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Oral History Archives of Japanese Art

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ

宮永理吉 オーラル・ヒストリー 第1回

2018年5月16日

京都府京都市、宮永理吉自邸にて

インタヴュアー:大長智広、菊川亜騎

書き起こし:京都データサービス

公開日:2022年12月27日

インタビュー風景の写真
宮永理吉(みやなが・りきち 1935年~)
彫刻家、陶芸家
1935年、京焼の窯元を経営する二代宮永東山(宮永友雄 1907-1995)のもとに生まれる。1954年より京都市立美術大学彫刻科で辻晉堂や堀内正和らに学び、行動美術協会展等で陶彫の発表をはじめる。1960年に専攻科を中退して渡米しピーター・ヴォーカスらと交流する。帰国後は「現代美術の動向」展 (1964年、1965年、京都国立近代美術館)等に出品し彫刻家として注目を集め、1971年には走泥社同人となる。1998年京都府文化功労章を受賞、1999年に三代宮永東山を襲名した。
1回目のインタヴューでは生立ちをたどるとともに祖父の初代宮永東山(宮永剛太郎 1868-1941)が興した家業や、粟田の衰退、少年時代を過ごした占領期における窯業の状況について伺い、彫刻との出会いやゼロの会(1959-1972)への参加、渡米のいきさつについて語っていただいた。2回目のインタヴューはアメリカ滞在の経験について伺い、帰国後に彫刻と陶芸のはざまで自らの創作を模索した経緯や、走泥社、オブジェ焼き、クレイ・ワークについての思いを語っていただいた。

菊川:本日は2018年5月16日です。今から宮永理吉先生へのオーラル・ヒストリーの聞き取りを始めせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

宮永:こちらこそ。

菊川:まず先生の生い立ちからお話をお聞かせいただければと思います。1935年に京都市の伏見でお生まれになったということですけれども、ご家族の構成と、どのようなご家庭だったかというお話をお聞かせいただけますでしょうか。

宮永:ここ(注:伏見区深草にある自邸。伏見稲荷大社近くに位置する)は工場裏やけど、このすぐ隣の町に住んでて。弟と妹がいて、きょうだい3人。母親は終戦直後に結核になって、3年ぐらい寝てたかな。51年に亡くなってるねん。それで、うちはすぐ後妻さんが来てた。時代が時代やから、だからうちはほんまに日本(の戦後)そのものを体験してるような経済状態を送ってるねん。敗戦による1949年のドッジラインの為替レートによって工場が閉鎖し、1953年に再開した。てっぺんからどん底までいって、どん底からまたてっぺんまで、もういっぺん上がるような。母親が死んだ中学3年の時期をちょうど境目にして。

菊川:その頃はまだお父様(二代宮永東山、本名 友雄、1907-1995)はご健在で、窯を経営されていた。

宮永:そう。だから、アラさん(荒川豊蔵)あたりが戦争時分の終わりごろにしょっちゅう来て泊まってたのは、よくよく覚えてるわ。ほんまによく来てた。初個展の作品が足らんさかいに、東山窯で(染付、色絵の作品を)作ってた(注:「荒川豊蔵作陶並びに絵画展覧会」阪急百貨店、大阪、1941年)。大長君、よく知ってるやろうけど。

大長:いや、ここで作られたものも出品されていたというのは知らなかったですけどね。

宮永:ああ、そうか。だから、あの人の初個展の黒のええ茶碗がうちにあるねん。

大長:瀬戸黒ですか。

宮永:あの頃から、「髭を生やした変なおじさんやな」と(笑)。

大長・菊川:(笑)

宮永:あの頃の人って皆旅館に泊まったりせずにね、誰もがよく来てうちへ泊まっていたね。(私が)よく覚えてるのはあの人ぐらいかな。

菊川:終戦を迎えるまでというのは、お父様の工房はどのような状況だったんでしょうか。

宮永:工場というのは、もうほとんど毎日のように遊びに来てたけど、遊び場みたいに思ってたから、あんまり作業とかは(していない)。終戦で(小学校の)5年生やからね。終戦になった頃から、ちょっとぐらい手伝いさせられてたね。

菊川:工房には、たくさん職人さんが毎日のように来ているような状況ですか。

宮永:そうそう。それで、やっぱり占領下やからね、何ていうても。まあ、あんたら全然わからへんやろうけど。戦争に負けたという感じに加えて、占領下であるという制限が仕事にも作業にも、全部に影響してるしね。何だかんだでアメリカの意向によって、右にも左にも動いていく時代やったから。世間の詳しい事情は、子供の私は知らんけど、陶器関係では占領軍の接待などはうちがやっていて、織物の方は龍村(美術織物)が受け持っていた。そういうような関係もちょっとあったんでね。仕事自体としたら、1949年にドッジラインで工場が倒産するまではわりかた忙しくやっていた。それから、接待。

菊川:占領軍の関係の方とか。

宮永:うん。接待というのはね、南禅寺の動物園の突き当たりの所に、龍村の別荘があった。あれ、もとは誰のやったんかは知らんけど、織宝苑という名前で。そこがショールームと接待場所になってるねん。軍の高官が来ると、樂焼をしてやったりね。(注:1909年頃に建設。三菱財閥の岩崎小弥太が所有していたが1945年に進駐軍によって接収。1948年に龍村美術織物の所有となり国内外の要人をもてなす迎賓館として活用された。現在の真澄寺別院、流響院にあたる。)

大長:その場の余興で。

宮永:そうそう。うちの品物は当座並べてるだけだけど、織宝苑のショールームは鐘紡と龍村が、占領期間中ずっとそういうことをやっとったな。龍村がいつごろからしだしたんかは忘れたけど。うちに一つ、その当時占領軍が使うてたマークが入ってる什器があるんや。後で見せるけどね。占領国が認めた何かで。

大長:「Occupied Japan」のマークですか(注:民間貿易が再開された1947から1952年にかけてGHQによって日本からの輸出品は「Made in occupied Japan(占領下の日本製)」の刻印が義務付けられた)。

宮永:あれと違うねん。

大長:あれじゃない。

宮永:うん。あれと同じやと思っててん、「Occupied Japan」と。でも別にあったんやね、もう一つ。全然、誰もわからへんかったで。子供がいろいろ調べてくれたから、「そうか」と(納得した)。そういうのも別途作ることで、戦後を生き延びてきた。

菊川:軍の高官用の高級食器という。

宮永:軍の高官の食器と、国内向けもやってたやろうけど、そういうようなことしながら、占領期を生き延びていた。だから、私の子供の頃の戦中と戦後の工場の規模を比べると、戦後はちょっと手を加えたというより、設備を増強してたような感じやったわ。今から思うとね。なかったような機械を入れたりしとったからね。

大長:当然、職人も増えたのですか。

宮永:職人は、そんなに増えてはいないと思うわ。

大長:何人ぐらいが働いておられたのですか。

宮永:一番多いときなんか、30人から20人の間というくらい。

大長:多いですね。

菊川:そういった戦前の様子と、戦後になっておうちの仕事が忙しくなっている様子を先生は横で見られていた。

宮永:そうそう。横目で見ながら、「うちの経営はこういうようなもんなんかな」というね、感じやった。仕事自体は、戦争中と戦後も継続して同じ規模でやっとったね。窯場は忙しくなると、高学年になっていた私の手でもできるものはやらされた。

大長:やはり軍用だからと、特別な機種だとか、装飾、文様のものを作られていたんですか。

宮永:確実に変わった。もう、ころっとものが変わって、全然違う。紋様が和風でもデザインが一変して洋風になったり。派手な好みになった。

大長:全然違いますか。

宮永:うん。違うものを余分につけ加えてやって、到底、日本だったらやらん(ようなこと)。だけど少しすると、それなりの技術を使ってやるようになったね。(ティーポットを出してきて見せながら)これがその当時、占領軍に作っていた製品やね。

大長:非常に変わったものですね。

宮永:うん。だから、(普通では)見られんような変わったもの。それで、(さっき言った)このマークがこっちには入ってへんやろ。(ティーポットの底を指差しながら)これには入ってる。このマークが、何か意味があるねん。

大長:なるほど。「CPO」(注:米太平洋陸軍の中央購買局(Central Purchasing Office)が日本の製造業者に発注した製品であることを示す)。

宮永:これは「Occupied Japan」とは明らかに違うねん。何で(家に)あるかということはわかっているねん。私が(理由を)覚えてへんだけで。こういうもんは、もう恐らくどこにも残ってへんと思うわ。

大長:そうですね。

宮永:だから、儲け(注:販売用の商品)は儲けやと思うけど、技術的には大正からの京都のやきものの技術を使って、まあまあ丁寧な仕事をしてるわね。

大長:ちゃんとした仕事をされて。丁寧にね。

宮永:うん。丁寧に、そういう占領下で作ってる割には。

菊川:「CPO」と書いてあるのですね。

宮永:そうそう。焼きつけのときからマークを入れてるからね。そういう製品を作ってた。5、6年前まで「CPO」がどういう意味を持ったマークか知らんかったが、最近わかった。

菊川:こういった製品はここには今もたくさんあるのですか。

宮永:何もあらへん。うちにも、もう、これとここにあるものぐらいで。それは、また後ほど話をするけど、ある時期のものがごそっと(ない)。残ってるものと残ってへんものの差がちょっときつい(注:大きい)ねん。この時ほど敗戦のみじめさを子供心にも知ったことはない。

菊川:ありがとうございました。貴重なものを見せていただいて。

宮永:うん。これはめったと(ない)。戦前からの職人が残っていたから、戦後も技術的にはやれたんだね、うちなんかでも。ただ、それは話を聞いてるだけ。例えば、大正期に粟田の窯業地がなぜああいう具合に衰退していったか。では、なぜ五条(の窯)が生き残ったのか。うちなんかで一番はっきりしてるのは、私が子供のときに電動の轆轤以外に、手動の轆轤部屋があって、手回しと蹴る轆轤と両方の設備があった。両方があったということは、京都と他の地域(注:三河美濃地方と肥前地方)の職人が同時期にいたということ。その当時、美濃の方は陶器の商売はあんまりよくなくなっていた。要するに日本中の陶器の職人さんたちが、京都に行ったらどうもちょっと(景気が)上向きらしい、京都へ行こうと考えた。例えば、あんたらの一番わかりやすいのは、鈴木(治)さんのお父さんなんかがこの例になる。

大長:そうですね。

宮永:鈴木さんのお父さんは、美濃のやきもの屋で轆轤の職人屋さんやったのが、(京都に出てきて)永樂さんとこにおった(注:鈴木宇源治。永樂善五郎工房の轆轤職人だった)。だから、やっぱりうちにも美濃や九州から来た優秀な職人さんの一派と、京都から来た職人さんとがいた。さすが京都や。そういうふうに地方から職人さんが当時ごそっと来た。それで場所が狭くなってしもうて、職人さんを住まわさないといけないので、五条から七条の日吉町、泉浄寺の東林町の方へ広がっていく。長屋みたいな、ああいう家の建て方で職人さんの街が京都にできていく。五条も東林町も街中のつくりや感じが似てる。やっぱり外から職人さんを住まわすようにと。親方になったり独立した人も多くいて、京都の産業として大きく成長した。

大長:1935年ですと、粟田が衰退した後ですよね。粟田がやきもの産地としてだめになっていく状況というのは、直接見られていない。

宮永:うん。それがわからへんのや。誰に聞いてもわからへんし…… 知っとったかもわからんけど、爺さん(初代宮永東山、本名 剛太郎、1868-1941)もしゃべらへんし、親父も全然わかってへんからね。

