆、兵隊さんが通るとかそんな教材だったんですって。主人なんかは綴じてもないような紙を自分達で畳んで切っていたと言ってましたね。戦後それを塗りつぶして、使ってたって聞いてますけど。私達の教科書は穏やかな教科書でしたね。
伊村:教科書を読むのは楽しみでしたか。
熊谷:うーん、そうですねえ、楽しみとまではいかなかったですけど(笑)。すごいクラスも多くて。亀岡小学校1学期だけ行って、もう母が出奔するんです。亀岡の大叔母のところからね。それで、夏休みに旅館に泊まって、嵐山ではずっと1ヶ月遊んでました。2学期から京都の仁和小学校に行って、そこでは優等生でしたね。でも火事に遭って、2年生から引っ越すって時に、「漢字の読める子がこの子しかいないから引っ越さないで」とまで言われたんですけど、で、葵小学校。葵小学校はそれこそね、1学年何人だったかわからないけど、60人近いんですよ、1クラスが。教室が足らなくて、私達は図書室を仕切ったところで。ベニヤ板で仕切ってるから、コンパネまでいってないんじゃないかと思うぐらいの感じで、隣の部屋の声が全部丸聞こえの中で勉強してました。2年生入るなり途端にもう習ってるところも全然違うし、漢字も全然違うし、九九を習ってるんですけど、ちんぷんかんぷんで、すごい困って。何かヒステリックな女の先生に当たって、女の先生大嫌い症候群になりました。
原:その仁和小学校(上京区)から葵小学校(左京区)ってことは、京都市内でもかなり離れていますね。
熊谷:すごいギャップがありましたね。
原:そうですね、葵小学校は下鴨の方ですよね。
熊谷:下鴨、洛北高校の裏にあるんです。その頃叔母がね、幼稚園のお受験のアルバイトしてたんですよ。それってね、知能指数測るやつあるでしょう。あんな1回解いたら出来ますよね。ずるいと思いました。
宮田:ちょっと戻ってもいいですか。
熊谷:どうぞ戻って下さい。
宮田:戦争体験を詳しく伺いたいんですけど、一番、戦争なんだなっていうふうに幼いながら感じたこと、記憶というのは何ですか。
熊谷:そうですね。亀岡にいた時、もちろん防空壕に、いつもいつもね、突然、空襲警報発令ってウーってサイレンが鳴るんですよ。そしたら、どこにいても、家の中、屋内に入って隠れないといけない。もちろん防空壕に入ったり、夜は電気は一応点けるんですけど、それを分厚いものでくるんでね、暗くしないと外に光が漏れたら狙われるって。人家がないように見せないといけないのね。で真っ暗ですよ、いつも。それで、空襲警報発令って真っ暗にして。B29ってね、爆撃機のエンジンってすっごい振動するんです。そもそも、ガタガタ震えてる母に抱かれててもうそんな全然(笑)頼りにならないから、なお怖いぐらいの感じでいましたね。もう戦争が終わる頃なんて、毎日のように来てたんじゃないかと思うけど。一度父の実家に、宮津の日置に帰っている時、夜魚雷が間違って岩に落ちたんです。大地震みたいに揺れて、もうガラスが割れて飛び散ってる中を逃げないといけなくって、それは怖かったですね。
宮田:それはやっぱり怖いという気持ちが強い。
熊谷:怖いですね。それで、戦争末期って、毎日こう亀岡を威圧して大阪を爆撃に行くんですよね。大阪って、南東に見えると思うんですけど、夕焼けするはずのない空が夕焼けみたいに赤くなってて、何か不思議だなあと思って見てましたけど、それが大阪大空襲の日だったんですね。本当に空が赤くなってましたね。
宮田:お父様が出征されたんですか。
熊谷:はい。ほんとは行かなくてもいい人だったんですけど。「部下がどんどん死んでいくのに自分だけ助かろうと思わない」と言って。多分軍の食糧と関係してましたから、ヤマサ醤油とか、味の素の前身とか、お砂糖の会社、ブラザーミシン、これ全部戦後急成長した会社なので、それは戦前からその芽があったから顧問をしてた、開発に関わってたと思うので、軍の様子なんかもつぶさにわかってたはずなんです。だから、はっきりもう、「この戦争は負けるし、自分は帰って来れない」って言って行ってるので、自殺(行為)に近いですよね。それで、(父は)九州にいたんですけど、一旦京都へ帰されて、それから、外国へ戦争に行くわけです。
一旦帰された時にね、母子二人の疎開に、味噌醤油を樽で持って、お砂糖つづらにぎっしり。人が(汽車に)一人乗るチケット取るのも大変な頃に、荷車を連ねて疎開したので、「一体誰の疎開や?」って町中の噂になるぐらいだったの。うちはぼた餅大好きで、そのお砂糖を使って菓子職人を呼んで、ぼた餅をいっぱい作って近所の人にも配って。それで(父は)若い兵隊に食べさせたいって言って、持てるだけ重箱にぼた餅を詰めて持って帰ってね。正門から入ると、全部取り上げられて上層部の口にしか入らないから、夜に塀を乗り越えて帰るって言って(笑)。随分やんちゃな人だったみたいですよね。
原:1940年にお生まれになって、お父さんが出征されたのは何年なんですか。
熊谷:3歳の時ですよね。だから、もう亀岡に疎開したのは、自分が戦争に行かないといけないから、私達を疎開させたので、それは送っていた時を覚えてるんですよ。一旦帰って来たのは多分4歳の時だと思うので、その時じゃないかと思うんですけど。「ここまでしかついて来てはいけない」と言われたんです。母と私と、ずうっとついて行けるもんだと思ってたらね。で、どんどん遠ざかっていってね、ポストがあってね。ポストの角を曲がって、見えなくなったんですよね。それをすっごい覚えてますね。
原:亀岡に駐屯地みたいな、そういったところがあったのですね。
熊谷:亀岡にはないんです。京都に集められて、多分(第)十六師団だと思うんですけど、そこから行ったと思います。ずっと南方へ行って、生き残りをかき集めては、フィリピンをどんどんどんどん南下していって、一番南の果てがフィリピンのホロ島っていう淡路島ぐらいの大きさの島で、そこへ食糧も武器ももう無い状態で、6千人上陸してるんです。生き残ったのが80人。死にに行ったようなもんですよね。それも、ホロ島『敗残の記』っていう本に、藤岡さんという人が書いていらして(注:藤岡明義『敗残の記―玉砕地ホロ島の記録』(創林社、1979年6月)、その本を買い求めていて、あったんですけど。それにすごい詳しく書いていらして、その本を母が亡くなってちょうど1ヶ月目に見つけたんです。
宮田:おうちにあったんですか。
熊谷:偶然ね、新聞の三行広告で。最初がハードカバーで出たんです。それから単行本になってまた出て。
宮田:お父様の足取りは何か情報があったんですか。手紙が戦地から届くとか、お知り合いの方がおられたとか。
熊谷:いや、それは戸籍謄本ですね。戸籍謄本に、ホロ島、ツマンタンガムで死んだって書いてあったから。藤岡さんという方の本ではね、生き残った人が、みんな報告に回らないといけなかったらしくて。藤岡さんが最後の激戦地の(島の)ダホ山へ行く前の日に、みんなの中から逃れて、米軍に降服しはるんです。5人位きっと藤岡さんがそうすると思っていた人達が一緒について行くんですね。つまり、原住民に見つかっても殺されるし、日本軍に見つかっても大変なことになるし、米軍にうまくスッと受け入れられなかったら、間違って撃たれたりしないように白旗上げて行かれたんでしょうけど、その人達がまだ戦ってる人を迎えに行って、助かったのは80人なんですよね。多分まだ戦争が終わった(直後)ぐらいだと思いますけど、そうやって生き残った人がみんな報告に来て、(父は)そこに、生き残った中にいなかった。いなかったから多分戦死、死んでいると。それも確認もできてないから、何もない。
原:それはじゃあ、8月15日よりも前か後かもわからないということですか。
熊谷:あとあと、ずっと後。でも8月1日に戦死したことになってるんです。だから戦争は済んでいた可能性もありますよね。
伊村:しばらく待っていらしたっていうことですよね。
熊谷:ずうっと待っていました、母は。だからその本読むまでは、私も、そう、その父のことを話してくれた村の人が、「お父さんは絶対生きてる」って言って、村の人達でさえも、待ってるわけですよ。だから私もああきっとそうなんだって、その本見るまで思ってました。でもその本を読んで、母があの世から、「こっちにいたよ」って教えてくれたんだなみたいな気持ちになりましたね。
原:それはいつ頃ですか、お母さん亡くなられたのは。
熊谷:それはえっと何年だったっけ。私が63の時に亡くなってるんですけど。ああ、あの子が高校受験の時だから、(昭和)52だから、40年位前ですね。
原:1980年ぐらいまでは、どこかで生きて暮らしてると信じておられたのですね。
熊谷:そうですね。思ってましたし、母が亡くなるまで、父のことを言えなかったですね。父の話をすると泣くので、禁句になってたんですよ。だから父のことを恋しいと思うのがいけないことのような感覚になってたんですけど、原爆の番組を見てる時にね、お父さんが一瞬に消えたと思っていた娘さんがいて、でもお父さんの亡くなりはるところに立ち会った人がいて、お父さんが自分が持ってた水を、「この水をあなたにあげるから、この田中何左右衞門かなんか言う名前の人が、こうして死んだと娘に伝えてくれ」って仁王立ちになって亡くなられたっていうのがあって、娘さんがその方に会いに行かれる話があったんです。それを見てて、ああ別に父親のことを恋しいと思うのはいけないことじゃないんだっていうことにね、気がついてすごい泣きましたね。
宮田:それは何歳位の時ですか。
熊谷:いやそれはね、一昨年位。気にはなるけど、そういう何か感情的なものを、何か閉鎖してたような感じがしますね。
原:1970年代にも、ずっとジャングルの中に潜んで生存し、その後帰還された方がいましたね。
熊谷:そう、だから。
原:そういう方達が何人か帰国されたのをご覧になってて、80年頃まではやっぱりずっと、生存を信じておられたわけですね。
熊谷:そうですね。でね、何か父は不思議な人だなと思うんですよ。どうして村の人がそう言ったかというと、食糧にすごい詳しい。それで、「泳ぎが達者で、島から島ぐらいは平気で泳ぐよ」っておっしゃるし、「人に愛される人だったから、そんな死んだりしない」っておっしゃってて。そうするとね、もうはっきり死を覚悟して向こうに行って、もし助かったとしても、もし誰かに助けられたとしたら、その人のために生きるだろうなあと思って、ひょっとしたらそういうこともありうるかもしれないって思うようになりましたね、最近では。
でも、そのホロ島っていうのは、アブ・サヤフの基地になってて、今も渡航延期勧告が出てるんです。一応、アメリカ軍の病院とかもありますけど、すごい危険な、モロ族っていう人達がいるんですね。腰に刀を下げててね、それでちょーんと首を切り落とすような、そういう人達。すごい猜疑心が強くて、平和協定の場にも乗り込んできて乱暴狼藉を働いてぶち壊したりするような部族だって聞いてますね。
伊村:訪ねたいと思ってお調べになったことはありますか。
熊谷:そうですね。行けるものなら行ってみたいと思いましたね。でも、行ってるんですよ一度、(日本の)ある財団が。つまりその島に軍資金が隠されてるっていううわさ話があって、戦後一番にその人達が行って、何か人質が取られて、それを当時のお金で50万も出して、人質解放させてるんですよね。ということは、人質がお金になるということを教えてしまったようなものじゃないですか。だから、いろいろ複雑ですね、思いは。
宮田:すいません、私が話を戻ってしまったので、小学校のお話に。葵小学校が下鴨にあって、図書室の一角で授業を受けていたというところに戻りたいと思います。
熊谷:葵小学校ね、学校では劣等生でした。
宮田:下鴨の葵小学校に行かれている頃は、京都のどの辺にお住まいだったんですか。
熊谷:左京区北園町2丁目(下鴨本通東へ三軒目)。
原:住宅地ですか。
熊谷:住宅地です。
原:その当時は少し田んぼや畑もあったような。
熊谷:ありました、ありました。今でもあるんですけどね、植物園の北側を通って、賀茂川へ遊びに行くんですよ。そうすると、植物園ももう進駐軍に接収されててね、中に家が建ってて、フランス人形みたいな子ども達がキャッキャ言って遊んでる(注:現京都府立植物園。京都府公式ウェブサイトの「京都府立植物園の紹介」によれば、1924年に大典記念京都植物園として開園し、1946年から12年間連合軍に接収された。<http://www.pref.kyoto.jp/plant/11900026.html>参照2021年1月17日)。それで、私達は賀茂川で水浴びして、帰りにイナゴを採ってね(笑)。食べる物が無いので、イナゴを採って、持って帰って、それを煎っておやつにして食べる。
宮田:その頃、小学校の印象深い思い出はありますか。
熊谷:そうですね、
宮田:行事とかも普通に、今の学校のように。
熊谷:何かね、行事は全く覚えてないんですよね。何か怖かった女の先生と(笑)。
原:学芸会とか、合唱とか。
熊谷:学芸会もそこではもうほんとに人数が多くて、先生方もいっぱいいっぱいな、もう子ども達に迷惑そうな顔をしてましたね。子どもいっぱいいるの(笑)。
宮田:好きな科目と、逆に嫌いな科目は。
熊谷:小学校中学年までは無かったんですけど、高学年になって、やっぱり数学とか理科とか好きでしたね。
