美術家(絵画、彫刻)
もの派を代表する美術家の一人。初期はトリックを引き起こす作品も手がけていたが、1960年代末から、石、ガラス、鉄板、木などを関係づけて提示した作品を制作する。1970年代初頭には絵画にも取り組み、《線より》や《点より》のシリーズを発表する。美術批評も手がけ、『出会いを求めて』など多数の著書がある。1回目のインタヴューでは、朝鮮での生い立ちから、学生時代、来日後に美術家として活動するまでを話していただき、2回目のインタヴューでは、関根伸夫の《位相−大地》以後の自身の思考の軌跡や、他の美術家や批評家との交流、海外の画廊や美術館で行った展覧会などについて語っていただいた。国立国際美術館で「もの派 再考」展を担当した中井康之がインタヴュアーを務めた。
中井:先生、生まれられた慶尚南道の土地、生まれられたご家族構成等を、最初にお聞かせ願いますでしょうか。
李:本貫と言うのですけども――李には沢山あります――元々うちの故郷は仁川です。ソウルの隣の港で新羅時代は唐との表玄関だったところです。しかし高麗から朝鮮初期までは今のソウルが根拠地でした。朝鮮時代のわりと初め頃にうちの一家は全国にチリバラバラに散るようになった。その前は今で言えば国務大臣を何代もやっていた家で相当羽振りが良かったみたいですけども、政治的にやられて、全羅南道とか、慶尚南道とか、慶尚北道とか、忠清道とかいろいろなところに散ったんですね。うちの直系の祖先の方は、兄弟の中では3番目だったらしくて、慶尚南道の咸安という山奥の方に避難というか島流しのようにされて、そこに定着したということです。本当に山間僻地で、海からも遠いですし、非常に貧しい村なんです。
貧しい村だったんだけれども、非常に学問を大事にする家風はあったようで、早くから書院だとか学者たちの交流の場になっていた。僕の家族はひいお祖父さんが学者で、薬局を――今でいえば漢方薬ですね――やっていまして、これは僕のお父さんの代までその影響があって、うちには薬棚だとか薬剤だとか、薬を栽培するような畑とか、そういうようなものがいっぱいありました。ただ僕のお祖父さんは、ひいお祖父さんの兄弟の子供で、養子に来て、途中でどうしても学問が身に付かないということで、学問に挫折して、それで農業に専念する形をとったようです。
僕のお祖父さんを始めとして小さな村は、同じ李しか住まないわけです。だから全く仁川李というものの共同体が、この村、あの村、大きな谷間――幾つか谷間があるんですけれども――全部李ばっかり住んでいるという、今で思うと異様ですけど、昔の封建社会の中では当たり前でした。よく言えば団結力が強いし、悪く言うと外の者が入っていけないという、極めて閉鎖的な村だったわけです。だからどの家の子供であろうが、みんな村が子供を育てる、見るという中で、大変儒教色が強くありました。もちろん儒教というのは、ご存知のように、宗教とは言えないので、女子供はやはりお寺によく連れていかれる。周りにいっぱいお寺がありました。だから宗教としては、お寺だとか、シャーマニズムもはびこっていますから、シャーマニズムと仏教のようなものがしっかり染み付いている、そういう村で育った。生活は極めて儒教的な制度が強く、非常に規律の厳しいところでした。
子供の時は――日本でいうと寺子屋みたいなものですけど――書院に行ってました。朝鮮時代の後期に大院君という王の父がいて、書院をみんな廃止するんです。ようするに、儒学者たちがあまりにも政府のいうことを聞かないで勝手なことをやるので、それを廃止する。そういうことがあって、書院はえらい目に遭うんです。ただ、うちの場合は、他のところと似た部分もあるんですけれども、書院であると同時に祖先を奉る殿堂という意味もあって、書院というのを止めた振りをしながら、実際は書院が続いていくというものでした。書院では小さい4、5歳から漢文を教えるということがありました。一方にまた、村に夜学というものがあって、女性や子供たちにハングルとか、簡単な算数とか、修身道徳を教えるところがありました。その両方が、漢文やハングルを完全に教えるということは、要するに学問崇拝の思想で子供たちを修業させる、勉強させる、そういうところでした。
でも、勉強したという記憶はそれほどなくて、年寄りの怖いお爺ちゃんが、いつも同じところを読ませて、読んで聞かせるわけですね。主に中国の小学の何節かを、みんなに――小さい子供たちだから、字もあまり書けないし、分からないんですけども――歌うように合唱させたりしてやるんです。
中井:それは、その寺子屋あるいは夜学というのは、地域共同体で運営をしているのでしょうか。
李:そうです。先生も同じ李家の誰か学のある人が、あるいは暇のある人が教えるということです。だから同じ村に――谷間にいくつか村があちこちにあって、それが統括された形で一つの集落を成している――大きな書院があって、そこに集まるわけですね。漢文を教わったという記憶があります。あまりにも遠い昔のことですけども、それが7、8歳まで続いたかな。本当は8歳というのは、向こうでは数えですから満でいえば7歳です。僕は書院にも行くんですけども、うちにはお祖父さんやお父さんの友だちで、文人というか漢学者が、よく遊びに来て、ひと月とか、長い時にはふた月くらい滞在したりすることがあって(その人からも学びました)。その老人は結構名の知れた学者だったんです。黄見龍という名で、地方では知られた文人であるし、画家としても有名でした。寺子屋よりも、その先生に学んだことが、圧倒的に影響として残っています。それは寺子屋と同じ頃から、ずっと中学入るまで、毎年のように年に何回も来てうちに泊まっていて、それで僕を教えるわけです。書を教えるということは、書が上手くなることでなくて、漢文を教える教え方が書としてあるんです。それから、日本も昔そうだったと思いますけども、絵描きを作るために(絵を)教えるのでなくて、詩とか書とか絵というものは、昔は一緒だったわけです。だから詩書画を教わる。詩というのは漢文なわけですね。それを書かせるために書がある。絵というものは、ある意味では宇宙というか、自然というものの気高さというか、あるいは凄さ、そういうものの大事さを教えるのが、絵ということだったと思います。だから詩書画をずっと教わっていた。家庭教師みたいなものですね。それが僕にとっては大きな影響だったんです。
中井:書院で教えられた方でなく、李先生のところに来られた方――黄さん――が、先生に教えられたということなんですね。
李:そうですね。寺子屋に行くことよりも、うちに来て教える、その先生の影響が強かったということです。だから、両方があったけれども、僕は寺子屋はあまりよく行かなかった。うちから結構距離もありましたし、つまんない。それより、自分の家で、お祖父さんやお父さんの友人である黄という先生が来て、非常に優しいし、丁寧に教えてくれるので、それの方がずっと楽しく、僕にとって非常に影響として残っています。
その時に、いつもまず3、40分、しばらくやらされるのが、墨で点をつけたり、線を引いたりすることなんです。まず字を書かせる前に、墨をすらせて、筆に墨をつけて墨がなくなるまで、ずっと同じ調子で点をつけてご覧なさいとか、大きな紙にすぅーっと上から下まで、まっすぐ線を引いて見なさいという、そういうことをずっとさせるんですよ。
中井:やはり書の基本であるということなんでしょうか。
李:そうですね。書の基本であると同時に、森羅万象の、物事の基本だということを言うんですね。子供だから何の意味だか分からないけども、繰り返し、繰り返し言われながら、それをやって、一通りやったら、その次に字を書かせたり、絵を描かせたりするわけです。そういうようなことが、ずっと後になって、いわば絵かきになって、煮たり、焼いたり、煎ずるような形で、それを使うようになったということです。
中井:引き続き確認させていただきたいんですけども、ご兄弟は、女の兄妹だけでよろしかったでしょうか。
李:僕は、女三人に男一人なんです。僕の上に姉さんがいまして、下に妹が二人いるんです。僕の上に男の子が、ちっちゃい子がいたけども、すぐ亡くなったようで、男は僕一人だけになった。祖先崇拝の強い儒教社会――そういうところでは、どうしても男を大切にする。男中心にものを考える封建社会ということです。男が大事にされるということは、逆に女を蔑むというか、あまり女性の存在を大きく認めない、そういう社会ということになります。
中井:そうしますと、わざわざ中学校で釜山まで出られたというのは、やはり男子を大切にするというか、そういうことだったんでしょうか。
李:とにかく教育させなくてはならないということだったんです。小学校、僕は1年遅れて入った。どうして1年遅れて入ったかというと、その時まで僕のお父さんは新聞記者をやっていまして、試験を受ける年の春は、お父さんはたしか満州かどこかに行っていなかったんです。僕のお祖父さんは、日本の教育反対です。日本の学校に入るためには、創氏改名といって名前を変えなきゃならない。これは日本では本当に分かってないんだけども、名前をまず変えないと学校に入れてくれないんですね。僕のお祖父さんは、そうでなくても日本の教育を受けることに反対なのに、名前を変えろということで、学校まで連れて行って、結局連れ戻されて入学出来なかったんです。そんなところ行く必要ない、と。それで1年遅れたんです。それで、お父さんが帰って来てみたら、子供が学校に行ってないので、お父さんとお祖父さんが大喧嘩をして、その次の年に入ったんです。日本の教育はいやでも今は教育を受けなければならない。寺子屋やそんなものでは、もうこれからの時代に対応出来ないということです。多分それは僕の勝手な今の解釈です。何しろお父さんとお祖父さんが大喧嘩をして、その次の年に創氏改名をして学校に入れたということです。小学校に入ったら、学校の近くに――僕が入った年に出来たのかな――神社が出来たんですね。
中井:ああ神社ですか。
李:神社が出来て、そこに一週間に一回、連れて行かれる。朝、まず授業の前に連れて行かれて、神社にいろんな催しがあって、何かを読むんです。後でいろいろ分かったことなんだけども、「朕惟ふに」何とかかんとか、「我が皇祖皇宗」何とか何とか(教育勅語の冒頭)、全然僕は綺麗に忘れて、歌を習ったことしか覚えてないんです。神社は大体、東に向かって建てられる場合が多いらしい。東というのはやはり日本を指すんですね――そこから更に東に向かって最敬礼ということで、それは天皇に向かって最敬礼するってことなんだよね。それで学生たちを全部、合唱させることがあって、私共は大日本帝国臣民でありますとか、そういうことを合唱させられるんです。週一回神社に行って、そういうようなことの中で――子供だからそれが何のことだか分からなかったけど――そうこうして2年に上がる時に終戦になったのかな。
中井:それは日本語教育?
李:日本の教育。
中井:日本語?