大長:一番の理由は、錦光山さんなんだと思いますけどね。

宮永:と思うけど、結局、錦光山もまあ、私がお寺(越勝寺)などから聞いてる話は全然違うしね。

大長:そうですか。

宮永:そんな生易しいもんではないような感じがする。うちのお爺さんは当事者の一人で知ってたやろうけど、なんにも言わへん(注:初代宮永東山は錦光山製陶所の美術顧問であった)。親父に言うてへんところもあったのかな。粟田には当時、楠部彌弌さん、伊東陶山さんなんかもまだ生存されていたのに関わらず。だから、例えば江戸期からの研究者には貿易があかんというが、それだけで一夜にして(窯が)なくなるということは、本当はあり得へんからね。何かがない限り。何かというのは、やきものだけの問題だけではない。根深いもんがあって。あれを今は皆、済んだ話として、明治の超絶技巧のやきもの一代の物語りのように話すのは良くないことだなぁと。美術館の方のもてはやし方も間違ってると私は内心思ってるねんね。

大長:おっしゃるとおりですね。

宮永:やきものの学会の方はそれに輪をかけて、思慮がなさ過ぎる。物の現実があったって、それにはまだ全然手つかずで、ほったらかし。粟田が昭和の3年までやってるなんて、誰もそんなの言わんやん。現実にはあり得る問題を何もなかったようにするのはよくないことだ。

大長:錦光山さんで言うと、直前まで海外の博覧会とかで賞を獲られていますので。

宮永:そう。だけど結局、錦光山から出た職人さんや他の所の職人さんの話というのも誰も聞いてへんらしい。あれだけの職人さんがいたら、何かのお話として伝わるのが普通なのに。

大長:そうですね。

宮永:だからねえ、あんまり私には関係ないけど、私個人としては粟田焼の問題はなんとしても解決しなければならない問題ではあるとは今も思っている。

菊川:今、お爺様のお話も出ましたけども、初代東山さん(宮永剛太郎)やお父様の二代東山さん(宮永友雄)は、ご自身の窯の発展や京都の地域との関係についてよくお話しされていましたか。

宮永:よく言っとった。親父もよく言っていた。お爺さんの「青(磁)の頃の仕事はもっと評価されてもよい」と。お爺さんが亡くなったのは私が小学校入った年やからね、かわいがってもろうた覚え以外はほとんどないけど。
話がもとへ戻るけど、うちの父の母親は正妻さんと違って、父は外の子供やねんね。だから、父親も家を継ぐと最初からずっとやってるわけでもなかったけれど、私はお爺さんの仕事の話を小さい頃からよく聞かされた。お爺さんの思いみたいなんをよう言うとったな。だからお爺さんは自分では、京焼を再興して失っていた活力を取り戻す力にはなったという自負はずっと持ってたみたいやね。

大長:本当に初代先生は、やきものの世界には関係ないところから入られてるじゃないですか。それというのは、もちろんパリ万博だとか海外を回られるなかで、やきものに出会われた。

宮永:あれはね、明治4年に宮永家が加賀の大聖寺から東京に移転した時、幸田露伴家と近所で同じ町内になって。幸田家とは家族ぐるみの付き合いで、露伴先生の妹とは「おのぶさん」と親しく呼んでいたという。露伴先生の推薦により岡倉天心先生の助手として東京美術学校で美術を学んだと聞いている(注:初代宮永東山と幸田露伴は東京仏語学校時代に居を共にした友人であった)。

菊川:そういった付き合いがあってパリに。

宮永:そうそう。学校に行ってパリに行った後。それがなかったら、そんな簡単に岡倉天心のとこへ、ぽいっと行けへん。この話は宮永家で言われている話で、露伴先生と言うとるだけで、文章があらへんねんね。幸田文さんが「宮永さんという人の湯呑みしかうちの父は使わなかった」ということは書いてるけどね。それ以外何か書いててくれていたら、もうちょっとわかるけど。

大長:本当ですね。初めて幸田露伴との繋がりを聞きました。

宮永:何でかって私らでもわからん。そんな学校出たての人が…… 大村西崖と二人で岡倉先生に採用されるんやからね、そんなん、何かなかったら。岡倉先生とは美術学校以来、院展の手伝いなどをしていたようで(横山)大観や(菱田)春草なんかとは晩年までずっと、わりかた近しい付き合いをしとったからね。菱田春草から筆洗とか絵皿の注文があったりして。この寸法より前の寸法の方が使いやすいからといって。

菊川:東山というお名前を幸田露伴先生がつけたというのもそういった経緯なんですね。

宮永:幸田露伴先生にもらったということはよく言っていた。親父なんかは、紀尾井町の幸田先生のとこに使いに行かされたという話をよう言ってたから。

大長:そうした中で錦光山さんの工房に入られますけれども、その錦光山は初代さんのどこを買われたというのか、というのは何か聞かれてますか。

宮永:元々はパリへ行ったときに、陳列の係で行っとるんだよね。誰と誰やったかな。洋画の絵描きで有名な……。

大長:黒田清輝。ああ、浅井忠ですね。

宮永:違う。黒田よりも下。もうちょっと下で(一緒に)行くんやけど、啖呵を切って「陳列は自分に全部やらせろ」ということを言った。で、日本と全然、陳列の方法が違ったんでびっくりして、それでも頑張って西洋式の陳列の方法でやり遂げたらしい。斉藤甲子郎、黒田清輝、久米桂一郎といった陳列員からの賛同を得てよくできたと喜んでいたらしい。で、浅井忠さんとは博覧会の準備中に懇意になり、錦光山さんとは会期中に種々の相談を受ける。錦光山は会期中にパリに来て(会場)に行くから。(初代のどこを買ったかについては)何でか、そんな話は私も聞いたことない。後年、錦光山の娘と一緒になるねんで。それは知ってる?

大長:ああ、それは知ってます。

宮永:その辺は私も聞いたことないし、父親も言うたことないね。うーん、だけど中澤(岩太)さんよりは、浅井さん個人と相当に懇意な間柄の付き合いをしてたみたい。

菊川:その浅井忠と遊陶園で一緒に新しい図案の研究や、新しいやきものの研究をされるわけですけども、そういったご自身の窯を築かれてからも(注:1909年に築窯)、荒川豊蔵さんとか、(北大路)魯山人なんかが訪れてくると。外部から職人という感じの方ではない新しい方を招き入れるような雰囲気というのが、やはり初代の先生にはあったんですかね。

宮永:あの時代の工場の人って、わりかし京都以外から来てた。魯山人も初めは外注先で来てるわけやからね。外注先で来たとこで荒川さんと会った。この向かいの所に住んで、そのまま1年間魯山人は居座ってたみたいよ。だから、魯山人はうちとは仕事もしていろいろやってるけど。早う言うたら自分好みの物を作る外注先のつもりで来てたんが深みにはまって、陶器屋さんや小山(冨士夫)さんと親しくなって、職業として陶器屋をしたみたいよ。

菊川:荒川さんはほとんどやきものの修行を受けてないままに東山窯の方に来て、工場長を3年ほど務められます。そういった、ぽんと入れてもらえるような雰囲気があったのでしょうか。

宮永:それは任してもええという思いがあったん違うか。それとね、もう一つ。ひょっとしたら、あんたらがわからんのは京都の窯場での指揮のとり方。こんな話ばっかりしてたら、なかなか本筋行かヘんけどまあええわ(笑)。ついでやさかいに。京都とよそと私も本格的に比較したことないさかい、わからんのやけれども、京焼の所以というのは、京窯と職人の組織の形態。うちの爺さんみたいに何も作れなくても陶器屋の親方になれる。よその人はやきものの職業的な技術を身につけるけど、何も身につけないで知識と感覚と何か新しい意匠を工夫するだけでやっていった。それができるというのは、一つには京都のやきものの組織があった。最終的に一番力を持つのが、裏師という名前で呼ぶ職業。京都では裏師というねん。で、裏師という職業の人は普段はどうしてるかというと、釉薬や粘土の調合をしたり、釉薬がけ、それから窯詰め。窯詰めの支配権を持ってるというのが強いわけや。京式の登り窯は独特やけど、製品の上中下というのは窯の場所によって全部決まってしまうねん。だから、製品の一番いいブランド商品を作ろうと思ったら、裏師がしっかりしてなかったら、なんぼ親方に知識があったってよい製品はできない。例えばの話、富本(憲吉)さんの輝いてる作品(注:金銀彩)って、京都製がほとんどやん。泉桶寺東林町光陶苑の北出清さんという窯の裏師が窯の一番トリ(注:後ろ)のいい所、三の間の真ん中を全部、富本さんに明け渡してたという話があるんやけどね。小山さんなんかはよく知ってて、「普通の人じゃ、あんなんやってもらえやしまへんで」ってよく言っていたけどね。

大長:そうですね。

宮永:どこでも裏師がいて、その采配というのが(大事)。どんな轆轤を上手に引けたって、絵を描けたって、「この人は轆轤ができるだけや」「この人は絵が上手に描けるだけや」というだけでは、いかへん(できない)。私のうちでも、やっぱり裏師というのに一番たくさん給料を払っていたもん。よそも多分そういうのを厚遇してるやろうと思っているけど。外から見てたって、ちょっとわからへんような仕事やけどね。釉薬かけたり、薬合わせたりというのは、やっぱりやきものの根本。要するに、焼けてなんぼやからね。
そういうことがあったし、産業としての京都が衰退してしまうのは、まず組織の面と、京式の共同借り窯の窯組織の崩壊。衰退していくのはどの場面からでも説明できるねん。経済だけと違って組織的にも説明できるし、状況が戦後から衰退していくように順番がうまいこと重なってしまった。うまいことって言ったらおかしいけど。衰退のもとは、登り窯をやめたこと(注:1974年に煙害問題から登り窯は使用禁止となる)。その次は絵描きの独立志向が歩みを早めたと思う。
バブルが始まると、絵の手の込んだものが流行るようになるわけや。そうすると、絵描きの需要がものすごく高まる。おまけに登り窯をやめさせられるのと同時に、技術的にも電気窯の普及が急激に高まるようになるねん。そうすると絵描きの取り合いになるわけや。電気窯で少人数でやきものができると、絵描きの方が焼き屋さんより強くなってくるわけよ。そうすると、製品(素地)を買ってきて絵を描いた方が商売としたらええ思いができるわけやね。そしたら、誰もがだんだんそっちへ行った。そうすると轆轤を引かんようになる。だんだん技術は拙くなる。うちにも、そういった影響はどの職場でも生まれてきた。

菊川:有力な職人さんを雇って棟梁が指揮をとるような形態の窯のあり方というのは、先ほどお話しいただいたように、今衰退にかかっている要因にもなったんだと思うんですけど、その分、明治期なんかは特にいろんな方が入ってきて、とても活発な交流というのがあったのだろうなと思いました。

宮永:やっぱり京都へ来たかったということもあったんやろうね。京都には、来たやつを受け入れられる土壌があった。当時は、京都の人よりも地方から来た人たちを受け入れて育て上げるというシステムが動いてたんやろな。多くの地方の人が京都の窯場でも独立する。

