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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

松本哲夫 オーラル・ヒストリー 第1回

2005年11月18日

新宿区下落合、剣持デザイン研究所にて

インタヴュアー:齋賀英二郎

書き起こし:辻泰岳

公開日:2012年2月19日

更新日:2013年8月19日

インタビュー風景の写真
松本哲夫(まつもと・てつお 1929年~)
剣持デザイン研究所所長。1953年に通産省産業工芸試験所に入所後、1955年に設立された剣持勇デザイン研究所に入所し建築物の内装や家具などの設計に携わる。剣持の死後は所長としてインダストリアル・デザインの分野で活躍する。ワックスマン・ゼミナールに関する聞き取りを第1回目としそれに加えて2回の聞き取りを行った。後半2回の聞き取りでは剣持勇との関係を中心に、大量生産や標準規格化といった科学技術と造形表現との関係についてお話いただいた。またご自身の活動についてお聞きする中で「図案」や「装飾美術」、「商業美術」、「応用美術」、「意匠」と和訳された日本の「デザイン」の動向についてもお話しいただいている。

齋賀:(1955年11月1日-30日に行われたコンラッド・ワックスマン(Konrad Wachsmann)による共同設計方式をめぐるゼミ、ワックスマン・ゼミナールについて)どういう経緯から始まっているのか、という事からお話していただいても良いでしょうか。(註:松本哲夫「デザインにおける協同について ワックスマン教授の協同設計の方法」『工芸ニュース』24巻1号、1956年)

松本:ワックスマンが日本へ来るというのは、剣持勇がアメリカでワックスマンと知り合って(始まりました)。(『新建築』1956年2月号の写真を見ながら)これはワックスマンがやった空軍のプロジェクト(註:アメリカ空軍の航空機格納庫プロジェクト)だね。ハンガーっていうんだけど、ここにでかいジャンボみたいのが入って色んな整備をすると。こっち(立面)側を閉めたかどうか知らないけど。これを作るのにワックスマンがこういうものを開発した。こういうところからスペース・フレーム(註:立体骨組構造、日本万国博覧会のお祭り広場大屋根などに使用)のワックスマンていう名前になっちゃうんだよな。でもね、ワックスマンはヨーロッパにいた時は。『現代建築事典』(浜口隆一、神代雄一郎監修、鹿島研究所、1965年)にね、コンラッド・ワックスマンていう項目があるんですよ。これはスペース・フレームっていうやつの説明なんだけど。ワックスマンがこれで、バックミンスター・フラー(Richard Buckminster Fuller)が円形のドームを作るんだけど。ワックスマンも結局、こういうフレームでね、都市全体をカバーしちゃうとかね。そういう計画なんかもやってるんだよね。実際にはもちろん成り立たないけども。
「ワックスマン・ゼミナール」っていうのを、ここに僕書いてるんですよ。『建築知識別冊ハンディ版』(『キーワード50: 建築知識別冊ハンディ版』建知出版、1983年)というやつで、「50のキーワード」というのをね。この号は宮脇檀が監修してたの。あいつから言って来て、僕にどうしても書いて欲しいって。「グッド・デザイン運動」というの書いてるんですよ。グッド・デザイン運動とワックスマン・ゼミについて書け、と。彼、生まれも1901年だしね。1980年に死ぬんですよ、ロサンゼルスで。この死ぬ前の年に、1979年だったかな。今度はここへ集まったこの学生達で、死んだやつもいるんだけど、金出しあってワックスマンを呼んでね。

齋賀:もう一度日本へ呼んだのですか?

松本:呼んだんです。栄久庵(憲司)とか僕とか、事務所主宰してるやつはある程度のもの出すし、一人でポツポツやっている人もいるから、そういう人はそんなたくさん出せない。それは構わないと。金を集めて、航空券を買って。アメリカ―東京間。帰りはハワイに一回寄って帰れるだけの。こっちの全部ご接待で。京王ホテルの、剣持(勇)が死ぬ直前にやった仕事のインペリアル・スウィートってとこに泊めてやって。良いことしたなぁって。しかも途中の保険もこっちで全部かけてあげて。そしたら彼ドイツのなんかの用で、周ってきちゃったんだよね。まぁ余った金は渡しちゃったんだよね。その記録が実はね、あったの。それがね、ビデオで5巻ぐらいあるんだけど。ベータマックスなんだよ。VHSじゃないの。VHSだったらあなたに見せようと思ったんだけど。ベータマックスはうちにもないから見てないんだよ、その内容。それは呼んだときに撮ったんですよ。これ(ワックスマン・ゼミ)は1955年でしょ。これは79年だから、24年間だね。「24年間お前ら何やって来たか、それを見せろ」と言うんだよ。それで部屋借りてさ、皆10枚とか20枚とか(スライドを)作ってさ。ずいぶん時間かかっちゃったんだけど、一緒にみてくれてさ。「こんなことやって来た」とか。全員が一人一人見せたんだよ。それでワックスマンは「その間何やって来たかを見せる」といって豪語してたんだけど、ドイツから送ったスライドが届かなくてさ。結局僕ら見られなかったの。後でちょっぴり持ってたやつを見せてくれたんだなぁ。その中に、あるヨーロッパの港か何かを全体をこうスペース・フレームでカバーしちゃうようなね。そんな計画案、見せてくれたりしましたよ。だけど彼はもともとね、フランクフルト生まれなのね。若い頃はね、建具と大工の徒弟なんですよ、ようするに。

齋賀:棺桶を作ってる写真が載っていましたね。

松本:そうそう。もともと木工屋さんなんですよ。木造建築の仕事を経験してから、ベルリンとドレスデンの美術工芸学校というのがあってそこで学んで。さらにベルリン芸術大学というのがあったんだね。そこでハンス・ペルツィッヒ(Hans Poelzig)っていう。知ってる?

齋賀:ドイツ表現主義の。

松本:そうそう。あの人の一番弟子になるんですよ。アインシュタイン邸なんていうのは彼(ワックスマン)の設計なんですよ。木造設計会社で設計に従事して。1932年にローマのドイツ・アカデミーからローマ賞もらって、ローマで仕事してて。でもその頃ナチスが台頭してて、反ナチの姿勢だったから。顔つきからするとユダヤ人だと思うんだけどね。