李:日本語。先生は多分日本人半分、朝鮮人半分だったのかなという気もします。田舎なものだから、それは普段使う言葉じゃない。だから全然耳に入らないんです。でもそれを覚えなきゃならない。しかし、家に帰るまでにそれを早く忘れないと(いけない)。少しでもそれを面白がって口から滑らせて出ると、家でものすごい怒られるので、お祖父さんだけでなくて、お母さんもみんな怒るので、何も習わなかった振りをしなきゃならない。また朝になったら、学校に行ってそれをちゃんと言わなきゃならないんだよね。「何だったかいなー」とそれを思い出さなきゃならない。それは実に奇妙な繰返し。だから忘れることと思い出すことを繰り返すという、これはある面では完全に分裂病のような状態なんです。そういう奇妙な経験はありましたね。
学校に入って1年半か経った時に終戦になって――韓国では敗戦というんですけども――日本が敗戦になって、新しい教育が始まった。そこで小学校を出るんです。僕は生まれたところから、2年に上がる頃だったかな、学校近くの――学校は駅から近かったんですけども――小さな街の方に引っ越して来た。それから先は、山奥の谷間ではなくて、小さな街で育つことになったわけです。街の中に出て来たものだから、少しは文明(的になった)というか、街の中は電気が入ったりしていた。山奥は電気がなかったんですね。子供の頃、4、5歳までは、僕は髪の毛を長くして、長く編んで、男の子でも。チョッキを着せられて、非常に窮屈な生活だったんです。それでロウソクですね。日本と同じように、ロウソクじゃない部屋は、お祖母さん(の部屋)とかですね――お祖父さんとお祖母さんもいますから。僕は普段はほとんど離れの方でお祖父さんと一緒に暮らす。お父さんはもうしょっちゅう、新聞記者をやっていたから、満州に行ったり東京に行ったり、ほっつき歩いていて家にいなかった。それで、お祖父さんの部屋はロウソクだったけども、お祖母さんとかお母さんの部屋はロウソクじゃなくて、芯を作って油の中でつけて、火をつける。日本もそうだったと思いますけど、そういう明かりだったんですね。あらゆる面で非常に暗い時代の一種の象徴みたいなものだったと思います。そのようなところから、都会に出て来て電気の下で育つというようなことになった。
うちのその街の名前は郡北って言うんですけども、そこから晋州が非常に近いんです。電車がありまして、その当時ゆっくり行く電車でも30分くらいしかかからないんです。そこにいい農業中学校があったので、試験を受けました。小学校の時は、結構僕は勉強が出来て、1、2番ぐらいだった。そして晋州というところの中学校の試験を受けておいて、発表を見ないですぐ、釜山の慶南中学というところがあったんで、そこも試験を受けに行きました。当時釜山に住んでいて大学教授をやっていた叔父の家に泊まりながら、試験を受けてみたら、もうすごく難しい。ところが、晋州の農業中学校は、いい学校だったんですけど、そんなに難しいと思わなかったのに、お父さんが発表を見に行ったら、僕は不合格だったんです。僕のクラスで10人くらい受けに行ったと思いますけど、6人ぐらい受かっている。僕より出来ない子が受かったのに、僕は不合格と。それを知らされたのは、慶南中学校試験が終わった後、お父さんが来たときでした。慶南中学校は全く自信がなかったんです。慶南中学校というのは、慶尚南道で一番難しい学校なわけです。戦前は、釜山中学校と、慶南中学校があって、釜山中学校は日本人が行く学校で、慶南中学校というのは朝鮮人が行く学校だったんだそうです。ある面で地方ではエリートの学校だったらしい。僕はもう本当に受からないだろうと思ったのが、何故か偶然にそこが受かって、それで遠い所の学校に行くようになったんです。自分の叔父(祖父の弟の息子)がいるから叔父の家で通うことになったから、家では何の心配もしなかったと思うんだけど。
田舎の山奥から街へ、街から釜山という、本当にピカピカのところに出て来て、中学に行くようになりました。でもそこで半年もならないうちに、朝鮮戦争が起こるんです。解放の後、ご承知のように、朝鮮が南北に分かれたわけです。ところでうちの李家の一家は、ものすごくアカが多かったんです。北朝鮮寄りの人たちが圧倒的に多かった。それでそういう影響をいっぱい受けていたんですね。北朝鮮に従わなきゃならないみたいな。当時、もちろん李承晩の時代ですから、アカは駄目という反共教育でした。中学校に入って――その時は中学5年生までで、高校というのはない――5年生の先輩たちが1年生を集めておいて、これから革命が起こるとか、これから世の中は変わるとか、君たちは米帝国主義と闘わなくてはならないとか、英語を習うなとかいろいろなことを言うんです。それで、田舎から来た子供は、それを本当に信じるんですね。自分の田舎がそうだったし、そうかと思う。ところが、都会で育った子はそれを信用しなかったようです。いろいろあるということを知っている。田舎から来た子はいろいろあるということは何も分からないで、無条件に信じてしまう。李承晩というのは駄目だとか――その時にアメリカ軍がいっぱいいるわけではないんですけども――米帝国主義と闘わなければなきゃないとか。米帝国主義が何なのか全然分からないだけれども。そうこうしているうちに戦争が勃発して、そういうアカたちはみんな歓迎して、これからいい社会が開かれるというふうに、はしゃいでいたんですね。
僕は小学校に入る前、山奥にいる時に、僕の家の隣が叔父の家だったんです。叔父というのは僕のお父さんの弟で、その時に僕の叔父は日本にいました。叔父は日本に行ったり来たりしていた。叔母さんと子供だけがいて、そこへ行くと、新しいいろいろなものがあって、蓄音機があった。手で回す蓄音機でレコードをかけると、人間もいないのにその中から歌が聞こえたりね、いろいろ音がバァーンと響く。すごい不思議でした。いつもそれを聞いて、面白く気持ちよかったことを憶えています。レコードの中でなっている楽器がどういうものか全然わからなかった。小学校はピアノがなかったんですよ。いわゆるオルガンしかなかった。それで中学に入ったら、ピアノがあるんですね。だから蓄音機で聞いたような音のものがあるわけですよ。これがピアノというのかとすごい感心していたら、その時に初めて釜山で出来た友だちが「それおもしろいか?」って言う。「いやーおもしろいな」って言って、触って見たりしていたら、「うちにもあるから見に来いよ」って言うんです。早速ある日見に行ったんですね。そうしたら、学校のよりも小さかったけども、それを彼はバァーと弾くんですね。それが超ショックでね(笑)。僕はいかに田舎っぺかと、ものすごく恥ずかしかった。それっきり僕は、音楽は怖いっていう、ショック、コンプレックスで。それから僕は、都会の子でバイオリンを弾く子も見たり、いろいろ見たりした。ああこれはとても駄目だ、もう全て音楽は僕にはかなわないということで。見えない音で何かするということが素晴らしいと思っていたものが、一気に遠い世界になってしまったんですね。そのコンプレックスは、後々までずっと――高校に行ったり大学に行ったりしてもずっと――あった。子供の時自分が音楽が出来なかったそのコンプレックスで、後にたくさんの音楽の本を読んだり、レコードを買ったり、演奏会に行ったり、もう音楽家以上に一生懸命頑張ってやるようになって、奇妙なコンプレックスの裏返しになった。音楽家になり、作曲家になりたかったなあということがずっとあった。自分の背景として、知らないうちに、ものすごく音というか音楽というものの幻想が出来上がっているということだと思います。
中井:コンプレックスで音楽をずっと気にされるというのは、比喩として、非常におもしろい、おもしろいというと大変失礼なんですけど、不思議な感覚ですね。
李:耳はかなりある時期良かったんですね。今はほとんどあまり見ないから音符をほとんど読めない。かつては僕は中学、高校は結構音符読めたんですけども。日本に来てからも音楽会に無数に行って、そうこうしているうちに、家族みんなが音楽好きになった。みんなうちは音楽気違いばかりです、いまだに(笑)。だから演奏会は、外国に行っても日本でも、もう本当によく聞きに行く。そうすると、これが悪い癖なんだけども、音楽グルメというか、それがすごくいい演奏でなければ駄目です。つまらない演奏だともうその席に座っていられない。
中井:厳しいですね(笑)。
李:非常に問題が起こってしまう。専門家じゃないからそういうことになると思うんです。自分のコンプレックスから、細部にわたっていろいろなものにまで、妙な神経を使うことで、一種の病気(笑)みたいなところもあります。
中井:それで、中学校の進学があったと思うのですが、その次にソウル大学の付属高校に行かれたんですね。
李:それでね、中学校に入ってからは、僕は植物班に入ったんですね。植物採集をする。それは先生がおもしろいから。生物を教える先生で、授業がおもしろくて。その先生は、植物採集をいつも日曜日に行くから、興味のある人はついていらっしゃいと言うので、僕の友人と植物班に入って、いつも採集に行ったりして、植物標本を作ったり、植物に関心があって、本当に最初よくやっていたんです。
中学3年の時、日曜日に――ああ、その日は日曜日ではない、多分土曜日ですね――冬の植物を採集するということで友人と釜山の山に登っていた。山の一番下とか中腹とか一番てっぺんとか、植物がだんだん違うわけです。そういうものの分布図とかいろいろなものを調べたりしました。頂上から山を降りてきたら、山の中腹に学校があった。それが男女共学だったんで、僕にとっては、中学生だからやはり思春期で、超おもしろいんですね(笑)。それで見たら、前に入学願書があった。それが確か1月頃だったと思うんです。すごい寒い時だったから。願書をいっぱい、石で押えて置いてあった。山に登る道端の方に置いてあった。見たら名前を聞いたこともない学校でした。ソウル大学っていうことだけが目についた。僕の叔父がソウル大学の教授だったんですね。生物の教授だった。叔父が生物の教授ということもあって植物班に入ったこともあるかも知らない。