宮田:小学校の時に美術の授業もありましたか。何か覚えておられますか。
熊谷:美術の授業は、男の子並べといて殴ったりする先生だったので、その葵小学校の時はほんとに記憶があんまり無いんですけど、その次の出水小学校(上京区、現・二条城北小学校)では、二条城が一番近いんですよね。子どもながらにわかる、手抜きの体育の授業は、二条城一周(笑)。手抜きの美術の授業は、二条城写生(笑)。でもね、もう運動はできなくって、速く走るのは必ずビリから2番目って決まってたんです。一人太った子がいて、ビリを引き受けてくれて、私はその子よりはちょっと前に走る。但し、長距離、マラソンは、二条城一周は男女で1番か2番でしたね。時々男の子に負けるけど、長距離では頑張る。中学行って300人で二条中学から山中越まで行って帰ってくるっていうマラソンなんですけど、その時100番位になってめちゃショックでした。途中で走れなくなって(笑)。
宮田:その頃京都の様子とか、二条城だとわりと行事も多いのかなと思うんですけど、いかがでしたか。
熊谷:二条城ね、二条城で思い出しました。行事なんか多くないんです。二条城の堀が深くて、水がいっぱいあったんですね。しょっちゅう土左衛門が上がる。土左衛門ってわかるよね。
宮田:はい。
熊谷:そう、で、母が田舎がダメで、もうほぼ喧嘩状態でしたね、父の実家と。それで、お盆になると私一人で墓参りに帰ってたんです。小学校の時から。田舎の土産って重いんです。芋に南瓜にそういう重い物しかくれない。小学生がこうガッて(担いで、蒸気機関車に乗って)山陰線でトンネル入ると煙がワーッて来て、出ると開けて煙出すみたいなことしながら行ったり帰ったりして。二条駅で降りて、二条城の北の方までずっと歩いて帰る。すっごい重いんですよね。もう夜の10時位になっちゃったの、帰るのがね。で、お巡りさんが自転車で通りがかって「どうしたの?」と、家出と間違えて聞かれて。
宮田:荷物が大きいから(笑)。
熊谷:はい(笑)。「あそこに光が見えてます。あそこが私の家です」って、「あそこまで帰るだけです」って言って。じゃあ気をつけてって行った途端に、しまった積んでもらえばよかったって、思いながら歩いて帰ったことがあって。帰ったら、いや昨日あそこに土左衛門が上がったばっかりだっていうのを聞いてね、何と。そんなこともありました。
宮田:死が身近だったんですね。
原:それは、自殺をされる方が多かったってことですか。
熊谷:多かった。私の周りでも、その人だけじゃなくて。大体でも失敗するんです。
原:ああ、死にきれないということですね。
熊谷:死にきれない、刃物で失敗する、ガスで失敗する。高い建物も今みたいにありませんでしたからね。自分で首吊るっていうのもね、成功率はまだ高い方だけどそんなに高くないって聞いたことがある。
その…… 高学年の話でもいいですか。高学年になって、その、丸太町智恵光院という辺に引っ越した時に、出水小学校ですね。隣の家が里親をされてて、その家には、二十歳のお姉さんと私と同級生、4年生の時に越していったんですけど、その下に妹がいて、3人とも里子でしたね。親から里親に預けられて、親が仕送りをしてる。でもね、親が仕送りするのって10年間です。もう10年で親の仕送りは途絶える。なので、私の同級生の子が親元に集金にやらされるっていうので、泣いてるから、「ついていってあげるよ」と言って、その子について祇園まで。結構な距離ですけど、電車賃ももらえなくて、二人で歩いて行って、歩いて帰ってきたことがあります。何かね、ほんと二人で泣きながら帰ってきたことがありましたね。その一番下の子は混血で、お父さんは戦死したって聞かされてて、お母さんがいわゆる売春をしてられるところへ、死んだはずのお父さんが生きて帰って来られて、それで生まれた子どもだから、そのお父さんの子どもだと思って。生まれたら黒人との混血の子どもだったので、里子に出されたんです。だから戸籍が無かったんですけど、ずうっとずっと後になって、そのお母さんもまたその人と離婚してしまってたのに、その血のつながってないお父さんが娘さんを、もう大きくなってからですけど、認めてくれて籍に入れて下さって、血のつながり無いのにね。それでやっと戸籍ができたっていう子どもがいました。
宮田:その方とは今でも交流してるんですか。
熊谷:全くないんです。私とその友達、私達は本が買えなかったので、その頃カバヤ文庫っていうのがあって、カバヤキャラメルが『カバヤ(児童)文庫』(注:1952-1954年に159冊刊行)というのを作ってたんです。カバヤキャラメルの点数券を貯めて、その本が置いてある、まあ問屋だったのかな。近くにそのカバヤ文庫が置いてあるところがあって、そこへ持っていくと本と換えてくれる。私はとてもその本が換えられるほど点数券集まらないんだけど、隣の私の同級生の女の子が近所の子どもの点数券全部集めてくれて、私にくれる(笑)。そこにあった5、60冊じゃきかないぐらいの、それこそものすごい数の本があったんです。その中から自分が読みたいと思う本はほとんど全部読めましたね。(注:『カバヤ児童文庫』についてはカバヤ食品株式会社による「カバヤの歴史」 <https://www.kabaya.co.jp/about/history.html>参照2021年1月17日。)
宮田:へえ、カバヤ文庫。
熊谷:その友達のことは一生感謝してます。その里親の人は小学校も行ってない人なんだけど、すごい子どもをかわいがって大事に育てる方で、私はそれまで知識(が大事)だと思ってたんです。知識が力だと思ってたんだけど、そうじゃなくて、知恵なんだなと思いましたね。知恵が力なんだと(笑)。やっぱり彼女は素晴らしいと思って、ああいう子どもを育ててくれてありがとうって思いました。子どもだけど。
宮田:お母様以外に身近な大人というのは、隣のその方以外に接する方っておられましたか。ご近所だったり学校であったり。
熊谷:そうですね…… そんなことはないです。 その後も、母がおうどんが好きで、近所のうどん屋さんへ入り浸るという人で。そこの人からも、本を借りて読んだり。そこにも娘さんがいて、その人がお茶とお花を習うように言われて、嫌だ嫌だと言っているのに、私が行ってあげると言って一緒に行って、私がはまってしまったりしましたね。
宮田:カバヤ文庫ではどんな本を読まれてたんですか。
熊谷:カバヤ文庫はね、結局少年少女の読み物が全部あって、それこそ翻訳の良し悪しのわかる子どもになってしまいました。『小公子』『小公女』いろいろありましたね。日本の『里見八犬伝』全6巻か8巻かあったと思う、そういうのを読みましたし、村岡花子訳なら絶対面白いっていう。とっても変な翻訳のものもあるんです。村岡花子のは納得がいくというか。『若草物語』やら何か、その頃はハイジと言わずに『アルプスの少女』だったかな、いっぱいその手のいわゆる少年少女の読み物っぽいものは結構外国のものも多かったように思いますね。でも、外国の突然不幸になる子どもの話がいっぱい出てくるんですけど、あれって第一次世界大戦の後に書かれたのかもしれないなって思いますね。
宮田:読みながら憧れだったり、そういうのって持ちましたか。
熊谷:憧れるようなお話じゃないんですよね、大体(笑)。
宮田:海外への興味だとか。
熊谷:それが不思議と全くなくて、日本のこと大好きですね。困ったことに。ほんとに国粋主義者になってしまうんじゃないかと心配するぐらい、日本のことというか、古典は習いたかったし。そうですね。
原:当時の小学校高学年の時、先程理数系の科目がお好きだったというふうにおっしゃってましたけど、国語とかそういった科目の中には、多少古典にも触れることがありましたか。
熊谷:そうですね。(中学校では)教科書万能少女でしたね(笑)。中学の話になってもいいんですか? 中学校すごい教育が良かったんですね。例えば、社会科だったら、1年生なのに、男女1組になって、自分の好きな国を研究するとかね。そんな大したことはしないんだけど、それこそ地図を見たり、地図の後ろにどんなものが採れるとかも出てるじゃないですか。ああいうものを見たりしながら、研究っぽいやらせ方をしてましたね。英語が最悪だったんです。英語ね、最初に習う最初の日ね。教材配られる中に『コンサイス英和辞典』があったんです。それをこの「『コンサイス英和辞典』は」って言って、「インディアン・ペーパーでできています。はい、皆さん、みんなで言ってみましょう、インディアン・ペーパー!」。その発音が悪いって、1時間インディアン・ペーパーって言わされたんです。
宮田:嫌いになる(笑)。
熊谷:どうやったら嫌いになるかみたいな感じですよね。
原:実は私、大学時代に二条中学校に英語の科目で教育実習に行ったんです(笑)。
熊谷:習いたかった~(笑)。だからね、つまり覚えないといけないことはたくさんあるでしょう。だけど、家では内職をしないといけないので、それこそ単語帳とか作りますよね。あれを通学路でずっとやってましたね。通学路忙しい。歩道と車道の間にちょっとこうあるでしょう、ベルトみたいなの。あそこをまっすぐに歩く練習というのは、お茶と能の足のことを勉強するためにそこを歩きながら単語を覚えないといけないという(笑)。
原:もう既にその時には、お茶とお能に触れられていたということですか。
熊谷:そうですね。話が飛んでるんですけど、小学6年生の時に近所のうどん屋さんの女の子がそのお茶とお花を習いに行けと言われてて、嫌がっているので、私が行ってあげるって言って一緒について行ったんですよね。その子は1ヶ月で辞めちゃったんですけど、お茶を習いに行ったところが、大将軍(神社、東山区)の辺で、世界文化社っていう出版社がありますよね。多分あそこの重役さんだった方の奥様が教えてらしたんです。ほんとのお茶室ですごいいいお道具を触らせてもらって。お稽古をしてて、それはね、すっごいはまっちゃったんです。その足の運びが能と一緒だなあと思って、お茶ってものがあって、扱いがあって、で、インスタレーションなんです。例えば畳がこうあったらそこに丸い棗と長細い茶杓をどういう配置に置くかなんか、ビシッと決まってるんですよね。まさしく時間と空間で、炭も胴炭があって、火種があって、切り炭があって、割ったのがあって、枝炭があって、止め炭があって、その胴炭の上と止め炭の上にお香を置く。そうすると、お香って、はつだち、なかだち、残り香とあって、「刻限は早め」ってあるんですけど、時間と密接に関係してて、炭がどんどん起こってきて、お湯が沸いて、それと一緒にお茶が進んでいくとか。お茶杓置くのも蓋置きがあって茶杓置く、もう絶対的な場所がある。その動きも美しい。基本ね、パフォーマンスの人って、スルーッて動かないといけないでしょう。吊られてるように動かないといけないので。好奇心旺盛ですから、同時に建築にも興味を持って、小学6年生から始まって、中学に行っても私ずっとはまっちゃったから、17歳まで続けるんです、お茶をね。お花はすぐ辞めちゃうんですけど。花は持って帰って生けると、たまたまついていって習ったのは未生(流)だったんです。母は池坊だったんですね。そうすると、持って帰って褒められた通り生けてると、そこはそうじゃないとか、ことごとく言われるわけですよ。やってられないわとも思ったんですけど、母の花の方が好きだったんですね。何か花瓶に1本シュッて生けてあるのが。それでまあいいやと思って(笑)、お月謝もいるし、花は辞めちゃって、お茶は続いて、台天目までやりましたけどね。お茶名をもらいますかって聞かれて、お茶名をもらったら業界の人になるんだと思って、そこで、辞めました。17歳で。
原:ずっと同じ世界文化社のところでですか。
熊谷:そこです。
原:17歳までずっと。
熊谷:ずっと。だから、裏(千家)でしたから、お免状いっぱいあるんですよね。行之行台子とか(笑)。
原:お金もいっぱい要りますよね(笑)。
熊谷:でも私ね、特別安くしてもらってて、3、400円のお月謝だったと思います。先生絶対赤字です。しかも、炭点前なんてタダで、私だけが仕事してましたから、勤めじゃないから昼間行ってたので、いつも。炭点前習った時はね、毎回炭点前させてもらってて、贅沢な話ですよね。
原:じゃあお稽古は、結構長い時間滞在されるような感じだったんですか。
熊谷:お稽古ですか。うーん、いや、普通。
原:もう自分のお点前だけして帰るっていうのではなくて、他の人のも見ておられたのですか。
熊谷:他の人のお稽古も結構見てましたね。大体その家全体がお茶室の作りになってて、茶花もお庭で栽培されてて、椿なんかもね、全部お庭にあって。その時々の設えにして下さってて、夏は籠に1種類1輪ずつ生けるんです。そういうのが大好きで、はまってましたね。
宮田:週何回位行かれてたんですか。
熊谷:週1回。週1回ですけど、小学6年生で、古道具屋さんにあった鉄瓶を、これいくらですかって言って(笑)。600円だったんですけど、1日10円のお小遣いでその時にはキャラメルも買わないといけないし、文房具も買わないといけないし、昼食代になる時もあるし、なかなか貯まらない。お風呂屋さんの隣だったんで、お金が貯まるまで、その前に行くと見て、半年がかりで買いました、鉄瓶。
宮田:すごい。
熊谷:だから、何かコレクターの人の気持ちがわかりますね。売れてないだろうか、売れてないだろうか(笑)。変な子どもと思われてたと思います。