大長:そうですね。よそからだと諏訪蘇山さんも金沢の方から来られてますし、瀬戸だったり、美濃、金沢、九州からたくさん見えてますもんね。

宮永:うん、来てたね。魯山人がうちについて食い物の話で書いてるんやけど。宮永の所に来て、瀬戸や美濃あたりから来てる職人が言うには、「食い物ではカエルがうまい」と(注:「蝦蟇を食べた話」『魯山人味道』中公文庫、中央公論社所収)。「お稲荷さんの池カエルはうまいらしい」というような話。それを読むと、やっぱりうちらみたいな所にもそういう地方のグループがいたし、そうすると恐らくよその、清水(六兵衞)家の所にもいた。そういうことに対しては、あんまり目をむけてへんけどね。言うてみたら、鈴木さんのお父さんが永樂さんとこ行ったのと時代的には合ってる。
五条坂では聞かなんだが、蛇ケ谷と東林町には、地方から来てうちで修行した職人さんで窯持ちにならはって工場経営をする人たちというのは何人もいた。私はそれらの人たちにどん底のときによく助けてもらったからね。そういう人たちがいはったから、もう一遍はい上がって(東山窯を)もとへ戻すぐらいのところまでなったんやけどね。

菊川:そういったいろんな方が訪れる工房で先生もお育ちになったということですね。5年生ごろに終戦を迎えられて、そこからまた今度は占領期のアメリカの関係者の方とかとも関わるようになったということで。例えば伏見深草のあたりは、第十六師団など日本陸軍の施設が多くがあったと思います。京都の占領の中でもいち早く接収された場所かと思いますが、地域の周りにもたくさんアメリカ軍の方がいらっしゃったんですか。

宮永:国有地の分配みたいな話はこの辺にはいっぱい転がってるの。軍の基地があったからね。そこにあった空き地、通路とか、特に山の傾斜地みたいな所とかな。で、戦中、戦後は食糧増産する。とりあえず食い物やから。それで、この土地を耕して何年かお芋を納めたらこれだけの土地をあげるとかね。だから、この辺の農家の人はそのときの軍の土地を持ってる人が結構いる。そういうのは、ここに住んでてよく聞く話やな。

菊川:そうですか。やはり占領期に入って、随分、街の様子なんかも変わってくる頃かと思います。先生もちょうど街に目が開いていく頃だろうなと思うんですけど、変わったなというような感じはありましたか。

宮永:うん。それは変わったね。小学校と中学校のときは疎開に…… 学童疎開って知ってるな。

大長・菊川:はい。

宮永:疎開に引率に行ったぐらいの先生が大体(戦時中の)主力やった。だから、その人らはほんまにかわいそう。昨日まで戦争で行っていた教育が敗戦によって、もう全部ね、今までを否定されるわけやから。そのときに私は、何でか知らんけど小学校も中学校も担任が美術担当の先生に当たって。「ここのうちは陶器屋だから理解もあるやろう」というので、そういう(美術の)運動を小学校のときからさせられたね。でも、先生としてもかわいそうやなと。私も疎開したさかいに知ってる人けど。まだその先生は24、5ぐらいやろうね。

菊川:美術の先生が担当やったというお話がありましたけれども、占領されてから教育の内容も変わったんですか。

宮永:変わった、変わった。もう、180度変わってるぐらいやったやろ。

菊川:それは美術においてもそうだったんですか。

宮永:美術って、戦争中に美術なんてあらへんに等しい。何であの先生、敗戦後にあのような画材を持ってはったのかな。うーん…… 持ってはったか集めてきはったか。何人かの先生が集まって稲荷小学校を主体にしてやっていた。そこの小学校、美術運動は、わりかた遅くまで力を持っとったで。今から思うと、やっぱりちょっとは関係あったんやろね。高校、大学に関しては確実にあるねん、先生の繋がりが。なんかそういうレールがあったんかなぁ。

菊川:その後、高校に進まれて。

宮永:高校は伏見工業高校といって私は普通科へ行ったけど、窯業科がある。それが、この高校で船津英治先生との出会いが今の仕事にまでずっと続いていくんやけどね。その高校に、船津英治という人と淺見賢一さんという二人の先生がいたんや。船津さんは沼田(一雅)さんのアシスタントみたいな人やった。
うちのお爺さんと沼田さんというのは、パリ万博のときからの縁で、知り合いであったんやけど、馬が合うてる。二人とも酒呑みでわりかた頻繁に付き合っていた。
昭和に入り、日本家屋の中に洋間の部屋を作って椅子や机を置くような家が流行ってくる。学校の先生に多いけど、どこのうちも書斎みたいなの作らはるやん。それらの新しい意匠の部屋にあう彫像品を陶器で作ろうと、沼田さんとうちでやろうというわけ。それで、船津さんがしょっちゅう来て試作品を作っていた。私は高校入った時から船津さんは知っていて、「ぼんぼん」と言うてくれたから。それで「おまえ、美大へ行きたいんやったら辻(晉堂)さんに紹介したるわ」と言って、辻先生の研究室で学校の話などを教えられた。
話は飛んでしまうけどね、皆今では辻先生と八木(一夫)さんとをすぐ比べてしまうやん。でも辻先生が来た頃は、八木さんは船津さんらのグループの中の一員や。最初から辻・八木であるわけと違うねん。あの頃の辻先生は、前の学校(注:京都市立芸術大学の今熊野校舎)の入り口のとこにあった守衛室が住居やってん。一人なもんやから、船津さんの辺の連中と酒盛りをしていたらしい。よくそんな話を辻先生から聞いた。それで私は美大へ行くようになるんやけど。辻先生は陶彫をやるときに、初めは船津さんのとこに陶彫制作の相談に行ってるねん。それで説明されて、「こんなもんはとてもじゃないけど自分には合わへん」と言って、船津さんの所に行くのはやめてしまうねん。

大長:そうですね。船津さんの陶彫はやっぱり沼田さん経由でフランスのちゃんとした……。

宮永:そうそう。あれ(割型)でやるからね、石膏の型まで自分で作らならんというのはね。あれは私には無理だと辻先生は言っていた。

菊川:今、京都市立芸術大学の話も少し出たんですけれども、芸大に進学を希望されるようになったということで、彫刻科に進まれます。進学することでお父様から何か言われたりとか、ご家族はどのようなご反応だったんでしょう。

宮永:それね、うちの親父は、菊池一雄という東京藝大の先生やった人と中学からずっとわりかた仲のええ友達やって。

菊川:京都が出身ですもんね、菊池一雄は(注:父は日本画家の菊池契月。京都市立絵画専門学校教授でもあった)。

宮永:うん、京都出身。父親とは中学の同級生でしょっちゅう来てた。それで、彫刻科へ行くのにはあんまり文句を言うとらへんねん。そやけどね、うちの親父は作家というもんにちょっと不信感を抱いとってん。どう言ったら…… 親父が死ぬまでずっと続く話になるけど、やっぱり親父は爺さんの思ってた京焼のことを大事に考えとってんな。ずっと。それで、このままでは京焼は衰退して、その後の復興の仕方でも自分の思ってるようなやきものの業界になっていかへん。それはほんまに長い話になってしまうけど…… 要するにね、買う人の目の判断がものすごく変わってきたんよ。バブルの前ぐらいかな。それまではまだその前の時代の人の目があるから、何ていうのかな、什器や磁器に対する見方がある程度わかっていた。うちの親父は京都のそういう戦前の京焼の伝統を守りたかってんね。例えば祥瑞というものは小紋、大紋があって、そして山水の絵はこういう絵で描かなあかんとかいう。そういうもんが、だんだん、だんだん崩れていく。それで工場を価格的な差の上下も見てやっていくということに対して、ものすごく反対しておったんや。それは実際そうなっていくんねんけどね。私も親父の言うとるのは正しいと思ってたけど、今の世の中ではもうユーザーの方がそういうのを求めてへんやから、まあ、あかんやろなと。私はわりかた、京焼の変遷を現場で見ていたのであかんようになるんと見切りつけたのも早かってん(笑)。

菊川:そうですか。

宮永:あかんときに苦労したさかいに、余計そう思うたのかもわからんけど。だから、親はできたら陶器屋さんを続けてほしいと思ってたやろね。ずっと。何とかこの仕事を続けていくようにとね。でも、こっちはだんだん作家になっていくもんやから……。そやけど、私、仕事もよくしたよ。自分で言うのも変やけど、ようしたと思う。学校行って彫刻をして家で家業の陶器屋の仕事をして。真夜中は彫刻をして。

菊川:大学に行かれてるときも、家帰ったらおうちの仕事を。

宮永:うん。僕が大学に行ってる時分はね、今度はどん底が来たときの反動みたいにものすごい(景気がいい)ときやからさ。やれ作ったら売れると、どうのこうの言われて手伝わざるを得ない状態だった。大学3回生の中ごろぐらいからかな、ちゃんと仕事をもらえたのは。彫刻家になったろうと思ったのはその頃からやな。それでもやっぱり、(意識の)どこかには親が言うとる陶器屋もせないかんなと。

菊川:おうちで先生に与えられてた仕事というのは、実際に手を動かして造形をするのですか。

宮永:私ね、彫りをまかされたんやね。轆轤は全然習ってへんし、絵も家では習ってへん。親から習ってやらされてた仕事は、彫りと窯詰め。

菊川:特に習っていないんですか。

宮永:うん。習ってへん、私は。そうやし、私も家に職人がいなかったら、やきもの稼業を続けていくだけの力は持ってへん。だから、彫りはほとんどおまえの仕事だから、全部やるまで…… 釉薬掛けまではお前の仕事だからと、職人さんたちが帰った後でも仕事はよくやらされた。

菊川:そこにあるものを全部やれという感じで。

宮永:そうそう(笑)。それをやったら、あとは何をしに行ってもええけど、自分の仕事だけは全部やっとけと。だから、そういう意味では厳しいといったら厳しい。かわりにデザインを考えろとか、そういうことは言われへん。親父は自分で考えて下書きしたやつを持ってきて、「これをやれ」という。そういうのでほとんど過ごしてきたな。30歳ぐらいまでは。
だから辻先生と堀内(正和)先生、八木さんたちと、私が昔からずっとものすごく緊密な関係で付き合っているみたいに、この頃どうも皆そう思ってるみたい。だけどそんなに最初からと違うのよ、私は。完全に先生と生徒の関係だったのが、1967年、辻先生から週に2日間学校に来てほしいと話があって、親が承知して非常勤講師を受けたことから、両先生には亡くなるまで大変お世話になった。

菊川:先生が大学に入られたときから、ちょうど堀内先生の主導になって、幾何形態を学ぶ新しい授業が始まったところだったという話ですね。

宮永:うん。あんたが言うてたな。

菊川:はい。以前、一度詳しく伺わせていただきました。

宮永:ただ確かにね、今から思うと立体構成の訓練を1年間やるということは、あれを美術教育にとは誰も考えなかった。ものすごいこと。堀内先生は自身の彫刻学習を学生に教えることで。あのときは一つもええと思わへんし、学生にとってはむしろ迷惑やと思ってたけど。

菊川:点・線・面をたどって、1週間ごとにカリキュラムが構成されるという。

宮永:そうそう。そんなもんめんどくさい、下らんって(笑)。こんなの簡単に作れるわと思って、馬鹿にしてたけど。数年後にはこのカリキュラムがどこの美術学校でも基本カリキュラムに使われるようになった。造形(京都造形大学、現京都芸術大学)や精華(大学)や大阪芸大(大阪芸術大学)、各美術学校で彫刻科ができると大概の学校はあのカリキュラムを必ず採用しよるね。私がおかしいと思ったのは、あれは、あくまであのときの辻、堀内の二人の先生の考え方で、他にかわる立体カリキュラム作るべきだと。ところが、ものすごい長いこと続くねん。誰かにどれぐらいまで続くか一遍調べてみてって言うてやろうと思うんやけど。堀内先生本人も「おかしいよなぁ」って言うとったんやから(笑)。