もう一つは、僕は子供の頃からすごく文学が好きだった。圧倒的に僕のお母さんの影響でした。お母さんが文学少女だったんですね。僕の親父はそれほど文学にのめり込んでいる人ではなかった。大衆小説はそうとう読んでいたんですけども。お父さんは新聞記者だったから、小説とか結構知っていたり、ソウルに行っていたりもしていたんだけども。お母さんは古い古典を読んでいた。韓国に古典が結構あるわけです。字を大きく書いた木版で刷った小説がいっぱいあって、いつも本が積んであった。お母さんは、ほとんどその本を覚えていたんですね。仕事をしながら目の前に開いておいて、ページをめくるだけで、ほとんど覚えている。まるで歌うようにいつも。だから僕も相当覚えていたんです、小さい頃、何の意味か全然分からなくても。そういうことで、韓国の古い古典を、小学校の時までずっと、相当覚えたり、それが頭に入っていたということで、まず文学に対する僕の幼児体験は根深いものがあったと思う。
中井:古典の文学というのは日本でいうと歌みたいなものなんですか。
李:『春香伝』とか『淑香伝』、たくさんの韓国語で書いた小説があるんですね。そういう小説をお母さんは、開いておいて自分で歌うように、読むというよりほとんど覚えていて、それで仕事やっていたんですよ。そういう側で、小さい時に4、5歳の時から(聞いていた)。一方では、離れで漢文か何かを教わると思うと、一方ではもっと小さい時からお母さんの側にいるから――今でもそれは耳に残っているんだけども――歌うように読むわけですね、朗々と。そういうことで、一種の韻文というか、音を立てて読むということ、文章というのは歌うように読むものだということがかなりインプットされている。それが後々に、僕は文章を書く時も絵を描く時も、つまり音楽のレコード体験もずっと後になって、どこかでミックスされているんじゃないだろうかと思いますね。
中井:韻律みたいなものですね。
李:はい。
中井:話を横道にそらしてしまいましたが、それで……
李:ああ、そうだ。それで、「いやーこの学校はおもしろいね」とかね。何しろ男女共学というのは(興味があるわけです)。小学校は男女共学ですけども、中学校の時――小学生の時はあんまり異性とか分からないんですね、特に昔だったし――中学3年くらいになるとやはり興味があるわけです。男女共学ということがおもしろいということがまず目に飛び込んだ。僕と僕の友人二人で。もう一つは、ソウルというのは子供ながら憧れなんですね。ソウルから避難に来て、釜山近くまで戦線が来ていた。戦争中ですから、ソウルとか周りにある学校がみんな南の方に来た。避難してきた学校だったんですね。それはソウル大学の付属高校なものだから、他の学校よりふた月くらい先に入試があるんですよ。しかも、そこだけではなくて大邱、光州、済州、各地域で同じ日に試験をする。つまり全国の学生を集めるということなんですね。ソウルの学校ということで、いずれソウルに帰るというかソウルに行くということです。それに、男女共学ということ、これはすごくおもしろいということで、願書を持って帰ってきて書いた。当時は願書を書いて、学校から成績表とかそれだけ貰えば、提出できたわけです。それで担任先生とも何も相談しないで、友人と一緒に試験を受けに行って二人とも受かったんです。ところが、僕の友人はやっぱり慶南高校がいいから、あんないつソウルに行けるかも分からない、そんなところに俺は行きたくないということでした。
中井:仮の校舎だったわけですね。
李:仮の校舎です。慶南高校というのは立派な高校だし、地元の高校で羽振りもいい。友人は行かないで慶南高校に行った。僕はそれから、映画を見に行ったり遊んでばかりで、もう他の高校は試験を受けなかった。よく知らない高校に行くことで、みんなから野次られたりしました。
中井:先生お一人だけという感じで。
李:ええ、僕一人だけで。その中学校からは。
中井:違った環境に身を置くということは、その頃から先生ご自身が……
李:それは、僕のお祖父さんの影響。お祖父さんは、一歩も死ぬまで外に出たことがない人なんだけど、自分の息子はあちこち歩いていて、とにかくこの田舎から出て、あなたはどんどん大きいところに行かなくては駄目だということをいつも言っていたんですね。そういうことは暗に僕に影響をしたと思います。それと同時に、僕の親父が新聞記者だったからね。僕のお父さんが帰ってくると、村の青年たちが、いつも集まって来て、その話を聞いたりした。東京とか、上海とか、満州とか、いろいろな話をする。それを見て、やはり子供だから、遠いところとか、好奇心が湧くような話に、多少は刺激されたのかも知れないです。もう一つは、やはり文学。韓国の古典がばねになって、中学校に入ってからいろいろな文学に接して、好奇心が湧いて、外へ出て行くということもある。偶然も手伝っている。さっきも言ったように、中学校は近くの晋州のところに入ったなら、すぐ近くだから、多分釜山まで行かなかったはず。釜山の試験に受かっても、多分晋州に行ったと思います。偶然にそこの試験が落っこちていて、遠いところが受かった。そこからいつソウルに行けるか分からないのに、またソウルの学校に試験を受けて、それでそこへ行った。高校は一年入ってしばらくしてすぐ、戦線が変わってしまって、ソウルに今度は上がるようになった。ソウルに3年くらいいるようになって、大学に入って間もなく――もう2、3ヶ月ぐらいしか大学に行っていないんだけども――日本に来るようになってしまったわけです。何だか知らないけども、そうなってしまったです、これは。始めから志が云々というのは真っ赤な嘘です、そんなものはない(笑)。
中井:一番難しい中学校に受かってしまったというあたりから、転がるように、というか、そういうふうに、まわるようにまわっていったという……
李:本当に不思議です。僕は、運命という言葉は嫌いなんだけども、田舎から、次から次へと、別なところに変わっていくことが、自分の運命かなということを後々思うようになりました。日本に来たら日本でも、やはりじっとしていられないということで、またヨーロッパ行くとか、あちことを周るとか。一ヶ所にじっとしていられない、そういうたちになってしまったんですね。
中井:ソウル大学で美術学部に入学されたっていうのは、高校の時に……
李:僕は高校の時は、ものすごくませたきかん坊だったんですね。問題児。僕の友人と、始めは文芸部と新聞部だったわけです。高校の時から一気に文学の方がおもしろくなって、片っ端から本を読む。周りにそういう友人たちもいっぱいいたということもあるんです。文芸部と新聞部は一緒だったので、雑誌や新聞を出したりした。文芸部にいるという人間はだいたいませているわけです。それで僕の友人と相談して、図書部というものを作ることになった。どうして図書部が必要かというと、先生たちを教育するためです、学生たちによってね(笑)。僕の友人にうんとませている奴がいた。ある朝壇上に上がって、その友人が、これから図書館を作るので、皆さん協力してほしいと演説した。なぜ図書館がいるかというと、先生たちがあまりにも勉強をしてないので、僕たちがいいものを教わるためには、先生たちをまず教育させなきゃ駄目だとね。そのために、学生たちのみならず、先生たちも本をたくさん寄贈してほしいと言った。先生たちもみんな笑ったりしながらも、協力して図書部が出来たんですね。図書部は出来たけれども、先生たちからいつも僕は呼ばれて、「おまえは学校で教えるような本は全然読まないで、関係ない本ばかり読んで、どうするんだ」と叱られていた。「僕は大学行きませんから」と言ったら「そう言わないで、学校で教えるものぐらい勉強して大学に行けよ」。「いや、僕は大学に行きません」。友人たちと一緒に図書部を作っているから、その友人と僕と何人かは、入ってくる本は片っ端から読むわけです、朝から晩まで。若いから気違いみたいに読むから、ものすごい読書量です。社会科学系統とか文学系統のものは、嘘ではなくて僕は、読んでないものはなかったです。韓国の文学全集も、その時に翻訳された世界文学全集とか、社会思想史、戦前に翻訳されたマルクスだとかレーニンとか、そういうような本も結構あったんですね。それは、後でみんな禁止された書物になるんだけども。図書部を作るとそういうものまで入ってくるわけです。わけが分らなくても、早くからそういうものをかなり読んだ。
ものすごく読書量はあったけれども、学校の試験もろくに受けなかったり、いつも逃げ回ったりしていたから、学校の成績があんまり良くない。担任の先生がとにかく大学に行かない子があってはいけないということで、一所懸命大学に行かせようとする。何人か、ませた子はまだ行きたくないと言う。これを何とか大学に行かせようと頑張る。付属高校なものだから、基本的にはみんなソウル大学に入れたいという思いが先生たちにあった。ただ点数が少ない人は願書を書いてくれないんですよ、校長先生が。校長先生の前に行って、校長先生の面接の元に願書を書くわけです。で、「君は点数が足りないから、文学部はとてもこの成績では駄目だ」とね。「ああそうですか、僕は行きませんから」。担任の先生が「何とかこの子は」とね。ある時、「いいことがある」と言うんです。「お前、美術部じゃないけども、絵が上手いし、先輩たちに美術大学に行って文学をやっている連中が結構いるから、美大ならこの点数でも書いてくれると思う」と言うんですね。「ああそうか」と思った。「大学、僕は行きたくないのになあ」と思ったんだけども、周りもそうだし、周りの友人たちも大学に行こうよってみんな言うし、もう田舎の家からも大学行かないと困ると言う。じゃあ美大を受けてみようかということになったんです。全然美術に関心が、これっぽっちもなかった。子供の時、僕に絵や書を教えた先生も「お前は器用で、絵が上手なんだけど、大きくなって、決してまかり間違っても絵描きになるって考えない方がいい。絵描きは大の男がなるものではない。女子供が描くもので、絵描きは、それは非常に志の低いものだ」と聴かされていた。ずっとそう思っていたから、それがすっかり頭に入っていた。