宮田:道具屋さんもうこれは他の人には売れないなと思ってましたよね(笑)。
熊谷:ちょっと変な子どもですよね。
伊村:子どもながらにそういう金銭感覚をお持ちだったっていうのは。
熊谷:そうですね。何せ教材を買ってもらえなかったので。だから多分ね、生活保護を受けたり、戦争遺児って言われてるので、手続きをちゃんとしたら出たはずなんですよね。それを人の施しは受けないっていう母なので、受けなかったんです。その頃の福祉関係も今みたいに意識は高くないので、くれてやるみたいな窓口の人もいたんだと思うんですけど、嫌だって言って、やらなかったですね。教材買ってもらえなくてね、何日も前から「忘れたらあかんね、忘れたらあかんね」って言うんですよ。で、当日の朝になったら、「忘れたって言っときなさい」って言われるので。やっとお金ができたからって言われても、なかなか買いに回るのが大変で、京都の街中走り回って、それで揃わないものを先生に取り寄せてもらわないといけないので、この人につきあってられないなと思って。中学ではアルバイトをしたので、金銭感覚はしっかりあったと思います。けど、抜けてるところもありますけどね。ボロボロと。執着心がないというか、得ないといけないという感覚はあるんですけど、お金儲けは下手です。でも荒稼ぎでしたよ。指名のかかるキャディでした。大谷光照さん(1911-2002)に指名していてもらったんだということを後で、毎日新聞社の田原由紀雄さんに聞いてわかったんです。その人が大谷光照さんだったて。
宮田:中学生の時に土曜日の午後と日曜日に下鴨のゴルフ場でキャディのアルバイトを。
熊谷:そうですね。ホームルームの時間、(先生が)「何か話したいことはあるか?」っておっしゃって、私にとっては、時間というのはとても重要で、生きてることそのものだったんですね。それほど重要なものであるのに、どこか行く時にすごい遅れて来た人がいて、その人はその時間が重要と思ってないんだなと思ったことがあって、「時間について話したい」と言ったけど、中学1年生でそれは無理な話で、今から思うと。教員室へ行って、「黙ってじっと座っているのがもったいないので、アルバイトへ行きたいんですけど」って言ったんです。そしたら、先生が、「ホームルームというのは自分の意見がちゃんと言えるようにするための授業なのでいいだろう」って言って下さって、「はい」って、悠々とアルバイトに行きました。水曜日の午後、学校をサボって。
宮田:水曜日の午後のアルバイトもゴルフ場だったんですか。
熊谷:そうですね。その頃はね。その先生がね、佐渡裕さんのお父さんだったっていうのを最近知ったんです(笑)。教育委員長までなられたらしくて。でも、一昨年位に知ったんです。しかもね、私達が卒業する時、あ、卒業する時じゃないな、もうちょっと前ですね。ピアノをPTAから贈るはずだったのに、図書室を充実させることに使って下さったんですよ。奥様はピアノの演奏家か先生かなんからしいんですよね。私はその図書室が宝物で、運動場と教室と図書室がローテーションの掃除だったんですけど、図書室の時間、私が本を読んでてもいい席っていうのを友達が作ってくれて(笑)、図書室の掃除は免除してくれて、「はい、こっち済んだから、はい、今度こっち来て」みたいな言われて、本読んでたんです。何の本読んでたかっていうと、一つは能舞台のことをね。中学の図書室だからそんな大したものはないんですけど、でもね、真剣に研究というか、子どもなりにしてて、それでお茶と能ってすごい関係があって、歩く姿勢も一緒だし、卵1個落とさず潰さずっていう。それは無理ですけどね。その勉強して、学ぶということはね、これを私に学ばせてくれた友達にいつか返さないといけないってすっごい思いました、その時に。こんなに良くしてもらって。それで、中学だから大したことないんですけど、歴史の授業で、室町時代を習ってる時に、男の子にお茶とか能の話が当たっちゃったんですよ。当然ながらその子は全く何も言えませんので、はいって手挙げてその子の代わりに滔々と語ってしまって(笑)。それは今になってはまずかったのかもしれないって思いましたけど。意味不明の、他の人にとってはポカンとするようなことを滔々と語ってましたね。
原:京都だと男子は子どもの時から謡とか仕舞とかやったりする人が多いと思うんですけど、同級生の男子はあまりやってなかったのですか。
熊谷:やってなかったでしょうね。たまたま当たったのが宮本君って今でも(笑)、覚えてるけど、普通の男の子だったので。クラスで一番俊才、クラスでというかもう学年でトップの子は大学行ってないですよ。長男で、高校から証券会社に就職した挙げ句、自殺してしまいました。賢いというのも、それもね、何かね…… これ話飛ぶから止め。
原:特にそういったお茶からお能とか、空間に興味を持った。その頃、何か同時に他にも興味を持たれたことはありますか。
熊谷:同時に他にも?
原:『夏目漱石全集』のことも。
熊谷:ああそうやね。そう、あいかわらず本が買えない状態が続いているので、中学行くと、中学の女の子ってほんとろくな本持ってないですね。それで、今度は、友達の兄貴の本棚がターゲットになって、掃除を免除してくれた友達が、私は持ってないけどお兄ちゃんはいっぱい持ってるよ、って言うので、そのお兄ちゃんの本を片っ端から、『夏目漱石全集』を読んだり、バイト先では、工繊大(京都工芸繊維大学)の大学生がいますから、その人に本借りて、『雨月物語』とか、小泉八雲とか、やっぱり日本のが多いんですよね。あ、そうだ。うどん屋さんのお兄ちゃんが本貸してくれて、『怒りの葡萄』を読んでますね。それでもうちょっと大きくなってからは、叔父が『ロシア三人衆』を貸してくれたのかな。結構ボロボロの本だったので、表紙をかけて読んでたら、もうその本やるわって言ってくれて(笑)、読みましたね。すっごい成り行き読書ですね。もう叔母達がどんどん本を読むようになると、『人間の條件』っていう五味川純平のですね、全6巻、3巻と4巻は戦場のほんとに残酷なシーンが多くて飛ばしながら読みましたね。
宮田:読書をした後に、どういうふうに、どういうことを考えたとか、それを語る相手っていうのも、貸して下さった人達ですか。
熊谷:私の周りに読書家はいませんでした。それも、成り行き読書ですよね。まあカバヤ文庫は選んで読んでましたけど、ほとんどが成り行きで読んでる本なので。でも古典は習いたかったですね。中学でちょっとずつ出てきますよね。大体私の世代の女の人は『源氏物語』にはまるんですけど、私は言いたい放題の『枕草子』にはまって。だから何か読みたいと思ってて、なかなか機会がなかったんですけど、お茶を習いに行ってる時に借りて、上下段に分かれてて、本文と注釈のある本で丁寧に読んでとても楽しい時間を過ごしたんですけど。途中でプロポーズされて返しました(笑)。3分の2ぐらい読みました。ほんとに言いたい放題というかね、面白く率直で。
それでその中から(アートスペース虹の)10周年記念の時に「あてなるもの」というタイトルで展覧会をしてます。それは「美しきもの」という項もあるんですけど、「あてなるもの」という項があって、私の美みたいなものに対する考え方は、こっちの方が近いなと思ったんです。それはそれこそ、「あてなるもの、美しき、新しき金まりに入れたる、削り氷にあまづらかける」とかね。それは新しい鉛のお椀に、氷を入れて、その冷たい感覚と、透明感のある氷と、そこにあまづら、蜜をかけてそれが溶ける様子とか、もっと動的なものとか、味覚とかね、総合的なもの、そっちに関してね。水晶の数珠とか、藤の花とか、そういう気高さとか、いろんな感覚があるなと思って、「あてなるもの」を選んで、「あてなるもの」というタイトルの展覧会しました。
原:それぐらい、もう人生に大きな影響を与えたというものが、お茶とかそういったものを中心にその周りにある文学であったり、建築であったりと、そこを基点に興味を持たれていくということですね。
熊谷:そうですね、何か、私にとってはすごい総合的なものに感じています。だから、生きることも死ぬことも全部含めてね。何かそこに1枚の絵があって、それに集中するというよりも、これは後でまた話すのかもわからないんですけど、作品を見てるうちに、これって何か、おこぼれに与ってるだけじゃんって思った時があって。きっとその人自身がそれを構想したり、作ってるプロセスの方が、きっとエキサイティングに違いないと思ったことがあって、あいかわらず好奇心旺盛なので、そこを見たい。けれど、聖域のように思うから、アトリエには踏み込んではいけないと思ってるんですね、私は。アトリエに行くのが好きな画廊さんは多いし、アトリエを見ないとダメと思ってる方が多いと思いますけど、そこは何故か私は踏み込みにくい場所でした。なので、その前段階の、頭の中にある状態を見たい。しかも、その美術の人と他の(分野の)人でどれぐらい違うものだろうかっていうのを、相対的に見ないと、ほんとのことはわからないみたいなことがあって、「ノート」(を展示した企画)のきっかけ。最初の展覧会はね、他のジャンルの人達に一緒に出してもらって。
原:井上明彦さんとか、(中原)浩大さんとか。
熊谷:そうですね。もっとほんとはね、例の隣の女の子にも出してもらおうと思ってたんですけど、その子は、私はそんな出せるような何かじゃないとか言って出してくれなかった。
伊村:今おっしゃったノートというのは、制作ノートみたいなものですか。それとも、日常的につけてる日記のようなものも含むのでしょうか。
熊谷:全部含めて。
原:そうですね、「ノート’90」(1990.12.11-23)。
熊谷:最初の時(注:「ノート’88」(1988.7.26-8.7)はね、それこそ科学絵本の原画描いてる人のノートとか、地学の先生のフィールドノートとか、そういうのも入ってました。ほんとは、毎日新聞の記者で阿部菜穂子さんという人が昔おられたのご存じないですかね。部署を変わるたんびにお知らせを下さる方と下さらない方とあって、阿部さんは、たんびにお知らせを下さってて。京都で美術記者になられて、「今度の記者は女やで」とか言って、柄の悪い人達の間で騒がれてたんですけど、聡明な方で、大阪へ移られてすぐ東京に行かれて、始め「サツ(警察の略)回りをしてます、社会部にいます」っていうのが来て、次に、中曽根付きの記者をしてますっていうのが来て、次に、何やったかな。何かその辺で、きっとこの人は醜いものをいっぱい見たに違いないと思って(笑)、出してもらおうと思ったら、もうギリギリになって、国際部にいますっていうのが来たんですね。そしたら、湾岸戦争が始まって、ちょっと出せませんって。写真を出そうと思ってらしたみたいなんですけど、海外に行かないといけませんていうのが来て、出せなくなりましたって。
…… その、隣の女の子の話をしてないんですけど、いいですか。お隣の一番下の里子の人を、ある時私の同級生が連れてきて。その時私17歳位になってたと思うんですけど、「叱ってほしい」って言って。「何で?」って言ったら、「自殺未遂をした」って言うんですよ。私、だってこっちが消え入りたいような思いでいるわけですから、とてもじゃないけど、何か言えるような立場じゃないと思って、「何で?」ってとりあえず聞いたら、何でっていうのには答えなかったんですけど、1回目は薬の量が少なすぎて死ねなくて、2回目は多すぎて吐いて、3回目は何かと混ぜて、やっぱり失敗したと。やっぱりその薬の量と、その時の体調とか体重が一致しないと死ねないから、「今度は絶対失敗しない」って言ったんですね。私、返す言葉が無くて、それで、まあその時はとりあえず、「ゴメンゴメン」って言って、帰ってもらったんですけど、後でやっぱり何か返さないといけないだろうと思って、一生懸命考えて。それぐらいから一生懸命考えるようになりましたね。もうちょっと真剣にね。その時は詩を、一生のうちで1個だけですけどね、詩を書いて、何か雪が積もっても、払って払って立ってる竹のように生きてほしいみたいな詩を書いて渡したんですけど。その彼女は、誰にも生まれてきたことを祝福されていないなということに気づいて、それ以降、誕生日にプレゼントをするようになったんです。鉛筆1本とか、それこそ、ノートとか、ささやかなもんですけど。(彼女が)18歳位の時に、私はもう結婚してたんですけど、ちょうどゲルハルト・ヒュッシュが最後に日本に来た時で、『冬の旅』全曲800円かなんかで安かったんです。それを彼女にプレゼントして、一緒に聞きに行ってね。『冬の旅』の「カラス」が好きなんです私(笑)。そんなこともあって、それで、ブラシとかいろんなものを、ちょっとプレゼントしてて、(彼女が)二十歳ぐらいになった時に、「もういいよ、私は大丈夫」って言われて。それでそのさっき言ったように、戸籍も作ってもらって、横須賀で看護婦さんになって。看護婦さんも多分免状が無かったと思うんですよ。それを何回も受けて、7回か8回受けて、看護婦の免許を取って、それは婦長さんがどうしてもあなたを婦長にしたいっておっしゃったんですって。何度も受けて免状も取って、車椅子とかの研究をしてて、(仕事で)外国にも行ってるような人と結婚して。多分、幸せに…… 子どもさんもできてね、暮らしてるみたい。