齋賀:ユダヤ人という事ですね。

松本:それで捕まったり、スペインに逃げたり。フランスの将校として地下に潜ったりなんだりしたらしいんだよね。後でアインシュタインの手引きでアメリカに渡るんだよね、1941年。それでグロピウス(Walter Gropius)と協同の事務所で。プレハブのパネルのジョイント(接合部分)やなんかの設計したんだね。1950年にイリノイ工科大学の先生になるんだけど。1942年から48年の間ですけど、プレハブがね。ようするにプレファブリケーションというのが出てくる。2×4はもともと在来工法としてあったんだけど。プレファブリケーションやるのはね、戦後なんですよね。それなぜかというと、ヨーロッパ戦線から太平洋戦線から、いろんな若い兵隊さん帰ってくるわけだよ。団塊の世代をつくるわけだ。住む家がないわけよ、結婚して。それでもともと勉強してたんだけど、大量にプレファブリケーションを応用していくんだよ。向こうのプレファブリケーションていうのは土地の問題でしょ。日本みたいに土地がないところで、路地の奥に無理に住宅作るなんてそういう事じゃないんだよね。野原みたいなところ開発してさ。僕はGE(ゼネラル・エレクトリック)のやつでちょっとヤクルトハウジングというのを輸入して。それに近いものでやってったらうまくいくんじゃないかと思って。ゼネラル・エレクトリック社が作ってたやつ、そのままのものを日本で一回展示したの(《ヤクルトハウジングモデルハウス(内装)》1971年)。もうちょっと借金したら、土地があったらこれ買ったら良いなぁ、と思ったの。GEの冷蔵庫から、冷暖房の装置からね、全部セットされてんですよ。台所も全部。一切合切がね。ユニット化されてて、それが全部入ってて、すごい安かったんだよ。本当っていうくらい安かったの。それを作ってるフィルムがあって見せられて、口あんぐりだったんだけど。後ろにレールが敷いてあって、その上に吊り上げるアーム。道路があってね。そこ(アーム)で掴んだやつをグルッと回してパッと置いてね。次々にこうやってくの。そうやって作っていくんだよね。だからプレファブリケーションていうのは役に立つのよ。そういうのはプラン(平面)の変更難しいんだよ。だけどものすごく安く作れるわけでしょ。建設工事がすごく簡単なんだよ。基礎だけ作って、その上乗せて、ボルトで締めてきゃ良いんだから。日本の場合はプレハブって言ったって敷地に置いて、みんな設計してるじゃない。ワックスマンなんか、そのジョイントのとこだけを一生懸命やらされたみたいね。

齋賀:グロピウスが平面を決めていたのでしょうか。

松本:どうでしょうねぇ。彼が僕らと会う時にね。ワックスマンていうのは構造のエンジニアだとばっかり思ってたんだよ。そしたら彼はね「俺は違うよ」っていうわけよ。彼が言ったのは「構造の方からアプローチして建築を考えるっていうのはあるけども、俺は構造計算なんか出来ないよ」と言うんですよ。「なんでパイプでやるのか」って聞いたらね、そしたら彼はね「建築を作るのに、ヨーロッパではレンガとか石を積み上げていくんだ。加える、という方法だ」と。「それで作っていく方法がある。もう一つは日本の住宅もそうだけど、俺もやっているように、部材をカットして、ジョイントして組んで行く。日本の建築だってそうだろ」というわけですよ。「その継ぎ手がとても大切だ」と。「だから俺も、そこのところを勉強している」。もう1つの方法は、彼はformingと言ったんだけど、コンクリートなんですよね。液体状になっているものを型の中に流し込んで固める。「あれは一番不完全な方法で、俺は嫌だと思ってた」と。偶然、メキシコのキャンデラ(Félix Candela)の教会かなんかあったんですよ。ものすごく(屋根が)薄いのね。「あれを見てね、ちょっと考えが変わったんだ」とは言ってたよ。その後24年経って呼んだ時に、「そういうのやったか」って聞いたらやっぱりやってねぇんだよな。最後の時はUCLAにいたんですよね。そこで教授のポストで死んだんだけど。剣持(勇)がいた時はね、写真残ってるんだけど、イームズ(Charles Eames)のオフィスで『Architectural Forum』の編集長やってた男(ジョージ・ネルソン、George Nelson)も入ってて。イームズ夫妻がいて剣持がいて、ワックスマンがいる、という写真があるんです。紹介したのはイームズかもしれないね。1953年に行って、5ヶ月くらいいたんですよ。本当は3ヶ月の予定で。自分で勝手に延ばしちゃった。

齋賀:国のお金なんですよね?

松本:もちろん国のお金。(剣持勇は)通産省の産業工芸試験所っていうところの意匠部長だったから。出張命令が出て行ったの。ちょうど僕が入った年で。いや、その前の年にいったのかな。正確じゃないといけないね。52年の3月に出張で出るんですよ。その時に向こうで色んな人に会うんだけど、それはイサム・ノグチが紹介してるのね。イサム・ノグチと知り合うのは、イサムが日本にやって来てですね、もちろん戦後ですけどね。50年だ。イサムが来て、最近の資料だと東大の助教授だった丹下(健三)さんのところで、剣持と初めて会ったと言ってるんだけど、どちらにしても猪熊弦一郎さんが関係してんのよ。猪熊さんがイサムを連れて産業工芸試験所(註:当時は工芸指導所)というデザインの研究所にやって来て、剣持にイサムさんを紹介して、結局イサムは産業工芸試験所(工芸指導所)で、《無》(1950年)っていう彫刻のフルサイズの原型を石膏で作るんですよ。それで一緒に、竹の研究してたから竹籠をアレンジして面白い椅子を作ったんですよ。今それを再現しようというのがニューヨークのイサムの財団から言って来て、それ俺に任されちゃって(笑)。俺触った事も見たこともない。これの写真はたくさんあるんですよ。(写真を指さしながら)これがイサムさんで、これが剣持勇。もっといっぱい写真ありますけどね。色んな人が顔出してるのがね。これは慶応なんだけどもうなくなっちゃって。隈(研吾)がやった(註:1951年に谷口吉郎、イサム・ノグチによって再建された《萬來舎》を2005年に移築)らしいけど。これは産業工芸試験所の中ね。その頃テラコッタのようなものを作ってたんだね。それで三越でもって展覧会やるんですよ。椅子は持って帰れないもんだから、写真を撮ってね。それをイームズに見せて。こういう事もやっているやつがいるよ、という話をして。イームズと剣持は間接的にはそこで繋がるわけ。それで剣持が行くっていうんでイサムさんが紹介して。その時にワックスマンも紹介してるし、グロピウスも会ってるし、ミース(Ludwig Mies van der Rohe)にも会ってるし。ジョージ・ネルソン、イームズ、皆会ってるし。もう大勢の人に会って来たんですよ。その中でワックスマンというのは、意外と剣持と馬が合ったんだね。1955年に「こういう男がいて、ちょっと日本に来たいって言ってるから」と言って呼ぼうという話になったらば、色んな話を聞いてみたい、ということになったんだよ。どうせ行くならば「日本の学生にも俺のやってるゼミを」と。その頃すでに始めてるわけですよ。

齋賀:21名の学生を集めて行うゼミナールの教育方式ですね。

松本:そう。最初はね、共同設計の方法論だと言ってたんだよ。そういうふうに聞こえてた。「実際には違うんじゃねぇの、そんな事できるはずねぇよな」と、皆半分ちょっと尻を引いて身構えてたの。「絶対にこのスペース・フレームを使わされるはずだから、そうじゃないものでスペース全体をカバーするものを考えよう」って言って、皆で必死になって考えたんだよ。3種類か4種類くらい案出たんだけど、結局はダメだったな。最終的にはやっぱりさせられちゃったわけ。この教育システムから言うと、(ジョイントの金物の写真を見ながら)これを見せられたときは皆ビックリした。唖然としたんだよね。こういう部品をさ、ジョイントするんだけどね、1本ね、楔みたいな形のを叩き込むと、全部がギュッと締まって、これが全部繋がっちゃう。