僕は実際、絵は上手かった。全然美術部に入らなくても。美術部の学生を見ても、ちょっと馬鹿にしたりしていた。まさか自分がその馬鹿にするようなものになるなんて、それはとんでもない話でした。それで願書は書いてもらったものの、その日から石膏デッサンを教わらなくてはいけないんですね。その時に学校に二人の有名な先生がいた。一人は張斗健という、具象をやる先生でした。もう一人は東洋画――韓国画というのは後のことで、その当時は東洋画と呼んでいたんだけど――を教えている先生で、徐世鈺という先生がいた。この両方の先生と僕は親しかったんですね。どうして美術部でもないのに親しかったかというと、一つは、新聞を出して、雑誌も出していて、雑誌や新聞にカットがいるから、先生たちにカットを頼んだり、表紙を頼んだりすることがあったからです。それから張という人も、徐世鈺という人も、絵描きなのに、文学とか、いろいろなおもしろい話をよくしてくれる。そういう人で、なぜか、僕ともう一人――その子は美術部の中国人の学生だったんだけども――その中国人の学生と僕に、自分のうちに遊びに来いと言ってくれた。美術部ではないのに、絵を描かせるとそれが上手いものだから、それがおもしろかったと思う。それで墨をすらせたり、線を引いてみろとか、絵を描いてみろとか。やるとね、わりと上手いものだから。その中国人もやはり子供の時から絵を習っていたんですね。それで絵が上手かったんです。それで何回か墨をすりに行って、ある時こっぴどく怒られて行かなくなった。どういうことかというと、その徐世鈺という先生が、ものすごく大きい紙に絵を描いていた。行ったら墨をたくさんすれと言われて、すってもすってもすぐ描いてしまうので間に合わない。やりたくないのを、わーとやっているうちに、墨がばーっと飛んで、その絵を駄目にしたんです。その絵は国展といって、日本でいえば日展みたいなところへ出すための作品だったんです。それを駄目にしてしまったんだよね。それでものすごく怒られた。だからその先生は、その年は結局出品出来なかった。怒られてから行かなくなったんだけれども。
その先生たちが今度、石膏デッサンを教えるので、やってみなさいと言うんです。まずとにかく自分でやってみろという。初めて、木炭を持って――木炭の握り方もよく分らないんだけども――ビーナス像とかいろいろなものを見てね。これから教えるけど、自分気に入ったものを描いてみなさいとね。ビーナスが一番綺麗なわけですね。それを見て、輪郭をサーと描いた。そうしたら、みんな、美術部部員も先生たちもゲラゲラ、ゲラ笑うわけですよ。そんな石膏デッサンないわけですよ。そんなもの石膏デッサンじゃないって。僕が子供の時から学んだ、墨の筆でもって輪郭を描く。ものを見ても輪郭を描くことしか頭にないから、それでそのようにやったんですね。そうしたらゲラゲラ笑う。そんなものでは駄目だとね。これから石膏デッサンやろうって。その日から、授業が終わったら、美術部に行って二人の先生が教えてくれるんです。みんな、2、3年間石膏デッサンを習っているわけですよ。僕は即席で、あと二十日間くらいしかない。やっても出来っこないんです。いくらやっても。駄目だ、お前そうじゃない、こうだよって、いくら教えても出来ないんですよ。二人の先生に、お前駄目だ、もう自分の勝手にせいって言われて、二人の先生が諦めちゃったんですね。じゃあ、僕どうしたらいいですか、試験受けない方がいい?、いや受けないわけにはいかないから、その二人の先生が相談して、自分の好きなように描けって。好きなようにって言っても、僕は輪郭線しか描けないわけです。今でいうとまるでマティスなわけですよ。
中井:線が描けたんですよね、先生。
李:入試で石膏デッサンの時間は1時間半あるんです。でも、僕は4、5分で出来ちゃったわけですよ(笑)。みんなが、バーッと来て、こいつどうしたんだろうって。そこに、見て回る大学の先生が何人かいて来て、「どうしたんだ、お前は」とか言ってね。「いや、もう僕はこれでいいです」。「ふーん、変わったやつだなあ」みたいにね。そうするとみんなが僕のを見に来てね、こりゃ何だろうと思うわけです。その当時は面接があった。学長以下、7、8人くらいが並んで、石膏デッサンを見ている。で、学長が「何だこれは!」と言うわけですよ(笑)。僕は黙ってしまった。「これは何だ!」と聞いているんだってね。「僕のデッサンです」。「どこがデッサンなんだ!」って。で、僕はその当時ませているというか生意気だったので、その時もちょっとどもって――今でもどもる時があるんですけれども――もう勝手なことをしゃべり出した。「先生たちは、西洋人の絵描きの猿真似をしようということを言っているんですけれど、僕はそういうデッサンを認めない」。「僕たちの先輩の画家たちとか、中国の画家たちはそういうデッサンはしなくてもいい絵を描きました。」「例えば」と言って、「八大山人は、こういう絵を描いた」とか、「韓国の金弘道とか鄭ゼン(ゼンは善にのぶん)という画家たちは、木炭で描かなくても立派な絵を描いた」とかね。「それはまさしく僕のようなデッサンをしたんじゃないですか」ってね。「生意気なことを言うな!」と。「僕の言ってることは間違いですか」というと、彼らは言えないわけですよ。「今そんなことを聞いているんじゃない。ここでは、ちゃんと石膏デッサンを高校で教わったはずなのに、それをやれと言っているのに、こんなことで済まされると思うのか」って。「先生たちは、全く間違ってる」とか何とか、めちゃくちゃなことになった(笑)。「もう生意気を言うな。出て行け!」ということで、ワーワーやってるうちに結局追い出されて、ああ、もう駄目だと思ったんですね。
僕の高校は、いくら僕が勉強しなかったといっても、やっぱりすごく出来る先生たちや出来る学生たちが集まっていて、学科試験が良かったんですね、多分。その上に、やはり変わったデッサンをやるというか、「これはひょっとしたら、わざとやったのかもしれない」と。ほんとはわざとじゃなく、それしかできなかったんだけども(笑)。だから、なぜ僕が入ったかは、いまだに分からないけども、入ったんですよ。入っても石膏デッサンの時間があったんですね。一人の先生が、「お前、石膏デッサンは本当は出来ないのか」と。僕は「出来ない」と。「じゃあ、これからやってみよう」と言ってね、一所懸命、その先生は文学晋という有名な画家だったんだけども、いろいろ教えてくれたりした。わりと早く上達はしたんだけれども、「しかしお前は、似ないね。輪郭で描くとパッと似るのに、どうしてこう似ないんだろうね」って。いっぱいやっても似ないんですよ。いろいろやっているうちに、僕は石膏デッサンがおもしろくないって、そのうちやらなくなった。もう石膏デッサン室に入らないで、ほとんど文学部に行って、他のおもしろい講義を聴きに行ったりした。もう美大というのはくそおもしろくない。みんな真面目になって絵を描いているんだよね。みんな馬鹿だ、お前ら本当にちゃんと本を読んでいるかと(思った)。ほんとクズばかりに見えるわけですね。お前らそんなことをやって、何も世の中変わるわけではないし、何にもならない。そんなものやめてしまえとか、いつも、そんなことばかり言っていた。
そうこうするうちに、2ヶ月半か3ヶ月近くなった時、ちょうど夏休みがもうすぐという時、お父さんがソウルに上がって来た。「お前、日本の叔父がどうも具合があまり良くないらしいので、夏休みに漢方薬でも持って行ってあげないか」と言うので、「ああ喜んで」ってね。それで夏休みになった途端に、僕は釜山に行って密航船に乗って日本に来るようになった。これを機会にもう学校はおさらばしたい気持ちだったようですね。始めから、美大に行くとか、絵描きになるということはこれっぽちもないから。しかも高校の時に僕は詩や小説を書いてましてね。新聞に応募して文学やることが夢だった。向こうは、雑誌よりも新聞が毎年正月に発表するんです。詩とか小説とか戯曲とかいろいろ――僕は高校2年の時に童詩で佳作に入ったり、小説が次席つまり候補作になったことがあるんですね。それに高校の時は小説家を呼んで来て、講演させたり、学校の新聞や雑誌に書いてもらったり、あちこち行っていたから、そういう小説家たち、詩人たちとの付き合いも結構あった。文学との繋がりというか。本はかなり読んでるし。学校の先生を困らすのは国語の時間だとか、社会科学系の時間。先生たちの粗を探して困らせる。またあいつ何か言うかも知れないって。そういう状態だったから、頭がかなりイカレちゃっていた。大学で真面目腐って絵を描いているのを見て、ほんとうに馬鹿に見えたんですね。こんなところにいるものではない。いいチャンスで、喜んで日本に来ることになった。もちろん密航船に乗るということは結構大変だったけど。
中井:密航船というのは、わりと普通に使われていたんですか。
李:その当時はけっこう密航船があった。どういうことかと言うと、戦争がちょうど終わって、韓国は弾皮(タンピ)――鉄砲玉とか銃の弾の皮を弾皮と言うんです――がいっぱいあるんですね、山ほど。日本は復興期だからそれが必要なんですよ。日本はそういうものを沢山輸入する。だから密航船はそういうものを積んで日本へ売るわけです。日本へ売って、そこに密航する人たちからもお金を貰っていた。だから二重の商売になるわけですね、密航船は多かった。日本は、かなり大目に見てくれる分もあったんです。その時、学生たちが相当多かったんですけども、学生たちは、僕のような1年生はほとんどいなくて、大体3年生とか4年生と留年生。それはどうしてかというと、軍隊に行きたくないということです。1年、2年生はまだ軍隊にまだ行く年ではないので。僕は軍隊に行かないために行ったわけではないんです。
夏休みだからちょっと行って帰ってくるっていうつもりで乗って来たんだけども、日本に来てみたらすぐ帰ることが出来なかったの。叔父はアカだったので、「お前は、李承晩の、あんな独裁の下で勉強してもろくなことがない。日本で勉強していきなさい」って、帰してくれないんですよ(笑)。僕は日本語も何にも出来ない。小学校で1年半くらい習ったはずなのに、一つも思い出すことがない。ただ意味は分からなくとも歌はいくつか覚えていた。日本語を覚えてから、これはこういう意味だったのかと分かるような歌はいくつか覚えていたけども、日本語は全然出来なかったんです。それで日本語を叔母さんからも教わったりして、そうこうしているうちに、僕は日本に来たのは8月頃だったんで、それで次の年の3月だったか……
中井:拓殖大学に?