菊川:堀内先生が74年に辞められるときまで、ずっとやってこられて。

宮永:いやいや、それよりもっと後にもやってるし。私はものすごく反対してボイコットして怒られた(笑)。だけどそうやろ、どこの学校でもが。基本的なカリキュラムはほんまは違わないといかんのではないかと。

菊川:そうですね。独自の考え方で進めるべきことですよね。ただ、この時期にも、抽象形態をカリキュラムとして大学で学ぶということも珍しかったと思うんです。例えば日本の美術の中だと、早い例だったら1951年にサロン・ド・メが日本にやってきて、初めて抽象彫刻の実物が見れたということがあったと思うんですけど、宮永先生もご覧になったんでしょうか。

宮永:私ね、その展覧会って見た覚えがないねん。なぜか海外の展覧会を特別に見たという記憶はあまりないなぁ。なぜかなぁ。映画はわりかたよく覚えているのになぁ。

菊川:サロン・ド・メはないですか。京都の髙島屋にも来てたみたいですけど。

宮永:うん。あんまり知らんねんね。そういう記憶というのはあんまりなかった。美術学校入るのに試験があるさかいに、親父から言われて仕方なしに、教習所は通うか通うてへんかぐらいで。当時、丸物というデパートが京都駅前にあって、そこの文化部が新制作(協会)の研究者を雇ってた。カクさん(山本格二)らがいて、そこで彫刻の最初の手ほどきを受けたんや。

菊川:新制作の研究所で習ったというのは人物デッサンですか。

宮永:学校を受けるための人物デッサンと、それから彫塑の模刻も習ったな。でも、模刻は船津さんに高校でも習った。それはねえ、何で彫刻を選んだかというのも、一つはやっぱり船津さんと淺見さんが伏見高等学校の教員としていたから。来いと言うて誘われて。彫刻の教室に顔を出しているうちに彫刻に興味を持った。

菊川:具象的な彫刻に関しては割と早くから触れてこられて。抽象ではむしろ四耕会とか走泥社、やきもの関係の作家さんの方が早かったと言うことでしょうか。

宮永:そうそう。抽象というのはね、全然。あんまり興味がなかった。当時、新制作もそんなに抽象の作家っておらへんしね。

菊川:例えば四耕会の方とかが、花瓶の体裁はしていても抽象的なものも作っておられましたけど、そういうのはご覧になってたんですか。

宮永:うん。興味を持って見てた覚えはあんまりなかったね。私、当時ね、親に内緒で小遣い稼ぎのノンプロみたいな仕事をしていて(笑)。競輪と野球とやっててん。人に雇われて、1回行ったらなんぼという。そういうのは、毎週1回やってたね。どっちかいったら、やんちゃな方やってん。あと、取り仕切るのも好きやったんかもわからんし。

大長:競輪、野球ですね。

宮永:競輪はね、風よけで前走ると、なんぼか後ろのやつが遅れ来よんねん。必ず後方の走者が勝つ。競輪って知らんやろ、君ら(笑)。

大長・菊川:そうですか(笑)。

宮永:そやからね、最初の頃は家で忙しくしてたさかいに、余計そういうものも、いろいろした。親は両方とも知らなくて、アルバイトといった形でずっとやっていた。だから野球やなんかのときには、道具を道路へ全部投げて球団関係の人に拾いに来てもろうて会場に行ってたから。

菊川:では、やきもの関係ではあまり新しい動きはご覧になっていなかったということなんですかね。

宮永:うん。ただ、親父とこへ来る友達がね、そういう話をするのをそばでたまに聞いたり、持ってきたのを見たり。その当時に、親父がよく付き合っていたのは富本さんを助けた鈴木清先生という人でね。小山さんの奥さんの実家で。よく来てはって親父もその時分、いろいろ一生懸命に何かやってたな。藤本の能道さんもその時分、うちの工場に富本さんの紹介で来られた。それで、藤本さんは鈴木さんの依頼で富本さんに頼まれてデザインをしたわけ。

大長:ああ、そうですか。

宮永:うん。欧米風の当時の藤本さんのデザインがあるわ。だから、ちょうどそういう時代やろうな。

菊川:では、大学に行っても陶芸科の方に藤本さんも教員でいらっしゃって。

宮永:うん。よく彫刻科の教室の前を通るので、嫌がってはったわ、藤本さん。またいらんこと言うもんやから。皆、今だに言いよるわ。

菊川:彫刻科に在籍しながら、そういった陶芸家の先生方とも家同士の繋がりで行き来があったという感じだったんですね。

宮永:うん。大学の3年ぐらいになってからな。抽象的な仕事の、いわゆる彫刻家というもんになってみたいと思うのは。だが3、4回生ぐらいからは日本画家の友達と交わるのが多くなったな。アンフォルメル調の日本画を招く友達が何人かいて「ケラ」という美術集団を作って作品を発表していた(注:ケラ美術協会は1959年から1964年まで活動した京都市立芸術大学の日本画科を卒業した若手作家を中心とする前衛グループ)。

(休憩)

宮永:美濃の方では裏師の采配はないのかな。それと結局、京都は独立連房式の窯で、焼き方を室の部屋ごとに全部変えてるわけやろ。ところが美濃やったら、部屋は独立してるけど上から下まで皆同じ。志野なら志野、織部なら織部とできてくるもんが同じように作品を作ってはるさかいに。

大長:そうですね。京都の寄り合い窯は、白磁から色釉まで皆違うものを持ってこられますからね。

宮永:そう。

大長:それがなかなか(複雑な状況を生みますね)。

宮永:私はそのどん底のときにね、よく窯を借りに行って窯詰め、窯出しをやらせてもらった。これはね、熾烈なんよ、本当に。「今日の朝8時に窯が開きますよ」となるやろ。7時ごろ行ったらね、もう開いてるわけや。すると、製品を出すより先に街中へよその製品が出てる。そこから抜きよるわけやな。そういう情報と、産業スパイと。そういうのがまた場所の取り合いの優劣になる。美濃やなんかでは、多分同じ一つの窯元がいろんなもの作ったり考えたりするわけや。けど、京都では一人一人が窯元なのですべてが競争になった。

大長:まあ、そうですね。焚き方としてはそんなに複雑なことはしないですね。

宮永:しないやろな。京都はそれをやかましく言うから、(裏師に)高い給料払っとかんと。裏師はな、窯焚きの助もするねん。3人やったか4人ぐらいずつ。どのくらい京都でグループがあったやろなぁ、あれで。私が知ってる限りでは、この時代はまだ他に窯だけ持っているという人もいはったもん。

大長:窯だけですか。

宮永:うん。窯だけ持ってはって、貸しはるねん。陶器屋さんと違うの、その人は。窯屋さんや。例えば五条坂の菊岡さんがそう。窯に入れて焼くものならなんでも場所を貸して焼いていた。

大長:状況が全然違いますね。

宮永:うん。だから、私らの年代のものにとっては、ついこの間まであったみたいなことが皆なくなった。

大長:そうですね。特に近代というか寄り合い窯みたいなものが当たり前すぎて、誰も記録にとってないですもんね。一気に忘れられますね。

宮永:誰も記録をとってへんのや。聞いても言わへんさかいに、それを伝えてる人もいないし。

大長:そうそう。実態が全然わからないですよね。

菊川:先ほど先生の窯で担当されていたお仕事が、彫りだったというお話がありましたけど、私は不勉強でてっきり轆轤とかも一式、小さいころから叩き込まれるようなことを想像してたんですね。

宮永:そんなんはなかったねえ。ただ、物を見に行くのに連れて行かれたというのは多かったね。

菊川:それは展覧会とか。

宮永:展覧会とかは多かったね。「おもろないけどついて行かなあかん」というのが多かったな。

菊川:「いいものをちゃんと見とけ」とか、「流通の仕組みをわかっておけ」ということなんですかね。

宮永:うん。だから、自分の子供らのときには注意して、こっちの趣味に無理について行くようなことはしないようにしたけどな(笑)。

菊川:職人として技術を継いでいくというよりも、やきもの屋としての商売を継ぐ。

宮永:そう。だからね、要するに「職人は使うもんや」と。「ただし、上手に使えよ」と。窯を経営のことから言うと、結局はお金やからね。何でそうなるかといったらね、ものすごく簡単な話やね。轆轤師、絵描きと二人いて、二人合わせたら、5万・5万で10万円。そうなるわな。売ろうと思っても。結局、それに価値をつけたり、いろんなことするのは、買う方の人が決めてたことなんや。だから、かつてのそういう商売をしてるデパートには、大体、専門領域の人がいた。今みたいな、食品売場から食器の売場に来たなんていうのはおらへん。ところが、戦後のどれぐらいからか販売のシステムが変わってしもうて、場所を借りて売っている。やっぱりその人らにとったら、絵描きさんと轆轤師さんとで作ったもんが10万で、作家のAという人のやつが10万というのは理屈に合わんと。美術品を売るのは物品の販売とは異なる。このことをわかる人は少なくなったな。

大長:そうなりますね。

宮永:それもわからんことはない。だけど、かつてはそれをどこで区別するか、ちゃんとして商売をわかっていた。それを、もうやめにしたわけやろ。それでは製品の質は変わるわな。
それと備前と美濃の土物ブームな。それで、全然、磁器の価値や写しものいうもんが…… うちは土物を作ったって、ええもんはできへん。偽物が出てきてもわからへん。職人を使うということのお金の使い方、それから土物と電気窯の問題と、絵描きのこと、一挙に来るようになった。

大長:そうですね、やはり。

宮永:ただね、轆轤引きはわりかた仕事があったな。

大長:そうですね。それ、よく聞きますね。

宮永:そうか。うちでも一番最後は、私が轆轤をできへんから外注の職人を一人作ってやったもんね。もとには戻らんやろな。仕方ないやろね。京都にせめて外注の職人さんたちが残っていたら現状も少しは変わっていたと思うけど。

大長:京都は登り窯から他の窯を経ずに、急に電気窯に変わっていきますから。

宮永:うちはガス窯やったんや。電気窯も置いたけど、主力はガス窯。

大長:そうですか。

宮永:うん。うちはガスでね。だから、ガスの中にプロパンを入れたり。だけど、どないやろ。結構、京都はガスが多いのと違うか、よそに比べたら。どうなんやろ。私、地方はあんまり、よう知らんさかいに。地方はどないやろ。

大長:美濃の隣の瀬戸だとですね、大正ぐらいからもう石炭窯になってずっと続いていました。登り窯も、大正、明治の終わりぐらいで終わってですね。一部は続いてましたけれども、すぐ、ほぼ石炭窯に切りかわって、1960年に日本で最初のガス窯が瀬戸の陶磁器工場に設置されたといわれています。