齋賀:実物を見る機会があったんですか。

松本:これはやっぱり写真でしたね。絵に描いてみせてくれたりした。

齋賀:皆さんこのジョイントは驚かれたのですか。

松本:こんなの鋳物じゃダメだからさ。全部、鍛造品なんですよ。鍛造品ていうのは鉄の赤いやつを叩きながらこういう形にしてくわけだから。「えぇ、ほとんどハンドクラフトに近いじゃないか」とね。ハンマー1つに楔1つあると、このワン・ジョイントが出来る。必ず緊結されるという。それを彼が考えついたんだから。やっぱりデザイナーなんだよ。こんなもの技術屋さん考えるはずないもの。エンジニアなんかがさ。しかもそれがこういうパイプとの関連があるわけでしょ。これだってね、コンピューター無しでどうしてこんな図面かけると思う?これ全部手で描いてるんだからね。学生にやらせたんだろうけど。ようするに単一部材で。これだって、よっぽど想像力がなかったらこういうのは生まれないよね。大変な人なんですよ。すこし誤解してたんだよね。そんなに作品としてたくさん色んなものがあるわけじゃないから。実物というのはあるのか。分からないなぁ。僕らも図面とかそういったもので見せられたから。剣持(勇)が、「とにかく来るから、何らかの形で建築の学生の研究室の人達に彼を紹介したい」と。丹下さんとはその頃もずいぶん親交があったから。「丹下先生にその話をしたら」という。なぜかと言うとね、その頃既にミラノ・トリエンナーレがあったのね。ミラノ・トリエンナーレに日本も出展しないかって外務省を通してきていて。でもあまりにも時間がなくて。デザインやってるというところが、はっきり言って産業工芸試験所なるところしかなかったんだよ。建築研究所っていうのはあるけども、それは設計とかデザイン関係ないでしょ。技術的な問題をやっているから。結局剣持のところにその話が外務省からぐるぐる回ってやってきたの。でも時間がないわけ。だけど一応といって仲間で相談するのが、丹下さん、清家(清)さん、芦原(義信)さん、大江(宏)さんもそうだし、吉阪隆正。皆集まったけどとても時間ないから、この次のために何とかこのグループを解散しないで、繋げてこうって考えたんだよ。その次のときには坂倉(順三)さんも入って。お金集めなきゃいけないんで。その次のミラノ・トリエンナーレには日本は出品する事ができたの。そのときに集まった人達に(ワックスマンの)話をだしてみたら、それならということで皆協力したんですよ。その頃そういう人達の年令が30代後半から40代そこそこぐらい。それで日本滞在の費用を皆で出し合ったんですよ。よそから来たお金があるわけじゃないんだよ、ワックスマンの場合は。とにかく友人として呼んじゃったわけだ。剣持は大変だったと思うけど。もちろん彼だって日本に来たいと言ってて、当然自分の金でもやってきたと。どうせ来たならという話が彼の方からも出て、ドイツとあと、スイスでやってきて、アメリカでも(ゼミを)やったんだけど。それを日本でもやってみたいと。「それは良いね」という話になって、在京の大学の院生、あるいは学部生で、4年生ぐらいの人達だったら良いんじゃないか、それを集めようと。それは各先生方がいるわけだから。自分の大学からとか。それで集められたのがここにいる21人。磯崎(新)は丹下研だし、院生ですよ。内田(孝)君も坪井(善勝)研の、彼も院生だったな。栄久庵(憲司)は自分でGK(GK工業デザイン研究室)をやっていたわけだ。吉村順三さんのとこから奥村まことさん。大須賀(常良)さんというのは早稲田出てね、武蔵工業(大学)で助教授だったんですよ。この中では唯一先生なの。かなりおじさんだったですよ。ボンネットのなかなかかっこいい車をね、車を運転して現れた。

齋賀:栄久庵さんもオートバイに乗ってらっしゃったという事でしたけど。

松本:YAMAHAで、自分で(デザインを)やってたやつね。小野新というのは日大、斎藤(謙次)研。これも構造屋です。川口(衞)君も坪井研。内田君は後で原子力かどこかに行ったんじゃないかな。川添(智利)君は、(川添)登さんの2番目の弟さんかな。早稲田の武(基雄)研だったの。武先生も絡んでるんだ。小谷喬之助っていうのは日大の宮川(英二)研で。彼はずっと日大の教授までやって、もうリタイヤしてるけど。劇場、ホールや何かの専門家ですよ。これ「こん」君というんだけどね。金辰輔(註:日本大学市川清志研究室)っていうんだよ。酒井(康)君も坪井研だな。という事はやっぱり構造屋多かったんだな。佐々木宏は池辺(陽)研なんですよ。柴田寛二は早稲田だね、山下設計。鈴木一は浜口(隆一)研で。浜口先生もグループの仲間なんだよ。池辺さんもそうだし。高浜(和秀)は清家(清)研、唯一の東工大。吉阪研からは平田(晴子)さん。磯崎(新)の一番最初のかみさんね。僕は産業工芸試験所にいたから。茂木計一郎も丹下研。これは後で芸大の教授やったりする。吉田安子は早稲田の第二理工学部。僕のかみさんなんだけど。だいたい昼間の先生が教えてくれたから吉阪先生なんかかわいがってくれたらしい。酒が強いからね。寺井徹というのは吉田(五十八)研なんです。在京の大学の先生がある程度協力して。コアになったのは芦原(義信)さんとか丹下さんとか。芦原先生の奥様の芦原初子さんは英語が非常に達者な人だから、通訳みたいなこともやったりして。片言で皆やったんですね、それでも。「なんで21人だ」というのが話題になったの。そしたらこういうチャートが渡されてさ。グループ分けさせられて。グループは崩れないんですよ。金君と佐々木と僕なんですよ。教室にね。こういうふうに、丹下研で製図用のテーブルを集めて7つテーブルを作って、ここにはディスカッション・テーブルを作って。それぞれのグループが何をするのかという仕事の内容がここにあるわけ。「planning method of education」。課題が中学校なんだよね。2番目のテーブルは「module furniture」。それから「structure」。「equipment integration」、「environmental control」、「material method」、「component」。ここからそれぞれソリューションを出さなきゃいけないわけだ。それぞれがいちにのさんで始めるわけ。例えば「component」なら、その前のグループがやった仕事がテーブルの上に残ってる。順番にやっていくんですね。どんな形かも何も分からないのに平面をやらなきゃいけない。

齋賀:ゼロから色々なところからスタートするんですね。

松本:そうなの。僕らははじめに「material method」。これ材料でしょ?ところが「structure」がプランもないのに、構造を考えなきゃいけない。パネルでもってカバー出来ないか、とか。(スペース・フレームを指して)こんなの嫌だといって。いかにしてこれをやらないかというのを皆で打ち合わせてやってきたんだよ。途中でどうしてもダメになった。3日たったら全員がディスカッション・テーブルに集まるんですよ。それぞれの3日間のスタディをここで出すわけ。テーブルの中心にワックスマンが座るのね。それで皆でわーわーやるんだ。それですくなくとも3日間皆がやった事は、形式的かもしれないけど割合皆一生懸命やって、21名の共通の通底しているある1つの概念がさ、ちょっぴり生まれるわけだよ。それで次のところに移って行く。3日ずつで25日、21日だけど休みが入るから。21日経つと、一応は何かが生まれてくるわけですよ。その後4日間くらいで「drawing」と「model maiking」。写真撮ったり、「chart」を作ったり。そうして最終的にソリューションがあるよ、と。「こんなふうにうまくいくか」と皆言ったんだよな。