李:拓殖大学に行った。その当時、韓国人、中国人、あるいは外国人、日本語を習う人たちはみんな拓殖大学に行ったものです。拓殖大学に行くと、密航で来た者でも、大学では卒業するまでは追い出さないということがあったんですね。
中井:それはパスポートがなくても大丈夫だったんですね。
李:大丈夫。ようするに、そういう学校だったんです。学校を出たら帰るということが条件ですけれども。拓殖大学というのは戦前、植民地経営をするために、現地人を呼んで日本語を教えたり、それから植民地政策を教えるための学生を養成する、そういう学校だったんですね。
中井:名前そのままですね。
李:そうです、そのまま。だから、戦後も日本語を教える役割をやっていた。たくさんの外国から来た学生たちを教えるという役割です。2年生や3年生に上がる時にみんな編入で他の学校に行くんですよ。編入試験を受けて。僕はソウル大学に行っていたから本当はソウル大学から、在学証明書とか何かくれば、日本の国立大学に編入出来たんだけども、それが出来なかったです。しかも、お金を使ったり、向こうの知り合いを通してやればよかったけども、僕はそういう方面に疎かったし、お金ないから在学証明書が貰えなかったんですね。在学証明書を貰って、東大とかいい学校に編入した人がいっぱいいますけど、僕はそういうこと出来なかった。しかも僕の叔父はそういうのが大嫌いな人で、真面目に始めから、ちゃんと試験受けなきゃ駄目だとかって言うんです。とは言っても日本語を1年勉強して、まともな日本語が出来るわけないんです。
それで編入試験を受けるという時に、僕は日本のどの大学がいいかどうかもよくは分からない。僕の先輩にあたる人がちょうど日大にいて、哲学科が新しく出来て、いい先生たちがいっぱいそこにいるから、日大の哲学科はどうだろうかって。願書も持って来たりして、それで編入試験を受けた。編入試験はそんなに難しくもなかった。哲学科に入ったのは、別に哲学を勉強するつもりは全然なくて、やはり文学をしたいと。文学をするためには、日本の国文学とか英文学とかそういうところに行くよりも――僕は高校の時からいろんな思想史をたくさん読んでいたわけで――しっかりともっと理論武装しなきゃいけないということがあって、美学を学んでおけば文学をやる上では、すごくいいことがあると考えた。そういうことは韓国で勘案されたこともあると思います。美学を身に付け、社会思想に触れておけばいいという単純な気持ちで哲学科に入ったということです。とにかく美術をやるということは、頭にこれっぽちもなかったわけです。
中井:1年間日本語を勉強をされて、それから大学に入って哲学をやられるっていうのはすごい大変だなと。
李:それは超大変でした。やはり日本語をいくら早く勉強するといっても、よく分からないし、本の写しをどれだけやったか分かりません。例えば、谷崎潤一郎とか三島由紀夫の文章読本がそれぞれあるんですね。そういう文章読本を丸写ししたり、あるいは小説を丸写ししたり、ずいぶん本を写ししました。
中井:他の語学を身につけるために、そういうことをされている方は多いですね。
李:結局は文学を諦めざるを得なかったのは、分かれば分かるほどに、日本語はなんて難しいんだと思いました。とてもじゃないけど、これで文学が出来るようなものではない、歯が立たない、そういう感じでした。本を写してみたり、小説まがいのものを書いてみたり、詩まがいのものを書いてみたり、いろいろやってもやっても、とても駄目で、これはやはり文学は放棄しなきゃならんかなと、学校行きながらそう思った。やはり学者になるしかないかなともある時思ったんです。大学院試験が3月の半ばか何かにあって、試験を受けておいて、韓国に、友人と韓国に遊びに行ったんですね。その時は4.19のちょうど4月革命という革命が起こった後だった。李承晩反対、独裁反対ということで革命が起こって、民主党という党が政権を握ったんです。僕の親父は、民主党という党に属していましたし、新聞記者で、その時は中央を止めて地方に行ったり来たりしていたんだけども、政治をやっている人たちの知り合いがたくさんいた。李承晩が滅びまして、僕の親父の友人たちはみんな、政権を握って羽振りがよかったので、ソウルに、今度は密航船でなくて福岡から連絡船で正々堂々と行って、向こうで遊んでいたら、軍事クーデターが起こったんですよ。5・16という軍事クーデターが起こって、それから足止めされた。3ヶ月ぐらい足止めをくって、日本に戻って来た時には、もう大学院の手続きも何も出来なくなっていた。大学院もパーだし、どうしたらいいのかなと。
いろいろなアルバイトをしましたけれども、やはり手っ取り早いのは、花を描いたり風景を描いて、大学の友だちだとか、韓国人の知り合いのお父さんたち、兄さんたちのところへ持って行くとお金をくれる。そのアルバイトが一番手っ取り早かったんだね。もちろん僕は、大学生の時も結構絵は描いていたんです。絵は馬鹿だチョンだ嫌いだと言いながらも、そこがやはり僕も自分ながらよく分らないんだけども、大学で大学祭なんかがあると、哲学科の学生たちも部屋をもらって展示をするんですね。哲学者たちの言葉を引いたり、写真を貼り付けたり、おもしろい思想の流れだとかいろいろことを見せる。そういう時に自分の絵を並べたりしたこともあるんです。その時に、社会思想史を教えていた深田(ふかだ)という先生がいて、その弟がアメリカで勉強していて、僕は2度ほど会ったんです。その深田という先生が遊びに来いというので、家に遊びに行ったら、弟がちょうど来ていて、アメリカのいろいろな――そいつは絵描きじゃなくて、英文学だか何か他のことをやっている人だったんですけども、美術に関心があって――いろいろなアメリカの美術の資料を見せてくれた。それがすごくおもしろくてびっくりして、今でいえば、ポロックだとか、マーク・トビーだとか、そういったさまざまな雑誌の資料とかいろいろものを見せてもらった。ああおもしろいな、こういうものなら俺にでも出来そうだなとか、そういうことを思ったんですね。僕は子供の時から絵は学んでいたから、点や線をつけるようなことを、面白半分なことを描いて、大学祭の時、壁に並べたりしたこともあるんです。その絵は、つい最近まで1、2枚あったけど、何回か引っ越しているうちに、もう見えないので捨てられてしまったか、隠れているのか分かりません。後に『美術手帖』や何かに何度か載ったこともある、ちょんちょん筆遊びをしたような、58年、9年の絵があるんです。写真を撮ったのはずっと後で、韓国の広報院というギャラリーがあって、そこでいろんな展覧会をさせられる時に、写真を撮ってもらったりして、その写真が後々まで残ったんですが、その絵がいまだに見当たらないんです。ですから、僕は、アルバイトではなく、自分で面白そうにトビーだとかポロックに似せたような絵を描いたのはそれが初めてだった。1958年、9年ですね。それは大学祭に並べられもした絵だったんです。それは、絵というか、その時に自分ながら、視覚的な、心理学的な何か記すためにというか、絵としてという意識はむしろ少なかったかもしれない。今はだいぶ変わってしまったので、その当時の心境を語ることは難しいんですけども。先ほども言ったように、学生の時に、僕はさまざまなアルバイトをしました。普通ある家庭教師や砂利掘りから、靴磨きもしようと思って、靴磨きをちょっと習ってみたこともあるけども、それはしませんでした。その中で絵を描いて売るということが一番手っ取り早い。アルバイトは、いわゆる普通の風景だとか、花とか綺麗に描くということでした。そういうことから、ある人に誘われて日本画府という小さな日本画団体に出入りすることになるんですね。細かいところは忘れたんですけども。日本画府というところに入って、何度も出品したりしたこともあるんです。そういう絵で個展めいた展示をしたこともあるんです。どうして展示するかというと、お金も欲しいけどそれだけじゃない。実は、僕は学生の時から、学校を出てからもしばらく、南北の統一運動という非常に先鋭のグループに関わっていまして、それは統一朝鮮新聞っていう新聞なんです。統一朝鮮新聞というところに原稿も書いたり、僕は本名を使わないで、別の名前で非常に過激な文章も書いたり、ある時は南北の文学史も書いたりした。誰もその当時書いたことのない、北も南も書いたことがない、南北一緒の文学史も書いたりした。僕はものすごく詳しかったわけです。
統一運動するグループに所属していたがために、そこで資金を作る必要があるんですね。僕の展覧会をして、絵を売ってお金を集める。だから僕が集めるんじゃなくて、他の人がやるわけです。だからどんな絵でもいいわけです。とにかく絵を与えてたくさんのお金を引き出せばいい。そういうことに使われるために展覧会も開く。自分が絵描きとして展覧会を開くというものではなかったということです。だから、絶えず何かしら絵と関わりがあったということは、ほとんど否定出来ないことだけども、自分が本格的あるいは専門的に絵描きとしてやっているんだという意識は、少しもなかったです。
日本画府という所に入っても、具象的なものも描いたかと思うと、ものすごい抽象的なものも描いた。その時その時、絵はみんな違います。それでその時の一枚が、どこで出て来たか分かんないんですが、日本であちこちで出回ったかと思うと、それがソウルの現代美術館に架かっているんですね。真っ黒な絵です。それは64年か、3年頃の絵ですね。だから抽象的なものも描いたと思うと具象的なものも描いてみたりしましたね。
中井:一応日本画の団体ということですか。
李:日本画の団体ですね。後にその団体は洋画も一緒に入れたみたいです。ある時から僕は自然にそこに出なくなったんです。そういうところに行ってみて良かったのは、膠をどういうふうに使い、淋派のいろいろな絵を教えてもらったり、平筆の使い方とか、空間の捉え方、金箔の貼り方を教わったんですね。金箔は韓国でも昔あったんだけども、僕はそれを勉強したこともない。白い空間の生かし方は、やはり日本の淋派を見るまでは分からなかったんだよね。だけども、淋派はおもしろいなと思いながらも、それでも依然として僕は絵描きになるんだという自覚はなかった。一方では学生たちをそそのかして、烽火という演劇グループを作って演劇をやった。軍事政権反対とか統一運動とかの、かなり過激な演劇ですけども、小説も書いたり、シナリオを書いたりした。統一運動の中では秘密結社を組織したり、わりと積極的なものをやったこともあります。でも、それがどうしても肌に合わないということでやはり、そのような政治運動から、自分の身を立てるとか、自分が政治家になるというつもりがないから、自然とそこから距離をおくことになるんです。別な面から言うと政治が肌に合わないこと以上に、当時の政治イデオロギーよりも現実が先に進んでいくことに気づきはじめたこともあります。統一もされないし、軍事政権下では社会はだめなはずなのに、それがどんどんよくなり発展して否定的な要素よりも肯定的な側面が広がって行き、そこから戸惑いが生じたことが大きい。
中井:それで次に朝鮮奨学会?