宮永:へえ。ああ、そう。京都はそれがなかったんやな。登り窯の組織が長く続いたため、高いレベルの窯元の競争があって、価値の高いものが作れた。

大長:そういうシステムではないですね。

宮永:そういうものかもわからん。登り窯でも、しっかり守っていた関係だった。それでもって全てのサイクルが回るようになってたからね。だからああいう組織ができて、よそから来ても、焼き屋さんになって成功したり、作家になれた。
そうか。確かにそう言われたら、そうやで。電気のね、小さいやつをこつこつとやってはった人が2、3人いはって。電気窯でいろんな焚き方をやってた人がいたけど、なかなか完全には成功しなかった。そうやし、八木さんあたりが使い出した頃には、八木さんの湯呑み茶碗はすぐ割れると言われた。それは結局ね、電気窯をこつこつやってた割合に、ガス窯の経験がなく来てるもんやから、早う言うたら熟成温度が足らんまま焼いてるねん。電気窯はわりかた熟成温度が要るねん。電気窯はわりかた上昇温度がばっと上がって高い。こうすると芯が焼けへん。釉薬と外の周りの土の方が先に焼けてしもうて、中はまだ完全に焼き切る前に、焼き締まらんままに焼成ができて、でき上がったもんが製品に見える。だから、「電気窯はあかん」ということを一時期よく言われていた。そうか、美濃・瀬戸は他の窯にそれぐらいから変わってんのか。京都では電気窯が主流だったな。この変化は登り窯で焼いていては知らなかったなぁ。勉強不足だ。

大長:早かったですね。早くて長かったですね。

宮永:そうしたら、やきものの生産システムがものすごく違うわな。京都はいろんな所でそうしていた。今でも電気窯にガスを導入して還元焼成するところが多い。

菊川:やはり窯がどういうふうに存在して商売が成り立ってるかということで、作家意識も随分違うでしょうね。

宮永:うん。私は違うと思いますよ。京都みたいな組織でなかったら、近代の京焼はないわな。やっぱり、(窯の中で)いい場所が確保できるようになって、いいもんを作るのだと思うけど。
上の代の人はものすごくいろんなもの作ってるわ。我々の年代の頃がもう危ないのや。僕は意識的に自分のやり方を変えていくよう工夫したけど、前の人はそれ以上にもっと変えてる。自分のスタイルというもんを何本も持ってたわ。私よりもう少し下の代は一つの自分なりの技法を手に入れたら、手放さへんやろ。そうすると何年たっても同じ。変えるのがええとは言わんけれども。新しいものへの挑戦がないと前には進まなくなる。

菊川:その辺のお話は、また次回に詳しく聞かせていただく回がありますのでとっておけたらと思います(笑)。よろしいですか。

宮永:うん。とっておいて。

(休憩)

菊川:では、続けてご質問させていただきたいと思います。大学に入った頃まで少しお話を伺ってきたんですけれども、最初の作品の発表ですね。例えば行動美術(美術協会)で発表されながら、京都アンデパンダン展にも発表されます(注:第3回(1959年)、第4回(1960年)に出品)。在学中に発表するというケースは当時は少なかったと伺っていましたが、先生が自発的に発表の場を探しておられたという経緯なんでしょうか。

宮永:そうやな。皆「出す」とか「出さん」というのを先生に聞いて出してきたような気がする。積極的にはあんまり出品する、しないは自身では決めなかった。ただ、行動はね、3、4回生時分のときに学生に人気があった。

菊川:そうなんですか。あの当時、彫刻だと例えば向井良吉さんが。

宮永:向井さんと建畠(覚造)さん。向井さんが東京におった。関西は今村輝久さんと野崎一良さんとがいて。3回生ぐらいのときに個展をしようという大それた気持ちはあらへんから、私はそのときから行動に出したいとは思ってたね。

菊川:野崎さんは当時、京都芸大にいらっしゃったんですね。

宮永:うん。京都芸大にいて私のときは今村さんもいたんや。1年だけやったけどね。

菊川:そういったご縁で。京都アンパンというのは当時の方からすると活気があって、何でも出せる唯一の場所だったというふうに伺ったりしますけれど。

宮永:そうやけど、その頃はそんなに力を入れてへんと思うわ。

菊川:そうですか。先生が大学へ入られた頃にはもう辻先生が陶彫を始めておられたと思うのですけど。

宮永:そうそう。一番全盛やからね。1958年のヴェニス・ビエンナーレ展出品作品を作られていたのが、3、4回生の時分だからね。

菊川:1958年にはこういったもう土の大型の陶彫の作品を作っておられますが(注:《土の歩み》)、大学の窯で焼いておられたのですか。

宮永:違う。それは家で焼いた。これはね、58年やけど、どこにも展覧会に出してへんねん。3回生のときぐらいから、どこかに何か発表したりするのに教授の許可が要るという規約があってん。彫刻だけと違うよ。他の科もどこかへ出すときには許可は要ったんや。

大長:学校がということは彫刻、陶器関係なく。

宮永:関係なしに、要するに大学の規約として、展覧会出品は教授の許可が要る。もっと前は知らんけど、私らのときにはその規約は生きててん。

菊川:この作品は許可が出なかった。

宮永:出したい展覧会があって「出品許可を下さい」と言ったら、辻先生から「この作品は自分の作品と似てるから、あかん」と言って出品を拒否され、展覧会には出品されずに終わった。

菊川:それは「この作品を出していいか」ということで決まっているんですね。

宮永:ああ。大体そうやねん。それでね、当時、先生が言ったのは、「おまえら、わしは本職の彫刻家やから、だませると思うなよ」と(笑)。辻先生は口癖みたいに、ケチをつけるときにはそういう言い方をしていた。最初の頃、そんなことがよくあった。だから、こっち側は「あんたの作品はヘンリー・ムーアに似てる」「イサム・ノグチに似てる」とか言うてよく怒られた。だからその作品は、出品歴のない作品。

菊川:今、広島県美に収蔵されているとあります。

宮永:それは「この作品をくれへんか」と言われて、出品できなかったルールを言ったら、「かまへん」と言ったから。当時はもったいないと思った。だけど美術館ならよいかと。

大長:そうですね。

菊川:前に伺った中で、大学では生け花の流派の所でアルバイトもしてらっしゃったとおっしゃられてましたね。

宮永:それはね、私も最近特に、生け花の仕事のアルバイトというのは結構あったなということを思い出したわけ。それは、辻先生や堀内先生、他の人を介して頼む場合と、個人的にも依頼されることがよくあった。オブジェ生け花の全盛期だったから、それぞれの彫刻家と生花作家の付き合いがあったんやと思うねん。恐らく大阪系が強かったと思うねん。経済的にものすごくよかったと思う。

菊川:その生け花のアルバイトというのはどういう流派ですか。

宮永:流派はそんなもん問わへん。要するに堀内先生とか辻先生がどこかの友達に頼まれて「作ってくれへんか」「学生さんの誰か頼んでくれませんか」と。そしたら「こんなアルバイトあるけど行って作ってきいひんか」とか。

菊川:それは、生け花ディスプレーの基礎作りとか。

宮永:だから、それはきっとね、先生方の方で繋がりがそれぞれが違っていてそれぞれが持っとったと思うねん。辻先生が山村御流という奈良の生け花の家元の仕事をよくしていたし、1回だけ手伝うたから知ってるねん。そういう繋がりがあったん違うかと、私はあったと見てる。だから誰しも、もとを正せば生け花と無関係ではないと思う。だって八木さんの《ザムザ氏》も最初のコレクターは未生の家元の肥家さんだからね。大阪の未生の家元の。

菊川:例えば四耕会とか、《ザムザ氏の散歩》(1954年)の八木さんの走泥社の活動なんかを意識しだしたのも、この大学の3、4回生のころだったんですか。

宮永:ああ、そうやな。八木さんの家の屋根を直しに行ったりとか、よくしてたわ。八木さんなんかは赤貧やったな。当時の生活環境から見ると、言うたら失礼やけど貧しい生活を送っておられたんやろう。当時はね。

菊川:八木さんは正式には57年から非常勤で彫刻家の講師に。

宮永:非常勤になるより前から学校には来て、よく深夜まで辻先生と話していた。

菊川:先生の彫刻科の同級生に、西阪慶美さんという専慶流の方もいらっしゃいますね。

宮永:うん。同級生やったから、何か手伝った覚えは何回かあるけどね。そんなに西阪個人とは私はあんまり付き合いがなかった。大学の時分の私個人の友達の交流は彫刻家よりも日本画家が多かったな。

菊川:ただ、やきもの、生け花、そして彫刻なんかが非常に近い関係の中で作品を作っておられた。

宮永:それはあんまりなかったと違うかな。辻先生とか堀内先生というのは、造形美術の知識が全然ない生け花の方の人にとっては、何ていうか一つのルートみたいなもので。

菊川:美術に近づくルートというか。

宮永:そして、とりあえず生け花そのものが今と全然違うからな。特に、あのころの5年間ほどのもんは。この辺でも小林さんという大きな窯元がいて(注:小林製陶所)、そういう生け花用の花生けばっかりを専門に作っていたぐらい、影響力が大きかったと思う。走泥社、四耕会の多くの人達は、生け花界の人たちとの交流があり、彼らとの交流の中で生活があったのではないかと思う。

大長:そうですね。

宮永:ゲンビ(現代美術懇談会)のメンバーに何人か生け花の人がいないか。

菊川:小原流と未生流の方がたくさんいらっしゃいます。

宮永:それぐらい生け花というのは当時のアートに接近してた。そこで展覧会に彫刻的な要素のもんを出そうすると、自分らにそれだけの力はなかったりする。彫刻家らに相談してみたら、それなら学生一人をちょっと手伝わしてやろうかというので、行って針金を打ったり曲げたりしながら作品を作った。
だから、我々がそういう機運に乗っていたということはなしに、そっち側であったのと違うかと思う。皆が当時のことをあんまり問題にせえへんさかいに言わへんけれども、私は集団現代彫刻のときの勅使河原さんの扱いに、はっきりそれは感じたからね。「自分を彫刻家として遇せよ」という勅使河原さんは、一介の生け花の宗匠と違うんやわと。(注:集団現代彫刻展は1960年から1962年まで東京西武デパートで計3回開催された。)

大長:そうでしょうね。

菊川:先生は彫刻科にいらっしゃって陶器の作品を作っておられたんですけど、やきもの作家による彫刻的な作品をどのように見られていたのかなと思いまして。

宮永:それはね、一番私にとっても大事やし、皆も誤解して理解してくれへんところで。私は走泥社に入る前までね、陶器の展覧会っていうのは一切出さないつもりやったし、初めからそれは宣言してて、親しい皆にも公言してたんや、偉そうに。走泥社に出してからも、そのこと自体は変わってへんのやけど。いくらか後ろめたい気がしていた。
それには前段階があるんやけどね。走泥社出品の3年ほど前に、京近美が陶器の展覧会をするからと頼みに来たから「嫌や」と言うたんやけど、出してくれと言われて(注:1970年、71年に「現代の陶芸」展を開催)。それが体よく仇になった。それで、陶器の展覧会に出してるのに、八木さんに「どこにも出してへんのやったら来い。わしらと一緒にして、どこに不足があるねん」とか、何かまあ、脅迫されるようにして、走泥社へ出さないといけなくなった。だから、走泥社へ入っても陶器というものに対しての興味は持ってへんねん。ずっと陶器をやってるという自覚で入ったわけでもないし、やろうという自覚もなかった。今でも陶器を作っているというよりも土を素材に造形しているという感覚の方が強い。そんなこと一々説明して言うのもあれやから、もう言わんようになったけどもね。

大長:わかります。先生みたいに、このような彫刻の作品を作られている中でですね、50年代の頭ぐらいは、いわゆる前衛陶芸と言われるような四耕会とか走泥社の方々って、はっきりと用途のないものを作る以前で、口が二つあるとか三つあるとか、生け花との流派の方々との合同展をやったりとかですね、いろんなことをされてると思うんです。変わった形の花器を作っているような。それがやきものの世界では新しいというふうに言われてたんですけれども、そういう状況をどのように見られてたんですか。