齋賀:相当身構えていた、というか反発していた。

松本:もちろんそうですね。構造屋もこんなにたくさんいるし。でも結局は彼の言う通りに。

齋賀:模型というのはどの段階で。

松本:日程が終ってからね。でも終ったときに図面が全部できているわけじゃないんだよね。ある程度、段々と皆がやっている事がおぼろげながら分かってくるから。共通のイメージを最後の段階で皆が持ち得る、というのは事実ですよ。それはいちにのさんで図面化するというのはなかなか難しいね。段々それぞれ図面らしきものは出てくるんですよ。でもやはりこれだけの人間が集まっていてさ。デザインやっているやつと、構造しかやってないやつと、色々なやつがいる。だからなかなか、皆目をつぶっても、完成模型が浮かんでくるという事はあり得ないよ。

齋賀:ワックスマンとしてはそれを目指していた、というところがあるんでしょうか。

松本:いやぁ、どうでしょう。そんな自動的に出来るなんて思ってないよ。ただ、方法論としては面白いなとは皆思ったわけよ。中学校というのと、割と不便なところだ、というのとね。だから彼の中では、ブロックに分けてだいだいの部材を組んで、どんな山の中でもヘリで持っていって、コンクリートさえあれば(できる)。でもこれもコンクリートじゃないんだよね。スペース・フレームが上に乗っかっちゃったわけだから。基礎があって、それを全部ジョイントしていけばできる、という話だったんだよ。だから、どんな方法でもできますよということ。バックミンスター・フラーもフラー・ドームを組んで持っていく。それはワックスマンも当然考えてたんですね。これバラバラのものを全部トラックでもって上げるよりも、下である程度組んで持っていった方が良い。それは一種の方法論だから、それは考えておかなければいけない。「module funiture」というのは、実際教室で動くとすれば、家具の大きさというヒューマン・スケールっていうのはやはりあるわけだから。どんなふうに並ぶかによっても、部材の寸法が変わってくるでしょ。そういうことはやはり考えるんだね。無限定な空間でもって、子供達がどんな配列でもって先生の話を聞くとか、グループ・ワーキングするとか。教育の方法論ということで、「method of education」が前提になきゃ出来ないわけだ。オープンスクール(註:子供の能力や適性に応じて個別に教育計画を立て、開放された空間で自主的な学習を進める教育形態)なのか、という問題だってあるし。

齋賀:図面を見させて頂くと、ほぼ全開になる平面なのですけど。

松本:みんなスライディング・ウォール(可動壁)です。やめてしまえば全部ガラガラになる。こういうのは僕らの方で考えて。「日本ではそういうやり方ができるぞ」という話が出て。「それは面白い」と彼は言うわけだよ。構造はコアの動かない部分があるから、(図面を指さしながら)こことここで屋根を支えるとか、そういうことはやってました。構造計算はできないんですね。要求もされないし。

齋賀:昨日、栄久庵さんに(ワックスマン・ゼミの)お話を伺ったんですけれども、畳一畳分くらいのスペース・フレームの模型を持ち上げた、ということを仰ってました。

松本:そういうこともあり得るでしょ。この模型自体は、飛行機の模型作る時にアルミを使うでしょ。竹ヒゴなんかで飛行機の羽を作る時に、ジョイントが必要になってくるんだよね、どうしても。アルミの小さなパイプがあるんですよ。直径2mmとか。3mmないね。それをこの模型のときは使ったんですよ。それをどうやってジョイントするか、というその方法も分からないんだよ。結局、長いやつを頭を潰してね。それを重ねていって。その工作機械は産業工芸試験所から持っていって。それで穴を空けて、ボルトを通してナットで締める、という。そうして作ったんですよ。バカみたいな労力で。結局、これでスペース・フレームを作ったわけですよ。これは大変だったよ。三角錐みたいのが集まって出来てるんだね。

齋賀:日本女子大の方々にも手伝ってもらったという。

松本:そうそう。最後の頃は手も足も出なくなってきて、日本女子の子が手伝いに来てくれて。日本女子の連中はどういうわけだか、東大なんか行って、卒業制作なんか手伝うのが楽しみなんだね。同時にお婿さんハンターやってるわけだ(笑)。早稲田も結構やってたらしいよ。結構交流あるんだよ。日本女子大と早稲田というのは。ない?

齋賀:今でもあるみたいですけどね。

松本:日本女子大のやつらは皆、東大生狙ってるんだ。面白いんだよ。僕はもう日本女子大で19年も教えてたから。東大は10年ぐらいだったけどね。工業デザインというのをね、建築の学生を教えたんですよ。機械のやつとか地理のやつとか、中には天文学科のやつなんかいてね。そいつらの方が面白かった。隈研吾なんかも僕の授業受けに来てね。高砂熱学行ってるやつなんかもね。パイプ潰してジョイントしてやっていたのね。

齋賀:図面は皆さんで引かれたんですよね。

松本:そうです。

齋賀:最後は川添(登)さんのお宅で。

松本:『新建築』の締め切りが迫っちゃっててさ。カンヅメにならないと間に合わなくなっちゃって。東大はもう追い出されちゃったから。中途半端なやつみんな持ち込んで、川添家でやってたんだよ。泊まりがけ、徹夜で。

齋賀:図面なんかも。

松本:図面はね、最初の段階で提出してたと思いますよ。懐かしいね。『新建築』でしょ?真面目に描いたんだよ。ここをアルミパイプでやったわけ。それが一番簡単にできるから。

齋賀:でも2mmの直径のものを潰して、そこに穴を空けていたんですよね?

松本:すごい作業だよ。一応ちゃんと描いたんだよ。(断面図の配管部分を指して)こうやっておくと漏れてもあんまり建築に関係ないし、メンテナンスも床下に入れば大抵の事は出来ちゃうから。良いんじゃないか、なんて事はディスカッションしながら、色んなアイデア出てくるわけね。ディスカッションするとね、それぞれ少し専門のやつがいるから、自分が今そこの担当でなくても、まったく専門と関係ないやつがやってたらさ「こうしたらもっと良く(ディティールが)収まるんじゃないの」と。そうするとディスカッション・テーブルというのは意味があるんですよ。それぞれ皆が色々な事を自由に言えるし。それぞれ専門の立場で言えるわけですよ。これはとても面白いやり方だったんじゃないかな、と思いますよ。でも実際に磯崎(新)なんかがこれをベースに仕事をしたかというと、そんなことはありはしないよね。面白い経験ではあったんですよ、僕らも。

齋賀:ただそれを直接的に仕事に転用するという事ではなかった、という事ですね。

松本:使って作るというのはないんじゃないかな。でも結局スペース・フレームというのは色んな所で一般的な言葉としてね。ボール・ジョイントみたいなのを作ってね、みんなねじ込んで作るやつ。あの方式を作ったのは大阪の万博のお祭り広場の大屋根ですよね。あれはまぁ丹下さんなんだけど。大屋根はボール・ジョイントです。楔というわけではない。あれはね、とても大変だと思うよ。出来ないよ、あれ。あんな面倒くさい事やるよりも、ねじ込んだほうが早いよ。ボール・ジョイントが一般化したんですよ。色々なところで、ボールが小さくなったりしてね。ちょっとした棚なんかもみんなボール・ジョイントでね。パイプの先にボルトが埋め込まれてて、それが入るわけだから。そんなに大きくなくたって良いんですよ。確かにワックスマンが単純な部品を集めて大きなスペースを作る事ができる、というのをやった事だけは間違いない。

齋賀:ただ、ジョイントの部分に執着していくところがあるわけですか。

松本:ジョイントのところはね、興味があったみたい。

齋賀:ねじ込んだ方が良いんじゃないかというような発想はあったんでしょうか?