李:すでにその時は朝鮮奨学会に入っていました。63年頃、朝鮮奨学会に入っているんです。朝鮮奨学会と統一運動グループとは相容れない間だった。
中井:そうですか。
李:朝鮮奨学会というのは戦前からある民族団体なんですが、これはもともと、戦前に朝鮮からやって来る留学生たちを助けるためにあった奨学会だったんです。それが戦後になって北と南に別れて、血みどろな戦争、内部闘争がありまして、人が死んだりもしたらしいんです。一つの財産ですから、日本の文部省も関係して、北と南と日本と3つが入って、やっていたんです。それで僕はある時、民団の――韓国側ですね――団長から話があった。団長の金正柱さんという学者肌の人がいまして、その人の本の整理をしたりしたこともあったから、その人が「お前、朝鮮奨学会にたくさん本があるので、そこに行ってアルバイトをしないか」って言うんですね。そこにはいろいろな美術品もある。美術品の整理や、本の整理をするアルバイトとして、始め入ったんです。バイトとして。ところが僕は一方では、統一運動している朝鮮統一新聞に近い人。その新聞社の一員ではなかったけども、そのグループの中にいた。そのグループを北朝鮮が目の敵にしたんだね。統一朝鮮新聞というのは、南は、南の独自な革命勢力を育てなくてはいけないという考え。北朝鮮は、金日成の思想のもとに全部やらなきゃならないので、南に独自な勢力があったら困る。だからそれは大変なことで、朝総連は、ずっと統一朝鮮新聞は潰さなきゃならないと言っていた。両方アカなんだけども、経緯が違うということです。北朝鮮系に属したたくさんの学生――韓国から来ても在日二世でも――学生たちがいたんですけども、この人たちは非常に上手で、静かに深く浸透せよといってね。彼らは後に、韓国にみんな留学するんですよ。静かに、向こうで細胞を作って、北朝鮮の金日成に従ってずっとオルグを作ったりするんですけども、彼らはほとんど捕まらない。最後に、日本で有名な徐勝という、今、立命館大学の教授かなんかやってる。彼は運悪く捕まったんですね、最後の最後に。大半の人たちは僕の知っている限り、誰も捕まってない。みんな逃げたんです、ある時期。ところがね、この統一朝鮮新聞の人たちはことごとく捕まって、ことごとくえらい目に遭うんです。釜山でその新聞の支社である『民族日報』を作った趙鏞寿という人は死刑になりました。
そうこうしながら、実際僕も韓国に行った、ある時に。軍事政権の末期になるんですけども、1967年頃かな、正確なものは、横浜の僕の(展覧会カタログの)その中に出てますので、それを見た方がいいです。向こうで捕まって一週間酷い拷問で、本当に僕は生きて出られないと思いました。
中井:それはもう拷問……
李:うん。拷問も拷問。今でも体に跡が残っているんです。「お前、体が悪いから、元気にしてやる」って言って、タバコの火で、これはお灸だからと言ってギュウとこうやるんですよ。毎日なぐられたりけられたり、もうとてもじゃないけど、僕は、生きて出られないとも思った。ある時、こいつをとっちめても何も出てきやしないと思ったのか、表に放り投げられた感じで出られたわけです。いずれにしてもね、僕は、あまり自分が政治家や政治には向いてないと思ったから、だんだんと政治的なことに積極的に関わることはしなくなったんですね。朝鮮奨学会にいたことも、多少は問題になったけども。僕の周りも何人も捕まりましたが、軍事政権が崩れると同時にそんなことはなくなりました。
中井:この時代、お住まいっていうのは、やはり叔父さんのところに、それとも。
李:叔父さんのところからは早く出ました。叔父さんは61年の軍事クーデターが起こった年に、亡くなっています。
中井:そうですか。
李:僕は帰って来てからは――もう帰ってくる前から既に叔父さんところにいなかったんですけども――一人で自炊したりしていました。叔父さんのところに一緒にいたのはほんの1年半か2年ぐらいで、僕はそこから出て一人で暮らしていました。
中井:自活というかアルバイト。
李:そうです。いつまでも叔父さんの世話になるわけにはいかないという気持ちがあった。もちろんそれでも、叔父さんが亡くなってからも、叔母さんから少し援助は受けていましたけども、基本的には自分で働いていました。
中井:ご自身が何か文学か何かをやるために、日本に残られた。
李:学校出た段階で、どうして帰らなかったというと、その時考えが相当アカに染まっていた。南北の問題とか軍事政権反対とか、在日僑胞の事情とかいろいろなものと絡むような意識が出来上がっていたと思いますね。それで、帰るという考えは、ほとんど持っていなかったんです。社会的なものに関心があって、陰に陽に、日本の大学の紛争とか、安保やいろいろなものに、みんな関心があって、友人たちがそっちの方に関係していましたから。一方叔父のまわりの人たちや奨学会関係の人から北へ帰ったらどうかと勧められたこともありましたけれども、北朝鮮に帰るつもりは全然なかったです。読書会が幾つもあって、やはり北朝鮮系の学生と、南を何とかしようという学生と、韓国政府系の学生と、3つの派が出ているわけです。南の政府に近い人たちは帰るけども、その他の彼らは韓国に帰るという意識がその時なかった。北朝鮮系はある目的があって徐々に韓国に留学に行くんです。それで留学に行って、独特な活動をし出すわけですけど、それはまた別なんです。
中井:そうすると、朝鮮奨学会の中にギャラリーが出来てという。
李:ビルを衣替えして、テナントやいろいろなものがだいぶ変わるんですけども、それが64年頃だったと思うんですね。ギャラリー新宿っていうのが……
中井:66年。
李:66年頃でしたか。そこに申鴻湜さんという理事長がいまして、これは北朝鮮系なんだけども、すごく学識が高くて、あまり政治的でない。ほんとうに文化人だし、素晴らしい人がいたんですね。当時理事に谷川徹三さんもいましたから、僕はその人たちがいなかったら、もうすぐ止めたと思います。申さんは北朝鮮系なのにすごく僕を可愛がってくれて、いつもカバーしてくれたり、フォローしてくれた。僕が非常に南北の文学にも関心があったり、美術品に関心があったりして、それがとても奇特に思ったのか、可愛がってくれたんで、非常にやり易かったってこともある。僕は子供の時から自分の家は、普通でいう骨董品、ようするに古い美術品がかなりあったんです。子供の時に僕が使っていた机が今自分の部屋にあるんです。白磁だとか、家具だとか、装飾画だとかいろいろ。それはすごく馴染み深い。勉強したものではなくて、自分の家の周りにあった。だから、朝鮮奨学会にそういうものがあってそれを整理するということは、僕にとっては、自分の幼い頃のものに出会うような感じだったから、非常に懐かしいし、やりやすかったこともあった。始めはアルバイトのつもりだったのが結構長くいることになったんです。ずっと出勤しているわけではないし。自分の時間がとれたら文章も書いたり、朝鮮奨学会の知らないところで、さっき言った演劇のシナリオを書くとか、絵を描くとか、さまざまなことをやっていました。
そうすると申さんという理事長が、ある時、「ギャラリーを作りたい。何かいい考えはないだろうか」と。「先生、北朝鮮の総連系にも文化芸術同盟というのがあるし、民団にもいわゆる美術協会みたいなものがあって、そういう人たちに相談してみればどうですか」ということを言ったら、「いや、そういうようなものではなくて、日本の社会の中で、最も新しい美術の交流の場にしたい」ってね。「総連とか民団のものじゃなくて、もっと大きい視野で交流出来るような、今現在の新しい場にしたい」ってね。それで僕の頭にあったのが、郭仁植さんだったんですね。郭仁植さんはその前から僕はよく知っていて、民団の、在日韓国芸術家同盟だか協会だかの理事長だった。その人が一番、民団、総連合せても、やはり新しいものに関心があるから、その人に相談した方がどうでしょうかってね。ところが実際、郭さん自身は人脈もほとんどなかったし、あまり知られている人じゃなかったんです。郭さんが三彩社で出している『郭仁植』という画集があるんですが――それが初めて出した画集ですけども――三彩社で出した画集に、植村鷹千代が文章を書いている。それを読めば分かるんだけども、当時としては、決して華やかでもないし、結構地味だった。あまり知られた画家とは言えませんでしたけれども他に人がいなかったことと、申さんとすでに知り合いだったこともある。僕は、まだ現代美術関係をほとんど知らない時期でしたが、郭仁植さんは奨学会に、よくお茶を飲もうってお昼になると来たものです。それで郭仁植さんが初めて、深尾庄介という新制作にいる画家を連れて来たり、その人がヨシダヨシエさんといった人たちを連れて来て、お茶を飲んだり――その下に喫茶店があったんですね、エチュードっていう喫茶店があって――そこでやっているうちにギャラリーのアウトラインが決まったんです。細かい部分は分かりません。とにかくいろいろな人が出入りするようになって、まず郭仁植さんという人が核となって話が進んだということは確かです。しかも郭さんは、僕が推薦したんですね。それで画廊を作るんですけど、それが65年だか、6年だか細かいところは僕はほとんど覚えていません。
中井:66年に出来たとうかがっています。
李:そうですか。細かいところは、僕は記憶ない。間違いがあっては困るんですけど、大体その辺です。郭仁植さんがかなりきっかけを作って、その画廊が出来た。画廊が出来てみると、やはり郭さんではやっていけない。それでそこにヨシダヨシエさんだとか、石子順造――石子順造さんを連れて来たのは、誰なのかは僕は今は忘れましたけども――それからまもなく中原(佑介)さん、東野(芳明)さん、いろんな人が出入りするようになったんです。これは郭さんとほとんど関係ないです。郭さんは日本の美術界のごく一部を除いては知らないし、そんな活動をしてはいなかったです。郭さんは、独立美術に出品したり、美術文化に出品したり、それから後に止めてエコール・ド・トーキョーの結成の時に参加したりしているけども、エコール・ド・トーキョーを立ち上げた工藤さんや誰だったかに聞いても郭さんを覚えてないんですよ、みんな。後に僕の知り合う人たちは、ネオダダだとかいろいろな人たちの方で、エコール・ド・トーキョーの中にもいろんなグループがあったんじゃないだろうかと思う。
いずれにしても、ギャラリー新宿が出来て、僕が上の奨学会にいるものだから、やはり僕は若いし、しょっちゅう下に行ったり来たりして、それを見ていたんですね。それは僕にとっては、ものすごい刺激だったんです。65年頃、僕もそれを横目で見たり、そのためにいろんな展覧会を見に行ったりした。そこで働いていた窪田といったかな――今はもう名前も忘れたなぁ――その働いていた人に連れられて、いろいろなグループ展を見に行ったりした。僕の担当ではないんだけれども、やはり気になって、申さんという理事長も「今どういうものが流行っているのか」って、その資料を集めたりだとか、いろんなことをやっているうちにだんだんと僕もそれに関心があるようになった。その時に、全日本現代芸術家協議会というのがあったんですよ。そこで僕はうっすら名前を覚えているのが、後にアメリカに行っちゃった、京都か大阪の人の、ヨシダミノルだったかな。それから誰だったか、何人かいたんですけど、みんなあまり成功しなかったんです。
加治屋:川端実?