原:その方は熊谷さんとはいくつぐらい年の差があるんですか。
熊谷:17の時に、小学3、4年生ってことは10歳だから、7歳位下なんです。やっぱり、その時に生きるとか死ぬとかということについて、すごく真剣に考えましたね。どの宗教でも、自殺って禁止してるけど、即身成仏はね、それに近いんで、やっぱり脱出口みたいに、もう死ぬことが脱出口みたいに見えてて、それに突進して行くけど、そうじゃない死ですよね、即身成仏というのは。まあ宗教上のいろいろで、それに殉じて決まり事はいっぱいあってね。それは一体如何なるものだろうとやってみようというので(笑)、1週間だけ実験したんです。飲まずに寝ずに、食べずにいたらどうなるんだろう。水は飲んでもいいことにしてましたけど。1週間寝ないって大変ですやっぱり。それは、戦いでしたけど、4kgやせただけだったんです。17歳の元気盛りですから、今はちょっと違うと思いますけどね(笑)。眠くなると次々やることを変えて、仕事ももちろんしてましたけど、本を読んでみたり、洋裁をしたり、いろんなことして眠気と戦って、でもこんなに人間の命っていうのはタフなもんなんだなあと思いましたね。そんな簡単に死んだりしない。命がけでやったらできないことはないっていうふうに勘違いしたんですけど、それはその時私が必要とした答えなんですよね。考えてみたら。それは大体、必要な答えを見出すだけなんだということにも気がつきました、私の場合ですけど。
原:そのお隣にずっと住んでいた人だけれども、その人とのやりとりによって、実際に生と死というものを身近に感じて考えることができたということですか。
熊谷:そうですね。たくさんにそういう、私の周りでそれこそ…… ほかにも3人位死に損なっていますね。
宮田:3歳年上の叔母様がおられたんですよね。
熊谷:そうですね。その叔母は、主人(熊谷忠雄)の親友と結婚してたんですよ。私が仕事仕事って言ってるもんだから、叔母が心配して、まあ言ったら半分見合いのように主人と会わせた。お正月とか行くと、来てる人がいる。何なんだろうなあと思ってたんですけど。結局見合いみたいにさせられ、叔母のはかりごとです(笑)。
(休憩)
原:歌舞練場で『美女と野獣』を見たり、昔はラジオで、新劇とかの中継があったというお話があって。私高校生の時、ラジオで落語とかはよく聞いてたんですけど、新劇とか新派とか、そういうラジオの舞台中継って、これが結構謎で(笑)。テレビ中継はわかるんですけど、ラジオ中継っていうのが、それも台詞だけが聞こえてくるっていうのはどういうことなのか。 熊谷:小学生中学生(の頃)、ずっとラジオで毎週舞台中継というのがあったんです。新劇、新派、新国劇、歌舞伎はもちろん、能までありましたね。それが何故いいかっていうと、息づかいまで伝わって来るんです。テレビが全くない時代なので、今の人より想像力というのは持ち合わせがございまして。母が昔から芝居が好きなので、当時回覧雑誌という便利な物が京都にはありまして、それで『幕間(まくあひ)』(和敬書店、京都、1946―1961年)という本と『暮らしの手帖』と、あと何を取ってたか覚えてませんけど、それが毎週来るんです。で、『幕間』で舞台の様子とか、衣装だとか、ちょっとした解説だとか評論とかね、そういうものは読んでるわけですよ。だからね、充分わかるの。しかも演じてるのは名優ですよ。『夕鶴』なんかあの、名前を全部忘れてるけど、おつうさんになった人ですし、
原:おつうさんに(笑)。新派ですか。
熊谷:えーとね、それは新派ではない、新派はそれこそ水谷八重子ですよ。新劇は、誰やったのかな(注:おつうを演じたのは山本安英、築地小劇場創立第一期メンバー)。宇野重吉(注:劇団民藝を創設)、滝沢修とかね。ああいう人達が出てたの。みんなもうトップクラスの名優の芝居を全部ラジオで聴いて、息づかいまで伝わるし、映画も見に行くわけだから、母は映画も好きでね。一番館には行かないんです。3本立てというのを安く見るんです。
原:どのあたりの映画館で。
熊谷:千本中立売の辺ですね。
原:千本にありましたね。
熊谷:いろいろあったので。学校にも連れて行かれましたね、映画に。『路傍の石』とかは学校から見に行きました。
原:中学校の時ですか。
熊谷:小学校。小学校で結構美術館にも映画館にも連れて行かれて、知的障害の人達の映画あったんですよ。『蜂の巣の子供たち』(1948年)とか『忘れられた子等』(1949年)とか、文部省選定ってやつを。その中で丸ばっかり描いてる子どもがいて、「君は心がきれいだから、きれいな丸を描くねえ」っておっしゃるんです、先生が。私丸がちゃんと描けない子どもだったから、私は心が汚いからだと思って(笑)、ずっとコンプレックス。今もきれいな丸が描けない。だからまあそういうので、演劇はのちに利賀村演劇祭(世界演劇祭「利賀フェスティバル」、1982-1999年)もテレビでずっと、あれはNHKでやってたっていうのもね。画廊する前ですよ。偶然、見てます。タデウシュ・カントルの『死の教室』(「利賀フェスティバル’82」)見ました。その時はピナ・バウシュは『グリーンテーブル』出してたんですけど、大したことはなかったですね。カントルは圧倒してました(注:クルト・ヨース振付・演出の『グリーンテーブル』にピナ・バウシュはダンサーとして出演。フェスティバルの演目記録を公開している富山県利賀芸術公園公式ウェブサイトでは『グリーンテーブル』の公演記録は確認できず<http://www.togapk.net/history/1980.php>(参照2021年1月17日)。BBC放送が1967年に『グリーンテーブル』のドキュメンタリーを制作しており、日本でも放映された可能性がある。ピナ・バウシュの日本初演は1986年(『ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団 2004』埼玉県芸術文化振興財団、2004年))。
原:10代の頃にそういうものをよくご覧になって、ラジオはよく聴いてらした。
熊谷:そうそう。もう一つの『美女と野獣』、誰でしたっけ作った人。
原:コクトー。
熊谷:ああジャン・コクトーの『美女と野獣』は、それこそ叔父が進駐軍が上映してるのを見せてくれたんです。米軍。
原:それは一般の人も見に行けたのですか。
熊谷:見れない、見れない。進駐軍が自分達のために上映してたんですけど、叔父はその進駐軍の理髪の仕事をしてたので、連れてってくれたんですね。今から思うと、それを克明に覚えていて。でね、わからないところが1ヶ所だけあったんです。それは、サンルームの中にキラキラ光る宝石がいっぱいあるんですよ。二人のお兄さんがサンルームの屋根から入って行って、それまで動かなかった石膏像のキューピッドがシューッと動いて、お兄さん達を弓でパッと射るんです。そのお兄さん達がドサッとそこに落ちたら、途端に宝石じゃなくなって紙くずみたいなわけのわからない物がいっぱいある中に。それが何なんだろうって、そこだけがわからん、と思ってて、のちにDVDを東郷さんがくれたのかな。見たら、それは何だかわからないものにしてて、わからないで合ってたんやと思って(笑)。
原:それは何歳頃ですか。
熊谷:それはね、下鴨の家にいたから、まだ小学3年生位、衝撃でしたね。何かそれぐらいの時頭が冴えてるんですね。今はもう(笑)、薄れて。
伊村:ご記憶の中でその接収されていたという時期って大体どのくらいまでってありますか。
熊谷:うーん、小学校低学年は、まだ叔父がそこにいる間はそうだったってことだから、私が10歳だとすると、1950年位まではそういう状態が続いてたんじゃないでしょうかね。どこも、(京都市)美術館もね、接収されてたしね。植物園すごかったですよ。
原:植物園の接収のことは、初めて聞きました。
熊谷:ああそうですか。もうほんとに、そこにキラキラした暮らしがあってね。別にそれを羨ましいというのは無いんですよね、子どもだから。ただほんとにキラキラして見えましたね。自由が、あそこに自由があるみたいな。
伊村:お子さんの時期に、この時以外に映画であったり、アメリカからの文化に出会うタイミングはありましたか。
熊谷:あ、あのね、それも全然別の話になりますけど、その頃ね、ジョー・ディマジオと亡くなった人誰だったっけ? マリリン・モンロー! が日本に来て、大ニュースになったんです。百万長者がやってきたってもう、新聞が書き立てたんです。その時に母が「寿美子ちょっとお座り」って言って、二言目にはちょっとお座りって言う人だったんですけど。世の中の人はな、みんな百万長者って大騒ぎしてはるやろ、お母さんだったら、百万円を1日できれいに使ってみせるよって言われたんです。
教科書買ってくれない人に言われてもっていう感じですけどね(笑)。ちなみに、木琴も教材だったんですけど、木琴も買ってもらえなかったんですよね。家には楽器が1個もなかったんです。中学の時に作曲の宿題が出たんです、夏休みに。しかも、その前に1学期に習ってたのが、二部形式の話で、二部形式の短調で作曲をしてくるっていう。2つ詩が与えられて、そのどっちかを作曲して来なさい。で、「母子草」っていうのがひとつあったので、近所の人に大正琴を借りて、で、弦が1本切れてて、それが正しかったかどうかわからないんですけど、それで一応作曲してね、ちゃんと出す、女の子でした。手芸も宿題あったんですけど、手芸は大体母がやってしまうんですよね、いつも。手袋なんか5センチ編んだら、あと全部母が編んでしまうし。着物も背縫いを2本したら、あとは母がやってしまうっていう(笑)。普通じゃ面白くないって思う子どもだったかして、丸い芯をふたつ作って、間にマチを付けて、丸いバッグっていうのを作って悦に入っていましたね。
伊村:その頃からお洒落でいらっしゃった。
熊谷:いや(笑)、普通でないことをしたかっただけかもしれない。わりと真面目な、学校では問題児だったかもしれないけど、宿題は真面目にやろうとする。
宮田:内職をいつぐらいからされてたんですか。
熊谷:内職は小学1年生の時から手伝ってました。小学1年生の時は、台紙にブリキのおもちゃを留め付けるっていう内職が一番最初だったように思いますね。それで、進駐軍の落下傘の紐が払い下げになって、その紐の外側が絹で中が木綿、外と中を剥がす、中の木綿糸を抜いて外の絹糸と別にするって、何にしてたんだかわかんないけど、そういう内職があって。次に、あ! 絞りっていうのが抜けてましたね。長い一反を模様がずっと描いてあるのを全部絞りにするっていうのをやってましたね。それは私ができませんでしたけど。
宮田:お母様がされていたのをお手伝いしてた。
熊谷:そうですね。母と叔母達のも手伝ってましたね。下鴨の家は大勢一緒に住んでいたので、みんなで手伝って。その難しいものはできなかったですけど、4年生位からはボタン付けであるとか、袋貼りであるとか、リボンを縫うとか何か、それは手伝いましたね。傘の内職がわりと率が良くて、傘を母が縫って、カンヌキっていう三つ折り縫いのできるミシンがあってそれでやって、それを骨に取り付けるのは随分手伝って。率がいい内職って年中ずっとは無いんですよ。大体半年なので、他の時にまた別のボタンを付ける、1個30銭。とても食べれない。
原:お母様は外に何かお仕事に行かれるのではなくて、お家でできるそういう仕事をなさっていたのですね。
熊谷:そうですねえ。体が弱かったんですよね、母は。だから和裁もやってましたけど、喘息と心臓。私と一緒なんですけど、肩を凝らすんですよね。それで着物を仕立てる仕事も随分やってましたけど、内職もしましたね。
原:今お聞きしてると、繊維を触る仕事が多いですね。そういうテクスチャーというか、質感とか、実際に木綿と絹と分けたりとか、そういうことによって、何かそこから感じるようなことはありましたか。あるいは、当時は、割り切って仕事として携わっておられたのですか。
熊谷:それはあんまりないんですけどね、母はおそらく、とうに死んでますけどね、もう少し裕福だったら、作家になってたんじゃないかと思うぐらい、センスのいい人でしたね。
原:染織家とか。
熊谷:染織をね、自分の着物を全部染めたりね。私が小学校1年生に入る時の服も、向かいに機を織ってる人がいて、その人に糸を指示して織らせて、それで自分が縫って着せてるんですよ。私嫌でしたけどね、ちょっと玉虫色っぽくね、臙脂色なんだけど、ちょっと光るんです。
原:お洒落、子どもにしたらちょっと贅沢ですね(笑)。
熊谷:ねえ革靴履いて、そんな小さいのにね、嫌でしたけどね。もう母は思いっきり、その頃までは不自由なかったから、贅沢したんでしょうね。着物も自分でお釜で染めてたりしてましたしね。糊置いて。だから、最後に今、フェイスブックに載せてる着物も糸を紡いで自分で染めて、自分で織ってるんですよね。そんな肩凝らしたらダメなのに。それ重たいんですよ、糸が太いから。だけどね、色のセンスとしてはすごく好きですね。
原:じゃあそういう影響も本とかいろんなものから受けられただけでなく、身近にお母様の触るものがいっぱいあって、そこから受けられた影響も大きいのでしょうか。