松本:現場作業としてはこの(ワックスマンの方式の)ほうが簡単だよ。アメリカのハンガーはこれでやったと彼は言っていたよ。ただ1種類の接合方法、1種類の組み立て工具でハンマーでしょ。特殊な技能者でなくて良いわけですよ。ねじ込むとは言うけどさ、こんな太いパイプのところに、ねじ込むって言ったって回すだけでも大変じゃない。これだと回さなくていいんだよ。そんな恰好しててもその方向に合わせていけばいいんだから。

齋賀:特殊な技能者でなくてもいい、というのはワックスマンが何かこだわっていたんですね。

松本:何かあったんだと思いますよ。それはプレハブの住宅作っているのもそうでしょ。今だって日本のプレハブ住宅だってね、現場に大工なんてほとんどいないんだよ、あれ。どこだっけほら、積水(化学工業)もそうだけど、積水じゃなくて。

齋賀:ミサワ(ホーム)とかでしょうか。

松本:ミサワだ。三澤(千代治)さん。あの人は建築を勉強してる人だけど。三澤社長がやってきたあのやり方なんかは、今でもそうだけど、あれだけの家作ってて、いわゆるプロの大工っていうのはほとんどいないよね。誰でもが組み立てられる。もちろんそれは家の旦那さんがそれを作るわけにはいかないだろうけども。でもそうなのね。だから部品が大きくて、重機なんか入れて簡単に吊り上げて建ててくっていうのは、収まりのところがね、やっぱり凄いんですよ。精度が良くて。あれは信じられないね。畳敷きの八畳間なんてのがさ。あれはね、重量鉄骨の建物なんだけど、いわゆる軽量鉄骨ではなくて。四隅にこう四角い柱があって。フレームで全部組まれてて、その中にパネルもある程度組まれてて、床の間に相当するものも入っちゃってるものが、中に畳を吊り上げてね、わっとやってきてパッと下ろすんだよ。畳がどのやつを置いてもピシャッと収まるんだよ。在来工法で作った場合には、畳屋さんは「これは床の間の前に」とか全部裏に書いてあるんだよね。そういうふうに入れないと収まらない。それぐらい直角とか寸法が微妙に違うわけ。全部、工場生産用の畳とそういう部材で組み立てられたもののところに、八畳の畳を入れようと思うとね。どこにどれをはめても全部ピッタリ収まるの。畳屋は寸法精度の良い畳作ってれば良い。本チャンの畳は作ってるかどうか分からないよね。あれはやっぱりプレファブリケーションの一番良いところなのかな。現場で働いている人の賃金というのはすごく安いんじゃないかな。安く出来るっていうのはその辺ですよね。工場生産だからもちろん大量に作ってるから、それも安くなる理由だけど、建設っていうのは現場経費というのがバカにならない。そこで働いている人が1日遅れれば1日分賃金払わなきゃいけない。だからだいたいの日数を計算して、これは幾日で出来るからその範囲内で作れ、と。その人の能力が上がってどんどん出来るようになれば、働いている人はお金が一定だとすれば早く終った方がいいわけですよ。現場経費というのはだいたいそんなもんですよ、どんな工事やっても。いかに早く終るかという。現場でかかる費用、特に請負業者の場合にはそうでしょ。引き渡すまでは建設会社の財産になってるんだから、法律上。早く仕上げて、早くて敵に渡せばお金になるの早いわけだから。金利が高けりゃさ、預けておけばその金利だけでもかなり稼げるわけでしょ。お天気というのが現場でとても大切だというのはそういう事もあるんですね。プレハブは請負もへったくれもないよね。トータルにいつまで作りますか、というだけの話であって。それがね、ひとつひとつ測って畳作ってるわけじゃないのにさ、合うんだよ。あれだけは口あんぐりだったな。日本の精度というのはそこが良いんでしょうね。ただ、そっくりそのままで入る敷地がないんだよ。そこが日本のプレハブ・メーカーの泣き所よ。部品は同じなんだよ。その部品を如何にこの敷地の中に収まるように集めて組み立てる、というのは設計者の。工場でやっぱり設計するわけですよ。メインの道路からアプローチが4mもない細いところがあると、これがまた大変なんだよ。どうやって入れるかという計算もあるでしょ。これ(ワックスマン・ゼミナール)だってそういう問題が出てくるんですよ。そういう「method」をどうするかという。この場合は敷地が広く、野原のようなところで、どこからアプローチしても構わないけどさ。そういう意味ではものの考え方というのはずいぶん役に立ったと思う。

齋賀:作っていく過程、ということで。

松本:過程、という事だね。これは何も、部材を集めて工業製品だけで建物作るのではなくても、考えられる方法なんですよね。順番にやっててもいいわけだけど。プランニングやって、とか。でもプランニングするためには、教育の方法論や、スタディ(設計内容の確認)をしなきゃプランなんか作れないもんな。はっきりしてるわけですよ。当然、この場合はモジュール(基準となる大きさ)が必要なんだけど、「furniture」と「module」を組み合わせたところが面白いんだね。ヒューマン・スケールに一番近いのは「furniture」だから、「furniture」のユニットの大きさを決めていくと、机の大きさと机の間の大きさ決めれば、どれくらいなら先生でも生徒でもうまく通れるようになるか、とかというのがある。それがまずユニットなんだよ。これは分類の仕方としては非常に正しいと思う。それをシェルターとしてカバーするには、どんな「structure」が良いかとか、「structure」を決めるにはどういう方法でそれを運び込んで、という事になるから。どういうふうにして環境をコントロールしていくかという話にもなる。この分類はなんとなく身に付いちゃったみたい。一番最適な材料は何か、と考えるのもそうじゃない。「component」はまたちょっと違うけど。この人(ワックスマン)ね、なかなか面白い事考えてたんですよ。いつもこうやって葉巻くわえてね、細い葉巻でね。頭は端が開いて大きな頭して、ちょうど僕が着てるこれぐらいの色のグレーの上下を着てね。ワイシャツもね、少しグレーっぽいんだよな。薄いグレーでね。ネクタイは白。真っ白じゃないけど、オフホワイトみたいなので。割に暖かい。ずーっといる間それだったよ。着た切り雀なのかな、とも思ったけど、着てるシャツなんかはいつもピンとしてるし、ネクタイなんか色変わったの見たことない。イメージとしてはそれ以外になかった。これもずいぶん違ったね、印象として。面白い人だったなぁ。彼も日本に来て良かったと思うんですよ。