李:川端実じゃないです。それよりもう少し若い人で、たしかヨシダミノル。そういう人のグループに僕はちょっと出入りもしてみた。ギャラリー新宿のお陰でいろいろな人と知り合いになるということですね。だから石子順造さんを赤瀬川原平さんが紹介したと、僕はそういうことを言ったことがあるかもしれないけど、それはちょっと誤りで、その前に石子さんはもう会っているんです。ギャラリー新宿で。確か石子順造さんの家で赤瀬川源平さんを紹介されたことが多分本当だと思うんです。
中井:ギャラリーに出入りする人たちと多く知り合ったということなんですね。
李:そうです。多く知り合ったということです。現代美術というのは様々あるし、いろいろ難しい、複雑なんだ、奇妙なんだってことも分かる。そこで幻触の展覧会が、石子さんによって作られるんですね。それが多分、66年か7年頃じゃないかな。だから、ギャラリー新宿はそれよりもう少し前です、オープンするのが。
中井:「幻触」展が66年7月ですから、もしかしたら画廊が65年くらいかもしらない。
李:65年くらいかもしれないです。恐らくそうだと思います。
中井:ギャラリー新宿の中では幻触の展覧会がとても記憶に残っているんでしょうか。
李:とっても。それは超不思議な展覧会でした。僕にとっては。もちろんその前に僕は読売アンデパンダンとか、日本アンデパンダンとか見ていますけども、それは何が何だか分からなかった。てんでよく分からないということで、あまり興味もなかったんです。幻触というのは、奇妙なトリックの感じがすごく不思議で、それが僕にはその当時は分からないながら、ものすごくインパクトがあったんじゃないかなと思います。それが後で、「Tricks & Vision」展に結びついていくわけですけれども。それで石子さんと知り合ったり、石子さんの家に遊びに来いということで、自然と遊びに行くようになったり、そこでつげ義春とか赤瀬川原平を知り合ったということが多分当たっていると思います。赤瀬川源平さんが石子さんを紹介したと、どこかで僕は言ったかもしれない。どこかにそういうふうに書いてあるんですよ。
中井:その辺りは、何というか。
李:はい、言い間違いだと思うんです。僕は朝鮮奨学会にいたがために石子さんを知り合ったということです。その下にギャラリーが出来て、最も早く知り合ったのはヨシダヨシエさんだったと思います、恐らくは。今でもヨシダヨシエさんは、あの時俺が一番あなたと親しかったはずだよと言うんです、ひょっこりどこか会うと。
中井:ヨシダヨシエさんと李先生はやはり今から考えても結びつきはつきにくい(笑)。
李:付きにくい(笑)。しかもその時、僕は芸術活動をほとんどしてないし、朝鮮奨学会にいながら、面白半分に興味津々にそういうものを覗いていただけであって、誰も僕を絵描きになると思ってもなかった。郭さんは一所懸命、僕は好奇心があることを知っていて、煽り立てて、作家(アーティスト)になったらとか、それを勧めてくれたのは郭さんであることは間違いなかった。ここから問題がややこしくなる。いろいろな人たちが、その郭さんの影響を受けて、ガラスを割るんじゃないかとか、いろんな憶測が出てくるんです。それはさておいてですね。1968年だか、近代美術館で「韓国現代絵画」展という展覧会があるんです。
中井:68年7月ですね。
李: 68年7月ですか。韓国現代絵画展。その前に僕は、67年にサトウ画廊でやはり奇妙な作品発表をやっていたのでそれを見て、郭さんが出品してみなさいということで、彼の推薦でそこに作品を出すんです。
それはどういう絵かというと、300号3枚続きの連作です。筆で塗り込めたり、噴霧器、スプレーで、蛍光塗料――ピンクだとか赤だとか、似たような色――を、1枚は完全にピンク、1枚は少し黄色がかったもの、1枚は真っ赤、3枚ほぼ似たような色で、キャンバスのへりを白のまま残して筆や噴霧器を作って描いたものです。どこかにそれは載っていると思います。
中井:ええ。僕が「もの派」展をやった時にカラーで載せさせていただきました。
李:周りを除いて中を(塗ったり吹いたん)ですね。1枚か2枚は少し刷毛の跡があるんです。刷毛の跡があっても、ハレーションでほとんど見えません。周りを残しておいたのはどういうことかというと、蛍光塗料なものだから、そのサイズに見えないでフワーと周りに、広がって延びていくような、つまり実サイズを超えて見える感じを出すためには周りを残した方が良いということです。これは一種のトリックなんですね。だからトリッキーな考え方が僕の頭で不思議でおもしろいということが既にあったんです。幻触を見たり、それから「トリックス・アンド・ヴィジョン」をすでに知っていたわけですから。周りの空間とか、人が行くとみんな染まっちゃったりした。僕の絵の周りに他の絵を掛けるとえらい損(笑)。みんなその色に染まっちゃうから。それで、韓国から来た出品者たちからものすごく怒られたりしたこともあります。
実は同じ年にジャパン・アート・フェスティバルがあるんですよ。質問事項で「日本名で云々」というのはないんです。
中井:質問事項に書いたのは、以下の通りです。「「ジャパン・アート・フェスティバル」に、日本名で出品された鉄板の上にガラス、その上に石を置いた作品を出品されたのは、1968年12月の3回展だったでしょうか。」 (注:第3回ジャパン・アート・フェスティバルが開催されたのは、1968年5月18日から26日までである。したがって、以下の発言には時期に関する誤解が含まれている。2012年12月23日更新)
李:日本画府で、ある時日本名で出したことがあるんですけど。ジャパン・アート・フェスティバルに日本名で出したことはない。そうではなく、ジャパン・アート・フェスティバルに、トリッキーな作品を出品しようとした、68年に。ガラスと鉄板と石なんです。ガラスを割るんじゃなくて、鉄板を切って、切り合わせた鉄板の上にガラスを置いて石を置いたものですから、一見ガラスが割れたように見えるんです。普通、鉄板が割れるわけないでしょう。だからこれもトリックなんです。割れるはずのない鉄板が割れている。そういう作品を、搬入に行ったんです。搬入に行って李と書いたものですから、「国籍はどちらですか」と言うから、「韓国」と言ったら、「これは日本国籍じゃないと駄目だ」と、受け付けてもらえなかったんですよ。すでに作品は陳列した後だったんですよ。それを片付けないで帰って、審査が終わってから、どうなったかなと思って僕が行ったら、手続きもしてもらえなかったのに、そんなもの入選するわけないわけです。壁際にガラスとか石とか鉄板を片付けるというか、避けてありました。僕はもう、怖くて逃げてしまって、鉄板も持ってこないし、何も持ってこない。後で多分ゴミとして捨てられたと思います。そういう経験があるんですね。
中井:その作品が68年だということが分かったのは、僕にとってはとてもよい発見です。68年12月にジャパン・アート・フェスティバルが開かれたので、制作したのはもうちょっと前だったか……
李:何月だったか、僕も細かいところは、思い出すときもありますけどもはっきりしません。
中井:「韓国現代絵画」展が夏ですので、その秋から冬にかけてですね。
李:それで秋から冬になる頃だったか、ギャラリー新宿の前が人通りなんですけども、その時に、ビルのガラスを取り替えるということで、ガラスをみんな外してあったり、いっぱいあったんでね。その当時ハプニングが流行だったんですよ。唐十郎が、ちょうど西新宿の広場でテントをやったりしている時なので。それもたしか秋だったと思います。石でガラスをボンボン割るようなハプニングをやったことがあるんですね。いろんな人が見たはずなんだけれども、みんな写真を撮る人もいたんだけども、僕自身はもちろん撮ってないし、誰がどうなったのか分からないけども。それが一番始めのガラスを割る、始めのものだったんです。
どうしてガラスを割ったのかということは、本当に難しい。今考えても。その当時、『美術手帖』とかいろんなことを知っている時期なんです、68年頃は。『手帖』とか『みづゑ』とか、朝鮮奨学会も図書室があるものだからそこにいつも並んでました。東野さんたちが、マルセル・デュシャンについて論議したりすることがある時期なんですよ。
加治屋:はい。
李:トリッキーな問題だとか、藤枝さんがちょうど登場する頃だったのかなと思います。デュシャンの大ガラスがなぜ割れたのか、割れたのをどうしてそのままにするのか、いろんな論議の時に、僕はそういうものを読んで、そういうものの刺激とも関連があると思うんですね。ガラスを割るっていうことは。これは、偶然に割るんじゃなくて、意識的に割る。意識的に割ることと偶然性とどう繋がるのかということは、非常にある意味、抵抗というか、僕にとっては、むしろ表現というよりも、一つの破壊行為みたいな、そういうハプニングとしての(行為)が、きっとおもしろかったと思うんです。細かい解釈は、ちょっと難しいです。それはその当時そっくり僕は言えませんので。とにかくガラスがいっぱい並べてあったから、いくらでもガラスがあったので、それを道行く人たちの間にドーッと大きいガラスを置いて、バーンと割っていくようなことで、気持ちよくずっとやった記憶があります。それも1日じゃなく何日もやりました。
中井:先生のお話をお聞きして、時期がいつかということが、周辺の状況からほぼはっきり特定出来たと思います。これはものすごい収穫でした。
李:僕はガラスを割る前は、ガラスを割るんじゃなくて鉄板を割って、ガラスでもってカモフラージュする。そういうトリッキーなものから始まったことは確かです。しかも始めの印象がどれほど強いかと。後で僕はトリックを批判するんですが、トリックを批判しながらも、一回りしてしばらく経ってくると、やっぱり自分の内部のその当時のことが戻って来て、再解釈していまだに僕の中にあるんですよ。出てくるんですよ。それは後の話にしても。
中井:トリックといっても、鉄とガラスと石を使われているっていうのは、それで僕はすごく頭が混乱したんですが、トリックだったんですね。
李:はい。そうです。
中井:驚きです。
李:それがジャパン・アート・フェスティバルに搬入出来なかったということが、僕にとっては非常にショックだったんです。その後にジャパン・フェスティバルとはいろんな因縁が(あった)。71年にエドワード・フライというグッゲンハイムのキュレーターが日本に来て、ジャパン・アート・フェスティバルの作品を選んだんですね。ジャパン・アート・フェスティバルのために応募した作品を選ぶだけではなくて、すでに認められた作家たちの中からおもしろい人たちを数人選ぶような会があったんです。東京画廊であったんですけども、その時に、24、5人ぐらいの人たちを呼んだんです。松澤宥さんとか、三木富雄とか、中西だとか、高松だとか、田中信太郎だとか、もう錚錚たる人たちをダーッとみんな呼んだんですね。その時に僕も呼ばれたんです。それで、エドワード・フライが質問を一人一人、作家にしたんです。自分の作品を一言で言ってみてくれってね。もちろん通訳は二人ぐらいいまして、日本語で言ってもいいし、英語で言ってもいいけど、一言でと。でも誰も、自分の作品を一言で言える人いなかったんです。「えーと僕のは何とかかんとか」と言って、「いやそういう説明でなく、一言で」って。「例えば」と言って、今でも覚えているのは「セザールはこう言うんだ」と言ってね、「セザールは、僕のやっていることは、廃品の視覚的な言語化だと言うんだ」と。「はぁ、上手いこと言うな」と思った。自分のことをそのように言う訓練は全然されていないから、誰も。それでもうみんな頭にきたとか、おもしろくないといって途中で出て行く人もいたりした。