宮永:だからね、私はそれはやるまいと思っていた。何でか知らんけど、四耕会の宇野(三吾)さんにも、私はわりかし若い頃から可愛がってもらった。だけど、彫刻家としてやっていこうと思ったときから、いわゆる「変てこな口をつけたやつはやるまい」と思っていた。それは当時から四耕会の人の作品を見てても、全部そう思ってたし、走泥社の作家の多くも変形の花器作りで生計を立ててる作家が当時多かったしね。あれは何ていうか、私は両方とも否定してたんやな。彫刻家としても否定してたし、陶芸家としても否定してたね。普通の花生けを作る機会は、何回かぐらいやったかなぁ。人と比べても圧倒的に作ってないねん。だから、大長君が言う質問に対する答えになっているとは思わないけれど。今の自分でもはっきりとした返事ができないでいるから。

菊川:そういったお考えがある中で、ゼロの会結成に参加されてくのはすごく納得ができるなと思いました。ゼロの会については以前、坂上しのぶさんが詳しくインタヴューされたので、今回あまり踏み込まないつもりなんですけれども、その中で、毎月、読書会のような趣向の研究会を行われてたということですけど。

宮永:うん、そうや。読書会というよりもね、主題を必ず誰かが前回に持ち出して、それをその次のときに全員が読む。ほんまに生真面目に十分に毎月やった。10年やったけど、十分にやったのは9年や。ようあんなものやったもんやと思うけど。ほんまに、お酒も飲まずお茶だけで。だけどあの9年で作品に対する対峙も十分勉強できたと思っているし、ありがたいことだった。

菊川:絵画と彫刻とあと文学者の方10名程度で集まってやられてたということなんですけど、例えばどういった内容についてでしょうか。

宮永:本当に多議やったで。

菊川:海外の新しい流行について議論するとか。

宮永:それはあんまりね、海外のどうのこうのというのはあんまりなかったけどね。結構ね、安保やらはやったな。政治的なことはわりかたあったな、話の中に。

菊川:50年代はデモクラート(美術家協会)であるとか政治的傾向を持つ会も多い中、このゼロの会は何もコンセプトを持たない。けれどやはり1960年前後ということで、安保に関する関心は高かったんですか。

宮永:高かったな。やっぱり話題の中では多かったように思う。それから、個人的な悩みの相談みたいなのがわりかた多かったように思う。例えば「自分がこんなに苦しい」、「この解決方法はどんなことやろう」とか。活動の仕方も今から思うともうちょっと方法があったやろうと思うけど、それ以上にはお互いに突っ込まへんねん。だから、展覧会するところが精いっぱいやったね。そして展覧会にも会とした主張を展開することはできなかった。

菊川:激しく議論して、喧嘩になるとか。

宮永:喧嘩になるとか、それで誰かが途中でやめるとか、それに対して場を持つとかということはなかったから、長続きしたかわりに結果的に消退した。それぞれ全然違った道を選んでお互いに認め合いながらやっていくようになってしまう。あの時分の最初のころはやっぱりアンフォルメルの時代やから、そういう傾向に集まってくる。そういう時代で話し合いもやっていけるというと。5年ほどたつうちに、美術は万博の辺からものすごく変わってくるやろ。もの派やプライマリー(・ストラクチャーズ)が出てきたり。あのころから、作風的にも全然違う方向へ皆がばらばらになった。それでも続けてやっていた。だから、ゼロの会といってちゃんと取り上げる人はあらへんと思う。取り上げにくいからな。展覧会も見せるのは二の次みたいな考え方がちょっとあったぐらいで、会としての展覧会というよりは、10人の会員個人の発表。そういうような考え方やったから、今から思うたらその点が弱いな。

菊川:安保の話なんかもよく議論されたとおっしゃっていましたね。例えば、皆さんでデモに行かれたりも。

宮永:行かない。私は、そんなもの。だから今から思うと、あの10年は確かに貴重やったし、いろんなこと考えたし、私らの知らんことを皆が教えてくれたね。何やったかな、スペインのギター弾きパブロ・カルザスなどの話や、土肥(美男)さんなんからは、クレーのいろんな面を教えてもらった。知識力はこの時期としては十分に得られた。

菊川:バウハウス系の雑誌なんかをよく読まれたそうですね。

宮永:雑誌は違うねん。あれはまた別。わりかた話し合いの場やったから。展覧会は1年に1回、大陳(注:京都市美術館の大陳列室)を借りようかと。そうなってくると大陳を埋めるだけの作品が要るわね。それで持っていった。
結局、生み出したものからお互いの友情ができたというものでもないねん。今から考えるとメンバーの年代の差も大きかったと思うんや。私らが22、3でしょう、入った最初のころ。そのころ、上田(弘明)さんとか、関根(勢之助)さんはもう40近かった。リーダーもおらへんし。展覧会だけはいつもゼロの会の展覧会といって、皆に興味をずっと持ってもらえたけど「ゼロの会員の何々です」と言うた作家はおらなかったと思うよ。

菊川:非常に年代の幅もあるし、また、絵画、彫刻といった美術だけじゃなくて、文学の方とかが入っているのも、とても特徴的ですね。50年代の前半ですと、さっきのように生け花とかやきものとか、ジャンル縦断的な傾向もありました。

宮永:うん。それは初めから文学の人たちが、どういうのかな、積極的に参加していて。似てることは似てるんやね。そうやけど、皆と手を取り合ってというほどすごく縦断的というわけではない。その当時の現職の大学教員が3人もおるもんね。結局、私個人としての人間性は確かに広がったけど、作品そのものにゼロの会が与えた影響というのはそんなになかったように感じる。どうしたらよかったかということは、今でもわからん。あれでよかったのかもわからんし。関根さんなんかは、ゼロの会に入って一番はっきり方向性を出した。

菊川:大きく飛躍があったかもしれないですね。

宮永:そうそう。関根さんはそういう作家と違うかなと思う。

菊川:先ほどアンフォルメルの話なんかもありましたけども、近くで活動していた具体美術協会なんかは皆さん視野に入っていたんですか。

宮永:具体はあんまり。ほとんど付き合いもないし、展覧会の何かのときに出品者として一緒になるときはあったけど、私個人としてはあんまりなかったね。

菊川:皆さん、新しい海外の情報はどういうふうに手に入れてらしたのですか。

宮永:私はその時分は、『ドムス』と何やったかな。あんたにこのあいだ見せたやつ、ほとんどこれをとってたね。それがほとんど海外からの情報の収入源。

菊川:『カイエ・ダール』。個人で取っておられた。

宮永:それは自分でとっていた。平安堂という書店から購入した。

菊川:そうですか。そういった方は多かったんですか。

宮永:どうかな。皆似たり寄ったりだったと思う。それとね、私の場合、展覧会のデビューがわりかたよかったから画廊の付き合いがあったな。やっぱり一番大きかったのは、京近美のやってくれた現代美術の……。

大長:「現代美術の動向」展(注:京都国立近代美術館で1963年から1970年に毎年開催された展覧会。1964年と1965年に出品した。)。

宮永:あれを2回続けて出したさかいに、随分いろんな画廊が呼んでくれたり、注目された。結果的には良し悪しもあったけれど。

菊川:「動向」展は64年ということで、渡米して帰ってこられてからです。それまでというのは、海外の情報があるのは画廊さんなどですか。

宮永:海外の情報が特に入ってくるようなのはあらへんけど。

菊川:周りの方で詳しい方とか。

宮永:そうやね。だけど土肥さんらにしてもそんなに新しい情報はあんまりなかったね。雑誌は私は家の形勢がよくなっていった時分から本屋さんに頼んで10年間ぐらいとって見てた。それともう一つね、彫刻はね、この版ぐらいの何かシリーズみたいなのがあって、(オシップ・)ザッキンの辺からわりかた新しい作家までずっと出してる本屋さんがあって。

菊川:洋書ですか。

宮永:洋書。写真集で。それは個人でとってたね。大学になかったね、そんなの。ちょっとたってから、ヘンリー・ムーアとかマリノ・マリーニの画集がオニオンで売られるようになって、あの辺の本を買って見るのが、まあ、海外作家の動向だった。

菊川:例えばハーバート・リードの『彫刻の芸術』の翻訳が57年に出ますけど、皆さんも読まれたんですか。

宮永:そうそう。あれは必ず読んだ。ゼロの会でも何回もやったから。

菊川:そうですか。『近代彫刻史』の方は翻訳はもっと遅いですけど、他の翻訳のものを勉強された。やはりリードは皆さんにとって重要だったんですか。たくさん翻訳は出てましたから(注:『彫刻の芸術』宇佐見英治訳、1957年、みすず書房。『近代彫刻史』二見史郎訳、1965年、紀伊国屋書店など)。

宮永:翻訳した本を読んだ。読んどかなあかんという強迫観念みたいな。

菊川:学生さんの中でもやはりそういうのがあったんですね。

宮永:あったよ。美術雑誌を持ってくるぐらいの値打ちがあったんちゃうか、あの時分は。

大長:リードの他に、皆読んどかなきゃいけないとか、見ておかなければいけない情報とかというのは、時代の中であったんですかね。

宮永:うーん…… 私があんまり興味がなかったせいもあるのかもわからんけど、取り立てて映画も文学に何も興味示さなかったね。そういうことには無頓着やったかもわからんね。京都近美の学芸員やギャラリーココの柴谷(清子)さんなんかとは、美術の話をよくしたな。

菊川:ヨーロッパの美術雑誌をとられたりしていますが、アメリカに関しては。

宮永:アメリカに関してはね、それはなかった。アメリカは、私らの行った年代は少し早すぎのたのかな。本当にもうちょっと遅う行ったらよかったと思っている。どう言ったらいいのかな、アメリカ側もそんなにウエルカムではないわけでしょう、結局ね。要するに、自分たちが戦勝国で敗戦国の人が来て。やっぱり端々に感じるからね、どうしてもね。まして京都から行ってるさかい、おまけにプライド高くて行ってるさかいに、余計に衝突した(笑)。別にそんなにね、衝突というほどの衝突はしてへんやけど、まあ「くそったれ」という気持ちを持って帰ったんは確かやからね、それは。

菊川:そうですか(笑)。渡米の話が出ましたので、あわせてお聞きしたいんですけども。1960年に専攻科の方も中退されて、ロサンゼルスに行かれます。これが元々、宮永先生の窯にジェリー・ロスマン(Jerry Rothman)というアメリカの陶芸家がやってきて滞在制作していたということがきっかけだったという話ですが、そもそもなぜ東山窯に来ていたのでしょう。

宮永:戦後の占領期の話にでた龍村平蔵さんが親父の元を訪ねて「アメリカで陶芸の勉強をした青年で理吉くんと歳が似ている子なので、ちょっと面倒見たってくれへんか」と言ってきた。来日して商社で陶器のデザインをしていたジェリー・ロスマンは、ピーター・ヴォーカス(Peter Voulkos)の弟子だった。ロスマンはそれ以来、2年間くらい週末に来てわが家の仕事場でやきもの作りをした。彼のやきもの作りはユニークなものが多くて、私を驚かせたし新しい眼を開かせた。それで、ヴォーカスのいるカリフォルニア大学バークレーで勉強をするつもりで渡米したんや。ヴォーカスのもとに行くとヴォーカスは大学と陶器をやめて鉄の彫刻に転じていてこの計画はなくなった。ロサンゼルスのジェリーと同宿し、月曜から金曜日はランプシェードの工場で働き、土日はロスマンの友達の借りていた工場で作品を作っていた。