齋賀:もう一度日本にいらっしゃった時というのは、1人でいらっしゃったんですか。

松本:もちろん1人。2人目の奥さん、わりあいに若い奥さんもらったという話だったけどね。見せてくれたよ、写真はね。「連れてくれば良いのに」と言ったら「お前、金が無いよ」と言っていたけど。剣持が死んだ後だったもんだから、京王(ホテル)で、パーティの途中で泣き出したんだよね。かなり手放しで涙流してさ。皆心配して、「どっか具合悪いのか」なんて言ったりしたらさ、「いや、そうじゃない、ここに剣持がいないのが悲しい」と言って泣いて。剣持が(京王ホテルのデザインを)やって、できてから直後に死んでいるわけだから。自殺したんだから。知ってるわけだよ、彼がね。お花もくださったから。そういうとこがあるんだよね。「どっかへ少し行きませんか」という話になってね、「箱根行きてぇ」とか言ったんだよ。箱根連れてったんだよ。うちのかみさんと栄久庵の弟さん(栄久庵祥二)がね、アメリカ留学して英語達者なもんだから、うちのかみさんは片言だけど。僕なんかまるっきり喋れない。2人でもってね、案内したんだ。そしたら、箱根の明治時代からできてる、何とかホテル、日本風の建物。そのホテルへ入れたのね。「ここじゃない」って言い出したんだってさ。「俺の泊まってたところはここじゃない」って言ってるぞ、と。知ってるけどさ、そんな事させられないじゃないかと。最初に連れてったのは剣持勇と大江宏なんだよ。後で聞いたんで疎覚えだけど、湯河原かね、でなければ箱根湯本あたりなんですよ。芸者を上げてね、ドンチャン騒ぎして、多分夜1人、ワックスマンにあてがったと思うんだよ。その思いがあるわけ。電話して、こういう事があったと。でもホテルだしね、芸者呼ぶわけにもいかないから、泊めたとこが間違ったんだけど、それはもう「勘弁しろ」って言うしかない。それで納得してもらったらしいけど。あの頃のね。丹下さんもすごい遊び人だしね、まだ結婚する前だったかな、丹下助教授、銀座辺りじゃ有名だったからさ。プレイボーイみたいなもんだ。大江さんもずいぶん遊んだ人なんですよ。剣持はね、口程にもなく、それがないんだよ。いざとなると手出さないらしいけど。お遊びはしたらしいけど。皆やっぱり大人だったんだよね。そういう意味では僕らの世代なんかだと、遊ぶ事とかみさんと別に考えりゃさ、面白い。色々面白かったよ。

齋賀:少し話は変わりますけど、浜口(隆一)さん、浅田(孝)さん、川添(登)さん、といったあたりの、直接のゼミナール参加者ではないけれども、その周辺にいて影響を受けた方がいらっしゃいますよね?

松本:どの程度かな?浜口先生は鈴木(一)を出しているくらいで、生研(生産技術研究所)にいたんですね。浜口さんていうのはだいたい丹下さんと同級だからさ。浜口隆一っていうのは丹下さんがあんまり上手いんで、自分はデザインするの辞めた、という人だからね。建築の評論をするような立場に彼はいたんだよね。鈴木はその後、武蔵工大に行ってね。もう定年で辞めたけど、武蔵工大にずっといたんですよ。高浜は唯一東工大から、清家研から来たんだけど、これは家具に凄い興味があってね。割合と早い時期にイタリアへ行って、カッシーナとかああいうところのデザインやったりして、まだ向こうにいますよ。月瀬(敏雄)君ていうのは、割合早く死んじゃったんだよな。大江さんとこから来てたんだけど。寺井はまだ頑張ってる。平田さんは離婚してからずいぶん1人でいたみたいだけど、彼女、4、5年前に結婚したというのが聞こえてきたから。

齋賀:この時もう松本さんは働いてらっしゃるんですけど、仕事というのはどうされてたんですか。

松本:国内出張というような扱いにしてくれたんだな。1955年というのは、剣持が6月に独立しちゃうんですよ。最初の段階では君は来い、と言われて。もちろん剣持の息がかかった人はいっぱいいたから。お前行け、と言われて。模型制作もあるから、模型用の簡単な電気ドリルとかね、色んなものは産業工芸試験所から持っていって。東大の工学部に置いておいて。それでやろうという話になって、でも芦原事務所からは誰も来てないんだよ。まだやってなかったのかな、ムサビ(武蔵野美術大学)は。女性は3人なんだな。奥村まことも女。これが凄いんだよ。男だか女だか分かんないよ、うちのかみさんもそうだけど。平田さんだけがお嬢様って感じだったな。

齋賀:OMソーラーの開発者だというふうに、難波(和彦)先生にお聞きしたんですけど。

松本:旦那の方(奥村昭雄)がね。まことは、どうだったのかな。あの夫婦はすごく似てるんだよ。芸大の教授を最後までやらなかったんだけど。家具の工場をわざわざ山の中に作ってさ。自分で家具作ったりね。僕ら「まこん」、「まこん」と言うんだけどさ。「まこんの旦那?」なって言って。これが芸大の教授だったの。二人とも吉村(順三)事務所へ勤めて。川口君は依然としてまだ頑張ってるけど。法政だよな。もうリタイヤしたのかな。中国で仕事するよね、やっぱね。磯崎の構造をかなり面倒見てるし。もともと坪井研で、坪井さんはいつも丹下さんと仕事してたからね。

齋賀:佐々木宏さんも法政で教えてらしたそうですね。

松本:あれはね、非常勤で通しちゃったの。非常勤もの凄い長くやったんだよ。非常勤のくせしてさ、退官というのかな、パーティがあったんだよ、大学で。俺も呼ばれて行ってさ。「非常勤なのに大学でこんな事やってもらえるの?」って言ったら「俺は縛られるの好きじゃないから、非常勤で通しちゃったんだけど」なんて言ってね。

齋賀:佐々木さんのもとで学んだ方々が『佐々木宏書誌目録: 1952-2001』(佐々木宏先生書誌目録刊行委員会、2002年)っていうの出されてますよね。僕てっきり教授だったんだと思っていました。

松本:僕もそれ持ってるけどね。この男はねぇ。

齋賀:中真己という筆名を使っておられますよね。

松本:そうそう。丹下論をやってるんですよね、『新建築』でペンネームでね。考えてみたら皆、今でもほとんど付合いあるんだね。栄久庵も奥村も、大須賀さん亡くなっちゃったんだけど。肺結核された事があるもんだから結果的に。小野君も日大だけど、最後は法政にいたんだよ、やっぱり。小野君辞めて川口君がその後入ったのかな。とにかく今は悠々として。川口は一生懸命やってる。この間会ったな。川添(智利)さんは亡くなっちゃった。ガンでね。うちのかみさんが死んで2年くらいして「俺もそうなんだぁ」なんて言い出して、「冗談じゃないよ」と言ってずいぶんと色んなサジェッションしたんだけど。小谷もほとんど引っ込んじゃってるね。佐々木は相変わらず口八丁手八丁で動き回っているけど。鈴木はちょっとおかしいんだなぁ。高浜は行ったきり帰ってこねぇしさ。寺井は自分でやってるしね。茂木君は事務所持ってるはずなんだな。芸大の教授やってたんだよね、最後。でも定年で。年格好だいたい同じくらいだから。皆今はもう70は過ぎてるはず。ま、ワックスマン・ゼミというのはだいたいそういったところで、特別な事はないと思いますよ。ただ、連れて来たのは間違いなく剣持です。グループがあって、そのグループが国際デザインコミッティというものを作ってね。

齋賀:ワックスマン委員会というのは?