その時に僕の作品も実は何点も選ばれた。全部彫刻というか立体だったんです。いざそれを送り出そうとした時に、日本の外務省から手紙が来て、あなたは出品出来ませんってね。国籍が違うので、これは日本の国籍を有する人たちの展覧会だと。すぐエドワード・フライに手紙を出したら、じゃあ、僕のは自分たちが運送費を出すとなったけど、それでも駄目だと再度通知を受けました。そういういきさつを針生さんが分かって、朝日ジャーナルに一ページ、今時ナンセンスだ、そういう国籍条項というのは意味がない、排他的な暴力だと書いた。それっきり、ジャパン・アート・フェスティバルのみならず、あらゆるところで国籍条項が撤廃されるようになりました。だから僕は、国籍条項のために2度ジャパン・アート・フェスティバルでは出品出来なかったという経験を持っているのです。針生さんが書いてくれたお陰で、その後僕はジャパン・アート・フェスティバルは2度か3度、今度は招待出品されています。イギリスだとかドイツだとかの時は出品依頼があって出すことになりますけど、その前は国籍条項云々ということで外務省から拒否された経験がありますね。
中井:そういう風に波紋、足跡を残されたという意味では日本側にも意味があったということですね。
李:そうですね。実は別のところでも国籍問題というのはたくさんありましたよ。僕はそういうもの語るのが好きではなかったので、あまり言わないけども。いろいろありました、それは。
中井:僕の親の世代においてはそうでしたね。
李:はい。相当ありました。
中井:前後するんですけども、先生ご自身が1967年のサトウ画廊の個展が自分の一番最初の個展だと言っているんですが。
李:実は、展覧会の名前が付くのはその前も何度かやっているんですよ。何度かやっているんだけども、さっき言ったように、ほとんど画家、作家という認識がありません。自分の作品として発表しているんだという意識が非常に弱い。ある運動のための資金集めとか、情と絡んだところでやっていたので、それは本格的な、専門的なアーティストの発表とは僕は自分で思っていない。やはり、これはアーティストとしてやらなくてはいけないなぁということで、自分のコンセプトというか、何か考えを打ち出すという形でやったのはサトウ画廊からだと考えているんです。時々、新しい試みによる発表というように書いてるものが結構あると思います。その時にサトウ画廊は、馬場彬という人がいました。その人が展覧会担当で、その人に誘われたということもあるんですね。多分その人がギャラリー新宿とかそういうところに来たりして、いろいろ話をしている時に、あなた、展覧会してみないかとか何かあったかもしれない。細かいところは忘れました。
その当時サトウ画廊は、小さいけれども、結構注目されるところだった。とにかくそこで碁盤を並べたようなものだとか、あるいは何も描かないキャンバスを8枚だか10枚びっしり詰め合わせたものだとか、つまり何にも描いてないようなものを並べたりした展覧会をやったんです。その時に中原さんが見に来て、おもしろいとか、いろいろ言ってくれたのが、僕はすごく嬉しくて。それからやはり中原さんがすごく気になったし。その後で石子さんが、「李さん、あなたは美術界でやっていくには、中原という者にだけにくっついて、あいつをやっつければ何とかなるよ」ってね。「他の人は問題じゃない、中原だけやっつけなさい」って。本当にそれをその通りにしたつもりなんですね。67年だか68年、サトウ画廊の個展の時にシロタ画廊の白田さんが見に来て、おもしろいと言って、中原さんを紹介してあげると。あの人はその当時中原さんと親しかった。中原さんを紹介してもらったんだけども、僕に関心ない。白田さんがある時、中原さんを呼んで講演会を開いたんです、どこかで。どこだったかもう忘れたんですけども。講演会の時に僕は、中原さんにへたくそな日本語でくってかかった。それから何回も。そうしたらどこであった時か、ギャラリー新宿だったか、どこであった時か、「お前、何で、何の恨みで俺にいつも文句付けるんだ、お前何なんだ」ってね(笑)。「いや、恨みはありません。石子さんっていう人が中原さんだけやっつければいいと言うから」と言ってね。「そんなこと、嘘だ。そんなでたらめ言うな」とかね(笑)。僕のために石子さんもものすごい怒られたりしたと思います。本当にそういうふうにしているうちに、終いに仲良くなったんです。ずっと後になりますけど中原さんはジュドポムの個展のとき僕のために講演をしたり、他のところですばらしい論文を書いてくれました。だから今でも一番仲がいいんです。まだ中原さんも当時のことを今でも覚えているみたいですね。
中井:そうみたいですね。
李:何かね、変なことを言う奴がいるっていう。
中井:先生、このサトウ画廊で発表された作品というのは、所謂トリッキーという作品というより……
李:トリッキーじゃない。
中井:それこそ、今に繋がるような、根源的な絵画というか……
李:その時は、そういう意識は全然なかった。何も描いてない、金箔を塗った色紙だとかキャンバスとかをダーと詰めて並べると。それはいろんな美術雑誌の影響だと思います。その時は出さなかったけれども、ちょうど一緒にやっていた頃はチューブから絵の具をグーと絞って、いっぱい絞ったままのものも結構作りました。馬場さんがこれはおもしろくないということで、何にも描いてないものを並べたと思います。馬場さんのいろいろなサジェストもあって、そのようなものを並べたと思います。それは根源的とかそこまでは何も考えていない。何かおもしろそうなものをやるということでそうなったんじゃないかなと思うんです。あんまりその当時のことを、ことほど左様に述べるというのはちょっと出来ない。それはトリッキーなものではなかった。
その後、69年の春かな、だからそれも68年に作るんですけども、国際青年展(正式には「国際青年美術家展」)というのがあるんですね。国際青年展を主催する日本文化フォーラムというのがあったんです。それで日本文化フォーラム賞という、主催者の賞を貰うんですけど、その時の大賞を貰うとパリに行かせてくれる、そういうものだった。前田常作だとか、工藤さんもそれを貰ったかな、前田斉というのがいたけど、その人は後で消えました。僕は、大賞はならないで、メビウスの環みたいなものを2枚パネルで作りまして、それ出したんです。それを作ったのはたしか68年の秋の終わり頃です。確か11月末か12月始め頃に搬入の締切りがあって、その次の年春に展覧会があったと思うんですね。既にその時にはもうトリックというものにすごく関心があった。一方でサトウ画廊のようなものがあったけども、どれも自信があるものでもないし、いろいろやってみたんだけども。ただいっぱいキャンバスや色紙を並べるということでは芸がないと思われ、平面が立体に見えるメビウスの環みたいなものを作ったんです。そうだ、今思い出した、関根伸夫さんとはもう知り合いになっていたんですね。関根さんが長岡現代美術館賞というのを貰うんですよ。《位相》というスポンジの上に鉄板で押すような作品です。それがたしか68年じゃなかったかな。その審査会に僕は行っているんですよ。展覧会があって、展覧会は西武だから東京なんだけども、審査会というかシンポジウムみたいなものはたしか長岡でやったんです。そのとき審査委員が日本で東野さんとか、中原さんと、オランダの人で(ヤン)・レーリング(Jean Leering)とか何とかいう人がいて、公開審査評みたいなもので、絵で宇佐美さんも出していたと思う。それでレーリングという人は、宇佐美さんを押したのかな。中原さんが強く関根さんを押して、東野さんはどっち付かずだったんだけども、中原さんの力が強かったのか、関根さんが大賞をもらったんですね。大賞をもらった時に石子さんと一緒に聞きに行っているんです。その前から知っているんですよ。その前から関根さんを知っているから聞きに行った。すぐ親しくなって、須磨の話も電話でしたりして、見に行ったりすることにもなるわけです。知り合ってからすぐ親しくなるんです。関根さんと多少認識のズレがあるんだけども、僕の記憶では、どこで知り合ったかというと、シロタ画廊だと思います。その当時シロタ画廊は銀座2丁目の2階だったんですね。
中井:そうですか。
李:そこで誰かが紹介してくれたんだと思うんです。関根さんに言わせると、どこといったかな、そっちの方が僕は記憶ないんですね。どこか、とにかく怪しいんだけども、何しろ会ってすぐ親しくなって、毎日のように会うようになるんですよ。毎日のように。お金がなくて、その時には僕は世田谷に住んでる頃だったんで……
李美那(以下、美那):世田谷じゃないよ。
李:ん?
美那:世田谷に引っ越すのは71年だもの。
李:ああそうか。東中野。東中野ですごく貧しい時代。そうだ、この子はまだちっちゃい頃なので、六畳一間しかないわけですよ。それで台所がちょびっと付いていた。ワーワー泣くと押し入れの中に突っ込んで、うるさいって言って、突っ込んでおいた。関根だとか吉田だとかいろんな人たちがうちに遊びに来るんですけれども食事を作るほどのお金ないわけです。何もないから、まず八百屋に行く。その当時の八百屋は、野菜を、例えば白菜は皮を剥いて、大根の葉っぱはみんな剥いているとか、山ほど野菜があるわけですね、捨てる野菜が。その中から、使えるものを簡単にいっぱい拾える。それから魚屋行くと、最近はあまり捨てないけど、その当時は、タラの頭とかいろんな頭をみんなバケツに捨ててあって、そういうものをみんな拾って来たりした。それから、肉屋へ行くと当時は、骨はみんな捨てる時期だったんで、(肉が)骨に結構付いているけど、それが大きなバケツにいっぱい捨ててある。それを貰ってくるんですね。だから、魚の頭とか、肉の骨だとかそういうものを、家内は初め嫌がって、それを中々やりたがらなかったけど、だんだん慣れて拾って来るようになった。野菜や全部を入れる、大きな寸胴の鍋を買って、スープをいっぱい作った。ご飯とそれだけしかないわけですよ。何にもない。それを作っておくと、2、3日食うつもりなのが、関根だとか吉田だとか何人か来ると、その晩でもうカラになっちゃうわけですよ(笑)。2、3日食う分がみんななくなってしまう。当時、関根さんは、辛いものは全然食べられなくて。うちもちろん、しょっちゅうキムチを漬ける方じゃなかったけども、いろんなところから貰ったりしてくると、辛いものは誰がよく食べたのかな、関根さんはまず駄目だったんで。それが後になって辛いものばっかり食べるようになったんだけども(笑)
中井:関根さん自身は、先生のお宅にということは書かれないで、自分たちが制作するものに対して論理的に説明出来ないからやはり李さんと話すのが一番楽しくて、毎日のように新宿の喫茶店のトップで話していたということは書いているんです。先生のお宅ということは伏せてあります。
李:いやー、本当によく会っていました。そのトップで郭さんを紹介したんですね。だからもの派のほとんどは郭さんを知らないですよ。あの人は何している人か、どういう仕事しているのか、何にも分からないのに、いろんな人たちが訳も分からないで、郭さんの影響でもの派が出て来たみたいな、とんでもない話です。それは失礼です、お互い両方とも。
中井:最後に一つだけ。先ほどの申さんという朝鮮奨学会の。
李:申鴻湜という、その人は大変な知識人でした。
中井:この人はなぜ日本の現代美術をということを言われたのか、先生は分からないと。
李:申さんという人は、文化にものすごく関心があって、北朝鮮系だったんだけど、進んでいる文化人だったんですね。だから今、現在進行形の文化を、在日朝鮮、韓国両方の人たち、奨学生たちが知らなくてはいけないということだったと思いますね。
中井:今の話をお伺いしても、申さんとの出会いというのは、ずいぶん大きい。
李:本当に大きかったし、しかもいろんな人が文句言っても、僕は休んでもカバーしてくれたりした。積極的で、その人は現代音楽も美術もいろんなものに関心のある人で、僕が新しいものに染まるようになるためには、その人は非常に良い役割をしてくれたと思いますね。
中井:この方と知り合ったのがすごく大きな成果。
李:大きいです。