菊川:ジェリー・ロスマンは工業デザインを元々勉強してたという話で。アメリカへの輸出を行う三郷陶器のデザイナーとして日本に来ていた。名古屋にもいらっしゃった。

宮永:そうそう。三郷陶器のデザイン。

菊川:東山窯ではどういうものを作られたんですか。

宮永:お皿を作ったり、彫刻を作ったり。「こういう作り方あるのか」と。彼らは、要するにセオリーで作っていないから、部分的に作ったり、ひっつけたり、日本ではしない技術の仕事をした。登り窯が当時あったからね、辻先生と一緒で差し障りのないものは焼いた。月の週末2、3日いてやきもの作りをしてというような繰り返しをしとったかな。

菊川:では、東山窯が得意としているような青磁の作品なんかは。

宮永:そういうもんは全然せえへんだ。

菊川:勉強はされなかった。そうでしたか。もう彫刻的なものを作っていて、それを先生は見られて。

宮永:そうそう。彫刻を作ってた。やっぱりやきもの屋の倅が見てるプロセスと全然違う。何やったってできればいいんやから。なるほどなと思った。

菊川:当時のロスマンはどういうものを作っていらしたんでしょう。60年以降の一つ代表的なもので、穴のあいた花器のような〈スカイポット〉というシリーズ、こういった作品なんかを当時も作っておられたんですか。

宮永:いや、これは作っとらんよ。抽象的な、立体造形的な作風だったし、ロクロの上で作るものも大きかったなぁ。

菊川:もっと自由な……。

宮永:どう言ったらいいんか、何か絵の具を下に敷いて、土を上にかぶせて、文様を作ったりしてやっとったな。これはおもろいやり方やなと思って見ていた。だから、ちょっと前衛っぽい。本人自身もそうやったね。ユダヤ系の人やったけどね。だけど、渡米後しばらくしてロスマンの友達の仕事を多く見学させてもらったが、どの作品も大きかったなぁ。

菊川:彼が京都に来るまではヴォーカスの存在はご存知なかった。

宮永:全く知らん。ヴォーカスなんて、本当に知らないんだもん。

菊川:ロスマンがこんな方がアメリカにいるんだよと教えてくれてた。

宮永:うん。それまでこっちは、アメリカの陶器というのは民芸系のものやというふうに紹介されていて、濱田(庄司)さんとかが行って指導したりしている、その範囲だと思ってたからちょっとびっくりした。だから、金子は当時名古屋でロスマンの友達の小川(智)という二紀会の画家の弟子やったんよ。

菊川:金子潤さんですね。

宮永:しかしアメリカから来た作家にしたら、陶器を日本で作ったというのは早いんと違うかな。1958年だからね。

大長:そうですね。早いと思いますね。

宮永:50年代で来て、4、5年おったと思うのよ。

菊川:その当時、海外の作家が陶芸をしに日本に来るということは……。

宮永:聞いたことがなかったもん。

菊川:イサム・ノグチぐらいしか、私なんか知らないですけれども。

宮永:うん。イサム・ノグチも陶器なんて思ってへんしね。学生時分に科目関係なく、カタログ見て「あっ」と思ったぐらいでね。

菊川:戦前、30年代に宇野仁松さんのところでやきものをやっていますけど。

宮永:お相撲みたいの作っとるやろ(注:《桃太郎(えらやっちゃほい)》1932年)。

大長:そうですね。

菊川:戦後に京都の窯元へ来ていたということはあんまり伝わってないですね。

宮永:イサム・ノグチの京都での話は、全然知らん。辻先生の話も知らんのや。

菊川:そうですか。(辻晉堂との付き合いで)京都市立芸大にも来ていたという話です。

宮永:何回か来てた。それも当時は知らんの、私。

大長:龍村さんがロスマンと知り合ったときというのは。

宮永:龍村さんが何かやった仕事のデザイナーが、ロスマンのおった三郷の海外商事の仕事をした仲で知り合ったみたい。上野山(エイシ)さんという三郷陶器のデザイナーが連れてきたわ。龍村さんとうちとは仕事の付き合いがあったから、しょっちゅう来てはったからね。龍村さんも軽い気持ちで話を持ち込んだようだった。

菊川:龍村平蔵さんなんですけども、東京大学で美術史を修めたあとヨーロッパで勉強されて。やはり新しい美術に関しても見識のある方だったんですね。

宮永:あの人はそう。ほんまに幅の広い教養人やね。それで、ちゃんとした厳しい人やった。織り屋さんという仕事も多岐にわたるのも、すごいものやなというほど。龍村さんが職人さんへ注文しているのを見たが注文のつけ方もすごかった。

菊川:恐らく語学もご堪能だと思うんですけど、龍村さんを通じて外国の作家さんがいらしたりは。

宮永:そんなんはなかった。ロスマンだけやったな。お手伝いに私が龍村さんに会いに行っても「おおきに。ご苦労さん」と言ってくれはる。

大長:龍村さんはが東山窯にロスマンを連れてきたときというのは、ロスマンがこういう変わった仕事をしていたから?

宮永:いや、私がそういう仕事をしてるさかいに「あんたやったら合うかもわからんさかいに、ちょっと面倒見たってくれへんか」って言って来た。

菊川:東山窯の技術がということではなく、宮永先生が彫刻に陶器を素材で使っているからということで。

宮永:彼は日本でそういう作品を自由に作りたいという希望があった。それも京都というところで作りたいと。それで窯場の前のところの一棟を貸し与えといて、勝手に来て作品を作ったら帰ったらええという関係だった。喜んでよく作品を何点も作っていた(注:ロスマンは来日時、「ロスマン陶作展」(愛知県文化会館美術館、1958年9月)や伊勢丹(東京)のギャラリーなどで作品展を開いている)。

菊川:ロスマンは京都に来て宮永先生とお話しされたりして、京都の陶芸のあり方にどういう感想を持ったんでしょうか。

宮永:あんまりね、勉強家ではないの(笑)。そういう方のタイプと違って。だけど体験したい。やり方は自己流でやるというタイプや。それぞれあるやん。 あの時分は、龍村さんもいろんなもんに手を出しはったから。村野藤吾さんの仕事を多くやっておられた。辻先生に村野藤吾さんを紹介したのも龍村さんだった。

大長:ああ。村野藤吾さんの建築とね。

菊川:上野山さんというのは。

宮永:1回か2回ぐらいかな、名古屋で会った。そんなには私もよく知らん。デザイナーやった。室内デザインかな。あんた、寺さんって知らんか。河村熹太郎の娘婿の友達だったなぁ。名古屋で美術系大学の先生もしていたな。

大長:聞いたことはあります。

宮永:寺さんの友達やったなぁ。それは後から聞いてん。寺さんに聞いたらわかるか、もう死んでるやろうな。河村さんも亡くなっているから。だから、ロスマンは勝手に来て勝手にやって、登り窯で焼成して作品を残した。

菊川:そのロスマンに、ぜひヴォーカスを紹介するからアメリカに来ないかと誘われた。

宮永:そう。だからロスマンがそう言うさかいにぜひ行ってみたいなと思った。

菊川:ヴォーカスの弟子ではジョン・メイソン(John Mason)とか、向こうに具体的にはどういった方がいらっしゃったんでしょう。

宮永:あの時分、誰がいたかな。

菊川:ケン・プライス(Ken Price)さんとか。

宮永:ケン・プライスはおったな。名前を言われると忘れとるね。当時のロサンゼルスのヴォーカスの多くの仲間のところに、連れていってくれたわ。どんな所か、誰と会ったかとか多くは忘れたけど、その辺はまだ覚えてるねん。ポール・ソルドナー(Paul Soldner)はまだ樂焼をやってへんかったなあ。

菊川:当時、向こうの作家たちというのはどのような反応だったんでしょう。

宮永:どうだったろうね。語学が堪能でなかったから、そこまで聞いたことはなかったけど。ロスマンというのは大変親日的やったわ。だから、我々の仕事や日本というものに対しても尊敬の念は持っとったわ。だけど、他の作家が皆そうかというと、やっぱり60年代はそうではない。国民全体がね。

大長:そうですか。そもそも、ヴォーカスとかですね、そういう人たちを先生は陶芸家という目で見に行かれたんですか。

宮永:初めはね、そう思ってた。ちょっと見た感じでは、最初の日本の生け花の花器のような作品から、立体の抽象作品の作家が90%ぐらいやった。我々はまだ全然知らんわけやろ。日本で見ていたやきものとは制作方法も目的も全く違っていた。こんなこともやきものでやるのかと。

大長:まあ、そうですね。

宮永:だからやっぱり「ああ、あるんだ、こんなの。こういうのもありやったらできるな」と。自分の作品でさっき出してないと言ってた作品あったやろ。その辺の作風は日本で制作しても可能だと思ったね、これはありやと思って。だから、アメリカに行った影響がないかって言われたら、あったんやろうな。部分品で形を作って、それを組み合わせて1組の作品を作ったり。全部と違うけどね。要するにパーツをべこべこ後からひっつけて一つの形にした。やっぱり、そういうやり方は日本でそのとき誰もしてへんかったからなぁ。

大長:やってないですね。

宮永:それから、物を挟んだりして骨組みを木造で作ったり、外したり、よくこんなことしてるなと思った。「焼けるのか」って聞いたら「焼ける」って言うから、「へえ」って。日本やったらそんなことせえへん。見たことない世界を見たわね、そこで。日本に帰ってからしてやろうと思ったわけじゃなかったけど、今、あんたにそう言われると、パーツで作ったりということは、ちょっとぐらいはそのとき(頭を)よぎってん。パーツで彫刻を作るなんて、この見聞がなかったらせえへんかもわからんね。

大長:向こうに行くとかなり大きなものを作られてたと思いますね。

宮永:大きい。全部が大きかったね。何せあのころ京都では、登り窯で大きな作品は窯の入り口に入らんから、焼くことができないと思っていた。でもアメリカでは作った作品にあわせて窯を作って焼くのだから、日本では考えられない方法があることに驚いた。

大長:そうですね。

宮永:彼らのとこにあったのは全部ガス窯やったしね、そのときも。その台車の上にさえ乗せれば、それが全部焼けるわけやし。

菊川:ロサンゼルスでいろんな作家さんの工房を回られた後に、今度はニューヨークの方に行かれてアート・スチューデンツ・リーグで勉強された。

宮永:それはビザ取るために。ある弁護士からアート・スチューデンツ・リーグはすぐ入れてくれるから、行ってビザを取れと聞いた。ニューヨークはだからね、滞在するつもりで行ってへんねん。ロスでヴォーカスのところでの仕事があかんようになって、学生時代から一度行きたかったメキシコに単独旅行したけど、もうひとつ住みにくい。メキシコからまっすぐ帰ろうと思ってたんを、せっかく来たんやからニューヨークに寄って帰ろうと思って行った。
行った先で会ったのがポインデクスター・ギャラリー(Point Dexter gallery)。欲があって、ちょっとでも画廊を見て回ろうと思って入ったら、マネジャーが声をかけてくれて、「うちに日本人の絵描きがおる。すぐに電話してやろうか」と言う。それで電話してくれて、その日本人が画廊へ来て、「そんなに早く帰らんでも、ニューヨークでちょっと遊んで勉強して帰ったらどうや」って。それが高井貞二さん。ものすごい売れっ子の画家で、猪熊(源一郎)さんと張り合うほどの。後から知ったんやけど行動(美術協会)で一緒やったんや。そのポインデクスターという画廊に見に入ったのがついていた。オーナーがね、缶詰屋さんって言うてたわ。そのマネジャーがまた気のいい男で、30代の青年やったと思うけどアパートや仕事も探してくれた。それでビザを取りにアート・スチューデンツ・リーグに。彼がいなかったら私のニューヨーク生活はなかった。