熊谷:なんでしょうね。毎日の日々は、朝起きて、食って寝て、働いてみたいなことで(笑)、いっぱいいっぱいでしたけどね。いっぱいいっぱいでしたけど、何だろう…… 何でしょうね。昔から出会ってしまっているものがありますよね。例えばお茶碗ひとつ、何て言うのか、重箱、お椀とか割れないですからね。そういう物は、美しい物はありましたね。
そうそう、小学1年生の1学期の終わりに火事に遭って、その時ね、床の間にあった掛け軸を外して、巻いて、父の位牌と一緒に国旗に包んで私に背負わせて、外へ出したんです。その掛け軸は父が健在だった時に、父は大観先生(注:横山大観、1868-1958)のところへ、大磯へ母を伴って絵の注文に行ったって言うんですよ。で大観先生酔っ払ってて、母のことをウサギの目のような人やねって気に入ってくれたって言ってたんです。だから多分ねその時のものだったんじゃないかと思っていて。高価なものだからそうやって外したんだって長年思ってたんですけど、実は、父との思い出だったんだなあと、最近になって思えるようになって、何か、長く生きるといろいろわかることもあるもんだなとか(笑)、思いますね。
伊村:子どもの頃の、美術との接点はいかがでしょうか。
熊谷:美術との接点。美術館にもよく連れて行ってくれましたね、小学校が。その時に、火を描いてる絵巻物があったんです。それを見た時に、あ、この人火事を、ほんとの火を見たなと思ったことがありますね。あと、そうですねえ、美術との接点……
原:美術館でご覧になってたのは、どういう内容の展覧会だったか覚えていますか。お母様がお好きで、伴われてよくいらしてたっていうことがありますか。
熊谷:いや、行ってないですね。母と一緒には。そんな余裕はない、という感じですよ。来る日も来る日も日々内職でね。
原:じゃあ学校から。
熊谷:学校から、ですよね。学校から行ったぐらい。まあ、長じては自分で、ことに結婚してからは(美術館が)近いですから、行ってますけど…… 美術の先生好きでしたね。随分年配の先生でしたけど、その先生が多分好きにしてくれたのかなあっていう気がします。
原:それは中学生の時。
熊谷:中学の時ね。小学校の時はね、お城描いたら、櫓の落魄までは描かなくてもいいっていう先生だった。中学の先生は、1年生の時は、デッサンね、ちょっとはみ出しそうになって、いいよいいよ元気でいいねえって言ってくれたし(笑)。2年生の時は、包装紙描いて褒めてもらったしね。これはそのまま使えるねって言ってもらったりね…… 3年生になった時には、もうね、絶望してたからね、今までは大きくはみ出しそうに描いてたのがほんとに薄い薄い墨のように薄い絵の具で、風景も遠くの景色を描くようになったので、やっぱり心理的な影響って受けるもんなんだなあって思いますね。今から思うとね。絵は変わる。
原:その頃1950年位。
熊谷:そうですね。
原:その、1950年頃、学校から美術館に行くこともあって、その時の、同時代的なものっていうのは、美術館でご覧になることはありましたか。
熊谷:なかったですね。そういうのは連れて行ってもらってない。(同時代的なものは)むしろ、60年代ですよ。結婚してから。50年代というのは、中学生で、中学にも映画のチケットが配られているというのがわかって、『エデンの東』をひとりで映画館に見に行ってます。
原:中学生だけで映画を見に行ってもよかったんですか(笑)。
熊谷:行ってもよかったんでしょうねえ。『エデンの東』をひとりで。先生から映画のチケットをもらって行ってるわけだから、まあ特別に放任されてたのかもわかりませんが(笑)、見に行ってますね。 …… その中学生の頃ですね。何になりたいみたいな、アンケートがあって、ジャーナリストって書いてたの(笑)。全然本気じゃなかったような気もしますけど。
原:ジャーナリストに対するイメージというか、そういうものは何かあったんですか。
熊谷:多分ね、すごく醒めた子どもだったんです。同じ世代の中学生が、興味持ってキャッキャ言ってるのを眺めてる。
原:ジャーナリストっていうのは、扱うテーマっていろいろあると思うんですけど。
熊谷:ああそうですね。やっぱり、社会的な問題にも興味があったし、批判的に見ることも多かったかもしれないですね。わりと、こう先生なんかをすごい冷静に見てたりして(笑)、その私の担任の先生みたいな人ばっかりじゃないし。何ででしょうね。
原:その頃の社会状況とか、そういったことにも関係していますか。
熊谷:ありますね。
原:関係しつつ、ジャーナリストっていう言葉が出てきた。
熊谷:そうですね。揺れ動いた時代なんです。例えば、隣の一番上の養女、二十歳、その頃もうちょっといってたかもわからないですけどね、時間経って。その人はレッドパージに遭ってましたし、人種問題とか日常的にあるわけですよね。だから、いろいろ、まあ真面目に考えてた時代ですね(笑)、多分一番。
伊村:具体的にこんなジャーナリストとイメージしてた方がいたり。
熊谷:いや、それは全くないけど、直感的にそう答えたんだと思います。
原:例えば、新聞なんかはよく読まれましたか。
熊谷:新聞ね、朝刊が買えなくて、夕刊だけ取ってましたね。
原:それは何新聞とかっていうのは。
熊谷:多分京都新聞です。安かったんでしょうね。母が見てるのを私も見るっていう感じで。新聞に「表情」っていう仏像のシリーズが連載してて、それを切り抜いて壁に貼ったり。やっぱり美術との接点は、教科書にも仏像の写真があるし、ノートの裏表紙は弥勒菩薩と大仏さんの唇の形とか目の形を分析したくて、3本線引いて斜めの線を入れると、弥勒菩薩の唇の、アルカイックスマイルができるとか、でも大仏さんの唇はそうじゃないとか、そういう落書きで全部埋め尽くされていましたね(笑)。
原:そういうお寺さんとか、博物館とかそういったところにも行かれましたか。
熊谷:行く余裕はなかったですね。中学時代は。
原:じゃあそういう教科書に載っているものから知識を得られた。
熊谷:そうです。だから、ほとんど教科書ですよね。いつか大原美術館に初めて行った時常設展してて、あ、私の教材に出てたのは全部ここにあったんやと思って(笑)。びっくりしたことがあります。ルドンから何からね。
宮田:じゃあ感激された。
熊谷:ああっと思って。でもそれが大好きかっていうと、別にね、それ程、やっぱり仏像でしたね、その頃はね。それと古典が習いたかったですね。隣の高校行くと『万葉集』が習えるぐらいのことでしたね。わりと真面目に教科書に『草枕』が出てたら、それをちゃんと本で読むし、みたいな感じで。
原:(長沢)蘆雪(1754-1799)に関しても、その京都新聞の記事から得られた知識ですか。
熊谷:そうですね、その京都新聞ですね。新聞の記事で、蘆雪の画塾に通う途中に川があって、っていうのはその辺の川かも知れんとか思いながら、「そこで泳いでいる魚をずっと見ていると、止まっているように見えるけど、いつも上流に向かって泳いでる」みたいな(話に)小学6年生はいたく感動して、はあって思って、最初に影響受けたのは蘆雪ですね。その時は、その止まっているように見えてもいつも上流に向かって泳いでるっていうことだけだったんですが、「氷が張っても、溶けたらまたそこで泳いでる」みたいなの、後で読みました(注:ある朝、凍った水の中で動けなくなっていた魚が氷が溶けて自由に泳いでいく姿を見て、蘆雪が修業時代の自身と重ね合わせたという逸話がある)。その時載ってたのはね、吊り燈籠のぼやーっとした写真なんですよ。昔のモノクロの写真なので、何かわけわからないんですけど、現物を近年見たら、ぼやーっと(笑)。やっぱりぼやーっとしてたんだって思って(笑)。
伊村:先ほどラジオのお話もありましたけれども、美術に関しても、(展覧会を見るのではなく)例えば新聞や書籍を通して見るっていうことが多かったんですね。
熊谷:そうですね。
伊村:多分、当時の多くの人にとってそうだったということかもしれませんね。
熊谷:そうだと思いますね。それこそ、下鴨の葵小学校にいた時はね、各々の家からピアノが聞こえてくるんですよ。お風呂屋さん行ったら。それぐらいの人達があそこには住んでて(笑)、その子弟が行ってる小学校だったんだなと思いますね。母はさすがに暮らしにくいと言って引っ越すわけです。(家に)あったものがどんどんなくなっていって、底をついて、体力もなくなって、最後、私が中学校卒業する時は、もう病気になってましたね。全てを使い果たしたっていう感じで、遊走腎っていう病気になってましたね。
宮田:その頃描いてた絵が変わっていくんですか。先程、遠くの景色を描いたりと。
熊谷:それはね、その自分で高校進学を断念した時ですね。やっぱり、子どもながらに一旦絶望するわけですよね。でも、それを紛らわすために、何か数学の扇形の、何と何がわかるとこれは答えが出るみたいな。これとこれがわかれば、答えが出るなっていうのを発見して、次に、じゃあ何がわからなかったら、答えが出ないんだろうかみたいな問題をずっとゲームのように遊ぶというか、楽しんでましたね。それで、まあ落ち着いたんでしょうね。先生が最初、進学を勧めに来てくれて、(母に)断られて、次に定時制を勧めに来てくれて、断られて、看護学校だったらお給料もらいながら学べる、これを君のために取っておいたんだって言って来てくれたんですけど。でもその頃既に、家には一体いくら借金があるのって聞いて、八百屋、魚屋、家賃、お米屋さん、質屋さん、全部、国民金融公庫からも、年金を担保にして借りてて、全部あわせて30万の借金があったんです。それは今の金額で言うと、5、600万の感じですね。それを15歳で返していかないといけないとなると、母と二人の生活もあるし、自分がタダで学校行けるだけじゃダメなわけで。その時の私は一番偉かったように思いますね。よう考えたって思いますけど、冷静に分析して、当時女の子の給料が4千円だったんです。で、男の子の給料が6千円。母に1ヶ月いくらいるのって聞いたら1万2千円って言ったから、男の子の給料で二人分働けば生活はできると。母も遊んでるわけじゃないから、その分で返していけるっていうことで、二人分働こうと思うと、男の子の給料が得られるのは技術しかないので、友禅の金加工っていう仕事を習い始めて。運のいいことに、母の知り合いの娘さんがそれをなさってたんですけど、そこが(近所の)公園のそばのお菓子屋さんだったんです。そこね、私そんなに遊んでないんだけど、みんな近所の子どもが遊んでて、ボールが飛び込むっていうのを何度もやってて、代わりに私が謝りに行ったりしてた家なので(笑)、ちょっと困ったんですけど、何も言われずに、何とかその仕事をできて、働きまくって。小っちゃい女の子が一生懸命やってると、大人は仕事出してくれるんですよね。そういう人にもうみんな感謝してますけどね。で、二十歳で返し終わりました。
原:それはそうすると、決まった月給制というよりも、やればやるだけの分が給与に反映されたのですか。
熊谷:出来高払い。普通の職人さんと同じように、じかに、やっただけこれいくらっていってもらってるわけです。
原:お家からも近いところで、お家でもそれができる。
熊谷:いや、最初はね、近所の悉皆屋さん(しっかや/注:染め物や洗い張りを専門とする)の場所で、うちの娘に教えてほしい、教えてもらうためにこの場所使っていいよって言われたところで、やってたんです。ところが、仕事は忙しいし、明日までにってしょっちゅう言われるわけですよ。夕方持ってきて、私は徹夜徹夜しますよね。その娘さんも私もやるって言うわけですよ。そこの人に、それは困るから、やっぱりここでやるのやめてくれって言われて、家に持って帰って仕事するようになるんです。その時はやっぱりさすがにちょっと辛かったですね。その違いが歴然となるわけですね。でも家で仕事をすることで、まあ気楽にやれるようになりましたね。
宮田:具体的にどういう作業の仕事なんですか。
熊谷:友禅の仕事はね、運のいいことに、あつらえから入ったので、最後まで手加工をやったんですけど、この仕事(画廊)を始める時までやってて、辞めるつもり全然なかったぐらい、25年やってたんですよね。それは、染め上がった着物に、金で輪郭を描いていったり、例えば花があったら、花の輪郭を描いたり、それで小紋の金箔を貼ったり、砂子を蒔いたりするような仕事。だから模様によるんですけど、場合によっては、墨でベタベタベタっと描いたのを、輪郭だけで起こしていって染めたような着物もあるわけですよ。そうすると、薔薇の花があっても、その花びらが(表裏)どっち向いてるかわかんない、輪郭だけで。それをわかるように上げていったり、葉っぱもこうなってるか(表向きか)、こうなってるか(裏向きか)とか、いろいろやりました。二十歳の時1年だけ、その一緒に仕事してたところの悉皆屋さんの工場を使って、下鴨の高木町の辺かなあ。そこに若い人を集めて、そこで友禅が全部できあがるっていう仕事場をつくるから来てほしいって言われて、1年だけねって言って、1年だけ、そこ通ってやってたこともあります。それこそ、その時は、金加工だけじゃなくて、糸目を引ける人が少なかったので、糸目を覚えてって言われて。糸目っていうのは、白生地に輪郭だけで描いていくんですけど、それもやりましたね。すごいベテランのおじいちゃんが色差し、友禅してたり。私は50代位の人に糸目を教えてもらったんです。色を塗った時、染みていくのを「泣く」って言うんですけど、泣いていかないように線を、細い線で描いていく。私が引いたのと、その人が引いたのは、色は泣かない。でもある時、泣かないはずが泣いたんですよね。で、おかしいって言って、繊維を取ってほぐしてみたら、1本の繊維の中に、その頃は交織って言ったんですけど、人絹・合成繊維が混ぜてあったんです。