松本:ワックスマン委員会が母体になって国際デザインコミッティをね。

齋賀:国際文化会館などにも聞いてみたんですけど、記録もないですし、その関係というのも良く分からなかったんですね。

松本:あそこには記録なんてないよ。それに勝手に言ってたの。(『新建築』の資料を指して)当時の記録というのはこれが一番詳しいと思いますよ。

齋賀:図面だったり模型だったりというのは残っていないんでしょうか?

松本:『新建築』に出した後どうしたのかなぁ。

齋賀:新建築社に問い合わせても原稿というものはとっておいてないということでした。

松本:その通りだよ。原稿というのは恐ろしい。だから僕は原稿を渡す時に必ずコピーをとっておくんですよ。原稿返ってくる事ないからね。うっかりすると貸した写真まで返ってこなかったりするんだから。極めて無責任なんですよ。(『新建築』表紙の模型写真を指して)これ大変だったんだよ。この頃は確か(表紙のデザインが)亀倉雄策だったんだよ。亀倉さんずいぶん長いこと『新建築』の表紙やってるんだよね。(編集上の)写真の切った貼ったも、全部自分でやっちゃうわけよ。写真家と大騒ぎになったりしてね。でもできたものは皆良いものね。コンラッド・ワックスマンを呼んだのは剣持です。彼は日本の事を一生懸命に喋ったらしいから。

齋賀:ワックスマンを1979年に呼んで、皆のスライドを見せた時というのはどういう反応だったんでしょう。

松本:かなり熱心に一生懸命見てたな。それが多分、(事務所内のデッキを指して)そのベータマックスに入ってるんじゃないか、と思うんだけど。今日持って来て気がついたんだよ、事務所にあるデッキへ入れようと思ったらね。VHSじゃない。寸法が違うんだよな。短いんだよね。ワックスマンの顔写真が見たいんだけどもね。

齋賀:これになりますか。それでこれは大工の徒弟時代の写真になりますけども。

松本:これね。あれ、これ何に出てたっけ。

齋賀:これは『新建築』(1956年2月号)で、こっちは『建築文化』(1996年5月号)に出ていたものですね。

松本:あ、『建築文化』かぁ。

齋賀:これが少し年のとった。

松本:そうだ。こうなっちゃった。

齋賀:これは『芸術新潮』(1956年1月号)か何かに載っていた写真ですね。

松本:あぁ、そうだね。これ大学だね。ここに映ってるのが酒井(康)君でね。これ大須賀先生ですね。これ白いネクタイだね。ワックスマンが喋ってる文章か。

齋賀:これは浅田孝さんが書いてらっしゃって、小野新さんと磯崎新さんが報告をしている文章です。これは『建築雑誌』ですね。(註:浅田孝「機械時代と建築の進路-コンラッド ワックスマンによせて-」、磯崎新、小野新「ワックスマン ゼミナールの問題点」『建築雑誌』1956年3月)

松本:『建築雑誌』か。出たはずだよね。

齋賀:その報告を読んでいると、少し反発のようなものとか抵抗のようなものを感じるんですよね。

松本:全員持ってたの、ほとんどは。「そのまま(言うことを)聞くか」と言って。僕らもう最初から分かってた。方法論としては面白いけど。ここにも書いてあるけど、最初「共同設計ゼミナール」でしょ。そういう考え方があったんだよ。でも僕らグループ分けさせられて、それでこれは一種のそれこそ「education」の「method」であって、こういう方法で設計をすればうまくいくんだ、という話じゃないんだというのは皆そう思ったわけ。事実それは磯崎なんかも経験してるんだけど、総評会館っていうのを、共同設計でやったんだよ。磯(崎)なんか一番最初にさ、「ダメだ、無理だ」というのがわかったんだよ。一応仕上げたけどね。

齋賀:これは《総評会館》(1955年)の風刺画ですね。

松本:そう。共同なんかでは絶対出来ない。特に磯(崎)みたいな個性の人間は当然でしょう。ただ建築が1人で出来るわけがないというのはみな知ってるわけだよ。施工者もいなければいけないし、色んな人とのコラボレーションがうまくいかないといけないというのは、皆わかってる。だけど、これ《総評会館》のエレベーション(立面図)だけど、どうやってこういうものをね、全員の人が共有出来るか。妥協すれば面白くも何ともない、つまんねぇものになる。赤だの黄色だのブルーだの混ぜてぐちゃぐちゃにしたらグレーになっちゃうでしょ。それと同じ話だ、と皆言っていたんだよ。《総評会館》(の共同設計に)参加したのは。佐々木も参加したのかもしれないけど。栄久庵なんかそういうの全然経験してないからね。

齋賀:自分が一番得したと思う、と(栄久庵さんは)おっしゃってました。

松本:そうでしょう。だって建築系の人間とつき合った事はなかったでしょう。あれではじめて皆友人になれた。確かにこのグループというのは不思議なグループだったというふうに思う。今でも全員仲も良くて。栄久庵だって、もちろん長い事近くにいたから。栄久庵とは昔から仲が良かったし。このとき初めて栄久庵とは知り合ったんだな。奥村まこともそうだし、磯崎も。もちろん積極的な学生は建築学生会議なんてやってたやつもいるから、そういう人達は横の繋がりがあったのかもしれないけど。でもちょっと違った人種、栄久庵なんかとつき合うというのは初めてだよね。ちょっとタイプが違う人達が集められたというのは面白かった。

齋賀:その繋がりは今でも続いている。

松本:そうです。本当に2、3回しかやってないけど、同窓会やろう、なんて集められるやつは皆集まって。昔話したりね。その中で「ワックスマン(・ゼミ)の謝恩会やろう」と。「世界中でね、色んなゼミやったけど、こんな事やってくれんのはお前達だけだ。日本だけだ」と言ってすごい喜んだもの。そりゃそうでしょう。足代付きでさ、呼んだんだから。それだって考えてみれば俺たちより10才以上若い時の丹下さんとか皆ね、なけなしの金はたいてさ、少しはどこかから寄付とったかもしれないけど、やったんだからたいしたもんだよ。彼が来てね、ただ御馳走になるだけじゃあれだから、ホテルも京王のインペリアル・スウィートで、1番高いところで。でも僕の顔でさ、「金払わないけど」と言って「どうせ空いてるんだからいいですよ」なんてね。3晩くらい泊まったかな。「東京でも講演会やりたい」と言って。早稲田か東大でやったんですよ。それで京都へ行ってね、京都のアメリカ文化センターでもやったんですよ。律儀な人ですよ。あの時呼んで良かったな、と思った。帰って、もちろん礼状が来て、奥さんの写真まで送ってきて。「幸せだった」と言ってくれたのね。うちのかみさん、成田へ送って行ったんだな。アメリカの自宅に帰るまでの旅行の保険もかけたんで、何があっても保険が下りるように。それを渡したんだってさ。そこでまた泣いたって言ってた。もうお年を召してたんだよな。「こんな事までやっていてくれたなんて考えてもいなかった」と言ってね。すごく喜んだって。やっぱりねすごい人ですよ。それで次の年死んじゃうんだもんな。タイミングがズレてたら会えなかった。皆良かったなぁ無理しても、と。