菊川:籍だけがあるという感じ。

宮永:そう。籍をとって2週間に1回ぐらい行ったかな。

菊川:アート・スチューデンツ・リーグでは何専攻に。

宮永:何かデッサン習うてたな(笑)。だから、何でもよかったんちゃうか。ビザが必要なので研究所みたいなもんやろ。彫刻や版画の部屋があって、どっちに行っても何も言わはらへんし。あとはポインデクスターから紹介してもろうたアルバイトを二つほどやった。刑務所のアルバイトも行ったな。囚人さんは暇やから絵を教えに。それもめったと行かへん自由の女神の横の島の刑務所。
ちょうどそのときはね、岡田謙三と川端実と、それから猪熊さんと、3人ともがニューヨークに居住していた。川端さんは知らなかったけどね、岡田さんは人が紹介してくれて、猪熊さんとは私の友達の従兄弟やというんで、二人を知った。そのときに岡田さんは「美術家にとったらニューヨークは仕事するのは一番いいとこやで」と、猪熊さんは「君、そんな苦労するよりは、帰って日本でしっかりやった方がいいよ」と言う。「違うこと言うんやな」と思った。やっぱり行っている境遇が違う。そのときちょうど岡田さんは、一番頂上。60年代はおつゆみたいな絵を描いていた。猪熊さんは、あのとき何かちょっとしたトラブルを起こして来てはったらしかった。親切にしていただいたが、もう一つ元気がなかったようだったな。ニューヨークはロスでの生活とは全く違い、生活の変化に驚いた。制作活動はほとんどせず、一人の個人として働いたり遊んだりと日常生活を過ごしたので、現実生活のアメリカを知った。その当時に現地に住んでる日本人たちを知って、すごいショックを受けたね。

菊川:当時ニューヨークで出会った日本の作家さんというのは、先ほど挙げていただいた以外には。

宮永:確か、思っていたより多くの人が住んでいたと思う。わりかたいたね。文化業界のね、何か細密画みたいの描いてる女性や、それから、その時分のアメリカへ来てる日本の人たちは、どういうのかな、生活に苦労してはったね。サラリーマンの人はほとんど単身赴任やろ。家族連れなんておらへん。特に日本とニューヨークは朝晩、時間が逆になる。そうすると、ニューヨークの駐在員さんたちは、夜と昼とが逆転した仕事をしはる。だからいろんなトラブルがあったり。「えらいとこ来たな」とかね、「すごいことが起こるんだな」とは思ったりしたことはあったけど。それがね、5年たった後に行った人は私のようなそんな経験、誰もしとらへん。日米の関係も大きく変わっただろうね。

大長:そうですよね。

菊川:60年、61年のニューヨークは、ポップ・アートもわっと出てきて。

宮永:そうそう。だから、絵描きの金持ちが出てきた時代やったと思うわ。ポインデクスターのマネージャーの話では、何か夢みたいな話で。どう言うたらいいの、「ほんまの話ししとるのか」というね。

菊川:抽象表現主義がアメリカの方では終わりかけていて。

宮永:そうそう。もう終わりやったんや。

菊川:何か印象に残った展覧会とか画廊さんはありましたか。

宮永:いや、あんまりなかったね。(マーク・)ロスコ(Mark Rothko)とかあの辺の絵を見て「ああ」と思ったりしてたんはずっと覚えてるんやけど。一夜にして絵描きが出てきたなんて話を聞いて、「どんな絵やった」「こんなんやった」と見て、「えっ、こんなんなの」って。要するにアート全体がニューヨークに移りかけて、美術の世界が大きく広がった時期かな。今から思うと。だから、もっといていたら、いろんなのを見ておもしろかったかもわからんけど、ちょっと違うし。よかったんは、私のすぐ後に同じようなとこへ行きよったのがヨシダ・ミノルやな。この期間に来た人が、わりかたアメリカでの制作活動などを満喫してるねん。だから、私は結局ニューヨークの何かを身につけて帰ったとか、見てあれをして帰ったとかという覚えもないし、こういう作家のものを見て感動したとか、「俺もこういうふうなのを」とは思わなかった。ニューヨークがもうひとつだったのは、自分の仕事が持てなかったから、浮き草みたいな生活しかできなかったということもあったと思う。

菊川:ロサンゼルスやニューヨークに移られたときも、ご自身のやきものの作品なんかは持っていかれた。

宮永:持っていってへん。ロサンゼルスでの作品は全部ロスマンに任せ、スクリプス大学で管理してもらったと(手持ちのノートに)記録している。

菊川:写真を持っていって、画廊さんに見せたりは。

宮永:写真は持ってた。うん。見せたりした。紹介してもらったりすると、言われたもんね、やっぱり。「最低、必ず10点は作品を持て」というようなことを、どの画廊の人も大概言ったね。「リクエストするのはこっちやから、リクエストが来たときにすぐに応えられる用意をいつも万全にしておけよ。それができなければアメリカで作家として生きられへんよ」と。もう一つ、「作風をいつも点検しろ」とどこでもよく言われた。

菊川:点検というのは。

宮永:「同じ作品で同じ作風やったら、二度と持ってくるな」と。新作には必ずそこに新しい視点がいる。それは要するに、基本は変えるなということ。「基本を変えると客は嫌がる。そして、客はいつも次のあんたの新しい取り組みを欲しがるわけやから、それをいつもここで点検していけ」と。そんなの日本で言われたことがなかったからね。「そうや、作家というのはそうして生きるもんや」と思った。あれが、私のアメリカ修学の一番の収穫というものやった。

菊川:ヴォーカスのような陶彫作品を取り扱う画廊というのは割とたくさんあったんですか。

宮永:いや、たくさんあらへん。何人かのコレクターがいたようだったが、専門の画廊があったかは知らない。

菊川:当時としてはどういう状況やったんでしょう。

宮永:専門の画廊は少なかったで。皆、作家は自分のアトリエに全部(作品を)持っとったな。ヨーロッパの有名な作家の展覧会っていうのはニューヨークで、わりかたしょっちゅう開催されていて、展覧会を見に行く機会は多かった。ちょうどアメリカに市場が移りつつある最中かな、60年っていうのは。

菊川:こういった、ヴォーカスとか彼らのやきもの作品なんかは、当時としても新しかったんですか。

宮永:ヴォーカスは売れていたようだった。自分で言ってたもん。陶器をやめた理由を聞いたら、「陶器は安い、彫刻は高い」と。「わしはそんな安く作品売るのはもうやめたんや。それで金属に転向するんや」と。そういうもんかと思ってそのときは聞いたけど、彼はそう言ったな。現実にサンフランシスコのアトリエには陶器はなくて、大きな鉄パイプの制作中の彫刻があった。

大長:じゃあ、ヴォーカスのあのような作品であっても、向こうで言うと彫刻としては見てもらってないってことですよね。

宮永:うん。だから、彫刻家の方がはるかにステータスが上だし、陶器屋は下やと。だから、「わしはもうこれからは彫刻家になるんや」と彼はそのときに言っていた。本心でそう思ってたんやろうね。

大長:そうだと思います。そう本心で思ってたんだと思いますね。

宮永:うん。だけど、それもどれぐらい続けたんやろね。

大長:鉄は短かったですよ。

宮永:そんな長いことやっとらへんわな。言った割合に。

大長:やってないですね。作っているものも、その当時作ってたやきものの形を鉄に置きかえたような仕事でしたもんね。

宮永:ああ、そうか。だけど大きな仕事場だったよ。我々とちょっとその辺の認識は違うんかな。やきものの位置づけが。

大長:まあ、そうでしょうね。イサム・ノグチが日本でやきものをしようとするじゃないですか。あれをアメリカに持っていくと、「土だからだめだ」、「やきものだからだめだね」と。それ以来、作らなくなってますので。アメリカが持ってる土壌みたいなものが、素材で分けるのか何かがあったと思いますけどね。

宮永:だけど、日本人の作品と比べてすごいとは思ったよ。それとね、作家の持ってる作品の量が違ったわ。アメリカの作家はよく作ってるね、どの作家も。10点や20点の新作をいつも持っていた。

菊川:ヴォーカスの鉄やブロンズ彫刻の時期って、本当に短いんですね。それとほぼ並行する形でやはりこういった陶器をずっとやっている。

大長:そうですね。

宮永:全然違ったな、日本の作家と作品制作の爆発力みたいなものが。

菊川:先生も行くタイミングがちょっとずれていたら、陶芸をやっている所に出会えたんですよね。でも、やはり日本だと陶芸より彫刻の方が売りにくいような現状がありますよね。画廊も少ないし。そういった状況に加え、画廊がいろいろアドバイスをくれるというのも全然違ったと思うんですね。それに大きなカルチャーショックを受けられたんですね。

宮永:日本では本当に抽象彫刻というのは売れへん。やっぱり帰ってきてからでも、陶器やったら売れるのに、彫刻やったら売れへんというアメリカと真逆の考え方は感じた。それで彫刻をやめようとは思わへんかったね。やっぱり抽象彫刻でやりたいなと思った。
日本で一番最初の個展をしたときに、作品の値段と別に数字が書いてあった。こっちの数字は何やと聞いたら、作品の重量でこれが大事なんやと言う。「飛行機の機内へ持って入る値段がここまでで、この金額ではこれを超えます」と。「これからはこの重量よりもちょっと軽いように作って」と言う。日本人が買うことはめったとない時代だった。海外の人が買ってくれるということ。それが一等びっくりした。何ていう名前だったっけな。最初の個展。当時、何年やった。

菊川:京都のギャラリーココ。1970年ですね。

宮永:ああ。だから、ニューヨークへ行ってから10年たっても、日本はそういう状況やった。他は知らんで。京都で私の関係のあった画廊では。

菊川:ギャラリーココは、前衛的な作品もたくさん発表されている所だったと思いますけれど、それでもそういったことがあったんですね。

宮永:そうや。だから「ああ、そうか」って。

菊川:アメリカに残って、あるいはヨーロッパに行って活動した方が、作家としていいんじゃないかと思われたことはなかったですか。

宮永:アメリカであった方がということは思うた。だけど、海外で制作したいとは思わへんし。海外には何回行ったのかな、3回か4、5回かな。海外でシンポジウムみたいな形で参加したこともあったけど、土を素材でと言うと海外での制作を考えなかったな。

菊川:1回目に行かれたときは、戻ってくるつもりやったんですね。

宮永:うん。それはアメリカ行ったときね。そのときから戻ってくるつもりやったんや。だけど、家の仕事が上り調子のときやって、親父がちょっと具合が悪かったものもあった。行きそびれてるうちに、もう何となしに。やっぱりどの作家でも続く年代があるねんね、大きな展覧会とか、ちょっと魅力的な展覧会というのは。仕事も忙しかったけど、呼んでくれた機会があった、そっちの方が大きかったかもわからん。

菊川:やはり目の前に展覧会の要請があると、それをこなしているだけでなかなか大変ですよね。

宮永:そう。大変というか、やっぱり応えたいというね。

菊川:渡米の経験までお聞きしたんですけれども、帰ってこられてからについては次回の聞き取りの方でまた聞かせていただきたいと思います。

宮永:ご苦労さんでした。

大長・菊川:ありがとうございました。