宮田:すぐ出るんですね、違いが。
熊谷:うん、すぐ出るんです。そんなこともありました。バラして燃やしたらわかる。もうできないですけどね(笑)。
原:25年というと大ベテランですね。
熊谷:ベテランでした。
原:もう、ある種職人さんで、下の人を教えたりとかっていうこともありましたか。
熊谷:そうですね。17ぐらいでアルバイト使ってましたけど(笑)。近所の炭屋さんの・・・・・・
原:そうじゃないと、15歳から二十歳の間にそれだけのお金返せないですよね(笑)。
熊谷:まあそれは昼となく夜となく、忙しい時と暇な時とあるから、ならしてやれば大丈夫なんですけど、忙しい時はもう、4徹ぐらいやるわけですよ。さすがに体壊しました。それでね、もう1回、30代の時に、34歳位の時に体、肝臓痛めてるんですね。その時、京大(病院)行って、待ち時間待ってる人と話すじゃないですか。「あ、それ職業病ですよ」って言われた。すごい疲れた状態で、シンナーの臭いがする部屋にこもってると良くない。
原:それはそうすると、ご結婚されても続けておられましたか。
熊谷:ずっと。
原:この(今の)場所でやってらしたということですか。
熊谷:そうそう、結婚して、この家はね、もうつぶれかけの家だったんです。2階だけ借りてたんですけど、床は、都ホテル側は全部腐ってへこんでて、斜めになってるわけ。ブルーファイアー買えなくて、ブルーフレームを買って点けようと思ったら点かない。蒲鉾板2枚、この面積で蒲鉾板2枚入れないと、点かない(笑)。それで、主人の机を窓際に置いたんです。それはね、(机の足の下に)蒲鉾板4枚置かないと、筆洗の水がこぼれきる(笑)。でね、こっち(ギャラリースペースは)北なんですよ。それで、子どもが生まれました。私達が寝てるとこに寝させると、だんだんお布団の中へ滑り込むから、平たい場所を探しました。主人の机の上(笑)。そこに、座布団置いて、寝させて。朝見たら横の筆洗凍ってるんですよ。菱形の窓枠に、四角い窓があるもんだから、直角三角形が2つあって、そこに新聞入れてもスポッと落ちるぐらいの穴の大きさなので、冬は毛布を貼って、日曜の朝になると、それをやっと外してみたり。主人の実家が神宮道ちょっと西行った北側にあって、主人も長男で、お父さんが亡くなった半年後で、妹が3人。つまり、私達が別所帯になると、暮らしが立ち行かない。私と主人、6人家族を支えないといけないので、主人も私も働きまくったんです。結婚しても。それで、そこの家に私の荷物が入らないので、この潰れかけの2階を母が借りてくれて、食事を別にすると大変なので、そっちで食事して、夜だけ。で土日だけこっちにいるっていう。土曜もその頃は休みじゃなかったので、日曜だけですね。で朝また向こうへ出勤して、朝ご飯食べさせて、出て行くみたいな。
原:ご主人はデザインの仕事は外の事務所ですか。
熊谷:そうでした。その頃は河原町正面に会社があって、帰りはどっかに引っかかって帰ってくるみたいな感じで。
原:ちょうどいい場所ですね。
熊谷:ちょうどいい場所。まあ広告代理店ですね。そこでデザインの仕事をしてたんですけど、直接頼みに来る人もいて、その仕事もしてる。アルバイトがなかったら暮らせてないですね。二人で働きまくって、一家を成り立たせて、いずれ家は要ると思ってたので、3分の2で暮らすというようにして、貯めていたけど、ある日突然競売通知が来て、この潰れかけの家を買わざるを得なくなって、借金して買ったんです。家主さんのお兄さんの奥さんの弟さんが抵当に入れてた。一銭も返してなかった。だけど、中に2軒入ってるから、簡単には売れないと思ってはったんです。その家主さんはギリギリになって「実は」って言って来はって。競売は、中にはやっぱり商売でやってる人もいるから、裁判所に私達が行って競り落とせるでしょうかって、どうでしょうかって聞いたら、そりゃあ無理だって言われましたね。で、どんなにしてでも出されるっていうのを見たんで、借金して、貸し主さんのところへ行って、私達に売って下さい。
原:それはおいくつぐらいの時ですか。
熊谷:30半ばかな。
原:ということは、1975年位。
熊谷:ぐらいかな。そんなもんですね。
原:そこから10年経たないうちにここがギャラリーとしてオープンするという感じですか。
熊谷:そうですね。だから長女が芸大受けるのと同時進行ぐらいで、アイツ一浪しましたから、画廊の方が先輩になってます。その頃、60年代って、美術も演劇もデザインもすごい隆盛だったんです。デパートがウィンドウ競ってたような頃なので、主人はその河原町正面ですから、やっぱり画廊も見てるわけですね。だから、(画廊)紅さんとか。紅さんが縄手(四条上ル)にあって、そこで、森本紀久子さんの展覧会見てるんですよ。若い頃のね。
原:じゃあご主人も画廊をオープンするっていうことに協力的でしたか。
熊谷:主人は、画廊…… あ、主人のせいです。主人が画廊しかないなって言ったんです。
原:ご主人はグラフィック・デザインをされるにあたっては、どちらで勉強を。
熊谷:主人はね、主人の父の知り合いの人に誘われて、基本的な勉強は全然してないですね。
原:叩き上げというか。
熊谷:叩き上げですね。そこで、それこそ新聞の活字を写すことから始めて。中小企業ですね。実業広告社っていって、媒体を持ってて、電車とか新聞とか。
原:交通広告ですか。
熊谷:うん、交通広告の媒体を持ってて、「都をどり」の仕事を一手にやってたんですその頃。なので、「都をどり」の写真帖開くと、いまだに主人がデザインしたロゴをみんな使ってる。「これも僕、これも僕」って言ってます。その頃は、四条通のあれ(看板)もすごい立派でね。業者さんが来て、「熊谷さん、ちょっと提灯多めに描いといて」とか言われるぐらいでした(笑)。今見たら、あんまり貧相でね、かわいそうで、どうしょう、と思うぐらいです。ものすごい立体的な看板できれいでしたし、面白かったですね。ウィンドウの、何か藤井大丸の仕事も頼まれて、大丸の仕事もやってましたね、その頃アルバイトで。
原:じゃあグラフィックだけではなくて、ショーウィンドウのデザインもやられていましたか。
熊谷:ショーウィンドウもやってましたね、その頃はね。字の書ける人で、書道の字じゃないんですけど、俳句をやってた関係かして、字は達者で。ずっと一番最後の方はもう文字を描いてましたね。もう今何もしてません。
宮田:出会いはその叔母様の紹介があったんですよね。
熊谷:そうですねえ。私そこしか遊びに行くとこなかったんですよ。ずうっと仕事してて、で、もう友達をなくします、あんまり仕事してると(笑)。一緒に遊びに行くような環境が何もないので、昼も夜も仕事仕事って年中言ってるので、友達なくしてて、お正月になると、みんな家でこもるでしょう。で、叔母のとこぐらいしかなくて、ふと来てるんですよ。雨の降る日に傘差してね、絵の具箱を持ってきてね、絵を描こうと思うんやけどって持ってきて、で手がぶるぶる震えてるんですよ。こんな手震えてたら仕事ができんとか言いながら、何て情けない人なんやろうって思ってたんですけど(笑)。何かつきあう羽目になって。で、初デートに親友を連れてきて、何かクラシック音楽を聴きに行く、京都会館に。私寝たらどうしようってそのお友達の人に言ったら、寝る分には構わん、途中で帰るって言われたら困るけどって(笑)。でもその人、新婚旅行から帰ってきたら待ち受けてて徹夜で仕事させたんです(笑)。
…… その一番奥の部屋は、部屋からもう外が、お月見ができるぐらい大きな穴が開いてるような、とんでもない家でしたけどね。まあ家は今雨漏らなくて、それだけで幸せっていう感じです。
伊村:待ち構えてらしたっていうのは、多分グラフィック・デザインという職業がすごく忙しい時期だった。
熊谷:そうそう、忙しかったんでしょうね。確かね、包装紙(のデザイン)でした。
原:高度成長期。
熊谷:そう、高度成長期。
原:1960年位にご結婚された。
熊谷:そうそうそうそう。22で結婚してますから、62年ですね。高度経済成長の真っ只中で、着物もよく売れましたし、グラフィックの仕事も忙しかったから、生き延びられたんです。
宮田:旦那さんと同い年なんですか。
熊谷:いえ、6つ年上。6つ上ですけど、ハタチになってから定時制高校へ行ってるので、私の同級生と一緒に同級生やってるんですよ、堀川高校で。
原:昔、定時制がありましたね。
熊谷:そうそう、定時制。結構長いことあったと思いますけどね。
宮田:旦那さんからいろいろ教えてもらうこともあったんですか、美術、デザインの世界を。
熊谷:本がとにかくありましたね。講談社の『現代の美術』(注:1971-72年、別巻含む全13巻)の全集も配本で買ってたし、その後ろの本もあったし、もう一つ何か美術の全集がありましたね。その結婚してからですけど、配本というのが流行ったんです。毎月買う。
原:百科事典とか全集とかいろいろありましたね、昔。
熊谷:そうそう、百科事典も会社に売りに来はるのをキッチリ乗っかってますね。ほんまにアホちがえるかと思うぐらい。
原:みんなどこの家も、多分そこは乗っかってたんだと思います(笑)。
熊谷:英語の百科事典、ブリタニカ。あれもある。
原:うちの実家にもありました(笑)。
熊谷:あったでしょう。
原:誰が読むんだって思うような、英語の百科事典ですよね(笑)。
熊谷:よくあれを売ったなと思いますけどね。ブリタニカ百科事典。雨漏りで捨てましたけど(笑)。まあそれもあったし、野間宏の『赤い月』とかね。(注:野間宏『暗い絵・顔の中の赤い月』(角川文庫、1951年)。
原:ご結婚されてからは、デートというかお出かけになるようなことはありましたか。
熊谷:何せ初めてか2回目位のデートでは、二人の収入を合わせて5万円。これでやっていけるだろうかという話しかしてないです。
原:でもそれはもう最初から結婚前提ということですね(笑)。
一同:(笑)
熊谷:そうですけどね(笑)。
原:ただ、ここにお住まいというのも、ほんとにある種……
熊谷:宿命ですねえ。
原:ほんとプログラミングされていたかのようにですね。
熊谷:何かね、とにかく条件的には、その会社の中で主人が一番条件が悪かったんです。長男で、お父さんが亡くなった後で、妹3人。これ以上悪い条件はないのが、一番最初に結婚しちゃったわけですよ。それでその親友っていうのが、結婚式にかけるテープから、(京都大学)楽友会館を用意してくれまして、はじめは教会とか言ってたんですけど、教義を一応受けないといけないっていうことになって、それは嫌だと言ってやめて。全く友前結婚の走り、その頃はあんまりそういうの、なかったんです。それで、私が絶対結婚しないって言ってて、友達にはする時は会費をみんな出すようにって言い渡してあったんです。会費をもらうって言ったら、主人が、頼むからそれだけはやめてくれって言うので、「しゃあないな、じゃあ物品にするわ」と言って(笑)。それでね、30人で予約したのかな。でも集合写真見たら、80人位写ってるんですよ(笑)。飲物はみんな差し入れてもらって、サンドイッチとケーキはこんな(直径30cmくらいの)2段のケーキだったんですけど、みんな食べたって言うんですよ。それが謎なんですけどね。私達の前がこんな(高さが50cmくらいもあるような)ケーキで20人位だったんですよね。絶対あれが回ってるわ。それをフィルムに撮ってまして、その後、その結婚式で4組(の縁談が)まとまったんです。その(友人の結婚式の)度にそのフィルムを貸し出すっていうことをして(笑)。アイツが行けるなら僕らも行けるって思ったんでしょうね。そんなことが、話は飛んじゃいましたけど、ありました。1組ダメになりましたけどね…… いろいろ。
宮田:60年代だと、社会では安保闘争とか、そういう時代だったと思うんですけど、何か影響や関心というのはありましたか。
熊谷:そうですね。二条城でいつもメーデーがあるんですね。私がその丸太町のところで仕事してると、声が、歌声が聞こえてきて、羨ましいなあって思いながら(笑)、仕事をしてたんです。結婚してこの神宮道にいる時に、都ホテルにアメリカの要人、ダレス長官か誰かが泊まったんです。その時都ホテルに向かってフランスデモをかけてきたんですね。神宮道でせき止められたから、私達の路地の奥まで、棍棒持った警官に追っかけられて学生さんが逃げ込んだんです。それで、「そこ行き止まりですよ」って中から言ったんだけど、もう行き場がないから、もうウチはいつでも玄関開けっぱなしなんで、家の2階まで逃げ込んだ人がいて。お巡りさん追っかけてきて、誰かいませんかって。いませんよって言って帰して、傷の手当てしてね、帰したっていうのありましたけど。でも、ほんとに身近まで来てたので、街の人はみんな共感してたと思いますね。あんなの見たら。何か違うなって思いますね。
宮田:お仕事してる時に、はじめは職人さんお一人で分業制だったと思うんですけど、その下鴨の工場に行って、複数の人達と、違う職人さん達と一緒に働くっていう経験はちょっと特別だったのかなと思うんですけど。