齋賀:少しお金は無理に出し合って。

松本:そうそう。皆来て。あれ(ベータマックスに録ったビデオ)、うちのかみさんが持ってたんだよね。誰が録ったのか。VHSにもう一度ダビング出来るよね。プロに頼めば良いんだよな。そうすれば何が写ってるか分かりますよ。記憶は定かじゃないんだ。(『建築雑誌』に載った記事を指して)これずいぶん丁寧に出てるね。磯崎と小野君が書いてるからだ。浅田(孝)さんはもちろん、丹下さんの何て言うのかな、影武者みたいなもんだよ。あの人は表に出て、これが俺の作品何て言った事ないでしょ。浅田さんが丹下さんと離れるのは昭和基地の建物(《南極観測隊昭和基地》(1957年))を造るんで、浅田さんが頼まれて、そこで離れるんですよ。最初造ったのは竹中(工務店)だったんだよな。浅田さん「俺、丹下とはもうあれするわ」と言って。あの時点で独立したんですよ。それまではずっと丹下さんの。東大に席があるわけじゃないよ。表で丹下さんに良い顔をさせて、裏でずっと悪役を続けていたのが浅田さん。浅田彰の叔父さんかな。この人も海軍行ってるはずなんだよ。

齋賀:海軍で営繕部にいたと、栄久庵さんがおっしゃってました。

松本:栄久庵たちはわりとその後も付合いがあったんだよな。浅田さんはいつも裏にいるんだよ。だけど黒幕みたいなもんでねぇ、大抵のやつは動かされてたんですよ。僕が浅田さんとじっくりつき合ったのは、《香川県庁舎》(1958年)の現場でね。浅田さんはしょっちゅう向こうに行ってたから。議会対策なんていうのは浅田さんがやってるんだよ。知事さん(金子正則)は非常に丹下さんにゾッコンしてるし、弁護士さんなんだけどね。ついこの間亡くなられたんだけど。その時も浅田さんと一週間同じ部屋で。いろんな事言ってくれたなぁ。「建築もインテリアもみんな同じなんだから、君だって建築出てるんだから建築やりたいでしょ。建築やるにはね、人間のことを良く知らなきゃダメだよ。人間の勉強を、俺もまだ今でもやってるけど、人間の勉強ですよ」と。それは何も人間工学とかだけじゃないんだ、と。人間の心の動きとか。「結局人間のためにシェルターを作ってるんだから、中に入る人間のことを知らないでどうして設計出来るの。君もまだ若いんだから、あらゆるものに興味を持って人間の勉強しなさい」と。「小説だってやっぱり人間扱ってるもんな」とこういうわけだよ。

齋賀:ワックスマンは棺桶から始まって、スペース・フレームという大架構というのに至るんですけど、人間(について)というところがあったんでしょうか。

松本:あったんでしょうね。こっちは建築というだけじゃなくて、本当に小さいのは口紅のケースからさ、今は列車のデザインもやってるし、飛行機のインテリアもやったし、客船もやってるから。建築になぞらえてみると皆人間に関係してるんだから。根本的に人間が分からなくてね、建築の設計なんか出来っこないよ、と。この後で世界デザイン会議(1960年5月)があるけど、剣持も少し絡んでるんだけど、アスペンの世界会議(註:第三回アスペン国際デザイン会議)に日本で一番最初に出たのは剣持なんだよ、1953年に。僕が(産業工芸試験所に)入った年にはやっぱりいなかったの。コロラドに行ってた。その時にまたワックスマンにも会ってるし、フラーにも会ってるんですよ。もちろんドイツあたりからも色々来てるし、いろんなやつが来てたんだよ。それでまたいろんなデザイナーとつき合うわけですよ。日本からはまだ誰も行った事がなかった。剣持が呼ばれて行って、それはイームズとかも出るし。それでフラーの小さいドーム、フレームは細い薄い板を二枚合わせたような構造物で組んでったんだ。それができ上がって透明の薄い膜が張ってあったんだよな。剣持はやおらそれによじ登ってさ、持ってった鯉のぼりをね、建てた。「日本では建前といって棟上げをするとお祝いをするんだ、その時に。この国にはないから、日本の鯉のぼりを持って来た。」と言ってね。フラー、喜んだんだって。それで仲良くなっちゃってね。フラーとも。フラーが初めて日本に来た時も剣持さんに呼ばれて会ってますよ。面白い男なんだよ、剣持っていうのは。

齋賀:外との繋がりというのを作ってた。

松本:結構あったね。割合に早い時期に行ってるから。日本の工業デザイナーが行くのはその後で日本生産性本部(註:生産性向上対策の閣議決定に基づき1955年3月に設立された財団法人)かなんかが作ったそれにデザイナーとして参加してアメリカ行ってるんですよ。剣持は1952年に行っちゃってるから。その何年か後のアスペンで坂倉(順三)さんなんかも参加して、清家(清)さんとかも行くんだよ。柳(宗理)なんかも行ったんじゃないかな。何しろ不思議な人なんですよ。三ヶ月、ということで行くでしょ。でお金なくなっちゃって。でももっと情報集めた方が日本の役に立つ、といってニコンの、コンタックスみたいなニコンがその頃あったんですよ。かなり高いカメラなんだけど、それを勝手に売っちゃてさ。お役所の備品だよな。後で大目玉くらったらしいよ。売っちゃって滞在費稼いで。カメラないと困るからコダックか何かの安いのを買ってね、いっぱい撮ってきましたよね。真夜中でもとにかくショーウィンドウを撮るのに三脚を据えて一生懸命狙って。金がないから何発も撮れないわけよ。一発できちっとさ、慎重に。バンって。そうして撮ったのを持って帰って来て、色んなところへ行って講演会開いたんですよ。行くんだって金ないんだから、色んなとこから金集めて来て。報告しないわけいかないじゃない。第3回のアスペンデザイン会議の日本代表。それでまた工業デザインのためにひたすら走り回る。前年度に行ってさ、また会って話して。向こうだって覚えるよね。これ役人の出張だからね。大変なもんですよ。課長になって2、3年で部長になっちゃうんだな。それでアッという間に辞めちゃうんだ、1955年。1952年、53年と行って。僕が入ったのが53年だから一緒にやったのが54年、55年の6月には辞めちゃうんだから。それで別に仕事があって辞めたわけじゃないんだから。フリーのデザイナーっていうのがこの国でちゃんと食って行けるようにしなくちゃいかん、と言ってね。それには俺がまずやらなきゃ、というそういう気持でね。「いつか出てこい、それまではバイトで夜来い」なんて。

齋賀:夜行ってらっしゃったんですか?

松本:夜行ってた。

齋賀:その頃事務所というのはどこにあったんですか。

松本:最初の3月くらいは公務員アパート、百人町の。永福町に、僕が基本設計やって、金融公庫から全額金借りて。何しろお役所の退職金でさ、土地買ったら一文もなくなっちゃったんだよ。家作るのに全額借りなきゃなんなくて。あの頃貸してくれたんだよな。森田茂介という法政の建築家の先生にお願いして設計してもらったの。それはなかなか良かったんだけどね。
1960年あたりは色々な事があったんだね。今考えてみると、1950年代から1960年の前半までは色んな事があったんだよね。本当に面白かったな、あの時代は。この頃はそうだよ、メタボリズムなんてのも出て来たんだな、あの頃だ。ワックスマン・ゼミナールっていうのは僕らにとっては意味がありましたよね。

齋賀:どうも長い時間ありがとうございました。