熊谷:そうですね、1年だけでしたけど、そこではいろんなことをしましたね。やっぱり養成目的でその工場をされてたと思うので、そこに運筆の人を呼んできてね、運筆習いました。面白かったですね。お手本書くのにうーって唸りながらね、書いてらっしゃる熱心な先生で、竹、梅…… 一番初め、竹を習って次にランを習って、梅を習った辺でもう1年が来て、辞めちゃいましたけど、役に立ってますね。何故かというと、その頃の仕事が、草稿と言うんですけど、着物の幅の紙に墨でベタベタベタって描いてある絵を輪郭だけで起こしていくというのをやってたんですよね。それを糸目と言うんですけど、絵の具が流れていかない。その、習った先生がすごいちゃんと教えて下さって、そのさっきの線一つでね、この花はどういう形かというのがわかると。大事なとこというのは、こっちも力点を置いて描くので、自然に力が入ってるんですよ。そういうのでリードして、次の人がそこに導かれて色を置いていくから、糸目は大事なんやっていう話をして下さって。確かに仕事の順序として、最初の仕事がキチッとしてあると、その後もクオリティが下がらない。というのは何となく学びましたね。
宮田:人と一緒に仕事をする面白さみたいなものを、そういうところで体験、経験する感じだったんですか。
熊谷:そうですね。ちょうど同い年ぐらいの人がいっぱいいたんですけど、まあ…… 一緒に、今みたいに、大体ほらみんな食べに行ったり飲みに行ったりするじゃないですか。そういうことは全くないんですよ。ないんですけど…… そうですね。私の横で80代のおじいちゃんが友禅差してます。同じ絵の具を持って、2階で10代の人が色差してます。二十歳前の人がね。全く違うんです。それで、その横にいるおじいちゃんに、何でこんなに違うのって聞いたら、その時差してたのは加賀調子の模様だったんです。加賀調子の御所解って、細かい花がいっぱいあったりするんですね。その時も細かい花がいっぱいあるとこを見せて、「見てみ、これ全部ぼかしてあるやろ、この中に、どの色の隣にどの色を置くかとか、塗りきりって言って、ぼかさないものを間に入れるかによって、見え方が全然違うや」って言われて、本当、と思って(笑)。ほんとに隣り合う色の関係っていうのはすごく重要なんだなあって思いましたね。ほんとに模様が立つというかね、引き立って。
宮田:そこでは働かれてる人の男女比は同じぐらいか、男性の方が多かったですかやっぱり。
熊谷:女性は2人だけでしたね。あとはみんな男、男女比10対1ぐらいでした。もう1人30代の女性がいて、その人は「バラ子さん」と呼ばれてて、薔薇が描けたら食っていけるっていう(笑)。薔薇の模様が来ると、その人のところへ回ってました。
宮田:男性の中での働きにくさとか、ちょっとそういう性差みたいなのはありましたか。
熊谷:普通はあるんでしょうけど、職人の世界には全くない。技術なので、初めからそう思って職人になったので、また習ってたのは女の人でした。最初教えてくれたのはお姉さん。だから、むしろこっちの意識がそうなってしまってるっていう感じですね。そこではいろんな仕事したんです。豆を一晩浸けてあるんです。朝、工場行って、朝行くとあの辺寒くて凍ってるんですけど、豆引き上げてミキサーにかけて、汁を搾るんです。呉汁(ごじる)って言うんですけど、染織やってる人はみんな知ってますけど、呉汁で描くと、最初に描いたところに次の染料が染みていかないから、輪染みができるんですね。それに色を、染料を入れて。その時、大胆に描く羽織が流行ったんです。大きなコンロを置いておいて、グワーッて描くっていう感じでね。そのための呉汁を作ったり、染料を炊いて、ある程度の濃さにしておいて、それ以上入れると余分な染料が、ここでも「泣く」って言うんですけど、蒸しをかけて洗う時に他のところに滲んで付いてしまうから、染料を炊くの難しいんです。それも炊いたりしましたね。
宮田:そのお仕事の中でもっと創作したいとか、自分だけの表現をしたいっていう欲求はなかったですか。
熊谷:私は職人に向いてると思いました。欲求がね、そんなにはないんですね。けれど、優れた職人、力のある職人というのは、職人の枠を必ず越えていきますね。それはよりちゃんとその職人であっても、より良い職人の仕事をしようと思うと、枠を越えざるを得ない、と思います。いい職人っていい仕事してるんじゃないかと思いますね。創作、私は創作はしませんでしたけど、その一歩手前まで、それを活かすような仕事はしたと思いますね。
伊村:25年も職人の仕事を続けられて、逆に辞めるきっかけって何だったんだろうって思うのですが。
熊谷:この(画廊の)仕事です。
伊村:ということなんですね(笑)。さすがに。
原:両立はできないということですか。
熊谷:あのね、いいですか、そのお話になっても。ほんとは次(の質問の回答)になるかもわからないんですけど。この場所をね、いつかは要るなって思ってて、やっと自分達の場所になりました。それで、母を引き取るためには、それまで家族が帰ってくると、私達ははみ出してこっちで寝泊まりして、お正月行ってみんなの世話してみたいなことをしてたんですけど、さすがにこの家ができたので、姑をこっちに引き取ろうとしました。一番下の妹が結婚する段階で。そうすると、そこに、みんな帰ってきたら、今度私のはみ出す場所がない。それで裏の家を買って、つないで、それで居場所ができたんだけど、その3回目のローン払うことになったんですね。最初は土地、この場所を買う時。次建て替える時。で裏の家を買った時。そして、ちょっとでもそれを助けたいので、ここ(画廊スペース側)を貸そうとしたわけです、もう1ヶ所出入口ができたので。それでね、実は4年程お貸ししたんですよ。最初は、テキスタイルの図案と、染め上がった生地と、仕立て上がった製品を展示する場所に貸してもらえないかって言われて、私もいろいろ(このスペースを使う)夢あったけど、いいでしょうと言ってお貸ししたら、できあがるまでに、この人がいるから大丈夫だわと思ってた人が下りました。で、できあがるや否や、もう1人経済的にちゃんとしてそうな人が下りて、この人だけだと困るなあっていうロック好きの兄ちゃん1人残ったんです。出来上ががったら、もう既にお洋服屋さんになってしまってた。こんなはずじゃなかった状態ですよね。ロックが好きで、段々閉鎖的になっていった。中にひと部屋できたり。しまいに、何かたまり場みたいになっちゃった。まだ(子どもも)中高生だし…… 私達も、音楽嫌いじゃないんだけど、ロックでも何でも好きなんだけど、何となく違うなっていう感じになっていって、それで出ていただいて、どうする? ってことになった時、画廊にでもするかっていうことになったんです…… それで、主人が射手座(注:立体ギャラリー射手座、1969-2011)でやってた人を連れて来て。
宮田:もうやる人も決まってたんですね(笑)。
熊谷:いや、たまたまね、今度画廊しようと思うんだけどみたいなことを言って工繊大出身の人を連れて来て、それで、始めちゃったわけですよ。それで、私昼間ここにいて、夜家事もしながら、子育てもしながら、仕事もして、1ヶ月、これは死ぬなと思いました。案内状手書きですよ。
一同:はー、確かに。
熊谷:(芳名録に)サインだけパッとして行かはるのを、電話帳で住所調べて書いてるわけで。それで、ご近所だから、毎日ココさん(注:ギャラリーココ、活動期間1966-2004年)の前通ってるし、ご挨拶に行かねばと思って行ったら、河本(信治)さん(注:元京都国立近代美術館学芸課長。当時はギャラリーココのスタッフだった)がおられて、何もわからないんですけどって言ったら、じゃあ刷り師の人を紹介しましょうって言って、当時版画隆盛でしたから、東郷(幸夫)さんと星田(豊司)さんという人を紹介してくれたんですね。二人とも版画を刷ってて、星田さんというのは、井田照一さん(1941-2006)とかの版画を刷ってた人(注:星田版画工房を主宰し、シルクスクリーン版画のプリンターとして活躍)。東郷さんというのも、いろんな作家の版画を刷ってらして、星田さんバリバリだったんですけど、どうも不器用そうな厳しそうな東郷さんの方がつきあいやすくて、信頼がおけるというか、東郷さんにいろんなことを相談するようになって。河本さんが、ご主人デザイナーだったら、東京のりゅう画廊からこんなん(企画)が来てるからって言って、福田繁雄さん(1932-2009)の版画の展覧会を紹介して下さって、8月オープンして9月に福田繁雄展やってます。それが最初の企画展ですね。そうすると、みんなが言いたいこと言うじゃないですか、お客さんは。路線を決めなあかんって言ってはるけどどうするって言ったら、そしたら現代美術しかないって言ったのは主人。でも途中で、誰がそこまでやれ言うたみたいな感じになりましたけど。
伊村:最初から現代美術と決めていたというよりは、いろいろ構想を練る中で現代美術に絞られたと。
熊谷:構想を練るとこまでは行ってないですよね。成り行き。私としては、それこそ、田島(征彦)(1940-)さんの絵本とかね、絵本の原画とかを展示する場所でいいと思ってて。『美術手帖』の住所見て、田島さんとこまで行ってます。田島さん奄美大島行っていなくて、奥さんに、こんこんと「おやめなさい」って言われて(笑)。ほんとに、こんこんとやめときなさいって言われて。
原:ある意味、東郷さんも共犯者というか。
熊谷:共犯者ですね、完全な共犯者。面白がって、最初の頃は撮影もしてもらったり、何でも紹介してて。でね、わりと早くに、河口龍夫さん(1940-)やってますよね。それは、国際紙会議(「国際「紙」会議’83」京都会館ほか、2月19-21日/注:世界15カ国の作家・技術者・研究者が参加し、京都市内の美術館や画廊では、紙に関連した美術展や実演も行なわれた)があった時に、学生さんが来てたから、「何かやりたい、見たい展覧会ありますか」って聞いたんですよ。国際紙会議というものがあるらしいので、うちも紙の展覧会しようかと思うって。そしたら河口龍夫さんの紙の作品を是非展示してほしいって言われて、また『美術手帖』で住所を調べて(笑)、『美術年鑑』に住所全部出てましたから、それでお手紙を書いたんです。それは出品依頼とまではいかない、学生さんがこう言うてますから展示していただけませんかって。で、電話かかってきたのかな。行くって言わはった日にね、会ったことのない人ですから、あの人かな? この人かな? って言ってたら、展覧会してた人が、私が知ってるから私が教えてあげますって言ってくれて(笑)、そんなことでしたね。
伊村:最初は貸し画廊というよりは企画で。
熊谷:だって最初借りてくれる人なんか、いないですもん。「貸し画廊申込書」も作ってましたけど。だから最初は、成り行きまかせですね。
伊村:少し前に遡りますけれども、1950年代後半から(1970年代にかけて)京都で開催された展覧会を調べると、京都市美術館では、京都アンデパンダン展、日本国際美術展(東京ビエンナーレ)の巡回展、毎日新聞社主催の現代日本美術展、それから(京都)国立近代美術館で、現代美術の動向展が開催されるなど、現代美術の展覧会が年に1回や2回、当時にしてはかなり頻繁に行われている印象があるんですけど、そういった展覧会をご覧になってましたか。
熊谷:子ども連れて、南禅寺で走り回らせて、ちょっと疲れさせて、動物園抜けて、美術館行って、展覧会見て、帰ってくるっていうのが散歩コースなので。そうすると、(京都)アンデパンダン展(1957-1991年/注:平行して1972、1973、1976年に「京都ビエンナーレ」が開催された)とか、自然に見てるわけです。だから、アンデパンダン展でね、こう天井から巻物の布を垂らして、ずっとこうして(両手を広げて)持ってたシルクハットの人がいたって言ったら、その人はヨシダミノルさん(1935-2010)のところに泊めてあげてたんやと言うてはりました。ここ近いですから、ヨシダさんその九条山の上にいはったから、ヨシダさんもすぐ来ますよね。ヨシダさんの展覧会もしてます。最初の頃に何回か、3回位やったんじゃないかと思います。「ああその人なうちに泊めてたんや」って言って。
宮田:お子さんが生まれたのはいつなんですか。
熊谷:長女は、(昭和)37年に結婚して、39年に生まれてますね。2人目が41年。3人目が45年なんですけど、その間に万博があったんです。私は子どもが、一番下の子がいたから、万博行けてない。
宮田:やっぱりすごい盛り上がってましたか京都も。
熊谷:うんそうですね。何かね、盛り上がって、ここの元の家主さんと、家主さんが1階にいて私達2階にいた頃ですけど。家主さんと他の子ども、主人と一緒に万博行きましたね。大して興味なかったんですよね、私。…… その頃の美術っていうのも、岡本太郎さんのことは新聞やらで見てましたけど、ぐらいで、全然身近じゃない。
伊村:グラフィック・デザイナーも万博で活躍したということがありましたが。
熊谷:そうですね。
伊村:そういうこともご主人のお仕事との関係で、影響はありましたか。
熊谷:知ってるでしょうねえ。だから早くから図形的な図案を使ったようなものを作ってましたね。看板コンクールになると結構そういうものが出てた気がする、出してた。いつも賞もらってたんですよ。
原:ご主人の展覧会はされましたか。
熊谷:いやちょっと無理です(笑)。いや、傍ら、結婚した時何て言ったかっていったら、仕事仕事と言うでしょ、仕事忙しくて今日も仕事やねって。これは、パンの仕事やって言うんです。僕の仕事は俳句やと言ったんですよ。大嘘でした。最近全然やってない。
宮田:開廊までのお話まで行ったので、もうそろそろ終わりにしますが、30代に子育てをしながらPTAとか学校にすごく関わられたというのを事前に教えていただきました。そこでの活動も、大きかったのかなと思うんですが。
熊谷:そうですね。子ども達は全部保育所育ちですね、仕事してたんで。一番上の子を3歳で預ける時には、鬼のように言われました、家族から。
宮田:子どもを預けることが。
熊谷:そんな3歳になったばっかりやのにと言うて、服をひとりで着れるようにさせるって言ってたら、「そんなん!」。そこでね、教育で母と全然意見が違うというのがハッキリするんですけど。私は自立させたい、母はそれは保育所行ったら保母さんがやってくれはるって言うんですよ。でも私は、保母さんに迷惑かけないように服をひとりで着られるようにさせたいって言って、この子に責任を持つのは私やと思って、押し切りましたけど。保育所で学んだことも多かったですし、小学校すごい荒れてて、その小学校行ってからの友達が、それこそ、大事件を起こしてたんです、小学校で。お友達のお子さんのいる学年が。小学校3年生ですごい乱暴な子がいて、4年生から5年生になる時クラス替えがあるから、2人いたから、ふたつに分けて下さいねと言ってるのにもう1人ついて3人になって、そこに何か付属の教育大系の学校で教えてた先生、優秀な先生というのをつけはったんですよ。乱暴な子ども達のことを知らないですよね。手がつけられないようになっちゃって。給食の時間、プリン24個食べてお腹壊すまで。
伊村:学級崩壊ということですよね。
熊谷:そう、ちょっと貸してから始まって、二度と返さない、お金を持って来させる。いじめの行き着く先は辱めなんです。男の子はことに。裸にされて、機具庫か何かの周り、何周もさせられてたりする。その子のお母さんと私ずっと友達やったから、当然その兄弟が前後にいるから、うち下の学年やったから、守らんわけにいかなくて、保護者会入ったんです。仕事してんのにね、保護者会どころじゃないと思ってたけど、保護者会も入って、活動をしました。それで、私ちょっとおかしいんやけど、こんな、見上げれば山みたいなところに住んでるから、考え方が小っちゃいんやと思って、水平線か地平線の見渡せるところへ連れて行きたいと思って、考えたら、滋賀県に希望が丘(文化公園)というのがあって、そこが一番広いんですよ。で、保護者にアンケート取って、そこを選ぶようなアンケートにして(笑)。学年活動で「2クラス足並み揃えて下さい」と言われてたから、「学年活動でここへ行きたいんですけど」と。それまでは「学校の外へ一歩も出てもらっては困ります」って言われてたのに、「休みの日に行きたいです」って言ったら、「いやあ、養育院の子ども達もいるんですけど」、「じゃあ行ってきます」って養育院で、「校長先生こんなん言ってます」って言ったら、「来れる親の子どもを呼びます。こんな時やから呼べるんです。やってください」と言われて、つまり、同和、準同和、身体障害、肢体不自由、養育院と、もう超困難校モデル校だったんです。で、自分の子どもを見るんじゃないように、親と子をクラス分けして色紙を持たせて、その色のクラスに入って下さいと言って、電車に乗って、大津行って、電車乗り換えて、最後希望が丘までバスをチャーターして、180人の団体で行ってるんですよ。よう行ったなと思うけど。そうそう、その2クラスの片方(の担任)が赤ちゃん生まれはったばかりのお母さんで、親が女の先生やし外れやわって文句ばっかり言ってたんです。先生に赤ちゃん連れて来てって言って、その赤ちゃんを、ほかのお母さん、子どもにも抱いてもらいって言って行ったんです。そしたら、みんな赤ちゃんかわいいから取り合いでお守りしてくれて。体育の先生だったんで、先生は子ども達とバレーボールしたり、親ともバレーボールしたり。養育院のお兄さん、親と子に分かれて、小学何年生だったのかな…… 親と子に分かれてリレーしたんですよ。でね、負けたんです、子どもに。子どもに勝ったの、養育院の先生だけ。子どもは走るの速い。その時2年生だったのかな。それで、6年生になりました。もうその外れやって言われてたお母さん(先生)が、お母さんからいっぱい花束もらって、涙の別れ。ですね……
ちょっと話が戻っちゃいますけど、私達が中学校卒業する時の高校進学率は55パーセントです。半分近い子どもが高校進学できてない、ですよね。その後、知事さんになった、蜷川虎三(1897-1981)という人が、「十五の春は泣かせない」というスローガンを上げはった時に、泣きました。もうこの人しかいないわと思いましたね。その人じゃないかな? その人も戦争中は学生を戦争に出したって責められてはりますけど。時代がそうさせる、そうなるまでに止めないといけないんだけど、なかなかね。
宮田:じゃあ今日はここまでとしたいと思います。長時間、もう何時間聞いたか、本当にありがとうございます。
熊谷:すいません、何かちゃんと話すのはやっぱり難しい。
宮田:そうですよね、だって、短時間で人生を振り返って(笑)。
熊谷:でもこんな迷惑な話ですよね、みなさんにとって(笑)。
原:時代がすごい変わっていくそこを。
宮田:私達も時代を前後して聞いてしまってすいません。
熊谷:ごめんなさい、ついついあっちこっち飛ぶ。
原:うちの母親もちょうど同じ年齢です。
熊谷:ああ40年生まれ、お母様。だからね、男社会なので、ひとりでも男が周りにいたら、何か人脈とかね、いろんなものがあるんです。が、全部死んじゃったんですよね、(私の)母の場合は。それに、女性、母親が働くことがありうるという考えがどこにもない育ち方をしちゃった。もう父は完全に守るつもりだったんでしょうね。母は体の小さい人で、映画好きだから、映画を見に行った帰り、戦争始まってる最中ですよ。波崎って風が強いんですって。それで、母を背負って帰ったというんですよ。風に飛ばされるって言って。それぐらい大事に、溺愛してた人なので、しょうがないですよね。そういう、いいんだか悪いんだかの話もあります。
伊村:今日はご幼少の頃のお話を伺っていて、熊谷さんご自身が自立心旺盛なお子さんでいらっしゃったということと、子育ての時にもそれを価値観として持ってらしたというのがすごく印象的でした。
熊谷:そうですか。
伊村:フェミニズムという言い方を70年代当時はしていなかったと思いますし、ウーマン・リブというような意識はご自身にはなかったのかもしれませんが、でも、自然とそういう生き方をされているという印象をもちましたね。
熊谷:そうですねえ。お茶ぐらい淹れてあげたらいいやんって思うけどね。美味しいお茶で(笑)。でも男の人が、「あの子、この子」って言うのはめっちゃ腹立ちますね。そんなこと言わしとくなと思います。何か、うちの会社の子にやらすわとか、ねえ。頭かち割って掃除したい。ねえ。
宮田:でも幼いながらにも相当に自分の中での葛藤と、考えてきたこと、10代、中学生ですごいものを背負ってたんだなと、すごく思いました。
熊谷:そうですね。真面目でしたね。中学生の時。何かね、小学校の時ね、例えば服が破れてるのは何ら恥ずかしくないし、貧乏も恥ずかしくない。継ぎ当たってれば恥ずかしくないって言ってくれたんですよね。小学校の先生が。それはね良かったなと思いますね。別に貧乏は恥ではないみたいな、継ぎ当たってればいいんだみたいな、感じでね。ずっともうそのまま来てしまったような気もしますけどね(笑)、もうちょっと違ってもよかったのかなと。
原:でもまあ日本がそういう、時代だったんですよね。
熊谷:時代ですよね。
原:母親に、小学校の時に、クラスの中に、半分ぐらいは草履とか下駄とか、靴じゃない人がいたって聞きました。
熊谷:そうでしょうね。私、まあ小学校の時は靴履いてましたけど。
原:入学式の写真が、そうだっていうふうに。
熊谷:そうだと思いますよ。
原:そんなに、みんなそうだったっていうか。
熊谷:靴がクジ引きだったって言います。私、中学の時は、コウモリ傘は買ってもらえなくて、番傘だったんですよ。当然長靴も買ってもらえなくて、高下駄で番傘って『じゃりン子チエ』そのまんまで。学校の授業で縫ったブラウスを着て、破けたら継ぎ当てて行ってました。あのまんまでしたね。中学の時、制服も買ってもらえなくって、音楽コンクールに抜擢されたんですよね。けど、歌う時に私だけ違う服だったので、練習で一番前に出されてたのが、一番後ろにされてとても情けなかった(笑)。
伊村:でも、今振り返ると小学校に上がる時ってまだ戦争が終わって数年だったわけですものね。
熊谷:そうそう。終わってすぐですね。まだきな臭い、まだ進駐軍走り回ってる時ですね。ジープで街走り回って、何であんな走り回ってたんかわからんけど。
原:何をしてたんでしょうねほんとに(笑)。監視ですかねえ。
熊谷:ねえ、何してたんやろうと思いますよ、ジープで。隣のお姉さんレッドパージにかかってたし。そう、私が中学生の頃ね、下鴨の旭丘中学というところで、何と言うんだろう、すごい自立心の強くなった子ども達が、いろんなことを始めて、先生達が強制配転というのをされるんです。そんなふうに子どもを育てたら自立心強くなりすぎたっていうので、強制配転、バラバラにされて、そこへ私が習ってた大好きな社会科の先生が後始末にやらされました。何であの社会科の先生があんなに好きだったのか、その原因が全然覚えてないんですけど、もうね、学校中の子どもがその先生好きだったんです。
宮田:そういう先生いますよね(笑)。
熊谷:ねえ。で、運動場でそのお別れの挨拶聞きながらみんながしみじみ泣いたのを覚えてます。あ、憲法習い始めたんです。憲法、そう、その先生に憲法を習い始めて、そう、この話をしとかなあかんかった! その先生の最初の授業が、憲法の前文を習うにあたって、「この大切な自分」という言葉が出てくるんです、教科書に。それでね、私母に、煮ても焼いても(子は)母の勝手やってずっと言われてたので、「この大切な自分」という文字を見た途端ね、もう何か体が震えて、ああそうやったんやって思って(笑)、で本当に、綿に吸いこむように授業が入っていきましたね。そんなことを考えてもみたことがなかったので…… 素晴らしいですよね、前文。
伊村:憲法を教えられるということ自体が、やっぱり「戦後」を象徴していることでもありますね。
熊谷:そうですねえ。
伊村:民主主義であるとか、教えるということの意味とは何なのか、先生たち自身も直面したでしょうし、考え直していらしたのかもしれないですね。
熊谷:何かその、教科書に書いてあったんですよ、堂々と。「この大切な自分」っていう一行が中学の社会科の教科書に。「この大切な自分を理解する事なくして、民主主義は成り立たない」って書いてあるんですよ。「この大切な自分、同じく大切な他者」、それが基本だって書いてあって、覚えてるでしょう私って(笑)。…… 「同じく大切な他者」だから、自分が大切だということがわかってなかったら、他の人が如何に大切だっていうのはわからないっていう、ことですよね。すごくやっぱりいい教科書だったなあと思います。どんどん変えられていくんですけどその後。
原:先生方も多分すごく苦労されたので、それこそそれが晴れて教えられるっていう(笑)、時代が来たというか。
熊谷:そうそうそうそう。だから先生同士も、常に喧々諤々の時期だったように聞きました、後で。何をどう教えるかみたいなの、議論しながらやったように聞きましたね。
伊村:中学の教育ですけど、まるで高校や大学のように生徒たち自身で考えさせるような授業がありましたよね。戦後を教育でいかに変えていくかっていうことを先生方も意識されてたという実感はありますか。
熊谷:模索されてたと思いますね。だから私はすごい問題児だったと思うけど(笑)、それでも許容されたのは、そのおかげだったかもしれないですね。でもそれにすごく感謝して、ちゃんと答えないといけないと思って、指名のかかるキャディもやってたわけだし。だから、この仕事をしててもね、結局、画廊も作家も、それを買って下さるコレクターも、見に来て下さる方のひとりひとりも、全部があって成り立つ、ほんとに、全部に感謝しないといけないっていう感じなので、コレクターの方とか、まあ普通は学芸員さんとかが、その構成要素と思うけど、コレクターの方もやっぱり大事だと思って、(作品の販売価格)1割引です。だって、(作家)本人よくよく知ってて、直接買ってもいいところをわざわざね、画廊で買って下さるんで。でも、うちの画廊は、作家に全部教えちゃいます。コレクターに年賀状ぐらい出しなさいみたいな感じで。普通はガードするんですけど。…… 楽しく(笑)、放任主義っていうのは一緒ですね。自立、うん、自立を旨とするというのは基本ですよね。でも、等しく大事な、やっと思い出しましたわ、「この大切な自分」っていう(笑)。
宮田:大事な話をありがとうございます。
熊谷:いえいえこちらこそ。
原:引き続き、よろしくお願いします。
熊谷:こちらこそ(笑)。